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ポリティカルコンパス日本語版URL:
http://sakidatsumono.ifdef.jp/draft3.html

ポリティカルコンパス英語版URL:
http://www.politicalcompass.org/
(英語版は上のURLで該当ページにアクセスした後、そのページの下の方の
「Click here to start」という箇所を下の画像を参考にクリックしてください)

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日本語版/英語版とも判定プロファイリング結果は、
縦×横のマトリックス平面上に表示されます。
ただ、英語版は「経済→政治」の順、日本語版は「政治→経済」の順。
なんでだろう?

而して、マトリックスの縦軸は政治的価値観を示しており、
上に行くほど(値が10に近いほど)保守的-伝統的権威を尊び、
下に行くほど(値が-10に近いほど)リベラル-個人の自由を尊重するということらしい。

他方、マトリックスの横軸は経済的価値観を示しており、
右に行くほど(値が10に近いほど)経済右派-政府よりもマーケットを信頼していて、
左に行くほど(値が-10に近いほど)経済左派-大きな政府を求め傾向があるらしい。

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ちなみにKABUの結果は・・・、じゃーん!

10年前の2006年7月に実施したときには、
・政治的な右・左度(保守・リベラル度) →6.2
・経済的な右・左度(市場信頼派・政府介入派) →1.85


今回、先ほど診断を受けたら、
・政治的な右・左度(保守・リベラル度) →4.8
・経済的な右・左度(市場信頼派・政府介入派) →4.07


と、微妙に変化しましたが、ともに「保守右派」でした。
保守系ブログ管理人としては一安心、鴨(笑)

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でもって、英語版の診断結果も、
10年前の2006年7月に実施したときには、
・Social(Libertarian/Authoritarian) →2.36
・Economic(Left/Right) →0.13


今回、先ほど診断を受けたら
・Social(Libertarian/Authoritarian) →2.77
・Economic(Left/Right) →3.50


と、これまた「微妙」ですが、ともに「保守右派」でした。
目出度い目出度い♪

ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿
ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿


而して、よく言われるように、旧田中派-竹下派支配を打破した、自己責任の原則の価値を称揚する(所謂「新自由主義」を好ましいと考える)小泉政権以前の日本では(55年体制に赤裸々なように、「東京で集めた税金を地方にばらまくシステム」であった、旧田中派-竹下派の経済政策に代表される、あるタイプの)「保守派の経済政策」は社会民主主義の経済政策であり、よって、欧州や米国の感覚では「産経新聞」もリベラル左翼(朝日新聞は「カルト的リベラル新聞」!)に分類されたりもします。
 
・日本社会の「右傾化」を嘆き憤るリベラル派の怠慢と傲岸
 --マーケットの変化には商品の変更でしょ
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5dda58e6b05976d6658553df6d20742f
 
・完版:保守派のための海馬之玄関ブログ<自家製・近代史年表>みたいなもの
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a3221c77ea0add17edf737d21088cf96

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ちなみに、というか、例えば、
私の場合、(日本語版→英語版)の差は、
10年前と今回で各々、

▼2006年7月
・政治(6.22.36
・経済(1.850.13

▼2017年2月
・政治(4.82.77
・経済(4.073.50

になります。要は、欧米のパラダイムでは私こそストライクコースのほぼど真ん中の凡人ということ、鴨。中道×中道ですね。蓋し、いい悪いは別にして、日本の戦後社会が(右打者の)外角低めに張り出した(欧米ではカルト扱いを受けかねない、左翼・リベラルに寛容な?)独特なストライクゾーンを採用してきた歪な時代であったことのこれはその証左の一つ、鴨です。

いずれにせよ、「人はパンのみに生きるにあらず:Man shall not live by bread alone.」(マタイによる福音書4-4)、されど、「パンなしでは人は生きる能わず:Man cannot live by bread alone nor can he live without bread.」でもあります。加之、人は社会的動物(政治的かつ自生的秩序を呼吸して生きている存在)でもある。ならば、パンと社会を巡る二本柱で構築されている<社会思想>とも人は無縁ではありえない。

ということで、定期的に日本語版と英語版のこの「ポリティカルコンパス」でご自分の人となりを自己診断するのは、有意義、鴨。と、そう私は考えます。就中、英語版の英語の難易度は「TOEICの中級者-860点突破対策」くらいにちょうど良いもの。尚、英語版にトライされるとすれば、その際には解答に要した時間も記録しておけば、「定点測定」的に英語力の向上も確認できるかもですよ。是非、お試しください。

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◆グローバル化の昂進はB29の空襲よりも猛し

私達の郷里は福岡県大牟田市です。帰省する度にしみじみと思うのですが、故郷はやはり心地よい。この郷里に生まれて良かった日本人に生まれて良かったと本当にそう思います。「日本人の皮をかぶったアメリカ人」、より正確に言えば「九州人の皮をかぶったドイツ系アメリカ人」の私でさえそう思う。

しかし、日本では、例えば、今の小学生のほとんどが進学や就職して社会に出るだろう15年後、自分の「郷里」と呼べるコミュニティーを持つ日本人の割合は確実に減ると思います。実際、福岡県最南端に位置する私達の郷里であるこの地方都市の人口は、ここ40年間で約20万人から12万4千人と、38%近く減りましたから。

б(≧◇≦)ノ ・・・寂しい!

