20170620115506da0.jpg 

昨年末のプロデビュー以来、破竹の連勝モードを維持している中学生棋士に世間の注目が集まっているようです。14歳とはいえ相手は将棋のプロ。KABUのような単なる下手の将棋好き程度ではその藤井聡太四段がどれくらい――他のプロ棋士やアマチュアの県代表クラスと比べて――強いのか。また、藤井四段の棋風は他の有名どころのプロ棋士と比べてどんな特徴があるのかなどはまったくわかりません。はい、きっぱり。

というか、正直、――聡太四段が相対的に強すぎて、そのご自分の「棋風」を顕す必要もないのかどうか?――何局か棋譜並べてみたものの、なんか、コンピューターソフトのような将棋に思えなくもなかった。誤解のないように。それは、強いけどつまらない面白くない将棋という意味ではありません。それは、どんな局面でも誰が相手でも――だって、この記事アップロードする時点でのべにせよ「27人の相手」に連勝しているのですものね❗――無駄・無理・むらな手はまず指さない、寧ろ、勝利への強固な欲望と、他方、熟成を感じさせるような将棋、鴨ということですから。


将棋・藤井四段が27連勝=最多記録まであと1
 中学3年の最年少将棋棋士、藤井聡太四段(14)が17日、大阪市で指された第11回朝日杯将棋オープン..........≪続きを読む≫

 

 


将棋とコンピューターソフトと言えばこれまたいろいろ世間を騒がせたテーマ。実際、本稿のメインキャストの渡辺明・永世竜王―永世棋王(資格者)は、ある対戦相手が真剣勝負の対局に<将棋ソフトを持ち込んでいるのではないか>と問題提起して、その提起がもとで半年近くプロ将棋コミュニティーが刺々しい空気に包まれたくらいですから。

尚、この件に関しては、その対戦相手が無実であること、他方、――そう、アイドル道にその青春のすべてを投入したAKB48の渡辺麻友さん(まゆまゆ)ほどではないかもしれないけれど――将棋に人生と自己実現の過半をかけるタイプの純粋な渡辺竜王の立場から見える<風景>としては、確かにその対戦相手が疑わしいと感じられただろうことも今では共通了解の類いなの、鴨。要は、渡辺竜王の問題提起があった「2016」という年は、後に振り返るとき、長い将棋の歴史の中で「コンピューターが人間を追い越した年」とされる、正に、時代を画す年にこの事件は起きるべくして起きた現象ではなかったか。と、そうわたしは考えています。

でもね、オリンピックの100メートル走の金メダリストでも、その100メートルで競争したとして、例えば、運動があまり得意ではないらしい波瑠さんやダンス以外はスポーツにはあんまり関心がないらしい(⬅同志の柏木ゆきりんに誘われたのに、ゴルフでさえ「パスった」という疑惑あり!)渡辺麻友さんの運転する原付バイクにも勝てない、多分。否、間違いなく。ましてや、HKT48の宮脇咲良ちゃんやSKE48の松井珠理奈ちゃんの操る750に生身の人間が二本足で勝てるわけがない。

ことほどさように、2017年以降の人類史において、将棋という「ゲーム=スポーツ」は、地球上でその時点で最高の論理の戦いを堪能するタイプのゲームではなくなり、生身の人間が紡ぎだす最強の論理を味あうためのゲームの類いになったのではないではありますまいか。そうもわたしは考えています。而して、今のところの藤井四段のコンピューターを連想させる将棋にはやはり時代の背景が伴っているの、鴨。けれども、早晩、藤井四段は――2年後、藤井六段(?)の頃には――かなり特徴のはっきりした棋風を備えるのではないか、とも。蓋し、根拠はありませんが、それは、あの某女流名人との不適切な関係(inappropriate relation)で、皮肉ではなく、人間らしさを世間も再確認した、あの永世名人の自然流の棋風に親しいもの、カナ(⬅あい変わらず、西野カナさん贔屓です)。

ということで、以下、旧稿を幾らか改訂しつつ転記します。けれども、――『聖の青春』『3月のライオン』が頑張ってくれたとはいえ――「プロ将棋=プロ棋士の世界」は、いまでもまだマイナーと言えばマイナーな、特殊と言えば特殊な世界。よって、別の記事からその世界のことを些か説明した部分も併せて再録することにしました。ご了承ください。

 

 

 

▼渡辺明永世竜王誕生に思う「定跡」と「人格」

 の弁証法的交錯

 

 09/01/25 11:03

 

2008年12月18日、将棋の最高位タイトル「竜王」戦第7局:deciding Game 7。渡辺明竜王が挑戦者の羽生善治名人(棋聖・王座・王将)を降し竜王戦5連覇を達成。これにより渡辺竜王は史上初めて永世竜王の有資格者となりました。渡辺竜王は1984年、東京都葛飾区生まれ。Topの画像はKABUが仕事で通りかかったJR駒込駅近辺で偶然見かけたもの。渡辺竜王の母校「聖学院」のオフィスの一つと思しきビルに吊るされていた幟です。

連続5期(渡辺)か通産7期(羽生)で与えられる「永世竜王」の名誉が両対局者ともにかかった今期の竜王戦。今期の竜王戦全7局を通じて私が興味を持ったのは「永世竜王」を巡るヒューマンな側面です。もちろん、将棋の素人の私にはそれを判定する棋力はありませんけれども、強い強い、それこそ鬼より強いと称された髭の元名人升田幸三より多分強い羽生名人も、他方、竜王戦開始時点でその羽生名人に5勝6敗とほぼ互角の戦績を残している稀有の棋士の一人だった渡辺竜王も「今期の七番勝負はプロ的に見ると、いい内容の将棋は少なかった」「特に第7局は振り返ってみれば互いに悪手の多い将棋でした」、しかし、それがゆえに「ファンの方には二転三転の熱戦が楽しめたのではないか」そして「それだけ2人にとって懸かっていたものが大きかったという証だった」(橋本崇載七段・『週刊将棋』2009年1月21日号)という状況だったらしい。

例えば、羽生三連勝で早くも竜王位と永世竜王に文字通り王手がかかった第4局は終盤まで素人目には「羽生必勝形」(通常、将棋の形勢判断は、「互角<指しやすい<優勢<勝勢<必勝形<勝ち」と表現しますが、第4局はプロの目にも少なくとも「羽生勝勢」で間違いなかったらしい。)からのまさかの大逆転劇。「永世竜王ゲット!」となればプロ将棋界の全7タイトルで「永世称号」有資格者となる所謂「永世七冠」がかかっていたとあっては歴戦の大豪羽生名人もなかなか平常心を保つことは難しかったのか。他方、強い強い羽生世代の強豪、森内俊之・佐藤康光の両元名人を竜王戦で三度撃破してきた羽生世代キラーの渡辺竜王も自身の「永世位」とともに羽生名人の「永世七冠」に対する世間の注目の高さの前にはこれまたなかなか平常心を保つことは難しかったのだと思います。

実際、渡辺竜王は上で紹介したのと同じ号の『週刊将棋』に掲載されているインタビューで、今期の「竜王戦は多くのメディアが詰め掛けましたね。羽生挑戦者に永世七冠が懸かっていたこともあり、第7局終局後は多くの報道陣が対局室になだれ込んだと聞きます」という質問に対して、今までの竜王戦に比べて「とにかくすごい熱気だった。やはり羽生さんの知名度はすごいなと改めて感じました。普通はあそこまで取材には来ないですから」、と答えているのですから。

