朝日新聞が、社説(2014年10月15日付け社説)で「立憲主義」に関する自社の無知を認め「ごめんなさい」していました。もっとも、「ごめんなさい」の箇所は日本語ではなく朝日語だから「朝日新聞への批判から逃げようというのではない」という--官僚の「遺憾に思います」の類の--朝日新聞の生態にあまり興味のない向きには意味不明な社説だったけれど。

しかし、間違いなく、これは慰安婦問題および福島原発吉田調書問題に続くもう一つの朝日新聞の「ごめんなさい」でしょう。而して、地味だけれど、保守派がリベラル派を壊滅させていくこれから数年の言論戦のプロセスにおいて、「振り返ればあれが一つの分水嶺だったかな」ということになるかもしれない遺憾の意の表明なの、鴨。

その現物がこれです。
関連する後段だけ引用。


▼新聞と言論 社会を単色にはしない 
このところ、各新聞社の間で社説の主張が大きく二分されることが目立つ。
例えば、集団的自衛権の行使を認める7月の閣議決定。朝日新聞は「この暴挙を超えて」と題する社説で、解釈改憲に踏み切った安倍政権を批判した。一方、読売新聞は「抑止力向上へ意義深い『容認』」との見出しで、自民・公明の与党合意に基づく決定を歓迎した。

こうした違いがあることは、日本の言論空間が健全であることの表れだ。

それでも、自戒を込めていえば、意見の対立が激しくなるほど「我々が正しいのだ」と筆に力が入る。記者が陥りがちな悪い癖かもしれない。行き過ぎればメディアが政治のプレーヤーになりかねない。そうなると、まるで政治闘争であるかのように筆はとがっていく。

安倍首相の憲法への姿勢に対し、私たちは「憲法によって権力を縛る立憲主義に反する」と批判してきた。一方、立憲主義には「多様な価値観の共存を実現する」というもう一つの大きな意味があると憲法学は教える。

朝日新聞への批判から逃げようというのではない。ただ、慰安婦報道に携わった元記者の勤め先の大学が脅迫されるほどに過熱しては、多様な価値観が共存できるはずの社会の基盤が脅かされる。

新聞の役割は、意見の対立をあおることではない。考える材料をいかに社会に提供できるかにある。そのことを改めて確かめておきたい。私たちの社会が、ひとつの色に染められてしまうことに抗するためにも。


(以上、引用終了)


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どうですか、意味わかりました?
朝日語は語彙だけでなく論理も難解かつ難渋。

畢竟、「立憲主義」の間違った理解に基づく社説や記事を散々朝日新聞に読まされてきた読者にとって、「詫び状」として見ればこの社説は単純に次の3センテンスのみ。そして、その箇所だけ取り出せば、それ自体は意味不明とまでは言えない。要は、「立憲主義について散々嘘を書いてきてごめんなさい」、と。

ここです。

安倍首相の憲法への姿勢に対し、私たちは「憲法によって権力を縛る立憲主義に反する」と批判してきた。一方、立憲主義には「多様な価値観の共存を実現する」というもう一つの大きな意味があると憲法学は教える。朝日新聞への批判から逃げようというのではない。


而して、東京大学を停年前に去り早稲田大学に避難した--私の予想では、早晩、最高裁判事になられるのかもしれない--長谷部恭男さんの「立憲主義≒リベラルデモクラシー」の理解を踏まえて憲法学の知見を補いながらこの3センテンスを日本語に訳すと、大体次のとおりでしょうか。すなわち、

朝日新聞は安倍首相の憲法への姿勢を「立憲主義に反する」と批判してきましたが、憲法学の知見からは「安倍首相の憲法への姿勢は立憲主義に反する」とは言えないそうです。

憲法学によれば、「立憲主義」とは「憲法によって権力は縛られなければならない」といった政治闘争で常套される類の力強いが無内容なスローガンではないそうなんですよ。確かにそれだと、司法審査に馴染まないタイプの行政府や立法府の行動を憲法規範として枠づけることは難しいですからね。そうなると残るのは赤裸々な政治闘争のみになるだろうし・・・。

