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安倍政権による「集団的自衛権」を巡る政府憲法解釈の見直し、あるいは、安全保障関連法制の制定に対して、それは「立憲主義」に反するものだという主張が朝日新聞や毎日新聞といったリベラル派からいまだに出ているようです。


安全保障関連法制は違憲であるという認識を越えて、それらはーー多くの憲法研究者からの批判が寄せられているというのに、かつ、政府自体が長年唱えてきた占領憲法9条の解釈を180度変えた、正に、憲法によって縛られるべき国家権力が勝手に憲法の意味内容を読み替えたものなのだからーー立憲主義を踏みにじる所業だ、とかなんとかご立腹のご様子。あるいは、安倍首相が「2020年までの憲法改正」を呼びかけられた件も「国会の発議権を侵害したわけではないのだから、違憲とまでは言えないかもしれないが、首相の帯びる憲法尊重擁護義務(占領憲法99条)から見て「非立憲」なもの」だそうで、これまたご立腹のご様子。

>安全保障関連法制は違憲だ!
安全保障関連法制と集団的自衛権を認めた
政府解釈の変更は立憲主義に反している!

>憲法尊重擁護義務を負う首相が、更には、
立憲主義から憲法に縛られる立場の首相が
その憲法の改正を促すなどは戦前でも
なかった、憲法を冒涜する非立憲の傲慢だ!

蓋し、私はリベラル派のするこのような「立憲主義」の援用は、単なる、「集団的自衛権を巡る占領憲法9条」や「憲法尊重擁護義務を謳う占領憲法99条」の彼等の私的な解釈にすぎないものを「立憲主義」という憲法的原理の1つを持ち出してきてーー「自分達の解釈と違う憲法解釈を政府が採用するのは反立憲、少なくとも、非立憲だ」とばかりに、「立憲主義」の四文字でーー正当化するもの。実は、かなり根拠脆弱な主張または赤裸々な謬論。リベラルイデオロギーの表白にすぎない、鴨。と、そう考えます。



▼「立憲主義」は思考の整理道具としての憲法の原理
要は、「立憲主義」なるものは、憲法典を制定するための政治的のロジックであるか、各国での憲法典制定以降は、諸々の憲法を分類したり、ある国の憲法典に――憲法裁判所設置の規程なり改正手続き条項なりの――ある条項が存在する理由/存在しない理由を説明するのための「原理」であり、それは憲法と憲法典を理解するための道具的の用語の1つなのですから。


而して、「立憲主義」の四文字から、ある法規や行政処分――参議院選挙の選挙区区割りを定める法規とか二重国籍者の国政選挙での被選挙権を認めない法規、まして、戸籍法の廃止とか、債権の準占有者への弁済の要件と効果の変更、あるいは、難民認定の厳格さの度合いとか、朝鮮学校への補助金支給の是非とか――の合憲違憲が判定されることはなく、つまり、「立憲主義」という原理からなにか具体的な憲法の規範意味が演繹されることはないのです。

換言すれば、リベラル派の「立憲主義を援用しての安倍内閣批判」の如きものは、
それは憲法(基礎)論からは我田引水的の戯言にすぎない。



▼憲法の意味内容はそう明確ではなく不変でもない
更には、憲法の規範意味の内容はそれほど明確でも不変なものでもない。それ、正に、開かれた構造。そして、その変化も「人類史の流れなるものに従い緩急はあるものの不可逆的」などでもない。まして、日本のリベラル派がいうような意味での――内閣には憲法改正を促すことも、憲法の解釈権も認めない/認めたとしても解釈の修正権は認めない?――「立憲主義」などが、それは「OECD加盟国なる先進国に普遍的なもの」などでは断じてない(あるいは、もし、「OECD加盟国なる先進国に普遍的なものであったとしても、それが、占領憲法にせよ日本国の憲法の規範内容に自動的に組み込まれることなど/早晩組み入れられるべきことなどは金輪際ない」)ということ。


▼憲法の役割の1つとしての憲法的権利の守護
また、憲法が――その社会の多数派が立法府を通して作らしめた法規によっても侵害されるべきではない――少数派の憲法的権利を守護するためにもある。と、そう言えるとしても、憲法の機能はそれのみではありません。


畢竟、アメリカ合衆国憲法を想起しても、ドイツ基本法を紐解いても、対外的の貿易や入国管理、もちろん、安全保障の部面での機能は当然として、例えば、社会学的に観察する場合、諸々の憲法が社会統合のための制度装置でありイデオロギー装置であること、更には、それらが統治の道具でもあることは誰も否定できない事実でしょう。加之、支配する者と被支配される者との自同性を建前とする国民主権下の実定法秩序においては、憲法が権力を縛るものであると同時に国民の行動を縛るものであることは毫も矛盾しないのです。


▼民族性と国民の歴史と伝統の結晶でもある憲法
まして況んや、ある国の憲法がその国の社会の文化と伝統を軸に編み上げられることは、寧ろ、当然のことというもの。これ自然な流れというだけでなく、「特別法は一般法を破る」のだから。要は、「OECD加盟国なる先進国に普遍的なもの」なるものが、その規範の効力において――例えば、「憲法>法律>政令>命令」の関係の如くに――日本国の憲法よりも上位の規範であると言えない限り「OECD加盟国なる先進国に普遍的なもの」などは日本の国柄と伝統に道を譲らねばならないことは明らかだろうからです。なに? 「OECD加盟国なる先進国に普遍的なもの」を尊重しなければ日本は孤立する、ってですか。そうかもしれませんが、そのご主張は「憲法論」ではないですよね(笑)。

而して、「OECD加盟国なる先進国に普遍的なもの」の規範としての上位性の根拠を、①所謂「市民革命」なるものを――中世的立憲主義と区別される――近代的立憲主義の成立時期と措定するなど、「人類史の不可逆な流れ」なるものの存在の想定、よって、②民族性や国の歴史等々の「固有名詞」的な要素を憑依することのない、アトム的で没個性的な<人間>なるものが帯びているらしい、所謂「個人の尊厳」およびその「個人の尊厳」なるものによって基礎づけられるらしい「天賦の基本的人権」の価値の普遍性に――国際人権規約なり幾つかの国際法規や国際慣習法を証人とする価値の普遍性に――リベラル派の論者が暗黙裏(implicitly)にせよ求められているとすれば・・・。


その蓋然性はありうるとわたしは思いますけれども、そのようなタイプのリベラル派の論者は、かって、あのJ.ミルトンが1646年に述べたこととパラレルに、次のような存在であると看做されても、それはそうそう不当な評価とも言えないの、鴨。すなわち、

新しい長老は大書された古い祭司でしかない
New Presbyter is but old Priest writ large. (John Milton, 1646)

リベラル派は大書された――唯物史観を捨てきれない、よって、
普遍的な労働の価値の存在と労働価値説もまた捨てきれない
――マルクス主義者でしかない (KABU, 2017)



整理します。
復習!