三池闘争で知られる、その福岡県大牟田市はかって三井三池炭鉱を擁する総合化学工業都市であり、大東亜戦争では1944年-1945年にかけて都合5~6回の空襲を経験しました。特に、1945年6月の2次に渡る空襲は激烈で各々100機を越えるB29の大編隊によるものだった由。この実質2晩の空襲によって誇張ではなく当時東東洋一を誇った大牟田の化学工場施設、ならびに、三井財閥の城下町たる大牟田市街は文字通り灰燼に帰しました。大牟田が被ったと同様の被害は、しかし、東京・大阪は言うまでもなく、室蘭も木更津も呉も被っている。まして況や、廣島・長崎においておや。

大牟田も長崎も廣島も東京も<B29>によって壊滅的な破壊を受けました。しかし、その後15年足らずで復興した。要は、それよりも早く終戦後10年以内にはそれらは<郷里>として再生を果たしたということ。然るに、(東)石炭から石油にシフトするエネルギー政策の転換、(西)京浜・京葉・中京・阪神エリアへの産業の移転、はたまた、(南)経済活動の東京一極集中という社会変動、そして、(北)企業の日本脱出、つまり、産業の空洞化という国際経済の動向の前には、我が郷里大牟田を含む<地方>の産業、而して、<郷里>は成すすべもなく解体させられています。

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重要なことは、この傾向は<地方>だけではないということ。実際、東京の神田や深川に行ってみなさいって、です。あるいは、神楽坂を歩いてみられたらこのことは誰しも肌で感じることだと思います。

畢竟、1945年12月8日に端を発する大東亜戦争の帰結として、<B29>が焼き尽くした神田も深川も、GHQによる占領が終わるか終わらないうちにほどなく、戦地や疎開先から戻ってきた江戸っ子の末裔や辰巳芸者の子孫達によって<郷里>として再建され復活した。しかし、神田も深川も、そして、山の手線内でほとんど唯一B29による戦災を逃れた神楽坂もバブル期に地上げを被り<郷里>は解体させられました。畢竟、グローバル化はB29よりも猛し、なのです。

バブルはGHQよりも猛し、産業構造の転換は核兵器よりも猛し、経済のグローバル化はB29よりも猛し。而して、「グローバル化はB29よりも猛し」という認識から「地方再生」が抱えている問題の構図はどう理解されるのか。私はそれを次のように捉えています。すなわち、

(1)<郷里>は土地ではなく、そこを<郷里>と感じる人々の心性に基盤を置いている

(2)<郷里>は一時的にはそのメンバーの多くがその土地を離れたとしても持続可能ではあるが、そのメンバーの多くが当該の土地において「社会生活-経済生活」を伴わない状態が持続する場合には、早晩、消滅する

(3)何故ならば、<郷里>の基盤たるそのメンバーの心性が<郷里>から離脱するから
 (そのような<郷里>は「父祖の地=ルーツ」という縁を帯びた<観光地>にすぎなくなるから)

(4)ならば、<郷里>再生の鍵は<郷里>の土地を媒介にして営まれる「社会生活-経済生活」を如何に恒常的にメンテナンスするか。不幸にして、ある郷里が消滅した場合、いかにして<郷里>を再構築するかという1点にかかっている。例えば、奈良県十津川村の人々が「郷里」たるこの母村を離れ、北海道の新十津川町という<郷里>を再構築したように。あるいは、イングランドからの移民が「郷里」を離れ、北米大陸に<郷里>たるニューイングランドの共同体を結んだように。


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それ以前から過大な相続税の負荷に押し出されたこともあり、地上げが横行したバブル期の前後までには、例えば、多くの江戸っ子の末裔は神田を離れ吉祥寺や三鷹、世田谷や杉並に移って行きました。他方、幸か不幸か神田に残った江戸っ子の末裔達は、自家の地所に5階建てなり10階建てのビルを建てそのペントハウスを住まいとしておられる。しかし、双方とも、謂わば「大地=ガイア」との交流を絶った人々にとって<郷里>のメンテナンスは至難を極めています。

春皐月、神田明神の祭りに吉祥寺や三鷹、世田谷や杉並から馳せ参じる江戸っ子の末裔は、最早、DNAを引き継いでいるという意味だけでの江戸っ子の<末裔>にしかすぎず、彼等も、漸次、神田の<郷里>メンバーではなくなるしかないのではないでしょうか。ならば、興味本位や失礼なもの言いに聞こえるとすれば私の本意ではないのですが、<2011年3月11日午後2時46分>に起因する福島の原発事故によって故郷を追われた福島県浜通りの人々が、その<郷里>を維持・復活させるには大変な困難を乗り越えなければならないことは想像に難くないと思います。閑話休題。



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◆資本主義との同衾がもたらすアンビバレントな愉悦

蓋し、「主義」の2文字がついているから紛らわしいのでしょうが、「資本主義」には「制度」の側面と「その制度を容認する理路・心性・主張」の二面があります。そして、(子)制度がすべてそうであるように、それは規範と状態の重層的な構造であり、かつ、(丑)言語や家族という自生的な制度がすべてそうであるように、交換を巡る制度たる資本主義の制度もまた時代によってその内容が変遷するものでしょう。而して、チャーチルが民主主義について語った顰みに倣えば、「資本主義は、所得と資源の分配と交換に関する最悪のシステムである、ただし、「社会主義」を筆頭に今まで存在したシステムを除けば」とは言えるの、鴨。

すなわち、現在の資本主義の制度とは、例えば、(一)所有権の制限、(二)契約の自由の制限、(三)過失責任の制限、および、(四)所得の再配分の導入、(五)ケインズ的な財政と金融における国家権力の政策の導入、(六)種々の国際的な制約という<修正>または<変容>を経た後のものなのです。と、高校の政治経済の復習的なコメントになりましたが、要は、・・・。

要は、これらの与件を<現実>として踏まえるとき、サッチャーもレーガンも、フリードマンもハイエクもある意味立派な「社会主義者-なんらかの資本主義の修正を前提とした社会思想・経済政策の唱道者」であったと言わざるを得ないということ。而して、再々になりますけれども、ケインズ政策の採用、並びに、労働基本権の確立や独占禁止法の導入等々によって資本主義が修正を加えられながらも立ち直ったように、(資本主義よりよりましな分配と交換の制度が登場しない限り)今後、投機的な金融と投資のあり方には大幅な規制と修正が加えられつつ資本主義は三度蘇るのでしょう。19世紀末-20世紀初頭と第二次世界大戦後の二回の復活の際と同様により強固な制度として。