当たり前のことですが将棋は人間が行なう競技である。而して、いささか希望的観測気味に先回りして結論を述べれば、将棋の世界も再度「定跡」の時代から「人間力」や「人格」がその勝敗を左右する時代に回帰しつつあるのかもしれません。今期21期竜王戦を通じて私はそんなことを考えました。尚、将棋の世界を巡っては下記拙稿をご一読いただければと思います(上にも記しました通り、下記註はこの拙稿からの一部転記です)。それこそ羽生名人やその羽生世代の活躍によってTVでも時々取り上げられるようになったとはいえプロ将棋の世界はまだどちらかと言えばマイナーな世界でしょうから。

・女流プロ将棋界の独立に暗雲 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/1900745dc101a8114eac067703c745bd

★註:女流棋士との比較で考えるプロ棋士の天才性とその度合い

現在、将棋の女流トップ棋士の実力は「男子プロ棋士」の二段から三段くらいとよく言われます。大急ぎで訂正しておきますが、将棋の世界で「プロ棋士」と呼ばれるのは四段からであり(囲碁界では初段から)、男子プロ棋士の「二段」や「三段」は正確にはプロ棋士ではありません。彼等は、プロ(四段~名人)を目前にしてはいるもののプロではなく、プロ棋士を目指す若者を切磋琢磨させる日本将棋連盟内の育成機関(=「奨励会」)のメンバーなのです。

女流のプロ棋士が珍しくない囲碁界と異なり、プロ将棋の世界では女流棋士は今まで一人も奨励会を通過してプロ棋士になった方はおられない。彼女達はあくまでも「女流」という別枠のプロ棋士なのです。けれども、現在、名人戦とならぶ将棋界のビッグタイトルを争う竜王戦を始め女流棋士と男子プロ棋士が対戦する機会も増えてきており(十年くらい前、そう、記事の中にでてくる中原誠元名人と派手な不倫騒動を引き起こした、その相手の林葉直子元女流名人の頃までは、男子プロには全く歯が立たない状態だったのですが)、最近では女流のトップ棋士は男性のプロ棋士に10番に2回前後は勝っている。女流棋士はそれくらいには強いのです。

10番によくて2-3番。そう聞くと、「まだまだ」と感じる方もおられるかもしれません。しかし、もの凄く稀な例外を除けば(特に、年齢制限のある奨励会を二段や三段でクイットされ「アマ」に転向された方を除けば)、アマチュアの県代表クラス(アマ5段-6段)でも、真剣勝負の場合、奨励会初段にさえ100戦して、おそらく、10番は勝てない(本当の真剣勝負なら、まぐれの2-3勝がせいぜいでしょうか)。ならば、プロの男性棋士に真剣勝負で2-3割の勝率というのは凄いことではないでしょうか。

而して、アマの県代表クラスを一蹴する奨励会の初段が、ライバルの他の初段を凌駕する勝率をkeepすることで、初段→二段→三段と昇段し、最後に、(プロ四段よりも強いと囁かれる!)奨励会三段リーグの30余名の中から年間4名しか「プロ四段」にはなれない。これが将棋のプロの世界。

ならば、女流棋士が過去に1人も「プロ四段」になっていないのは事実としても、(女流棋士はある段階で、男子のプロ棋士志望者と伍して奨励会で研鑽を続けるか、「女流プロ棋士」になるかを選ばなければならないので、正確な比較はできないのですが)女流のトップクラスは間違いなく奨励会の二段の上位から三段程度(ということは、勢いが落ちたロートルのプロ四段や五段)の実力はもっておられると思います。

少なくとも、将棋に関しては、彼女達は「常人」ではない。学生時代に将棋部でならしたとかの腕自慢が集う街の将棋クラブでも彼女達には誰も歯が立たない。私自身もお相手していただいたことがあり、また、学生将棋の全国ベスト16になったこともある友人との対戦を傍で見たこともありますが、私などは「ゴミ」同然で、かっての腕自慢君なども、正に、鎧袖一触! 閑話休題。註釈終了。

 

・衛星放送型通信教育☆サテライトの思想的可能性

 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11181538604.html

・ピグライフは勝れものの「マネージメントスキル開発ツール」かも

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/ee74458c5f6769163b91f13e9a13d8f4

 

 【MV full】 野菜シスターズ / AKB48 [公式] 

 

定跡か人格か。しかし、将棋が最終的には「制限時間内にアウトプットされた技量の優劣」を競うゲームである限りこれらは二者択一的なものではありえません。定跡も人格も重要である。このことは棋士の個性、すなわち、生き方や哲学が濃厚に漂っていた戦前や戦後も高度経済成長期までの将棋界、例えば、木村義雄永世名人・塚田正夫名誉十段・升田幸三実力制第四代名人・大山康晴永世名人も各々その日頃の研究に裏付けられた技量のゆえに歴史に名を残す強豪足りえたのであり、他方、定跡の権化の如き、森下卓九段・藤井猛九段・丸山忠久元名人も「定跡」を追求し続ける「人間力」があればこそこの情報化の時代(=情報消費が加速してとどまることを知らない時代)に20年近くTopクラスの棋士として活躍していられるのだと思います。

けれども、今年から数年の内に40歳になる羽生世代。羽生善治名人・森内俊之元名人・佐藤康光元名人・郷田真隆九段・藤井猛九段・丸山忠久元名人・先崎学八段・深浦康市九段という羽生世代が、羽生世代前後の「定跡開発時代」の空気を呼吸しつつ技量の研鑽と人格の練磨薫陶に励まざるを得なかったのも事実でしょう。1990年代初頭までの数年間、無敵の様相を呈していた谷川浩司元名人が無冠に陥り、他方逆に谷川元名人の更に上の世代に属する米長邦雄九段が1993年度に名人位を獲得できたのも当時の「序盤定跡研究」に対する谷川元名人の対応の遅れと米長元名人のキャッチアップの結果であるとしばしば語られることですが、而して、これら谷川・米長シンドロームの実体は羽生世代前後の手によって1980年代後半から1990年代を通して急速に進んだ「序盤定跡」の研究とその常識化があったと言えるだろうからです。

蓋し、「定跡」が「常識」となればそのマーケットにおける情報価値はゼロになる。畢竟、定跡開発が一段落した段階では情報の非対象性が将棋の勝敗を決する状況は少なくなるということ。而して、1990年代後半時点では、プロ将棋では(1局の平均手数150手の内)「序盤の50手は定跡研究により両対局者の指す手はほぼ決まっており、終盤の50手も詰みに向けたプロ棋士の寄せの技量をもってすればほぼ道なりに推移する。よって、プロ棋士の腕の見せ所は中盤の50手前後、双方25手ずつしかない」(島朗九段)とさえ言われていた「定跡優位」の時代が、定跡開発の昂進とその定跡の常識化によって終わりを迎えつつあるのかもしれない。今期の竜王戦の棋譜を並べてそう感じた素人の予感も満更荒唐無稽なものではないとすれば、そこには定跡を巡る将棋の弁証法的発展ともいうべき現象があると言えるかもしれません。

繰り返しになりますが、定跡開発の昂進が原因となり定跡優位の時代が終焉を迎える現象。社会思想の領域に例を取って敷衍すれば、「疎外」「物象化」「物神性」「商品の価値形態と貨幣の成立」「剰余価値」を鍵概念とした所謂「科学的社会主義」という名の「イデオロギー的嵌め手」の威力をロシア革命からの半世紀に亘って欲しいままに享受してきたマルクス主義も、それらの論理のパーツが左右-保革を問わず常識化することによって(所謂「労働価値説」の誤謬や所謂「史的唯物論」の無根拠性を曝け出しつつ、1989年-1991年の社会主義崩壊に先立つ遅くとも20年前には)社会思想の領域での影響力を失っていたのと同様の事態が現下の将棋の世界でも起こっているのではないか。

