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■ゆとり教育は砂上の楼閣
総合学習を含むゆとり教育路線は間違った前提の上に建てられていた。つまり、ゆとり教育路線は「砂上の楼閣」に過ぎなかった。私はそう思っています。最近の報道によれば、学校現場におられる教師の多くは「総合学習」に反対ということですが、それも当然と思うのです。

その間違った前提の一つが子供達の学業負担の認識。ゆとり教育路線に道を開いた中教審第1次答申『21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第1次答申)』(1996年7月)はこう述べていました。

「現在の子供たちは、(中略)学校での生活、塾や自宅での勉強にかなりの時間をとられ、睡眠時間が必ずしも十分でないなど、[ゆとり]のない忙しい生活を送っている」
、と。

2001年12月に発表された経済協力開発機構(OECD)による学習到達度調査(PISA)の結果、日本の15歳の生徒の「宿題や自分の勉強をする時間」が対象32か国中の最低を記録したことが明らかになりましたが、このOECDの調査結果を持つまでもなく、現行学習指導要領(2002年)の実施以前にも、東京大学(苅谷剛彦)や京都大学(竹内洋)の研究グループの手になる中高生の学校外での勉強時間調査や受験/浪人生活に対する意識調査は少なからず発表されていました。

それらを見る限り、文部省(現文部科学省)が言うほど、まして、日教組が宣伝するほど今の子供達は(実は、昔の子供達も)学業や受験のためにゆとりのない生活を送っているわけではないし、大多数の子供達は受験自体をポジティブに受け止めてきたことはほとんど確実なのです。

つまり、週5日制と総合学習を尖兵とするゆとり教育は実はそれほど勉強していなかった日本の子供達に、わざわざ「もっと(?)勉強しなくてもいいよ」というメッセージを与える政策だった。

ゆとり教育路線崩壊の最大の要因は学習意欲の想定外の低下でしょう。学習能力を情報把握・因子間の関連付け・体系的把握・記憶力と捉える場合、学力は、

学力=学習時間×集中力×学習者の学習能力


と規定できると思いますが、学習意欲の減退は、学習時間・集中力を通して学力の低下要因となるだけでなく学習能力をもダイレクトに低減させる。学齢と学期が進めば進むほど過去に学習した内容自体が学習能力の決定要因となるからです。学習意欲の低減はダイレクトに学習能力の低減を引き起こす。この仮説を敷衍します。

一般に、知識が多ければ多いほど人間は多様なことを考えることができる。例えば、7個の単語カードを使って造れる単語列を作るゲームを考えてみよう。7個のカードの並べ方は、7個のカードから1個取る場合、2個取って並べる場合、・・・、7個全部を並べる場合の合計13,699通り。では、現行学習指導要領によって学習内容が3割減される前の(笑)10個の単語カードではどうだったか。これも10個から1個取る場合、10個から2個取って並べる場合、・・・・、10個全部を並べる場合の合計となり、9,864,100通りです!

単に知識量が30%減らされただけで、その運用の可能性は99.86%近く減るのです。逆に、7個からたった3個覚える単語を増やしただけで、その運用の可能性は720倍以上に増える。もちろん、これは単なる算術的のお遊びに過ぎませんが、しかし、子供達にとって強いて勉めた努力(勉強)の量が算術的に増えるに従い、この世の森羅万象を自分の頭で理解できる可能性は幾何級数的に増えること;逆に、学習意欲の低減にともなう学習量の減少が、(次のステージでの)学習能力の低下に負のスパイラル効果を及ぼすこと、このことの可能性は提示できたのではないかと思います。


更に、定量的なトレーニングと学習意欲には緊密な関係がある。そして、これがゆとり教育を破綻させた三番目の間違った前提であると考えます。

ゆとり教育路線の中で計算をともなう定量的関係を体得する訓練の契機が大幅に削減されました。例えば、気圧と温度と容積の関係などは定性的な説明がなされた後は、単に、ボイルの法則の公式が紹介されているだけなのが現状です。しかし、計算という手を動かした作業によってこそ諸公式の意味は初めてリアリティーをもって理解され、気温や気圧や密度という概念を現実の森羅万象に適応できる応用力が身につくのではないでしょうか。そして、そのようなリアリティーが感じられない状態では学習しようという意欲はかなり制限されたものになることは確実。私はそう思うのです。

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■総合学習の蹉跌
総合学習は、各学校が学校や地域の実態を考慮に入れつつ主体的に計画するもので、現行学習指導要領は総合学習が取り扱うべき課題として、具体的に国際理解、情報、環境、福祉・健康の4個を例示しており、小学校中学年でも105時間、小学校高学年以上では110時間以上がこの総合学習に充てられています。

総合学習は、各教科で教えられるべき内容的な学力(学習内容)の向上ではなくて方法的な学力(学び方や学ぶ力)を育成するものと語られてきました。1996年の中教審第1次答申は総合学習導入の意図につきこう述べています。

子供たちに[生きる力]をはぐくんでいくためには、言うまでもなく、各教科、道徳、特別活動などのそれぞれの指導に当って様々な工夫をこらした活動を展開したり、各教科等の間の連携を図った指導を行うなど様々な試みを進めることが重要であるが、[生きる力]が全人的な力であるということを踏まえると、横断的・総合的な指導を一層推進し得るような新たな手だてを講じて、豊かに学習活動を展開していくことが極めて有効であると考えられる(第15期中央教育審議会『21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第1次答申)子供に[生きる力]と[ゆとり]を』第2部第1章第1節第5項)


教育行政の目的が国際競争力を持ちうる人的資源の育成でもあることを鑑みれば、現行学習指導要領が総合学習を導入した意図は明瞭だと思います。それは、変化が常態となる世界で生きていける日本人の育成であり、各教科の知識を現実の課題を解決することに使うことが不得手な人材をもってしては最早日本の国際競争力を維持向上させることは難しい、と。

このような意図と認識が総合学習の前提にあると私は考えていますが、それ自体は必ずしも間違いではなかったと思います。畢竟、総合学習の意図は正しいが、しかし、方法が稚拙だった、と。

私は総合学習の破綻の原因を以下の5個と考えています。

(1)教師側の条件の不備(人材育成と研修の準備不足)
(2)総合学習が前提とした子供達の能力の非現実性
(3)総合学習の効果を測定する具体的基準の不在
(4)教科横断的学習を普通教育で実施することの非現実性
(5)総合学習の理念と目的に関する意思一致が学校現場・教育現場と文部科学省および教職員組合や地域社会の間でなされなかったこと


総合学習に関しては「教科横断的で総合的な視点からの授業は実は今までも行われてきた」という指摘があります。その通りだと思います。英語の授業の副教材として時事問題を扱った英字新聞を使う。世界史の授業の際に数学史の話題を織り込む等々。「子供達に解りやすく知識を習得してもらおう」、「子供達が興味を持つような教え方をしよう」、「単なる知識の詰め込みではなく知識を実際に運用できるようになってもらおう」と考えるほどの教師であれば、大なり小なり教科横断的な教え方をしてきたに違いないからです。

けれども、総合的に学習することと総合学習は別物。ある熟練の教師が教科横断的に総合的に教えることと総合学習という箱(制度)を創り、その中で、知識を運用するスキルを身につけさせるべく教科横断的なテーマについて子供達に取り組ませることとは全く別のことなのです。

結論から先に書けば、私は、技術としての学力を総合的なテーマの中で子供達に身につけさせることは目的合理的ではないと思います。基礎学力が身についていない者に「総合的なテーマに体験的にアプローチせよ」と言うことは、2次方程式も解けない段階の者に偏微分方程式の応用問題を解けと言うよりも過酷で滑稽なことだからです。

また、総合学習の要点を教科横断的な学習を通した知識運用スキルの習得と捉えるとき、獲得されるべき能力もその到達すべき程度水準も具体的に提示されていない状況で、子供達に「個性を発揮せよ、主体的に取り組め」と言うことは不条理な要求そのものでしょう。

教科横断的な知識の運用ということならば、所謂学徒出陣も勤労奉仕も、アルバイトも援△交際も総合的な体験型学習なのです。しかし、それらが国際競争力を持つ人材を育成するための教育施策として効果的なプログラムであったとは恐らく言えない。何故か。それはアルバイトも援△交際も社会で生きていくために必要な技術を体系的かつ効率的に子供達に身につけさせるような<カリキュラム>にはなっていないから。

総合学習が導入される直前、総合学習に期待する声が新聞の投書欄をにぎわせましたが、私にはそれらは教育とは似て非なるsomethingを語るものにしか聞こえませんでした。往時を偲ぶために一つ紹介しておきましょう(2002年1月16日の朝日新聞東京本社版からの引用)。

●「化粧も音楽も」 主婦 OYさん (山梨県 33歳)
「総合学習」を、もっと自由な時間には出来ないのでしょうか。例えば「ロック音楽」に興味があれば、海外の曲を翻訳し演奏する。「化粧」に興味のある女の子なら化粧品の添加物や歴史、香水の調合に挑戦。「彼」のために栄養バランスのとれたボリューム弁当を考えてもいい。ゲーム好きならゲームのプログラミング。1年かけて発表会をしたら楽しめるでしょう。スポーツ好きの社会科の先生が体育の先生と共同で生徒と学ぶことだって出来るはず。先生も一緒に創造、そんな時間が持てたらすてきだと思うんですが。



寿司職人の技を身につけたいのならば寿司を握らせればよいというのは暴論です。ネタの目利きから、魚のさばき方、包丁の手入れの仕方等々の様々な個別の技術の総合として寿司職人の技はあり、個々の技術としての寿司職人の知識を、実際に、寿司を握るだけで総合的に素人が獲得することは不可能ではないにしても非効率であること甚だしい。

畢竟、何かの技術を身につけるためにはその何かをやらせればよいと考えるのは教育論とは無縁の精神論だと思います。実際、総合的に考える能力や体験的に考えるスキル(=問題を発見し問題を解決する方法とプランや手順を考える技術)をどれくらいの大人が身につけているというのでしょうか。例えば、アメリカのMBAやロースクールでもこのような能力の開発自体がプログラムの目的の一つになっていることを見てもわかるように、アメリカでも支那でもフランスでもドイツでもそのようなことができる者は労働力人口の多数派ではけしてないのです。

而して、普通教育における総合的学習は、「学校現場の主体性と子供達の自主性に委ねればゆとり教育はうまく行く」という噴飯ものの前提の上に建てられた空中楼閣的の教育施策であり、それが蹉跌をきたしたことは当然であった。ならば、その施策は速やかに撤回されるべきである。私はそう考えています。

ゆとり教育路線を推進した元文部官僚の寺脇研氏や朝日新聞はいまだに「ゆとり教育」というか「教育臨調路線」の失敗を認めていません。しかし、予備校現場で定点測定している者には、「東大オープン模試クラス」の同一問題で900点満点で東大合格ボーダーがこの10年で50点以上下がっていることは常識。ならば、東大・京大・医学部以外の受験生の学力状況は言うまでもないことでしょう。そして、この「勉強しなくとも志望校に合格できる状況」においても子供達に学習意欲を維持させるものは家庭の教育力なのでしょうが(塾・予備校に通わせられる経済力などはむしろMinor Factor)、誰が見ても家庭の教育力による階層分化が進行中の現在、日本の教育の再建の道筋楽観できるものいではないと言わざるをえません。

いずれにせよ、まず基礎基本を詰め込まれなければ応用などできはしない。ならば、教育再建のためにはこの認識が議論の前提とされるべきである。而して、教育改革が改善すべき核心は、(イ)詰め込むテクニックと(ロ)覚えさせるだけではなく応用する訓練を並行させるテクニック。あるいは、詰め込みをポジティブに捉えさせるセルフマネージメントのテクニックである。蓋し、この経緯は、音楽の修行でも(ピアノでもバイオリンでも)、ダンスでも囲碁・将棋でも、語学でも数学でも法学でも哲学でも歴史の学習でも同じことなのではないでしょうか。

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尚、ゆとり教育路線に関する私の基本的考えについては下記拙稿を参照いただければ嬉しいです。特に最初の2本は、かなり古いものなのですが、逆に、ゆとり教育路線と戦後民主主義による教育の破壊が孕んでいる普遍的な問題性を考える上で参考になるものと思っています。


・ゆとり教育路線の前提と誤算-戦後民主主義的な教育観の魔界転生を許すな!
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11182604980.html

・義務教育において教育改革の目指すもの
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/4c6963ebfaaf4ba1c0f7060d7f12873d   

・学力低下と教育力の偏倚低迷(上)(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11183617074.html


・所得と学力の相関関係と因果関係が投影する<格差論>の傲岸不遜
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11183555784.html

・教員の質☆「感情ではなくデータ」で語りましょう佐久間亜紀さん
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-299.html

・OECD諸国中最低水準の教育に対する日本の公財政支出は問題か
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11184560305.html




(2007年2月10日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 教育問題
ジャンル : 政治・経済

pearlharbour



今日、12月8日の真珠湾攻撃の日、朝日新聞の社説は強烈だった。「開戦の日 真珠湾だけではない」である。冒頭それはこう述べている。「真珠湾攻撃の印象があまりにも強烈だからだろう。太平洋戦争は64年前の今日、ハワイの真珠湾で口火が切られた、と思われている。 しかし、実際に戦端が開かれたのはこの奇襲の1時間ほど前、英領のマレー半島に日本軍が上陸した時だ」、と。

蓋し、大東亜戦争と言えば、真珠湾奇襲と東京大空襲、廣島・長崎の原爆に厚木基地に降り立ったマッカーサー元帥・・という<日米の戦い>を連想しかねない向きもなきにしもあらずの風潮に対する問題提起。それは、<亜細亜における戦争>としての大東亜戦争を読者に再度想起せしめるものであり、有意義な社説だと思った。

社説の構えは有意義であるが、しかし、その文章展開は荒唐無稽。老いた両親と義母の介護が現実的な課題になりつつある身としては、ある程度の覚悟を込めてこの言葉を使うのだけれども、今日の社説は論理展開と事実認識の双方において、ほとんど<痴呆症>ものの文章である。否、痴呆症(認知症)に苦しみながらも痴呆がもたらす<老・病・貧・相互理解の困難>と共存しつつ生きている痴呆症(認知症)の人々やその家族の姿と今日の朝日新聞の社説は似て非なるものかもしれない。

蓋し、朝日新聞の社説には<痴呆症/認知症>の自覚がない。また、その痴呆症的な言辞が絶対に正しいという傲岸不遜が社説の字句に込められている。その上(実はここまでは、あるタイプの痴呆症(認知症)患者に間々見られることではあるけれど)、彼等はその痴呆症的言辞を全国紙の社説に掲載して豪も恥じず憚りもしない。厚顔無恥と言えばそれまでだけれども、それが実行できるある種のパワーを未だに彼等が保持していることは確かである。

もちろん、今時、「大東亜戦争は日本だけが悪かった」と言わんばかりの主張などこの社会で受け入れられる余地も狭まっているだろうが、朝日新聞の<痴呆症>が一定程度<強者の痴呆症>であることは否定できないのではないか。即ち、彼等の荒唐無稽な社説の主張も繰り返されれば事実と看做される恐れがあり、なにより、痴呆症的な(認知症的な)言辞も繰り返されることによって、その主張を事実と考える市民が再生産される可能性は否定できないということ。これが(コメントするに値しない社説ではあるが)、今日の社説「開戦の日 真珠湾だけではない」について幾つか言及しようと考えた所以である。それは以下の3点である。


<1>中国の犠牲者は1千万人を上回る?

「日中戦争以来の日本の犠牲者は、軍民合わせて約300万人とされる。 むろん、日本だけではない。戦火にさらされたアジアの各地に深い傷跡を残した。中国の犠牲者は、日本人研究者の推計でも1千万人を上回る」(以上引用終了)

朝日新聞は「中国の犠牲者は、日本人研究者の推計でも1千万人を上回る」という記事の根拠を明記すべきである。それは、「国共内戦の犠牲者」を含んだ数字ではないのか? あるいは、ひょっとしたらそれは「大躍進や文化大革命の犠牲者」とか、「朝鮮戦争での犠牲者」を加えた数字ではないのか? まあ、確かに大躍進や文化大革命の犠牲者ということはないだろうけれど。なぜならば、「大躍進や文化大革命の犠牲者」は合わせて数億人と考えられているのだから(笑)。

いずれにせよ、「日本人研究者の推計でも」という表記はミスリーディングである。この11文字を普通に読めば誰しもが、「日本側ではこの推計値が通説であり、大方の日本人研究者はそう思っている」と受け取るだろう。しかし現状は、大躍進や文化大革命の犠牲者数の下限値とは異なり、日中戦争での中国側犠牲者数(国民党・共産党双方の犠牲者総数)については諸説乱立状態というのが偽らざる所であろう。ならば、朝日新聞の社説子はこの「日本人研究者」の名前を社説の中で明示すべきであったと私は考える。


<2>アジアの独立と解放に日本は貢献しなかった?

「「あの戦争のおかげでアジアの人々は植民地支配から脱したのだ」と、いまだに主張する人たちがいる。

戦争の初期にフィリピンやインドネシアなどで、一部に日本軍を「解放軍」として歓迎する動きがあったことは事実である。戦争が独立を早める結果をもたらした地域もある。

だが、現在は親日的とされるインドネシアですら、高校生向けの歴史教科書は「わが国を占領したことのある国の中で、日本はもっとも残酷だった」と記す。それが実態だった。都合のいい部分にだけ光を当てて戦争を正当化するような言動は、アジアの心ある人々を遠ざけるだけだろう」(以上引用終了)


朝日新聞の論理の破綻はここに極まっている。それは、ある立場からする窮屈な歴史認識の是非などという高尚な問題ではない。ここに引用したテクストの内部の意味空間だけで明らかになる類の論理の破綻である。即ち、それは、「現在は親日的とされるインドネシアですら、高校生向けの歴史教科書は「わが国を占領したことのある国の中で、日本はもっとも残酷だった」と記す」「あの戦争のおかげでアジアの人々は植民地支配から脱したのだ」との間には何の関連もないという実にシンプルなことである。

朝日新聞の社説子の頭の中では、
(イ)日本はアジア諸民族のためにいわば利他的に欧米と戦った
(ロ)日本の占領・進駐の実態は人権と民主主義と各民族の文化の独自性を尊重する、穏当で住民の支持を広く受けるものであった


という2者が確認されない限り、「あの戦争のおかげでアジアの人々は植民地支配から脱したのだ」とは言えないものと考えられているらしい。しかし、アジア諸民族の解放と独立に日露戦争が勇気を与え大東亜戦争は直接の因果関係を持つという認識は誰も否定できない事実であるだろう。実に、上記(イ)(ロ)などは歴史の認識に、朝日新聞が勝手に文芸評論の価値観というか美意識を持ち込んだものにすぎない。それは例えば、赤穂浪士の討ち入りが、実は、浪士各自の就職活動だとしたら<義挙>ではなくなると考えるような;歴史的な事実に参加した/参加せざるを得なかった人々の動機が不純ならば、その歴史的事実の歴史的価値が否定されるだけでなく、他の事実との因果関係も否定するような噴飯ものの言辞である。正に、痴呆症的/認知症的言辞はここに窮まっている。

痴呆症的言辞/認知症的言辞とは何か? 今それを、歴史や事実、ならびに、歴史を巡る理論や論理と無関係に自己にとって好ましいストリーを作り(それは、その好ましかるべきストリーと矛盾するような事実や論理を「忘れる」=「無視する」ことと同じである)、それに基づいて現実を再認識するものと捉える時、「アジアの独立と解放に日本は貢献しなかった」かのように主張する朝日新聞の社説は、誹謗中傷などではなく、正に、痴呆症的(認知症的)な思考と行動様式から紡ぎだされた言辞と言われるべきであろう。

<3>「歴史を正面」から見る/見ないの判定基準は?

「時はめぐり、いま東アジアに共同体を作る構想が持ち上がっている。そのパートナーはみな、あの戦争の苦しみを味わった隣人たちである。

シンガポールのリー・クアンユー元首相は開戦時、18歳の大学生だった。回顧録(日本経済新聞社)で日本についてこう書いている。「占領時代のつらい体験を持ち、日本人の特質に潜む恐ろしい一面を知りながら、それでもいま私は日本人を立派だと思う。日本人の持つ集団の結束力や規律正しさ、知性、勤勉さ。それらすべてが日本の力のもとになっている」

こうした思いに応えるためにも、歴史を正面から見つめ、過ちは過ちとして率直に認めなければならない。その基盤に立って共に未来を築きたい」(以上引用、引用文とも終了)


朝日新聞はこの引用箇所でも(その前後でも)、「歴史を正面から見つめ、過ちは過ちとして率直に認め」ることの具体的な内容を何も語ってはいない。今までの朝日新聞の主張から想像するに、<自虐史観的な歴史認識>を日本が採用しうる唯一の歴史認識と考えているのかもしれないが、この社説では何も語っていない。ウィトゲンシュタインは『論考』の中で、「語りえないものについて人は沈黙せねばならない」と記しているけれど、朝日新聞は「語るべきことについて沈黙している」かのようである。

一般的に「歴史を正面から見つめ、過ちは過ちとして率直に認めなければならない」と言われれば、反対する人はほとんどいないだろう。けれども、何をもって「歴史の正面」と捉えるのかはそう簡単ではない。ならばこそ、私は朝日新聞の社説子に彼等が考える「歴史の正面」のイメージを明示して欲しかった。そうしない以上、<1>歴史の事実を曖昧にし、<2>歴史認識における因果関係を無視した上で、この朝日新聞社説が書いたことは、「言葉が介在しなくとも意思疎通が可能なカルトコミュニティ」の中でしか通じない歴史文芸評論にすぎず、それは全国紙の社説に書くべき類の文章ではなかったと言われても仕方あるまい。今日の社説を「強烈だった」と評した所以である。

畢竟、何をもって、歴史の正面と捉えるのか、何をもって「過ち」と捉えるのかはそう簡単ではない。しかし、「帝国主義による植民地政策」は悪であり、その価値基準から遡及的に現状の旧帝国主義諸国と旧植民地諸国との関係を律すべきである(例えば、旧植民地である韓国からの首相靖国神社参拝の抗議を日本は無条件に受け入れるべきである)とか、他の西欧諸国の帝国主義的行動は許されるが、日本の帝国主義的な中国や東南アジアの支配は許されないものだなどという根拠の乏しい歴史の見方が「歴史を正面から見る」ものではないことだけは少なくとも確かであろう。正に、「開戦の日 真珠湾だけではない」のであって、<連合軍=解放軍=正義>の立場から、それに敗れた大東亜戦争前の日本を社会思想的にも総批判するような戦後民主主義からする偏った歴史の見方から我々は日本の近現代史を解放すべき時期に来ていることも確実であろう。歴史は正面から見なければならないのだろうから。私はそう考える。


(2005年12月8日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 朝日新聞
ジャンル : 政治・経済

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嘆くな朝日新聞! 中韓朝という特定アジアとの関係は今までが異常だったのであって、小泉政権になって正常化しているだけだよ。と、今日の社説「小泉外交 対話の扉が閉じていく」を読んだら、朝日新聞を元気づけてあげたくなった。それほど、今日の社説は朝日新聞の悲鳴のようにも感じられたからである。

リンカーン大統領はかってこう言った;「少数の人を長年にわたって騙すことや、多くの人々をごく短期間欺くことは可能だけれど、多くの人々を長年にわたって騙すことは誰にもできはしない」、と。朝日新聞が、首相の靖国神社参拝は違憲の疑いがあり、その取りやめを求める近隣諸国の意向を日本は尊重すべきだとか、それが世界外交の常識だとかどれほど繰り返そうとも、笛吹けど踊らずの喩えよろしく小泉外交への国民からの一定の支持がなくならない現状を見るにつけ私はこのリンカーン大統領の言葉を想起せざるをえない。

朝日新聞が社説で悲鳴をあげざるをえないような状況が広がりつつある。大東亜戦争後のこの国で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義が説き続けてきた、20世紀半ばまでの「帝国主義政策による植民地支配」を遡及的かつ道義的に批判するという<異常な歴史認識>や<非常識な国際関係認識>も、大東亜戦争後60年にしていよいよその荒唐無稽さが国民の目に明らかになってきたということか。

しかし、世界に目を転じればそれは自明すぎるほど自明なことなのである。例えば、去る11月29日、「フランスの国民議会(下院)は、野党・社会党などが提出した植民地時代「肯定的役割」を教科書で承認する法律の条項の廃止を反対多数で否決」(産経新聞)することで、植民市支配を「正当なもの」とする歴史観を明確にしたばかりである。土台、西欧列強はどの一国も植民地支配に対する謝罪などしてはいないのだから。実際、

端から他国の意向に従う選択肢しか認めないような「外交」や「対話」があるものか! 

あるいは、異なる主権国家同士の間で、主権の正統性と正当性の根拠たる歴史認識と領土問題について双方が心の底から納得するような妥協が成立することなどあるものか! 

そして、国際関係というものはそもそもお互いがお互いに他国や他民族との共存にともなうある程度の不愉快さを引き受け、それを我慢するという営みではないのか? 

而して、互いにどの程度の不愉快さまでは我慢すべきであり、また、その不愉快さをどのようなやり方で(表面的にせよ)解決縮小するのかを定めるものこそ、確立した国際法であり確立した国際慣習なのではないか?  この確立した国際法や国際慣習を「中華主義」の名のもと豪も遵守しようとしないのは特定アジアの3国の方ではないのか?


上で述べたような素朴な疑問を歯牙にもかけず、自分の妄想と願望を語るのが今日の社説であった。今後の戦後民主主義者との闘いの参考にするために朝日新聞の<今日の悲鳴>を資料として収録しておく。(以下、社説引用開始)

戦後日本が近隣国との信頼関係を深めようと積み上げてきた外交の努力が、またひとつ、崩れてしまった。今月中旬にマレーシアで開かれる東南アジア諸国連合(ASEAN)と日中韓による会合の際に予定されていた、恒例の日中韓3国の首脳会談が実現できないことになった。

今回の議長役をつとめることになっていた中国政府が「現在の雰囲気と条件」を理由に、延期を発表したのである。小泉首相の靖国神社参拝と、参拝に対する内外からの批判を「わからない」などと頭からはねつけている首相への抗議の意図があるのは明らかだろう。

3国首脳会談は、99年に故小渕恵三首相の提案で実現した。消極的だった中国を日本がねばり強く説得し、史上初めて3国の首脳が一堂に会して語り合う場を設けたのである。(中略)

まず首脳同士の信頼関係を築き、徐々に次の段階に進んでいこうという戦略だ。その信頼関係がずたずたになってしまったことを、この「延期」が物語っている。(中略)

これほどまで両国に強硬な姿勢を取らせた一因は、首相の外交的配慮に乏しい言動にある。会談延期についても首相は「結構です。もう靖国は外交のカードにならない。中韓がいくら外交カードにしようとしても無理だ」と、妥協を探るそぶりはまったくない。

もともと過去に侵略や植民地の歴史を持つ国同士の関係は難しく、それだけに注意深さが必要だ。歴史を政治化させず、中韓が「反日」で結びつくのを防ぎ、3国協調の土台を広げる。そんな外交が求められているのに、首相のやっていることはまさに逆ではないか。(以上、引用終了)



あい変らず文学的で無内容な表現が目立つ文章である。現在の小論文やビジネスライティングコースの答案、あるいは、ロースクールや欧米の大学院に提出する志望理由書(Essay:Statement of Purpose)としては真っ先に不合格にされる文章である。

実際、たった644字の引用文中に、「信頼関係を深めようと積み上げてきた外交の努力」「頭からはねつけている首相」「中国を日本がねばり強く説得し」「まず首脳同士の信頼関係を築き、徐々に次の段階に進んでいこうという戦略」「その信頼関係がずたずたになってしまった」「妥協を探るそぶりはまったくない」「それだけに注意深さが必要だ」「3国協調の土台を広げる」という指示対象が曖昧な、畢竟、短歌や俳句か戯曲でしか使えないような象徴表現が8箇所も使われているのだから。

はっきり言って、これは<無内容な悲鳴>であり<小泉政権への泣きながらの抗議>であり、靖国神社に首相が参拝を繰り返し特定アジア諸国への強硬姿勢を崩さない(?;正常な姿勢だと私は思うが)そのような小泉政権を多数の国民が支持している現状とそんな国民への<恨み節>にすぎないと思う。而して、644字、400字原稿用紙1枚半のボリュームのこの社説について特にコメントすべき内容はない。

まあ、それも何なので二つ三つだけコメントしておく。第一に、「歴史を政治化させず」とは、中韓の歴史認識を受け入れるということなのだろうか? 第二に「中韓が「反日」で結びつくのを防ぎ、3国協調の土台を広げる。そんな外交が求められている」とは誰が決めたのか? これらは朝日新聞の勝手な願望と状況認識にすぎないのではないか。

最後、第三に、「まず首脳同士の信頼関係を築き、徐々に次の段階に進んでいこうという戦略だ」とあい変わらず空虚で美しい言辞が使われているが、大体、99年からの日中韓3国の首脳会談の成果として何があったというのか? そして、その成果なるものは日中韓3国の首脳会談でしか達成できないものなのか? 

これらの点について朝日新聞の社説子は何も語っていない。ならば、この美辞麗句が<無内容な悲鳴>や<小泉政権への泣きながらの抗議>あるいは<国民への恨み節>すぎないと受け取られても文句は言えないのではなかろうか(爆)。

植民地支配は悪。帝国主義は悪。戦前の日本は暗黒。戦前の日本は総批判されるべきというのが世界の常識・・・。戦後民主主義が撒き散らしてきたこのような妄想が妄想でしかないことが国民に広く認知されてきている。今日の朝日新聞社説はその状況を象徴する歴史的記念の文章というべきかもしれない。

しかし、将棋も野球もTOEICもあらゆる勝負事では、<優勢>と<勝勢>と<勝利>との三者の間にはそれぞれ凄まじい差があるものである。作品の完成作業を富士登山に喩えた芥川龍之介の言葉を借りれば「富士山登山の道半ばは五合目ではなく九合目」という感覚に近いかもしれない。ならば、勝勢でもまだまだ勝利への道の半分もきておらず;優勢にいたっては勝勢までの半分、即ち、優勢などは勝利までに行うべき作業やタスクの25%しか終了していないかもしれないのである。

而して、朝日新聞の悲鳴が聞こえたとしても、戦後民主主義を信奉する勢力を駆逐粉砕して、特定アジア諸国との外交関係の正常化を成し遂げる道は「日暮れて道遠し」と言うべきなのではないか。畢竟、今後とも油断すべきではないことだけは確かであろう。尚、小泉政権が正常化させている特定アジア諸国との関係という認識については下記拙稿を参照いただきたい。


靖国参拝が正常化させつつある日中関係を「不毛」と嘆く倒錯した朝日新聞社説
 
中韓との友好関係構築の特効薬としての首相靖国参拝
 
日中関係の<悪化>は外交の失敗か?
 
特定アジア関係再構築のための論点整理



(2005年12月6日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 特定アジアと日本
ジャンル : 政治・経済

yugomap



昨日、平成17年12月4日の朝日新聞社説「秘密収容所 「人権の欧州」ならば」を読んで唖然とした。まさに、我田引水というかこれは記憶喪失か事後的な記憶の改竄修正だと思った。以下同社説を引用する。

米国の国務長官の外遊といえば、「人権」をかさに、民主化の遅れた国を批判するのが常だ。ところが、ライス米国務長官の今回の欧州行きは、勝手の違うことになりそうだ。ドイツ、ベルギー、ルーマニアなどを5日から歴訪する長官を待ち構えているのは、「米国による人権侵害」という問題であるからだ。

米中央情報局(CIA)がテロ関連の拘束者を調べるための秘密収容所を東欧など計8カ所に設置した。米紙が先月、そう報じた。国際人権団体の調査では、拘束者を移送した可能性のある飛行機がポーランドやルーマニアに立ち寄った疑いも浮上している。

ポーランドは欧州連合(EU)の加盟国で、ルーマニアは07年に加盟の見込みである。秘密収容所の存在が事実なら、自由や人権などの尊重をうたったEUの条約に背くことになる。(中略)国際人権規約は恣意(しい)的な逮捕や抑留を禁じている。存在すら明かせない収容所で身柄拘束を続けることは、世界のどこであっても許されない非人間的な行為だ。(中略)

90年代に起きた旧ユーゴスラビアでの内戦の最中、対立民族を押し込める収容所の存在が明るみに出た。欧米諸国はその無法さを厳しく非難した。その時と同じ視線で、自分たちの行為を厳しく点検しないと、「欧米の人道主義もしょせんは二枚舌だ」との批判はまぬがれまい。(中略)

真相を究明して、欧州市民が納得のいく対応をしない限り、ホロコーストという「負の遺産」を生かしているとは言い難い。(後略、以上引用終了)



1991年に始まるユーゴ内戦以降、NATO軍による旧ユーゴ空爆の際に、欧州の国々は最後まで武力行使に難色を示していたことを朝日新聞の社説子は忘れたのだろうか。

人権擁護、就中、イスラーム系住民に対する「民族浄化」を批判するイスラーム系国民の要求にもかかわらずフランスは傍観していたのではなかったか。あるいは、国境線の不変更等を定めた1975年の全欧安保協力会議(CSCE)における『ヘルシンキ宣言』にもかかわらず、ドイツはドイツ系住民が多数を占めるクロアチアとスロベニアの早期独立を支持し、欧米露の間でそれらの独立を周旋して、1992年、その独立が達成されるや他の旧ユーゴ地域への関心を失ったのではなかったか。ボスニアを含む他の旧ユーゴ地域の独立宣言と欧米による安易な承認が、他民族への民族自決を錦の御旗に掲げるセルビア側の大規模かつ陰惨な攻撃を誘発し紛争が激化させたというのに。

そして、<9・11>とそれに引き続くアフガン戦争やイラク戦争に先立つこと10年。国連の無力は旧ユーゴ紛争で明らかになったのではなかったか。国連は1992年3月から平和維持部隊として国連保護軍を派遣したにもかかわらず、想像を絶する「民族浄化」の規模と陰惨、および、すべての民族が他の民族と敵対関係にある悪夢のような状況の前にただ傍観するしかなかったからである。

而して、それらの「人権に無関心な欧州」を置き去りにして、1999年3月24日、国連での承認もまたずNATO軍による空爆を敢行したのは、そして、空爆によってまがりなりにも旧ユーゴ地域に秩序と市民生活を回復したのはアメリカのリーダーシップだったのではなかったか。それともこれは私の記憶違いなのか(笑)。

実は、「民族浄化」が一部にせよイスラーム側の情報操作の結果であるとか、コソボでの民族間の陰惨な事態は「空爆」を契機に激化したという研究も明らかになってきている。しかし、旧ユーゴ地域にスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ユーゴスラビア、マケドニアの五つの独立国を成立せしめ、もう一度記すが「まがりなりにせよ」、かって<世界の火薬庫>といわれ、実際、第一次世界大戦勃発の端緒となったこの旧ユーゴスラビア地域に秩序と市民生活を回復せしめる契機となったのは国連でも欧州でもなく、まして、欧州の市民の人権意識などではさらさらなくてアメリカのリーダーシップでありアメリカ国民の人権意識であったことは紛れもない事実ではなかろうか。

而して、当時の標準的な国際法『ヘルシンキ宣言』を無視して、ゲルマン系民族の独立を支持したドイツが(クロアチアとスロベニアの独立が達成された時には「喝采」を叫び、そして、他のスラブ系やイスラーム系の民族がどうなろうと「知ったこっちゃない」とほくそ笑んだかもしれないが、)、第二次世界大戦後始めて<NATOの域外に出兵>せざるをえなくなったのは歴史の皮肉としか言いようがない。正に、「天網恢恢疎にして漏らさず」であり、「歴史の神の狡知」と言うべきだろう。


さてもさても、五つの独立国を誕生せしめ、海外派兵ができる「普通の国」にドイツを変え、(本来そうあるべきことが明らかになっただけにせよ)国連の無力を明らかにすることで「世界市民なるもの」を標榜する輩の国連幻想を粉砕したユーゴ紛争はかくして一応の決着を見た。それは、2005年12月の今からわずか5年程前のことであり、紛争の火付け役ユーゴスラビアのミロシェビッチ前大統領を始めとする幾多の戦犯を裁く「旧ユーゴ国際戦犯法廷:International Criminal Tribunal for the Former Yugoslavia」は現在でもまだ続いている。

しかるに、ユーゴ空爆からまだ5年9ヶ月、民族間の武力紛争と「民族浄化」の本格開始からでも13年しかたっていないというのに、朝日新聞の社説子の頭の中では記憶が改竄修正されているようだ。そうでも思わなければ、旧ユーゴ紛争の解決も「欧米の人道主義」によるものなどの戯けた言辞はとても全国紙の社説には書けないだろうから。

はっきり言おう。この世に絶対の「人権」などなく、「人権」の普遍妥当な内容などは存在しない。それは近代国家の主権を正当化する根拠であるか、国家と国家の関係の調整概念にすぎないのである、と。ならば、民族浄化を防ぐため、あるいは、国際テロ組織を壊滅させ押さえ込む目的のためには「人権なるものの内容」は制約されて当然なのである。そして、その<制約の範囲>が妥当であるかどうかは(ケースバイケースであるにせよ)、その<人権の制約>を行った国家権力の国内外での正当性を増減せしめる<政治的-道徳的な責任>にのみ反映するだけである。

畢竟、内外への政治責任や今後の国際関係にアメリカがどう配慮してこの「秘密収容所問題」に対処するかどうかを私は予想できない。けれど、「欧州市民の納得」など「人権の内容」とは無縁であり、アメリカが欧州から「人権の制約」についてとやかく言われる筋合いがないことは国際関係の歴史と法学方法論的には確かだと思われる。

蓋し、自説に都合のよい記憶の事後的な改竄修正か記憶喪失か知らないけれど、ユーゴ紛争の勃発と一応の解決にいたる一連の事実を捻じ曲げ、かつ、「人権」の具体的な内容とその妥当根拠(人権が実現されるべき力の構造と実現されるべき正当性の理由)をスルーした空虚な社説を垂れ流すのはいかがなものか。私はそう考える。

尚、国連と国際法、国際的人権に関する私の基本的な考えについてはとりあえず下記旧稿を参照いただきたい。

・国連憲章における安全保障制度の整理
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E/E23.htm

