▼女子の「草食化」が進行し始める 大学・高校生のセックス体験率低下

女子大学・高校生のセックス体験率が初めて低下に転じたと、日本性教育協会が調査結果を明らかにした。協会では、女子の「草食化」も進んでいるのではないかとみて、分析を進めている。「草食男子」と対をなすものとして、「肉食女子」ということが一時期盛んに言われた。ところが、そうした傾向の妥当性について疑問の余地が出てきた。

◆女子大学・高校生がそれぞれ14、6ポイント減
日本性教育協会では、1974年から6年ごとに青少年の性行動を調査している。今回は、2011年10月から12年2月に全国11地点で中学、高校、大学生約7700人を対象に調査を行ったところ、女子大学生の性交経験率が6年前の前回より14ポイント減って47%になった。また、女子高校生の場合も、前回より6ポイント減って24%だった。調査開始から経験率は上昇を続けており、今回初めて低下したことになる。

男子大学生・高校生は、前々回の1999年から低下傾向にあり、今回は、大学生が7ポイント減の54%、高校生が12ポイント減の15%とさらに低下している。一方、中学生の経験率は、女子が1ポイント増の5%、男子が横ばいの4%とあまり変わらなかった。また、キスの経験率は、男女とも大学・高校生で、今回初めて低下に転じている。

女子の性交経験率低下について、日本性教育協会の事務局では、「草食化」が進んでいる現れではないかとみている。分析結果については、性行動調査委員会委員長の片瀬一男東北学院大教授が、取材に対し、12年秋にも概略を報道発表し、13年3月に最終報告書をまとめたい考えを明らかにした。なお、調査結果そのものについては、事務局では、12年8月16日にホームページなどで報告するとしている。女子の草食化については、ネット上で、様々な意見が上がっている。

◆男子の率が減った影響、などと様々な見方
性交経験率が女子も低下に転じたことについて、草食化の可能性は否定できないものの、「男女の行為なんだから両方減るのは当たり前」と冷静にみる向きもある。

一方で、(1)女子も男子と同様に、ゲームやアニメなどを楽しむインドア派が増えている(2)青少年健全育成条例での摘発を恐れて(3)ネット普及によるマスコミの影響力低下(4)見栄を張るのはカッコ悪いと正直に回答するようになった、などといった指摘も出ていた。

女子のセックス離れを示す他のデータとしては、日本家族計画協会で2010年9月に行った調査で、16~19歳女性がセックスに「関心がない」「嫌悪している」と答えた割合が、2年前より11.6ポイント増えて58.5%になったことがある。こうした傾向について、地域医療振興協会ヘルスプロモーション研究センター長で医師の岩室紳也さんは、週刊ダイヤモンド12年3月24日号の記事で、「今の若者は生身の人と付き合うことに伴うストレスを恐れ、ゲームなどのバーチャルにはまる。その結果、セックスを回避する人が増えているのだろう」とコメントしている。

産婦人科医で赤枝六本木診療所院長の赤枝恒雄さんは、J-CASTニュースの取材に対し、経済状況が悪く懐が寒いため、男子が女子をデートになかなか誘えないことがあるのではないかとみる。「セックスは1人ではできませんからね。その代わり、オナニーグッズが飛ぶように売れていると聞きます」また、性感染症の怖さや妊娠リスクを訴え続けた結果、2001年ごろから10代の人工妊娠中絶が減少に転じ、それが性交経験率のデータにも現れてきたのではないかともしている。


(J-CASTニュース・2012年8月6日 19:59)


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【解題-女子高校生の性交経験率の推移】

引用した記事と同じ財団法人日本性教育協会の(より包括的な調査に基づく)『青少年性行動調査』によれば、女子高校生の性交経験率は、例えば、1993年-1999年-2005年の時期に、16%-24%-30%に達したとのこと。教育界では有名な「定点測定データ」である、東京都の高校教員有志による同様の調査結果も勘案して推測するに、この数値は2010年時点では間違いなく33.33%(要は、3人に一人)を越えているものと思われます。

よって、引用した記事が報じた財団法人日本性教育協会の新しい調査結果の統計学的の妥当性は現在のところ全くわかりませんけれど、この報道が事実とすれば、2011年現在では女子高校生の性交経験率は予想に反して30%弱になっているということでしょうか。而して、これはこれで考えさせられる傾向ではある。

尚、注意すべきは、元来、『青少年性行動調査』等々によってもすべからく、(a)女子高校生の性交経験率の数値や数値の変化率に都会と地方とではそれほど大きな差は見られないこと、(b)実は、統計データなど望むべきもない時代のことですが、室町時代や江戸時代とは言わず、明治中期と比べて、例えば、同じ「満17歳の未婚女性」を比較した場合、現在の2010年-2012年のその数値が必ずしも高いとは言えないだろうということです。加之、蛇足ながら、(c)日本のこの数値が(イスラーム圏等を除けば)欧米諸国といわずほとんどの後進国と比べても必ずしも高いとは言えないこと。


傍証を一つ。「愛人バンク」として1980年代前半の世の耳目を集めた「夕暮れ族」(吉行淳之介の『夕暮れまで』(1978年)に登場した中年男性と若い女性のカップルからきたネーミングとか、)が解消したのは、当該『夕暮れ族』の発起人・筒見待子氏の1983年の摘発逮捕を契機にしていますが、それもまた、1985年前後にそんな事柄が<前衛的な人々>の間では、「際物=ある企業の特定のサービス」でなく普通に世の中に拡散したことの裏面、鴨。ちょうどその頃、韓国でも「レモン族」とかのこれとパラレルな事象が問題になったとかならなかったとか。で、それから25年後の2010年前後の現在は・・・。

そう思えば、赤川次郎さんの「三毛猫ホームズ」シリーズで、同じく「学生の売春」を舞台装置に取り入れていても、「ホームズ嬢」のデビュー作、『推理』(1978年4月)、『犯罪学講座』(1991年5月)は「女子大生」が、そして、『四捨五入』(1997年12月)では「女子高生」がそのプレーヤーであることはこの間の、1990年前後に、中高生の意識の変化というか断絶を赤川さんが感じたのが遠因、鴨。と、そう私は考えなくもないです。

