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日本の調査捕鯨を俎上に乗せた記事を紹介します。出典はWashington Post "Japanese Mission to Kill, Study 950 Whales Decried," November 22, 2007(950頭の調査捕鯨を企てる日本に非難集中)です。著作権者に考慮して紹介は全体の三分の2にとどめました。

例えば、記事末尾で言及されている「国際捕鯨委員会からの脱退を示唆することで日本は反捕鯨国を恫喝した」など、「国際捕鯨委員会からの脱退」を日本が示唆せざるをえなかった経緯を省略した一方的なものであること。「国際捕鯨委員会からの脱退」は、実は、アメリカの先住民族に対して認められている沿岸捕鯨と同じものを要求した日本の提案が否決されたために示唆されたものであり、確立したルールの公平なる適用が望めない委員会にとどまる理由はないと日本ならずとも判断するのは当然だったのですから、このWPSTの記事にはその行間から「反捕鯨」のパッションが読み取れる。けれども、他の「鯨を救え!」という感情論が炸裂する英国やオーストラリア・ニュージーランドの報道に比べればこれでも随分中庸をえたものと言えると思います。

畢竟、捕鯨と反捕鯨を巡る議論の特徴はそれが議論にならないことでしょう。日本などの捕鯨国が、科学的根拠を積み重ね「持続可能な捕鯨の可能性」を主張しているのに対して、反捕鯨国側は満足な科学的調査を行うこともなく捕鯨に反対するための反対を繰り返しているだけなのですから。

しかし (1)反捕鯨国の主張が、「鯨は知能が高いから殺すのは可哀想」「鯨以外にも食べるものは幾らでもあるじゃないか」「鯨を食べるなど恥を知れ」という、所謂「西欧中心主義」そのものの、鯨を食べる文化を持つ民族には何の拘束力もない独善的な主張でしかないことは最早誰の目にも明らかになってきた。(2)国際捕鯨委員会での商業捕鯨禁止決議に際してカルト的NGOや多くの反捕鯨国が、同委員会に新規加盟したカリブ海やアフリカ諸国の政府とは無関係に、それらの国のalternate(=「決定権を持たない代理出席者」)として投票したという破廉恥な事実が明らかになってきたこと。そして、(3)日本などによる科学的調査の積み重ねによって、「ある種の鯨が充分持続的に利用可能な食糧資源であること」に対して論理的に反論することが難しくなってきたこと。

これらにより、ここ2-3年、(甲)国際捕鯨委員会でも最早捕鯨国が僅差ながら多数派になり、かつ、(乙)捕鯨反対派も彼等の価値観の押しつけだけではなく、一応、事実と論理を提示し始めたといえるようにも見える。例えば、紹介したWPSTの記事も触れている「鯨肉には高い濃度で水銀等の汚染物質が含まれており、食べるのは危険だ」というような論理が最近反捕鯨派から語られるようになってきました。

而して、(甲)だけでなく(乙)の動きは捕鯨国日本、すなわち、論理と事実を踏まえた議論を通して合理的で公平な国際ルールの形成を求めてきた日本にとっては望む所の動向だと思います。

私はかねがねこの問題に関しては、次の四つのことを粘り強く行うべきだと考えてきました。

(A)科学的な検証に耐えられる事実と論理が通用しない、かつ、「資源としての鯨の持続可能な利用のための機関」ではなく「捕鯨を(もっと率直に言えば、鯨肉を食べる文化を)否定するための機関」に堕した国際捕鯨委員会(IWC)からの脱退の示唆。而して、捕鯨国-反捕鯨国を問わず「資源としての鯨の持続可能な利用のためのルール」を合理的に検討する新機関の立ち上げの準備と国際捕鯨委員会に留まっての多数派工作を同時に推進すること

(B)科学的調査は粛々とすすめ、調査結果を世界の主要な言語で公表し続けること

(C)捕鯨文化と反捕鯨の文化に優劣はなく、反捕鯨の感情論や価値観に日本と日本人が拘束される筋合いはないことを世界に向けて発信し続けること

(D)上記、(B)(C)を特に欧米の有権者にも直接訴える活動を官民をあげて組織的に行うこと

蓋し、ここ2-3年の動きは、(もちろん、特に(C)(D)に関しては理想からは程遠いのですが)この4個のタスクから見ても日本をリーダーとする捕鯨国の努力が実ってきた証ではないかと思っています。もちろん、楽観はできませんけれども。

この問題を巡る私の基本的な立場については次の拙稿をご参照いただければ嬉しいです。尚、捕鯨を巡る世界の動きと捕鯨国日本の主張に関しては本稿末に掲げたURL記事をご参照ください。

鯨と日本の再生


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【Departure of Japanese whaling fleet】


<テクスト>
The Japanese whaling fleet is sailing south this week to kill about 950 whales in Antarctic waters, despite appeals from the United States, the European Union, Australia and New Zealand to call off the hunt. What has particularly alarmed anti-whaling countries and environmental groups is Japan's plan, in the name of "research," to kill as many as 50 humpback whales.

It would be the first such hunt since 1966, when a worldwide moratorium was imposed to protect humpbacks, slow swimmers whose numbers were reduced by about 90 percent by overhunting. Humpbacks have since bounced back to about a third of their pre-whaling population, although they remain listed as endangered under U.S. law and are considered vulnerable by the World Conservation Union.

Japan's Fisheries Agency says it needs to kill the humpbacks (along with 850 minke and 50 fin whales) to make a thorough scientific study of their sustainability, as well as to assess their overall health, diet and the degree to which their internal organs have accumulated heavy metals and other pollutants.

"You cannot get this information by scratching the skin," said Joji Morishita, director of international negotiations for the Fisheries Agency and an alternate on the International Whaling Commission.

The commission's 1986 global ban on commercial whaling grants an exception for scientific hunts. Departing Sunday, four Japanese vessels sailed through that loophole. "It would be better if the Japanese stayed home and didn't come down under the guise, the deception, the claim that it is scientific whaling -- when they want to take a thousand whales," New Zealand Prime Minister Helen Clark said Monday. Japanese vessels have hunted whales, primarily minkes, in previous years using this loophole.

When scientists here finish their research, whaling commission regulations require that leftover whale meat be sold. Proceeds from the sales defray about 90 percent of the cost of mounting the hunt, according to the Fisheries Agency.

Consumption of whale meat in Japan has fallen sharply in the past two decades, mostly because of the commercial whaling ban, although coastal hunts for smaller whales continue. They do not come under the control of the whaling commission. Consumers here have also become wary of whale meat because of dangerous levels of mercury and other toxins.

The boom in whale consumption in Japan came after World War II and with the encouragement of occupying U.S. forces. Whale meat was cheap food for hungry people -- and Americans had not yet embraced "Save the Whales" as an environmentalist battle cry.

In recent years, as most urban Japanese have lost their taste for whale, the right to hunt the mammals has become something of a nationalist cause, with many Japanese resenting what they see as the self-righteous and hypocritical protests of Western governments and environmental groups.

"The United States and Australia have a much larger ecological footprint than Japan, so why are they criticizing sustainable whaling?" said Hiroyuki Matsuda, a professor of ecological risk management at Yokohama National University.

At the State Department this week, a spokesman said that the United States recognizes Japan's legal right to conduct the hunt but argued that the scientific rationale is weak. "We note that nonlethal research techniques are available to provide nearly all relevant data on whale populations," spokesman Sean McCormack told reporters.

Greenpeace, the environmental group, has dispatched its ship Esperanza to chase Japan's four whaling ships in international waters and disrupt the hunt.・・・ Greenpeace believes Japan's hunt is motivated not by science but by a desire to put more whale meat on Japanese tables・・・

Japanese officials note that their country has the support of about half the 78 nations that are members of the whaling commission, including Russia, China, Norway and Iceland.

"We have been trying to make this issue as objective as possible," said Morishita, of the Fisheries Agency. "But other people ignore the facts and try to make it emotional."

Japan tried to persuade the whaling commission in May to approve resumption of coastal whaling for larger whales. When the request was turned down, Japanese officials threatened to quit the organization.



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<和訳>
南極水域で950頭ものクジラを捕殺すべく、今週、日本の捕鯨船団が南に向けて出航した。アメリカやEU、オーストラリアやニュージーランドから捕鯨中止の要請が出されている中での出航。反捕鯨諸国や環境保護団体を特に危惧させているのは日本の捕鯨計画、すなわち、「調査」の名目で50頭のザトウクジラを捕殺する日本の計画である。

ザトウクジラの捕殺はそれを保護すべく国際的に捕鯨の停止が課された1966年以来のことになる。かって、泳ぐのが遅いこのクジラはその頭数の90%が乱獲されたけれども、その捕鯨の停止以来現在にいたり捕鯨が始まる前の約三分の1の頭数まで個体数を戻してきている。もっとも、ザトウクジラはアメリカの国内法においてはいまだに絶滅危惧種にリストアップされたままであり、国際自然保護連合によればザトウクジラは脆弱であり(その個体数は、捕鯨などの)影響を受けて減少しやすいということである。


日本の水産庁は(ミンククジラ850頭とナガスクジラ50頭とともに)ザトウクジラを捕殺することは、それらの全体的な健康状態、ならびに、それら三種類の鯨の常用食料とそれらが体内組織に蓄積してきている重金属その他の汚染物質の度合いを調査するのみならず、それらの鯨の資源としての持続的な利用可能性をきちんと科学的に研究するためには必要であると主張している。

「誰もこのような情報を鯨の皮膚を採取するだけでは得ることはできないでしょう」と、水産庁漁業交渉官にして国際捕鯨委員会において日本側を代表する森下丈二氏は語っているのだ。

1986年に出された国際捕鯨委員会による地球規模の商業捕鯨禁止もその例外として科学的調査目的の捕鯨を容認している。日曜日に出発した4隻の日本船舶もこの抜け穴を通って出航したわけである。「実際には、千頭ほどの鯨を得たいくせに、科学的捕鯨などというごまかしを隠れ蓑にして日本が出航することなく南下もしないというのなら、それが望ましい」とニュージーランドのヘレン・クラーク首相は月曜日にコメントした。日本はここ何年間もこの抜け穴を利用してミンククジラを中心に捕鯨を行ってきたのである。

科学的調査が終了した際のこととして、調査対象としては用済みになる鯨肉は売却されるものと国際捕鯨委員会の規則は規定している。水産庁によれば、その売り上げは捕鯨を遂行するための費用の約90%を満たしているということだ。

この20年間日本での鯨肉の消費は急激に低下してきた。それは専ら商業捕鯨の禁止のためである。より小型の鯨を対象とした日本の沿岸捕鯨は続いているのだけれども。この小型の鯨【ツチクジラの捕鯨】を対象とした沿岸捕鯨は国際捕鯨委員会の管轄外なのだ。消費者はまた水銀その他の毒素が高い水準で含まれている危険性のゆえに、鯨の肉を食することには慎重になってきている。

日本における鯨肉消費のブームは第2次世界大戦後、アメリカ占領軍の奨励とともに訪れた。鯨肉は当時の空腹を抱えた人々にとって格安の食料であり、そして、当時、アメリカ人はまだ「鯨を救え」などという環境保護論者のスローガンには帰依していなかった。

ここ数年、日本の都市生活者の中では鯨を嗜好する習慣を失った者がほとんどになってきたことにともない、この哺乳類を捕殺する権利はなにがしか民族主義者的な主張の色彩を帯びてきている。而して、多くの日本人の目には、欧米の政府や環境団体からの抗議などは偽善にまみれ朝日新聞のように独善的なものと映っており、彼等はそれについて憤慨しているのである。

「アメリカとオーストラリアは日本などよりも遥かに大きな環境への影響を残してきたではないか。ならば、持続可能な捕鯨を彼等がなぜ批判できるというのか」、そう横浜国立大学の生態リスク管理学の教授である松田裕之氏は述べている。

米国務省では、今週、アメリカは日本が捕鯨を行う権利を持っていることは認めるとしながらも、捕鯨を行う科学的な根拠は乏しいというコメントを報道官が述べた。而して、この記者会見でシーン・マコーマック報道官は「鯨の数量を調査することに関連するほとんどすべての情報を得るためには非致死性の調査技術が利用可能である。そのことをアメリカ政府として特に申しておく」と語った。

【カルト的】環境保護団体のグリンピースは、日本の4隻の捕鯨船を公海上で追跡し捕鯨活動を中断させるためにそのエスペランサ号を出航させた。(中略)グリンピースは日本の捕鯨が科学的調査などのためではなく鯨の肉をもっと日本の食卓に上げるために行われていると信じている。(中略)

日本政府高官は、日本はロシア・支那・ノルウェイ・アイスランドを含む国際捕鯨委員会の加盟78ヵ国の半数あまりの支持を取りつけていると言及する。

「捕鯨推進派はこの問題を可能な限り客観的に取り扱おうとしてきた」「しかし、捕鯨反対派の人々は事実を度外視してこの問題を感情的に扱おうとしている」と、水産庁の森下氏は述べた。

日本は5月の国際捕鯨委員会でより大型の鯨に対する日本の捕鯨再開を認めるよう働きかけた。而して、この要求が拒否されたとき、日本側は国際捕鯨委員会からの脱退も考慮するむね述べ【反捕鯨側を】脅かしたのである。


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◆参照資料
・米国務省、調査捕鯨の自粛求める
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/104823/

・日本の4地域、伝統捕鯨の再開要求 米など反発 IWC総会
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/54588/

・「IWC脱退か新機関」日本政府が意地みせた
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/54862/

・クジラ文化国ニッポン
http://www.choujintairiku.com/kujira/index.html

・Whaling Library
http://luna.pos.to/whale/

・IUCNは自身の信用を特定利益団体にゆだねている
http://luna.pos.to/whale/jpn_hna_iucn.html



(2007年11月28日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 捕鯨・反捕鯨問題
ジャンル : 政治・経済

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捕鯨は捕鯨だけの問題ではない。鯨は鯨だけの問題ではない。非論理的な理屈に妥協して商業捕鯨を放棄したことと現在の日本社会の病理現象は通底してはいないか。このような問題意識から私は5―6年前から断続的に幾つかの文章を書いてきました。2007年11月18日、今年度の日本の調査捕鯨船団が下関港を出発したこと、それに対する欧米政府とメディアの批判が例年にも増して強いこと、これらを鑑みてこのFC2版海馬之玄関に捕鯨を巡って書いた旧稿を再録したいと思います。


■鯨と日本
給食の定番といえば鯨の龍田揚げ。鯨の龍田揚げ好きでしたか? 鯨の龍田揚げ、最後に食べたのはいつですか? そして、鯨がおおぴらに食べられなくなった頃から日本は本格的におかしくなったような気がするのは私だけでしょうか。

科学的な根拠も乏しい「鯨を殺すのは可哀想」「鯨を食べるなんて恥を知れ」等々のはちゃめちゃな理屈(?)に押し切られて、「鯨なんか食べられなくなっても、まあいいか」と応じた時から日本はオカシクなったような気がするのです。たかが鯨、されど鯨なのではないか、と。

これは、あるいは、所謂「従軍慰安婦」問題や歴史教科書問題、首相の靖国参拝問題にも通じることかもしれません。けれど、鯨の問題はそれらに優るとも劣らない遥かに大きな問題なのではないか。私はそう思い始めました。なぜならば、日々の食卓に何が乗るかは、国民の一人一人の実生活に「365日×3回」かかわる事柄なのだから、それは、個々人の感性を枠づけるものなのだから、その思想的や政治的な影響力は岩波文庫や朝日新聞、NHKやTBSの日々の反日報道なんかよりも大きいかもしれない。そう思うからです。

「筋の通らないことでも、いいかげんに済ましていいんだ」「正義や大義より高度成長や銭儲けが大切なんだもん」と日本人にそれこそ胃袋レヴェルから思わせた点で、鯨の龍田揚げが給食の定番でなくなったことは大東亜戦争後の日本人の社会的性格(E.フロム、D.リースマンの用語。社会的な行動を左右するある社会のある時代の人間集団に特有の行動パターンのこと)を決定した重大事件ではなかったのか、と。

「外圧には逆らわないようにして、国際関係の交渉ではコミュニケーションのコストを逓減しよう。そして、そいでもってそんな波風の立たない状況下で日本は外貨を効率的に稼げばいいのだ」というバブル崩壊までの戦後日本を支配した社会と政治の欺瞞が鯨をキーワードにすることで理解できるのではないでしょうか。而して、「この基本方針の前には日本の文化や伝統や個人の感傷などは考慮されるに値しない」と、そのように子供達も大人達も鯨の龍田揚げが給食に出なくなった時に刷り込まれたのではないか。私は真面目にそう考えています。

私も、パートナーの寛子さんも、鯨の龍田揚の給食で育ったからそう感じるのかもしれません。日本は、国際的には金持ちになった。失われた90年代を経た今日でも外貨準備高と対外債権の保有高およびGDP的には間違いなく世界有数の豊かな国でしょう。しかし、国民には余裕はないです。親の老後のケアに自信を持っている30代なんか何%いますか、まして、自分の老後なんて。多分、現在の大学生にとって老後などという良い身分の話しは、(恒星進化論で言われているように)あと50億年もすれば太陽が赤色恒星になって膨張し地球が太陽に吸収される話しと同じくらいリアリティーのない事柄ではないでしょうか。要は、明日の自分に自信と希望が持ちにくくなったということです。

現在の日本人の多くが、活気と誇りと目標と理念を失ったこの社会に不安と不満を抱いているように思える。そして、活気と誇り、目標と理念を失った日本が現在の状況に立ち至るにおいては<給食で鯨の龍田揚げを食べられなくなった時期>が大きな意味を持っているのではないか、と。

とにかく、私は<鯨を食べられなくなった日本>には失望しています。だからこそ、鯨の食べられる国に再びこの国を変えたいし、変えねばならないと考えます。そう、日本再生の鍵は鯨だったのだ(?)。

それにしても、最近、鹿児島や長崎に<鯨漂着>のニュースがよく聞かれます。そして、浜辺に打ちあげられた鯨を食べてはダメのお達しも。私も寛子さんも、「変だな」と思います。「鯨を食べてなんででけんとや」「なんでわざわざ捨っとか。もったいなかじゃっか。鯨が可愛そうじゃなかか」と感じます。「鯨も死後人間に食べられて本望じゃなかじゃろか」とも。

もちろん、鯨さんが「本望」と思うかどうか私にはわかりません。けれど、とにかく、「鯨を食べたい」と思うような人間。間違いなく、そんな日本人の私は一人ですし、その伝統に裏打ちされた事実を誇りに感じている日本人の一人です。そんなことを考えている時、ある掲示板で下記の言葉を読みました。下記の3行が目に焼きつきました。ご熟読あれ。而して、共に闘わん!

 くじらが安くなって昔の様に食べられたら

 なつかしい日本にもどれるのかな

 日本のこころがキラキラ輝いていた時代


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■「多様な文化」を前提にした鯨談義を
鯨肉は熊本県の山鹿や鹿本あたりでは普通に魚屋さんに売っています。もちろん、大部分は半乾物や塩漬けですけどね。そして、あまり大きな声ではいえないけれど、その「鯨」大部分は海豚らしいです。「海豚」とは、そう、後の天智天皇である中大兄皇子と大織冠・中臣鎌足のクーデタで討たれた、あの蘇我入鹿の「入鹿」です。

これも、文化の違いでしょうか。同じ山国でも、北関東や信州、福知山や綾部という北近畿ではあまり食されないと聞きますしね。やっぱ、鯨と言えば、九州・四国そして紀州は南紀が本場なのでしょうか。四国は土佐、土佐といえば「司牡丹」、司牡丹といえば「酔鯨」、而して、土佐は山内容堂公、号は酔鯨のご当地ですものね。

日本の中でさえ鯨を巡って多様な食文化がある。ですから、「捕鯨再開や調査捕鯨の続行なんかにそうこだわる必要はないのではないかい」と考える日本人がおられて当然と私は思っています。日本人なら寿司と焼き鳥とすき焼きを好まねばならない、などは全く管理主義的で悪しき社会主義的な物言いでしょうから。それと一緒です。その点、人生で一度も鯨を食べたことのない埼玉は浦和からの留学生に「日本人は鯨を食べている。恥を知れ!」と喧嘩を吹っかけてくるアメリカ人の大学生なんかには日本の多様性を一度教えてあげるべきなのだと思います。

鯨が嫌いな日本人や好きな日本人。鯨にこだわる人とあまりこだわらない人がいる状態がむしろ健全な社会というものではないでしょうか。問題は、そのような価値観と習慣を異にしている者同士での是々非々の話し合いが捕鯨を巡っては困難なことです。すなわち、公共的で科学的な事実をもとにした議論、文化の多様性を認め合う寛容さに導かれた討議が捕鯨を巡っては成り立っているとは到底思えない。

あまつさえ、鯨資源の実態を把握し提示するいわば「挙証責任」がいつのまにか捕鯨禁止要求国サイドから、捕鯨推進国サイドに転換されているような馬鹿げた国際捕鯨委員会(IWC)の会議のあり方を私は批判しているのです(本当は、「いつのまに」とかいう曖昧なものではなく、何年何月のどこの会議で「給食の鯨の龍田揚げ」を外国に売り渡した「犯人」(=政治家・官僚)を特定できるはずですけれども)。そのような論理も論拠も、普遍的な国際会議のルールさえ無視される交渉の場で、簡単に日本の文化を放棄してくる日本の官僚や政治家の志の低さに私は憤慨しているのです。その志の低さが、「一果腐りて万果損する」如くに、論理と倫理に対する日本人の尊敬の念を減じかつ損しめた可能性に私は慷慨するのです。

私は「日本の文化」なるものが金太郎飴的に均一であるとも神武天皇以来不変であるとも捉えません。カール・ポパー『歴史主義の貧困』が唯物史観の論理的な基盤を崩壊させ、ドイツ社会史とアナール学派とウォーラスティンが「民族性」なるものが蜃気楼でしかないこと、皮を剥いて行けばついに何もなくなる玉葱でしかないことを喝破した20世紀後半以降、今時、そのように考えるのは国粋主義者か共産党員、朝日新聞の社説子や日教組・全教の先生だけでしょう。「国体」なるものの普遍性を脳天気に夢想する国粋主義者と講座派ばりの唯物史観を捨てきれない自虐史観の論者。彼等は「日本文化」なるものへの評価こそ、一応、正反対ですけれど「日本文化」を均一と捉える共通点を持つ社会思想のシャム双生児なのです。

それこそ、下野と岩代でも、土佐と阿波でも、肥後と筑後でも文化は違いましょう。食文化などその最たるものです。けれども、その多様な文化の中に鯨を食し鯨と共に生きるという文化も小なりとはいえ確固として存在した。また、現在の50代半ばから30代後半の多くの日本人の給食に鯨の龍田揚げが出ていたこと、而して、その世代の仮想共同体では鯨の龍田揚げが<想い出のキーアイテム>の一つであることは間違いのない事実なのです。

畢竟、私は鯨の問題は、日本人が道徳と論理と正義の実現を自己自身の重大事であると再認識するための要路要衝と考えます。鯨は鯨だけの問題ではない。所謂「従軍慰安婦」問題や首相の靖国参拝問題、沖縄の集団自決や「南京事件」を巡る歴史教科書問題、あるいは、外国人の参政権の問題や少年法の改正問題、憲法改正や旧皇族の皇籍復帰等々、多くの「鯨」が日本の再生のために解決を待ち望んでいるのではないか。私にはそう思えてなりません。


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■捕鯨の論理と反捕鯨の理不尽
捕鯨を理屈の通らない理由で放棄した戦後日本は政治が国家の役割を放棄した戦後日本でもある。概略そう上で書きました。もちろん、私は「鯨問題が解決すれば日本が良くなる」とか「鯨を昔のように安い値段で食べられるようになれば懐かしい日本に戻れる」と主張する者ではありません。むしろ逆です。

「日本が良くなれば捕鯨問題が解決するかもしれませんね」そして「日本国民が自分の国を誇りに思えるような状況になれば、鯨を昔のように安い値段で食べられるようになるかもしれませんね」、「捕鯨を科学的なデータに基づく論理的な話し合いで再開できるような政治の機能とパフォーマンスを日本が取り戻すことができたなら、戦後の日本社会で小さくない影響力を持った進歩的文化人や独善的で情緒的な自己の単なる願望をあたかも普遍的な真理や価値であるかのごとく垂流す朝日新聞、すなわち、大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する勢力が国益を日々毀損するような事態は改善されるかもしれませんね」と主張しているのです。

この意味でも鯨は鯨だけの問題ではない。鯨問題の射程を考える上で大変興味深い文章を朝日新聞が掲載していました。平成14年5月19日の社説。以下、引用します。

どちらの言い分(捕鯨派と反捕鯨派のこと。KABU註)にも無理がある。まず、IWC科学委員会が90年に「南極海のミンククジラは76万頭」との見解をまとめたように、一定の捕鯨をしても絶滅とは無縁の種がいるのは確かだろう。反捕鯨派はこの事実を認め、捕鯨を管理する合理的な仕組み(RMS)作りを引き延ばすのをやめるべきだ。

一方、捕鯨派も「数があるなら捕っていい」という手前勝手な主張にこだわらず、限定的な捕鯨構想を示すべきだ。「クジラは捕って欲しくない」という反捕鯨国の感情や価値観も考えるべきだろう。いまの対立はあまりに感情的で、合意を考えない議論ばかりがまかり通っている。(中略)

捕鯨は日本の食文化だという声も強い。だが、沿岸地域のなかに昔からあった捕鯨・鯨食の伝統と、食糧難をきっかけに国民全体が鯨肉を食べるようになった戦後の経験は、区別して論じるべきだろう。(以上社説引用終わり)


