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>国際社会

例えば、朝日新聞はその社説(2017年1月21日)
でこう述べています(下線はKABUによるもの)。

◆トランプ氏と世界 自由社会の秩序を守れ
「自由な選挙、言論や信教の自由、政治的抑圧からの自由」
戦争の惨禍の記憶も鮮明な1947年3月、トルーマン米大統領は議会演説で、米国が守るべき価値観を挙げ、宣言した。

「自由な人々の抵抗を支援する。それこそ米国の政策だ」
「共産主義封じ込め」をうたったトルーマン・ドクトリンである。・・・

いらい米国は自由や民主主義の「守護者」としての求心力を強めていく。同盟関係が結ばれ、米国を軸とした国際秩序が築かれた。それから70年。新大統領のドナルド・トランプ氏は「アメリカ・ファースト(米国第一主義)」を掲げている。「偉大な米国の復活」は、国際秩序と一線を画す孤立主義への回帰なのか。大国としての責任を担い続ける覚悟はあるのか。しっかりと見極めたい。・・・

■あやうい取引の政治
実業家としての経験からトランプ氏は取引(ディール)の巧者を自負する。かけひきを駆使し、手の内を明かさず、相手を出し抜く。だが外交交渉は、商取引とは別物だ。自国の最大利益が目標だとしても、相手国への配慮や、国際社会の一員として守るべき原則を尊重する姿勢が欠かせない。懸念すべきは、トランプ氏が普遍的な理念や原則まで、交渉を有利に進める「取引材料」と扱いかねないことだ。・・・

だが、共通の利益で長年結ばれてきたパートナー【離脱を決めた英国以外のEU諸国】を軽んじる姿勢は、米国が築き上げてきた国際秩序への自傷行為にほかならない。長い目で見れば、米国の利益を損なうことをトランプ氏は悟らねばならない。・・・

■民主主義を立て直す
一方、国際合意や歴史的経緯への認識を欠く言葉は、すでに世界に混乱を広げている。「一つの中国」を疑問視するトランプ氏の発言に対する中国の反発の矛先は、米国より先に台湾に向かう恐れがある。疑心暗鬼は予期せぬ過剰反応を誘発する。・・・

いま一度、思い起こしたい。金融業界との癒着やロビイストの影響力にまみれたエリート政治の打破こそ、有権者がトランプ氏にかけた期待ではなかったか。政界アウトサイダーとしての改革をめざすのならば、政治扇動の発信よりも、分け隔てない国民各層との対話で分断の克服に努めるべきだろう。・・・

偏見や対立をあおる虚言を排し、多様で寛容な言論空間を再生するのはメディアや市民社会の役目だ。トランプ氏の米国が孤立主義の殻に閉じこもらないよう、同盟国や友好国は今こそ関与を強める必要がある。民主主義と自由の価値観の担い手として、日本が果たせる役割も大きい。自由社会の秩序をどう守り育てていくか。米国に任せきりにせず、国際社会が能動的にかかわる覚悟が問われている。(引用終了)


本稿は学術的な考察を行おうとするものではありませんので、議論を先にすすめるべく、
一応、間違いではないよなと感じたWikiの記事をコピペしておきます(下線はKABUによるもの)。

▼International community
The international community is a phrase used in geopolitics and international relations to refer to a broad group of people and governments of the world. The term is typically used to imply the existence of a common point of view towards such matters as specific issues of human rights. Activists, politicians, and commentators often use the term in calling for action to be taken; e.g., action against what is in their opinion political repression in a target country.

The term is commonly used to imply legitimacy and consensus for a point of view on a disputed issue; e.g., to enhance the credibility of a majority vote in the United Nations General Assembly.

Criticism
Noam Chomsky alleges that the use of the term is used to refer to the United States and its allies and client states, as well as allies in the media of those states. The scholar and academic Martin Jacques says: "We all know what is meant by the term 'international community', don't we? It's the west, of course, nothing more, nothing less. Using the term 'international community' is a way of dignifying the west, of globalising it, of making it sound more respectable, more neutral and high-faluting."Chomsky alleges that the phrase international community really means the U.S. government, which is even more of a limited scope than the Western Hemisphere and the United States of America.

念のために日本語の方も。
ただ、日本語のWikiの記述は「英文の訳」なのだろうけれど正直わたしには意味不明です。
蓋し、チョムスキーとMartin Jacquesのこの用語に対する斜に構えた批判的解釈は、かって、
サルトルが「ノーベル賞は西側の価値観を権威づけ、それを東側にも押し付けようとするプロジェクトだ」とかなんとか呟いてノーベル文学賞を辞退した際の心性と感覚と通底しているもの、鴨です。

▼国際社会
国際社会(International community)は、世界の政府および人々のおおまかなグループのことであり、 国際関係について使われるフレーズである。 概して、特定の人権問題などについての共通の視点の存在を、暗に意味するために、使われる。 活動家、政治家、コメンテーターはしばしば、この言葉を使って、必要なアクションを求める。 例えば、対象国での政治的抑圧であるとされている事に対して使われる。

この言葉は一般に、論争点についての一致した「視点=コンセンサス」を暗示するために使われる。例えば、国際連合総会での多数票の信用性を高めるために使われる。

批判の例
ノーム・チョムスキー はこの言葉の用途について、アメリカ合衆国とその従属国と同盟国を意味すると、記した 。 学者であるMartin Jacquesは、「我々は皆『国際社会』という言葉が意味するものを知っているはずだ。それは当然、西洋のことで、それ以上でも、それ以下でもない。『国際社会』という言葉を使うのは、西洋に威厳を付け、世界的なものとし、より立派に聞こえるようにし、より中立で、他より優越しているとする、方法だ。」と言っている。

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さて、ここからが本論。要は、

>「国際社会」というものはなんらかの実体なのか、それとも、
>それは単なる現象を論者が認識する枠組みとしての「道具概念」なのか

また、「国際社会」なるものは、

>そこでなにがしかの規範が妥当するタイプの<国家等の主体が形成する社会>なのか
>それとも、単に現象としての--戦争や貿易や難民の移動を含む--人間の諸活動が展開されている時空間にすぎないのか/人類史のある時間と地域を区切った「時空的の舞台」にすぎないのか

簡単な話です。そのメンバーがどんなにお転婆とやんちゃ坊主な子供達ばかりであろうと--また、担任の先生のオーバールール的指導がありうるとしても--小学校2年生のクラスで「生き物係り」とか「給食当番」を決める場面を想定すれば、その「クラスは「社会」といえるでしょう。そこでの決定が--それに自分が反対であるにせよ賛成であるにせよ--自分をも法的に拘束するのですから

ここで、その決定に従わず、給食当番をしない蓮舫さんや、生き物係りなのにウサギちゃんに食事も水も世話しない鳩山君がいるかもしれないこととこの「法的拘束力」の存否は一応別問題であり、よって、このクラスが社会であるという認識を否定する根拠にはなりません。畢竟、これこそが新カント派が打ち立てた「存在と当為」「事実と規範」の方法二元論の正しい帰結でしょうから、為念。

また、シルクロードの東西の--奴隷や戦士、花嫁や僧侶、戦士や労働力を含む--物産の流通を想起するとき。いや、それどころか、縄文期に遡る長野県の和田峠産の黒曜石が広くシベリアや樺太からも発掘されることなどを考える場合、物品と情報の相互流通のシステムが事実上成立していたことをもってそこに「社会」もまた成立していたとは単純に言えないでしょう。ならば、あくまでも「国際社会」なるものが「社会」であるかどうかは規範の顕微鏡と--なんらかの言語ゲームを抽出する--望遠鏡で観察した結果によって判断するしかないのではないかと考えます。ことほどさように、

では、上で朝日新聞の述べる「国際社会」なるものはこの法的拘束力の存否の観点から見て
「社会」と言えるでしょうか。結論から先に書けば、それは「Yes/No」だと思います。