蛇足ながら、赤川さんの『死者の学園祭』(1977年6月)では<性交渉>は主人公の高校生活には表だっては現れない。また、作家としての赤川さんのデビュー作にして「幽霊シリーズ」の巻頭を飾る『幽霊列車』(1976年)以来、ヒロインの女子大生と相棒である中年の警視庁の刑事の関係は、あくまでも、「恋人関係」であり「不倫関係」、すまり、「愛人関係」ではない。この人物設定もまた、今から見れば今一つ「小説にしてはおとなしい関係」のようでもあり、それも時代性のなせる技なの、鴨。

<参考記事>
・新版☆AVとは何か? AVを通して日本の今を考える
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/03d0747f3deadee2689572c7f313e0e2


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▼女性指導者を30%以上に=自民

自民党は3日の総務会で、「女性が暮らしやすい国はみんなにとっていい国だ」特命委員会(小池百合子委員長)の中間報告を了承した。2020年までに日本社会の指導的地位に占める女性の割合を30%以上にすることが柱。同党は次期衆院選公約に30%目標を盛り込む方針だ。

中間報告では目標達成のため、政府などによる物品調達の際、女性管理職が多い企業などが落札しやすくする法案の提出を明記。女性議員や女性候補が少ない政党の政党交付金を減額する政党助成法改正なども盛り込んだ。

特命委の片山さつき幹事長は記者会見で「一昔前の自民党ならこんな提案は総務会を通らなかった」と、自民党の「変化」を強調した。


(時事通信・2012/08/03


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この自民党の方針案に私は「総論賛成-各論の賛否保留」です。
私は何を言いたいのか? それは次のこと、

第一に、(甲)ジョン・ロールズの<正義の法則>(つまり、「その社会の最弱者の福祉の度合いが奈辺にあるかが、ある社会で正義がいかほど具現されているかの指標である」)の如き、謂わば「はめ手=一見直観的に正しと感じられるが、その主張自体に大した根拠は存在しない欺瞞に満ちた言説」とこの「女性が暮らしやすい国はみんなにとっていい国だ」とはパラレルと感じられること。

蓋し、「女性が暮らしやすい国はみんなにとっていい国だ」と同型のロジック、すなわち、「障害者が暮らしやすい国は健常者を含むみんなにとっていい国だ」とはバリアフリー化推進の際に人口に膾炙した<ロジック>だったけれど、例えば、限られた駅構内のスペースにエスカレーターやエレベーターを設置する等々のバリアフリー化に伴い極論すればすべての利用者の利便性と安全性が少なからず毀損された事例は誰しも容易に指摘できるでしょう。

まして、それらの手当に要するコストのコストパフォーマンスを想起するとき、少なくとも、そのパフォーマンスが算定される時間軸を18年や30年ではなく8年や13年の比較的短い納期で見るとき、当然のようには「障害者が暮らしやすい国は健常者を含むみんなにとっていい国だ」とは言えないと私は考えるのです。

次に、(乙)現在(所謂「ガラスの天井」現象を含め)日本社会の指導的地位に占める女性の割合が30%どころではない低い水準にあり、現在の状況が続いてもその比率は「単純に再生産」されるに止まるだろうと予測されるとしても、その数値を「法律-政策」によって人為的かつ積極的に改善する権限、そのような「積極的な政策的措置=アファーマティブアクション」を、しかも、民間企業に対しても課す権限を現行憲法が政府に認めているとは解せないのです。

アメリカにおいてもアファーマティブアクションを正当化する憲法解釈は、すなわち、1960年代後半から1980年代初頭にかけて猖獗を極めた「公民権運動を擁護する一連の連邦最高裁判決」も現在では大幅に修正されるに至っており、加之、これら一群の「恣意的な連邦最高裁諸判決」がその主張を補強するために弄んだ「ステーッアクション=民間企業の行動も、その民間企業が連邦政府あるいは州政府から補助金を受け、若しくは、その当該企業の売り上げや仕入れのかなりの部分が連邦政府あるいは州政府との取引が占めている等の場合には、公的な色彩を帯び、よって、憲法の人権規定の制約に服する」という法理が、元来、連邦制の調整原理(連邦政府と州政府との権限の調整原理)として発展してきたアメリカ憲法史を紐解くとき、天壌無窮、皇孫統べる豊葦原瑞穂之国の我が国の憲法解釈とは土台(無関係とまでは言わないけれど)異質なものであることは自明であろうと思うのです。


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第三に、(丙)女性の社会進出という表層ではなく、「社会の指導的地位に占める女性の割合」を見た場合、1989年-1991年まで存在した所謂「社会主義諸国」とこの数値は社会学的には無関係と言える。

例えば、旧ソ連では、民事・刑事の裁判官に占める女性の比率、あるいは、考古学や博物学や数学に占める女性研究者の比率は極めて高かったとされる。それはなぜか? それは健全な野心のある才能豊かな男性の法律家や研究者は共産党内部の「出世=社会階層移動」に有利な道に進むのに対して「ガラスの天井」どころか「鉄の天井」によってそのような社会的影響力を帯びうる道に進めない有為の女性は比較的地味な職域である民事・刑事の裁判官、若しくは、研究者の道に進まざるを得なかったからと言われています。

他方、労働による生産と労働力の再生産の性差分業を批判した(マルクスおよび)エンゲルスを嚆矢とするマルクス主義からのフェミニズムは、しかし、(上野千鶴子『家父長制と資本制』(岩波書店・1990年)がその鼎立の様子をビビッドにデッサンしているのですが、)これまた1960年代から1980年代にかけての、モダン思想からの男女同権論・マルクス主義からのフェミニズム・マルクス主義フェミニズムの巴論戦において明らかにされた如く基本的には、資本主義社会における性差分業の不正義は、生産と分配の不正義が解決されれば自ずと解消される類の派生的問題にすぎないと牧歌的に考えていたであろうこと。

