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・・・さよなら「国連」~♪

・・・二度と日本にくんな!



国連は「主体」ではなく「舞台」です:国連人権委員会の正体 国連は日本を非難しないと出世しない組織 (追補あり)

http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/281ecc781b65365010ebbc819dc71016


>外務省はこの国連報告者の解任を要求せよ!
>この報告者の解任まで国連分担金凍結せよ!

共謀罪」法案への国連報告者書簡は不適切、強く抗議=菅官房長官

ロイター2017年05月22日12時48分
[東京 22日 ロイター] - 菅義偉官房長官は22日午前の会見で、人権状況などを調査・監視する国連特別報告者が「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織犯罪処罰法改正案はプライバシーや表現の自由を制約するおそれがあるとの書簡を安倍晋三首相に送ったことについて、「不適切なものであり、強く抗議を行っている」と述べた。

菅官房長官は「特別報告者という立場は独立した個人の資格で人権状況の調査報告を行う立場であり、国連の立場を反映するものではない」と強調。「プライバシーの権利や表現の自由などを不当に制約する恣意的運用がなされるということはまったく当たらない」との見方を示した。

報道によると、国連特別報告者で「プライバシー権」を担当するジョセフ・カナタチ氏は18日付の書簡で同法案について「プライバシーや表現の自由を制約するおそれがある」と指摘。「法案の成立を急いでいるため、十分に公の議論がされておらず、人権に有害な影響を及ぼす危険性がある」としている。

菅官房長官はこの書簡に対し「政府や外務省が直接説明する機会はない。公開書簡で一方的に発出した。法案は187の国と地域が締結する条約の締結に必要な国内法整備だ」と反論した。


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先日、所謂「テロ等準備罪」が衆議院法務委員会で、与党および維新の賛成多数で可決されたことに対して、日本のリベラルメディアの中には「採決強行」とか「強行採決」とネガティブな印象操作がみられるようです。例えば、「「共謀罪」衆院委で強行採決 自公維が賛成、可決」(朝日新聞・2017年5月19日)とか「赤狩りと同じ 「テロリスト」国家の胸一つ-立憲主義に危機感も」(毎日新聞・2017年5月17日)。

 

極めつけは、「共謀罪」は「実行行為があって初めて犯罪が成立するという刑法の原則に逸脱する」「共謀罪は実行行為を処罰する刑法の原則を大きく変質させるもので、憲法が保障する内心の自由を侵しかねない重大な危険がある」とかなんとかの朝日新聞や北海道新聞の記事の口ぶり。

 

あのー「実行行為」というのは「刑法各条の構成要件に該当する行為」という意味ですから、所謂「共謀罪」がその条項を定めた段階で「共謀罪も実行行為があって初めて犯罪が成立する」ものでしかないんですけど。そんなんいうなら、--「実行行為」を事実的ではなく法的に有意味なタイプの行為ととらえるのでなければ--「不真正不作為犯-刑法が基本的に「作為」の犯罪類型を予想する犯罪行為を「なにもしない-不作為」で犯す犯罪のパターン」はすべて「実行行為がなくても成立」する犯罪類型といっても満更間違いないのではないですか。刑事法の基本とか歴史的沿革-比較法的のパースペクティブとかもう少し勉強して記事書かれたらどうでしょうかね、朝日新聞さん。ていうか、朝日新聞さんくらいになれば<確信犯>、鴨ですけれどもね。

 

而して、英米法系の国々ではそれ「共謀罪」は「由緒正しいコモンロー」由来の普通の犯罪類型であり、多くの大陸法諸国でも――特に、組織犯罪に関しては――古くから認められてきた犯罪類型である。にも関わらず、それを「近代刑法の原則を踏みにじるもの」とか「立憲主義の精神に反する」とか講釈を垂れる無知な憲法研究者に対して――この犯罪類型が近代刑法理論には毫も反しないことを知りながら――だんまりを決め込んでおられる刑事法研究者の方々が少なくないのは残念です。

 

・言論の自由を市民の手に取り戻せ:日本の(リベラル)ジャーナリズムは不要、否、有害だ!
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c7d0b8a081d2c153a9331218334039f6

 

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1990年ころ、アメリカでe-learning教材(≒英語系スマホアプリ教材)を見学したときには、正直、「おもちゃじゃん」と思いました。けれど、2000年には、その中には--いまの「クラウド」のコンセプトも入った--内容的にも使い勝手も素晴らしいものもいくつかあると認めざるをなっていた。まだ、当時は、玉石混淆で、かつ、「石」が大部分でしたけどね。
 