畢竟、ある時代とある国家社会に限定したとしても、<保守主義>とは個々の経済政策のことではなく、経済政策を構成する諸施策のブレンドのレシピ、すなわち、配合比に顕現すると言える。そして、このような時間的と空間的の制約を外した場合、<保守主義>とは政策を構成する要素の配分比ですらなく、それは、(当該の社会と時代を生きる保守主義者に、その当該の時代と社会に最適な「政策の構成要素の配分比」を希求させるであろう)、冒頭の註に記した①~④という、<伝統>の価値を中核とする4個の態度のことに他ならないと私は考えます。以下、所謂「女系天皇制」を下敷きにして、クラインの壺の如き、あるいは、「父」と「子」と「聖霊」の間の三位一体の関係性の如き、<伝統>を巡る「個物と概念」の関係につき敷衍しておきます。

蓋し、<保守主義>が顕揚賞賛してやまない<伝統>は、例えば、「男系による皇位継承ルール」等々、その内容がある時点で固定した個々の伝統だけではなく、まして、「万世一系」という特定の<政治的神話>でもないでしょう。そうではなく、<伝統>としての「皇位継承ルール」とは、生態学的社会構造の変遷とともにそれに拮抗すべく恒常的に再構築される「皇統」の概念とその「皇統」概念の指示対象たる<皇統>の現実相に他ならない。否、より正確に言えば、新たな「個物」を、すなわち、新たな<皇統>を指示対象とする新たな「皇統概念」を再構築し続ける意思と態度と情念が<伝統としての天皇制>に他ならず、而して、そのような<伝統>に価値を置く社会思想が<保守主義>なのだと思います。尚、「女系天皇制」と<保守主義>との関連については下記拙稿をご参照いただければ大変嬉しいです。

・「女性宮家」は女系天皇制導入の橋頭堡
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60907124.html

・覚書★女系天皇制は<保守主義>と矛盾するものではない
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60896992.html


而して、資本主義は、確かに、(甲)利潤の追求が自己目的化する(資本の自己増殖を基本的には制御できない)、(乙)資源と所得の分配が基本的には<市場>に任せられ、<欲望の暴力>が支配する無政府状態的システムではあるが、その不具合を漸次修正しつつも人類は当座それと添い寝するしかない。畢竟、この諦観というか、現世利益を期待しない大人の態度からは(要は、保守主義の立場からは)、「倒産や産業の空洞化こそ資本主義の強靱さ(robustness)と資本主義社会の活気(dynamism and vitality)の裏面」とも理解できるの、鴨。

蓋し、個々の郷里の消滅もまたこの資本主義の強靱さと活気の一斑ではありましょう。けれども、<郷里>が前々項で述べたように人間存在にとって不可欠かつ必須なものとする私の理解が満更根拠のないものではないとすれば、再々になりますけれども、人間には個々の故郷の衰退消滅に関わらず、恒常的に<郷里>を再構築していく他に進むべき道はない。

蓋し、当分の間にせよ、期限未確定のその当分の間は「資本主義との添い寝」は不可避。而して、そういう、不本意な同衾の継続という不愉快な状況下で、しかも、<保守主義>はその憎むべき資本主義との協働作業の<結晶>でもある<郷里>を再構築し続けるしかない。しかし、<郷里>を巡るこのような不本意で不愉快な運命を誠実に生きる誇らしさ、このアンビバレントな愉悦とその希求。これこそが、左右の教条主義が囁きかける現世利益を一切排除する現在の<保守主義>を信奉する者が堅持すべき態度と覚悟であり、かつ、期待してもよい報酬である。

と、そう私は考えます。

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尚、老婆心ながら本記事に用いた画像について一言。
画像の<女神様>は、「中島みゆきさん=天照大神」「キムヨナ姫=神功皇后」と同様、
弊ブログでは「木花咲耶姫」と同一神格のほしのあきさんですよ、為念。


ヽ(^o^)丿


テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




◆格差と格差感あるいは格差感と閉塞状況

所謂「格差社会論」は全くの誤謬・妄想でした。けれども、他方、実際に「格差感」は広がっている。これは事実でしょう。就中、<都会>に比べた場合の<地方>の衰退・衰微は覆い隠しようもない現実。それはなぜなのか。蓋し、それは、日本社会において、

(A)全体の「パイ」が、総所得と総資産が縮小していること
(B)行動の選択肢の幅を規定する予測可能性が低下し、リスクが拡大し増大していること
(C)何より「敗者復活」の回路が極めてタイトになっていること


これらが理由なの、鴨。(A)は自明でしょうが、(B)に関して言えば、例えば、「CO2の25%削減」なり「脱原発路線」なる、時の首相の個人的な願望が、あたかも「日本政府」の方針でもあるかのようにして世界に発信される、そんな無責任な民主党政権の下では真面目な企業経営など怖くてできないということ。

実際、「原発の停止によって危惧されていた、2011年夏の電力不足も実際は生じなかった」(だから、脱原発社会は可能だ!)などの戯言は、多くの企業が、何時送電が打ち切られるか分からないような日本では「怖おーてアホくそーて商いなんぞできへんがな」と、電力需要を、よって、雇用を海外に移転させたからこそ成り立っただけのこと。そりゃー、企業が日本を脱出する、よって、雇用が日本を見放すという条件下ならば脱原発社会なるものも充分可能でしょう。人類が死滅した後の地球では振り込め詐欺も強盗事件も惹起するはずはないのですから、多分。

すなわち、(A)に属する、加速した日本経済の空洞化によって、雇用どころか起業の余地も漸減しているということ。加之、(B)の範疇においては、日本に残った企業も投資意欲が萎える結果、端的には、中高年と若年労働者の就職難の昂進に至る。而して、(C)はこれらの帰結でもあり、よって、(A)~(C)三者に必然的に付随する社会保障費の激増によって格差拡大どころか日本経済自体が破綻に近づきつつあるの、鴨。

いずれにせよ、「敗者復活」の余地の乏しい社会に健全な資本主義が生息し続けることは困難でしょう。よって、このままの流れの行き着く先は、(左)「the 99%」による社会秩序の崩壊か、(右)「the 99%」を宥めるための「パンとサーカス」を公費でとことん投入するギリシア化のいずれか、あるいは、(央)その両方ではなかろうかと思います。