蓋し、

>憲法問題を巡るリベラル派のご立腹の理由の推測とその理由の妥当性

リベラル派は、


(1)フランス擾乱(1789-1799-1804-1814)を通して、民族性などとは無関係な、人間が人間であることだけを理由に帯びる「個人の尊厳」とその「個人の尊厳」を基盤とする人権の価値の普遍性が確立した


(2)人権の普遍性が確立して以降の憲法(≒近代的意味の憲法)では、国家権力は専ら人権を守護するためにあるのであり、よって、国家権力は憲法に縛られる存在であり、国家権力が憲法を逸脱することはもちろん、権力の側が、憲法を勝手に解釈することなど許されない


(3)上記の(1)(2)の認識は、原産地フランスを越えて、――ベルギーやオランダ、ドイツ諸邦を経由したにせよ――近代的意味の憲法を継受した(≒押し売りされた&密輸した?)国のすべてに当てはまることだ。また、第二次世界大戦以降は、世界人権宣言、国際人権規約等々の国際諸法規を媒介にして、非継受国にも漸次効力を持ちつつある、よって、(1)(2)が構成するパラダイムは、2017年の現在ではあらゆる国のその国の「憲法の規範意味」と言える


と考えているがゆえに、少なくとも、以下の6点に関してはご立腹なに、鴨です。

・内閣が憲法の解釈を行う事態
・内閣が憲法の改正を促す事態
・憲法に日本の文化的や伝統的な色彩を読み取ろうとする動向
・日本の民族性や文化伝統を改正憲法に盛り込もうとする動向
・超国籍であるはずの人権の普遍性を否定する姿勢
・国家権力の存在理由を人権守護に限定しない姿勢


ご立腹が妥当なご立腹かどうの判定を巡る
憲法論的のポイントは次の3つなの、鴨。すなわち、

(甲)立憲主義と憲法規範の内容
(乙)立憲主義と憲法の概念
(丙)立憲主義と憲法の機能


ここでも復習!


甲>立憲主義と憲法規範の内容はニュートラルであり位相を異にしている
乙>実定法として見る場合、憲法とはある国の実定法秩序体系の枠組みや基盤のことであり、すなわち、それは国民の法的確信を獲得できた諸々の規範命題によって織り上げられる編みもの全体のこと。よって、リベラル派の言う「立憲主義の原理」を時の内閣が順守するか否かと、違憲合憲はもとより、非憲立憲も無関係
丙>憲法の機能は――国防やエネルギー・食糧等々の安全保障、外国人の入国管理は当然のこと――憲法的権利の守護に限定されない、それは、権力を縛る規範であるだけでなく、ーー統治の道具、あるいは、――社会統合の装置として、国民を縛る規範でもありうる

これら、甲>乙>丙>は日本だけでなく、多くの国で、それこそ、「OECD加盟国なる先進国においても普遍的」に観察できる事柄であろうと思います。取り合えず、以上


以下、ほとんど後記。


>憲法問題を巡るリベラル派のご立腹の理由の推測とその理由の妥当性

および、

(甲)立憲主義と憲法規範の内容
(乙)立憲主義と憲法の概念
(丙)立憲主義と憲法の機能

この理由とこれらの論点については、
既に、わたしは、いままでにも
幾つか記事を書いています。例えば、


・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79


・憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する
「法学的意味の革命」か(1)~(6)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7579ec5cfcad9667b7e71913d2b726e5


・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/17985ab5a79e9e0e027b764c54620caf


これらの「簡易版」としての

・保守派のための「立憲主義」の要点整理 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9256b19f9df210f5dee56355ad43f5c3


・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d2b014fb5dcdcb6d9260f7aa8eec3c5f


・立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞(上)(下) 
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11767497807.html


・樋口陽一の文化帝国主義的憲法論の杜撰と僭越(上)(下)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/45e30175093f17dfbbfd6b8234b89679

更には、上記7本、それらすべてのための前哨である

・保守主義-保守主義の憲法観
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html


・憲法と常識(上)(下)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d99fdb3e448ba7c20746511002d14171


・保守主義の再定義(上)~(下)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/141a2a029b8c6bb344188d543d593ee2

ただ、浅学菲才の悲しさ。そして、TVで「御活躍」のリベラル派の学者先生方の多くとは異なり、修行時代を京都の空気を吸いながら過ごした出身の流派の違い。


加之、10年くらい前から現在に至るまで、憲法問題に言及される、左右を問わず、大方の論者とは些か異なる<法哲学>的の立場に立っている――分析哲学系現象学流新カント派アメリカプロセス法学一家の共同体重視組に属している――こともあってでしょうか、あっ、それと日本語があまり上手ではないので、リベラル派の方はもとより、占領憲法の破棄または改正を期す保守派の同志の皆さまにも「リベラル派の憲法論はその根拠がかなり怪しい、少なくとも、その根拠は他人事ながら心配になるくらいには脆弱である」ことをお伝えきれていないことを最近痛感しました。 

オフ会での話しも傑作が幾つかあるのですが、そう、例えば、リスト一番上の「瓦解」はちょうど4年半前にアップロードしたもの。その(1)などは海馬之玄関系4ブログ通算で今でも月に2000アクセスは稼いでくれている、孝行娘。で、この間、偶然読んだのですが、ある保守系の掲示板ていうか弛いSNS で、保守派のみなさんがこの孝行娘、褒めてくれていた。「この間、サヨと議論したとき、この記事の立憲主義の分類が効いて秒殺したとかしなかったとか」等々。


・・・孝行娘まったく理解されていなかった。

・・・理解されないまま秒殺の舞、お手伝いさせられていたのね、とかとか。


よって、本稿はその主張の根拠の披露と展開は上記10本の記事に丸投げさせていただき、リベラル派の憲法論の根拠の怪しいさ脆弱さにフォーカスして、わたしの認識と主張のそのスケルトンのみ書き流したものです。本稿が上記やその他の拙稿と併せて、しかし、他とは違う役回りを演じてくれること、もって、占領憲法の破棄または改正に向かう保守派の皆さまに少しでもお役に立てればうれしいです。

共に闘わん❗

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>在米ブログ友からの情報です

>ほんと、この期に及んでも、

>リベラル派の所謂「共謀罪」➡「テロ等準備罪―組織的犯罪処罰法」に反対する、

>一国内的の平和妄想、すなわち、

人権なるものを侵害する可能性と意図と実力を持つのは自国の国家権力だけだ~

>という、フランスのしかもフランス革命時のイデオロギーから脱却できない論者、そんな、

>リベラル派――朝日新聞や民進党や憲法研究者――がまだ存在するのは・・・。

>==保守主義を基盤とする米国連邦憲法をその母法とする占領憲法の素直な解釈と理解からみても==

>奇観を通り越して滑稽ではないか

>と、そうわたしは思っています。

 

>確かに、憲法典を含む<憲法>は国家権力の行動を制約する権力行使のルールではあるけれど、

>国家権力の使命は国内の安寧秩序の維持および国民の福祉の維持増進だけではなく

>他国やテロリストや不法移民・難民からその国境および国民と市民を守護すること、加之、

>リベラル派の文化帝国主義的な攻撃と干渉から自国の文化と伝統を守護して

>もって、個別日本においては、「皇孫統べる豊芦原之瑞穂国」のイデオロギーのもと、

>国民と市民を朗らかに柔和に社会統合することでもあるのですから


・保守主義-保守主義の憲法観
 
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html
 


民進党って「ド官僚」?:民進党・小西「安倍総理はまともでない」「存在自体が違憲無効の総理」 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7fff34fc55cf329ddcbeefaea704930c


・まずは「加憲」でいいのではないですか――改憲派こそ「憲法」に期待しすぎるのやめませよう

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9333930d645cf9bb127ad33d72915dd7

・移民の国アメリカが移民を排斥することは矛盾だという論理の論理の破綻について

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/e6c9a76d9b62dc8b6095bddf57340032


・言論の自由を市民の手に取り戻せ:日本の(リベラル)ジャーナリズムは不要

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c7d0b8a081d2c153a9331218334039f6

 

 

 

▼在米日本大使館より注意喚起のメールが届きました

テーマ:アメリカ

2017年06月14日(水)



◆問題の所在、それは、憲法理解の貧困
加憲に批判的な保守派とリベラル派の議論は--「言語ゲーム」を俎上に載せた際にウィトゲンシュタインの語った--「家族的類似性」を濃厚に帯びる「シャム双生児」であり、それらは議論や理路の出発点を共有してはいないか。すなわち、両者は、「憲法=憲法典」と<憲法=ある国の実定法秩序体系>の双方に関して--次のような当然備えておくべき4個の「パラダイム:認識と常識」を看過する、よって、左右のベクトルの違いこそあれ--ある種の教条主義的の誤謬を暗黙裡に抱えているものではないだろうか。と、わたしはそう考えます。尚、「憲法」と<憲法>を巡るわたしの基本的な理解についてはとりあえず下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