でも、2005年に自分が開発したe-learningメソッドは今でも(実はコスパが悪く本格的な市販はできませんでしたが、悔!)、これであれば、どこでも、だれでも、どんな英語力のひとでも「英語で自分のしたいこと」ができるように、短期間になるというすぐれものだったと思います。
 

で、2010年。東北の震災の1年前。そのわたしの<自信作>とほとんどパフォーマンスにおいて同様のものが--ただし、コスパとマーケティングを考えて--複数のタイトルのセットに区分けされて幾つも世に出た。それをを見て。正直、悔しいとかいうより、やっぱ、「正義は勝つ」「水は高きから低きに流れる」ものだと、なんか、むしろ、心が安らかになりました。
 

そして、この5~6年。それ専門の、才能と野心のある若手が、
どんどん創意工夫を重ねている。元業界の人としては嬉しいです。

 

だから、英語学習。教材としてはアプリでも十分なのですよ。むしろ、今、必要なのは、アプリの「コンシェルジェ」とか「シューフィッター」さんとか「コーチ」さんなの、鴨です。

蓋し、ただで手にいる情報にはやはりリスクというかあたりはずれがあるのだと思います。それも、各自の「研修納期・現在の英語運用能力・投入できる時間の予算、そして、ほんとうのお金の予算」によって、その

 

>あたりはずれも

 

人によって、また同一人でも時期によって異なるから。
そして、アプリ学習がもろ刃の剣なのには、
あたりはずれの度合いが大きいのには、

 

>モティベーションの問題

 

があるのだと思います。要は、要は、それは隙間時間でもやれるし、
ゲーム感覚の楽しいものではあるけれど、やはり、
人間て意志弱いですからね(笑)

 

>いつでも、どこでも学習できる<教材>は
>結局、いつまでも、だれもやらない<教材>になりがちということ

 

だからこそ、スマホアプリにこそ<コーチ>が必要なのだと思います。
だれかが、いつも、自分の成長やなまけ具合に気を配ってくれているという契機。
この要素や契機がスマホアプリ教材にこそ肝要だろうと思うということ。
実は、2005年の<自信作>はこのコーチング機能も搭載していたのですよ(←自慢?)

いずれにせよ、英語学習において、というか、あらゆる<学習>において、
「モティベーション」のコントロール/マネージメントのスキルこそが<才能>なのだと思います。

これ、あの、あの、あの

 

>あの、ひとつの、いわゆる、なんというか~♪

 

の天才・長嶋茂雄氏自身も「努力(し続けることが)できるのも才能のうち」とか述べておられますから。彼は、立教大学時代とはちがい、プロ入り後は、「プロ」として--努力はお客さんにプロは見せるものではないという美意識からでしょうか--他人の見ているまえでは「努力」しないように気をつけていたらしい。そのように他人=お客さんの目を気にかけながら、お雇いの秘書さんなんかの車でわざわざ田園調布の自宅裏口から出て、引退まで巨人軍の2軍の選手さんよりもハードな「努力」を、某、われらが(!)新百合ヶ丘近辺の某読売クラブでされていたそうな(←当時はもう、多摩川練習場ではないですから!)。そうこれ、あのAKB48の横山由依総監督が「努力家だと他人に言われているうちは、まだ努力が足りへんねん」と喝破された経緯と通底するもの、鴨。
 

蓋し、

 

>モチベーションってわざわざ維持しないといけないもの

 

とは、天才ならぬわれわれ凡人には「鉄則」だと思います。
繰り返しますが、スマホアプリ教材は楽しいです。
この「楽しさ」をモチベーションにつなげて頑張ってください。

 

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P/S
画像にも登場する「英字新聞」。日本では、例えば、
朝日新聞の新聞店にたのめば、週一回(大体、日曜日)に
New York Times Weeklyを配達してもらえます(多分、月額1050円)
NYTはKABUの不倶戴天の敵のリベラル系の代表的メディアですが、
同じく、フェイクニュースの巨頭=朝日新聞などとは違い、
その紙面の英語は論理も語彙もわるくはないです。

モチベーションの維持のためにもこれはお薦めいたします。

だって、ネットでもNYTの記事もWPSTの記事もいつでも読める時代では
ありますが、というか、いつでもだれでも読める時代であればこそ。

 

>いつでも、どこでも読める<記事>は
>結局、いつまでも、だれも読まない<記事>になりがち

 

