January 22, 2012 10:07:32

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本稿はあの「悪夢の民主党政権時代」に書いた記事のプチ修正版です。ただ、エントリー記事が挑んだ問題点をぼかさないためにあえて、2012年1月の時点に身を置いて推敲の手を入れました。そう、古代史は人類の普遍史でもあるから中途半端な時間軸の移動は避けたということ。しかし、二重国籍者が最大野党の党首を務め、また、支那人がアパホテルに抗議のデモごっこを繰り返しかねない2017年2月の現在の日本の問題を考えるうえで些か皆様の参考になる、鴨。少なくともそうなることを希望しています。(2017年2月6日記・KABU)
 
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民主党代表選挙に外国人の党員が(2012年1月22日現在でも!)関与している現状に対して、ブログでは「外国人が次の首相の決定に関与するのは憲法違反」という主張が盛んなようです。而して、本稿は、旧稿の認識と主張(↓)を憲法訴訟論と政党論の接点から敷衍するものです。
 
・外国人の「党員・サポーター」が関与する民主党代表選挙は憲法違反ではないのか?
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/402555d03b60d91547bf3fe60d64c850
 
その旧稿で私は概略こう述べました。

現下の「民主党代表選外国人関与問題」は憲法訴訟の地平では違憲とは必ずしも言えないが、それは(訴訟によってではなく、憲法慣習の形態において機能する)「憲法の趣旨」の一斑たる国民主権原理に明らかに反する。よって、民主党に対しては、「民主党代表選挙=憲法の趣旨違反」という批判を政治的に投げつけるべきだ、と。

この主張の前提は次の如き認識でした。

(1)政党は本来的に<私的>な存在である
(2)現行の日本国憲法は議院内閣制を採用しており、よって、現行の<憲法>は政党の不可欠性を想定している。尚、<憲法>とは、憲法典・憲法の事物の本性・憲法の概念、そして、憲法慣習という、いずれも、間主観的に認識可能な諸規範が編み上げている「国の最高法規の体系」の意味である

(3)政党政治の醍醐味は、国民の一部分の利害と価値観を代表する<私的>な政党が、国政選挙と国会での首班指名等の所定の手続を踏む中で、期間を限定的して、あたかも、国民全体を代表する<公的>な国家権力の担い手になる経緯である

(4)政党は<私的>と<公的>の両面を抱える両義的存在である。而して、例えば、国民主権原理、あるいは、結社の自由・政治的な表現の自由といった<憲法>に内在する価値をどの程度まで<憲法>が政党に強制できるのか、その裏面として、政党に対する助成金等の恩恵はどの範囲までなら<憲法>の許容するものと言えるのかという点を巡っては、現実政治的のみならず社会思想的にも二律背反的の緊張関係が見出せる、と

尚、これらの認識に関しては下記拙稿をご参照ください。

・「ねじれ国会」の憲法論と政治論
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/893fcd63af5ca96e82cde306845c66ab

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65231299.html

政党を巡って<公>と<私>の織成す二律背反模様。しかし、これは日本だけの現象ではない。より間主観的な相でこの矛盾を把握すべく、次に、アメリカ憲法の運用の実際を一瞥しておきましょう。

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◆政治政党と憲法訴訟
アメリカでは、(大統領選挙の予備選挙だけでなく、数多の<公>の役職に対する)共和・民主の各党の候補者確定のための予備選挙が、おおよそ、各州政府の費用と規制の下で実施されています。けれども、アメリカ憲法典には「政党」という文字列は存在しない。

而して、「カズンズ対ウィゴダ事件」(1975年)を嚆矢とする諸判例を通して、政党はアメリカ憲法修正1条から演繹される結社の自由を享受する存在、すなわち、あくまでも<私的>な存在と位置づけられている。よって、ある一線を越えた州政府の規制や助成は<私的領域>への<公的権力>の不適切な容喙として憲法違反とされるのです。

重要なことは、州政府の容喙が、ある一線を越えたかどうかは憲法訴訟を通じて判断され、かつ、その憲法訴訟においては(州政府側にとって最も不利な)厳格な審査基準と合憲性判断基準が適用されることです(ちなみに、アメリカには特別の「党員資格」なるものは、原則、存在しません。各地の選挙管理委員会が管理する、一種、住民票的なプロフィール登録の際に支持政党をチェック(☑)すれば、予備選挙に関してはそれが「党員登録」なのです)。

蓋し、前稿で述べた、憲法論的な「政党の事物の本性」を踏まえるならば、アメリカ憲法の運用の実際は、現行の日本国憲法の理解としてもまずは妥当なものではないかと思います。

ここで(H.L.Aハート、ドウォーキン、フラ-、ラズ等々、現在の分析法学に分類される)英米流の法思考を借用すれば、<憲法>の内部には、(イ)具体的に国家権力の行動規範を定めている「準則」と、(ロ)目標や理念を定めただけの「原理」の両極がある。而して、憲法保障に関しては、(イ)の極の近傍にその座を占めている規範を巡っては憲法訴訟による憲法保障が適切であり、他方、(ロ)の極の近隣に位置する規範の憲法保障は憲法慣習の再構築の営みを通して政治的に解決するのが妥当であろうと思います。なぜならば、「原理」の具体的な内容の確定は困難であり、それは、共約不可能なイデオロギー的対立を呼び寄せかねないからです。

敷衍すれば、(イ)党員資格要件に対する<公>の容喙が現行憲法21条の定める「結社の自由権」の侵害かどうかの確定には「憲法訴訟」の回路を、他方、(ロ)外国人が関与した代表選挙が現行憲法の前文に謳われる「国民主権原理」の侵害であるか否かの確定のためには「政治闘争」の回路を選択した方が、一般的には、より合理的であろうということです。

而して、では、例えば、国民主権原理が現実を拘束する枠組みとして機能するかどうかは、<政治の競技場>における国民主権原理を錦の御旗に掲げた勢力の勝敗次第ということなのか。
 
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◆外国人の政治活動の自由と国民主権原理の位相と相貌
所謂「党議拘束」を前提にすれば、与党の代表選挙とその後の国会での首班指名選挙は一体のものではないだろうか。もしそう言えるのなら、実質的に次の首相を選ぶ与党の代表選挙に外国人が関与する事態は明らかに国民主権原理と抵触する。このように重大な憲法違反のケースでも、そこで問題とされる規範が「原理」に属する限り、憲法訴訟の回路による憲法保障は不可能もしくは不適切なのか。