国際法理論でもこの基本的な問題領域--国際法の概念論--で現在も最有力の論者である、ハンス・ケルゼンは、概略こう述べています(ご興味のある方は、ケルゼンが素人のしかし知的能力の高い読者を想定して、しかも、英語で書き直した『法と国家』(東京大学出版会・1969年7月)のご一読をおすすめします)。

1)法とはそれが定める規範の逸脱に対して公的な制裁を伴う規範体系である
2)ところで、国家間において侵略行為--あるいは締結した条約の違反--に対しては、国連の発足以降も、「制裁=個別的と集団的の自衛戦争」が認められ/「制裁の戦争」が実際しばしば行われている

3)もちろん、主権国家はいつでも条約を破棄することも認められる。けれども、
4)この「破棄行為」は破棄以前に行われた侵略行為や条約違反に対する制裁の効力を原則消滅させない

5)また、侵略行為に対しては必ずしも--例えば、現在、アメリカにリヒテンシュタインやモナコが制裁戦争の宣戦布告をするなどは誰も期待も予想もしないでしょうから--制裁が現実に採られるわけでないことは、国際法なるものの法的性格を毀損するものではなく、寧ろ、皮肉ではなくそれが自然科学的な法則ではなく法規範であることの証左でさえある
6)日々この日本で凄惨な殺人事件が発生していようとも、「人を殺してはなりませぬ」→「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」(刑法199条)という規範が存在しないと考える人は少ないだろうこととこの経緯はパラレルだから(→上の「生き物係り」「給食当番」と蓮舫および鳩山のケースもこれとパラレル)

7)ならば、国際法と呼ばれる規範は--多くの先進国の国内法ほどの体系性を保有してはおらず、また、その実効性にも妥当性にも脆弱な側面があることは自明だけれども--まちがいなく、
法学的な意味での「法」と言える、と。

【参考-Article 51 of the UN Charter】
Article 51:
Nothing in the present Charter shall impair the inherent right of collective or individual self-defense if an armed attack occurs against a member of the United Nations, until the Security Council has taken the measures necessary to maintain international peace and security. Measures taken by members in exercise of this right of self-defense shall be immediately reported to the Security Council and shall not in any way affect the authority and responsibility of the Security Council under the present Charter to take at any time such action as it deems necessary in order to maintain or restore international peace and security.

国際連合憲章51条:
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

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而して、本稿の問題の中心は、国際法もまた「法」であるといえることから、果たして、
リベラル派が呪文のようにとなえる「国際社会」とか「国際社会の総意」とかのタームもまた
なんらか意義のあるものと言えるのかどうかになろうと思います。繰り返しますが、すなわち、

>「国際社会」なるものは法的拘束力の存否の観点から見て「社会」と言えるのか

ということが問題の核心ではないか。と、そう私は考えます。なぜならば、ケルゼンもそれを他著で、逆に、大いに力説しているのですけれども、すべからく基盤となる<法の共同体>を欠くような人間の集団には、法は成立しえない。ならば、結論先取りでここで書いておけば、

(Ⅰ)ある国内法体系を「主権国家の法体系」と認定するルールというかシステム
(Ⅱ)侵略行為に対する自衛戦争を正当な制裁と認定するルールというかシステム

としては国際法は「法」であり、その基盤となる<法の共同体>を「国際社会」と呼ぶのならば、
その「国際社会」なるものは法的拘束力の存否の観点から見て「社会」と言えるのだと思います(Yes.)

しかし、文化帝国主義の香しいEUや国連人権理事会などに屯する、また、そやつらと気脈を通じている万国のリベラル派が、それも国際法の規範内容だとか強弁する、例えば、

「死刑廃止」「夫婦別姓の廃止」「国民代表=国会議員に占める男女比の同一化」「性的少数者の権利拡充」「皇室の男系主義の廃止」「サウジアラビア等々での性的少数者に対する鞭打ちや石打ちの刑罰の廃止」

「捕鯨の禁止」「若年女性が--家内奴隷のごとく--取引される慣習の廃止」「結婚までの女性器の縫合の禁止」「美人コンテストの廃止」「ベジタリアンの推奨に毛皮取引の禁止」「女子教育の推奨」「嫁の持参金制度の廃止」

「難民の受け入れの拡大」「外国人への参政権、少なくとも地方自治レベルの参政権の拡大」「タバコの廃止」「複数の言語を公用語とすること、少なくとも、初等中等教育での子供たちの母語の尊重」「フェァトレードの標準化」「資金の海外流出と節税対策の無効化」「少年犯罪の非犯罪化」「ヘイトスピーチの罰則による抑制」・・・・・・・

などが、国際法と呼ばれるに値する法規範であるのかどうか、あるいは、同じことの裏面ですけれども、そのような規範に妥当性と実効性を与える<法共同体>が現在の人類史においてこの惑星上に成立しているのかどうか。

この点に関しては、わたしは、これらのリベラル派の願望のその基盤となる<ある共同体>を「国際社会」と呼ぶのならば、そのような「国際社会」なるものは法的拘束力の存否の観点から見て「社会」とは到底言えないだろうと思います(No.)

結論としては「国際社会」とはある面で確かに成立しているけれども、リベラル派が言い募る「国際社会の常識」なり「国際社会の総意」なるものの内容は、彼等が彼等の私的な美意識と価値体系から「国際社会」に密輸したまがい物にすぎないのだろう。而して、そのような「常識-総意」と対応する--その基盤となる共同体という意味でならば--そのようなリベラルな「国際社会」などは金輪際成立などしていない。と、そう私は考えます。

・国連は「主体」ではなく「舞台」です
:国連人権委員会の正体 国連は日本を非難しないと出世しない組織 (追補あり)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/281ecc781b65365010ebbc819dc71016

・言論の自由を市民の手に取り戻せ:日本の(リベラル)ジャーナリズムは不要、否、有害だ!
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c7d0b8a081d2c153a9331218334039f6
 
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蛇足ながら、というか少し長い補足註になりますが最後に自家記事をここで転記させてください。
それは「法と国家」および「国内法と国際法」に関する確認。

・英語教材として読む安倍談話-余滴-「法と国家」の語源譚的随想(中)(下)
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/49dcf02c7daea288a9d74edd97f6af41
 
◆註:「法と国家」および「国内法と国際法」の関係について
基盤となる<共同体>を欠く、国際法が--国際法の存在形式、国際法の一般法は慣習的法であることとは裏腹に--慣習法的な事柄、例えば、「法の支配」の理念であるとか、--文化帝国主義のフランス流のそれではない、中庸を得た--英米流の「立憲主義」であるとかとは無縁であることも明らかだと思います。要は、国際法は慣習的法ではあるが厳密な意味での慣習法ではないということ。

>英米の国内法の本性・・==>慣習法
>国際法一般法の本性・・==>慣習的法

而して、日本では--憲法と国際法が同一の事態に適用される場合、かつ、両者の内容に矛盾があるときにどちらの規範が勝か(行政機関の行為規範と裁判規範として採用されるか)の問題、所謂「国際法優位説」「国内法優位説」「国際法と国内法の二元論」を巡る議論がかなり誤解されていると感じるので、ここでも書いておきます。

◎国内法の効力に関する諸説
(α1)一元論-国際法優位説
(α2)一元論-国内法優位説
(β0)二元論-国際法と国内法の無関係的二本立て説

これはですね、あくまでも、法の効力--妥当性と実効性--を巡る議論であって、どちらに属する法規範が、ある事態や事例に関して勝か負けるかとは無関係な議論なのです。わかりますか? 要は、例えば、子供の教育権なるものの内容についてある国際法(日本の締結・批准している条約)と日本の法律が(憲法は当然のことです)抵触するように見える場合、どちらの規範が勝か負けるかは、そのある国の国内法、究極的には憲法で定めればよいだけの話なのです。

また、その国内法が「このままでは負けそう!」なとき、その国の権限ある立法機関なり、時には内閣が、遡って/将来に向かってその「強そうな国際法規」を破棄することも自由。なんで自由かと言えば、それが、現在に至る国際法のルールだからです。

