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テーマ:スポーツ
January 23, 2012 10:56:40

 

 

2011年サッカー女子ワールドカップ・ドイツ大会。なでしこジャパンの優勝。その結果はもちろん嬉しかったけれど、日本代表の戦いを見ていて改めて感じました。日本は本当に強くなったと。

 

国立競技場で行われる(女子リーグなど影も形もない大昔のこと、男子リーグの)優勝決定戦でさえ閑古鳥が鳴いていた日本リーグ時代を知っている私のような世代の者にとっては(それは、メキシコオリンピックの殊勲の銅メダル獲得からジョホールバルの奇跡までの長い長い停滞の季節を知っている世代。TVマンガの『熱き血のイレブン』やTV学園ドラマの『飛び出せ青春』を見て育った世代にとっては)、男女ともワールドカップ出場がフル代表の当然のノルマの如くにさえなった現状は、正に、夢のよう。

 

б(≧◇≦)ノ ・・・にゃー、夢なら覚めないで~♪

 

いずれにせよ、サッカーは素晴らしい。ブラジル人やドイツ人の友人が真顔で語るように「サッカーボールを中心に地球は廻っている」、と。このこともまた、昨年、<2011年3月11日午後2時46分>の年のサッカー女子ワールドカップ、なでしこジャパンの優勝への軌跡を通して再認識したことです。

 


◆「審判」のいないサッカーは単なる野っ原での球蹴りである
イングランドを第8回ワールドカップ優勝に導いたボビー・チャルトンだったでしょうか、「サッカーは戦争のようなものなどではなく戦争そのもの」「昔はサッカーは人生と同じくらい重要だと思っていたが、今は、サッカーは人生よりも重要だということが解った」と語った。例えば、女子サッカーの東アジア大会という地球規模のサッカーの地政学からは辺境で行われる親善試合でさえ、彼の言葉が真実であることをいやでも感じさせる。ヨーロッパには「サッカーは子供を大人にし、大人を紳士/淑女にするスポーツ」という箴言があるらしいのですが、蓋し、それは至言でしょう。

 

それがゆえに、と言うべきでしょうか。例えば、2008年に開催された前回の女子サッカー東アジア大会では、特定アジアチームのトンデモなさ、加之、確信犯的ともいうべき、特定アジアのトンデモ審判のありようも一層目についたというもの、鴨。

 

審判やルールが機能しないのならサッカーは単なる野っ原で行われる球蹴りにすぎません。そうなれば、サッカーは、いい大人がする球蹴り遊びであり、「大人を子供にし、紳士淑女を強盗や売春婦にする悪しき戯れ」にすぎないと思います。ルールと審判が権威を持ちゲームを枠づけて初めて、サッカーはサッカーという世界共通語となり、ワールドカップを始めとする国際試合はその共通語を通して行われる異文化コミュニケーションの場となるのではないでしょうか。

 

ルールと審判がゲームをコントロールして初めて多様な民族の文化はピッチ上で華開く。ルールと審判が権威を保持しているからこそ大番狂わせに観客はカタリシスの涙を流し、敗れ去った優勝候補国の選手はサッカーが人生を超えるsomethingであることを思い知らされる。そう、「サッカーは人生よりも重要なのだ」、と。

 

例えば、2002年日韓ワールドカップ。アルゼンチンの予選リーグ敗退が決定した瞬間、宮城スタジアムのピッチに崩れ落ちたバティステュータは、もし、2002年6月12日、アルゼンチン対スウェーデン戦において審判とルールが審判やルールとして機能せず、審判やルールとしての権威を保持していなかったならば、いい歳(32歳)をして球蹴り遊びの結果に泣き崩れる愚かな大男に他ならなかった。それは、2006年ワールドカップドイツ大会で日本の予選リーグ敗退が決定したとき、独りピッチに倒れこんで泣きはらした中田英寿や、2011年のサッカー女子ワールドカップ準々決勝で日本に敗れてピッチ上で茫然自失状態に陥った何人かのゲルマン娘達にも言えることでしょう。

 


◆サッカーは世界の共通語
サッカーの国際試合は<世界>を身近に感じることのできる<窓>であり<メディア>でしょう。そう私は思います。而して、繰り返しになりますが、サッカーはその<メディア>で話される<世界共通言語>に他ならない。サッカーという言語を覚えることで、人は国際試合という窓を通して世界を感じ取ることができるようになるということです。

 

サッカーという言語によって人は、自己のアイデンティティーと世界の多様性を、そして、逆に多様性を突き抜ける人間性に普遍的なsomethingを感じ理解することができるのだと私は思っています。その意味でサッカーとは総合芸術、就中、舞踏芸術に近いかもしれない。而して、サッカーというその舞踏芸術で表現されるモティーフは民族性であり国民性、民族の誇りであり国民の名誉とプライドである、とも。