前項の主張に対しては、あるいは、このような疑問が呈される、鴨。

而して、この問いに対する回答は「肯」です。蓋し、イデオロギー的な紛争の解決はあくまでも<政治の競技場>で図られるべきであり、他方、<憲法>の規範を巡る現実具体的な紛争は憲法訴訟を通してなされるべきということ。

しかし、そうであるがゆえに、逆に、「原理」を巡る紛争でも、それが憲法訴訟に馴染むタイプの紛争は、憲法訴訟の回路を通して解決されるべきである。あくまでも、<憲法>を「原理」と「準則」に区別する作業は、最適な憲法保障の回路発見のための手段にすぎないのですから。最後に、この経緯を「民主党代表選挙外国人問題」を材料に使い敷衍しておきます。

(甲)憲法は政党の党員資格について白紙である
政党が本来的に<私的>な存在である以上、その党員資格の唯一あるべき内容を<憲法>から演繹することはできません(つまり、「外国人党員の是認」も「外国人党員の否定」も等価であり許されるということです)。

この認識に対して、例えば、「政党交付金が支給されている以上現状の政党が私的団体とは言い切れない」という議論は成立しません。上で紹介した、アメリカの予備選挙に対する州政府のコミットメントを想起していただければ自明なように、喩えれば、ある企業が公の補助金を受けるのと引き換えに、その補助金の使途や成果を行政に報告する義務を負う事態とこれはパラレル。つまり、政党助成金の存在と、<憲法>のある規範の尊重をどこまで政党に要求できるかは別次元の問題ということです。

(乙)国民主権原理と外国人の政治活動の自由
国民主権原理、すなわち、現行の日本国憲法が「国民」に限定している「国政参加」の権能とは、ディノテーションとしては、オフィシャルな選挙権・被選挙権の付与の意であり、コノテーションとしては「日本国籍を保有している者のみが、運命共同体としてのこの国の進むべき進路を決定すべきだ」という「原理」の表明と理解すべきであろうと思います。

なぜならば、①政治活動の自由自体は日本国民に限定されるものではなく、また、②例えば、帰化前の呉善花・金美齢両女史の影響力を想起するまでもなく、外国人や外国のエージェントの実質的な影響力を政治から一切排除することは適切でもなく、また、土台、不可能だからです(イエーリングが喝破した如く、「法は不可能を誰にも要求しない」のでしょうから)。

人権や自由の憲法的な規制と保障には、(a)保障の段階(禁止は不可の段階)→(b)容認の段階(ニュートラルな段階)→(c)禁止の段階、があります。而して、外国人の人権保障に関するリーディングケースである、所謂「マクリーン判決」が、「外国人の政治活動の権利は憲法が保障するものではない」(=禁止するものでもない、要は、許容の段階にある)と述べていることが重要。

畢竟、極論すれば、党員のほとんどが外国人の政党があり、その政党が極々少ない日本人党員を選挙に出馬させ、かつ、相当程度の日本人有権者の支持を受けて、結果的に、政党助成金を受けるとしてもそれは現行憲法違反ではないということ。実際、社民党などはそこまでもう半歩ではないでしょうか(笑)。

而して、政党の範囲を定めている政党助成法2条及び政治資金規正法3条1項と、国政参加の権能を国民に限定している現行憲法典とも矛盾しない。他方、この同じ法理から、謂わば「外国人党員排除法」なる法規もまた違憲にはならないことになる。畢竟、外国人を党員とする政党が政党助成金を公布されること、あるいは、政権与党になることと、ディノテーションとしての国民主権原理の間に矛盾は存在しないのです。


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(丙)憲法訴訟による国民主権原理の保障の要件
コノテーションとしての国民主権原理の具現は<政治の競技場>で行なうのが手筋ではある。しかし、次のような場合には憲法訴訟の回路を通っての憲法保障も可能と考えます。すなわち、

①与党の代表選挙から国会での次の首相の指名までの間に国政選挙が介在しない場合、かつ、②不特定多数の外国人の意向が、あるいは、ある特定の国の組織的な関与が与党の代表を実質的に決める場合。

このような事態が惹起した場面では、「政党の事物の本性の一斑たる党議拘束」の存在を鑑みれば、すなわち、政権与党の代表選挙とその後の国会での首班指名が実質的に「一体のもの」であることを鑑みれば(代表選から国会の首班指名までの間に当該の与党が分裂する可能性も皆無ではなく、また、論理的には、与党の議員には「党議拘束に従わない自由≒離党の自由」もあり、よって、「一体」という表現が誇大であれば、少なくとも「一連のもの」であることを鑑みれば)、それは、「日本国民のみが、この国の進むべき進路を決定すべきだ」という国民主権原理の、(ⅰ)明白かつ現在の侵害の危険性そのものであり、かつ、(ⅱ)より制限的でない他の取りうる手段(LRA)も存在しないと考えられる。

ならば、この様な場面は、それが「原理=コノテーションとしての国民主権原理」侵害のケースでもあるにかかわらず、解決されるべき紛争が具体的であるがゆえに憲法訴訟の回路を通してその代表選挙の違憲と無効を争う必然性がある。と、そう私は考えています。
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>大統領の裁判官批判は「三権分立」を逸脱する異常な言動?
>偏るのは勝手だけど、憲法もう少し勉強して記事書いてね朝日新聞さん!
と感じた記事を目にしました。これです。

▼司法省、入国禁止無効「不服」 トランプ氏は裁判官批判
トランプ米大統領が署名した、難民や中東・アフリカの7カ国の国民の米国への入国を一時禁止する大統領令をめぐり、米司法省は4日、効力を一時停止させたワシントン州の連邦地裁の決定を不服として争う書面を同地裁に提出。地裁決定の効力の即時停止も連邦控訴裁に求めたが、こちらは退けられた。地裁決定を受けて米政府は入国を再開させ、取り消したビザも復活させたが、トランプ氏は今度は裁判官や司法制度に批判の矛先を向けている。