えっ、じゃ、「法の効力を巡る議論」てなに? と、思っている方もおられる、鴨(笑)。はい、お答えします。それは、日本の国内法体系が「法として人々を従わせる力」を持っていることの理由・説明についての議論なのです。法の効力は、一般に、①妥当性、②実効性のふたつに分けて法哲学研究者は考えますが、ここでは専ら、前者の①の内容の一部分。

蓋し、①のなかに、「現在の人類史の状況を眺めるとき、国際法体系が成立しており、ある国家の国内法体系がその領土内でその国民に対して効力を持つのは、その国際法体系から認められているからですよ。任侠・神農系の世界の言葉で言えば「杯」をもらっているからですよ」という説明が、満更、筋悪ではないよね、ということ。簡単な話、誤解を恐れずに換言すれば、
↓ ↓ ↓
イェリネックの国家の--国民・領土・主権の3要素による--定義の中の「主権-統治権」(他国に対しては対等独立、国内にあっては最高唯一の国家主権)の存否とは、他の大方の諸国がその国の主権を認めたかどうか--「主権国家」と認めたかどうか--で決まるということ。

この経緯を、法学的に<翻訳>すると、「国際法が国内法(憲法)の効力根拠」だということになるのです。この議論は、徹頭徹尾、「国内法の効力に関する議論-ある国が国かどうかを判定する基準に関する議論」ということ。だって、シリアのあの「イスラム国」なんか、ラーメン屋さんの屋号の「ラーメン大学」みたいなもので、どの国も、「国家」とは認めないでしょう。他方、われらが台湾は国連に加盟していなくとも支那がそれを激しく否定しようとも、国際政治と国際経済の現実の舞台ではどの国も--実は、支那でさえ!--「主権国家」と認めているでしょう。そのような経緯のことなのです。畢竟、このことが国際法(の実定法秩序体系)が国内法の効力根拠ということそのものなのです。


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【参考-イェリネック国家論の秀逸】
国家とは何か、国民たる<私>とはどのような存在なのか。イェリネック(1851-1911)の「国家の3要素」なるものとして人口に膾炙する定義によれば、国家とは領土・人民・権力を備えた社会集団のことらしい。今でも日本では、大体、どんな書物にもそう書いてある有名で陳腐な定義。けれども、イェリネック自身は、名詞の形容詞用法である「国家の:Staats」をそれぞれの項に添えた上で「国家:Staat」を説明して、

・国家的領土:Staatsgebiet
・国家的人民:Staatsvolk
・国家的権力:Staatsgewalt

を備えた自生性と人為性の相矛盾する二つの貌を持つ社会集団と考えていました(die mit ursprünglicher Herrschaftsmacht ausgegründet Körperschaft eines sesshaften Volkes:自生的あるいは正当な統治権力によってまとめあげられた一個の定住する人々を他から切り離す社会集団)。これ、でも同語反復ですよね。つまり、「国家」を定義するのに「国家の」という同一の概念を用いているから。ならば、それは無意味か。はい。微妙なところですが論理的にはそう言える、鴨。

けれど、逆に、ここにこそイェリネックのセンスのよさが一閃している。而して、それこそ、マルクス主義からのそれを含む19世紀-20世紀初頭の雨後の筍のごとく叢生した数多の国家論の中で、ケルゼンの法国家同一説--法体系と国家を同一と見る国家論--を除けばイェリネックの国家の定義だけが現在も生き残った理由ではないか。そう私は考えています。

すなわち、「国家」の概念規定などは不可能ということ。ならば、「国家の定義」は、このように統治権や国家的という観点からスタートする、ニワトリ玉子的に無限に続く螺旋的な思索--すなわち、間主観性を希求した行為としての思索--の過程で各論者が自分なりにイメージするしかないものだ、と。<国家>の定義は、論理的にはトートロジーであり無意味であるにしても、自己をある国家の一員と意識する<私>の間主観的な自己意識を媒介にすることなしには無意味どころか不可能である、と。
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<了>
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民主主義:
語源はギリシア語のdemokratiaで、demos(人民)とkratia(権力)とを結合したもの。すなわち、人民が権力を所有し、権力を自ら行使する立場をいう。古代ギリシアの都市国家に行われたものを初めとし、近世に至って市民革命を起こした欧米諸国に勃興。基本的人権・自由権・平等権あるいは多数決原理・法治主義などがその主たる属性であり、また、その実現が要請される。(広辞苑)



数少ない弊ブログのほとんどの読者の方は、「曼荼羅に織り込まれていた民主主義の暗号」とか「民主主義とは大日如来の隠喩だった」とかいう類のファンタジーが本稿で展開されるとは思われないでしょう。それが、超マイナーブログとはいえ「ブログの信用」というもの。そして、そんな読者の信頼が裏切られることはありません(笑)。

蓋し、ある言葉をどのような意味に使うかは、かなりの程度、論者の自由。けれども、冒頭に引用した広辞苑の定義を読み返すまでもなく、「民主主義」という言葉自体にはそれほど明確な「意味内容-指示対象」はないらしい。いずれにせよ、戦後の、文字通り、戦後民主主義の欺瞞に覆われていた頃の日本では、政治的にせよ社会的にせよリベラル派の観点から見て推奨されるべきことは「民主的」であり、逆に、家長制度や地主制度、あるいは、世襲議員や累進課税の緩和の如きは「非民主的」なものと断定されてきた節もあるから。

もちろん、前稿で展開した如く、「民主主義」という言葉にもそれなりの指示対象があるという前提に立った上で、歴史的かつ論理的な観点から「民主主義」を言語分析すればそれなりの具体的な意味内容は--「顕教的意味の民主主義」は--抽出可能であり了解可能ではある。而して、「顕教的意味の民主主義」の語義の裏面には、--<我々>以外の他者を排除し殲滅し尽くしてやまないテロルの思想という意味での--デモクラシーのデモーニカルな相貌が織り込まれていた。

・民主主義--「民主主義」の顕教的意味
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62677500.html


本稿は、(α)「民主主義」という言葉にはそれほど明確な指示対象は存在しておらず、(β)「民主主義」とはある政治的支配体制を正当化する/批判するための諸々の概念や理念を恒常的かつ適宜生み出す所の--それ自体は無内容な--理念生産装置的の概念である。すなわち、(γ)「民主主義」とは現実政治の世界に<民主主義>を紡ぎ出し織り成す動因としてのあるタイプの世界観や人間観、なにより、社会観にほかならないという理解を基盤にすえたもの。畢竟、(α)~(γ)が本稿でいう「密教的意味の民主主義」ということです。



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◆リベラル派の密教的意味の民主主義
畢竟、「民主主義」あるいは「民主的」の語義がなぜかくも無内容なのか。このことの背景には「密教的意味の民主主義」とでも呼ぶほかない、ある特殊な人間観・社会観・世界観が「民主主義」の四文字に潜んでいるの、鴨。而して、それは、ルソー流の「社会契約論」の人間観・社会観・世界観にほかならない。と、そう私は考えるのです。すなわち、リベラル派は、就中、日本のリベラル派はこう考えているのではないか、と。

近代国家とは、個人の尊厳なる価値を保有している点では平等な人間が--よって、外観上はアトム化した個人が--、常に正しいとされる「一般意志」の具現を求めて締結した社会契約(Social Contract)が産みだしたものであり、よって、「一般意志」の実体的権利への翻訳である「天賦人権」を確保することが近代国家の唯一の存在理由である。

そして、英国の「議会制度-自由主義」が具現してきた「個別意志」および「全体意志」と、近代国家一般がその具現を目指すべき「一般意志」の差違を踏まえるとき、念の為、『社会契約論』の中の有名なフレーズを引用しておけば

「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いである。彼等が自由なのは、議員を選挙する間だけのことであって、議員が選ばれるや否や、イギリス人民は彼等の奴隷となり、無に帰してしまうのである。その選挙という自由な短期間の間に、彼等が自由をどのように行使しているかをみれば、彼等が自由を失うのも当然といえる」 (『社会契約論』第3編15章)