 

他方、サッカーは国際政治の顕現でもある。蓋し、サッカーワールドカップは、民族性と民族の誇りというマグマがビジネスや政治という回路を通って人類史の地表に衝き上がってくる4年に一度のイベントなのではないか。世界共通語であるサッカーの本性と、国際政治そのものであるサッカーワールドカップを想起する時、そのようなサッカーを日本人の多くが始めて肌で感じたのが日韓ワールドカップであり、それ以前の日本とそれ以後の日本、すなわち、2002年5月31日-6月30日までの日本人とそれ以後の日本人は何かが、しかし、確実に変わったのではないか。

 

人間そんな簡単に変わるものでも変われるものでもない。けれども、人間のものの考え方や感じ方は文字通りもの心のついた後はそう簡単には変わらないにしても、他者に対する行動パターンや世界像は何歳になっても劇的に変わりうると思うのです。

 

日韓ワールドカップは日本人にとって、正に、そのような世界に関するイメージとそのイメージを基盤とした他者への接し方を変化させたのではないか。この点に関して、私は2002年の日韓ワールドカップの最中、小田急線の車中で聞いた女子大生の会話をいつも思いだします。もう、10年前のことだけれどクッキリと覚えている。

 

●うちのおかん全試合見てるんだよ。最初はルールも解らず見ていたらしいけど、「この間のイタリアと韓国の試合、絶対、審判のミスジャッジだったわよ」とか言ってる。あの審判、韓国に買収されたに決まっているって。


☆ふうーん。あんたんとこのお母さんイタリアフアン?

●うう~ぅん。応援しているチームもないらしい。でも、「今日はいい試合があった」って、「録画しといたからあんたも見れば」なんて感じ。


☆へーぇ。で、それどことどこの試合?


●忘れた。アフリカと中南米の試合だったかな(KABU註:本当はトルコ対コスタリカ戦。もちろん、トルコはヨーロッパの代表である!)。でも、確かに面白かった。パスが正確で攻守の切り替えが速かったから見てて飽きなかった。


☆スリーバック? フォーバック?


●どっちもフォーバックだったかな? ひょっとしたらアフリカの国(KABU註:こら、そこの女子大生。トルコはヨーロッパ代表やちゅーねん!)はスリーバックだったかも。だって、私もワールドカップの1週間くらいに前にオフサイドとかルール覚えただけだしさ。あんただって、ゴールデンウィーク明けに飲みした時には、先輩に「サッカーて何人でやるですか?」って聞いてた人じゃん(笑)


 

サッカーは言語である。それが言語である限り、サッカーにも文法と辞書および語用ルール集があり、音韻的や音声学的な構造が組み込まれているのかもしれません。

 

サッカーを自然言語に喩える時に重要なことは、サッカーが言語である限り(サッカーが言語に喩えられる限り)、それはサッカー以外の何ものかを指し示す記号体系であり記号の運用だということでしょう。また、サッカーが記号の体系でありワールドカップ等の国際試合がその記号が運用される舞台であるとするならば、サッカーにはその記号行為を意味あるものとする構造が組み込まれているかもしれないということです。

 

言語は使うことによって身につく。つまり、ある言語を使えるようになるには実際にその言語を使わなければならないということ。蓋し、2002年の5月-6月以降、多くの日本人は「サッカーを見る」という行為を通してサッカーという言語とそれが使用されるワールドカップを頂点とするサッカーの国際試合という舞台についての知識、更には、サッカーという世界共通の言語使用に関するアクティブスキルを獲得したのではないか。小田急線内の女子大生諸君の会話を聞きながら私はそのことを確信しました。

 


◆サッカーとナショナリズム
サッカーという言語が国際試合、就中、ワールドカップというキャンバスに描くものはナショナリズムです。ワールドカップに熱狂する世界中の人々はその作品に自己の民族の誇りを読み取り、自国の名誉を見立て打ち震える。もちろん、サッカーという言語が描く図柄を何に見立てようともそれは観察者の自由。これが記号行為の多義性であり、意味作用において記号が持つ表示義(denotation)と共示義(connotation)の二面性です(★)。

 

★註:表示義(denotation)と共示義(connotation)
あるもの(記号)が別のあるもの(指示対象)を指し示す(意味作用を行う)とき、その記号は表示義として指示対象を持つ。例えば、ゴールデンゴールの1点(記号)は得点したチームの勝利(指示対象)を意味する。その場合、その1点のゴールはチームの勝利という表示義を持つということ。

 

これに対して、ある記号と指示対象と意味作用を含んだ記号全体が別の高次の記号となり他の別のものを指し示す場合、その高次の意味作用の指示対象を高次の記号の共示義という。例えば、先の例を使えば、ゴールデンゴールに国際政治における勝利国の隆盛を感じ取る時、そこにはそのゴールデンゴールを巡る高次の意味作用があり、ゴールデンゴールには共示義が憑依していることになる。