トランプ氏「馬鹿げている」 入国禁止、効力停止を批判

大統領令をめぐっては3日、無効を求めたワシントン州司法長官らの訴えを地裁が認め、一時的に効力を停止させる決定をした。司法省は4日、争う方針の書面を提出。同日夜には「入国禁止は大統領権限の範囲内だ」として、地裁決定の効力を直ちに停止するよう求める書面を連邦控訴裁に出したが、控訴裁は即時停止を認めず、改めて審理することを決めた。これにより、大統領令の差し止めが当面、続くことになる。

トランプ氏は4日朝、3日の地裁の決定についてツイッターで「法律執行を実質的に我が国から奪う、いわゆる裁判官の決定はばかばかしく、覆される」と発信。決定を出した裁判官に対し、正当性に疑問を投げかけた。

4日午後には「裁判官が国土安全のための入国禁止を止めることができ、悪意を持った人を含め、誰でも米国に入国できるようになるとは、どうなっているのか」と発信し、今度は司法が行政の決定を止めたことを問題とした。米国は憲法で三権分立を定めており、大統領が個別の裁判所の決定や判決を批判することはあっても、裁判官の資質を問題にしたり、司法と行政の関係を疑問視したりすることは極めて異例だ。・・・・

(朝日新聞・2017年2月5日19時35分, 下線部はKABUによるもの)
 
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あのー、セルフメイド男のあのアンドリュー・ジャクソン大統領は最高裁の違憲判決を歯牙にもかけなかったし、今でも世界の人権派さんのヒーロー、リンカーン大統領は、南北戦争中、コモンロー由来の鉄板の英米の憲法的権利の直系卑属「人身保護令状」を無視しまくった。そして、リベラル派の神君・フランクリン・ローズヴェルト大統領は「最高裁改革プラン=コートパッキングプラン」を掲げ最高裁に恫喝をかけ、あまたのニューディール関連法違憲判決を出していたその当時の最高裁を屈服させた。まして、トランプ大統領の今般の大統領令は憲法的にみても--内容への賛否は別にして、間違いなく憲法上の大統領権限内のものであり--合憲とする研究者が少なくない、筋もそう悪くないものなんですけど。

土台、アメリカにおいて「political questions:統治行為マター」に関する連邦憲法の有権解釈者は連邦議会とアメリカ大統領であり、司法府たる裁判所はそれらの案件については自己の解釈を控えるのが「正しい三権分立」の在り方とさえいえるのですけどね。朝日新聞は「三権分立」も「アメリカ憲法」もわからず、世界的にみても奇妙な日本の憲法研究者コミュニティーに流布してきた「立憲主義」なり「基本的人権」や「三権分立」の理解によりかかってこの記事かいたのかしら。他人事ながら心配になりました。

ArticleI. Section 8-9
To constitute Tribunals inferior to the supreme Court;
第1章[立法部]
第8条[連邦議会の立法権限]
第9項:最高裁判所の下に下位裁判所を組織する権限【を連邦議会は有する】

ArticleIII. Section 2-2
In all Cases affecting Ambassadors, other public Ministers and Consuls, and those in which a State shall be Party, the supreme Court shall have original Jurisdiction. In all the other Cases before mentioned, the supreme Court shall have appellate Jurisdiction, both as to Law and Fact, with such Exceptions, and under such Regulations as the Congress shall make.
第3章[司法部]
第2条[連邦裁判所の管轄事項]
第2項:大使その他の外交使節および領事にかかわるすべての事件、ならびに州が当事者であるすべ ての事件については、最高裁判所は、第一審管轄権を有する。前項に掲げたその他の事件については、最 高裁判所は、連邦議会の定める例外の場合を除き、連邦議会の定める規則に従い、法律問題および事実問 題の双方について上訴管轄権を有する。

・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d2b014fb5dcdcb6d9260f7aa8eec3c5f

・保守派のための「立憲主義」の要点整理
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9256b19f9df210f5dee56355ad43f5c3

・国際社会と日本との間で<人権>を巡る認識の落差が拡大しているらしい
 
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11916348036.html 
 

而して、肉を切らせて骨を斬る。骨を斬らせて命を絶つ。今回の「敗北」によって共和党の穏健派も、今後、トランプ大統領が司法改革--最高裁判事および連邦判事への保守派の任命、および、所謂「裁判管轄権の剥奪:Jurisdiction-Stripping」(連邦憲法1条8節9項・3条2節2項)による、例えば、安全保障にかかわる入国審査手続に関する紛争事項の解決を連邦司法府の管轄外におく立法措置等々--をすすめることに反対しずらくなったの、鴨。

ならば、長い目でみれば、些か「春秋の筆法」になりますが、今回のリベラル派による差し止めはトランプ大統領の勝利の進軍の合図になったの、鴨。そして、今回の差し止めによって、トランプ大統領の2020年大統領選挙での再選もかなり可能性が高くなった。と、そう私は考えます。

いずれにせよ、イエール大学のアッカーマンはその主著『We the people, volume 1~3』(★)の中でアメリカにおいて憲法が変遷したことが過去に三~四回あったと主張しています。所謂「二重の民主制論」。つまり、アッカーマンとその愉快なリベラル派の仲間たちは、アメリカにおいて憲法が変遷したことが過去にもあったと考える。すなわち、建国期の「連合規約→連邦憲法」の創出、南北戦争前後の「国民国家としてのアメリカの形成」そしてニューディール期の修正資本主義の導入と1950-60年代の「Civil Rights:市民的権利」確立のときがそうであると。

これらの変革期にアメリカ連邦憲法は18世紀のその起草者の原意を少なからず手直しして--法哲学者のロナルド・ドウォーキン流に換言すれば「複数の著者により書き継がれた連作小説」の如く--現在に至っていると。ならば、8年後なり10年後、アッカーマン大先生は『We the People:volume 4』を書かなければならなくなる、鴨。保守主義と共和国アメリカの再生と蘇生をそのテーマとして。そうも私は希望を抱きながら予想しています。

>肉を切らせて骨を斬る!
>骨を斬らせて命を絶つ!
>これからさ、頑張れ、トランプ大統領!