(甲)憲法典と<憲法>は異なるという常識。よって、個々の憲法規範の内容は通時的にも共時的にも<開かれた構造>をなしており、それはある予定調和的に定まっている「正解」にむけて、漸次、線形的=単線的、要は、「その権利内容の変化の、その移行の速度は遅くとも、しかし、不可逆的に進むものなのです」などということはない--例えば、在日韓国人の指紋採取もまた南朝鮮・北朝鮮と我が国との国際関係の変化によつては復活することもありうるし、外国人の公務員としての採用や弁護士資格認定も必要と必然性があればまた否定されることもありうる--という認識

(乙)法は不可能な行動を誰にも強制しない/強制できない。而して、この経緯は
「憲法」においても<憲法>においてもパラレルであるという常識

(丙)実定法秩序の体系としての<憲法>に基づき当該の政治社会を統治する「国家=国家権力」は--ケルゼンの「法と国家の同一説」の流儀からは、そのような<憲法>こそが<国家>そのものなのでしょうけれども--、(ⅰa)国内の安寧秩序の確保、(ⅰb)国民と外国人たる市民の福祉の維持増進、(ⅰc)社会の--個別日本においては「天壌無窮、皇孫統べる豊芦原之瑞穂国」の日本国の<理念>と<物語>による--イデオロギー的の統合のみならず、(ⅱ)特定アジア3国の如きいま敵対的な/オーストラリアやニュージーランドやカナダの如きいつか敵対的になりうる他国(=他国の国家権力およびそのメンバー)の脅威からも、また、(ⅲ)殺人的な熱波や2ヵ月続く長雨の如き異常気象、巨大地震・巨大津波・スーパー台風や巨大小惑星の落下といった天変地異、(ⅳb)国際的テロ組織の脅威、更には、その国際的テロ組織の反日策動--国連人権理事会やアムネスティ、あるいは、ISや国境なき記者団等々の国際的テロ組織の策動--をも含む(ⅳa)昂進著しいグローバル化の波頭からも--その能力の限りにおいてですよ、もちろん、だって「法は誰にも、よって、国家権力にも不可能を強制しない/強制できない」のですからね!--その国民と外国人たる市民、そして、文化と伝統の帰属点としての<国家=日本>を守護しなければならないという常識

(丁)<憲法>も、そして、その<憲法>の一要素である「憲法」も、国家権力の行動を制約する「制限規範」として所謂「立憲主義」の観点から理解できるのと同時に--否、その裏面として--国家権力の権力行使を正当化するものでもある。而して、--その当該の<憲法>と「憲法」がある「主権国家=国民国家」の実定法秩序であるとすれば--これら表裏の「立憲主義」からの理解とは別位相で、しかし、それらと常に同時に<憲法>と「憲法」は、固有の文化と伝統が憑依する歴史的に特殊な、そのある「国民国家=民族国家」の社会統合のイデオロギー的の基軸としても機能しているという認識。

逆に言えば、ハーバーマスの言う--人権なるものや民主主義なるもの、多様性の尊重なり相互の寛容さ等々が織りなすものとしての[憲法]に寄せられるものらしい--「憲法愛国主義」なるものや「個性が捨象された個人の尊厳の憑代としてのアトム的個人」なりがなしたらしい「社会契約」、加之、ローズが思弁した「形式的に普遍的な正義のシステム」なるものは、現実のある国の、例えば、日本やアメリカや英国の、台湾やタイやヴェトナムの<憲法>の核心になることはない。ゆえに、「個人の尊厳」なるものや「立憲デモクラシー=狭義の立憲主義」なるものが、現行の占領憲法においてさえその規範意味の中核に来ることなども金輪際ありえないというパラダイム

・所謂「憲法典」だけが<憲法>ではなく、憲法は<開かれた構造>をなしている
・憲法は不可能を強制しない
・憲法は国外や自然や宇宙からの脅威にも対処する
・憲法は立憲主義風の<物語>、国内外・自然・宇宙からの脅威に対処する<物語>、
 ならびに、「国民国家=民族国家」をイデオロギー的に統合する<物語>の三部構成

・保守主義-保守主義の憲法観
 
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html


・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65231299.html

イメージ 2

蓋し、このように--分析哲学系現象学流新カント派アメリカプロセス法学一家の憲法基礎論から、このように「憲法」と<憲法>を--把握する場合。いまだに「自衛隊は違憲/違憲の疑いが拭えない」とか白昼夢を公共の電波や全国紙の紙面で炸裂させている戦後民主主義の憲法研究者の8割の論者と、占領憲法の破棄または改正を期しているはずの--安倍ビデオメッセージに苦言を呈される、おそらく、そう少なくはない--保守派の論者が残念ながらタイ製ソーセージじゃなかった「シャム双生児」の関係にあることは自ずとあきらかであろうと思います。

要は、自衛隊が違憲とか、専守防衛以外の武器使用は違憲--北朝鮮の核兵器叩きたかったら、竹島を奪還したいのなら、北朝鮮に1発弾道ミサイルを東京なり柏崎原発施設なりに打たせるしかない、隠岐の島か対馬でも更に占領させるしかない? そうでなけりゃ、まず憲法を改正してそれができるようにしなければ駄目なのですよ、これ立憲主義の基本でしょうが、ってか?--などということは占領憲法9条の解釈などというレベルではなく、法解釈の初手、あるいは、憲法の概念論の初手の段階でなりたたない。なぜならば、「法は不可能を要求できない」からであり、詳述はしませんけれど、「国家=実定法秩序」の地平において占領憲法9条の規範意味が「国家の主権と国家の生存を危うくしても、日本国=日本の国家権力は、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄している」などであるはずはないからです(このイシューに関しては下記拙稿をご参照ください)。

極論すれば、現行の占領憲法の9条が
この(↓)ようなものであったとしても、

【参考--思考実験別9'条のイメージ】
・第9条1項 ←変更しない  
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
・第9条2項’←ちょびっと修正(笑)
前項の目的を含めいかなる目的のためにも、陸海空軍・海兵隊、陸海の武装警察、機動隊その他の戦力および組織化された強制力は、これを一切保持しない。国の交戦権は、これを認めない。自衛権は国連憲章上のものを含めすべて日本は放棄するもんね~!


この新ゴジラじゃなかった新9条でもなかった別9条(another article 9)は、
現行の占領憲法とそう変わるものではないのです。どういうこと?

>やっぱコスパじゃなかった
>やっぱ、現行の9条からは自衛隊も集団的自衛権も違憲なのですね(悔涙)って?