ということで、現在の憲法学の知見からは、「立憲主義」とは「多様な価値観の共存を実現する」ために国家権力は--事実と論理を踏まえた合理的な討議によっては解決できない、宗教間の紛争に典型的な、世界観・歴史観・国家観といったイデオロギーに関わる紛争、すなわち、各自の主張の基盤となるものが相互に--比較不可能な価値観に基づく紛争には容喙してはならない、

また、そのような紛争は--民主主義を錦の御旗に掲げた社会の多数派から要請があったとしても、社会の公的領域で解決する、すなわち、政治によって解決するのではなく--社会の私事領域で、かつ、法の許容する範囲で解決するよう国民に促すべきだという憲法原理らしいんです。

確かにこれならば、司法審査権の限界を導く上でも、また、具体的な司法審査に際しても--就中、民主主義の原理の要請と権利確保の要請が対立する悩ましいケースに関しても--司法府に権利規定を解釈する指針を供給可能な認識かもしれないから。

今まで散々嘘を書いてきてごめんなさい。


(><)


尚、「立憲主義」の意味に関しては
下記拙稿をご参照ください。

・保守派のための「立憲主義」の要点整理
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62554338.html

・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62198131.html

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、
<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html

・憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する
「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61963692.html

・立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62314363.html

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而して、興味深いのは、そして、リベラル派との今後の言論戦において油断できないと感じたものは、官僚より官僚的と評すべき見事な論理の展開と粉飾。すなわち、この社説全体の流れの中に問題の3センテンスが置かれた場合--実際に置かれているのですけどね--、その理解は必ずしも容易ではないのではないか、ということ。

こんな具合です。ちなみに、問題の3センテンスは「Major Factor 1」を補強するための
二つの例の中の一つ「Minor Factor:例3」という位置づけになろうかと思います。


(Subject)
社会を単色にしない新聞と言論のあり方
┌─
│ (Main Idea)
│ 価値観を異にする複数の社説が存在することは
│ 日本の言論空間の健全性の証左だ←(Minor Factor:例1)
│  ↓  ↓
│  ↓ (Major Factor 1)
│  ↓  価値観を異にする相手に対しても
│  ↓     ・根拠薄弱で過激な言葉←(Minor Factor:例3)
│  ↓     ・暴力を示唆する言葉←(Minor Factor:例4)
│  ↓  は使われるべきではない
│  ↓     ・それらの言葉は多様な価値観が共存できるはずの
│  ↓      社会の基盤を脅かすだろうから←(Minor Factor:思考実験)
│  ↓     ・新聞記者はヒートアップしたとしても筆をとがらせ、自身が政治闘争の
│  ↓      プレーヤーになどなってはならない←(Minor Factor:例2)
│  ↓
│  ↓ (Major Factor 2)
│  ↓  新聞の役割は、意見の対立をあおることではなく、
│  ↓  考える材料を社会に提供することである
│  ↓  ↑  ・新聞が政治闘争のプレーヤーに
│  ↓  ↑   なってはならない←(Minor Factor:反対解釈)
│  ↓  ↑
│ (Main Idea)
│ 日本が単色の不健全な社会になることに抗するためにも
│  (Major Factor 2)をこの社説で再確認しておきたい
└─


繰り返しますが、社説全体の流れの中に「Minor Factor:例3」の3センテンスが置かれた場合、その理解は容易ではない、鴨。それ、鏡に鏡を映したときのような無限に続くあの<仮想空間>の気持ち悪さと一脈通じている、鴨。あるいは、ルビンの壷を見続けないといけないとした場合のやるせなさと通底する感覚、鴨。
と、そう私は思わないではないです。

それはなぜか。
はい、それは、

(Ⅰ)傍論で書かれた遺憾表明
この社説の主題(Subject)や朝日新聞が主に述べたい主張(Main Idea)と「立憲主義について散々嘘を書いてきてごめんなさい」の箇所は論理的には直接の関係がないこと。つまり、当該箇所は社説の主な主張(Main Idea)でさえない、その主張をサポートするための大枝の一つ(Major Factor 1)をサポートする、しかも、取り替え可能な単なる例示箇所(Minor Factor 3)にすぎないこと

(Ⅱ)遺憾表明に対する二重三重の防御措置
「立憲主義について散々嘘を書いてきてごめんなさい」の箇所は社説の理路の展開の中で別の意味も負わせられていること、すなわち、当該箇所(Minor Factor 3)は、読者の錯覚や朝日新聞の詐術では必ずしもなく、これまた論理の階層構造から見て、

