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◆浅田真央は「ルール変更」を理解できなかった愚な税金ドロボーか
バンクーバーオリンピック、男子フィギュアスケートを巡ってもフィギュアスケートの採点基準は物議を醸しました。4回転ジャンプを成功させた銀メダリスト、ロシアのプルシェンコ選手が4回転ジャンプを回避したアメリカのライサチェク選手が金メダルを手にしたことを念頭に置いて、

採点システムは変更されるべきだ。五輪王者が 4回転ジャンプの跳び方を知らないならば男子シングルではなくアイスダンスに名前を 変えなくてはならない。この採点システムのためにフィギュアの進歩は止まってしまった。

浅田(真央)のレベルは人類史上最高だよ。俺が女だったら勝てないだろうね。キム(ヨナ)は4回転を2回跳んだのか?
   

と、現行の採点基準に疑義を呈したそうです。而して、彼の問題提起に対して私は二つの感想を抱きました。

・ルール改訂の提案とルールをどれだけ重視するかの選択は別問題
・ルール変更の基底に横たわる<美>に対する価値観の対立


高難度の技を重視した結果、「サーカス」になってしまい、究極の美を追求するはずのフィギュアスケートが<銀盤雑技団大会>になってしまっていたこと。また、2002年のソルトレークオリンピックでの「八百長事件」を契機にして、フィギュアスケートの原点、<美の競演>を再構築すべく採点基準はここ8年間変更され続けてきました。すなわち、ルール変更の基底には<美>に対する価値観の鬩ぎ合いがあったということです。

而して、この経緯を踏まえれば、エレメントの完成度とエレメントとエレメントの間の移行プロセスの滑らかさを「基礎点」によって予め客観的に枠付けしておき、かつ、訓練され、毎年、研修セミナーや試合を担当する審判団の意識合わせを通じて一定の間主観性を担保された、審判員が<美>について5コンポーネンツの評価を行い、個々のエレメントにGOEを付ける現状の採点システムは次善ではあると思います。美の判定は結局審判員の価値観の表出であり、それが万人を納得させる普遍性を帯びることは土台不可能なのですから。

ポイントは、2002年から始まった判定ルールの変更には個々の変更内容を貫く<美>を巡る思想的な変更があったこと。このことを、日本選手は理解していなかった、あるいは、頭では分かっていたが体では理解できていなかったかもしれないことでしょう。ならば、そのルールを思想面でも自家薬籠中のものにできた荒川静香選手とキムヨナ選手が並み居るライバルを圧勝して戴冠したことは必然であった。そう私は考えます。

代表選手は一つでも上の順位を目指してオリンピックに参加しているはずだ

蓋し、

サーカスがよいかアイスダンスがよいかは各自の好みの問題。けれども、代表選手は、(ⅰ)現行のルールを与件として、(ⅱ)「メダル」や「金メダル」を目指している、そこまででなくとも一つでも上の順位を目指してオリンピックに参加しているはずだ。
    
それが「建前」であるにせよ、この前提は誰も否定できないと思います。而して、このような「建前」が成り立つとするならば、ルール改訂の提案とルールをどれだけ重視するかの選択は別問題であり、よって、ルールを味方にしたキムヨナ姫こそ称賛されるべきであり、それを無視して玉砕した浅田選手やプルシェンコ選手は愚か者でさえある。

そして、浅田選手にルールを最大限に利用することを指導することができなかった日本のスケート関係者達は、無為無策の馬鹿者、愚将・乃木希典、(史実は違うらしいのですが)数次に亘り騎馬軍団を馬防柵と三段構えの鉄砲隊に突撃させた武田勝頼にも匹敵する大馬鹿者。すなわち、税金ドロボー以外の何ものでもない。と、そう私は考えなくもない。

「キムヨナ=八百長女王」論は差別排外主義を孕んだ社会主義

オリンピック本番でのキムヨナ姫の羽毛のように軽やかでビロードのように滑らか、そして、鬼のように強かった演技を反芻するに、浅田真央選手とキムヨナ姫を比べた場合、代表選手としての人格、否、このオリンピックに賭ける<覚悟>の度合では大人とお子様の差があった。

そして、繰り返しになりますが、この現実を直視しないでする「陰謀論-八百長論」は、それが何がしか正しいとしても、所詮「酸っぱい葡萄」の類の、「負け犬の遠吠え」であり、それは、(伝統の恒常的な再構築、漸進の前進、反教条主義、自己の伝統の尊重と同時に他者がする伝統の尊重をも好ましいと感じる)言葉の正確な意味での「保守主義」とは相容れない差別排外主義、あるいは、権力とルールの万能感をアプリオリに措定する教条主義的な社会主義、または、その両方に他ならない。と、そう私は考えています。