あるいは、――新カント派を除けば――現存するおそらく唯一の現役の科学方法論である分析哲学と現象学を基底とする現代解釈学もその知見が(その一見おどろおどろしい論理学を援用した表現を乗り越えて)これまた左右-保革を問わず理解され常識化されるや否や社会思想の領域の共有財産となり、例えば、新カント派や構造主義や現象学との併用、更には、(マルクス・エンゲルスの原典の文献学的の理解からは贔屓の引き倒しに近い暴挙と言わざるを得ないと私には思われるのですが)マルクスを「関係主義的に読み替える」アルセチュールや廣松渉や柄谷行人の如きマルクス主義と分析哲学・現代解釈学とのハイブリッドも20世紀の最後の20年間以降珍しくなくなったのと同様に、定跡開発の昂進が進み定跡が常識化することで逆に定跡優位の時代が終焉を迎え論者の個性、想像力や創造力がその作品形成においてより大きな比重を占める現象は寧ろ人類の知の発展の歴史においては常態というべき事柄ではないか。と、そう私は考えるのです。尚、ここで触れたマルクス主義の常識化に起因する衰退の弁証法、および、「哲学と将棋のアナロジー」や「文化としての哲学」に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・哲学と将棋のアナロジー遊び
 https://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-12272806323.html

・哲学と地ビールと

 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-92.html

・完全攻略夫婦別姓論-マルクス主義フェミニズムの構造と射程(上)~(下)
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-398.html

・帝国とアメリカと日本
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-164.html



囲碁や将棋の棋譜は、カール・ポパーが"Objective Knowledge,"Oxford Univesity Press,1972(『客観的知識』森博訳・木鐸社・1974)で彫琢を重ねた用語を借りれば(客観的な外界である「世界Ⅰ」、主観的内面の領域たる「世界Ⅱ」に対して、人間が創った公共的な諸作品によって形成される)「世界Ⅲ」の典型的な要素といえるでしょう(カール・ポパーに関しは下記を参照いただければと思います)。

・日本ポパー哲学研究会総合メニュー
 http://popper.sakura.ne.jp/index.html

・ポパー:その人と業績
 http://www.law.keio.ac.jp/~popper/popper-j.html

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧

 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8) 
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139986000.html

・「左翼」の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4) 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2045fe3ac164014dde2e644c551d7c38

而して、周期的な氷河期の到来、あるいは、マルクスが『資本論』を書いた頃に観察されていたほぼ10年単位の恐慌の到来のように「世界Ⅲ」としての将棋の棋譜に及ぼされる序盤定跡研究のブームもまたこれからも繰り返されるのでしょう。けれども、その序盤定跡研究のブームは「世界Ⅱ」たる定跡研究に寄せる棋士の熱い思いを動因としながらも、定跡の常識化が一定程度普及した局面では、「世界Ⅰ」たるプロ将棋界の現実的な様相色彩動向の中では退潮するのではないか。これが私の現在の所の取り敢えずの結論です。

同じプロ棋士の中にもその華麗な美しさにファンの多い(他のTop級棋士が気づく3手から5手前の時点で詰み筋を発見して最後は手許に1歩も余さず最短距離で詰めあげる)谷川元名人の「光速の寄せ」。愚直なまでに得意戦法を貫く藤井九段(四間飛車)や丸山元名人(角換わり戦法・横歩取り8五飛車戦法)の姿勢、そして、ある意味究極の愚直とも言うべき羽生名人の「得意・不得意戦法なしの全天候型棋風」や佐藤元名人の「相手の得意戦法を必ず受けて立つ美意識」は「定跡」全盛時代においても棋士の「人格」を通して将棋の魅力を感じさせるものだった。而して、今年2009年からの数年間は「定跡」よりも「人格」が「世界Ⅲ」としての棋譜により大きな比重を占める将棋ファンとしても見応えのある状況になるのかもしれない。そう私は期待しています。

 

 

 

【関連記事】

・AKB48-前田敦子さんの次のセンターは? 「大家志津香」ちゃんに5000LC!、。鴨 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/4e63281b6f97af08199721fd4ed54977

 

・前田敦子の抜けたAKB48なんて「ノンアルコールビール」みたいなものかも

 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11396339153.html

 

・AKB総選挙という<窓>から考える生態学的社会構造の実相 
 https://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65362478.html

 

・総選挙が証明する経済の成長戦略の思想的可能性

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/905095d73cbeec96c10d3be301792706 

 

・AKB総選挙-海馬之玄関「Oshi-men」決定~! 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/42efc0603567d901519898c371733db7 

 

スポンサーサイト
2017062005182341c.jpg 

【解題】
本稿の大元の考察は12年前――1回り前の干支の年!――と、超大昔のものです。けれども、現在、ニューヨークの国連本部で、正にいま「核兵器禁止条約の交渉会議」が開催されている2017年の今こそ、本稿は読み返すに価するもの、鴨。そう感じたので――ここ数年書いた関連記事のリンクURLを加えて――再録することにしました。
蓋し、そう、例えば、核兵器禁止条約の如き発想。「条約をつくれば核兵器、少なくとも核兵器の使用を止めることができる」と考える空想的平和主義の悲しいまでの無内容さを見るとき。確かにその言葉は清楚で優しいけれども、要は、文化帝国主義的の滑稽と傲慢をその条約交渉のプレーヤーの言葉はの端々に感じるとき。なにより、冗談ではなくて――その無内容な条約を最大限利用するだろう支那と北朝鮮が即効で引き起こすに違いない――安全保障体制を巡って世界が不安定化することの危惧を感じたがゆえに! 
5年ぶりに本稿を再録しようと思いました。尚、核兵器禁止条約がその具体的の相貌、その姿を正式にあらわした段階で本稿の続編をアップロードする心つもりです。
 
・被爆国たる日本には核武装する権利がある、鴨
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5dbbffd0fdb9901b9599883ce21bf038
・濫用される「国際社会」という用語についての断想
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c3e3691fe42c9648d012251a71018c54
 
・国連は「主体」ではなく「舞台」です
:国連人権委員会の正体 国連は日本を非難しないと出世しない組織 (追補あり)
 
・(再論)ゲーム理論から考える「不幸な報復の連鎖」あるいは
「不毛な軍拡競争」という言葉の傲慢さについて
 
・まずは「加憲」でいいのではないですか
 ――改憲派こそ「憲法」に期待しすぎるのやめませよう
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9333930d645cf9bb127ad33d72915dd7
 
 
イメージ 2


▼戦争は人為か自然か?
 