①朝日新聞は「立憲主義」を巡る憲法学の知見を否定するものではない、なぜならば、「朝日新聞は価値観を異にする言論の存在を寧ろ歓迎するから」(Main Idea)、また、②朝日新聞の「安倍首相の憲法への姿勢は「憲法によって権力を縛る立憲主義に反する」としてきた批判」は、政治闘争を仕掛けたものでもあるはずがない、なぜならば、「朝日新聞は価値観の異なる相手に対しても根拠薄弱な過激な言葉を用いることを忌避するタイプの新聞」(Major Factor 1)であり、かつ、③「朝日新聞は新聞が政治闘争のプレーヤーになることを厳に禁欲するタイプの新聞」(Major Factor 2)なのだから、ならば、

当該箇所(Minor Factor 3)は「安倍首相に対する朝日新聞の批判をもし根拠薄弱の過激な言論と受け取られた向きがあれば遺憾であるが、それは、記者が陥りがちな筆に力が入る悪い癖が出た結果であり悪気はなかった」という意味にならないこともないということです。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。


もちろん、社説の主題と主張と理路を決めるのは--ある社説で取り上げる主題(Subject)を選定し、その主題についての自社の主張(Main Idea)を定め、社説の幹としての主張に説得力を持たせるべく大枝や小枝となる材料(Major or Minor Factor)を選択し、もって、幹と枝葉の全体の枝振り(Logic and Coherency)を決めるのは--各新聞社の自由であり権利でしょう。

だから、残念ながら、朝日新聞のこの「遺憾表明」は
論理的に脆弱ではなく詭弁というわけでもない。

けどね、読者に散々嘘を読ませてきておいて、しかも、それを認めておきながら、「まー、ついでに遺憾の意も表しておきますかな」では済まないんじゃないでしょうか、普通。

まして、その遺憾の意は朝日語で書かれた、
「朝日新聞への批判から逃げようというのではない」だものね。
凄いね、いい根性してるよ。

而して、この社説は「官僚より官僚的な狡猾な論理で覆われた遺憾の意の
これまた官僚よりも官僚的な慇懃無礼な表明」ではないか。と、そう私は考えます。

でもね、鏡や壺の中に逃げ込んでも結局無駄というもの。
それは単なる時間稼ぎ、悪足搔きだろうから。ならば、

б(≧◇≦)ノ ・・・朝日新聞はきちんと事実関係を認めて日本語で謝れ!


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畢竟、カール・ポパーの<歴史主義批判>、すなわち、歴史に普遍的な法則性を見出すマルクスやヘーゲル、社会契約論や天賦人権論の如き立場に対するポパーの原理的な批判を想起するとき、また、E.H.カー『What is History?』(Macmillan, 1961:清水幾太郎訳『歴史とは何か』(岩波新書・1962年3月)の中の例えば、「「歴史とは何か」に対する私の最初のお答えを申し上げることにしましょう。歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らない対話なのです:My first answer therefore to the question 'what is History?' is that it is a continuous process of interaction between the historian and his facts, an unending dialogue between the present and the past.」(ibid岩波新書, p.40),「歴史とは現在の歴史家と過去の事実との間の相互作用の過程であり、対話です:I described history as a process of interaction, a dialogue between the historian in the present and the facts of the past.」(ibid岩波新書, p.47)という言葉を想起するとき、すなわち、

-歴史の認識と叙述とは<物語>に他ならない
-普遍的に妥当する歴史的認識などは存在しない
 /そのような認識を有限なる人間が知ることはできない
-普遍的で絶対的な歴史認識は存在しないけれど、要は、
 「いつでもどこでも誰にでも正しい歴史認識」は存在しないけれど、
 「今、ここで、私にとって正しい歴史認識」、相対的に正しい歴史認識は存在する
-相対的に正しい歴史認識を恒常的に再構築する実践的な作業こそ<歴史学>の営みであり、
 人間は自己のアイデンティティーを獲得すべく恒常的にそのような<歴史学>を
希求する存在である