とするならば、「民主主義」という言葉は多義的で曖昧なのでも空虚でもなく、それは塵芥と汚濁にまみれた現実の政治社会に「一般意志-天賦人権」を具現する--「個別意志」と「全体意志」から自由と平等を抽出するための--論理的と思想的の回廊にほかならない、と。蓋し、このようなルソー流の人間観・社会観・世界観がリベラル派の懐く密教的意味の民主主義なの、鴨。


尚、密教的意味の民主主義をこう理解するとき
それは一種のグノーシス主義と言えるかもしれません。


グノーシス主義
1)二元論--至高者と汚濁にまみれた現実世界の断絶
2)至高者と世界をつなぐ啓示者の存在の確信
3)啓示者が与える知識の救済の手段としての重要性


すなわち、それは、「一般意志」と「全体意志」の断絶を踏まえた上で、常に正しい「一般意志」を社会のメンバーに示してくれる「立法者」の存在を確信するものであり、天賦人権を具現するためには「立法者」のアドバイスとサジェスチョンが死活的に重要と考える点で、ルソー流の「社会契約論」はグノーシス主義的な思弁である。と、そう私は考えています。


・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、
<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html

・憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する
「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61963692.html



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◆密教的意味の民主主義の神通力の正体と限界
テロルの思想であり全体主義の思想である民主主義が、現在、日本だけでなく世界でもポジティブな政治シンボルとされるに至った背景には、--直接的には、第二次世界大戦において連合国側がこの戦争を「民主主義と全体主義の戦い」と位置づけたプロパガンダ戦略に起因するにせよ--二つの事情が与して力あったの、鴨。それは、18世紀-19世紀における資本主義の離床化、および、19世紀-20世紀における大衆社会下の福祉国家の出現であろう。

前者において、契約の自由と所有権の不可侵を両輪としていた黎明期の資本主義にとって、その法的価値において均一なアトム化した個人という民主主義の人間観は整合的だったということ。また、後者については、普通選挙制度が具現した新たな騒々しくもがさつな風景を説明する上で民主主義の社会観は利用可能だったということです。

しかし、民主主義は--ロジックというかレトリックとしては「一般意志」よって「立法者」を媒介にするにせよ--人間と国家権力の万能感を志向するものであり、それは、--人間をアトムと看做すことは論者の勝手であるにせよ--人間が英語なり日本語なりのある特定の言語で思考する、よって、ある特定の文化と伝統に憑依された存在である点を文字通り捨象している。そして、結局、現実の政治の局面では国家一般なるものは存在せず、存在するものは独り「国民国家-民族国家」としての特定の主権国家でしかない現実を看過しない限り、論理的には等価にせよ、「アトム化した個人」と「ある特定の言語でもって思考する主権国家の国民」という人間観の、現実政治の局面での優劣は明らかに後者にある。グローバル化の昂進著しい現在こそそう言える。と、私はそう考えます。

加之、国家権力がおよそ社会のありとあらゆる行政サービスを担うことになった大衆社会下の福祉国家においては、行政サービスの正当性と妥当性を判断する専門家や専門知の比重もまた加速度的に増大した。すなわち、<我々>の認識や判断も専門家の力を借りなければ毫も判明するものではなくなっているということです。

すなわち、<我々>に専門家は含まれているのかが死活的に重要な問題となってきており、いずれにせよ、ミシェル・フーコーが予言した「素人を沈黙させる<権力>としての専門知」が跋扈している現代社会のリアルな相貌が、21世紀の現在、否応なく浮き彫りになったの、鴨。こう考えれば、ポルポト派が知識層を根絶やしにしたこと、あるいは、毛沢東が知識層を下放したことは満更筋悪の施策ではなかったの、鴨。


(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。



・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60588722.html

・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60908495.html




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◆密教的意味の民主主義に残された可能性
民主主義には、しかし、別の密教的な位置づけも可能かもしれません。而して、それは①自由に価値を置く、②プロセス的な正義のルールとして民主主義を捉え返す、③英米法および英米の保守主義と親和的なものではないか。逆に言えば、①平等偏重の、②具体的な価値の内容の判定までも期待する、③フランス法およびルソーやポルポト派や毛沢東の思想とは異質なもの。

いずれにせよ、近代の「主権国家-国民国家」成立以降の政治の文脈でこの言葉が用いられる場合、「民主主義」は、(ⅰ)制度論においては「代表民主制」とほぼ同義であり、(ⅱ)社会思想としては、自由主義および価値相対主義の政治哲学的の言い換えであることは間違いないと思います。 

畢竟、この(ⅱ)を喝破した、ハンス・ケルゼン『デモクラシーの本質と価値』(1920-1929)は、ある意味、それまでのルソー的やボリシェビキ的な全体主義としての民主主義の概念を<脱構築>した、20世紀社会思想の地味だけれど最大の果実の一つと言っても過言ではないと私は考えるのです。要は、密教的意味の民主主義に残された可能性とは保守主義と価値相対主義からの「民主主義」の再構築であり、それは、グノーシス主義としての民主主義の打破である。それは、人間の有限性を踏まえた、かつ、「誰もがそれなりに重要な人物として誰かには処遇されることを希求する人々が織り成す社会」という大衆社会のイメージとも整合的な対案ではなかろうか。と、そう私は考えます。

結局、「立法者」の登場・登壇を期待する神秘主義的かつ他力本願な密教的意味の民主主義ではなく、各自が日々の政治的な営みに責任負い誇りを持つ<言語ゲーム>としての民主主義こそ<民主主義>に残された唯一の可能性ではなかろうか。もしそう言えるなら、21世紀の日本の保守主義者としてもウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)卿の箴言に残念ながらも激しく同意できる、鴨。


It has been said that democracy is the worst form of government
except all the others that have been tried.
(民主主義は最悪の政治形態と言えよう。
ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすれば)




蓋し、社会思想という営みは--例えば、保守主義からの「民主主義の再構築」という作業は--、すべからく、(甲)ある思想群がどのような<相互討論>の経緯を経て現在に至ったのか、ならびに、(乙)現在の地平から見ればそれらの思想群はどう空間的かつ整合的に把握されるのかという、謂わば「両界曼荼羅」的な重層的な作業なのでしょう。而して、本稿もこの「両界曼荼羅」を胎蔵している。と、そのことを私は希望しています。


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ジャンル : 政治・経済





民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。
これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けばだけれども。

(ウィンストン・チャーチル)



それが「最悪」かどうかは別にして民主主義が極めて多義的な言葉であること。ほとんどあらゆる事柄を、時には、通常は「南極と北極」とされる事柄をも同時に正当化可能な言葉として論理的には<無内容>な政治的シンボルとさえ言えることは間違いないでしょう。例えば、あの特定アジア国の正式国名が「朝鮮民主主義人民共和国」であることを想起すればこのことは誰しも思い半ばに過ぎようというもの。

しかし、論理的に<無内容>であることは現実の政治の風景においてそれが<無意味>であることと同じではない。それは、例えば、「民主主義」という言葉が多くの人々に心地よく連想させるものの一つが「王制の英国」であること、あるいは、幾つかのイスラーム諸国では、--「人権」なり「立憲主義」といった西欧的な価値と論理にシンパシーを覚える親欧米派の、その多くは欧米に留学経験のある、よって、間違いなくその社会では--少数派の政治エリート層の手から、よりイスラーム的で民族主義的な多数派が権力を奪還する政治的シンボルの機能を果たしている現実を看過しない限りこれまた自明なことでしょう。

本稿は、そんな多義語の語義整理記事です。蓋し、「民主主義」を巡る歴史的と論理的な外面的の状況--その顕教的意味状況--については、とりあえず、大凡、次のように説明できるかもしれません。


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◆民主主義:democracy
政治的価値の世界の現役の世界チャンピオン。第二次世界大戦における連合国側からの「第二次世界大戦は「民主主義 vs 全体主義」の戦いである」といったプロパガンダの流布と連合国側の勝利によって--更には、欧米先進国の福祉国家化、就中、戦後のケインズ政策の採用と歩調を合わせて--民主主義は20世紀後半以降、その地位を得た。