2012/01/07 21:01
日々感じたこととか
 
大昔のものですが、私の週刊愛読書『週刊金曜日』でおもしろい文章を見つけました。当時の同誌編集部の成澤宗男さんの筆になる戦争の本性についての記述。笑う門には福来る。同誌を私は健康のために毎週購読しているのですけれども、2012年の今も、この記事は「笑ってすますわけにはいかないもの」とも感じましたた。以下、引用。

この国は、戦争を自然災害と同じように見なすのが伝統なのか。太平洋戦争の空襲や原爆投下などが語られはしても、その「悲惨さ」が誰によってもたらされたのかという議論はこの六〇年間国民にとって関心外だった。「悲惨さ」を嘆くことはあってもそれらをもたらした権力者の行為は不問にされ、あたかも天災犠牲者を弔う感覚だ。

だが戦争や有事は、自然界で突如生じる天災ではない。人間の行為の産物であるから予測が可能で、英知を働かせれば回避や予防もできる。だが。こうした常識は今も通用しないようだ。その代表例が、これから全国津々浦々を包み込もうとしている「国民保護計画」だろう。(後略:「国家はデマで国民を戦争に導くのか 全国各地で始まった「戦時訓練」」,『週刊金曜日』2005年12月9日号pp.17-19所収) 

まあ、昔も今も通用しない主張や認識のことを世間では「常識」とは言わないのでしょうが、この400字原稿用紙1枚にも満たない記事には大東亜戦争後の我が国で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義からの妄想平和主義の核心とも言うべき<世界観>が込められていると感じました。それは、我が優秀かつ勇敢なる自衛隊を違憲と捉えるだけでなく国家の自衛権をも否定するもの;そして、現在、行政法と憲法と国際法を無視して「無防備地域宣言の条例化」を推進しているカルト思想の基底と見られるものをです。

以下、(甲)「戦争は人為か自然か」→(乙)「人間は戦争を回避予防可能か」→(丙)「戦争に備える行為は戦争を誘発する危険な企てか/戦争を否定し戦争の準備を行わないことは戦争を誘発する危険な企てか」の三点につき検討します。

尚、引用した記事には、ご丁寧に無防備地域宣言運動全国ネットの事務局長・桝田俊介氏のコラム「無防備地域宣言は戦争に協力しない」(ibid, pp.18-19)が付随している。つまり、戦争の本性に関する『週刊金曜日』の考えは<無防備地域宣言運動>とも親近性があると思われるのです。これらを確認するために<無防備地域宣言運動>側の発言を一つ収録しておきましょう;滋賀県でこの運動にコミットしておられる方の提言。以下、「無防備地域宣言をめざす大津市民の会」事務局長・中川哲也さんの提言。

天災と違い、戦争は人間が意図的に引き起こすもの。ならば、人間の英知で戦争をなくすことは可能だ。無防備地域は「軍隊のない地域」の意。国際法と憲法9条を生かし、軍備を持たず、お互いが憎しみあわず多民族が共生できる社会を目指す。「武力で解決する」ブッシュ・小泉的思考から脱却し、「平和を愛する諸国民の公正と信義」(憲法前文)に住民の安全を託し、地域社会で戦争をなくすシステムを住民の手で作る。その核が無防備地域宣言と条例だ(以上、引用終了)


◆戦争は人為か自然か?
世に恐ろしいものの代表として「地震・雷・火事・オヤジ」と言います(尚、ここで本当は「オヤジ」は「大風=台風」なのですが、俗論の「親父=星一徹」のこととします)。而して、「火事」はいささか微妙ですが、地震や雷が自然現象であり天災であるのに対して、オヤジや戦争が「人間の行為の産物」であり「人間が意図的に引き起こすもの」、即ち、人為であることは取りあえずそう異論はないでしょう。

しかし、「自然界で突如生じる天災」は予測ができず予防や回避が難しいのに比して、「人間の行為の産物」や「人間が意図的に引き起こすもの」のすべてが予測可能で「英知を働かせれば回避や予防もできる」のかと問われれば、問題はそう簡単ではない。逆に、自然現象には法則性が見出されるのに対して、人為的事象には主観や運命が介在する余地が多く、寧ろ、自然現象は法則を活用したコントロールが可能なのに対して、「女心/男心と秋の空」の如き人為の制御は難しいとも言えるからです。

更に、根本的な問題がある、鴨。自然現象と人為の差は、実は、(N)その動因を人間以外のものに求めるか人間の行為や意志に求めるのかを基準にしてカテゴリー分けできるだけでなく、(H)その現象を<原因→結果>の因果関係で理解できるか、あるいは、<目的→行動>の目的連関で捉えられるのかという認識論的な違いによってもカテゴリー分けができるということ。そして、世の森羅万象の事物の、この「因果関係-目的連関」という二つの判定基準による自然と人為への分節(振り分け)は、相互に孤立した判定であり、相互に他の判定を否定も肯定もしないということです(老婆心ながら申し述べれば、例えば、大晦日にしこたま飲んだ結果の飲酒運転が引き起こす交通事故の如く、ある一つの同じ事象に因果関係と目的連関の双方が観察されることも希ではないということです。為念)。


◆戦争は回避可能か?
戦争の本性の吟味について「自然と人為の差異」をどのように捉えるか。私は<三次元マトリックス>とも言うべき認識枠組みを提案します。即ち、

世の森羅万森羅万象を(X)動因が人間の意志に起因するか否か、(Y)その現象の中に法則性が観察できるか否か、(Z)その現象を人間が制御可能か否か、という3対の軸でもって位置づければ、少なくとも、戦争の本性を考える作業を生産的にする、鴨と(★)。

★註:三次元マトリックス
三次元マトリックスによれば、地震・雷・台風・火事・オヤジ、そして、戦争は各々次のように表記できる、鴨。尚、下で使用する1行3列表記:例えば、(1:0:0)は(第1列)動因が人間の意志に起因する、(第2列)現象の中に法則性が観察できない、(第3列)その現象を人間が制御不可能という情報に対応するものです。

地震(0:0:0)、雷(0:1:0)、台風(0:1:0)、火事(1:1:1)、オヤジ(1:?:1)、戦争(1:0:0)、と。すなわち、何十年間隔での周期性が確認される幾つかの地震は(0:1:0)になり、あるいは、「雷が神奈川県東部で発生する」という精度なら(0:1:0)でしょうが、「今日の午後2時から5時の間に川崎市麻生区の新百合ヶ丘駅北口ロータリーに落雷する」かどうかという事態になれば(0:0:0)になるでしょう。また、統計的な観察からは火事の発生や交通事故の死亡事故は(1:1:1)かもしれませんが、一件一件の特定の火災や事故は(1:0:0)になるの、鴨。

私は何が言いたいのか。それは、人為だから予防と回避が可能とか、自然現象は予防や回避が不可能とは言えないということです。例えば、世界規模の大恐慌はケインズ革命以前には人為であったのでしょうが(ある程度予測は可能ではあったにせよ)予防も回避もできなかった。なにより、1973年のオイルショック以降、世界の経済成長率とある国家財政における社会福祉コストの増加率のギャップは現在でも基本的には解決されていません。畢竟、あるタイプの戦争もまたそうではないでしょうか。

而して、動因の観点からは戦争は人為かもしれないが制御可能なものばかりではない。このタイプの戦争は予防と回避が不可能という点では台風や地震などの自然現象となんら変わらないということです。


◆戦争に備える行為は有害か有益か?
戦争は人為かもしれないが制御可能なものばかりではないのではないか? 要は、戦争はなぜなくならないのか? 簡単です。領土問題・自国民の保護、国家の正統性の確保・国民経済の存立の確保、このような国家の存在と国民の生存を巡る幾つかのタイプの国際紛争において、人類は「戦争よりも効率的で効果的な紛争解決の手段」をいまだに手に入れてはいないから。畢竟、日本にとっての日清・日露の両戦役および大東亜戦争などはその典型例と言うべきものでしょう。

逆の方向から敷衍します。戦争を地上から消滅させる方法としては大きく次の五つがあるの、鴨と。即ち、1「兵器消滅型」、2「抑止力均衡型」、3「人類消滅型」、そして、戦争をできない<本能>を人類が後天的に獲得する4「突然変異型」。及び、戦争の主体たる主権国家がすべて消滅する5「国家消滅型」の五つです。 

而して、4「突然変異型」と5「国家消滅型」は<問題解決の納期>を30年とか100年とかに制限するとすれば3「人類消滅型」とほとんど差のない理想論というかSFの世界の御伽噺の類でしょう。