・人権と民主主義は国境を越えるか
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E/E36.htm



(2005年12月5日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 軍事・平和
ジャンル : 政治・経済

tentjousandyear



本稿は、ブログ仲間のruiさんの記事の転載です。国学院大学の記念講演の模様のスケッチ。櫻井よしこさんの講演会に参加した現役の大学生が感じたままに書かれたコメントがとても素直で、読んでいて心地よかったのでruiさんの許可を得て転載しました。転載元は、万年肩こりの独り言 です。

◆国学院大学創立125周年記念文化講演会◆
  講師:櫻井よしこ氏(ジャーナリスト)
  題目:「この国のかたちを考える」
  日時:平成19年10月27日(土)午後2時から



私自身、ちょうど、櫻井よしこ『日本よ、「歴史力」を磨け』(文藝春秋・2007年9月15日)を読了したところでしたので、なおさら、このruiさんの記事には親しみを感じました。そして、「1万年も2千年も前から日本は日本である」こと、他方、「1万年も2千年も前から日本が日本である」と言いうるためには<歴史力>が肝要であると感じました。


sakuraisan


*****  *****  *****

本日(2007年10月27日)は生櫻井よしこさんDAYでした。


講演会に行ってきました。
テーマは「この国のかたちを考える」です。
学生が1/3ということもあり、櫻井さんはとても簡単な言葉でお話ししてくだしました。
導入として、現在の中国が日本に対する微笑み外交の本当の意味を丁寧に説明してくれました。


2005年のアメリカによる北朝鮮の資金凍結から始まる。
この解除と援助を北朝鮮は中国に依頼するも役に立たない中国。
中国に見切りをつけた北朝鮮はアメリカに対して友好関係を結びたいと希望。
1年後の2006年10月10日にキャッシンジャーがブッシュから金正日宛のメッセージを携えて訪中。胡錦濤に託す。
それは平和協定の用意がある旨の書簡であった。
北朝鮮をモンゴル的地位にする意味があった。
中国とロシアに挟まれた小さな国が、アメリカの同盟国としてイラク戦争に12名派遣し、アメリカは軍人を一人常駐させていることの政治的重要性。
アジアの海を制覇をもくろむ中国に取り、少しでも日本とアメリカの間に距離を置かせたい。
その戦略は1987年から始まっている。
押せば引く日本の民族性を目にとめ、歴史問題で押せば自分たちにがコントロールできる国となる。
昨今、中国本土から何も言ってこないが、同じ価値観を有する国々が日本を非難している。これは中国の戦略。
アメリカでの慰安婦決議もこの一環であり、マイク・ホンダバックには中国が存在している。
決議案に対して何の発言もしないままであると、日本はいずれ苦しい立場に陥る。
日本はきちんと説明しなければならない。
真実を伝えなければならい。
21世紀必要なのは歴史力、文明の力である。


内閣の不祥事は安部内閣と福田内閣では、マスコミの扱いが違う。
その理由は何か。
戦後体制を壊そうとした安部内閣と、守ろうとしている福田内閣。
公務員改革制度で私利私欲を肥やした公務員は、これまでどおりで行くことはできない。
現在の利権者を敵に回したのが安部内閣であった。


日本は戦前まで世界の誇れる文化をもった国であった。
国家は時折波を受けるが、波を被ったとき求心力となりえるのが天皇であった。


sakuraisan01
日本よ、「歴史力」を磨け


なんだか、取りとめもない書き方になってしまいましたね。
すみません。
メモとるより、聴きいってしまって。
今日のお話は「歴史力」でした。
慰安婦問題や南京問題など、正規の資料も存在するのであるから、きちんと日本の立場を明確にすべきで、それも歴史力だということでした。
さらっとふれただけでしたが、憲法の改正、軍隊をもつことの大切さもおっしゃってました。
江戸時代の庶民の暮らしは西洋を凌駕していた。
これも歴史力・文明力とのこと。
この歴史力がある限り、日本は国家を取り戻せるともお話ししてくださいました。


台風の中、多くの方がきてました。
女性は多く、40~50代の男性が少なかったですね。
丁度、リベラルや左翼思想の強い世代で性別の人がきていないという印象でした。


隣の学生は講演終了後、軍を持つべきとの櫻井さんの主張に
「軍もつってどうなの?」
「野蛮に逆戻りじゃねっ?」
と、会話していました。
はぁ~~。がっかり。
櫻井さんの話し聞いてなかったのか?と腹立たしかった。
○×や択一問題ばかりで、偽善的な教科書や教師に植付けられた価値観は、そう簡単にひっくり返らないのですね。
思考能力の欠如。
軍を持つこと=野蛮、そんな単純な話しではないのに。
櫻井さんに興味もってきた学生でも、その程度の人がいるんです。



桜井さん自身ですが、素敵でした!!!格好いい!!
人間が意図的に身につけられる品があるとすれば、それは知的品格だと思ってます。
品のある方でした。知性はもちろんのこと、ウイットの効いた方でした。
頭上の看板が突然落下するアクシデントにも動じず、巧みに笑いを誘うコメントで返していらっしゃいました。
台風の中だったので、靴も服もぐっしょりでしたけど、充実した時間となりました。



(2007年10月28日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : これでいいのか日本
ジャンル : 政治・経済

hannichitext11


最初に言っておきますが、私は扶桑社『新しい歴史教科書』を応援しています。あくまでも個人的願望だけれど、この夏の教科書採択で同書が目標どおり10%近くの採択率を達成できればいいなと思っている。ならば、『新しい歴史教科書』を応援する以上、敵のものも読まなければね。そう思って『未来をひらく歴史 東アジア3国の近現代史』(高文研・2005年5月)を書肆で求めました。

而して、「自国中心の歴史は、21世紀には通用しない。”開かれた歴史認識”の共有をめざす日・中・韓3国の研究者・教師らが、3年間・10回の国際会議を重ね、共同編集・執筆した近現代史入門書。史上初めての先駆的労作!!」という勇ましい帯広告の文字に励まされ、最近忙しいのだけれど通勤の車中で読みました。正直、読者層のマーケティングが曖昧で(年齢や職業や政治的立場の全てについてどんな読者層を設定しているか曖昧であり)、主義主張は別にしてあんまり面白い本ではなかったけれど3回くらい通読しました。以下、そのコメント。

これは、東アジア3国の近現代史じゃなく
日本の対中韓関係史だよ!


読後感想はこれだけです。そうか中韓の近代史というのは日本史なんだね。つまり、日本というファクターがなかったら彼等の歴史は存在しないんだ! うん、ならば彼等が<首相の靖国参拝>とか<新しい歴史教科書>にあれだけこだわるのもわかる気がしました。

日本にとっては、首相の靖国神社参拝や歴史教科書の採択とかそんな問題自体が実は存在しない。それらは完全な内政事項以外の何ものでもなく、つまり、今まで外交の問題にもなりえないことを、あたかも交渉事項でもあるかのように対応してきた日本の外交当局の「非礼」と「怠慢」を詫び、「今後は一切、これについては交渉事項にしません」と言えば済む問題だと思います。そのことを、国際法と確立した外交慣行上の根拠を挙げて言い続ける以外のことは何もする必要はない。

しかし、支那・韓国。北朝鮮という特定アジアとその代理人たる朝日新聞等が対日本外交カードとして<歴史>をこれからも使う狙いというか心性、つまり、そのマヌーバーの底流に流れるメンタリティーが本書を読んで少しわかった気がしました。蓋し、彼等にとって、「対日本近代交流史」こそ彼等の近代史そのものなんだ。つまり、日本という軸を失えば彼等の<近代史>自体が消失し雲霧消散してしまうということです。正に、そんな事態になれば、それは国家規模のアイデンティティークライシス。そりゃ誰だって必死になるわな、です(笑)。


中韓の近現代史=対日本関係史


中韓の近現代史は対日本の関係史である。逆に言えば、西洋列強の支配から脱し、近代国家として彼等がテイクオフできたについては彼等が日本に<お世話>になってきたという歴史的事実をこの『未来をひらく歴史』は、面白い読み物ではないけれど、雄弁に淡々と物語っている。

日本の当時の為政者や日本国民の多くが、中韓の人々のためやましてアジアの独立のために西洋列強と闘ったとは言わないが、歴史的事実としては日本のお陰で、西洋列強の支配から脱し近代国家として彼等がテイクオフできたことは間違いないことでしょう。だって、21世紀に通用すべき<開かれた歴史認識>の共有をめざす日・中・韓3国の研究者・教師らが、3年間・10回の国際会議を重ね、共同編集・執筆した史上初めての先駆的近現代史入門書がそう言っているのですから。而して、ある意味『未来をひらく歴史』は日本人を元気にする歴史書だと思います。

『未来をひらく歴史』は日本人を元気にする歴史書だけれど、しかし、それは歴史書としては必ずしも成功したものとは言えない。実際、個々の記述については、「これはどうかな」と苦笑する箇所も少なくありませんでした;例えば、日露戦争についての「当時、日本そのものがロシアに攻められる危険性はありませんでした。しかし、小村(寿太郎)は、ロシアが韓国を占領したら危ない、だから、その前に韓国を支配しなければならないと主張しています」(同書28頁)の記述などは、「当時」や「日本そのものがロシアに攻められる危険性」の概念をよほど狭く取らない限り事実とは言えないでしょう。

蓋し、歴史書としての『未来をひらく歴史』の致命的欠点は、西洋列強が形成していた当時の国際秩序や国際関係全体の構図の中で東アジア3国の近現代を考えるという視点の欠落だと思います。その点で、本書は中韓の中華思想&小中華思想の<大義名分論>から書かれた東アジア3国の近現代にすぎないのかもしれない。

つまり、歴史書としてはこれは完全に150年前の水準に止まる駄作ということ。例えば同じ反日側の著作でも『日本と韓国の歴史共通教材を作る視点』(歴史教育研究会編・梨の木舎、2003年11月)などは(これは論文集に近く「教科書」ではないのですが)読んで勉強になる一書ですが、それに対して、この『未来をひらく歴史』は歴史教科書というよりはアジびらの類でしょうか。

このような欠点はあるものの、再度記しておきますが、著者達の政治的意図とはおそらく180度違って(笑)、しかし、これは日本の若者から<戦争責任なる妄想>を払いのけてくれる<労作>。その点では本書を世に出された日・中・韓3国の研究者・教師らに感謝せねば、皮肉ではなくそう思いました。

でも、定価1600円(+消費税)はちと高い。4年前に販売された市販本の『新しい歴史教科書』は933円(+消費税)ですからね。まあ、その差額(?)は、これを読んで元気になる日本の若者が増えるかもしれないことと、「なんじゃこりゃ、『新しい歴史教科書』は自国中心主義だと非難している側はこんなに反日に偏った歴史観を持っているのかね。ならやっぱ、『新しい歴史教科書』の方がずうっといいじゃないか」と思われる父母や先生方が増えるかもしれないこと、その貢献へのカンパと割り切るしかないのでしょうか。

畢竟、購入する程の書籍ではないけれど(必読文献というほどではないけれど)、機会があれば一読をお薦めいたします。本文217頁、小田急線で新百合ヶ丘から新宿までの往復の車中で読了可能。大体2時間あれば読了できると思います。



(2005年6月5日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

shanghai
【Consulate-General of Japan in Shanghai on April 16, 2005】


今日、平成17年5月28日の朝日新聞社説「東京裁判否定 世界に向けて言えるのか」は、正直、不勉強を悪意でまぶした醜悪なものと私には思われました。その「不勉強部分」(特に、所謂「A 級戦犯」など後にも先にも法律的には存在しないこととの無理解、サンフランシスコ平和条約は戦争の歴史的評価を決定するものではないことの無知)にフォーカスしてその擬似論理の展開を以下指摘します。

要は、この社説が俎上に乗せた自民党の森岡代議士も誰も「東京裁判を否定」などしてはいないのであって、その裁判結果を(不条理であり悔しいけれど)きちんと受け入れている。

而して、「東京裁判」や「サンフランシスコ平和条約」の法的な意味を理解せず、法的な理解の水準としては恥ずかしくてとても「世界に向けて言え」ない妄想詐術を展開しているのは朝日新聞のほうなのです。それは、自分達が勝手に想定した「東京裁判」と「サンフランシスコ平和条約」の意味内容から(その内容に、毫拘束される筋合いのない)保守派を批判するとんでもない社説。蓋し、この社説には論じるほどの内容はほとんどなく、それゆえに悪意の為にする文章技巧だけが際立っている。私にはそうとしか思えませんでした。

以下、引用開始。

(前略)「極東国際軍事裁判(東京裁判)は平和や人道に関する罪を勝手に作った一方的な裁判だ。A級戦犯でありながら首相になったり、外相になった方もいる。遺族には年金をもらっていただいており、日本国内ではA級戦犯は罪人ではない」
厚生労働政務官の森岡正宏衆院議員が自民党の代議士会でこう発言した。

A級戦犯を合祀(ごうし)した靖国神社への小泉首相の参拝を擁護する狙いなのだろう。しかし、戦後の日本が平和国家として再生していくための土台となった基本的立場を否定するものであり、国際的な信義を問われかねない。とても許されない発言だ。

戦争が終わったあと、勝者の連合国は東京裁判を開き、東条英機元首相ら死刑になった7人を含む25人のA級戦犯の戦争責任を認定した。敗戦国として不満はあったかもしれない。日本無罪論を主張したインドのパル判事もいた。だが、日本は東京裁判の結果を受諾することで国際的に戦争責任の問題を決着させる道を選んだ。これはまぎれもない事実だ。

サンフランシスコ講和条約はそのことを第11条にうたい、日本を再び国際社会に迎え入れた。調印した国々の多くは、日本復興への配慮から賠償などの請求権を放棄した。ここから戦後日本は再出発した。東京裁判での戦争責任の決着はその起点である。森岡発言はその土台を否定するに等しい。

A級戦犯の遺族に年金などが支給されているのは、生活の困窮に手を差し伸べる目的もあった。それをもって戦犯の責任自体が否定されたわけではない。(後略、以上引用終了)



話は簡単。
●森岡正宏代議士の発言
(01)極東国際軍事裁判(東京裁判)は平和や人道に関する罪を勝手に作った一方的な裁判だ・・真
(02)A級戦犯でありながら首相になったり、外相になった方もいる・・真
(03)遺族には年金をもらっていただいており・・真
(04)日本国内ではA級戦犯は罪人ではない・・真(国際法的には「国外」でも罪人ではない)

●朝日新聞の主張
(05)(森岡発言は)戦後の日本が平和国家として再生していくための土台となった基本的立場を否定するもの」・・?
(06)日本は東京裁判の結果を受諾することで国際的に戦争責任の問題を決着させる道を選んだ・・真
(07)サンフランシスコ平和条約はそのこと(上記(06)の内容)を第11条にうたい・・?
(08)調印した国々の多くは、日本復興への配慮から賠償などの請求権を放棄した・・真
(09)A級戦犯の遺族に年金などが支給されているのは、生活の困窮に手を差し伸べる目的もあった・・偽
(10)(遺族に年金などが支給)をもって戦犯の責任自体が否定されたわけではない・・真(笑)


以下、この両者の主張を検討します。尚、サンフランシスコ平和条約および東京裁判に関する私の基本的な理解については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

サンフランシスコ平和条約11条「the judgments」の意味

日中関係の<悪化>は外交の失敗か?
 


◆極東軍事裁判について
それは、(a)裁判所の構成と適用された裁判規範、そして、裁判手続きのデュープロセスの三面のすべてにおいて極東軍事裁判(東京裁判)は不適切な裁判である。(b)東京裁判は事後法の禁止原則を犯す違法な裁判である。(c)東京・ニュールンべルグの両裁判を通して、「平和に対する罪」「人道に対する罪」等々の新しい国際人権法上の犯罪類型が確立されたという国際法制史上の意義があったとしても、上記(a)(b)の瑕疵は治癒せしめられるものではない。
∴(01)と(04)は真


◆サンフランシスコ平和条約と首相の靖国神社参拝について
サンフランシスコ平和条約は日本と連合国の法的な戦争状態を終結させた平和条約である。平和条約は戦争状態を終結させることを主要な目的とする条約であり、けして、戦勝国側の歴史的正当性なり敗戦国の行為の善悪を定めるものではない。つまり、平和条約としてのサンフランシスコ平和条約の使命の中核部分は条約が締結され批准されたと同時に終了したのである。そして、サンフランシスコ平和条約を日本は完全に遵守した。

ならば、朝日新聞に伺いたい。同条約第11条「戦争犯罪」のどこに、「靖国神社に<東京裁判の戦犯>を祀ってはならない」とか、「祀ったとしても時の内閣総理大臣が参拝してはならない」など書いてあるというのか! まして、日本がこの条約を遵守して連合国との間の戦争状態を終結させ、独立を回復した後に現行憲法に従いどのような歴史認識を編み上げ、また、国家の正当性に関するイデオロギーを形成するかは日本国民の自由であり、毫も、戦争状態終結を目的とした条約に拘束されるものではない。

戦争状態の終結後も占領下の裁判の効果を将来にわたって有効とするサンフランシスコ平和条約第11条は慣習国際法に反し無効である。少なくとも日本が独立回復後そう主張して第11条の無効を宣言することを条文自体を根拠に(日本が条約に調印し批准したことを根拠に)非難することは誰にもできない。更に、サンフランシスコ平和条約第11条は法概念論(≒実定法における法源論)から見ても無効である。同条約総体は現行憲法第98条第2項から法的効力を持つにせよ、第11条で「戦犯」の人権を制限し続けることは現行憲法上不可能であるからである。元来、「戦犯」なり「A級戦犯」なる法律用語は占領下においてさえ存在しない。まして、現行憲法下ではなおさらである。これは「言葉の遊戯」ではなく、存在しない法律概念を元にある特定の人間の人権を制限することは完全に違法である。
∴(06)と(08)は真。また、この面からも(04)は真。しかるに、(07)は疑問。


◆所謂「A級戦犯」について
昭和28年(1953年)には、「戦争犯罪による受刑者の放免に関する決議」が国会で圧倒的多数でもって可決され、サンフランシスコ平和条約第11条に従い(上でも述べたように法論理的には、サンフランシスコ平和条約第11条に従う必要はないのだけれど、我が日本はきちんと関係諸国(その当時の「中国」たる中華民国も含めて!)に仁義を通した上で、)の同意の下に総ての「戦犯」は全員釈放された。その背景には6000万人ともいう「戦犯放免の嘆願書」国会提出の全国的なうねりがあったのである(詳しくは、下記の国会議事録参照。そして、平成10年の竹内外務省条約局長の国会答弁も実はこの見解と矛盾しない)。

・第11号 昭和27年12月9日の戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議案
 http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/015/0512/01512090512011a.html

昭和29年(1954年)からは「戦傷病者戦没者遺族等援護法」によって、「戦犯」の遺族も他の戦没者遺族と同じく遺族年金・弔慰金が支給されるようになった(翌昭和30年には、東京裁判のための拘禁期間をも支給額算定対象期間とした恩給の支給も開始された)。つまり、朝日新聞の言われるとおり、「遺族に年金などが支給をもって戦犯の責任自体が否定されたわけではない」のだ。それは、戦犯を放免する(上で述べたように、戦犯自体が法的には「罪人」ではないのだけれど、)国民の世論が先にあり、「年金などの支給」はその結果にすぎない。
∴(02)と(03)は真。また、この点からも(04)は真。しかるに、(09)は偽。(10)は2回計算違いを行って(笑)結果的に真♪


◆総評
上で検討したように、森岡正宏代議士の発言内容;(01)~(04)には何の間違いもない。ならば、朝日新聞はこの社説で何を主張したいのか? 特に、朝日新聞の社説子は(05);「戦後の日本が平和国家として再生していくための土台となった基本的立場」という言葉で何を言いたいのか? 上記の分析でも(05)については言及していないけれど、それはこの命題が「真偽」を判定できるような内容を持たない文芸評論的や詩歌の言語に他ならないからである。

もちろん、日本は「日本は東京裁判の結果を受諾することで国際的に戦争責任の問題を決着させる道を選んだ」。それは間違いない。上にも述べた極東軍事裁判の不条理にもかかわらず日本はサンフランシスコ平和条約を締結することによって(片面的にせよ旧連合国との間の)戦争状態を終了させたのである。

しかし、そこで日本が受け入れたものは、海外領土の放棄や日本の社会制度の改革等々占領軍から課せられた命令を誠実に遵守遂行して、占領政策の是非や非道については独立後も法律的に争わないことを約束し、戦争を終結させることに尽きる。少なくとも、国際法的と外交史的にはそうである。ならば、独立後の「戦犯」なるものの処遇に関して(まして、政府から独立した宗教法人たる靖国神社に誰を祀り誰がいつ参拝しようが靖国神社と参拝者の勝手である)、サンフランシスコ平和条約や東京裁判を持ち出すことは何の意味もないのである。このことを知らずに書かれたのならこの社説は不勉強のたまものであり、それを承知で書かれたのなら<悪意の為にする文章技巧>の産物と言うべきであろう。しかも、この社説は自爆しているのかもしれない。

サンフランシスコ平和条約や東京裁判にここで述べた以外の内容を見出すのは論者の勝手である。しかし、そうしたいと思う論者はその法的と外交慣行における根拠を他者に示さない限り、その主張は単なる願望か妄想、あるいは、「不勉強を悪意でまぶした詐術」にすぎない。しかし、朝日新聞がその社説で日本が「戦争責任の問題を決着」させていること、「東京裁判での戦争責任の決着」を認めたことは今後大きいのではないか(笑)。ならば、それは、自分がこしらえた戦争責任理解に縛られて自爆した社説というべきかもしれない。私はそう考える。


(2005年5月28日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 朝日新聞
ジャンル : 政治・経済

hannnichi18


◆前提が逆立ちしている靖国参拝反対論
今週、支那の副首相が失礼にも小泉首相との会談をドタキャンして帰国した事件に関連して、首相の靖国神社参拝は国益をそこなうからやめるべきだという主張を幾つか目にしました。私はそのような靖国参拝反対論に不純な動機と同時に国際関係の無知を感じています。例えば、以下は、昨日、平成17年(2005年)5月23日の朝日新聞投書欄『声』(東京本社版)に掲載されていたもの。投書子は、一応、反支那の立場に立つ靖国参拝反対論らしい(本当かしら?)。以下、引用開始。

「参拝の中止で得られるもの」 群馬県安中市 50歳の短大教員の方の投書
このところ小泉首相が、靖国神社参拝に再び意欲を示しているようだ。(中略)首相の英断で参拝中止を、と私は考える。近年、事あるごとに、中国と韓国から歴史認識について苦言を呈される。格好の材料が靖国参拝で、それが障害で両国に十分にものが言えない現状だ。参拝がなければ、両国もわが国の言い分にもっと耳を傾けるのではないか。(後略、以上、引用終了)



他国から文句を言われる筋合いのない<首相の靖国神社参拝>なり<歴史教科書>を材料とした中韓両国の「苦言」に対して、我が国が取りうる対応は限られている。それは、以下のような談話を日本政府を代表しうる者;首相・官房長官・外務大臣のいずれかが、公式に(できれば、アジアパシフィック地域の主要な言語で「公式談話原稿」をリリースする手はずを整えた上で)発表することだと思います。すなわち、

●特定アジア諸国に対する日本政府の戦争認識
(0)我が国の戦争責任を巡っては遺憾ながら、所謂「従軍慰安婦」問題、所謂「南京大虐殺」問題、所謂「強制連行」問題、所謂「三光作戦」や所謂「万人坑」問題等々の事実無根であるか事実であるとしても戦後処理の過程で解決済みの事柄について、支那・韓国・北朝鮮という特定のアジア諸国による日本批判がいまだに散見せられています。

(1)我が国は(ナチスにその責任の総てを押し付けたドイツなどの姑息なやり方とは違って、)国際法上と確立された国際政治における慣行からみても総ての戦争責任と戦後責任を果たしていると認識しております。(2)よって、今後一切、このような内政干渉に対して我が国が何らかの<善処>をすることはありません。

(3)しかし、支那・韓国・北朝鮮という特定アジア三国がこれらの(国際法上は何の根拠もない)内政干渉を繰り返しておられる原因の少なくとも半分は、今までの我が国の外交当局の不誠実な対応であったと認識しております;存在しない戦争責任と戦後責任があたかもまだ幾ばくかあるかのような不明瞭なメッセージを送り続けてきた責任であります。

(4)この不誠実な外交当局の言辞は総て間違いであり、今後、日本は上記(2)の対応をとらせていただきます。(5)尚、本談話ついてのご質問や抗議については誠実に説明させていただく所存であります、と。


日本の戦争責任と日本が取るべき特定アジア諸国に対する態度をこのように考える私にとって、上で紹介した投書の認識は根本から間違ったものとしか思えません。就中、「それが障害で両国に十分にものが言えない現状だ。参拝がなければ、両国もわが国の言い分にもっと耳を傾けるのではないか」という認識に至っては噴飯ものの認識としか私には言いようがありません。まして、「両国もわが国の言い分にもっと耳を傾けるのではないか」というのは根拠のない願望にすぎないでしょう。なぜならば、何の根拠もない「苦言」を他国に呈するような、世界の常識から逸脱した中華主義の特定アジア諸国が、たとえ首相の靖国参拝が中止されたとして、今後も、また別の無根拠を「根拠」にして我が国に対して「苦言」を呈してこないという保証はどこにもないからです。

蓋し、支那の副首相が仮にも一国の首相との会談をドタキャンして帰国するなどの事例を見れば(しかも、支那の方から強引に日本の首相との会談を要望しておいてのドタキャン!)、我が国と中韓両国との「歴史認識」の齟齬が中韓との外交関係の「障害」となっていることは事実でしょう。しかし、元来、懸案のない外交関係などこの世には存在しないのであって(もしそんな関係があるとするならば、それは「宗主国と属国の関係」か「連邦中央と連邦を構成する各支邦」の関係でありましょう)、日本と中韓の間に「障害」があること自体、日本の外交の拙さや失敗を意味するものではないのです。まして、他国から文句を言われる筋合いのない事項を材料とした「苦言」が原因となり「両国に十分にものが言えない」などという現状はあってはならない状況なのです。要は、投書子の立論の前提は逆立ちしていると言うべきだと思います。

畢竟、彼等特定アジア諸国が聞く耳を持たないのは彼等の都合と責任にすぎず、我が国は堂々と上に述べたような主張を中韓朝に対して(と同時に、全世界に対しても)誠実に・粘り強く・粛々と発信すればよいと思うのです。

蓋し、中韓はいわば無から有を生じさせしめる<錬金術師>のような人々なのかもしれません。そして、その錬金術師に加担する朝日新聞などはさしずめ、存在しない債権をあたかも存在するように言い張り、「一刻も早く振り込んでください、さもないと貴方の大切な人が大変なことになりますよ」と騙る<振り込め詐欺>のようなもの。そう考えれば、この投書子も<朝日新聞=振り込め詐欺>の被害者というべきかもしれない。この善意の無知か、あるいは、無知を戦術的に装っておられるのかわからないけれど、論理的には逆立ちしているとしか表現しようのない投書を読んで私はそう思いました。而して、この投書を見るにつけ、が朝日新聞等の<錬金術師的振り込め詐欺>の社会的害毒は一刻も早く是正されなければならないとも。

hannichi13


◆靖国参拝が正常化させつつある日中関係を「不毛」と嘆く倒錯した朝日新聞社説
朝日新聞の特定アジアに対する日本の戦争責任/戦後責任論は<錬金術師的振り込め詐欺>である。そんな感想を抱いた2日後、今日、平成17年(2005年)5月25日の朝日新聞社説「日中関係 ああ、なんと不毛な」はそれこそ不毛な社説である。不毛どころかそれは、見たくないものは見ない、見えないものは存在しないという子供の戯言にも等しいものであるとしか私には思えないものでした。それは、事実に背を向け、かつ、逆立ちした上で見える風景を自己の妄想の赴くままに描いたもの。よくプロの詐欺師は「詐欺行為の最中は、自分でもそれが真実だと思い込んでいるものだ」と聞きますが、この意味でも朝日新聞はプロの詐欺師なのかもしれません。以下適宜引用しつつコメントします。


「日本を訪れていた呉儀・中国副首相が、小泉首相との会談を急にキャンセルして帰国した。当初は「緊急の公務」と説明されたが、のちに中国外務省は「日本の指導者が、靖国神社の参拝について繰り返し中日関係改善に不利となる発言をしたことは大変不満だ」とする談話を発表した。首相との会談を当日になってキャンセルするのは極めて異例だ。理由を明確にしなかったのもマナーに欠ける。ただ、最近の経過を振り返れば、中国ばかりを責めることはとてもできない」


国際関係は独り相撲ではない。問題が起こるには双方に言い分もあるだろう。それは、ゲーム理論でいう「ゲーム的状況」であり、自分の取る戦略の成果が他のプレーヤーの戦略選択によって左右されるのが国際関係である。しかし、相手にも言い分があるということと、その行動が国際関係のゲームにおいて是認されるものかどうかは別のことである。外交のマナーに反する行動を中国政府が取ったことはそれだけで十分批判に値するのであり、中国の言い分なりによってその<掟破り自体>が帳消しになるわけではない。問題は重層的な構図で理解されるべきなのだ。ならば、朝日新聞の主張は問題の全体像を捉えるものではないし、逆に、それは<掟破り>さえも敢えて犯さざるをえなかった中国の言い分の意味を合理的に捉えることを不可能にする。それは、<中国無謬観-日本悪玉観>に導かれたものであるか事勿れ主義からのコメント、あるいは、その両方のいずれかであろう。


「4月下旬、小泉首相は胡錦涛国家主席とジャカルタで会談した。首相は反日デモで、主席は靖国参拝など歴史問題でそれぞれ適切な対応を求め、関係改善への努力を確認したはずだった。実際、中国はその後、各地に広がった反日デモを抑え込んだ。日本公館が投石などの被害を受けたことに謝罪はしていないが、原状回復を約束した」


「歴史問題で適切な対応」とは中国の意に沿う対応のことではない。また、国際法上、「日本公館が被害を受けたことに謝罪はしていないが、原状回復を約束した」は論外である。他国の外交使節・施設が被害にあたった場合には(両国首脳の会談によるまでもなく当然)、その受入国は賠償と謝罪を行うべきであり、中国が現在「謝罪はしていない」ことこそ常識外のフザケルナもんの事態なのである。ならば、中国が当然行うべきことと我が国がその独自なやり方で「適切に対応」すべきことをあたかも同じ次元のことのように表記する朝日新聞の主張は完全に倒錯したものと言うべきであろう。


「翻って、小泉首相の対応はどうか。先週の国会で「どのような追悼の仕方がいいかは他の国が干渉すべきでない」と述べ、これまで以上に強い口調で年内の靖国参拝に意欲を示した。 (中略)この問題を「内政干渉」と切り捨ててしまうのには無理がある。侵略戦争の加害者である日本が戦死者をどう追悼するか。そのやり方をめぐって被害者が感情を傷つけられていると言うなら、そうした思いを解く努力をする道義的な責任は加害者側にある」


侵略国を倫理的に裁く国際法規は存在しない。よって、国際政治の事態を説明するのに、自然人の犯罪を念頭に置いた「加害者」や「被害者」という概念を使うこと事態も適切ではなかろう(国際人道法上の概念;「平和に対する罪」や「人道に対する罪」も侵略戦争を裁く不法概念ではないし、所詮それらは「敗戦責任」のコロラリーにすぎない)。ならば、朝日新聞の社説子は、帝国主義による侵略戦争が違法であるとか道徳的に反省すべきことだと何を根拠に述べているのか? 実際、帝国主義時代の侵略戦争について謝罪した国が世界のどこにあるというのか? 

畢竟、(ナチスのしかもユダヤ人に対する非人道的な行為に限定して<謝罪>している)ドイツを含め、イギリスもフランスもアメリカもスペインもロシアもオランダもベルギーもイタリアも、そして帝国主義の時代に幕が降りて久しいころに行われたチベット侵攻やヴェトナム侵攻について中国自体もその侵略戦争について謝罪などしていない(中韓国交回復のおり、初代の駐韓中国大使が「朝鮮戦争において中国が韓国に侵攻したことは事実であるが、我々はそれを謝罪するつもりも遺憾の意を表明することも絶対にしない」と言い放ったことは有名な話である)。まして、「加害者」がその戦死者をどう追悼するかについて「被害者の感情」を考慮してその祭祀のやり方を変更した国など一つもないのである。

再度、朝日新聞に聞きたい。何を根拠に「侵略戦争の加害者である日本が戦死者をどう追悼するか。そのやり方をめぐって被害者が感情を傷つけられていると言うなら、そうした思いを解く努力をする道義的な責任は加害者側にある」などと言うのか、と。

日本には中韓の人々の「思いを解く努力をする道義的な責任」があり、他の帝国主義諸国にはそんな例はなくとも、そうすることが正しい国際関係のあり方だと思うのは勝手である。しかし、この主張は自分の価値観の表明にすぎないと潔く断った上で中韓政策の提言を展開されるならまだしも、単なる自分の願望に発する妄想にすぎない<道義的責任論>が世界の常識であり万人に当てはまる<ことわり>ででもあるかのように述べるのは全国紙の社説としては失格であろう。正に、この社説の論旨をして「見たくないものは見えない、見えないものは存在しない」というに等しいと私が評した所以である。


「ましてA級戦犯の戦争責任は、日本がサンフランシスコ講和条約で東京裁判の判決を受け入れたことで、国際的に決着のついたことである。その責任をあいまいにする靖国参拝に、当事者でもある中国が不信を表明するのを「干渉」とはねつけるわけにはいかない」


逆立ちした論理がここでも炸裂している。法的に戦争状態を終結させるのが目的の講和条約に<道義的な戦争責任>を確定する力などありはしない。まして、条約や判決には歴史的事実を確定するどのような効力も与えられていない。

詳しくは下記の拙稿(URL)を参照いただきたいが少し自家原稿を引用すれば、「サンフランシスコ講和条約は日本と連合国の法的な戦争状態を終結させた平和条約である。平和条約は戦争状態を終結させることを主要な目的とする条約であり、けして、戦勝国側の歴史的正当性なり敗戦国の行為の善悪を定めるものではない。つまり、平和条約としてのサンフランシスコ講和(平和)条約の使命の中核部分は条約が締結され批准されたと同時に終了したのである」。

「同条約第11条「戦争犯罪」のどこに、「靖国神社に<東京裁判の戦犯>を祀ってはならない」とか、「祀ったとしても時の内閣総理大臣が参拝してはならない」など書いてあるというのか! まして、日本がこの条約を遵守して連合国との間の戦争状態を終結させ、独立を回復した後に現行憲法に従いどのような歴史認識を編み上げ、また、国家の正当性に関するイデオロギーを形成するかは日本国民の自由であり、豪も、戦争状態終結を目的とした条約に拘束されるものではない」。

更に、所謂「A級戦犯」に関しては、「昭和28年(1953年)には、「戦争犯罪による受刑者の放免に関する決議」が国会で全会一致で可決され、サンフランシスコ平和和条約第11条に従い(法論理的には、従う必要はないのだけれど、我が日本はきちんと関係諸国に仁義を通した上で、)関係諸国の同意の下に総ての「戦犯」は全員釈放された。昭和29年(1954年)からは「戦傷病者戦没者遺族等援護法」によって、「戦犯」の遺族も他の戦没者遺族と同じく遺族年金・弔慰金が支給されるようになった(翌昭和30年には、東京裁判のための拘禁期間をも支給額算定対象期間とした恩給の支給も開始された)」のである。よって、「その責任をあいまいにする靖国参拝」などの表記は言いがかり以外の何ものでもない。

日中関係の<悪化>は外交の失敗か?
 
サンフランシスコ平和条約11条「the judgments」の意味
 
中韓との友好関係構築の特効薬としての首相靖国参拝
 


「日本が植民地支配した韓国も同じだ。首相は01年の金大中大統領との会談で、靖国神社に代わる追悼施設の検討を約束した」


その通りだ。そして、当時の福田官房長官を中心に日本政府は約束通り「検討」した。その検討の結果、到底、靖国神社に代わる追悼施設の創設など国民世論の動向を鑑みるに不可能というのが現在の結論ではないか。それ以上のことを韓国に対して我が国は何も約束などしてはいない。


「「内政干渉」という言葉には、これ以上の問答は無用といわんばかりの響きがある。(中略)こんな切り口上を続けていては、不毛な連鎖は深まるばかりだ」


話す余地のないものは話せないと率直に言うことを「不毛」と感じる心性こそ問題ではないか。むしろ、今までの日本の外交当局と中韓の利権に群がる政治家が「話す余地のないものを、あたかも何かまだ話せる」かのような不誠実なメッセージを発信してきたことが現在の対中韓問題の一つの原因である(ゲーム理論風に言えば、我が国は誤った戦略を採用し続けてきた)。

ならば、「今までの我が国の対応がいかに間違いであり、今後は内政干渉に属することに関しては一切妥協はしない」というメッセージを送ることは(長期的だけでなく、北朝鮮を巡る安全保障問題や東シナ海の資源問題について我が国の主張を遠慮なく両国を始め世界に発信することをそれは可能にし、また、中国のカントリーリスクを冷静に日本企業が経営戦略に織り込むことを不可避にする点で、短期的にみても)我が国の利得を向上させ、ひいては、合理的な討論によって中韓両国と日本との間の懸案を解決していく外交交渉のマナーを構築することにつながる実に豊饒な戦略ではなかろうか。

中韓との現下の緊張関係は今までの見せ掛けの友好関係を演出してきた不毛な交渉を打破するものである。朝日新聞の社説子にはそれが見えないらしい。朝日新聞の社説は、過去の見せ掛けの友好を懐かしんでいるだけであり、それは、あたかもシルクハットから鳩を取り出す手品のように見せ掛けの友好関係を今まで導出してきた(国際法的にも国際政治の慣行からも何の根拠もない)諸概念;「加害者―被害者の構図」「侵略戦争の道義的責任」「サンフランシスコ講和条約は日本の独立後も所謂「A級戦犯」に道義的責任を問う根拠」「日本はその戦前の行いと体制を歴史的と倫理的に総批判した」などの諸概念を、世界の常識と捉える倒錯したものに他ならない。私がこの社説を称して、「後ろ向きに逆立ちしたもの」と規定した所以である。



(2005年5月25日-5月26日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 特定アジアと日本
ジャンル : 政治・経済

hannichi14
【Anti-Japan Demonstration in Shanghai】


特定アジア関係はいかにすれば改善できるのか。支那・韓国・北朝鮮との安定した関係をいかにすれば日本は実現できるのだろうか。このテーマについてここ数週間考えている。幾つか論稿も発信した(以下の3本)。


中韓との友好関係構築の特効薬としての首相靖国参拝
 
日中関係の<悪化>は外交の失敗か?
 