 




◆浅田真央は「ルール変更」如きに右往左往しなかった本物のアスリートか
浅田ファンのブログを覗いてみると、「陰謀論-八百長論」を唱える多数派に混じって、少数ながら、(ヨナ姫との得点差には疑義を呈しながらも、勝敗に関しては完敗であることを潔く認め)ルールを最大現に利用できなかった浅田陣営のシャビーな指導力に怒りを爆発させておられる向きもある。けれども、私は、19歳とはいえオリンピック代表選手たる者、その責任は周りではなく本人が負うべきだと考えます。

まして、ジュニア時代の両者の成績を鑑みるに、資質的にはヨナ姫よりも浅田選手が上かもしれないことを考えれば、バンクーバーオリンピック本番での両者の歴然としたパフォーマンスの差は、ヨナ姫と浅田選手のこの試合にかけてきた<覚悟>の差に収斂するでしょう。而して、それは自己に課された期待に応える使命感をどれだけ真摯に受け止めていたかの差でもある。ならば、やはり、

浅田真央は「ルール変更」を理解できなかった愚者

に尽きるのでしょうか。私は、一応、そう断ぜざるを得ないと思います。少なくともその側面は誰も否定できない、と。しかし、逆に、自己のスタイルに殉じたとはいえ、自己ベストの205.50点で見事に銀メダルを獲得したこの19歳を誰が非難できるでしょうか。これは感情論ではない。浅田選手は自己責任の原則を貫いた。すなわち、「愚な税金ドロボー」との批判を甘受しつつ、同時に銀メダルという成果を出したのですから。

自己責任の原則の貫徹と自己のスタイルの貫徹

而して、この自己責任の原則の貫徹、自己のスタイルの貫徹という切り口から、浅田真央選手のもう一つの側面が演繹されるかもしれない。ブログ友の桜乃宮アリス姫の記事を読んでそう私は思いました。

・女子フィギュア/浅田真央が魅せた日本
 http://blogs.yahoo.co.jp/kira_alicetear/24099280.html


アリス姫の記事の要旨は以下の通り、


特定の者が有利になり得るルールに粛々と従い、効率良く効果的にメダルを狙う。それがダメだとは言っていません。ただ、国際的なベクトルがそちらに向かう中で、そのルールとの整合性を模索しながら、それでも3Aへのこだわりを、例え不利になるとわかっていながらも捨てず、「世界初」なるものの殆どが粗雑なものになりがちであるフィギュアにおいて、文句なしの完璧さまで仕上げたこと。これは、何ものにも変えられない、「誰も手にする事が出来ない」価値のあるものだと、日本人なら理解出来るでしょう。

野球ではイチロー選手、サッカーでは中田選手など、既存のルールの中にあって整合性を模索しつつ究道精神に基づき「自己」を体現してきた共通項があるのですね。・・・「世界を相手に喧嘩を売る」というのは日本にとってはそういうことではないかと考えています。(中略)

オリンピックは「国と国の勝負」です。・・・しかし「メダル獲得競争」も結構ですが、日本人の美意識は「何としてでも(ルールを変えてでも)メダルを獲る」というオリンピックの不文律を肯定することには抵抗があるんですよね。

寧ろ「それはそれ」と認めた上で、「究道」における目的達成を称えることが日本社会のあるべくしてある姿だと考えています。「他者との勝負」ではなく「自己との勝負」の結果がメダルであるならとても素晴らしいことですね。今日の浅田真央選手の銀メダル獲得は、このことを再認識する上でとても有意義なのです。(以上、引用終了)    






ネットの辺境でキムヨナ称賛を発信している私の主張とこのアリス姫の主張は、南極と北極の対極にありながら、実は、時空の歪みの中で背中合わせのものではないか。そのことを、浅田選手に引き付けて敷衍します。

蓋し、

オリンピックは戦争だから、「参加することに意義がある」などということは断じてない。金メダルが、そうでなければメダルが、そして、それが無理な場合はせめて一つでも上の順位が代表選手の目標とされるべきこと、これは動かないと思います。

けれども、自分が世界のTop水準のアスリートになる、そして、その水準をキープするモティベーションの源泉として、自分のスタイルの美意識を貫くことはありうることでしょう。ならば、自分にとって肝心要のその自分のスタイルを目先の勝利の確率を上げるために放棄することは、勝利どころかアスリートとしての自己の存在理由を否定するものに他ならない、と。正に、大賢は大愚に似たり、です。    