 

 

記号論の小難しい話などはどうでもよい。簡単な話です。例えば、アジア大会の「日本Vs韓国」戦に日韓の現状を感じるのも勝手なら、単なる食事時の<視角的なBGM>としてゲームを楽しむのも自由ということ。しかし、4年に一度、毎回、TVを含め観戦する延べ450億人の圧倒的多数がサッカーという言語で奏でられる各国チームの民族性と民族の誇りをワールドカップのゲームに読み取っていることは確実でしょう。

 

而して、朝日新聞を始めとする大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する勢力がどれだけナショナリズムとサッカーの関係を分断しようとも、ワールドカップが具現するナショナリズムを矮小化しようとも、サッカーがナショナリズムを表現するための言語でもあることは否定されようもない事実。でなければ、450億もの人々が「野っ原の球蹴り」など観戦するはずなどないでしょうから。

 

サッカーを野っ原で行われる単なる球蹴りから分かつものはサッカーのルール。サッカーという世界共通語を理解することは、スポーツとしてのサッカーという表示義の体系を超えてナショナリズムが躍動する所のより高次の共示義の体系を理解することでもある。「サッカーは戦争そのもの」であり、サッカーが、およそ、単なるスポーツとしての記号作用を超えるsomethingと考えられるべき理由はここにあるのではないでしょうか。

 

「戦争とは別の手段で行われる所の外交の延長である」、すなち、戦争とは兵器という言語を使用して行われる外交的コミュニケーションである。このことを喝破したクラウゼビッツに倣えば、ワールドカップを頂点とするサッカーの国際試合とはサッカーという言葉で語られるナショナリズムの競演であり、それは、サッカーという言語に翻訳された国際政治のテクストに他ならない。これこそがサッカーという言語が世界共通語としての効力を持ちうる妥当根拠ではないか。私はそう考えています。本当にサッカーは素晴らしいとも。


【関連記事】

・<改訂版>サッカーとナショナリズム

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/389a17dae3b3ddc6f272fdc83f4d8458

 

・<追補>ナショナリズムの祝祭としてのオリンピック

 ーー東京2020を朗らかに迎えるために

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0905c089560ac7a625c395ec5e0182ba

 

・濫用される「国際社会」という用語についての断想

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c3e3691fe42c9648d012251a71018c54

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◆浅田真央は「ルール変更」を理解できなかった愚な税金ドロボーか
バンクーバーオリンピック、男子フィギュアスケートを巡ってもフィギュアスケートの採点基準は物議を醸しました。4回転ジャンプを成功させた銀メダリスト、ロシアのプルシェンコ選手が4回転ジャンプを回避したアメリカのライサチェク選手が金メダルを手にしたことを念頭に置いて、

採点システムは変更されるべきだ。五輪王者が 4回転ジャンプの跳び方を知らないならば男子シングルではなくアイスダンスに名前を 変えなくてはならない。この採点システムのためにフィギュアの進歩は止まってしまった。

浅田(真央)のレベルは人類史上最高だよ。俺が女だったら勝てないだろうね。キム(ヨナ)は4回転を2回跳んだのか?
   

と、現行の採点基準に疑義を呈したそうです。而して、彼の問題提起に対して私は二つの感想を抱きました。

・ルール改訂の提案とルールをどれだけ重視するかの選択は別問題
・ルール変更の基底に横たわる<美>に対する価値観の対立


高難度の技を重視した結果、「サーカス」になってしまい、究極の美を追求するはずのフィギュアスケートが<銀盤雑技団大会>になってしまっていたこと。また、2002年のソルトレークオリンピックでの「八百長事件」を契機にして、フィギュアスケートの原点、<美の競演>を再構築すべく採点基準はここ8年間変更され続けてきました。すなわち、ルール変更の基底には<美>に対する価値観の鬩ぎ合いがあったということです。

而して、この経緯を踏まえれば、エレメントの完成度とエレメントとエレメントの間の移行プロセスの滑らかさを「基礎点」によって予め客観的に枠付けしておき、かつ、訓練され、毎年、研修セミナーや試合を担当する審判団の意識合わせを通じて一定の間主観性を担保された、審判員が<美>について5コンポーネンツの評価を行い、個々のエレメントにGOEを付ける現状の採点システムは次善ではあると思います。美の判定は結局審判員の価値観の表出であり、それが万人を納得させる普遍性を帯びることは土台不可能なのですから。