「歴史教育を再構築する」という日本の課題
 

本稿はこの一連の論稿の"go over"である。論点と論理の確認と見直しの作業。而して、本稿の「思考の補助線」は、朝日新聞社説「日中会談 深刻さは変わらない」である(平成17年4月25日の東京本社版、ただし、朝日新聞のサイトでは4月24日分の社説としてアップロードされている。川崎市では宅配版の印刷には間に合わなかったのでしょうかね。それだけ、朝日新聞も小泉首相と胡錦涛国家主席の会談の成果については落胆したか、あるいは、会談の評価分析について悩んだということかもしれない)。「補助線」を引用する(以下、引用開始)。

とりあえず傷口に絆創膏(ばんそうこう)をはって出血を止めたということか。だが、傷そのものには何の治療も施されていない。いつかまた、さらに悪化して傷口が開く恐れが強い。インドネシアで開かれた日中首脳会談で、小泉首相と胡錦涛国家主席は両国間の友好関係を大切にし、発展させていくことで一致した。

週末ごとに数万人規模の反日デモが中国各地で行われ、日本大使館や商店、留学生らが襲われる。国交正常化以来、最悪といっていいほど両国関係がささくれだつなかでの首脳会談だった。これ以上の事態の悪化を何としても食い止めなければならないという両国の思いは、会談前からはっきりしていた。(中略)

しかし、会談の内容は厳しいものだったようだ。両首脳とも反日デモや靖国神社参拝、歴史問題などでの基本的な立場は譲らなかった。外相会談などで浮き彫りになっていた、すれ違いの構図は変わらなかった。結局、今回の反日デモの背景となった問題はまったく手つかずで先送りされたことになる。両国政府はこのことを重く受け止めるべきだ。(中略)

村山談話を持ち出すことで歴史問題に対する自らの真剣な姿勢を強調しようとした小泉首相だが、まさにその日に少なくとも80人の国会議員や麻生総務相がそれぞれ靖国神社に参拝した。議員たちは「戦時に亡くなった方の御霊を参拝するのは自然な姿」というが、中国側にはどのように映っただろうか。靖国参拝をめぐる日中間の距離があまりに大きいことが再確認されてしまった。

重ねて言うが、首相は靖国神社参拝に注がれる隣人の厳しい視線を受け止め、歴史問題についてもっと真剣に説明する必要がある。中国側も、反日デモでの破壊活動の責任を正面から認めない限り、日本側の反中や嫌中感情は広がるばかりであることを肝に銘じるべきだ。(以上引用終了)



この問題に関する私の考えについて詳しくは上に掲げた拙稿を見ていただくとして、本稿では私の主張の骨子だけをまとめ、最後にこの朝日新聞の社説に対して私の立場からコメントをする。私は首相の靖国神社参拝と歴史教科書に象徴される日本と特定アジア間の歴史認識の違いについてこう考えている。


◆外交関係
(1)異なる国民国家間で歴史認識の完全な一致などありえない。

(2)相手国の歴史認識を受け入れることが前提となるような<友好関係>は存在しない。
  (そのような外交関係を世界=世間では「支配国」と「属国」の間の関係と言うのである)

(3)ならば、支那や韓国との間で、歴史認識の一致を目標とする外交政策の提言は、
  ・不可能な事項を目標に据えようとする不適切なものか
  ・日本を中韓の属国にしようとする不埒なものか
  これら両者のいずれかである。よって、朝日新聞も愚か者か売国奴のいずれかであることになる。


◆靖国参拝
(4)靖国神社がその社に誰を祀ろうとそれは靖国神社の自由である。

(5)靖国神社に、いつ誰が参拝しようともそれはその個人の自由である。しかし、

(6)国家のために犠牲となられた英霊に対し感謝の誠を奉げることは、時々の政治指導者の政治道徳的な責務である。


◆歴史教育
(7)国家がその国民に、国民としてのプライドとアイデンティティーを涵養せしめることは(そして、外国人たる市民に、その国がいかなる国家権力を正当化するイデオロギー=政治的神話をオーソライズしているかを示すことも)国内秩序を維持し国民を政治的に統合することを主要な機能とする主権国家の責務であり、それは、時々の政治指導者にとっては憲法が課す責務である。

(8)我が国においては、国定教科書の制度は採っておらず、ある水準以上の学術的な内容をキープしていて、かつ、(教育の機会均等を確保するためと、上記(7)の目的のために制度化された)学習指導要領の定めるガイドラインを踏まえている限り誰がどのような教科書を書き採択を目指そうが自由である。

(9)扶桑社の『あたらしい歴史教科書』が、上記(8)に述べたように「ある水準以上の学術的な内容をキープしており、かつ、学習指導要領の定めるガイドラインを踏まえている限り」それを検定に合格させることは当然であり(合格させなければその検定は違憲・違法である。)、そのような学的水準と学習指導要領のガイドラインを踏まえた教科書を公平なる教科書採択の土俵に上げることは、国内的にも対外的にも何の問題もない(★)。


◆外交における歴史問題と我が国外交当局の責任
(10)他国の歴史教科書の内容や歴史教育について批判するのは明確な内政干渉である。

(11)しかし、他国の歴史教科書や歴史教育について外国政府が何もコメントできないわけでもない。問題は、その批判と改訂や改善の申し入れを外交交渉のカードにするかどうかである。

(12)我が国の今までの外交当局は、「反日」的だけならまだしも、歴史の事実からかけ離れた中韓の国定の歴史教科書や歴史教育に対して(寛容にも)音無しの構えを貫いてきた。他方、彼等からの我が国への批判に対しては曖昧な謝罪と遺憾の意の表明を連発しながら対処療法的な対応を繰り返してきた。否、その対処療法のプロセスでは、それはしばしば<歴史の歪曲>さえ行ったのである(★)。

(13)日本の国賊的なまでに事なかれ主義的な外交当局の取る歴史教育に関するこれまでの姿勢は文字通り国賊的であり、それは日本国民に不適切というよりも間違った歴史認識を与える結果をもたらした。

(14)日本の国賊的なまでに事なかれ主義的な外交当局が取ってきた歴史教育に関するこれまでの国賊的な施策は日本国民に害をなしただけでなく、中韓の若い世代にも間違った歴史認識と不適切で歪な対日関係認識(要は、歴史問題は対日外交カードになり、このカードを一度ちらつかせれば日本はすぐに謝ってくる。何故ならば、日本は歴史的に見て極めて悪辣な所業を中韓に対して行ったからだ、という認識)を与えた点で、安定的な国際関係が東アジアで樹立されることを難しくした。

(15)中韓との間で歴史問題の処理を担当した外務省指導部は、よって「平和に対する罪」を犯したのであり、彼等は国際法における戦犯である。(←これは残念ながらジョーク。残念ながらね)


◆外交における英霊祭祀問題と我が国外交当局の責任
(16)他国の英霊祭祀(我が国では靖国神社の祭祀)の内容について批判するのは明確な内政干渉である。

(17)しかし、他国の英霊祭祀について外国政府が何もコメントできないわけでもない。問題は、その批判と改訂や改善の申し入れを外交交渉のカードにするかどうかである。

(18)我が国の今までの外交当局は、「反日」的だけならまだしも、支配的な国際法理解と国際関係の慣行からかけ離れた中韓の英霊祭祀に対して(寛容にも)音無しの構えを貫いてきた。他方、彼等から我が国への批判に対しては曖昧な謝罪と遺憾の意の表明を連発しながら対処療法的な対応を繰り返してきた。否、それはしばしば<国際法の法理の歪曲>さえ行った。

(19)日本の国賊的なまでに事なかれ主義的な外交当局が取ってきた政治指導者による靖国神社参拝に対するこれまでの姿勢は、文字通り国賊的であり、それは日本国民に不適切というよりも間違った国際法と国際関係認識、そして、憲法の政教分離原則の理解を与える結果をもたらした。

(20)日本の国賊的なまでに事なかれ主義的な外交当局が取ってきた靖国参拝に関するこれまでの国賊的な施策は日本国民に害をなしただけでなく、中韓の若い世代にも間違った国際法と国際関係認識、ならびに不適切で歪な対日関係認識(要は、靖国参拝問題は対日外交カードになり、このカードを一度ちらつかせれば日本は謝ってくる。何故ならば、日本は国際法的に見て極めて悪辣な所業を中韓に対して行ったからだ。ドイツなどに比べれば日本の戦後責任の取り方がいかに姑息で不誠実であるかは自明なのだから、という認識)を与えた点で、安定的な国際関係が東アジアで樹立されることを難しくした。

(21)中韓との間で靖国参拝問題の処理を担当した外務省指導部は、よって、実体的な近隣諸国との外交関係を悪化させたのであり、彼等は潔く職を辞すべきである。(これはジョークではない。当然である)


◆到達可能な日中友好の目標とそれへのロードマップ
(22)歴史認識での一致など日中韓で求めるべきではなく、相互に相手側が自国民にとって不愉快極まりない歴史認識を持っていること/歴史認識を持つ権利があることを確認すべきである。

(23)ただし、そのような相手の歴史認識を自国が容認できないことは、都度、事実と論理をもってアピールし続けるべきである。しかし、それを外交交渉のカードにしてはならないけれども。

(24)相互に不愉快な歴史認識にもかかわらず、外交関係の枠組みは維持せられるべきである。相手国の大使館や領事館の安全は受入国が責任を負うことなどはその「外交関係の枠組み」の最たるものである。

(25)日本政府は国賊的な外交当局が歴史認識に関してこれまで内外に発信してきた不適切なメッセージを、事実と論理を尽くして、しかし、一刻も早く明確に否定すべきである。宮沢・河野の両官房長官の談話などはその最たるものであろう。

(26)日本政府は国賊的な外交当局が靖国参拝問題に関してこれまで内外に発信してきた不適切なメッセージを、事実と論理を尽くして、しかし、一刻も早く明確に否定すべきである。中曽根政権の靖国参拝自粛声明などはその最たるものであろう。

(27)政治における最高の言語は<行動>である。ならば、時の首相は淡々と靖国神社にしかるべき時に参拝すべきであり、日本国民はこの夏の教科書採択において、粛々と扶桑社の歴史教科書を目標の10%前後の採択率でもって採択すべきである。

★註:中韓の歴史教科書
議論をより生産的にするためは事実をもって語るべきである。更に、私は、中韓の教科書の原典を読んでいないし、それらが実際に教育現場で子供達にどのように教えられているかについても、数ダース程度の体験者から話を聞いただけであり、本文では独立した項目にはしなかった。けれど、それらの翻訳本を読む限り、中韓の歴史教科書は(歴史学方法論の水準から見ても、そこに書かれた内容の点でも)我が国の歴史教科書と比べて、他国との友好関係を促進するという(朝日新聞のいうような意味での、)歴史教科書の目的において特に優れているとは言えないと思う(笑)。

★註:官房長官による歴史の歪曲
昭和57年8月(1982年):宮沢喜一官房長官は、教科書検定において「侵略」→「進出」の書き換え指示があったとの朝日新聞の誤報によって巻き起こった中韓政府からの批判に対して、「政府の責任において教科書の記述を是正する」という談話を発表した。平成5年8月(1993年):河野官房長官は「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話」を発表して、ある詐欺師が言い出し朝日新聞が広めた「従軍慰安婦」なる<蜃気楼>の存在を肯定した。



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最後に上記の認識を踏まえて朝日新聞の社説を検討しておく。

「とりあえず傷口に絆創膏(ばんそうこう)をはって出血を止めたということか。だが、傷そのものには何の治療も施されていない。いつかまた、さらに悪化して傷口が開く恐れが強い」、「会談の内容は厳しいものだったようだ。両首脳とも反日デモや靖国神社参拝、歴史問題などでの基本的な立場は譲らなかった。外相会談などで浮き彫りになっていた、すれ違いの構図は変わらなかった。結局、今回の反日デモの背景となった問題はまったく手つかずで先送りされたことになる。両国政府はこのことを重く受け止めるべきだ」


「傷」そのものがなくなることはない。これは外交において土台不可能な目標を勝手に設定して、その履行を当局者に迫るものである。上記、(1)~(3)参照。


「インドネシアで開かれた日中首脳会談で、小泉首相と胡錦涛国家主席は両国間の友好関係を大切にし、発展させていくことで一致した」


外交においてこれ以上のことは(少なくとも政治には)求めるべきではない。両首脳はよくその責務を果たされたというべきであろう。上記、(1)~(3)参照。


「週末ごとに数万人規模の反日デモが中国各地で行われ、日本大使館や商店、留学生らが襲われる。国交正常化以来、最悪といっていいほど両国関係がささくれだつなかでの首脳会談だった」、「中国側も、反日デモでの破壊活動の責任を正面から認めない限り、日本側の反中や嫌中感情は広がるばかりであることを肝に銘じるべきだ」


支那は国際法に則り日本にその義務違反につき謝罪と損害の補償をすべきである。また、日本政府はその謝罪と補償を(声高である必要はないが、)粘り強く明確に要求すべきであり、また、そう要求しているという姿勢を内外にこれまた粘り強く明確にアピールすべきである。上記、(23)参照。


「村山談話を持ち出すことで歴史問題に対する自らの真剣な姿勢を強調しようとした小泉首相だが、まさにその日に少なくとも80人の国会議員や麻生総務相がそれぞれ靖国神社に参拝した。議員たちは「戦時に亡くなった方の御霊を参拝するのは自然な姿」というが、中国側にはどのように映っただろうか。靖国参拝をめぐる日中間の距離があまりに大きいことが再確認されてしまった」


歴史認識で日中や日韓が一致することはありえない(上記、(1)~(3)、(7)~(9)参照)。また、歴史教科書や首相を始めとする政治家の靖国参拝を他国から咎められる筋合いはない(上記、(10)~(21)参照)。そして、「その日に少なくとも80人の国会議員や麻生総務相がそれぞれ靖国神社に参拝した」ことについては、靖国神社の本来の祭礼の日(春の例大祭)に件の首脳会談が重なっただけであり、また、政治家が靖国神社に参拝し英霊の御霊に感謝の誠を奉げるのは日本の政治家たるものの職業と職務に付随する道徳的な責務でさえあろう(上記、(4)~(6)参照)。


「重ねて言うが、首相は靖国神社参拝に注がれる隣人の厳しい視線を受け止め、歴史問題についてもっと真剣に説明する必要がある」


その通りだ! 朝日新聞も時には良いこと言うじゃないか(笑)。日本は今まで繰り返してきた不適切な外交を大胆に改めるべきなのである。そして、何故改めるのか? 今までの日本政府が発信してきたメッセージは何ゆえに誤りなのか? これらを事実と論理を丁寧に添えて内外に明確にアピールすべきなのである(上記、(22)~(27)参照)。

尚、歴史教科書と靖国参拝を巡る私の基本的な考えについては次の拙稿を参照いただければ嬉しい。かなり古く前回2001年の夏を総括した論稿ですが、逆に、歴史教科書問題を巡る普遍的な課題を考える上での参考になると思います。蓋し、「「歴史教科書問題」などは存在しない」、と。

・朝日新聞批判/2001年夏 靖国と歴史教科書
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E/E20.htm



(2005年4月28日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 特定アジアと日本
ジャンル : 政治・経済

hannichi13



日中関係が<悪化>しているらしい。昨日、平成17年4月23日には小泉首相と胡錦濤主席の日中首脳会談が、インドネシアはバンドンで開催されているアジア・アフリカ首脳会議に合わせ日中関係を改善すべくおこなわれた。これは日中間の対話促進の重要性を確認しただけという、正に、会談したことだけが会談の成果という首脳会談。まあ、正直、「反日」と「嫌中」の両国民の感情が戦後の互いの国のあり方に根ざしているものである限り短期間に双方が満足する日中関係の改善は難しいだろう。そう私は考えている。

異なる文化と異なる歴史を持ち、国家の正統性についても各々が独自のイデオロギーを基盤にしている主権国家の諸国民を想定する場合、「反日」や「嫌中」の感情をなくすこと自体がそもそも無理なことではないか。ドイツとポーランド、トルコとギリシアの関係を想起すればこの懐疑は悲観的にすぎるというわけではないと思う。

誰も不可能を強制されないし、また、不可能な事項を外交政策の目標にするべきでもない。外交関係が目指すべきは、よって、未来永劫とは言わないが少なくとも数世紀の間は解消されることはないだろう「反日」や「嫌中」の国民感情を制御して、秩序ある人・物・金・情報の交流を具現する枠組みを造りそれをメンテナンスすることに尽きるのではないか。

そう考えれば、「反日」や「嫌中」の雰囲気が両国を覆っている現状は必ずしも忌々しき事態ではない(むしろ、それが国際関係の正常な姿でさえある)。問題は、「反日」デモにより日本大使館や領事館が受けた被害に対して(それは、外交関係に関するウィーン条約第22条・領事関係に関するウィーン条約第40条に明らかに反する支那政府の義務違反である。)、いまだに謝罪せず賠償もしようとしない支那の<国際的な世間知らずの事態>である。

hannichi12


◆船橋洋一提言批判
つらつらこんなことを考えていた折、日中関係の打開へ向けた提言を朝日新聞で読んだ。二人の「一さん」の提言である。朝日新聞のコラムニスト船橋洋一さんと自民党衆議院議員の加藤紘一さんのコメント。いずれも東京本社版で、一昨日22日掲載の船橋洋一「日中関係を考える 井戸に毒を入れるな」(総合1面)と、昨日23日の加藤紘一「首脳は改善へ意思示せ」(私の視点・ウィークエンド)である。

これらは、大所高所から日中の政府をともにたしなめる風の大人の主張らしきもの。そんな風を装ってはいるけれど、要は、国際法と国際政治に関する彼等の無知をさらすものにすぎない。そう私には思われた。もっとはっきり言えば、船橋コラムは朝日新聞一流の厚顔無恥というか「あなた何様」もんの文章であり、加藤代議士の投書は、彼の政治家としてのセンスの無さを示している。流石は、「加藤の乱」で世間を騒がせた上に宰相の器には程遠い見事なまでの根性なしぶりを満天下にさらした御仁だけのことはある。而して、あんたたちはどこの国の新聞でどこの国の政治家なのかね、と聞きたくなる代物であった。

こうまで悪態をついたのなら、本来は両「一さん」の文章に対してワード・ツー・ワードでコメントするのが礼儀かもしれない。しかし、<致命傷>は1箇所でもあればとりあえず批判としては充分だろう。正直、公私多忙のおりそれ以上は付きあいきれんよ。さくさく行こう。最初の「一さん」。船橋洋一さんはこう語られる(以下、引用開始)。

「謝れ」「いやそちらこそ謝れ」
「責任を取って欲しい」「そちらが責任を取らないからこんなことになるのだ」
売り言葉に買い言葉である。こんな芸のない外交があるだろうか。すでに日中両国とも外交では敗者である。

世界中のメディアは、日中双方の器量と指導力に大きな疑問符をつけた。日本は、いつまでも過去を克服できない独りよがりで、懲りない国として描かれた。中国は、統治のためならデモでも反日も歴史も操作する無慈悲で、怖い国と見なされた。(中略)

両国の多くの先達が日中正常化のために井戸を掘った。そこに毒を入れてはならない。反日、反中民族主義という毒である。日中首脳は何よりも、その一点で合意してほしい。その上で、両首脳に戦略的決断を促したい。

正常化の次の段階として、和解に向けての基本的枠組みを作り、それぞれ、国民教育を行う。日本は、過去を克服するための国策を確立する。中国は、日本との歴史和解のために手をさしのべる。日本の責任は重い。歴史問題の克服は、国家百年の計と心得るべきだ。その覚悟がいる。(以上、引用終了)



船橋コラムのおかしさは最初の1行から炸裂している。「明確な国際法の義務違反を謝れ」ということと「歴史認識の違いを謝れ」ということは、どこをどうすれば喧嘩両成敗になるような事態として理解できるというのか。こんな大雑把な認識のことを世間では「味噌糞いっしょ」というのである。上で書いたことの復習だけれども、両当事者の意見が相違しているという事実と、秩序ある外交関係を維持することは別物である。そして、国際関係においては両国民の意見や歴史認識が完全に一致することが極めて困難(不可能)であるがゆえに、秩序ある外交関係を維持するための制度(外交関係に関するウィーン条約や領事関係に関するウィーン条約はその最たるものである)は、具体的な意見の相違にかかわらず厳しく守られなければならない。

つまり、歴史認識に関する意見の相違を理由にして、外交関係を維持するための制度への攻撃を受入国側の政府が傍観することは正当化されえない。これらを混同して、支那も悪いが日本も悪い式の喧嘩両成敗論は、一見、大人の議論のようで、実は、書生論である。それは、「この世には最終的に合意できない見解の相違が存在する。しかし、それらの見解の相違にもかかわらず(互いに不愉快さを抱きつつ)、平和的に共存するための知恵を出し合い自己規制するのが国際関係というものだ」という本当の大人の議論ではない。

簡単な話だ。支那が、支那共産党の近現代史認識と「台湾やチベットは支那の領土である」とかの(高句麗は支那の一地方政権だったとかの)大義名分を世界に認めさせたいのならなおさら、秩序ある外交関係のメンテナンスは他国が支那の主張に耳を傾けるための前提なのだ。つまり、「反日」デモによる外交関連施設の被害に対する日本政府の補償要求に対して、頬かむりするどころか<国を挙げて逆ギレ>している現在の支那の姿は、「相手の電話線を自分で切断しておいて、数年前の(法律的には解決済みの)事件についての恨みつらみの抗議に対して、誠意ある謝罪を電話でかけてこい」と要求する愚に等しい。

船橋コラムの書生論は民族主義の否定的評価にも顕われている。率直に言えば、民族主義を解消させることなど主権国家が消滅しない限り不可能である。なぜなら、近代以降の「民族」とは、歴史と文化と伝統を触媒にしながらも、国民国家の正統性イデオロギーとして成立したそれは極めて近代特有の観念だから。

而して、民族主義の問題は、よって、民族主義が<法と秩序の崩壊>に向けられることに尽きる。ならば、歴史認識に関する「和解」の意味する内容も完全な和解;日中が互いに相手の納得する歴史認識を持つことなどではありえない。

なぜならば、日中平和友好条約や共同宣言に盛り込まれた歴史認識;大東亜戦争の終結にいたる20年近くの間に、結果として重大な損害を多くの支那国民に日本が与えたこと(当時の支那は、国民党政権下の「中華民国」だったとしても♪)を<謝罪>する;支那国民が(だから、その「支那国民」というのは中華民国の国民なんだよ!)被ったその重大な損害に関しては、日本の当時の政治指導者が責任を取るべきだ、という歴史認識を日中が共有し続けたとしても、両国の国民が細部において異なる近現代史認識を持つことを誰も止められないだろうからである。まして、大東亜戦争前の日本の行為が国際法に豪も反するものではなかったという法的認識はこれらの条約や宣言とは独立に有効な認識なのだから。



◆加藤紘一提言批判
もう一人の「一さん」、加藤紘一さんは、「外務省の支那担当者として、政界の一員として日中関係を見守ってきた立場からすれば、今の状況は、戦後で最も危機的だ」、「この問題は、単に日中間だけの話ではないという危機感を持つべきだろう」との状況認識を披露された上で、ご自身の国際法の無知を(あるいは、「専門家」の権威を使って素人を騙す狡猾さをかな?)こう曝らしておられる。以下引用開始。


靖国参拝問題の本質は、神社にまつられている14人のA級戦犯をどう見るかということに尽きる。

ナチスにすべての国内的、国際的な戦争責任を帰したドイツと違って、日本は国内的に戦争責任についての論議ができず、極東軍事裁判の判断を、サンフランシスコ講和条約で受け入れた。そうである以上、私は靖国問題は、講和条約という国際的な約束を、日本が守り続けられるかどうかの問題だと思っている。A級戦犯がまつられている靖国神社に、たとえ私人としてでも首相が参拝すれば、日本に講和条約を守ろうという意思があるのかどうかが疑われる結果になるのは当然だ。

国のために犠牲になった人に慰霊の誠をささげたいというのは当たり前の感情だ。ただ、日本がそれを強調すれば中国側も先の大戦で何人が犠牲になったかなどと再び論じ始めることになる。これは決して建設的なことではない。(中略)いまこそ小泉首相と胡錦涛主席が、「関係悪化をここで食い止めるんだ」という明確な意思表示をすることが、極めて重要だ。(以上引用終了)



先の大戦で犠牲になった人々の実体を明らかにすれば困るのは支那の方であろう(日本の悪行を支那史の中できちんと位置づけるために、「南京大虐殺」や「三光作戦」などの他に、国共内戦や大躍進政策に文化大革命の犠牲者も明らかにしてもらいたいものだ。ついでに、朝鮮戦争やヴェトナム侵攻にチベット攻略の実像もね)。そして、別に「日本がそれを強調すれば支那側も・・・・再び論じ始めることになる。これは決して建設的なことではない」とは私は思わない。

加藤さんの投稿では何より、今時、「ナチスにすべての国内的、国際的な戦争責任を帰したドイツ」をポジティブに評価するその不勉強さに、正直、呆然とした(要は、ドイツは国家としての戦争責任は存在しないという無責任な態度を取り続けているのである)。けれども、これらについては多くの論証が積み重ねられており(流石の朝日新聞も「戦争責任の取り方はドイツに見習え」などという主張は最早行っていない。)、サンフランシスコ(講和)平和条約にしぼって以下コメントする。

サンフランシスコ平和条約は日本と連合国の法的な戦争状態を終結させた平和条約である。平和条約は戦争状態を終結させることを主要な目的とする条約であり、けして、戦勝国側の歴史的正当性なり敗戦国の行為の善悪を定めるものではない。つまり、平和条約としてのサンフランシスコ平和条約の使命の中核部分は条約が締結され批准されたと同時に終了したのである。そして、サンフランシスコ平和条約を日本は完全に遵守した。

元外交官の加藤さんに伺いたい。同条約第11条「戦争犯罪」のどこに、「靖国神社に<東京裁判の戦犯>を祀ってはならない」とか、「祀ったとしても時の内閣総理大臣が参拝してはならない」など書いてあるというのか! まして、日本がこの条約を遵守して連合国との間の戦争状態を終結させ、独立を回復した後に現行憲法に従いどのような歴史認識を編み上げ、また、国家の正当性に関するイデオロギーを形成するかは日本国民の自由であり、豪も、戦争状態終結を目的とした条約に拘束されるものではない。

要は、「極東軍事裁判の判断を(日本は)、サンフランシスコ平和条約で受け入れた。そうである以上、私は靖国問題は、講和条約という国際的な約束を、日本が守り続けられるかどうかの問題だと思っている」という加藤さんの認識は法律論としては完全に間違っている。敷衍する。これまた簡単な話だ。


(1)裁判所の構成と適用された裁判規範、そして、裁判手続きのデュープロセスの三面のすべてにおいて極東軍事裁判(東京裁判)は不適切な裁判である。

(2)東京裁判は事後法の禁止原則を犯す違法な裁判である。

(3)東京・ニュールンべルグの両裁判を通して、「平和に対する罪」「人道に対する罪」等々の新しい国際人権法上の犯罪類型が確立されたという国際制史上の意義があったとしても、上記(1)(2)の瑕疵は治癒せしめられるものではない。

(4)戦争状態の終結後も占領下の裁判の効果を将来にわたって有効とするサンフランシスコ平和条約第11条は慣習国際法に反し無効である。少なくとも日本が独立回復後そう主張して第11条の無効を宣言することを条文自体を根拠に(日本が条約に調印し批准したことを根拠に)非難することは誰にもできない。

(5)サンフランシスコ平和条約第11条は法概念論(≒実定法における法源論)から見ても無効である。同条約総体は現行憲法第98条第2項から法的効力を持つにせよ、第11条で「戦犯」の人権を制限し続けることは現行憲法上不可能であるからである。

(6)元来、「戦犯」なり「A級戦犯」なる法律用語は占領下においてさえ存在しない。まして、現行憲法下ではなおさらである。これは「言葉の遊戯」ではなく、存在しない法律概念を元にある特定の人間の人権を制限することは完全に違法である。

(7)更に、昭和28年(1953年)には、「戦争犯罪による受刑者の放免に関する決議」が国会で可決され、サンフランシスコ平和条約第11条に従い(上記(1)~(6)に述べたように法論理的には、従う必要はないのだけれど、我が日本はきちんと関係諸国に仁義を通した上で、)関係諸国の同意の下に総ての「戦犯」は全員釈放された。

(8)昭和29年(1954年)からは「戦傷病者戦没者遺族等援護法」によって、「戦犯」の遺族も他の戦没者遺族と同じく遺族年金・弔慰金が支給されるようになった(翌昭和30年には、東京裁判のための拘禁期間をも支給額算定対象期間とした恩給の支給も開始された)。


加藤さんは、「サンフランシスコ平和条約」で日本が何を受け入れたと言うのだろうか? もちろん、日本は「極東軍事裁判の判断を、サンフランシスコ平和条約で受け入れた」。それは間違いない。(1)~(3)の不条理にもかかわらず日本は同条約を締結することによって(片面的にせよ旧連合国との間の)戦争状態を終了させたのである。

しかし、そこで日本が受け入れたものは、海外領土の放棄や日本の社会制度の改革等々占領軍から課せられた命令を誠実に遵守遂行して、占領政策の是非や非道については独立後も法律的に争わないことを約束し、戦争を終結させることに尽きる。少なくとも、国際法的と外交史的にはそうである。ならば、独立後の「戦犯」なるものの処遇に関して(まして、政府から独立した宗教法人たる靖国神社に誰を祀り誰がいつ参拝しようが靖国神社と参拝者の勝手である)、サンフランシスコ平和条約や東京裁判を持ち出すことは何の意味もないのである。

もちろん、サンフランシスコ平和条約や東京裁判にここで述べた以外の内容を見出すのは論者の勝手である。しかし、そうしたいと思う論者はその法的と外交史における根拠を他者に示さない限り、彼等の主張は単なる願望か妄想、あるいは、国際法の素人を見下した詐術にすぎない。


いずれにせよ、船橋と加藤の両「一さん」の意見はある点では正しい一点を衝いている。それは、「歴史問題の克服は、国家百年の計と心得るべきだ。その覚悟がいる」という指摘であり、「いまこそ小泉首相と胡錦涛主席が、「関係悪化をここで食い止めるんだ」という明確な意思表示をすることが、極めて重要だ」という提言である。その通りだ。どこの国の新聞社の社員かどこの国の国会議員かわからない発言をするわりには良いこというじゃないか。そう、日本は、支那や韓国に対して謝る筋合いのないことを謝ってきたという戦後の誤った外交のやり方を改め歴史問題を克服すべきなのである。

正に、「歴史認識は国家100年の計」に関わる重要事項であり、自国の立場を明確に論理的に、かつ、コンシステントに相手に主張できないような国が、長期的に見た場合、他国との「関係悪化を食い止める」ことなど本質的にはできるはずはないのだろうから。

尚、本稿で提示した認識を踏まえ、どのようにすれば日中の友好関係を構築できると私が考えているか、そして、サンフランシスコ平和条約11条についての私の基本的な考えについては下記の拙稿を参照いただきたい。

中韓との友好関係構築の特効薬としての首相靖国参拝
 
・サンフランシスコ平和条約11条「the judgments」の意味
 



(2005年4月24日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : ヘタレの売国奴支配の日本
ジャンル : 政治・経済

yasukuni77


日韓中の友好関係はどうすれば実現可能か。ここ数日これを考えていました。「これは間違いないだろう」と思われる事柄をまず箇条書きにして、次にそれらの事柄をもとに、最も早く効果的で、かつ、他の国際政治や国際経済の諸要因から影響を最も受けにくいタイプの方法と工程を考えてみたのです。

今日、連休前の最後の休日の早朝。天照大神の神助か(あるいは、悪魔の囁きか)今朝6時頃アイデアが浮かびました。その後2時間の<検算>。真理はシンプルというのは本当だと思います。その解;中韓との間に友好関係を樹立するための日本の最適戦略は極めて常識的な線に落ち着くように思えたからです。けれども、何らかの計算間違いや条件の見落としがあるのかもしれない。よって、これを読んでいただいた方からコメントをいただければ大変ありがたいです。而して、その経路とは。


中韓との友好関係を構築するための日本にとっての支配戦略の経路は、(1)春例大祭における首相の靖国神社参拝であり、次に、(2)今夏の教科書採択において扶桑社『新しい歴史教科書』が粛々と予定通り10%前後の採択率をマークすること。最後に、(3)明治以降大東亜戦争終結まで日本が行った行為は何ら国際法に反するものではなく、かつ、日本の戦争処理は(国民の一部たる「ナチス」にすべての戦争の責任を押しつけておいて「解決した」と称するドイツの欺瞞とは異なり、戦争責任と戦後責任の双方とも)既に完全に日本は果たしていることを、今年8月15日に首相が「歴史認識に関する首相談話」として内外に(事実と根拠と出典を簡潔にまとめた資料の配布と同時に)発信することだ、と。

尚、歴史認識に関する首相談話と同時に配布される資料は、日本語・英語・北京語・広東語・韓国語・ドイツ語・フランス語・ロシア語・スペイン語・タガログ語・マレー語・ヒンズー語・アラビア語の最低でも13ヶ国語版が準備され配布されるべきであり、(3-2)今夏8月15日時点で内閣総理大臣が小泉純一郎氏から安倍晋三氏なりに代替わりしている場合には、「歴史認識に関する首相談話」は新首相の午前の靖国神社参拝の後、数時間の間を置いた上で落ち着いた雰囲気の中で行われるべきであろう。この戦略の主旨は、

(1)英霊の御霊にお参りするに本来もっとも相応しい礼大祭日の首相靖国参拝
これにより中韓の「反日」動向などに日本が豪も影響されていないことを内外に示す!
同時に、本来の祭礼日に参拝することで、中韓の政治ありきの「反日」戦略とは異なり、首相の靖国参拝は純然たる個人の信条のマターであり、よって、理由の如何を問わず一切の内政干渉を日本政府は認めるつもりはないという姿勢を内外に示す。

(2)扶桑社『新しい歴史教科書』の採択率10%程度の達成
日本の子供達にどんな歴史を教えるかは、中韓の「反日」動向や日本国内の戦後民主主義を信奉する朝日新聞を始めとする勢力の<雑音や妨害>にかかわらず、日本国民自身が決めるという姿勢を内外に示す。中韓の内政干渉にもかかわらず、良識ある日本国民が当初の予定通りの目標採択率(52%でも25%でも5%でもなく)を達成することで日本社会のマジョリティーが健全な歴史認識と国際関係認識を持っていることを内外に示す。

(3)歴史認識に関する首相談話
戦後、歴代政権がコトナカレ主義の外務官僚の悪影響もあり繰り返してきた、確立した国際関係の作法や国際法からは説明のつかない歴史認識をリセットする。宮沢喜一・教科書検定への近隣諸国条項密輸ならびに河野洋平・従軍慰安婦の捏造は、それらが詐欺師の妄想に基づいたものである限り完全に否定されるべきであるが、それ以外の歴代政権が発信したメッセージは総てこの「歴史認識に関する首相談話」に吸収されるべきである(それが責任ある政府の態度であろう)。そして、今後はこの「歴史認識に関する首相談話」に対してのみ中韓からの「歴史認識批判」を受ける旨を宣言するのだ。

(3-2)8月15日の新首相靖国神社参拝(首相が代替わりしている場合)
これは、「今までのコトナカレ主義に毒されてきた歴史認識を日本は本気でリセットするつもりですよ」という日本政府のコミットメントの強さを首相の代替わりに関係なく示すために必要と考えた。以上です。


上記の戦略採用により、中韓の「反日」動向は、少なくとも1~2年の間は現在よりもより激しくなるでしょう。否、冷却期間は5~10年ほど必要になるかもしれません。しかし、コトナカレ主義に導かれた曖昧なメッセージを対処療法的に出して当座の状況を糊塗し続けることでは中韓との友好関係など未来永劫実現不可能である。それは百年河清を待つ愚に等しい。

正に、そのことを我々はこの半年余りの中韓との関係の中で目撃しているではないでしょうか。ならば、中韓との友好関係の樹立のためには、互の立場を遠慮なくぶつけ合えるような外交関係と交渉のスタイルを構築するしかない。激しくも率直な論争の中で妥協点が合理的に導き出せるような関係の構築が肝要だと思うのです。

そのためには、(A)日本が過去に発信した間違ったメッセージは(それが「なぜ間違いなのか」「なぜそのような間違いを発信してしまったのか」の理由と経緯を提示した上で)破棄し、(B)「反日」動向の激化によっても日本が譲れない線を彼等に明示することが(要は、領土・靖国参拝・歴史教育・拉致被害の完全な解決等々です。)不可避であると私は考えたのです。

而して、中韓の対日戦略の選択とは独立に日本が単独で決定できる戦略メニューの中で、(A)と(B)を満たしつつ中韓との関係再構築のコミットメントの強さを示す(かつ、最もコストパフォーマンスの優れた)戦略を考えた。蓋し、日中韓の友好関係構築の特効薬は首相の靖国参拝である、と。


首相の靖国参拝=日中韓の友好関係構築の特効薬



現下の中韓の「反日」動向に対抗する日本の戦略。それは同時に、中韓との友好関係を構築するための支配戦略でもある;(1)→(2)→(3)∨(3-2)の検証はゲーム理論からも可能です。しかし、所詮それは思考の遊戯に過ぎない(戦略の全要素;プレーヤー・利得・戦略・ゲームの木はすべて恣意的なものにすぎないですから)。よって、ここでは戦略の検証は割愛して、戦略経路を考案する際に私が前提にしたポイント;私にとって「これは間違いないだろう」と思われる事柄をまとめて本記事を終えることにします。それは、以下の6点。

