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きのこのお味噌汁、わが家の定番だし、網焼きもおつだし。

タダでくださるというのなら、是非、いただきたい、鴨。

でもにゃぁー・・・・・、でも。素人衆が採ったものは、

別の意味で怖い、鴨ですかね(身震)。

 

ということで、いったいこれの(⬇)何が問題なんのでしょうか。

正直、わたしたちにはよくわかりません。
 

福島原発(1F)事故の前までの基準は500㏃/kgだったのですよ。

それでそれまでなぁーんの問題も起きてなかった。きっぱり。

で、それまで、その「今」まで平気だったものが、事故があったからといって

急に危なくなるってモノでもないでしょう? 違いますか?

 

加之、輸入食品の規制基準値は今も370㏃/kgなんですよ。

これ、国産にあわせると間違いなく、ていうか100%、「非関税障壁」として

相手国に提訴されるの見えているからのダブスタ、多分(姑息)!


輸入食品の370は問題なくて、国内の100超えがなぜ問題なんだか?

わたしにはよう(⬅「皆目」)解りません。本当に100超えの場合に健康被害が

発生する、そんなことなら脱原発論者さんたちの大好きなドイツを含め、

諸外国の人々はもうとっくに死に絶えているはずなんですけど。

 

★日本は福島原発事故前の基準値です、為念。

 

 

▼野生キノコから基準超えセシウム 

 御殿場、小山

9/26(火) 7:55配信

静岡県は25日、富士山周辺地域で採取した野生キノコ7検体の放射性物質検査を実施した結果、御殿場市のキノボリイグチと小山町のシロヌメリイグチから食品衛生法の基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超える放射性セシウムが検出されたと発表した。県によると、1キロ当たりの放射性セシウムは御殿場市のキノボリイグチが210ベクレル、小山町のシロヌメリイグチが130ベクレル。県は関係機関や事業者に採取や出荷の自粛を呼び掛けるとともに、県民に注意喚起している。

両市町の野生キノコは2012年に基準値超えの放射性物質が検出されて以来、原子力災害対策特別措置法に基づき出荷制限が継続中。県は11年の東京電力福島第1原発事故を受け、富士山周辺地域で定期的に放射性物質検査を行っている。

静岡新聞社

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170926-00000003-at_s-l22

 

<関連記事>

▼「科学的には終わった話」ていうこと、鴨。

:福島原発(1F)事故の影響はありません、以上

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/b69c26791d4d3f81b795195e08cab25f

・目次記事-原発関連記事一覧

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/deac6c3245cecbbd10e87ef9acff501e


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引用記事(⬇)の最後のところで「大手マスコミが大きく取り上げないのは何故でしょう」と疑問を呈しています。

 

だけど、リベラル派のマスメディアなんて事実はどうでも良いのです。

事実と嘘とどちらが売り上げや視聴率に繋がるかだけを考え、嘘がウケると思えば垂れ流します。

 

まして、脱原発のための印象操作に役にたつとなったら、「一粒で二度美味しい」グリコのお菓子みたいなもの、鴨。彼等、リベラル派にとっては。特に、朝日新聞・毎日新聞・東京新聞・神奈川新聞などはその最右翼(最左翼?)でしょう。事実かどうかは関係がありません。儲かるかどうかです。反日に役にたつかどうかです。

 

・目次記事-原発関連記事一覧

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/deac6c3245cecbbd10e87ef9acff501e

 

・言論の自由を市民の手に取り戻せ

:日本の(リベラル)ジャーナリズムは不要、否、有害だ!

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c7d0b8a081d2c153a9331218334039f6

 

 

>新聞や週刊誌・テレビに真実は無いのです。

 

 

 

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170914-00010000-bfj-soci

 

▼福島の子どもと被ばく「出産に影響はない」

 “ネットでしか“話題にならない重要報告

BuzzFeed Japan

9/14(木) 9:31配信

 

一本の報告がインターネット上で話題になっている。国内の科学者の代表機関「日本学術会議」の報告「子どもの放射線被ばくの影響と今後の課題」だ。この中で福島第一原発事故による胎児への影響はないこと、チェルノブイリ原発事故よりも被ばく量が「はるかに低い」という重要な事実が指摘されている。しかし、この報告が大きく報じられることはなかった。【石戸諭 / BuzzFeed Japan】

胎児への影響「科学的には決着がついたと認識されている」

報告は医療者、疫学だけでなく哲学者なども携わっている。議論を重ね、今年9月1日に公表された。これまで発表された学術論文や、国際機関の報告書を参照している。

「福島原発事故による公衆への健康リスクは極めて小さいといった予測結果」がまとまって紹介されている。

科学者たちが積み上げたデータ

不安が根強い、胎児への影響については、実証されたデータを取り上げている。引用しよう。

「福島原発事故から一年後には、福島県の県民健康調査の結果が取りまとめられ、福島県の妊婦の流産や中絶は福島第1原発事故の前後で増減していないことが確認された」

「そして死産、早産、低出生時体重及び先天性異常の発生率に事故の影響が見られないことが証明された」

報告ではデータで明らかになっていることを並べて、専門家の認識をこう紹介する。

「『胎児影響』に関しては、上記のような実証的結果を得て、科学的には決着がついたと認識されている」

健康影響で比較されることが多かったチェルノブイリ原発事故についても、事実をもとに、こう指摘する。

「福島県の県民健康調査によると、比較的被ばく線量が高いと予測された川俣 町(山木屋地区)、浪江町、飯舘村住民(放射線業務従事経験者を除く)の調査結果では、合計9747人の約95%、9歳以下の748 人の99%が5mSv未満であった」

これは「ベラルーシやウクライナの避難者集団の平均被ばく線量と比べるとはるかに低い」というのが事実だ。

福島県内で子どもを対象に検査されている、甲状腺がんついてはどうか。こんな議論が紹介されている。

「今まで検査が施行されたことが ない対象者・地域に、初めて精度管理された超音波画像診断が導入されたことによるいわゆる“スクリーニング効果”であると考えられている」

「事実、UNSCEAR や IAEAの福島報告書からも被ばく線量の低さから、放射線の影響は想定されていない」

課題として挙げられているのは、データが揃ってから先、つまり「伝え方」であり、コミュニケーションの問題だ。

「地域に密着したニーズ対応ときめ細かいリスクコミュニケーションを実践することが重要である」

つまり、科学的に積み上げられたデータそのものへの疑義はないのだ。

 

* * * * *

 

早野さんはどう読み解くのか?