要は、(もちろん、「公平感」を維持強化するためには、その施策は満更無意味ではないとしても)「富裕層や大企業/生活保護受給世帯は<ずる>をやって儲けている」「富裕層や大企業/生活保護受給世帯から<応分>の負担を徴収すべきだ」更には「富裕層や大企業/生活保護世帯受給世帯から<応分>の負担を徴収すれば充分に財政はまかなえる」という程度の、「黒幕史観」ならぬ「黒幕社会政策論」によっては、現下の日本の危機は到底打開できないだろうということ。

実際、政府が日銀に国債を買い取らせ、それにより確保した財源に基づいて手厚い財政出動を断行しようとも、企業の投資意欲と家計の有効需要に裏付けられない公共投資の効果は、文字通りの「絵に描いた餅」にすぎないでしょうから。そして、日本の国際競争力が維持強化できない限り、日本列島を逆さにしても社会保障費用など捻出できるはずもないのですから。

もっとも、大急ぎで補足しておきますが、例えば、2008年9月15日に勃発したリーマンショック後の緊急避難的な施策、つまり、短期的な施策としては(麻生内閣がそれを適切に遂行し、政権交代直後の民主党政権がご丁寧にもその施策を急停止させてその後の経済停滞を確実なものとしたように、)公共投資は現在でも財政政策の有力な選択肢ではあるのでしょうけれども。

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要は、この社会に迫る危機の正体。その究明に関しては、「格差」ではなく「格差感」が問題であり、而して、その「格差感」の源泉はパイの縮小と社会においても人生においても進行する予測可能性の低下、逆の面から言えば(ベックの言う意味での)リスクの拡大と増大をその中核とするこの日本社会の「閉塞状況」ではないか。と、そう私は考えるのです。

而して、誰の目にもこの危機の解決策はシンプル。すなわち、それは、

(a)生産性の向上と競争の公平化を苗床としたイノベーションの誘発によるパイの拡大、(b)それによって財政的にも可能になる「セーフティーネットの整備拡充」「敗者復活可能な社会」の実現。そして、これら(a)(b)を条件として説得力が担保されるであろう、(c)自己責任の原則の徹底によるモラルハザードの回避です。


例えば、自衛隊・警察・消防、医療・託児・高齢者および障害者のケアを除き、その生産性という意味では、最早、実質的な失業者である非専門的な職域の、地方と中央の公務員全員の平等な解雇を起爆剤とした起業活動の促進(それら現在の公務員が担っている業務は共に任期制の「籤で当選した住民」と公募で獲得した人材で行うこと)、あるいは、公立学校の全廃とそれに代わる「バウチャー」の支給等々、財政健全化と民間マーケットの拡大、加えて、自己責任の原則の啓蒙という一挙両得ならぬ一石三鳥的な施策は幾らでもあるのではないでしょうか。

実際、明治維新とは一種そのような、生産性の低い「公務員=武士」の労働力市場への放出に帰結したのであり、近代日本はそのような構造改革の上に成立したものでもあったのではないか。蓋し、将に今は、小泉構造改革再始動の秋であり、かつ、「王政復古=資本主義の原理原則への回帰」を宣言すべき秋ではないか。と、そう私は考えます。

尚、もちろん、そこに回帰されるべき資本主義とは、(19世紀末葉から20世紀初葉にかけて具現した「近代法から現代法への転換」の過程で、例えば、契約自由の原則と過失責任の原則の修正・所有権の社会的制限によって、資本主義がマルクスの預言を破って自己を再構築した如く)裸の資本主義ではなくて、少なくとも、(就中、「地方再生」というもう一つの課題を見据えるならば尚更なのですが、)金融と投資に関してはより厳格な制約を施されたものでなければならないでしょう。而して、このことには、それこそ、2008年のリーマンショックと2011年のEUの財政危機を目撃した人類史の現段階においては、反論はそう多くないのではなかろうかと思います。



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◆保守主義の社会政策の核心としての地方再生

繰り返しになりますが、重要なことは、保守主義の社会政策を断行しなければ、現下の欧州諸国の如く、日本がグローバル化の波濤を浴びて水没することは必定ということ。そして、様々の施策を駆使して<保守主義>がその具現を目指すべき目標の一つは、間違いなく、「地方再生」、すなわち、<郷里>の再構築ではないかということです。

蓋し、現存在としての人間とそのアイデンティティーを生態学的社会構造(自然を媒介とする人と人が取り結ぶ社会的な諸関係性の総体)の枠組みにおいて支える、「共同体=コミュニティー」としての<郷里>の強化、あるいは、恒常的なその再構築は現下の保守主義からの社会政策メニューの中でも高いプライオリティーが与えられている。と、そう私は考えます。

敷衍します。アリストテーレースが喝破した如く、その実存のあり方において「人間が「ポリス=社会」的動物」であり、かつ、その認識と思索の能力において、フッサールとウィトゲンシュタインが解明した如く、「人間の社会とは言語が編み上げる意味空間」でしかない。ならば、(言語が歴史の中で紡がれ編み上げられる制度であり、他方、歴史とはすべからく「ポリス=世間」、すなわち、<郷里>に包摂される人間存在の自己認識でしかない以上、)人間は<郷里>を持たずに生きることは不可能な存在でしょう。

ならば、グローバル化の波濤の押し寄せの前に<郷里>が消滅・消失しつつある現在こそ、保守主義は地方再生と<郷里>の再構築にコミットしなければならない。すなわち、シーシュポスの如く、生態学社会構造の変遷によって、就中、グローバル化の波濤の咆吼の前に恒常的に脅かされ崩壊させられる運命にある<郷里>を、しかし、恒常的に再構築したいと願う欲求から人間は逃れることはできないと思うのです。

よって、天皇制が女系天皇制をビルトインすることによって再構築され得るかもしれないように、時空を超えて、要は、必要ならば新天地に人間は<郷里>を復旧・復興・再建し続けるしかない。蓋し、保守主義の社会政策はこのような人間存在の本性に根ざす<郷里>の再構築という情念や願望と整合的でないはずはない。そう私は考えます。

では、地方再生、すなわち、<郷里>の再構築はどのようにすれば実現可能なのか? 

