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ご存知の方も多いと思いますけれど、
>政府専用機の運用
>南極観測隊の運営
これ自衛隊が行っているのです。
知ってましたか?
 
で、本書はそんな「プチ鼻タカ」程度のうんちくではなくて
かなり中味の濃い<マネージメント本>だと思いました。
わたしが書くと、例によって数学の話が始まるので、
ブログ友の記事を以下引用。
 
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▼海上自衛官が南極観測船「しらせ」で学んだ
 きつい仕事に潰されない人のルール  って本
2017-07-02 17:02:32
(引用元URL)

局地的に私のまわりで売れまくっているこの本ですが、うちにも来ました。
海上自衛隊が運用する船の中でも特殊な船舶、砕氷船しらせにのり、二回も南極にいった泊太郎君の書いた本です。

南極には真水がないんですよね。凍ってるし・・・

しらせにはあの「タロ・ジロ」がいるとか、南極よりももっと寒いところがあるとか・・・
オーロラが見える世界とか・・・ 普通は経験できない世界を経験してきたわけですよね。

極寒の地は美しいこともあるでしょうが、過酷で大変です。そこでの生活についていろいろ教えてくれる本です。

彼は某所でのパーティで流暢に英語をしゃべり、上品で礼儀正しい人です。独身です。はいいとして、過酷な現場でどう頑張るのかをこの本で学んでいただきたいと思います。

海上自衛隊出身の人の再出発を応援したいと思いますので皆さんどうぞ、ぽちっとよろしくお願いします。

(以上、引用終了)

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実は、私も海自や米軍の同志に昔聞きました。
洋上任務でなにが恐怖か、なにがつらいかと。 

>敵艦とかよりも防衛省内部の--特に背広組の--えらいさんの
 現場知らずの指示や問い合わせの連発?
>それもあるけど(笑)、やっぱ、自然の脅威だと。

では、何が一番の自然の驚異かと。

>暴風雨? 寒さ暑さ?
>それもあるけど、一番は「距離」だと。

たしかに、ガス欠になりオクラホマのプレーリーで立ち往生したときとか、
強盗でもいいから(涙)、誰か来てくれと思いましたもの。
携帯もまだない時代だったし・・・。

もんくなく、謹んで本書おすすめいたします。
 
・ピグライフは勝れものの「マネージメントスキル開発ツール」かも
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/ee74458c5f6769163b91f13e9a13d8f4

・AKB総選挙が証明する経済の成長戦略の思想的可能性
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/905095d73cbeec96c10d3be301792706

・ソフトバンクホークス秋山幸二監督に見る<指導者の器>と保守主義の精神
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/ea5e7e17b2488c76914be3834c9e195d

医者のコスプレをしている渡辺麻友
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予告していました記事、アップロードします。
この(↓)記事です。
 
・予告!! 「one パラ道場-あしながおじさん"Blue Wednesday" de 英文読解」の画像キャスト決定なのら!!
 
ただし、現在までに110点をこえる日本語の訳書が出ていることに鑑み、KABUの日本語訳は割愛することにしました。というか、「あしながおじさん"Blue Wednesday"」(DL-BW)もDL全体の中に置かれて初めて整合的に解釈可能になるわけで、BW単体の訳は「小さな親切、大きなお世話」というか、逆に、有害でさえあると考えたからです。ご了承ください。
而して、予告記事でも紹介いたしました次の4点のいずれかの並読をお薦めいたします。いずれも、近隣の図書館に常備されているでしょう。または、いずれも「1000円」札で――よって、ワンコインとはいきませんが500円玉2枚で――お釣りがくるもの。もし、お手許に同書がないようならこの機会に――もちろん、どれか1冊でいいですよ!――入手されるのも悪くないと思います。いかがでしょうか。
 
1)あしながおじさん(松本恵子・新潮文庫)
2)あしながおじさん(木村由利子・集英社みらい文庫)
3)あしながおじさん(坪井郁美・福音館書店)
4)あしながおじさん(谷口由美子・岩波少年文庫)
 
準動詞略記号
to 不定詞――to-V
原形不定詞―ba-V
動名詞――Vg-ing 
現在分詞―Vp-ing 
過去分詞―V-pp
 
 
・資料:DADDY-LONG-LEGS (全文)
 
・資料:DADDY-LONG-LEGS ”BLUE WEDNESDAY”(全文) 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/eb5d28f1a84923bbdf9d2c04def4aa3f

(※本テクストは原作者の著作権は切れています)



DADDY-LONG-LEGS


"BLUE WEDNESDAY"

(S1-3)
The first Wednesday in every month was a Perfectly Awful Day—a day to be awaited with dread, endured with courage and forgotten with haste. Every floor must be spotless, every chair dustless, and every bed without a wrinkle. Ninety-seven squirming little orphans must be scrubbed and combed and buttoned into freshly starched ginghams; and all ninety-seven reminded of their manners, and told to say, "Yes, sir," "No, sir," whenever a Trustee spoke. 

(S4-8)
It was a distressing time; and poor Jerusha Abbott, being the oldest orphan, had to bear the brunt of it. But this particular first Wednesday, like its predecessors, finally dragged itself to a close. Jerusha escaped from the pantry where she had been making sandwiches for the asylum's guests, and turned upstairs to accomplish her regular work. Her special care was room F, where eleven little tots, from four to seven, occupied eleven little cots set in a row. Jerusha assembled her charges, straightened their rumpled frocks, wiped their noses, and started them in an orderly and willing line towards the dining-room to engage themselves for a blessed half hour with bread and milk and prune pudding. 

(S9-12)
Then she dropped down on the window seat and leaned throbbing temples against the cool glass. She had been on her feet since five that morning, doing everybody's bidding, scolded and hurried by a nervous matron. Mrs. Lippett, behind the scenes, did not always maintain that calm and pompous dignity with which she faced an audience of Trustees and lady visitors. Jerusha gazed out across a broad stretch of frozen lawn, beyond the tall iron paling that marked the confines of the asylum, down undulating ridges sprinkled with country estates, to the spires of the village rising from the midst of bare trees.



(S13-18)
The day was ended—quite successfully, so far as she knew. The Trustees and the visiting committee had made their rounds, and read their reports, and drunk their tea, and now were hurrying home to their own cheerful firesides, to forget their bothersome little charges for another month. Jerusha leaned forward watching with curiosity—and a touch of wistfulness—the stream of carriages and automobiles that rolled out of the asylum gates. In imagination she followed first one equipage then another to the big houses dotted along the hillside. She pictured herself in a fur coat and a velvet hat trimmed with feathers leaning back in the seat and nonchalantly murmuring "Home" to the driver. But on the door-sill of her home the picture grew blurred. 

(S19-20)
Jerusha had an imagination—an imagination, Mrs. Lippett told her, that would get her into trouble if she didn't take care—but keen as it was, it could not carry her beyond the front porch of the houses she would enter. Poor, eager, adventurous little Jerusha, in all her seventeen years, had never stepped inside an ordinary house; she could not picture the daily routine of those other human beings who carried on their lives undiscommoded by orphans.