要は、社会思想史における言葉の正確な意味でのマルクス以降の「社会主義-共産主義」と「日本社会の指導的地位に占める女性の割合を30%以上にする」という主張は無関係であると言えると思います。畢竟、「朝日新聞の主張と逆のことをやれば日本はまず間違いはない」という<歴史法則>ほどではないにせよ、「左翼・リベラル派の主張と逆のことを唱えれば保守派はまず間違うことはない」という<経験則>が一定程度正しいとしても、「日本社会の指導的地位に占める女性の割合を30%以上にする」という主張自体は左翼・リベラル派の専売特許ではないかもしれないのです。


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これら(甲)~(丙)の三者を前提にするとき、この自民党の新方針を巡って熟慮すべき、
保守主義にとっての問題は徹頭徹尾、

(ⅰ)人材と人員の適材適所的配置による社会的価値創造のパフォーマンスの向上、および、
(ⅱ)人材と人員の適材適所的配置をよりよく改めることによるこの社会に対する信頼感の維持向上のためにこの新方針が「黒猫にせよ白猫にせよネズミを捕る良い猫」でであるかどうかであろう。

而して、(ⅲ)これら(ⅰ)(ⅱ)を具現する上では(逆に言えば「何をもって適材であり何をもって適所であるかを定める基準」として)短期的ではなく少なくとも三世代に亘る生活と生活スタイルの安定が考慮されるべきであり、加之、(ⅳ)その生活と生活スタイルとは各人にとって伝統と文化の結節点である<故郷>や<地元>という共同体、および、日本の文化伝統という<政治的神話>との親和性が極めて重要でないはずはない。


と、そう私は考えます。要は、「男女の性差やジェンダーによる社会的役割分担」の存在は、それが存在すること自体別にアプリオリに否定され批判されるべきものではないということです。その妥当性はあくまでも上記(ⅰ)~(ⅳ)の観点から比較衡量の手続きによって、かつ、時代時代の状況を睨んで確定されるしかないとも。これらを鑑みるに、再度記せば、私はこの自民党の方針案に対して「総論賛成-各論の賛否保留」なのです。

なぜならば、(a)「産む性」と「産まない性」の性差を見据えた場合でさえ、農業・製造業を含めすべての産業が、ある意味、情報化産業化しつつある現在の日本の社会において生産と再生産の分業の分断ラインも変動せざるを得ず、これまで性差に起因するとされてきた事柄のある部分がジェンダーにすぎないとされる余地は、少なくとも、一般論としては否定できないから。

このことは、30年近く前のアメリカを訪れた日本人の少なからずが衝撃を受けた性差分断線の彼我の違いが(例えば、当時、日本ではトラックやタクシードライバーくらいしかなかった「男の職種への女性の進出」が、道路工事や屋外電線工事や軍の下級兵士に至るまで、しかも、アフリカ系のみならずコケージアンの多くの女性が担っていた事実が)、2012年現在の日本では普通の風景になったことを想起すれば思い半ばにすぎるのではないでしょうか。

而して、(b)量は質に転化する。蓋し、「日本社会の指導的地位に占める女性の割合を30%以上にする」という方針が、例えば、「日本社会の指導的地位に占める女性の割合を50%にする」というものであれば、それは性差と現代においても妥当なジェンダーを看過した支那の「文化大革命」なみの暴論であるにせよ、(もっとも、では「なぜ25%ではなく33%でもなく30%なのか」という点に関しては、誰も正解は持ち得ない事柄でしょうけれども)「日本社会の指導的地位に占める女性の割合を30%以上にする」という目標設定は上記(ⅰ)~(ⅳ)を鑑みるに保守主義から見てもまずまず妥当なものではないかと私は考えるのです。

要は、「ガラスの天井」(あるいは、「絹の天井」とも呼ぶべき日本的な制約)によって少なからず封じられている女性の社会的活動の現状は、2012年の現在のこの社会において「社会的に妥当な生産と再生産の性差分業-社会的に妥当なジェンダーの規範内容に補強された性差役割分配」であるとは上記(ⅰ)~(ⅳ)を鑑みるに保守主義から見ても言えないの、鴨。

つまり、優秀で有為の女性を排除することによってアホでさもしい菅直人氏の如き男性が「日本社会の指導的地位」を占める弊害は打破されなければならない。なにより、我が国は天照大神・神功皇后・推古天皇・持統天皇以来、実は<女でもってきた国>なのでしょうから。


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けれども、(c)冒頭に書き記した如く、①「日本社会の指導的地位に占める女性の割合を30%以上にする」ことを国会の立法と行政指導によって実現すること。就中、②その納期を「2020年まで」とすることには私は危惧を覚える。

なぜならば、①'前者は現行憲法違反の可能性を払拭できないからであり、②'後者に関しては、例えば、官公庁や大企業や政党はよいとして、中小企業およびベンチャーに対しては(女性を指導的な立場に抜擢するという美辞麗句によって従業員の賃金を引き下げる等の容易に考えられる弊害はまだ可愛い(?)マイナスの副産物としても)採用コストを含む人件費の不確定化、否、適材適所の人材のミスマッチに起因するジョブマーケットにおける枯渇、労働力の更なる流動化の昂進にともなう労使双方の経営と生活の不安定化を予想するからです。

要は、この自民党の新方針の提言は保守主義と矛盾するものではないけれど、それを2020年までに、かつ、民間企業にまで射程に入れて具現しようということは「拙速」「杜撰」「妄想」の6文字ではなかろうか。ならば、2020年までに実現するのは「政党助成金を受け取る政党と官公庁」に止め、民間企業に関してはその総論を具現すべき施策各論はゼロベースから再考するべきであろう。と、そう私は考えます。

尚、マルクス主義フェミニズムがこれまた「はめ手」の類にすぎない経緯については
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・完全攻略夫婦別姓論要綱-マルクス主義フェミニズムの構造と射程
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139315810.html

・妻の姓名乗る「女姓婚」増加、あるいは、「専業主婦」減少の意味
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139303896.html