科学調査結果を無視した反捕鯨論と、科学調査を踏まえた「数があるなら捕っていい」という捕鯨国の主張がなぜ同列に置かれなければならないのでしょうか。また、捕鯨国は<手前勝手>であり、「クジラを食べて欲しくないという反捕鯨国の感情や価値観も考えるべきだ」と朝日新聞の社説子などに言われる筋合は誰にもないはずでしょう。

究極の所、「鯨を食べたい」と言うのも「鯨を殺すのは可哀想」と感じるのも各自のエゴにすぎず、相手方を納得させ説得するような論理にはなりえません。ならばこそ、「感情論では決着がつかないから、科学的データに基づき政治的な妥協の道を合理的かつ理性的な討論の中で見出しましょう」という段階に進むのが大人の問題解決の態度ではないかと思います。しかし、朝日新聞のこの社説はそんな気はさらさらない。畢竟、この社説は<中立>を装った反捕鯨論にすぎない。

蓋し、「捕鯨をするしない」はゼロかイチかの対立であり、他方、「捕鯨をする」という選択肢の中には無限の段階差があります。反捕鯨論は捕鯨論に含まれているそのような無限の選択肢をすべて否定する。まして、ある種の鯨が増えており当座絶滅の恐れがないという科学的なデータを無視した上での暴論、それが反捕鯨論でしょう。而して、そのような暴論と「どのような捕鯨の仕組みなら鯨資源の持続可能な利用ができるか」を問うている捕鯨論を同列に置くこと自体がすでに中立を装った捕鯨反対論だと私には思えるからです。

次に、「捕鯨は日本の食文化だという声も強い。だが、沿岸地域のなかに昔からあった捕鯨・鯨食の伝統と、食糧難をきっかけに国民全体が鯨肉を食べるようになった戦後の経験は、区別して論じるべきだろう」とはよくもいってくれたね、ものです。

問題は、ある国民が何を食べるかは(他人に迷惑をかけない限り)、その国民自身が自由に選択できてしかるべきだ、ということでしょう。だからこそ、個人的にはぞっとしちゃいますが、私は韓国や支那の人々が犬を喰おうが堕胎した胎児で作ったスープに舌鼓を打とうが日本として口は出せないと考えています。畢竟、鯨肉を食するのは伝統文化的だから認めようとか、戦後の食糧難の一時期の現象にすぎないから駄目だなどとは、反捕鯨国にも朝日新聞にも言われる筋合いは断じてない。

再度書きますが、而して、問題は鯨であって鯨にあらず。それは各民族と国民個々の自己決定権の問題であり、そのような個々の国民と民族の自由をこの国の政治が護る気概と意思と能力とを保持しているかどうかの問題なのではないでしょうか。


この社説のあまりにも読者を馬鹿にした論理の粗雑さに、朝日新聞の社説担当者が本当は<鯨>のことなんか真面目に考えておらず、ただ、商業捕鯨全面禁止から14年目のIWC日本開催に合わせ「アリバイ的」に社説を出したという舞台裏が見え見えの感じがしました。馬鹿にするな。捕鯨に携わった人々、鯨に思い入れを持つ世代と地域の日本人、そして、こんな粗雑な論理を読むために安くはない購読料を払わされている読者を馬鹿にするな、とも。

彼等が<鯨>自体のことを本当は何も考えていないのは確実でしょう。現在、地球上で最大の動物も朝日新聞の社説子様くらいの偉い方からみれば、「まあまあまあ、冷静に冷静に、鯨なんかどうでもいいじゃない。鯨が食べられなければ、牛でも馬でもダチョウでも食べれば」、という程度の存在でしかないのでしょう。鯨も馬鹿にされたもんです。「パンをよこせ」と叫ぶ民衆に対して「パンがなければお菓子を食べれば」と言ったと伝えられるかのルイ16世妃のマリー・アントワネットもこれほど無神経ではなかったでしょう。

朝日新聞の社説子は鯨問題の本質が解っていない。朝日新聞の社説子は捕鯨再開を願う日本人が表面上は鯨を問題にしていながらも、最早、鯨には収まらない問題に憤っていることに全く気づいていない。畢竟、自分の食べたいものを、訳のわからん理屈で外国から禁止されているというポイントが憤りの核心なのです。

喰いもんの恨みは怖いぞ。凄いぞ。まして、理屈の通らない外国の理不尽さと自国の文化を安易に外国に譲り渡した政治家と官僚への軽蔑がそれに加算された場合の恨みは凄いぞ。今に見ていろ朝日新聞。覚悟しておけ朝日新聞。首を洗っていろ朝日新聞ではないでしょうか(笑)。

と、朝日新聞の社説に憤ったので、むしょうに腹が減ってきました。そして、当然、むしょうに鯨を食べたくなった。そこで、我家は給料日前に関わらず今夜は大枚をはたいて鯨ステーキにします。宣言します。朝日新聞に対する憤りを一生忘れないために。而して、捕鯨賛成の読者の皆さん、共に喰らわん、そして、鯨とともに暮らせるような日本にするために共に闘わん。







(2002年5月26日:本家サイトにアップロードした記事を元に新たに作成)


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おそらく今年最後のゴルフ関連記事紹介です。日本女子プロゴルフ最終戦にして三大メジャー公式戦の掉尾を飾る、LPGAツアーチャンピオンシップリコーカップ(「最強女王決定戦」)が終わりました。結果は、不動裕理選手と古閑美保選手という共に清元登子先生門下の最終日・最終組による、これまたほとんど「マッチップレー」といってよい戦い。而して、勢いに優る古閑選手の公式戦初優勝。わたしたち福岡県の最南端、大牟田市出身者にとってはほとんど地元勢といっていい熊本出身の両者の戦いは堪えられませんでした。

しかも、その内容も見応えがあった。最終日スタート時点の5打差を同門の妹弟子・古閑プロが5バーディーノーボギーの猛チャージで逆転するというスリリングなもの。対する姉弟子・不動プロ、過去賞金女王6回、女子プロゴルフ界現役第一人者の不動プロもまた2バーディー2ボギー1ダブルボギーというスコアながら(この「+2」の74は最終日のスコアとしては出場30選手中の17位であり、)必ずしも大崩れしたわけではなかった。よって、両者のスコアが並んだ9番ホール以降は、野球に喩えれば「杜撰な貧打戦」ではなく「息詰る投手戦」の趣がありました。いやー、堪能させてもらいました。

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そして、このことも書いておきます。それは、新女王・上田桃子プロのこと。「不動 vs 古閑」という清元門下生同士の対決の蔭に隠れた感はいなめませんでしたが、同じ熊本県出身のこの史上最年少賞金女王もまたすばらしいラウンドをしたことを。不動プロとのペアリングになった3日目の直接対決で実質的に優勝争いから脱落したものの(よって、おそらく、最終日のモティベーション維持はかなり難しい状況であったにもかかわらず)、桃子姫は渋い脇役に徹し、今年の最終戦、最強女王決定戦を引き締めた。

桃子姫の最終日第4ラウンドのスコア「even」は出場30選手中11位の記録であり、トータル5位はこの「最強女王決定戦」初出場でモティベーション全開だった昨年の5位タイを上回る結果。このことは、「目下売り出し中の最年少賞金女王様」がショットもアプローチもパットもちぐはぐだったことを考えれば凄いことだと私は思うのです。聖人君子ならぬ人の子のこと、モティベーションも高かろうはずがないこの状況では、普通なら、最終日「+4」を叩いたとしても不思議ではない。そうなれば、ずるずると「新賞金女王様」が12位タイくらいまで後退する展開になった。蓋し、新女王様は自力で「賞金女王」の権威と品格を守ったと言えるのではないでしょうか。

私はゴルフの素人ですが、企業内人事研修企画やアメリカの大学院と日本の大学・企業との共同事業の企画運営に20年近く携わってきた身には、「人間、調子の良い時に頑張れるのは当然。ならば、(インターナショナルビジネスの世界で活躍できるかどうかを決める)人間の値打ちはセルフマネージメントスキルの度合いにある。すなわち、調子の悪い時にどれだけ冷静に目標を再設定できるかどうか、その再設定した目標に調子の良不良にかかわらずベストを尽くせるかどうか、加えて、調子の悪い時にも、きちんとその時々に自分に与えられた役割や地位に相応しい大人の気配りを周囲に対してできるかどうか」だと確信しいています。

アメリカのプロトレーニングとコーチングプロの世界では(日本でも漸次取り入れられてきていますが)、技術担当・身体能力担当・戦術担当・キャリアマネージメント担当と大きくわけても4種類のコーチングの恊働作業になっている。だからこそ、世界で一番ゴルフが上手いタイガー・ウッズ選手にもレッスンプロがついている。けれども、技術や身体能力、戦術、(あるいは、ビジネス戦略の立案と遂行)は専門のスタッフに任せればよいのかもしれませんが、究極の所、<自然との戦い>にして<自分との戦い>であるゴルフではキャリアマネージメント担当コーチは自分自身でしかありえない。

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而して、流石に清元門下の不動ー古閑の両プロはセルフマネージメントスキルの点でも見事だったと思うのですが、弱冠21歳の上田桃子プロにも同様な品格を私は感じました。蓋し、「人材育成における師匠の役割」や「世界と戦える日本人に不可欠な資質」等々、畢竟、ゴルフプロパーを越えていろんなことを考えさせられもし学ばせてももらえた、そんな2007年のLPGAツアーチャンピオンシップだったと思います。

さて、来年、2008年。プロ野球とメジャーリーグベースボールに喩えれば、女子ゴルフの「野茂英雄世代」ともいうべき岡本綾子・小林浩美・(福嶋晃子)に続く世代。伝説の「沢村ースタルヒン世代」にも比すべき樋口久子・清元登子から「野茂英雄世代」を経て、いよいよ「イチロー世代」や「松坂世代」という、恒常的に世界で戦える女子プロ選手は出てくるのでしょうか。そして、彼女達の影響によって近い将来日本の女子プロゴルフトーナメント自体の水準が、例えば、アメリカのトーナメントツアーの水準と地続きになることがあるのでしょうか。

そうなることを私は願っていますが、欧米の選手と体格的にもそう遜色のない古閑美保プロや(体格的には少し劣るけれども、ショットの飛距離と正確さでは十分戦える)上田桃子プロという「坂田塾→東海大第二高校」卒の肥後のおてもやん勢に期待するところ私は大です。

そのような夢を抱きつつ、以下、古閑美保プロの「最強女王戦優勝」を報ずる記事を紹介します。出典は、Japan Times, "Koga takes advantage of Fudo's struggles to win Tour Championship," Nov. 26, 2007(古閑選手不動のミスに乗じてツアーチャンピオンシップを獲得)です。尚、Japan Times社の著作権を考慮して紹介は全体の約三分の二にとどめました。


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<テクスト>
Miho Koga took advantage of a late collapse by overnight leader Yuri Fudo to register a two-shot victory at the season-ending Japan LPGA Tour Championship on Sunday.
Koga teed off trailing Fudo by five strokes but the 25-year-old fired a flawless 67 and claimed her second title of the season after playing partner Fudo struggled to a 2-over 74 at Miyazaki Country Club.

Buoyed by a sizzling 66 on Saturday, Koga started to close the gap with three birdies in a row from the second hole while six-time money title winner Fudo faltered with bogeys either side of a birdie on the fourth.

"Because my playing partner was Fudo-san the five-stroke deficit at the start felt more like 10 strokes," said Koga, who claimed her seventh career title with a 13-under 275 total. "But I was able to improve my score in the first half of my round and that's when I thought maybe I would be able to go all the way."

Momoko Ueda, who became the youngest money title winner on the JLPGA tour after winning her fifth title of the year at last week's Daio Paper Elleair Ladies Open, carded a 72 and finished fifth on 285.・・・



<和訳>
古閑美保選手は、日曜日、前日まで首位に立っていた不動裕理選手がこの最終日に突如崩れたこともあり、2007年の最終戦、日本LPGAツアーチャンピオンシップを2打差で征した。

古閑選手は不動選手を5打差で追ってこの最終日のラウンドを始めたけれども、この25歳はノーボギー67のスコアを炸裂させた。而して、この日ペアを組んでラウンドした不動選手が2オーバーの74で苦しむ中、宮崎カントリークラブで今シーズンの2勝目を自分のものとした。

土曜日の魂のこもった66のスコアに勇気づけられたからであろうか、古閑選手は2番ホールから3連続バーディーを決め(不動選手との)差を縮め始める、他方、賞金女王に就くこと過去6回の不動選手は4番ホールでこそバーディをとったもののその前後のホールでボギーを喫し失速した。

「ペアを組んだのが不動さんということもあり、スタート時点の5打差は10打差くらいに感じていました」と、トータル13アンダーの275で自己7回目の優勝を飾った古閑選手はインタビューに答えてくれた。「しかし、前半のハーフでスコアを伸ばすことができて、その時、ひょっとしたら最後までこの調子で行けるかもしれないと思っちゃいました」とも。

先週の大王製紙エリエール女子オープンで今シーズン5回目の優勝を遂げ、それによって日本のLPGA最年少賞金女王のタイトルを決めている上田桃子選手は72にとどまりトータル285の5位に終わった。(後略)



(2007年11月26日:goo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロード)

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テーマ : ゴルフ
ジャンル : スポーツ

fukudabush



福田康夫首相が、ご自身、得意とされているらしい「外交」についての海外報道を紹介します。出典はWashington Post "Japanese Premier Visits White House to Reinforce Strained Ties," November 17, 2007(日米関係の是正に向けて米国大統領との会談に臨む日本の首相)です。

「外交の福田」と言えば、1978年に打出された先代の福田赳夫元首相の「福田ドクトリン」が思い出されます。「福田ドクトリン」は(当時の冷戦構造下の)米ソ対立の国際政治の構図は否定できないまでも、その構図の中で東南アジアとの「互恵互助関係の強化」を目指し、

・軍事大国とならず世界の平和と繁栄に貢献する。
・心と心の触れあう信頼関係を構築する。
・対等な立場で東南アジア諸国の平和と繁栄に寄与する。


を提唱したもの。「福田ドクトリン」は、その抽象的な提言内容にかかわらず、潜在的に反米感情が根強いマレーシア・フィリッピン・シンガポールを始め東南アジア諸国から歓迎された。而して、当初、対東南アジア関係に特化した(狭義の)「福田ドクトリン」は、同じ先代福田首相の「全方位外交推進」の宣言、ならびに、支那との「相互内政不干渉の原則」の提唱とあいまって、漸次、米国と相対的に距離を置きつつ、広くアジア諸国との連携強化を志向する(広義の)「福田ドクトリン」と解されるようになったと私は理解しています。

ただ、先代の福田首相は対支那関係について「お互いに内政に干渉しないことが一番大事であり、それが守られなければ、『日中平和友好条約』が名ばかりのもの(名存実亡)になってしまう」(1978年・第85回国会外交委員会)と明言されるなど、間違っても、朝日新聞のいうような「支那や韓国との間に紛争があること自体が日本外交の失敗」であるとか、国際法上も確立した国際政治の慣習からも毫も他国に批判容喙される筋合のない「日本の首相の靖国神社参拝が特定アジア関係を頓挫させた原因」であると考えるような「外交音痴」から「福田ドクトリン」を提唱されたわけでない。

而して、ベトナム戦争で疲弊した米国にとって、すなわち、レーガン政権登場前の沈滞した米国の社会と国力から見て、東南アジア地域・東太平洋地域で米国の同盟国たる日本が米国を補って地域の安定にプレゼンスを発揮することは(キッシンジャー、ブレジンスキー等々の「日本嫌いの人種差別主義者」を除けば)米国政府部内でも満更悪意ばかりで受け止められたわけではない。そう私は記憶しています。蓋し、「福田ドクトリン」は上級者の囲碁の布石を彷彿とさせる絶妙の外交政策だったとも。そういえば、先代の福田首相は囲碁のアマ名誉八段だったっけ。これ、他には阿含宗の桐山管長など歴代でも数名しかいない囲碁の達者ということなんですよね。

さて、当代の福田首相。福田若旦那は、偉大かつ練達の先代と同じく「外交的成功」を収めることができるのか。少なくとも、世界標準外の中華思想を振りかざす特定アジア諸国、就中、支那に対しても朝日新聞がその社説「福田外交 日中韓の共鳴を生かせ」(2007年11月21日)で述べているように、双方の指導者が「信頼関係を培うこと」そして「率直かつ建設的な交流を積み重」ねることができればアジア外交、ひいては、日米関係も含む日本外交が成功するという保証はどこにもないと思います。若旦那の「お得意な外交」のお手並み拝見というところでしょうか。

indiasea



Japan's new leader made a one-day visit to Washington yesterday to shore up strained relations with the United States amid tension over dealings with North Korea and support for operations in Afghanistan.

Prime Minister Yasuo Fukuda made a point of making this his first foreign stop since assuming office in September, spending a couple of hours with President Bush at the White House as the two hashed through issues that have soured both capitals in recent months.

Fukuda vowed to keep pressing his parliament to reverse itself and resume suspended refueling operations in the Indian Ocean for U.S.-led coalition ships participating in the effort to stabilize Afghanistan. For his part, Bush promised to remember the Japanese citizens abducted by North Korea as he moves forward with a multinational agreement intended to eliminate Pyongyang's nuclear weapons program.



昨日、日本の新しいリーダーが、まる一日、北朝鮮とアフガン戦争支援活動を巡りがたついた日米関係を強化すべくホワイトハウスを訪れた。

福田康夫首相は、米国大統領との会談を最初の外遊先にすると9月の首相就任時から断言していた通り、ホワイトハウスでブッシュ大統領と数時間の会談に臨んだ。そこで両首脳は、北朝鮮とアフガン戦争支援というこの数カ月日米両国政府を互いに頑にさせ両国関係を気まずくさせてしまった問題を徹底的に吟味検討した。

福田首相は、アフガニスタンの安定化に寄与しているインド洋上に展開する米国主導の多国籍艦隊への給油活動を再開すべく、日本の国会がその方針を撤回するように国会への働きかけを続けることを約束した。また、福田首相の側では、ブッシュ大統領から北朝鮮に拉致された日本市民のことを忘れることはないし、(その問題の解決のために)北朝鮮の核兵器開発計画を除去するための多国間協議の中で働きかけを行うつもりであるという言質を取りつけた。


"I'm going to tell the Japanese people once again: We will not forget this issue," Bush said alongside Fukuda in the main hall of the White House. "I understand, Mr. Prime Minister, how important the issue is to the Japanese people, and we will not forget the Japanese abductees, nor their families." But he did not commit to keeping North Korea on the U.S. list of state sponsors of terrorism, as Tokyo wants.

Fukuda likewise offered assurances without tangible action.・・・Unlike at most Bush meetings with major foreign leaders, the two did not take questions from reporters, a decision that the Japanese attributed to the White House.

A Japanese official, who spoke on the condition of anonymity, said Fukuda made the "flash visit," as he termed it, to establish a rapport with Bush. Although they have met in the past, Fukuda is the third Japanese leader Bush has had to deal with since last year. "The overarching goal of the visit is to forge a personal relationship with President Bush," the official said. A Bush aide said afterward that "the personal chemistry was good."



「日本国民の皆様にもう一度申しあげたい。われわれがこの問題を忘れることはないということをです」「首相閣下、私は、日本国民の皆様にとっていかにこの問題が重要なものであるかを理解しております。また、われわれが日本人拉致被害者とそのご家族のことを忘れることなどけしてありません」と、ホワイトハウスのメインホールで福田首相と並んだブッシュ大統領は述べたのである。けれども、大統領は、日本政府が求めていること、すなわち、北朝鮮をテロ支援国家のアメリカ政府のリストにとどめ置くかどうかについての明言は避けた。

福田首相も(ブッシュ大統領と)同様に形のある行動を明示することなく単に確約しただけに終わった。(中略)主要な外国首脳との会談の例とは異なり、両首脳は記者からの質問を受けつけなかった。この形態にしようという判断は日本では米国政府の意向であったと捉えられている。

匿名を条件にある日本政府高官は、福田首相はブッシュ大統領との良好な関係を構築するために、彼の名付ける所の今回の「電光石火訪問」を行ったと述べた。彼等は以前に会談したことこそないけれど、福田氏は昨年以来ブッシュ大統領が関係を結ばざるをえなかった三人目の日本の最高指導者であり、「大局的に見て最も重要なホワイトハウス訪問の目的はブッシュ大統領との個人的な関係を一気に深めることに尽きる」とその高官は漏らしてくれた。而して、ブッシュ大統領のある補佐官は、会談の終了後、「人間的な相性は悪くなかった」と述べた。



(2007年11月21日:Yahoo版にアップロード)

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テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済

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あの歓喜からもう1週間近くがすぎましたが、このニュースを取り上げたいと思います。Jリーグの浦和レッズが「クラブチームアジアNo.1」になった話題。特に、浦和レッズは1999年のJ2降格も体験してのこの度のAFCLチャンピオン獲得ですから、浦和サポーターには喜び一入のことだったと思います。「思えば遠くへ来たもんだ」、と。流石に、全体としてはサッカー不毛の地アメリカのメディアにはあまり取り上げられなかったようですが、欧州やアジアのプレスではかなり手厚く報じられたニュース。

出典は、これまたAP等の「国際ニュース配信機関」ではなく純日本のメディア、The Japan Timesの "Urawa triumphs in Champions League," Nov. 15, 2007(浦和、チャンピオンズリーグで優勝)です。尚、以下のテクストは Japan Timesの著作権を考慮して全テクストの約四分の三の紹介にとどめました。

本文テクストにも出てくる「皇帝」(Keiser)Beckenbauer 主将が西ドイツを率いて優勝した1974年のワールドカップ。そこいら辺りからサッカーに熱中し始めた私のような世代にとって、「ドイツ」はサッカー文明の総本山ともいうべき存在です。それは、1993年のJリーグ発足から2002年の日韓ワールドカップにかけてサッカー文明に染まったKABUよりも one generation くらい下の世代にとって、「ブラジル」や「イタリア」(あるいは、元々、サッカーの母国はイングランドなのですからそれが「正しい」と言えばそうなのですが、Beckham様に惹かれてか)「イングランド」がサッカーの総本山と感じられるのとあるいは同じかもしれません。だからこそ、代々、基本的にドイツ出身者やその薫陶を受けた監督を擁してきた浦和レッズは、地元の川崎フロンターレ、郷里のアビスパ福岡、サガン鳥栖と並んで私の贔屓チーム。

もっとも、南米出身選手が大挙して欧州各地のリーグに参加するようになったこと、各国の個人技のレヴェルが向上したこと(といっても、ブラジルと日本とではまだまだ「手先の器用さにおける人間と猿に近い差」があると思いますが・・・)、戦術が洗練され、かつ、チーム毎の戦術選択と採用の判断基準が合理化され透明化したことによってでしょうか、2006年のドイツ大会ではサッカーの諸文明間の違いはそう目立たなくなってきたようにも思います。そして、逆に、戦術と技術の差が希薄になった分、各国チームの文化の違いがより一層目立つようになったとも言える。それは、ピッチ上の瞬間瞬間の行動選択だけでなくチーム編成やチームメンバー間の人間関係に至るまで言えるのではないか。

「文明の伝播」と「文化の独自性の顕在化」。ならば、浦和レッズAFCLチャンピオン獲得は浦和だけの栄誉では必ずしもないかもしれない。それは、日本サッカーのレヴェルが確実に上がったことの証左でしょうし、弱小名古屋グランパスを支えたリネガーや、グランパスを一時期強豪にしたピクシー、ジュビロ磐田にプロ根性を再度叩き込んだ闘将ドゥンガ等々の優れた外国人選手や監督の貢献が日本サッカーに少しずつ浸透したことの証左でもあると思います。これこそ、文明の伝播とともに、外国人選手・監督と日本の選手・監督・フロント・サポーター間の異文化交流の(時には火花を散らした)せめぎ合いの結果なのではないか。話が飛躍するようですが、明治時代の「お雇い外国人」と明治の日本人との交流もそのようなものだったのでしょうか。これ興味深いテーマですよね。

機会があれば、この「サッカーの比較文明論」に関する欧州の論考などこのブログでも紹介したいと思います。 しかし、そんな小難しい理屈はどうでもよくて、ワールドカップで百花繚乱、咲き誇った名選手の勇姿に思いを馳せたいという向きには次のサイトが便利です。私もいつも参考にしています。

・World Cup's World
 http://members.jcom.home.ne.jp/wcup/

urawaafcl



<テクスト>
Urawa Reds coach Holger Osieck said his players had little time to savor last night's AFC Champions League victory over Sepahan as the Saitama giants look to wrap up their second successive J. League title on Sunday. The Reds became the first Japanese team to win the revamped ACL title after goals from Yuichiro Nagai and Yuki Abe gave them a 2-0 victory over Iran's Sepahan in the second leg of the final on Wednesday evening in front of nearly 60,000 fans at Saitama Stadium.

"There is not a lot of time to celebrate," German coach Osieck told reporters. Our schedule is very tight, our next game is on Sunday and teams want to give you a tough time if you are a winning team. "But today is a day to celebrate. It is something special, something special for Japan. Tomorrow we will focus on Sunday's game."

Urawa plays Shimizu S-Pulse at Saitama Stadium at the weekend, with Osieck's men five points ahead in the league with three games left to go. Victory against S-Pulse will be enough to give Urawa the league title if second-placed Gamba Osaka and third-placed Kashima Antlers fail to win their games.

The newly crowned Asian champions were rewarded with a winner's check for $500,000 after their 3-1 aggregate victory, but more important to them is a place in December's Club World Cup and a potential match against UEFA Champions League winner AC Milan.

"The Club World Cup is a great opportunity for us," said Osieck. "If we play in the semifinal against Milan it will be a highlight in the Reds' history."