土台、自分のスタイルを追求できないのならばアスリートとして努力精進する意味はない。そして、アリス姫の理路にここで合流すれば、我々観衆も、そのような自分のスタイルの美意識を貫いた日本代表選手が勝利を目指す姿に感化され感動するのであって、スタイルと勝利の優先順位は「スタイル→勝利」であってそれ以外ではない。而して、この経緯は(私の乏しい海外経験からは)日本だけでなく英米でもドイツでも共感をもって受け入れられるものと思います。

勝利のための戦略に自己のアスリートとしての美意識は優先する

アリス姫の記事でイチロー選手や中田英寿選手の名前を目にしたとき、私は(もちろん、誰しも連想する野茂英雄選手とともに)もう一人の名前が浮かんだ。それは将棋の藤井猛九段。かの有名な「藤井システム」(要は、居玉で戦端を開く急戦振り飛車の定跡)を考案した振り飛車のエキスパート。

藤井九段は、全国の天才少年が犇くプロ棋士の登竜門たる奨励会でなかなか勝てなかった頃を回想してこう語っておられる。勝率が悪いからといって、もし「振り飛車を止めて居飛車を指してみろ」と周りに言われたら、多分、将棋を止めていたと思う、と。蓋し、どこまでもアスリート、アーティストにとっての優先順位は「スタイル→勝利」であり、当時の藤井九段にとって振り飛車戦法は自分の存在理由だったということです(ちなみに、藤井九段は昨秋「振り飛車党脱退宣言」とも取れる発言をしていますが、これは本稿とは位相を異にする問題でしょう)。畢竟、

浅田真央は「ルール変更」如きに右往左往しなかった本物のアスリート

と言えるのではないでしょうか。ならば、バンクーバーでの浅田選手の玉砕は称えられるべきであっても、全否定されるものではない。而して、4年後、2010年に引き続きフィギュアスケートの神様は新女王の演技に憑依するに違いない。そして、その新女王とは、自己のスタイルを貫く中でルールとの上手な付き合い方を身につけた、そして、必勝の<覚悟>を秘めた本物のアスリート。浅田真央その人であること。私はこのことを毫も疑いません。



<以下、資料編に続く>


浅田真央は「ルール」を理解できなかった愚者か-採点基準考(上)~(下)








 ・ソチオリンピック☆私は当然、キムヨナ姫を応援する
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/93f56ef107bf381d1202a1d543bbd9fd


 ・アッキー、昭恵夫人の韓流観劇de感激に感心!
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/403f3005396f90cba34f1dff3556be26




   


 


 

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2010年02月28日 16時23分58秒 | 日々感じたこととか



あれから48時間。すでに<歴史的事実>になってしまいましたが、バンクーバーオリンピック女子フィギュアスケート、私が応援していたキムヨナ姫が世界歴代最高(「銀河系歴代最高」とも言う)の228.56点で優勝を飾りました。正に、ヨナ姫は「羽毛のように軽やかでビロードのように滑らか、そして、鬼のように強かった」。而して、本稿は、キムヨナ姫の歴史的な(both historical and historic)演技の余韻を反芻する中で、「ルールとパフォーマンス」を巡る日本の社会の一種歪な認識を俎上に載せるものです。

尚、私自身、フィギュアスケートの全くの素人。よって、この記事での思索が、憲法無効論の如き、あるいは、無防備都市宣言推進論の如き、「素人の思い込み」に基づく妄想に陥ることをできるだけ避けるべく、フィギュアスケートの評価システムの来し方行く末について専門家が論じたコラム「Figure skating scoring is not what it used to be」(Washington Post, February 26, 2010)を資料として本編記事と併せて紹介することにしました。


多くの浅田真央ファンの読者に少なくない違和感や抵抗感を与えつつ、私はなぜに<執拗なキムヨナ選手支持>を繰り返してきたか。それには複数の理由があります。

要は、

(1)個人的にキムヨナ姫が好き
チェジウ姫ファンの私ですからヨナ姫の容姿はもちろんのこと、彼女のカトリックの信仰、学歴重視の私の琴線に触れる名門高麗大学の学生であるという事実、そしてなにより、言動の端々に感じられる「母国への燃えるような愛国心」とその裏面としての「韓国人ファンの粗雑さや外国人選手に対する失礼な振る舞いに対する嫌悪の感覚」が一個の19歳にごく自然に融合している好ましさにグッときたこと。

(2)バンクーバーオリンピックに賭けるヨナ姫の覚悟
神の御加護の下、悪魔に魂を売ってでも「何が何でも金メダルを取る」という迸る覚悟。その目的設定から逆算した合理的戦略選択、および、その戦略を鉄の意志で貫徹する精神力が19歳ながら尊敬に値すること。