それまでは、しかし、民主主義は極めて危険な思想と考えられていた。これはドイツや日本などの所謂「後進資本主義国」の保守派だけの認識ではない。それはビスマルクや伊藤博文の認識に止まらず、例えば、アメリカ合衆国憲法の制定会議プロセスが、ある意味、民主主義への不信の制度化論議--個々の国民としての人民の政治的影響力の抑制--であったことを反芻すれば自明なように英米や西欧の多くの自由主義者もまた「民主主義を国家を分裂させ人権を蹂躙しかねない全体主義的な思想」と考えていた。つまり、歴史的には、<民主主義の戴冠>という事態はかなりの程度偶然によると言わざるをえない。


論理的観点からは、他方、現在では、人権や国民主権、立憲主義や法の支配といった諸々の政治的や憲法的な価値と「民主主義」をほとんど同義に用いている論者も少なくないように見える。加之、反欧米色濃厚な民族主義的な運動や言説も、そして、「地球市民」や「マグニチュード」なるものの現実化を熱望する先進国のリベラル派の文化帝国主義の運動や妄想も、現在ではともに自己の議論を「民主主義」から正当化可能らしいのだ。

ほとんど「本地垂迹」と看做すべきこんな民主主義と他の諸々のイデオロギーとの同一視を捨象するとき、蓋し、本来、王制・貴族制の正当化イデオロギーとの比較において、「民主主義」とは「比較的小規模な集団においてその社会の多数派による少数派の支配を正当化する論理」と言える。

畢竟、民主主義と人権は対立する。多数の決定によっても奪えない権利というアイデアは民主主義とは本来異質だから。また、民主主義と国民主権も元来は似て非なるもの。国民主権は近代の「国民国家-主権国家」が成立するのと同時にその「憲法秩序-実定法秩序」の中に懐妊された理念だから。すなわち、利害もイデオロギーも本質的に対立することの少ない--対立や紛争があったとしても修復可能な--ホモジーニアスな小規模集団を前提とする民主主義と近代に特殊な国民主権はそもそも適用される社会規模のスケールを異にしていただろうから。

民主主義がなぜ政治的価値の世界の現役の世界チャンピオンになりえたのか。それは、ミトコンドリアと真核細胞との野合というか共生よろしく、19世紀末葉から20世紀前半、普通選挙の一般化によって民主主義が議会主義、すなわち、自由主義と結合したから。民主主義が「議会制民主主義-代表民主制」に変貌を遂げたから。

而して、福祉国家における大衆社会状況が成立して以降--自己責任の原則を旨とする財産と教養と社会的使命感を備えた少数の自立した市民などではなく、社会現象としては欲望の塊として行動する、思想的には「ありふれたつまらない個々の国民」こそが国家社会の社会統合の正当性の基盤と考えられる社会状況が成立して以降--、パラドキシカルながら、民主主義は個々の主権国家内部においては国民主権とほとんど同じ意味に変容したとも言える、と。


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以下、敷衍します。
蓋し、「民主主義」とは、


▼民主主義の最狭義と狭義
元来、「民主主義」とは、(ⅰ)ある社会の政治的決定はその社会の構成メンバー全員の合意や了承によってなされるべきだという主張であり、逆に言えば、「自分が属する社会における政治的決定にはわたしも参加させてね」「自分が賛成していない政治的決定にはわたしは従わないわよ」という権利がその社会の構成メンバー全員に保障されるべきだというアイデアだった。

蓋し、この「民主主義」の語義が「民主主義とは元々小規模の人間集団における直接民主制を正当化する原理」としばしば語られることの理由であろうと思います。而して、政治的決定が直接民主制が機能する小集団を遥かに超える規模の、就中、国民国家においてなされる人類史段階に突入して以降、そして、「代表なければ課税なし」のスローガンに端的な如く自由主義のコロラリーとしての「国民代表制-議会制」が政治の形態として最有力な制度になるに及んで、更には、普通選挙制度や婦人参政権が普及して以降の大衆社会においては「民主主義」の語義も変容せざるをえなかった。

すなわち、国民国家成立以後の大衆社会においては、「民主主義」とは、--「全員一致」の実現などおよそどのようなイシューについても困難であり、そして、「全員一致」でなければどのような政治的決定もその社会においてその構成メンバーを拘束する法的効力を持ちえないのであれば--(ⅱa)社会統合を阻害する危険で陳腐なアイデアであるか、あるいは、(ⅱb)国民国家を形成したイデオロギーとしての「国民主権」の同義語、もしくは、(ⅱc)多数決の別名、よって、多数派による少数派支配の正当化原理でしかないのだと思います。


▼民主主義の論理的帰結としての<外国人>の差別と疎外
重要なことは、上記(ⅰ)(ⅱ)のすべての「民主主義」の語義の基底には、(ⅲ)「その社会の構成メンバーは性別・年齢・門地・容姿・財産・教養・才能・実績・声望の如何にかかわらず、社会の政治的決定に参画する資格においてはすべてが同じ法的価値を帯びる均一の主体である」という<平等>の価値と親和的な認識が横たわっているだろうこと。

この認識からは古代ギリシアでは、原則、公職に補任するに際しては「選挙」などではなく「籤」が最も正義にかなった方法と考えられていたことは整合的でしょう。他方、「その社会の構成メンバーとは誰であるのか」、すなわち、社会の政治的決定に参画できる人々の範囲を確定するルールが民主主義に論理的にも現実的にも先行する。

而して、その先行するルールに従いメンバーの資格を否定された<奴隷>や<外国人>が--現実には、その「主人」やそのポリスの政治的決定に参画できるメンバーとしての平均的な「市民」を遥かに凌駕する富や政治的の影響力を保持していた例は少なくないとしても--政治的決定に参画できなかったことは、古代ギリシアの民主主義の限界ではなくて、寧ろ、民主主義一般の本性からの論理的帰結でしょう。


▼広義の民主主義--民主主義が機能する諸条件
繰り返しになりますが、「民主主義」の語義の中核が「自分が参画し賛成していない政治的決定にはわたしは従わない」という主張である限り、究極的な利害が対立する社会--相互のイデオロギーや世界観が修復不可能なような者が併存している人間の社会集団--では「民主主義」はそもそも成立しない理念なのでしょう。

ならば、(ⅳ)「民主主義」が「多数決」の別名として通用するためには、その条件として、(ⅳa)社会の構成メンバーが懐く世界観やイデオロギーが固定的ではないか固定的であるとしても共存可能な程度の差違しかないこと、もしくは、構成メンバーの利害が調整不可能なほど隔絶してはいないこと、あるいは、世界観やイデオロギー、ならびに、利害の対立が全体的な政治的紛争解決の文脈においては相対的に無視できるほどの比重でしかないこと、

および、(ⅳb)今日の少数派も言論を通じて明日の多数派になりうる論理的可能性と現実的蓋然性が存在していること。すなわち、政治を巡る情報が大凡開示されており少数派と多数派の間に本質的な情報の非対称性がなく、かつ、政治参加と権力参加の回路が少数派にも保障されていることが必須の条件であろうと考えます。

このような条件が満たされている場合にのみ、すなわち、トクビル流に言えば、(ⅳa)と(ⅳb)の条件が社会の構成メンバーにほぼ平等に保障されている--あるいは、保障されているという錯覚が現実に厳として存在している--「諸条件の平等化」が具現している場合に限り、「民主主義」は(ⅱa)の無政府主義と(ⅱc)後段の「全体主義的な専横」の弊害を免れて、目出度く(ⅱc)前段の多数決の同義語、または、(ⅱb)国民主権の同義語となりうる、と。


▼小結
蓋し、私は「民主主義」という言葉を(ⅰ)~(ⅳ)の重層的な<意味の編み物>と捉えています。いずれにせよ、それは人々を<国民>に社会統合する上で、チャーチル卿の嘆きの如く、現在では残念ながら不可欠の、しかし、現在でこそ益々「取り扱い注意」の鍵であろう。と、そう私は考えます。