ですからね(笑) それと、リベラル派の主張がいかに駄目かを
多くの方が自分自身で確認されるというのは長い目で見て、
保守派にとって悪い話ではないと思いますから。

頑張りましょう。
共に闘わん。

 

・海馬之玄関認定ーー使える英語をものにしたいの、という向きにお薦めの3ブログ紹介
  http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/affa0dbf8ba7dae9baea52eff35a72f5

・使える英語をものにしたいの、という向きにお薦めの
「地に足のついた=井ノ上ゆきさん」のブログ紹介
  http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/87f736b606708b8cfed08dde1056e135


 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。
 


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記事紹介。これ(↓)です。

・裁判員裁判、左翼層が嫌がる理由(深田萌絵のバックアップブログ)
 http://ameblo.jp/w1-123/entry-12276071685.html


>私はリベラル派が、組織的に、そう、「ユダヤ」とか「フリーメーソン」とかの
>陰謀史観的なものとして「裁判員制度」に反対しているかどうかはわかりません。
>ただ、この制度導入の際に、「市民を権力側にとりくむたくらみ」だとかなんとか、
>そんな理屈(笑)を彼等が述べていたことはくっきり覚えています。
>要は、リベラル派にとっては(司法といえども)権力は<市民>の敵でないと
まずいんだろうな、と。資料としてリブロさせていただきます。
 
・応報刑思想の逆襲(1)~(5-資料編)←(5)で裁判員制度について少し詳しく述べています
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11415049470.html
 
・野蛮な死刑廃止論と人倫に適った死刑肯定論
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139881999.html
 
・「精神障害者も社会に入れて」ですと? 考え違いもはなはだしい!
 https://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65362424.html
 
===


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日本のリベラル派の言論の中では、「右傾化」とか「前のめり」とか、「偏狭なナショナリズム」とか「政治的中立」等々の意味不明の言葉が流布しているようです。蓋し、朝日新聞の社説を見ればこれらの指示対象を欠く<詩的言語>の展示即売会状態。そして、例えば、安倍政権の右傾化を危惧する朝日新聞元主筆の若宮啓文氏も、毎日新聞特別顧問だった岩見隆夫氏との対談(「論争対談・憲法改正は是か非か」中央公論 2013年 4月号所収)の中で、岩見氏に「右傾化ってなんですか」と聞かれて、それがはっきりした意味を持っていないことを認めていますものね(笑)。そして、最後には「右傾化とか、右翼と左翼という区別にあまり意味はない」(p.85)と口走っている(爆)。 

・日本社会の「右傾化」を嘆き憤るリベラル派の怠慢と傲岸
 --マーケットが変化したのなら商品の方を変えなさい
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5dda58e6b05976d6658553df6d20742f 

・歴史修正主義を批判するリベラル派の知性の貧困
 --占領憲法をガダラの豚にしましょう
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2ffba4995d2eb09dd748dd083b09e224 

ならば、リベラル派は、例えば、集団的自衛権の政府解釈見直しとか、憲法改正、河野談話および村山談話の見直しとか、首相の靖国神社参拝、公立学校での日の丸・君が代の尊重等々のポレミックなイシューで自分達の主張と反対の動きに便宜的に「右傾化」というレッテルを貼ってるだけということ、鴨。ならば、この言葉、「AKB化」とか「裏千家風」とか、なんでもいいんじゃないんでしょうかね。

而して、本稿はこのような<言葉>に対する問題関心を軸にして、オリンピックとナショナリズムを巡る関係を一瞥するものです。というのも、日本では、いまだに、「ダルビッシュ投手は、・・・日の丸の重みになど負けず、ボールを言語として野球というスポーツを戦おうとしている。日の丸はただチームの象徴であるだけだ」(朝日新聞・2008年8月12日)とか「五輪憲章に「オリンピック競技大会は個人種目または団体種目での選手間の競争であり国家間の競争ではない」と規定されている。・・・五輪で国は深い意味合いを持たない」(朝日新聞・2010年2月24日)などという無知蒙昧の反日リベラルの言説が堂々と全国紙の紙面に掲載されているから。

敷衍します。確かに、『オリンピック憲章:Olympic Charter』(2010年2月11日版)の(Ⅰ章6-1)には、「オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」(The Olympic Games are competitions between athletes in individual or team events and not between countries. )と書いてあります。では、なぜ、無知蒙昧とまで書くのか。

はい、それは--論証は下記拙稿をご参照いただきたいのですけれど--、五輪憲章においてさえ「五輪で国は深い意味合いを持たない」ということは全くの間違いだからです。きっぱり。