実際、ヨナ姫はこの3月の世界選手権を最後にプロ転向が既定路線ですから(浅田選手とのオリンピック対決は今回が最初で最後になります)、そういう意味でも、何が何でも今回のオリンピックで金メダルを取るという<覚悟>の面で浅田選手はヨナ姫に完全に劣っていた。高難度のジャンプ勝負を避け各エレメンツ(とエレメンツとエレメンツ間の移行)の完成度を上げることに特化したヨナ姫の一貫した鉄の意思は凄いと思いました。

野球に喩えれば、ヨナ姫のフリー演技は、抜群の制球と配給、そして、ここぞという場面では勇気をもってど真ん中に投げ込む「超スローボール」の連投で達成されたノーヒットノーランとさえ言えるでしょう。それに対して、フリー演技での浅田選手は、160キロ近い剛速球と切れ味鋭いフォークを武器に三振の山を築きながらも、下位打線に2本のツーランホームランを許し、結局、7回三分の2で降板したごく普通の勝利投手だったの、鴨。

(3)キムヨナ的スケートの私的な好ましさ
元々、私が、飛んだり跳ねたりの「サーカス」ではなく流れるようなスケーティングを美しいと感じる観客であること。実際、贔屓目からでしょうが、ヨナ姫のフリーの4分間は「上等なビロードが凛としてかつ豊潤な時空を流れるような美しさ」を感じた。もう、絶句。個人的にはもっと点数が出てもいいんじゃないかいと思ったくらいです。それに対して、浅田選手の演技は、ギクシャク以外の何ものでもなく、彼女の売り物であるジャンプは演技の流れをぶつ切りにしていたという印象さえ受けました。


という(1)~(3)のキムヨナ選手にまつわる3個の理由。そして、結果的にも、「キムヨナ姫 Vs 浅田真央選手」という、バンクーバーオリンピック女子フィギュアスケートの頂上対決が端無くも露呈させたと思われる、同じく3個のこの日本の社会に対する危惧が私のキムヨナ姫応援の理由です。

すなわち、ヨナ姫が戴冠することで下記の(4)~(6)の問題性が誰の目にも明らかになるのではないか。ならば、「ヨナ戴冠-浅田玉砕」は日本のフィギュアスケートファンにとっては苦い経験だとしても、トータルでは日本のためには吉祥でさえある、と。

(4)日本のスポーツ界の政治力の欠如
自国選手とコーチを守れなかった日本スケート連盟の政治力のなさは軽蔑に値します。蓋し、「敵=キムヨナ」側が、演技構成点(5コンポーネンツ)と技術点におけるGOE(Grade of Execution)で大量得点する戦略であることは数年前から明らかだったのに、①浅田選手の戦術方針を「トリプルアクセル命の大艦巨砲主義」から変えさせるか、②演技構成点とGOEの評価基準の明晰化や透明化、個々の審判員のする判定の可視化と記録化、そして、より浅田選手に有利な(百歩譲っても「浅田-キムヨナ」双方にとってニュートラルな)評価ガイドライン改訂を国際スケート連盟(ISU)に行なわせる努力を怠ったこと。

(5)国規模での日本のスポーツ支援体制のお粗末さ
オリンピックは<戦争>であるという当然の認識の欠如。而して、(4)の②ともリンクしますが、日本国政府としてのISUへの圧力の不在、なにより、選手発掘・育成・訓練に向けた日本社会の資源配分のお粗末さへの危惧。

(6)日本社会に蔓延する国際機関やルールに対するナイーブさ
国際連合(UN)にせよ国際スケート連盟(ISU)にせよ、「平和」なるものや「スポーツ」なるものに関係する国際機関への性善説的な<幻想>や超国家的な権威を認める<妄想>、他方、それら国際機関が定めたルールの<神聖視>や<普遍視>、更には、審判員の下すジャッジに対する<公平性>や<無謬性>の素朴な期待が蔓延するこの日本社会への警鐘。

    
これら6個の理由に基づき、私は何憚ることなくキムヨナ姫をめいっぱい応援した。そして、ヨナ姫も「現役の世界チャンピオンは金メダルを取れない」というジンクスを破って圧勝してくれた。正に、大願成就。尚、私のヨナ姫応援については下記の過去記事を参照いただければ嬉しいです。




・いよいよ本番☆私はキムヨナ選手を応援する<再掲>
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/96f3164f231fa302690e8d289349b866


・空想的社会主義の惰眠を貪る左右の日本人に喝☆頑張れキムヨナ姫!
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/12e378fdcd423a5cfb4c38771341b0f1


・海外報道紹介☆キムヨナ姫、オリンピック優勝!
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/4ba2bd17cdfd7009a56a7670d87ad229


 


そして、


・キムヨナを<物象化>する日韓の右翼による社会主義的言説



 


・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65226757.html


 


 