・「左翼」の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11148165149.html


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昔、アラブの偉いお坊さんが、じゃなかった。昔、東京大学の偉い憲法の先生が「その出版物が猥褻物かどうかを基準にして、業界団体の自主規制や行政の指導、ならびに、警察の取締りが違憲か合憲かを区別するなどというのは論外だ! なぜなら、最大の(?)「猥褻物」は、男にとっての女であり、女にとっての男だからだ」とおっしゃいました。彼と私の憲法理解のスタンスはかなり異なっているけれど、昔から私は結構この大先生好きです。そう、護憲を掲げる憲法9条のなんたらの会のメンバーでもある奥平康弘氏。

私はAVの存在自体には反対ではないですがAVの販売規制には賛成です。昨今の少年犯罪の数と質を見るにつけ、あるいは、人身売買の横行(特に10歳未満の少女や少年をビデオ撮影するために国内外で行われる人身売買の現状)を聞くにつけAV規制やむなしの感を最近一層深くしています。まさか、パブロフの犬じゃあるまいに、AVを規制すれば少年犯罪や性犯罪が減少するとは思いませんけれど、性規範のありようを社会として示すことは必要だと思うから。


他方、AVや風俗産業に関しては(あるいは、企業の受付嬢や女性のフライトアテンダント等々に関しても)それは「性」を商品化するものであり許されないという批判があります。

曰く、AVや風俗産業に顕著な「女性性」に商品価値を持たせることにより、資本による女性の人格の分解と「女性性」の収奪(本来、分解できない一体である「女」から「女性性」を分離してその分離したものに「値札」をつけること)は人間の本性に反する歪な現象に他ならない、と。


その職業(prostitution)が「人類最古の職業:the oldest profession」と呼ばれてきたこととこの認識は些か矛盾するとも感じられるものの、この昔懐かしい70年代後半から90年代前半にかけてのフェミニズムから(というか今では「古語」になってしまいましたが「ウーマンリブ」の立場から)の批判は現在でも充分成立するとは思います。けれども、本稿ではこの古典的論点への言及はせず、事象としての日本におけるAVの歴史を素描するにとどめます。上記の古典的批判の妥当性を考える上でも「文化史的な現象としてのAVそのもの」をよく理解することが遠回りに見えても有効な手であろうと思うからです(尚、この「女性性」の商品化に対する私の考えについては、「書評」記事ですが取りあえず下記拙稿をご参照ください)。

・書評☆都立水商!
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11140899581.html


更に、ブログ運営会社のスタッフの方を含め皆様に対して、もう一つ前置きを追加。それは、本稿は取り上げているテーマといい内容や記述も「女性の読者」には、ある種の不愉快さを与えかねないものであることは認識しているということです。けれども、このイシューは日本の教育なり家族のあり方、否、日本のみならず大なり小なり先進国に共通して見られる、例えば「Enjo Kosai:compensated dating」の問題、加之、晩婚化や少子化の問題を考える上で、結局は避けてはいられないテーマではないか。本エントリー記事はそういう問題意識からアップロードするものであることはご理解いただきたいと思います。


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それにしても、いったいAVとは何なのでしょうか? 

以下、このことを考えてみます。

先ずは「歴史」のお話しから。


そもそも、性行為が映像作品の中に収録されているもの。所謂「本番映像」というのは昔からありました。しかし、それらは極めてマイナーで日陰の作品でしかなかった(だからこそ、それ自体「古語」の範疇に入った「ブルーフイルム」というものが、洋の東西を問わず制作され、個別日本では、そう、ビデオやDVDやネットでの動画配信が普及する前の時代には温泉旅館やなんやらの非日常の時空間では、その類の8ミリフイルムが男性客に喜ばれていたのでしょうから)。

本番映像は昔からあった。けれど、
それは表の世界、日常の世界にそれが座るべき場を持ってはいなかった。


而して、この経緯は日本だけでなく実は欧米でも第二次世界大戦終了後しばらくはそうだったのです。また、蛇足ながら、本当は「本番」を物理的にしていた作品は日活・東映でも少なからずあったのですが、もちろん、「本番」と銘打って上映されてはいませんでした。日本では1970年代半ばに、愛染恭子さん主演の『白昼夢』がメジャー作品では最初の「本番作品」だったと記憶しています。


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それから幾星霜。時代は今から30年前の1980年代。1980年代に入ると、建前にせよ性行為そのものではなくストーリーを<堪能>や<鑑賞>するための作品ではなく、ずばり性行為を<鑑賞>や<観察>するための作品が登場しました。而して、その次は「こんな可愛い娘がアダルトビデオに出るの」路線や「こんな普通の娘(?)がビデオに出るの」路線(笑)に続いて行く。

しかし、1980年代も末に差し掛かると、それらの路線も壁に当たる。要は、それらは素人のそのまんまの姿を撮影記録しただけのものであり、現実の中高生の性意識にAVの表現水準が逆に追い越されたというのが実情でしょう。1980年代前半にすでに投稿SM雑誌に掲載されていた屋外での淫靡猥褻かつ冒険的で小気味よいほど実験的な行為が、ごく普通の若者の、これまたごく普通の日常の所作になっていったのもちょうどこの頃の現象だったと思います。蓋し、日常的なものを高い金を出してわざわざ買う人は少ないという当たり前の状況が起こったということです。

この時、今に至るAV界の思想水準(「何を顧客に提供したいの?」「それは今までのものとどう違うの?」に対するAV業界からの解答の水準)につながる作品が登場します。その象徴が、例えば、黒木香さんと菊池エリさん松本コンチータさん。それはつまり、「完全に男性の性欲の対象として女性を描ききってみよう」というシンプルな主張を映像化したものだったと思います。

而して、このブレークスルーとは、女性の物象化であり、換言すれば、交換可能で消費可能な記号としての女性という、AVとAV女優の再定義が打ち出されたと言えるかもしれません。現在に続く、援助交際がごく特殊な<不良少女>の特権ではなくなり、ごく普通の中高生に広がりだしたこととこの路線、および、その路線から生まれた諸作品は(共犯関係とまでは言わないけれど)明らかに相関関係はあると私は思っています。蓋し、それは「compensated dating-service」の供給側と需要側の双方の性と家族を巡る規範意識の変化について言えることであるとも。

