東京電力福島第1原子力発電所の事故の影響に関する『美味しんぼ』の不適切な描写が話題になりました。平準化した低線量の放射線被曝によって健康被害は生じないし、ならば、低線量の放射線被曝と鼻血の間の関係をさも原因と結果の如く描写した『美味しんぼ』の表現は--もちろん、表現の自由からして事前検閲は絶対に許されないものの--道義的と法的の責任を免れない。つまり、『美味しんぼ』の件の描写と低線量積年平準の放射線被曝に関する風評被害の惹起との間には強い相当因果関係が認められる。と、そう私は考えます。

占領憲法21条
1項:集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2項:検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。



こう考えている私にとって驚愕すべきコメントを目にしました。
すなわち、低線量の放射線被曝と鼻血の間には、

▼津田敏秀・岡山大学教授(疫学)
「因果関係がないという証明はされていない」、と。

(毎日新聞・2014年5月20日)


このコメントを目にしてなぜ吃驚仰天したのか。それは、人口に膾炙している「不存在の証明は悪魔の証明」(ある事柄が存在していないということを証明することは人智の及ぶ範囲のことではないという法諺)を持ち出すまでもなく、現在の科学方法論の地平からは「因果関係がないという証明」は原理的に不可能ではないかと考えるからです。

そもそも、因果関係とはなんでしょうか。それは、(A)ある現象や事柄が存在しないならば、(B)別のある現象や事柄も生起・惹起しなかったであろうという二つの現象や事柄の間の関係のこと。そう言えるでしょうかね。いずれにせよ、注意すべきは、因果関係が問われる局面では、実際には、(A)は惹起しており、ならば--英語の仮定法過去完了よろしく--、(A)ある現象や事柄が存在しないならば、(B)別のある現象や事柄も生起・惹起しなかったであろうということは所詮、論者の脳髄の中にのみ存在する観念形象にすぎないということです。

更に重要なことは、因果関係の存否は時代時代の、あるいは、その社会毎の<常識>が判定してきたものであり、現在では、科学と論理、換言すれば、実証データと数学的な確率論が因果関係の存否を決定する<常識>になっているということ。ならば、実証データからも確率論からもサポートされない「因果関係がないという証明はされていない」などとのコメントは、科学哲学の無知によるものか、あるいは、脱原発論のためにするいちゃもん、もしくは、その両方でしかない。と、そう私は考えます。

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敷衍しておけば、脱原発論の論者が今でも時々口にする「年間1ミリシーベルト未満の低線量放射線被曝にしてもそれが絶対に安全だと言えるのか」という類の言説もまた、科学哲学の無知によるものか、あるいは、脱原発論のためにするいちゃもん、もしくは、その両方でしかないということです。神ならぬ身の有限なる人間存在にとって、この世に「絶対の安全性」など存在しようもないのですから。換言すれば、放射線被曝の「確定的影響」ではない「確率的影響」を--健康被害が起きるか起きないかの影響ではなく、健康被害が起きるかもしれない影響を--論じる場合、この世に「絶対の安全性」など存在しようもないからです。

ならば、「確率的影響」が論じられる舞台は科学の法廷というよりは、文字通りの、法廷や政治の舞台にならざるを得ないということです。低線量放射線被曝のデメリットと原発のメリット--更には、日本が比較的短期間で核武装可能な潜在的な核保有国であり続けることのメリット--の間の価値の比較衡量にこの問題は収斂する。白黒はっきり言えば問題はここに尽きている。

ならば、脱原発論の論者の如く、文字通り、原発ゼロを目指すという政治的立場を選択しない、安倍政権を支持している多くの有権者国民は「相対的な安全性」と「エネルギー安全保障」の均衡を睨んで、社会的に妥当な安全性の範囲を決定していくしかない。そして、その妥当な安全性の範囲決定をかき乱す風評被害に対しては、占領憲法の表現の自由の保障の範囲もかなり狭くならざるを得ない。

いずれにせよ、国際原子力機関(IAEA)や国際放射線防護委員会(ICRP)、あるいは、国連の世界保健機関(WHO)が妥当とする被曝基準値を20倍も100倍も上回る馬鹿げた現行の年間1ミリシーベルトといった--これまた民主党政権の悪しき置き土産の一つと言える--放射線被曝線量の基準には何の合理性もなく可及的速やかに撤廃修正されるべきだ。と、そう私は考えます。

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蓋し、「絶対の安全性」や「因果関係がないという証明はされていない」と吐露した段階でそれらの論者は、実は、「因果関係」から得られる議論の説得力を自ら放棄したとも言えるの、鴨。少し迂遠になりますが因果関係、よって、現在ではその存否を判断する基準や指標としての確率論について整理しておきましょう。

例えば、兎が月にいる確率は、「いる」か「いない」かのどちらかであり50%であり、同様に、虎が月にいる確率も50%ですよね。
ならば、兎と虎の両方が月にいた場合、兎が虎に食べられちゃうとかは無視するとして、
兎か虎の少なくともどちらかが月にいる確率は(確率の和から)100%になる。

これは数学的は正しくとも誰も真面目に相手にしない議論でしょう。畢竟、所謂「論理的確率」と「実証的確率」は全くの別ものということ。逆に言えば、「絶対の安全性」や「因果関係がないという証明はされていない」と述べる論者は、「実証的確率」が俎上に載せられている政策論争の局面で「論理的確率」を密輸したものに過ぎない。まずはそう言える、鴨。


蓋し、現代の科学方法論から見て因果関係とは、

現象の観察と記録の蓄積→現象の内部に傾向性を発見
→それらの諸傾向性をより整合的に説明できる法則の定立
→現象の観察と記録の蓄積→・・・


という無限に繰り返される作業の中でのみ意味を持つ。すなわち、ある時点のある社会の専門家コミュニティーの中で妥当と解される<常識たる法則>や<常識たる物語>を漸次、かつ、恒常的に再構築する営みと整合的で親和的な範囲で--<法則>や<物語>の内部に、原因候補と結果候補との2個の事柄や事象の間の関係が位置づけられる限りにおいて--その因果関係は妥当なものということです。

繰り返しになりますが、量子力学革命後1世紀を経た現在では「傾向性」も「法則性」についてもその多くが量子力学と整合的な形式で--要は、行列と行列式の言語で、すなわち、確率論の言葉で--理解され表現されており、因果関係についてもこの経緯は同様です。

畢竟(A)平準化した低線量の放射線被曝と(B)健康被害との間には因果関係は存在しないという大方の専門家の主張はこのような妥当な因果関係の理解を踏まえた妥当な判断であるのに対して、(A)低線量の放射線被曝と(B)鼻血の間には「因果関係がないという証明はされていない」とする津田敏秀氏の発言は実証性を欠くだけではなく--更には、元来、実証不可能なことを相手側に要求する姑息かつ狡猾なコメントであるだけでなく--論理的にも無意味なもの。と、そう私は考えます。