この報告をどう読むことができるのか。福島を拠点に、子どもの被ばくなども調査してきた、早野龍五・東大名誉教授に聞いた。

まず、この報告は早野さんが積み上げてきたデータ、実測に基づく見解と一致しているのかどうか。

《僕が直接関わってきたのは、放射性セシウム由来の内部被ばくと外部被ばくの調査です。

前者はほとんど無視できる値でしかなく、後者は日本や世界各地の自然放射線量と比較して大差ないことをいくつかの論文で明らかにしてきました。

学術会議の報告ではこのようなことが述べられています。

1:食品中の放射性セシウムから人が受ける放射線量は、現行基準値の設定根拠である1mSvの1%以下であり、極めて低いことが明らかとなっている。

2:空間線量率から推計された追加線量よりも 個人線量計での計測値が少ない。

またUNSCEAR(国連科学委員会)の「放射性セシウムによる低線量・低線量率の被ばくでは、将来のがん統計に有意な変化はみられないだろう」という予測も引用しています。

これまでの6年半に蓄積された実測データ等に基づき、しっかりとした報告になっていると評価できます。》

現場で奔走してきた、早野さんの目から見ても評価するポイントの多い報告だという。では、この中で特に大事な点はどこか。

《この報告は【「子どもの」放射線被ばくの影響と今後の課題】というタイトルにも表れているように、子どもへの影響に特化してまとめたことに特徴があります。

報告書の冒頭に「単に放射能不安や恐怖だけではなく、この「子ども」を守るための自衛手段が随所に垣間見られる」と明記されています。

その通りで、福島の抱える困難な問題の多くは、放射線そのものというよりも、子どもを守らんがための社会的心理的なものが根底にあることが、正しく捉えられていると思います。》

さらに、続ける。

《この報告が「子どもの放射線被ばくによる健康影響に関する科学的根拠」にとどまっていないことも重要です。

「福島原発事故による子どもの健康影響に関する社会の認識」というセクションを設け、国際機関、国、県、などが発表してきた公式見解「以外」にどういう見解や説があるのか、その代表的なものを論じています。

胎児影響はなんの心配もする必要はないし、「科学的には決着がついた」と専門家は認識していても、ネット上では依然として、奇形や、子どもが産めない、といった言説が飛び交っています。》

報告書には、こんな指摘がある。

「福島原発事故後、主にはソーシャルメディアを介して、チェルノブイリ原発事故の再来とか、チェルノブイリや福島で観察されたものとして、動植物の奇形に関するさまざまな流言飛語レベルの情報が発信・拡散され、「次世代への影響」に関する不安を増幅する悪影響をもたらした」

《報告書では、実際に県民健康調査で「回答者の約半分が『次世代への影響の可能性が高い』と答えている」と記すなど、この問題が深刻であることがきちんと書かれています。ここも大事なことです。》

明確な根拠がないまま、人々を脅すような言説もなくならない。報告書では、こうした言説の問題点も指摘されている。

そして、この報告はほとんど報道されなかった……

ところが、である。報告書の報道は、限定的なものにとどまっている。

地元紙、全国紙の県版など一部のメディアが報じただけで、例えばヤフーニュースで検索をしても、この件を報じたニュースは1本しかでてこない。

ニュースとしては専門家がみても重要なのに、まだ一部でしか報じられていないのが現状だ。

早野さんは、ここに大きな問題意識を持っている。

《僕の知るところ、これを大きく報じているのは全国紙の福島県版、福島民友と福島民報など、福島県内のメディアが中心です。

テレビキー局なども、大きく報じる動きはなさそうです。

全国紙も「福島が危ないかもしれない」というニュースは、大きく取り上げてきていたのに、多分野の研究者が集い、丁寧に検討されてきた基本的かつ重要な報告を全く取り上げないのはなぜでしょうか?

僕には非常に疑問です。》

 

(記事引用終了)

 

 

 

伝え方の問題という指摘は大いに当たっているでしょうね。

事実、「脱原発」派の人達の中にはこんな伝え方をしている方々もおられますから。

長文なので一部分だけ引用しますが、出来ればすべて読んでみてください。

腹立つというより御腹から笑えますから。

 

 

  https://archive.is/CEb8G

 

▼福島県で急速に増え始めた小児甲状腺がん

 JBpress 4/19(水) 6:00配信

 

 

>数年で「正常」が「甲状腺がん」になるか

大事なポイントはここ。2巡目の検査で「甲状腺がんまたは疑い」とされた子供は68人の中に、1巡目の検査で「A判定」とされた子供62人が含まれているということだ。

62人のうち31人は、「A1」で結節やのう胞を全く認めなかった。全くの正常と言っていい。「A2」は、結節5.0㎜以下、甲状腺のう胞 20.0㎜以下のごく小さな良性のものである。

甲状腺がんの発育は一般的にはゆっくりである。これが1~3年くらいの短期間に、甲状腺がんになったことは、どうしてもふに落ちない。

 

(引用終了)

 

 

ここで、子供という言い方をしているが、実際には、

何歳くらいだろうと調べてみると・・・・・・・。

 

ふくしま国際医療科学センター

放射線医学県民健康管理センター

 

http://fukushima-mimamori.jp/thyroid-examination/explanation-video/

 

 

動画の4分あたりにはチェルノブイリ事故との比較がされていますが、チェルノブイリ事故では事故当時の年齢が3歳以下が圧倒的に多いのに対して、福島事故では10代からが多くなっています。

つまりこれは元々持っていた癌が、検診によって発見されるスクリーニング効果であるという証明です。

 

上で示したアーカイブには子供とは書いていますが具体的な年齢は書かれていません。

つまり、肝心な事をボカシていて、誘導しようとしているのです。

 