★註:Bruce Ackerman『We the people』(1991-2014)
本書は--特に『volume 1』は--現在のアメリカにおける「リベラル系憲法基礎論」の一方の主柱。〈敵の手の内〉を知るためにも便利な一冊です。南北戦争の戦後復興期とFDRのニューディル期、加之、1950年代半ば以降の「市民的権利:civil rights」確立運動期におけるアメリカの政治的規範枠組みの変遷を扱う--よって、あの破廉恥極まる悪夢の「ウォーレンコート」がやらかしたトンデモ解釈改憲を俎上にのせて擁護する--続編(volume 2-3, 1991-2014)も「リベラル派による必死の言い訳」が敵ながら涙ぐましくて笑える楽しい労作です。

ちなみに、「二重の民主制論」とは、(1)政治過程を、憲法の変更に関わる「憲法政治」と、憲法の枠内で私的・公的な利害の調整が行われる「通常政治」に二分し、(2)前者に関しては、改正条項に則ったフォーマルな改憲手続きと、司法や行政府と立法府が解釈の変更によって行うインホーマルな改憲手続きも憲法基礎論の観点において差はない--すなわち、フォーマルとインホーマルなプロセスによって「変更後の憲法が帯びる正統性と正当性」に差はない--とするアイディアのことです(ちなみに、アメリカでは大統領ひきいるアメリカ政府が持つのは「執行権」であり、「行政権」は連邦政府と連邦議会、さらには、各州政府が分有しているのですけれども)。同論に関してご興味がおありのようなら、坂口正二郎『立憲主義と民主主義』(日本評論社・2001年2月)、阿川尚之『憲法改正とは何か-アメリカ改憲史から考える』(新潮選書・2016年5月)のご一読をお薦めします。
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<瓦解する天賦人権論のイメージ>


法理論的な意味と用法において、「憲法制定権力」は事実の世界の実定法秩序の変遷と法規範の世界の憲法体系の交錯を説明する作業仮説にすぎない。だからこそ、カール・シュミットは『憲法論:Verfassungslehre』(1928)の8章で、これまでの現実の政治史において「憲法制定権力」になりえたものとして「国民」や「人民」のみならず「神」や「国王」や「組織された徒党」をも挙げているのでしょうから。 尚、憲法制定権力と憲法改正の限界、及び、憲法の概念を巡る 私の基本的理解に関しては下記拙稿をご参照ください。


・憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7579ec5cfcad9667b7e71913d2b726e5