蓋し、「主義」の2文字がついているから紛らわしいのでしょうが、民主主義には歴史と論理、あるいは、制度と思想の二面がある。それは、同じく「主義」の2文字を帯びる「資本主義」を想起すればあるいはわかりやすい、鴨。すなわち、「資本主義」にも「制度」の側面と同時に「その制度を容認する心性」の二面がありましょう。そして、(A)制度がすべてそうであるように、それは価値観が憑依した規範と社会学的な状態の重層的な構造であり、かつ、(B)言語や家族という自生的な制度すべてがそうであるように、交換を巡る制度たる資本主義もまた時代によってその内容が変遷してきた。

而して、現在の資本主義の制度とは、例えば、①所有権の制限、②契約の自由の制限、③過失責任の制限、および、④所得の再配分の導入、⑤ケインズ的な財政と金融における国家権力の政策の導入、⑥種々の国際的な制約という<修正>または<変容>を経た後のもの。

蓋し、家屋の賃借人にほとんど無制限の厳格責任を認めていた19世紀末までの英国のコモンロー。あるいは、労組の活動どころか労組の存在を容認しただけの連邦法・州法を憲法違反と断じた、加之、生活必需品の料金の買い占めによる価格引き上げや、鉄道等の公共交通機関の料金の鉄道会社による裁量的決定を制限する州法を憲法違反と断じた19世紀末のアメリカ連邦最高裁の判決群を鳥瞰するときそう断ぜざるをえない。要は、これらを踏まえるとき、サッチャーもレーガンも、フリードマンもハイエクもある意味立派な「社会主義者」である。

而して、上述の如く、「民主主義」についてもこのような(A)(B)の経緯が幾つも容易に観察されるのではないでしょうか。そして、それらが「民主主義の顕教的意味」を各々構成している。そう私は考えます。

続編に続きます。

・民主主義--「民主主義」の密教的意味
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62722758.html




P/S
個人的にはそのことにある程度の感慨を覚えながら、
1923年、第二次護憲運動勃発前夜に生まれた、
亡き父の誕生日に本稿をアップロードします。



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憲法は権力を縛るものであって
権力者が憲法を勝手に解釈することは
立憲主義から見て許されない


かくの如き言説、すなわち、「集団的自衛権の政府解釈の見直しは立憲主義に反する」という類のリベラル派の言説が世に溢れているようです。而して、本稿は「立憲主義」を巡る私の理解を整理したもの。リベラル派の「言うたもん勝ち」「言うだけならタダや」的な言説に我々保守派が効率的かつ効果的に反論する上で本稿が少しでも役に立てば嬉しいです。本稿の要点は次の4個。

(Ⅰ)立憲主義は憲法を説明する原理であり憲法解釈の指針ではない
(Ⅱ)立憲主義は民主主義と緊張関係にある
(Ⅲ)立憲主義はこの百年間で変化した
(Ⅳ)リベラル派の「立憲主義」にはある特殊な人間観・国家観が憑依している



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(Ⅰ)立憲主義は憲法の原理であり憲法解釈の指針ではない
近代立憲主義の要諦を記したとされるフランス人権宣言16条「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、憲法をもつものではない」に明らかな如く、「立憲主義」とはそもそもあるタイプの憲法制定の要求であり、そんなタイプの憲法典の諸条項を説明する原理です。

而して、立憲主義的な憲法では、(a)国家権力によっても侵害されることのない権利の存在を前提としつつ、(b)権利を保障するための統治機構の分立、および、三権間の抑制と均衡が組み込まれている。加之、(c)ある範囲の立法に関してはそれらを違憲無効と判定する司法審査権を司法府に認めること、あるいは、(d)権利保障をより十全かつ慎重にするべく、憲法の改正には通常の立法手続きよりもより高いハードルを課す憲法の硬性性もまた立憲主義から説明されましょう。

しかし、例えば、国民主権の原理から直ちに国政選挙の妥当な選挙権年齢が--現行の20歳は違憲で18歳なら合憲などと--決まることはないのとパラレルに、「立憲主義」の四文字から「妥当な硬性性の度合い」なり「個別の事案から自由に、かつ、事前に立法の合憲性を審査する憲法裁判所としての権能を最高裁判所に与えること」の是非などが導かれるわけでもありません。白黒はっきり言えば、立憲主義は憲法の説明の原理ではあっても、少なくとも、単独では憲法解釈の指針として作用することはないのです。

繰り返しになりますが、「立憲主義」のみならず、例えば、国民主権・民主主義、自由と平等、あるいは、国家の生存権、そして、日本国を社会統合する軸としての天皇制といったあらゆる憲法の原理は、ほとんどの場合単独では憲法解釈の指針としては作用しない。それらの諸原理は現行憲法の諸条項を説明するロジックであり、ならば、具体的な憲法解釈においては、それら諸原理は具体的な個々の憲法の諸条項や憲法の慣習を経由してその意味内容を照射するものでしかない。と、そう私は考えます。

而して、司法審査を通した権利保障に際しても「立憲主義」は、1次的には司法権の権限と権威の根拠なのであって、--表現の自由の制約にせよ生活保護の認定基準や給付内容の決定にせよ--それら具体的なケースでは占領憲法の権利諸規定の解釈から権利保障の妥当な範囲が導き出されるしかないのです。

いずれにせよ、例えば、民法の解釈でも、信義則の尊重や権利濫用の禁止、公共の福祉による権利制約といった一般条項(1条)を法的紛争の解決に際して持ち出すのは最後の最後の手段とされましょう。曖昧な原理や原則は、他に適用可能な具体的なルールが見当たらない場合、もしくは、具体的なルールをダイレクトに適用しては紛争解決の結果の妥当性が危ぶまれる場合の最後の手段ということ。ならば、これとパラレルに、憲法解釈の指針としてそれを捉えるにせよ、これと同様な禁欲的姿勢が「立憲主義」を持ち出す論者には求められるのではないでしょうか。


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(Ⅱ)立憲主義は民主主義と緊張関係にある
(Ⅲ)立憲主義はこの百年間で変化した

現在では多くの主権国家の憲法典とその実定法秩序には国民主権と民主主義のイデオロギーが組み込まれています。つまり、現在では、立憲主義が縛る「権力」や「権力者」なるものは、立憲主義によってだけでなく民主主義によっても自身を正当化しているということ。ならば、立憲主義は--テクノクラートが構成する非民主的な裁判所が、よりデモクラティックな色彩の強い国会と内閣の立法や処分を違憲無効にできる場合もあるというロジックでもある限り--、民主主義あるいは国民主権の原理と対立する、少なくとも、緊張関係にあると言えます。

・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62198131.html

何を言いたいのか。すなわち、この側面からも「立憲主義」の四文字からだけでは「集団的自衛権の政府解釈の変更」が憲法的に許されるか否か、あるいは、憲法改正条項(占領憲法96条)の改正が許されるかどうか等の憲法の解釈は導き出されることはない。それは--(Ⅰ)で述べた如く、憲法の具体的な諸条項や憲法の慣習を通して見いだされるのみならず--、民主主義や国民主権、更には、国家の安全保障や日本国の社会統合という他の諸原理との折り合いの中で決まるしかないということです。


西欧諸国においてさえ国民主権も民主主義もまだ実定的な憲法原理とは到底いえなかった18世紀末~19世紀半ばの頃と、世界の大方の国がイデオロギー的に「主権国家-国民国家」としての体裁を整え、更には、普通選挙制度が行き渡った20世紀前半では「立憲主義」の意味内容も変化せざるをえませんでした。

更に、国家権力の容喙を拒む「自由権的基本権:国家からの自由」が権利の内容であった時代から、20世紀後半以降、国に社会保障や財政金融政策の出動を求める「社会権的基本権:国家への自由」もまた権利として認められるにおよび、立憲主義の内容も「権力を縛る」原理だけでなく「権力を働かせる」原理としての役割も担うことになった。