Osieck, assistant coach to Franz Beckenbauer when Germany won the 1990 World Cup, took over from Guido Buchwald as Urawa coach before the start of this season after his compatriot and fellow World Cup winner led the Reds to the J. League and Emperor's Cup double.

Urawa president Mitsunori Fujiguchi had made winning the ACL title the priority at the beginning of the season and Osieck, who had a stint as club coach in the '90s, delivered at the first time of asking. "Fujiguchi-san was a very happy man. Sometimes in life, dreams come true," said Osieck.



<和訳>
浦和レッズのホルガー・オジェック監督は、彼のチームの選手達には昨夜のAFCチャンピンズリーグ優勝、つまり、対セパハン戦の勝利を味合う時間がほとんどないこと、なぜなら、レッズはJリーグタイトルのニ連覇の最中なのだからと語ってくれた。水曜日夕方、埼玉スタジアムに詰めかけた60,000人近くのファンの前で行われたチャンピオンズリーグ決勝第2戦、永井雄一郎と阿部勇樹があげた2ゴールによりレッズはイランのセパハンに2-0で勝利し、その結果、レッズは制度が見直されて以降のAFCチャンピンズリーグを征した最初の日本チームとなった。

「お祝いしている時間はあまりないのだが」と記者会見でドイツ人のホルガー・オジェック監督は述べた。われわれのチームのスケジュールは極めてタイトなものであり、次のゲームは日曜日に組まれている。しかし、われわれレッズが勝ち続けるチームであるためには、それこそとてもタフな一時期を選手には我慢してもらうしかないだろう。「しかし、今日はお祝いすべき一日だ。今日は特別な日、日本にとって特別な日だよ。明日からは日曜日のゲームに向けて集中することにしよう」とオジェック監督は記者団に語ってくれた。

週末、浦和は清水エスパルスと埼玉スタジアムで試合をすることになっており、オジェック率いるレッズの戦士達は3試合を残している現時点で勝ち点5の差でリーグ戦の首位にある。もし、二位のガンバ大阪と三位の鹿島アントラースがともに破れることになれば、対エスパルス戦の勝利でリーグ優勝が決まることになる。

(第1試合と第2試合の通算得点)3-1で勝利した、このアジアの新王者には50万ドルの優勝賞金が与えられたのだけれど、彼等にとってより重要なことは12月に行われるクラブワールドカップの出場権であり、そこでレッズが勝ち上がれば実現するUEFAチャンピオンのACミランとの一戦である。

「われわれにとってクラブワールドカップはとてつもないチャンス。もし、準決勝でミランと戦うことになるようなら、それはレッズの歴史の金字塔になりますよ」とオジェックはその胸の内を語ってくれた。

オジェック監督は、1990年にフランツ・ベッケンバウアー監督率いるドイツがワールドカップを征したときの助監督であるが、オジェック監督の同胞にして共にワールドカップを制覇した僚友のギド・ブッフバルト氏がレッズをJリーグ優勝と天皇杯の連覇に導いた後を受けて、今シーズンの開幕前にそのブッフバルト氏から浦和の監督を引き継いだ。

浦和社長の藤口光紀氏は今シーズンの開幕時にACLのタイトルを獲得することを重視する旨明言していたけれど、90年代にも浦和レッズの監督をしていた経験のあるオジェック監督は、社長からの要求に初回で見事に応えたわけである。

「藤口さんは大変幸福でラッキーな方ですよ。人生では時には、夢が実現することもあるということですかね」、これが(ACLで優勝することという藤口社長の要求に見事に応えた)オジェック監督の言葉である。




(2007年11月20日:goo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロード
 語彙・語法解説を含む完全版をgoo版にはアップしています)


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テーマ : 地方再生
ジャンル : 政治・経済

cdenglish2

「自慢じゃないが英語なんて高校卒業以来やったことなかったのだけれど、冗談抜きにあと3ヶ月で英語をなんとか話せるようにならないといけない」「TOEICのスコアは845点と同僚に比べて低い方ではないのだが、会話は全然できないんすよ」
という方に是非とも推薦したい一書があります。特に、事情があって英会話スクールに通えない独学をメインにせざるを得ない方には最高の教材でしょう。【例えば、今年、賞金女王になって、来シーズンからはアメリカのLPGAトーナメントツアーにも参戦する方や、その追っかけファンの方々には、最適かも(笑)】

それは、『CD・英語を話そう 日常英会話編』『CD・英語を話そう オフィス英会話編』『CD・英語を話そう トラベル英会話編』:いずれも東進ブックスから出ている3冊本の英会話教材。出版社に問い合わせた所、『トラベル英会話編』は絶版状態で『日常英会話編』『オフィス英会話編』も在庫わずかということですが、【2007年11月19日現在、三冊とも絶版とのことです。残念! ただ、】ユーズド本はまだ比較的容易に入手できると思います。本書を<懐かしい英語教材>のコーナーで紹介する所以です。

東進ブックスは大手予備校の東進ハイスクール・東進衛星予備校を経営している株式会社ナガセの出版部門でもありもともと語学を含め学習教材制作には定評があります。しかし、特にこの『CD・英語を話そう』は出色のできばえだと思います。理由は次の4点。

(1)音声教材のボリュームが凄い
(2)異文化のバリアーを打ち破る配慮が行き届いている
(3)厳選された短文のみを収録
(4)記憶の定着のための復習を繰り返す内容


本書の長所を説明する前に書いておきますが、本書は古いです。3冊とも1998年9月から10月の出版。英米の英会話教材には(もちろん、改訂を繰り返しながらではありますけれども、例えば、Side by Side『New American Stream Line』のように)初版出版から30年とか半世紀の歴史を持っているものも少なくない。これに対して、日本の英会話教材は「PCと同じで生鮮食料品」とまでは言いませんが、乗用車の新型導入と同じで、やはり7年前のものというと陳腐な印象を消費者にもたれてしまう。

実際、国際線の飛行機の中で使う表現の例として”Do you mind if I smoke?”(タバコをすってもかまいませんか)とか、交通機関を利用する場合の表現として”How do I get to the World Trade Center?”(世界貿易センターにはどのように行ったらいいでしょう)と書いてあるのを見たら(いずれも『トラベル英会話編』から)、誰でも購入をためらうのではないでしょうか。<9・11>からでももう何年経っていると思っているんだよ、と。しかし、教材の古さと教材内容の陳腐さは必ずしも対応しない。ある意味、日本で英語教育を重視する中学・高校で使われている英語教材、『Progress in English』とともに本書はこのことの実例だと私は思っています。


本書の長所。『CD・英語を話そう』シリーズには3冊で計6枚のCD(約6時間の音声を収録)がついています。これは、1冊1,260円、3冊でも3,780円の英会話教材としては非常に大きなボリュームでしょう。しかも、ナレーションは、幾多のTOEIC模擬問題集やNHK出版から出ている英会話教材のナレーションの常連でもあり、その道では日本でも最も有名な「吹き込み手」の一人であるダン・コフリン氏やヴァレリー・ケイン氏があたっておられる。制作コストは大丈夫だったのかね、と他人事ながら心配してしまいました。

蓋し、この収録音声の質と量に、本書が英会話の雰囲気というか「自分が英会話を勉強している気分を読者に味わってもらう」ための<入門書>ではなく、あくまでも「何がなんでも読者に英語を話せるようになってもらう」ための<学習参考書>であることが端的に現われていると思います。「可愛い顔してあのこ わりとやるもんだねと♪」という歌を昔、アミンという当時女子大生のデュオが唄っていましたが、『CD・英語を話そう』は「入門書の体裁してこの本 かなりやばいんじゃないすか」です。


本書の第2の長所は異文化のバリアーを打ち破る配慮が行き届いていることですが、この説明は最後に回して技術的なポイントについて先にコメントします。すなわち、「厳選された短文のみで構成されていること」と「記憶の定着のために復習を繰り返す内容構成」の2点です。

『CD・英語を話そう』の各課は、①二人の登場人物の間で3回から4回交換される会話、②その会話に関連する表現の紹介、③最初の会話を少し変えた会話の三部構成になっています。そして、関連する課が4個から10個集まって章になり、④章末には確認テストが置かれている。お分かりでしょうか、②→③→④はすべて①の復習になっている! 

また、『CD・英語を話そう』に収められている英文はすべて8語前後、最長でも15語くらいまでの短文ですから、英語に自信のない方にも敷居の高さを感じさせません。要は、英語力の比較的低い読者でも続けられる。しかも、課を構成する6~8の英文(∵ 各課では二人の登場人物の間で3回から4回応答が交換される)は一貫したストリーがあり、内容がはっきりしているので個々の例文を読んでいく作業は無味乾燥ではありません。

『CD・英語を話そう』は学習参考書である。それは、各課で平均7個の表現を学び一冊では約210個の表現を学び、そして、『CD・英語を話そう』シリーズ3冊では各課の最初の会話例の箇所だけでも優に600個の英文を覚える仕組みになっています。而して、重層的な復習の構造を組み込むことで、かなりの程度、本書は読者が600の英文を覚え記憶に定着することを可能にしている。これらが本書の第3と第4の長所です。

実際、英会話スクールに通われた経験をお持ちの方や英会話スクールで勤めておられる方ならお分かりでしょうが、600の英文を覚え記憶に定着する作業は最少でも英会話スクールの150レッスン分に匹敵する学習内容の量だと思います。しかし、この記述にはある種の詭弁が含まれてる。お気づきですか? 

それは、もし書籍に含まれている情報量と英会話スクールを比較するのなら、例えば、「1冊3,360円の研究社『英和中辞典』は数万時間の英会話レッスンに匹敵する」と言えるでしょう。しかし、英会話スクールの悪口で盛り上がるネット掲示板でもBLOGを見てもそんなことを言う人はまずいない。つまり、あくまでも『CD・英語を話そう』の素晴らしさは、学習者が(読者とは最早いいません!)記憶を定着する上での工夫と学習を継続していく心の体勢を維持する工夫にあるのだ、と私は考えています。そして、重層的な復習の仕組みと1個1個は簡単な短文による<課→章→編→シリーズ>の有機的な編成がその工夫の一つであると。

cdenglish1


この「学習を継続していく心の体勢を維持する工夫」の一つが本書の第2の長所、異文化のバリアーを打ち破る配慮だと思います。私は本書『CD・英語を話そう』シリーズを幾つかの顧客企業で初級英会話研修用の教材として使ったことがありますが、研修後に受講生の皆さんから寄せられる声やアンケートを見る限り、本書に結晶している「異文化のバリアーを打ち破る配慮」は満更私の贔屓目ではないと断言できます。

街の書店に行けば異文化紹介の書籍は平積みになっていて、Web書店で「アメリカ 生活」や「イギリス 社会」をキーワードにして検索をかければ各々1,000件近い書籍がでてくる現在の日本で(実際、外国のことより自国のことをもっと知ろうよ、と思わないではないです!)、たかだか初級英会話の学習参考書に対して「異文化のバリアーを打ち破る配慮」などの言葉は大仰ではないですか? そんな声が聞こえてきそうですが、私が言いたいことはそんな大仰なこと、あるいは、そんな抽象的なことではないのです。

簡単な話しです。例えば、”My name is KABU. Please call me KABU. Nice to meet you.”とかいう英語を知らない/辞書を引いても理解できない英会話学習者は少ないと思います。けれども、海外経験が皆無で異文化経験も乏しい英会話学習者にとって問題なのは、訪問先の企業に行ったときに”My name is Miyuki Nakajima.”とかの英語表現をそのTPOで使っていいのかどうか;「そのビジネスのコンテクストでは他にふさわしい表現があるのじゃないか」という不安なのです。

そして、この不安はどれくらい断片的に英語表現を学んでも解消してくれない。お洒落でスマートな会話表現をどれほどインプレッシブに紹介する英会話参考書を読んでもやはりこの不安は解消しない。つまり、その英文の文法的や語法的な正しさを判定するための知識をどれほど積み上げてもその不安は一つも解消しないのです。蓋し、その不安の解消には、「コンテクストにふさわしい表現かどうかを判定する知識」が必要なのではないでしょうか。それは間違いなく「異文化のバリアーを打ち破る知識」の一つだと私は考えます。逆に言えば、これを身につけるために英会話スクールの存在意義はあると言ってもよいのかもしれません。

会話のコンテクストにふさわしいナチュラルな例文を積み上げて<課→章→編→シリーズ>を編成することで、本書は見事にこの初級英会話学習者の不安をかなりの程度解消している。これが本書には「異文化のバリアーを打ち破る配慮がなされている」と私が考える理由です。

最後に補足。英語のネーティブスピーカーの講師の方は、解説が日本語で書かれた本書のような教材を使うのを嫌う傾向があります。そりゃー、自分が間違った説明をした場合に言い逃れできないですからね。私の企画書とカリキュラムに沿ってレッスンを担当していただいた外国人講師の方にとって本書は嫌な本だったと思います。

しかし、本書をテキストにした企業研修をお願いした、私の昔の同僚講師達も本書の効果についてはレッスンが進むにつれ一目置くようになられた。英語を英語で教えるというダイレクトメソッドが不可能なような条件下では:つまり、受講者のレヴェルが低い上に予習・復習の時間を確保することが業務的に困難:レッスン時間が十分に確保できない:かつ、限られた期限までに成果を出さないと困るという条件下では、英語のネーティブスピーカーの講師と本書の組み合わせも悪くはないと思います。而して、研修の需要側だけでなく研修の供給側に対しても、もし古書店等で本書を目にされる機会があれば購入をお薦めいたします。



(2006年2月4日:goo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロード)

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テーマ : 英語・英会話学習
ジャンル : 学校・教育

momokohime1


昨日、2007年11月18日、香川県で行われていた大王製紙エリエールレディスオープン(香川エリエールゴルフ倶楽部=6,355ヤード、パー72)で、われらがおてもやん桃子姫が今期5勝目となる優勝。賞金1,620万円をゲットすると同時に、なんと今年の賞金女王も確定させました。凄いぞ。

何が「凄いのか」ですって? あのー、プロ3年目、21歳、史上最年少での賞金女王なんですけど。最終戦のメジャー戦、LPGAツアーチャンピオンシップ(最強女王決定戦:宮崎カントリークラブ, 11月22日~25日, 優勝賞金2,500万円)を残してのブッチギリの賞金女王確定なんですけど。そして、大王製紙エリエールレディスのトーナメント前に「今週で(賞金女王を)決めるけん」と熊本弁で優勝宣言をした上での<有言実行>なんですけど。 

それにしてもパーパットを決めた最終18番グリーンでの小さいけれど鋭いガッツポーズがとても印象的でした。実は、KABUは同じ九州出身者、かつ、高校卒業と同時に関西に単身修業に出たという彼女の経歴にも自分と重なるものを感じてか、デビューされた当時からの上田ファンですが、例の「女子ゴルフ会のエリカ様-バッシング」以来、職場でも行きつけの飲み屋さんでも「桃子ファン」であることをカミングアウトしてしましいました。だから(?)、こちらとしても(笑)、昨日の「賞金女王」確定は大変嬉しいです♪

★桃子姫バッシング:
この「事件」に関する私の基本的考えについては下記拙稿を参照ください。

上田桃子プロは女子ゴルフ界のエリカ様? 頑張れ桃子姫! 
 

あと、今年度も残るは1週。1トーナメント。プロ将棋から派生した「勝負鉄則」に<米長理論>というのがあります。「自分にとっては勝っても負けてもあまり影響のない試合にこそいつにもまして全力を出し切らないと、勝負士の成長はそこで止まり、それ以後「運」も見方につけられなくなる」というやつ。将棋に限らず、ビジネスでも学問でもこれはいえること。まして、来週残すはメジャー大会・最強女王決定戦、賞金女王獲得者が勝てば確か数年間(3年? 5年間?)のシード権ももらえる大会。

確かに、本人もインタヴューで答えておられたように「追われる立場で苦しかった」だろう賞金女王レース。それに結着がついて、少しモティベーションも下がるかもしれない。人間ならそれが普通。けれど、ここは<米長理論>などという小難しいことは置いておいても、是非、全力で、かつ、冷静に勝ちにいって欲しいと思います。そして、実際、勝敗は別にしてそんな上田プロの姿を見られることを確信しています。頑張れ桃子姫!

ということで、大王製紙エリエールレディスでの桃子姫の活躍を報じた記事を紹介します。出典は、珍しく共同通信→Japan Times の"Ueda's fifth victory clinches money title,"Nov. 19, 2007(上田5回目の優勝で賞金女王レースに結着をつける)です。


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<テクスト>
●Ueda's fifth victory clinches money title
Momoko Ueda became the youngest money title winner on the Japan LPGA tour Sunday, completing a wire-to-wire victory at the Daio Paper Elleair Ladies Open after a final-round 72.

Ueda posted three birdies and as many bogeys on a day when most players struggled to cope with high winds en route to a winning total of 7-under-par 209 at Elleair Golf Club in Kagawa Prefecture, three strokes clear of four players.

It was the fifth title of the year for Ueda, who won the winner's check of 16.2 million to clinch this year's money title with 159.61 million in official earnings with one tournament left in the season.

In her third full year as a pro, Ueda became the money champion at 21 years old. Previously, Akiko Fukushima had been the youngest top money earner since the current tour system was introduced to Japanese women's golf with her title in 1996 at 23 years old.

"I got nervous each and every week recently and I finally got out of such a pressure situation," Ueda said. "Sakura (Yokomine) shot low yesterday and that was a major threat. But I was able to battle it out today despite a number of poor shots and putts."

Ueda began the day in front of two players by one shot and Yokomine, second in the money list, by two.

While any of her nearest pursuers failed to mount a charge in difficult conditions, Ueda got off to a strong start with a two-putt birdie on the opening par-5 but failed to maintain her momentum with back-to-back bogeys from the second.


<和訳>
●上田5回目の優勝で賞金女王レースに結着をつける
上田桃子選手は日曜日、日本のLPGA(女子プロゴルフ協会)トーナメントツアー史上最年少の賞金女王になった。大王製紙エリエールレディスオープンで最終ラウンドを72で廻り、初日から首位を渡すことなく勝利を飾った結果である。

最終日、ほとんどの選手が強風への対処に苦しむ中、上田選手も一日で3バーディー3ボギーを記録したものの、結局、トータル7アンダーの209で勝利した。香川県エリエールゴルフ倶楽部で、4人の選手に3打差をつけての勝利である。

大王製紙エリエールレディスの勝利は上田選手にとって自身今年5回目となる勝利。而して、この勝利で彼女は1,620万円の賞金を獲得し獲得賞金総額も1億5,961万円に伸ばすことで、今シーズンあと1試合を残した時点で今年度の賞金女王レースに結着をつけた。

プロとしてフル出場し始めて3年目、上田選手は21歳にして賞金女王になったわけである。上田選手以前の記録は、現在のトーナメントツアー制度が日本の女子プロゴルフ界に導入されて以降、23歳の福嶋晃子選手が1996年に最年少賞金女王を獲得したものだった。

「ここ数週間はずーっと、神経質になっていました。やっと、そんなプレッシャーのかかる状況から解放されました」「昨日、さくらさんが凄いスコアを出しましたよね。あれは大変な脅威に感じました。しかし、しょぼいショットやパットも少なくなかったけれど、今日はそんなことに動揺することなく戦い抜くことができました【その通りだ、凄いぞ桃子姫!】」と上田選手は語ってくれた。

上田選手は2人の2位の選手に一打差をつけて今日最終日に臨み、賞金獲得ランキング2位につける横峯選手とは今日のスタート時点では2打差だった。

直下で上田選手を追撃していた選手が難しいコースコンディションの中で上田追撃の試みを失敗していく中、上田選手はパー5の第1ホールで2パットのバーディーで発進したもののその勢いを持続させることができず、第2ホールから連続でボギーを叩いてしまったのである。




(2007年11月19日:goo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロード)

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テーマ : ゴルフ
ジャンル : スポーツ

miyukisan


一昨日、平成18年6月22日の朝日新聞の投書欄『声』(東京本社版)に共感せざるあたわざる投書が掲載されていた。茨城県の35歳のアルバイトの方のもの。匿名の投書である。その要旨を紹介する上でどの一句も削れないと思ったので全文引用させていただく。以下引用開始。

●精神障害者も社会に入れて

私は6年前にそううつ病と診断され、去年、精神障害者3級に認定されました。フリーター生活ですが、郵便局で延べ8年間勤めたこともあります。

しかし、今年働きだしたスーパーで、精神障害者だと分かると解雇になったのです。

いまだに、精神病は呪われた豪病だという偏見を持っている人がいます。実際、余計な誤解を受けないよう、精神障害者だということを職場にも友人にも告げない人が多いと思います。やはり私も、友人の半分には話せないでいます。

精神障害者といっても、私は病気を患っているだけです。薬を飲み生活に気をつければ、症状のコントロールも可能です。精神病が他の病気と変わらないということを、皆さんに知ってもらいたいのです。

その後、新しい仕事を見つけましたが、病気のことは隠しました。不採用になるのが嫌だったからです。

正しく理解してもらえるのなら、私は自分のことを隠さず正直に話したい。ありのままの私を社会に受け入れて欲しいのです。この投稿を匿名でするしかないのが、何より悲しいです。



私はこの投書を読んだときに、「「精神障害者も社会に入れて」ですと? 考え違いもはなはだしい!」と感じた。なぜか、それは、「精神障害者などは社会の足手まといにならないよう社会の周辺で逼塞されるがよろしかろう」ということではもちろんない(正直、本当にそう思っていたとしても、こんな主張を今時BLOGに書く勇気というか無神経さというかをお持ちの方はむしろ稀有の存在だろう)。私の不満は、投書の揚げ足取りに近いけれど次のような考えに起因する。すなわち、

精神障害者は病気ではないです。というか、
大なり小なりすべて人間は<なんらかの病>を患っているのではないですか。
ならば、精神障害者も当然社会の普通のメンバーですよ。
社会には、しかし、精神障害者への差別が色濃く残っていることは事実です。
それは承知していますが、精神障害者は社会の普通のメンバーですよ。
それをそう考えない社会の方が狂っている。
私もそう大したことはできませんが一緒に歩いていきましょう、と。


この考えは私自身の経験に起因している。それは、①私の極近しい人が今でいう統合失調症(Schizophrenia:まあ、2002年の病名変更までの用語で言えば「精神分裂病」)でありその介護経験があることと、および、②学部-大学院-駆け出しの社会人時代を通じて、足掛け10年、触法精神障害者の裁判支援→出所後の生活支援のボランティア活動に従事した経験の両者である。

これらの経験を通して痛感したことは、「世の中に普通の人間なんぞおらへん」「大なり小なり皆<狂っとる>んちゃうか」ということである。あるいは「精神障害者と呼ばれる人々の感じている世界はおそらくそうでない人がイメージする世界より柔和で優しい」「こんな世の中で、おかしくならない方が逆に変な人間なのかもしれない」ということだ。

実際、一般的には精神障害者と健常者の犯罪率では後者の方が遥かに高いことは刑事政策の常識である。つまり、あくまでも健常者に比べた場合ではあるけれど、精神障害者の過半は「他者を攻撃する暴力性や他者を欺く狡猾さ」をあまり持ち合わせていない(それらを行使することを躊躇する)人々なのである。

よって、冗談抜きに、「犯罪を犯す人が異常な=狂った人」とすれば精神障害者こそ普通の人であり、世間で普通と言われている人々が異常な人々であるとも言える。もっとも、かって「中国・ロシア・北朝鮮には犯罪がない」という今から思えば筋悪のジョークとしか思えない主張が進歩的と言われる人々によって語られていたけれど、私は一方で「犯罪も起きないような社会は極めて異常で歪な社会」だとも思っている。

尚、大急ぎで補足しておかなければならないと思うけれど、精神障害者の中には健常者に比べても際立って高い累犯性を示す一群のグループも存在している。このこともまた刑事政策的経験が教える所である。多少の誤解や偏見を恐れずに言えば、性犯罪の累犯者や傷害事件の累犯者の中にはこのグループにカテゴライズされる者が少なくはない。

ならば、累犯性のある触法精神障害者を「精神障害者≒弱者」として特別扱いすべきではない。彼等を対等な人格と看做し彼等と同じ目線で対峙すべきであり、他方、彼等が現実に示す社会的危険性を鑑みて、これら「犯罪を病気のように繰り返す」タイプの触法精神障害者はこの娑婆(=社会)から厳しく隔離&管理すべきなのである。逆に、彼等を弱者として特別扱いすることは彼等の社会的危険性を放置黙認する点で、組織暴力団や日教組等の反日-反社会的集団の活動を放置黙認することと等しい愚である。更に、それはヒューマニズムの装いを凝らしつつも触法精神障害者を対等な人間とは見ない傲岸不遜な態度と言うべきであろう。

精神障害者から刑罰や保安処分を受ける地位を奪い去るそのような態度は、カント『実践理性批判』『道徳形而上学言論』の言葉を借りれば、精神障害者の「人格を目的としてではなく手段としてのみ見る」人間性に対する冒涜であろう。それは人類愛に満ちた微笑の仮面に隠された人間の尊厳に対する侮蔑である。朝日新聞や岩波書店に代表される、大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の民主主義観や人間観などはそのようなものかもしれない。尚、触法精神障害者を巡る犯罪と刑罰に関する私の基本的な考えについては下記拙稿を参照いただければ嬉しい。

犯罪と刑罰を歪める戦後民主主義の磁場と心性
 
応報刑思想と触法精神障害者

山口県光市の母子殺人事件に死刑判決を
 

上で述べた実体験の中で、この社会が精神障害者に加えている酷薄かつ過酷な差別の実態はもちろん、多くの精神障害者が他の精神障害者を差別する悲しい場面にも少なからず遭遇した。また、なんといっても多くの精神障害者自身が自分自身を社会から<自己疎外>する健気なほどの優しさには正直胸を打たれた。だから私は匿名の投書子が「精神障害者も社会に入れて」と書き記されたことは十分理解できるし、不遜ながらその感情を共有できていると思う。けれども、「精神障害はふつうの病気にすぎない」「精神障害者も社会に入れて」という主張は間違いだと私は考える。