・保守主義-保守主義の憲法観
 
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11145667266.html




19_20140201153610d69.jpg 繰り返しになりますが、「憲法制定権力」はある憲法秩序を構成する諸規範分類の道具概念であり、かつ、ある実定法秩序の変遷が「憲法の改正」であるか「新憲法の制定」かを判定する道具概念である。少なくとも、この理解からは「神は一度だけ宇宙を揺らす」のか「幾度も揺らすのか」などの、それこそ神学論争にこの用語の使用を限定されるいわれはない。と、そう私は考えます。 日本国民は自国の文化と伝統を反映した、なにより、自国の安心と安全と国益を極大化可能な憲法を制定する憲法制定権を持っており、その憲法制定権の発動の結果が「占領憲法の改正」であるのか「新憲法の制定」であるのかは日本国民にとってはどうでもよい、--勝負の決まり手が「小手投げ」なのか「出し投げ」なのかの判定の如く、勝負の帰趨とは無関係な、憲法研究者コミュニティー内部でのみ意味を持つ--趣味的な論点にすぎないとも。 б(≧◇≦)ノ ・・・小手投げ! б(≧◇≦)ノ ・・・出し投げ! ウマウマ(^◇^)稀勢の里、勝利! 20_201402011536112e2.jpg ▼フランス革命 樋口さんの発言、「革命勢力がせっかくつくり上げた法秩序」という言葉自体にすでに左翼リベラルの価値観が炸裂していますが、「大革命前夜のフランスで・・・人権宣言と、国民主権をうたう新しい憲法がつくられた」にも目眩がしました。阿呆か、と。この理解は少なくとも読者をミスリードするものではないかと思います。 畢竟、鎌倉幕府の成立時期の解釈とパラレルに「フランス革命」をいつからいつまでの事柄とするかもそう簡単ではない。けれども、名作『ベルサイユの薔薇』を念頭に整理させていただければ、少なくとも、フランスの近現代史において、第一帝政(1804-1814)、王政復古(1814-1830)、七月王政(1830-1848)、第二共和政(1848-1851)、第二帝政(1851-1870)、第三共和政(1870-1940)、ナチスドイツによる占領およびビシー体制(1940ー1945)、第四共和政(1946-1958)、第五共和政(1958ー)の太刀持ち露払いを務める「フランス革命」なるものは、 1789年05月05日--------三部会招集 1789年07月09日--------憲法制定国民議会 1789年07月14日--------バスティーユ監獄の誤爆的襲撃 1789年08月26日--------人権宣言採択 1789年10月05日--------ヴェルサイユ茶番行進 1791年09月03日--1791年憲法(立憲君主制・国王に法律の拒否権) 1791年10月01日--------立法議会 1792年09月21日--------国民公会→王政廃止→ジャコバンのカルト的独裁開始 1793年01月21日--------ルイ16世処刑 1793年06月02日--------国民公会公安委員会をジャコバン派が独占    →→テルミドール(1794年)までジャコバンのカルト的独裁が猖獗を極める! 1793年06月24日--1793年憲法(カルト的左派憲法。但し、施行はついにされず) 1793年10月10日--1793年憲法の停止(施行されていない憲法の停止!)   「フランス政府は和平達成のその日まで革命的である」=「人の支配」の宣言!    1793年4月~1794年7月の間にパリだけでも3000人が問答無用で処刑される! 1793年10月16日--------マリー・アントワネット処刑 1794年07月27日--------テルミドールの正義と秩序の回復 1794年07月28日--------カルト左派の狂人・ロベスピエール処刑 1795年08月22日--1795年憲法(ある意味、典型的な「ブルジョア憲法」) 1799年12月25日--1799年憲法(ナポレオン憲法) 1804年12月02日--------ナポレオンの皇帝戴冠   「余は、フランス共和国の皇帝である。余は、フランス共和国の領土を外敵から守り、    信仰の自由、政治的および市民的自由の保障等々、革命の成果を断固守護する」 1815年06月18日--------「ワーテルローの戦い」でフランス完敗    →→「フランス革命」という名の一連の陰惨で滑稽な騒乱が完全に集結! という一連の雑多で陰惨で滑稽な事件の束のことでしかないでしょう。蓋し、この陰惨で滑稽な事件の連続、もしくは、その中で泥縄式に制定された諸憲法とその実定法秩序を称して「革命勢力がせっかくつくり上げた法秩序」と呼ぶとは呆れてものも言えない。なにより、樋口さんの言う「国民主権をうたう新しい憲法」とはどの憲法のことなのでしょうかね。真面目に疑問です。 いずれにせよ、フランス革命なる「陰惨で滑稽な事件の連続」を根拠に、--1789年以降、諸外国においても憲法論的に尊重されるべき価値を帯びる--普遍的な人権なるものや普遍的な立憲主義なるものが成立したなどとは到底言えないことだけは間違いないのではないか。よって、日本では(コミンテルン日本支部であった日本共産党と近しい)講座派や隠れ講座派の丸山真男、あるいは、大塚久雄が流布した「日本は市民革命を自前で経験していないから、本当の意味での民主主義も人権尊重の感覚も国民の間に根付いていない」なども与太話にすぎない。フランス革命などは日本にとっては大昔のよそ事なのですから。と、そう私は考えます。 21_20140201153612414.jpg 而して、自民党の改憲草案に対する樋口さんの敵意というか苛立ちの原因はなんなのか。「改憲草案は旧憲法への逆戻りだ、というとらえ方でよいか、それでは甘すぎるのではないか」という主張を見てそう疑問に思いました。なぜならば、「在外国民の保護」(25条の3)等の新しい規定が盛り込まれているだけでなく、現行の占領憲法の曖昧な多くの権利条項を明確化している点で、占領憲法よりも、そして、間違いなく旧憲法よりも改憲草案の方が権利保障においても優れている所もあるはずですから。 あくまでも想像するしかありませんけれども、樋口さんの苛立ちの理由は、(A)旧憲法と改正草案の各々の時点における「ヨーロッパ・スタンダード」との距離、就中、(B)改憲草案が、天賦人権論・社会契約論・個人の尊厳、すなわち、「必要悪としての国家権力」あるいは「安全保障等の公共善を担い、かつ、権利を保障する限りにおいて国家権力は正当性が認められる」という19世紀のフランスの左翼的パラダイムの残滓を払拭していることなの、鴨。もし、この想像が満更私の曲解ではないとするならば、しかし、これら(A)(B)は樋口さんの個人的な美意識のマターであり、それが自民党の改憲草案の是非を判定する上で一般的にそうそう意味のある基準ではないのではないでしょうか。 蓋し、立憲主義は<開かれた構造>であり、憲法を制定し解釈する営みに際しての<足場>にすぎない。つまり、樋口さんご自身が述べておられるように「もとより、人権の普遍性を基本に置く考え方にしても、それぞれの文化の個性を無視していてはその社会に受け入れられない」(『「憲法改正」をどう考えるか--戦後日本を「保守」することの意味』(岩波書店・2013年5月))のでしょう。ならば、これまた繰り返しになりますけれども、具体的な権利の内容は国により時代により異なるのであり、その権利内容を詳らかにするのは「立憲主義」の四文字ではなく司法審査の<言語ゲーム>的の蓄積でしかないだろうから。 まして、「夜警国家」の時代ではなく社会権的権利が認められている「福祉国家」の時代、そして、樋口流の憲法論から見ても、それまた「必要悪」たる諸外国による日本の主権と日本国民の権利侵害が頻発する現在--よって、権利の制約根拠を「権利相互間の調整原理としての公共の福祉」なるものではまかなえないことが自明であり、権利の制約根拠としての「公益」をも導入することが不可避の現在という<時代性>を反芻するとき--いよいよ、私はそう考えるのです。 22_20140201153612580.jpg 樋口流の憲法論は破綻している。それは、例えば、集団的自衛権の政府解釈の見直しについて、朝日新聞が「最高法規の根幹を、政府内の手続きにすぎない解釈によって変える。これは「法の支配」に反するのではないか」(2014年1月3日社説)と書いているのと同じくらい根拠薄弱の議論。なぜならば、現行の「集団的自衛権を日本は国際法上は保有しているが憲法上は行使できない」という噴飯ものの政府解釈もまた「最高法規の根幹を、政府内の手続きにすぎない解釈」で示したものだから。他方、樋口さんの議論もまた、その仲間内でしか神通力のない「立憲主義」「憲法制定権力」「フランス革命」を巡る特殊な語義で編み上げられた<呟き>にすぎないの、鴨。 畢竟、上に引用した樋口さんの主張は単なる「文化帝国主義」の吐露にすぎず、天賦人権なるものに価値を認めない我々保守派のような縁なき衆生にはなんの説得力もないリベラル派の杜撰で僭越な<呟き>にすぎないと思います。樋口さんご自身が次のような真理告白・信仰告白を吐露してから、すなわち、 「<西欧生まれの人権や自由を押しつけようとするのは文化帝国主義ではないか>という反撥がある。たしかに、文化の相対性ということはある」「人間の尊厳を「個人の尊厳」にまでつきつめ、人権の理念とその確保のしくみを執拗に論理化しようとした近代立憲主義のこれまでの経験は、その生まれてきた本籍地を離れた普遍性を、みずから主張できるし、また主張すべきなのではないだろうか」 「文化の相対性という考えをみとめながらも、人権価値の普遍性を主張することがけっして「文化帝国主義」ではない、という基本的考え方を、どうやって基礎づけるかという思想的ないとなみの責任を、日本の知識人は日本の社会に負っているのであり、日本社会はまた世界に対して負っているのである」なぜならば「文化の多様性を尊重することと、西欧起源の立憲主義の価値の普遍性を確認、再確認することとは、別のことがらである。後者の普遍性を擁護することは、だから、けっして、不当にもひとびとがいう「文化帝国主義」の行為ではない」のだから。 と、少し意地悪に要約すれば、「立憲主義の価値の普遍性を主張することは文化帝国主義ではない。なぜならば「立憲主義の価値の普遍性」は人権価値の普遍性に基礎づけられているからだ。そして、人権価値の普遍性を主張することも文化帝国主義ではない。それは文化帝国主義などではないからだ」というトートロジーを、すなわち、循環論法でもって単なる自己の美意識を『自由と国家』(岩波新書・1989年, p.201ff.)に綴ってから四半世紀が経過するというのに、「人権価値の普遍性」なるものが基礎づけられたという話は寡聞にして聞こえてきませんから(笑)。 畢竟、樋口陽一の護憲論議は杜撰な僭越であるか、私的な美意識の披露、 もしくは、その両方にすぎない。と、そう私は考えます。 而して、瓦解した天賦人権論の上に、日本の国柄を踏まえた<憲法>が 木花咲耶姫の如く美しく再生する日も遠くないとも。 23_20140201153630e0f.png