まして、ことは結局は政策判断の問題。また、人間存在にとってエネルギーの国際的需給を巡る諸外国相手のゲームを外から俯瞰する<神の視座>を持つことは不可能でしょう。すなわち、そのような<神の視座>をすべてのプレーヤーが欠いているエネルギー安保を巡る国際競争についてどのプレーヤーも「囚人のジレンマ」状態から抜け出せないということ。

例えば、冷戦時の東西の軍拡競争の如く、合理的な行動選択の結果、すべてのプレーヤーが不合理な選択を行うという「囚人のジレンマ」は<神>ならぬ身に人間存在にとっては合理的なのです。それを「愚かな軍拡競争」などと言うのは、自分を<神>の立場に立つものと錯覚した傲岸不遜でしかない。

畢竟、政策的にもそのような人間存在の有限性を失念した傲岸不遜で無責任な立場に、国民の生命と安全、国の繁栄と安全を任せられた政権担当者は立てるはずもない。と、そう私は考えます。

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そして、モンティ・ホールのジレンマ。而して、このジレンマを想起するとき、「絶対の安全性」や「因果関係がないという証明はされていない」と述べる論者は「論理的確率」の局面でも破綻しているの、鴨です。

▼モンティ・ホールのジレンマ
あるクイズ番組の定番コーナーから名づけられた確率を考える上での好例。すなわち、①回答者の前には3個の扉があり、その扉の向こうには「不正解」のロバと「正解」の高級車が置かれている。

②回答者はまず3個の扉のうち一つを指定する。③司会者のモンティ・ホールは--回答者が指定した扉を開かせる前に--残りの2つの扉の中で「不正解」の扉を1個開けて回答者にこう宣告する。④「あなたは、いまならまだ選択を変更できますがどうされますか」、と。

さて、回答者は選択を変更した方が確率論的には有利なのか不利なのか。


この問題、正しい行動選択は「選択を変更した方が合理的」なのです。要は、論理的確率にしても、例えば、見た目には選択肢が2択であったにせよその2つの選択肢が「正解」である確率は各々50%づつになるとは限らない。すなわち、選択肢を変更しない最初の方針のままで行くのなら、回答者の選択肢が正解となる確率は3分の1、しかし、選択肢を変更する場合、その選択肢が正解となる確率は--最初の選択肢が不正解である確率だから--3分の2になるということ。


モンティ・ホールのジレンマを持ち出してきて私は何を言いたいのか。それは<3・11>から2年3カ月を経過した現在、放射線被曝と健康被害との間の実証的関連がまったく確認されないだけでなく、実は、この2年3カ月の間に論理的な確率においても、修辞学的に述べれば、福島では数百数千の扉を<モンティ・ホール>は次々と開けてきており--要は、低線量の放射線被曝による健康被害が存在しないという「善き不正解」の<ロバ>を次々に回答者たる福島県民と日本国民に示しており、逆に、--政策判断においては、低線量の放射線被曝による健康被害は存在するという「悪しき正解」を避けることが可能な確率は加速度的に上昇しているの、鴨。すなわち、


▼モンティ・ホールのジレンマ@福島
(ⅰ)n個の選択肢、その中に1個の「悪しき正解」
(ⅱ)<モンティ・ホール>がこの2年3カ月の間に次々と「善き不正解」
の扉を開けてきており、例えば、
(ⅲ)現在は2個の扉みが残っている
(ⅳ)而して、最初に選んだ扉が「善き不正解」である確率は
n分の1であり、他の残りの扉が「悪しき正解」である確率は
n分の(n-1)である。ここでnを100とすればそれは、
各々、「善き不正解」も「悪しき正解」もともに99%


ということ。ならば、畢竟、我々は安んじて「健康被害は存在しない」という「善き不正解」を期待して最初の扉のまま選択肢を変更しない方が遥かに合理的というもの。逆に、「絶対の安全性」や「因果関係がないという証明はされていない」などの言説きは「悪しき正解」に導く悪魔の囁きであろう。と、そう私は考えます。

而して、『美味しんぼ』の不適切な描写には--それが、風評被害を惹起する相当の因果関係を帯びる表現行為であったと解される以上、その描写には毫も合理性が見いだせないのだから--表現の自由の観点から見てもそれなりの制裁が加えられるべきであるということもまた。蓋し、<神の視座>を持ち得ない人間は、唯足を知り、論理的に考えて合理的な行動選択をすることで満足するしかない存在なのではありますまいか。私はそう確信しています。

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カール・シュミットは、大衆民主主義下の福祉国家を念頭に置いて「国家は全体国家(totaler Staat)に堕している」と喝破しました。而して、「全体国家」とは、人間の生活の全体を支配する強力で権力主義的な政府という意味ではなく、「全体化」したがゆえに、社会の種々諸々の雑多な国民大衆の要求をすべて顧慮せざるを得ない、図体は巨大であるにせよ主体性の乏しい弱々しい国家という意味。

畢竟、現実の国家は、内政・外政ともに到底完全などではありえない。つまり、それは有限な能力しか持たない「全体国家」である。他方、現実の国家は「国民国家-主権国家」として国民の社会統合においても完全でもない。正に、「全体主義」はこの不完全さの隙を、ないものねだり的に突いてくる。

すなわち、(a)現代社会がその社会の構成員全員に原則選挙権を付与することによって、社会を構成する大衆一人ひとりの政治的影響力が極小化した社会、要は、すべての大衆が政治から疎外されている大衆民主主義下の社会であり、(b)国際競争の激化とケインズ政策の積み重ねの中で財政硬直と財政均衡の破綻が常態化した多くの国で--ギリシアやイタリアや韓国の杜撰と滑稽、あるいは、スウェーデンやフィンランドやデンマークの偽善と悲惨を見れば思い半ばにすぎるように--、その行政サービスには限りがあるだろうし、更には、(c)グローバル化の昂進の中で「国民国家」の社会統合は漸次困難になってきている。

他方、政治政党も--生身の市民の欲望や要望、怨嗟や嫌悪を、法的な国民有権者の意見に変換する<装置>であったはずの政党も、それらが政権獲得を狙う限り--これら(a)~(c)の現実を看過しない限り、社会の過半から嫌われる事態は何としても避けざるを得なくなる。而して、どの政党も社会の広汎な層からの支持を求める「包括政党」に移行してしまい、結局、アメリカの共和党と民主党、ドイツのCDUとSPDに顕著な如く、政党間の政策の違いが極小化し収斂化する。要は、すべての国民有権者に対して、どの政党もほどほどにしか、あるいは、よりましにしか満足させることができなくなってきているということです。

よって、皮肉なことに、政権獲得を目指すほどの政党は、国民国家内部に鬱積する大衆の欲望や憎悪、而して、それらの社会心理学的要因と交錯する社会内の紛争、ならびに、国際紛争を解決する能力を失っていき、ついには、左右を問わず教条的なイデオロギーの<ファンタジー>を弄する全体主義の政治運動や体制に国民有権者の支持を根こそぎ奪われる危険性がある、と。