精神障害者とラベリングされる者もそうでない者も同じ人間である。これは、権利・義務の主体として同じ価値を持つなどという抽象的な話しにとどまるのではない。両者はその実存的なあり方において同一である。私はそう信じている。蓋し、「普通の人間なんかいない」のであり、存在するのは目も眩まんばかりの多様な個性を抱えながらも、ウィトゲンシュタインの言う意味での<家族的類似性>を分有するこの皇孫統べる豊葦原之瑞穂國の社会の対等な仲間としての人間だけである。畢竟、精神病もそのような数多ある多様な個性の一つにすぎない。私はそう確信している。

よって、私はこの匿名の投書子にこう言いたい。それは、私の中では天照大神と同一の神格である中島みゆきさんの言葉である。そして、匿名でなく投書できる社会を一緒につくっていきましょう。

元気ですか。どうしていますか。
きょうはひとりぼっちでいませんか。

いいことって、小さないいことって、
毎日ほんとうにいくつもいくつもいっぱいあるんだね。
けれど、とてつもなく大きな悲しいことも、
やっぱりどうしようもなくあるんだね。

明日なんてわからないし、
どんなに今日はいい日でも一秒後には炎の中かもしれないし、
まるでまっ白な霧の中、いつだって、
いまにも断崖に向かって踏み出しているかもしれないんだね。

けど、まっすぐに空を見て足を踏み出せたらって、
なかなかできそうもないけどさ、だから、なおさら、そうしたいと思うんだ。

たとえばあんたもひとりぼっちなら、
あたしはきっとそうやってあんたに手を出すよ。
きっと、そうやって 本気で あんたに手を出す。
わかるかい。

親愛なる者へ、 中島みゆき




(2006年6月24日:Yahoo版にアップロード)

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テーマ : 思うのは私だけ?
ジャンル : 政治・経済

nikyoso3


平成19年2月23日の朝日新聞「「教員の質」落ちてるの」(オピニオン欄)に気になる主張が掲載されていた。佐久間亜紀・上越教育大学助教授のインタヴュー記事「感情ではなくデータで語ろう」だ。この佐久間談話は、故意とすれば狡猾な日教組・全教の擁護にして現下の教育改革批判、過失とすれば「新潟がいくら酒所とはいえ、飲みながらインタヴューに答えたのですか」という粗雑なもの。そう私には思われた。

ポイントは、(i)「教員の質」という概念の性質、(ii)教育に対する日本の財政支出の低さを巡る誤謬、(iii)データに基づく議論を推奨しながら(全国学力テスト等の合理的指標に基づく)教員免許更新制度に反対する矛盾、(iv)教育を放棄し政治運動にかまけ学校現場で屯する日教組・全教の教師をもいまだに公教育改革の主体として想定する硬直した思考の4点。少し長くなるが、以下、資料として佐久間談話を引用しておく。今後の教育改革の推進において彼女の主張が抵抗勢力の一つのスタンダードになる予感がしたからである。

教員の質をどう数値化するか。各国の研究者が頭を悩ませているが、確立した手法はない。質という言葉には、教える力や生徒指導の力、教員自身の知的水準など幅広い概念が含まれるし、使う人の立場でいかようにも都合よく解釈できるからだ。それにもかかわらず、政府は「質の低下」を前提に、教育改革を進めようとしている。かってと比べ、「質」が下がったか上がったかを示す実証的なデータはないのに、一方的な決めつけで議論を進めるのは、あまりにも乱暴だ。

経済協力開発機構(OECD)の調査によれば、日本の教育予算は国内総生産の(GDP)比3.5%で、米国の5.4%や加盟国平均の5.2%を大きく下回っている。児童生徒1人あたりの教員数も、平均より少ない。だが、同じOECDによる「生徒の学習到達度調査」(PISA)では、日本は読解力をのぞいて1位グループだ。学力については、他国より劣った環境下で、一定の成果を上げてきたといえる。生徒指導の面でも、日本は部活動や生活指導など授業以外の活動に、OECD加盟国の平均より多くの時間を割いている。(中略)

私はすべての教員が満足のいく質を備えていると主張するつもりはない。調査のあり方やデータの解釈は、大いに議論されるべきだ。ただ、データに基づかずに感情論で改革を進めても、質の向上にはつながらない。特に、教員免許更新制は、教員の人材確保さえ難しくするだろう。

わが国には、フルタイムだけでも110万人の現職教員が存在している。(中略)多くの国が教員不足で悩む中で、これまでは志望者数が上回るという世界的にも珍しい状況が続いてきた。これほど巨大な専門家集団が維持できてきたのは、仕事のやりがいや自律性、社会的地位の高さ、公務員としての安定感、人材確保法による一般公務員より高い給与など、多くの魅力が若者を引きつけてきたからにほかならない。

保護者から尊敬されなくなり、管理が強化され、給与の削減が打ち出される中で、資格まで有効期限つきになれば、優秀な若者ほど、ほかの職業を志向するのが自然ではないか。しかも、教員の養成には時間がかかるので、一度、志望者が減ると容易には人材を確保できない。(中略)

それよりも、欧米でも高く評価されている、既存の「校内研修」制度を活用すべきだ。医学の症例研究や法学の判例研究のように、教育現場では実際にあった事例をもとに、教員が集まって問題点や対応方針を検討する「授業研究」が盛んに行われ、判断力や指導力を高め合ってきた。近年、忙しさから十分な準備の時間が取れず、校内研修も形骸化する学校も目立っている。(中略)せめて、予算配分や教員配置をほかの先進国並みに高め、学校現場が「高め合い」の時間を確保できるようにすべきだ。(以上、引用終了)


sakuma

http://homepage3.nifty.com/sakumalabo/html/shiten.htm


◆「教員の質」を巡る不毛な神学論争
佐久間氏の言われる通り「教員の質」という概念は「使う人の立場でいかようにも都合よく解釈できる」ものだろう。しかし、それは独り「教員の質」だけでなくあらゆる言葉について言えることだ。畢竟、言葉の意味などはそれが使われる言語社会の慣習的や人為的な規範によって緩やかに枠づけられ、他方、大部分の場合にはそれが使われるコンテクストの中に置かれて始めて確定するものだから。

而して、「私は「ニャー」となく動物を「犬」と呼ぶ」と宣言することは勝手だが、彼なり彼女が社会生活におけるコミュニケーションを恙無く行いたいのならば、彼や彼女は「私も「ニャー」となく動物を「猫」と呼ぶ」という道を取ることになる。畢竟、このような言語の規範が画然と存在するゆえに『広辞苑』は毎年コンスタントに売れるのである。

ならば、「教員の質」の4文字を三日三晩睨んだとしても辞書的定義を超える意味を得ることはできず、その意味を知りたければ、「教員の質」という概念によってどのような内容を指示させるべきか、指示させたいのかの、つまり、言語使用の目的を確定するほかないのである。こう考えれば、「教員の質」を世界中の教育学者がどう定義していて、それをどのような方法で測定しているかなどとは一応無関係に、現下の教育改革における「教員の質」の意味の確定はそう難しいものではない。

蓋し、それは、例えば、(甲)教育されるべき子供達を、より国際競争力の高い労働力商品にするために役に立つ教員の能力・スキル・経験、および、(乙)子供達にこの皇孫統べる豊葦原之瑞穂國の一員としてのアィデンティティーとプライドを涵養させ(日本人ではない定住外国人の子供達にはそのようなアィデンティティーとプライドを持つ日本国民の中の少数者たる日本市民としてのアィデンティティーとプライドを涵養させ)、この社会の秩序を維持する規範意識を注入することに役に立つ教員の能力・スキル・経験を中核にする、と。

而して、上記(甲)(乙)を中心に据え、他の要因も「教員の質」に加えるべきであれば漸次加えていけばよい。重要な点は、「教員の質」を構成する諸要因とそれらの間の構造連関が確定できない限り、教員の質の改善を目的とした教育改革は「データに基づかない感情論」として無意味というわけではないことだ。


◆教育予算と公教育のパフォーマンス
佐久間氏は、日本は「学力については、他国より劣った環境下で、一定の成果を上げてきた」「生徒指導の面でも、日本は部活動や生活指導など授業以外の活動に、OECD加盟国の平均より多くの時間を割いている」と述べられる。しかし、これは完全な誤謬である。

要は、教育について伝統的に公教育がその大部分を担ってきた社会とそうでない社会を比較しても無意味ということ。また、授業以外の課外活動に関して、欧州のごとく地域のクラブがそれを専ら担う社会と、今でも「学校体育」の伝統が濃厚な日本を比較することの意味はそう大きくないということだ。尚、この点に関しては下記拙稿をご参照いただきたい。

OECD諸国中最低水準の教育に対する日本の公財政支出は問題か
 

nikyouso2


◆「Not感情, butデータ」は望むところだ!
大体、「感情ではなくデータに基づく議論を」と言われて、それに反対する論者がいるだろうか。ならば、この命題は、その字義通りの意味(明示的意味:ディノテーション)では問題はない。しかし、その隠された意味(暗示的意味:コノテーション)には私は賛成できかねる。

簡単な話しだ。日本でデータに基づいて「教師の質」を議論することを難しくしてきたものは誰かということ。全国一斉の学力全数調査なり、「教育委員会→校長→他の管理職→教員」というヒエラルヒ-の中での成果データの蓄積を拒んできたものは、日教組・全教等の勢力と、それらを擁護してきた、大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する朝日新聞等の勢力ではなかったのか。ならば、データの不在を理由に教育改革に抵抗するなどは「盗人猛々しい」というものだ。

畢竟、感情は<感情>であるが、多くの保護者と国民が、また、公教育を通過してきた若者を引き受ける多くの塾・予備校や大学の関係者、企業や官公庁の現場では「若い世代の学力と規範意識の低下」を感じていること、よって、その教育に当たっている「教員の質」に対して不信感を抱いているということは<事実>なのである。例えば、2005年10月に内閣府が発表した「学校制度に関する保護者アンケート」では、約7割の保護者が子供の学力向上のためには「塾・予備校の方が優れている」と回答しているのだから。

而して、国家権力の行政サーヴィスが国民のニーズに応えるべきものであることを鑑みるならば、「教員の質」に対するこれらの国民の不信という<データ>に基づき、早急に、子供達の学力や規範意識を全国の公立学校で全数調査して<データ>を集め、それに基づいて駄目教師を特定し、学校現場から退場せしめることは文教行政当局の国民に対する当然の責務というべきであろう。

しかるに、佐久間亜紀氏は、国民の不安と不信を示す<データ>を看過した上で、「教員の質」を合理的に推測しうる<データ>の不在を指摘する。而して、あろうことか、佐久間氏は、これから収集される後者の<データ>に基づく教育改革に対して「教員の人材確保さえ難しくする」という抽象的な危険だけを根拠に反対されている。畢竟、これが佐久間談話を称して「故意とすれば極めて狡猾な現下の教育改革への根拠を欠く批判」であり「過失とすれば、酒でも飲みながらインタヴューに答えたもの」と私が記した所以である。


◆泥棒に縄をなわせる校内研修
佐久間談話は、教員免許更新制の導入や更なる学校現場の管理強化は、教師の職から「若者を引きつける魅力」を失わせると主張される。而して、「教員の質」の向上には(「「教員の質」の低下を示すデータはないって言われませんでしたっけ」などの揚げ足は取らないけれど)、既存の校内研修の再活性化、および、予算措置による教員の増員を提言しておられる。

しかし、学校現場で、管理職による授業の見学のみならず、他の教員による見学にも陰に陽に抵抗してきたのは日教組・全教である。所定の勤務時間以外に行う(彼等の政治活動とは無縁の本当の)校内研修に陰に陽に抵抗してきたのも日教組・全教ではなかったか。

ならば、日教組・全教の組合員や(彼等が蔓延ることで弛緩した学校現場の中で生息する)非組合の駄目教師を学校現場から放逐するか、学校現場の規律を再構築する以前に行う更なる「予算配分や教員配置」を前提とした校内研修の再活性化などは、泥棒に縄をなわせる営みに他ならないだろう。

確かに、教育改革のプロセスでは、そこで推進される管理強化や意識改革についてこれず(それらは普通の企業組織では当然のことなのだが)、多くの教員が学校現場を離れることになろう。また、佐久間談話の予言が的中し教員志望者が減少するかもしれない。けれども、教育を放棄し政治運動にかまける日教組・全教の教師をも教育改革の主体として想定する硬直した思考を離れれば手は幾らでもある。例えば、塾・予備校に公教育の運営を委託するならば、教員人材不足の問題などは瞬時に解決するであろう。

いずれにせよ、佐久間談話が固執するような固定観念から解放され、公教育の改革に向けてデータに基づく合目的的な議論を推進すべきである。佐久間亜紀さんのインタヴュー記事を読んで私はそう思った。尚、公教育の改革に関する私の基本的な考えについては下記拙稿を参照いただきたい。

pleasecome


日本再生の鍵は公教育からの日本の解放である

郵政民営化の次は都立高校の分割民営化を!

教育基本法改正論は市場原理主義か?

教育基本法改正カウントダウン☆改正派の目的と反対派の妄言

教育改革の構図☆教育基本法改正後の追撃戦のために

公教育の分割民営化推進連絡会議★Mixiにコミュニティーを立ち上げました♪

「教員の給与の引き下げ疑問」という投書について

教育現場の待遇が良くなれば優秀な人材が確保できる?



(2007年3月4日:Yahoo版にアップロード)

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テーマ : 教育問題
ジャンル : 政治・経済

teacher3


教育に対する公財政支出の割合が日本は他の先進各国に比べて低い。このことは周知の事実でしょう。その負担が家計に圧し掛かっていることも。実際、子供1人が大学を卒業するまでに要する教育費の高さが少子化要因の一つと推定されているくらいです。

衣服や給食費、文房具や乗り物遠足(懐かしい!)等々の就学しなくとも発生すると看做すべき費用は別にしても、補助教材費や学校外活動費等々(現在の価値で算出した場合)すべて公立の学校に進学したとしても優に600万円はかかる。その間、小中高大の16年間。年所得が平均600万としても、実に、一人っ子の場合でも家計総所得の約6.25%(∵600÷(600×16)=6.25%)、二人なら12.5%で三人なら18.75%に達する(数値に関しては下記URL参照)。

これに幼稚園の費用、交通費・参考書代・塾や予備校の費用、受験費用や受験の交通費、まして、地方から都会の大学に進ませるとすれば、そして、国公立ではなく(日教組や全教に所属する教育を放棄した教育者にはわが子は任せられないという親としての当然の思いから)中学からは私立校に進ませるとすると・・・。

はい、学資ローンや奨学金を利用できない場合、普通の家庭では三人の子供を大学に進ませるのはほとんど不可能になる。蓋し、アメリカのように学びたい子にはとことん学ばせられるような奨学金や民間のローン制度を充実させる必要があることは論を待たないでしょう。

それにしても、世界第2位の経済大国で人口を維持するに足る「合計特殊出生率」(1人の女性が生涯に産むと予想される子供の平均数)の範囲内の数の子供でさえ平均的な家庭が経済的要因から大学に進ませられないという状況は必ずしも健全とは言えない。教育が国の国際競争力を維持向上させる鍵であり、社会秩序を安定さ鍵でもあることを想起すればなおさらそう言えると思います。

・小中高にかかる費用
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~tanken/primary/es-eco.htm#cost

・大学の費用
 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/gijiroku/005/011201/011201e1.htm

・平均所得
 http://rh-guide.com/money_db/archives/2005/08/580.html


teacher2



◆教育に対する低い公財政支出は問題か?
教育に対する日本の公財政支出は先進国(OECD加盟国)の中でも最下位に近い(下記URL。特に表4とその解説参照)。高い家計への負担と併せて、教育基本法改正にともない教育改革が政治の主要な争点として浮上したのと轍を一にして、教育への公財政支出を増やすべしとの主張をよく目にするようになりました。

・「教育指標の国際比較」(平成18年版)について
 http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/18/03/06032718.htm


「教育に対する公財政支出は先進国中でも最低に近い」ということは、しかし、本当に恥ずべきことでしょうか。結論から言えば、教育への公財政支出のGDP費比等の比較はそれほど意味はないと考えます。理由は以下の三個。

第一に、『「教育指標の国際比較」(平成18年版)について』で文部科学省も述べているように、もともと、教育に限らず日本の財政支出比率は低いこと;つまり、教育の部面に引きつけて言えば、(家計という意味でも私学という意味でも)日本のように伝統的に教育を民間が担ってきた社会とそうでない社会を単純に比較してもそれほど意味はないということです。同資料の表4の説明から該当箇所を引用しておきます。

国内総生産に対する公財政支出学校教育費(国と地方が学校教育に支出した経費)の比率は、我が国が3.5パーセントであるのに対し、アメリカ合衆国5.3パーセント、イギリス5.0パーセント、フランス5.7パーセント、ドイツ4.4パーセント、韓国4.2パーセントとなっている(いずれも2002年)。

この要因としては、我が国の国内総生産に対する一般政府総支出(国と地方による公財政支出全体)の比率が低いこと(図7参照)、児童・生徒数の総人口に占める割合が小さいことや、就学前教育、後期中等教育及び高等教育において私立学校の比率が欧米諸国より高いことなどがあげられる。

高等教育への公財政支出の対国内総生産比は、日本0.4パーセント、アメリカ合衆国1.2パーセント、イギリス0.8パーセント、フランス1.0パーセント、ドイツ1.0パーセント、韓国0.3パーセントであり(いずれも2002年)、全OECD諸国と比べても我が国の数値は韓国に次いで2番目に低い。

この要因としては、前述のとおり公財政支出全体が小さいことのほか、我が国の高等教育が私学を中心に普及していることなどが考えられる。これを大学在学者に占める私立大学在学者の比率から見れば、日本が73.5パーセント(2005年)であるのに対し、アメリカ合衆国は35.6パーセント(2001年)であり、フランスやドイツでは私立が極めて少ない。また、イギリスの高等教育機関は、中世以来、大学が伝統的に国王勅許の形で設立されているため、形式面では私立に分類される場合もあるが、運営費の大半を公財政で負担しており、実質的に国立として機能している。



次に、(これは残念ながら、「過去の財産」になりつつありますが)、(i)我が国では(ジニ係数の分析等とは別に)極貧層に対する公的資金投入の必要が比較的少ないこと、(ii)そもそも日本は、(少なくとも江戸中期以来の民間の努力により)教育水準が高く公的資金で底上げすべき最底辺の学力水準がもともと高いこと。これらが教育に対する低い公財政支出の理由だと考えられることです。

<格差社会>を乗り越えずして成長はない☆格差拡大は小泉政権の失政に非ず
 

第三番目の理由。(あくまでも仮説ですけれど)、教師に優秀な人材を調達するコストが諸外国に比べ低いことです。何をいいたいのか、それは、我が国ではまだまだ<教師が社会から受ける尊敬>の度合いは(北欧諸国や韓国等を除けば)OECD加盟国の中でも高く、つまり、「所得」以外の高い社会的評価に惹かれて多くの有為の若者が教師を目指してきたということ。

蓋し、公と民の総体で見た場合にも、日本の教育制度のパフォーマンスは極めて高かったということになる。ならば、単純な公財政支出の比較から日本の公的な教育費負担が低いのは問題とは言えない。否、低い公財政支出によって(10数年前までは間違いなく)世界最高水準の学力を子供達に提供していたことは(公財政はもともと税金なのですから)、むしろ、日本の教育制度が優れていたことの証左でしょう。

teacher1


◆教育に対する公財政支出の増額は不要か?
結論から先に書けば、私の主張は、公財政支出は、(甲)家計負担を軽減させること、他方、(乙)国際競争力向上と社会秩序の維持のための施策に絞って増額を行うべきであるというのもの。

・教育への公財政支出は増やすべきだ
・教育への公財政支出はその方法と形態を下記に限定すべきだ
イ)家計への直接の給付
ロ)奨学金制度の充実
ハ)民間の教育ローン制度への公的支援
ニ)国家の国際競争力の向上のための施策に重点配分
ホ)子供達の規範意識の涵養のための施策に重点配分
ヘ)間違っても、日教組や全教の組合員が巣食う学校現場にばら撒くようなことがあってはならない


最初に(ヘ)についてのコメント。公的資金の投入先としてしばしば人口に膾炙する「少人数クラスの導入」(=教師の増員)は疑問です。「少人数クラス」は必ずしも普遍的によい仕組みではない、と。例えば、Harvard大学のMBAでもLaw Schoolでも80人近いクラスで学んでいる。しかも、学生/教授の比率からは何時でも少人数クラスにできるのに、学生の能力開発を優先してそうしている。なぜか、それは、自分とは異なる個性との出会いの中でのみ人間は自分の個性や主張や到達度を確認できるとHarvardでは考えているからです。

外国の大学院の事例は小中高の義務教育や普通教育を考える参考にはならない。その通りです。しかし、一般的にもクラス人数と学力との間には有意の相関関係は認められていないのです(下記資料を参照下さい)。

・『国立教育政策研究所紀要』 第131集(平成14年3月)「学級規模に関する調査研究」
 http://www.nier.go.jp/homepage/kyoutsuu/kyoutsu2/kiyou.htm

すなわち、「少人数クラスでなければ子供達一人ひとりに目が届かない」などは、駄目教師やその応援団が己のスキルのなさを棚に上げて自分のシャビーなパフォーマンスの責任を行政に転嫁しているに過ぎない。実際、大阪の最も荒れた地域にある中学を陸上で全国優勝の常連校にしたカリスマ教師、そして、現在は有為な教師の育成指導に献身しておられる天理大学の原田隆史先生は、

50人のクラスで教えられん教師は実は15人のクラスでも教えられない。彼等が少人数クラスを望むのは、問題のあるクラスの問題を隠蔽できるからですよ。

と断言しておられた。蓋し、核心を突いた言葉ではないでしょうか。畢竟、少人数クラスの導入のために教師を増員するなどは、日教組・全教に公費でその仲間の駄目教師を供給するだけに終るに違いないのです。閑話休題。


上述の(甲)家計の教育費負担の妥当な軽減に関して言えば、例えば、望ましい合計特殊出生率を2.4と置き、更に、平均の家計所得と個々人の平均的なライフスタイルから逆算して、衣食住・老後のための資金、傷病に備える資金、余暇を楽しむ費用等々を引いた残余を「適正な家計教育費負担」と看做せばよい。そうすれば、教育の諸制度を運営するために実際にかかるコストと我が国の全世帯の「適正な家計教育費負担」の合計金額との差が「適正な公的教育費負担」として定義できるだろうからです。

適正な公的教育費負担=
全教育セクターの維持管理コスト-全世帯の適正な家計教育費負担の総額

適正な家計教育費負担=
家計の総収入-望ましい合計特殊出生率を加味した衣食住その他の費用


しかし、この計算(机上の空論)は、(1)日本の社会が国際競争力を維持向上させることによって、今後も家計に所得を提供できること、(2)日本の安全保障が保たれ/日本が世界で健全な経済活動を展開するに十分な安定的な国際秩序が維持されて始めて成立するものです。そして、これらの前提には更に(3)安定した社会秩序が不可欠である。

これらが(乙)の根拠です。畢竟、適正な家計教育費負担なるものも適正な公的教育費負担なるものも、実は、日本国の生存と社会秩序の安定、そして、国際競争力が維持できて始めて意味を持つ、と。

蓋し、防衛と外交、科学技術開発のコストもまた限られた国家財政の分配において最優先のプライオリティーを持つ。而して、家計の教育費負担の軽減とともに教育行政が達成すべきもう一つの目的、国際競争力の向上と規範意識の涵養のための公財政支出は、国防と科学技術の開発に連動しなければ効率的ではない。そう私は考えます。



(2007年2月12日:Yahoo版にアップロード)

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テーマ : 教育問題
ジャンル : 政治・経済

soccerjapanlist


■ワールドカップ抽選☆これがサッカーか?
 【2005/12/10(土)】


ワールドカップ・ドイツ大会、日本の予選リーグ敗退が決まった?


なんせ、ブラジル・クロアチア・オーストラリア!
なんせ、世界一サッカーの強い国と、日本が世界一苦手な国々が相手?

実は、日本が勝てる相手は「ブラジル」しかない?
ブラジルは予選リーグはエンジン試運転中(?)だから。

でもね、ブラジルが「カナリア軍団」にかわり戦う芸術家集団になって決勝トーナメントにあがるのもまた必至。で、予選突破残り1議席を競う相手が、日本の苦手なクロアチアとオーストラリア・・・・。

とほほ。とほほである。
  
この「とほほ」の経緯が分からない方は、前回の「トルコ戦」や前々回の「クロアチア戦」を想起していただきたい。そうすりゃ日本がいかにアメリカやスウェーデンという、大柄の選手を揃えながらも、ゴール前の動きが機敏で攻撃に切れのあるチームを苦手にしているかお分かりになるだろう。

まあいいか。まあいいよ。そんな厳しい状況だからこそ、奇跡を願い奇跡を信じる。そんな厳しい状況こそW杯の醍醐味だ。だからこそ、短いワールドカップと割り切ってWCを楽しもう。日本のW杯予選組み合わせを知ってそう思った。

soccerjapanfans



■冬季オリンピック開幕☆そんなんよりサッカー日本代表がUSAに負けた・・・
 【2006年02月11日(土)】


公私多忙とか言いつつ、ここ数週間の私の最大の関心は今日の<日米決戦>にあった。告白します。仕事で無理難題を押し付けている若い同僚諸君ごめんなさい。と、他人様に謝るほどのことはないけれど、今日は朝から落ち着かない半日をすごしました。

そして、毎年楽しみにしている「一年で一番寒い時に、日本で一番大きな炎を堪能する祭典」。そう「阿含の星まつり」を朝9時からTV神奈川の中継で見ながら、京都は山科で燃え盛る<星祭りの護摩壇>に向けて神奈川県川崎市麻生区から、「鬼畜米国撃滅! 神州不滅!」と、ジーコジャパンの勝利を念じたことはいうまでもありません。その結果は? 結果どうなったの?