蓋し、オリンピックは民間の法人(IOC)が勧進元として運営する大会、よって、土台、オリンピックが国家を代表する選手で運営されることはないのです。けれども、オリンピックの出場選手は各国のオリンピック委員会(NOC)が選択した選手に限られており、また、NOCと国との関係は五輪憲章上からも不可分というか表裏一体のものということ(Ⅳ章27, 30, V章II-40, 41)。よって、この「五輪と国」の関係を巡る現象はオリンピックやサッカーワールドカップを契機にして「ナショナリズム」を政策的に高揚させる国もあれば、それほどでもないかなーという国もあるという、程度問題にすぎないのだと思います。 

・決定! 東京オリンピック2020--
 筋違いの<五輪幻想>から解脱して素直に喜びませんか(上)~(下)
 (中の後半から下で「五輪と国」の位置づけについて詳述しています)
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/fa85b8d450d4bd78e80bbfac862f7fb6 

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いきなり結論に行きます。蓋し、(ⅰ)オリンピックをどう位置づけるかは五輪憲章などに拘束される筋合いはなく、各国、各人の自由であるということ。ならば、五輪憲章に「オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と書いてあろうが、あるタイプの国が--例えば、支那とか韓国とか北朝鮮のような国が--オリンピックやサッカーワールドカップを契機にして「ナショナリズム」を政策的に高揚させることは悪趣味としても自由であり、また、あるタイプの国では--例えば、日本や米国や英国では--その国民が「ナショナリズム」を満喫する、すなわち、ある種のカタルシスとアイデンティティの確認を国民総出で体験する--時空をまたぐ<行く年来る年→速攻の初詣>ともいうべき--イベントとしてこのスポーツコンテンツを消費するのも自由であろうということ。

而して、「ナショナリズム」とは何か。

と、そんな大仰な議論はここでは割愛して--逃げるわけじゃなかです。詳細は下記拙稿をご参照ください、眠たくなるのはほぼ確実でしょうけど(泣笑)--、(ⅱ)オリンピックやサッカーワールドカップという契機を通して消費される「ナショナリズム」とは、文字通り、「国民国家-主権国家」に憑依するものであり、厳密に言えば、エスニシティ―に憑依するものではないということ。

ならば、(ⅲ)エスニシティ―とは異なり極めて歴史的に特殊な観念表象である<国民>が、そう自然な存在ではなく人工的なものであるとすれば、その<国民>を社会統合することが「国民国家-主権国家」の最大級のタスクであると考える場合、オリンピックやサッカーワールドカップを利用するか借用するかの差は置いておくとしても、オリンピックやサッカーワールドカップという<場>が「ナショナリズム」の祝祭になることはなんら問題ではない。と、そう私は考えます。
 
畢竟、オリンピックやサッカーワールドカップは<戦争>なのです。ならば、<戦時国際法>を順守する限り、オリンピックやサッカーワールドカップなどはなんでもありの世界である。だから、ノーベル平和賞とかに公平性や普遍性をなにがしか期待する以上に、究極のところ、オリンピックやサッカーワールドカップに公平性などを期待するのは愚かなことだ。と、そう私は思います。

而して、英国の平和主義者、ジョン・ラスキン(John Ruskin;1819年-1900年)が喝破した如く、「戦争はすべての技術の基礎なのだ。というのも、戦争が人間のあらゆる高い徳と能力の礎だという意味でもある。この発見は、私にとって何とも奇妙で、非常に怖ろしいことだったが、けっして否定出来ない事実に思えた・・・。簡単にいえば、偉大な国民はみな、その言葉と真実と思想の力を戦争で学ぶこと、戦争に養われ平和に消耗させられること、戦争に教えられ平和に欺かれること、戦争に鍛えられ平和に裏切られること、要するに戦争で生まれ、平和で息を引き取ることがわかった」という認識。

よって、戦争を直視すること、すなわち、戦争を含む非常事態が惹起する恒常的蓋然性から目を背けるべきではなく、それに常に備えるべきなのだという認識がそう満更間違いではないとすれば。「国民国家-主権国家」とその<国民>は、オリンピックやサッカーワールドカップという<戦争>に真面目に取り組まねばならない、とも。

(ⅰ)オリンピックやサッカーワールドカップをどう位置づけるかは見る側の自由である
(ⅱ)「ナショナリズム」とは「国民国家-主権国家」単位に成立する観念表象である
(ⅲ)オリンピックやサッカーワールドカップが「ナショナリズム」の祝祭なのは当然である