畢竟、ナチズムや社会主義といった歴史的に特殊な「全体主義」ではなく、寧ろ、ルソー『社会契約論』に顕著な<全体主義>そのものの<ファンタジー>が--<脱原発ファンタジー>に典型的な物語の教条性こそが--「全体主義」の明白かつ現在の危険の源泉である、と。アーレントはそう睨んでいたの、鴨です。


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▼資本主義の浸透
アーレントの死後、(a)大衆社会化、(b)全体国家化、(c)グローバル化は、益々、その強面の相貌を明らかにしてきていることは言うまでもないでしょう。而して、これら三者の基底には、更に、(d)資本主義の拡大浸透、そして、(e)科学技術の専門化の昂進という現象があるの、鴨。

蓋し、「主義」の2文字がついているから紛らわしいのですが、「資本主義」には「制度」の側面と「その制度を容認する理路・心性・行動様式」の二面がある。而して、制度がすべてそうであるように、それは規範と状態の重層的な構造であり、かつ、言語や家族という自生的な制度がすべてそうであるように、交換を巡る制度たる資本主義の制度もまた時代によってその内容が変遷してきている。

何を言いたいのか。それは、現在の資本主義の制度は、例えば、①所有権の制限、②契約の自由の制限、③過失責任の制限、および、④所得の再配分の導入、⑤ケインズ的な財政と金融における国家権力の政策の導入、⑥種々の国際的な制約という修正または変容を経た後のものということ。而して、これらの資本主義の変容を与件をとして踏まえるとき、サッチャーもレーガンも、フリードマンもハイエクさえもある意味立派な「社会主義者」でないとは言い切れないのではないでしょうか。

家屋の賃借人にほとんど無制限の厳格責任を認めていた19世紀末までの英国のコモンロー。あるいは、労組の活動どころか労組の存在自体を容認しただけの連邦法・州法を憲法違反と断じた、加之、生活必需品の料金の買い占めによる価格引き上げや、「談合」などではない、鉄道等の公共交通機関の料金の(その地域のサービスを独占する)鉄道会社による裁量的決定を制限する州法を憲法違反と断じた19世紀末のアメリカ連邦最高裁の判決群を見るとき、私はそう感じざるを得ません。

ならば、(d)資本主義の拡大浸透とは、制度の側面よりも、寧ろ、その制度を容認する理路・心性・行動様式の地球儀規模での拡大浸透と捉えるべきでしょう。畢竟、物象化した資本の論理は--「疎外」もしくは「物象化」ということの言い換えにすぎませんけれども--人間が容喙できない独自の法則性と自己実現性を帯びている。ならば、そのような資本の論理にハイエクの言う意味での「設計主義的な施策」でもって人間が抗うことが可能とする<ファンタジー>は人間の有限性の自覚を忘れた、人間と国家の万能観に根ざす<全体主義>に親しいものではないか。と、そう私は考えます。


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▼専門化の昂進と専門家の政治的な権威化
原子力発電の再稼働の是非の問題を見るにつけても、科学技術の専門知の支配--マルクスの顰みに倣い換言すれば「疎外された専門知」、すなわち、--それを作り上げた人間の制御から離脱して独自の存在と流通の法則性を獲得した専門知が猛威を振るっている。このことは間違いないでしょう。そして、科学技術に仕える<神官>としての専門家、逆に言えば、それら<神官>の用いる<秘儀>としての専門知が、最早、主権国家や国際機関のオフィシャルな統制の枠には収まらなくなってきているということもまた。

すなわち、ミシェル・フーコーが予言した「素人を沈黙させる<権力>としての専門知」が跋扈している。而して、疎外された専門知の--権力と化した科学技術の--あり方を反芻するとき、加之、他方、現在ではすべての人が「ほとんどの知の領域に関しては素人でしかない」状況を想起するとき、そのような「国民国家-主権国家」を超える専門知の、少なくともその一斑ではあるだろう原発政策に関しては、直接民主制的な政策決定、就中、素人による国民投票や住民投票が、ある意味、最も馴染まないこともまた自明ではないでしょうか。

なぜならば、誰も知らないことについては判断できないでしょうから。そして、逆に、
政治責任を問われることのない専門家が政治的判断に容喙すべきではないでしょうから。


アーレントは、<全体主義>の苗床としての大衆社会の危険性を高める「民主制」には懐疑的であり、寧ろ--古代ギリシアの政治の実情、および、アメリカの建国期の政治思想を模範にしつつ--、社会の各成員が主体的に政治にコミットする権限と責務を帯びている、かつ、自由の理念が代表制によって単一な法体系に具現する、更には、法の前の平等が担保されている「共和制」に好意的だったと思います。


而して、この点はあるいは、カントが『永久平和のために:Zum Ewigen Frieden』(1795)の「国家間の永久平和のための確定条項」の第1確定条項で「共和制」の要素として記した内容と親しい、鴨。

一、社会の成員が自由であること
二、社会のすべての成員が、唯一にして共同的な立法に(臣民として)従属する
三、社会のすべての成員が(国民として)平等



ことほど左様に、あらゆる<全体主義>が紡ぎ出す物語の教条性を忌避するアーレントは、而して、その現実の政治においても、不可能を誰にも求めないでしょう。ならば、--全体主義に抗して幸福を手に入れるにも厳しい条件があり、また、全体主義体制下においては平凡な人間が世界最大の悪を動機も信念も邪心も悪魔的な意図もないまま平気で行うという--人間の有限性を直視した保守主義者としてのアーレントが、(d)資本主義、そして、(e)科学技術の専門化に好意的ではなかったにせよ、アーレントの思想の延長線上からは、これらの現実に対しては「平和的共存」の線しか導き出せないと思います。


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現代の民主主義を--共和主義とも保守主義とも協働可能な社会思想、かつ、--<全体主義>と鋭く対立するもとして捉える場合、それがどのようなイシューであれ、政策を「正か邪か」の基準で選択することは価値相対主義を基盤とする現代の民主主義とは相容れない。ならば、原発問題に関しても、畢竟、我々は次のような<常識>に立ち返るべきなのではないでしょうか。

(ⅰ)絶対の安全性などはこの世に存在しない
(ⅱ)低線量・中線量の放射線被曝の危険性は証明されていない
(ⅲ)原発にかわる安定的な代替エネルギーの実用化は困難    


これらの<常識>を踏まえて、原発再稼働に踏み切ることこそ、人間の有限性を自覚する、現代の民主主義および現代の共和主義とも、なにより、現在の保守主義とも整合的であろうと思います。実際、そろそろ日本も、<脱原発ファンタジー>から覚醒して原発立国路線に回帰すべきではないか。少なくとも、<脱原発ファンタジー>は民主主義の否定である。と、そう私は考えます。