また、1「兵器消滅型」での戦争の消滅を実現するためには、すべての攻撃兵器の破棄を全世界が「同時に始め」、また「同時に終了」しなければ意味がないと思います。どこかの国が抜け駆けをすれば、その意図は瞬く間に崩壊するでしょうから。よって、これまた非現実的であり、畢竟、人類に残された戦争をなくす方途は2「抑止力均衡型」しかないと私は考えるのです。 

ならば、「戦争よりも効率的で効果的な紛争解決の手段」が発見されていない現在、戦争がなくなるケースは独り抑止力の上での均衡のみということになる。就中、理想的には、どのプレーヤーも(=主権国家もテロリスト集団も!)現在の状況を悪化させない限り別のより良い状況には入れないという「パレート最適モデルの均衡状態」を、可能な限り長く可能な限り広範な紛争において実現すること。それが「不愉快な正解」とも言うべき<戦争を巡る正しい認識>なのではないでしょうか。而して、実は、それが曲がりなりにも20世紀の二度の世界大戦を通して人類が実現しようと努力してきている方途に他ならないの、鴨。

畢竟、あるタイプの戦争が不可避である限り人類に許されているのは、戦争の発生をミニマムに抑え戦争が発生した場合には戦争が惹起する悲惨をミニマムにすること。言わば<戦争との平和的共存>だけではないか。ならば、戦争の惨禍をミニマムするために次の三点をたゆまず推し進めるべき、鴨。と、そう私は考えます。すなわち、

◇人類と戦争との平和的共存のためのスキーム

・兵器・法制度・国民意識のすべてにおいて戦争に備える努力
・戦争でなくとも解決できるタイプの国際紛争を漸次拡大する努力
・抑止力の均衡を維持しつつ、漸次、武力自体をミニマムにしていく努力

結論:戦争は人為ではあるが制御可能とは言えない。

この認識からは、戦争でなくとも解決できる国際紛争と戦争でなければ解決できない国際紛争の違いを理解せず、また、平和をもたらす抑止力の均衡を否定するが如き、憲法9条教の如き主張は、平和を希求するその美しい言葉とは裏腹に、世界の不安定化を招き戦争を誘発する危険なものである。と、そう私は確信しています。

尚、戦争を巡る現在の国際法の内容に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3732bd7bc50e2706143de2f6ef30e0f6

・「核なき世界」なるものを巡る日本と世界の同床異夢 
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-776.html

イメージ 3







  • 005c051ff98871e3c1c2ba2bc831f833.jpg


ポリティカルコンパス日本語版URL:
http://sakidatsumono.ifdef.jp/draft3.html

ポリティカルコンパス英語版URL:
http://www.politicalcompass.org/
(英語版は上のURLで該当ページにアクセスした後、そのページの下の方の
「Click here to start」という箇所を下の画像を参考にクリックしてください)

066a563d5906c5c01fa61a7d0896bd3e.png

日本語版/英語版とも判定プロファイリング結果は、
縦×横のマトリックス平面上に表示されます。
ただ、英語版は「経済→政治」の順、日本語版は「政治→経済」の順。
なんでだろう?

而して、マトリックスの縦軸は政治的価値観を示しており、
上に行くほど(値が10に近いほど)保守的-伝統的権威を尊び、
下に行くほど(値が-10に近いほど)リベラル-個人の自由を尊重するということらしい。

他方、マトリックスの横軸は経済的価値観を示しており、
右に行くほど(値が10に近いほど)経済右派-政府よりもマーケットを信頼していて、
左に行くほど(値が-10に近いほど)経済左派-大きな政府を求め傾向があるらしい。

ffbeda2bc89b488a87898fc8b29463eb.png


ちなみにKABUの結果は・・・、じゃーん!

10年前の2006年7月に実施したときには、
・政治的な右・左度(保守・リベラル度) →6.2
・経済的な右・左度(市場信頼派・政府介入派) →1.85


今回、先ほど診断を受けたら、
・政治的な右・左度(保守・リベラル度) →4.8
・経済的な右・左度(市場信頼派・政府介入派) →4.07


と、微妙に変化しましたが、ともに「保守右派」でした。
保守系ブログ管理人としては一安心、鴨(笑)

384a5dd63eb0474ac57fcc95ca39851a.jpg


でもって、英語版の診断結果も、
10年前の2006年7月に実施したときには、
・Social(Libertarian/Authoritarian) →2.36
・Economic(Left/Right) →0.13


今回、先ほど診断を受けたら
・Social(Libertarian/Authoritarian) →2.77
・Economic(Left/Right) →3.50


と、これまた「微妙」ですが、ともに「保守右派」でした。
目出度い目出度い♪

ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿
ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿


而して、よく言われるように、旧田中派-竹下派支配を打破した、自己責任の原則の価値を称揚する(所謂「新自由主義」を好ましいと考える)小泉政権以前の日本では(55年体制に赤裸々なように、「東京で集めた税金を地方にばらまくシステム」であった、旧田中派-竹下派の経済政策に代表される、あるタイプの)「保守派の経済政策」は社会民主主義の経済政策であり、よって、欧州や米国の感覚では「産経新聞」もリベラル左翼(朝日新聞は「カルト的リベラル新聞」!)に分類されたりもします。
 
・日本社会の「右傾化」を嘆き憤るリベラル派の怠慢と傲岸
 --マーケットの変化には商品の変更でしょ
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5dda58e6b05976d6658553df6d20742f
 
・完版:保守派のための海馬之玄関ブログ<自家製・近代史年表>みたいなもの
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a3221c77ea0add17edf737d21088cf96

10a673d6f548daf295fff3c9751f15d9.jpg


ちなみに、というか、例えば、
私の場合、(日本語版→英語版)の差は、
10年前と今回で各々、

▼2006年7月
・政治(6.22.36
・経済(1.850.13

▼2017年2月
・政治(4.82.77
・経済(4.073.50

になります。要は、欧米のパラダイムでは私こそストライクコースのほぼど真ん中の凡人ということ、鴨。中道×中道ですね。蓋し、いい悪いは別にして、日本の戦後社会が(右打者の)外角低めに張り出した(欧米ではカルト扱いを受けかねない、左翼・リベラルに寛容な?)独特なストライクゾーンを採用してきた歪な時代であったことのこれはその証左の一つ、鴨です。

いずれにせよ、「人はパンのみに生きるにあらず:Man shall not live by bread alone.」(マタイによる福音書4-4)、されど、「パンなしでは人は生きる能わず:Man cannot live by bread alone nor can he live without bread.」でもあります。加之、人は社会的動物(政治的かつ自生的秩序を呼吸して生きている存在)でもある。ならば、パンと社会を巡る二本柱で構築されている<社会思想>とも人は無縁ではありえない。

ということで、定期的に日本語版と英語版のこの「ポリティカルコンパス」でご自分の人となりを自己診断するのは、有意義、鴨。と、そう私は考えます。就中、英語版の英語の難易度は「TOEICの中級者-860点突破対策」くらいにちょうど良いもの。尚、英語版にトライされるとすれば、その際には解答に要した時間も記録しておけば、「定点測定」的に英語力の向上も確認できるかもですよ。是非、お試しください。

74f0cb26bb91068dd58e2aaece73154c.jpg





◆グローバル化の昂進はB29の空襲よりも猛し

私達の郷里は福岡県大牟田市です。帰省する度にしみじみと思うのですが、故郷はやはり心地よい。この郷里に生まれて良かった日本人に生まれて良かったと本当にそう思います。「日本人の皮をかぶったアメリカ人」、より正確に言えば「九州人の皮をかぶったドイツ系アメリカ人」の私でさえそう思う。

しかし、日本では、例えば、今の小学生のほとんどが進学や就職して社会に出るだろう15年後、自分の「郷里」と呼べるコミュニティーを持つ日本人の割合は確実に減ると思います。実際、福岡県最南端に位置する私達の郷里であるこの地方都市の人口は、ここ40年間で約20万人から12万4千人と、38%近く減りましたから。

б(≧◇≦)ノ ・・・寂しい!