負けました。はい、完敗でした。ショックです。二週間位、立ち直れないかもしれません。以下、毎日新聞電子版配信ニュース。

●<サッカー>日本、2-3 惜敗 若手に収穫 米国戦
サッカー日本代表は10日(日本時間11日)、サンフランシスコの米大リーグ・ジャイアンツの本拠地SBCパークで米国代表と国際親善試合を行い、2-3で敗れた。6月9日に開幕するワールドカップ(W杯)ドイツ大会を控えた今季初の試合を飾ることができなかった。(2006年2月11日(土)13時57分:毎日新聞)

なぜこれがショックかと言えば、それは日本のW杯予選リーグの対戦相手にあります。ご存知のようにブラジル・クロアチア・オーストラリアの3カ国;そして、王者・ブラジルを除く、他の2チーム(クロアチア・オーストラリア)がほぼUSAと同じようなチームだと思うから。そして、クロアチア・オーストラリア戦を予想するために最適なUSA戦が今日行われ、日本は・・・負けちゃった。

W杯本番の結果はやってみなきゃ分からない。でもそれにせよ、ブラジルに引き分け以上を想定するのはサッカーの神様に失礼というものでしょう。なら、クロアチア・オーストラリアの両国相手には、<2勝>かその1勝については2点差以上をつけた<1勝1分>じゃなけりゃジーコ・ジャパンのドイツW杯は「はい、それまで!」になる可能性が高いと思います。

そう思ったから、昨年の12月10日のW杯予選組み合わせ抽選会の後はずうっと、今日の建国記念日・阿含宗星祭りの日に行われる日米決戦が気になっていた。気になって仕方がなかった。

それほど、対クロアチア・オーストラリア両国の勝敗を占う意味で今日のUSAとの(しのかもアウェイでの)一戦は重要だ。そう思っていました。でも負けちゃいました。

日本もこの8年・4年で物凄く強くなっている。ですから、世界一サッカーの強いブラジルとも、ドイツやフランスという欧州の強豪とも現在のサッカー日本代表はいい戦いはそりゃーするだろう。しかし、W杯本番では「いい戦い」も「おしい一戦」も負けは負け、勝点ゼロはゼロなんですよね。

正直、今日の一戦を見て日本のW杯予選突破は「限りなく透明に近いブルー・・」じゃなかった「限りなく赤に近い黄色」だよと思います。なんてね。

このようにW杯本番前にウォーストケースを想定していれば本番でどんな悪くてもショックが少ないじゃないですか。あー、これだけネガティブなこと書いたら気が随分晴れました♪ 後は、神様ジーコに「サッカーの神様」の御加護があることを祈るだけかな。頑張れサッカー日本代表♪

soccerfan2




■今日こそ決戦だ☆奇跡じゃなく必然を起こしてくれ「日本代表」
 【2006/6/18(日)】


我がサッカー日本代表にとって早くもサッカーワールドカップ・ドイツ大会の剣ヶ峰がやって来た。こうなることは先週、オーストラリアに負けた段階で分かっていたけれど。とうとう、この4年間の努力の評価が定まる(実質最後の)一戦まであと6時間余りに迫った。神奈川県川崎市北部は現在、赤道直下並みのスコール! 空も気合を入れているということか。

正直、クロアチアには到底勝てないと思う。日本が最も苦手なタイプのチームの一つだから。このBLOGでも前に書いたけれど、日本は体が大きくて、かつ、ゴール前の動きが俊敏なチームにとことん弱い。例えば、他にはアメリカやトルコとかスウェーデン。

今日のクロアチア戦は75%どころか95%負けだと思っているけれど、その残りの5%が起きてくれることを念じている。そして、「何のこっちゃ?」と言われそうだけれど、その5%が起きてもそれは<奇跡>ではないと思う。勝つ確率は5%でもそれが生起しても奇跡ではない。

「何のこっちゃ?」
「何言いたいねん?」
「何ば言おうごたっとかんも?」
"What do you mean by that!"
"Was sagst du denn?"


簡単である。

soccerfan1


四つ相撲タイプの大横綱も時には立会いから一気の押しで勝負する平幕力士にも負けることがある。そして、平幕力士と横綱とはいえ、同じ幕内メンバー。つまり、その力量差は素人と力士の差に比べれば「紙一重」。ならば、横綱が立会いで失敗したとしたらその負けはマグレではない。それと同じである。

昔、久しく日本はアメリカやスウェーデンに分が悪いだけでなく、欧米勢に比べても高い身体能力を誇るアフリカ勢にからきしだった(どこにも分が悪い→要は、本当に弱かった)。けれど、身体能力では遥かに劣るものの早いパス回しと戦術的組織プレーで翻弄できる/また、一旦リードすればミスが多くなるアフリカのチームには最近善戦できるようになった。まして、昔は対戦表を見ただけで負けを覚悟した、韓国-イラク-イランとの試合は(勝敗に係わらず)かなり安心して見られるようになった。

つまり、この4年間で日本は確実に強くなった。ならば、クロアチア相手でも勝機はある。日本の試合運びが90分間できたならその結果は<必然の勝利>ということになるだろう。蓋し、為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり、だ。

・・・とかとか取りとめもないことを書いてしまった。要は、最後は精神論というか神頼みということ。それくらい、今日の試合は分が悪いということだ。正直。けれども、こんな取りとめもない空想や心配など、柳沢や玉田のゴール一本で吹き飛ぶだろう。中村や小笠原のキラーパス一つでで雲霧消散するだろう。だから頼むから点入れてよ。拝むから後半終了残り10分で点入れられないでちょうだいよ。



■勝負は度外視、ブラジル戦・2010年を考えるために重要な一戦
 ☆でもやっぱ「2-0」で勝ってちょうだいよ
 【2006/6/23(金)】


soccerfan4


「でもやっぱ「2-0」で勝ってちょうだいよ!」と、ハーフタイムに書こうと思ったら前半ロスタイムに失点? またかよ(泣)。

japanbrazils

★画像解題:
日本-ブラジルの国旗画像は、KABU&寛子さんの高校の同級生でブラジル在住のviva-kukoさんに送信していただいたもの。今日の決戦前のサンパウロの彼女のお家の飾りつけです。くーこさん、サンキュー♪




■ワールドカップ準々決勝☆これがサッカーだ!
 【2006/7/2(日)】


soccerfan3


伯剌西爾が負けた。
英蘭が負けた。
亜爾然丁も負けた。

強い強い、日本に比べりゃー鬼のように強いチームがベスト8で姿を消していく。これがサッカーだ。これがワールド・カップだ、そう感じたこの二日間だった。準決勝と決勝の行方はどうなるのだろうか。最早、「神のみぞ知る」を超えて、神様も匙を投げた展開か?

段々調子を上げてきた世界最強のブラジルが老兵中心のフランスに破れ;開催国とはいえ、「戦後最弱のチーム」と国民からも侮られ、「ベスト8に入れば、クリンスマン(監督)は功労賞もんだ」とさえ囁かれていたドイツがアルゼンチンを撃破した。しかも、1点のビハインドを跳ね返した上でのPK戦での圧勝。ゲルマン魂ここに極まれり、か。世界に冠たるドイツ。偽善と欺瞞にまみれた朝日新聞のようなフランスなんかとは縁切ってこっちに来いドイツ! 日独米英の同盟体制の構築だ!


世界に冠たるドイツ♪

"Deutschland, Deutschland ueber alles" 


主力選手のほとんどがユース時代の教え子である、苦労人ペレルマン監督の下、家族的連帯を発揮し多彩なタレントを擁するアルゼンチンの敗退。予選-決勝トーナメントを通じ選手層は薄いものの、攻守に高いレヴェルのバランスを誇ったイングランドの敗退。政情定まらぬものの、しかし、スラブ随一の文化国家を任じる国民の期待を一身に集め満を侍して出場したシェフチェンコ率いるウクライナもワールドカップから去っていった。

soccerfans1


いずれにせよ、日本が「出るべくして準決勝に駒を進められる」ようになるには、あと60年とは言わないが、少なくとも16年はかかることがよくわかるというものだ。プロ市民の元高教教師が卒業式で君が代反対を叫んでも罰金刑しか課せられないような国が、戦争とサッカーで勝てるわけがないではないか。アメリカには、「野球と政治と恋愛では(法に反しない限り)何をやっても許される」という格言があるらしいけれど、サッカーは間違いなくスポーツという言語で闘われる民族と国家の総力戦なのだから。そう、地球はサッカーボールを中心に廻っている。この単純明快な真理が理解できない大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する論者は一生、国際関係も国際政治も国際法も理解できないだろう。私はそう断言する。

さて、準決勝2試合と決勝の行方はどうなるのだろうか。最早、それは「神のみぞ知る」を超えて、神様も匙を投げた展開と思われるが今の所私は次のように予想している。すなわち、

ドイツは本当に強い相手(アルゼンチン-イタリア)を撃破して決勝にすすみ、フランスは、いまひとつ調子が出ない相手(ブラジル)と怪我人や出場停止者を抱える相手(ポルトガル・スペイン)を倒して決勝に来るのではないか。そして、最後はこのワールドカップの一ヶ月を通して格段に強くなった開催国のドイツのホワードの二枚看板(ポドルスキーとクローゼ)が爆発して3-1での勝利。フランスの老雄ジダンがワールドカップから去っていく・・・。そんな光景を予想する。

而して、ここはドイツ優勝の確率75%と見た。とかなんとか言って、イタリー-ポルトガルのラテン勢同士の決勝戦になったりして。そうなったとしても、That is soccer. Das ist Fuβball. まあ、それがサッカーさ♪ そして、サッカーは本当に素晴らしい。

italywin


◆補註:サッカーはワールドスポーツ、否、サッカーが世界である
それにしてもサッカーは素晴らしい。2006年の惨敗を受け、2010年の南アフリカ大会を睨みつつも、2014年のブラジルでの我が<神州蹴球軍団>の飛翔が楽しみだ。そのためにも、日本人の多くが<スポーツの世界標準>たるサッカー文明に遭遇した、4年前、2002年のワールドカップ日韓大会の時の私の記事を紹介しておく。そろそろ2010年のワールドカップモードに切り替えねばねと思うから。そう、ワールドカップとアメリカ大統領選挙は最短3年がかりの長丁場のイベントなのだから。


 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/UG0204.htm#uglabel01

 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/CY0204.htm#cylabel02


nakatagoodbye



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テーマ : サッカー
ジャンル : スポーツ

grebigbook


『GRE :Big Book』

◆GRE Practicing to Take the General Test:Big Book
 (Educational Testing Service)(1995年10月) <絶版・ネットで古書版は入手可能?> 


★老婆心ながら念のた
「GREの対策に何か役立つことが書いてあるかもしれない」と思ってこの記事を読み始められた方に老婆心ながら申し上げておきます。この記事を始めこのブログのほとんどの記事は、GRE対策やGMAT対策には全く役にたちません。よって、そのような方は「留学予備校のサイト」やETS(GREを制作・実施しているニュージャージ州プリンストンにあるアメリカの公益法人)のサイトを訪問されることをおすすめいたします。特に、2006年度にはGREのテスト形式が大はばに変更されることになっていますのでETSのサイトは要チェックだと思います。GRE対策もエッセーや推薦文の作成のためにも"Time is money."が肝要ですし、時間がないのなら「時間は金で買う」べきでしょうから。では頑張ってください。★



本書『GRE Practicing to Take the General Test:Big Book』はGREのGeneral Test(★)の受験参考書です。受験参考書というより過去に実施された実際のGRE・Generalテスト27回分を収録した<オフィシャルガイド=過去問題集>と呼ぶべきでしょうか。そして、愛称「Big Book」の由来は、収録問題数・5000問、総ページ数・約1100頁に迫るそのボリュームです。そう、本書はGRE版の『赤本』、GREの『巨大赤本』なのです。

★註:GRE
GRE:Graduate Record Examinations は、米国の(ビジネススクールやロースクール、メディカルスクールなどのプロフェッショナルスクールを除く)一般の大学院に出願するほとんどの入学志望者に要求される適性テストであり、そのテスト内容は、純粋の「一般適性テスト」と大学院の専攻に対応した「科目適性テスト」に分かれ、前者の一般適性テスト(=General Test)は、更に国語(=英語=Verbal)・算数(=Quantitative)・論理的思考のセクションに分かれています。


本書は1995年の出版から絶版になる2003年までの8年間、世界中のGRE受験者とGRE対策講座を教える講師の双方にとってバイブル的な存在でした。実際、2005年8月3日現在でも、例えば Amazon ではユーズド価格18,500円から入手可能ということです:定価2,969円(価格はいずれも税込み)。マーケットに出回る数量に限りがあるとはいえ定価の6.23倍で売れる書籍がなぜ絶版になるのか? 逆に言えば、出版側が絶版にした本をなぜに二萬円近くも出して購入したいという顧客が世の中に存在するのか、しかも、たかだか受験参考書なのに? ここに1995年の出版に際してマーケットが本書を熱烈に歓迎した理由があると思います。

これは「懐かしい英語教材(7)Cliffs TOEFL Preparation Guide」でも申し上げたことですが、GREやGMAT、TOEFLやTOEICを制作・実施しているETSはよくそれらのテスト形式を変えます。GRE・General Testに関しても、ここ10年あまり紙ベースでの試験(PBT)からコンピューターで実施する試験(CBT)への移行が進められる他、2002年10月実施のPBTから形式が変わりました:新形式ではそれまでの論理的思考(=Analytical)の問題に代わって小論文作成(=Analytical Writing)が課されるようになりました。GRE自体の変更に伴ってか、本書は絶版になり、過去問を本試験7回分収録した本書の現在の<後継機種>:『GRE:Practicing to Take the General Test,10th Edition』がETSから出版されています。

さて、その<後継機種>も出版されているのに、なぜ『Big Book』の used 版に18,500円以上の値がつくのでしょうか;しかも、<後継機種>は税込2,079円で、かつ、新しいGREのテスト形式・Analytical Writing の解答例と採点法はもちろん、『Big Book』には欠けていた、テストの構成についての説明、正解を導く模範的な手順、英語と算数(VerbalとQuantitative) の問題の解説、算数の知識の整理、受験対策のTips もこの『GRE:Practicing to Take the General Test,10th Edition』には収録されているというのに『Big Book』を手に入れたいという方がなぜ今も世界中に存在しているのでしょうか? その理由はシンプルである。それは、<後継機種>には7回分しか過去問が収録されていないのに対して『Big Book』には27回分が収められているからだ。と、私はそう考えています。

量は質に転化する。要は、『Big Book』は27回分のGRE・General Testが収録されている『巨大赤本』にすぎない。しかし、この膨大な量によって『Big Book』は、①本書を解くだけで自動的に自分の弱点が補強されGREのスコアが必ず向上する優れものの教材になり、②英語が母語ではない読者にとっては、更に、アメリカ人の思考パターンが体得できる一生ものの教材そんな教材になったのだと私は思っています。


TOEIC730点の英語力の方を想定した場合(★)、GRE・General Test1回分の教材を学習するのには最低4時間は必要でしょうから、本試験27回分のボリュームの本書を学習するためには100時間強(2回通りやるとすれば210時間余り)が必須になります:毎日2時間学習してもこれをなし遂げるには50日から100日かかる! しかし、1回分4時間とかの付け焼刃ではなくて、しっかり6時間かける;1~2回通りなどとケチなことは言わず、がっちり3回通り『Big Book』を愚直に学習するとしても(要は、トータルで500時間近く本書に取り組むとしても)、本書『Big Book』は充分それに見合った成果が確実に得られる、ある意味、実にコストパフォーマンスのよい教材と呼べるのかもしれません。成果が望めない教材にタックルする時間は5時間でも無駄でしょうが、予備校の早稲田塾のキャッチコピーではありませんが「一生ものの実力」が確実につく教材に投入する500時間は、これまた予備校の城南予備校のキャッチではありませんが、学習者が「本気なら」fruitfulだろうからです。

★註:GRE対策を始めるために必要な英語力
GRE対策は、TOEICで言えば730点(TOEFL・PBT換算で550点、TOEFL・CBT換算では213点)程度の英語力がなければやってもほとんど無意味でしょう。「無意味」という言葉は暴言としても(少なくとも)、TOEICのリーディングセクションで350点を超える読解力がなければ効率的ではない。今までGRE対策講座で1,000人以上の方々を直接指導してきた経験から私はそう思っています。これまた理由は簡単。TOEICやTOEFLとは異なりGREは英語の母語話者、しかも、大学学部卒か卒業予定の受験者を対象としたテストだからです。英語(Verbal)セクションの問題が英語的に難しいだけでなく、算数(Quantitative) や論理的思考(Analytical→Analytical Writing)の問題をクリアするために必要とされる英語力:算数や論理的思考で出題される問題のそのまた出題の意味を理解すること自体にかなりの英語力が必要なのです。



◆『Big Book』は天然スパイラルメソッド教材:
本書『GRE Practicing to Take the General Test:Big Book』は、収録問題を解くだけで自動的に自分の弱点が補強されGREのスコアが必ず向上する優れものの教材である。本書の前身『Practicing to Take the GRE General Test』の時代から過去問を収録したGREのオフィシャルガイドでは、テスト問題一問一問に実際のテストでの受験者の正答率が表記されています。よって、『Big Book』にタックルする中で問題の一般的な難易度と同時に、学習者は嫌でも自分自身に特有の弱点を把握することになる。「難易度が高くはないらしいのに、いつもこのタイプの問題にひっかかるんだよね」ということが、27回分もの問題にタックルしているとわかってくるということです。

もちろん、弱点の把握のためだけなら27回分もの問題は多すぎるでしょう。そう確たる根拠はありませんが、『Big Book』の<後継機種>『GRE:Practicing to Take the General Test,10th Edition』が7回分の本試験問題を収録しているのを見ても、自分の弱点を把握するためには、大体それくらいで充分かなと私も思います。けれども、弱点を知ることと弱点を克服できることはまったく別ものです。野球のバッティングで喩えれば、「自分が内角高目のストレートが弱い」ということを自覚しているからといって、その球種が次に来た時に確実に/3割以上の確率で/他の球種に対すると同じ確率で撃ち返せるとは限らないでしょう。そして、GRE対策において弱点を克服するためには(優秀な指導者が周りにおられるのでない限り)、本試験27回分のボリュームは心強くはあっても必ずしも無駄ではないと私は考えています。正に、『Big Book』はETSがはからずも作り上げたスパイラルメソッドの教材なのかもしれません。

スパイラルメソッドとは、同じ論点が多様な問題に加工されつつ(その装いをを変えて)繰り返し繰り返し出題される教材です;または、その教材を用いた教授法のことです。スパイラルメソッドを使うことで学習者は、一度学習した内容にあたかも「スパイラル=らせん状」に何度何度も遭遇することができます。スパイラルメソッドは、初級レヴェルの外国語やPCスキルのような「知識を運用するスキルを学ぶ」領域では一般的に優れたメソッドとされていますが、そのメリットを『Big Book』にも期待してよいと思います。


◆『Big Book』は一生ものの実力を養成する教材:
私は、1995年から足掛け5年間、本書『GRE Practicing to Take the General Test:Big Book』を教材に使ったGRE対策講座で教えていました(QuantitativeとAnalyticalの講師:Verbal部分の日本語解説執筆)。その経験を通して、『Big Book』の最大の利点と私が思ったのは、本書が(特に、NPOやNGOの活動を含むインターナショナルビジネスに今後従事される方にとっては、)異文化コミュニケーションのスキルアップが期待できる教材であるということ:アメリカ人の思考パターンが体得できる教材なのではないかということでした。

その経緯はQuantitativeとAnalyticalの部分に顕著です。「ああ、アメリカ人も自分が今運用している論理と同じ論理を使って考えているんだ」という体験は地味ですが強烈です。しかも、本試験27回分の問題の中でこの<同じ論理を自分と違う言語で運用しているという感覚>が自分の内面に定着していく。その自分の内面に定着できた感覚は、アメリカ人相手に交渉したり討議する上での確かな武器になります(★)。

これに対して、「そりゃ、数学の公式や論理学の図式なんて英語で書かれようがドイツ語で書かれようが中国語で書かれていようが、日本語で書かれたものと同じ意味に決まっているじゃないか」と思われる方もおられるかもしれない。違うのです。

完成された作品が<論理>という同じ形式で表現されていることを理解することと、作品が完成されるプロセスにおいて異なる言語が同じ<論理>を運用していることを体得することは違うのです。そう私は考えています。よって、もし5,000円くらいで入手できるのならGRE対策本としてもそうですが異文化コミュニケーションのスキル開発教材としても『Big Book』はお薦めではないでしょうか。


★註:GREのQuantitativeとAnalyticalの問題例
Quantitativeの出題レヴェルは、日本の中学入試以下のものが三分の2:高校入試程度が残りの三分の2:それ以上の水準のもの、または、日本の算数・数学に含まれないような問題が残りの九分の1です。Analyticalは現在のGREにはありません(!)。これは論理的に考える頭の体操です♪ QuantitativeとAnalyticalも楽しいですよ。尚、ETSの著作権を侵害しないよう下記のサンプルには若干手を入れています。

Sample1:
In the repeating decimal 0.0157901579・・・,
the 34th digit to the right of the decimal point is
(A)0 (B)1 (C)5 (D)7 (E)9

Sample2:
If p is an integer divisible by 6 but not by 4,
Then which of the following CANNOT be an integer?
(A)p/2 (B)p/3 (C)p/6 (D)p/10 (E)p/12

Sample3:
The manager of a computer store is planning a show window
display of five products. Three are to be hardware items
selected from K, L, M, N, and O, and two are to be software
manuals selected from R, S, T, and U. The display items are
to be selected according to the following conditions:

If K is displayed, U must be displayed.
M cannot be displayed unless both L and R are
Also displayed.
If N is displayed, O must be displayed, and if O
is displayed, N must be displayed.
If S is displayed, neither T nor U can be displayed.

Which of the following is an acceptable display?
(A) K, L, M, R, U
(B) K, M, N, O, R
(C) L, M, O, R, S
(D) M, N, O,T, U
(E) N, O, R, S, T


Answer Key & Percentages of Examinees
answering each question correctly:
Sample1: D – 87% Sample2: E - 22% Sample3: A - 92%




(2005年8月3日:goo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロード)

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テーマ : 留学・留学生
ジャンル : 学校・教育

tomitamemo


「KABUさん、この日経の記事どう思いますか」「これが事実だとしても首相の靖国参拝の是非とは何の関係もないと、ばしっと何時もの小難しいKABU節で言ってくれないかね」、「これが「昭和天皇、「靖国神社への首相参拝は当然のこと」」というメモの発見だったら、<皇室の政治利用は遺憾>という記事を書いただろうマスコミ批判を展開して欲しい」「A級戦犯の合祀に不快感といってもメモに出てくる所謂「A級戦犯」は三国同盟を推進した二人の文官だけじゃないですか、それをあたかも「A級戦犯全体の合祀に不快感」を示されたのでもあるかのような報道には首を傾げます。それはある意図をもってするものか、少なくとも勇み足だ。そこん所を海馬之玄関一流の小論文講座の手法で木っ端微塵にしてくれませんか」・・・。

超マイナーなBLOGの管理者の私のような者の所にも、こんなの声が同志の諸兄諸姉やMixi仲間から寄せられています。現在、1週間前にいただいたメール返送にも義理を欠いているくらい多忙ではある。けれど、BLOG運営と言えども<客商売>。やっぱ何んか書かなあかんのやろかと思わないでもない。しかし。しかし、はっきり言います。これ、


コメントするに値するニュースとは私には思えません。
きっぱり。


それは、昭和天皇の御発言が自らの靖国神社参拝に影響するかとの問いに対して、「影響しません。それぞれの人の思いですから。心の問題ですから」と語った小泉首相のぶら下がり談話に尽きているでしょう? また、首相の靖国参拝反対派にせよ、谷垣財務大臣のコメント「天皇陛下がどういうふうにおっしゃったというのを政局に絡めて言うつもりはない」がそうあるべき政治家の見識というものではないでしょうか。

これ媚中派や反AA連合派の陰謀? 