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孔子が『論語』(顔淵篇)で喝破した如く「古よりみな死あり、民信なくんば立たず」。ならば、究極的には、低線量放射線被曝の「確率的影響」など恐れる必要もなく実益もない。それは人間が究極的には左右しうるものではないのですから。実際、「福島の原発事故を見よ。直接被ばくによる死者こそ出なかったものの、故郷を追われた避難民は約14万人にのぼる」と言うのなら、寧ろ、そろそろ、放射線被曝線量基準自体の非合理性を直視すべきだと思うのです。

他方、今現在、生存と生活に困窮している避難者・被災者・羅災者、あるいは、飢餓に苦しんでいる世界の子供たちの<現存在>というリアリティー、文字通り、餓死せしめられた数万数十万の福島県浜通りの牛さんや豚さんや犬さんの<命>のリアリティーを想起するとき、人間が、そして、その作る政府が些かなりとも左右しうる「死-生」のカテゴリーにおいて、3年後、あるいは、13年後、または、30年後に、例えば、白血病や甲状腺癌になる危険性、しかも、確率的な危険性の増大などは、人間やその作る政府が取り組むべき社会的問題のプライオリティーとしては限りなく最下位に近いだろう。と、そう私は考えます。

蓋し、IAEA(国際原子力機構)が2013年の10月21日に提言した通り、被曝線量基準年間1ミリシーベルトなるものには何の意味もないこと、そして、放射線被曝の「確率的影響」に関する「非閾値-連続直線仮説」--要は、どのような微量の放射線被爆も確率的にはDNAを破壊することによる健康障害の原因となりうるという主張--がいみじくも指摘している通り、この世に安全なものなどない。

ならば、安全が確保できない事態を<異常>な事態と捉える感覚こそ
文化帝国主義、西欧中心主義の世界観の顕現である。


そして、その感覚は、繰り返しますけれど、人間存在の有限性の自覚を欠いた、人間と権力に対する万能感が<福島>に投影している妄想であり、すなわち、それは<脱原発ファンタジー>の教条に絡め取られた<全体主義>の苗床にほかならない。畢竟、<脱原発ファンタジー>は、アーレントの思想、および、それと親しい価値相対主義を基盤とする現在における保守主義とは相容れない。と、そう私は考えます。


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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




あーれぇ、アーレントの言葉を引用しておいてアーレントの思想を否定してないかい、これ。と、そう感じたエッセーを目にしました。毎日新聞のコラム、山田孝男「風知草:思考停止から抜け出せ」(2014年1月27日)。そのコラムのどこが問題と感じたのか。

それは、アーレントの思想的関心の核心は--主著と目される『全体主義の起源:The Origins of Totalitarianism』(1951), 『人間の条件:The Human Condition』(1958)を反芻する限り--孤立した大衆をまるごと吸収可能なイデオロギーの教条を、しかも、組織的・計画的に運用する全体主義体制に抗して、いかにして人間は幸福な生活を--私的領域と公的領域の二個の重層的な人間の生活における自由(freedom)を--手に入れることができるかという点にあったと思うから。

すなわち、<脱原発ファンタジー>などはアーレントの不倶戴天の敵とも言うべき<全体主義>そのもの。ならば、アーレントの--全体主義の危険性の告発、および、公的領域での人間の取るべき活動についての--片言隻句を用いて、都知事選挙において有権者を脱原発の投票行動に誘導しようなどは唖然とする言説。それこそ、あのゲッベルスも裸足で逃げ出す論理の飛躍ではなかろうか。と、そう私には感じられたということ。これです。


▼風知草:思考停止から抜け出せ
「原発ゼロ」は東京都知事選(2月9日)の争点にふさわしいか−−。世論は歩み寄りの余地がないほど割れているが、先週末、近所の映画館で遅ればせながら見た映画「ハンナ・アーレント」(2012年)が重要な視点を提供していると思った。

哲学者、アーレント(1906〜75)の、人間がなす悪についての考察が、原発と東京の有権者の責任という問題につながる−−と思われたのである。アーレントはドイツ系ユダヤ人女性だ。ナチスに追われ、アメリカへ亡命。第二次大戦後、ユダヤ人虐殺に深く関わったナチス親衛隊中佐、アドルフ・アイヒマン(1906〜62)の裁判を傍聴した。

アーレントは、アイヒマンを「どこにでもいる平凡な人物」と見た。戦時下では誰でもアイヒマンになり得たのであり、イスラエルの法廷で被告席に座っていたのは人類全体だとも言える−−と米誌「ニューヨーカー」で論じた。これが激しい議論を呼んだ。アイヒマンは冷酷、残忍、狂気の極悪人−−という、戦後の支配的な歴史認識を侵したからだ。・・・

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アーレントの断定。
「世界最大の悪(600万人以上とされる20世紀のユダヤ人虐殺)は平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も、悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです」

戦時のホロコースト(大虐殺)と平時の原発事故に何の関係がある−−といぶかる向きもあろうが、似た側面があると思う。思考停止のまま、未完の巨大技術への依存を続ければ、時に途方もない惨害を招く。福島の原発事故を見よ。直接被ばくによる死者こそ出なかったものの、故郷を追われた避難民は約14万人にのぼる。

そういう中での都知事選である。なるほど、エネルギーの選択は国策には違いない。だが、難しいことは国が決める、専門家が決める、上司が決める、オレは知らん、自分さえ無事なら後は野となれ山となれ、という構えでよいか。現実の戦争だろうと、経済戦争だろうと、巨大なプロセスに巻き込まれるうちにモラルが見失われ、人を人とも思わぬ判断が繰り返されることがある。・・・

東京都は電力の最大の消費地だが、原発はない。核廃棄物の最終処分場は存在せず、計画もない。悪いのは東京電力だ、原子力ムラだ、政府だ−−とうそぶき、福島の14万避難民の苦難など眼中にない東京であってよいか。アーレントは米誌への寄稿「エルサレムのアイヒマン/悪の陳腐さについての報告」の最後でこう言っている。被告には殺意も憎悪もなかったにせよ、絞首に値する。なぜなら「政治においては服従と支持は同じもの」だから・・・。都知事選に限らず選挙に臨む有権者が胸に刻むべき言葉ではないか。


(以上、引用終了)


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アーレントの「政治において人間が取るべき行動」を巡る主張は--「全体主義」成立に至る社会の思想的な風景の素描ともいうべき『全体主義の起源』、そして、「全体主義」に抗し得る人間行動(労働・仕事・活動)の可能性の吟味を説いた『人間の条件』を謂わば<両界曼荼羅>とするアーレントの主張は--いかなるものか。蓋し、私は、それを、(α)自己とは異質な<他者性>を持つ人々に、(β)言語で働きかけることによって、(γ)彼等から評価・批判されることの価値の称揚と理解しています。