ちがいます。別9条がどんなに派手に「平和」「非武装」を条規に織り込もうが、それは単なる「文学的な決意表明」にすぎない。つまり、「日本は武力行使なんかできるだけできるだけできるだけ、できれば、絶対に絶対に絶対にしないとどこまでもどこまでも限りなく真剣に思っているのですよ」という国際的プロパガンダなり情緒の表明にすぎないということ、法理論的には。

だから、もし、その別9条をものともせず--これは現行の占領憲法の9条でも、だから、加憲後の安倍9条でも実は同じなのですけれども--日本が北朝鮮や南朝鮮に対して自衛権の発動としての専制敵基地攻撃を行った場合、国内外から政治的に社会学的に批判されることはあっても--そこに重大な結果に結びつきうる危機が切迫しており、日本の攻撃がその危機に対処するものとしてそれほど法外に大規模かつ激烈というわけでもなかったという、国際法上の自衛権行使正当化要因を満たしている場合には--日本の先制攻撃は国際法上合法なだけでなく、国内法的にみても違憲ではないのです。

・集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(上)(下)
 
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65232559.html

・国連憲章における安全保障制度の整理(上)(下)
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9a5d412e9b3d1021b91ede0978f0d241 

・安全保障関連法案を巡る論評雑感--憲法学者の違憲表明の法哲学
 
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-12056564512.html


なぜならば、要は、実定法秩序の体系である<憲法>には「自己:憲法=国家」の生存を難しくするような内容の自己制約ルールを含むことが論理的にできないからです。この点、長谷部恭男さん(東大→早稲田)の有名な「アイスクリームを食べる権利は誰にでもあるが、ある本人が健康のことを考えて自分で自分にアイスクリーム禁止を決めることは非合理ではない。ならば、プリコミットメントとして憲法が個別的自衛権の発動たる武力を用いる自衛措置に一定の自己制約を課すことも非合理ではない」というコメントを引き合いに出す論者もまだみかけます。が、しかし、問題は「国家と憲法の生存と存立が危ういとき」という値から先の定義域における値域(違憲 or 合憲)であって、その定義域にいたらない範囲にあるだろう「アイスクリーム」や「ビッグマック」などはここでの思考実験に登場する<定義域的=数値的>な資格がないのです。

ちなみに、集団的自衛権の政府解釈修正の際に、長谷部さんは自民党推薦の参考人として国会で「集団的自衛権の行使は違憲」と述べて話題になりましたね。

でもね、長谷部さんは、間違いなく日本の憲法学の現在の第一人者です。
そして、彼は、昔から、少なくともこの30年間くらいは、

・自衛隊は合憲
・個別的自衛権の発動たる自衛戦争は合憲
・集団的自衛権の行使は違憲

の立場の人でした。だから、しったかぶりのあの船田が「長谷部さんは自衛隊合憲論者」だし、「特定秘密保護法」にも賛成してくれていたのだから、集団的自衛権も容認してくれるだろうとあさはかに考えた。この点は、逆に、長谷部さんには気の毒(笑)だったと思います。だって、圧倒的多数のリベラル派の浮き世離れしている憲法研究者はいまだに、平成ももうあと数年という2017年の現在でも

>自衛隊違憲論

だから。だから、長谷部さんが逆に浮き上がったから(笑)

で、いま、その浮世離れの集団はいよいよ--自衛隊違憲論では世論が相手にしてくれないと流石に悟り(←遅くない~?)--最後の抵抗の種を長谷部説に期待している。これ浮世離れだけでなく姑息だと私は彼等を思います。ちなみに、長谷部さんの「自衛隊合憲論」の理由は、不可能を誰にも要求できない/個人の私的かつ個人的な世界観を縛れない立憲主義の憲法は、「右の頬を打たれたら左の頬も相手に差し出しましょう、なにごとも話し合いで解決しましょう」というような世界観をすべての国民に求めることでしか成り立たない「非武装中立-自衛戦争も禁止-自衛隊も禁止」などの特殊な世界観をその規範意味内容とすることはできないという、本稿の理路と途中までは共通の穏当なものです。

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最後に復習というか敷衍。前節でリベラル派がいい募る安倍メッセージへの他の幾つかの批判についてふれました。そう、例えば、行政の長である内閣総理大臣が「加憲」にせよ憲法改正について述べるのは

(イ)→「三権分立」の原則に反する
(ロ)→「憲法擁護義務」に違反する
(ハ)←自民党の党内議論の蓄積を軽視する「安倍一強」の驕りのあらわれだ

このような批判も--というか、言うた者の勝ちやででもあるまいに--、このような批判を公共の電波や全国紙の紙面で述べても恥ずかしいと感じないリベラル派の憲法理解、就中、憲法の概念に関する無知にわたしは吃驚します。他人事ながら心配になります。

順序倒置になりますが、(ハ)は1自民党員としては自民党内でも遅々として進まない改憲論議を総裁が喝を入れてくださったのは党内民主主義の精華でこそあれ、非自民党のリベラル派に文句言われる筋合いはないと思います。(イ)モンテスキューの最初から「三権分立」というのは三権のプレーヤーの完全な遮断を意味したことなど一度もありません。また、(ロ)「憲法擁護義務」を具体的にはどのような作為と不作為をプレーヤーに求めるのかについては諸説ありますが、安倍総理のメッセージが国会の発議権限を毫も侵害したものではない以上、これこそ論外でしょう。

蓋し、リベラル派は--集団的自衛権の政府解釈変更の場合がその典型でしたけれど--「自分たちの考える憲法規範の内容」と違う解釈を政府が採用すると、解釈の齟齬ではなく「立憲主義に反する」とか宣言されるようにも思います。すごいね、憲法の解釈権は朝日新聞と岩波書店にあるんだ(笑) あのー、統治行為イシューに関しては、原則、内閣と国会が有権解釈者であり、その内閣や国会が時代の流れを睨んで--国家の生存と国民の福祉を慮って--適切に過去の自己の解釈を変更することは立憲主義にもそうそう反する、非立憲でさえないケースもあると思いますけれどもね。特に、安全保障や外国人入国管理の領域では。繰り返しますけれど、「憲法」も<憲法>も閉じた体系ではないですから。もっとも、現在のアメリカではリベラル派の内部でも悪名高い、あのウォーレンコートがやらかしたような「なんでもありの憲法解釈=憲法解釈という名の司法による政治判断」などは論外でしょうけれども。

【参考--現行の占領憲法の最高法規条項】
・第99条  
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

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詳しくは、別記事にまとめるかもしれませんけれど、要は、リベラル派の法的思考というのは、言葉の正確な意味での「概念法学」--資本主義的な所有権不可侵・過失責任主義・契約自由の原則が「自然法」なるものの内容なとして確立した19世紀半ばくらいの、「自然法付き法解釈の精密機械」がもてはやされた盛期の概念法学←ちなみに「概念法学」という4文字熟語は、自由法論とか歴史法学右派とかのそれのアンチ側が、法学万能論の微睡にひたっていた当時の法的思考の主流を揶揄侮蔑しディスったネガティブな用語ですよ--なのだと思います。

実際、現在、「基本的人権」という5文字熟語は、リベラル派の憲法論議のなかでもあまり使われなくなっているでしょう。お気づきでしたか? そう、その5文字、--アメリカの著名な法哲学者ドウォーキンや、日本では(東京大学→早稲田大学)長谷部恭男さんの影響なのでしょうか、「切り札としての人権」なるものを仮想するにせよ、要は、--単なる「権利」や「憲法的権利」なんちゃらに変わってきている。

・ローマ法王曰く、表現の自由は「基本的人権」ではない
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d28de2d620289f56808b591572c1f87f

・国際社会と日本との間で<人権>を巡る認識の落差が拡大しているらしい
 
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11916348036.html 


蓋し、「基本的人権・国民主権・平和主義」なるものがかならずしも現行の占領憲法の<根本規範>や<三大原理=基本理念>ではないということ。だから、リベラル派は、共約不可能な価値内容には踏み込まない、而して、そのような私的な世界観を私的領域に--敬して遠ざけて--隔離するタイプの統治の原理。そんな「狭義の立憲主義=立憲デモクラシ-」を、占領憲法を含む(笑)OECD加盟国とかの先進民主主義国の憲法の共通の基本原理だとか盛んに論じているということ。