このニュースは朝日新聞等の支那・韓国・北朝鮮という反日特定アジアの代理人や「安倍-麻生」連合派にダメージを与えようとする国賊・加藤紘一等の陰謀ではないのか? そうかもしれないし、本当に偶然この時期に発表が重なっただけなのかもしれない。

けれど、前者としても、秋の自民党総裁選は(売国奴達との)権力闘争なんだから。向こうは「ゾンビ」として復活できるかこのまま「成仏するかの瀬戸際」なんだから。そりゃー、向こうとしても何でもやるでしょう。それは努力賞じゃないですか(笑)。そう思っている私には、ガセネタかもしれないこの記事に飛びついて高揚される加藤紘一さんの姿を久かた振りにTVで見ていたら、その懸命さに思わずものの哀れを感じてもらい泣きしてしまいました(爆)。

とにかく、このメモが「昭和天皇A級戦犯合祀の報をいたくお喜びに」の内容だったとしたら、「このメモが間違っても皇室の政治利用として使われることがないことをわれわれは求める」などの社説や報道が巷に溢れるか、あるいは、その発見自体をほとんど日本のマスコミは無視したかもしれないことは、昨年末から今年始めにかけての「皇室典範の改正に関する三笠宮寛仁親王殿下のご発言」へのマスコミ各社の報道を想起するにほぼ確実と言えるのではないでしょうか。

ならば、今回、日本のマスコミが(文献批判や資料批判の手続きをほとんどスキップして、「富田朝彦元宮内庁長官は嘘を言うような方ではない」という訳の分からない情報だけを頼りにして)このメモを毫も疑わず、而して、首相の靖国神社参拝の是非や所謂「A級戦犯」の合祀問題という政治的イシューに絡めて大々的に報道しているのは、「馬脚を現す」というか、どこの国の新聞やTV局なのか「お里が知れる」というか(≒特定アジア? コミンテルン?)、大変、興味深いことではあると思います。

で、結論。
文献批判や資料批判の手続き過程が公表され、このメモの真偽とメモ内容の意味解釈が落ち着くまで「現代史におけるこのメモの意義」などは、そこに理性的な討論が成立したとしても床屋での歴史談義の域を大きく超えるものではない。また、このメモが真性のものであり、それが(当時の侍従長なり他の方の発言ではなく)昭和天皇の御肉声を記録したものだとしても、それが靖国神社に対する昭和天皇のお考えの中でどのような位置を占めるものなのか、また、それは昭和天皇の何時頃のお考えの映しなのかは歴史学者が専門歴史研究者のコミュニティーの中で究明するべき事項でしょう。

而して、このメモなり幾多の側近が記録している「昭和天皇の松岡洋右・白鳥敏夫両氏への批判」の情報は(それらが真性のものであったとしても)、昭和天皇が何らかの機会に吐露されたの個人的のお気持ちの記録にすぎない。

畢竟、近代主権国家の創出、ならびに、そこへ国民を社会的に統合するためのフィクション(≒政治的神話)である憲法秩序において、個人的な昭和天皇のお気持ちが那辺にあったかということは憲法論的にはどうでもよいことであり、それは首相の靖国神社参拝の是非や所謂「A級戦犯」の分祀問題なるものを判断する上ではほとんど何の関係もない。蓋し、私はそう考えています。

◆補註:歴史学方法論
歴史学方法論。すなわち、「正しい歴史認識」はどのような手続きによって獲得されるのか? あるいは、そもそも「正しい歴史認識なるもの」を人間は認識可能なのか? このような問いに対する私の基本的な考えについてはさしあたり次の拙稿を参照いただければ嬉しいと思います。


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政治と社会を考えるための用語集 ――「歴史」

歴史教科書の記述基準



(2006年7月21日:Yahoo版にアップロード)

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テーマ : 靖国参拝
ジャンル : 政治・経済

nanking3
【The capture of Nanking by Japnaese Army in December 1937】

昨夜、平成18年8月13日のNHKスペシャル「日中戦争 兵士達は中国大陸で地獄を見た」、今夜、8月14日の同「日中は歴史にどう向き合えばいいのか」は、はずばり「日中戦争 日本兵は中国大陸で何をしでかし何を見た」「日本は歴史にどう向き合えばいいのか」という番組でした。つまり、100%支那政府の視点から見た日中関係回顧。それは長期的な視点から見れば(例えば5年以上のスパンで見れば)媚中派からする窮鼠猫を噛むの類の番組であろうけれど、短期的には(この期に及んで更に)自虐史観を補強する狡猾かつ姑息なもの。私にはそう思われましたた。

NHKには支那(や支那サイドに立った、支那共産党による洗脳工作を受けた支那からの帰国者の連絡ネットワークたる「中帰連」等の国内の反日勢力)の取材もいいですが、日本側の証言もフォローしてもらいたいものです。そうすれば、おそらく昨夜の番組はそれが踏まえる歴史学的な水準も向上したでしょうに。いずれにせよ、時間の単位の長短を問わずそれは日中戦争-大東亜戦争で散華された英霊を侮蔑するものにほかならず;見終わって、正直、あまり良い気持ちはしませんでした。

蓋し、ネットを通じた情報淘汰にともない長期的には、
①学術としての歴史認識とアクチュアルな政治現象に関わる(国家の正統性と正当性の根拠たる)個々の国民の歴史観は無縁ではないにしてもそれらは別物であることが一般にもより広く了解されるだろうこと

②歴史を巡る議論が有意味かつ生産的であるためには、その前提として厳密な文献学的な資料批判と社会学・考古学的な歴史状況の復元(≒文献の「証拠能力」と「証明力」の確定&算定、ならびに、歴史現象の舞台たる社会状況と社会関係の理解)がマストであるという認識が広く国民の常識になるだろうこと

③日米を含む旧西側諸国の外交資料のみならず89-91年を発端とする社会主義崩壊に起因するソ連を始めとする旧東側の外交資料の情報公開が進んでいることこれらから、昨夜のNHKスペシャル「日中戦争」の報道は早晩その不十分さが一般にも認識されるだろう。


蓋し、昨夜のNHKスペシャルは、所謂「日中戦争」は
(甲)アジアの他民族の力量を見下す傲慢な日本の軍部と、他方、軍部が作る既成事実を前にしてご都合主義的な振る舞いを愚かに繰り返す日本の政治指導者層;畢竟、ともに無責任な日本の軍部と政府が

(乙)国際政治の動向を巧みに日中戦争に巻き込んだ蒋介石率いる中華民国政府(中国共産党の中華人民共和国に非ず!)に手玉に取られたものであり

(丙)日本の日中戦争-大東亜戦争での敗北は、究極のところ、戦場に借り出された日本の庶民の生命を軽んじ、かつ、戦場になったアジア-太平洋地域の諸国民の恨みに思い至ることができなかった日本の指導層の<貧困なる歴史認識>に起因する、そう説くものと私は理解しました。



而して、NHKスペシャル「日中戦争」の歴史観は(それは、コミンテルン発→講座派・日本共産党経由→戦後民主主義行の来歴を持つ典型的な「32テーゼ」史観と親和的だろうが)、上記①②③の観点からは根拠の極めて怪しいものだと私は考えています。

蓋し、昨夜のと今夜のNHKスペシャルは、噂される小泉首相の終戦の日の靖国神社参拝が目前に迫るタイミングで最後の反撃に出るべくNHKがその抱える歴史認識の特殊性を露にしたものであり、蓋し、NHKが「日中戦争 兵士達は中国大陸で地獄を見た」(13日)、「日中は歴史にどう向き合えばいいのか」(14日)を放映すること自体、「32テーゼ」史観と親和的な彼等媚中派の特殊な歴史認識が国民の中でその<神通力>を失ってきていることへの彼等の焦りとも解されましょう。

畢竟、それはマッチポンプにすぎない。それは、誤報と曲解の蛸足配当を自転車操業的に繰り返す自虐史観の粉飾決算にほかならない。けれども、短期的にはそれは首相の靖国神社参拝への内外からの批判を強め、小泉政権がこの5年余りの間、戦後初めて正常化しつつある特定アジアとの関係を劣化せしめる作用を果たすものになるのではないでしょうか。

ならば、戦後民主主義を批判しようとする論者は、短中期的には事実の反論と資料批判を愚直に積み重ね、他方、長期的には21世紀に具現すべき我が神州の国家-社会思想を平明明晰に提示するという二重の闘いを覚悟すべきでしょう。昨夜のNHKスペシャル「日中戦争」を見ていてそう感じました。而して、誰しも一人でやれることはそう多くはないのだから、この二重の戦いにおいては多くの同志の機能的連帯が不可欠になるであろうとも。

そんな感想を抱きながらネットを探索していたところ、参考になる記事が早くも幾つかのBLOGや掲示板にアップロードされているではないか。実際、昨夜のNHKスペシャルなど歴史学的には幾らでも反論可能ではあるが、かくも素早いタイミングでNHKの歴史認識の特殊性を(≒NHKの制作・放映の意図を)問う記事が登場していることの意味は小さくないと思いました。それが、ここにそれらの幾つかを紹介する所以です。

nanking1


●国民会議BLOG:2006-08-14 01:41
NHKスペシャル「日中戦争」を取り上げていたのだが、
日本を悪と決めつけたその内容に驚愕した。

おかしい点がいくつかあったので、その点と、放送後NHKに確認した回答を紹介する。
尚、回答者は受付コールセンターの方ではなく、該当番組製作の方である。

質問
◇ソ連が日本を脅威とみなしていたとあるが、当時の国家予算、国土面積、資源、軍事力などを評価せずに、スターリンの資料だけで判断し放送するのは公正では無いのではないですか?

回答
◇今回は、スターリンの資料に基づき放送しました。


質問
◇南京師範大学教授が南京戦の被害に遭った方を聞き取り調査していましたが、その中で、トウギカさん(中国人)が父親が暴行された。と言っていました。この中でトウさんは「父親は腰ひもをほどかれ、暴行されていた。それは日本軍によるものだったらしい。」 と言っていました。トウさん本人は現場を見ていないのにそれを放送するのは、視聴者は日本軍が暴行したと断定した認識をする恐れがあります。この点は如何お考えですか?

回答
◇南京師範大学教授の聞き取り調査の様子を放送しました。


質問
◇「南京城に日本軍が入城した際に国民党軍の軍服が脱ぎ捨てられていた。これを見た日本軍は、国民党軍は民間人に成り済ましていると考えた。」とナレーションをしていましたが、実際は成り済ましていたのですか?

回答
◇実際のところはどれくらいいたか解りません。


再度質問
◇私が調べたところ、このような成り済ましていた兵は、多数いたようですが?「考えていた」というナレーションでは、視聴者は、日本軍だけが思っていたように感じる恐れがあります。ナレーションを入れると言うことは、インタビュー等と違いNHKの責任編集で行っているのだからこれは妥当では無いと思いますが?

再度回答
◇今後見直しをします。


質問
◇マギーフィルムについてですが、放送の中で出てきた写真、フィルム、及び雑誌『LIFE』の写真は本当に日本軍が暴行した中国人の写真なのですか? 国民党軍による暴行や戦闘による負傷兵は含まれていないのですか?

回答
◇NHKとしては、これらは日本軍による暴行された中国人の写真、フィルム、『LIFE』の写真と思っています。

質問
◇「最後に、私○○と申しますが、失礼ですがお名前を頂いてもよろしいですか?」

回答
◇「はい。○○と言います。」


以上が今回の質問と回答である。
お解りの通り、日本以外の事と成ると、実際の検証をせずに偏った資料に基づき放送をしている。そして、恐ろしい事に日本軍の行動の際は曖昧な表現や見てもいない証言者を登場させている。そして、現地の大学の聞き取り調査の様子であると言う。中国でのこのような、大学のデタラメな聞き取り調査が資料として残る事も許し難い。

そして、マギーフィルムのくだりで出てきたものが全て日本軍による暴行で中国人が傷付いた物なのかを検証する必要がある。


http://ameblo.jp/kaigi-kokumin/entry-10015800814.html



●[あさひ新聞を笑いながら叩きつぶす掲示板]より
NHKはシナの70年前の挑発行為を報道せんかい
投稿日:2006-08-14 03:38
投稿者:はに〇太郎 


☆NHK特集「日中戦争」~戦争はなぜ拡大したか
昨夜8月13日放送のNHKスペシャル「日中戦争」を観て、あいかわらずのNHKのセコイ自虐的日本悪玉報道の醜さを見せ付けられた想いだ。

~なぜ戦争は拡大したのか~というサブタイトルどおりの検証がまったくおこなわれていない…というかシナ側の言い分ばかりの本当に国民をナメ腐った番組であったように思う。

番組では冒頭「盧溝橋」が映し出され、あ、きたきたと思う。
で、そこから(第2次)上海事変⇒南京占領へ向う中で、

① 予想もしない新鋭武器を装備したシナ軍に戸惑う日本軍
② 「軍部の暴走」などを思わせる演出などがあり、番組は一挙に南京虐殺についての
検証へ…・。

おいちょっと、オンドレまたんかい!!と…
仮にも、ワレらNHKは日中戦争がなぜ泥沼化したかを探っているのやろ?と

それやったら、盧溝橋⇒上海事変のあいだに、どれほどの挑発行為がシナ側から
あったかをなんで伝えへんねん!

細かい排日テロのみならず、「通州事件」やら蒋介石の上海租界爆撃やら不拡大方針をとり続ける日本への明らかな挑発がどれほど酷かったか…

いま、売れてる小林よしりんの「いわゆるA級戦犯」にも、はっきり「支那事変はシナ側の協定破りのテロによって拡大していったことを忘れてはいけない」と書いてるから、NHKはよしりんを読むような本当に若い世代にいとも簡単に論破されてしまうぞ!
舐めてるな、ほんま。

他に付け加えるとすれば上海での和平交渉直前におこった「大山中尉惨殺事件」など誠に許し難いテロ・挑発がシナ事変の拡大に繋がっていたのは明白な事実なのに、すべてを日本側の責任に決め付けるNHK!

そして最後に、アヤシイ映像を流し、南京占領後の虐殺を蒸し返す演出。

小泉首相の靖国参拝を睨んでの、シナ共産党へのおもねりか
準血税を使っての、売国特集を制作するNHKになぜカネを払わんとあかんのや!




●臥竜窟より愛を込めて:2006-08-14 04:18
NHKのスペシャルにしては、一応頑張ったほうかな
アメリカには中立法があったのに、武器供与をしていたこと、ドイツも同盟国でありながら中国に大量の武器を売っていたこと、etc

ろこうきょう事件の発端ははっきりしてないって・・・おいおい
昨年中国で俺等がやったとテレビで自爆の上、人民解放軍の教本でも述べてるし、それはまたいいとして、ガキ共が反日愛国コールで聖地として横断してる光景に相変わらずとまずは思いました。
(後略)


http://ranchar.cocolog-nifty.com/ranran/2006/08/post_ad69.html

Chiangandmao
【Chiang Kai-shek and Mao Zedong Sixiang in 1945】


この放送に関してブログ仲間から何通かメールをいただきました。「NHKのいい加減さがますます明らかになりましたね。私は、虐殺はあったが中国の言うような「大」虐殺はなかったという立場です。NHKは南京師範大学の聞き取り調査がまるで公正なものであるかのように報道していましたが、あきれました。中国共産党の方針に従って調査結果が捏造されていると疑うべきだと思ます。ずさんな番組としか言いようがないと思います」、と。概略、「南京」の史実の確定の前に<NHKの報道に至る資料批判>に疑問を呈するこのような意見がいただいたメールの多数派です。

KABUに寄せられたメールの多数意見が何だったかなどは<南京の史実>とは無関係ですが、このそれ自体<歴史の一断面としてのNHK番組放映>、すなわち、「2006年8月13日-14日にNHKが「日中戦争の理解」に関して支那政府の意向に沿った番組を杜撰な資料批判に基づき放映した」という歴史的な事実の事実認識については、いただいたメールの多数の方と私は基本的に意見を同じにしています。

ちなみに、「南京問題」に関して私は、「南京大虐殺はあったかもしれない(1300-31000人くらいの規模でね)、が、それが戦争責任/戦後責任において何か問題ですか」派です。といいますか、「南京」は現段階で「あったも」「なかったも」言えるような資料状況ではない。加えて、「あったとしてそれは、当時の国際法、ならびにその後の国交正常化を定めた条約から見て、日本の戦争/戦後責任に何の関係もないことだ」というのが私の趣意です。その国家としての主張を前提にしたうえで、「南京」の悲劇なるものに歴史的に迫るのでないNHKは最早公共放送ではないのではないか。私はそう考えます。

再度書きますが、(もちろん、彼等自身がまずは歴史学の議論に耐えうる資料を出すのが先でしょうけど)「南京」での民間の犠牲者が(便衣兵を除き)1300人でも31000人でも、310人でも130人でも私はそれを「大」虐殺と支那の人々が言うのことを日本人は甘受すべきかもしれないと思います。けれど、いずれにせよそれは(戦争責任を「ナチス」に押しつけ国家としての責任を、特に、ユダヤ人犠牲者以外の犠牲者に対する責任を極近年まで認めてこなかったドイツとは異なり)国際法的に史上例を見ないほど完全に完了している日本の戦争責任の見直しなどとは無縁なのです。

こう考えれば、「Never ignoring the past」を声高に叫ぶ戦後民主主義を信奉する勢力が、彼等が批判する「歴史修正主義者」(?)に比べて桁違いに歴史から目をそらしているかを、彼等自身そろそろ気づくべきでしょう。32テーゼ(コミンテルン)史観・WGP史観に歪められた彼等の目には「あれども見えず」なのでしょうけれどね。

先に上海などの在留邦人を陵辱し惨殺したのは誰か、米英にしても自国の国民を守るために、軍隊を進駐させていたではないか。その意味でも、歴史を勉強していないマスコミ関係者が多すぎる。それは、要は、古田武彦「邪馬台国はなかった」や「朝鮮語で万葉集は読める」程度の歴史学方法論と文献学の基礎学力を欠いた議論だと思います。まして、NHKの国際法理解は凄まじい。時間が立つほど、資料が集積されればされるほど、所謂「自虐史観-東京裁判史観」は劣勢になっている事実を(「劣勢」であればこそ「冷静」にはなかなかなれないのも人情としてわからないではないけれど、)彼等はよーく考えて見るべきだと思います。


◆補註:歴史学方法論
歴史学方法論。すなわち、「正しい歴史認識」はどのような手続きによって獲得されるのか? あるいは、そもそも「正しい歴史認識なるもの」を人間は認識可能なのか? このような問いに対する私の基本的な考えについてはさしあたり次の拙稿を参照いただければ嬉しいと思います。


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(2006年8月14日:Yahoo版にアップロード)

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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

sdfiraqgirl


◆イラク陸自:民間機利用で抗議・・・乗務員組合が防衛庁に
イラク南部サマワでの復興支援活動を終えた陸上自衛隊員の帰国に民間チャーター機が利用されたことに対し、パイロットや客室乗務員でつくる「航空労組連絡会」(山口宏弥議長)など航空労組3団体は25日、「民間機が攻撃対象となる恐れがあった」などと、防衛庁に抗議したことを明らかにした。

陸自部隊約600人は、イラクから隣国のクウェートに移動し、今月20~25日、同庁が手配した民間機3機に乗り換えて羽田空港に向かった。

民間機の取り扱いを定めた国際条約では、通過国による民間機への攻撃は禁止されている。しかし、3団体は「敵対勢力から見れば自衛隊は軍隊だ。自衛隊員を輸送をすることで、民間機が攻撃対象となる恐れがある。乗務員の安全が脅かされる」などと抗議。今後、民間機による自衛隊員の輸送をしないよう要請した。[毎日新聞 2006年7月25日 21時19分]


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「敵対勢力から見れば自衛隊は軍隊だ。自衛隊員を輸送をすることで、民間機が攻撃対象となる恐れがある。乗務員の安全が脅かされる」とな? 確かに、国際民間航空条約はその3条で「軍、税関及び警察の業務に用いる航空機は、国の航空機とみなし、この条約は国の航空機には適用しない」と規定し、また同4条は「各締結国は、この条約と両立しない目的のために民間航空を使用しないことに同意する」と民間航空の濫用の禁止を定めている。でもね、イラク復興支援から帰国する自衛隊の輸送が「軍事利用」になるという解釈はおよそ成り立たない。軍隊の災害救助派遣での民間機使用はそう珍しくはないからです。蓋し、何が軍事目的かどうかは日本の労働組合が定めることではなく国際法解釈の蓄積が決するものだろうから。

確かに国際法違反の攻撃を行う勢力の存在は否定できないでしょうが、「その可能性」とは単なる想像を超えた具体的で現実的な可能性なのでしょうか? もし、そうでなければこの「労組の抗議」なるものはある特定の政治的な立場からする不当な経営判断への介入ではないでしょうか。

そして、もしこの「航空労組3団体」が政治団体にすぎないのならば、その構成員にはお引取り願って、そのポジションを我が優秀で勇敢なる航空自衛隊のパイロットや<9・11>後の経営難で困っているアメリカの航空会社のパイロットで充填した方がテロ対策という重要な顧客サーヴィスの向上から見ても数段優れた施策だと私は思います。

ところで、<9・11>でハイジャックされ自爆テロの手段として使われた航空機は軍隊がチャーターした民間機でしたっけ? 要は、<9・11>後の世界の空では、

「敵対勢力から見れば日の丸をつけた航空機はすべて敵である。ゆえに、自衛隊員を輸送するしないにかかわらず、日本の民間機が攻撃対象となる恐れは現存する。ならば、乗務員の安全を確保するためにも日本はその国家主権を保持し、国際法違反をあえてするテロ勢力に対しては自衛権の一部としての峻厳なる報復も辞さないし、日本の民間航空会社もその日本政府の方針に従うことを世界にアピールすることが有効」なのではないでしょうか。

少なくとも、国際法を無視して民間機を攻撃するようなテロ勢力が存在するから憲法に従い民主的かつ合法的に形成された政府が憲法に従い民主的かつ合法的に定めた国策に従えないという航空会社の存在は、それが具体的にハイジャックを誘発するかどうかは別にして、テロ勢力をencourageするものであることは確かだろうからです。更に、「民間機による自衛隊員の輸送をしないよう要請した」という行為は、日本の航空会社だけではなく、テロの恐怖により縮小した航空需要に相対しつつテロと闘っている世界の航空会社の全スタッフに対する裏切りでさえある。

すなわち、日本の民間機が、世界中で(テロ支援国家を含むどの国の政府や軍閥からも)一方的な臨検や機材の没収にも遭わず、また、乗員乗客の生命・身体・財産に危害が加えられることなくほぼ平穏に活動できるのも日本がその国家主権を維持していることと、主権国家の主権を尊重する国際法の賜物でしょう。

ならば、この航空労組3団体の「抗議」や「要請」は、想像上の危険を持ち出すことで、通常の平穏なる航空ビジネスの基盤たる国家主権と国際法を無視せよというものに等しい。なにより、テロ勢力によるそのような国家主権と国際法の攻撃を身体を張って抗してくれたイラク派遣の自衛隊と自衛隊員にそれは失礼な言辞ではないか。私はそう考えます。

よって、皆さん、

ビジネスでもレジャーでも国際線の利用は、今後、
日本の航空会社を使うのは止めようではありませんか!