些かコロンブスの玉子的な回答になりますが、その要件の一つは、間違いなく「他の地域でも売れる競争力のある商品の生産体制」を地域にビルトインすることである。経済活動を包摂する社会関係の修復強化と再編再興の契機を度外視しては<郷里>の再構築などできるはずはないから。と、そう私は考えるのです。

蓋し、グローバル化に対峙して、よって、生態学的社会構造の変遷に拮抗し得る、「収益性の高い商品生産」を具現する産業のシステムとネットワークの整備、そして、それらと親和的な<郷里>の恒常的な再構築が回答。畢竟、(古代・中世と言わず近世においても、夥しい村落が発生しては、衰退し廃村になり、文字通り、現在、地面の下に埋もれている日本社会の現実を見るとき、あるいは、人類史上唯一、組織的な「産業資本主義」の発生が産業革命に先んじた英国で見られる、物流の便益のための夥しい小運河ネットワークの存在を想起するとき、)<郷里>とは本来そのようなものだったのでしょうから。加之、例えば、赤穂浪士が深川の吉良邸に討ち入った元禄の頃の<東京都民>は、そのほとんどが自分の<郷里>を離れて江戸に出てきた人々だったのでしょうから。

ならば、<鎖国>が、最早、不可能であろう現在、まして、英国の産業革命期の「機械打ちこわし運動:ラッダイト運動」の如き施策でグローバル化の波濤を防ぐことなど金輪際不可能なことも自明な現在、人類はそして日本は、グローバル化、すなわち、資本主義と当分の間添い寝し続ける覚悟を決める他の選択肢を持っていないのではないでしょうか。ならば、(正式に「離婚」が成立するまでは)その憎むべき配偶者と同衾して、而して、この憎むべき同衾相手との協働作業として<郷里>を再構築し続けること。これしか<保守主義>に残された道はない。と、そう私は考えます。

些か、叙述が現実から遊離してきました。よって、上記の認識。すなわち、

(α)資源と所得の分配と交換の、資本主義に優るシステムが確立されるまでの間は、資本主義と添い寝せざるを得ないという諦観、(β)<郷里>の死活的な重要性、(γ)資本主義を上手に制御しつつ、しかし、資本主義の原則とゲームのルールを遵守しながら、(a)「生産性の向上と競争の公平化を呼び水としたイノベーションの誘発によるパイの拡大」、(b)「セーフティーネットの整備拡充」および「敗者復活可能な社会」の実現、(c)「自己責任の原則の徹底によるモラルハザードの回避」を希求しつつ、その活動に整合的な<郷里>を恒常的に再構築することの重要性と必然性。


具体的な事例を通して、次項ではこれらの認識を<検算>したいと思います。 


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<続く>


テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




大東亜戦争の開戦(1945年12月8日)から66年、忠臣蔵の討ち入り(元禄15年12月14日:1703年1月30日)から大凡309年、そして、明治維新の王政復古の大号令(慶応3年12月9日:1868年1月3日)からは143年。なにより、<2011年3月11日午後2時46分>から272日目の今日。日本の内外で経済・財政政策の、よって、政治の制度疲労が露わになってきていると思います。

停滞する震災復興、圧倒的税収不足の中で税と社会保障に対する不公平感と不信が渦巻く日本。金融・財政のそのスタビライザーが<張り子の猫>であったことが露呈して崩壊寸前のEU。輸出の失速に伴い不動産バブルの崩壊が秒読みに入った感のある支那、および、(支那経済の失速にリンクして)風前の灯火状態が常態化した感のある韓国等々、マルクスの願望通り、世界は「世界同時革命前夜」の様相を呈しているの、鴨。

他方、しかし、早くも雲散霧消した感のある「the 99%」なるものによる徒花的のデモを尻目に、(民主主義なるものや基本的人権なるものの普遍性を勝手に信じ込み、現実の世界の具体的な主権国家の能力不足や「国際社会」なるものの無力、あるいは、正義に反する資本主義の不完全さに対して不毛なる責任転嫁を重ねるだけの他の思潮に比して)世界の社会思想的の運動圏内でも、左右を通して独り気を吐く趣のあるアメリカの草の根の保守主義(Tea Party Movement)の現状。

これらの状況を反芻するに、蓋し、人類史は、(私の考える、「保守主義」と「憲法」の内容の詳細については下記拙稿を併せてご一読いただきたいのですけれども)いよいよ<保守主義>と、就中、<保守主義の憲法論>の時代に突入しつつあるの、鴨。と、そう私は思わないでもありません(★)。而して、その<保守主義>とは、共同体としての<国家>と<郷里>に本質的な価値を認める立場であろうということも。

要は、現下の日本の政治に求められていることは、「小泉改革の再始動」と「地方再生」の同時実現であり、逆に言えば、それら一見トレードオフの関係にあるタスクを(スキー種目のノルディック複合の練達の選手よろしく、)より高いパフォーマンスで実現できる<政治>の具現が現下の日本においては死活的に重要な課題ではないでしょうか。

換言すれば、小泉政権当時の日本に専ら与えられていた課題が「構造改革の着手」であったとすれば、その一応の成功を受けた(要は、小泉政権が構造改革に着手したからこそ、その新たな課題設定も可能になったのでしょうが、)現下の日本の課題は「構造改革の再始動と加速」および「地方再生」の同時実現である。そして、後者は偶さかの政治課題ではなく<保守主義>が不可避的に取り組まなければならない「必須科目」である。と、そう私は考えるのです。


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★註:保守主義の意味

ここで私が言う<保守主義>とは、(例えば、社会思想の学説史博物館の陳列物にすぎない「バーク保守主義」なるものなどではない、)現在の現役の社会思想としての「保守主義」であり、それは次の4項目をその内容の核心として含む、而して、英米流の分析哲学と功利主義の哲学、並びに、新カント派の認識論、および、現象学と現代解釈学と親和性の高い「社会と社会内存在としての人間、それら双方のあるべきあり方」に関する世界観の体系のことです。