◆浅田真央は国際的謀略に嵌められた悲劇のヒロインか
浅田選手贔屓のブロガーの中では、キムヨナ姫の金メダルは、ISUを巻き込んだ韓国の組織的な謀略の結果であり(金銭授受という意味では必ずしもなく、キムヨナ側に有利な採点基準の設定や、キムヨナ姫の演技に予め高得点を付ける申し合わせができていたという意味での)「八百長」に近い金メダルだという言説が少なくないようです。しかし、私はこのような、「陰謀史観」の如き言説は「負け犬の遠吠え」「酸っぱい葡萄」「引かれ者の小唄」の類のものであり、而して、現実を直視することなくこのような責任転嫁的の言説を弄する輩は、差別排外主義を喧伝する国辱ものの論者に他ならないと考えます。

蓋し、

・演技構成点の各コンポーネトのスコア基準が曖昧で抽象的

・GOEの(減点基準はいくらか明確としても)加点基準が曖昧で抽象的

・キムヨナ選手のスコア(就中、GOE)は男子に比べても異常に高い

・ISUの評価ガイドラインの改訂自体が、最初からキムヨナ選手を勝たせるストーリーに基づく「八百長」だ。例えば、昨年のGOE加点ガイドラインでは、ジャンプは「高さまたは飛距離が素晴らしい」から今年は「高さと飛距離がよい」に変わったが、これは、(強いて言えば長めのアプローチから)垂直飛びに近い軌跡を描く浅田選手のジャンプの加点を抑えるための変更だった、

・ここ2年の国際大会のスコアの流れを俯瞰すれば、浅田選手が難度の高いジャンプをプログラム入れた直後、キムヨナ選手のGOE加点と演技構成点はインフレしてきた。この両数値の相関関係は偶然の一致とは到底思えず、採点ガイドラインで先回りして浅田選手が勝たないようにしているとしか思えない、等々。

    
このような「キムヨナ:浅田真央=八百長女王:悲劇のヒロイン」説に対して、私は上で述べた同じ6個の理由からかなり批判的なのです。

蓋し、確かに「八百長」はあったのかもしれない。私もそのことを否定はしません。けれども、その「八百長」はルールの範囲内のものである。また、オリンピックやサッカーワールドカップは<戦争>であり、ルールに反しない限り何でもありの世界である。ならば、「敵=キムヨナ」陣営がルールを最大限に利用して自己の優位を築いたことは称賛されるべきことではあっても断じて非難されるものではない。蓋し、採点競技は「八百長もルールの中」であり、プロレスの世界王座決定線と一緒で八百長でも勝った方がチャンピオンなのですから。

・オリンピックは<戦争>だ
・自陣営が有利になるべくルール改訂を働きかけるのは当然だ
・八百長もルールの構成要素だ
・ルールを最大限に利用した勝者への批判は負け犬の遠吠えにすぎない


畢竟、オリンピック代表とそのスタッフ位の水準になれば、ルール改訂交渉の段階から戦いが始まっていること、そして、勝ちたければルールを最大限に利用すべきこと。そんなことは百も承知でオリンピックのリンクに臨んでいるはずでしょう。ならば、日本選手の数倍のプレッシャーの中で(審判員が一層「八百長」がしやすい)完璧な演技を演じたヨナ姫を褒めるべきであって、「キムヨナ=八百長女王」論などは失礼千万である、と私は思うのです。実際、プロ転向が既定路線の彼女はこれが最初で最後のオリンピック、また、スポンサーの意向と収入面もそうだけれど、韓国を愛するが韓国ファンを必ずしも好きではない彼女が金メダルを取れなかった場合、彼女は国に帰れなかったかもしれないのだから。

いずれにせよ、このバンクーバーオリンピック女子フィギュアスケートのイベントを通して、国際大会やルールの公平性や普遍性を素朴に信じているとしか思えない多くの日本人の感覚が私にはむしろ問題だと感じました。それは、所謂「国連至上主義」や、「ソ連=平等の王国」「アメリカ=自由の王国」「欧州=人権の王国」等々とアプリオリに捉える感性、あるいは、憲法を普遍視する憲法無効論の妄想や憲法9条教の戯言と表裏一体のものなの、鴨。と、そう私は考えています。


<続く>


 

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贔屓の稀勢の里関が初優勝した。

あの、つよいつよいモンゴルの3横綱と内容面でも勝敗でも互角なのに、

場所序盤や優勝の行方が決まる最後の5日間に平幕力士にころころ負ける(唖)

不思議なひと。

 

私は、スポーツの贔屓に関しては「日本人枠」を設けない。だって、

 

>キムヨナ姫=神功皇后

>南朝鮮やベトナムの女子サッカーフル代表チーム

>まして、ドイツの女子サッカーフル代表とか女子ホッケー代表は贔屓中の贔屓

(↑天理大学女子ホッケー部のひとごめんなさい!)