<語彙>

(S0-3)
blue:憂鬱な/落ち込む・へこむ(南北戦争時の「北軍の」、現在のアメリカでは「民主党の」そして「猥褻な」の意味もblueは帯びています。ちなみに「南軍の:gray」「共和党の:red」), 

awful:恐ろしい/(悪い方に)酷いく凄まじい(≒terrible), await:抽象的な事柄や事態のの生起を待ちかまえる(cf. waitは具体的な出来事や人物・亊物を待つ),  endure:苦痛や困難などのハードシップを耐え忍ぶ/覚悟して長期にわたり我慢する, courage:勇気/度胸や心意気,  spotless/dustless:染みひとつない/ホコリひとつない, wrinkle:しわ(語源は「しぼりる/つねる」wrenchは同語源), squirm:身をよじる/もぞもぞする, orphan:孤児(ギリシア語源に遡る「親族に先立たれたひと/孤立した孤独なひと」が原意),  scrub/combe:ごしごしみがく/髪をすく, button into~:~という衣服をきちんと着させる,  ginghams:格子柄の平織りの布地で作られた衣服(不可算名詞のginghamが複数形になっていることに注意してください),  

remind A of ~:Aという人物(擬人化された対象)に~を肝に銘じさせる/思い起こさせる, manners:礼儀作法/行儀(a mannerは「方法や具体的な態度」), trustee:他人の財産の運用管理の受託者/大学や公共施設組織の監督権限者(英米法のequity -衡平法の代表的な制度「trust:信託制度 」由来のかなり奥行きのある語彙です。少なくとも、trustは「財団法人」ではないのですから、trusteeを単に「孤児院の評議員/理事」と訳するのはもったいない、鴨)

(S4-8)
distressing:悩みの元となる/悩ましい,  bear the brunt of it:攻撃や非難の矢面に立つ, predecessor:先人や前に起こったできごと, drag itself to a close:終わりになる(≒end), escape from~:~から逃れる/~をまぬがれる, pantry:食料品室(食材がおかれているkitchen),  asylum:一般的に保護が必要な人々に対する施設(ここではorphanage「孤児院」の意味),  accomplish:義務や責務をなしとげる(類義語のachieve は「努力して、または、才能によって成果を出す」という語感もおびます), 
special care:特に割り当てられた関心事やタスク,  tot:小児(tots≒little  children), cot:簡易ベッド, set in a row:一列に並べられた(TOEICの重要語彙ですよ),  charge:責任や責務/自分がその世話をまかされている対象の人々, rumple:服や紙をしわくちゃにする, frock:原意は「修道僧の平服」転じて「ゆったりしたそまつな農夫や子供たちの普段着」, engage onemsel for~:~に従事する/没頭する, blessed :楽しい(祈願のセンテンス以外では常に限定用法の形容詞です), 

(S9-12)
lean:(vt)もたれかけさせる/傾ける, throb:ずきずきと痛む, temple:こめかみ, on one's feet:立ち続ける/自立している,  bidding:言いつけ/命令, matron:公共施設の女性監督責任者/寮母, calm:天候や人柄が穏やかな,  pompous:慇懃でもったいぶった, dignity:威厳/人格の尊厳,  an audience:面会/謁見, gazed out/beyond/down:外を/越えて/見下ろす形でじっと見る,  paling:杭をめぐらした柵,  confine:ある領域の範囲,  undulating:起伏にとんだ, ridges:山や丘の尾根,  country estate:田園地方の大きな屋敷, the spires:教会の尖塔,  midst:真ん中/~の最中に, bare trees:葉っぱが落ちてしまった(冬の)木々, 



(S13-18)
so far as ~:~の限りでは, visiting committee:客員視察員, round:巡回/巡視, one's own fireside:自分の家庭/わが家, bothersome:(≒troublesome)面倒な/少しやっかいな, charge:責務/任務,  lean:(vi)もたれかかる/傾く, curiosity:好奇心, a touch of:幾ばくかの, wistfulness:物欲しそうな/うらやましいという気持ち, carriage:自家用の馬車(cf.幌馬車はcovered wagon),  automobile:自動車(T型フォードが登場したのは1908年!), 
roll out:次からつぎに転がり出ていく, equipage:装備一式/乗り物と運転手および乗客のひとまとまり, dot:点在する, picture:心に描く,  be trimmed with~:~を材料にして飾られている, nonchalantly:平然と/それがあたりまえのように無頓着に, murmur:低い声でささやく, door-sill:戸の敷居,  blur:ぼやけさせる(≒grow faint, また「loom」は反意語彙の一つです), 

(S19-20)
take care:気をつける, keen:(≒sharp)鋭い/鋭敏な,  front porch:(≒front door)玄関の扉,  adventurous:冒険好きな,  daily routine:(≒daily life)普通の日常生活,  carry on:営む, undiscommoded:(≒undisturbed)邪魔されない/煩わされない, 


<読解躓きの石―時代背景の情報>
(S15)「Jerusha leaned forward watching with curiosity—and a touch of wistfulness—the stream of carriages and automobiles that rolled out of the asylum gates. 」(ジルーシャは、身を前に乗り出すようにして、幾ばくかの羨ましさと心に寂しさを抱きながら、施設の門から次々に出ていく自動車と馬車を好奇心から見ていた)、と。ここでなにげに「馬車」が登場することに時代を感じましたか? 
この他にも、例えば、DL, F. Sep 24;  DL, F. July 12・・・いくらでも「馬車」は出てきます。
このDL の舞台は――DL の出版年(1912)からも、また、DL の続編ともいうべき『続あしながおじさん:DE』の記述と突き合わせても――1910年の少し前。そして、アメリカに本格的なモータリゼーションをもたらした、あの「T型フォード」が誕生したのが1908年なのです!
ちなみに、DL のアイデアは、その少女時代から後見人をつとめた「若くして亡くなった友人の娘」と大統領として――ご自分も初婚で!――結婚した、クリーブランド大統領(第22・24代:1885-1889, 1893-1897)のエピソードに影響を受けているとよく語られています。ウェブスター女史ご自身の大学時代が「1897-1901」ということを鑑みれば、この説は満更荒唐無稽ではないの、鴨です。

・宗教と憲法--アメリカ大統領選の背景とアメリカ建国の風景
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3a1242727550e8e31a9133aa154f11bf
<関連記事>
・英文読解 one パラ道場:英語教材として読む安倍談話(英文全文)-【前口上-本編-余滴】
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f169c76ce342703e5816dc9ce8b9e0f1

Jerusha Abbott


<(2)に続く>



 

「里山資本主義」(角川書店・2013年07月)藻谷浩介。副題は「日本経済は安心の原理で動く」 

2011年の東日本大震災のあとで話題になった本である。
あのときは、なんとなく一部でブームという雰囲気があったので、天邪鬼な私としては手を出しづらかった。
みんな、そろそろ忘れたころなので、安心して読むことにした(苦笑)。 

そもそも「里山資本主義」なる言葉自体が著者らの造語である。
では、その反対語は何か?「マネー資本主義」である。

 米国経済も、そもそも製造業を主軸としていたのだが、90年代に日本に完膚なきまでに叩き潰された。(ジャパンアズナンバーワンの時代)
 自動車も家電も日本の一強時代となり、職を失った米国の労働者が日本車を叩き壊した時代である。
で、日本企業は海外現地生産に大きく舵をきることになる。 