という<歴史学的な歴史認識>の相対性と恒常的な現在性と親和的であり、それを基盤として成立するだろう、ある国家に特有の<歴史物語としての歴史認識>の本質的な特殊性を看過しない限り、(α)イデオロギーとしての歴史認識はある国家に特殊なものであり、(β)そのイデオロギーとしての歴史認識に他ならない<歴史物語>は--「政権によって左右されるような」ものどころか、極論すれば、ある一つの政権においても変容しうる--恒常的に見直されざるを得ない「賞味期限つき」のものなのだと思います(尚、「歴史」を巡る私の基本的な認識については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです)。

・定義集-「歴史」(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61007370.html

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けれども、支那・韓国の<歴史物語>と日本のそれとは似て非なるもの、鴨です。

なぜならば、(前者の<歴史物語>が、21世紀の現在、対内的には最高の対外的には独立かつ他国と平等な「主権」を属性とする主権国家の共存という事態と整合的とはとても言えない、古代中世的の<帝国>の概念--異なる文化と文明を呼吸する諸民族を包摂する<宇宙>としての<帝国>の概念--のなれの果てとも言える、自分を中心に世界と宇宙を廻す中華主義をその骨格としている点には目を瞑るとしても)前者の<歴史物語>は、単なる、自国内部における社会統合イデオロギーであるというその正当な守備範囲を越えて、他国に対して彼等がなす国際政治上のクレーム(英語の「クレーム:要求」と日本語の「クレーム:文句や言い掛かり」の双方の意味を含むクレーム)の根拠、あまつさえ、国際法解釈の根拠や前提的の認識として濫用されている節がある。これに対して、我が日本における<歴史物語>は--その歴史認識の事物の本性を踏まえた--自国内における、国際法とは一定程度距離を置いた事象として用いられていることは明らかだからです。

尚、「中華主義」および「ナショナリズム」に関する
私の基本的な理解については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・<中国>という現象☆中華主義とナショナリズム(上)(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11153763008.html

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html

・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59898544.html


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逆の地点から敷衍しておけば、例えば、サンフランシスコ平和条約で日本は「東京裁判の判決を受諾」したのか「東京裁判(の裁判)を受諾」したのか--単に、「東京裁判で下された判決に記された、死刑・禁固刑等々の法的制裁の内容」を受諾しただけなのか「判決に記された法的制裁の内容のみならず、東京裁判で下された判決の事実認定や事実認定の前提となる「戦前の日本=侵略国家」といった類の歴史認識」をも受諾したのか--といった議論は法理論的に無意味と言うべきなのです。

▼サンフランシスコ平和条約11条
日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。 

▼Article 11
Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and will carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan. The power to grant clemency, to reduce sentences and to parole with respect to such prisoners may not be exercised except on the decision of the Government or Governments which imposed the sentence in each instance, and on recommendation of Japan. In the case of persons sentenced by the International Military Tribunal for the Far East, such power may not be exercised except on the decision of a majority of the Governments represented on the Tribunal, and on the recommendation of Japan.
   

 
何故ならば、(東京裁判なるものは「事後法による戦勝国の敗戦国日本に対するリンチ」にすぎなかった、要は、日本の戦争指導者がそこで追求され/背負った「戦争責任」なるものは「敗戦責任」に他ならないという点は置いておくとしても)土台、国際法・国内法を問わず、司法や裁判所に、判決や裁判に自体に、ある特殊な「歴史認識」を正当なものとしてオーソライズする権能が--司法や裁判所に、判決や裁判に「世界一の美女は誰か」とか「ビックバン以前の宇宙はどんな状態だったのか」、あるいは、「邪馬台国はどこにあったのか」とか「素数の分布に関するリーマン予測は正しいか」とかを判定する権能がないのとパラレルに--備わっているはずなどないからです。

ことほど左様に、裁判や法の事物の本性から導かれる、このような、法と司法の効能の本質的な限界を補助線として想起するとき、<歴史物語>と国際法の守備範囲の差違を愚直に唱える安倍総理の主張が中庸を得たものであるのに対して、それらの違いを看過してなされる支那・韓国の対日批判が下品であるだけでなく噴飯ものの謬論であることは自明であろうと思います(尚、サンフランシスコ平和条約の11条を巡る私の認識については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです)。

・サンフランシスコ平和条約第11条における「the judgments」の意味(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60937343.html