 

大好きだものね。でも、稀勢の里さんは好き。そして、本当に不思議なひと。

これ、修士号を持つアメリカ人同僚の誰しもが認め尊敬する英語力があるのに

なぜか、

 

>TOEIC990がとれない彼女とか彼とか

 

の感じ、鴨。

 

>おまえだ! → 聞いてるか「おまえら!」今度オフ会で話題にするかんな!

 

講師研修/教材開発担当部署にいる、おまえがなんで最高点が975なんだよ!

本部長/執行取締役職で(別に英語力はいらん)俺でも受験したら

受験回数のうち3割は990くらいとるぞ!

てな、そんな不思議なひとだった。ということで、

 

稀勢の里関、優勝おめでとうです。

これからこそ、頑張ってくださいね。

毎回990とれる力、あなたにはあるのだから。

と、そう思います。

 

・・・・・・

・・・・・・

・・・・・・

 

で、で、で、(涙)

石川佳純さん、負けちゃった。

しかも、内容的にも(正直)完敗(涙)

 

「勝てるかもしれない相手に対して(←あの未成年の小娘はそこまで強くなっていた!)

絶対、勝つ」。と、そう気合を入れすぎたのかな?

専門家ではないのでよくわからないけど。

 

今後はどうする? 

この点、昔、将棋の米原九段が(自分はもう強くはない!)と悟って、弟子筋に最新流行の序盤戦型を教えてもらい、その後、最高齢で名人位を獲得した故事が思い浮かぶ。

石川佳純さんには「自分はもう弱い」と--つらいだろうけど--発想をあらためて、臥薪嘗胆はしなくてもいいけど捲土重来してほしい。できるさ。だって、佳純さんはやっぱり強いんだもの。それにかわいいし、長州の出身だしね。

 

これからこそ、頑張れ佳純・稀勢の里~!

 

以上

 

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    昨日の試合(イラク戦@埼玉スタジアム)、なにかしら「既定路線」とは違ったような?  ひょっとして、日本、今回もワールドカップに行ける、鴨。次のオージ戦でもし勝つようなら、なら、なら、そうなったならサッカーワールドカップ出場の可能性「51%」になる、鴨。

    と、わたしは、そうわたしは思います。

    清武・長谷部・吉田・ほんだ~、良かったよ~

    期待がすこし芽生えたかも。
    自宅の庭草も「芽生えている」から、たぶん()。

    頑張れ、日本


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    月読姫命


    石11川佳純

     
     
    日本のリベラル派の言論の中では、「右傾化」とか「前のめり」とか、「偏狭なナショナリズム」とか「政治的中立」等々の意味不明の言葉が流布しているようです。蓋し、朝日新聞の社説を見ればこれらの指示対象を欠く<詩的言語>の展示即売会状態。そして、例えば、安倍政権の右傾化を危惧する朝日新聞元主筆の若宮啓文氏も、毎日新聞特別顧問だった岩見隆夫氏との対談(「論争対談・憲法改正は是か非か」中央公論 2013年 4月号所収)の中で、岩見氏に「右傾化ってなんですか」と聞かれて、それがはっきりした意味を持っていないことを認めていますものね(笑)。そして、最後には「右傾化とか、右翼と左翼という区別にあまり意味はない」(p.85)と口走っている(爆)。

    ならば、リベラル派は、例えば、集団的自衛権の政府解釈見直しとか、憲法改正、河野談話および村山談話の見直しとか、首相の靖国神社参拝、公立学校での日の丸・君が代の尊重等々のポレミックなイシューで自分達の主張と反対の動きに便宜的に「右傾化」というレッテルを貼ってるだけということ、鴨。ならば、この言葉、「AKB化」とか「裏千家風」とか、なんでもいいんじゃないんでしょうかね。

    而して、本稿はこのような<言葉>に対する問題関心を軸にして、オリンピックとナショナリズムを巡る関係を一瞥するものです。というのも、日本では、いまだに、「ダルビッシュ投手は、・・・日の丸の重みになど負けず、ボールを言語として野球というスポーツを戦おうとしている。日の丸はただチームの象徴であるだけだ」(朝日新聞・2008年8月12日)とか「五輪憲章に「オリンピック競技大会は個人種目または団体種目での選手間の競争であり国家間の競争ではない」と規定されている。・・・五輪で国は深い意味合いを持たない」(朝日新聞・2010年2月24日)などという無知蒙昧の反日リベラルの言説が堂々と全国紙の紙面に掲載されているから。