一方、米国は瀕死の自動車産業にてこ入れすると同時に、もうひとつの成長産業を生み出した。
それがITと金融である。


そして、その金融は実体経済をはるかに上回り、世界中を動きながら、すべての産業を投資対象という「商品」にしてしまった。
いまや、実体経済が金融経済に飲み込まれ、金融の動き次第でどうにでもなる。
 金融には国境がないから「グローバル経済」の波に全世界の人々が飲み込まれていくわけである。(グローバリズム)

 そこに、カウンターカルチャーとして登場したのが「里山資本主義」である。
ようは、大昔の里山であった「晴耕雨読」の生活を現代によみがえらせよう、という試みである。
 本書の中では、自然農法による農作物生産やたきぎの効率的な利用法であるエコストーブ、木質バイオマス発電などが紹介される。
バイオマス発電で脱原発をしましょう、という話ではない。


 本書のなかにあるように、それは現実的でもないし、目的でもない。
そうでなくて、地域経済の中で「燃料代」が外に流れていかないことが大事なのである。
そうすれば、地域外にお金が流出することが減る。流出が減ったお金は、地域の中で回り始める。
さらに「手間返し」といった、貨幣以外の価値の交換もはじまるだろう。


グローバル経済と正面向かって戦って勝てる経済体制は難しいし、現実的でもない。
しかし「ゲリラ戦」はできる、というのが本書の主張なのである。


そういうローカルな地域での「サブシステム」として里山資本主義が動きだせば、グローバル資本主義にじわじわと抵抗する、強靭な経済が出来上がることになる。
 自分で育てた野菜を食べ、釣った魚をたきぎで焼いて食べればGDPではゼロだが、しかし、彼の夕食は豪華で、しかもマネー資本主義に左右されない。

 

評価は☆☆。
 反グローバリズムって、こういうことだと思う。


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移民を制限して(それは別にいいけど)管理貿易を徹底し、内向きの経済体制にする。
そういう体制にすれば、反グローバリズムでやっていけるのだ、という論者が一部にある。
しかし、たぶん、それは駄目だろう。


 売れなければ買えなくなるのが市場主義の原則だ。
 動きの鈍いマネーは、それだけで食われる対象でしかない。


 管理貿易の網から逃れたところで、特権階級がうまい汁を吸うだけの結果になる。統制経済、全体主義のいたる結論は常に同じなのである。
それよりも、マネー資本主義で使えるところは使えばいい。


テキトーに付き合って、その裏で、ちゃっかり里山資本主義というサブシステムをまわすのだ。
 正規軍の戦いでは歯が立たないが、ゲリラ戦になればこっちのものだ。


なにしろ、その地形地勢を知りぬいた里山がこちらにはある。勝てないまでも、負けない戦いはできるのである。

 この本は、サバイバルの本なのである。
マネー資本主義とグローバリズムの真っ只中で、死なないために。
かといって、勝てない戦いをしないために。生き延びるために、里山に逃げ込もう、と誘っているのである。

 そうだそうだ。駄目なら逃げろ、とっとと逃げろ。
 三十六計逃げるにしかずと、昔から申す。 逃げるは恥だが役にたつ!!
そんな生き方があってもいいんじゃないかねえ。


転載元: 50過ぎて悪あがき(往生際が悪い男のブログ

 

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 <KABUコメント&関連記事>

私は、人間に「欲望・見栄」がある限り「里山資本主義」なるものは不可能であり、

「里山資本主義」などは、そう、アーミッシュとかヤマギシ会の域をこの主張は超えられないと思います。

 ・ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」:
  岡上地区-完全包囲編(七)←後半に「里山」のこと少し整理しています。
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/b787614799ea209b634aa105fc7a7378


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飯豊青皇女





◆日本の英語教育はどう変えるべきなのか
 --「自衛隊入隊」の路を誰しもとれるわけでもないのだろうから・・・


本稿の主張の核心部分に入ります。日本社会を覆っている、
英語力および英語教育を巡る誤解と妄想を治癒するための
具体的な鍵は何かという問題。再掲します(↓)。

>日本社会を覆う英語力および英語教育に関する誤解と妄想を治癒する鍵
(1)英語はコミュニケーションツール、英語力はコミュニケーションスキル
 →文法・構文・英文和訳に重点を置く「受験英語」は駄目ですってば!
(2)詰め込み教育は英語嫌いを拡大再生産する悪しき研修スタイルなんですよぉ~!
(3)英語力の目標はネーティブスピーカーのコミュニケーションスキルしょ!



▽日本人と日本市民にとって英語とはなんだったのか
英語学や英語教授法の研究者志望の方々、あるいは、もの書きさんやインテリさんを除く私達のような一般ピープルを想定した「英語研修」に話しを限るとき、蓋し、(1)の前段は必ずしも間違いではないでしょう。しかし、後段は間違い。なぜならば、前述の如く英語は一つだから。繰り返しになりますけれども、文法・構文・語彙の習得はコミュニケーションツールとしての英語の核心なのであり、ならば、「受験英語」なるものは--音声面を除けばですが--、英語のコミュニケーションスキルを開発する上でも、かなり優れた<英語教授の仕組み>だったと言えるからです。

裏から言えば、所謂「日常英会話」のスキルなるものは--自己紹介/他己紹介、道案内、買い物、レストランや歯医者の予約、公共交通機関の利用、電話伝言処理、そして、我が街の紹介/日本の紹介、採用面接対応、夏休み/新婚旅行のエピソード紹介等々をなんとか披露する程度の英会話スキルなどは、実は--、先に書いたことと矛盾するようですが、英語力の内容的にはかなり簡単な初級の部類ともいえる。要は、6カ月のアメリカでのESL研修でそれはほ調達できる程度の技能ということ。ならば、①国と地域と保護者と<子供達>が総掛かりとなって、②その程度の情報のやり取りを英語でできるようにすることが、しかも、③原則、すべての<子供達>がそうできるようにすることが、初等中等教育の目標や目的なのでしょうか、ということ(★)。

>日常英会話のスキルなどは、寧ろ、簡単に習得できる技術!
>日常英会話力の<子供達>への<標準装備>が日本の英語教育の目標・目的なの?

б(≧◇≦)ノ ・・・そんな目標・目的はおかしいいだろぉー!