木花咲耶姫


2014年02月01日 15時18分43秒 
日々感じたこととか




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集団的自衛権の政府解釈の見直しや自民党の憲法改正草案は、「旧憲法への遡行」どころか、旧憲法さえ尊重していた「立憲主義」を破壊しようとするものだ、そのような動きを「保守」と呼べるのだろうか。このような言説が少なくないようです。蓋し、その多くは「天賦人権および立憲主義にアプリオリな価値を密輸する」誤謬を犯したもの、鴨。 その代表的論者、樋口陽一さんは、例えば、『世界』(2013年12月号)所収の「なぜ立憲主義を破壊しようとするのか」(pp.63-68)でこう述べている。 「安倍政権が成立して、まず96条、憲法改正手続を定めた条項を改めようという主張を押し出してきました。自分たちがやろうとする全面改憲をやり易くするために改正手続きのハードルを下げてくれという話ですから、試合をやり始めながら途中で自分たちに都合よくルールを変えるということのいかがわしさが、あぶり出されることになりました。その際に議論のキーワードとなって浮かび上がってきたのが、立憲主義(constitutionalism)という言葉です。 憲法(constitution)を基準にして権力を縛る、ということがその意味です。・・・【旧憲法時代にも「立憲主義」はいきづいていました】帝国憲法の下で初期には藩閥政府の権力、やがて軍という権力に対する抵抗の中で、立憲主義を盾にして権力を非・立憲、反・立憲と弾劾して攻めたてるのが、帝国議会の役割だったからです。・・・ 12_201402011529089ea.jpg 国民主権を掲げることになった戦後、・・・国民が主人公になったのだから国民がつくった権力を制限する必要はない、もはや「立憲」の時代ではなく「民主」の世の中だ、という感覚が広がったのです。・・・それならば、【憲法改正の】国民投票をする国民は万能なのでしょうか。96条の定める憲法改正権も権力である以上、制限されなければならないのが、立憲主義ではないでしょうか。 そのような抵抗力を持つはずの立憲主義という枠組みをこわしてゆこうとするときに持ち出されるのが、実は「国民の憲法制定権力」というシンボルです。歴史を遡りましょう。大革命前夜のフランスで、目の前にある既成の法秩序を全面的に解体して新しい法体系を作り出すときに、「憲法をつくる力」を国民が持ち、それはどんな法的制約にも服さない、という主張が威力を発揮しました。そのようにして、人権宣言と、国民主権をうたう新しい憲法がつくられたのです。 ところが、国民の憲法制定権力がヌキ身で万能のままだと、革命勢力がせっかくつくり上げた法秩序が、万能の憲法制定権力によってまたひっくり返されてしまうでしょう。そこで出番が終わった国民の憲法制定権力は、勝手に動き出さないように封印・凍結されます。こうして、憲法を変えるにしても、それは万能の権力によってではなく、憲法自体の規定する約束事によってしか出来ないことになりました。憲法改正権(96条です)は、「憲法をつくる権力」ではなく、立法、司法、行政、そうであるように、憲法によってつくられた、従って憲法上のルールに縛られた権限のひとつなのです。・・・ ですから、「国民が憲法制定権力を持つ」という議論の仕方に、うっかり「だまされ」ないようにしましょう。たしかに、一方でそれは「憲法をつくる権力」と「憲法によってつくられる権限」を区別することによって、憲法を変えようとする権力をも制限しようとする立憲主義と結びつくことができます。ところが他方で、憲法を思うがままに作り変える万能の権力、という魔性の本能を発揮すると、一切のルールや手続をなぎ倒し、「いやこれは国民が決めたのだ」として、立憲主義を根こそぎ否定するために使われるからです。・・・ 繰り返しますが、改憲草案は旧憲法への逆戻りだ、というとらえ方でよいか、それでは甘すぎるのではないか。明治憲法は、その本文各条に関する限り、基本的に19世紀ヨーロッパ・スタンダードに沿っています。・・・対照的に、改正草案は、見てきた通り【天賦人権を否定する基本理念の逆転、国防の役割を超える「国防軍」、打ち捨てられる「公共の福祉」等々】、20世紀後半に人類社会がたどりついた国際基準からあえて離れて「日本は日本は」という道に入ろうとしている。そこをきちんと見すえなければならないはずです。・・・」 (以上、引用終了) 13_20140201152909ac4.jpg 冒頭でも述べたように、樋口さんの如き主張は、その価値の普遍性が証明も論証もされていない立憲主義や天賦人権から--しかも、彼等の特殊な「立憲主義」のイメージから--改憲のうねりを批判しているにすぎないのではないでしょうか。つまり、樋口流の憲法論などは、詐欺師の裁縫師の作った「裸の王様」の衣服なの、鴨。 尚、天賦人権論と立憲主義を巡る私の基本的な認識については 下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。



・保守派のための「立憲主義」の要点整理
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9256b19f9df210f5dee56355ad43f5c3