ポイントは、2002年から始まった判定ルールの変更には個々の変更内容を貫く<美>を巡る思想的な変更があったこと。このことを、日本選手は理解していなかった、あるいは、頭では分かっていたが体では理解できていなかったかもしれないことでしょう。ならば、そのルールを思想面でも自家薬籠中のものにできた荒川静香選手とキムヨナ選手が並み居るライバルを圧勝して戴冠したことは必然であった。そう私は考えます。

代表選手は一つでも上の順位を目指してオリンピックに参加しているはずだ

蓋し、

サーカスがよいかアイスダンスがよいかは各自の好みの問題。けれども、代表選手は、(ⅰ)現行のルールを与件として、(ⅱ)「メダル」や「金メダル」を目指している、そこまででなくとも一つでも上の順位を目指してオリンピックに参加しているはずだ。
    
それが「建前」であるにせよ、この前提は誰も否定できないと思います。而して、このような「建前」が成り立つとするならば、ルール改訂の提案とルールをどれだけ重視するかの選択は別問題であり、よって、ルールを味方にしたキムヨナ姫こそ称賛されるべきであり、それを無視して玉砕した浅田選手やプルシェンコ選手は愚か者でさえある。

そして、浅田選手にルールを最大限に利用することを指導することができなかった日本のスケート関係者達は、無為無策の馬鹿者、愚将・乃木希典、(史実は違うらしいのですが)数次に亘り騎馬軍団を馬防柵と三段構えの鉄砲隊に突撃させた武田勝頼にも匹敵する大馬鹿者。すなわち、税金ドロボー以外の何ものでもない。と、そう私は考えなくもない。

「キムヨナ=八百長女王」論は差別排外主義を孕んだ社会主義

オリンピック本番でのキムヨナ姫の羽毛のように軽やかでビロードのように滑らか、そして、鬼のように強かった演技を反芻するに、浅田真央選手とキムヨナ姫を比べた場合、代表選手としての人格、否、このオリンピックに賭ける<覚悟>の度合では大人とお子様の差があった。

そして、繰り返しになりますが、この現実を直視しないでする「陰謀論-八百長論」は、それが何がしか正しいとしても、所詮「酸っぱい葡萄」の類の、「負け犬の遠吠え」であり、それは、(伝統の恒常的な再構築、漸進の前進、反教条主義、自己の伝統の尊重と同時に他者がする伝統の尊重をも好ましいと感じる)言葉の正確な意味での「保守主義」とは相容れない差別排外主義、あるいは、権力とルールの万能感をアプリオリに措定する教条主義的な社会主義、または、その両方に他ならない。と、そう私は考えています。



 




◆浅田真央は「ルール変更」如きに右往左往しなかった本物のアスリートか
浅田ファンのブログを覗いてみると、「陰謀論-八百長論」を唱える多数派に混じって、少数ながら、(ヨナ姫との得点差には疑義を呈しながらも、勝敗に関しては完敗であることを潔く認め)ルールを最大現に利用できなかった浅田陣営のシャビーな指導力に怒りを爆発させておられる向きもある。けれども、私は、19歳とはいえオリンピック代表選手たる者、その責任は周りではなく本人が負うべきだと考えます。

まして、ジュニア時代の両者の成績を鑑みるに、資質的にはヨナ姫よりも浅田選手が上かもしれないことを考えれば、バンクーバーオリンピック本番での両者の歴然としたパフォーマンスの差は、ヨナ姫と浅田選手のこの試合にかけてきた<覚悟>の差に収斂するでしょう。而して、それは自己に課された期待に応える使命感をどれだけ真摯に受け止めていたかの差でもある。ならば、やはり、

浅田真央は「ルール変更」を理解できなかった愚者

に尽きるのでしょうか。私は、一応、そう断ぜざるを得ないと思います。少なくともその側面は誰も否定できない、と。しかし、逆に、自己のスタイルに殉じたとはいえ、自己ベストの205.50点で見事に銀メダルを獲得したこの19歳を誰が非難できるでしょうか。これは感情論ではない。浅田選手は自己責任の原則を貫いた。すなわち、「愚な税金ドロボー」との批判を甘受しつつ、同時に銀メダルという成果を出したのですから。

自己責任の原則の貫徹と自己のスタイルの貫徹

而して、この自己責任の原則の貫徹、自己のスタイルの貫徹という切り口から、浅田真央選手のもう一つの側面が演繹されるかもしれない。ブログ友の桜乃宮アリス姫の記事を読んでそう私は思いました。

・女子フィギュア/浅田真央が魅せた日本
 http://blogs.yahoo.co.jp/kira_alicetear/24099280.html


アリス姫の記事の要旨は以下の通り、


特定の者が有利になり得るルールに粛々と従い、効率良く効果的にメダルを狙う。それがダメだとは言っていません。ただ、国際的なベクトルがそちらに向かう中で、そのルールとの整合性を模索しながら、それでも3Aへのこだわりを、例え不利になるとわかっていながらも捨てず、「世界初」なるものの殆どが粗雑なものになりがちであるフィギュアにおいて、文句なしの完璧さまで仕上げたこと。これは、何ものにも変えられない、「誰も手にする事が出来ない」価値のあるものだと、日本人なら理解出来るでしょう。