★註:日常英会話スキル:「張り子の虎」あるいは「幽霊の正体見たり枯れ尾花」

道案内、スーパーでの買い物。イギリス人の彼氏や彼女と愛を語らうための英会話力、もっと言えば、営業にこられたオーストラリア人の方の説明を聞き質問する程度の英語でのコミュニケーションスキルなど、必要とあれば、誰でも--日本人留学生同士で終日、日本語でおしゃべりすることがなければ(笑)--英語圏のESLに行けば半年といわず4カ月足らずで身につくもの。ということは、必要とやる気があれば、留学などしなくとも、--山形県と秋田県と宮城県の3県の県境あたりでも、兵庫県と岡山県と鳥取県の3県の県境あたりに住んでいらしても--自学自習で(ほんと、良い英和中辞典がそろい、また、良い教材がほとんど無料でいくらでも利用できる時代なのですからね、今は)誰しも1年から1年半年程度で身につけることが十分可能ということ。

先に、「840」時間という数値を挙げて説明した困難さは、だから、(イ)<840>のボリュームがこのかなり簡単な目標にさえ届かないという指摘、および、(ロ)現在の<840>の中味が、寧ろ、この日常会話研修を見据えたとしても合目的的ではないという認識から述べたことなのです。ならば、ましていわんや、その程度の、<840>から見れば高峰にせよ、富士山に比べれば神奈川県の大山程度の、寧ろ簡単な、ゆえに個々の子供達の労働力商品としての--国際競争の労働力市場における--比較優位性を引き上げる効能に乏しい、かつ、他の英語スキル開発のための基盤とはなりにくい、単発もののスキルアイテム。貴重な初等中等教育の840時間、少なくとも、そのかなりを割いて、そんな低付加価値で汎用性の乏しいスキルを、原則、すべての子供達に身につけさせるなどは社会的資源の無駄遣いに他ならない。そう私は考えるということです。

>営業を受ける英語力と営業する英語力は別次元
>愛を語らう英語力と愛を清算する英語力は別次元
>理科系技術者に要求される英語力と史学や法学の研究者に要求される英語力は別次元

アメリカに行って営業する。あるいは、1時間のプレゼンテーションを行い、その後の1時間の質疑応答、更に、1時間半程度のレセプションを(←三番目はビールかバーボンの力が借りられる、鴨!)乗り切って、アメリカの機関投資家から資金を調達する。または、ニュージーランド人の彼女や彼氏ときちんと別れ話をして(「できちゃった!」の可愛い我が子がいる場合には、親権と養育費負担配分について)、離別・離婚を巡る自分の希望を相手と現地の英語圏コミュニティーに認めさせるために必要な英語力は、上に述べたのとは別次元の上級タイプのものです。それらは別物であり別種目。その差は、相撲とキックボクシング、あるいは、チェスとカーリングの違いほどではないにせよ、少なくとも、サッカーとフットサル、あるいは、陸上の100メートル走と棒高跳びくらいの差は確実にある。しかも、世界大会と県大会のレベル差もともなって。

あのー、ここも、「普通の英語は一つ」という先に述べた命題とは別の位相にあり矛盾しませんから。それらは各々別の位相で--逆に言えば、確かに、「受験英語」と「日常会話」が異なって見えるように、否、実は、指導技術的に厳密に言えば、TOEFLとTOEICさえ最適な対策計画立案の観点からは別の英語系種目であるように--成立する表象であり認識。ならば、「愛を語る」のではなく「愛をかたずける」ために要求される、このより上級カテゴリーの英語でのコミュニケーションスキルの研修プログラムはその内部で更に細分化され、より特化されたものでなければ本当の意味では効率的とはいえないのです。

L(^◇^)/・・・英語は一つ!
L(^◇^)/・・・英語にも「松・竹・梅」の違いはある!

蓋し、自衛隊の英語研修は、これら、上級・中級・初級の区別、また、上級なら上級のその内部での細分化に配慮されたものと言える。大田エイミーさんの感動はそこに起因するのだろと思います。






日本の「受験英語」は--もちろん音声面を除けば、ですけれど--ESL/EFLの研究分野では英米でも専門研究者から高く評価されてきた。だってそれは、ほとんど英語話せないにせよ、極東の普通の高校生が、英国や米国の高校生にとってもそう容易ではないタイプのテクスト、極めて高いレベルの評論や論説文を読み解けるようにはしてきたのですから。これ歪といえば歪なこと。それは確かにシュールな光景ではある。しかし、ほとんどの日本人と日本市民にとって、英語は、それを使うとしても文献を読んで意味を理解するだけの用途しかなかった時代が幕末から長く続いていたことはまぎれもない事実。ならば、そんな時代において、「受験英語」は日本の英語教育において<最適解>の一つだったのだと思います。

しかし、時代は変わった。きっぱり。はい、残念ながらそんな「古き良き時代」は、ルーズソックスの軍靴の音と共に1990年頃には、遅くとも、<9・11>の衝撃と共に2001年には終わった。若き伊藤博文が倫敦で注がれたような、あたかも「素朴かつ崇高なる未開人」に与えられるかのような好奇と好意の眼差しを日本人と日本市民が期待できた時代は終わった。倫敦の漱石がそうであったように、極東からの異邦人が陥る陰鬱な葛藤と日本人と日本市民が戯れていられた、そんな甘酸っぱくも優雅な時代は終わった、とにかく、リーマンショック(2008)の時点までには日本人にとっての英語を巡る<ベルエポック>は確実に終わってしまっていた。

この同じ時期に、フランス流の「天賦人権論」「社会契約論」「近代立憲主義」、ならびに、独仏流の「唯物史観-ホイッグ史観のバトンを受けた地球市民的な世界観」「価値形態論-剰余価値説」「疎外論-物象化論」といった有象無象の、しかし、すべて「概念実在論」の基盤の上に聳えていた諸々のファンタジーの神通力はソヴィエトの崩壊をBGMにして消滅した。更に、それらが、--個別日本においては所謂「戦後民主主義」なるものが筋悪の新作落語の類であったことが露呈し、要は、所謂「進歩的文化人」なるものが、「仲間内でしか通じない無内容な思い込み思いつきを深刻そうな表情で偉そうに呟く籠城中の城内の芸人」の一種であることが露見し、もって、内外の諸々のリベラル派の言説が--、単なる<文化帝国主義の醜悪な残滓>であることの赤裸々さを地球規模で暴露されだしたのとパラレルに、この同じ時期に英語は<宝物庫の鍵>ではなくなり<普段着>や<台所用品>の一種になったのだと思います。


・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65200958.html

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、
<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79

・立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/44eedad84676b8f4cee93611c9b5dc2c

・樋口陽一の文化帝国主義的憲法論の杜撰と僭越(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/45e30175093f17dfbbfd6b8234b89679


だが、しかし、だからといって(←ここ、朝日新聞の社説子の口振りのパロディー)、「受験英語」が果たしてきた機能・効能を総否定することは本末転倒であろう。寧ろ、今こそ、「受験英語」が提供してきた英語の基礎基本、コミュニケーションツールとしての英語の基盤を子供達に--英語力で将来世過ぎ身過ぎしようというタイプの子供達には特に--、音声面強化済みの「受験英語-2.0」にバージョンアップした上で提供するべき秋(とき)ではないでしょうか。





▽日本人と日本市民にはどんな英語力が求められているのか
蓋し、(2)(3)は表裏一体の妄想。なぜならば、英語のNSの英語でのコミュニケーションスキルを目標にすることは原理的に不可能であり、ならばとて、もし、その漸近線の手前までは迫ろうとするならば、最低でも、その卒業生の高い語学力に定評があった、かっての旧制高校並みの時間数を--しかも、実は「高校入学時点」でかの弊衣破帽姿の旧制高校の新入生と同程度の英語力をつけるべく、小学校・中学校においても!--英語に傾斜配分しなければならないでしょう。極論をいえば--というか、研修と研修の効果の相関関係に関する相場感を踏まえるならば、寧ろ、「筋論」からすれば--、日本人と日本市民の子供達を小学校入学と同時に英語圏に全員留学させるか、または、お雇い外国人スタイルにならざるをえないと思います。