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79



いずれにせよ、現在ではヨーロッパの憲法典や憲法論の主流は、例えば、スイスの2000年の新憲法を紐解くまでもなく、憲法は国家権力を縛るだけでなく、国家権力と国民が協同関係にあるという憲法観に到達していると言える(cf. 『文藝春秋』2013年7月号所収「憲法改正大論争」pp.132-150、就中、pp.148-149の西修さんの指摘)。 ならば、樋口流の憲法論は、「個人の尊厳を核とした権利の普遍的な価値の受容と、そのような権利を保障するための立憲主義に貫かれた国家権力機構の創出、そして、国家権力の権力行使はそのような権利を保障するための立憲主義に則っている場合にのみ正当化される。なぜならば、そうとでも考えなければ国家権力や憲法の正当性を誰も説明できないからだ」といった、実は、かなりシャビ-な根拠しかもたない議論。換言すれば、それは「立憲主義は普遍的だ、よって、立憲主義に貫かれている限り国家権力は正当性を持つ。なぜならば、立憲主義が確保しようとする権利の価値は普遍的なのだから、そして、権利価値の普遍性はそれが認められなければ国家権力の正当性が説明できないのだから自明である」という循環論法の基盤の上に建てられた砂上の楼閣、もしくは、空中楼閣にすぎないと思います。 14_2014020115291036f.jpg 蓋し、帝国主義のチャンピオンであった英米さえもが本格的な常備軍を保有していなかった19世紀半ばの「夜警国家」の時代とは異なり、--その後、一世紀程の帝国主義の時代、および、社会主義が跳梁跋扈した70年余の時代を経て--主要国が常備軍を抱え、他方、社会権的基本権が権利として認定される一方、その濃淡は別にして主要国がケインズ政策を採用する--主要な「資本主義国」の多くでそのGDP総体に占める公的財政支出の割合が優に60%を超えている!--「福祉国家」となった現在、立憲主義を専ら権力の制約原理として捉え、「立憲主義」の四文字で権力の不当な行使が制約可能と考えることは現実的ではないでしょう。 畢竟、立憲主義は権力の制約原理であると同時に権力の正当化原理でもある。加之、不当な権力行使の予防と救済の道は「立憲主義」の四文字を睨んでその是非を判定するが如き憲法研究者の名人芸によってではなく、司法を始め有権解釈者が憲法の具体的な権利規定から遂行論的に積み上げる解釈の蓄積しかないのではないでしょうか。 すなわち、現在では、権力制約原理の側面においてさえも、立憲主義は国家権力の規模の規制原理ではなく権力行使のガイドラインなのであり、就中、立法・行政の政治セクターに対して司法権が容喙できる範囲を判定するためのガイドラインにすぎない。いずれにせよ、立憲主義がそれだけでは権利の具体的な内容、もしくは、--三権分立という大雑把な分類を超える--国家権力機構間の権限の具体的な配分のあり方を導き出せない、抽象度の高いタイプの法理念であることは間違いない。と、そう私は考えます。閑話休題。 15_201402011529110a2.jpg


立憲主義にアプリオリな価値を密輸する樋口流の議論は、他方、「立憲主義」と「憲法制定権力」、および、「フランス革命」についてのかなり根拠の怪しい理解によって編み上げられたもの、鴨。 (Ⅰ)立憲主義の特殊な理解 (Ⅱ)憲法制定権力の特殊な理解 (Ⅲ)フランス革命の特殊な理解 ▼立憲主義 「立憲主義」にせよ「憲法制定権力」にせよ、あるいは、「フランス革命」にせよある言葉をどのような意味に用いるかはかなりの程度論者の自由に属することでしょう。而して、例えば、「立憲主義」の語義は大凡次の4個に分類できる、鴨。 (1)天賦人権を前提とする「権利の保障」と「権力の分立」を要請する主張 (2)天賦人権を前提としない、しかし、一般の制定法を無効にする効力を帯びるなんらかの普遍的価値が憑依する「権利」と「上位の法」に沿った権力行使を要請する主張 (3)天賦人権を前提としない、しかし、なんらかのルールで決まった権利を、かつ、社会の多数派から守るための統治の仕組みと権力行使の運用を要請する主張 (4)統治機構が憲法や慣習に従い構成され、権力の行使が憲法や慣習に則って行われることを要請する主張 ならば、樋口流の立憲主義なるものは、論理的に同じ資格で成立可能な4個の中の(1)のみを「立憲主義」と恣意的に呼んでいるだけの杜撰で僭越な議論なの、鴨。そして、(1)のフランス流の立憲主義が「天賦人権論」または「社会契約論」というこれまた根拠薄弱のイデオロギーが神通力をまだ維持しているリベラル派の仲間内でのみ、他の三者--(2)英国流の、そして、現在の世界の憲法論の主流の一斑と言える、「古典的立憲主義」もしくは「新しい保守の立憲主義」、あるいは、これまた、(3)現在の世界の憲法論の主流の一斑と言える謂わば「新しいリベラルの立憲主義」、更には、(4)旧ドイツ流の、つまり、旧憲法の「外見的立憲主義」--に対しての優位性を僭称できるもの、鴨。 畢竟、普遍的な価値を帯びる権利が存在すると考える「天賦人権論」は存在可能だけれども、そのような普遍的かつ具体的な内容を備えた「天賦人権」は存在しない。よって、「天賦人権」を前提にする(1)は破綻している。すなわち、樋口流の立憲主義は、リベラル派の仲間内だけで通用する謂わば夜間限定の<百鬼夜行>的な議論、鴨。もっとも、現在の日本ではそれは<夜>に限らず<百鬼昼行>の趣すらありますけれどもね。 (ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。


16_201402011529277a1.jpg ▼憲法制定権力 樋口さんの記述、「国民の憲法制定権力がヌキ身で万能のままだと、革命勢力がせっかくつくり上げた法秩序が、万能の憲法制定権力によってまたひっくり返されてしまうでしょう。そこで出番が終わった国民の憲法制定権力は、勝手に動き出さないように封印・凍結されます」を目にして私は唖然としました。 畢竟、「最初に一度だけ神が宇宙を揺らし、その後、力学法則に従い宇宙は動いている」といった<ニュートン的宇宙観>でもあるまいに、「最初に一度だけ憲法制定権力が発動した結果、天賦人権が顕現して立憲主義が確立した。その後、憲法制定権力は封印・凍結され憲法改正権になった」という認識は極めて恣意的なものだろうから。 フランス革命時、確かに、シェイエスは「憲法制定権力論≒憲法制定権力の保有者は第三身分であるという主張」を唱えました。けれども、フランス革命なるものが憲法論において--まして、フランス以外の国の憲法論において--<神の最初にして最後の世界を揺らす一撃>であったとする根拠はどこにもない。而して、少なくとも、カール・シュミットの如く、法理論の領域で、「憲法制定権力」を憲法改正の限界指標--すなわち、ある憲法典の変更が「現憲法の改正」なのか「新憲法の制定」なのかを説明する指標--と捉えることは誰からも毫も批判される筋合いのないことでしょう。 



<続く>

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木花咲耶姫

 

以下、ブログ友の記事転載です。記事中の「ケント・ギルバート」氏については、

日本では「際物」とみられる向きもあるようですが(笑)、この記事で彼が述べている

認識はそう間違ってはいないと思います。実際、占領憲法9条の意味内容について、

 

>非武装中立が筋!