すなわち、公的領域に参加する活動--選挙運動にせよ、消費者運動にせよ、あるいは、ブログ運営にせよ、直接もしくは純粋に労働と仕事が占める私的領域の外部での自己の<言語行為>--が他者から賛成・反対、秀逸・拙劣、喝采・罵声、軽視・無視等々の<評価>を受けることの肯定。加之、この公的領域を構成する<他者性>と<言語行為>、ならびに、その公的領域への参加から得られる満足感こそが--古代ギリシアの市民がポリスの政治に関わることをその幸福の不可欠の条件と考えていた、文字通り、「ポリス的存在」であったように--人間の幸福の条件であり、もって、その公的領域への参加とそこで得られる幸福感が<全体主義>に対抗可能な人間存在の条件でもあるというもの、鴨。

蓋し、アーレントは、言葉の正確な意味での「現代の保守主義」の信奉者でしょう。すなわち、(1)自己の行動指針としては自己責任の原則に価値を置く、そして、(2)社会統合のイデオロギーとしてはあらゆる教条に疑いの眼差しを向ける、よって、(3)社会統合の機能を果たすルールとしては、さしあたり、その社会に自生的に蓄積された伝統と慣習に専ら期待する、換言すれば、その社会の伝統と慣習、文化と歴史に価値を置く態度と心性を好ましいと考える。而して、(4)その社会の伝統と慣習、歴史と文化をリスペクトする<外国人たる市民>に対しては、逆に、彼等の社会の伝統と慣習、歴史と文化を<国民>もリスペクトすべきだと考えるタイプの社会思想を信奉する論者と言える。

尚、「保守主義」を巡る私の基本的理解については
取りあえず下記拙稿をご参照ください。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444711.html

・「左翼」の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1) ~(4)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60904872.html

・保守主義-保守主義の憲法観
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60996566.html


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いずれにせよ、アーレントは、1971年のニクソンショック、および、1973年のオイルショックを嚆矢とする人類史の本格的なグローバル化の黎明を見ることなく亡くなった。ゆえに、彼女の思索の枠組みは、あくまでも、(ⅰ)「国民国家」の形成、(ⅱ)「帝国主義」の成立、そして、(ⅲ)「全体主義」の勃興という20世紀前半までの人類史に限定されたものだったでしょう。アーレントの天稟は、しかし、「全体主義」がナチスドイツや社会主義の崩壊によって終焉するようなものでもないことを見据えていたの、鴨。

而して、(a)現代社会が大衆社会/大衆民主主義下の社会であり、(b)現代国家が福祉国家という全体国家--権威主義的で家父長的色彩が濃厚な「全体主義国家」ではなく、国民の経済活動や市民生活の多くの部面に行政サービスを提供する「全体国家」--である限り、更には、(c)グローバル化の昂進の中で、いよいよ、多様な文化を担う人々がある一個の国民国家の内部--しかも、グローバル化昂進の波濤の前には相対的にその力が逓減した「国民国家-主権国家」の内部に--等質な<国民>として組み込まれ包摂されざるを得ない限り、<全体主義>は常に魔界転生の機会を虎視眈々と狙っているのだ、と。

蓋し、「国民国家」が単に人間に等質な<国民>たることを要求する一方で--「国民国家」の成立にすぎないフランス革命の殺戮の嵐やアメリカ南北戦争の悲惨を想起するまでもなく--、等質たり得ないと看做す具体的な<市民>を<国民>のリストから暴力でもって排除する体制にほかならないのに対して、「全体主義」は--ルソーの説く「一般意志」、あるいは、ヘーゲルの唱えた「絶対精神」や「時代精神」の如く、もしくは、『風の谷のナウシカ』でナウシカにオームが自らの一族のことを述べたように--、異質なものもまるごと「全にして一、一にして全」と看做す体制であり、よって、「全たる一」になり得ない具体的な<国民>は<非国民>として暴力的のみならず論理的にも抹殺される体制なのでしょう。


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大凡、アーレントの思想の骨格とその思想的関心の核心をこう捉えることが満更曲解ではないとすれば、アーレントが「全体主義」に対抗するための橋頭堡として設定した、「公的領域-政治活動」への参加の推奨から片言隻句を切り出して<脱原発ファンタジー>を基礎付けるなどは、ほとんど正気の沙汰とは思えない破廉恥な言説ではないか。と、この毎日新聞のコラムについてそう私は感じたのです。

それは、原発を争点にすることが主体的に政治に参加することであり、そして、原発を争点にする限り「脱原発」が正解である。すなわち、「原発推進」や「原発容認」の候補に投票することは、主体的に政治に参加しない「平凡な人間が行う悪」である。それは、法的にはいざしらず、アーレントの地平においては倫理的な批判に値する。なぜならば、「政治においては服従と支持は同じもの」だからと主張していると。

畢竟、都政であれ国政であれ、多岐に亘る争点に対してどの程度の重要さを認めるか自体、有権者の自由であり、その価値判断こそ政治に主体的に参加するということではないでしょうか。ならば、この毎日新聞のコラムのような主張。国政のみならず都知事選挙においても、原発が争点になるべきだ、原発が争点になるということは「脱原発」の候補が勝利することだ--つまり、「脱原発」の候補が敗北するということは、原発が争点にならなかったということだ--という、お宅何様ものの言説が<全体主義>と隣接していることだけは明らかでしょう。アーレントの不倶戴天の敵の<全体主義>、と。敷衍します。


尚、私の<脱原発ファンタジー>に関する認識については
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・放射能の恐怖から解脱して可及的速やかに<原発立国>に回帰せよ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60935787.html

・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11138967625.html

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11138964915.html


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<続く>




テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済





▼原発は「重要なエネルギー戦略」 イギリスで日立原発事業始動へ

日立製作所は11月下旬、英国の原発事業会社「ホライズン・ニュークリア・パワー」を買収した。年明けにも新規原発の建設に動き出す。東京電力福島第1原発の事故後、日本では、原発依存脱却を模索する動きがあるが、英国では、原発が同国のエネルギー戦略で一層重要な位置を占めるようになった。専門家らは、エネルギー安全保障やリスクの分散に加え、産業の競争力確保、新技術の獲得などの理由があると指摘する。

ジョン・ヘイズ英エネルギー担当相(閣外相)は産経新聞とのインタビューで、できる限り安価な電力を安定供給し低炭素社会を実現するために、「天然ガスを中心とした火力に加え、(風力・水力などの)グリーンエネルギーと原子力のバランスをとることが大切だ」と語った。ただ、気象状況などに左右される「グリーンエネルギーに依存するのはリスクが伴う」とし、エネルギー源を分散させるため「原子力を昔の水準に引き上げる必要がある」と強調した。

西側世界で初の商用原発を1956年に完成させた英国は、90年代の最盛期には原子力が全電力の約30%を占めたが、開発費用が高額で投資の回収にも時間がかかることなどから95年を最後に新設を中止。老朽原発の閉鎖に伴い、全電力の15%強に半減している。

英国は2008年、温暖化対策の切り札として再び原発推進に転換。日立の今回の進出を、10年以上のブランクで失われた人材や技術を取り戻す機会ともとらえているという。英国はエネルギー安全保障の観点からも原発の重要性を再認識している。