    敷衍します。確かに、『オリンピック憲章:Olympic Charter』(2010年2月11日版)の(Ⅰ章6-1)には、「オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」(The Olympic Games are competitions between athletes in individual or team events and not between countries. )と書いてあります。では、なぜ、無知蒙昧とまで書くのか。

    はい、それは--論証は下記拙稿をご参照いただきたいのですけれど--、五輪憲章においてさえ「五輪で国は深い意味合いを持たない」ということは全くの間違いだからです。きっぱり。

    蓋し、オリンピックは民間の法人(IOC)が勧進元として運営する大会、よって、土台、オリンピックが国家を代表する選手で運営されることはないのです。けれども、オリンピックの出場選手は各国のオリンピック委員会(NOC)が選択した選手に限られており、また、NOCと国との関係は五輪憲章上からも不可分というか表裏一体のものということ(Ⅳ章27, 30, V章II-40, 41)。よって、この「五輪と国」の関係を巡る現象はオリンピックやサッカーワールドカップを契機にして「ナショナリズム」を政策的に高揚させる国もあれば、それほどでもないかなーという国もあるという、程度問題にすぎないのだと思います。

    ・決定! 東京オリンピック2020--
     筋違いの<五輪幻想>から解脱して素直に喜びませんか(上)~(下)
     (中の後半から下で「五輪と国」の位置づけについて詳述しています)
     
    http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/fa85b8d450d4bd78e80bbfac862f7fb6 


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    いきなり結論に行きます。蓋し、(ⅰ)オリンピックをどう位置づけるかは五輪憲章などに拘束される筋合いはなく、各国、各人の自由であるということ。
     
    ならば、五輪憲章に「オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と書いてあろうが、あるタイプの国が--例えば、支那とか韓国とか北朝鮮のような国が--オリンピックやサッカーワールドカップを契機にして「ナショナリズム」を政策的に高揚させることは悪趣味としても自由であり、また、あるタイプの国では--例えば、日本や米国や英国では--その国民が「ナショナリズム」を満喫する、すなわち、ある種のカタルシスとアイデンティティの確認を国民総出で体験する--時空をまたぐ<行く年来る年→速攻の初詣>ともいうべき--イベントとしてこのスポーツコンテンツを消費するのも自由であろうということ。


    而して、「ナショナリズム」とは何か。

    と、そんな大仰な議論はここでは割愛して--逃げるわけじゃなかです。詳細は下記拙稿をご参照ください、眠たくなるのはほぼ確実でしょうけど(泣笑)--、(ⅱ)オリンピックやサッカーワールドカップという契機を通して消費される「ナショナリズム」とは、文字通り、「国民国家-主権国家」に憑依するものであり、厳密に言えば、エスニシティ―に憑依するものではないということ。

    ならば、(ⅲ)エスニシティ―とは異なり極めて歴史的に特殊な観念表象である<国民>が、そう自然な存在ではなく人工的なものであるとすれば、その<国民>を社会統合することが「国民国家-主権国家」の最大級のタスクであると考える場合、オリンピックやサッカーワールドカップを利用するか借用するかの差は置いておくとしても、オリンピックやサッカーワールドカップという<場>が「ナショナリズム」の祝祭になることはなんら問題ではない。と、そう私は考えます。

    畢竟、オリンピックやサッカーワールドカップは<戦争>なのです。ならば、<戦時国際法>を順守する限り、オリンピックやサッカーワールドカップなどはなんでもありの世界である。だから、ノーベル平和賞とかに公平性や普遍性をなにがしか期待する以上に、究極のところ、オリンピックやサッカーワールドカップに公平性などを期待するのは愚かなことだ。と、そう私は思います。

    而して、英国の平和主義者、ジョン・ラスキン(John Ruskin;1819年-1900年)が喝破した如く、「戦争はすべての技術の基礎なのだ。というのも、戦争が人間のあらゆる高い徳と能力の礎だという意味でもある。この発見は、私にとって何とも奇妙で、非常に怖ろしいことだったが、けっして否定出来ない事実に思えた・・・。簡単にいえば、偉大な国民はみな、その言葉と真実と思想の力を戦争で学ぶこと、戦争に養われ平和に消耗させられること、戦争に教えられ平和に欺かれること、戦争に鍛えられ平和に裏切られること、要するに戦争で生まれ、平和で息を引き取ることがわかった」という認識。

    よって、戦争を直視すること、すなわち、戦争を含む非常事態が惹起する恒常的蓋然性から目を背けるべきではなく、それに常に備えるべきなのだという認識がそう満更間違いではないとすれば。「国民国家-主権国家」とその<国民>は、オリンピックやサッカーワールドカップという<戦争>に真面目に取り組まねばならない、とも。