>集団的自衛権は憲法違反!

 

とかとかTVで口角泡を飛ばしている国際法や憲法の<先生方>もアメリカの学会で論じるときには、

論理的には、それらが成り立たない「世界水準の地平」の理論の枠組みで堂々と発言されていますから(苦笑)

以下、転載。

 

・<改訂版>自薦記事一覧:保守主義の憲法論と社会思想

 -憲法学の再構築と占領憲法の破棄・改正を求めて
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5f7bef87927eae129943ca8b5bb16a26


・英文読解 one パラ道場:英語教材として読む安倍談話(英文全文)-【前口上-本編-余滴】
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f169c76ce342703e5816dc9ce8b9e0f1

 

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◆日本の“左翼メディア”は世界で異質!?…米国人が首をかしげる日本の「護憲論」

世界ミニナビ2017.1.1 15:00
http://www.sankei.com/west/news/161222/wst1612220037-n1.html


「米国人としてハッキリ言いましょう。日本を弱い国にしたいから憲法9条をつくったのです」

 12月8日に大阪市内で開かれた大阪「正論」懇話会で、米カリフォルニア州弁護士でタレントのケント・ギルバート氏は日本国憲法をこう指摘した。共産党や社民党、民進党の一部などの護憲派が「9条のおかげで日本は平和を維持してきた」「世界に誇れる憲法だ」などと訴える憲法9条。その内実に、ギルバート氏はズバッと切り込んだのだ。

 

◆地域紛争で責任果たすべき

ギルバート氏は、戦後に連合国軍総司令部(GHQ)によって日本国憲法がつくられたことを説明し、憲法9条の狙いが米国が科した「ペナルティーだ」と説明した。

そして「(GHQで憲法草案を)つくった人たちが『あれは暫定的な憲法だ。なぜ改正しないのか』と言っている」と紹介。護憲派の金科玉条である9条が暫定措置であることを、日本国憲法をつくった米国人たちが思っている皮肉も披露した。

米海軍関係者は「日本は急激な近代化で国力を増強し、欧米の脅威となっていた。米国を再び攻撃しないようにするのは占領国にとって当たり前だ」と語る。技術開発力や産業基盤など軍事的脅威を分析し、その能力向上の芽を事前に摘むことは当然の戦略というわけだ。

その米海軍関係者は「現在の日本が軍隊を持つのは当然のことであり、地域紛争などではもっと国際社会の一員として責任を果すべきだ」と話す。また「日本の存在感が世界で薄いのは、平和維持などで軍事的な協力を拒否しているからだ」と日本の姿勢を批判する。

そして、政府弾圧によって罪のない市民が虐殺されていても、外交が機能しない場合には武力をもって市民の生命を守る米英仏などに対し、日本は見知らぬ振り、無視し続けていると指摘する。


◆日本メディア、なぜそこまで反対?

ギルバート氏は日本国憲法について「どうやって国を守るのか書いていない」と根本的な憲法としての問題点を強調する。

もちろん、地域紛争に対し国際社会と連携してどのように貢献、協力していくのかも書いていない。

 「ライフルや刃物を持つ犯人たちから拳銃を携帯する警察官に身を守ってもらうことは問題なくて、ミサイルやマシンガンで攻撃してくる国家から日本を守ろうとする自衛隊への理解はなぜそんなに低いのか」

ある米大学院生はこう首をかしげる。

そして、「国歌を斉唱し国旗を掲揚することが右翼的な人間とみられることがある」と日本国内の雰囲気を紹介されると、「え?それは当たり前のことだ」と日本独特の“空気”に驚く。

安全保障関連法制の国会審議で左翼メディアが激しく批判していたことにも「集団的自衛権は国家として当然の権利だが、なぜ日本のメディアがそこまで反対するのか」と違和感を覚えていた。

もちろん、政府の政策をチェックし反論することは重要なメディアの役割で、メディアの中に両論あることが望ましいと指摘する。ただ、一部メディアによって米国に伝わった日本の状況は「安保法制反対で日本中のいたるところで大規模デモが起き、政治が大混乱しているような印象」で、不安を拭えなかったという。


(私の感想)
日本を弱くするために憲法を作った人達が「時代に合わせて、改憲しろ」って言っているのだから、もう潮時でしょう(;´-`)

また、彼らは日本の反日左翼マスゴミを批判していますが、
そもそもマスゴミに反日分子ばっかりいれたのも、GHQ ですよね(`ロ´;)

>「国歌を斉唱し国旗を掲揚することが右翼的な人間とみられることがある」と日本国内の雰囲気を紹介されると、「え?それは当たり前のことだ」と日本独特の“空気”に驚く

こういう異常な風潮を作ったのも、GHQ が仕組んだ日教組のせいでしょうヽ(`Д´#)ノ

>安全保障関連法制の国会審議で左翼メディアが激しく批判していたことにも「集団的自衛権は国家として当然の権利だが、なぜ日本のメディアがそこまで反対するのか」と違和感を覚えていた

日本のメディアをそんな馬鹿左翼にしたのは、アメリカです(。-`へ´-。)
そして、殆どの日本人がそれに洗脳されてしまっています(*`Д')
トロイの木馬としてGHQが仕込んだ反日毒が、日本社会全体に充満してしまっているのですヽ(`Д´#)ノ

日本は今、この反日毒を解毒しなければならない時に来ています(。-`へ´-。)
今こそマッカーサーの部下の下で働いていたアルバイト職員が書いた憲法を見直す時ですよね(;´A`)

日本国憲法を作ったのはGHQのアルバイト職員

少しでも多くの日本人にそれを知って欲しいですよね( ´△`)

 

(転載元URL)

 http://ameblo.jp/michiru619/entry-12234688799.html

 

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KABU

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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
yahoo版のミラーブログ。
2007年9月10日以降の新記事を随時、厳選した過去の自薦稿を漸次アップロードしていきます♪

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