第一に、国家主権をテロリストに譲り渡すことを避けるためであり
第二に、それは、国際社会が現在取り組んでいるテロとの闘いに自分ができることで<協力>するためであり

第三に、テロと闘う覚悟のない航空会社がテロから乗員乗客を守れるはずはないと思うからです。



(2006年7月26日:Yahoo版にアップロード)

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テーマ : 国家防衛
ジャンル : 政治・経済

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■はじめに
外国や外国人との<望ましい関係のあり方>について論じた書籍が日本では溢れている。アメリカやドイツの書店ではこれは絶対にないことだし、私はフランス語は下手糞だけれど、「外国に対して自国がどんな方針で臨むべきか」という「外国」なるもの一般に対する外交戦略を問うたもの、まして、「外国人に対する自国民の望ましい態度」を教授するような奇特な書籍はパリの書店でもモスクワの書肆でもそう多く見かけることはないだろう。まして、北京やソウルは問題外の外であると予想する。

この10年に限っても、外国人や外国を日本人がより身近に感じるようになったのは、しかし、それは好むと好まざるとにかかわらずグローバリゼーションの深化の結果でもあり、特に、批判されるべきことではない。実際、<9・11>を端緒とする自衛隊海外派遣や2002年サッカーワールドカップ日韓大会以降の日本社会におけるサッカー文化の浸透を想起すれば、この社会がこの6―7年で格段に変わったことは実感できるだろう。蓋し、官僚や「国際派ビジネスマン」なるものだけでなく、日本人の多くが直接に外国や外国人と遭遇し影響しあうようになったことは論証の必要もないだろう。

而して、これらの出来事が総体として、「国家とは何か」、「GHQが主導した大東亜戦争後の日本の現行憲法体制とは何だったのか」および「外国と日本はどう付き合えばいいのか/付き合うしかないのか」という一連の問いに日本人をして関心を抱かせる契機となったのかもしれない。そこでは、国際化なるものは「異国情緒漂う素敵な事物」が容易に手に入ることだけでなく、自分の価値観を揺るがすような不愉快な経験が日常茶飯事になる事態であることもまた日本人と定住外国人たる日本市民の共通の認識になりつつあるのだと思う。

外国や外国人との望ましい関係について論じたものの中には、しかし、私が違和を感じるものも少なくない。曰く、自衛隊の海外派遣や米豪と自衛隊の合同演習、憲法改正国民投票法の制定や教育基本法の改正は近隣諸国に警戒感を与えかねない。あるいは、首相の靖国神社参拝や歴史教科書問題という両国(日中や日韓)の関係を悪化させかねない懸案事項が存在している。曰く、地方参政権において外国人を差別するべきでない。そして、サッカーワールドカップを契機にして生じた日本の若者のプチナショナリズムは危険だ、等々。

そうか、外国に「警戒感」を与えてはいけない。外国、就中、日韓や日中の間に紛争や諍いがあるということは日本外交の失敗である。外国人と日本人を区別するのは必要最小限にすべきで、自国や自国の文化への愛着を感じることは偏狭なナショナリズムの萌芽なのか。私はこのような主張にはなんの共感も覚えない。そして、冒頭で記したように、短期・長期の双方の自国の国益を確保すべき外交戦略と切り離された「外国とのあるべき関係化のあり方」論議、ならびに、支那・韓国・北朝鮮という反日を国是とする特定アジアとその他の諸国を「外国」として人括りにした欺瞞の上に「外国とのあるべき関係化のあり方」を論じるような言説は異文化文芸談議にすぎず、それらは毫も日本が採用すべき外交戦略やグローバル化に対抗しうる国内諸制度の整備に関する生産的で合理的な論議に結びつくことはないのではないか。私はそう考えている。

法的に見れば、支那人も韓国人も、アメリカ人もロシア人も均一な外国人である。けれど、政治的には「外国人」という普通名詞の人間は一人も存在せず、存在するのは「支那人」であり「韓国人」であり「北朝鮮人」等々の文化的個性と社会的パワーとしての各在留同胞人口を背景にした、これ以上具体的なものはないというほど具体的な固有名詞としての「外国人」なのである。以下、そのような固有名詞としての「外国人」という存在について考えてみる。国際化の深化の中、そのような、具体的な外国人や外国と日本がどう切り結んで行けばよいのか。このことを考えるための本稿はスペードワークである。

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■異文化間の相互理解ということ
私は海外の大学院に留学する日本人のための予備校に14年ほど勤め、他方、海外の大学院やローカルガバメントと日本の企業や大学との提携交渉の仲介斡旋にの関わった。あるいは、全国展開すべく米国企業が管理している一連のキャラクターを使った児童英会話プログラムの開発に携わるという、狭い切り口ながら20年近くインターナショナルビジネスのフィールドで働いてきた。自分が主担当としてやり切った米国企業との訴訟案件も半ダースを越えている(これは法務専任担当者ではないのだから結構自慢である)。で、それがどうした、と(笑)。

はい。で、私はこれらの自分の体験から断言する。異文化間のコミュニケーションなるものは可能だが、異文化で育った者同士が必要かつ充分なコミュニケ-ションを遂行するためにでさえ、ある種のスキルと忍耐と諦めが不可欠である、と。もちろん、スキルの根幹を成すものは語学力でありその外国語に組み込まれ埋め込まれている歴史と文化価値に関する知識と理解。忍耐を支えるものは燃えるような情熱(お金や異性や自己顕示欲を獲得達成しようという熱意)。そして、諦めの根幹は「所詮、他者を100%理解することなんぞ母語話者同士であれ夫婦間であれ親子の間でさえも到底不可能」という人生の当然の理(ことわり)を理解しているかどうかであると。而して、その理を理解しているものを世間でも世界でもマチュアーさを備えた大人というのである、と。

このような異文化間コミュニケーションの理解から、先に述べた、外国や外国人とのあるべきあり方のイメージは非現実的なものと感じられる。蓋し、外国とはもともと日本と利害の対立する敵のチームなのであり、外国人との完全な相互理解などは(どちらも不愉快さを感じないですむような関係のあり方などは、)原理的に不可能なのである。だから、実現可能で、かつ、国も個人も努力して希求するべき目標のラインは「お互いがより少なく不愉快になる」ためのお付き合いの仕方の発見という所に落ち着くのではないか。

然らば、首相の靖国参拝や歴史教科書の問題、憲法や教育基本法の改正に関して支那や韓国に日本と日本人がなすべきことは、それが、日本人と日本にとっていかに大切で自然なことなのかを主張しつづけることであって、毫もそれは靖国参拝を取りやめプロ市民の跳梁跋扈を野放しにすることではなかろう。有事法制しかり。米豪との合同軍事演習またしかしである。それを警戒する近隣の諸国民があるというのならば、日本と日本人はその必要性と有事法制を運用する方針細目を愚直に語りつづければよいだけのことなのだ。

蓋し、外国との間に紛争や諍いがあるということ自体は、毫も、外交の失敗でも政治の拙劣さの兆表でもない。また、非合法な外国人差別が違法なことは当然である(これは「白い馬は白い」ということと同じである。所謂トートロジーであり論理的には必然的に真である)。けれども、何を外国人に対する違法な取り扱いとするかは100%立法政策の問題であり、その運用は行政の裁量ならびに司法の判断に任せられるべきことである。その際、国際法上の「相互主義」から、特定アジアという反日国とそれ以外の国を、あるいは、普通に友好国と同盟国や潜在的な同盟国との間でその各々の国籍保持者に処遇待遇の差を設けることは政治的にだけでなく法的にもなんら問題のない合理的な差別と言うべきである。

畢竟、2002年のサッカーワールドカップを契機にしたプチナショナリズムの危険性を云々する論者に至っては、世界には多様な文化が現存しているという現実が理解できていなとしか評する言葉もない。彼等は、均一な文化と価値に世界中が覆われているパラレルワールドからアナザワールドの我々人類を救済するために時空を越えて飛んで来られた人々なのかもしれない。もし、そうなら彼等に失礼な言い方になるけれど、我々が住むこの時空においては彼等は単なる「妄想好きのコスモポリタン=地球市民」と言われる存在にすぎず、朝日新聞や岩波書店等の読者に多いそのような「コスモポリタン=地球市民」は「他国の軍事的な圧力に対して自国が武力行使を選択する期待値をその他国に低く見誤らせる」回路を通して、紛争を惹起せしめ冷たい紛争を熱い戦争に変える紛争の誘発要因(★)として欧米政府からは蛇蝎のごとく嫌われ、欧米の健全な市民からは嘲笑の対象にすぎないことは説明するまでもなかろう。

★註:戦争の誘発要因としての「平和主義」
地球市民を標榜するコスモポリタリズムおよび平和主義が戦争の誘発要因としていかに危険なものであるかを、欧米の政府と市民は、80年代に欧州を覆った「中距離弾道ミサイル配備」を巡る危機で悟った。ソ連のSS20とアメリカのパーシングⅡの配備を巡るこの事態は、欧州の平和主義者によるパーシングⅡのNATO配備反対運動の激化長期化により、ソ連政府もSS20の撤収を判断できず米ソ両政府も欧州国民も「双方共に好んでするのではない緊張」を5年以上に渡って強いられた。


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■「己を空しゅうして活路を開く」戦後民主主義的な論理の欺瞞
日本も外国も、日本人も外国人のどちらもが不愉快さをほとんど感じないですむような関係が創出可能と考えるのは、独り、均一な文化が世界を覆ったアナザワールドからの来訪者ばかりではない(それは、量子力学的な確率論から言っても非現実的で難しいことだろう)。大東亜戦争後の戦後民主主義を信奉する人々のほとんどがそう考えているように見えるからである。而して、私は、「日本も外国も共に不愉快さを感じないような関係が創出可能」という認識の基盤には実に単純な誤謬が横たわっていると思う。すなわち、

(1)外国との関係で日本人がもし不愉快さを感じるとすればそれは倫理的に間違っている。そのような不愉快さは本来存在してはならない(あってはならないのだから存在しないと考えよう!)と考える誤謬

(2)異文化で育った者同士の間でも完全な相互理解は可能であり、よって、完全な利害の一致も可能であるとする誤謬

これら両者のいずれかが戦後民主主義者の国際関係認識に伏在しているのではないか、と。前者の謬論(「あるべきでないものはないと考えてよい」という大胆な論理!)は、しかし、自分や自分と同じイデオロギーを共有するグループの内部では説得力を持つかもしれないけれど、それ以外の人にとっては「冗談はよしこさん」もんの論理である。

「犯罪はよくないから目の前で犯罪が起こってもないものとみなそう」、「株価の低迷は日本経済にとってよくないことだから、小泉政権発足以来日経平均株価は3分の1近くに下落していても、株価は下がっていないことにしよう」、または、「不良債権は・・・」。こんなことを言えば誰もが「冗談はよしおくん」と言うだろう。けれど、「有事法制の整備や憲法第9条の見直しはよくないから、それらの動きに口実を与えた日本に対する北朝鮮の脅威はないことにしよう」と平気で論じている論者にとって、「外国との関係で日本人がもし不愉快さを感じるとすればそれは、その日本人の方の思い違いであり、そのような不愉快さなど、本当は、存在していない」と理解することなど朝飯前なのではないか。

後者の謬論(「異文化で育った者同士の間で完全な相互理解も完全な利害の一致も可能」という崇高な認識?)は事実の裏づけを欠いた空論である。蓋し、前者の大胆な論理も後者の崇高な認識の背後にも極めて恣意的な歴史認識と国際関係の認識が伏在していると私は考える。なぜならば、前者を主張する論者は日本人が感じる韓国や支那に対する不愉快さはあってはならないが故に存在しないものと主張するのに、開発独裁の国々や西欧諸国(特に米国)に対して日本人が感じる不愉快さは豪も否定しない傾向があると思われるからである。

この中韓と米国を分かつ基準は何なのか。それは、おそらく、反帝国主義なり大東亜戦争は日本の侵略戦争だったする彼等特有の歴史観であろう。そして、再度述べるけれども、それらの歴史と国際関係の認識は、論者や論者とイデオロギーを共有する仲間内でしか説得力を持ちえない類の恣意的な理屈であることは明らかであろう。また、なんら事実の裏づけのない後者の謬論を基礎づける論理も、独り、自己の願望と妄想によって編上げられた恣意的な歴史と国際関係の認識であろうから。

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■隣の芝生も地球も<青>かった
外国と外国人に対して感じる不愉快さの存在を倫理的にせよ論理的にせよ否定する論者は、単に歴史と国際関係の恣意的な認識にとどまらず、日本における異文化理解の定番の陥穽に陥っているのかもしれない。それは、他の文化圏の思想や制度を理想化する所謂隣の芝生的な異文化理解の陥穽である。蓋し、彼等は植民地支配を受けた人民の気高さや、欧米先進諸国の民主主義および個人主義の素晴らしさを理想化するあまり、外国や外国人との交渉の過程で普通の日本人が通常感じてる不愉快さを実感できずにいるのではないか。あるいは、そのような心性に促されて、偏狭なナショナリズムなど放棄して近隣諸国や欧米先進国の主張に同調すれば、日本と日本人は全体として今より幸福になれるというナイーヴでイノセントな思い込みが彼等の思考を骨絡みにしているのかもしれない。戦後民主主義の信奉者にとっては旧植民地諸国の芝生も青く、欧米民主主義国の芝生も青く見えるのだろう。

しかし、隣の芝生を羨む感情は大東亜戦争後の戦後民主主義者だけの特徴ではなかろう。例えば、夏目漱石『私の個人主義』や西尾幹二『ヨーロッパの個人主義』、あるいは、会田雄次『合理主義』が喝破したごとく、欧米の思想や制度の表層ばかりを移入した上、日本人はそれらを理念化=理想化してしまい、よって、いつまで経っても彼我の差が縮まらないことにフラストレーションを感じ続けているという認識は多くの日本人に共通の傾向なのかもしれない(そりゃー、思い出の中のにのみ存在する死別した彼氏の元彼女には、藤原紀香さんでも沢口靖子さんや松嶋菜々子さんでも勝てないさね)。

否、舶来品をありがたがる心性は、ある意味、人類普遍のものかもしれないね。そして、この人類普遍の感情なり日本人に遍在する傾向性が日本の安全保障を危機に陥れ国益を危くしたりしない限り、それはそれほど大きな問題ではないと私は思う。問題は、この感情や傾向性が「日本人と外国人のどちらもが不愉快さを感じないような関係が創出可能」とする思い込みと連動しつつ、而して、日本社会の安寧秩序と醇風美俗を毀損し、かつ、日本の安全保障と国益を損ねる可能性である。そして、私はこの可能性は高く、既に、その実害は一部現実化しつつあると感じている。

異国情緒趣味が人類普遍の傾向性であるとするならば、また、他国の思想を理想化することが日本人の(少なくとも明治維新と言わず聖徳太子以来の)性癖とするならば、いかに現在、戦後民主主義が跳梁跋扈し猖獗を極め、それが垂流す<旧植民地人民>の倫理的肥大化と西欧民主主義の絶対化が目に余るとしても、それらを理由に戦後民主主義を批判することはできないのではないか。あるいは、このような問いが提起されるかもしれない。否である。三木清流に言えば「千度も否」である。なぜならば、現下のグローバル化の進行は、他国の文物や思想を優雅に愛でていても、社会と国が平穏無事に推移するという古き良き時代から我々を(人類の総てを)放逐し、新しい時代の地球に拉致監禁したと考えるからである。

簡単な話だ。わずか1世紀や半世紀前、明治・大正・昭和の日本に、隣の芝生の美しさに絡め取られたギリシア神話のナルシスの如き<知識人>がどれほど存在したか。また、彼等<知識人>が、社会の大部分を占める<普通の日本人>の実生活にいかほどの影響を与えることができていただろうか。蓋し、漱石や鴎外の葛藤も荷風や太宰のデカダンも一般の日本人の生活にはほとんどなんの関係も持たなかったのではなかったか。それに対して現在は、インターネットの進行は言うに及ばず(総務省の統計によれば2005年の日本人インターネット利用者数は8529万人)、昨年2006年1年間に海外渡航した日本人は延べ1754万人を越える状況である(★)。現在では、国際化の波は総ての日本人の足元を洗っている。

このことを想起する時、冷戦構造終結後とそれ以前の世界における異文化礼賛の意義と機能の差は容易に推測できることだろう。畢竟、隣の芝生が青いどころではなく地球は青かったのである。敷衍すれば、我々は(人類の総ては、)懐かしいセピア色の伝統的風景の世界から、20世紀の最後のディケードを境にして、休むことなくグローバル化の進行する暴力的なまでに生身の青い地球にワープした。そして、鎖国という対外政策が、最早、アメリカもアフガニスタンもインドもイスラエルも、世界のどの国や国民にとっても非現実的であるとするならば、尚更、戦後民主主義者が撒き散らす所の肥大化された旧植民地人民の倫理的な価値と理想化された西欧民主主義や個人主義の絶対性は、伝統的な日本の社会規範を空洞化する現実的な脅威なのである。私はそう考えている。

★資料:
・法務省入国管理局統計:出国者数統計
http://www.immi-moj.go.jp/toukei/index.html

・総務省:「平成17年「通信利用動向調査」の結果」
http://www.soumu.go.jp/s-news/2006/pdf/060519_1_bt1.pdf

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■青い地球の上の日本人と外国人
伝統が編上げたセピア色の心象風景の中で、たまにもたらされる異国産の思想や制度を理想化しつつ(火傷しない程度に火遊びを楽しみつつ、)、日本人も日本も世過ぎ身過してきた。しかし、そのような牧歌的で古きよき時代は終わった。そのような楽園からグローバル化が進行する現実の青い地球の上に放逐された我々は、では今後、外国や外国人とどのような関係を取り結べばよいのだろうか。換言すれば、この暴力的なまでに青い抜き身の地球の上で暮らしつつ「諸国民と諸民族が、お互いがより少なく不愉快になる」ためのお付き合いの仕方とはどのようなものだろう。これは難問である。しかし、本稿の最後にこの課題に対する見通しだけは書いておこう。

問いへの解は、蓋し、外国人や外国に関してどれほど思索を巡らそうともおそらく発見できないのではないか。畢竟、外国人問題とは日本人の問題である。ならば、この青い地球という与件を前提にした上で、どのような状態であれば「お互いがより少なく不愉快になる」ことができるかを、徹頭徹尾、日本人の立場から考えるしか解発見の道はないのではないか。総ての民族がより少なく不愉快になることが可能で、かつ、平和的な共存を自動的に実現する方法や政策など人類の政治と思想の歴史の中で未だかって実行されたこともないし、発見されたこともないのだから。

蓋し、外国人とはある国民や民族にとっての外国人である。これは日本国民たる要件が国籍法で定められているという形式論ではなく厳然とした事実である。日本人は非日本的なものに遭遇した時に初めて自己の日本人性ともいうべき事柄を意識する。だから、グローバル化の進行の中で逆に世界各地でナショナリズム(反外国主義であり、要は、反米主義に他ならない。)、が絶後とは言わないが空前の盛り上がりを見せているのも、おそらく、当然のことなのである。そして、この世界的なナショナリズムの盛り上がりが示していることの一つが、結局、ナショナルなものとは当該のそのネーションにとって非ナショナルな事柄を通してしか(背理法的にしか)認識も意識もできないということだ。

これが、国家や民族なるものは須らく<想像の共同体>に過ぎないと考えて疑わない論者が現れる所以であろう。けれども、玉葱の皮以外に玉葱が存在しないことと玉葱自体が存在しないこととは全く別の事象である。畢竟、日本らしさが非日本を通してしか認識も意識もされないことと、他方、我々が(多くの日本人が)、「自分は日本人だな」、「自分は日本人としてのプライドとアイデンティティーを抱いて、日本という運命共同体の一員としてこれからも生きていきたいな」、「そのような運命をまっとうできるとは、何と素晴らしい人生であることよ」、と感じるという事実は何ら矛盾するものではないし、また、前者によって後者の倫理的な意義が否定されることもない。

国家なり民族は<想像の共同体>に過ぎないだろう。この経緯は、その球団の選手や監督、コーチやトレーナー、球団社長や代表ならびに球団のオーナー等々を除いて、<読売ジャイアンツ>や<ニューヨークヤンキ-ス>というチームが存在しないのと同じである。そうなのだ、国家や民族は、国際政治や国際的なビジネスに参加しようとする者が身に纏わなければならない/身に纏った方が便利な<ユニホーム>に過ぎない。けれども、ジャイアンツやヤンキ-スの勝利に多くの人が一喜一憂することでも明らかなように、ジャイアンツやヤンキ-スは人々の意識の領域に厳然と存在する。

つまり、貴方が、「うちは爺さんの代から読売はきらいやねん。そやから、そんなチームの存在なんざわしは認めへんねん」と言ったところで、明日の新聞には読売ジャイアンツの勝敗が印刷されるだろうということである。この説明ではまだ「ピントけーへんな」という方は、甲子園球場の一塁側で、あるいは、浦和や新潟の繁華街でタイガースやレッズやアルビレックスの悪口を叫び続けてみるがいい、実体のないはずの阪神タイガース、浦和レッズやアルビレックス新潟が(皮しかない存在しないはずの玉葱が)貴殿の生命・身体・自由ならびに名誉に実体的な影響を与えることもあることがおそらくよく理解できると思う(爆)。

蓋し、グローバル化の進行に抗しつつ、日本社会の秩序を維持し日本の対外関係を<良好>にするために、我々日本人にできること、また、行うべきことは明らかだと思う。それは、<想像の共同体>としての日本国と日本文化の意味内容を、非日本との対照作業の中で強化し再構築することである、と。具体的には、日本の歴史と伝統と文化を再解釈し、国民と市民がその素晴らしさを恒常的に確認することであり、次には、再構築された日本文化と日本国の意味内容を非日本に対して、これまた、恒常的に発信し続けることである、と。

畢竟、日本の歴史と伝統と文化を踏まえて、日本の社会制度を再構築し続けること、その意義と意図を外国と外国人に対して発信し続けることに尽きる。これに対しては当然、非日本のサイドからそれ相当の否定的なリアクションが返されるだろう。しかし、これらとの「挑戦と応酬」の過程を標準化してこそ、日本人は、このグローバル化が進行する時代に抗して(青い地球に拮抗して、)、その社会の秩序を保ち日本人と日本市民にプライドとアイデンティティーを供給できるのではなかろうか。

青い地球の上で日本的なるものを常に再構築し続けること。もちろん、これは外国人に対して不愉快さを与えるものになろう。けれど、それは外国人の自由や権利を毀損したり外国に理不尽な圧力を与えるものでもない(他国の民間出版社が出版した『歴史教科書』に反対したり、所謂従軍慰安婦への国としての関与についてとても歴史学を踏まえた認識とは呼べないようないちゃもんをつけたりする常軌を逸した他国への圧力と比べて見るがいい)。ならば、私が提案する方途は「排外主義的で偏狭なナショナリズム」なるものでは断じてないだろう。

このパラグラフで成した説明も、しかし、「青い地球を前提としつつ、お互いがより少なく不愉快であることができるための外国とのお付き合いの仕方」のイメージを具体化することはできていないと思う。要は、確立した国際法と国際的な政治慣習を遵守しつつ、自国の歴史と伝統と文化を恒常的に再解釈し続けていくこと、而して、他国の人々にその内容を発信し続けることという総花的な線しか示すことができていないということだ。ただ、「固有名詞」としての外国と外国人に対して、短中長期のすべてにおいて国益の確保を可能にするための「外国とのあるべき関係のあり方」を考察するための論点整理は大枠囲い込めたとも思っている。


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◇参照文献
国際化の中での日本の文化と伝統の維持と再生という本稿で述べたイシューについては下記の拙稿もご参照いただければ大変嬉しいと思います。最初の2本は、10年近く前にか書いたものであり、現在の私のスタンスとは多少異なっている。しかし、国際化する世界とそのような世界の中の日本という人類史認識の構図は不変である。要は、進歩しとらんということ(汗)。


外国人がいっぱい

揺らぎの中の企業文化

人権と民主主義は国境を越えるか

外国人労働者問題を見る朝日新聞の視点

帝国とアメリカ


(2003年6月18日の自家メルマガ記事をもとにした書き下ろし)

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テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済

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【Japan Eleven in Bangkok, Thailand, June eighth, 2005】


平成17年6月8日、タイはバンコクでの一戦で日本はサクッと、ワールドカップ・ドイツ大会の出場を決めた。三大会連続である。しかも、前回は開催国として予選免除、前々回は難産の末にジョホールバルの歓喜での出場決定だったから今回は順調と言えば順調だろう。それだけこの4~8年で我が<神州蹴球軍団>は相対的に強くなったということか。北朝鮮を除けば、イランもバーレーンもそう弱いチームではなかったと思うから。

ワールドカップ出場決定からのこの4日間、勝利の余韻に浸りつつ、しかし、ある不安をくっきりと意識するようになった。それは、4年後、8年後の北朝鮮チームはこわいよなという予感である。それくらい北はいい試合をしたと思う。多少の誤解を恐れずに言えば、「北のチームは紳士的だった」と思う。最後のレッドカードは、国際経験豊富で見事に狡猾な我が<神州蹴球軍団>の罠にかかったものにすぎない。約10年間、真剣勝負の対外試合から遠ざかっていた北朝鮮と我が神州との試合運びに関する経験値の差は歴然だったということだ。

而して、だからこそ2005年でもこれだけやれた北のチームの4年後、8年後は恐ろしいと感じたのである。もちろん、北朝鮮という国家が(私の大学の後輩・石丸次郎君の推計によれば、自国民の1~2割を餓死せしめるような政治体制を私は近代的な意味の「国家」とは呼べないと思うけれど、)4~8年後にこの地球上に国家として存在していればの話だけれども。


ことほど左様に、サッカーを愛する一人としては、そして、なにより日本代表の2006年といわず2010年ワールドカップでの勝利と活躍を願っている私としては、北と日本との現在の実力差などは、最早、どうでもよいことである。北朝鮮に関しては2006年以降が関心事なのだ。この点では北は脅威と認識するべきである。

心配症か? 北のチームへの意識過剰? 否、それくらい世界相手にサッカーで勝つということは至難なのだ。それは、<国家的プロジェクト>を要する大事業なのだ。蓋し、サッカーはワールドスポーツなどではなくサッカーが世界なのである。しかし、日本の現状は。しかるに、日本では、サッカーに不案内な「識者」のコメントが無頓着にマスメディアを通じて垂れ流されている。それが2005年の日本のサッカー文化の現状である。日本が国際政治でなかなか有利にことを進められないのも当然というべきか。

例えば、6月9日朝8時からのNHKラジオ、「日本は歴史から学んだのか?」の中での元NHK解説委員・学習院女子大教授平野次郎氏のコメントを聞いて私は唖然としてしまった。平野氏は「サッカーの北朝鮮のうけた無観客試合の制裁はかわいそう」であり、FIFAも日本も「アジアにたいしては遠慮と気配りが必要」とのたまわれた。

無観客試合でかわいそうだ? ざけんじゃねー。自国の観客が相手国選手や審判に威力を行使することの重大さを認識できていなかった段階ですでに、北朝鮮はサッカーというゲームで敗れていたのである。これは綺麗事ではない。「小次郎敗れたり」の世界だ;たとえどんなに卑怯な手を武蔵が使ったとしても一度試合が成立した以上(もし、平壌でのイラン戦で審判がアンフェアな笛を吹いたとしても)、そのゲームのルールに従えなかった者に制裁が課せられる(散々待たされてイラついた小次郎には死が、FIFAのルールを守れなかった北朝鮮には第3国無観客試合という制裁が課せられる)。制裁を受けた側は「可愛そう」ではなく「馬鹿」であり「未熟」なのだ。すなわち、大会運営や自国観客の管理能力をも含む総合力がその国のサッカーの実力ということである。

それに北のチームは強いよ。筋がいいよ。だからこそ一層、ざけんじゃねー、と思った。確かに今の彼我の差は、相撲に喩えれば前頭5枚目(日本)と十両下位(北朝鮮)以上かもしれない。が、4年後はわからん。まして、8年後には・・・。

また、この4年~8年以内にあの金王朝が倒れて、豊富な資金力を持つ世界のスポンサーがこのチームにつきでもしたらそれはそれで怖い。そんな空想というか妄想を私に起こさしめるほど、サッカーを巡る動きは人・物・金・情報ともボーダレスであり、また、北のチームのポテンシャルは高いと感じられた。

而して、現状では国際マナーも理解できない愚かな段階にある、他方、潜在的には筋のいいチームを「かわいそう」とはあきれてものが言えないというものだ。そんな同じ輩が、「北朝鮮が核武装するのも日米の圧力を考えれば理解できる」とかの(素人に対しては)国際政治学の衣をまとった妄想を述べるのだろう。正直、サッカーがわからん奴は国際政治がわからんのだと私は思う。そんな国際政治がわからんやつが公共放送でコメントしたらあかんがな。

northkorea


ところで、「北のチームは紳士的だった」という私のコメントに関しては、ある掲示板で「KABUはいつから北朝鮮贔屓になったんだ」、「何を言っているんだ、北の選手なんかボールを蹴らずに日本選手の足しか狙ってなかったじゃないか」等々の批判を頂戴した。言い訳などする気はないが、我が<神州蹴球軍団>の2006年と2010年の勝利と活躍を念じて、「北のチームは紳士的だった」のセンテンスで私が言いたかったことを敷衍しておく。「ボールを蹴らないで相手の足ばっか蹴っていたようなチームのどこが紳士的なのか?」への返答である。

はっきり言おう。

サッカーの試合などはみんなそんなものである、と。特にTVに映らない、審判の見てないところではね。実際、アルゼンチンとかメキシコとかアイルランドとかは北朝鮮どころではない。彼等はマジ、汚い/上手い/強い。日本も最近は随分これが上手になっただけであり、北の選手のそれが日本選手のそれより目立ったのは、日本選手が順当に行っても勝てるからペナルティー発覚の際のリスクをミニマムにしたことと、他方、サッカー的には(「サッカー的にも」、かな?)北のチームがまだ田舎者のひよっこということにすぎなかったというだけである。

而して、私が「紳士的」といったのは、北が遅延行為とかせずにサッカーしてたという位の意味でである。例えば、それは前半・後半ともロスタイムが短かったことに現れていると思う。

八百長という意味ではなく今回、北朝鮮は日本に負けると思って(負けても次につながればいいと思って)試合したのではないか。次のための経験値が積みにくい極端な変則フォーメーションを取ることもなく、また、世界ではままありがちな、後半の15分過ぎにレッドカード折込で相手の主力選手を病院送りにするとかもしなかったからね。「紳士的」とはその程度の意味であり、まさか、シルクハットと燕尾服着て試合してたとか、急いでいる相手に「どうぞお先に」と道を譲ったとかではない(笑)。そしてこの「紳士的な北朝鮮」という現象から、北が国家として真面目に2010年-2014年を射程に入れているのではないかという危惧を私は抱いたのである。


全体の評価とはあんまり関係ないけれど、最後のレッドカードにコメントしておく。録画で事件の3分前くらいから見てみるとわかると思うが、あれはルールを利用した我が神州側の遅延的な行為に対して、馬鹿な、いやウブな北のチームがイラついて起こった。そんな状況で、田中の(間違ってたら御免なさい)オーバーリアクションが火をつけたものだ。

メジャーリーグベースボールで言えば、9回表、11-2で勝っているのに、勝ってる方が送りバントと盗塁を決めてきたことにピッチャーが切れてビンボール投げたようなものだ。まあ、これメジャーリーグでは許されるらしいけれど(?)、サッカーではやった方が馬鹿、いやウブなのである。この「ウブ」という意味でも、北は「おりこうさん=紳士」だったと言うべきであり、そのような合法的な遅延行為をしかけられても自制できること自体もサッカーの実力である。極論すればそれはサッカーに現れる文化的な国力の差なのである。整理する。

(1)北朝鮮は予想以上に強かった(でも5戦全敗) 
今の日本は2002年のときより数段強い。鬼が笑うかもしれないが、2006年ワールドカップで日本はベスト8どころか、運がよければベスト4入り(ということは準優勝)してもおかしくはないのではないか。バーレンが2002の頃の日本程度でイランはその中間だろうか。10年近く対外試合経験のないチームがその3カ国を相手にして得失点差7で5試合終えるというのは脅威である。どう見てもそれは北朝鮮の潜在力の高さを示していよう。


(2)勝ったから、北は汚いとか、朝鮮半島の方はすぐ切れるとか言ってられるだけだ
勝ったから、ワールドカップへの出場が決まったから、なかば嘲笑ぎみに「北は汚い」、「朝鮮半島の方はすぐ切れる」等々と言ってられるのである。もし負けていたら? 