日立が「ホライズン」買収に動いた契機は、脱原発を決めたドイツ電力大手が撤退したからだとされる。関係筋によると、入札では当初、資金力がある中国国有企業が入った連合体が有力視されていた。しかし、英国政府の関係者が原発事業に中国国有企業体が入りこむことに警戒感を示したという。中国企業体は入札に加わらず、最終的に日立が6億7千万ポンド(約924億円)で落札した。

ヘイズ担当相は日立について「長期にわたり原発に関わってきた信頼できる企業で、納期やコストを守って仕事ができると理解している」と期待感を示した。一方、英国でも「シェールガス」の埋蔵が報じられ、天然ガスの発電拡大を唱える声も高まっている。日本貿易振興機構(ジェトロ)の有馬純ロンドン事務所長は「グリーンエネルギーを推進してきた欧州は国民負担が高まる中、一様に頭を悩ませている。英国も同じで、その解決策として天然ガスと原発に期待を寄せる。英国の動向を注視していくことは日本にも重要だ」と指摘している。


(産経新聞・2012年12月28日


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▼「安全ではなく、危険性を語って!」IAEAに直接交渉

日本政府と国際原子力機関(IAEA)は15日、福島県郡山市で3日間にわたる国際会議「原子力安全に関する福島閣僚会議」を開始した。・・・IAEAの天野之弥事務局長は、「原子力エネルギーは今後も重要な選択肢である」と訴えた。一方、会議に反対する市民らが「原発の安全ではなく、危険性を語って」と、IAEAのジル・チューダー報道官に要請書を提出した。

午前8時、福島閣僚会議近くには、福島で生活する女性たちが中心となり市民がおよそ100人集まり、「被災者の話抜きに会議を進めないで」と抗議行動を行なった。

午前9時30分、福島閣僚会議がはじまった。・・・IAEAの天野之弥事務局長は、「原発事故はあったが、原子力エネルギーは多くの国々にとって重要な選択肢。多くの国々は、原子力を導入することによって、エネルギー、安全保障を向上できる。経済の競争力を上げられる」と訴えた。

会場では、IAEAのブースや福島県内の除染活動の詳細を説明したパネルが並んでいたものの、外務省が募集した「福島の人々の声」の展示は、会場隅のホワイトボードに設置されていた。

午前11時30分、市民らおよそ200人が集まり、IAEAの担当者ジル・チューダー報道官と直接交渉。「原発の安全ではなく、危険性を語って」と会議の内容を切り替えるように訴え、要請書を提出した。要請書の中身は、これまでの原発推進方針を改め、人類への放射能被害を厳しく規制すること。日本政府と共に、エネルギー政策を脱原発に転換すること。子ども・若者たちの放射能被害の最小化に努めることなど、10項目。・・・

福島閣僚会議を傍聴した福島県西白河郡で生活する池脇美和さんは、「事故原因もはっきりせず、大量に放射能が出ている状況の中、子どもたちが、そのままその場所におかれているという状況を無視している」と話した。


(アワプラTV・2012年12月15日


▼原発と活断層―疑わしきは「黒」だ

原子力規制委員会は来月初めから、全国六つの原発で活断層の現地調査を始める。国の指針では活断層の上に重要施設を建ててはならないことになっている。しかし経済産業省の旧原子力安全・保安院による審査の甘さが指摘され、新体制で調べ直すことになった。

調査は再稼働する原発を選ぶための作業ではない。不十分だった過去の調査を反省し、専門家が予断ぬきで危険性を判断する作業の一環だ。手始めは、現在、唯一稼働している関西電力大飯原発(福井県おおい町)だ。調査団の5人の専門家の中には、敷地内の断層が活断層である可能性を指摘している研究者も含まれる。過去の審査にとらわれず、徹底的に調べて、説得力のある判断を示してほしい。

活断層とは、過去に活動し将来もずれを起こす可能性がある断層だ。ここで地震があれば、直上はもちろん、周辺にも大きな揺れをもたらす恐れがある。大飯の場合、焦点はF―6と呼ばれる断層だ。2号機と3号機の間にあり、重要施設である非常用取水路の直下を走る。別の断層と連動して動く可能性も指摘され、活断層なら原発の運転には致命的となる。

規制委の田中俊一委員長は活断層の可能性が高ければ3、4号機の停止を求める方針だ。現地調査は北陸電力志賀原発などでも順次おこなわれる。調査の結果、活断層なら無論だが、断定にいたらなくても疑いがあれば、安全優先の立場から「黒」とみなすべきだ。

東京電力福島第一原発では、津波の危険性が指摘されながら東電が軽視し、対策を怠ったことで事故に結びついた。同じ轍を二度と踏んではならない。原子力規制委は現地調査と並行し、活断層の審査指針なども来年夏までに改める。

島崎邦彦委員長代理は、12万~13万年前以降に動いた断層を活断層とする現行の指針を、40万年前より後に動いたものとする考えを示した。。活断層を、過去40万年の間に繰り返し動いているものと規定する政府の地震調査研究推進本部の見解に合わせる形だ。見落としをなくすため、安全審査の幅を広げるのは当然だ。

現在の安全審査は原発直下の活断層が主眼だが、それで十分か。東日本大地震で地下の構造が変化した地域もある。原発周辺の活断層についてもさらに調査し、リスクをきちんと見定めるべきではないか。

疑わしきは危険性あり。それを大原則として貫いてほしい。


(朝日新聞社説・2012年10月26日


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最後の朝日新聞社説はほとんどカルト的な社説であろうと思います。これこそ、「絶対の安全性などこの世には存在しない」という、福島第1原発事故で崩壊した所謂<安全神話>と同根のもの。

蓋し、原発推進か脱原発かと主張は180度異なるものの、正に、そのファシズム的の非論理性と独善性と教条主義において、この朝日新聞社説の主張と所謂「安全神話」の微睡みを貪っていた、<2011年3月11日>以前の原発推進の言説には、ウィトゲンシュタインの言う「家族的類似性」どころか「シャム双生児」的に類似性が看取される、鴨。と、そう私は考えます。それらは、人間の有限性を看過する傲岸不遜な「西欧中心主義」、文化帝国主義的の言説であるとも。尚、この点に関しては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60908495.html

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60588722.html


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脱・脱原発論。この主張に対しては「まだ、福島の事故の原因が完全には解明されていない現在」なにより「今なお、数十万人の福島県浜通の人々が郷里を離れ、厳しい生活再建の戦いを強いられている」という現実を見ない暴論だという評価をいただくことも少なくありません。

けれども、福島第1原発の事故を巡っては(実は、それは最初から予想されていたことなのですが、)「放射線被曝に起因する健康被害は1件も確認されていない」ことが漸次判明してきた現在。