三池闘争で知られる、その福岡県大牟田市はかって三井三池炭鉱を擁する総合化学工業都市であり、大東亜戦争では1944年-1945年にかけて都合5~6回の空襲を経験しました。特に、1945年6月の2次に渡る空襲は激烈で各々100機を越えるB29の大編隊によるものだった由。この実質2晩の空襲によって誇張ではなく当時東東洋一を誇った大牟田の化学工場施設、ならびに、三井財閥の城下町たる大牟田市街は文字通り灰燼に帰しました。大牟田が被ったと同様の被害は、しかし、東京・大阪は言うまでもなく、室蘭も木更津も呉も被っている。まして況や、廣島・長崎においておや。

大牟田も長崎も廣島も東京も<B29>によって壊滅的な破壊を受けました。しかし、その後15年足らずで復興した。要は、それよりも早く終戦後10年以内にはそれらは<郷里>として再生を果たしたということ。然るに、(東)石炭から石油にシフトするエネルギー政策の転換、(西)京浜・京葉・中京・阪神エリアへの産業の移転、はたまた、(南)経済活動の東京一極集中という社会変動、そして、(北)企業の日本脱出、つまり、産業の空洞化という国際経済の動向の前には、我が郷里大牟田を含む<地方>の産業、而して、<郷里>は成すすべもなく解体させられています。

22.jpg

重要なことは、この傾向は<地方>だけではないということ。実際、東京の神田や深川に行ってみなさいって、です。あるいは、神楽坂を歩いてみられたらこのことは誰しも肌で感じることだと思います。

畢竟、1945年12月8日に端を発する大東亜戦争の帰結として、<B29>が焼き尽くした神田も深川も、GHQによる占領が終わるか終わらないうちにほどなく、戦地や疎開先から戻ってきた江戸っ子の末裔や辰巳芸者の子孫達によって<郷里>として再建され復活した。しかし、神田も深川も、そして、山の手線内でほとんど唯一B29による戦災を逃れた神楽坂もバブル期に地上げを被り<郷里>は解体させられました。畢竟、グローバル化はB29よりも猛し、なのです。

バブルはGHQよりも猛し、産業構造の転換は核兵器よりも猛し、経済のグローバル化はB29よりも猛し。而して、「グローバル化はB29よりも猛し」という認識から「地方再生」が抱えている問題の構図はどう理解されるのか。私はそれを次のように捉えています。すなわち、

(1)<郷里>は土地ではなく、そこを<郷里>と感じる人々の心性に基盤を置いている

(2)<郷里>は一時的にはそのメンバーの多くがその土地を離れたとしても持続可能ではあるが、そのメンバーの多くが当該の土地において「社会生活-経済生活」を伴わない状態が持続する場合には、早晩、消滅する

(3)何故ならば、<郷里>の基盤たるそのメンバーの心性が<郷里>から離脱するから
 (そのような<郷里>は「父祖の地=ルーツ」という縁を帯びた<観光地>にすぎなくなるから)

(4)ならば、<郷里>再生の鍵は<郷里>の土地を媒介にして営まれる「社会生活-経済生活」を如何に恒常的にメンテナンスするか。不幸にして、ある郷里が消滅した場合、いかにして<郷里>を再構築するかという1点にかかっている。例えば、奈良県十津川村の人々が「郷里」たるこの母村を離れ、北海道の新十津川町という<郷里>を再構築したように。あるいは、イングランドからの移民が「郷里」を離れ、北米大陸に<郷里>たるニューイングランドの共同体を結んだように。


23.jpg

それ以前から過大な相続税の負荷に押し出されたこともあり、地上げが横行したバブル期の前後までには、例えば、多くの江戸っ子の末裔は神田を離れ吉祥寺や三鷹、世田谷や杉並に移って行きました。他方、幸か不幸か神田に残った江戸っ子の末裔達は、自家の地所に5階建てなり10階建てのビルを建てそのペントハウスを住まいとしておられる。しかし、双方とも、謂わば「大地=ガイア」との交流を絶った人々にとって<郷里>のメンテナンスは至難を極めています。

春皐月、神田明神の祭りに吉祥寺や三鷹、世田谷や杉並から馳せ参じる江戸っ子の末裔は、最早、DNAを引き継いでいるという意味だけでの江戸っ子の<末裔>にしかすぎず、彼等も、漸次、神田の<郷里>メンバーではなくなるしかないのではないでしょうか。ならば、興味本位や失礼なもの言いに聞こえるとすれば私の本意ではないのですが、<2011年3月11日午後2時46分>に起因する福島の原発事故によって故郷を追われた福島県浜通りの人々が、その<郷里>を維持・復活させるには大変な困難を乗り越えなければならないことは想像に難くないと思います。閑話休題。



24_20111208114911.jpg


◆資本主義との同衾がもたらすアンビバレントな愉悦

蓋し、「主義」の2文字がついているから紛らわしいのでしょうが、「資本主義」には「制度」の側面と「その制度を容認する理路・心性・主張」の二面があります。そして、(子)制度がすべてそうであるように、それは規範と状態の重層的な構造であり、かつ、(丑)言語や家族という自生的な制度がすべてそうであるように、交換を巡る制度たる資本主義の制度もまた時代によってその内容が変遷するものでしょう。而して、チャーチルが民主主義について語った顰みに倣えば、「資本主義は、所得と資源の分配と交換に関する最悪のシステムである、ただし、「社会主義」を筆頭に今まで存在したシステムを除けば」とは言えるの、鴨。

すなわち、現在の資本主義の制度とは、例えば、(一)所有権の制限、(二)契約の自由の制限、(三)過失責任の制限、および、(四)所得の再配分の導入、(五)ケインズ的な財政と金融における国家権力の政策の導入、(六)種々の国際的な制約という<修正>または<変容>を経た後のものなのです。と、高校の政治経済の復習的なコメントになりましたが、要は、・・・。

要は、これらの与件を<現実>として踏まえるとき、サッチャーもレーガンも、フリードマンもハイエクもある意味立派な「社会主義者-なんらかの資本主義の修正を前提とした社会思想・経済政策の唱道者」であったと言わざるを得ないということ。而して、再々になりますけれども、ケインズ政策の採用、並びに、労働基本権の確立や独占禁止法の導入等々によって資本主義が修正を加えられながらも立ち直ったように、(資本主義よりよりましな分配と交換の制度が登場しない限り)今後、投機的な金融と投資のあり方には大幅な規制と修正が加えられつつ資本主義は三度蘇るのでしょう。19世紀末-20世紀初頭と第二次世界大戦後の二回の復活の際と同様により強固な制度として。

畢竟、ある時代とある国家社会に限定したとしても、<保守主義>とは個々の経済政策のことではなく、経済政策を構成する諸施策のブレンドのレシピ、すなわち、配合比に顕現すると言える。そして、このような時間的と空間的の制約を外した場合、<保守主義>とは政策を構成する要素の配分比ですらなく、それは、(当該の社会と時代を生きる保守主義者に、その当該の時代と社会に最適な「政策の構成要素の配分比」を希求させるであろう)、冒頭の註に記した①~④という、<伝統>の価値を中核とする4個の態度のことに他ならないと私は考えます。以下、所謂「女系天皇制」を下敷きにして、クラインの壺の如き、あるいは、「父」と「子」と「聖霊」の間の三位一体の関係性の如き、<伝統>を巡る「個物と概念」の関係につき敷衍しておきます。