受け手送り手双方が担うそのあまりの負荷の大きさと研修の成果物の社会的価値の漸減を突きつけられて明治もその前半で幕を降ろした、お雇い外国人スタイル。授業はもちろん、ほとんどの課外活動もすべて英語でNSから直接、かつ、10人程度までの少人数で習うというスタイルを導入しますか、ということ。

それは、しかし、現在の840時間でさえ、他教科との兼ね合いで必死に捻出された840時間であることを想起すればほぼ不可能。実際、それがいかに非効率な840時間とはいえ、そのために多くの中学・高校(現在では小学校でも!)の先生方は誠心誠意努力しておられる。

公立学校の教師の、寧ろ、それが<本業>といえる、部活顧問・生活指導・進路指導・地域対応、等々の厖大な業務が漏れなくペーパーワーク附きで課されている状況下(★)、先生方は--「教え子を二度と戦場には送らせない」とかとか呟いて、優雅な政治遊戯にかまけている日教組・全教の「教師を詐称する教育を放棄した反日活動家」はもちろん除きますけれども--誠心誠意努力しておられる、そう言えると思います。


★註:実は頑張っている日本の先生達

日本の保護者の6割は「学校にわが子の学力向上の効果を期待していない=学力は塾・予備校でつけてもらうもの」という調査データが公表されたのはもうかれこれ10年近く前のことだったと記憶しています。もっとも、その後、この数字のあまりの派手さゆえにか、あるいは、差し障りがあったのか、現在ではベネッセさんの質問項目自体が「基礎学力の養成に期待するか」なんちゃらに変わって、現在では「おおいに」と「あるていど」を併せると95%前後の回答者が「学校に期待する」と返答していますが(嘲)、実情は10年前と今とそう変わりはないようにも感じます。

家計の可処分所得が実質シュリンクしたリーマンショック後、第2次安倍政権成立までのデフレ期間も、少なくとも、「希望ベース」では(公立校のブランド力がまだまだ堅固な北関東および根強い大阪圏は別様相にせよ)首都圏を中心に、半数を優に超える保護者が「できることならばわが子は私学に通わせたい」と考えている。このことは民間・公立を問わず教育関係者の常識でしょう。マーケティング的にはこの「希望ベース」というのはかなり重要。もちろん、それは「希望」だから「有効需要」との相関関係は緩いのですけれど--よって、すぐキャッシュに化ける商品の開発には2次的数値だったりしますが--、マーケットが本当は欲している商品、すなわち、提供の仕方と価格設定によっては「お化け商品」になりうる商品イメージの核心をそれが貫いている蓋然性が高いですから。




これらのことを想起するとき「選択肢A:旧制高校」も「選択肢B:お雇い外国人」も、そして--この選択肢には、「じゃ、日本語の指導はどうするの」という素朴な疑問もでるでしょうから、もちろん--、「選択肢C:ピカピカの小学1年生から入学式終了後--6年間または義務教育の9年間--ただちに全員もれなく強制アメリカ留学」のどれも画餅にすぎない。そうではありますまいか。

逆に言えば、ならば、皇紀2676年、平成の御代の日本は、最早、<お雇い外国人講師><弊衣破帽><全員留学>が<最適解>であった古き良き時代ではないということ。加之、--本当は生成文法論とは直接関連はしませんが、チョムスキーの唱える、あらゆる自然言語の基盤にある、その上で個々のアプリケーションソフトたる英語や日本語という各々の自然言語(=各自の母語)が作動可能となるもの、謂わば「人間の言語能力:language competence」のOS(オペレーションソフト)ともいうべき「普遍文法:universal grammar」の存在を仮想するとき--英語でのコミュニケーションスキルの前提も、日本語の母語話者である日本人および日本市民の<子供達>にとっては日本語能力、要は、国語力である。そして、国語力も含めた学習の基盤はセルフマネージメントスキルの品質。自己の行為や生活、他者に対応する言動を自分自身で規律できるディスシプリンの質である。

而して、更に、それらの基盤の基盤には、神州の一員である自覚、換言すれば、この万邦無比、天壌無窮にして皇孫統べる豊葦原之瑞穂国のメンバーたることの覚悟とプライド--日本市民にとってはそのような日本人と共存共栄している自分という、そんな誇りある在日外国人としてのプライド--でないはずがない。ならば、

б(≧◇≦)ノ ・・・英語より国語だろ-!
б(≧◇≦)ノ ・・・国語よりディスシプリン、礼儀作法だろー!
б(≧◇≦)ノ ・・・なにより、皇孫統べる豊葦原之瑞穂国のイデオロギーだろ!
б(≧◇≦)ノ ・・・寧ろ、英語の時間は減らして国語と道徳を手厚くしたらどうだ!

英語教育論的にもこう言えるのではないか。蓋し、平泉渉さんが(そして、前述の如く、実は、渡部昇一さんもなのですが)提言された如く、(X)すべての子供達に共通の到達目標を設定すること自体が間違いなのです。(Y)適性もあり英語力を活かした進路を希望する子供達には英語重視で、そうではない子供達の英語の負担は相対的に削減するべきだ。(Z)いずれにせよ、英会話幻想から--英会話は難しい、けれども、英会話ができることが英語でのコミュニケーションスキルがあることなのだという大きな勘違いを--脱却して、初等中等教育においては(音声面、特に、リスニングの強化を織り込んだ上で)文法・構文・語彙の基盤形成に注力すべきなのです。

畢竟、教育とは、就中、取り敢えず自分とは疎遠な非母語の習得とは論理的に<詰め込み>以外のなにものでもありえない。問題は--トレーニー個々の適性、ならびに、モティベーションおよびマインドセットを織り込んだ--<詰め込み>の仕組みの出来映である。このように私は確信しています。

(X)研修目標自体の多様化
 ・・・<子供達>に各自の能力・適性、および、
 ・・・<家庭の教育力・世界観>に適合したオーダーメイドの目標設定を!
(Y)研修の個別化-オーダーメイド化&テイラーメイド化
 ・・・上級中級初級のレベル差、各レベル内での種目差を直視しよう!
(Z)文法・構文・語彙(+リスニング)という基礎の強化
 ・・・<詰め込み>の復活、「受験英語-2.0」の逆襲!


元全国区の予備校で英語教育推進部長を務め、また、20年近く大学院留学予備校で教務部長・主任カウンセラー・講師を務めた--例えば、多くの上場企業の企業派遣研修と中央官庁からの人事院枠海外研修に携わってきた経験から、また、私のなにより誇りとすることは、自衛隊から米国MBA・行政学/国際関係論の大学院に派遣される隊員の方々の留学準備サポートを5年間自身直接担当した経験から--私はそう断言します。

而して、自衛隊の英語研修は、実に、これら(X)~(Z)のすべてに目配りされた合理的、よって、効率的・実践的なプログラムである。ですから、「子供を英会話できるようにしたいなら英会話スクールに行かせなさい、あるいは、自衛隊に入隊させなさい」と書いたのはネットウヨ風の冗談的の物言いではないのです。畢竟、日本の英語教育の問題について、繰り返しを恐れず、マルクスが『ユダヤ人問題によせて』(1844)の掉尾に記したレトリックを借用して敷衍するとすれば、われわれ保守派の市民はこう考えるべきなの、鴨です。みなさんはいかがお考えでしょうか。

б(≧◇≦)ノ ・・・<子供達>の英語教育における解放は、
б(≧◇≦)ノ ・・・英語教育の平等幻想からの解放である。
б(≧◇≦)ノ ・・・「受験英語」の逆襲はその鍵をなす。


そして、最後に、
このことも、また、

∠(^◇^)/・・・まだでしたら、『MAMOR』の定期講読をお薦めします!
∠(^◇^)/・・・近隣の高校や図書館とかに定期購読をお願いしましょう!