★註:女子高校生の性交経験率の推移
財団法人日本性教育協会の『青少年性行動調査』によれば、女子高校生の性交経験率は、例えば、1993年-1999年-2005年の時期に、16%-24%-30%に達したとのこと。教育界では有名な「定点測定データ」である、東京都の高校教員有志による同様の調査結果も勘案して推測するに、この数値は2010年時点では間違いなく33.33%(要は、3人に一人)を越えているものと思われます。

尚、注意すべきは、(a)この数値や数値の変化率に都会と地方とではそれほど大きな差は見られないこと、(b)実は、統計データなど望むべきもない時代のことですが、室町時代や江戸時代とは言わず、明治中期と比べて、例えば、同じ「満17歳の未婚女性」を比較した場合、現在の2010年の数値が必ずしも高いとは言えないだろうということです。

傍証を一つ。「愛人バンク」として1980年代前半の世の耳目を集めた「夕暮れ族」(吉行淳之介の『夕暮れまで』(1978年)に登場した中年男性と若い女性のカップルからきたネーミングとか、)が解消したのは、当該『夕暮れ族』の発起人・筒見待子氏の1983年の摘発逮捕を契機にしていますが、それもまた、1985年前後にそんな事柄が<前衛的な人々>の間では、「際物=ある企業の特定のサービス」でなく普通に世の中に拡散したことの裏面、鴨。ちょうどその頃、韓国でも「レモン族」とかのこれとパラレルな事象が問題になったとかならなかったとか。で、それから5年後の1990年前後・・・。

そう思えば、赤川次郎さんの「三毛猫ホームズ」シリーズで、同じく「学生の売春」を舞台装置に取り入れていても、「ホームズ嬢」のデビュー作、『推理』(1978年4月)、『犯罪学講座』(1991年5月)は「女子大生」が、そして、『四捨五入』(1997年12月)では「女子高生」がそのプレーヤーであることはこの間の、1990年前後に、中高生の意識の変化というか断絶を赤川さんが感じたのが遠因、鴨。と、そう私は考えなくもないです。

蛇足ながら、赤川さんの『死者の学園祭』(1977年6月)では<性交渉>は主人公の高校生活には表だっては現れない。また、作家としての赤川さんのデビュー作にして「幽霊シリーズ」の巻頭を飾る『幽霊列車』(1976年)以来、ヒロインの女子大生と相棒である中年の警視庁の刑事の関係は、あくまでも、「恋人関係」であり「不倫関係」、すまり、「愛人関係」ではない。この人物設定もまた、今から見れば今一つ「小説にしてはおとなしい関係」のようでもあり、それも時代性のなせる技なの、鴨。


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90年代半ばから2000年にかけてこの路線から現在に続く、①所謂企画ものと、②AV女優の実際の経歴と個性を売り物にした作品、あるいは、③それらが併用されるAVのパラダイムが生じ確立しました。顔射ものスカトロもの縛りもの、不倫ものレイプもの熟女ものロリータものナンパもの「彼氏の前で」ものが前者であり、後者の代表としては、ある意味、日本的な私小説の伝統に近い幾つかの女優さんの作品を通過して、桜木ルイさん白石ひとみさん朝岡実麗さん、あいだももさん小林ひとみさん田村香織さん、光月夜也さん日吉亜衣さん東清美さん、そして、金沢文子さん桃瀬くららさん夕樹舞子さんなんかがこの時代を代表していると思います。

では、その90年代半ば以降、この15年で何が変わったのか? これは難しい問題。しかし、思うにAVの世界と世間の性意識の境界が完全に融解し消滅したというのがポイントだと思います。要は、性的なものが持ついかがわしくも艶っぽいインパクトがAVからなくなり、料理やゴルフのレッスンビデオ、あるいは、PCスキルやビジネススキル習得ものやスポーツもののビデオとAVのとのカテゴリーの差やジャンルの差、よって、<迫力の差>が徐々になくなったのではないかということです。

要は、奥平さんが喝破された如くと言うべきでしょうか。AV女優と普通の女子高生の、「女性性」の商品価値に関する社会的な差異は消滅した。土台、AV女優とは「普通の女の子」がAVというシステムに組み込まれることで「AV女優」という相対的に特殊な、繰り返しますが、社会的に「普通の女の子」にはない商品価値が付与された存在になったものであったのでしょう。畢竟、あるシステムを通過することによる社会的な意味と価値の変化と付与というこの経緯は「AV女優」と「AKB」において何の違いもなかった。

而して、現在、AKB48を「AKB48」にしているシステムはまだまだ健在であるのに対して、AV女優を「AV女優」にするシステムは、「普通の女の子」の女性性の社会的な扱われ方の変容にともない機能停止状態になりつつあるの、鴨。と、そう私は考えます。

2010年代に入った今、現在のAVは二流アイドルのコンサートビデオとなんら変わらない。唄っているか性行為しているかだけの違いしかない。そこでは消費者は自分の好みにあった女優さんと好みのプレーというX軸とY軸のマトリックスに基づいて購入する商品を選ぶだけであり、正に、AVを消費する者にすぎない。逆に、AVはごく普通の企業のごく普通の商材になり、AV業界はインダストリーとして確立したとも。そう私は感じるのです。

2000年代半ば、群星の如く輝いた、例えば、小泉キラリくん、小澤マリアくん、早坂ひとみくん、及川奈央くん、夏目ナナくんなどは10年といわずその5年前であれば<記憶に残る作品>を演じる才能のあるAV女優さんだと思うのですが、最早、彼女達も本当に消費財の原材料でしかなかったと思います。

そして、その後の女優さん達に至っては「名前」を覚える必要もないくらい。そう、例えば、マックやマクドで食する毎回のビックマックや吉野家の牛鮭定食に、「Nao.」とか「Rin.」とか「Rio」、「桜田さくら」や「優木ルナ」や「由愛可奈」などと「名前」がついていないのとパラレルに、「黒木麻衣」とか「片桐えりりか」とか「桜花えり」、「白咲舞」や「笠木忍」や「そらのゆめ」など、2000年代後半以降のAV女優さんの<名前>は商品番号や伝票番号の類にすぎないの、鴨。