チェルノブイリ事故ではソ連邦政府は最初は隠そうとしましたので、ヨーソ131に汚染された牛乳などが流通し、それを飲んでいる主として幼い子供たちが多く被曝しました。しかし福島では、牛乳などの流通はいち早く規制されました。

 

さらに事故では元々飛散した量がチェルノブイリの1/10以下と少なく、その大部分が海の方へ流れたため、被曝線量も1/100以下です。(札幌医大高田教授の測定による)

 

加之、日本国民は普段から海藻類などを摂取しているために、甲状腺が安定ヨーソで満たされていて、放射性ヨーソの入り込む隙間が無かったためほとんどが排出されてしまったのだと言います。(前出高田教授と東大病院:中川准教授)

 

中川准教授によると、甲状腺癌は思春期の若者には特に珍しい事ではないのだそうです。それも成長に合わせて変化するので、1回目ので検診で見つからなくても2回目・3回目で見つかることもあるといいます。つまり、検査を重ねれば重ねるほど、患者が増えていくのです。これもスクリーニング効果です。

 

ご存知のように甲状腺癌は自然発生します。100万人に2~3人発病するらしいのですが、これは自覚症状が出て病院を訪れて発覚する数です。集団検診のように超音波のプローブを当てて無理矢理見つけ出したのではありません。つまりこの数字と比較はできないのです。

 

福島で「多発」とは、多発見であり、多発生では無いようですね。

リベラルマスメディアというのはこのように言葉巧みに捏造しますから

気をつけていないと騙されます。つくづく、やっぱ、日本語教育は大切ですね。

 

次に3分40秒あたりに戻ってみましょう。

 

>地域差データが出ています

 

これもオカシナ話で、本当に放射線影響なら浜通り>中通り>会津という関係にならなければならないのに、全県一律の比率になっています。つまり、スクリーニング効果であるという事です。アーカイブではこうも言っています。

 

>「子供の甲状腺がんは、リンパ節転移する確率が高いのが特徴。」

 

自然発生したもリンパ節転移している筈ですが、悪さをしないので気が付かないうちに消滅してしまったりするのでしょう。ですから転移があったからと言って悪性であるという証拠にはならないと思います。例えば、中川准教授は「大人しい癌」とかお墓まで持っていける「天寿癌」と言っています。

 

アーカイブでは72人の子供(中高生?)が手術したことになっているが、過剰診断の犠牲者であると言えるでしょう。実際上、韓国では乳がん検診のついでに甲状腺検査もするそうですが、若い女性に多い甲状腺のしこりや嚢胞が見つかるために手術しちゃう人が多いのだそうです。こういう人は一生涯甲状腺ホルモンを飲み続ける事になるので、医療被害者なんでしょうね。

 

まあ、そういう訳で、中川准教授やWHOや国連科学委員会UNSCEARは

甲状腺検査は止めるべきだと言っています。こちらの意見の方が、寧ろ、

まあー、「正論」というか常識論、鴨。と、そうわたしは思います。

 





東京電力福島第1原子力発電所の事故の影響に関する『美味しんぼ』の不適切な描写が話題になりました。平準化した低線量の放射線被曝によって健康被害は生じないし、ならば、低線量の放射線被曝と鼻血の間の関係をさも原因と結果の如く描写した『美味しんぼ』の表現は--もちろん、表現の自由からして事前検閲は絶対に許されないものの--道義的と法的の責任を免れない。つまり、『美味しんぼ』の件の描写と低線量積年平準の放射線被曝に関する風評被害の惹起との間には強い相当因果関係が認められる。と、そう私は考えます。

占領憲法21条
1項:集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2項:検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。



こう考えている私にとって驚愕すべきコメントを目にしました。
すなわち、低線量の放射線被曝と鼻血の間には、

▼津田敏秀・岡山大学教授(疫学)
「因果関係がないという証明はされていない」、と。

(毎日新聞・2014年5月20日)


このコメントを目にしてなぜ吃驚仰天したのか。それは、人口に膾炙している「不存在の証明は悪魔の証明」(ある事柄が存在していないということを証明することは人智の及ぶ範囲のことではないという法諺)を持ち出すまでもなく、現在の科学方法論の地平からは「因果関係がないという証明」は原理的に不可能ではないかと考えるからです。

そもそも、因果関係とはなんでしょうか。それは、(A)ある現象や事柄が存在しないならば、(B)別のある現象や事柄も生起・惹起しなかったであろうという二つの現象や事柄の間の関係のこと。そう言えるでしょうかね。いずれにせよ、注意すべきは、因果関係が問われる局面では、実際には、(A)は惹起しており、ならば--英語の仮定法過去完了よろしく--、(A)ある現象や事柄が存在しないならば、(B)別のある現象や事柄も生起・惹起しなかったであろうということは所詮、論者の脳髄の中にのみ存在する観念形象にすぎないということです。

更に重要なことは、因果関係の存否は時代時代の、あるいは、その社会毎の<常識>が判定してきたものであり、現在では、科学と論理、換言すれば、実証データと数学的な確率論が因果関係の存否を決定する<常識>になっているということ。ならば、実証データからも確率論からもサポートされない「因果関係がないという証明はされていない」などとのコメントは、科学哲学の無知によるものか、あるいは、脱原発論のためにするいちゃもん、もしくは、その両方でしかない。と、そう私は考えます。

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敷衍しておけば、脱原発論の論者が今でも時々口にする「年間1ミリシーベルト未満の低線量放射線被曝にしてもそれが絶対に安全だと言えるのか」という類の言説もまた、科学哲学の無知によるものか、あるいは、脱原発論のためにするいちゃもん、もしくは、その両方でしかないということです。神ならぬ身の有限なる人間存在にとって、この世に「絶対の安全性」など存在しようもないのですから。換言すれば、放射線被曝の「確定的影響」ではない「確率的影響」を--健康被害が起きるか起きないかの影響ではなく、健康被害が起きるかもしれない影響を--論じる場合、この世に「絶対の安全性」など存在しようもないからです。