蓋し、<保守主義>が顕揚賞賛してやまない<伝統>は、例えば、「男系による皇位継承ルール」等々、その内容がある時点で固定した個々の伝統だけではなく、まして、「万世一系」という特定の<政治的神話>でもないでしょう。そうではなく、<伝統>としての「皇位継承ルール」とは、生態学的社会構造の変遷とともにそれに拮抗すべく恒常的に再構築される「皇統」の概念とその「皇統」概念の指示対象たる<皇統>の現実相に他ならない。否、より正確に言えば、新たな「個物」を、すなわち、新たな<皇統>を指示対象とする新たな「皇統概念」を再構築し続ける意思と態度と情念が<伝統としての天皇制>に他ならず、而して、そのような<伝統>に価値を置く社会思想が<保守主義>なのだと思います。尚、「女系天皇制」と<保守主義>との関連については下記拙稿をご参照いただければ大変嬉しいです。

・「女性宮家」は女系天皇制導入の橋頭堡
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60907124.html

・覚書★女系天皇制は<保守主義>と矛盾するものではない
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60896992.html


而して、資本主義は、確かに、(甲)利潤の追求が自己目的化する(資本の自己増殖を基本的には制御できない)、(乙)資源と所得の分配が基本的には<市場>に任せられ、<欲望の暴力>が支配する無政府状態的システムではあるが、その不具合を漸次修正しつつも人類は当座それと添い寝するしかない。畢竟、この諦観というか、現世利益を期待しない大人の態度からは(要は、保守主義の立場からは)、「倒産や産業の空洞化こそ資本主義の強靱さ(robustness)と資本主義社会の活気(dynamism and vitality)の裏面」とも理解できるの、鴨。

蓋し、個々の郷里の消滅もまたこの資本主義の強靱さと活気の一斑ではありましょう。けれども、<郷里>が前々項で述べたように人間存在にとって不可欠かつ必須なものとする私の理解が満更根拠のないものではないとすれば、再々になりますけれども、人間には個々の故郷の衰退消滅に関わらず、恒常的に<郷里>を再構築していく他に進むべき道はない。

蓋し、当分の間にせよ、期限未確定のその当分の間は「資本主義との添い寝」は不可避。而して、そういう、不本意な同衾の継続という不愉快な状況下で、しかも、<保守主義>はその憎むべき資本主義との協働作業の<結晶>でもある<郷里>を再構築し続けるしかない。しかし、<郷里>を巡るこのような不本意で不愉快な運命を誠実に生きる誇らしさ、このアンビバレントな愉悦とその希求。これこそが、左右の教条主義が囁きかける現世利益を一切排除する現在の<保守主義>を信奉する者が堅持すべき態度と覚悟であり、かつ、期待してもよい報酬である。

と、そう私は考えます。

25.jpg



尚、老婆心ながら本記事に用いた画像について一言。
画像の<女神様>は、「中島みゆきさん=天照大神」「キムヨナ姫=神功皇后」と同様、
弊ブログでは「木花咲耶姫」と同一神格のほしのあきさんですよ、為念。


ヽ(^o^)丿


テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




◆格差と格差感あるいは格差感と閉塞状況

所謂「格差社会論」は全くの誤謬・妄想でした。けれども、他方、実際に「格差感」は広がっている。これは事実でしょう。就中、<都会>に比べた場合の<地方>の衰退・衰微は覆い隠しようもない現実。それはなぜなのか。蓋し、それは、日本社会において、

(A)全体の「パイ」が、総所得と総資産が縮小していること
(B)行動の選択肢の幅を規定する予測可能性が低下し、リスクが拡大し増大していること
(C)何より「敗者復活」の回路が極めてタイトになっていること


これらが理由なの、鴨。(A)は自明でしょうが、(B)に関して言えば、例えば、「CO2の25%削減」なり「脱原発路線」なる、時の首相の個人的な願望が、あたかも「日本政府」の方針でもあるかのようにして世界に発信される、そんな無責任な民主党政権の下では真面目な企業経営など怖くてできないということ。

実際、「原発の停止によって危惧されていた、2011年夏の電力不足も実際は生じなかった」(だから、脱原発社会は可能だ!)などの戯言は、多くの企業が、何時送電が打ち切られるか分からないような日本では「怖おーてアホくそーて商いなんぞできへんがな」と、電力需要を、よって、雇用を海外に移転させたからこそ成り立っただけのこと。そりゃー、企業が日本を脱出する、よって、雇用が日本を見放すという条件下ならば脱原発社会なるものも充分可能でしょう。人類が死滅した後の地球では振り込め詐欺も強盗事件も惹起するはずはないのですから、多分。

すなわち、(A)に属する、加速した日本経済の空洞化によって、雇用どころか起業の余地も漸減しているということ。加之、(B)の範疇においては、日本に残った企業も投資意欲が萎える結果、端的には、中高年と若年労働者の就職難の昂進に至る。而して、(C)はこれらの帰結でもあり、よって、(A)~(C)三者に必然的に付随する社会保障費の激増によって格差拡大どころか日本経済自体が破綻に近づきつつあるの、鴨。

いずれにせよ、「敗者復活」の余地の乏しい社会に健全な資本主義が生息し続けることは困難でしょう。よって、このままの流れの行き着く先は、(左)「the 99%」による社会秩序の崩壊か、(右)「the 99%」を宥めるための「パンとサーカス」を公費でとことん投入するギリシア化のいずれか、あるいは、(央)その両方ではなかろうかと思います。

要は、(もちろん、「公平感」を維持強化するためには、その施策は満更無意味ではないとしても)「富裕層や大企業/生活保護受給世帯は<ずる>をやって儲けている」「富裕層や大企業/生活保護受給世帯から<応分>の負担を徴収すべきだ」更には「富裕層や大企業/生活保護世帯受給世帯から<応分>の負担を徴収すれば充分に財政はまかなえる」という程度の、「黒幕史観」ならぬ「黒幕社会政策論」によっては、現下の日本の危機は到底打開できないだろうということ。

実際、政府が日銀に国債を買い取らせ、それにより確保した財源に基づいて手厚い財政出動を断行しようとも、企業の投資意欲と家計の有効需要に裏付けられない公共投資の効果は、文字通りの「絵に描いた餅」にすぎないでしょうから。そして、日本の国際競争力が維持強化できない限り、日本列島を逆さにしても社会保障費用など捻出できるはずもないのですから。

もっとも、大急ぎで補足しておきますが、例えば、2008年9月15日に勃発したリーマンショック後の緊急避難的な施策、つまり、短期的な施策としては(麻生内閣がそれを適切に遂行し、政権交代直後の民主党政権がご丁寧にもその施策を急停止させてその後の経済停滞を確実なものとしたように、)公共投資は現在でも財政政策の有力な選択肢ではあるのでしょうけれども。

12_20111208114840.jpg

要は、この社会に迫る危機の正体。その究明に関しては、「格差」ではなく「格差感」が問題であり、而して、その「格差感」の源泉はパイの縮小と社会においても人生においても進行する予測可能性の低下、逆の面から言えば(ベックの言う意味での)リスクの拡大と増大をその中核とするこの日本社会の「閉塞状況」ではないか。と、そう私は考えるのです。