URL: http://www.fusosha.co.jp/magazines/mamor/

その際、例の「船橋焚書事件・2001」--船橋市西図書館における司書・土橋悦子(元日本国際児童書評議会理事!)が保守系の図書・雑誌100点以上を不適切に廃棄処分していたことが発覚し、最高裁から損害賠償・慰謝料請求の命令が下された事件--のような、リベラル派による不埒な行いがなされないか、保守系の市民・教職員(←あっ、日本では7割を超える市民が保守派なのだからここは、単に「市民・教職員」と書いてもいいのですよね。)が監視するアフタ-ケアーやメンテナンスも必要なの、鴨。子供達のためには。孰れにせよ、

∠(^◇^)/・・・日本の<子供達>のために、共に闘わん!








 


▽日本の英語教育は駄目なのか、
 --駄目だとすれば、なぜ、駄目なのか

>中学・高校で6年間も英語を学んでいるのに大部分の高校新卒者が
>簡単な英会話もできないのは英語教育が間違っているからではないか

問題はやはりここ、鴨。それは、上のような主張をされる論者が、その所謂「簡単な英会話」なるもので、どのようなこと/どの程度のことを英語のオーラルでできることと考えておられるか自体に、実は、初歩的な/致命的な(crucial or critical)「英語力」に関する誤解があるのではないかということ。蓋し、「中学・高校で6年間も英語を学んでいるのに大部分の高校新卒者が簡単な英会話もできないのは英語教育が間違っているからだ」という認識は間違っています。考えてみてください。英語が中学・高校で通算何時間教えられているかを。

平均的な公立校では(「1時間」=50分)、中学校では年間105時間、3年間で315時間。高校では175時間、3年間で525時間(中高一貫の名門校では630時間~780時間)。これを年35週に振り分けて提供している(しかも、あの「ゆとり教育」の時代には中学・高校で学ぶべき単語数は最大2200語に減らされていたのです!)。

而して、--少人数のグループ形式にせよ一斉授業形式にせよ、要は、50分のなかで一人の生徒が発話応答できる自分の(exclusively, my own)時間は「5人のグループレッスンだとしても平均10分にしかならない」ことは度外視するとしても、なぜならば、一斉授業形式は、自分より優れている/劣っている仲間の応答を見聞きすることで自分だけの個人レッスンよりも理解が深まる利点は侮れないですからね--中学・高校の6年間の学習とは840時間、すなわち、アメリカのESLコース(例えば、6時間レッスン)に換算すれば140日、要は、半年足らずの研修なのです。

例えば、カリフォ-ルニアやニューイングランドでの6カ月のESL研修で身につく英会話力が「簡単な英会話」ができるスキルであるかどうかは置いておくとしても、その6カ月のESL研修の、しかも、その「6カ月」を「6年間」に12倍に希釈して行われる研修に相当するものが。加之、アルファベットの識別もまだ怪しいメンバーもいる<子供達>に対して、肯定文と疑問文と感嘆文のイントネーションの特徴、可算名詞と不可算名詞の区別(≒定冠詞と不定冠詞の区別)、be動詞の人称変化・時制変化、あるいは、三単現の「s」から始まる840時間の英語研修。「簡単な英会話」なるものをどのようなものと論者が理解されていようと、この<840>で、そのようなスキルを、かつ、ほとんどの<子供達>が研修納期の高校卒業時に身につけることができるようになるのは難しいのではありますまいか、ありますまいか。

蓋し、--冒頭に書いた「保守派の日本人と日本市民にとって英語力は死活的に重要になってきている」という認識と表裏一体の現実として、現在でも、しかし、大部分の日本人にとっては生活の糧を得るために英語力が必ずしもマストではない状況、要は、英語スキル習得のモティベーションが必ずしも高い<子供達>ばかりではなく、よって、研修に向けたマインドセットが整っているとは言えない<子供達>が少なくない状況を鑑みるとき--この840時間だけで「大部分の高校新卒者が簡単な英会話ができる」ようになるとすればそれは奇蹟に近く、ならば、そうなっていないのは日本の「英語教育が間違っているからだ」考えるのは、100円もってマック(←関西では「マクド」)に行ってフレンチのフルコースが注文できないのはおかしいと思うのと同じくらいおかしい認識ではないでしょうか。



現在、保守派の日本人と日本市民の子供達に求められている英語力とは英語でのコミュニケーション能力のことである。この主張や認識を是認するとしても、しかし、コミュニケーションツールとしての英語なるものは、結局、--もちろん、音声面を加味した上でではありますが--文法・構文・語彙の<情報>以外には存在しない。この認識が日本の英語教育に批判的な多くの識者(笑)に欠けているのではないか。と、私はそう考えます。

畢竟、所謂「受験英語」なるものは「入学選抜ツール仕様」に組み立てられた、しかし、普通の英語にすぎないのです。而して、この経緯は大なり小なり、TOEICでもTOEFLでもIELTSでも、SATでもACTでも国際バカロレアでも、GMATでもGREでもLSATでも、あるいは、プレゼンテーションやパブリックスピーキング、ビジネスライティング、そしてなにより英会話なるもの自体において扱われる「普通の英語」の加工作業と全くかわらない。

これまた簡単な話であって、例えば、英会話ができないというケースのほとんどはリスニング能力の不足がその原因であり--会話とは言葉を使った「キャッチボール」なのですから、相手の投げた球を捕れなければその段階でゲームセットになるということ--、そのリスニング能力の不足とは、音声の形式をとった、語彙力・構文の知識、そして、文法の知識の不足なのです。ならば、畢竟、「文法=答辞論」を、(a)語の配列のルール、および、(b)語の変化のルールの総体と捉えるとき、文法と無縁な英会話などがこの世に存在しえないことは明らかではないでしょうか。

敷衍します。例えば、あの新宿駅西口の雑踏(呆)の中でも、英語のネーティブスピーカーが英語アナウンスをなんなくを聞き取れるのはなぜか。また、凄まじいあの中央線快速の満員電車(怒)の中でも、彼等が欧米のインテリさん向けの英語雑誌なんかも斜め読みできるのはなぜか。はい、その理由はただ一つ。それは、彼等の、①--音声の形態をも含む--語彙力と、②「今聞こえている/今見ているセンテンス・フレーズ・語の次にどんな<球:センテンス・フレーズ・語>が来るか予想できる」能力--そう、「さっきが内角高めのストレート、その前が外角高めのすっぽぬけのくそボールやったさかい、次は外や、それも低め、ストライクゾーンぎりぎりボール気味のツーシームや、間違いあらへん」てな予測する力--があることです。で、あのー、これって(もちろん、語彙の音声面をも含むものの)「単語「構文」「文法」の<知識>の優位性そのものではないでしょうか。そうではありますまいか。

 