ならば、「確率的影響」が論じられる舞台は科学の法廷というよりは、文字通りの、法廷や政治の舞台にならざるを得ないということです。低線量放射線被曝のデメリットと原発のメリット--更には、日本が比較的短期間で核武装可能な潜在的な核保有国であり続けることのメリット--の間の価値の比較衡量にこの問題は収斂する。白黒はっきり言えば問題はここに尽きている。

ならば、脱原発論の論者の如く、文字通り、原発ゼロを目指すという政治的立場を選択しない、安倍政権を支持している多くの有権者国民は「相対的な安全性」と「エネルギー安全保障」の均衡を睨んで、社会的に妥当な安全性の範囲を決定していくしかない。そして、その妥当な安全性の範囲決定をかき乱す風評被害に対しては、占領憲法の表現の自由の保障の範囲もかなり狭くならざるを得ない。

いずれにせよ、国際原子力機関(IAEA)や国際放射線防護委員会(ICRP)、あるいは、国連の世界保健機関(WHO)が妥当とする被曝基準値を20倍も100倍も上回る馬鹿げた現行の年間1ミリシーベルトといった--これまた民主党政権の悪しき置き土産の一つと言える--放射線被曝線量の基準には何の合理性もなく可及的速やかに撤廃修正されるべきだ。と、そう私は考えます。

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蓋し、「絶対の安全性」や「因果関係がないという証明はされていない」と吐露した段階でそれらの論者は、実は、「因果関係」から得られる議論の説得力を自ら放棄したとも言えるの、鴨。少し迂遠になりますが因果関係、よって、現在ではその存否を判断する基準や指標としての確率論について整理しておきましょう。

例えば、兎が月にいる確率は、「いる」か「いない」かのどちらかであり50%であり、同様に、虎が月にいる確率も50%ですよね。
ならば、兎と虎の両方が月にいた場合、兎が虎に食べられちゃうとかは無視するとして、
兎か虎の少なくともどちらかが月にいる確率は(確率の和から)100%になる。

これは数学的は正しくとも誰も真面目に相手にしない議論でしょう。畢竟、所謂「論理的確率」と「実証的確率」は全くの別ものということ。逆に言えば、「絶対の安全性」や「因果関係がないという証明はされていない」と述べる論者は、「実証的確率」が俎上に載せられている政策論争の局面で「論理的確率」を密輸したものに過ぎない。まずはそう言える、鴨。




蓋し、現代の科学方法論から見て因果関係とは、

現象の観察と記録の蓄積→現象の内部に傾向性を発見
→それらの諸傾向性をより整合的に説明できる法則の定立
→現象の観察と記録の蓄積→・・・



という無限に繰り返される作業の中でのみ意味を持つ。すなわち、ある時点のある社会の専門家コミュニティーの中で妥当と解される<常識たる法則>や<常識たる物語>を漸次、かつ、恒常的に再構築する営みと整合的で親和的な範囲で--<法則>や<物語>の内部に、原因候補と結果候補との2個の事柄や事象の間の関係が位置づけられる限りにおいて--その因果関係は妥当なものということです。

繰り返しになりますが、量子力学革命後1世紀を経た現在では「傾向性」も「法則性」についてもその多くが量子力学と整合的な形式で--要は、行列と行列式の言語で、すなわち、確率論の言葉で--理解され表現されており、因果関係についてもこの経緯は同様です。

畢竟(A)平準化した低線量の放射線被曝と(B)健康被害との間には因果関係は存在しないという大方の専門家の主張はこのような妥当な因果関係の理解を踏まえた妥当な判断であるのに対して、(A)低線量の放射線被曝と(B)鼻血の間には「因果関係がないという証明はされていない」とする津田敏秀氏の発言は実証性を欠くだけではなく--更には、元来、実証不可能なことを相手側に要求する姑息かつ狡猾なコメントであるだけでなく--論理的にも無意味なもの。と、そう私は考えます。

まして、ことは結局は政策判断の問題。また、人間存在にとってエネルギーの国際的需給を巡る諸外国相手のゲームを外から俯瞰する<神の視座>を持つことは不可能でしょう。すなわち、そのような<神の視座>をすべてのプレーヤーが欠いているエネルギー安保を巡る国際競争についてどのプレーヤーも「囚人のジレンマ」状態から抜け出せないということ。

例えば、冷戦時の東西の軍拡競争の如く、合理的な行動選択の結果、すべてのプレーヤーが不合理な選択を行うという「囚人のジレンマ」は<神>ならぬ身に人間存在にとっては合理的なのです。それを「愚かな軍拡競争」などと言うのは、自分を<神>の立場に立つものと錯覚した傲岸不遜でしかない。

畢竟、政策的にもそのような人間存在の有限性を失念した傲岸不遜で無責任な立場に、国民の生命と安全、国の繁栄と安全を任せられた政権担当者は立てるはずもない。と、そう私は考えます。

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そして、モンティ・ホールのジレンマ。而して、このジレンマを想起するとき、「絶対の安全性」や「因果関係がないという証明はされていない」と述べる論者は「論理的確率」の局面でも破綻しているの、鴨です。



▼モンティ・ホールのジレンマ
あるクイズ番組の定番コーナーから名づけられた確率を考える上での好例。すなわち、①回答者の前には3個の扉があり、その扉の向こうには「不正解」のロバと「正解」の高級車が置かれている。

②回答者はまず3個の扉のうち一つを指定する。③司会者のモンティ・ホールは--回答者が指定した扉を開かせる前に--残りの2つの扉の中で「不正解」の扉を1個開けて回答者にこう宣告する。④「あなたは、いまならまだ選択を変更できますがどうされますか」、と。

さて、回答者は選択を変更した方が確率論的には有利なのか不利なのか。



この問題、正しい行動選択は「選択を変更した方が合理的」なのです。要は、論理的確率にしても、例えば、見た目には選択肢が2択であったにせよその2つの選択肢が「正解」である確率は各々50%づつになるとは限らない。すなわち、選択肢を変更しない最初の方針のままで行くのなら、回答者の選択肢が正解となる確率は3分の1、しかし、選択肢を変更する場合、その選択肢が正解となる確率は--最初の選択肢が不正解である確率だから--3分の2になるということ。