①左右の教条主義、就中、設計主義に対する不信と嫌悪
②慣習と伝統、歴史と文化の尊重と、それらの構築主義的で恒常的な再構築の希求
③国家に頼ることを潔しとせず、他方、国家の私的領域への容喙を忌避する、
 自己責任の原則の称揚と同胞意識の勧奨を支持する態度 
④差別排外主義の忌避
(①~③に共感・承認される外国籍市民の尊敬、および、その歴史と文化、伝統・慣習の尊重)
 

尚、換言すれば②の内容とは、(文化帝国主義の手垢のついた、かつ、根拠薄弱な「基本的人権」「国民主権」「個人としての人間の生命」なるものの価値を絶対視することなく、)現存在たる<自己>のアイデンティティーを根底で支える<歴史>としての<言語>によって編み上げられた<伝統>としての<政治的神話>のイデオロギーを肯定する、有限なる人間存在の自覚に貫かれた大人の中庸を得た態度。畢竟、個別日本においては、「天壌無窮、皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」というこの社会を統合している<政治的神話>を好ましいものとして翼賛する心性と態度。而して、時代の変遷の中で(例えば、女系天皇制を導入してでも)伝統と慣習の枠組みを維持し、かつ、恒常的に伝統と慣習、文化と歴史を再構築しようという態度であると言えましょう。

更に敷衍しておけば、②と③の矛盾と緊張を巡っては、「国民の法的確信」を基盤とする<憲法体系>の調整に委ねようとする志向性こそ<保守主義>の態度であり、よって、白黒はっきり言えば、「伝統」や「慣習」、「文化」や「歴史」の中には、<憲法体系>によって、つまり、<保守主義>によって守護されるべきものとその保障の対象から外されるものの種差が生じるということ。

而して、けれども、その両グループに属する各々の価値と規範の間の境界線はアプリオリに定まるものではなく、(例えば、現下の女系天皇制を巡る問題状況の如く)時代とともに変遷する「国民の法意識=国民の法的確信」に従い、「遂行論的-」あるいは「構築主義的-」に、厳密に言えば、現象学の言う「間主観性」の地平で自ずと定まるものと言えると思います。


・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444711.html

・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60902921.html

・「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60904872.html

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★註:憲法の意味

機能論的に観察された場合、ある国内法体系の内部においては、あらゆる下位の法規にその法的効力を付与し、他方、下位法規の内容に指針を与え制約するという、最高の授権規範であり、かつ、最高の制限規範である「憲法」は、それが存在する規範形式に着目する場合、

(イ)形式的意味の憲法:『日本国憲法』とか 『The Constitution of the United States of America』 のように「憲法:Constitution」という文字が法律の標題に含まれている憲法典。および、(ロ)実質的意味の憲法:「憲法」という文字が名称に含まれているかどうかは問わず、国家権力の所在ならびに正統性と正当性の根拠、権力行使のルール、すなわち、国家機関の責務と権限の範囲、ならびに、国民の権利と義務(あるいは臣民の分限)を定めるルールの両者によって構成されています。

すなわち、「憲法」とは、()法典としての「憲法典」に限定されるものではなく、()憲法の概念、()憲法の事物の本性、そして、()憲法慣習によって構成されている。而して、()~()ともに「歴史的-論理的」な認識の編み物であり、その具体的内容は最終的には、今生きてある現存在としての国民の法意識(「何が法であるか」に関する国民の法的確信)が動態的に確定するもの。

而して、それらは単にある諸個人がその願望を吐露したものではなく、社会学的観察と現象学的理解により記述可能な経験的で間主観的な規範体系なのです。もし、そうでなければ、ある個人の願望にすぎないものが他者に対して法的効力を帯びることなどあるはずもないでしょうから。   


・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444652.html

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444639.html

・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60899909.html



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◆小泉構造改革の「槍」を引き継ぐ秋

日本は今こそ小泉構造改革の槍を引き継ぎ、その旗を再度掲げるときなの、鴨。グローバル化の昂進に起因する欧州と日本における政治の機能不全とアメリカにおける保守主義の隆盛を鑑みるとき、私はそう思わないでもありません。

公共投資の乗数効果の逓減と「限界費用逓減の法則の消滅」が現実味を増す中で、福祉国家モデルの破綻、そして、福祉国家モデルの基盤の一つ、少なくとも、福祉国家思想のシャム双生児とも言うべきケインズ政策の神通力の融解が誰の目にも明らかになって久しい現在、その同じ<現実>を見据えて、小泉純一郎総理が、「旧田中派-竹下派」支配下の政治(「55年体制下の政治」とも言う。)の無能に起因する「失われた90年代」から日本を脱却させた構造改革の路線は、EUの崩壊と支那経済の失速が秒読み段階に入った現在、益々、その意義を高めているのではないかということです。

他方、日本ではいまだに「格差」あるいは「格差社会」なるものを論じる向きもある。けれども、所謂「格差社会論」は全くの謬論でしかありませんでした。すなわち、

親世代と子世代の職業における階層の固定化なるものを<暴露>したとされる佐藤俊樹『不平等社会日本』(中公新書・2000年)の主張は(佐藤氏が行なった各時代の40歳時点の職業の調査によっても)、高校進学率が30%の時代と90%を遥かに超えるようになった時代との比較、すなわち、高度経済成長が終焉を迎えるまでの工業化への過渡期(ホワイトカラー層が社会の少数派であった時代)と工業化が完成しポスト=工業化に入った時代(ホワイトカラー層が労働力人口の過半を遥かに超えている時代)の比較は無意味であり、よって、そう根拠のある主張ではなかったのです。

まして、(大部分の中小企業では実際にはそれは戦前戦後を通して根づいていなかったにせよ)雇用者-被雇用者双方の意識においても「終身雇用制」が崩壊したここ20年間における40歳時点の職業・所得を過去のそれらと比べることは全く意味がないでしょう。

また、一時世の耳目を集めた山田昌弘『希望格差社会』の主張も、結局、景気変動と産業構造の調整の部面での労働力市場を巡る現象を「格差拡大」と解釈しただけの主観的な主張にすぎなかったことは現在では自明です。