野球ではイチロー選手、サッカーでは中田選手など、既存のルールの中にあって整合性を模索しつつ究道精神に基づき「自己」を体現してきた共通項があるのですね。・・・「世界を相手に喧嘩を売る」というのは日本にとってはそういうことではないかと考えています。(中略)

オリンピックは「国と国の勝負」です。・・・しかし「メダル獲得競争」も結構ですが、日本人の美意識は「何としてでも(ルールを変えてでも)メダルを獲る」というオリンピックの不文律を肯定することには抵抗があるんですよね。

寧ろ「それはそれ」と認めた上で、「究道」における目的達成を称えることが日本社会のあるべくしてある姿だと考えています。「他者との勝負」ではなく「自己との勝負」の結果がメダルであるならとても素晴らしいことですね。今日の浅田真央選手の銀メダル獲得は、このことを再認識する上でとても有意義なのです。(以上、引用終了)    






ネットの辺境でキムヨナ称賛を発信している私の主張とこのアリス姫の主張は、南極と北極の対極にありながら、実は、時空の歪みの中で背中合わせのものではないか。そのことを、浅田選手に引き付けて敷衍します。

蓋し、

オリンピックは戦争だから、「参加することに意義がある」などということは断じてない。金メダルが、そうでなければメダルが、そして、それが無理な場合はせめて一つでも上の順位が代表選手の目標とされるべきこと、これは動かないと思います。

けれども、自分が世界のTop水準のアスリートになる、そして、その水準をキープするモティベーションの源泉として、自分のスタイルの美意識を貫くことはありうることでしょう。ならば、自分にとって肝心要のその自分のスタイルを目先の勝利の確率を上げるために放棄することは、勝利どころかアスリートとしての自己の存在理由を否定するものに他ならない、と。正に、大賢は大愚に似たり、です。    

土台、自分のスタイルを追求できないのならばアスリートとして努力精進する意味はない。そして、アリス姫の理路にここで合流すれば、我々観衆も、そのような自分のスタイルの美意識を貫いた日本代表選手が勝利を目指す姿に感化され感動するのであって、スタイルと勝利の優先順位は「スタイル→勝利」であってそれ以外ではない。而して、この経緯は(私の乏しい海外経験からは)日本だけでなく英米でもドイツでも共感をもって受け入れられるものと思います。

勝利のための戦略に自己のアスリートとしての美意識は優先する

アリス姫の記事でイチロー選手や中田英寿選手の名前を目にしたとき、私は(もちろん、誰しも連想する野茂英雄選手とともに)もう一人の名前が浮かんだ。それは将棋の藤井猛九段。かの有名な「藤井システム」(要は、居玉で戦端を開く急戦振り飛車の定跡)を考案した振り飛車のエキスパート。

藤井九段は、全国の天才少年が犇くプロ棋士の登竜門たる奨励会でなかなか勝てなかった頃を回想してこう語っておられる。勝率が悪いからといって、もし「振り飛車を止めて居飛車を指してみろ」と周りに言われたら、多分、将棋を止めていたと思う、と。蓋し、どこまでもアスリート、アーティストにとっての優先順位は「スタイル→勝利」であり、当時の藤井九段にとって振り飛車戦法は自分の存在理由だったということです(ちなみに、藤井九段は昨秋「振り飛車党脱退宣言」とも取れる発言をしていますが、これは本稿とは位相を異にする問題でしょう)。畢竟、

浅田真央は「ルール変更」如きに右往左往しなかった本物のアスリート

と言えるのではないでしょうか。ならば、バンクーバーでの浅田選手の玉砕は称えられるべきであっても、全否定されるものではない。而して、4年後、2010年に引き続きフィギュアスケートの神様は新女王の演技に憑依するに違いない。そして、その新女王とは、自己のスタイルを貫く中でルールとの上手な付き合い方を身につけた、そして、必勝の<覚悟>を秘めた本物のアスリート。浅田真央その人であること。私はこのことを毫も疑いません。



<以下、資料編に続く>


浅田真央は「ルール」を理解できなかった愚者か-採点基準考(上)~(下)








 ・ソチオリンピック☆私は当然、キムヨナ姫を応援する
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/93f56ef107bf381d1202a1d543bbd9fd


 ・アッキー、昭恵夫人の韓流観劇de感激に感心!
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/403f3005396f90cba34f1dff3556be26




   


 


 

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2010年02月28日 16時23分58秒 | 日々感じたこととか