モンティ・ホールのジレンマを持ち出してきて私は何を言いたいのか。それは<3・11>から2年3カ月を経過した現在、放射線被曝と健康被害との間の実証的関連がまったく確認されないだけでなく、実は、この2年3カ月の間に論理的な確率においても、修辞学的に述べれば、福島では数百数千の扉を<モンティ・ホール>は次々と開けてきており--要は、低線量の放射線被曝による健康被害が存在しないという「善き不正解」の<ロバ>を次々に回答者たる福島県民と日本国民に示しており、逆に、--政策判断においては、低線量の放射線被曝による健康被害は存在するという「悪しき正解」を避けることが可能な確率は加速度的に上昇しているの、鴨。すなわち、




▼モンティ・ホールのジレンマ@福島
(1)n個の選択肢、その中に1個の「悪しき正解」がある
(2)<モンティ・ホール>はこの2年3カ月の間に次々と「善き不正解」の扉を
開けてきており、例えば、
(3)現在は2個の扉みが残っている
(4)而して、最初に選んだ扉が「良き不正解」である確率は
n分の(n-1)であり、他方の扉が「悪しき正解」である確率は、1-n分の(n-1)
(5)ここでnを100--疫学的にはこの「n」は本当は1000なり10000なりの、
途方もなく大きいのでしょうけれども、武士の情けで「100」--とすれば、
最初の選択肢が「善き不正解」である確率は99%、よって、それが「悪しき正解」
である確率は1%



ということ。ならば、畢竟、我々は安んじて「健康被害は存在しない」という「善き不正解」を期待して最初の扉のまま選択肢を変更しない方が遥かに合理的というもの。逆に、「絶対の安全性」や「因果関係がないという証明はされていない」などの言説きは「悪しき正解」に導く悪魔の囁きであろう。と、そう私は考えます。

而して、『美味しんぼ』の不適切な描写には--それが、風評被害を惹起する相当の因果関係を帯びる表現行為であったと解される以上、その描写には毫も合理性が見いだせないのだから--表現の自由の観点から見てもそれなりの制裁が加えられるべきであるということもまた。蓋し、<神の視座>を持ち得ない人間は、唯足を知り、論理的に考えて合理的な行動選択をすることで満足するしかない存在なのではありますまいか。私はそう確信しています。



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カール・シュミットは、大衆民主主義下の福祉国家を念頭に置いて「国家は全体国家(totaler Staat)に堕している」と喝破しました。而して、「全体国家」とは、人間の生活の全体を支配する強力で権力主義的な政府という意味ではなく、「全体化」したがゆえに、社会の種々諸々の雑多な国民大衆の要求をすべて顧慮せざるを得ない、図体は巨大であるにせよ主体性の乏しい弱々しい国家という意味。

畢竟、現実の国家は、内政・外政ともに到底完全などではありえない。つまり、それは有限な能力しか持たない「全体国家」である。他方、現実の国家は「国民国家-主権国家」として国民の社会統合においても完全でもない。正に、「全体主義」はこの不完全さの隙を、ないものねだり的に突いてくる。

すなわち、(a)現代社会がその社会の構成員全員に原則選挙権を付与することによって、社会を構成する大衆一人ひとりの政治的影響力が極小化した社会、要は、すべての大衆が政治から疎外されている大衆民主主義下の社会であり、(b)国際競争の激化とケインズ政策の積み重ねの中で財政硬直と財政均衡の破綻が常態化した多くの国で--ギリシアやイタリアや韓国の杜撰と滑稽、あるいは、スウェーデンやフィンランドやデンマークの偽善と悲惨を見れば思い半ばにすぎるように--、その行政サービスには限りがあるだろうし、更には、(c)グローバル化の昂進の中で「国民国家」の社会統合は漸次困難になってきている。

他方、政治政党も--生身の市民の欲望や要望、怨嗟や嫌悪を、法的な国民有権者の意見に変換する<装置>であったはずの政党も、それらが政権獲得を狙う限り--これら(a)~(c)の現実を看過しない限り、社会の過半から嫌われる事態は何としても避けざるを得なくなる。而して、どの政党も社会の広汎な層からの支持を求める「包括政党」に移行してしまい、結局、アメリカの共和党と民主党、ドイツのCDUとSPDに顕著な如く、政党間の政策の違いが極小化し収斂化する。要は、すべての国民有権者に対して、どの政党もほどほどにしか、あるいは、よりましにしか満足させることができなくなってきているということです。

よって、皮肉なことに、政権獲得を目指すほどの政党は、国民国家内部に鬱積する大衆の欲望や憎悪、而して、それらの社会心理学的要因と交錯する社会内の紛争、ならびに、国際紛争を解決する能力を失っていき、ついには、左右を問わず教条的なイデオロギーの<ファンタジー>を弄する全体主義の政治運動や体制に国民有権者の支持を根こそぎ奪われる危険性がある、と。

畢竟、ナチズムや社会主義といった歴史的に特殊な「全体主義」ではなく、寧ろ、ルソー『社会契約論』に顕著な<全体主義>そのものの<ファンタジー>が--<脱原発ファンタジー>に典型的な物語の教条性こそが--「全体主義」の明白かつ現在の危険の源泉である、と。アーレントはそう睨んでいたの、鴨です。


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▼資本主義の浸透
アーレントの死後、(a)大衆社会化、(b)全体国家化、(c)グローバル化は、益々、その強面の相貌を明らかにしてきていることは言うまでもないでしょう。而して、これら三者の基底には、更に、(d)資本主義の拡大浸透、そして、(e)科学技術の専門化の昂進という現象があるの、鴨。

蓋し、「主義」の2文字がついているから紛らわしいのですが、「資本主義」には「制度」の側面と「その制度を容認する理路・心性・行動様式」の二面がある。而して、制度がすべてそうであるように、それは規範と状態の重層的な構造であり、かつ、言語や家族という自生的な制度がすべてそうであるように、交換を巡る制度たる資本主義の制度もまた時代によってその内容が変遷してきている。