(甲)入国を認めた外国人の保護は受入国の義務である
論じるまでもない。国際法と国際政治の常識だ。

(乙)内政干渉はいかなる理由があろうとも許されない
これも論じるまでもない。私には、扶桑社の歴史教科書に反対する<プロ市民>の言動が不思議でならない。彼等は、検定制度を家永教科書訴訟ではあれだけ攻撃しておきながら、『新しい歴史教科書』については検定不合格にするよう主張している。そして、その際、「検定を通すな」「採択させるな」という中韓からの赤裸々な内政干渉を利用しこそすれそれらに対して何ら批判しない。正直、内政干渉を批判しないような人間に明日の日本社会を背負う子供達の教育についてとやかく言われる筋合いは全くないと思う。

(丙)個人間の<友情>のようなしみじみとした関係が国家間でも可能と考えるのは幻想である
国家間には利害対立と紛争が常に存在し、諸国民は各々独自の国民国家のアイデンティティーを信奉している。ならば、経済活動においても安全保障においても何の紛争もなく、歴史認識においても齟齬のないような関係が諸国民の間で実現することはない。もしあるとするならば、それはそれらの諸国民が歴史の試練の中で共通のリスクを負い協同でその運命に対処した経験があるからに違いない。しかし、そのような場合、それらの国々は実はそれら諸国を覆う一国に既に統合されているのである(アメリカ合衆国の諸州と連邦の関係)。逆に言えば、独自の国民国家のアイデンティティーを信奉する人々が一国に統合されることは難しい。チェコとスロバキアを見よ。旧ユーゴ諸国を見よ。第2次世界大戦後半世紀近くこれらの人々は一国に統合されていたが、社会主義体制崩壊後そう日を置かずして彼等は複数の民族国家に分かれたではないか。

ならば、実現可能な中韓との友好関係とは個人間のしみじみとした関係ではなく(つまり、「俺の目を見ろ、何にも言うな♪」式の非言語コミュニケーションで紛争や利害を調整する関係ではなく)、互いに言いたいことを言い合う中で紛争や利害が調整される類の言語コミュニケーションが取り仕切る関係であろう。そして、(一国に統合されない以上)究極的には利害の調整が不可能な国家間の関係においては、「ここから先は論議不可能だ」というタイプのイシューの明確化とそのようなタイプのイシューが存在していることに対する相互承認がなければコミュニケーションは早晩機能不全に陥るに違いない。


(丁)地球国家も世界市民も(少なくとも現在においては)願望もしくは妄想である
日中韓の三国を覆い一国に統合することが現実的に困難と想定する場合、個人間のしみじみとした関係が国家間でも成立して欲しいと考える論者は観念の世界に逃避する。それが、地球規模の単一の政治社会の成立を条件とする<世界市民>の妄想である。しかし、国際関係が主権国家をその正式のプレーヤーとしている事実を忘れない論者は、<地球国家>や<世界市民>を前提にした中韓との友好関係構築など真面目に考えることはしない。

(戊)現在の中韓の「反日」動向の責任は戦後の日本外交にある
戦後一貫してコトナカレ主義に牛耳られてきた<日本外交のツケ>が現在噴出している。中韓の「反日」動向である。「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」を歴史的事実とする(トンデモ本作家も裸足で逃げるような)支那や韓国の言動、あるいは、日本の植民地支配の蛮行や日本軍の残虐行為を<展示>する中韓の諸施設に対して日本政府は何らの抗議も行ってこなかった。国際法的にはどう見ても不当な韓国の竹島占拠に対して日本政府は何の対抗措置も講じてこなかった。これらが現下の情勢の直接の原因である。私は、(支那国内の政治事情が多分に影響しているにしても、また中韓の国際関係認識を規定している中華思想の無根拠さ(★)は別にしても、)支那の若者が「反日」を叫んでいることを非難することはとてもできないとし、韓国の若い友人達が竹島(独島)を韓国領土と信じて疑わない経緯も不思議とは思わない。

(己)ここ1~2ディケードの中韓のカントリーリスクを考慮すれば現時点の中韓との関係冷却は天啓かもしれない
中華思想に規定された現在の中韓の「反日」動向を見るにつけ、この両国が国際法や国際政治のマナーに従って自国の外交政策を遂行することは少なくとも次の世代までは難しいのではないかと私は思う。中韓はともに北朝鮮という安全保障上の不安定要因と、遅くとも北京オリンピック後のバブル崩壊という経済的な時限爆弾を抱えている(中韓間の貿易と直接投資の総額が韓国GDPに占める割合を鑑みれば、支那のバブル崩壊という<巨大津波>を受けて韓国経済が水没することはおそらく間違いないだろうし、自然環境破壊の昂進が支那経済の発展に早晩限界を画することもほとんど確実であろう)。ならば、経済を含めた中韓との関係冷却は天啓と言うべきかも知れない。

chukashisou


★註:中韓の「反日」動向は世界標準の規格外
今日(2005年4月15日)の読売新聞「読みトーク」の記事。我が意を得たりの感想だった。筑波大学の古田博司さんのコメント「「反日」拡大 中華思想背景 論争恐れずに」である(以下、引用開始)。

東アジアでは、儒教文化を分有していきた。それは「礼」という行儀作法を共通の規範とするもので、世界の中心にあると自任する中韓から見ると、日本は「礼」も知らない野蛮な国で、教え諭すべき相手を位置づけられる。その論理の中では、戦争に敗れながら、一足先に経済発展した日本は、矛盾した存在となる。

批判の対象としての日本は「道徳性が欠如」しており、道徳的に優位に立つと考える彼らは、日本に対しては何を言っても、何をやってもいいということになる。それが彼らの伝統的な思考パターンだが、今、歴史認識、日本の国連安保理常任理事国入りの動きにかこつけて騒ぎとなっている。(中略)

過去の歴史に対する認識はどこまで行っても平行線だ。謝罪を繰り返しても、足りないと言い続けられるから解決策にならない。(中略)こうした東アジアでの隣国とのつき合い方は、相手の主張をよく聞いて、相手の誤解はただして、主張すべきはきちんと主張することだ。無視することが一番よくない。当然、論争になるだろう。そして結論はでない。その状況が出発点で、互いに前向きな知恵が出る。「和をもって貴しとなす」というのは、日本国内でだけ通用するもので、論争こそがつき合いの始めだ。(以上終了)


まさに同感である。私の見解については下記拙稿を参照していただきたいが、韓国の植民地支配もなんら国際法に反していたわけでもなく、支那との戦争処理も国際法的には完全に処理済みであるにもかかわらず、彼等が日本に「謝罪と反省」を言い続ける理由がここに簡潔に指摘されている。要は、中韓は、中華思想とは無縁の西洋列強から受けた損害と屈辱は国際法で解決するしかないにしても、中華思想を分有しているはずの(「承認しているはずの」かな。)日本から受けた損害と屈辱に関しては、中華思想のパラダイムの中で解決しなければならないと考えているということ。

あのね、日本は(足利義満の例外を除いて、)菅原道真(845-930)の建白以来、そう、10世紀前半からは中華思想のパラダイムから離脱してるんですよ。他国を「野蛮な国」と思うのは自由ですがね、自分の国際関係認識のパラダイムが日本にも適用されると思い込むのは強引でしょう(笑)。こんなんは、例えば、日本の裁判所が上海の日本語学校で起こった支那人と韓国人の暴力沙汰を裁く管轄権を持っていると思い込むのと同じくらい馬鹿げたことでしょう。つまり、中韓の「反日」の動向を正当化する論理は、世界標準の国際認識の規格外のものである。

・盧武鉉・韓国大統領ありがとうございます

 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E/E58.html



(2005年4月17日:yahoo版にアップロード)

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takeshima2


平成17年3月30日の朝日新聞夕刊にわが意を得たりの投書が掲載されていました。神戸大学の木村幹助教授の投書。「「竹島の日」条例制定 成熟する日韓への試金石」です。副題に、「交流にとどまらず活発な議論を」とついており、3月11日の朝日新聞社説「竹島の日――草の根交流を損なうな」を受けた朝日新聞に挑戦的な投書と思われる。

実際、3月27日の朝日新聞コラム欄「風考計」には論説主幹・若宮啓文氏が、「竹島と独島 これを「友情島」に…の夢想」を書いて、「いっそのこと(竹)島を譲ってしまったら」という究極のコトナカレ主義というか反日の主張と対比すれば、国際関係に紛争があるのは別に悪いことじゃない、「活発な議論が展開されるのは、懸案から目をそむけているよりも遥かにいい。(中略)竹島問題は、日韓関係が「大人」になったかどうかを示す、重要な試金石となる筈だ」という木村さんの主張は朝日新聞への強烈なアンチに思えました。

そうなのです。<草の根交流なるもの>を積み重ね、日韓間にあたかも問題がないような外観を作ったところで、それが両国の安定的な関係の構築を意味しないことは、竹島の日が巻き起こした今回の「問題」自体がはっきり示したことではないでしょうか。

問題の根は元から断たなければならない。それは、国際司法裁判所なりでの論議だけでなく、日韓のマスコミや草の根レヴェルでの激しくも(本質的な)議論が巻き起こることでしょうし、そのためには、最初は固定観念が揺すられる不愉快さを伴うかもしれないが「世界水準の知識」と「歴史の事実」を両国民が知る必要があると思います。

この点で、コトナカレ主義の朝日新聞の主張は、単に、反日・売国奴的なものにとどまらない(「売国奴」という大時代的なタームを使いましが、大した経済的な価値も安全保障的な価値もないのなら(友好のためには)「領土」を外国に「譲って」しまえという者には「売国奴」以外の形容詞はなかなか見つからないからです)。若宮論説主幹の「風考計」の主張を始めとする朝日新聞のコトナカレ主義は、最早、日韓関係の成熟を阻害する日韓両国民にとっての共通の害悪というべきだと私は考えます。

最後に木村さんの言葉を引用しておきます。以下、引用開始。

人は成長する過程で、何時しか「サンタクロースなんか本当はいない」という冷徹な現実に直面する。国交正常化から今年でもう40年。日韓両国の関係も、そろそろおとぎ話から抜け出て現実と向き合う時期にさしかかっている。活発な議論が展開されるのは、懸案から目をそむけているよりも遥かにいい。(以上、引用終了)


日本の植民地支配は国際的に許されない大罪だ! その倫理的と道徳的な罪の贖罪は日本人と韓国人が民族のそのアイデンティティーを失わない限り永久に続くものだ! 

というような、国際法的にも国際政治の慣行ともまったく縁のない<御伽噺>から、両国国民はそろそろ自由になるべきなのではないでしょうか。憲法改正なり教育基本法の改正について日本の進むべき政治の方向に関して、木村さんと私の立場は大きく異なる。しかし、議論を積み上げる共通の基盤は彼と共有していると感じました。木村さんの投書にはそんな実に愉快な感想を覚えました。

朝日新聞もこんな投書を掲載するとはなかなかじゃないか! あるいは、2日早いエープリルフールだったのかな(笑)。尚、以下、竹島問題に関していただいたコメントを紹介しておきます。弊本家サイト掲示板にいただいた投書。

投書子・オロモルフさまは工学分野の博士にして、SF作家。現在、大学で教鞭をとっておられる方です。KABUとジェネレーションは少し違いますが、日頃から尊敬もうしあげている同志の方です。オロモルフさま有難うございました。

takeshima1


●『竹島問題・再掲』  投稿者: オロモルフ  投稿日: 3月30日(水)12時40分2秒

私はよく産経新聞に投書し、時々掲載になっておりますが、下記もその一つです。八年前の平成九年に掲載されました。

「かつて韓国は李承晩ラインという一方的な領海線を引き、日本の領土であることが明確な竹島を占拠したばかりか、正当に操業していた日本漁船三二七隻を拿捕し、何の罪もない日本漁民三九〇〇人を拉致した。
 毅然たる措置を何もとらなかった日本政府は、日韓条約締結時に国際司法裁判所への提訴を主張したものの、法的に自信のない韓国の猛反対に押し切られ、その後、自ら第三者に訴える道を閉ざしてしまった。
 韓国がいかに反対しようとも、もし日本政府が提訴の主張を執拗に繰り返していたなら、国際世論は、今とはかなり違ったものになっていたであろう*。

 本紙のアピール欄の意見のように、尖閣諸島は国際司法の問題ではなく、単なる自国防衛の問題だと思う。
 だが、無責任な「事勿れ主義」で自国民に犠牲を強いてきた日本の外務省の体質を根本から変えない限り、尖閣諸島は竹島の二の舞いになるだろう。尖閣諸島までもツケを子孫に回すべきではない。
 外務省は猛省せよ。」

*つまり、国際世論を日本の味方につける宣伝道具として国際司法を利用せよ――という事です。

字数制限があるので、不十分ですが、この投書の直後に、当時の外務大臣が「竹島問題はいろいろと難しいんだよ」と新聞記者に語ったそうです。まさに「事勿れ主義」です。

朴大統領だった昭和四十年に、日韓基本条約が発効しますが、このとき日本は竹島問題および対馬問題を放置したまま、膨大な経済援助をしました。

これは世界の常識から見れば、
「日本は竹島や対馬が自国領だとは思っていない」
――と世界に知らせた事になるだろうと思います。
韓国政府がその後ずっと強気なのは当然です。
この日韓条約は痛恨の極みであり、当時の日本の政治家たちを
弾劾するべきです。

分かりやすい資料。
『徹底検証 尖閣・竹島問題』日本政策研究センター*(平成九年/400円)
『尖閣・竹島問題を問う 毅然とせよ!日本外交』同前(平成十六年/500円)
*:TEL:03-5211-5231



(2005年4月2日:yahoo版にアップロード)

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sdnhelico


昨日、3月11日の朝日新聞社説「竹島の日――草の根交流を損なうな」を読んで考えた。朝日新聞は島根県の人々の民意に戸惑っている、と。地方自治の中でも「住民自治」の体現である県議会の議決は、普通、民主主義の理念から最も強くサポートされる事柄だろう。しかるに、朝日新聞の社説子はそれをあんまり歓迎していないようなのだ(笑)。

本稿では、この朝日の竹島社説の内容や論旨よりも(実はそんなものはこの社説にはないに等しいしね。)、寧ろ、民意が韓国との関係悪化を引き起こしている事態に対する朝日新聞の戸惑いと苛立ちの構図を再構成してみたいと思う。まず、社説の紹介(以下、適宜要約しつつ引用する)。


まず社説子は、「日本海にある絶海の孤島、竹島を島根県が県土と告示して、今年で100年になる。その2月22日を「竹島の日」に制定し、啓発活動を通じて、韓国に実効支配されている島の「領有権の確立」をめざす。そんな条例案が島根県議会の委員会で可決された。来週の本会議で成立する見通しだ」と書き始める。

この島根県議会の動きについて、社説子は「日本側が不利な立場に置かれている」漁業の実態を説明し、漁民の不満を考えれば「条例を作りたいという島根県側の事情も分からぬではない」と島根県民の憤りに理解を示すものの、

すぐにこの社説は、(1)竹島の日の条例は、「潘基文外交通商相の訪日を延期」や「島根県と活発に交流してきた慶尚北道は、島根県庁に派遣していた職員の引き揚げを決め、道庁に派遣されている島根県の職員は出勤差し止め中だ」などの「韓国側からすさまじい反発を浴びることになった」、(2)「韓国民にとっての100年前は、第2次日韓協約によって外交権が奪われ、日本による植民地支配に道が開かれた年」であり日本側が考えるよりも「根深い対立がある」問題であり韓国側が態度を硬化するのもわかる、そして、そんな根深い対立がある問題だからこそ、(3)「竹島の領有権問題は40年前の日韓国交正常化の際にも棚上げでしのがざるを得なかった」、また、(4)竹島の日の制定などがなければ、「日韓関係はここ数年、飛躍的に深まった。歴史認識をめぐるわだかまりが折に触れて噴き出すが、底上げされた関係は双方に大きな利益をもたらしている」現状を(島根県民を含む)日本国民は享受できると解く。

で、社説の結論は。根深い対立があり韓国側からのすさまじい反発を誘発する案件を「それを今、ことさらあおり立てて、どれだけの得になるのか」と竹島の日制定への疑義であり、そんな根深い対立がある問題に触れて、双方に大きな利益をもたらしている底上げされた日韓関係を「竹島でそれを損なってはいけない」と断ずる。(以上、要約引用終了)


要は、(イ)竹島の日の条例制定は、その条例のプラスとマイナスの効果を考えれば(あるいは、韓国民の感情を慮れば、かな?)止めるべきであり、(ロ)そんな条例を作るより、自治体どうしの草の根レヴェルの「友好を広げていくこと」が大事で、(ハ)日本政府は「もっと本腰を入れて「暫定水域」での漁業のルール作りについて、韓国側との協議に臨」み、(二)韓国政府は「国内の沈静化に努め、対日関係の立て直しを急いでほしい」というのがこの社説の要旨だと思う。

「日本海にある絶海の孤島」や「韓国に実効支配」されている等々の、竹島の帰属なんか大した問題ではないんですよというか、韓国が実効支配しているんだから(自衛隊に武力でもって取り返してこいと言えない日本は、)最早、条例なんか作っても無意味ですよという読者誘導の小技は散りばめられているにせよ、この社説の要旨は(イ)(ロ)(ハ)(二)に尽きるだろう。


懸案や紛争が横たわっているのが寧ろ外交関係の常態という認識を日頃から持っているからして、「韓国側からすさまじい反発」があろうがそれ自体は外交の不備でも不調でもないと私は考える。よって、この社説を最初に読んだときに「何をふざけたことを言ってやがる」と思わなかったわけではない。けれども、この社説の要旨、(イ)→(ハ)&(二)は別にとんでもない主張ではないだろう(単に国際関係や国際法に無知なだけだ)。この社説の最大の問題は、上で述べた(ロ)、即ち、「そんな条例を作るより、自治体どうしの草の根レヴェルの「友好を広げていくこと」が大事」という主張が何の論理的関係もない(イ)→(ハ)&(二)の系に持ち込まれていることであり、竹島の日の条例を作ることと韓国側の反発を受けることとの損得勘定の歪さではないかと思う。

アダムとイヴ以来そうかどうかは知らないが、確かに、私も<固有の領土>などはこの世に存在しないと思う。残念ながら、領土の帰属に関しては国際法上、実効支配している事実が最もものを言うのもまた現実である。しかし、「固有の領土」というタームが国際法上も国内法上も無意味かと言えばそれは断じてそうではない。「固有の領土」という概念により国家のアイデンティティーが具体性を獲得するし、そのアイデンティティーに基づいて国家の法人格は法的空間に始めて登場できるからである。法哲学や国家論の難しい話はやめよう。

簡単な話だ。「日本国の固有の領土」や「日本国民」というものは近代主権国家の誕生と同時に成立した擬制(フィクション)に過ぎないが、逆に、そのフィクションを前提にする人々の集団のみが主権国家の運営というゲームに(国内的にも国際的にも)参加できるのである。ならば、「竹島は日本国の固有の領土であり、日本は韓国からその実効支配権を奪取せよ」という主張は、単なる経済関係の利害打算を超える可能性を持つ、畢竟、その実効支配奪回の主張は日本国の存否に関わる重大な事態である(それは、韓国にとってもそうだろう。もちろん、私は国際法上も歴史的にも「竹島」が日本国の固有の領土であることを疑わないけれども)。而して、その主張を韓国に対して行うという当然の責務を国賊的な外務官僚が(故意か過失か知らないが)怠っているとするならば、島根県議会が竹島の日を制定するのは当然のことではないかと私は考える。

蓋し、この社説子が非論理的な文章を展開するに至ったのは、国でも石原都知事でもない(まして「新しい歴史を作る会」のメンバーでもなく、)民主主義の本旨から言っても最も正統性を持つ、また、朝日新聞等の戦後民主主義を信奉する勢力が日頃からその価値を最大限に喧伝する市民に、これまた最も身近な県議会が圧倒的多数で条例案を可決しそうだという彼等にとって悩ましい状況が原因ではないかと私は想像している。

民意が日韓友好を、しかも(これまた朝日新聞が価値を置く、)、国家単位ではなく自治体の草の根レヴェルの有効を棄損しようとしている現状は、時代劇に喩えれば、いわば、自分の正統性の根拠でもあり自分が大事に養育したと思っていた先代当主のご落胤が、自分の嫌う現在の当主側に寝返ったようなショックだったのだと思う。まあ、この想像が満更外れていないとすれば、朝日新聞のこの社説が何時にもまして非論理的な自問自答による蒟蒻問答に終始したのも無理はないのかもしれない。そう私はこの社説を理解した。

でもね。朝日新聞さん。民主主義というのは、要は、多数による少数の支配の原則であってやね。そもそも、社会を支配することになる多数派の主張とその主張内容には恒常的な関係はありません。だから、<国家のしがらみを超えた国際社会の一員たる地球市民>なるものの立場から近隣諸国との友好を促進するような内容を多数派の主張が常に含むかどうかは保障の限りではないのですよ(笑)。

否、民主主義(や20世紀初頭前後にその民主主義と合体した議会主義や立憲主義)と国際協調主義との間には何の論理的な関係はないだろう。うみゅ。国際的人権は、ですって? あのね、「国際的人権は先進国の後進国排除の論理」であるとか、はたまた、「ある種の国際的人権は欧州の米国に対する攻撃手段」だとかは一概に言えないけれども、それは国際協調主義の尖兵ではありえるでしょう。でもね。人権思想と民主主義原理の間には本来何の関係もありません。嘘だというのなら政治哲学史もう一度勉強しなおしなさい。と、きっぱり。

而して、「固有の領土」という用語を通して、朝日新聞がそれに価値を置きたくない「国家」の存在意義がクローズアップされるのが堪えられなかったのかもしれないけれど、社説の論旨とは何の関係もない「そんな条例を作るより、自治体どうしの草の根レヴェルの「友好を広げていくこと」が大事」などという主張は、民主主義と国際協調主義の間には何の必然性もないことを(県民の意思と日韓友好の間には何の関係もなかったことを)端無くも朝日新聞が認めたということなのかもしれない。

「日韓関係はここ数年、飛躍的に深まった。歴史認識をめぐるわだかまりが折に触れて噴き出すが、底上げされた関係は双方に大きな利益をもたらしている」と朝日新聞はいう。けれども、本音をぶつけあわないような関係が(その本音を押し通すかどうかは別にしても、)双方の相互理解を本当に深めることはできないと私は単純に考えている。20年近くインターナショナルコミュニケーションの研修業界に身を置いている経験からそう考えている。夫婦間でも職場でも、そして、企業と企業、国家と国家の間でもね。

ならば、島根県議会の竹島の日の条例制定は、韓国と日本との相互理解を格段に進める一歩であると評価されるべきではなかろうか。私はそうなることを期待している。而して、竹島の向こう側にあるだろう日韓の真の友好を熱烈に期待している。


(2005年3月12日:yahoo版にアップロード)

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その地方を代表する食品メーカーが長期にわたり賞味期限表示ルールを逸脱していたことが次々に発覚している。例えば、北海道の「白い恋人」と伊勢神宮詣での定番土産「赤福餅」。法の網を潜ってきたその状況はこんなことらしい。以下、新聞報道(電子版)の引用。


●伊勢名物「赤福餅」、製造年月日を偽装表示の疑い

もち菓子の老舗「赤福」(本社・三重県伊勢市)が、製造年月日を偽って表示、販売していた疑いがあるとして、農林水産省と地元保健所が関係先の立ち入り調査に入っていることがわかった。

同省などは事実関係の解明を進めており、不正行為が判明すれば同社を処分するとみられる。関係者によると、偽装表示の情報を受けた地元保健所などが、同社の関係者から事情を聞くなどしているという。( 読売新聞:2007年10月12日3時5分配信)


●賞味期限改ざん10年「白い恋人」…社長も把握
北海道の代表的な土産「白い恋人」の賞味期限を製造元の石屋製菓(札幌市)が改ざんした問題で、石屋製菓の石水勲社長は16日記者会見し、賞味期限の改ざんは過去10年にわたり日常的に行っていたと発表した。改ざんの事実は石水社長も把握していた。

石水社長は白い恋人を含むすべての商品を店頭などから回収し、当初16日から4日間としていた自主休業を延長する意向を明らかにした。社員やパート職員の雇用は全員維持し、休業中に衛生教育を徹底するという。

石水社長らによると、「白い恋人」の包装袋を品質保持性能に優れたものに切り替えた1996年以降、同社の社内規定で4か月と決めていた賞味期限を、出荷する商品の2、3割程度について、5か月か6か月に改ざんしていた。7、8月は繁忙期になるので、急な注文に対応できるように在庫を増やしておくという。石水社長は「(今回の問題で)『石屋製菓の商品は気持ち悪い』というイメージがついたことはどうしようもない。消費者への裏切り行為をおわびする。創業精神を取り戻し、しっかりやっていきたい」と話した。(スポーツ報知:2007年8月16日15時45分配信)


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こんなことを言うと、私の若い同僚諸君からは「えー、嘘!」と言われかねないのですが、我が家は「食品の賞味期限」をあまり守らない。大体、缶詰や素麺冷麦等は極論すれば「古ければ古いほど美味い」というのは常識ですよね。加えて、我が家では納豆は早くて賞味期限を越えたあたりから食卓に乗せ始めます。つまり、KABU家においては納豆の賞味期限は美味しくいただくために「その日からは、まー食べ始めてもいいか」という解禁日なのです。こんな具合ですから、豆腐や魚貝類という足の速いものを除けば気をつけているのは牛乳くらいでしょうか。

だから、はっきり言って、「赤福餅」や「白い恋人」が賞味期限をたかだか1-2ヵ月胡麻菓子ていただの、売れ残った商品を原材料として再利用していただのは私達にとってはどうでもいいこと。それよりか、伊勢神宮の参拝というか名古屋出張には欠かせない「赤福」。北海道と言えば「中島みゆきさんでしょう」の次には声の掛かる「白い恋人」がしばらく食べられないことの方が(否、場合によっては赤福や石屋製菓が倒産したりして、そいでもって、「口に入るものなのだから消費者に一度与えたネガティブなブランドイメージの復旧不可能」とかで金輪際「赤福」と「白い恋人」が口にできなくなるかもしれない現下の情勢の方が)大問題です。

賞味期限・消費期限などの法的根拠は食品衛生法19条、また、同条を受けた「環食第299号厚生省環境衛生局長通知」(昭和54年11月8日付け)。けれども、それらに規定されている内容は、結局、「一般細菌、大腸菌群、食中毒菌等の検査をもとに製造業者が設定」あるいは「業界団体が作成した期限の設定に関するガイドライン等を参考にする」ことになることが多く、賞味期限・消費期限の期日確定はかなりベーグでフレキシブルなプロセスを経て決まっている。それが現状だと思います。尚、ご興味があれば、この賞味期限・消費期限システムの概要については厚生労働省の次のサイトを参照ください。念のために食品衛生法の関連条項を引用しておきます。

「加工食品に関する共通Q&A」
 http://www.mhlw.go.jp/qa/syokuhin/kakou2/index.html

食品衛生法
第18条 厚生労働大臣は、公衆衛生の見地から、販売の用に供し、若しくは営業上使用する器具若しくは容器包装若しくはこれらの原材料につき規格を定め、又はこれらの製造方法につき基準を定めることができる。
2 前項の規定により規格又は基準が定められたときは、その規格に合わない器具若しくは容器包装を販売し、販売の用に供するために製造し、若しくは輸入し、若しくは営業上使用し、その規格に合わない原材料を使用し、又はその基準に合わない方法により器具若しくは容器包装を製造してはならない。

第19条 厚生労働大臣は、公衆衛生の見地から、販売の用に供する食品若しくは添加物又は前条第1項の規定により規格若しくは基準が定められた器具若しくは容器包装に関する表示につき、必要な基準を定めることができる。
2 前項の規定により表示につき基準が定められた食品、添加物、器具又は容器包装は、その基準に合う表示がなければ、これを販売し、販売の用に供するために陳列し、又は営業上使用してはならない。



食品衛生法に基づく賞味期限の定義。つまり、「定められた方法により保存した場合において、期待されるすべての品質の保持が十分に可能であると認められる期限を示す年月日をいう。ただし、当該期限を超えた場合であっても、これらの品質が保持されていることがあるものとする」の「但書」を見れば明らかなように、畢竟、賞味期限なるものはかなりいい加減に決められている。つまり、賞味期限には多くの場合そう科学的な根拠があるとはいえない。実際、KABU家では夏に美味しく冷やし素麺をいただくために、わざと賞味期限から最低1年間は麺を暗所に保存しているくらいですから。

まして、「赤福餅」や「白い恋人」はよく練ったアンや堅く焼き上げた菓子。而して、よく練ったアンや堅く焼き上げた菓子の賞味期限、つまり、「美味しく食べられる期限」や「定められた方法により保存した場合において、期待されるすべての品質の保持が十分に可能であると認められる期限」が(もちろん、それが何日間とか何ヵ月とかは素人でもあり何も言えませんが)、少なくとも新聞報道されている問題の「赤福餅」や「白い恋人」に表示されていた期間よりも遥かに長いことは確実だと思います。

更に、両社とも賞味期限表示に関しては違法行為を10年とか30年とかにわたって恒常的に繰り返してきたらしい。しかるに、表立っての健康被害は報告されていない。このことは、「赤福餅」や「白い恋人」の形式上の賞味期限にはなんの合理性もないことが証明されたということではないでしょうか。換言すれば、今回の不祥事の発覚は(少なくとも、「赤福餅」や「白い恋人」に関しては)現在の賞味期限の不合理性がいわば「全数調査」によって明らかになった事件でもある。それに、大体が使える材料を「焼却処分」するなんてもったいない。而して、売れ残った商品を再利用した赤福の姿勢は逆に日本人と日本企業の鑑と言ってもいいのではないか。「ネタ」などではなく真面目に私はそう考えています。

akafuku2


けれども他方では、私は赤福や石屋製菓がこの不祥事が原因で倒産して「赤福餅」や「白い恋人」が金輪際口にできなくなったとしても仕方がないとも思う。煎じ詰めればその理由は唯一です。すなわち、「ルールの規定内容自体に合理性がないとしても、一度定まったルールを守ることは尊重されるべきだ」と私は考えるということ。


ルールの規定には合理性がないとしても、
一度定まったルールを守る姿勢は尊重されなければならない



納豆の賞味期限を「美味しく食べられる限界の期日」ではなく「美味しく食べ始められるようになる解禁日」として活用するのは、KABU家の勝手であり、その判断や習慣にともなう結果は自己責任のマターだと覚悟しています。けれども、その判断や習慣も賞味期限が誠実かつ正確に表示されているとの信頼の上に始めて成り立つこと。

加えて、賞味期限の表示にはゲーム理論の頻出論点、所謂「情報保有の非対称性」の問題が横たわっている。蓋し、商品情報に関して消費者に比べ圧倒的な情報量を持つ製造メーカーが、法律で義務づけられた情報提供のルールさえも守らないとすれば、消費者は商品購買ゲームにおいて(また、こと食品を巡っては「健康」の自己防衛において)極めて不利な立場に置かれることは明らかです。

蓋し、消費者と製造メーカーの取引関係をフェアにするという目的は、個々の商材について賞味期限の設定に介在する不合理の存在によっては自動的に否定されるようなことはない。そう私は考えるのであり、畢竟、市場の信頼を維持するためにも「ルールの規定内容自体に合理性がないとしても、一度定まったルールを守ることは尊重されるべき」なのです。

而して、何より、賞味期限表示ルールを製造メーカーが遵守しているという信頼が揺らぐようになれば、大げさではなく、食品商材の流通自体が凍結しかねないのではないでしょうか。また、賞味期限の表示ルールも守らない製造メーカーが他のルールは守っていると(例えば、汚染された支那の材料を使わない、安全基準値を遥かに越える支那製の添加物を使わない、輸入が禁止されている北朝鮮からの原料は間違っても使わない・・・等々のルールを遵守していると)信じろという方が無理というもの。

蓋し、ここまで考えたとき、来年伊勢神宮にお参りにいった帰りには「赤福餅」をお土産にすることはできないかもしれない、と。これら一連の報道に接して私は密かにそう覚悟を決めました。

でも、「赤福」も「白い恋人」もそれぞれ包装紙にも味わいがあるし、両方ともとっても美味しいですよね。倒産もやむなしだけれど、もしかなうことならば、「赤福」come back! 「白い恋人」come back! I miss you! ですね。これが正直な今の気持ちです。

「赤福」come back!

「白い恋人」come back!




(2007年10月24日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済

koreaeco


◆South Korea warned on threat of stagnation
By Anna Fifield in Seoul
Financial Times, October 5, 2005



South Korea needs to increase labour market flexibility and overhaul research and development to ensure it does not stagnate, the Organisation for Economic Co-operation and Development said on Wednesday.

Although South Korea has developed rapidly in the past two decades, with income per head doubling to two-thirds of the average in the OECD's 30 member countries, the think-tank urged Seoul to make boosting productivity a top priority.


OECD(経済協力開発機構)は水曜日(10月5日)、韓国経済が停滞に陥らないようにするためには、韓国はその労働市場の柔軟性を増すことと研究開発部門の抜本的改革を行うことが必要だと述べた。

この20年間にわたって韓国は確かに急速に発展してきた。実際、韓国の国民一人当たりの所得は、この間2倍になり、OECD加盟30カ国の平均一人当たり国民所得の三分の2にまで達した。けれども、このシンクタンク-OECDは韓国に対して生産性の向上に最も高い優先順位を置くように促したのである。


In a report emphasising the need for better balance in Asia's third largest economy, the OECD cut its growth forecast from 4.3 per cent to 3.7 per cent for this year - below the Bank of Korea's 3.8 per cent forecast.

In its annual survey the OECD said a recovery in domestic demand was not fast enough to offset cooling exports.


経済規模においてアジア第3位のこの国にはより良い経済のバランスが必要とされていることを強調しながら、OECDはこの報告書で今年の韓国経済の成長率予想を4.3%から3.7%に切り下げた。これは韓国銀行の3.8%という予想をも下回るものである。同じこの年次報告書の中でOECDは、国内需要の回復は輸出の不調を埋め合わせるほどのペースには達していないと指摘している。


It said that although Seoul spent a "relatively large" 3 per cent of national income on research and development, the top five companies accounted for 37 per cent of business R&D expenditure and 28 per cent of researchers. Samsung Electronics alone held 35 per cent of all Korean patents in the US, it said.

To boost R&D, the OECD said, South Korea should strengthen links between business, government, universities and researchers, while funding should be more flexible to "limit the risks inherent in focusing on sectors identified as future growth engines".


韓国では国民所得の3%という比較的大きな資金が(企業の)研究開発に注ぎ込まれている。けれども、研究開発部門の全支出と全研究員数に占める上位5社の割合は各々37%と28%に達しており、そして、韓国が米国で持っている全特許件数の35%を単体のサムスン電子が占めているのである。

研究開発を韓国が促進するためには、経済界と政府と大学および研究者との間の連携を強める必要がある。また、将来の成長のための起動装置と目される分野に焦点を絞るのだから、そのことに不可避的にともなうリスクを限定するためには資金調達の仕組みはより柔軟に変更されなければならない。つまり、研究開発に関連する諸セクター間の連携の強化と資金調達の柔軟性が同時に実現されるべきだとOECDは提言したのである。


The report added: "In addition to promoting the creation of new knowledge, it is at least as important to use the existing stock of knowledge more effectively." This was particularly true because South Korea's average hourly productivity was only 40 per cent of that in the US.

Productivity improvements in the increasingly dominant service sector, where output per worker is only half that of manufacturing, were particularly important to sustain growth. Employment in social services, including childcare, health and educational services, made up 14 per cent of total employment, about half the OECD average.


OECDの報告書は更にこう述べている。「新しい知識の創造を推進することに加えて、蓄積されている現存の知識をより効率的に使うことの重要性は新しい知識の創造に優るとも劣らない」、と。これは(特に、韓国に関しては)全く正しい。なぜならば、一時間当たりの韓国の平均労働生産性は米国のそれの40%にすぎないのだから。

益々その比重を高めつつあるサーヴィス部門の生産性向上は(特に、一人当たりの生産性が製造業に比べ半分しかないこの分野の現状を鑑みるならば)、成長を持続するためには特に重要である。社会福祉部門、託児-育児を含む厚生と教育の分野における雇用は全雇用の14%を占めているが、これはOECD平均の半分にすぎない。


The OECD said Seoul should make it easier to open and close new businesses. South Korea also faced a severe ageing problem, it said. If workforce participation stayed at its current level, the number employed would drop 15 per cent by 2050. ・・・

But the think-tank said further restructuring of the corporate and financial sectors was required to increase the efficiency of companies.

Separately, South Korea's commerce ministry said on Wednesday that pledged foreign direct investment plans received fell by 9.4 per cent to $3.05bn in the third quarter compared with last year.



韓国は新しいビジネスに対して参入も撤退もより容易な国に自身を変革すべきであり、他方同時に、韓国は高齢化の問題にも直面している、とOECDは述べている。ならば、労働力人口の(年齢別)構成比率が現在の状態のまま続くと仮定したならば、被雇用者数は2050年までに15%減少する。(中略)

しかし、このシンクタンク-OECDは、企業の生産性と効率を向上させるためには民間企業部門と金融分野の更なる構造改革(リストラ)が求められていると指摘している。

OECDのこの年次報告書とは別に、水曜日、韓国の商務省(=外交通商部)は、公約として掲げている海外からの直接投資額は、この第3四半期、前年度より9.4%も低い30億5千万ドルにしか達しなかったことを認めた。




(2005年10月15日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 韓国について
ジャンル : 政治・経済

chinacomunist


◆U.S.: One - Party System in China Can't Last
 アメリカ政府は「中国の一党独裁制は早晩崩壊する」と見ている
◆New York Times, By THE ASSOCIATED PRESS (AP), September 21, 2005


The Bush administration urged China on Wednesday to begin a transition to democracy, contending the existing one-party system ''is simply not sustainable.''

The State Department's No. 2 official also warned about possible economic action by Washington unless the U.S. trade deficit with Beijing shrinks.

In a single speech, Deputy Secretary of State Robert Zoellick assembled all elements -- negative and positive -- of the U.S.-China relationship. U.S. officials say it is the most complex of any in the world.