・鳥飼玖美子『TOEFL・TOEICと日本人の英語力』
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/4cb2bf2c2ab2f76d99b6471ea4890ac0

 


検算。大事なことなので検算しておきます。私の上の主張に対しては、「確かに、どんな英語も--「このセンテンス/フレーズは非文である」という判定を含めて--文法的に説明可能なのでしょう。けれども、例えば、日本人が日本語を使うとき、この語句は「サ行変格活用だ」とか「間投助詞の敬語的用法かも」とかいちいち考えていないのと同様、文法的な知識とは位相を異にする、別位相でのコミュニケーションスキルは存在するのではありませんか。そして、もしそうならば、あるべき英語教育も、もちろん、文法的知識と無縁ではないにしても、逆に、文法・構文・語彙に英語教育を特化したり、それらに傾斜配分することが正当化されるわけではないのではないですか」、という反論を予想します。このような反論は、自分が英語を話せなかった頃をきっぱり忘れている、英語が好きで好きでたまらなかったかっての少年/少女系の論者にまま見られるもの。でもね、ですけれども、所謂「言語習得の臨界期仮説:critical period hypothesis」を前提にするにせよしないにせよ、ある自然言語(a certain Natural Language)のネーティブスピーカー(NS:NS of a certain language)とノンネーティブ(non-NS:non-NS of the language)の差違を看過した謬論にすぎない。と、そう私は考えます。

チョムスキーの生成文法論パラダイムとの関連はここではパスさせていただきますが、(α)自分の内面世界とは本質的に疎遠なある言語を--すなわち、「意識とはなにものかに対する意識である=自分の意識は言語の形式でしか自己に認識されえない」というフッサールの「志向性」の概念が喝破した経緯、換言すれば、自己の意識を形成する母語、換言すれば、自己の内面世界を形成している言語ではない非母語を--、かつ、(β)大人が真面目に議論するに値する内容を盛り込んだ主張・認識・情報をやり取りできる程度にまで、(γ)どう遅くとも10歳以上の生身の人間が、(Δ)母語に加えて習得しようとする場合(「学習」ではなく「習得」に限ったとしても:not learning but acquisition)、文法的な知識は不可欠だろうからです(★)。

★註:コミュニケーションスキルとしての英語力の精髄--文法力の風景

例えば、もちろん、池袋や錦糸町で屯する、偏差値50以下の下位校や40以下の底辺校の女子高校生でも、おそらく、日本語は話せる、多分。なんとか頑張れば新聞の社会面くらいは読んで理解できるかもしれない、少し不安。けれども、そう、「講談社現代新書1冊、①どれでもいいから1冊読んで、②内容を要約して、③aその書籍が論じていたイシューに対する自分の意見を、③b根拠を添えて、④400字原稿用紙2枚にまとめなさい、⑤作成制限時間は講読時間は除き45分」という課題を与える場合、その悲惨な結果は言うまでもないでしょう。まして、いわんや、30未満の最底辺校の子供達の場合にはほとんど<冗談>か<前衛劇>か<朝日新聞の社説>的の光景が展開されることは確実ですから。

他方、例えば、アメリカでアメリカ人の学部学生が、彼女や彼が自国のMBAやJDプログラム(ロースクール)に進みビジネスや政治の世界で活躍しようとする場合、--名門のプレップスクールやボーディングスクールの卒業生、あるいは、「ディーンズリスト、ごっさんす、うす!」常習の優秀な学生というわけでもないのならば--英語のNSの彼等も英語に関する(a)語の配列のルール、および、(b)語の変化のルールを、『これでばっちり! MBA Topスクール合格虎の巻』(←このタイトル名は「イメージ」です)とかのテキストを使って<学習>しなおしているのですから。





▽検算-敷衍
換言敷衍します。お気づきになられた読者の方も多いと思いますけれど、上で述べた反論と私の再反論には、「英語の教育の目標→英語教育の目的」に関して異なるレベルのものが含まれています。逆に言えば、それは、高校新卒者の大部分ができないとかいう「簡単な英会話」ということの意味を巡る認識の違いでもある。

(甲)簡単な英会話ができるようになる
(乙)ビジネスシーンで主張・認識・情報をやり取りできるようになる

日本の英語教育に批判的な識者(笑)の多くは、暗黙裏に、(a)「原則、すべての高校卒業生」が、(b1or2)(甲)なり(乙)を達成することを目標と考えておられるように思います。けれども、私は、「すべての生徒がどんな科目でも満点取れるポテンシャルを持っている」などという--彼等も今現在は流石に公言はしていませんが、昔は広言して毫も憚らなかった--日教組・全教の「教師を詐称する教育を放棄した反日活動家」が<条理>と称していた教育論の基盤的前提を否定します。すなわち、「英語教育」、否、学部以上の高等教育のみならず、初等中等教育においても、<子供達>の適性と希望、その家庭やスポンサーの意向と方針を尊重しつつ、英語を学びたい<子供達>、換言すれば、<英語力を武器に将来世過ぎ身過ぎしたいと考える子供達>と、そうではない<子供達>とでは達成目標は違ってしかるべきである。と、そう考えているということ。何を言いたいのか、それは、例えば、

>灘・櫻蔭・武蔵等ではない普通の進学校から東大理Ⅲに現役で合格するような生徒
>「高校に合格したらなんでも買ってやる」という親との約束に俄然奮起、そいでもって、
 優秀な家庭教師を目一杯つけてもらい1年頑張ったけど、底辺校しか合格できなかった生徒

>曾祖父の代から親族で東大卒・京大卒・防衛大卒でないメンバーはいない、
 かつ、自分は、商社か銀行か、中央官僚を真剣に目指している生徒
>祖父の代から親族メンバーは鳶か任侠・神農系の仕事を生業とされており、
 刺青アトリエか小料理屋のどちらかの家業を継ぐことを熱望。いずれにせよ、将来のため、
 高校卒業後は鳶か佐官の見習(an apprentice)、神楽坂の老舗和食厨房で働くつもりの生徒

・全国学力テスト結果の非公表には「盗人の三分の理」さえない
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a715b9011208afc6f22a800a0e088731

これらの目も眩まんばかりの多様さの乱舞が現実でしょうよ、ということ。これら、能力の軸と志望進路の両軸において--更には、「進路選択決定」判断のデッドラインを中学2年の夏休み明けくらいには置いている家庭と子供達、高校卒業後2~3年の内に決めればいいんでないの、と考えている家庭と子供達の存在と分布。そういう分布が形成する第三の軸を加えれば、その<青春の三次元空間>において--<子供達>は神々しいほど多様である。ならば、英米や印度・露西亜、また、戦前といわず昭和もルーズソックス(←「loose socks」は和製英語、本当は「boot socks」。ちなみに/loose/は「るー」ですからね!)がはやり始める1990年頃までの昭和の日本の如き、「有限なる人間存在」という人間性の本性を踏まえる健全な社会ではない、英米を除く世界のリベラルな「先進国」という名の、その社会が各々の子供達の進路を責任をもって決めるのではない社会、すなわち、リベラリズムの欺瞞に満ちた国や地域は、この目も眩まんばかりの多様と有限なる人間存在という現実、換言すれば、人間の現存在性が見えていない社会ともいえる。それは、「危機に際して砂に頭を入れることでその場をすごそうとする駝鳥」の如き薄っぺらな社会なの、鴨。蓋し、畢竟、

б(≧◇≦)ノ ・・・単一・均一な研修目標を設定すること自体が、
б(≧◇≦)ノ ・・・<子供達>、否、人間性の本性と相容れない前提ではないのか!