敷衍すれば、大凡の主権国家が実際に憲法典を保有してしまった20世紀半ば以降、元来、憲法典の制定を求める政治的主張でもあった「立憲主義」は、「国家権力や社会の多数派によっても侵害されるべきではない権利の存在を前提として、国家権力によるそのような権利の侵害を制約し、他方、社会の多数派からのそのような権利への侵害に対する<守護神>であることを国家権力に求める原理」と理解するのが今では妥当であろうと思います。

つまり、立憲主義の根拠はそれが守護する権利の普遍性--ここで「普遍性」という誤解の多い言葉を避けて敷衍しておけば、権利の中には取りあえず国会の立法によっても侵害されるべきではないものがあるというアイデア--にあるということです。

而して、このように「立憲主義」を発展的に読み換えるにしても、具体的な権利が現実に侵害されるわけでもない「集団的自衛権の政府解釈の変更」について、それを批判するに際して「立憲主義」を持ち出すことは筋違いである。まして、安全保障という「統治行為マーター:political questions」については、裁判所ではなく、原則、内閣と国会が有権解釈者なのですから、三権分立を求める原理という立憲主義の中核的意味内容からみて、正当な有権解釈者による憲法解釈をその「立憲主義」から批判することは筋悪でしかない。

換言すれば、立憲主義とは、国家権力が憲法に従うことを通して国家権力の恣意的な運用を制約する原理である裏面では、それは国家権力の権力行使を正当化する根拠でもありましょう。すなわち、立憲主義自体は--権力分立と権利の確保という回路を別にすれば--弱い国家権力や権力の消極的な行使をアプリオリに要求する原理では最早ないということです。ならば、国民の社会統合とならんで国家権力の最優先のタスクである安全保障について、内閣が自己の解釈を変更することは、国の安全と繁栄の実現を積極的に国家権力に求めるに至っている現代の立憲主義が寧ろ歓迎することものではあっても否定するものではない。と、そう私は考えます。


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(Ⅳ)リベラル派の「立憲主義」にはかなり特殊な人間観・国家観が憑依している
日本のリベラル派の使う「立憲主義」という言葉には、--おそらく、アトム的個人観・社会契約論・天賦人権論といった--現在では世界的に見てもかなり特殊なイデオロギーが憑依しており、それは、最早、万人を拘束するような<神通力>を持つものではないと思います。加之、彼等の議論は、占領憲法の意味内容が国際関係や国際政治と無縁に憲法典から演繹されるとする、空間的にも時間的にも<閉じた体系としての憲法>あるいは<結晶体としての憲法>のイメージに定礎されているとしか思えない。

フランス革命という名の陰惨な一連の騒乱事件当時、すなわち、「主権国家-国民国家」が人類史に登場する場面で、当時、神通力を消失していた「中世的な立憲主義」をモデルチェンジするに当たって--国家を超えるsomethingでなければ国家を正当化することはできないでしょうから--アトム的個人観・社会契約論・天賦人権論というイデオロギーが考案されたのは自然なこと。これは、インターナショナルな「万国の労働者の祖国」を詐称することで、ソビエトロシアがやっと「一国社会主義体制」という名の「主権国家-国民国家」に移行することができた事情ともパラレル、鴨。

けれども、「主権国家-国民国家」が与件として存立割拠するに至っている現在、アトム的個人観・社会契約論・天賦人権論は国家権力と憲法秩序の正当化の唯一のロジックでもないしその正当化のパフォーマンスもそう優れたものではない。例えば、日本の文化と伝統、日本の歴史と国柄に価値を置き、皇室を戴く国民の運命共同体として<日本>を捉えるやり方と比べてそのパフォーマンスが優れているとは必ずしも言えないでしょう。

アトム的個人観・社会契約論・天賦人権論が単なる机上の想定であるのに対して、<日本>を核とした日本国民と日本国の理解には国民の法意識の中で間主観的な妥当性があること、よって、国家権力の正当化に関しても国民の法的確信をより高いパフォーマンスで具現可能なことだけは確かなのですから。

いずれにせよ、--それはリベラルな憲法秩序を担う主体としての「地球市民」なる<メシア>の出現をいまだに信じているからでしょうか--<日本>という特殊性を忌避するリベラル派にとって、アトム的個人観・社会契約論・天賦人権論、そして、それらと整合的なこれまたかなり特殊な意味内容の「立憲主義」なるものは、リベラル派の立場からはそうとでも考えなければ、国家権力も国民の行動を制約するその権力行使も正当化できないという、彼等の仲間内でしか通用しない根拠のかなりシャビイな議論であろう。下にURLを記した拙稿「瓦解する天賦人権論」で些か詳しく検討したように、そう考えなくとも保守主義からの国家権力とその行使の正当化は十分に可能でしょうから。と、そう私は考えます。


尚、(Ⅰ)~(Ⅳ)に関するより詳しい説明は下記拙稿をご参照ください。

・立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62314363.html

・解釈改憲なるものについての雑感
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62383748.html

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html

・憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する
「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61963692.html


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アメリカ大学院留学のカウンセリングに長らく従事してきて、よって、毎年、数百のアメリカのビジネススクールを調査してきた者として最初は意外に感じたことがあります。それはアメリカ人MBA学生の学部時代の専攻の分布。経済学・経営学とならんで--アメリカには学部レベルの「法学部」は存在しませんから法学専攻者はもちろんほぼ皆無なのですけれど--哲学専攻者の割合が低くないこと。日本では、哲学専攻と言えば、やはり今でも--個々の学部学生の志向は捨象するとして哲学科総体を覆おうイメージとしては--好事家的で些か浮世離れした「哲学・学」の様相を呈しているのと比べてこの点、彼我の差は歴然。

哲学の教授なりがTVで政局についてコメントするにつけ、哲学科の学部生が高田馬場や渋谷、百万遍や北白川の居酒屋で時事政局を論じるに際しても、なにがしか高尚な蘊蓄を披露しつつ、結局、論者の解釈や感想を呟いているにすぎない日本と比べて、--アメリカ人MBAの学部時代の専攻分布という小さな<窓>から垣間見える--アメリカ社会における<哲学>のありようを想起するとき、そこには小さいけれどかなりクッキリした<哲学>に対する日米の差を私は感じました。蓋し、日本では哲学は<教養であり芸事>にすぎないが、アメリカではそれは<教養かつ技術>なのではないか、と。


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◆技術としての哲学
哲学とは--事実と規範、存在と当為を峻別する新カント派の方法二元論、もしくは、歴史の弁証法的展開を織り込んだマルクス主義の唯物史観に端的な如く--世界認識の方法論や世界認識のパラダイムではありましょう。それは間違いない。そして、<哲学>、すなわち、哲学する営みは単に「私はこう思う」と語る言語活動ではなく、端的に「私はこれこれの根拠に基づいてこう思う、よって、その根拠が否定できないのなら貴殿も私と同様にそう考えるか、少なくとも、対案が提出できるまでは沈黙していなさい」と他者に迫るかなり高飛車な言語行為でもある。

けれども、哲学とは、「哲学・学」を遥かに超える一般的な思考の枠組み、あるいは、論理展開のモデルに関するアイデアの束であり、なにより、それら諸アイデアの運用の技術ではないか。ならば、<哲学>をそのような公共の言説空間における<論理の技術>と捉えるとき、カントやマルクスのテクストもそのような諸アイデアを知るためのケーススタディー集と理解できる。そう私は考えています。

畢竟、あらゆる技術がそうであるように、技術としての哲学にも過去の先達の工夫と叡智の蓄積がありましょう。ならば、それは囲碁や将棋とパラレル、または、日本料理やフランス料理の伝統ともパラレルなの、鴨。ただ、哲学が囲碁・将棋と違っているのは、あるいは、物理学・医学・心理学、経済学・法学・歴史学という個別科学と異なっているのは、それが世界を認識する自己の能力を根本から疑い、よって、ゼロベースから構築された世界を認識するための技術体系ということでしょうか。

蓋し、哲学の体系性や論理性は--論理と公理に従い事実に基づいてのみ議論するという点では--他の諸科学とそう差はない。けれども、それがゼロベースから積み上げられている徹底性の点では、そして、なによりそれが<自己を含む思念の全対象世界>をカバーする包括性という点では他の諸技術や諸科学と鮮やかな対照をなしている。