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蓋し、支那・韓国と日本との違い。彼我の違い。このことは、(安倍総理が夙に主張されている如く、)日本は、国際紛争の解決は国際法と確立した国際政治の慣習に従い処理することを支那や韓国に対しても求めているに対して、支那・韓国が(韓国の--「強制徴用」なるものや所謂「従軍慰安婦」なるものを巡って--日本の戦争責任を認めた自国の裁判所の判決をあたかも日本側も尊重する法的義務、少なくとも、道義的義務が日本政府にはあるかの如きシュールな主張に炸裂しているように)、国際法と確立した国際政治の慣習とも無縁な国際政治上と国際法上のクレームをその<歴史物語>で補強できると考え、それを常套手段とする対日批判を繰り返していることを想起するとき、満更、私の曲解ではないのではないだろうと思います。喩えれば、支那・韓国の<歴史>は<物語>と<法>の異質な言説空間に重層的に横たわる両義的存在、<クラインの壺>に他ならないの、鴨。

▽歴史物語を巡る非対称性
(Ⅰa)歴史は国内的のみならず対外的な主張の根拠(支那・韓国)
(Ⅰb)歴史は国内的の社会統合イデオロギーの根拠(日本)
(Ⅱa)歴史物語と国際法の未分離(支那・韓国)
(Ⅱb)歴史物語と国際法の分業制(日本)


畢竟、朝日新聞の件の社説は、<歴史物語>と国際法の双方において、これまた重層的に安倍総理の持論の正しさと--支那・韓国の主張の破綻、よって、--朝日新聞の歴史認識の破綻と無根拠性を自ら暴露した<自殺点>に他ならないのではないか。少なくとも、それは「語るに落ちた」言説である。と、そう私は考えます。


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テーマ : 歴史認識
ジャンル : 政治・経済




本日、2013年8月15日の朝日新聞社説を読んでいて唖然としました。「義憤」を感じたとかではありません、言葉の正確な意味で「唖然」。そう、他人事ながら心配になった。「おいおい、朝日新聞さん、自分で自分の首絞めてどうするの」「これは、「戦後レジュームからの脱却」を期す安倍総理を日頃からことある毎に批判している朝日新聞のロジックがなり立たないことを朝日新聞自体がその社説ではからずも認めたものだよ」、と。これは正に、語るに落ちた社説。そうとしか私には思えなかったから。

以下、そう感じた箇所の転記。尚、Top画像は、あまりの「自爆」の見事さに
開いた口が塞がらないでいる<大蛇山>君です。

▼戦後68年と近隣外交―内向き思考を抜け出そう
・・・戦前戦中の日本の責任を問う声がアジアから湧き起こるまでには時間がかかった。それは、戦後の秩序の影響が大きい。米国とソ連が世界を二分した冷戦の時代。日本と台湾、韓国は米国陣営に組み入れられた。さらに日本は高度成長にも入った。資金と技術で隣国を助ける優位を保つことができた。

70年代までに終えた近隣との国交正常化は、冷戦構造の産物でもある。日本への賠償請求権は消えたとされたが、当時の近隣諸国では外交に民意が反映される状況ではなかった。やがて冷戦は終わる。グローバル経済の時代、韓国は先進国へ、中国は大国へと成長した。日本と国力の差がなくなるにつれ、歴史問題に由来する大衆感情が噴き出している。日本はもはや軍国主義は遠い遺物と思っても、隣の民衆にとっては戦争を問う時が今やってきた。そこには歴史観の時差ともいえる認識のズレがある。・・・


(朝日新聞社説・2013年8月15日


このどこが「語るに落ちている」のか。蓋し、この社説のロジックからは、例えば、日本が「東京裁判」(「東京茶番」とも呼ばれている。)の見直しを提起するとか、よって、官民一体となり国をあげて「東京裁判史観」(「自虐史観」と呼ばれるべき、鴨)の見直しを始めるとか、あるいは、「占領憲法」(「日本国憲法」という名称の現行憲法)を破棄/改正することもまた正当なこと、少なくとも、当然の流れということになるということです。

敷衍すれば、冷戦構造の崩壊、加之、支那と韓国の台頭(笑)という現下の歴史状況を鑑みれば、東京裁判・東京裁判史観・占領憲法を見直す動きをこれまで68年間も制約してきた<戦後民主主義イデオロギー>の妥当性を日本の民衆が問う時が今やってきており、それらの打破を求める日本の大衆感情が噴き出しているのも当然の流れというものである、と。