ブッシュ政権は水曜日(9月21日)、現状の一党独裁制は「けっして持続できるようなものではない」と明言した上で、民主制への移行を開始するよう支那に強く促した。

国務省ナンバー2の高官も、対中国の貿易赤字が減少しない場合にアメリカが取りうる支那に対する経済対策についても警告を発した。

この高官ロバート・ゼーリック副長官は同じ談話の中で米中間に横たわる悲観・楽観それぞれの要素を数え上げ整理してみせた。アメリカ政府筋によれば、米中関係こそ現在、世界のどの国や地域との関係よりも複雑で錯綜したものである。



Until now, the administration has focused its pro-democracy message on the Islamic world. Zoellick's speech was the most explicit call to date for a transition in China, where the Communist Party will mark the anniversary of its 56th year in power next week.

''Closed politics cannot be a permanent feature of Chinese society. It is simply not sustainable,'' Zoellick said in a speech to the National Committee on United States-China Relations in New York.・・・


今にいたるまで、ブッシュ政権は主にイスラム世界に向けて民主主義支持の主張を発信してきたのだから、ゼーリック副長官のこのスピーチは今までで最も明確に民主制への移行を支那に要求したものである。支那は来週、共産党の政権奪取56回目の記念日を迎えようとしている所なのだけれども。

ニューヨークで開かれた米中関係全国委員会で行ったこのスピーチの中で、同副長官は「閉鎖的な政治が支那社会の特徴として永遠に続くことはありえない。閉鎖的な政治の仕組みややり方はけっして持続できるものではない」とも付け加えた。(中略)



On China's defense policy, a major sore point with Washington, Zoellick said Chinese authorities have not adequately explained the purpose of their ''rapid military modernization''

China could ease anxieties about its intentions, he said, by openly discussing ''its defense spending, intentions, doctrine, and military exercises.''


支那の国防政策の問題点。アメリカ政府が最も危惧するポイントは、支那当局がその「急速な軍の近代化」の目的について納得のいく説明をこれまで行ってこなかったことである。

実際、同副長官は「軍事支出・軍近代化の目的・軍事行動の基本的な指針および軍事演習」についてオープンに議論してさえきたならば、その軍事的な意図に関する(諸外国の)不安を支那は軽減することもできただろうと語ったのだ。



On trade, Zoellick said China cannot take its access to the U.S. market for granted.・・・
The U.S. trade deficit with China set a record of $162 billion last year, the biggest imbalance ever with a single country. This year's gap is running 30 percent above the 2004 pace.

Zoellick also took aim at ''the rampant theft'' in China of American movies, computer software and other products.・・・

He said that in China's drive to fuel its growing economy, Beijing is acting as if it can somehow ''lock up'' energy supplies around the world.・・・


貿易を巡る問題。支那はアメリカ市場で自由に行動できるのは当然だとは思うべきではないと副長官は述べた。(中略)アメリカの対中貿易赤字は昨年1,620億ドルを記録したが、これは一国に対する貿易の不均衡としては史上最高の額であった。そして、今年(2005年)の貿易の入出差は2004年を30%上回るペースで拡大している。

副長官はまた、アメリカ製の映画やコンピューターソフトおよび他の製品に対する「(知的財産権の)泥棒行為が支那ではやりたい放題」であることにも言及した。(中略)

成長し続けている経済に<薪>をくべる必要からだろうか、支那政府は世界中の資源の供給をあたかも独り占めしているかのごとく行動しているではないか。これも副長官の言葉である。(中略)



Elaborating on the China's political system, Zoellick said Communist Party rule in China has not been able to cope with the challenges that he said beset the country.

Pressure is building for reform, he said, citing a number of examples:
--China has one umbrella labor union, but waves of strikes.
--A party that came to power as a movement of peasants now confronts violent rural protests, especially against corruption.
--A government with massive police powers cannot control spreading crime.


支那の政治システムを詳しく論じた上でゼーリック副長官は、支那の共産党支配は、(副長官がそう言う所の)この国を悩まし続けている障害を最早うまく処理することができなくなってきていると総括した。困難が蓄積され改革の必要が高まっている、と。(下記の)幾つかの例を引いた上で副長官はこう述べたのだった。

--強大な単一の労組が支那全土を覆っているというのにストライキーの波は拡大している
--かって小作人の運動として権力を握った政党が、今や農村部の暴力的な抗議行動、就中、汚職に対する抗議にさらされている
--強大な警察権力を備えた政府をしても犯罪の増加と拡大が食い止められなくなっている


For all of China's shortcomings under communist rule, Zoellick said it would be a mistake to compare the country with the Soviet Union of the late 1940s.

He pointed out that China does not seek to spread ''radical, anti-American ideologies'' nor does it see itself in a ''death throes struggle'' with capitalism.

''And most importantly, China does not believe that its future depends on overturning the fundamental order of the international system. In fact, quite the reverse: Chinese leaders have decided that their success depends on being networked with the modern world,'' he said.


ゼーリック副長官は(しかし)、共産党支配下の支那のすべての欠点を鑑みたとしてもこの国を1940年代後半のソヴィエト連邦と同一視するのは間違いであろうと言う。

支那は「過激な反米イデオロギー」を広めようとしているわけではないし、また、資本主義との「生き残りを賭けた決死の闘い」の渦中に自分自身があると見ているわけでもないからである、と(★KABU註:過剰な「反日イデオロギー」はいまだに縮小される気配はないけれども)。

「そして、他の何より重要なことは、国際関係のシステムを成り立たしめている基本的な秩序を打倒できるかどうかに自国の将来がかかっているなどと中国が信じていないことである。それどころか、実際はその逆だ。支那の指導者達は、近代世界との密接で重層的な関係が構築されてこそ彼等の成功は達成されることを確認しているのだから」。


(2005年10月5日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 中国問題
ジャンル : 政治・経済

shokun


昨日、地元の小田急線新百合ケ丘の書肆で、私の週刊愛読書『週刊金曜日』を買ったついでに『諸君』(2006年10月号, 文藝春秋)も求めました。

本当は、哲学者でありながら憲法の政教分離原則についてたびたび面白い素人談議で読者を嗤わせてくれる、高橋哲哉さんのインタヴュー記事「靖国問題 まず憲法原則から考えよう」と、今時、博物館でも見られない「3・2テーゼ」ばりの左派歴史観の継承者である和田春樹さんの記事「自民党総裁選  安倍晋三氏の歴史認識を問う」が掲載されている『世界』を探していたのだけれど、地元の書肆には『世界』は置いていなかったから。

私は日頃、『正論』とか『Will』とか『諸君』はあまり読みません。まして、『SAPIO』など行きつけの床屋さんでパラパラページをめくる程度。理由は簡単明瞭。大体同意できる主張が大体知っている事実をもとに書かれている記事を読んでも時間の無駄だと思うからです。

人間も教育も異質なものとの邂逅の中でこそ成長し改善していくものでしょう。それに、議論をする場合、相手の論理的や事実的の根拠について、その原資料を事前にフォローしていることの効果は絶大。例えば、将棋の藤井猛九段は振り飛車戦法のスペシャリストだけれど、こと居飛車側の振り飛車対策に関しても彼は日本でもトップクラスの技量を持っておられる;実際、1999年度の竜王戦で同じ振り飛車党の鈴木大介六段を藤井竜王は4勝1敗で退けたのだけれど、その5戦すべてを対振り飛車型の居飛車戦法で通されたのだから(段位肩書きは共に当時)。

と、正直、昨日『諸君』を購入したのは全くの偶然です。多分、書店で目次をパラパラめくっていて、昔、講義を聞いたこともある中西輝政先生の福田和也さんとの対談記事「安倍政権で日本はこうなる 媚中外交の精算、憲法改正への布石」でも読もうかなと思ったのかもしれない。しかし、嬉しい誤算でした。私にとって情報価の高い記事が2本掲載されていたから。その記事とは、

●女系天皇こそ日本文明に適う 酒井信彦(元東京大学教授)
男系絶対主義の主張はシナ・朝鮮の日本蔑視の論理を肯定することになりかねない。何故か?



●防大流「日本的リーダー」の育て方 西原 正(前防衛大学校長)
東京湾八キロ遠泳で顔つきが変わる。厳しい訓練と寮生活で「人間の作り直し」は可能だ!



jitoutennou
【Empress Jito :Uno no Sarara no Himemiko】

◆女系天皇について
私は皇室関連の記事は、ニュースとして収録する場合と(これまた極めて例外的ですが)憲法解釈論として言及する以外ブログにはエントリーしない方針です。まして、一昨日の秋篠宮家の新宮親王殿下のご生誕で下火になるまでおおよそ一年余り論壇と政界を巻き込んできた所謂「女帝・女系天皇」の論議に関しては一度もコメントしていません。大変重要で、かつ、大変難しい問題だと認識しているからでもありますが、特にタブーというのではなく、皇室を対象とした話題は興味本意で書くようなものではないと考えているからです。

蓋し、女性女系の天皇に関する私の現在の考えは、「女帝には賛成、女系は保留。而して、旧皇族の復活、ならびに、東宮家を含む宮家に男系皇孫男子を養子として迎え入れる制度の導入」を進めるべきというものです。畢竟、旧皇族の復活、養子制度の導入等々、女帝・女系論議の前に(あるいは、それと並行して)やるべきことがあるのではないか。皇室を安泰せしめ神州臣民を安寧せしめる施策は女帝・女系論の他にいくらでもある。このような議論と施策をスキップしてする単なる「女帝・女系容認論」は反日的・反伝統的・反憲法的なものにすぎない、と。これが現在の私の考えす。而して、この考えは秋篠宮家の慶事を受けた今も変わりません。

女帝には賛成、女系は保留。

旧皇族の復活と養子制度の導入を推進せよ!



「女帝賛成」はまあよいとして、「女系には反対ではなく留保」だぁ? そう感じられた読者の方もおられるかもしれません。しかし、ここはKABU&寛子さんのブログ。ならば、まさかこの私が現行憲法の男女平等原則なりを歯牙にもかけるはずはない。また、神武以来2670年近い歴史を看過するはずもない。しかし、

(イ)日本の皇統は7世紀近くまで「男女双系制」であったとも解されるのであり(「女院」の財産権および「女院資産の継承が天皇家の家長として院政を敷くことの資格条件であったこと」等々、家産の相続に関しては10世紀前後までそうであり)、(ロ)推古天皇以降の女帝の存在は、「その女帝の直系直下の子に皇統を継がせない」という政治的メッセージの<記号>であったにせよ、藤三娘光明子までは「皇后」は「天皇」とほぼ対等の政治的権威を保持していたこと。 更に、(ハ)所謂皇国史観からの流れを受ける現在の男系理論は所謂皇国史観に流れ込んだ平田神道とドイツ流の観念的国家論との混合物ともいえること(つまり、男系論にそう論理的な根拠は見当たらないこと)


これらを鑑みるに、伝統の破壊ではなく伝統の再生という点で女系女帝論(厳密にいえば、双系天皇論)には満更正当性がないわけでもないのではないか。私はそう考えています。而して、ここに紹介した「女系天皇こそ日本文明に適う」は女系天皇容認の論拠として、則天武后等の極めて僅かの例外を除けば支那や朝鮮には存在しない(男系も含む)「女帝」を日本は近世に至るまで認めてきたことでも明らかなように、(ニ)8世紀以降も双系での継承システムと男女の対等な関係は日本文明の伝統であったという視座を提供してくださっている。

前述の如く、この問題は重要かつ難しい問題。その重要性はあるいは憲法9条の改正に優るかもしれないし、その困難さは日教組・全教等が崩壊させた教育の再生を上回るかもしれない。よって、細部まで吟味した上で考えがまとまるようであれば、女帝・女系論の是非についていつか発信したいと思っています。いずれにせよ、このイシューについて関心のある方にはこの「女系天皇こそ日本文明に適う」(pp.90-101)の一読をお薦めします。

boueidaigaku



◆防衛大学について
防衛大学が私は好きです。長兄が防衛大学卒業ということ(14期生:現在の統幕・陸海空の幕僚長と同期)、また、陸上自衛隊に任官した防大生が卒業後の半年通う(尚、防衛大学以外の一般大学卒者の場合は1年間通う)陸上自衛隊幹部候補生学校が福岡県久留米市にあり、私の郷里、福岡県大牟田市とは指呼の距離ということもあって、その半年間はほぼ毎週末に兄と14期の兄の友人が我が家に遊びに来てくださった楽しい思い出があるから。

畢竟、私は子供のころから防衛大学校に極めて強い親近感を抱いてきました。東京に来てからは11月の防衛大学開校記念祭(防衛大学校の学園祭)には、海外出張等のよほどのことがない限りブログ仲間も誘って行くようにしていますが、それも、女子防大生がみんな美人で賢そうというだけではなくこの親近感のためかもしれません。

私は(最早、そう言っても世間的に許される年齢になっていると思いますが)日本の教育制度と企業内研修制度構築の専門家です。自慢じゃないけれど、20年近く日本の教育機関から企業組織に送り出されてくる<人材>の評価と再研修の企画立案、それら人材開発企画の実行指揮と実行管理、他方、高校・大学・大学の教育プログラムの改善コンサルティング、ならびに、予備校のカリキュラムと教材の企画作成やらそれらにまつわる諸々をやっていれば誰でも<専門家>になるというものです。

そんな私の中では(学部・学科の枠をとっぱらった場合)「教育機関」として見た場合の日本の大学の序列はここ数年固定している。而して、「普通の学生」を「付加価値の高い労働力商品」に仕上げるパフォーマンスで見た場合、京都大学や東京大学とともに防衛大学はかなり上位にランクされる。機会があれば大学寸評、(特に、ハーヴァード大学≒東大:スタンフォード大学≒京大:シカゴ大学≒阪大・・・の、アメリカの大学と対比させた上での)日本の各大学の寸評も書きたいと思っていますが、とにかく私は防衛大学が大好きであるだけでなく、教育機関としても高く評価しているのです。

独断と偏見で選ぶ☆教育機関としての
日本の大学Top 15

01 京都大学
02 東京大学
03 防衛大学
04 同志社大学
05 津田塾大学
06 南山大学
07 慶応義塾大学
08 国際教養大学
09 千葉大学
10 神戸女学院大学
11 山形大学
12 東京女子大学
13 日本大学
14 大阪大学
15 学習院大学
次点 恵泉女子大学/岩手県立大学/
  関西大学/創価大学/拓殖大学



防衛大学の学園祭や卒業式はいつ行っても素晴らしい。小泉純一郎首相も「その様式美と力強さは一流のオペラに匹敵する」としばしば語られているように防大の卒業式は4年間の充実もし、苦しくも楽しくもあった500人近い学生生活の思い出が弾ける舞台。これに対して、11月の学園祭は、防大生にとって良くも悪くも一般社会から隔離された小原台キャンパスに家族や彼や彼女やホストファミリー、そして、自衛隊を愛する多くの市民を迎え入れる非日常の文字通りハレの日です。それは短い夏に溢れんばかりのエネルギーを時空に叩きつける青森のネブタに一脈通じる盛り上がりをみせます。もちろん、Ladies and Gentlemenの防衛大生の場合「内に秘めた盛り上がり」と言うべきですけれども。

ことほど左様に、走水の小原台、防衛大学キャンパスを訪れるたびに、しかし、私がいつも感動するのは男女を問わず防大生の逞しさと礼儀正しさです。己の分を知り、かつ、他者に可能な限り奉仕しようとするその精神の清浄さであり、自分の意見をきちんと根拠をつけて他者に語れるその言語能力の高さと他者との距離の取り方の錬度です。簡単に言えば、他の有象無象の大学生に比べて防大生は遥かに大人(mature)なのです。平均した場合、おそらく、防大の2年生はmatureさにおいて早稲田大学や明治大学の4年生に優るとも劣らないと思います。

極めて残念ながら同年齢のアメリカの大学生と対等に渡り合えるmatureさを備えた大学生は(もちろん、10%程度の個体差はオミットするとして)我が日本には防衛大学の学生しかいないのではないかとさえ言える。あくまで一般論ですが、防大生の彼女や彼に比べればICUの学生など英語が少しできる常識知らずの餓鬼でしかないかもしれません。

なぜ防大生はmatureなのか。どのようにして防衛大学は普通の高校生を僅か1-2年でかくも立派なLadies and Gentlemenに育てているのか。どのようにして新入生だった彼等を4年後には国防の第一線を担うスキルと気概と胆力を持った幹部自衛官として防衛大学は相模は小原台の学舎から巣立たせているのか。これは私の長年の疑問でした。そして、ここに紹介する「防大流「日本的リーダー」の育て方」(pp.142-148)にはそのエッセンスが書かれている。そういました。国防と教育の双方に関心のある向きには是非ご一読を薦めいたします。


(2006年9月9日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : これでいいのか日本
ジャンル : 政治・経済

koukyo


皇室典範の改正に関する三笠宮寛仁親王殿下のご発言を巡ってここ数日世間が騒がしい。皇族は政治的な発言を差し控えるべきかどうか。朝日・産経の両全国紙が社説で論じたからである。私はいくら個人のBLOGとはいえ、皇室に係わるイシューを興味本位で語るのは好ましいこととは思っていない者である。しかし、ネット上には、憲法4条1項の理解どころか憲法の基礎的な理解もできていないもの、到底そうとしか私には思えない主張も少なくないようである。蓋し、皇室と憲法の関係につき私の考えを記すことにした所以である。

●憲法3条  
天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

●憲法4条 1項 
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。


「皇族は政治的な発言を差し控えるべきかどうか」を判断するためには何を考えればいいのだろうか。すなわち、論点の確定であるが、私はそれを次の2点と考える。

・現行憲法は皇族の政治的表現を制限しているのか
・憲法はそもそも政治的表現を制限可能なのか


先回りして結論を述べれば、現行憲法は皇族の政治的発言を無制限に制限しているわけではないし、いずれにせよ、その制限には立法による根拠づけが必要である。また、(現行憲法も含む)憲法一般に関して、政治的な影響力を帯びるすべての発言や行為を憲法が制限するなどということは不可能である;それは、物理的にだけでなく法概念論的にも不可能である、と。

蓋し、「寛仁さま 発言はもう控えては」と朝日新聞が(自己の政治責任において)主張するのは勝手だけれども、それは現行憲法の規範意味からも法一般の本性からもサポートされない根拠薄弱なものである。この帰結を敷衍する前に問題の朝日新聞と産経新聞の記事を引用しておく。


●朝日新聞社説(1) 2006年2月2日
「寛仁さま 発言はもう控えては」

皇位継承のあり方をめぐり、天皇陛下のいとこにあたる寛仁(ともひと)さまの発言が相次いでいる。

昨年、会長を務める福祉団体の機関誌に随筆を寄稿したのに続き、月刊誌「文芸春秋」などでインタビューに応じた。さらに産経新聞と、同社が発行する雑誌「正論」にインタビューが載った。(中略)

小泉首相から皇位継承のあり方を諮問された有識者会議は、女性天皇やその子の女系天皇を認める報告書をまとめた。政府はこの報告書に沿って皇室典範の改正案を準備中だ。寛仁さまの発言は、この報告書や首相の方針に異を唱えるものである。

だれを天皇とすべきか。皇位継承は天皇制の根幹にかかわる問題だ。国民の間で大いに論議しなければならない。皇族にも様々な思いはあるだろう。(中略)

今回の一連の寛仁さまの発言は、皇族として守るべき一線を超えているように思う。寛仁さまはインタビューで「皇族は政治にタッチしないという大原則があります」と述べている。その大原則に反するのではないかと考えるからだ。

憲法上、天皇は国政にかかわれない。皇位継承資格を持つ皇族も同じだ。(中略)天皇制をどのようなかたちで続けるかは国の基本にかかわることで、政治とは切り離せない。(中略)たとえ寛仁さまにその意図がなくても発言が政治的に利用される恐れがある。それだけ皇族の影響力は大きいのだ。(中略)そろそろ発言を控えてはいかがだろうか。


●産経新聞社説 2006年2月3日
「朝日社説 「言論封じ」こそ控えては」

寛仁さまが月刊誌などで皇位継承について発言されていることに対し、朝日新聞は二日付で「発言はもう控えては」という社説を掲載した。同じ言論機関として、違和感を覚える社説だ。(中略)

朝日は「一連の寛仁さまの発言は、皇族として守るべき一線を超えているように思う」とした上で、「天皇は日本国民統合の象徴だ。国民の意見が分かれている問題では、一方にくみする発言は控えた方がいい。これは皇族も同じである」「そろそろ発言を控えてはいかがだろうか」と書いている。

寛仁さまの発言を批判することは言論の自由の範囲内であるが、その発言を封じようとする社説は、言論・報道機関として、守るべき一線を越えているように思われる。(中略)

寛仁さまが言わんとしていることは、安易に女系を認める前に、いろいろな選択肢があり、あらゆる手を尽くすべきだという趣旨だ。それでも男系維持が難しければ「女帝・女系の議論に入っていけばいい」「最終的には皆さんのご判断を待つ」(雑誌『正論』三月号)とも言っている。(後略)


●朝日新聞社説(2) 2006年2月4日
「皇室典範 ここは冷静な議論を」

皇室典範の改正問題で、政界が騒がしくなってきた。(中略)気がかりなのは、こうした議論のなかで皇族の発言が注目されていることだ。自民党内の改正先送り論の高まりについて、同党の細田博之国対委員長は「宮さまが否定的な見解を公表されたことも大きく影響している」と語っている。

宮さまとは三笠宮家の長男、寛仁(ともひと)さまのことだ。昨年来、月刊誌などで女系天皇に異を唱える発言を繰り返してきた。

私たちは、一般論としては皇族であっても自由に発言するのが望ましいと思う。だが、戦後の憲法で国民統合の象徴とされた天皇には、政治的行為や発言に大きな制約がある。皇族もこれに準じると解釈すべきだろう。(中略)

私たちが2日の社説で寛仁さまに「もう発言を控えては」と求めたのは、皇族としての制約を超えると考えたからだ。皇室の総意であるかのような誤解も与えかねない。細田氏の言うように、政治に具体的な影響を及ぼしているとしたら、なおさら見過ごすわけにいかない。

この社説に対して「言論機関が皇族の言論を封じるのか」という反論も寄せられた。しかし、皇族だからこその言論のルールがある。それを指摘するのはむしろ言論機関の責務ではないか。ここはぜひ冷静な議論を望みたい。



◆現行憲法と皇族の政治的発言
憲法京都学派の最後の総帥・田畑忍先生の筆法に倣えば、「憲法上、天皇は国政にかかわれない。皇位継承資格を持つ皇族も同じだ」「憲法で国民統合の象徴とされた天皇には、政治的行為や発言に大きな制約がある。皇族もこれに準じると解釈すべきだろう」という朝日新聞の主張は成立しない。

なぜならば、全百三条の憲法のどこにも「天皇以外の皇族もまた国政に関する権能を有しない」などとは書かれていない。また、現行憲法19条と21条は「何人も」や「すべて国民は」あるいは「国民は」という主語(=人権享受の主体)を明記することなく「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定しており、而して、政治的な表現の自由は普遍的なものであり皇族にも外国人にも保障されている。そう現行憲法は捉えていると考えられるからである。

法解釈において条文の文言をより重んじる昔懐かしい京都の薫りを紹介したけれど、その帰結は重要な視座を提供していると思う。旧憲法から現行憲法への移行に伴い天皇主権から国民主権への変更がもしあったとしても、その事実や国民主権の原理なるものから、誰に対してであれ憲法条規に何の根拠もなく人権を(しかも、これまた昔懐かしい「人権のダブルスタンダード論」から見ても、「人身の自由」と並んで最大限尊重されるべき「政治的表現の自由」を)制限することなどできはしない。そのことを憲法の京風解釈は示していると解するからである。

憲法改正直後から、天皇の政治的行為を巡っては次のイシューが主に論議されてきた。

(甲)天皇の行為には憲法に明記されている「国事行為」と純然たる「私的行為」のほかに、国の象徴としての行為たる「公的行為」が憲法上認められるのかどうか(4条1項参照)
・・・通説:「公的行為」は認められる

(乙)「天皇の国事行為」に対する「内閣の助言と承認」とはどのような意味なのか:それらは一体のものか個別に行われなければならないのか(3条参照)
・・・通説:論争にあまり実益がなく曖昧ではあるが、「助言と承認」は一体であるとする見解が有力

(丙)「天皇の国事行為」として憲法7条が列挙している事項や6条の「内閣総理大臣の任命」「最高裁判所の長たる裁判官の任命」。あるいは((甲)で「天皇の公的行為」を認める場合には)公的な行為の実質的な決定権者は国のどの機関なのか? また、その根拠は何か?
・・・通説:議院内閣制の本性を鑑みて憲法に特に明記されていないものに関しては原則「内閣」と解する

しかし、憲法が定めている天皇の地位に伴う天皇の人権の制約についてさえ、憲法第1章「天皇」の1条~8条、あるいは、99条「天皇又は摂政は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」という明文の規定がカバーする範囲以外の事項に関して消極的な研究者は少なくない。少なくとも、国民主権の原理なるものだけを根拠に、天皇の人権制約の範囲を広く解する見解が憲法研究者のコミュニティーで特に有力というわけではない。ならば、ましていわんや憲法に条規が皆無の(「摂政」以外の)皇族においておや、である。

而して、私は「現行憲法は皇族の政治的発言を無制限に制限しているわけではないし、いずれにせよ、その制限には立法による根拠づけが必要である」と考えるのである。これは、外国人の人権、あるいは、選挙権や被選挙権のない未成年者の政治的な表現の自由の保障と憲法的には何ら異なることはない。

畢竟、「寛仁さま 発言はもう控えては」と言うことが現行憲法や国民主権の原則を根拠にして主張できるとするならば、それと全く同じ法的な根拠をもって「外国人の皆さん 発言はもう控えては」とか「おいそこの高校生 未成年者が政治の話しをBLOGに書くのは100年とは言わないが3年早いんだよ」とも言えることになろう。


蓋し、三笠宮寛仁親王殿下が、一連の朝日新聞の社説からお受けになられた精神的ダメージや名誉の棄損に対して民法の不法行為(709条)と並んで憲法13条・21条を根拠とした一種の憲法訴訟を提訴されることはまずないだろう。ならば、皇族の政治的発言の制約の憲法論議は、皇族の方々の人権を制約する法規や行政機関の行為の合憲性判断が、唯一、その戦場になる可能性があると思う。しかし、皇族への選挙権と被選挙権の制限に関する選挙関連の諸法規を除けば現実に皇族の方々の人権を制約する法規はそう見当たらず、よって、「現行憲法は皇族の政治的発言を制限しているか」の検討はこれでゲームオーバーになる。

「私たちが2日の社説で寛仁さまに「もう発言を控えては」と求めたのは、皇族としての制約を超えると考えたからだ」「細田氏の言うように、政治に具体的な影響を及ぼしているとしたら、なおさら見過ごすわけにいかない」「皇族だからこその言論のルールがある」という朝日新聞の社説を読むとき、私はある特殊な憲法理解がこの主張の底に横たわっていると感じる。それは、天皇制は国民主権と矛盾する→国民主権は現行憲法の理念である→皇族制度はあくまでも現行憲法の例外規定にすぎない→天皇のみならず皇族の人権の制約には憲法の明文規定は不要だ、というような主張である。

しかし、このような議論は現行憲法の条規からその主張を根拠づけるのに成功しない限り、大人が真面目に相手にするようなものではない。彼等は、自分が勝手に造作した空中楼閣ともいうべき国民主権論だけを根拠にして勇敢にも、現行憲法が明記する「天皇」と「表現の自由」に挑戦しているのだから。畢竟、皇族の政治的表現を制限できるという主張はどう考えても、憲法の文言より自己の願望か妄想を上に置く法的な思考とは無縁な政治論にすぎない。


◆憲法は政治的発言を制限可能か
政治的影響力なるものは完全に制御できるものだろうか。皇族の政治的影響力の話しからは外れるけれど、私はある知人から公立学校の英語教育に関して次のような主張を聞いたことがある。

「英語を公立学校で教えること自体、アメリカの帝国主義的なイデオロギーを子供達に注入するものだ。それは、人倫と道徳に反する所のアメリカの世界支配を助けるものだ。ならば、日本では英語に替えて(強制的に!!)エスペラントを公立学校で教えるべきだ。なぜ「強制的」かと言えば、保護者や子供達に選択を任せていては彼等の大多数は結果的に英語を選択するだろう。それでは、いつまでたっても現状の改革はできないからだ。これは一種の「アファーマティブアクション」(=現状の不平等を是正するために一時、人為的に被抑圧・被差別者を行政が優遇すること)である」、と。

こうのたまう道徳心溢れる論者もこの世の中にはおられるのである。週刊金曜日の読者的なこのエスペランティストの目には、公立校の英語の授業でさえ政治的影響力を発信するメディアに他ならない。まして、ネスレが欧州の植民地支配の正当化の象徴であり、コークやマクドナルドやケンタッキーフライドチキンがグローバル化した世界を覆うアメリカの文化支配の象徴として、イスラム圏を始めアフリカやラテンアメリカ諸国ではその政治的影響力を警戒されているのは常識ではないか。何を私は言いたいのか? 

それは、一体、ある人の表現行為について憲法が(というより、「法が」と言うべきか)政治的影響力を無制限に制限することが可能なのだろうか? そういう問題提起である。不可能と私は考える。理由は物理的や社会学的なものと法概念論的なものの二つである。簡単な話しだ。

憲法や法が規制できるのは精々ある行為者の表現行為にすぎない;しかるに、政治的影響力なるものを感じる/受けるのはその表現行為の受領者なのである。すなわち、皇族の表現行為を原則禁止する、かつ、皇族の行為を物理的に24時間×365日監視下に置くのでもない限り、皇族の政治的影響力を制限するには、逆に、1億2千万人の国民の方を24時間×365日(しかも、この場合には物理的にだけではなく心理的・精神的にも)管理下に置かなければ不可能だからである。

抑圧的な独裁制はその強面の外面とは裏腹に自由な言論を基盤とする民主制よりもその支配力は脆弱だ。このことは政治学のイロハの「イ」の認識であろう。而して、その最大の理由は上で書いたような独裁支配(=朝日新聞的支配か?)の高コスト体質にある。実際、ビルマのアウンサンスーチー女史は1990年5月27日から現在に至るまで断続的とはいえ長期にわたり自宅軟禁の状態に置かれているけれども、女史の政治的影響力と世界的な名声はいやましに大きく高くなっているではないか。

まして、前節で考察したように、現行憲法下においても天皇を除く皇族の(実は、憲法に明文の規定がある事項を除けば「天皇も含めた皇族の」と言うべきだろうが)政治的な表現の自由が憲法的に無制限に制約されるわけではない。更に、それをブレイクダウン、かつ、インカーネトした法規も存在しない以上、現行憲法体系が皇族の政治的表現行為を封殺することは朝日新聞的な言論弾圧のファシズムを持ってしても物理的に不可能であろう。これが「ある人の表現行為について法が政治的影響力を制限することは不可能」と私が考える物理的と社会学的な理由である。


法概念論から見て、「ある人の表現行為について法が政治的影響力を制限することは不可能」とはどのような事態か。この説明に入る。これまた簡単な話しである。

物理的に不可能なことを法は誰にも要求しない。有名な法諺に「炎の中に手を入れてはならないという法は存在しない」というのがあるが、要は、皇族の政治的影響力を制限する法規が制定されたとしても(かつ、皇族の方々が政治的表現行為を差し控えられた場合にも)、皇族の政治的影響力はなくならない。すなわち、そのような法はその法規が向けられる皇族・国民、そして、その法規を運用する行政機関の三者のすべてに対して法として機能しないということだ。物理的と社会学的な理由の補足説明のように感じられるかもしれないけれど、この経緯には物理的と社会学的な事態だけではなく法理論的なものが含まれている。

例えば、朝日新聞の次のような主張:「天皇制をどのようなかたちで続けるかは国の基本にかかわることで、政治とは切り離せない。たとえ寛仁さまにその意図がなくても発言が政治的に利用される恐れがある」「私たちが2日の社説で寛仁さまに「もう発言を控えては」と求めたのは、皇族としての制約を超えると考えたからだ。細田氏の言うように、政治に具体的な影響を及ぼしているとしたら、なおさら見過ごすわけにいかない。ここはぜひ冷静な議論を望みたい」を読むとき、私は言わば<現行憲法の贔屓の引き倒し>的な心性を感じる。

蓋し、<憲法の理念は守られるべきであるから憲法の理念は具現可能である>というお子様の感性である。而して、憲法フェチともいうべきこの感性は、憲法を含む法規範にはできることとできないことがあるという平明明晰な事実を失念していると思われる。そして、不可能を要求する法規範は(物理的・社会学的に)機能しないだけでなく法規範としての尊敬をも国民から勝ち取ることはできず、すなわち法的な効力を欠き法ではない。ならば、この憲法フェチの心性は、結局、彼等が妄想する(彼等の願望にすぎない)国民主権原理なるものが法規範ではないことを白日の下に曝すことに至るに違いない。法概念論によるこの補助線を用いて、最後に、「ある人の表現行為について法が政治的影響力を制限することは不可能」という主題を敷衍する。


現行憲法はその41条で「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」と定め、また、43条1項では「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と定めている。よって、国民の人権を制約するには国会で成立した法律(少なくとも、政令・条例に効力を付与する法律)が不可欠である。しかし、国民の人権を制約する法律の内容を閣僚の私的な政策懇談会や政党、はたまた、業界団体やNPOが実質的に構築することは(それらが最終的に国会で審議され成立する限り)憲法に違反しないし、また、それを法で禁止することなどできはしない。それは政治に影響を与えるにしても私的な行為だからである。

また、現行憲法99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と謳っている。而して、通説判例ともに、この規定の定める義務を法律的義務というより政治的・道徳的義務と考えている。しかし、この義務を、例えば「人権・平和・国民主権という憲法の基本理念を変更することを国務大臣や国会議員に対して禁止する憲法保障の規定」と解する研究者もおられないではない。

けれども、憲法研究者や極一部の国民が考えるにすぎない、ある特殊な「憲法の基本理念の内容」を根拠にして、その内容に反する憲法改正案を時の国務大臣や国会議員が国会で審議し成立させることを(物理的や社会学的にだけではなく)禁ずることはその行為が憲法96条の憲法改正条項に従う限りできない。その国会における改正作業は憲法が豪も制限することのできない事柄である。まして、そのような憲法改正を国務大臣や国会議員がTVや街頭で国民大衆に訴える行いを(それが何らかの法規に反しない限り)禁じることなどできはしない。それは政治に影響を与えるにしても私的な行為だからである。

さて、三笠宮寛仁親王殿下が今回そこで「皇位継承のあり方をめぐり発言」された媒体の中には、殿下ご自身が「会長を務める福祉団体の機関誌」が含まれていたとのことである。実際、皇族の方々は日本赤十字社の名誉総裁などの「福祉団体」や文化事業プロジェクトの多くで名誉職についておられる。ならば、皇族の方が小学校や中学校のPTAの役員に就任されたり、あるいは、各自がお住まいの町内会等の役員に就任されることを法は規制できないだろう。なぜならば、これらは純然たる私的行為だからである。

このような私的活動と世に政治的な影響を与える活動や表現との距離は皆無である。ならば、法が皇族の政治的な影響を何らかの明確な基準でもって制限することは不可能と考えるべきである。蓋し、この経緯が、「法概念論から見て、ある人の表現行為について法が政治的影響力を制限することは不可能」と私が考える理由である。尚、憲法に関する私の基本的理解に関しては、とりあえず下記の拙稿を参照いただきたい。


・政治と社会を考えるための用語集(2) 憲法
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/858520.html

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)(下)
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-12.html
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-13.html



(2006年2月4日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済

kame2



プロボクシングの亀田家が嫌われている理由? 簡単だ、彼等がやっているのはボクシングではないから。今回の「内藤 Vs 亀2」戦。10月11日のWBC世界フライ級タイトルマッチ、内藤大助対亀田大毅戦ではっきりした。亀2こと亀田大毅選手のプロレス紛いの投げ技や両者がリングのキャンバスに倒れこんでいる時の亀2のヘッドロック攻撃等々、ボクシングのルールの許容範囲を遥かに逸脱する反則の嵐を見て納得した。

「ルール違反」を咎めるのは奇麗ごとすぎる? ボクサーに「聖人君子」性を求めるのは愚の骨頂? 否です。私は別に、ボクシングに「武道の精神性」なるものを求めているわけではない。もちろん、ボクシングにせよ将棋にせよ、ソープにせよAVにせよ、そこに精神鍛錬と人格向上の<契機>を見いだす人がいてもいいだろう。けれども、逆に、空手にせよボクシングにせよエンターテーメント・ビジネスやサーヴィス業と割り切って何が悪いと思う。つまり、派手な立ち居振る舞いや非常識な言動で世間の耳目を集め、big mouth でもって big moneyを稼ぐボクシング一家がいたっていいじゃないか、というくらいの世間知は持ち合わせているつもりだ。

では、内藤戦というか昨年の亀1の世界タイトル戦以来、亀田家はなぜ嫌われているのか。他の人の心の裡はわからないけれど、私が嫌いな理由が「内藤 Vs 亀2」を見て自分ではっきりわかった。それは、親亀こと亀田史郎氏、亀1こと亀田興毅選手を含む亀田家にとって「ボクシング」なんかどうでもいいことであり、「ボクシング」より大切なものが(それこそ、亀2や親亀・亀1の心理はわからないけれど。おそらく、勝敗やビジネスや面子なのだろうか。その大切なものが)危うくなるようなら当然、ボクシングのルールなど遵守してなんぞおられへんがな、というのが見え見えになったからだ。要は、

亀田家はボクシングをしているのではなく
ボクシングより大切な something のために
ボクシングのもの真似をしているだけではないのか。


そう私は感じたのだ。なに? そんな、プロ野球の選手もJリーガーも、ソープ嬢やAV嬢だって、好きでそのプレーをしているのではなく、その生業より大切な something (それは大部分の場合には、 moneyであり money に象徴される快楽、あるいは、自分と家族の生活の維持向上)のためにプレーを文字通り<演じている>にすぎないではないか、ですと? もちろん、そうです。その意味では(「ヒラリーマン」から衆議院議員になった小泉チルドレンの一人、杉村太蔵氏を想起するまでもなく)「サラリーマン」にせよ「寿司職人」にせよ、すべての人はその生業より大切な somethingのために<自分の職業>を演じているにすぎない。