内容のある普遍的価値の後退なり撤退。それが、米国の憲法訴訟理論の浸透(就中、J.H.イリー『Democracy and Distrust』(Harvard University Press・1981)のプロセス法学の洗礼を受けて以後の--プロセス法学に賛成するにせよ反対するにせよ--アメリカ憲法学-憲法訴訟理論-憲法解釈学方法論の理解の浸透)。および、いわゆる憲法訴訟におけるドイツ流の「三段階論」の流通(同理論にご興味のある方は、日本語であれば、例えば、駒村圭吾『憲法訴訟の現代的転回』(日本評論社・2013)の第4-5講を立ち読み(笑)してください。リベラル派-敵側の書籍ながら「サバサバ」した良書です)とともに、もはや、リベラル側でも現在の共通認識になっているということなのです。

尚、現在の「アメリカ憲法とその憲法訴訟」に関しては松井茂記『アメリカ憲法入門』(有斐閣・2012)と樋口範雄『アメリカ憲法』(弘文堂・2011)の併読をおすすめします。両書とも良書です。ただ、その併読の後は、可及的速やかに英語でアメリカの判例集・ケースブックにとりくみましょうね。また、阿川尚之さんの『憲法で読むアメリカ史』(PHP新書・2004)と『憲法改正とは何かーアメリカ改憲史から考える』(新潮選書・2016)もおすすめ、鴨。 

・書評予告・阿川尚之「憲法改正とは何かーアメリカ改憲史から考える」
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7eddb6f57b93ed69fbecdd5f75d06f2a

・宗教と憲法--アメリカ大統領選の背景とアメリカ建国の風景
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3a1242727550e8e31a9133aa154f11bf

ちなみに、この「三段階論」を、「憲法的権利の絶対性」というポイントに引き付けて(それ、原始仏教と異質な「東アジアの家族道徳やエートス」と整合的な観音系や浄土系の教派が支那ででき、日本で花開いたのにあい似たり?)、天賦人権論と結び付けようとする驚愕すべき論者も(←@@!!)日本にはまだいるにはいるにせよ--そんなあんたたち、ドイツ語原文で判決文・勧告的意見読んだことあんのかいな!--、それは、どう見ても筋悪です。 

換言すれば、--自衛隊は違憲だとか内閣総理大臣が改憲のアイデアを披露するのは憲法擁護義務違反だとか述べている、憲法や法哲学の専門家ではないインテリさん風の如き--彼等リベラル派は、法の支配なり普遍的な人権なり、民主主義、すなわち、寛容や多様性の価値の普遍性とかヒューマンな口ぶりは爽やかで穏やかだけれど、彼等はそれらを(α)「いつでもどこでも誰にでも認められるべき」、かつ、(β)「詰めあがりまでの移行プロセスに時間差は流石に容認するとしても--同性愛者の権利の容認とか外国人の地方自治体における参政権容認、または、死刑廃止や少年犯罪の非犯罪化、社会のあらゆる場面での男女平等の具現、社会における格差の極小化-ゆくゆくは国境を越えて格差の極小化、さらには、ナショナリズムの忌避等々の--ある特定の内容をもった」法規範が存在するという、概念実在論の人々なのだと思います。

だから、彼等は、--国連人権理事会の特別報告者なりのレポートなりに炸裂しているように--彼等の考えるそのような<リベラルで普遍的な法規範>から逆算して、現実の、国により時代により、また、その変化も線形の一方方向ではない法規範とその運用を批判する節がある。正直、歴史の発展法則なるものが、カール・ポパー『歴史主義の貧困』によって完全に否定されて半世紀以上経過した21世紀の現在、彼等がなんの論証もすることなく、「復古調」とか「戦前回帰」とか「時代錯誤」とかのレッテルを保守派に貼ればもう保守派の言説への批判が完了したと思っているような気配を感じるたびに、そのあまりの無知というか憲法理解の貧困にぞっとします。

畢竟、J. ミルトンが喝破した如く、

>New Presbyter is but old Priest writ large.
>新しく立ち現れた長老は、大書された、昔の司祭にすぎない。

蓋し、

>リベラル派の言う「普遍的な人権なり寛容や多様性の価値の普遍性、
>あるいは、立憲主義」なるものは
>キラキラネーム風に彩られた、しかhし、
>昔の左翼教条主義的のジャーゴンやタームの言い換えにすぎないの、鴨

と、そうわたしは考えないではないです。
 
・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d2b014fb5dcdcb6d9260f7aa8eec3c5f

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79

・憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7579ec5cfcad9667b7e71913d2b726e5

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65230144.html

そして、

・<改訂版>自薦記事一覧:保守主義の憲法論と社会思想-憲法学の再構築と占領憲法の破棄・改正を求めて
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5f7bef87927eae129943ca8b5bb16a26

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>まずは「加憲」でいいのではないですか――改憲派こそ「憲法」に期待しすぎるのやめませよう

◆問題の背景と問題の輪郭
安倍総理が先日(5月3日「占領憲法の押し付けを忘れない記念日」のビデオメッセージで)、憲法に自衛隊を明記する「加憲」に言及されました。要は、現行の占領憲法の9条の条項はそのまま残して、そいでもって新たに第3項なりを加えて、その追加条項で自衛隊の意義と存在を謳うというアイデア。

ご案内の通り、このアイデアはもともと公明党内でも有力な改憲案であり、また、民進党の中に(前原氏など)この「加憲」の線での改憲を主張してきたメンバーも多くはないけれど稀ではないもの。ならば、「算盤上」からはこの「9条3項」――例えば、「前二項を堅持しつつ、国家の平和と独立、文化と伝統、国民の尊厳と権利を維持確保するため、並びに、確立した国際法秩序を担保する集団的安全保障に貢献するべく、および、同盟関係を公平と信頼にたるものにするべく日本は自衛隊を保持する」とかなんとかの条項の追加――による改憲発議という手は、発議のハードルを国会の両院とも「3分の2どころか4分の3」に迫る圧倒的多数でクリアできるポテンャルを秘めた〈妙手〉なの、 鴨。

【参考--「加憲」イメージ】
・第9条1項 ←変更しない  
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
・第9条2項 ←変更しない
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
・第9条3項 ←海馬之玄関の加憲条項案
前二項を堅持しつつ、国家の平和と独立又は文化と伝統、および、国民の尊厳と権利を維持確保するため、並びに、正義と確立した国際法の原則を担保実現する集団的安全保障に貢献するため、および、わが国とその同盟国との同盟関係を、公平と信義にたるものとして維持するべく、日本は自衛隊を保持する。

【参考--現行の占領憲法改正条項】
・第96条1項  
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

而して、現在、朝日新聞やら岩波書店、リベラル派の憲法研究者の団体なりがかなりしゃかりきになってこの安倍ビデオメッセージを批判しているらしい様子を見聞きするにつけ、この〈安倍メッセージ=妙手理解〉は、満更、保守派であるわたしの希望的の観測だけではないのではないか。だって、改憲の現実性を感じているからこそ――例えば、9条そのものの削除(筋金入りのリベラル派の方ですが、これ、井上逹夫さんの主張です)なり、9条2項の削除かつ新9条への条項の大幅な追加(現在の自民党改正草案の提案)なりの、その実現がそうそう容易ではないだろう手筋に比べて、安倍加憲の一手には、自玉が詰まされる高い蓋然性、すなわち、――占領憲法改憲のそれなりの可能性を皮膚感覚で感じているからこそ――彼等、リベラル勢力はしゃかりきモードにクラッチを切り替えたのでしょうからね。

蓋し、安倍総理のビデオメッセージは「名人に鬼手なし」の〈平凡な妙手〉だったの、鴨です。将棋でも囲碁でも、政治でもサッカーでも相手の一番嫌がる手が往々にしてこちら側の最善手という場合が多いですからね(笑) ということで、ならば、なら、

>ならば、さっさと国会の両院で「改憲―加憲」の発議可決してよ~!
>なら、さくさく押し付け憲法、可及的速やかに改正しましょうよ~!