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而して、この世間の日常の生活や意識とAVの描く映像世界との境界の消失や揺らぎという現象は、ある種際物のAVだけではなくTVドラマや小説にも言えることかもしれません。もし、この私の推測が満更間違いではないとするならば、そうなった状況下では、「AV」という範疇は(ということは「TVドラマ」や「小説」という範疇も!)、最早、現前の現象を考える上であまり有効な指標や情報ではなくなるでしょう。蓋し、そこでは、<個性差>や<迫力差>がなくなるに伴いカテゴリーの差異も消失し、結局、便宜的に僅かばかりのジャンルの差異だけが残るようになったということでしょうから。

畢竟、どのような意味でも見る者に、最早、(「嫌悪」や「軽蔑」の感情を含め)<感動>を与える作品ではなくなったAVは、単なる情報媒体として<女性を性行為の対象と看做す視点>を社会的に、つまり、ビジネス的に再生産していくものにすぎなくなる。他方、カテゴリーとしての独立にあくまでもこだわるAVはそれはそれで端的に違法なロリータものや暴力ものに移行していった。而して、後者は、もちろん、完全な犯罪であり論外ではありますが、社会に与える実害は前者の方が大きいし根が深いのかもしれません。それは性規範どころか性と家族を巡る法規範の効力をも掘り崩してしまいかねないからです。

AVはその歴史の最初から前者の性質や機能を間違いなく持っていたのでしょうが、個々の作品の<個性>通してそれ以外のメッセージも10年近く前までは発信していたと思います。而して、そのようなメッセージ性や<個性>をなくしたAVは<女性を性行為の対象と看做す視点>を供給するだけの、料理教室的の映像コンテンツとパラレルな情報媒体にすぎなくなるのは当然でしょう。

AVというカテゴリーの消滅、すなわち、AV映像内的の行為の日常化が社会の性規範の融解の原因なのか、逆に、この社会の性規範や性意識の変容がAVという映像作品カテゴリーの消滅の原因なのか。このどちらが原因でどちらが結果かという難しい話は置いておくとしても、いずれにせよ迷惑な話です。AVというカテゴリーの消滅と崩壊が社会規範の融解や崩壊と同時に起こっているということになるのですから。

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アメリカでは、一流のモデルを目指す野心ある女性がスキンマグ系のビデオ(日本で言うAV)に出ることはあるけれど、一流の映画女優を目指す女性はあんまりAVには出ません。そう言われています。けれども、誤解なきように。一流の映画女優を目指す女性も一流の映画女優の方も、彼女達は遠慮なく躊躇なく映像の中で「本番」していますよ! 

では、「アメリカの映画女優」さんの事例でもって何を私は言いたいのか。それは、つまり、AVというカテゴリーが消滅する以前から、AVというジャンルは本格的な演技を盛るには窮屈すぎたのではなかったかということ。だから、演技力が(「不要」とまで不遜なことは言いませんが、)女優に比べれば比較的にはそれほど重要ではないモデルを目指す、モデルの卵がスキンマグに登場することがあるのに対して女優の卵はそのスキンマグという<舞台>を選ぶ傾向が乏しいのではないか、とも。

而して、もしそう言えるのならば、逆に言えば、本当のストリーテリングの力を持った監督とそのストーリーを演じる資質を持った女優が登場しない限り、これからAVはジャンルとしてさえ生き残ることはできないのかもしれません。そして、そのようにジャンルとしてさえ他と識別できなくなるAVを「AV」というカテゴリーに含めて理解する意味は全くないことは自明でしょう。

蓋し、AVのインダストリーとしての確立は、AV作品の<個性>やメッセージの喪失、換言すれば、スト-リー性の喪失という代償を支払った上で初めて可能になった。けれども、<個性>と<思想>を備えている作品という意味で芸術作品ではなくなったAV作品はAVの描く映像の世界を完全に日常的の存在にしてしまうだろうし、それはvice versaでもあるでしょう。而して、その「歴史段階」においては、AVのインダストリーとしての確立はAVの非AV化の原因としてのみ作用する。些か『春秋』の筆法になりますが、現下のカテゴリーとしてのAVの消滅の趨勢はAVの成功の結果なの、鴨。

畢竟、今の大学生の皆さんとかには信じられないことでしょうが、かって、昭和も50年代の(~1985年より前の)この社会では、例えば、直木賞や芥川賞の発表は一大ニュースでした。それは、たとえば、比較的小規模の内閣改造に際しての新閣僚名簿の発表などよりも遙かに世間が注目した情報だったと思います。昔から文学に縁の薄い私でもそこ数年間の芥川賞作家の名前くらいは覚えていたくらいですもの。しかし、現在ではおそらくそうではない。

蓋し、それは直木賞・芥川賞の権威が低下したということでしょうが、その底流には「小説」、否、「文学」自体の社会的の影響力の衰微があるに違いない。而して、この経緯は、小説の作品世界が現実の世界に追い越され、現実と小説の世界が地続きになったことを意味しているのではないか。

実際、真面目な話、2010年代の現在では、単なる「娯楽=暇潰し」のネタとしてはもちろん、この社会の有り様やその社会で生きる人間の実存に思いを馳せる<補助輪>や<補助線>としても、桐野夏生(1997年下半期・直木賞受賞候, 1999年上半期・直木賞)、赤川次郎(1980年上半期・直木賞受賞候)、阿刀田高(1979年上半期・直木賞)の三氏等のものを除けば、芥川賞・直木賞の候補作品や受賞作品よりも、普通の推理小説や歴史小説、あるいは、SFやパスティーシュの方が遙かに参考になる。更に言えば、それら参考になる希な文学作品よりもマンガやアニメ作品の方が数段参考になるのではないかと思います。