而して、「今なお、数十万人の福島県浜通の人々が郷里を離れ、厳しい生活再建の戦いを強いられている」ことの主な原因は、放射線被曝自体の危険性ではなく、「放射線被曝の危険性を訴える言説の危険性」や「風評被害」であったこと。換言すれば、而して、「福島の事故の原因」は究極の所、絶対にあり得ない<絶対の安全性>なるものを要求する脱原発論の非論理・非科学・非民主主義的の態度とそれに対する原発推進派の安易な応対であったこともまた明らかになってきているのではないか。と、そう私は考えます。

要は、低線量積年平準放射線被曝などは「正露丸」で対処可能。と、考えた方が遥かに<害>は少なかった。この<福島>の経験を鑑み(やはり、低線量被曝の危険性は低いことが「はっきり」したことにより、中進国だけでなくアメリカを含む)世界の原発推進にモメンタムが増したのは人類全体にとっては(日本自体は、正直、その原発立国回帰はおそらく4-5年遅れるとしても、)全体としてはよいこと、鴨。と、そう私は考えます。

蓋し、福島第1原発の事故直後に、放射線の許容被爆値を復興完了までの例えば10年間、それまでの例えば100倍にあげ速やかな原発事故収束をすべきだったのです。と、そう私は考えます。

而して、そのためには(浜通りを中心とする現地のお母さん達の納得を得るべく、また、人間が一番腹の立つ被差別の意識を封じるべく)その間は、皇居と国会議事堂、衆参の議員宿舎、最高裁判所、日本銀行、財務省・総務省・外務省(要は、防衛省を除く国の中枢機関)は浜通り、例えば、浪江町とか南相馬市、具体的には「福島県双葉郡浪江町大字大堀周辺」や「南相馬市の原町区近辺」に移転すべきだった。そうすれば、事故から650日頃、2012年の年末の今頃には原発問題など実質的に終わっていただろう。と、そう私は確信しています。今からでも遅くないとも。


木花咲耶姫は復活の女神。蓋し、12月16日のサンタクロースの贈り物を経緯に、日本も福島も復活に向けて動き出すのではないか。そう期待しています。その復活の初手は<正露丸>なのかもしれないという予感とともに。


б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ったね東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ったね福島!


б(≧◇≦)ノ ・・・震災復興のために共に闘わん!
б(≧◇≦)ノ ・・・日本復活のために共に闘わん!


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テーマ : 「原発」は本当に必要なのか
ジャンル : 政治・経済





サンタクロースからの日本国民へのプレゼント、鴨。弊ブログでは「木花咲耶姫」と同一神格のほしのあきさんが「マリー・アントワネットに別れをつげて」の試写会に登場した翌日、年末の総選挙(2012年12月16日)によって悪夢の民主党政権が終焉をむかえました。

而して、このプレゼントは、もう一つの悪夢、<脱原発の狂宴>からこの国の社会が<卒業>する契機、すなわち、脱原発の主張の基盤たる「人間中心主義-国家権力の万能感」に別れをつげる契機でもある、鴨。と、そう私は期待しています。

以下、その契機が現実に移行する上で重要と思われるポイント。すなわち、「そもそも原発の危険性とはどういうことか」「原発の必要性や不可避性とはどういうことなのか」を考える上で参考になると思われた2012年の新聞報道のスクラップです。尚、このイシューを巡る私の基本的な考えについて下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・放射能の恐怖から解脱して可及的速やかに<原発立国>に回帰せよ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60935787.html

・事故を乗り越え福島とともに進む☆原発推進は日本の<天命>である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60450789.html


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▼黒い雨、がんリスク増えず 放影研、1万3千人

被爆者の健康を日米共同で調査している放射線影響研究所(広島市、長崎市)は7日、原爆投下後に放射性降下物を含む「黒い雨」に遭ったとされる約1万3千人のデータを解析した結果、黒い雨に遭ったことでがんになるリスクの増加はみられなかったと発表した。

黒い雨の影響をめぐる住民の調査は、長崎・西山地区で50人を調べた以外ではほとんど例がなく、広島と長崎の両方を含む大規模データの解析は初めてとみられる。ただ、データの比較方法など、解析の手法に専門家から批判の声も出ている。


(西日本新聞・2012年12月8日


▼<震災関連死>70歳以上が9割、「疲労原因」福島に集中

復興庁は21日、東日本大震災の被災者が避難所などで体調を崩して亡くなった「震災関連死」に関する最終報告書を発表した。調査対象になった岩手、宮城、福島3県18市町村の死者1263人の約9割は70歳以上の高齢者。死亡原因(複数回答)については「避難所生活の肉体・精神的疲労」が638人と半数を超えた。そのうち福島県内が433人を占め、東京電力福島第1原発事故が広範囲・長期間にわたり多数の住民を苦しめている実態が鮮明になった。

報告書は21日の関係省庁による検討会で示された。復興庁が把握した震災関連死は1都9県の1632人(今年3月末現在)。そのうち、震災・原発事故の被害の大きかった福島、岩手、宮城3県の18市町村1263人を対象に死亡診断書などで原因を調べた。

地域の内訳は、福島県が12市町村(南相馬市、浪江町、いわき市、富岡町、大熊町、双葉町、飯舘村、楢葉町、川内村、広野町、葛尾村、田村市)の734人▽岩手県の3市町(大船渡市、釜石市、大槌町)と宮城県の3市(石巻市、仙台市、気仙沼市)が計529人。70歳以上が1094人を占め、世代別では80代が549人で最も多い。全体の約半数が震災から1カ月以内、約8割が3カ月後までに死亡していた。

死因は避難所生活の疲労が最多で、冷たい床に薄い毛布1枚を敷いていた▽寒さで布団にいることが増え、体が動かず食事や水分も取れなくなった▽狭い避難所に詰め込まれて疲労困憊した--など、心身に強いストレスを受けた事例が並ぶ。

続いて「避難所などへの移動中の精神的・肉体的疲労」が401人。福島県は380人で、宮城、岩手両県の21人より圧倒的に多かった。原発事故の発生で病院・介護施設から移送された患者らが死亡したケースが主で、検討会が意見聴取した有識者から「リスクが高い場合は移送しない選択肢も考慮すべきだ」との指摘が出た。・・・


(毎日新聞・2012年8月21日


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▼政治的な思惑が残した禍根…チェルノブイリの失敗と教訓

政治的な思惑から非現実的な退去基準を決めたことが、いかに禍根を残したか。旧ソ連(現ウクライナ)チェルノブイリ原発事故のその後をウクライナ政府関係者は苦渋に満ちた表情で語ったという。

東京大学総長、文相などを歴任した原子核物理学者の有馬朗人さん(81)は、先月中旬、中学校の理科の教諭らとともに現地入りし、いまなお続くウクライナの苦闘と爪痕に改めて驚かされた。

1986年、チェルノブイリ原発が暴走の末、炉心溶融(メルトダウン)により爆発した。半径30キロ圏内の住民は強制移住させられた。このとき、ソ連政府は退去基準を年間100ミリシーベルトにし、その後、段階的に20ミリシーベルトにした。だが、ソ連崩壊に伴い、独立したウクライナ政府は一挙に5ミリシーベルトに下げた。