と、わたしはそう思っています。つまり、
この進次郎さんの認識(↓)とほぼ同じ感覚とか意見ということ、カナ。

▼小泉進次郎氏 9条への自衛隊明記「当然だ」 違憲論争「放置おかしい」
自民党の小泉進次郎衆院議員は1日、東京・内幸町の日本記者クラブで記者会見し、安倍晋三首相(自民党総裁)が意欲を示す憲法9条の改正による自衛隊の存在の明記について「当然だ」と賛同した。小泉氏は、自衛隊を「違憲」と指摘する憲法学者がいることに関しても「自衛隊が違憲かどうかという論争が起きている状況を放置し続ける方がおかしい」と述べ、論争に終止符を打つべきだと強調。「『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきだ」と主張する首相を支持した。(産経新聞・2017年6月1日)

けれども、しかし、「安倍メッセージ=加憲手筋」に対しては、実は、リベラルからだけでなく保守派、就中、占領憲法の破棄または改正を目指す保守の改憲論者からも批判や懸念が結構寄せられているらしい。それは大きくは二つ。すなわち、

(A)自衛隊の存在を今から明記する/明記しなければならないということは、sorry 、「自衛隊は違憲の存在である」と認めることになりはしませんか? 総理、それは今まで営々と匍匐前進で成し遂げてきた保守派の先人方の「解釈改憲」の成果を自ら否定するものではないですか。なによりそれでは自衛隊の隊員諸氏に対して失礼でしょうが!

\(_ _)
(B)現状を確認するにすぎない加憲の手筋だけでは、sorry 、(1)「専守防衛の頸木」からの自衛隊と日本の解放、そして、加之、(2)日本の領土主権の及ばないエリア――領土・領海・領空、並びに、排他的経済水域または所謂「周辺事態法の適用されるエリア」以外の、例えば、南シナ海やインド洋、アフリカや中央アジア等々――における、しかし、日本にとって死活的に重要なシーレーンの防衛なり、または、当該エリアにおける日本の投資や貿易を巡る権益の維持確保、なにより、(3)当該エリアでの邦人保護に自衛隊という武力による威嚇又は武力の行使をも可能にする――「自分の国と国民は自分で守る」普通の責任ある国になるための――憲法改正でなければ、総理、意味ないのではないですか?

\(_ _)

而して、(A)(B)を鑑みるに、――所謂「集団的自衛権の一部行使」を組み込んだ安全保障の法制化が一応具現した今でも、これまでの政府解釈との整合性を考えたら、繰り返しになりますが、集団的自衛権の原則解禁、並びに、自衛のみならず在外邦人保護、および、日本の国家権益を維持確保する武力行使と武力による威嚇の合憲化には、――最低でも県外じゃなかった、最低でも占領憲法の圏外に至る「自民党改憲草案」くらいの線での改憲が不可避・不可欠ではないだろうか、という批判や懸念が少なくないように感じます。

ならば、この際、公明党を切って/公明党執行部とは手を切って維新や幸福と新与党体制に移行してですね、もって、中原に<鹿=大幅な改憲>を逐い、正面から 護憲派―リベラル勢力と〈関ヶ原〉しないと駄目ですよ、総理。なーに、公明党には自民党の穏健派よりも遥かに「国益重視の若手=公明党安倍派」の同志も確かに多数派ではないにせよ、最早、それなりの勢力になってきているのだから勝算は〈鳥羽伏見〉や〈西南戦争〉よりは我が方に有利ですよ多分、とも。

これら(A)(B)とその帰結を読んでいただいている皆さん。
皆さんは、安倍メッセージについていかがお考えでしょうか?

【参考--自民党改憲草案】
・第9条1項
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
・第9条2項
前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。
・第9条の2 1項
我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
・第9条の2 2項
国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
・第9条の2 3項
国防軍は、第1項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
・第9条の2 4項
前二項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
・第9条の2 5項
国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。
・第9条の3
国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。

 イメージ 2

上に(A)+(B)として、整理させていただいた。そのような保守派からの批判に接するとき、わたしは少し複雑な心境に陥ります。それは、そのようなコメントを発信される保守派の同志の方々は、占領憲法の一刻も早い破棄または改正を望んでおられるのだろうから――勿論、当然、目指す方向はリベラル派の論者とは真逆ながらも――、ある意味、「憲法典」や<実定法秩序体系としての憲法>を理解するその理論的というか論理的の前提が――比喩で言えば「ベクトルの始点」が――戦後民主主義を信奉するリベラル派とidenticalな、極めて戦後日本に特有で世界的にみて特殊な思考の枠組みに絡め取られているとしか思えないからです。蓋し、そのような保守派の安倍メッセージ批判は、リベラル派からのそれと「シャム双生児」的な「家族的類似性」を帯びているものにも見えなくもないということ。

そう、例えば、昨日の産経新聞に寄稿されていた西尾幹二さんの議論「思考停止の「改憲姿勢」を危ぶむ」などは典型的な「シャム双生児」的の議論のようにわたしには感じられました。(B)の内容の復習を兼ねて、西尾さんの義憤と鬱憤を紹介しておけば・・・。

▼正論--思考停止の「改憲姿勢」を危ぶむ--
▼北朝鮮の脅威が増す中、9条2項に手をつけない安倍晋三首相の改憲論は矛盾だ
北朝鮮情勢は緊迫の度合いを高めている。にらみ合いの歯車が一寸でも狂えば周辺諸国に大惨事を招きかねない。・・・そんな中、声高らかに宣言されたのが安倍晋三首相の憲法9条改正発言である。・・・周知のとおり、憲法第9条1項と2項を維持した上で自衛隊の根拠規定を追加するという案が首相から出された。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」が2項の内容である。

この2項があるために、自衛隊は手足を縛られ、武器使用もままならず、海外で襲われた日本人が見殺しにされてきたのではないだろうか。2項さえ削除されれば1項はそのままで憲法改正は半ば目的を達成したという人は多く、私もかねてそう言ってきた。

安倍首相は肝心のこの2項に手を触れないという。その上で自衛隊を3項で再定義し、憲法違反の軍隊といわれないようにするという。これは矛盾ではないだろうか。陸海空の「戦力」と「交戦権」も認めずして無力化した自衛隊を再承認するというのだが、こんな3項の承認規定は、自ら動けない日本の防衛の固定化であり、今までと同じ何もできない自衛隊を永遠化するという、空恐ろしい断念宣言である。・・・

現実主義を標榜する保守論壇の一人は『週刊新潮』(5月25日号)の連載コラムで「現実」という言葉を何度も用いて、こう述べている。衆参両院で3分の2を形成できなければ、口先でただ立派なことを言っているだけに終わる。最重要事項の2項の削除を封印してでも、世論の反発を回避して幅広く改憲勢力を結集しようとしている首相の判断は「現実的」で、評価されるべきだ-と。
だが果たしてそうだろうか。明日にも「侵攻」の起こりかねない極東情勢こそが「現実」である。声を出して与野党や一部メディアを正し、2項削除を実行することが、安倍政権にとって真の「現実的」対応ではあるまいか。・・・

(産経新聞・2017年6月1日)

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蓋し、安倍メッセージに批判的な--(B)にフォーカスされているだろう--西尾さんを含む保守派の方々は以下の(a)~(f)の如き理路の流れの中で「加憲」という手筋を否定的に考えておられるの、鴨。すなわち、

(a)占領憲法の9条2項を素直に読めば、「交戦権の否認」にせよ「陸海空軍その他の戦力の不保持」にせよ、寧ろ、自衛隊自体も(!)--少なくとも、自衛隊の「専守防衛」を超える行動と、そのような行動を可能にする自衛隊の装備・組織の部面は--、加之、集団的自衛権の行使が違憲であることは明らかだろう。