そして、なにより、富の社会的分布の度合を表す所謂「ジニ係数」の変化を根拠に日本社会における格差拡大を主張した橘木俊詔『日本の経済格差』(岩波新書・1998年)の主張は、大竹文雄『日本の不平等』(日本経済新聞社・2005年)等によって(橘木氏が根拠としたジニ係数の変化は、日本社会の少子高齢化に伴う世帯所得の見せ掛けの分布の変化であり)実証的に否定されたこと、少なくとも絶対的のものではないことも現在ではほとんど争いのない認識なのです。


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<続く>


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ジャンル : 政治・経済




◇中間小括
私の主張を整理しておきます。蓋し、

(α)天皇は「制度」でもある
(β)天皇を「制度」としても見る立場と天皇を「実存」と捉える立場は両立可能である
(γ)コミンテルン流の「天皇制」は日本社会の社会学的認識仮説の一つである
(δ)コミンテルン流の「天皇制」は1930年当時の水準のものとしては優れたものだ
(ε)コミンテルン流の「天皇制」は、しかし、1930年当時においても間違いである
(ζ)天皇を「制度」として見る見方はコミンテルン流の「天皇制」に限定されない
(η)コミンテルン流の「天皇制」とは異なる「制度」として天皇を見る見方を「天皇制」
   と呼ぶことは、その定義が明確である限りなんら問題ではない
(θ)天皇を「制度」としては考えない立場は、天皇をコミンテルン流の「天皇制」として
   のみ見る立場と同様に根拠を欠く、憲法無効論なみの馬鹿げた主張である
    


「天皇制」という言葉を使うべきではないという主張の裏には、満更無下には否定できない二つの疑念が横たわっているのかもしれません。すなわち、

(1)「天皇制」という用語の意味はコミンテルンが定式化した意味に規定されるのではないか
(2)「天皇制」という用語の基盤には「天皇は制度にすぎない」との認識がありはしないか    


本編記事でも述べた如く、しかし、認識と対象は別次元のものである。つまり、(2)は不毛な認識である。蓋し、天皇という対象を見る認識論的な枠組みに「制度」や「実存」があるのであって、天皇自体が「制度」であるわけでも「実存=国体」であるわけでもないからです。強いて言えば、光が波と粒子の性質を併せ持っているように、また、松田聖子さんが歌手であり母親であるのと同様、天皇は「制度」でもあり「実存」でもある(より、正確に言えば、天皇という対象は「制度」としても「実存」としても認識できる)のです。

而して、(1)においても、学説史理解の礼儀として、コミンテルンの用語法もきちんと踏まえる(プロ市民の如く揚げ足を取らないように! 「踏まえる」というのは「賛同する」とか「容認する」ということではなく、「あん人達はこんな馬鹿げたことを言っていたのね、でも、1930年代としては馬鹿にはできない水準だよな」と情報を正確にインプットするということですよ。)のは当然として、定義を明確に示す限りそれとは異なる内容を「天皇制」という用語に込めるのはなんら問題ではない。蓋し、言霊信仰よろしく、「制度」など持ち出すのは皇室を廃止することにつながる縁起でもない不敬なことだとばかりに、「制度」として天皇を考えるのが嫌なら、そのような論者は理論的な論争の舞台からは退場すべきであり、それは嫌と言うのなら「天皇制」とは別の制度概念を考案すればよい。と、それだけのことではないかと思います。


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◆「制度」としての天皇
本編でも記したように、どのような社会現象も法学的に観察すれば法現象として、また、経済学的に観察すれば経済現象として再構成されるように、天皇も「制度」として見れば<制度>であり、「実存」として見れば<国体>である。

有名な天皇機関説事件を持ち出すまでもなく、旧憲法においても現行憲法においても憲法学においては、第一義的には、天皇は「機関=制度」以外の何ものでもない。而して、社会学的にも、一個の自然人たる/ムツヒト/が/ヨシヒト/に、/ヨシヒト/が/ヒロヒト/に代わっても、また、旧憲法が現行憲法に変わってさえも、天皇を「ジグソーパズルの枢要なパーツ」とする諸々の社会関係はその基本的内容を変動させることなく存立してきた。このことでも明らかなように、天皇は(個々のパーツが差し替えられても自己同一性を保持するという意味で)「制度」である。それがコミンテルン流の「天皇制」のイメージとは異なるにしても「制度」ではある。正確に記せば、「制度」でもある。

天皇は自生的、かつ、その変化が緩やかな「制度」である


ここで本編の主張を再度繰り返せば、私の「制度」の定義、すなわち、「他の領域から区別されたある特定の機能を遂行し目的を達成するために、編成・形成された一塊の(慣習を含む)諸法規の有機的連関」からは、それが人為的に廃止できるか否か、廃止や変更が容易であるか否かは、「制度」の本質ではない。文化人類学における制度の典型たる言語や家族の<制度>は、自生的であり、それは時代と共に変化するとしてもその変化は氷河の流れの如く極めて緩やかなものだからです。

実際、自身当時第一級の言語社会学者であり、かつ、当代無双の民族政策のエキスパートであったスターリン(1879-1953)は、要素還元主義的に「民族」を理解した(その点、「制度」は廃止可能と考えた)代表的論客として悪名高い。けれども、その反面、彼は「民族」を形成する契機としての言語・家族関係、そして、私の言う生態学的社会構造(自然を媒介にした人と人とが相互に取り結ぶ歴史的に特殊な社会関係の総体)が、極めて、堅固(robust)なものであることを織り込んでその冷徹・過酷な民族政策を策定したのです。蓋し、私は<制度としての天皇>とは、このような自生的であり、かつ、その変化が緩やかな「制度」であろうと考えます。


◆コミンテルンの呪縛に縛られているのは誰か
この間、「「天皇制」という用語は使うべからず」とのたまう論者の言説を垣間見て、私が極めて滑稽に感じたことは、「天皇制」という用語がコミンテルンの考案によるものという(日本の社会主義の歴史、就中、「講座派-労農派」論争に関心のある向きには常識中の常識でしかない)情報が一般の目には<新鮮>に映ったからなのでしょうか、コミンテルン流の「天皇制」の意味内容を批判するだけでなく、天皇を「制度」としても捉えるアプローチすべてを否定するその悪乗りぶりです。彼等こそ、「天皇に関する制度」にはコミンテルンが規定した意味での「天皇制」以外は存在しないと素朴に考えている点で、コミンテルンの呪縛にいまだに縛られていると言えるから。