何を言いたいのか。それは、現在の資本主義の制度は、例えば、①所有権の制限、②契約の自由の制限、③過失責任の制限、および、④所得の再配分の導入、⑤ケインズ的な財政と金融における国家権力の政策の導入、⑥種々の国際的な制約という修正または変容を経た後のものということ。而して、これらの資本主義の変容を与件をとして踏まえるとき、サッチャーもレーガンも、フリードマンもハイエクさえもある意味立派な「社会主義者」でないとは言い切れないのではないでしょうか。

家屋の賃借人にほとんど無制限の厳格責任を認めていた19世紀末までの英国のコモンロー。あるいは、労組の活動どころか労組の存在自体を容認しただけの連邦法・州法を憲法違反と断じた、加之、生活必需品の料金の買い占めによる価格引き上げや、「談合」などではない、鉄道等の公共交通機関の料金の(その地域のサービスを独占する)鉄道会社による裁量的決定を制限する州法を憲法違反と断じた19世紀末のアメリカ連邦最高裁の判決群を見るとき、私はそう感じざるを得ません。

ならば、(d)資本主義の拡大浸透とは、制度の側面よりも、寧ろ、その制度を容認する理路・心性・行動様式の地球儀規模での拡大浸透と捉えるべきでしょう。畢竟、物象化した資本の論理は--「疎外」もしくは「物象化」ということの言い換えにすぎませんけれども--人間が容喙できない独自の法則性と自己実現性を帯びている。ならば、そのような資本の論理にハイエクの言う意味での「設計主義的な施策」でもって人間が抗うことが可能とする<ファンタジー>は人間の有限性の自覚を忘れた、人間と国家の万能観に根ざす<全体主義>に親しいものではないか。と、そう私は考えます。


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▼専門化の昂進と専門家の政治的な権威化
原子力発電の再稼働の是非の問題を見るにつけても、科学技術の専門知の支配--マルクスの顰みに倣い換言すれば「疎外された専門知」、すなわち、--それを作り上げた人間の制御から離脱して独自の存在と流通の法則性を獲得した専門知が猛威を振るっている。このことは間違いないでしょう。そして、科学技術に仕える<神官>としての専門家、逆に言えば、それら<神官>の用いる<秘儀>としての専門知が、最早、主権国家や国際機関のオフィシャルな統制の枠には収まらなくなってきているということもまた。

すなわち、ミシェル・フーコーが予言した「素人を沈黙させる<権力>としての専門知」が跋扈している。而して、疎外された専門知の--権力と化した科学技術の--あり方を反芻するとき、加之、他方、現在ではすべての人が「ほとんどの知の領域に関しては素人でしかない」状況を想起するとき、そのような「国民国家-主権国家」を超える専門知の、少なくともその一斑ではあるだろう原発政策に関しては、直接民主制的な政策決定、就中、素人による国民投票や住民投票が、ある意味、最も馴染まないこともまた自明ではないでしょうか。

なぜならば、誰も知らないことについては判断できないでしょうから。そして、逆に、
政治責任を問われることのない専門家が政治的判断に容喙すべきではないでしょうから。


アーレントは、<全体主義>の苗床としての大衆社会の危険性を高める「民主制」には懐疑的であり、寧ろ--古代ギリシアの政治の実情、および、アメリカの建国期の政治思想を模範にしつつ--、社会の各成員が主体的に政治にコミットする権限と責務を帯びている、かつ、自由の理念が代表制によって単一な法体系に具現する、更には、法の前の平等が担保されている「共和制」に好意的だったと思います。


而して、この点はあるいは、カントが『永久平和のために:Zum Ewigen Frieden』(1795)の「国家間の永久平和のための確定条項」の第1確定条項で「共和制」の要素として記した内容と親しい、鴨。

一、社会の成員が自由であること
二、社会のすべての成員が、唯一にして共同的な立法に(臣民として)従属する
三、社会のすべての成員が(国民として)平等



ことほど左様に、あらゆる<全体主義>が紡ぎ出す物語の教条性を忌避するアーレントは、而して、その現実の政治においても、不可能を誰にも求めないでしょう。ならば、--全体主義に抗して幸福を手に入れるにも厳しい条件があり、また、全体主義体制下においては平凡な人間が世界最大の悪を動機も信念も邪心も悪魔的な意図もないまま平気で行うという--人間の有限性を直視した保守主義者としてのアーレントが、(d)資本主義、そして、(e)科学技術の専門化に好意的ではなかったにせよ、アーレントの思想の延長線上からは、これらの現実に対しては「平和的共存」の線しか導き出せないと思います。


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現代の民主主義を--共和主義とも保守主義とも協働可能な社会思想、かつ、--<全体主義>と鋭く対立するもとして捉える場合、それがどのようなイシューであれ、政策を「正か邪か」の基準で選択することは価値相対主義を基盤とする現代の民主主義とは相容れない。ならば、原発問題に関しても、畢竟、我々は次のような<常識>に立ち返るべきなのではないでしょうか。

(ⅰ)絶対の安全性などはこの世に存在しない
(ⅱ)低線量・中線量の放射線被曝の危険性は証明されていない
(ⅲ)原発にかわる安定的な代替エネルギーの実用化は困難    


これらの<常識>を踏まえて、原発再稼働に踏み切ることこそ、人間の有限性を自覚する、現代の民主主義および現代の共和主義とも、なにより、現在の保守主義とも整合的であろうと思います。実際、そろそろ日本も、<脱原発ファンタジー>から覚醒して原発立国路線に回帰すべきではないか。少なくとも、<脱原発ファンタジー>は民主主義の否定である。と、そう私は考えます。


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孔子が『論語』(顔淵篇)で喝破した如く「古よりみな死あり、民信なくんば立たず」。ならば、究極的には、低線量放射線被曝の「確率的影響」など恐れる必要もなく実益もない。それは人間が究極的には左右しうるものではないのですから。実際、「福島の原発事故を見よ。直接被ばくによる死者こそ出なかったものの、故郷を追われた避難民は約14万人にのぼる」と言うのなら、寧ろ、そろそろ、放射線被曝線量基準自体の非合理性を直視すべきだと思うのです。