あれから48時間。すでに<歴史的事実>になってしまいましたが、バンクーバーオリンピック女子フィギュアスケート、私が応援していたキムヨナ姫が世界歴代最高(「銀河系歴代最高」とも言う)の228.56点で優勝を飾りました。正に、ヨナ姫は「羽毛のように軽やかでビロードのように滑らか、そして、鬼のように強かった」。而して、本稿は、キムヨナ姫の歴史的な(both historical and historic)演技の余韻を反芻する中で、「ルールとパフォーマンス」を巡る日本の社会の一種歪な認識を俎上に載せるものです。

尚、私自身、フィギュアスケートの全くの素人。よって、この記事での思索が、憲法無効論の如き、あるいは、無防備都市宣言推進論の如き、「素人の思い込み」に基づく妄想に陥ることをできるだけ避けるべく、フィギュアスケートの評価システムの来し方行く末について専門家が論じたコラム「Figure skating scoring is not what it used to be」(Washington Post, February 26, 2010)を資料として本編記事と併せて紹介することにしました。


多くの浅田真央ファンの読者に少なくない違和感や抵抗感を与えつつ、私はなぜに<執拗なキムヨナ選手支持>を繰り返してきたか。それには複数の理由があります。

要は、

(1)個人的にキムヨナ姫が好き
チェジウ姫ファンの私ですからヨナ姫の容姿はもちろんのこと、彼女のカトリックの信仰、学歴重視の私の琴線に触れる名門高麗大学の学生であるという事実、そしてなにより、言動の端々に感じられる「母国への燃えるような愛国心」とその裏面としての「韓国人ファンの粗雑さや外国人選手に対する失礼な振る舞いに対する嫌悪の感覚」が一個の19歳にごく自然に融合している好ましさにグッときたこと。

(2)バンクーバーオリンピックに賭けるヨナ姫の覚悟
神の御加護の下、悪魔に魂を売ってでも「何が何でも金メダルを取る」という迸る覚悟。その目的設定から逆算した合理的戦略選択、および、その戦略を鉄の意志で貫徹する精神力が19歳ながら尊敬に値すること。

実際、ヨナ姫はこの3月の世界選手権を最後にプロ転向が既定路線ですから(浅田選手とのオリンピック対決は今回が最初で最後になります)、そういう意味でも、何が何でも今回のオリンピックで金メダルを取るという<覚悟>の面で浅田選手はヨナ姫に完全に劣っていた。高難度のジャンプ勝負を避け各エレメンツ(とエレメンツとエレメンツ間の移行)の完成度を上げることに特化したヨナ姫の一貫した鉄の意思は凄いと思いました。

野球に喩えれば、ヨナ姫のフリー演技は、抜群の制球と配給、そして、ここぞという場面では勇気をもってど真ん中に投げ込む「超スローボール」の連投で達成されたノーヒットノーランとさえ言えるでしょう。それに対して、フリー演技での浅田選手は、160キロ近い剛速球と切れ味鋭いフォークを武器に三振の山を築きながらも、下位打線に2本のツーランホームランを許し、結局、7回三分の2で降板したごく普通の勝利投手だったの、鴨。

(3)キムヨナ的スケートの私的な好ましさ
元々、私が、飛んだり跳ねたりの「サーカス」ではなく流れるようなスケーティングを美しいと感じる観客であること。実際、贔屓目からでしょうが、ヨナ姫のフリーの4分間は「上等なビロードが凛としてかつ豊潤な時空を流れるような美しさ」を感じた。もう、絶句。個人的にはもっと点数が出てもいいんじゃないかいと思ったくらいです。それに対して、浅田選手の演技は、ギクシャク以外の何ものでもなく、彼女の売り物であるジャンプは演技の流れをぶつ切りにしていたという印象さえ受けました。


という(1)~(3)のキムヨナ選手にまつわる3個の理由。そして、結果的にも、「キムヨナ姫 Vs 浅田真央選手」という、バンクーバーオリンピック女子フィギュアスケートの頂上対決が端無くも露呈させたと思われる、同じく3個のこの日本の社会に対する危惧が私のキムヨナ姫応援の理由です。

すなわち、ヨナ姫が戴冠することで下記の(4)~(6)の問題性が誰の目にも明らかになるのではないか。ならば、「ヨナ戴冠-浅田玉砕」は日本のフィギュアスケートファンにとっては苦い経験だとしても、トータルでは日本のためには吉祥でさえある、と。