過度に厳しい基準と指摘されたが、「独立に際し、ソ連から少しでも多くの賠償金を引き出そうと思ったのです」(政府関係者)との打算だった。だが、その結果は、強制避難の対象区域や人口が極めて大きくなったうえ、避難した住民は新たな環境に適応できず、大きな負担を強いられた。政府の補償や支援策は国家予算の1%を占め、さらに補償は既得権と化し、基準などの見直しは困難になっているのだという。

日本の福島第1原発に関する退去基準は20ミリシーベルトだが、同じ基準だった校庭利用基準は昨夏、年間1ミリシーベルトに引き下げた。人ごとではなかろう。

興味深いのはウクライナが原発を稼働させていることだ。現在、15基が運転されており、エネルギー全体の原発依存率は47%で、世界第4位だ。その理由も「エネルギー資源がないからです。ロシアからの天然ガスは不安定さが残っている」(同)という。

結局、自力で供給を安定させるには原発しかないと判断したのだ。日本のエネルギー自給率は4%にすぎない。ウクライナ以上に厳しい状況であることに日本人は目を向けてほしいと有馬さんは訴えている。


(産経新聞・2012年8月14日


▼被ばく「20ミリシーベルト」混乱

福島第1原発事故による放射線被ばくを心配する人は多い。呼吸や食事を通じた内部被ばくを懸念する声もある。被ばくをめぐる討論会やシンポジウムでは、学者や政府への信頼低下や、地元との対話不足を指摘する声が出る。ただ、安心できる線量の目安に関しては、専門家の意見がまとまりつつある。

被ばくへの関心は、4月末に文部科学省が学校での年間放射線量として打ち出した「校庭20ミリシーベルト」で火がついた。この数字のもとになっているのは、国際放射線防護委員会(ICRP)が示した避難など被ばく防護の目安となる「緊急時20~100ミリシーベルト、復興時1~20ミリシーベルト」という値だ。幅をもたせてあるのは、地域の状況に応じて最適の対策をとれるようにするため。避難した方がいい場合もあれば、逆に転居や転校といった別の住民の負担が重くなる場合もある。

だが、20ミリシーベルトという数字が独り歩きしたことで、福島の現地で納得する人は少なく、激しい抗議を受けた文科省は、一転して「1ミリシーベルト以下を目指す」と言うしかない状況に追い込まれた。

ここまで不信を招いたのはなぜか。チェルノブイリ原発事故の調査も手掛けた長滝重信・長崎大名誉教授は「話し合いがなく、いきなりこの基準でと言ってしまったのが混乱の元」と指摘。ICRP委員を務める甲斐倫明・大分看護科学大教授も「きめ細かなリスクの説明をして、地元と一緒に考え、決定してもらう方法もあった」と話す。

裏付けとなる科学的なデータに関し、長滝名誉教授は「100ミリシーベルトを超える被ばくになれば、発がんの確率は0・36~0・77%上昇する。ただ、100ミリシーベルト以下の被ばくには、疫学的にみても、実験でも影響が分からない。20ミリシーベルトが怖いという人に根拠を聞くと、答えは返ってこない」と話す。発がんリスクには、生活習慣や飲食物、喫煙などさまざまな要素があり、放射線だけの影響を見極めるのは非常に困難だからだ。・・・

「原発事故後、放射線量が高めとなっている首都圏でも、福島より1、2桁少ない。政府は、東京は大丈夫とはっきり言った方がいい」と田中俊一・前原子力委員会委員長代理は力を込める。

福島県民の内部被ばくでは、放射線医学総合研究所などで検査が始まり、結果はまだ確定していないものの、被ばくは微量と推定されている。

影響の程度について津金昌一郎・国立がんセンター予防研究部長は「福島の住民は被ばくしてしまった。しかし、リスクを下げる方法はいくつもある。公共の場の禁煙などを福島県が率先してやれば、がんの罹患率が全国で最も低くなるだろう」と述べた。福島でも他の地域でも分かりやすい情報公開が大切になりそうだ。


(中日新聞・2011年7月3日


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これは周知のことでしょうが、国際放射線防護委員会(ICRP)の放射線被曝のリスクモデルでは、所謂「外部被曝」と「内部被曝」の二つの被曝の間に区別をもうけず、外部であれ内部であれ被曝線量総量が問題と考えています。

他方、それらは、おそらく(疑似科学的主張を流布する反原発カルト集団として、欧米では「反原発派-脱原発派」からさえ最早相手にされなくなってきている。そう言っても満更間違いではない市民団体、)欧州放射線リスク委員会(ECRR)の「勧告」の受け売りなのでしょうが、世の中にはそれら「内部被曝」と「外部被曝」を区別して、(同じ量の放射線被曝であったとしても)「内部被曝」の危険性を「外部被曝」よりも数桁高いと想定する人々もおられる。

要は、ICRPモデルでは、外部被曝で100ミリシーベルト、内部被曝で1ミリシーベルトを受けた集団の被曝リスクは被曝総量の「101」を定数とする関数とされているのに対して、ECRRのモデルでは(例えば、ここで内部被曝のリスクを2桁高いと仮定すると、「100+(1×100)=200」の)「200」を定数とする関数とされるということです。

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而して、このECRRのモデル自体、疫学的どころか理論的根拠を欠くものとしてほとんどの専門家は相手にしていないのですけれど、まがりなりにも、なぜこのような仮説モデルが提示されたのかということ自体が、この問題「放射線被曝のリスク」を巡る問題を照射していると私は思います。

すなわち、「内部被曝」の危険性を「外部被曝」のそれよりも数桁高いと想定しても/あるいは、ICRPモデルの如く、両者の危険性に差をもうけないとしても、双方とも現実の説明にそう困らないということ。

どういうこと? 「Aである」と「Aではない」が、少なくとも見た目には同時に成り立つというのはどういうこと? そんなことありえるの?

はい、要は、内部被曝であれ外部被曝であれ(低線量積年平準放射線被曝のリスクがあまりにも低いので、まして、喫煙や飲酒、ストレス等々他の要因の重層的な影響を加味すれば)現象面の解釈はすべて「誤差の範囲」に収まると言うことなのです。閑話休題。


ことほど左様に、畢竟、低線量積年平準放射線被曝などは「正露丸」で対処可能。それで足りなければ「ワンカップ大関」を1本加えれば鉄板。と、考えた方が遥かに<害>は少なかった。冗談ではなくこれは事実なのだと思います。

・チェルノブイリ原発事故で最大の被害をもたらしたものは何か
 -放射能狂騒終了の鐘は鳴り響く(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60986864.html

・高田純教授「福島県民は誰も甲状腺がんにならない」
 -放射能狂騒状態の宴の終了を告げる鐘音
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60985668.html


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<続く>

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