他方、今現在、生存と生活に困窮している避難者・被災者・羅災者、あるいは、飢餓に苦しんでいる世界の子供たちの<現存在>というリアリティー、文字通り、餓死せしめられた数万数十万の福島県浜通りの牛さんや豚さんや犬さんの<命>のリアリティーを想起するとき、人間が、そして、その作る政府が些かなりとも左右しうる「死-生」のカテゴリーにおいて、3年後、あるいは、13年後、または、30年後に、例えば、白血病や甲状腺癌になる危険性、しかも、確率的な危険性の増大などは、人間やその作る政府が取り組むべき社会的問題のプライオリティーとしては限りなく最下位に近いだろう。と、そう私は考えます。

蓋し、IAEA(国際原子力機構)が2013年の10月21日に提言した通り、被曝線量基準年間1ミリシーベルトなるものには何の意味もないこと、そして、放射線被曝の「確率的影響」に関する「非閾値-連続直線仮説」--要は、どのような微量の放射線被爆も確率的にはDNAを破壊することによる健康障害の原因となりうるという主張--がいみじくも指摘している通り、この世に安全なものなどない。

ならば、安全が確保できない事態を<異常>な事態と捉える感覚こそ
文化帝国主義、西欧中心主義の世界観の顕現である。


そして、その感覚は、繰り返しますけれど、人間存在の有限性の自覚を欠いた、人間と権力に対する万能感が<福島>に投影している妄想であり、すなわち、それは<脱原発ファンタジー>の教条に絡め取られた<全体主義>の苗床にほかならない。畢竟、<脱原発ファンタジー>は、アーレントの思想、および、それと親しい価値相対主義を基盤とする現在における保守主義とは相容れない。と、そう私は考えます。


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ジャンル : 政治・経済




あーれぇ、アーレントの言葉を引用しておいてアーレントの思想を否定してないかい、これ。と、そう感じたエッセーを目にしました。毎日新聞のコラム、山田孝男「風知草:思考停止から抜け出せ」(2014年1月27日)。そのコラムのどこが問題と感じたのか。

それは、アーレントの思想的関心の核心は--主著と目される『全体主義の起源:The Origins of Totalitarianism』(1951), 『人間の条件:The Human Condition』(1958)を反芻する限り--孤立した大衆をまるごと吸収可能なイデオロギーの教条を、しかも、組織的・計画的に運用する全体主義体制に抗して、いかにして人間は幸福な生活を--私的領域と公的領域の二個の重層的な人間の生活における自由(freedom)を--手に入れることができるかという点にあったと思うから。

すなわち、<脱原発ファンタジー>などはアーレントの不倶戴天の敵とも言うべき<全体主義>そのもの。ならば、アーレントの--全体主義の危険性の告発、および、公的領域での人間の取るべき活動についての--片言隻句を用いて、都知事選挙において有権者を脱原発の投票行動に誘導しようなどは唖然とする言説。それこそ、あのゲッベルスも裸足で逃げ出す論理の飛躍ではなかろうか。と、そう私には感じられたということ。これです。


▼風知草:思考停止から抜け出せ
「原発ゼロ」は東京都知事選(2月9日)の争点にふさわしいか−−。世論は歩み寄りの余地がないほど割れているが、先週末、近所の映画館で遅ればせながら見た映画「ハンナ・アーレント」(2012年)が重要な視点を提供していると思った。

哲学者、アーレント(1906〜75)の、人間がなす悪についての考察が、原発と東京の有権者の責任という問題につながる−−と思われたのである。アーレントはドイツ系ユダヤ人女性だ。ナチスに追われ、アメリカへ亡命。第二次大戦後、ユダヤ人虐殺に深く関わったナチス親衛隊中佐、アドルフ・アイヒマン(1906〜62)の裁判を傍聴した。

アーレントは、アイヒマンを「どこにでもいる平凡な人物」と見た。戦時下では誰でもアイヒマンになり得たのであり、イスラエルの法廷で被告席に座っていたのは人類全体だとも言える−−と米誌「ニューヨーカー」で論じた。これが激しい議論を呼んだ。アイヒマンは冷酷、残忍、狂気の極悪人−−という、戦後の支配的な歴史認識を侵したからだ。・・・

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アーレントの断定。
「世界最大の悪(600万人以上とされる20世紀のユダヤ人虐殺)は平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も、悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです」

戦時のホロコースト(大虐殺)と平時の原発事故に何の関係がある−−といぶかる向きもあろうが、似た側面があると思う。思考停止のまま、未完の巨大技術への依存を続ければ、時に途方もない惨害を招く。福島の原発事故を見よ。直接被ばくによる死者こそ出なかったものの、故郷を追われた避難民は約14万人にのぼる。

そういう中での都知事選である。なるほど、エネルギーの選択は国策には違いない。だが、難しいことは国が決める、専門家が決める、上司が決める、オレは知らん、自分さえ無事なら後は野となれ山となれ、という構えでよいか。現実の戦争だろうと、経済戦争だろうと、巨大なプロセスに巻き込まれるうちにモラルが見失われ、人を人とも思わぬ判断が繰り返されることがある。・・・

東京都は電力の最大の消費地だが、原発はない。核廃棄物の最終処分場は存在せず、計画もない。悪いのは東京電力だ、原子力ムラだ、政府だ−−とうそぶき、福島の14万避難民の苦難など眼中にない東京であってよいか。アーレントは米誌への寄稿「エルサレムのアイヒマン/悪の陳腐さについての報告」の最後でこう言っている。被告には殺意も憎悪もなかったにせよ、絞首に値する。なぜなら「政治においては服従と支持は同じもの」だから・・・。都知事選に限らず選挙に臨む有権者が胸に刻むべき言葉ではないか。


(以上、引用終了)