他方、現在では、間違いなく自衛隊は国民世論の手厚い支持を享受している合法的な存在はになっているということは共産党でさえ否定はしないに違いない。

ならば、(b)加憲によって--現状の惨状に加えるに--、憲法の条項間にも新たに矛盾を発生させた上で、(c)自衛隊の「その自衛隊は手足を縛られ、武器使用もままならず、海外で襲われた日本人が見殺しにされてきた」というシャビーな現状の確認・追認だけでも目指そうという安倍メッセージの手筋は、

(d1=A1)寧ろ、自衛隊に好意的なこの社会の雰囲気を「ちゃぶ台がえし的に」ひっくり返してしまいかねない、不要なる政治的配慮に過度に傾斜した提案だ。それでは「なんのための集団的自衛権の行使に関する政府解釈 の見直しだったのか」、あるいは、「何を根拠とした安全関連法の整備だったのですか」という疑問をさえ蘇らせかねない思考停止の姿勢。いずれにせよ、自衛隊の憲法典内部への取り込みは少なくとも不要であるか、雉も鳴かずば撃たれまい的な筋悪の蛇足ではないか。

而して、(d2=A2)自衛隊が合憲であるか違憲であるかなど、最早、日本の政治が解決しなければならないような――それをクリアしなければ、国家と国民の生存なり福祉なりの維持確保が難しい、あるいは、生存と福祉の維持確保のコスパが劣化するが如き重要な――論点ではないでしょうよ。ならば、

畢竟、(e=B)安全保障を巡る改憲の本丸は現行の9条2項の削除である。(B1)所謂「専守防衛」なる桎梏から解放された、フルセットの集団的自衛権行使の合憲化、および、(B2)端的には、――所謂「集団的自衛権」にせよ「個別的自衛権」にせよ、須べからく、――自衛権ではカバーできにくい、日本の権益と主権の確保、(B3)在外邦人保護に関する武力行使の解禁でないはずはありますまい。

ならば、(f)再度訴えたいのですが、自衛隊の存在を明記するだけの加憲などは、9条2項削除という 本丸攻略に関して、そのミッションは加憲オペレーションの更に先にある/加憲とは別の問題であることを、改憲側が自ら認める愚かな手筋――先に桂馬を打って次に銀を相手の玉頭に打てば詰みなのに、先に銀を打ったばかりに相手玉を上辺に取り逃がすが如き――拙劣な手筋・戦略ではないでしょうか。論理的整合性の観点からは、それはより高いハードルをわざわざ自らに課す愚を犯すもの、そう、喩えれば、厳島で毛利元就に敗れた陶晴賢の愚を犯すようなものではないか、とかとか。

>加憲は不要というか「蛇足」・・・(A)
>改憲の本丸は9条2項「削除」・・・(B)

これが保守派の方々から寄せられている安倍メッセージへの幾つかの批判の最大公約数なの、鴨。
而して、これは、リベラル派がいい募る安倍メッセージへの他の幾つかの批判、
例えば、行政の長である内閣総理大臣が「加憲」にせよ憲法改正について述べるのは

(イ)→「三権分立」の原則に反する
(ロ)→「憲法擁護義務」に違反する
(ハ)←自民党の党内議論の蓄積を軽視する「安倍一強」の驕りのあらわれだ

などというトンデモ言い掛かりと、実は、これまたシャム双生児的な家族的類似性を帯びる、
いただけない議論ではないか、とそうわたしは考えます。
蓋し、まずは「加憲」でいいのではないですか。

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正直。憲法典が変わったからといって世の中も、世間も世界もそうがらっと変わるものではないですよ。でも、現行の占領憲法によって日本は戦前の子供達の眼がキラキラ輝くすてきな国から、情けない薄汚れた薄っぺらな国に変えさせられてではないか、ですって? 

あのですね。それは占領憲法が変えたのではなく、改革官僚や近衛とかの社会主義者が推し進めた総動員体制という名の社会主義政策(所謂「40年体制」)によって日本は無残にも変容していたのであり、大東亜戦争後にこれまた本まものの「社会主義者=GHQに巣食うニューディーラー」によって、日本が変わっていたから、占領憲法のような屑かゴミのような「憲法」でも--残念ながら、実定法秩序のあるパーツとしては--機能したというだけのことなのです

>憲法が変わったから日本が駄目になったのではなく
>日本が駄目になっていたから「破れ鍋に綴蓋」式に占領憲法が定着した

ということなのだと思います。ということで、そろそろ、改憲派こそ「憲法」に期待しすぎるのはやめませんか。ならば、まずは「加憲」でいいのではないですか。そうすれば「占領憲法典」の字面とフランス流の文化帝国主義的憲法思想だけを頼りに、単なるリベラルな妄想と願望を<憲法>の規範意味だ<憲法>の精神だとかなんとか、強弁してきたリベラルなジャーナリストさんとか憲法の研究者さんとかも少しはおとなしくなるでしょう。そして、そうなれば、安全保障の課題にせよ外国人入国管理を巡る懸案にせよ、通常の立法措置で粛々と解決できるようになると思います。

そうわたしは思います。蓋し、

いずれにせよ、我が国の「不毛な憲法論議」の背景には「憲法」という言葉の輪郭を巡る、筋違いなほどのある種の誤解があるのではありますまいか。ありますまいか。そう、それ、所謂「概念法学」的な法的思考を採用する論者が陥りがちな陥穽。概念実在論の砂上の楼閣から上から目線で眺める歪な風景の広がり。
そんなものをリベラル派の憲法言説にわたしは感じています。
 
・樋口陽一の文化帝国主義的憲法論の杜撰と僭越(上)(下)
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/45e30175093f17dfbbfd6b8234b89679

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/87aa6b70f00b7bded5b801f2facda5e3

 そして、

 ・<改訂版>自薦記事一覧:保守主義の憲法論と社会思想
 -憲法学の再構築と占領憲法の破棄・改正を求めて
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5f7bef87927eae129943ca8b5bb16a26

 
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く>
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天皇制と国民主権は矛盾するか(上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11136660418.html
 
・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
  http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/b699366d45939d40fa0ff24617efecc4

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すめらぎのお話・・・臣籍降下から復帰された天皇

テーマ:皇統受難
先月30日は旧暦では五月五日の端午の節句の日でしたが、五月五日といえば貞観九年(867年)の光孝天皇の第七皇子定省(さだみ)王が誕生された日です。
 
光孝天皇は、第五十四代仁明天皇の第三皇子の時康親王で、兄である第一皇子の道康親王が天皇になられていました(文徳天皇)から、親王として様々な官職を歴任されていました。この頃皇統は文徳天皇の系列で続いていくと思われていました。
 
 
ところが文徳天皇の孫にあたる陽成天皇の時に事件が起きます。
 
 
「神皇正統記」によれば、陽成天皇は性格が荒々しく帝王の器にふさわしくなかったといいます。また「愚管抄」には、もののけによる災いがひどく、狂気のふるまいは言葉にできないほどだったと記されています。
 
 
そして十五歳の頃、宮中で天皇の乳母の紀全子(きのまたこ)の子、源益(みなもとのすすむ)が殴殺されるという事件が起きたのです。これが殺人か、過失致死か詳細も犯人も不明とされていますが、陽成天皇が・・・、と噂されたのです。
 
 
陽成天皇は乱行・奇行により群臣を悩ましたと伝わり、この事件の後何度も譲位を迫られ、ついに八八四年摂生であり、陽成天皇の母の兄弟でもあった藤原基経により皇位を廃されました。基経は、「花見の行幸」と偽り内裏から陽成天皇を連れだし、二条院に遷されたといいます。
 
 
そしてこの時、陽成天皇の後に譲位の形を受けて即位されたのが陽成天皇の祖父の弟である時康親王だったのです(光孝天皇)。この時時康親王は既に54歳、当時として随分遅い即位です。
 