そして、問題は(マンガ好きの私にとって、本当に「大問題」なのですけれども)、そのマンガやアニメ作品さえも、諸星大二郎・西岸良平・森雅之・川原泉・岡崎二郎といった世代の作品群を最後に、この社会とこの社会に生きる人間の実存を反芻する縁になる作品が急激に乏しくなりつつあると感じられることです(涙)。而して、その原因は、AVが、最早、「AV」としては存在しなくなっている現下の状況、すなわち、AV女優が「AV女優」としてはその存在を規定することができなくなりつつある現在の状況の背景にあるものとパラレルなの、鴨。

ならば、最早、AVが「AV」として存在しなくなるだろう極めて近い将来において、(現在ではまだ「AV」と呼ばれている諸作品の送り手を含む)日本の映像コンテンツ制作業界の人々に求められている資質は、これまた、小説やマンガの業界で求められているものと同じなのだと私は考えます。それは、読む者や見る者に対して感動を与え得る技量と情熱、すなわち、人をして感動させる作品を<豊饒なる虚構のストーリ>の上につくる才能と技術と野心であろう。

と、そう私は考えます。


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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




◆妻の姓名乗る「女姓婚」増加 “主夫”願望、男性の経済力低下

結婚して女性の姓を名乗るカップルがゆるやかに増えている。名付けて「女姓婚」。男性の経済力の低下と“主夫”願望、女性の結婚後も姓を変えずに働きたいという両者の理由が背景にある。社会学の研究者からは「格差社会や少子化を打開する妙薬となるのでは」と注目を集めている。

夫婦は同じ姓を名乗ることが民法で定められている。「女姓婚」は女性側の親との養子縁組を前提とする従来の「婿養子」とは異なり、婚姻届の夫婦の氏欄で「妻の氏」を選択するだけで実現する。

神戸市で仲人業を営み、著書『女姓婚のススメ』がある伊達蝶江子さん(48)の相談所ではここ1年ほどで10件を成婚させた。問い合わせ件数も増えているという。

厚生労働省によると、昭和50(1975)年に結婚した夫婦のうち女性の姓を選択したのは約1.2%。平成12(2000)年は約3%、22(2010)年は約3.7%と、ゆるやかながら増えている。このデータには婿養子も含まれるが、伊達さんは「女性婚」という選択は確実に増えているという。

なぜ「女姓婚」なのか。メリットとして女性は旧姓のまま仕事が続けられ、夫の家に嫁いでからの嫁姑問題が回避できる。男性は、女性を養うという義務感から解放され、低所得でも結婚へのハードルが下がる。女性主導のため、いわゆる「草食系男子」でも結婚しやすいという。

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伊達さんは「2008年のリーマンショックから、男性の経済力の落ち込みがますます厳しくなった。男性が女性を養う“男のかい性”はもはや幻想になった」と分析する。

実際、内閣府の一昨年の調査で、年収300万円未満の20~30代男性で結婚しているのは約9%だが、300~400万円になると20代は約26%、30代は約27%と増加。30代男性は年収に応じて結婚率が上がり、20代男性は400~600万円だと40%近くが既婚だ。

伊達さんは、「最近、名前が変わると仕事に影響すると心配していた女性医師が、『女姓婚』をして結婚と仕事の両立を手にいれた。相手の男性も旧来の固定観念から解き放たれ、お互いが幸せになっている。今、『女姓婚』は互いに自立し、家庭を作りたい男女に受け入れられている」と話している。

京大大学院の落合恵美子教授(家族社会学)の話 「庶民に姓がなかった江戸期も、姓を持った明治以降も、男性の1割は跡取りのいない妻方の家に入っていた。その後、勤め人の増加などで、夫の姓を名乗る結婚が当たり前になったが元に戻っただけとも言える。『女姓婚』は男性の経済力の低下や男女平等の価値観のもとで仕事や家事、育児を分担するライフスタイルの反映でもあり、少子化と格差社会脱出の妙薬となるのではないか」

(産経msnニュース:2012.1.7 14:45)



 http://sankei.jp.msn.com/life/news/120107/trd12010714460009-n1.htm


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所謂「女姓婚」の漸増は、これまた所謂「専業主婦」の漸減の裏面ではないでしょうか。而して、

①元来、「姓」は「kabane」であり、蘇我大臣や物部大連の「臣/連」の如く「カーストの標記:出自に起因する社会的に期待される役割の標識」であったが、漸次それは「姓=sei」となり、単に彼や彼女が所属する氏族を識別する標識の「氏名=ujina」となって行った。更には、自称にせよ「徳川家康≒新田家康=源家康」とされる如く、ある氏族の中の連枝・分派を表す(要は、その分派の根拠地・創業地という、文字通り、地名である)「苗字」に、もって、最後的には「家制度」の確立に伴い<家>の名前である「名字」の意味に変遷したこと

加之、②江戸時代は公家・武家以外の庶民(?)は、村名主等々の特に許されたごく一部の例外を除き「名字帯刀」が禁止されたとされるのは、「名字を名乗ること/刀を公の席で帯びること」が抑制される建前になっただけのことで、それは江戸期にこの社会の人口の少なくとも80%を占めた<農工商>の庶民が「姓:氏名・苗字・名字」を喪失したわけではないこと(例えば、上州新田郡三日月村の農家出身の無宿・木枯らし紋次郎は帯刀して股旅していたのですが(笑)、ちなみに、紋次郎さんが生きていた頃の、関東の街道筋は五街道が「道中奉行≒国土交通大臣」の、その支道が「勘定奉行≒財務大臣」の管轄下に置かれていたのであり、紋次郎さんは紛う方なき「公的空間」を帯刀しつつ旅していたのです!)