    (ⅰ)オリンピックやサッカーワールドカップをどう位置づけるかは見る側の自由である
    (ⅱ)「ナショナリズム」とは「国民国家-主権国家」単位に成立する観念表象である
    (ⅲ)オリンピックやサッカーワールドカップが「ナショナリズム」の祝祭なのは当然である



    ・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
     
    http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html

    ・天皇制と国民主権は矛盾するか(上)~(下)
     
    http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11136660418.html

    ・国家神道は政教分離原則に言う<宗教>ではない
     
    http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/e9bd71b8e89b78acebe2041a11217ee4
     
     
      
     
    オリンピックやサッカーワールドカップを巡ってリベラル派は何を危惧しているのか。リベラル派になったことは一度もないので想像するしかありませんけれど、それは、おそらく、「国民国家-主権国家」を超える<地球市民>という彼等の諸々の主張を支えるイメージがそれらのイベントコンテンツを通して、ますます、その神通力を失うことなの、鴨。と、そう感じます。

    敷衍すれば、グローバル化の時代、ある「国民国家-主権国家」が果たせる行政サービスの領域や能力は逓減している、そして、だからこそ、「国民国家-主権国家」の必須のタスクたる<国民>の社会統合における「国民国家-主権国家」への期待は大きくなってきた。こんなパラドキシカルな状況を前に、「国民国家-主権国家」も<国民>も、リベラル派が喧伝してきた<地球市民>なるものからますます離れ、<ナショナル>なものに向かうことに彼等は茫然自失しているの、鴨。まー、想像ですけどね。

    蓋し、ナショナリズムとは元来、多様な民族を百花繚乱的に包摂していたより普遍的な--ある意味、一個の宇宙とでも言うべき--<帝国>が解体した後、それの民族よりは同質性の高い--言語・文化、歴史認識において同質性の高い--幾つかの民族を囲い込むための<政治的神話>だったのだと思います。

    だってね、英国のスコットランドとか、スペインのバスクとか、あるいは、アイヌの方とか沖縄の人とかを想起するまでもなく、あのー、九州や関西と神奈川や山形ではね、お餅や味噌だけでなく、結婚の際の新居の準備を新郎新婦のどちら側が負担するかさえルールが違いますから。つまり、ナショナリズムを、アーネスト・ゲルナーの言う如く「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」と定義するとしても、その「民族的単位」には幾分の多様性はあるということ。


    而して、重要なことは、はっきり言えば<嘘>である、<日本国民>や<フランス国民>の一体性や等質性なる<政治的神話>は、しかし、グローバル化の中で資本主義の暴力と、あるいは、東アジア地域における特定アジア諸国の脅威にさらされている日本国民を想起すれば自明なように、現在の人類史においては人々にとって<役に立つ嘘>であるということ。そして、繰り返しになりますけれど、だからこそ、その<嘘>の効果を維持強化することは冗談抜きに重要な国家のタスクであり、ならば、その国民がオリンピックやサッカーワールドカップを契機にナショナリズムを満喫することに反日リベラルはいちゃもんつけるんじゃねぇー! と、そう私は思います。

    畢竟、<国民>の権利と<外国人>の権利が異なるのは当然なのです。ただし、オールオアナッシングではなく当然に<外国人>に認められる権利は存在する。よって、問題は正当な<外国人>の権利の侵害であり、それは実は、ナショナリズムとは無関係。なぜならば、権利の正当性を決めるものはナショナリズムに底礎された憲法秩序でしかないからです。

    而して、所謂「ヘイトスピーチ」を規制する立法というものは、実は、あたかもメシアの出現を待ち望むかの如く、<地球市民>なるものの到来を指折り数えて待っている日本独特のリベラル派の色彩よりも、間違いなく、些か多様な人々を「国民国家-主権国家」につなぎとめる極めてナショナリズムの色彩が濃厚なものでしょう。ならば、<国家>に対する<国民>の社会統合のパフォーマンスが、そんな立法が必要な欧州各国程にはお粗末ではない日本ではそんな--表現の自由を表現内容を基準に一律に規制するなどという、英米の憲法訴訟論の見地からはほとんど<ナチス>や<スターリン>や<毛沢東>ものの--立法は不要。

    そして、「偏狭なナショナリズム」なる指示対象のない意味不明の言葉で語られる事象に、本当に何か社会的に解決すべき問題があるとすれば、その行為者の行動を個別に批判すればよい。畢竟、「偏狭なナショナリズム」なり「偏狭なAKB48」なりの意味不明の言葉で、十羽一絡げ的に「ナショナリズム」自体に問題があるとするリベラル派の言説は論理的にも思想的にも破綻している。と、そう私は考えます。



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