ということです。この私の認識と主張。換言すれば--現在の「習熟度別研修」という、謂わば「目標は均一ながらそこに至る研修プロセスを多様化」する綺麗事の詐術ではない--、「目標自体を多様化することの提言」。これは戦後の本格的な英語教育論争の先駆けとなった、「渡部昇一 vs. 平泉渉」論争(『英語教育大論争』(文藝春秋・1975), cf. 鳥飼玖美子『英語教育論争から考える』(みすず書房・2014))の両先生が共に前提とする、その論争の基盤となる前提的な主張でした。而して、実は、--教育課程審議会答申(1987)、高等学校学習指導要領(1989)、そして、中央教育審議会の第一次答申(1996)自体が、戦後初めて「すべての生徒はどんな科目でも満点取れるポテンシャルを持っている」という妄想を打破したものだから--「ゆとり教育」路線にも、ある意味、もちろん良い意味での、このような<差別化-個性化>の哲学が含まれていたはずなのです。しかし、・・・。

現場にそれが降ろされた段階では、しかし、日教組・全教の「教師を詐称する教育を放棄した反日活動家」や「船橋西図書館で焚書事件をしでかした土橋悦子の如きリベラル司書」の抵抗だけではなく、「我が子にだけは高いレベルの教育を与えて欲しい」という--これは、あの英語嫌いのフランスでも、ほとんどの親は我が子にだけは英語をしっかり教えて欲しいと訴えるくらいですから、これを「エゴ」と評するのは不遜であり、それは人の親として当然の欲求・要求なのでしょう--、保護者からのその要求のパトスが強烈だったこともあり無理だった。よって、「ゆとり教育」路線もその哲学が目指した、<平等妄想>と<均一の前提>の粉砕はできなかった。

而して、2002年の学習指導要領は総花的な八方美人さんになってしまい、結局、それは、左右両翼から不人気な、単なる「スカスカのカリキュラム」の設計図になった。それは、英語に飢えている子供達には圧倒的に物足りない。他方、英語に関心のない子供達にはあいかわらず無味乾燥で、しかもご丁寧に、将来、彼等が英語に関心を持ったとき/英語力をつける必要が生じたときに、彼等が「英語再出発」するための<原資=財産>になるべき、文法・構文・語彙という英語の基礎基本の紹介が芸術的なくらいに削られた--軽めの英会話体験レッスンもどきの、誰にとっても無駄な something の--レシピになったのだと思います。

これらの認識は、私の、保守派の英語教育屋さん(笑)の印象論的言いたい放題ではないです、多分。実際、--例えば、端的には「公文式メソッド」、より実践的には東進ハイスクール・東進衛星予備校、あるいは河合塾さんが定式化している「学習諸項目間の連関関係図表」を踏まえるならば、例えば、--名詞節を導く接続詞のthatを理解できていない英語の非母語話者(non-NS)に、前節全体を先行詞(先行節)とする関係代名詞whichの非制限用法や二重関係代名詞の機能を理解してもらうなどは、不可能ではないにせよ、ものすごく無駄で滑稽な営為であることは自明でしょう。

あるいは、英語のシラブル型音節とは違い日本語の音声は手拍子の如きモーラ型音節で構成されていること。この音韻・音声の差違構造の基本に関する認識が欠落している段階での「英会話」研修は、だから、よくて、2~3センテンス単位の英文をそれなりには発声できるようになる、九官鳥さんや鸚鵡さん用のレッスン、人間用としては英語の楽曲をカラオケで上手に唄えるようになるための準備でしかないこともまた自明であろうと思います(★)。

ことほど左様に、英語の基礎基本の展示紹介と同時並行的に、自己紹介/他己紹介、道案内、お買い物の際の応答から始まって、よくて、旧センター試験や英検2級程度の内容の会話文を題材に--NSのALTが同席するにせよしないにせよ、しかも、各生徒の持ち時間は最大10分のレッスンを--6年間かけて840回やったところで、それが、原理的には、読み・聞き・話し・書く(+唄う!)の全技能に関して、かつ、誰にとっても--そう、教育力の高い家庭の子女や本人が英語に関心があり「自習歓迎!」「隙間時間&フレックス下校上等!」の生徒にとってさえも--非効率な研修でしかないことは明らかではないでしょうか。

★註:英語と日本語の違い-音としての言葉

あらゆる自然言語(any Natural Language)は--極論すれば「手話」でさえ--、その本体は音声でありその本質は(とりあえず、ソシュールの言う意味での)差異(化)のシステムです。而して、日本語では、音節は原則、開音節。つまり、日本語の音節は、「V:/あ/い/う/え/お/」、あるいは、「CV:/な/か/じ/ま/み/ゆ/き/」という、いずれも最後に母音(V)が来る「音節=音の単位」でなりたっている。また、その音節は同一の時間(拍:mora)で発声され、よって、必然的にそのアクセントも高低型。

対して、英語はシラブル型音節(syllable)でなりたっている。つまり、音節、要は、1個の母音・母音的に振る舞う「/l/m/n/r/」の如き音節主音的の子音を核にした音の単位自体に、日本語の「V:母音」「CV:子音+母音」のみならず、「VC:母音+子音」「CVC:子音+母音+子音」の閉音節が加わる(更に、「oven:VCC」「stove:CCVC」「desk:CVCC」「street:CCCVC」等々、「CV」「VC」「CVC」の中の「C」も最大3個のCでもって構成されることもある)。よって、必然的に、英語の1音節(one syllable)が発声される時間の間隔も異なってくるし、ならば、そのアクセントも--話者の気分や文体価を表示する「高低」はもちろん存在するけれど、原則、就中、ワンワード単位では--、大凡、強弱型(強勢型-音の大きさと音の長さによる強調)になっていること。

これらのことを頭と体の双方で<体得>できていない段階で、100ワード前後の情報内容を英語として発声する研修などは全く非効率。ならば、実は、--鸚鵡さんや九官鳥さんほどではなくとも、流石、万物の霊長(?)、人間なんですから私たち保守派の市民とその<子供達>は、だから私達にとっても--例えば、あの「L」と「R」音の違い(/l/と/r/の違い)などは、LondonとRome、Los AngelsとOregonをナチュラルな英語音源に倣って100回繰り返せば比較的容易に使い分けでき始めるものだし、典型的な「連結:liaison」「脱落:elision」「同化:assimilation」パターンの模倣もこれと同様なのですが(だって、八王子でも町田でも、下位校や底辺校の高校生が洋楽曲を横田基地や座間基地の米軍のみなさんと同じくらい上手に唄ってますから!)、只管打坐的な、あるいは、念仏三昧的な、ただひたすら英語風音声を繰り返し発話するがごとき研修は資源と青春のシュールな無駄遣いでしかないのだと思います。


ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿





<続く>


プロフィール

KABU

Author:KABU
大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
yahoo版のミラーブログ。
2007年9月10日以降の新記事を随時、厳選した過去の自薦稿を漸次アップロードしていきます♪

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