実際、哲学の内容にはイデオロギーの構築からあらゆるイデオロギーの批判までが含まれている。敷衍すれば、宇宙論、世界観、歴史観、国家論といったイデオロギーの構築から、他方、逆に、--憲法を対象とする哲学的な考察である憲法基礎論の領域に限っても、例えば、「憲法」や「立憲主義」や「自衛権」の諸概念の究明、および、具体的な個々の憲法体系に内在するとされる「天賦人権論」なり「社会契約論」なりの--イデオロギー分析と批判が哲学の内容には包摂されている。

哲学的に取り扱われる限り、すなわち、ある事象が体系的・論理的に、かつ、徹底的・包括的に思念される限り、AKB48も英語教育も、サッカーワールドカップもカップラーメンもこの世に<哲学>の主題にならないものはない。蓋し、ある言説が哲学的かどうかを決めるものは--新カント派が喝破した如く「方法が対象を決定する」のでしょうから--独り、その言説の根拠性がゼロベースから組み立てられているかどうかの徹底性の度合いにある。私はそう考えます。


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教科書的には、哲学の内容は、大体、認識論、存在論、価値論に区分されています。蓋し、これは偶さかのことではなく、また、学界の惰性と怠慢だけでもない(多分)。ゼロベースから自己の世界認識の立場と自己の哲学的な世界観を構築する際、人間の認識能力の吟味(認識論)、人間存在の定礎(存在論)、社会的行動の指針の措定(価値論)というこれらの内容が、更に言えば、それら三者の連関性の究明が哲学をする誰にとっても大凡不可避であった事情のこれは裏面なのだと思います。畢竟、哲学することと伝統的に蓄積されてきた技術としての哲学の諸アイデアを学ぶことは流石に無縁ではないということです。

而して、法哲学の内容・仕事についてまとめられた矢崎光圀先生の次の有名な知見(例えば、『法哲学』(筑摩書房・1975年),pp.26-37)も、そのような歴史の試練に耐えて現在に至っている定跡や定石のリストアップと言えるかもしれません。乱暴に整理しておけば、(1)と(2)が認識論、(3)と(5)が存在論、そして、(4)が価値論にその場を専ら占めていると言える、鴨です。いずれにせよ、哲学各論としての法哲学は--あるいは、そのまた一部分としての憲法基礎論は--哲学総論との有機的連関性を保ちながら形成されて現在に至っていることは間違いない。と、そう私は考えています。


法哲学の五つの仕事
(1)法の説明の問題--法概念論--
(2)法学方法論の問題
(3)法の社会的機能、役割の問題
(4)法の目的、価値の問題
(5)法と言語、論理の問題



逆に言えば、これまでの人生で哲学書などこれっぽっちも読んだことのない論者が、しかし、世界と世間についてなにほどか聞くに値する知見や主張を公共の言説空間で述べている場合、彼女や彼の言説の多くは、大概の場合、哲学の言語に翻訳可能ということ。敷衍すれば、認識論、存在論、価値論の区分自体には何の必然性もない。けれども、それらは<技術としての哲学>の定跡や定石として歴史の試練に耐えて現在に至っているのだろう。ならば、好き勝手に自己流で囲碁・将棋に戯れ、料理を楽しむのは論者の勝手だけれど、より上手いより美味い<作品>を目指すのなら過去の定跡や定石を学ぶのも悪くはない、鴨。と、そう私は考えます。

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◆哲学は進歩するか
哲学を技術と捉え、そして、過去の哲学の古典を技術を知るためのケーススタディー集やアイデア集と捉えるとき、「そもそも哲学の言説に正解はあるのか」とか「哲学は進歩するものなのか」というこれまた些か浮き世離れした問いの解答も自ずと明らかになる。

囲碁の世界では江戸時代の本因坊秀策の棋譜のレベルは現在のプロ棋士のそれを遥かに超えているとか。しかし、そんな例外中の例外は置いておくとして、哲学を技術と捉える立場からは「哲学は進歩するか」の問いに対する返答は「Yes」です。

考えるための技術、あるいは、考えるための考え方の技術と哲学を捉える場合、アリストテーレースやソークラテ-スはもちろん、ヘーゲルやマルクス、そして、カントの作品さえも現在の水準から見れば--すなわち、ウィトゲンシュタインとフッサール、要は、分析哲学と現象学の地平から振り返れば--稚拙で杜撰、牧歌的で脳天気な言説と言わざるをえません。

例えば、カントが万人に共通の思考の形式と看做した「量・質・関係・様相」の純粋悟性概念(カテゴリー)なるものは、単に18世紀当時の論理学の通説--要は、アリストテーレース由来の論理学--の微修正にすぎず、また、カント哲学の前提たる「物自体」もかなり恣意的な想定と言わざるをえません。同様に、19世紀当時の英国古典経済学の通説から労働価値説を無批判に受け入れたマルクスの思想も『資本論』第一巻のその初手から、本来成立不可能な普遍的な価値の存在を想定する誤謬に陥っている。この意味ではその時代その時代の哲学水準に応じて「哲学の言説に正解はある」。


けれども、逆に、哲学を世間や世界を考えるための技術と捉えるとき、実は、誰にとっても哲学は一種の<比喩の体系>でしかないとも言えるのではないか。そして、比喩としての<哲学>を使い、有限なる人間が無限なる世界に臨む場面では哲学の営み自体には進歩があるとは思えません。畢竟、作品としての哲学は進歩するけれど、精神活動としての<哲学>にはそう大きな進歩はなく、寧ろ、時には退歩することさえも希ではなかったかもしれない、と。要は、この意味の<哲学>においては「哲学の言説に正解はない」のでしょう。

例えば、現在の日本のリベラル派が「天賦人権論」や「立憲主義」という言葉をかなり曖昧な意味に用いて展開している粗忽かつ僭越な議論を見聞きするとき、私はそこに<哲学>の退歩を感じないではない。少なくとも、トンデモな議論が咲き競うそこには、人間の有限性を自覚した上で、対象世界の認識から180度進路を変えて人間の認識能力の根拠と限界の究明に向かったカントの「先験哲学」登場以前の牧歌的で居丈高な独断の微睡みを感じないではないということです。

・立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62314363.html

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html


ならば、諸々の過去の哲学も<哲学>として見た場合、これまた囲碁や将棋の流派や戦術のようなもの、鴨。すなわち、論者が各自、好みの戦型を選ぶことに--他人事ながらそれは現在では得策ではないよと心配にはなるものの、例えば、彼や彼女がマルクスのアイデアを選択しようとも--他人からとやかく言われる筋合いはなかろうということ。

富士山登頂に喩えれば、21世紀初頭の現在も、世間と世界を考える上でのアイデアの体系やテンプレート、すなわち、<比喩の体系>として古典的なカント哲学を採用するか、最先端の分析哲学や現象学を採用するかには、富士山を御殿場方面から登るのと山梨側から登るのとの差しかないのかもしれないということです。

いずれにせよ、その論者が、人間の有限性・世界の無限性・哲学の技術性をきちんと踏まえている限り、歴史の試練を潜って生き残ってきた作品としての哲学は<哲学>のためのよいアイデア集であり便利なレシピ集でないはずはない。と、そう私は確信しています。


尚、哲学に興味のある初心者には、私は今でも『哲学のすすめ』(講談社現代新書・1966)および『カント』(勁草書房・1958)、『カントからヘーゲルへ』(東京大学出版会・1977)といった岩崎武雄先生の一連の入門書、そして、それらの解説書としての石川輝吉『カント 信じるための哲学』(NHKブックス・2009)を推薦します。

英訳すればこれらはMBA進学志望のアメリカ人学部学生にも
それなりに好感を持たれる好著だと思いますから。

なに、じゃ、お前が英訳しろって?

ヽ(^o^)丿



・海馬之玄関推奨--素人でも読めるかもしれない社会を知るための10冊--
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62345736.html

・書評:はじめての言語ゲーム
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62324812.html



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