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アーレントの「政治において人間が取るべき行動」を巡る主張は--「全体主義」成立に至る社会の思想的な風景の素描ともいうべき『全体主義の起源』、そして、「全体主義」に抗し得る人間行動(労働・仕事・活動)の可能性の吟味を説いた『人間の条件』を謂わば<両界曼荼羅>とするアーレントの主張は--いかなるものか。蓋し、私は、それを、(α)自己とは異質な<他者性>を持つ人々に、(β)言語で働きかけることによって、(γ)彼等から評価・批判されることの価値の称揚と理解しています。

すなわち、公的領域に参加する活動--選挙運動にせよ、消費者運動にせよ、あるいは、ブログ運営にせよ、直接もしくは純粋に労働と仕事が占める私的領域の外部での自己の<言語行為>--が他者から賛成・反対、秀逸・拙劣、喝采・罵声、軽視・無視等々の<評価>を受けることの肯定。加之、この公的領域を構成する<他者性>と<言語行為>、ならびに、その公的領域への参加から得られる満足感こそが--古代ギリシアの市民がポリスの政治に関わることをその幸福の不可欠の条件と考えていた、文字通り、「ポリス的存在」であったように--人間の幸福の条件であり、もって、その公的領域への参加とそこで得られる幸福感が<全体主義>に対抗可能な人間存在の条件でもあるというもの、鴨。

蓋し、アーレントは、言葉の正確な意味での「現代の保守主義」の信奉者でしょう。すなわち、(1)自己の行動指針としては自己責任の原則に価値を置く、そして、(2)社会統合のイデオロギーとしてはあらゆる教条に疑いの眼差しを向ける、よって、(3)社会統合の機能を果たすルールとしては、さしあたり、その社会に自生的に蓄積された伝統と慣習に専ら期待する、換言すれば、その社会の伝統と慣習、文化と歴史に価値を置く態度と心性を好ましいと考える。而して、(4)その社会の伝統と慣習、歴史と文化をリスペクトする<外国人たる市民>に対しては、逆に、彼等の社会の伝統と慣習、歴史と文化を<国民>もリスペクトすべきだと考えるタイプの社会思想を信奉する論者と言える。

尚、「保守主義」を巡る私の基本的理解については
取りあえず下記拙稿をご参照ください。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444711.html

・「左翼」の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1) ~(4)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60904872.html

・保守主義-保守主義の憲法観
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60996566.html


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いずれにせよ、アーレントは、1971年のニクソンショック、および、1973年のオイルショックを嚆矢とする人類史の本格的なグローバル化の黎明を見ることなく亡くなった。ゆえに、彼女の思索の枠組みは、あくまでも、(ⅰ)「国民国家」の形成、(ⅱ)「帝国主義」の成立、そして、(ⅲ)「全体主義」の勃興という20世紀前半までの人類史に限定されたものだったでしょう。アーレントの天稟は、しかし、「全体主義」がナチスドイツや社会主義の崩壊によって終焉するようなものでもないことを見据えていたの、鴨。

而して、(a)現代社会が大衆社会/大衆民主主義下の社会であり、(b)現代国家が福祉国家という全体国家--権威主義的で家父長的色彩が濃厚な「全体主義国家」ではなく、国民の経済活動や市民生活の多くの部面に行政サービスを提供する「全体国家」--である限り、更には、(c)グローバル化の昂進の中で、いよいよ、多様な文化を担う人々がある一個の国民国家の内部--しかも、グローバル化昂進の波濤の前には相対的にその力が逓減した「国民国家-主権国家」の内部に--等質な<国民>として組み込まれ包摂されざるを得ない限り、<全体主義>は常に魔界転生の機会を虎視眈々と狙っているのだ、と。

蓋し、「国民国家」が単に人間に等質な<国民>たることを要求する一方で--「国民国家」の成立にすぎないフランス革命の殺戮の嵐やアメリカ南北戦争の悲惨を想起するまでもなく--、等質たり得ないと看做す具体的な<市民>を<国民>のリストから暴力でもって排除する体制にほかならないのに対して、「全体主義」は--ルソーの説く「一般意志」、あるいは、ヘーゲルの唱えた「絶対精神」や「時代精神」の如く、もしくは、『風の谷のナウシカ』でナウシカにオームが自らの一族のことを述べたように--、異質なものもまるごと「全にして一、一にして全」と看做す体制であり、よって、「全たる一」になり得ない具体的な<国民>は<非国民>として暴力的のみならず論理的にも抹殺される体制なのでしょう。


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大凡、アーレントの思想の骨格とその思想的関心の核心をこう捉えることが満更曲解ではないとすれば、アーレントが「全体主義」に対抗するための橋頭堡として設定した、「公的領域-政治活動」への参加の推奨から片言隻句を切り出して<脱原発ファンタジー>を基礎付けるなどは、ほとんど正気の沙汰とは思えない破廉恥な言説ではないか。と、この毎日新聞のコラムについてそう私は感じたのです。

それは、原発を争点にすることが主体的に政治に参加することであり、そして、原発を争点にする限り「脱原発」が正解である。すなわち、「原発推進」や「原発容認」の候補に投票することは、主体的に政治に参加しない「平凡な人間が行う悪」である。それは、法的にはいざしらず、アーレントの地平においては倫理的な批判に値する。なぜならば、「政治においては服従と支持は同じもの」だからと主張していると。

畢竟、都政であれ国政であれ、多岐に亘る争点に対してどの程度の重要さを認めるか自体、有権者の自由であり、その価値判断こそ政治に主体的に参加するということではないでしょうか。ならば、この毎日新聞のコラムのような主張。国政のみならず都知事選挙においても、原発が争点になるべきだ、原発が争点になるということは「脱原発」の候補が勝利することだ--つまり、「脱原発」の候補が敗北するということは、原発が争点にならなかったということだ--という、お宅何様ものの言説が<全体主義>と隣接していることだけは明らかでしょう。アーレントの不倶戴天の敵の<全体主義>、と。敷衍します。


尚、私の<脱原発ファンタジー>に関する認識については
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・放射能の恐怖から解脱して可及的速やかに<原発立国>に回帰せよ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60935787.html

・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11138967625.html

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11138964915.html


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<続く>




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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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2007年9月10日以降の新記事を随時、厳選した過去の自薦稿を漸次アップロードしていきます♪

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