並びに、③夫婦別姓の制度は、白黒はっきり言えば(江戸中期以降の武家の家庭を除けば)明治以降の慣習であり、個別日本においては優れて<近代的に特殊>な事柄にすぎないこと。けれども、カレーライスや女子校生のセーラー服が、間違いなく現在の日本社会の伝統であるように、夫婦別姓も現在の日本の立派な/正式の伝統に他ならないこと


これら①~③は、最早、常識に属することであろうと思います。ならば、これら①~③を反芻するとき、蓋し、(実は、下記の()の認識は転記記事に登場する落合恵美子さんの先駆的業績なのですが、)この「漸増-漸減」の社会史的の背景もまた、

()栃木・群馬・山梨・佐賀も伝統的に「専業主婦」空白地帯というイメージもありますが、「近代日本A:江戸後期」の武家社会の文化が「近代日本B:明治・大正期」にかけて公家も含む一般の家庭にも流れ込む中で、他方、軍人を含む「勤め人」が庶民の間の<理想>的な職業となって行ったプロセスで「専業主婦」の概念が確立し、而して、戦後の高度経済成長期の中で<専業主婦>が社会層としても成立したこと

()「専業主婦」を必須のユニットとする家庭が日本社会で多数派を占めたことは、しかし、日本史上一回もないこと。現在は寧ろ「近代日本:A+B」に回帰しているとも言えること

()この潮流はマクロ的には(19世紀半ばから20世紀初頭にかけての)英米の近代的な家族の成立および変遷ともパラレルなこと

と言えるの、鴨。ちなみに、落合恵美子さんは、私が直接知る範囲で、現在の日本の社会科学系の<三大美人研究者>のお一人と私的に認定している方ですが(他は、恒吉僚子・東京大学大学院教育学研究科教授(比較教育社会学)と、落合さんと同じく京都大学大学院教授の高山佳奈子(刑法)さん!)、そんなことは取りあえずどうでもよいとして・・・。

蓋し、もし、上記()~()の理解がそう満更間違いではないとすれば、引用した産経msnが伝える日本社会の現下の変貌、加之、それを踏まえた「女性婚-専業主婦」の評価・分析には、(日本のみならず)近代の工業化した社会における、

(甲)家庭モデルの変遷
(乙)家事労働の貨幣価値の発生と変遷


の両軸の交点に問題を据える必要があるだろう。と、そう私は考えます。

ちなみに、後者(乙)の観点は、1970年代の欧米の「家事労働論争」(モダン・マルクス主義・ポストマルクス主義の三つ巴の論争;日本では、水田玉枝・教条主義的なマルクス経済研究者や共産党系の有象無象の論者・「江原由美子→上野千鶴子」を各々その<輸入総代理店格>とする鼎立)の、ある意味、<仲間内>でのみ通用する小難しい我田引水的言説よりも、例えば、アガサ・クリスティー『パディントン発4時50分』(1957)に登場する、現代社会における「家事労働力の不足」に着眼して大成功を収めるオックスフォード大卒のスーパー家政婦・ルーシー・アイレスバロウの活躍がより参考になる、鴨です。家政婦ミタではなくスーパー家政婦のルーシーですよ、為念。閑話休題。



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何を私は言いたいのか? 

それは、この「女性婚の漸増-専業主婦の漸減」の傾向をして、それを「女性宮家創設問題に飛び火しかねない問題」「女性婚は減少抑制すべき事象」と捉える、「女性宮家-女系天皇制」反対論者の一部に見られる認識と主張に対する異議申し立てです。

蓋し、「女性婚の増加→女性宮家の実現の可能性増大」といういう捉え方は正しいの、鴨。けれど、「女性宮家」を阻止するためにも「女性婚」もまた抑制されるべきであるし/抑制可能でもあるとは到底言えないだろうということ。

敷衍します。「女性婚の増加→女性宮家を容認する世論の拡大」という認識は正しいでしょう。しかし、「女性宮家を容認する世論の拡大の阻止→女性婚の抑制」という手段や施策は筋違いでもあり、何より到底不可能である、と。それは、一茶の「名月をとってくれろと泣く子かな」の寓話にも等しい主張であろうと。そう私は考えるのです。

蓋し、資本主義やグローバル化、ナショナリズムが<危険>であるからといって、あるいは、支那や韓国の存在が不愉快だからといって目を瞑ればそれらがなくなるとか、日本の国会で法律を定めれば、若しくは、日本の憲法を改正すればそれらの問題の重篤や存在の害毒を軽減できるということがおそらくないように、「女性宮家-女系天皇制」を阻止するための施策と「女性婚」を封じる施策とはおそらく位相を異にするだろうということです。


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畢竟、寧ろ、「女性婚漸増-専業主婦漸減」の現下の現実は、「女性宮家-女系天皇制」を阻止することが容易ではない/ならば、その阻止のための施策は更に練り直す必要があるという認識の契機であろうと思います。

パラドキシカルな物言いをさせていただければ、ゲーム理論を持ち出すまでもなく、もし、孫子の「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の箴言が洋の東西を問わず古今を問わず有効な箴言であるとすれば、「敵-己」のより正確な認識に誘うこの「女性婚漸増」の趨勢と情報は、寧ろ、「女性宮家-女系天皇制」反対の論者にとっては<天佑神助>でさえあろう、と。

保守主義からする「女性宮家-女系天皇制」肯定論を呼びかけている私としては(「余計な情報を漏らしてくれたわね」と些か苦虫を噛みつぶしながら)そう思っています。尚、保守主義からの弊ブログの「女性宮家-女系天皇制」肯定論3部作+総論については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

而して、全国の保守派の同志読者の皆様(あくまでもこの「女性宮家-女系天皇制」に関してですけれども、)よしんば主張の結論こそ違え、今後ともよろしくお願いいたします。そして、


б(≧◇≦)ノ ・・・日本のために共に微力を尽くさん!


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【保守主義からの女系天皇制肯定論-海馬之玄関ブログ三部作】

・「女性宮家」は女系天皇制導入の橋頭堡
 :「女性宮家創設をどう思う?」-私家版回答マニュアル
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60907124.html

・覚書★女系天皇制は<保守主義>と矛盾するものではない
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60896992.html

・女系天皇は憲法違反か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879735.html


【保守主義からの女系天皇制肯定論-総論】

・完全攻略夫婦別姓論要綱-マルクス主義フェミニズムの構造と射程
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59250899.html

・天皇制と国民主権は矛盾するか(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60944485.html

・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60899909.html

・覚書★保守主義と資本主義の結節点としての<郷里>(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60918924.html


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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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