けれど、どんな職業に従事している人でも、正に、その職業に従事しているその瞬間に、「わしはこの仕事、しとうてしとるんちゃうんねん」と公言することはないし、そこでそう公言するような輩は、(お客や納税者から)moneyをいただく資格のない「アマチュア」か「世間知らずの子供」のいずれか、あるいはその両方だろう。これは、大工見習いから割烹の花板、サラリーマンから国会議員、ソープ嬢からAV嬢、プロ野球選手からJリーガー、大相撲の序の口から横綱に至まですべての職業に当てはまることだと思う。而して、

亀2が「プロボクサー」ではない単なる「ボクシングが得意な子供」にすぎないこと。そして、親亀も亀1も、ことこの「プロ」と「アマ」、「大人」と「子供」を分つ基準については亀2と同じ「アマの餓鬼」、そう、「天の邪鬼」ではなく「素人の子供さん」である。このことが今回の「内藤 Vs 亀2」戦ではっきりした。そのように私には感じられた。蓋し、リング上で致命的なルール違反を繰り返しておいて、誰に謝罪するのか/何について謝罪するのかさえ不明確な、見当はずれの<謝罪コメント>しか出せないということは、彼等がボクシングの世界に住んでいるのではなく、ボクシングを利用する方に遥かに大きな関心のある人々であることの証左に他ならないだろうから。

ならば、話しは簡単。単なる金儲けの道具や機会として、ボクシングの真似をしているような輩にボクシングを語って欲しくないということ。そんな、自分都合のことしか考えられず、お客が見たいのはボクシングであるというのに、自分達の都合で勝手にボクシングでない something を世界タイトル戦のリングでやりだす「単なるお子様一家」を公共の電波に乗せるなよTBS、ということだ。

もう一度、書いておく。私は big money をつかむためにリングに上がるボクサーがいてもいいと思う。また、big mouth でもって big money を手にするボクサーがいてもいい。それは人生というか浮き世の<スパイ>みたいなものだろう。けれど、それはボクシングの「プロ」や「大人」についてのみ言えること。ボクシングの試合中に(しかも、TVで全国放送されている世界戦の試合中に!)ボクシングを見せることより、moneyか面子か知らないけれど、ボクシング以外のsomethingにしか関心がないことをあからさまにする餓鬼やその餓鬼の親餓鬼にはうんざりという他ない。そして、ボクシングの試合と銘打ちながらボクシングの真似事を全国放送したTBSに対してもこれと同じことが言えるだろう。


畢竟、多少の反則はボクシングの伎倆の一部分。プロレスに至っては反則はプロレスという文化の不可分なる重要部分(the essential part of it)。その通り、アメリカには「野球と政治では法に触れない限りあらゆる行為が許される」という箴言があるらしいけれど、蓋し、多少の反則やずる賢いプレーもありであってこそ、正当なプレーや正々堂々たる勝利の価値は一段と高まるというものだ。けどね、往年のプロレスのヒール(悪役)、タイガージェットシンやアブドラザ・ブッチャーがホークや模造サーベルではなく、本物の「日本刀」や「ピストル」を持ってリングに上がったとしたらそれは最早「プロレス」ではなくなってしまう。

たかだか、亀2の投げ技やヘッドロックに大仰なと言うなかれ。プロボクサーは殴り合いの専門家であり、まして世界チャンピオンはボクシングに関しては鬼のように強い。けれど、ボクサー体は精密機械と同じなのだ。内藤チャンピオンが最後まで余裕で戦いきったし、判定も当然の判定で終わったからいいようなものの、もし、亀2の投げ技でチャンピオンの肋骨にヒビでも入ったらどうしたね。

ことほど左様に、ボクシングを街の腕自慢による街頭格闘(Street Fight)と区別するものはボクシングのルールである。そして、そのルールを本質的に逸脱している点ではプロセスの投げ技も日本刀の持込みもなんらかわらない。日本刀の持込みが銃刀法違反であり殺人未遂罪なり殺人予備罪という法律違反であるのに対して、プロレスの投げ技はそうではない(その違法性が大きい場合、理論的には「社会的相当性」や「被害者の同意」にもかかわらず「傷害罪」の成立する可能性もゼロではないけれど)。しかし、日本刀もプロレス紛いの投げ技も「ボクシングの試合」を「ボクシング以外の something」に変える力を持つ点ではなんら変わらないからである。

つまり、「内藤 Vs 亀2」戦を現地にせよTVにせよ観戦した我々は、(1)ボクシングに似たsomethingをボクシングと偽って見せられたのであり、それは、(2)ボクシングの試合の最中に「自分はボクシングには興味も関心もあらへんねん」と言い放つ、アマの餓鬼のシャビーなパフォーマンスにつき合わさせられたのだ。

これまた再度記す。ボクシングをボクシング足らしめるのはボクシングのルールであり、(カンニングしてテストで100点とっても「つまらない」のと同様)そのルールを遵守するプレーを通して、優劣と勝敗を競うからこそボクシングは見る者をして感動させるのではなかろうか。而して、レフリーに見えない所で行う反則の艶っぽさなどとは無縁の、満座の中でプロレス紛いの投げ技を繰り返す行為は感動も呼ぶことはないだろうし、興ざめである。なにより、そのようなものはボクシングでもない。


おそらく、亀田家のお子様達は、ボクシングのルールに従うこと獲得保持される(ボクシングのコミュニティーの一員であることの)プライドやアイデンティティーとは無縁の人達なのかもしれない。マスコミ報道によれば、最初に目をかけてくれた大阪のジムを金銭問題で離縁され、今度また(良きにつけ悪きにつけ、この間、苦楽を共にしてきた)協栄ジムからの移籍を水面下で親亀が画策していたのが発覚し、協栄ジムの会長を激怒させたという。もちろん、親亀は「移籍を画策した事実ない」と言っているらしいけれど、「李下に冠りを正し倒してきた」亀田家の日頃の行いから(この報道が事実にせよ誤報にせよ)、親亀の抗弁を信じる人は少ないだろう。

このような亀田家のビーヘービアを見聞きするにつけ、彼等はボクシングの世界のエイリアンのように思われてくる。蓋し、エイリアンとは客観的にも主観的にもそのコミュニティーのメンバーではなく、また、メンバーであることにプライドもアイデンティティーも感じない人々のことであれば、この「亀田一家=ボクシング界のエイリアン」説も満更暴論ではないのかもしれない。私にはそう思われる。


尚、ルールがボクシングをしてボクシングたらしめるということ。ルールを守れない心性はルールによって始めて成立するゲームを楽しめないだろうし、そのプレーは観衆に感動を与えることもありえないということ。そして、ルールを守れない者はそのゲーム文化とゲームの世界のエイリアンである。これら本稿を貫く私の認識と主張については、ミラーブログ海馬之玄関FC2版に加筆した上でアップロードした次の拙稿を併せてご一読いただければわかりやすいと思います。17歳の高校生の素敵な投書を俎上に乗せたもの。亀田一家とTBSの下らなさに辟易している向きには(月並みな言い方ですが)「一服の清涼剤」になるかもしれません。

「法哲学」の核心を穿つ17歳の高校生の投書 


(2007年10月22日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : マスコミ
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keibun2
【Keibun Ota's water color】


素晴らしい新聞投書を目にしました。一昨日、2005年2月25日、朝日新聞・東京本社版の『声』欄。東京都世田谷区在住の(まだ!)17歳の高校3年生の投書。法やルールのあり方について、実によくその本質を理解しておられるものだと感動しました。

かって、アリストテーレースは「人間はポリス的な存在である」と喝破し、26歳の青年カール・マルクスは『経済・哲学草稿』の中で人間の本質を<類的存在>と規定しましたが、この投書子の女子高生が見出した<人と社会の関係>はこれら社会思想史上のビッグネームが見いだした知見と相通じている。教育セクターのシャビーでプアーなパフォーマンスが喧伝される昨今、<社会の一員としての自分>ということについてきちんと理解しておられる若い世代が存在することを知って嬉しく思いました。そんな感想を抱いた投書。以下、投書子の著作権を侵害しないよう適宜要約しつつ引用します。


「私は高校3年生だ。同学年の多くが18歳なのに、3月3日が誕生日の私はまだ17歳だ。以前は自分が周りの友達より若くいられることに、ちょっとした優越感さえ抱いていた。ところが最近、喜んでいられない問題となってしまった」、と。

「喜んでいられない問題」とは、「運転免許を取得しようと教習所に行った」際や、「友達と一緒にアルバイトに応募」したときも、「誕生日が1ヵ月」だけしか違わない18歳の友達は受け入れられたのに、17歳である投書子は門前払いよろしく断られたということである。そこで彼女は考えた。

「私は思い知らされた。最初は免許もアルバイトも、あと1ヵ月で18歳なんだから何とか大目に見てもらえるだろうと思っていた。しかし、よく考えてみればどちらも大きな社会とつながっている。たった1ヵ月のことでもと思うが、ルールはルールなのである」、と。

この体験から投書子は、「いま、改めて18歳という年齢の重みを実感することができてよかった。今年の誕生日はいつもと違った気持ちで迎えられそうだ」と感想を述べ投書を締め括る(以上、要約と引用終了)。



再度書きますが、この投書には、法や道徳という社会的ルールの本質がわずか500字足らずの文章の中に見事にとらえられていると思います。すなわち、

(イ)ルールの内容自体には大概の場合「その規定と異なる他の内容はなりたたない」という程の必然性はない
(ロ)しかし、あるルールが社会的に一度決まった場合、それがどのような内容のルールだとしても、その「ルールを守ること自体」は社会的に尊重されるべき存在意義がある
(ハ)内容としてはそれほど必然性のないルールであろうとも、そのようなルールをきちんと守る態度と行動を獲得保持することは、そのルールが適用されている社会のメンバーとしての自分自身のアイデンティティーとプライドを満たすものだ


と、このような認識を私は17歳の高校生が書かれたこの投書から読み取ったのです。

これら(イ)~(ハ)は、古くはソークラテースが見出し、また、近世においてはカントが「道徳規範の妥当根拠」と唱えたところのものと同一だと思います。それは、形式的には「悪法に従うこと」と「悪法を否定すること」の比較考量における前者の優位性の主張であり、実質的には「自由とは法に従う自覚的な行為の主体のみが享受できる褒賞」なのだという認識でしょう。

而して、この認識ゆえにソークラテースは悪法に従い従容と毒杯を仰ぎ、この認識を基盤に据えることで、カントは人間が道具や手段としてではなく常に同時に目的として扱われる人間中心の哲学の体系を構築しえた。この投書が指摘した「法と人間」の関係のあり方は、そんな人類の知的財産の中核を占める認識に他ならない。私はそう考えます。

確かにほとんどのルールの内容には必然性というほどのものはない。そう断言しても間違いではない。例えば、テニスコートのラインのサイズやベースボールの投手と打者間の距離、あるいは、大相撲の土俵の直径の長さなどは、長年の慣行の中で自ずと定まったのかもしれませんが、「それ以外にはありえない」とまでの根拠があるものではないでしょう。まして、サッカーのオフサイドのルールやラクビーのトライの得点などは時代にあわせて随時変更されているし、(他国の例を見る限り)赤信号が「赤色」である必然性や車道が左側通行である必然性、郵便ポストが「赤色」でなければならない理由などまず存在しません、

つまり、内容面から見る限り、多くのルールは「それ以外ではありえない」という意味での必然性を持ってはいないのです。しかし、一旦、ルールが決まれば話しは別。どのような経路にせよ、一旦、ルールが定まった場合、ルールを巡ってはそれを尊重する必要が生じ、ルールに従う社会的な必然性もまた生じる。蓋し、「鰯の頭も信心から」とはこの経緯を表した格言とさえ言えると思います。

最も重要なことは、ルールを尊重する者だけが(そのルールが適用される)ゲームをエンジョイできるということ。すなわち、そのようなルールを遵守する行為と意思こそがゲーム参加者のアイデンティティーとプライドを保障するということです。敷衍します。

ほとんどのルールの内容には必然性はない。しかし、そのルールに従ってプレーヤーは全力を尽くし、そのようなルールに従ったプレーに観客は感動するのです。

例えば、テニスのグランドスラム大会の決勝戦。マッチポイントに追い込んだプレーヤーの強烈なサーブが「フォルトかエースか」。プレーヤーだけでなく観衆もTV観戦中のファンも息を飲んでその判定を待つのはなぜか。あるいは、1-1で迎えた後半ロスタイム。サッカー日本代表の選手が放ったゴールがオフサイドと判定されようものなら、ジャパンのサポーターは「残念」と叫び天を仰ぐだろうのはなぜなのか。

なぜ、彼等は「息を飲んで呼吸を止めて審判のコールを待ち」「「残念」と叫んで天を仰ぐ」のか。畢竟、これこそ、スポーツの感動はルールの存在とルールの厳守に担保されていることの証左ではないでしょうか。而して、このことはスポーツだけのことではなく、ルールに則って展開されるほとんどすべてのゲームについて言えることでしょう。後期のウィトゲンシュタインが喝破した如く、ある(言語)ゲームに意味を付与するものはルールに他ならず、意味のない行為に人間が感動することは想像しにくいからです(所詮、ルールを失ったサッカーは野原の球蹴りにすぎず、ルールがなければボクシングもレスリングもK1も「喧嘩」と区別できないでしょう)。

感動はルールの受容に発する。ルールは感動の原点でさえある。こう考えるとき、あるゲームのプレーヤーやゲームの観衆。畢竟、あるゲームを楽しむ者とはそのゲームのルールを尊重する者に他ならないとさえ言える。蓋し、ルールを尊重しゲームを享受しようという意思、加えて、自分はそのようなルールを尊重する人々の共同体の一員であるという意識が、ゲーム参加者のアイデンティティーとプライドを構成すると考えるのです。

而して、ジャパンの一員、この日本社会の一員、而して、日本国のメンバーの一人としての意識もまたこのようなゲームとルールの理解に基礎づけられないはずがない。いずれにせよ、あと4日で18歳になるというこの投書子は、国家と国民のあり方まで射的に収める雄大な社会哲学を、実に、コンパクトかつ平易に表現している。私はそう思い感動したわけです。うるうる。


(2005年2月27日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済

chinanight


◆China Today Differs From Japan in 1980s
Washington Post-The Associated Press(AP):Friday, August 19, 2005
By RACHEL BECK

It sounds like history repeating itself: The United States faces a huge trade deficit with an Asian country, which is also under intense scrutiny for its interest in buying U.S. assets and having a currency many deem undervalued.

Today, that best describes how China is viewed. Two decades ago, Japan came under U.S. criticism for its growing global presence, and that spurred all sorts of protectionist talk out of Washington.・・・

The United States' trade deficit with China hit $162 billion last year, making it the largest imbalance ever recorded with a single country. This year's deficit is already running 32 percent above last year's pace, and political pressure is heating up to put tighter restrictions on imports from China.・・・


歴史は繰り返すのだろうか。アジアのある国に対してアメリカが巨額の貿易赤字を記録し、それにともない、そのアジアの国によるアメリカの資産買収の企てとその国の通貨レートの妥当性に対しては極めて厳格な調査が行われることになる。

アメリカの巨額な貿易赤字とそれにともなう厳格な調査の実行というこの経緯は、現在の支那が置かれている状況の適格な描写であろう。20年前、日本がその存在感を地球規模で高めるに従い日本はアメリカからの批判に晒されるに至った。そして、その増大した存在感によってか、アメリカの議会や政府筋は日本に対してありとあらゆる保護貿易主義的な言辞を発することになったのである。

昨年、アメリカの支那に対する貿易赤字は1620億ドルに達した。この額は単一の相手国に対するものとしては史上最高の規模である。そして、今年の対中貿易赤字はすでに昨年を32%上回るペースで拡大しており、「支那からの輸入にはより厳しい規制をかけるべきだ」という政治的圧力は漸次激しさを増しつつある。


But while China today looks a lot like yesterday's Japan _ before its asset bubble burst and it headed into a prolonged economic slump _ Morgan Stanley global economist Stephen Roach sees big differences. "In terms of the scale of their economies and financial markets, China and Japan are like day and night," he said in a recent note to clients.

Among the distinctions: Japan's equity-market capitalization amounted to 41 percent of the world's total market capitalization in 1989; by contrast, China's equity markets currently account for only 0.5 percent of the value of global equity markets.

He also notes that China has a much more outward-looking growth and development model than Japan. In 2004, exports and imports combined equaled 74 percent of Chinese GDP, more than three times Japan's 23 percent share.・・・

"The last thing China wants is to go down that road _ placating U.S. politicians on the currency front while, at the same time, sowing the seeds of an increasingly dangerous liquidity bubble of its own," Roach said.


今日の支那が数十年前の日本と似ているとしても(特に、資産バブル崩壊前の、そしてその後、長らく続く経済停滞に陥る前の日本にそっくりに見えたとしても)、そこには大きな違いがある。そうモルガン・スタンレーの国際経済専門家Stephen Roach氏は考えており、顧客向けの経済状況説明書の中で彼は「経済と金融市場の規模を鑑みるならば、支那と日本とは<昼と夜>ほど違っている」と述べている。

幾つかある相違の中でも、特筆すべき違いは、日本の株式時価総額が1989年には世界の株式時価総額の41%を占めていたのに対して現在の支那のそれは0.5%にすぎないことだ。

支那は日本に比べて国外志向の成長と開発のモデルを採用している。というのも、2004年には輸出入を合わせた貿易総額は支那の国内総生産(GDP)の74%に達しており、23%の日本のそれは実に3倍なのだから。(中略)

「支那が絶対にやりそうにないことは次のような路線の推進であろう。即ち、通貨レートの面で支那がアメリカの政治家をなだめること、それは同時に徐々に危険性を増す支那の流動性バブルの種を蒔くこと(KABU註:元の対ドルレートの切り上げにより支那が「金余り現象」に陥ること)である」とRoach氏は述べている。


There are also significant political differences between the two. While the Chinese have been more open to foreign investment than Japan, there are some concerns that the communist political structure means that the Chinese won't embrace all kinds of foreign involvement such as an American company buying a big Chinese company.

In addition, Standard & Poor's chief economist David Wyss points out that China's huge population _ which he estimates is 10 times as large as Japan's _ means that China has the capability of taking over world production of just about everything.

So talking about China today as though it were Japan 20 years ago might not accurately size up the situation of this fast-growing empire. China's might just be beginning to build its power as an economic force.

To the dismay of many Americans, that will likely mean a bigger, bolder China to contend with for many years to come.


更に、日中間には重大な違いがある。日本に比べて支那は外資により開かれているけれども、他方、その共産主義的な政治制度のゆえに支那は、外資によるすべての投資(例えば、アメリカ企業が支那の大企業を買収ことなど)を快く受け入れるわけではないのではないかという懸念が払拭されてはいないのである。
支那
スタンダード・アンド・プアーズのチーフエコノミスト、David Wyss氏は、加えて支那の巨大な人口を指摘している。Wyss氏はそれを日本の10倍と見積もっているけれども、この巨大な人口は支那がほとんどすべての品目について世界の生産のかなりの部分を分捕りかねないことを意味している、と。

今日の支那を20年前の日本とあたかも同じであるかのように話すのは、急激に成長しているこの経済帝国の現状を正確に評価するものではなかろう。支那は自己を一大経済勢力として構築し始めているのだろうから。

多くのアメリカ人を茫然とさせながら、経済帝国としての支那の出現は、それとアメリカがこれから何年もの間にわたって競争することになる今よりも巨大で今よりも一層大胆な支那の登場を意味しているであろう。


(2005年9月4日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 中国問題
ジャンル : 政治・経済

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これで朝日新聞の誤報問題が一層面白くなってきた。そんな判決が今日、平成19年1月29日、東京高裁で言い渡された。朝日新聞が1年半前に社内の特別委員会で勝手に幕引きをはかって以来、(残念ながら)沈静化していた、あの「朝日新聞のNHK誤報問題」がこれでまた世間の関心を引き起こすかもしれない。そう思った。そう期待した。時事通信はその東京高裁判決をこう報じている。以下、引用開始。

●NHKに200万円支払い命令=従軍慰安婦番組の改変認定-東京高裁
従軍慰安婦問題をめぐる民間の「女性国際戦犯法廷」を取り上げたNHKの番組が政治的圧力で改変され苦痛を受けたとして、主催団体がNHKと制作会社2社に総額4000万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁(南敏文裁判長)は29日、制作会社1社にのみ賠償を命じた1審判決を変更し、NHKと2社に総額200万円の支払いを命じた。

南裁判長は、当時のNHK幹部が放送前に国会議員らと接触した際、議員から番組は公正中立であるようにとの発言があったと認定。「NHK幹部が相手の発言を必要以上に重く受け止め、その意図を忖度(そんたく)して、当たり障りのない番組にすることを考え、改変が行われた」と述べた。[時事通信社 :01月29日 16:10]以上、引用終了



その誤報の対象になった政治家が、<安倍晋三内閣官房副長官→自民党幹事長(同代理)→官房長官→首相>と<中川昭一経済産業大臣→農林水産大臣→自民党政務調査会長>という、2年前から現在に至るまで政府中枢にある両氏;普通、政府与党の役員は誤報や名誉毀損を犯したマスメディアを訴えない習いであり誤報により濡れ衣を着せられた両名の側から「誤報問題」の事態を動かすことは難しかった。

今日の東京高裁の判決で、将棋の戦法に喩えれば、観客の満足を無視したディフェンス指向の「居飛車穴熊」に籠る、いかにも朝日新聞の独善性が現われた戦術によって膠着していたこれまでの状況も変わるかもしれない。そう期待しつつ、NHK側の最高裁判所への上告の可否と「朝日の誤報問題」の今後の推移に注目していきたい。

蓋し、この裁判で俎上に乗せられた争点(訴訟対象や訴訟物)は、「女性国際戦犯法廷」の主催者側の期待した内容と(政治家の圧力なるものによって改変された結果)実際に放映された内容が異なっていたことに起因する「苦痛」は、法が保護するに値する正当な利益の侵害であったかどうかということらしい。これ自体、法的には大変興味ある論点ではあるが、しかし、社会学的ー政治学的観点からは、この裁判-訴訟が提示する問題はこのような(いささかマニアックな)法的イシューに限られるわけではないだろう。

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すなわち、この(A)「従軍慰安婦」を巡る民間の「女性国際戦犯法廷」を取り上げたNHKの番組改編問題と、(B)「安倍晋三と中川昭一の両氏が「従軍慰安婦」を扱ったこの番組改編に関してNHKに圧力をかけた」という朝日新聞の誤報問題が孕む問題は次のようなものではないだろうか。

(1)NHK自体が偏向集団である!

東京高裁が認定したように、NHKは、法が保護するに値するほど具体的で合理的な「期待」を「女性国際戦犯法廷」の主催者側に抱かせていたのだ。その存在が証明されなかったゆえに、現在ではまともな歴史家の間では俎上に登らせることもなくなった、所謂「従軍慰安婦」を歴史的な事実としてTVで取り上げる企画自体をNHKは推進していたということ。

再度述べるが、「放映されて当然」という期待を「女性国際戦犯法廷」の主催者側に抱かせるほど具体的なコミットメントをNHKはこの番組について行っていたのだ。ならば、正に、今日の東京高裁判決は(カルト的な「女性国際戦犯法廷」の主催者側を勝たせた不愉快な判決である反面、実は)、NHKの反日性と偏向を厳しく認定したものと言えよう。


(2)朝日新聞の誤報の責任を今次の賠償命令は補強する!
「NHKに安倍晋三および中川昭一両代議士(当時)が圧力をかけた」という朝日新聞の報道が事実とは異なることは、(同社の社内委員会の報告の中で、実質的には)朝日新聞自体が認めていることである。

ならば、今日の東京高裁が認めた事実。「当時のNHK幹部が放送前に国会議員らと接触した際、議員から番組は公正中立であるようにとの発言があった。それに対して、NHK幹部は相手の発言を必要以上に重く受け止め、その意図を忖度(そんたく)して、当たり障りのない番組にすることを考え、改変を行った」とは、正に、(その当時、日本にいなかった中川酒豪代議士は言うに及ばず)安倍晋三代議士によるNHKへの働きかけが、「必要以上に重く受け止める」のでもない限りは、「番組の公正中立」を求める至極当然の当たり障りのないものにすぎなかった。このことを今次の東京高裁判決は認めたのである。

蓋し、(歴史学的には空中楼閣にすぎない「従軍慰安婦」を事実と主張する「女性国際戦犯法廷」の主催者側を勝たせた不愉快な判決である反面、実は)、この東京高裁判決は、朝日新聞の誤報が(それが故意であれ過失であれ)安倍ー中川ラインに対する極めて悪意のある攻撃、または、マスメディアとしてはお恥ずかしい限りの杜撰な事実調査に基づくもの、あるいは、その両方であったことを示していると思う。



今日の東京高裁判決を私はこのように受け止めた。朝日新聞「NHK誤報問題」の発生からすでに丸2年、また、(これまた、身勝手な話だと思うけれど)朝日新聞が政府中枢を占める安倍-中川両氏からも反日の同志NKHからも法的措置を取られないだろうことを見越して、お手盛りの内部委員会の報告と社長の会見で「NHK誤報問題」に<幕引き>をしようとしてから1年半が経過している今日。おそらく、この問題について記憶が薄れている方も少なくないと思う。実は私もその一人なのだから(よって、「NHK誤報問題」およびその背景をなす「民衆法廷」なるもののいかがわしさに関しては下記URLとそこにリンクを張っている拙稿を参照いただき、記憶を整理していただければと思います)。

NHK誤報問題検証記事? 今日も元気に朝日している朝日新聞
 
朝日新聞「NHK誤報問題」の社長会見を総括する
 
民衆法廷と無防備地区宣言の妄想と詐術 

再度述べるがこの東京高裁判決は、「従軍慰安婦」なるものを事実と主張する「女性国際戦犯法廷」のカルト的な主催者側を勝たせた不愉快な判決ではある。けれども、それは、必ずしも成熟した(mature)権利類型とは言えない、「将来一定の事実が発生すれば法律上の利益を受けられることを期待してよい権利」(=期待権)を番組の放送にも広く認めたその法理はともかく、(残念ながら)その事実認定は必ずしも荒唐無稽とは言えないと思う。

NHK側が最高裁に上告するかどうかは現在の所定かではない(★KABU補註:NHKは判決当日、即刻上告しました。高裁の判決要旨は下記資料参照)。けれども、少なくともこの高裁判決を契機として、朝日新聞とNHKという二大反日メディアへの義憤に発する虚偽追求の炎が再度燃え上がるこになれば、この不愉快な判決は利用価値がある。畢竟、自主憲法の制定と自虐史観の打破、而して、大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の呪縛から日本を解き放つ我々保守革新派の日本再生の営みにおいてこの高裁判決はプラスの機能を果たしたと言われるようになるのかもしれない。私はそう期待している。

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【資料:「NHK番組改変訴訟」東京高裁判決理由要旨と解題】

■解題
(イ)NHK番組改変に政治家の圧力があったとする「朝日新聞の誤報問題」、および、(ロ)所謂「従軍慰安婦なるものを裁いた民衆法廷」を取り上げた「NHK番組の改変問題」と関連した訴訟で控訴審判決が出された。これら二つの問題を射程に入れながら、法的と政治的にこの判決を我々保守改革派はどう捉えればよいのだろうか。このテーマについては上の本編で考えた。要約すればそれは、次の2点に収束すると私は考える。すなわち、

(1)NHKの反日的な本性の暴露
東京高裁判決によって、少なくとも番組制作当時、NHK自体が民衆法廷の主催者団体である反日カルト団体と密接な関係を持っていた事実が明らかとなった。

(2)朝日新聞の誤報に対する責任の確定
東京高裁判決によって(実は、すでにその誤報性は朝日新聞自らも認めていることではあったのだけれど)、「NHK番組改変に政治家の圧力があったとする朝日新聞の報道」は完全に間違いであり、よって、朝日新聞には、その誤報によって実害を与えた(場合によっては、政治生命を左右する打撃になったかもしれない「実害」を与えた)安倍晋三首相と中川昭一自民党政務調査会長に謝罪をすべき法的-道義的な責任があることが明白になった。


尚、「朝日新聞の誤報問題」や「NHK番組の改変問題」と直接の関係はないけれど、当該の東京高裁判決は、一般に取材を受ける側が(自分の意図に沿った報道を法的にも期待できる権利たる)所謂「期待権」と報道機関の編集の自由との兼ね合いについて判示している。NHKが上告した結果、(上告が受理されるとすれば)最高裁ではこの点を中心に判断が下されることになると思う。

ただ、正直、私は「期待権」の権利としての成熟度はそう高くなく、また、今次の東京高裁の判決も「期待権」のクリアカットな規定(権利の要件と効果の明確な定式化)には成功しているとは思わない。けれども、新しい権利類型を認め紛争処理において具体的妥当性を追求された当該控訴審の裁判官諸氏の意図と方法は満更否定されるべきものとも思わない。上記(1)(2)の結論を導いた冷静かつ公平な事実認定とともに、(カルト的な民衆法廷の主催側を勝たせたという不愉快な判決ではあるものの)この判決を私が一定程度評価する所以である。また一つ、楽しみな最高裁判決が増えたというわけだ。

而して、その最高裁判決を楽しみに待つためにも、また、なにより「朝日新聞の誤報問題」や「NHK番組の改変問題」を事実に則して考えるためにも有用な資料になるものと思い、東京高裁判決の要旨をここに収録しておく。出典は朝日新聞電子版。


■NHK番組改変訴訟 判決理由の要旨

東京高裁が「NHK番組改変訴訟」控訴審で29日、言い渡した判決理由の要旨は次の通り。

【国会議員等との接触等】01年1月25~26日ころ、担当者らは自民党の複数の国会議員を訪れた際、女性法廷を特集した番組を作るという話を聞いたがどうなっているのかという質問を受け、その説明をするようにとの示唆を与えられた。
26日ごろ、NHKの担当部長が安倍官房副長官(当時)と面談の約束を取り付け、29日、松尾武放送総局長らが面会。安倍氏は、いわゆる従軍慰安婦問題について持論を展開した後、NHKが求められている公正中立の立場で報道すべきではないかと指摘した。

【バウネットなどの本件番組についての期待と信頼】一般に、放送事業者が番組を制作して放送する場合、取材で得られた素材を編集して番組を制作する編集の自由は取材の自由、報道の自由の帰結としても憲法上も保障されなければならない。これが放送法3条の趣旨にも沿うところで、取材過程を通じて取材対象者が何らかの期待を抱いても、それによって番組の編集、制作が不当に制限されてはならない。

他方、取材対象者が取材に応ずるか否かは自由な意思に委ねられ、取材結果がどのように編集・使用されるかは、取材に応ずるか否かの決定の要因となり得る。特にニュース番組とは異なり、本件のようなドキュメンタリー番組または教養番組では、取材対象となった事実がどの範囲でどのように取り上げられるか、取材対象者の意見や活動がどのように反映されるかは取材される者の重大関心事だ。番組制作者の編集の自由と、取材対象者の自己決定権の関係は、取材者と取材対象者の関係を全体的に考慮して、取材者の言動などにより取材対象者が期待を抱くのもやむを得ない特段の事情が認められるときは、編集の自由も一定の制約を受け、取材対象者の番組内容に対する期待と信頼が法的に保護されるべきだ。

ドキュメンタリージャパン(DJ)の担当者の提案票の写しを交付して説明した行為、バウネットの協力などにかんがみれば、バウネット側が、番組は女性法廷を中心的に紹介し、法廷の冒頭から判決までを概観できるドキュメンタリー番組かそれに準ずるような内容となるとの期待と信頼を抱いたと認められる。

【バウネット側の期待と信頼に対する侵害行為】放送された番組は加害兵士の証言、判決の説明などが削除されたため、女性法廷の主催者、趣旨などを認識できず、素材として扱われているにすぎないと認められ、ドキュメンタリー番組などとは相当乖離(かいり)している。バウネット側の期待と信頼に反するものだった。

01年1月24日の段階の番組内容は、バウネット側の期待と信頼を維持するものとなっていた。

しかし、同月26日に普段番組制作に立ち会うことが予想されていない松尾総局長、野島直樹国会担当局長が立ち会って試写が行われ、その意見が反映された形で1回目の修正がされたこと、番組放送当日になって松尾総局長から3分に相当する部分の削除が指示され40分版の番組を完成されたことなどを考慮すると、同月26日以降、番組は制作に携わる者の制作方針を離れた形で編集されていったと認められる。

そのような経緯をたどった理由を検討する。本件番組に対して、番組放送前にもかかわらず、右翼団体などからの抗議など多方面からの関心が寄せられてNHKとしては敏感になっていた。折しもNHKの予算につき国会での承認を得るために各方面への説明を必要とする時期と重なり、NHKの予算担当者や幹部は神経をとがらせていたところ、番組が予算編成などに影響を与えることがないようにしたいとの思惑から、説明のために松尾総局長や野島局長が国会議員などとの接触を図った。その際、相手方から番組作りは公正・中立であるようにとの発言がなされたというもので、時期や発言内容に照らすと松尾総局長らが相手方の発言を必要以上に重く受けとめ、その意図を忖度(そんたく)してできるだけ当たり障りのないような番組にすることを考えて試写に臨み、直接指示、修正を繰り返して改編が行われたものと認められる。

なお、原告らは政治家などが番組に対して指示をし介入したと主張するが、面談の際、政治家が一般論として述べた以上に番組に関して具体的な話や示唆をしたことまでは、証人らの証言によっても認めるに足りない。

バウネット側は、中川昭一議員が事前にNHKに対し放送中止を求めたと主張し、同議員はフジテレビ番組でアナウンサーの質問に対し、放送法に基づき公正に行うべきことをNHKに申し入れたと発言するなど、事前のNHK担当者との接触をうかがわせる発言をしている。しかし、同議員はこのインタビューでは01年2月2日に会ったことを明言しており、同議員が番組放送前にNHK担当者に番組について意見を述べたことを認めることは困難だ。

【説明義務違反】放送番組の制作者や取材者は、番組内容や変更などについて説明する旨の約束があるなど特段の事情があるときに限り、説明する法的な義務を負う。本件では、NHKは憲法で保障された編集の権限を乱用または逸脱して変更を行ったもので、自主性、独立性を内容とする編集権を自ら放棄したものに等しく、原告らに対する説明義務を認めてもNHKの報道の自由を侵害したことにはならない。

バウネットには番組の内容について期待と信頼が生じた。被告らはそのことを認識していたのだから、特段の事情がある。

番組改編の結果、当初の説明とは相当かけ離れた内容となった。バウネットはこの点の説明を受けていれば、被告らに対し番組から離脱することや善処を申し入れたり、ほかの報道機関などに実情を説明して対抗的な報道を求めたりすることができた。

    ◇

朝日新聞はNHK番組改変問題の報道で「改変」と表記していますが、判決理由要旨では判決文の表記に従って「改編」を使用しました。

(朝日新聞電子版:2007年01月29日20時47分)




(2007年1月29日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 報道・マスコミ
ジャンル : 政治・経済

asahishinbunbuilding
【Asahi Shinbun Tokyo Head Office, Tsukiji, Tokyo】

朝日新聞は、昨日、2005年9月30日、「NHK誤報問題についての総括」らしき社長の記者会見を行った。朝日新聞が外部の識者4名に委託して、「NHK誤報問題」に関する朝日新聞の姿勢などを検討してもらった結果を受けたもの。ご丁寧にも今日の朝日新聞紙面には総合第一面と社会面の他、見開き全2面を使ってこの総括を報じている。ご苦労なことだ。

私自身は、女性国際戦犯法廷なるものを取り上げたNHKの番組改編を巡る「NHK誤報問題」は、朝日側の完敗でとっくに勝負はついていると思っている(詳しくは、下記拙稿をご覧いただきたい)。

NHK番組改変を巡る朝日新聞誤報事件を整理する
 

民衆法廷と無防備地区宣言の妄想と詐術
 

要は、「NHK誤報問題」に関する朝日新聞の主張はどう贔屓目に見ても、「朝日新聞がなぜ誤報を報じるに至ったか」の言いわけにすぎない。つまりそれらは、「誤報は誤報であり、誤報を犯したのなら取材源と読者に事実を説明し謝罪すべきではないか」という批判に毫も反論できるようなしろものではない。しかるに、朝日新聞はこの間、誤報を報じてしまったについてはそれ相当の理由あるという内向きの弁明に終始している、と。

誤報を報じてしまったについてはそれ相当の理由あるのは当たり前のことだろう。いくら「火のない所に煙を立てるのは朝日新聞とドライアイス」くらいというのが日本の常識とはいえ、流石の朝日新聞でもNHKと中川昭一・安倍晋三の両代議士を相手にする以上はそれ相当の根拠を揃えて記事を書いたのは当然だろうから。よって、「実態的な真実を解明する法廷、裁判所」ではなく「メディアとして読者に対する説明責任が果たせているかどうか、率直な意見をお伺いしたい」という:読者の目線から見た場合にこの問題に対する朝日新聞の姿勢がどう見えるかを諮問された『NHK報道』委員会が「1月の最初の記事については相応の根拠があり、(朝日新聞側が)真実と信じた相当の理由はある」という見解を表明したことも当然であろう。

けれど、誰にも間違いはある。それ相当の根拠と思ったものが実は砂上の楼閣だった(本田記者の思い込みに過ぎなかった:中川昭一代議士とNHK幹部の錯覚だった)ということなんか世間と人生にはいくらでもある。そして、間違いがわかった段階では、<ご免なさい>するのが個人の場合にも法人の場合でも当然ではなかろうか。

誤報をするについてそれ相当の理由があったことや、朝日新聞が問題にしたかったことは「中川代議士が問題の番組が放映される前にNHKに圧力をかけた」ことや「安倍代議士がNHKの幹部を(NHK側には用はなかったのに)呼び出した」等々の枝葉抹消のことではなく、<政治とNHKの距離>であるなどは、誤報によってダメージを受けた両代議士やNHKから見ればどうでもよいことである。朝日新聞を信用していたのに裏切られたと(遅きに失するとはいえ)感じた読者にとってもそれはどうでもよいことである。<政治とNHKの距離>や<なぜ誤報を防げなかったか>などは、関係者にご免なさいした後に内部であるいは別途いくらでも追求すればよいことだろうから。畢竟、