しかし、コミンテルン流の「天皇制」という用語の意味が歴史的に間違いであることを指摘することから、更に進んで(悪乗りして)、「制度」概念を一般的に忌避する態度は知的廉直性を欠く不健全なものと言えるでしょう。コミンテルンの使用した「天皇制」という歴史的に特殊な用語の用法に「天皇制」の三文字の意味を独占する権利はない。また、コミンテルンの手垢のついた「天皇制」の三文字を天皇を巡る「制度」として排他的に使用する必要も確かにない。ただ、「天皇制」という用語には現在に至るまで、学説上も左右の多様で豊饒な意味が折り重なっているのも事実。よって、私自身は「天皇制」に代わる代案が見当たらない以上、私独自の意味を背負わせながらこの用語を<使い倒>していくつもりです。

蓋し、「制度」で語りつくせぬsomethingが天皇にはある。それは、保守派であれば誰しも(というか、マルクス-レーニン主義の教科書通りのパラダイムでは日本社会の歴史的発展段階を特定できないという壁に突き当たった、32テーゼの起草者さえも)感じていることでしょう。

畢竟、コミンテルン流の「天皇制」理解ではない、実存としての<天皇=国体>を保守するための理論武装としてなされる、制度としての天皇の理解は可能であり有意義でもあり不可欠でさえある。而して、それをも拒否する論者は、それこそ制度どころか実存としての天皇をも廃止・廃絶しようと狙う「左翼-リベラル派」の攻勢に対して自ら丸腰になるような愚者である。それは、羹に懲りて膾を吹くの類の、死せるコミンテルン、日本の国粋馬鹿右翼を走らせる類の滑稽譚である。と、そう私は考えます。


◆「天皇制」によって「天皇制」を乗り越えよ
上でも述べたように、天皇を「制度」として捉えたところで制度を超える天皇の実存が制度に収斂するわけではない。その逆も真なりで、天皇を「実存」として捉えたところで制度的側面を帯びる天皇の実存が国体に純化されるわけでもない。

ならば、天皇は<国粋馬鹿右翼>と<コミンテルンの末裔>の両者だけがそれを見て自慰行為が可能な、そんな左右の社会主義者専用の<masturbation tool>ではないのであって、それは、公共的、かつ、理論的分析に開かれた思索の対象でもある。その意味で、彼等「「天皇制」という用語は使うべきではない」という論者は、「天皇制」の意味はコミンテルンが定式化した意味に限定されるとほざくプロ市民と同様(公共の施設なのに)なぜかそこの公園での遊び方を仕切る権限が自分にあると勘違いしている世話焼きおばさんに等しいと思います。

蓋し、コミンテルン流にせよ「天皇制」という用語が切り開いた認識があればこそ、明治維新以降の日本の社会関係の理解は促進された。しかし、コミンテルンの「天皇制」理解は、1950年代にはすでに、例えば、「最後の講座派論客=丸山真男」や「転向左翼のチャンピオン=吉本隆明」によって、それが日本国民統合の実定的イデオロギーである側面を看過している限界を指摘された。それ以後の、天皇制論はある意味、コミンテルン流の「天皇制」理解を叩き台にコミンテルン流の「天皇制」パラダイムを批判する道程であったと言っても過言ではないと思います。

これは、「従軍慰安婦」「強制連行」という歴史的に間違った(トータルでは事実と異なった)概念があればこそ、「不当な日本の支配」という歴史認識の誤謬が更に一層明らかになったのとあるいはパラレルなの、鴨。蓋し、このことだけでも、反面教師的にではありますが、コミンテルン流の「天皇制」さえいまだに存在意義はある。

畢竟、「「天皇制」という用語は使うべからず」と提唱しておられるある方は、私の反論を「屁理屈」といわれる。蓋し、浅学菲才の身として、また、そう受け取られるのは不徳のいたすところ、鴨。しかし、その方は、

>日本は万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠に存在するものです。
>これが万古不易の国体であり、この大義に基づいて一大家族国家として億兆一心
>聖旨を奉体し、忠孝の美徳を発揮するものです。
>これこそ我が国体の精華なのです。この国体は我が国永遠不変の大本であり
>国史を貫いているものなのです。    


と、厳かに宣言されるも、その主張の根拠は何も提示できない。思うに、「屁理屈」であろうと主張に根拠を付け自ら批判に身をさらす私と、無根拠な高説を吟じながらも批判から逃げ回るこの方とどちらが日本人として恥ずかしくないかは自明ではないでしょうか。彼の態度こそ、「従軍慰安婦」「竹島」「強制連行」を根拠も示さずに論じたてるかの半島の人々と同様のものである。「天皇制」という言葉は使うべからずとのたまう方々は、自身の言説が極めてマルクス主義的や特定アジア的である滑稽を反省された方がよいと思います。

蓋し、「天皇制」は(その意味内容だけではなくアプローチ方法という意味でも)最早その考案者のコミンテルンの独占物ではなく、理論的に日本の歴史と社会を考察しようとする者の共有財産なのです。なにより、コミンテルン流の定義などとは別に、しかし、「制度」としての天皇にアプローチすることで、「制度」では語りつくせぬsomethingが存在することを初めて公共的な言説空間で理論的に提示できる。而して、それは、このアプローチによって初めて、<科学>や<世界の常識>なるものを引き合いに出して天皇批判を企てる「左翼-リベラル派」に対して的確に反撃できることと同値である。すなわち、「天皇制」は<良い猫>でありうる。と、そう私は考えています。

尚、「天皇制」の問題のコロラリーとしての<女系天皇制>を巡る私の基本的
な認識に関しては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・女系天皇は憲法違反か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879735.html

・覚書★女系天皇制は<保守主義>と矛盾するものではない
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60896992.html



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ジャンル : 政治・経済

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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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