而して、現下の日本が立憲君主制をとる大衆民主主義国家である以上、そのような大衆感情を--それは大衆の「感情」にすぎないとしても、有権者国民の多くがそのような<感情>を抱いているということは<事実>なのですから--政治がすくい上げ政策課題に翻訳していくのもまた正当なことであるか、少なくとも、当然の流れというもの。蓋し、朝日新聞のこの社説のロジックはこのような理路の流れと論理的の帰結をサポートするものであり、例えば、占領憲法の改正を目指す安倍総理を批判する日頃のその主張の根拠がそうそう確かなものではないことを朝日新聞自体が自ら認めたものに他ならない。そう私は考えます。


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けれども、おそらく、朝日新聞の社説子はそうは考えなかったのでしょう。つまり、支那や韓国の「民衆が戦争を問う」ことや、支那や韓国で「歴史問題に由来する大衆感情が噴き出す」のは正しく、かつ、自然な流れと言えるが、日本で「民衆が東京裁判・東京裁判史観・占領憲法を問う」ことや、日本で<戦後民主主義イデオロギー>の否定につながる「歴史問題に由来する大衆感情が噴き出す」ことは、偏狭なナショナリズムの顕現、要は、それらは間違いであり許されることではない、と。そう朝日新聞の社説子は確信しているからこそこの社説に結晶する主張を堂々と世に訴えたのでしょうからね。

けれども、朝日新聞の社説子の認識に関する私の想像が
満更我田引水の類ではないとするならば、
それは明らかなダブルスタンダード。

すなわち、(「当時の近隣諸国では外交に民意が反映される状況ではなかった」という経緯は、独裁国家である支那においては21世紀初頭の現在もそう変わらないのではないかいといったことは、あるいは、戦時中の韓国人の「強制徴用」なるものに関して、日本企業に賠償責任を認める判決が相次いでいることに顕著な如く、韓国は法の支配も理解できない「法と政治」「法と世論」の未分離な国である等々は、武士の情けでここでは問題にしないとしても、)歴史の見直しや戦争責任を巡って、支那・韓国といった特定アジア諸国と日本に異なるルールを適用するその根拠はかなり怪しい。というか、そのダブルスタンダード(二重の基準論)は単なる文化帝国主義的の教条にすぎないの、鴨。

いずれにせよ、(ⅰ)コミンテルン流の「講座派≒日本共産党」的の歴史観と、(ⅱ)フランス流の「社会契約論→天賦人権論→必要悪としての国家権力理解」と整合的な歴史認識の野合と言うべき<戦後民主主義の歴史認識>を基盤とする、そんな朝日新聞のこの社説の理路は、(歴史認識の普遍性なるもの、他方、「人権」なるものの普遍性を含む人類史の必然的な発展法則/変遷の傾向性なりが、分析哲学・現象学・現代解釈学によって認識論的に完全に否定された20世紀の半ば以降の現代、)破綻している。要は、朝日新聞のこの社説に憑依するダブルスタンダード(二重の基準論)は単なるダブルスタンダード(二枚舌)にすぎないと言うべきなのです。


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敷衍しておけば、朝日新聞を始めとする反日リベラルの論者がしばしば口にする、「日本では戦後68年間、日本人の手で戦争指導者の戦争責任を追求してこなかったし裁いてこなかった」という言説もダブルスタンダード(二枚舌)のダブルスタンダード(二重の基準論)なの、鴨。例えば、毎日新聞の今日、2013年8月15日の社説「8・15を考える 積み重ねた歴史の重さ」にはこう述べてありました。

「第1次安倍政権下で始まり、3年前にまとまった日中歴史共同研究の報告書も、「日本軍の侵略」という言葉を使っている。そして日本は既に、戦後50年の村山談話と戦後60年の小泉談話で、2度にわたって「侵略と植民地支配」への反省と謝罪を世界に表明している。それが第2次安倍政権になって、侵略を明確に認めようとしないかのような発言が政治家から出てきた。さらには村山談話の見直し論が語られたりする。A級戦犯をまつる靖国神社への首相参拝の是非も、再び国論を二分させている。背景には、戦争責任や戦後処理をあいまいにしたまま、新しい世代が政治の主流を占めるようになったことも影響しているだろう。先の参院選の当選者の平均年齢は52.4歳。70代以上はわずか7人(5.8%)である。58歳の安倍晋三首相をはじめ、戦争を知る政治家は、いまやほとんどいなくなった。だが、戦後70年近くたっても過去の総括が定まらず、歴史の評価が政権によって左右されるような国は、健全だとはいえない」、と。