(4)日本のスポーツ界の政治力の欠如
自国選手とコーチを守れなかった日本スケート連盟の政治力のなさは軽蔑に値します。蓋し、「敵=キムヨナ」側が、演技構成点(5コンポーネンツ)と技術点におけるGOE(Grade of Execution)で大量得点する戦略であることは数年前から明らかだったのに、①浅田選手の戦術方針を「トリプルアクセル命の大艦巨砲主義」から変えさせるか、②演技構成点とGOEの評価基準の明晰化や透明化、個々の審判員のする判定の可視化と記録化、そして、より浅田選手に有利な(百歩譲っても「浅田-キムヨナ」双方にとってニュートラルな)評価ガイドライン改訂を国際スケート連盟(ISU)に行なわせる努力を怠ったこと。

(5)国規模での日本のスポーツ支援体制のお粗末さ
オリンピックは<戦争>であるという当然の認識の欠如。而して、(4)の②ともリンクしますが、日本国政府としてのISUへの圧力の不在、なにより、選手発掘・育成・訓練に向けた日本社会の資源配分のお粗末さへの危惧。

(6)日本社会に蔓延する国際機関やルールに対するナイーブさ
国際連合(UN)にせよ国際スケート連盟(ISU)にせよ、「平和」なるものや「スポーツ」なるものに関係する国際機関への性善説的な<幻想>や超国家的な権威を認める<妄想>、他方、それら国際機関が定めたルールの<神聖視>や<普遍視>、更には、審判員の下すジャッジに対する<公平性>や<無謬性>の素朴な期待が蔓延するこの日本社会への警鐘。

    
これら6個の理由に基づき、私は何憚ることなくキムヨナ姫をめいっぱい応援した。そして、ヨナ姫も「現役の世界チャンピオンは金メダルを取れない」というジンクスを破って圧勝してくれた。正に、大願成就。尚、私のヨナ姫応援については下記の過去記事を参照いただければ嬉しいです。




・いよいよ本番☆私はキムヨナ選手を応援する<再掲>
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/96f3164f231fa302690e8d289349b866


・空想的社会主義の惰眠を貪る左右の日本人に喝☆頑張れキムヨナ姫!
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/12e378fdcd423a5cfb4c38771341b0f1


・海外報道紹介☆キムヨナ姫、オリンピック優勝!
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/4ba2bd17cdfd7009a56a7670d87ad229


 


そして、


・キムヨナを<物象化>する日韓の右翼による社会主義的言説



 


・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65226757.html


 


 




◆浅田真央は国際的謀略に嵌められた悲劇のヒロインか
浅田選手贔屓のブロガーの中では、キムヨナ姫の金メダルは、ISUを巻き込んだ韓国の組織的な謀略の結果であり(金銭授受という意味では必ずしもなく、キムヨナ側に有利な採点基準の設定や、キムヨナ姫の演技に予め高得点を付ける申し合わせができていたという意味での)「八百長」に近い金メダルだという言説が少なくないようです。しかし、私はこのような、「陰謀史観」の如き言説は「負け犬の遠吠え」「酸っぱい葡萄」「引かれ者の小唄」の類のものであり、而して、現実を直視することなくこのような責任転嫁的の言説を弄する輩は、差別排外主義を喧伝する国辱ものの論者に他ならないと考えます。

蓋し、

・演技構成点の各コンポーネトのスコア基準が曖昧で抽象的

・GOEの(減点基準はいくらか明確としても)加点基準が曖昧で抽象的

・キムヨナ選手のスコア(就中、GOE)は男子に比べても異常に高い

・ISUの評価ガイドラインの改訂自体が、最初からキムヨナ選手を勝たせるストーリーに基づく「八百長」だ。例えば、昨年のGOE加点ガイドラインでは、ジャンプは「高さまたは飛距離が素晴らしい」から今年は「高さと飛距離がよい」に変わったが、これは、(強いて言えば長めのアプローチから)垂直飛びに近い軌跡を描く浅田選手のジャンプの加点を抑えるための変更だった、

・ここ2年の国際大会のスコアの流れを俯瞰すれば、浅田選手が難度の高いジャンプをプログラム入れた直後、キムヨナ選手のGOE加点と演技構成点はインフレしてきた。この両数値の相関関係は偶然の一致とは到底思えず、採点ガイドラインで先回りして浅田選手が勝たないようにしているとしか思えない、等々。

    
このような「キムヨナ:浅田真央=八百長女王:悲劇のヒロイン」説に対して、私は上で述べた同じ6個の理由からかなり批判的なのです。

蓋し、確かに「八百長」はあったのかもしれない。私もそのことを否定はしません。けれども、その「八百長」はルールの範囲内のものである。また、オリンピックやサッカーワールドカップは<戦争>であり、ルールに反しない限り何でもありの世界である。ならば、「敵=キムヨナ」陣営がルールを最大限に利用して自己の優位を築いたことは称賛されるべきことではあっても断じて非難されるものではない。蓋し、採点競技は「八百長もルールの中」であり、プロレスの世界王座決定線と一緒で八百長でも勝った方がチャンピオンなのですから。