而して、誰の目にもこの危機の解決策はシンプル。すなわち、それは、

(a)生産性の向上と競争の公平化を苗床としたイノベーションの誘発によるパイの拡大、(b)それによって財政的にも可能になる「セーフティーネットの整備拡充」「敗者復活可能な社会」の実現。そして、これら(a)(b)を条件として説得力が担保されるであろう、(c)自己責任の原則の徹底によるモラルハザードの回避です。


例えば、自衛隊・警察・消防、医療・託児・高齢者および障害者のケアを除き、その生産性という意味では、最早、実質的な失業者である非専門的な職域の、地方と中央の公務員全員の平等な解雇を起爆剤とした起業活動の促進(それら現在の公務員が担っている業務は共に任期制の「籤で当選した住民」と公募で獲得した人材で行うこと)、あるいは、公立学校の全廃とそれに代わる「バウチャー」の支給等々、財政健全化と民間マーケットの拡大、加えて、自己責任の原則の啓蒙という一挙両得ならぬ一石三鳥的な施策は幾らでもあるのではないでしょうか。

実際、明治維新とは一種そのような、生産性の低い「公務員=武士」の労働力市場への放出に帰結したのであり、近代日本はそのような構造改革の上に成立したものでもあったのではないか。蓋し、将に今は、小泉構造改革再始動の秋であり、かつ、「王政復古=資本主義の原理原則への回帰」を宣言すべき秋ではないか。と、そう私は考えます。

尚、もちろん、そこに回帰されるべき資本主義とは、(19世紀末葉から20世紀初葉にかけて具現した「近代法から現代法への転換」の過程で、例えば、契約自由の原則と過失責任の原則の修正・所有権の社会的制限によって、資本主義がマルクスの預言を破って自己を再構築した如く)裸の資本主義ではなくて、少なくとも、(就中、「地方再生」というもう一つの課題を見据えるならば尚更なのですが、)金融と投資に関してはより厳格な制約を施されたものでなければならないでしょう。而して、このことには、それこそ、2008年のリーマンショックと2011年のEUの財政危機を目撃した人類史の現段階においては、反論はそう多くないのではなかろうかと思います。



13_20111208114840.jpg


◆保守主義の社会政策の核心としての地方再生

繰り返しになりますが、重要なことは、保守主義の社会政策を断行しなければ、現下の欧州諸国の如く、日本がグローバル化の波濤を浴びて水没することは必定ということ。そして、様々の施策を駆使して<保守主義>がその具現を目指すべき目標の一つは、間違いなく、「地方再生」、すなわち、<郷里>の再構築ではないかということです。

蓋し、現存在としての人間とそのアイデンティティーを生態学的社会構造(自然を媒介とする人と人が取り結ぶ社会的な諸関係性の総体)の枠組みにおいて支える、「共同体=コミュニティー」としての<郷里>の強化、あるいは、恒常的なその再構築は現下の保守主義からの社会政策メニューの中でも高いプライオリティーが与えられている。と、そう私は考えます。

敷衍します。アリストテーレースが喝破した如く、その実存のあり方において「人間が「ポリス=社会」的動物」であり、かつ、その認識と思索の能力において、フッサールとウィトゲンシュタインが解明した如く、「人間の社会とは言語が編み上げる意味空間」でしかない。ならば、(言語が歴史の中で紡がれ編み上げられる制度であり、他方、歴史とはすべからく「ポリス=世間」、すなわち、<郷里>に包摂される人間存在の自己認識でしかない以上、)人間は<郷里>を持たずに生きることは不可能な存在でしょう。

ならば、グローバル化の波濤の押し寄せの前に<郷里>が消滅・消失しつつある現在こそ、保守主義は地方再生と<郷里>の再構築にコミットしなければならない。すなわち、シーシュポスの如く、生態学社会構造の変遷によって、就中、グローバル化の波濤の咆吼の前に恒常的に脅かされ崩壊させられる運命にある<郷里>を、しかし、恒常的に再構築したいと願う欲求から人間は逃れることはできないと思うのです。

よって、天皇制が女系天皇制をビルトインすることによって再構築され得るかもしれないように、時空を超えて、要は、必要ならば新天地に人間は<郷里>を復旧・復興・再建し続けるしかない。蓋し、保守主義の社会政策はこのような人間存在の本性に根ざす<郷里>の再構築という情念や願望と整合的でないはずはない。そう私は考えます。

では、地方再生、すなわち、<郷里>の再構築はどのようにすれば実現可能なのか? 

些かコロンブスの玉子的な回答になりますが、その要件の一つは、間違いなく「他の地域でも売れる競争力のある商品の生産体制」を地域にビルトインすることである。経済活動を包摂する社会関係の修復強化と再編再興の契機を度外視しては<郷里>の再構築などできるはずはないから。と、そう私は考えるのです。

蓋し、グローバル化に対峙して、よって、生態学的社会構造の変遷に拮抗し得る、「収益性の高い商品生産」を具現する産業のシステムとネットワークの整備、そして、それらと親和的な<郷里>の恒常的な再構築が回答。畢竟、(古代・中世と言わず近世においても、夥しい村落が発生しては、衰退し廃村になり、文字通り、現在、地面の下に埋もれている日本社会の現実を見るとき、あるいは、人類史上唯一、組織的な「産業資本主義」の発生が産業革命に先んじた英国で見られる、物流の便益のための夥しい小運河ネットワークの存在を想起するとき、)<郷里>とは本来そのようなものだったのでしょうから。加之、例えば、赤穂浪士が深川の吉良邸に討ち入った元禄の頃の<東京都民>は、そのほとんどが自分の<郷里>を離れて江戸に出てきた人々だったのでしょうから。

ならば、<鎖国>が、最早、不可能であろう現在、まして、英国の産業革命期の「機械打ちこわし運動:ラッダイト運動」の如き施策でグローバル化の波濤を防ぐことなど金輪際不可能なことも自明な現在、人類はそして日本は、グローバル化、すなわち、資本主義と当分の間添い寝し続ける覚悟を決める他の選択肢を持っていないのではないでしょうか。ならば、(正式に「離婚」が成立するまでは)その憎むべき配偶者と同衾して、而して、この憎むべき同衾相手との協働作業として<郷里>を再構築し続けること。これしか<保守主義>に残された道はない。と、そう私は考えます。

些か、叙述が現実から遊離してきました。よって、上記の認識。すなわち、

(α)資源と所得の分配と交換の、資本主義に優るシステムが確立されるまでの間は、資本主義と添い寝せざるを得ないという諦観、(β)<郷里>の死活的な重要性、(γ)資本主義を上手に制御しつつ、しかし、資本主義の原則とゲームのルールを遵守しながら、(a)「生産性の向上と競争の公平化を呼び水としたイノベーションの誘発によるパイの拡大」、(b)「セーフティーネットの整備拡充」および「敗者復活可能な社会」の実現、(c)「自己責任の原則の徹底によるモラルハザードの回避」を希求しつつ、その活動に整合的な<郷里>を恒常的に再構築することの重要性と必然性。


具体的な事例を通して、次項ではこれらの認識を<検算>したいと思います。 


14_20111208114840.jpg



<続く>


テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済

プロフィール

KABU

Author:KABU
大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
yahoo版のミラーブログ。
2007年9月10日以降の新記事を随時、厳選した過去の自薦稿を漸次アップロードしていきます♪

百人一首 de 海馬之玄関
問い合わせ先
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
使用状況de電気予報
人間が好きになる名言集

presented by 地球の名言

人生が輝き出す名言集


presented by 地球の名言
夢を叶えるための名言集


presented by 地球の名言
仕事が楽しくなる名言集

presented by 地球の名言

全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

ブログ内検索
最近の記事
Othello de 気分転換
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2ブログランキング
fc2rankbanner
miniTube