「NHK誤報問題」に関する朝日新聞の主張は、
「なぜ朝日新聞は誤報を報じるに至ったか」の説明にすぎない!
「NHK誤報問題」は、朝日側の完敗でとっくに勝負はついている。



以下この記事では、よって、「NHK誤報問題」自体ではなく、「NHK誤報問題」に関する昨日の朝日新聞の総括を俎上に乗せたいと思う。正に、総括の総括である。

nhkasahi3



まずは事実の確認。今日、2005年10月1日の読売新聞電子版は、朝日新聞社長の会見をこう報じている(以下、引用開始)。

NHKの番組が政治的圧力で改変されたとした朝日新聞の報道を同社の委嘱で検証していた第三者機関「『NHK報道』委員会」は30日、自民党政治家がNHK幹部を呼び出したなどとした記事内容は、「『政治的圧力』の有無を裏付ける重要な要素なのに、取材が十分だったとは言えない」などと指摘する「見解」を公表した。

これを受けて朝日新聞は、取材が不十分だったことを認める一方で、記事は訂正しない方針を明らかにした。(中略)

また朝日新聞は7月25日付で、番組改変について再取材した総括記事を掲載、その中で「『政治家の圧力による番組改変』という構図がより明確になった」と断定的に述べた。これに対し第三者機関の「見解」は、「事実関係が確定的でないことを朝日新聞自身が認めていることを考えると、(別の)表現の方が適切だったのではないか」と批判した。

しかし「見解」は、当時朝日新聞が「呼び出し」などを真実と信じた相当な理由があったと認定。朝日新聞も、「私たちの判断に、ご理解をいただいたと考えています」とコメントした。(以上、引用終了)



昨日のこの会見を聞いた私の第一感は、「朝日新聞は危機管理のイロハがわかっていないね」であった。

・事実関係が掌握できるまでは余計な情報を外に出さず、ただ誠実に対応する旨を明確に表明する
・事実関係が判明して以降は、自分に不利な情報も含め率先して公表し、謝るべきは謝る


危機管理専門のコンサルタントに相談するまでもなく、これはビジネスジャッジメントのほとんどどのテキストに書かれている危機管理の定石だろう。朝日新聞がこの1月以来やってきたことはこれと反対のことであり、『NHK報道』委員会の見解を受けた昨日の記者会見と今日の朝日新聞に賑々しく掲載された記事は危機管理の4文字が欠如したものと私には思われた。おそらくこの半年の「NHK誤報問題」に対する朝日新聞の対応は、危機管理の最悪のサンプルとして今後、欧米のビジネススクールのケースにも採用されるのではないかとさえ私は考えている。蓋し、朝日新聞は、

(甲)事実の確定の前:

・涙の内部告発会見を行ったNHKの職員からの不確かな情報等を小出しにしたことで、誤報の被害者に敵愾心を抱かせ、かつ、一般の読者や国民にこの事件に関する予断を与えた
・事実が不確定な段階で「誤報では断じてない」という真理告白を繰り返すだけの朝日新聞の姿勢は世間に独我論的な印象を与えた
・問題は「政治とNHKの距離」だとかの、誤報問題と無関係な論点に攻撃防御の焦点を誘導しようとしたことで、「もし誤報だった場合には速やかに記事を改訂し誤報被害者に謝罪する」という、最も低コストで済む問題収束の選択肢を自ら封印した

(乙)事実の確定の後:(2005年7月25日の総括記事の前後から)

・誤報被害者と読者に対して謝罪していない
・「NHKと中川氏の放映前接触」も「安倍氏の呼びつけ」も虚偽と判明しているのにその事実を認めていない
・朝日新聞がもっている「NHK誤報問題」の手持ち情報を公開していない
・「NHKと中川氏の放映前接触」と「安倍氏のNHK幹部の呼びつけ」に関して朝日新聞内部で事実が判明した後も、なぜに朝日新聞が頑なな独我論的な態度を改めず誤報の被害者に謝罪しなかったのかを公表していない
・朝日新聞自体が選定した4名で構成される第三者機関『NHK報道』委員会の出した見解は(朝日新聞の内部に対してはまだしも)、誤報被害者に対する朝日新聞の主張の正当性をなんら担保しえないのに、その「見解」をお墨付きに「NHK誤報問題」を終結させたいという主張を行っており、それは謝罪の意志がないだけでなく問題の存在さえ否定する傲慢な態度と受け取られかねない

朝日新聞はなぜにかくもプアーな危機管理しか取れなかったのだろうか。朝日新聞の内部のことは解らないし、まして、前社長や現社長を始めとする同社の幹部の方々のメンタリティーを想像することにもあまり意味はなかろう。しかし、推測が許されることが一つはあるのではないか。それは、朝日新聞はこのようなプアーな危機管理を行っても世間が許してくれる;誤報被害者への謝罪も誤報記事改訂も行わなくともなんとかこの問題を乗り切れると考えたのだろうということである。ふざけた話である。

これは実に読者と誤報被害者を馬鹿にした話である。場合によっては、政治生命を奪われかねなかった中川・安倍の両代議士がこうむったダメージ;「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク (VAWW-NET Japan) 等のカルト団体が企画実行した女性国際戦犯法廷なるものを垂れ流そうとした番組に修正をかけた当然の処置に対して「政治のNHKへの介入」というレッテルを貼られたNHKが受けたダメージを鑑みれば、朝日新聞がこの程度のプアーな手法で問題を乗り切れると考えたのは「世間知らず」というより「非常識」と評するべきであろう。

先ほどの自己規制を外して私見を最後に述べさせていただければ、朝日新聞のこのふざけた非常識の根底には、目的は手段を正当化する:「権力のNHKへの介入」を批判するためや「日本の戦時性暴力批判への権力側からの圧力に反撃」する目的のためには、右翼政治家の政治生命を危うくするような誤報も許される、という「世界の中心で反日を叫ぶ権利を朝日新聞は持っている」かのような自己中の心性が横たわっているのではないか。ふざけた非常識にまみれたプアーな朝日新聞の危機管理とその一応の総括としての昨日の朝日新聞社の社長会見を見て私はそう思った。


(2005年10月1日:yahoo版にアップロード)

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nhkasahi1


朝日新聞に面白い記事が掲載されていた。1本は「NHK誤報問題」のもので、他の1本は北朝鮮問題を扱ったもの。山椒は小粒でもピリリと辛い、そんな印象を受けた。よって、今後のまとまった原稿作成のためにもここに収録しておこう。


◆平成17年7月25日
朝日新聞は、全紙面見開き2ページを使い、今年、2005年1月12日の朝日新聞の誤報記事に端を発する「NHK番組改変を巡る朝日新聞誤報事件」の検証を行った。この半年余りよく内部で検証されたと見え具体的でよい記事だったと思う。実に、よくわかった。何が「わかった」かって? 

どういう経路を通って朝日新聞が誤報記事を書くに至ったか
がです。

見開き2ページを使って朝日新聞がやったことは、「番組改変の裏には政治家の圧力があったはずだ」という自己の思い込みと、正義のみかた朝日新聞は「取材においてどんな下品な手を使っても許されるし、取材対象は朝日新聞の取材に協力する義務がある」という無根拠な傲慢を晒したことにすぎない。

政治家からの働きかけがあること自体は<健全な民主国家>の表れでこそあれ、それは何ら問題はない。政治家からの具体的な指示を受けて番組が改変されたのでもなければね。問題は、政治家からの働きかけがなかったなら、オカルト的ともいうべき「民衆法廷の主張を垂れ流した番組」が本質的には何の修正も受けずに放映されたかもしれないということの方である。そして、朝日新聞の7月25日の検証記事はこのNHKの凄まじさと危うさを露にしていたと思う。だから、7月25日の記事は大変よいものだったと思う。ありがとう朝日新聞♪ 

尚、「NHK番組改変を巡る朝日新聞誤報事件」と「国際民衆法廷」に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

NHK番組改変を巡る朝日新聞誤報事件を整理する

民衆法廷と無防備地区宣言の妄想と詐術
 
nhkasahi2



◆平成17年7月26日
朝日新聞の社説で久しぶりに切れ味鋭い朝日新聞らしい字句をみかけた。嬉しかった。
社説「6者協議 まず核を凍結させよ」の中のワンセンテンスである。曰く、

北朝鮮の核問題をどう解いていくか。平和決着をめざす6者協議がきょう北京で始まる。
1年1カ月ぶりの再開だ。この間、北朝鮮が核兵器の保有を宣言し、状況は深刻になるばかりだった。会議の先行きが楽観できないことは間違いない。北朝鮮が核を放棄する。それをしっかりと確かめることのできる査察体制をつくる。これが目標であり、なんとしても成果を出してもらいたい。(中略)戦争をするわけにはいかないのだから、結局、核放棄の見返りに米朝、日朝などの関係正常化、経済支援を組み合わせた包括的な解決を探るほかあるまい。 ・・・(後略)


あの朝日新聞さん。朝日新聞の社説子さん。誰が、どんな根拠で、

戦争をするわけにはいかないのだから


なんて決めたのですか? これこそ朝日新聞の単なる思い込みでしょう。これ、「自衛権」と「集団安全保障」と「地域的取り極め=地域軍事同盟体制」の三者を明記している国連憲章にも、(自衛権を認める)日本国憲法とも矛盾する凄まじい誤謬ですよ(下記拙稿参照)。と、久しぶりに「ただ一つの思い込みだけを根拠に謬論を展開する」朝日新聞らしい社説を読めて嬉しかった。横綱にせよプロ野球の4番バッターにせよ、勝つべき人が勝ち、打つべき人が打つのを見るのは様式美を尊ぶ日本人の感性には心地よいから。しみじみそう感じた。夏も本番の今日、台風一過の美しい夏の朝。

国連憲章における安全保障制度の整理
 

(2005年7月27日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 朝日新聞
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安倍晋三首相が支那包囲網の構築に向けた戦略外交の一貫としてインドネシア、インド、マレーシアの三ヵ国を訪問したことを受けて、8月31日、日本でのパル判事の権威を揶揄する大西哲光(Norimitsu Onishi)記者の署名記事がNYTに掲載された。”Decades After War Trials, Japan Still Honors a Dissenting Judge” 「東京裁判終結から数十年経過してもなお、反対意見を述べた裁判官をいまだに称賛する日本」である。而して、その内容は朝日新聞が2週間前の8月18日に掲載した社説「パル判事―心配な安倍首相の言動」と相補うもののように思われた。

蓋し、朝日新聞社説がパル判決書を国際法の厳格な適用から導かれた法律論であり、パル判事自身は日本の政治的と道義的な戦争責任を否定していないと主張するものであるのに対して、大西記事はそれをパル判事の特殊な政治思想、すなわち、反帝国主義-民族自決主義に還元しようとするもの(この朝日新聞社説に関しては下記拙稿を参照ください)。

宰相の<天竺外遊→パル判事の親族との面談>が照射した「東京裁判のさもしい実像」に苛立つ朝日新聞
 
朝日新聞と大西記者は共に支那の与力として日本を貶める主張を垂れ流すことでつとに有名である。しかし、そうであればこそこの朝日社説と大西記事の違いはある意味興味深い。

蓋し、前者がパル判事をして「帝国主義による植民地支配一般を非難した公正高潔な人士」と捉えているのに対して、後者はパル判事を、同じベンガル人でありインド独立の英雄にして宗主国イギリスへの対抗カードとして日本の活用を考えたチャンドラ・ボースに親しい「インド独立を期して西洋列強の植民地支配を批判した人物」と看做しているようだ。而して、この両者の違いが那辺に起因するかには更なる考察が必要だろうが、大西記事が正にレポートしているように、少なくないその購読者がパル判事にポジティブなイメージを抱いている朝日新聞とそうではないNew York Timesとの違いが原因の一つかもしれない。閑話休題。


朝日新聞の社説とNYTの記事は同工異曲である。蓋し、この両者は、
(1)日本の歴史的な戦争責任は確定している
(2)パル判決書は日本の政治的な戦争責任を否定するものではない
(3)安倍首相を始めとする日本の保守勢力は破廉恥にもパル判事を引き合いに出すことで日本の政治的な戦争責任を否定しようとしている


と主張する点では轍を一にしている。而して、(2)の指摘はおそらく正しいけれど、(1)にはなんら普遍的根拠は存在せず、よって、(3)は下種の勘繰りというものだ。この経緯を確認すべく大西記事を翻訳紹介する。尚、NYTの著作権を鑑み紹介は全体の約三分の二に止めた。

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【Tokyo just after WW?】



An Indian judge, remembered by fewer and fewer of his own countrymen 40 years after his death, is still big in Japan.

In recent weeks alone, NHK, the public broadcaster, devoted 55 minutes of prime time to his life, and a scholar came out with a 309-page book exploring his thinking and its impact on Japan. Capping it all, Prime Minister Shinzo Abe, during a visit to India last week, paid tribute to him in a speech to the Indian Parliament in New Delhi and then traveled to Calcutta to meet the judge’s 81-year-old son.


死後40年、その祖国でも彼を知る人は益々少なくなりつつあるというのに、日本ではあるインド人裁判官がいまだに大きな存在感を保っている。

ここ数週間に限っても、公共放送のNHKはゴールデンアワーに55分間を割いて彼の生涯を紹介し、また、彼の思考とその日本に対する影響を詳しく調査したある研究者は309ページもの書籍を上梓した。それに止めを刺したのが安倍晋三首相のインド訪問である。安倍首相はインドを訪問していた先週、インドの国会で行った演説の中でその裁判官を称賛した上、81歳になる彼の息子と面会するためにカルカッタ(訳注:正式には「コルカタ」Kolkata)に向かったのである(★)。

★資料:安倍首相のインド国会での演説
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/indiajapan.html



A monument to the judge ― erected two years ago at the Yasukuni Shrine, the memorial to Japan’s war dead and a rallying point for Japanese nationalists ― provides a clue to his identity: Radhabinod Pal, the only one out of 11 Allied justices who handed down a not guilty verdict for Japan’s top wartime leaders at the post-World War II International Military Tribunal for the Far East, or the Tokyo trials.

"Justice Pal is highly respected even today by many Japanese for the noble spirit of courage he exhibited during the International Military Tribunal for the Far East,” Mr. Abe told the Indian Parliament.

Indeed, many of postwar Japan’s nationalist leaders and thinkers have long upheld Judge Pal as a hero, seizing on ― and often distorting ― his dissenting opinion at the Tokyo trials to argue that Japan did not wage a war of aggression in Asia but one of self-defense and liberation. As nationalist politicians like Mr. Abe have gained power in recent years, and as like-minded academics and journalists have pushed forward a revisionist view of Japan’s wartime history, Judge Pal has stepped back into the spotlight, where he remains a touchstone of the culture wars surrounding the Tokyo trials.

Mr. Abe, who has cast doubt on the validity of the Tokyo trials in the past, avoided elaborating on his views in the Indian Parliament or during his 20-minute meeting with Judge Pal’s son, Prasanta. But the meeting’s subtext was not lost on some Japanese newspapers, which warned that it would hardly help repair Japan’s poor image among its neighbors. 

日本の戦没者記念施設にして日本の民族主義者が集う場でもある靖国神社に2年前に建てられたその裁判官の記念碑。それは彼の人となりを知る手がかりとなる。すなわち、ラダビノード・パール、第2次世界大戦後行われた極東国際軍事裁判、所謂東京裁判において連合国11人の裁判官の中で唯一、戦時下の日本の指導者に対して無罪の判断を下した判事(★)。

「極東国際軍事裁判で気高い勇気を示されたパル判事は、たくさんの日本人から今も変わらぬ尊敬を集めているのです」とインド国会で安倍首相は述べた。

確かに、日本の多くの民族主義指導者や思想家は長らくパル判事を英雄として持ち上げてきた。彼等は、日本はアジアにおいて侵略戦争を行ったのではなく、日本が行ったのは自衛の戦争であり(アジアの)解放であったという主張をサポートするための錦の御旗として東京裁判におけるパル判事の反対意見に飛びつき時にはそれを曲解することさえ行ってきた。安倍首相の如き民族主義の政治家連中がここ数年権力を手にしたことにともない、また、同じく民族主義的な学者やジャーナリストが戦争中の日本に関する修正主義的な歴史観を押し出してきたことにともない、パル判事も再び脚光を浴びるようになってきた。すなわち、パル判事は現在に至るまで東京裁判を巡る文化戦争(訳注:「東京裁判をどう理解するか」に関する世界観の争い)の試金石であり続けている。

安倍首相といえば東京裁判の効力について疑義を呈したこともあるのだが、インドの国会でも、また、パル判事のご子息プロサント氏との20分間の面談の中でも東京裁判に関する見解の詳述は避けた。しかし、パル判事の子息と面会したこと自体が示唆する意味を報じた日本の新聞社もある。而して、それら新聞各紙はパル判事の親族に日本の首相が面会することは日本の近隣諸国に現存する日本に対する否定的なイメージをけして改善することはないだろう、そう警告した。

★註:「無罪の判断を下した唯一の判事」
オランダのレーリンク判事もパル判事とは異なる観点から少数意見を書いており、(このレーリンク判事の少数意見をどう解釈するかに左右される事柄ではあるにせよ)パル判事が「無罪の判断を下した唯一の判事」というわけではありません。レーリンク判事は、パル判事と同行した広島の視察を終えて100%考えを変え、本国からの多数意見に従えとの指令に抗して小数意見を書きました。

ただかれは、「私たちは、戦争を禁止するべきという大きな歴史の潮流の中にいるのであって、「裁判によって敗者を裁くことだけが戦後の国際法を前進させる唯一の方法である」という信念から、パル判事の指摘する事後法で戦争指導者を裁くことの違法性を意識しながらも、敢えて(大枠、所謂「A級戦犯」を無罪とはしない)意見を出したと私は考えています。

畢竟、東京裁判、あるいは、ニュールンベルク裁判における判事コミュニティー内部の葛藤は文学の主題としても歴史の題材としても興味深いものです。また、その後の国際法に与えた法理論的な影響もまた地味ですが大変重要である。このことは東京裁判に露ほどの正当性も認めない私も強く意識していることです。而して、その中でもとりわけレーリンク判事の心の揺れはパル判事と比べても数段、研究する者に何かを考えさせる陰影を孕んでいる。ただ、東京裁判自体の法的と政治的な性格の理解に関しては、正直、それらは捨象してもよい事柄だろう。私はそう考えています。


tokyokushu1
【Tokyo attacked on March 10, 1945】


After the war, conventional war crimes by the Japanese, categorized as Class B and Class C, were handled in local trials throughout Asia. Twenty-five top leaders were charged with Class A crimes ― of waging aggressive wars and committing crimes against peace and humanity, categories created by the Allies after the war ― and tried in Tokyo by justices from 11 countries.

It was not clear why the British and American authorities selected Judge Pal, who had served in Calcutta’s high court and strongly sympathized with the anticolonial struggle in India. As an Asian nationalist, he saw things very differently from the other judges.

In colonizing parts of Asia, Japan had merely aped the Western powers, he said. He rejected the charges of crimes against peace and humanity as ex post facto laws, and wrote in a long dissent that they were a “sham employment of legal process for the satisfaction of a thirst for revenge.” While he fully acknowledged Japan’s war atrocities ― including the Nanjing massacre ― he said they were covered in the Class B and Class C trials.・・・

Judge Pal also described the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki by the United States as the worst atrocities of the war, comparable with Nazi crimes.


第2次世界大戦後、日本が犯した伝統的な戦争犯罪、それはB級とC級に分類整理されたのだが、そのような従来の国際法においても犯罪とされる事案はアジア各地に遍く設置された法廷で処理された。他方、25人の最高指導者は戦後連合国によって創られた犯罪類型たるA級の戦争犯罪、すなわち、侵略戦争を遂行した罪と平和と人道に対する罪を問われ東京で11カ国から選出された裁判官によって裁かれた。

英米の当局がなぜパル判事を、カルカッタ高等裁判所の判事にしてインド反植民地闘争に極めて強い親近感を抱いていたような人物を東京裁判の判事に選んだのかはよくわかっていない。アジアの民族主義者として、パル判事は他の東京裁判の同僚判事達とはかなり違う目で物事を見ていたのである。

アジアを植民地にする側として、日本は単に西洋列強の真似をしたにすぎない、とパル判事は述べている。彼は、事後法に基づくとの理由で平和と人道に対する罪を科すことを拒否した上で、そのような事後法を適用することは「復讐の強烈な欲求を満たすためにする訴訟手続きの形式的な援用」であるとする長文の反対意見書を書いたのである。他方、彼は日本による残虐行為、南京大虐殺(★)を含む残虐行為をきちんと認定しながらも、そのような事例はB級とC級の戦争犯罪を取り扱う裁判で審査されるべきだとした(★)。(中略)

更に、パル判事は、米国によって廣島と長崎に投下された原爆についても、それはナチの戦争犯罪にも匹敵する戦時下最悪の残虐行為の一つであると記している。

★註:the Nanjing massacre
「南京大虐殺」は事実か、あるいは、中華民国政府や中華人民共和国政府のプロパガンダに基づく「幻」なのか。これは、(イ)「南京大虐殺」なるものの定義、(ロ)歴史社会学的な事実関係の復元によって確定するしかない事柄でしょう。しかし、支那が客観的または間主観的資料をなんら提示しない現在の段階では、

30万人規模の民間人が、南京陥落後の約3ヵ月の間に、南京市内で、日本軍の指揮系統による/日本軍兵士の指揮系統によらない組織的な命令違反によって陵辱殺害されたという事実はなんら証明されていないのです。よって、本来は ”the Nanjing massacre”を「南京大虐殺」と訳すのは間違いなのですが、訳は原文に従っています。

★註:A級・B級・C級の違い?
訴えられるに値するとされた法規違反の内容から見た場合、(所謂「東京裁判」を含む)極東国際軍事法廷における戦犯の訴因は3個あり、それが、「(a項:b項:c項)=(平和に対する罪:通例の戦争犯罪:人道に対する罪)」なのです。これは東京裁判に先立つニュールンベルグ裁判で使用されたもの。

而して、日本において所謂「ABC級戦犯」と言われる場合のそれらの概念は、横浜での軍事法廷の開始直前にGHQがが流した報道に始めて含まれたものであり、それは、(A級:B級:C級)=(戦争指導者:虐殺指示者:虐殺実行者)というカテゴリー区分でした。すなわち、「訴因」の根拠条項による戦犯のカテゴリー区分と「ABC級戦犯」の概念は全くの別物なのです。

要は、ABCの戦犯のカテゴリー区分とABC戦争犯罪というカテゴリーは法的にはなんも関係がない。畢竟、NYTの大西東京支局長は「戦犯」のことはなーんもわからずにこの記事を書かれたということだと思われます。


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The American occupation of Japan ended in 1952, after Tokyo signed the San Francisco Peace Treaty and accepted the Tokyo trials’ verdict. But the end of the occupation also lifted a ban on the publication of Judge Pal’s 1,235-page dissent, which Japanese nationalists brandished and began using as the basis of their argument that the Tokyo trials were a sham.・・・

Casting subtleties aside, postwar politicians invited Judge Pal to Japan several times and showered him with honors. One of his strongest backers was Nobusuke Kishi, a prime minister in the late 1950s who had been a Class A war criminal suspect but was never charged. Kishi is Mr. Abe’s grandfather and political role model.・・・

日本政府がサンフランシスコ平和条約に署名し、かつ、東京裁判の評決を受け入れた後の1952年、米国の日本占領は終った。しかし、占領の終結は同時にパル判事の1,235ページにも及ぶ反対意見書の出版解禁でもあったのだ。而して、日本の民族主義者はこのこの反対意見書を機会あるごとに濫用し、かつ、東京裁判は茶番にすぎぬという彼等の主張をサポートするためにこの反対意見書を使い始めたのである。(中略)

微妙かつ些細な事柄は省略しよう。戦後の政治家達はパル判事を日本に幾度も招待し数多の勲章を授与した。彼の最も強力な後援者は、1950年代後半に首相を務めた岸伸介だった。彼はかってのA級戦犯の容疑者であったものの罪に問われることはなかったのである。而して、この岸伸介こそ安倍首相の祖父にして安倍首相が理想とする政治家なのだ。(中略)

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In many ways, Judge Pal seemed to share the mixed feelings that many Indian anticolonialists had of Japan. As an Asian nation competing with the Western powers, Japan inspired admiration, but also consternation for its colonization of Asia, said Sugata Bose, a historian of South Asia at Harvard.

Mr. Bose said his great-uncle Subhash Chandra Bose, the Indian independence movement leader, criticized Japan’s invasion of China but allied himself with Japan against the British.

"It is a complex view from South and Southeast Asia,” Mr. Bose said. “There is some degree of gratitude for the help that the Japanese provided, to the extent that such help was provided. At the same time, there was also grave suspicion of Japan.”

Still, Subhash Chandra Bose and the Indian National Army, a popular armed force formed by Indian anticolonialists, accepted assistance from Japan.

“Judge Pal, as an Indian, would have known all about this,” Mr. Bose said. “And it may have indirectly influenced his views.”


いろいろな意味でパル判事は多くの反植民地主義のインド人が抱く日本に対する複雑な感情を分有しているように思われる。西洋列強と闘っているアジアの国の一つとして、日本は称賛の対象であったけれども、他方、日本によるアジアの植民地支配は驚愕すべき事態でもあった。そう、ハーバード大学の南アジア史研究者、スガタ・ボース氏は語る。

ボース氏は、インド独立運動の指導者である彼の大叔父スバス・チャンドラ・ボースは日本による支那侵入を批判していたものの英国に対抗すべく日本との連携を選んだと述べた。

「南アジア-東南アジアにとってそれは(日本との連携の是非は)今に至るまで単純に白黒を決し得ない事柄なのです」「そのような援助が与えられたことは事実なのだからその限りにおいて、日本が与えてくれた援助に対する感謝の気持ちもある。反面、同時に、日本に対する半端ではない猜疑の意識もあったのですよ」とボース氏は述べた。

いずれにせよ、スバス・チャンドラ・ボースとインドの反植民地主義者が作った全国区の軍隊であるインド国民軍は日本からの援助を受け入れた。

「一人のインド人としてパル判事はこのことをすべて知っていたことでしょう」「そして、このことが間接的にせよ彼の反対意見に影響を与えたのかもしれないですね」、そうボース氏はそう述べた。


(2007年9月4日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 政治・経済・時事問題
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yasukuni13



◆Koizumi's next steps
ーーNow that he's visited the Yasukuni shrine
 The Economist, Oct 20th 2005


LATE last week, Japan's parliament comfortably passed bills that will eventually lead to the privatisation of the country's post office, ・・・

Yet rather than bask in these achievements, Mr Koizumi this week strode towards new controversy, by paying a sudden visit (his fifth as prime minister) to Tokyo's Yasukuni shrine on October 17th. The place is Japan's chief memorial to its war dead. It is also a focal point for right-wing fanatics and their view that Japan was more victim than aggressor in the half-century of Asian wars up till Japan's defeat in 1945. The souls of 14 war criminals are among those enshrined there.

Even though his visit was followed by those of about 200 parliament members, Mr Koizumi immediately played it down. ・・・Though he pledged that Japan would never wage war again, both Chinese and South Korean foreign ministers cancelled planned meetings with their Japanese counterpart, Nobutaka Machimura.・・・


靖国神社参拝も終ったからには
先週末(10月14日)、郵便局をやがて民営化することになる諸法案が日本の国会で粛々と可決成立された。(中略)

郵政民営化法案成立(ならびに、その前の衆議院解散断行と総選挙の圧勝)の余韻にひたるどころか、小泉首相は今週10月17日に新たな論議を巻き起こす行動に出た。即ち、内閣総理大臣として彼自身5度目となる靖国神社参拝を急転直下決行したのである。同神社は日本の主要な戦没者追悼施設であり、それはまた、「1945年に日本が敗れるまで半世紀間続いたアジアでの幾多の戦争において、日本は侵略者というよりもむしろ犠牲者だ」といった歴史認識を掲げる狂信的な右翼から熱い眼差しを注がれている施設でもある。そして、東京にあるこの社には14人の所謂「戦犯」の御霊も英霊として祀られている(★註:本来、御霊の御数は「柱」と表記すべきであるがここは原文の流れに従い「人」と訳した)。

確かに首相参拝に引き続いて200名の国会議員もまた靖国神社に参拝したのではあるけれど、小泉首相の参拝自体はそう仰々しいものではなく極めて短時間のものであった。(中略)首相が「二度と日本は戦争をしない」という不戦の誓いを行ったにもかかわらず、中国と韓国の外務大臣はともに彼等と同格の日本の交渉相手である町村信孝外務大臣との予定されていた会談をキャンセルした。(中略)


Mr Koizumi's visit also displeased some of his domestic allies. No other cabinet members visited the shrine, and some were outspoken in their criticism. Still, the consequence for Mr Koizumi's domestic agenda is likely to be negligible. There, the two issues of pressing interest to the political classes are, first, who is in the running to succeed Mr Koizumi if, as he promises, he steps down as party leader and prime minister next September; and second, now that postal privatisation is in the bag, what, if anything, is Mr Koizumi's reform agenda for the remainder of his term? When those two issues are answered, a third will arise: will the successor wish or be able to run with the reform agenda sketched out by Mr Koizumi?

小泉首相の靖国神社参拝に不快感を露にした中には連立政権内の彼の味方も含まれている。閣僚で他に参拝した者はおらず参拝への批判を公言した閣僚もいる。このような(内外の)状況にも係わらず、首相の靖国参拝が小泉首相の政権運営に影響を及ぼすことはほとんどないと思われる。そして目下の所、政界の住人にとって緊急の課題が二つある。

一つは、もし小泉首相が自身明言している通り来年の9月に自民党総裁を退任するのと同時に内閣総理大臣の地位からも降りるとした場合、誰が彼の後を継ぐかであり;二つ目は、郵政民営化への道が首尾よく軌道に乗った今、彼の在任期間中に更なる改革を推進するのかしないのか、推進するとすればどのテーマが政治日程に乗せられるのかである。もしこれら二つが解決されたとするとその段階で第三の課題が生じる。それは、小泉首相が書いた改革の諸テーマと改革のスケジュールを彼の後継者が引き継ぐか否か、あるいは、引き継ぐことができるかどうかということである。

koizumi66


Part-answers to all these questions may be supplied as soon as November 2nd, when a cabinet reshuffle is expected. Four men are spoken of as possible successors to Mr Koizumi: the favourite, Shinzo Abe, the LDP's acting secretary-general, a vocal Koizumi supporter and scion of a political dynasty; Yasuo Fukuda, an LDP grandee (and son of a former prime minister) who has kept some distance from Mr Koizumi since resigning as chief cabinet secretary last year; Taro Aso, internal-affairs minister and, like Mr Abe, grandson of a former prime minister; and Sadakazu Tanigaki, the finance minister, whose chief virtue is that he has few enemies. If any of these fail to get a post in the new cabinet, their chances are scotched.

One other person to watch in the reshuffle is Heizo Takenaka. Mr Takenaka, a former academic, was put in charge of first banking reform and then postal privatisation. ・・・

And after that? Mr Koizumi's mantle is attractive enough for his successor to want to inherit it; so his policies are likely to be followed. None of the four candidates for the party leadership appears to have differences over domestic policy. The problem is knowing whether they have any strong views at all.


これらの課題の一部は内閣改造が予定されている11月2日になればほぼ自動的に解決されるかもしれない。後継首相としては4人の名前が取沙汰されている:本命としては(ディープインパクトじゃなかった、)安倍晋三幹事長代理、有力な小泉支持者であり名門政治家一族の御曹司;次に、元首相の子息にして自民党内の有力者である福田康夫元官房長官、もっとも昨年官房長官を辞任して以来、彼と小泉首相との関係はあまり上手く行っていないのだけれども;安倍氏と同様元首相の孫である麻生太郎総務相;そして谷垣禎一財務相の4名である(谷垣氏の最大の長所は「敵が少ない」ということだ)。もし、彼等の中の誰かが改造内閣でポストを得られなかったとすれば、その候補者の後継の目は消滅することになる。

内閣改造で注目すべき人物がもう一人いる。竹中平蔵氏だ。彼は学界から政界に転じるや、最初に銀行(の不良債権処理のための)改革、次に郵政民営化を担当した。(中略)

内閣改造の次は? 小泉首相が遂行しようとした政策課題は魅力的であり、彼の後継者は誰であれそれを引き継ぎたいと思うだろう;よって、小泉改革は引き継がれると予想する。4人の後継候補の間に内政分野での指導力に関してそう大きな違いがあるようにも見えない。ならば、(誰が後継かという残された)問題はどんな説得力のある政権運営のビジョンを彼等が持っているかどうかを知ることによって解答されるだろう。

★紹介舞台裏
本記事は閲覧有料のものであり、記事の著作権を配慮して全体の約半分を紹介しました。”The Economist”は経済・経営・国際関係の情報を入手するためだけでなく、日本やアジアを見る欧米識者の感覚を知る上でも最良の媒体の一つだと思います。電子版は月々3,000円程で閲覧し放題;嘘と妄想てんこ盛りの朝日新聞に比べれば投資効果は比べ物になりません。

http://www.economist.com/index.html




(2005年10月27日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済

koizumi67
【Koizumi in Yasukuni Shrine , August 15, 2006】


◆Koizumi's Shrine Visit Angers Asians, Again
 「またもやアジアを憤らせた小泉首相の靖国参拝」
 By Anthony Faiola, Washington Post Foreign Service
 October 18, 2005


China and South Korea on Monday angrily protested Prime Minister Junichiro Koizumi's decision to make a controversial visit to a shrine that honors Japan's military dead, including convicted World War II war criminals.

月曜日(10月17日)、支那と韓国は、有罪判決を受けた第二次世界大戦の「戦犯」を含む日本の戦死者を祀っている神社への参拝を(ここしばらく物議をかもし続けてきた参拝を)決行した小泉首相に対して怒りをもって抗議した。

★註:この社説は1行目から論理矛盾に陥っている。記事タイトルは「Koizumi's Shrine Visit Angers Asians」となっているが、靖国神社への小泉首相の参拝が「憤らせた」のは支那と韓国という<特定アジア>の国々にすぎないからである。



After Koizumi's visit to Yasukuni Shrine in Tokyo, the Chinese government canceled a meeting with a visiting Japanese envoy and effectively scrubbed a trip to Beijing by Japan's foreign minister, according to the Kyodo News Service. China's ambassador to Tokyo, Wang Yi, decried Koizumi's move as a "grave provocation to the Chinese people." And the Chinese foreign minister, Li Zhaoxing, summoned the Japanese ambassador to lodge a formal diplomatic protest.

South Korean Foreign Minister Ban Ki Moon, likewise, summoned the Japanese ambassador in Seoul to issue his protest. Other officials in Seoul said that Koizumi's visit to the shrine would probably cause postponement of a summit intended to ease strained relations.


小泉首相の靖国神社(東京)への参拝が行われるや、支那政府は訪中していた日本の使節との会談予定を取り消し、また、日本の外務大臣の北京訪問の予定を実質上拒否した、と共同通信は報じている。王毅駐日支那大使は小泉首相の振る舞いは「支那人民に対する重大な挑発である」と非難したし、支那の李肇星外相は日本の駐支那大使を呼びつけて(首相の靖国神社参拝を)抗議する公式の外交文書を手渡した。

ソウルでは韓国政府も支那と同様に潘基文外交通商部長官が駐韓日本大使を召喚し抗議の書面を交付した。韓国政府の他の官僚からは、小泉首相の今次の参拝によって日韓首脳会談は延期されざるをえないのではないかという声も聞こえてくる。その首脳会談自体が日韓の緊張関係を緩和することを目的とするものであったのだけれども。

yasukuni3


Koizumi had hinted for months that he would worship as planned at the sprawling Shinto shrine. The annual visit took place Monday morning despite charges both at home and abroad that his appearances there amount to official veneration of Japan's militaristic past.

Because of worsening relations between Japan and other Asian countries, opposition politicians and even some leading members of Koizumi's governing coalition have said they fear the prime minister is unnecessarily rekindling animosities to appease nationalistic supporters. Public opinion polls in Japan indicate an almost even split between approval and disapproval of his visits to the shrine.・・・


特徴ある形の敷地を都心に横たえているこの神道の殿堂に予定通り参拝することを、しかし、小泉首相は何ヶ月も前から示唆し続けてきた。そして、この月曜の朝、年に一度のその参拝が行われた。靖国神社への首相の参拝は日本の軍国主義的な過去を公式に崇敬するのに等しいという内外からの批判をものともせずそれは行われたのである。

アジア諸国と日本との関係悪化を引き起こすことを理由に、野党の政治家だけでなく小泉連立政権の何人かの有力者さえもが、「首相は民族主義的な支持者を宥めるために不用意に敵意を煽ってはいないだろうか」という危惧を発している(★)。(中略)


★註:アジア諸国と日本との関係悪化?
再度記す。支那・韓国・北朝鮮の特定アジア三国だけがアジア諸国なのではない。



yashukuni1



Koizumi bowed and clasped his hands in prayer while standing silently in front of an outer shrine before striding back to his car as a crowd watched in the rain. He did not enter the inner part of the shrine as he has in the past, worshiping instead in a section where all visitors are permitted. ・・・Later, Koizumi told reporters he had gone to the shrine to "pray for peace" but also insisted that other countries had no right to "tell Japan how it should honor its war dead."

静かに外側の拝殿の正面に立ちながら小泉首相はお辞儀をし手を合わせ礼拝した。そして、雨の中群集が見つめる中を彼は(待たせていた彼の)車まで大股で歩いて戻った。今までの参拝とは異なり、首相は神社の内部には参殿せず、その代わり、一般の参拝者にも許されている地点で参拝したのである。(中略)後ほど小泉首相は、靖国神社へは「平和を祈念」するために参拝したものだと報道各社の記者に語った。他方、「その戦死者を日本がどのように顕彰すべきかについて容喙」する権利を他国は毫も持ってなどいないとも首相は主張した。


Analysts have said the growing economic interdependence of China and Japan make improved ties essential. But experts have also noted that South Korea, once considered a relatively close Japanese ally, is enjoying increasingly warmer relations with China even as both have had problems with Japan.

"The danger is that these visits will isolate Japan in East Asia," said Satoshi Amako, professor of Asia-Pacific studies at Tokyo's Waseda University. "This is obviously not in the best interest of Japan."