私は、逆に、--E.H.カーの「歴史とは現在と過去との間の尽きることを知らない対話」という言葉、あるいは、「すべての歴史は現代史である」と喝破したクローチェの知の一閃を引き合いに出すまでもなく--「過去の総括」が金科玉条よろしく固定したような「国は、健全とはいえない」と思いますけれど、いずれにせよ、毎日新聞の社説子が「戦争責任や戦後処理をあいまいにした」という認識を平然と書いてしまう事態に愕然とします。

なぜならば、(1)この68年間、正確に言えば、サンフランシスコ平和条約の発効によって主権を回復してからの61年間、「戦争指導者」なるものを日本人が裁く機会は常に開かれていた。而して、(2)日本は、サンフランシスコ平和条約の条項を徹底的に遵守して旧連合国のすべての了承をとりつけつつ、日本人は、国会の両院でほぼ全会一致によって「戦争犯罪者」なるものの名誉回復を行った。

(3)蓋し、この「戦争指導者」を否定的に評価せず法的な制裁を科さなかった/名誉回復を行ったこと自体が、彼等に対する日本人の手による戦争責任の追求であり裁きであったと言うべきなのです。

(4)それとも、「戦争指導者に対する戦争責任の追求やの裁き」とは彼等を否定的に評価することや法的な制裁を科すことに限定されるというのでしょうか。(5)そんな根拠はどこにも存在しません。

蓋し、(6)戦争中の東京大空襲を始めとする戦略爆撃や支那における日本国民に対する支那側の残虐行為、あるいは、戦後占領下の日本で頻発した占領軍兵士による集団的な殺人・傷害・婦女暴行、強盗・放火の数々に対する連合国の「戦争責任/戦後責任」を看過しながら、日本側の戦争責任を、しかも、否定的な評価に限定して語られる「日本では戦後68年間、日本人の手で戦争指導者を裁いてこなかった」などの言説が無根拠であるのみならず、ダブルスタンダード(二枚舌)のダブルスタンダード(二重の基準論)であることは明らかなのではないでしょうか。



畢竟、朝日新聞のこの社説に憑依するダブルスタンダード(二重の基準論)が説得力を持ちうるのは、「もうおまえは死んでいる」の『北斗の拳』の如く破綻している<戦後民主主義の歴史認識>にいまだに帰依している左翼リベラルの<善男善女>のコミュニティー内部に限られる。蓋し、朝日新聞・毎日新聞、NHK・TBSを始め反日リベラルのマスメディアがこれだけネガティブキャンペーンを繰り広げようが国民の相対的多数が安倍政権にそれなりの支持を与えていること、そして、支那・韓国に対する嫌悪感というか、「支那・韓国とはもうあまり関わり合いたくない」という国民世論が日々その多数の度を増している現下の日本社会の状況は、朝日新聞のダブルスタンダードが<神通力>をこれまた日々逓減させていること--左翼リベラルの<善男善女>のコミュニティーが日々縮小していること--の傍証と言えるの、鴨。と、そう私は考えます。

蓋し、それらが「正しい」かどうかは別にして、支那や韓国の「民衆が戦争を問う」ことや、支那や韓国で「歴史問題に由来する大衆感情が噴き出す」のは自然な流れと言えるのとパラレルに、日本で「民衆が東京裁判・東京裁判史観・占領憲法を問う」ことや、日本で<戦後民主主義イデオロギー>の否定につながる「歴史問題に由来する大衆感情が噴き出す」ことも自然な流れと言える。21世紀の現在では、「イデオロギーとしての歴史」とは、究極の所、ある「国民国家=民族国家」すなわち「主権国家=国民国家」を社会統合を維持強化するための<物語>であると解する限り、支那には支那の、韓国には韓国の、そして、日本には日本の<歴史物語>が成立する必然性が存在していることを反芻するとき上記の「自然な流れ」の妥当性と実効性を誰も否定できないだろうからです。


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<続く>

テーマ : 歴史認識
ジャンル : 政治・経済

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