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html

・天皇制と国民主権は矛盾するか(上)~(下)
 
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11136660418.html

・国家神道は政教分離原則に言う<宗教>ではない
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/e9bd71b8e89b78acebe2041a11217ee4

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オリンピックやサッカーワールドカップを巡ってリベラル派は何を危惧しているのか。リベラル派になったことは一度もないので想像するしかありませんけれど、それは、おそらく、「国民国家-主権国家」を超える<地球市民>という彼等の諸々の主張を支えるイメージがそれらのイベントコンテンツを通して、ますます、その神通力を失うことなの、鴨。と、そう感じます。

敷衍すれば、グローバル化の時代、ある「国民国家-主権国家」が果たせる行政サービスの領域や能力は逓減している、そして、だからこそ、「国民国家-主権国家」の必須のタスクたる<国民>の社会統合における「国民国家-主権国家」への期待は大きくなってきた。こんなパラドキシカルな状況を前に、「国民国家-主権国家」も<国民>も、リベラル派が喧伝してきた<地球市民>なるものからますます離れ、<ナショナル>なものに向かうことに彼等は茫然自失しているの、鴨。まー、想像ですけどね。

蓋し、ナショナリズムとは元来、多様な民族を百花繚乱的に包摂していたより普遍的な--ある意味、一個の宇宙とでも言うべき--<帝国>が解体した後、それの民族よりは同質性の高い--言語・文化、歴史認識において同質性の高い--幾つかの民族を囲い込むための<政治的神話>だったのだと思います。

だってね、英国のスコットランドとか、スペインのバスクとか、あるいは、アイヌの方とか沖縄の人とかを想起するまでもなく、あのー、九州や関西と神奈川や山形ではね、お餅や味噌だけでなく、結婚の際の新居の準備を新郎新婦のどちら側が負担するかさえルールが違いますから。つまり、ナショナリズムを、アーネスト・ゲルナーの言う如く「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」と定義するとしても、その「民族的単位」には幾分の多様性はあるということ。


而して、重要なことは、はっきり言えば<嘘>である、<日本国民>や<フランス国民>の一体性や等質性なる<政治的神話>は、しかし、グローバル化の中で資本主義の暴力と、あるいは、東アジア地域における特定アジア諸国の脅威にさらされている日本国民を想起すれば自明なように、現在の人類史においては人々にとって<役に立つ嘘>であるということ。そして、繰り返しになりますけれど、だからこそ、その<嘘>の効果を維持強化することは冗談抜きに重要な国家のタスクであり、ならば、その国民がオリンピックやサッカーワールドカップを契機にナショナリズムを満喫することに反日リベラルはいちゃもんつけるんじゃねぇー! と、そう私は思います。

畢竟、<国民>の権利と<外国人>の権利が異なるのは当然なのです。ただし、オールオアナッシングではなく当然に<外国人>に認められる権利は存在する。よって、問題は正当な<外国人>の権利の侵害であり、それは実は、ナショナリズムとは無関係。なぜならば、権利の正当性を決めるものはナショナリズムに底礎された憲法秩序でしかないからです。

而して、所謂「ヘイトスピーチ」を規制する立法というものは、実は、あたかもメシアの出現を待ち望むかの如く、<地球市民>なるものの到来を指折り数えて待っている日本独特のリベラル派の色彩よりも、間違いなく、些か多様な人々を「国民国家-主権国家」につなぎとめる極めてナショナリズムの色彩が濃厚なものでしょう。ならば、<国家>に対する<国民>の社会統合のパフォーマンスが、そんな立法が必要な欧州各国程にはお粗末ではない日本ではそんな--表現の自由を表現内容を基準に一律に規制するなどという、英米の憲法訴訟論の見地からはほとんど<ナチス>や<スターリン>や<毛沢東>ものの--立法は不要。

そして、「偏狭なナショナリズム」なる指示対象のない意味不明の言葉で語られる事象に、本当に何か社会的に解決すべき問題があるとすれば、その行為者の行動を個別に批判すればよい。畢竟、「偏狭なナショナリズム」なり「偏狭なAKB48」なりの意味不明の言葉で、十羽一絡げ的に「ナショナリズム」自体に問題があるとするリベラル派の言説は論理的にも思想的にも破綻している。と、そう私は考えます。 

・愛国心-郷土愛:”祖国とは・・・・” (追補あり)
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a4da343e2d1afbc46cb8b7a6ef480312

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Author:KABU
大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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2007年9月10日以降の新記事を随時、厳選した過去の自薦稿を漸次アップロードしていきます♪

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