アナリストは、日中間の経済の相互依存関係の拡大にともない日中関係の重要性は最早後戻りできないものになっていると述べている。しかし、韓国と支那の両国がともに日本との間に幾つもの懸案を抱えているというのに、かって比較的緊密な日本の同盟者と看做されていた韓国は今や支那との間の友好関係を徐々に享受しつつあると指摘することも専門家は忘れていない。

「危惧されるべきポイントは、首相の数次にわたる靖国神社参拝が日本を東アジアの中で孤立させる危険性である」と天児慧(東京の早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授)は述べている。「そのこと(日本の孤立)が日本にとって最高の利益をもたらす策ではないことは明らかであろう」とも(★)。

★註:東アジアにおける「日本孤立」?
再々度記す。支那と韓国という<特定アジア>の国々が東アジアのすべてではない。特定アジア三国は(東)アジア諸国の「真部分集合」にすぎない。

{支那, 韓, 朝}⊂特定アジア諸国
特定アジア諸国⊂アジア諸国
特定アジア諸国≠アジア諸国


最悪日本が孤立するとしても、それは東アジアからの隔絶ではなく中韓朝という特定アジア諸国との関係停滞にすぎない。また、支那のバブル崩壊・自然破壊・所得格差に起因する治安悪化が2008年の北京オリンピックをあるいは待たずに惹起することは不可避であり、その場合、韓国経済が今世紀前半中の再起が不可能な「経済崩壊の大津波」に沈むことも火を見るより明らかではなかろうか。ならば、これら特定アジア諸国との関係冷却は日本の国益にも適うことではなかろうか。

畢竟、日本は、米国・メキシコ、台湾・東南アジア/南アジア諸国/旧ソ連の中央アジア諸国・トルコ、あるいは、オセアニアと南米諸国との連帯を深め特定アジア諸国を逆に包囲する道を進むべきであろう。その場合、世界標準の外交関係と相容れない自己中の中華思想を振り回す世界の嫌われ者中韓朝と離縁することは日本のこの新しい外交戦略とも整合的であると思う。





(2005年10月26日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 靖国参拝
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10月17日に行われた小泉首相の靖国神社参拝は近隣諸国、就中、支那に対する「無意味で無益な挑発」(Pointless Provocation in Tokyo)だ。米紙 The New York Times がそう述べた。2005年10月18日付の同紙社説(Editorial)。彼の地において、The New York Times (NYT) はカルト的なリベラル系新聞として有名であり、米国のサイレンとマジョリティーたる保守派からは真面目に相手にされていない(実際、批判どころか読まれさえしません)。それは、米国東海岸のインテリリベラルグループ内の<学級新聞>といったところでしょうか、つまり、これらの点でそれはアメリカの朝日新聞とも呼ばれるべき新聞と言えると思います。

ただ、NYT の名誉のために直ちに補足しようと思うのですが、もちろんNYTの記事は朝日新聞とは違って事実の改竄や虚報ばかりではない。また、記事の誤報性が明らかになった場合、朝日新聞と違ってNYTは速やかに読者と取材対象/批判対象に謝罪し責任者は責任を取る。その意味でNYTは世界の極普通の新聞の一つなのです。しかし、日本の戦争責任/戦後責任へのNYTの理解、あるいは、19世紀後半から大東亜戦争終結までの帝国主義の時代、そして、大東亜戦争後のアジアの政治外交史に関するNYTの知識が極めてプアーでシャビーであることは朝日新聞と同等だと言わざるをえない。

そして残念ながら(というか予想通りではあるのですけれど)この10月18日の社説も酷いものだった。以下、社説ということもあり(出典を明記した上で)、このブログ読者の参考になればと思い全文紹介します。尚、この社説への評価は読者諸賢各位が各自で行うべきことでしょうが、ここで二つだけコメントして置きます。

第一、日本国内の戦後民主主義流の絶対平和主義を信奉する勢力と異なり、NYTの社説子も、5度繰り返された首相の靖国神社参拝に関わらず、「今日の日本が帝国主義的な対外征服に再び乗り出すなどと真面目に心配している人はほとんどいない」と認識していること。この点で、「イラクに陸上自衛隊が行けば日本は戦争できる国になる」「教育基本法が改正されれば戦前の軍国主義が復活する」等々を真顔で語るような、朝日新聞に代表される日本の戦後民主主義勢力よりもNYTの方が格段にまともということ。

第二、他国・他民族に対する残虐行為について帝国主義時代の欧米列強の所業を棚に上げて、米国の新聞から日本が批判される筋合いはあまりないのではないかということ。これは、「他の帝国主義諸国もやっていたではないか(だから、日本の許されるはずだ)」という<悪戯した子供の言い訳>ではないのです。土台、国際関係や国際政治に「帝国主義=悪」などという善悪の判断を持ち込むこと自体が<書生論>の域を出ないということなのです。

また、日本の<国家神道>は近代国家日本の社会統合のイデオロギーが神道的の言語で綴られたものでもあり、それは百歩譲っても、西洋のそれら(=近代国家の社会統合のイデオロギー)がキリスト教やカルト的な人権思想を基盤とすることと五十歩百歩である。ならば、西欧政治思想の観点から<国家神道>がそう簡単に否定されるわけではないだろうということです。いずれにせよ、「今こそ日本は20世紀の自国の歴史に正面から対面すべきである」という指摘は正しいでしょう。NYTとおそらく現実具体的な方向は少し違うのでしょうが私もそう考えています。以下、紹介・翻訳。

yasukuni11


◆Pointless Provocation in Tokyo;「無意味な東京の挑発」
 The New York Times, Editorial, October 18, 2005


Fresh from an election that showcased him as a modernizing reformer, Prime Minister Junichiro Koizumi of Japan has now made a point of publicly embracing the worst traditions of Japanese militarism. Yesterday he made a nationally televised visit to a memorial in central Tokyo called the Yasukuni Shrine. But Yasukuni is not merely a memorial to Japan's 2.5 million war dead. The shrine and its accompanying museum promote an unapologetic view of Japan's atrocity-scarred rampages through Korea, much of China and Southeast Asia during the first few decades of the 20th century. Among those memorialized and worshiped as deities in an annual festival beginning this week are 14 Class A war criminals who were tried, convicted and executed.

近代化を推進する改革者としての自分をアピールした選挙が終わったばかりだというのに、日本の小泉純一郎首相はまたしても日本の軍国主義の最も悪しき伝統を大っぴらに顕彰する挙に出た。彼は昨日(10月17日)、全国にテレビ放映される中、東京の中心にある追悼施設に(それは靖国神社と呼ばれるのだけれども、)参拝した。しかし、靖国神社は単に250万人の日本の戦死者の追悼施設ではない。

この神社と神社に併設されている博物館は、20世紀の最初の数十年の間に朝鮮全土と大部分の支那および東南アジアに残虐行為の爪痕を残しながら展開された日本の侵略行為に対して謝罪する必要を認めないとする史観を推奨し推進するものである。今週始まった同神社の例大祭において追悼され英霊として祀られる御霊の中には、裁判に掛けられ有罪を宣告され刑を執行された14人の所謂「A級戦犯」が含まれている。

★註:ここはお祀りされている英霊を指しているのだから、「14人」ではなく「14柱」と記すべきであるが原文の流れに従った。

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The shrine visit is a calculated affront to the descendants of those victimized by Japanese war crimes, as the leaders of China, Taiwan, South Korea and Singapore quickly made clear. Mr. Koizumi clearly knew what he was doing. He has now visited the shrine in each of the last four years, brushing aside repeated protests by Asian diplomats and, this time, an adverse judgment from a Japanese court.

首相の靖国参拝は日本の所謂戦犯の所業の犠牲となった(アジアの人々の)子孫に対する確信犯的侮辱行為である。それは、支那・台湾・韓国およびシンガポールの指導者達が素早く侮辱に対する抗議を発したことでも明らかだ。そして、小泉首相も彼が何をしようとしているのかを明確に意識していた。その上で小泉首相はこの4年間毎年1回、アジア各国の外交筋から繰り返される抗議を払いのけつつ、今回は日本の裁判所が出した参拝に反対する判決を歯牙にもかけず靖国神社に参拝してきた。

★註:"an adverse judgment from a Japanese court"はこの社説筆者の誤解である。先月の大阪高裁判決も昨年4月の福岡地裁判決も、「首相の靖国神社参拝」そのものの憲法的性質/憲法的状態ついては法的には何の判断も下してはいないからである。


No one realistically worries about today's Japan re-embarking on the road of imperial conquest. But Japan, Asia's richest, most economically powerful and technologically advanced nation, is shedding some of the military and foreign policy restraints it has observed for the past 60 years.

今日の日本が帝国主義的な対外征服に再び乗り出すなどと真面目に心配している人はほとんどいない。しかし、アジアでも最も富んでおり最も経済力を持ち、かつ、最先端のテクノロジーを誇る国家である日本は、それ自身がこの60年間遵奉し続けてきた軍事的と外交的な自己抑制的態度を脱ぎ捨てようとしつつある。


This is exactly the wrong time to be stirring up nightmare memories among the neighbors. Such provocations seem particularly gratuitous in an era that has seen an economically booming China become Japan's most critical economic partner and its biggest geopolitical challenge.

火かき棒を使って炎を起こすことに似た、近隣諸国の中に伏在する悪夢のような記憶を呼び戻すには現在はいかにも時期が悪い。このような(首相の靖国参拝という)挑発は特に、経済ブームの途上にある支那が日本の必須かつ枢要なる経済活動の相手国となり、また、地政学的に見た場合には日本の挑戦者として立ち表れてきたこの時代においては何の意味もない無益なことのように思われる。


Mr. Koizumi's shrine visits draw praise from the right-wing nationalists who form a significant component of his Liberal Democratic Party. Instead of appeasing this group, Mr. Koizumi needs to face them down, just as he successfully faced down the party reactionaries who opposed his postal privatization plan. It is time for Japan to face up to its history in the 20th century so that it can move honorably into the 21st.

小泉首相が靖国神社に参拝するたびに、彼率いる自民党で多数を占める右翼-民族主義者は喝采を叫んできた。しかし、小泉首相はこれらのグループを宥めるのではなく(首相が唱導した郵政民営化の法案に反対した党内の反動保守勢力をそうすることに成功したように、)彼等を威圧させ屈服させる必要がある。日本が尊敬を受けつつ21世紀に移行するためには今こそ日本は20世紀の自国の歴史に正面から対面すべきである。



(2005年10月19日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 靖国参拝
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今日、平成18年4月3日の朝日新聞社説「男児殺害 カメラだけでは防げない」を一読して朝日新聞の主張が理解できた読者はそう多くないと思います。それは、「これも言える。あれも言える。けれども、またそれも正しいだろう」式の実に取りとめのないゆるゆるの文章でしたから。

しかし、日頃から朝日新聞の社説の理路に疑いを持っており、そして、数日後か数ヵ月後にその社説が何を意味していたのかを朝日新聞の「反日キャンペーン」という形で何度も確認したことのある朝日新聞社説マニアにとっては事情は別。おそらく、そんな<朝日新聞社説同好会>のメンバーにとっては今日の社説「男児殺害 カメラだけでは防げない」に盛り込まれた朝日の主張は明瞭だった。少なくとも、同好会員を自任している私にはそうだったからです。

蓋し、今日の社説に埋め込まれたメインの主張と朝日新聞の意図は、中立を装った防犯カメラ設置反対論であり、而して、朝日新聞は川崎市の男児投げ落とし殺人事件が防犯カメラの画像を契機に解決に向かったことを見た世論が防犯カメラの設置推進支持に雪崩をうつことを恐れたのではないか。私にはそう思えるのです。以下、当該社説を引用した上で敷衍します(尚、被害者男児の氏名の伏字はKABUによるものです)。


「殺したかったから投げ落とした」。川崎市のマンションで小学3年生の××××君が転落死した事件で、41歳の男が殺害を認め、こう供述した。(中略)

逮捕された男は妻子と5人暮らしで、子ども思いだったという。3月まで精神科の病院に入院していた。失業していたとも言っている。それにしても、あまりに凶悪な犯行との落差が大きすぎる。なぜ、こんな事件を起こしたのか。動機を徹底的に解明してもらいたい。

現場のマンションは18カ所に防犯カメラを設置している。小走りで逃げる男をカメラがとらえていた。その映像が公開され、新聞に掲載されたのを見て、男が出頭した。「逃げられないと思った」と供述している。防犯カメラが事件の解決に結びついた。(中略)

防犯対策として、死角になりやすいエレベーターや自転車置き場に防犯カメラを置くところが増えている。(中略)商店街などの防犯カメラには、監視社会化になるとの批判がある。だが、共同住宅は住民の私的な場だ。みんなが合意すればカメラを設置するほうがいい。

しかし、過信は禁物だ。今回、防犯カメラは容疑者の逮捕には役立ったが、事件は防げなかった。防犯カメラがあることを知って犯行を思いとどまる者もいれば、無視するかのように犯行を重ねる者もいる。カメラをかいくぐって犯罪を犯そうという者もいるだろう。

犯罪を防ぐには、やはり住民の目と日ごろの結びつきが欠かせない。(中略)そうした日ごろの活動があれば、防犯カメラはいっそう役に立つ。(後略、以上引用終了)


bouhan2



この社説を私が「ゆるゆる」とか「取りとめのない」と表現したのは、それが位相を異にする幾つかの問題を並列しているからです。実際、「何が41歳の彼をして犯罪を行わせたか」という犯行の動機や犯罪に至る犯人の心の状態の問題と「どうすれば犯罪は防げるのか」という一般的な防犯施策の問題は無関係ではないにせよ、文字通り同列に論じられる事柄ではないでしょう。まして、「3月まで精神科の病院に入院していた。失業していたとも言っている」ということは防犯カメラ設置の是非とはほとんど何の関連もない。否、触法精神障害者による犯罪の防止と社会復帰の活動に携わってきた経験のある私には、「3月まで精神科の病院に入院していた」との記述は、悩みながらも懸命に positive に生きておられる多くの精神障害者への先入観に基づく侮辱とさえ感じられました。

次に、防犯カメラの画像がこの川崎市の事件では犯人の出頭の直接の契機になったらしいことと、防犯カメラがこの事件を防ぐことができなかったことは別の事柄です。而して、この社説の「防犯カメラがあることを知って犯行を思いとどまる者もいれば、無視するかのように犯行を重ねる者もいる。カメラをかいくぐって犯罪を犯そうという者もいる」という認識自体は正しい。何を私はいいたいのか? 

簡単です。問題を防犯カメラ設置の是非に絞らせていただくとして、防犯カメラの設置を推進する論者は誰も「防犯カメラによって犯罪が完全に防止できる」などとは主張していない。ならば、朝日新聞のこの社説は、どのような装備も制度もそれを越えることが原理的に不可能なハードルを設定しておいて、「防犯カメラもこのハードル(=犯罪の完全な防止)を越えることができないのだから、防犯カメラに期待しすぎるのはよくない」という詭弁を弄するものだということです。

畢竟、防犯カメラどころか犯罪防止のためのすべての制度や装備も所謂確信犯による犯罪を止めることなどできはしないのです。これはアメリカや英国で実際に運用されている所在把握のための発信機装着の義務づけや予防拘束を含む一切の保安処分についても程度の差はあれ言えること。確かに、それらの装置や処置によって薬物常用者の犯罪や累犯性の高い性犯罪者の犯罪、あるいは、任侠や神農の道に生きておられる前科数犯を誇る方々、ならびに国旗・国歌への反対を繰り返す東京都の教職員活動家連中の犯罪をかなりの確率で防止することはできるかもしれませんが、それらとて確信犯の初犯は防ぎようがないことは自明だからです。そして、この経緯は朝日新聞推奨の「住民の目と日ごろの結びつき」についても厳として言えることなのです。

而して、犯罪を完全に防止するなどという神々の世界の基準ではなく、より多くの犯罪をより低コストで防止する施策の具現という人間世界の基準に基づいて議論しようとする場合、防犯カメラの設置は十分有効な犯罪防止の施策である。このことは今次の川崎市の事件を見るまでもなく明らかなことではないでしょうか。マンションから投げ落とされた男児とそのご家族には悲しくも不条理な現実ではあるでしょうが、防犯カメラが被害者男児の不条理な死という現実を防げなかったとしても、防犯カメラの画像がこの41歳の犯人の次の犯罪を防いだことは確かなのですから。

他方、モビリティーが益々高まるこの社会で、また、大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義によって崩壊させられた社会の道徳規範という non-performing loans(不良債権)を抱えるこの社会で、「住民の目と日ごろの結びつきを強化することによって犯罪を防止すべし」などの主張は、担保も保証人も出さず、過去の財務諸表や経営者の経歴書も提示せずに空手形だけを信用して取引をしてくれというのと大差のない破天荒な主張だと私は考えます。

而して、この発言が社説子の不注意でなされたものならそれは書生論的な世迷言。もし、それが故意によるものなら「住民の目と日ごろの結びつきを強化することによって犯罪を防止すべし」という主張は姑息で狡猾な詐欺紛いの言説でしょう。そのいずれでもないと言うのなら、朝日新聞は(i)どのようにして、(ii)いつまでに、(iii)どの程度の予算と住民の費用と労力面での負担によって、(iv)何ができるようになれば、「住民の目と日ごろの結びつき」が防犯カメラに優るとも劣らない犯罪抑止の機能を発揮すると言えるかを明示すべきだと思います。

いずれにせよ、現在、やっと教育基本法に「愛国心」が盛り込まれるまでに来つつあるとしても、社会の道徳規範と社会の連帯を掘り崩してきた戦後民主主義を信奉する朝日新聞が、戦後民主主義が崩壊させたそれらの上で始めて十全に機能する「住民の目と日ごろの結びつき」の重視を社説で提言するのは鉄面皮にもほどがある。それは、(近代において国家が家庭や教会から奪った教育権を、「子供の教育を受ける権利」を口実に「子供の一番近くにいる教育の専門家」たる教師に集中させようとした)日教組のその組合員が学力低下の克服のために家庭の教育力の向上を説くのと同じくらい噴飯ものの事態ではないでしょうか。私にはそう思われるのです。

では、この社説を貫く主張は何か? 油を塗った手で鰻をつかむような取りとめのないこの社説で朝日新聞は何を主張したかったのでしょうか? このエントリー記事の冒頭でも推測した如く、それは中立を装った防犯カメラ設置反対論である。而して、朝日新聞の底意は「商店街などの防犯カメラには、監視社会化になるとの批判がある。だが、共同住宅は住民の私的な場だ。みんなが合意すればカメラを設置するほうがいい。しかし、過信は禁物だ」の4センテンスに凝縮していると思います。蓋し、この社説の論旨を私は以下のように整理しています。

(1)商店街などには防犯カメラは設置するべきではない

(2)共同住宅では住民の合意があれば防犯カメラの設置は止められない

(3)しかし、防犯カメラは万能ではない

(4)犯罪の防止には住民の目と日ごろの結びつき強化が一番だ

(5)住民の目と日ごろの結びつき強化を第一にして、プライバシー保護や監視社会化の強化という問題のある防犯カメラ設置は共同住宅でもやるとしても二次的な施策でしかない

(6)この川崎市の事件を契機に防犯カメラ設置を共同住宅でも推進しようというのは短絡的な主張である


繰り返しになりますが、(3)防犯カメラの万能性の議論は神々の基準を人間世界に密輸するものでしょう。また、(4)の防犯施策として「住民の目と日ごろの結びつき」に期待するのは非現実的な書生論にすぎません。加えて、これまた再度記しますが、「住民の目と日ごろの結びつき」も犯罪防止の効果の点では万全ではないし防犯カメラとの優劣は一概には定まらないのです。

ならば(私のこの社説の整理が満更間違いではないとするならばですが)、この朝日新聞の主張は、(1)商店街の防犯カメラ設置反対、(2)共同住宅では住民の合意があれば防犯カメラの設置は止められない、しかし、(5)プライバシー保護や監視社会化の強化という問題のある防犯カメラ設置は共同住宅でも制限的であるべきだ、(6)この川崎市の事件が契機になり防犯カメラ設置が共同住宅でも推進さることには注意すべきだ、というものに他なりません。而して、(2)と(6)が朝日新聞の状況認識であり、他方、(1)と(5)の主張が法律的にはそう根拠の確かなものではないことは明らかでしょう。

蓋し、この社説の主張も「国家権力は悪」「主権国家などは世界市民による地球共同体が実現するまでの必要悪」と考える戦後民主主義を信奉する勢力による<妄想的人権原理主義>のone of variants(同じもの変形の一種)にすぎない。私はそう考えています。

cherryshinyuri



★追記
私はこの事件が起こった川崎市北部(麻生区)に住んでいます。事件が身近で起こったからか、被害者遺族に対してはおそらくそう悪気もなく朝日新聞の社説子が書かれたであろう「住民の目と日ごろの結びつき」に防犯効果を期待することの非現実性にいつも以上に苛立ちと怒りを覚えました。

私も、被害者のご遺族の気持ちなど代弁することなどできませんが、同じ地区に住む者の一人として「犯罪を防げなかった防犯カメラ」の限界を主張するあまり、その対抗馬として「住民の目と日ごろの結びつき」を持ち上げた、そのあまりの非現実さと軽薄さに被害者の恐怖と被害者遺族の絶望に対する配慮のなさを感じてしまったということです。

そう、殺人事件の被害者遺族に「犯人が死刑になっても被害者が生き返るわけではないのですから、極刑を求める主張は取り下げていただけませんか」と人道的な弁護士が善意で語りかける残酷な鈍感さと同じものをこの社説には感じた。防犯カメラは事件を防げなかったけれど、防犯カメラは犯人を出頭させたのだから:被害者の仇を討ってくれたのだから。それは、現在形も何もない<空手形>の「住民の目と日ごろの結びつき」よりも悲しいけれど遥かに被害者とそのご遺族の力になってくれたのだから。

この追記記事の上に掲げた画像は、この事件がなければ被害者男児が家族と一緒に見たかもしれない、新百合ヶ丘~柿生の川沿いの桜並木。昨日撮影のもの。被害者のご冥福を祈るとともに被害者遺族にお悔やみを述べたいと思います。



(2006年4月3日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 朝日新聞
ジャンル : 政治・経済

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New York Times (NYT)のMr. Norimitsu Onishi(大西哲光氏)の記事 "A War Shrine, for a Japan Seeking a Not Guilty Verdict"「戦争神社 ーー 無罪評決を求めるための日本ある神社」(2005年6月22日)を紹介します。大西さんの記事は、しばしば強い思い込みの上にご自分が勝手に作られたストリーを展開したものも少なくないと日頃から思っているけれど、この記事などはさしずめその典型と言えるでしょう。

大西氏がこのテクストに込められたコノテーションは「首相靖国参拝反対」であり「大東亜戦争を正当化する日本の右翼的な策動なるものへ警鐘を鳴らすこと」。そして、「中韓両国が靖国神社参拝に反対する正当な理由を持っているというのに、日本がその強気の姿勢を崩さない裏には、支那への警戒感をつのらせつつある(そして、韓国の情緒不安定な盧武鉉大統領への不信感を払拭できないでいる)米国の暗黙の了解があるのではないか」ということだと思います。

しかし、国際法的に見て東京裁判がかなりいかがわしい根拠しか持たなかったこと、首相の靖国神社参拝に中韓が容喙するのは紛うことなき内政干渉であることは自明であり、そして、サンフランシスコ平和条約の第11条を根拠にしては「大東亜戦争の歴史的評価なるものを日本は認めた」→「サンフランシスコ平和条約を破棄でもしない限り、その歴史認識に日本は拘束されている」などとは法学方法論や法概念論の観点からは誰も言えないことなのです。

これらのことを大西氏が踏まえたとすれば、この記事は随分トーンも結論も変わったものになったのではないかと思います。いずれにせよ、東京裁判とサンフランシスコ平和条約を巡るこれらの認識を踏まえる者からは、少なくとも、この記事がそのタイトルに示唆せしめた論点:「靖国神社は東京裁判が認定した歴史観にチャレンジするための装置」であるという論証に成功していないことは確実。よって、本来ならこれはコメントするに値する記事ではないのです。しかも、この記事はNYT の記事とはいえ、実は、日本に駐在する大西氏が、朝日新聞等の日本国内の反日メディアの情報をもとに、朝日新聞本社のビルにあるNYTの東京オフィスで(ニューヨークタイムズ東京支局:東京都中央区築地5丁目3-2 朝日新聞社本社ビル9階)書いた Made in Japan の記事なのですから、相手にするだけ時間の無駄というものでしょう。

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【Mr. NORIMITSU ONISHI 】

しかし、私は "A War Shrine, for a Japan Seeking a Not Guilty Verdict" を俎上に乗せた記事を書いている。なぜか。なぜ、このエントリー記事を書くことにしたのか。

それは、アオハタのブルーベリージャムじゃなかった日本共産党のしんぶん赤旗がこの記事を取り上げたことに象徴されているように(★)、日本発の妄想まみれの記事とはいえ、それが NYT の紙面に掲載された以上、ブーメランよろしく日本の反日勢力に「首相靖国参拝を見る欧米の冷ややかな目線」などと注釈をつけられ利用される事態は静観できるものではないと考えたからです。そうであれば批判するしかない、と。ふりかかる火の粉は掃わねばならないだろうから、と。以下、NYTの著作権を侵害しないよう全体の三分の2程度を引用してコメントと翻訳を行います。


★しんぶん赤旗の紹介記事:2005年6月24日・25日
「首相の靖国参拝問題――米紙も「無罪判決をもとめる戦争神社」と批判」
「「日本の無罪判決をもとめる戦争神社」という題で、第四面の半ページをつかって、靖国神社と首相の参拝を批判する論説を掲載しました。この論説では、中国や韓国への侵略や米国への攻撃を正当化する靖国神社の歴史観は、「アジアやアメリカのほとんどの人々が受け入れない」と手きびしく批判しています」
「ニューヨーク・タイムズのこの記事は、パリで発行され、世界各国で印刷されている国際的英字紙インターナショナル・ヘラルド・トリビューン二十三日付にも掲載されました。こうして、アメリカをはじめ、世界のマスメディアが、靖国史観への批判を大きく取り上げたのです」、と。


尚、本記事とその<ブーメラン効果>については下記のブログを参照いただきたい。

・不可視型探照灯
 http://erict.blog5.fc2.com/blog-entry-94.html


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A War Shrine, for a Japan Seeking
a Not Guilty Verdict 


By NORIMITSU ONISHI (NYT)
Published: June 22, 2005

One recent rainy morning, a couple of dozen vehicles belonging to the Patriotic Youth League and other Japanese right-wing groups gathered inside the grounds of Yasukuni Shrine, the Shinto memorial to Japan's war dead. ''Revere the Emperor,'' read a slogan on one truck. Others alluded to enemies unnamed: ''Love and Protect our Motherland'' and ''Kill one, one at a time.''

At 12:30 p.m., the caravan spilled out onto Tokyo's streets, destination unclear. But the targets are usually the same: the Chinese Embassy, the liberal media, anybody daring to challenge the argument that Japan's wars were legitimate and that their leaders were not criminals. Yasukuni Shrine is the symbolic center of Japan's efforts to revise its militaristic past, and lies at the heart of worsening relations between Japan and its neighbors. Not only right-wing extremists, but now also mainstream politicians and the news media are more openly arguing that the 14 war criminals enshrined in Yasukuni were not guilty -- and, because they were not, Japan's wars could not have been that bad.


◆コメント
第1パラグラフ。おどろおどろしい右翼の街宣車を取り上げた冒頭部分からすでに靖国神社理解のパラダイムの硬直性が炸裂している。

ある雨の朝、右翼団体に所属するメンバーが1ダースばかりの自動車で靖国神社に集合すること。そして、彼等が靖国神社の境内で「天皇崇敬」のスローガンを読み上げ、誰とは言わないが<意中の敵>の存在をほのめかしつつ、「愛国・護国」、「一人一殺」を唱えたことが、首相の靖国参拝の是非や中韓両国の不当な内政干渉の正当性と何の関係があるというのか? 彼等が「行き先が中国大使館なのかリベラル派のマスメディア、あるいは、「日本の戦争は正当であり、戦争を指導した国家指導者は犯罪者ではない」という議論にあえて挑戦しているような論者の所なのかは不明ながらも、昼12時半に東京の街に散っていったこと」とこの記事の主題「A War Shrine, for a Japan Seeking a Not Guilty Verdict」(無罪評決を求めるための日本の戦争神社)とどんな関係があるというのか? 

畢竟、第5センテンス "Yasukuni Shrine is the symbolic center of Japan's efforts・・・"「靖国神社は日本がその過去の軍国主義にまつわる歴史認識を改めようとする企ての中心的な象徴であり、また、日本とその近隣諸国との間の関係を悪化させている原因の核心」という認識とその直前の4センテンス"But the targets are usually the same・・・"とは何の関係もないだろう。実際、すぐ後の第6センテンス"Not only right-wing extremists, but now also mainstream politicians・・・" では、大西氏ご自身が「右翼過激派のみならず、政界の主流にある政治家や報道メディアさえも、靖国神社に祀られている14名の所謂「戦犯」は有罪ではなかった。彼等が戦犯ではないのだから、日本の戦争も悪ではありえないという主張を広く展開している」と書かれていることでも明らかなように、冒頭にスケッチされた<右翼>の活動はそれ以下の(全体1,188語中の)1,000語の記事とは何の関係もない。

簡単な話だ。おどろおどろしく右翼の街宣車を取り上げた冒頭の記述によって、大西氏はアメリカの読者に「靖国神社は非合理的でテロを肯定する右翼の総本山であり、首相の靖国参拝を支持しているのは日本の中でもかなり特殊で危ない勢力なんですよ」というバイアスを与えている。けれども、少なくとも日本国民の過半が靖国神社を大切にしたいと思っている現状を(そして、そのような広範な支持があって始めて靖国神社が靖国神社として存立していることを)踏まえるならば、この冒頭の描写はそれが過失とするならば杜撰であり故意に書かれたとすればそれはアメリカの読者と日本国民を共に愚弄する姑息で詐欺まがいの文章というべきであろう。

NYTの記者ともあろう者が(笑)このような杜撰な記事を書いてしまう背景には何があるのか。おそらくそこには、「右翼はどう批判しても文句は言えない」とか「戦争責任を認めない靖国神社やそれを支持する勢力をどう批判しても許される」、「彼等(右翼や靖国神社)が間違っているのは明らかであり、それを批判する根拠などいちいち提示する必要はない」という思い込みがあるのかもしれない。

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◆翻訳 de 紹介

In a face-to-face meeting on June 20, for example, Prime Minister Junichiro Koizumi steadfastly resisted the entreaties of President Roh Moo Hyun of South Korea that he stop visiting the shrine and build an alternate one that would be more acceptable to China and the Koreas, all of them victims of a brutal Japanese colonization.

While the Japanese have received the bulk of the criticism for the shrine, they are not, however, the only ones to have manipulated the meaning of Yasukuni and its war criminals. So have the Chinese, the Taiwanese and the Americans, each according to their own interests.


「例えば、6月20日に行われた韓国大統領との差しの会談において小泉首相は、靖国神社参拝を止めて欲しい、そして、日本の残虐な植民地支配の犠牲者たる支那と南北両朝鮮がより受け入れやすい(戦死者慰霊のための)代替施設を作って欲しいという脳不足大統領からの要請を断固として受け入れなかった」、「諸外国から寄せられる批判の大部分を靖国神社に対する批判として日本人は処理しているけれど、しかし、日本人は靖国神社と所謂「戦犯」の意味を巧妙に操作している唯一の国民ではない。支那も台湾もアメリカも、彼等の個々の利害に基づいて靖国神社と所謂「戦犯」の意味を狡猾に操作している」



During America's six-year occupation of Japan after World War II, Americans spent the first half democratizing the country and prosecuting war criminals. In the second half, with Communists controlling China and the cold war bearing down, Washington reversed course: wartime leaders were rehabilitated overnight in an effort to make Japan strong. Some Class A war criminal suspects, after barely escaping the noose, became postwar Japan's political and business leaders; one, Nobusuke Kishi, even became prime minister.

The mixed messages from America -- as well as the highly politicized Tokyo Trials that tried the Japanese leaders but avoided mentioning Emperor Hirohito, whom America had decided not to depose -- laid the seeds of confusion here. They also left open the door for the Japanese to argue that the overall verdict -- that Japan had led a war of aggression -- was also false.


「第二次世界大戦後の6年にも及ぶ占領期、その占領期間の最初の半分をアメリカは日本の民主化と所謂「戦犯」の訴追にあてた。けれども、共産主義支那の誕生と冷戦の開始を受けた占領期後半、ワシントンはその占領方針を変更した。ここにおいて、日本を強化すべく大東亜戦争時の政治指導者の社会復帰があわただしくとり行われた。絞首刑をすんでの所で免れていた所謂「A級戦犯」の中には戦後の日本の政界や実業界のリーダーになった者も少なくなく、その中の一人、岸信介は首相にさえなったのである」

「アメリカの相反する内容を含むメッセージは、アメリカが退位させない方針を固めていた昭和天皇の訴追を避けた上で行われた東京裁判での日本の政治指導者の審理とあいまって、戦争責任追及に混乱の種を蒔いた。それはまた日本人が(東京裁判の)評決を総合的にとらえ返して、日本は侵略戦争を行ったという評決の全体的な構図自体が実は違いだったと主張する余地を残したのだ」

★KABU註:
 国際法から言えば、日本は「侵略戦争」など毫も行っていない。




''It was a war of self-defense,'' Yuko Tojo, the granddaughter of the wartime prime minister who was executed as a Class A war criminal and is enshrined in Yasukuni, said in a telephone interview. ''China claims it is unforgivable that the head of state visits Yasukuni, where those responsible for causing trouble by conducting a war of aggression are enshrined. But if we agree with China, it would mean that we recognize it as a war of aggression. So we can't.''

Visits to Yasukuni have long been regarded as coded endorsements of conservative nationalist views like hers.・・・


「「大東亜戦争は自衛の戦争だったのです」;所謂「A級戦犯」の一人として処刑され、現在、靖国神社に英霊として祀られている戦時下の宰相の孫娘、東條由布子氏は電話でのインタヴューでそう答えられた。「支那は国の最高指導者が靖国神社に参拝することは容認できないと主張しています。侵略戦争がもたらした災難に指導者としての責任を負うべき者を祀っているような靖国神社に時の日本の首相が参拝することなど断じて認められないと。しかし、もしこのような支那の主張を日本が承認するなら、それは先の大戦を我々が侵略戦争と認めることになるのではないでしょうか。よって、我々は断じて支那の要求に屈するわけにはいかないのです」、と東條由布子氏は語られた」、そして「靖国神社参拝は、東條由布子さんのような保守的な民族主義者のものの見方を支持推奨する典型的な行動であると長らく考えられてきている」(中略)

★KABU註:
東條由布子さんの主張は国際法の通説を踏まえた極めて穏当なものであり、それを「保守的な民族主義者」と規定する方が戦後民主主義の妄想で目が曇っていると言うべきである。


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Yasukuni's war museum argues that America forced Japan into attacking Pearl Harbor as a way of shaking off the Depression, saying that ''the U.S. economy made a complete recovery once the Americans entered the war.'' A video shown at the museum, called ''We Won't Forget,'' describes America's postwar occupation of Japan as ''pitiless.'' But the museum makes no mention of Japan's own occupation of Asia. As for the Rape of Nanjing, the museum blames the Chinese commander and adds that, thanks to Japanese actions, ''inside the city, residents were once again able to live their lives in peace.''

In a written statement, Yasukuni officials said, ''The exhibition is not based on any special historical viewpoint, but is based on clear evidence.''

Yasukuni's view of history is one that few Asians or Americans would accept. But like Japanese politicians, foreigners also appear to recognize the shrine's political value.


「靖国神社の資料館(遊就館)は、大恐慌から脱出するためにアメリカはわざと日本に真珠湾を襲しめた。それであればこそ、アメリカ経済は戦争にアメリカが突入するやいなや完全に回復、と主張している。資料館で上映されているビデオ『我々は決して忘れない』は大東亜戦争後のアメリカによる占領政策を「無慈悲なもの」として描いている。しかし、日本によるアジアの占領については資料館は口を閉ざしている。所謂「南京大虐殺」に関して、資料館は中国人の兵士を非難した上で「日本の作戦行動のお蔭で、南京の市内において住民は平和的で秩序ある生活を取り戻すことができた」という説明を付け加えている」

「靖国神社の当局者はその公式な文書の中で、「(資料館の)展示は何か特定の歴史観に基盤を置くものではなく、誰しも否定できない所の明確な証拠に基づいています」と述べている」、 「靖国神社のこの歴史認識を容認する者はアジアにもアメリカにもほとんどいないだろうけれど、さりとて、日本の政治家ばかりでなく外国人の多くもまた靖国神社の政治的価値を認識しているように思われる」

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・・・While the Chinese and the South Koreans have legitimate reasons to oppose the shrine, they have been accused of using it to shore up domestic support by appealing to nationalist sentiments.

・・・American officials raise an eyebrow at Japanese comparisons of Yasukuni to Arlington National Cemetery. But they tend to defend, albeit somewhat uncomfortably, Japanese visits to Yasukuni, or maintain a studied silence. The cold war may be over, but China's rise alarms America just as much as did the rise of Communism in the 1940's. So better a strong, remilitarized Japan, no matter what the Japanese say about Yasukuni or war criminals.


(前略)「支那も韓国も靖国神社に反対する正当な根拠を持っているにもかかわらず、民族主義的な感情に訴えて国内政治体制を安定させるために靖国カードを使っていると非難されている」

★KABU註:
だって事実でしょうが、それがなにか?


(前略)「靖国神社と国立アーリントン墓地を日本人が比定するたびにアメリカの当局者は眉をひそめている。しかし、それがいかに不愉快であろうとも、彼等は日本の靖国参拝を擁護するか、あえて沈黙を守ろうとする。冷戦は多分終わったのだろうが、支那の勃興はちょうど1940年代に共産主義が勃興した時と同じような危機感をアメリカにつのらせているからだ。(その現下の東アジアの状況下では)日本が靖国神社や所謂「戦犯」について何を言おうとも、再軍備した強い日本という事態の方がアメリカにとっては望ましいことだからである」


(2005年7月3日:yahoo版にアップロード)

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