 
光孝天皇は即位されると、陽成上皇の同母弟で時期天皇として即位される可能性のある貞保親王(15歳)をはばかられて、御自身の皇子は全て臣籍降下させ子孫に皇位を与えない意向を表明されました。この時定省王は臣籍降下により源定省となりました。ところが光孝天皇は次の天皇の候補者が確定しないうちにわずか三年の後崩御されたのです。
 
 
そこで急遽、皇族に復帰され皇太子を経ずに即位されたのが源定省です(宇多天皇)。この時、定省の第一王として誕生していた源維城(みなもとのこれざね)王も皇籍復帰され、後に親王宣下を受けられ改名し敦仁(あつひと)親王となられました。
 
 
宇多天皇は、陽成上皇とは一歳違いと同年代でした。そのため、宇多天皇は陽成上皇のご存在に悩まされたといいます。というのも、宇多天皇は一度臣籍降下をしながら皇族復帰をされ即位された唯一の天皇だったので、陽成上皇に「あれはかつて朕に仕えていたものではないか」と言われてしまう立場だったのです。臣下の頃、陽成上皇が神社行幸の際には舞も踊られたといいます。しかも、陽成上皇には復位を意図しておられるという風説もあったのです。
 
 
本当に陽成天皇に問題があったのであれば、陽成上皇を担ぎ上げようとする者はいないはずでしょう。実は、基経が仲の悪い妹の子である甥を廃すために策を労したというのが、こういう話からも察せられます。そしてそれをご存知であったからこそ宇多天皇は、復位を気にやんだのではないかと思えるのです。そこで基経が死去して数年後、三十一歳にして十三歳の皇子敦仁親王を立太子後即位(醍醐天皇)させました。これは陽成上皇や陽成上皇系との皇統争いが生じないよう、皇統の正統性を示されたものといいます。さらに、この直前、基経の跡を継いだ時平が若いこともあり、菅原道真を権大納言に任じており、時平が次席にされています。これは宇多天皇が親政を目指すための藤原家への牽制でしたが、さらにその藤原家に外戚で繋がる陽成上皇への牽制でもあったのかもしれません。しかし、このことが後に昌泰の変に繋がり、菅原道真が失脚することになるのです。
 


陽成院が残された御製からはそのような狂気も荒々しさも感じられません。院になってから幾度か歌合わせを催すなど歌才があったと言われていますが、陽成天皇の歌と伝わるのは百人一首の歌のみと言われています。その歌は陽成院の次代の光孝天皇の皇女釣殿宮綏子(すいし)内親王への求愛の歌です。二人は後に結ばれ内親王はお后となりました。平安時代和歌は男女の恋の駆け引きに使われたと言いますが、それは男女が対等であればこそ成り立つものです。そしてそれは元天皇である陽成院でも変わらなかった証がこの歌であるといいます。そしてそのどこにも、身勝手さはないのです。

筑波嶺の
峰より落つる
みなの川
恋ぞ積もりて
淵となりぬる

陽成院は、乱行・奇行で廃されたといいますが、そのような者に光孝天皇がいくら元天皇だからと自分の娘を結ばせるでしょうか?その次の天皇も内親王の兄弟である宇多天皇です。また、そこまで乱行・奇行があったというのに、その後長寿だった陽成院に長い間乱行・奇行の話はないようなのです。
 

藤原基経は妹の高子との仲も良くなかったようで、母子ともども疎んじたとも伝わっていますが、陽成院はその基経の陰謀で退位させられたというのが本当のところではないでしょうか。なにしろ退位の時はまだ16歳の少年だったのです。当時そのぐらいの年齢であれば正式な妃が入内していてもおかしくはありませんが、退位の時まで一人も入内されていなかったのも基経の嫌がらせだったのかもしれません。乳母の子の死も、不幸な事故だったのかもしれません。なにかの事故をきっかけに後ろ盾もない16歳の少年が、本来は後ろ盾となるはずの大人達に退位を迫られたというのが真相に思えるのです。
 
 
しかし、もしかしたらそのおかげで陽成上皇は長寿を全うできたのかもしれません。次の天皇である光孝天皇は当時としては高齢で即位されたためかわずか三年、57歳で病に倒れていますが、陽成上皇は82歳で崩御されています。
 
 
陽成上皇と同年代の宇多天皇は、31歳で譲位されその後出家の後は法皇として仏に仕えられて65歳で崩御されましたから、陽成上皇は宇多法皇よりも長寿でした。これは陽成上皇の父帝である清和天皇が27歳で譲位され相次ぐ天災のために出家の後畿内を行幸されわずか32歳で崩御されたのと対照的です。
 
 
宇多天皇は菅原道真を重用しましたから天皇の御在位中の憂いが少なく済んだろうであろうことが想像できますが、清和天皇が御在位の時は藤原氏が皇族以外で初めて摂生の座に就いた時であり、さらに天災が次々に起きた頃でもありました。祈る存在としての天皇として、現在よりも自然現象が畏れ多いと思われていた当時の祈りへの重圧がどれほどであったかを考えると、そのために命を縮められたのではないかと思えるのです。
 
 
そして同様に光孝天皇は年老いてから天皇になられ、宮中祭祀を行われたその厳しさが重圧であったであろうと思えるのです。というのも光孝天皇の時代にも天災が続いていたからです。
 
 
宇多天皇が譲位され皇子の敦仁親王が次の天皇に即位され(醍醐天皇)ると、醍醐天皇の御代は34年と長いものとなりこの時代は後にその後の村上天皇の御世とあわせて延喜・天暦の治と称される天皇親政の理想の時代とされました。第九十六代の後醍醐天皇は父帝が御宇多天皇であったことに絡めこれにあやかり「後醍醐」と遺号されています。とはいえ、醍醐天皇の御代に引き続き菅原道真が活躍されると思われていた時、昌泰の変で菅原道真は左遷され大宰府で死去してしまいます。これは菅原道真の出世を妬んだ藤原氏が、菅原道真がその娘婿である斉世(ときよ)親王を即位させようとしていると讒言されたためです。この後、菅原道真の左遷に関わった人々が次々と亡くなり、清涼殿に落雷があるなど菅原道真の怨霊伝説がどんどん肥大していくことになりました。そして醍醐天皇は清涼殿の落雷直後から病がちとなられわずか3カ月で崩御されています。このことはいかに精神的な負担が大きいものかを物語る事件だと思うのです。
菅原道真公死去
 
 
 
宇多天皇と醍醐天皇は二代に渡り皇籍復帰から天皇に即位されましたが、宇多天皇は即位の際の詔に文句をつけて藤原氏が出仕しないこと(阿衝事件)があり、結局詔を取り下げることとなったことから、藤原氏とは出来うる限り距離を置きたいという心理があったかと思います。一方で醍醐天皇の時代には、その藤原氏の替わりに出世した(と藤原氏が考えている)菅原道真が失脚させられてしまうということになってしまいます。そのような政局渦巻く朝廷と祭祀を司る天皇との両面の負担のあるところに、宇多天皇は皇籍復帰されていき、またその跡を醍醐天皇が継がれたのです。
 
 
皇籍復帰された宇多天皇と醍醐天皇の御世が二代に渡って続いた時代があったことを知れば、現在の旧宮家が皇籍復帰することに何の問題もないことがわかります。歴史を振り返れば、そこから自ずと答えが出てくることは沢山あります。現在の皇室の人数の減少も旧宮家が皇籍復帰することで解決できることであり、我国の歴史を振り返ればそこに異論の入る余地はないのです。そこに異論を挟むような輩は日本人ではないからとしか言いようがないといえます。
 
 
 
 
 
 
 
 
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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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