・オリンピックは<戦争>だ
・自陣営が有利になるべくルール改訂を働きかけるのは当然だ
・八百長もルールの構成要素だ
・ルールを最大限に利用した勝者への批判は負け犬の遠吠えにすぎない


畢竟、オリンピック代表とそのスタッフ位の水準になれば、ルール改訂交渉の段階から戦いが始まっていること、そして、勝ちたければルールを最大限に利用すべきこと。そんなことは百も承知でオリンピックのリンクに臨んでいるはずでしょう。ならば、日本選手の数倍のプレッシャーの中で(審判員が一層「八百長」がしやすい)完璧な演技を演じたヨナ姫を褒めるべきであって、「キムヨナ=八百長女王」論などは失礼千万である、と私は思うのです。実際、プロ転向が既定路線の彼女はこれが最初で最後のオリンピック、また、スポンサーの意向と収入面もそうだけれど、韓国を愛するが韓国ファンを必ずしも好きではない彼女が金メダルを取れなかった場合、彼女は国に帰れなかったかもしれないのだから。

いずれにせよ、このバンクーバーオリンピック女子フィギュアスケートのイベントを通して、国際大会やルールの公平性や普遍性を素朴に信じているとしか思えない多くの日本人の感覚が私にはむしろ問題だと感じました。それは、所謂「国連至上主義」や、「ソ連=平等の王国」「アメリカ=自由の王国」「欧州=人権の王国」等々とアプリオリに捉える感性、あるいは、憲法を普遍視する憲法無効論の妄想や憲法9条教の戯言と表裏一体のものなの、鴨。と、そう私は考えています。


<続く>


 

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贔屓の稀勢の里関が初優勝した。

あの、つよいつよいモンゴルの3横綱と内容面でも勝敗でも互角なのに、

場所序盤や優勝の行方が決まる最後の5日間に平幕力士にころころ負ける(唖)

不思議なひと。

 

私は、スポーツの贔屓に関しては「日本人枠」を設けない。だって、

 

>キムヨナ姫=神功皇后

>南朝鮮やベトナムの女子サッカーフル代表チーム

>まして、ドイツの女子サッカーフル代表とか女子ホッケー代表は贔屓中の贔屓

(↑天理大学女子ホッケー部のひとごめんなさい!)

 

大好きだものね。でも、稀勢の里さんは好き。そして、本当に不思議なひと。

これ、修士号を持つアメリカ人同僚の誰しもが認め尊敬する英語力があるのに

なぜか、

 

>TOEIC990がとれない彼女とか彼とか

 

の感じ、鴨。

 

>おまえだ! → 聞いてるか「おまえら!」今度オフ会で話題にするかんな!

 

講師研修/教材開発担当部署にいる、おまえがなんで最高点が975なんだよ!

本部長/執行取締役職で(別に英語力はいらん)俺でも受験したら

受験回数のうち3割は990くらいとるぞ!

てな、そんな不思議なひとだった。ということで、

 

稀勢の里関、優勝おめでとうです。

これからこそ、頑張ってくださいね。

毎回990とれる力、あなたにはあるのだから。

と、そう思います。

 

・・・・・・

・・・・・・

・・・・・・

 

で、で、で、(涙)

石川佳純さん、負けちゃった。

しかも、内容的にも(正直)完敗(涙)

 

「勝てるかもしれない相手に対して(←あの未成年の小娘はそこまで強くなっていた!)

絶対、勝つ」。と、そう気合を入れすぎたのかな?

専門家ではないのでよくわからないけど。

 

今後はどうする? 

この点、昔、将棋の米原九段が(自分はもう強くはない!)と悟って、弟子筋に最新流行の序盤戦型を教えてもらい、その後、最高齢で名人位を獲得した故事が思い浮かぶ。

石川佳純さんには「自分はもう弱い」と--つらいだろうけど--発想をあらためて、臥薪嘗胆はしなくてもいいけど捲土重来してほしい。できるさ。だって、佳純さんはやっぱり強いんだもの。それにかわいいし、長州の出身だしね。

 

これからこそ、頑張れ佳純・稀勢の里~!

 

以上

 

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  • イメージ 1


    昨日の試合(イラク戦@埼玉スタジアム)、なにかしら「既定路線」とは違ったような?  ひょっとして、日本、今回もワールドカップに行ける、鴨。次のオージ戦でもし勝つようなら、なら、なら、そうなったならサッカーワールドカップ出場の可能性「51%」になる、鴨。

    と、わたしは、そうわたしは思います。

    清武・長谷部・吉田・ほんだ~、良かったよ~

    期待がすこし芽生えたかも。
    自宅の庭草も「芽生えている」から、たぶん()。

    頑張れ、日本


    イメージ 2

    月読姫命


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    大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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