日本のサポーターがどんなに罵詈雑言を北に浴びせようとも勝ち点0は勝ち点0である。ならば、身体能力から言っても共産主義独裁国家の専売特許である国策での選手強化が可能な点から見ても、北の4年後を油断すべきではない。杞憂に終わるのならそれはそれでよいではないか。けれども、油断しないことで失うものは何もない。ならば、対北朝鮮外交と同様にサッカーにおいても我々は現状維持ではなく常に上を目指すべきである。


(3)サッカーでも安全保障でも外交にせよ北を見くびるべきではない
日本のスポーツなり組織は一度ある方法論や新機軸で天下を取ると、その成功体験が今度は桎梏となって次の成長を止める傾向がありはしないか。ならば2010年は危ない。また、外交においても彼我の経済力の差と国際的なプレゼンスの差に我々が安住しているならば、だらだらだらだら現在の王朝に時間稼ぎされて(ついに2008年の米国大統領選挙まで時間稼ぎされて)、次の大統領選挙で民主党が勝とうものなら現在の体制のままの/現在の日朝関係の構図を維持したままの生き残りを彼の王朝に許しかねないのである。まして、朝日新聞や外務省という職業的オウンゴール狙い勢力を抱える日本はそう安閑としてはいられないだろう。


(4)北は汚い? すぐお切れになる人たちだ! など言っている場合ではない! 
アメリカでは、「野球と恋愛と戦争では何をやってもいい」と言われるが(実は、戦争においては戦時国際法を交戦各国は遵守しなければならないのだが)、おそらく、サッカーにおいてもそうであり、最低限のルールしか守らなかったにせよ、一応、ルールの範囲内で試合が成立したのなら、北の行為は<正当な・汚い>プレーである;宮本武蔵の遅延行為に切れた小次郎は<汚い・正当な>武蔵に敗れたのである。

なら、「北は汚い」などと言っているよりも、北の潜在的脅威を率直に認め日本は2010年を視野に入れた準備を始めるべきだと思う。サッカーとは民族文化の結晶であると同時に国力の反映であろう。外交も同様である。我が国はここで一気に北への圧力を強め、最低でも経済制裁なりの北との交渉カードの価値を上げるようにすべきではないのか。私はそう考える。それにしてもサッカーは素晴らしい。2010年を睨みつつも、2006年のドイツでの我が<神州蹴球軍団>の活躍が楽しみだ。



(2005年6月12日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 北朝鮮問題
ジャンル : 政治・経済

omuta


My hometown is Omuta in Fukuoka prefecture, which presently has a population of around 135,000 people, which is a decrease of 20% compared to the population 25 years ago when I left to go University. As Omuta is very famous for “Mitsui-Miike Labor Dispute in 1959-1960”, it is home of the Miike coal mine, which historically did much to contribute to obtaining foreign money of Japan, and post war contributed greatly to the reconstruction of Japan through the supplying of energy. In addition, the Mitsui Miike coal promoted the development of the chemical industry in the town of Omuta.

In my youth, the Omuta river into which directly flows the waste fluid from these chemical plants was known as the most polluted river in the world. Strange as it may sound now, this was actually a source of pride in the area, as it symbolized the prosperity and economic development of the area. Now the river runs clean and fish once more swim in it, the decrease in pollution marking the wider economic slump of the region.

Not only in Omuta but also in many other rural cities, the center of town is dotted with shuttered-up shops and many premises are up for sale. The effects of population decrease are clear to be seen. Currently the largest industry in Omuta is related to "the old person". Nursing services for retirees, paid for by State pensions. Whereas 50 years ago Omuta was at the center of national economic activity, the town is a shadow of it’s former self, reliant on money form the state, both directly via subsidies and indirectly through the pensions of its aging populace.

Omuta is nowadays a town in decline, but just what is decline? It is easy to answer this question, as population decreases industry declines; and along with that declines of the quantity of the circulating funds, goods and information.

However decline in itself is not necessarily a bad thing, due to the actions of government institutions and labor unions the speed of decline is slowed down, city run services and the tertiary sector suffer only temporary decline - resulting in a level of services available to the local citizenry at a level higher than big cities like Tokyo, when analyzed in per-capita terms.

For example you won’t need to book in advance to see a movie and queues are non-existent at public offices. Furthermore, problems (which in times past might have existed) relating to the supply of goods and access to up-to-date information are easy to overcome thanks to the development of logistics systems such as the Internet and modern parcel delivery services. In many ways life in rural cities has surpassed that in larger metropolises. While big cities such as Tokyo and Yokohama may be more pleasing to the eye, I would question their livability if they are nothing more than “Beautiful slums.”



(2005年6月11日:goo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロード)

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テーマ : 地方再生
ジャンル : 政治・経済

dogcat


Considering persistent disputes about worship by the prime ministers of Japan to Yasukuni Jinja (Yasukuni Shrine), it seems not easy to reach a mutual understanding beyond cultural difference even in today's global era. And I suppose not just a few Japanese people have had some exciting experiences as well as some difficulties in communicating with foreign people. I, myself, have had similar experiences in the USA, and have been very interested in the reason for such difficulties and the rewards involved in intercultural communication. I would like to introduce some results from my research, in addition to my recommendation on how to solve the Yasukuni problem.

Some scholars in intercultural communication recognize two types of communication; Low Context Type and High Context Type. The concept of these types of communication was originally found in Edward T. Hall's “The Silent Language” (1959) and “Beyond Culture” (1976). The former type of communication is mainly found in Western societies and the other type can be observed in Asian societies. The characteristics of each type are as below;


◆Low Context Type Communication / Society
・Need for precision in language; words and sentences should carry explicit meaning
・Responsibility based on contracts
・Propensity to make excuse
・Agreements written down and kept by each partner
・Individuality respected
・Uncomfortable with silence; indicates a breakdown of communication
・Well-timed interruptions that move the conversation forward accepted
・Decision-making is logical, i.e., based on facts, price, contract, etc.
・Segmented concerns



◆High Context Type Communication / Society
・Tolerance of verbal ambiguity; non-verbal and coded communication
・Responsibility based on general agreement
・Prosperity to apologize and let facts become clear afterwards
・Written agreements not so important
・Group-orientation normal
・Comfortable with silence; can be communicative
・Interruptions considered rude, particularly when made by a junior
・Decision-making allowing for feelings
・Holistic concerns



One of the most important points to keep in mind is that “Low Context Type” or “High Context Type” indicate the characteristics of a certain type of communication. In other words, there cannot be a “High Contextual Language,” nor can there be a “Low Contextual Language.” We can say many things in English or German most illogically, and at the same time say something perfectly logically in Japanese (maybe also Chinese or Korean too). The reverse is also true, as we can easily discover by reading editorials of Asahi Shinbun. In other words, all natural language is more or less illogical when compared with languages used in Symbolic Logics, which a history of analytic philosophy shows.


With regard to the problem of worship to Yasukuni Shrine, a very important and interesting matter may be introduced from what I have described; China or Korea can hardly understand the explanation, so long as Japan does with it in Japanese (in a High Contextual Language). Although not only Japanese but also Chinese and Korean are High Contextual Languages, each of three languages has its own particular code for the speech communication; Yamato-spirit or Sinocentrism. Shortly speaking, Japanese is the Titans’ language for Chinese or Korean people, while Chinese or Korean are the languages of the Martians for Japanese people.


Considering what I have described above, Japan had better get rid of any expectation that China and Korea will accept the explanation at last. At the same time, even if Chinese or Korean people show their open hostility towards our prime minister's Yasukuni Worship, we don’t have to worry about them any longer. Who must worry about what are impossible in the first place? Only way where we should go on is to explain our diplomatic plan and purpose in the globally standardized communication code; the established international law (as one of Low Contextual Languages).

Japan must translate its diplomatic plan and purpose into the globally standardized diplomatic code, and then we Japanese should sincerely explain them. This manner of dealing problem doesn't differ from a business manner on an international business scene; we may ask anybody to write down their claims or complaints on a piece of paper, and we can ask any question as long as we give enough time for them to respond to the questions.

Without China and Korea, most of the foreign countries want to work in good harmony with Japan. Almost of all peoples, except Chinese and Korean people, are working with the established international law, whether they like it or not. I hope a High Contextual Language is compatible with a Low Contextual Language, although no one can translate perfectly. Therefore I believe the two East Asian peoples should learn this manner of communication:“When in Rome, do as the Romans do.”



(2005年6月11日:goo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロード)

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テーマ : 特定アジアと日本
ジャンル : 政治・経済

inouekaoru


井上薫『司法のしゃべりすぎ』(新潮新書・2005年2月) 。胸のすく思いがした一冊。井上裁判官は、昨年4月、小泉首相の靖国参拝を巡る福岡地裁判決を『週刊新潮』誌上で批判した勇気ある裁判官。福岡地裁判決は、首相の靖国参拝により信教の自由を侵害されたとして宗教関係者などが賠償を求めた訴訟であり、同裁判所は請求そのものは棄却したが、判決理由の中で「参拝は違憲」と指摘した。これに対し、井上判事は「主文に影響を及ぼさない憲法問題を、理由欄にあえて書くのは『蛇足』だ」と批判された。

司法がどれくらい行政や政治にコミットすべきか、所謂、司法積極主義か消極主義かという議論はアメリカ最高裁のウォーレンコートとバーガーコートの対比を中心に、日本でも30年くらい前に大人気のテーマだった。そして、この種の論点の常として決着は未だについていない。

本著はそんな専門的には実は難しい問題を、極めて常識的で納得できる内容にまとめられている。否、「蛇足判決」は司法消極主義や積極主義という高尚な憲法理論とはあまり関係がなく、裁判所の行動のマナー違反に属することだということが実証的な考証を踏まえて明確に論じられている。おそらく、本書中にも書かれているように、昨年の福岡地裁批判や本書の出版に至るには膨大な「蛇足」サンプルを著者は収集分類されたのだと思う。


尚、昨年のこの福岡地裁の「蛇足」に関しては、弊サイトの掲示板でも義憤を感じられたと思しき投稿が幾つかあった。ある理工系の大学の研究者の方曰く、「問題は法律の理論的な話ではなく、(首相の靖国参拝に反対する側の)世論の誘導作戦の巧みさだと思うのです。純粋に法的な問題ならば、靖国神社参拝反対論が起こる筈はないと思うのですよ」、と。

これに応えて、弁護士の同志の方が慰めて曰く、「前にも誰かが書いていましがた、傍論での違憲判決には何の効力もありません。また、結論としては原告の請求は棄却されたわけですから、国の勝利であり国は上告することができない。だから、「違憲」で一件落着してしまった格好になりますが、その内実は国の全面勝利ですよ。原告が上告しないのも最高裁で争えば負ける公算が高いからです。実務上、今回のような判決を「逆転サヨナラホームラン」といいます。国の主張が判旨で認められている以上、国は「違憲」という傍論に不満をもっていてもどうすることもできないので、「サヨナラ」なわけですね」、と。で、KABUもコメントした。

◆福岡地裁で違憲判決? 
投稿者:KABU  投稿日:4月12日(月)

靖国参拝違憲の判決? うんにゃ、国側勝訴でしょう。ある判決が先例としての拘束力を持つのはその結論(主文の命題)に直接影響を与える部分に限られる。即ち、英米法で言う所のレイシオ・デシデンダイ(ratio decidendi)だけが法的拘束力を持ちうるのではないでしょうか。それに対して、所謂傍論(英米法で言う所のオビタ・ディクタ=obiter dicta)は、将来の裁判所の判断に実質的な影響力を持つことがあるとしても、極論すれば、法的にはなんの意味もない文章である。そう、先日の「首相の靖国参拝は違憲である」と語る地裁の判決文は法的には単なる紙の上のインクの紙魚に過ぎないと私は思います。要は、件の判決は判例ではないし、まして、違憲判決などでは全くないのではないでしょうか。だから大した問題とは私は考えておりません。


◆法理論には法理論、政治論には政治論 
投稿者:KABU  投稿日:4月18日(日)

福岡地裁の判決に関しての皆様のお怒りのコメントは私も理解できます。
しかし、この自由主義の国においてどんな法律的には馬鹿げた主張でも、誰かがそれを発言することを止めることはできないと思います。ならば、馬鹿げた論理がばら撒かれることが問題ではなく、そのような馬鹿げた論理が<まかり通っている>ことが問題でしょう。まして、法理でさえない裁判官の独白が、裁判所の権威を帯びてその傾向を助長することが。

マルクスの『ユダヤ人問題によせて』の筆法を借用するならば、「間違った法論理の権威化が問題なのではなく、間違った権威の法論理化が問題」なのではないでしょうか。うん、あんまり上手な言い回しではないですね。ならば、ある程度の法的な知識が国民の中に普及すること、そして、海外の情報を直接受取れるような語学力と更に論理的に思考する習慣が国民の多数に獲得されるのでなければ、法的には何の意味もない判決をさも大変なことのように取り上げる、朝日新聞に代表される軽薄で不真面目な社会思想から日本が解放されることはないのではないか、そう私は考えています。



と、このような素人談義ではなく。井上さんの著書は<蛇足判例>の弊害をクリアカットに描き出している。そもそも、「蛇足」を書く権限を裁判官(訴訟法上の裁判所たる裁判官)は持っていない。「蛇足」は勝訴した側にそんな勝訴判決とは見合わないような実質的に回復不可能なダメージを与えかねない。下級審の憲法判断の「蛇足」が確定した場合(今次の、福岡地裁判決は、正に、そのケースだ)憲法上最終の憲法判断をする権限を持つとされる最高裁判所の権限が侵されたことにならないか。大体、裁判の遅滞が構造的な問題となっている日本の裁判制度では、「蛇足」を裁判官に書かせる余裕などないのではないか(これは文字通り判決文の起案だけでなく、「蛇足」を書くための材料集め、すなわち、余分な証人尋問等を含めば確かに「重箱の隅をつつく話」ではない)、等々井上さんの筆は実証的で、かつ、論理的である。

私自身は、「蛇足」の最大の問題は、政治的に紛争を解決する立法・行政という本来の政治セクターの機能が低下することにあると考えている。政治家が「お上が(裁判所が)こう言ってるんだから」というような行動をとるようになれば、行政官庁の役人と変わらんですよ。外交や税制を始め、世の中には政治が立法によって解決するしかない紛争が山積している。それなのに、政治家が社会の利害調整の能力を低下させたら困るのは国民でしょう、と。

さて、本書に関して正直に言えば、個人的には「そもそも、「蛇足」を書く権限を裁判官(訴訟法上の裁判所たる裁判官)は持っていない」という点に関しては民事訴訟に限定してもよいけれど、「民事判決の書式」(33頁)での常識的な説明に加えて、民訴法253条や上訴・上告が許される実定法上のケースの説明を踏まえて法学方法論から、<蛇足派>を完膚なきまで論破して欲しかった。しかし、新書のボリュームではそれは(特に、法学方法論的な検討は)難しいだろう。とにかく、法律関連図書なのにきちんと読めば常識で理解できる一書。皆様に推薦したいと思います。



(2005年2月23日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 法律全般
ジャンル : 政治・経済

carpenters


◆カーペンターズ・ベストCD
 (Richard Carpenter & Karen Carpenter)<各社・各種のCDが絶賛販売中>


カーペンターズ(Carpenters)は、わざわざ紹介するまでもなくロサンゼルス・ポップスの伝統を引き継いで1969年にデビューしたRichard Carpenter と Karen Carpenterの兄妹デュオです。カーペンターズの楽曲は、カラオケの練習用としてだけでなく英語の聞き取りと発話のトレーニング教材としてもその評価は定まっている。特に、日本では「英語教材」としてのその人気は高く、1983年2月4日にKaren Carpenterが亡くなってから早や22年が過ぎた現在も、ビートルズ(The Beatles)やオリビア・ニュートン・ジョン(Olivia Newton-John)、サイモンとガーファンクル(Simon & Garfunkel)やABBAなどの<類似教材>の追随を許さないものだと思います。

カーペンターズの「英語教材」としての成功の原因は何か? 特に、日本で圧倒的な支持を集め続けているのはなぜか? 私はそれを、①ボーカルのKaren Carpenterの発話の綺麗さと、②比較的(あくまでも相対的にですが)スローな曲の流れ、逆に、③適度な歌詞の(英語としての)難度の3点と考えています。

ハードロックやヘビメタ、ラップやヒップホップの楽曲が英語教材としては若干使いづらいことはもちろんですが、The BeatlesやOlivia Newton-John、Simon & GarfunkelやABBAに比べてもKarenの英語は際立って綺麗なのです。誤解しないでください。Karenの英語が美しいなどと私は言っているのではありません。つまり、Karenの英語が美しいかどうか、例えばOlivia Newton-Johnの英語よりも美しいかどうかなどは聞く方の好みでしょう。私が言っているのは、Karen Carpenterの発生が英語的に正確で均整のとれたものだということです。私は音楽のことはとんと素人ですが、あるサイトでこんな記事を見かけました。

カーペンターズの音楽は私が今さらここに書くまでもなく、とても美しいものです。その美しさは「なにもここまで美しくなくてもいいんじゃないの?」と思ってしまうほど徹底したもので、潔癖症のような病的な要素を感じさせます。そうした病的な部分までフィル・スペクターやブライアン・ウィルソンの要素を受け継いでいるのですから、これはもうロサンゼルスでポップスを作る人達に遺伝する病気としか思えません。(West Coast Rockより引用)


私のアメリカ人の同僚の中にも「カーペンターズは「教材」としては使いやすいけれど、プライベートで聞いて楽しんだりカラオケで唄う曲としては、行儀が良すぎてつまらない:It is too clean, so it is not so interesting.」というコメントをされる方が少なくない。無機質とまでは言わないが、<機械が唄っている感じの楽曲>が” Carpenters”であり、” Karen Carpenter”は<唄う精密機械>である。そして、その正確さ綺麗さが英語学習における日本人の美意識にフィットするのではないか。荘厳な文法体系を熱烈に求め、タクシーキャブのドライバーの方との会話においさえ文法と語法において一点非の打ち所のない完全な英語を話そうとする我々日本人の感性から見てKaren Carpenterの英語は大変心地よいのだと私は思うのです。

実際、カーペンターズの名曲” TOP OF THE WORLD”の歌詞(Lyrics)を使いこの「綺麗な英語」というポイントを確認しておきます。歌詞の中で赤字の分部は音の「短縮」と「消失」と「弱化」が生じていることを表しており、青字の部分は音の「連結」と「同化」と「脱落」が生じているポイント、そして、緑字の部分は他の<教材>に比べて明瞭に発話されていると私が感じる箇所です(★)。これを見れば、” TOP OF THE WORLD”が実に英語の音声発話のルール通り唄われていることが一目瞭然だと思います。

Such a feelin’s comin’ over me
There is wonder in most everything I see
Not a cloud in the sky
Got the sun in my eyes
And I won’t be surprised if it’s a dream

Everything I want the world to be
Is now coming true especially for me
And the reason is clear
It’s because you are here
You’re the nearest thing to heaven that I’ve seen

I’m on the top of the world lookin’ down on creation
And the only explanation I can find
Is the love that I’ve found ever since you’ve been around
Your love’s put me at the top of the world

Something in the wind has learned my name
And it’s tellin’ me that things are not the same
In the leaves on the trees and the touch of the breeze
There’s a pleasin’ sense of happiness for me

There is only one wish on my mind
When this day is through I hope that I will find
That tomorrow will be just the same for you and me
All I need will be mine if you are here

★註:英語発話の躓きの石
イントネーションやリズムは問題にしないとして、個々の単語の発音記号を正確に発声するだけでは全体としてフレーズやセンテンスを英語として正しくナチュラルに発声できるとは限らない。部分の総和は全体ではないのですから♪ なぜか? それは英語にはフレーズやセンテンスを発話する際に単語の音(ならびに単語と単語の塊の音を)変化させなければならない幾つかのルールがあるから。逆に言えば、これらのルールが英語に独特のイントネーションやリズムを醸し出していると言えましょう。

そのようなルールが幾つありそれぞれがどんな内容なのかについては、実は論者によって意見が結構異なっています。しかし、大体、次の6個が<最大公約数的な理解>だと思います。そして、カーペンターズの教材としての優秀さを確認する上ではこの6種類を知っていれば充分ではないでしょうか。

Reduction:弱化(What are you doing? → What are (you) doing?)
Contraction:短縮(There are → There’re)
Liaison:連結(far away → 「ファラウェー」)
Elision:消失(about → ‘bout・「バゥト」)
Deletion:脱落(a cup of tea → 「カパティー」)
Assimilation:同化(of course「オブ コース」→ もちろん「オフコース」)

尚、私自身は、音の変化が、(X)音節内部で生じる場合:音節と音節を跨る場合:単語と単語を跨る場合の違いと、(Y)音の変化が文字列に反映されている場合:反映されていない場合の差異、更に、(Z)音が別の音に変わる場合:音が弱く短く発声される場合:音が発声されない場合:これらの組み合わせが生じる場合という、つまり、3×2×4の24のケースに分けて考えています。私見の詳細は、別の機会にご紹介したいと思います。



ここまで述べてきましたように、比較的にスローな曲の流れと「教科書のような」綺麗な英語の発声が、特に日本におけるカーペンターズの「英語教材」としての成功の要因である。このことは間違いないと思います。しかし、前に述べましたように三番目の成功の要因として「適度な歌詞の難度」を私は想定しています。

本来、楽曲の歌詞を始めとする韻文の中で使用される単語の難易度は(散文と比べればですが)そう高くはありません。要は、大叙事詩でもない限り、ワード数がそう多いことはないし、所詮、使用される単語の個数(だぶらずに数えた単語の個数)はそう多くない。しかし、楽曲の歌詞は、文法的には省略や倒置が多用される傾向があり、また、一つの単語に様々な意味が重層的に担わせられる象徴表現が多用されがちです。

つまり、童謡や子守唄を除けば、楽曲の歌詞は英語の教材としては必ずしも初級・中級者用ではない。そして、カーペンターズの歌詞は<類似教材>に比べて比較的に英語的な難度が高いと思いますし、そのことが日本人の大人の英語学習者からカーペンターズが支持される理由なのではないか。なぜならば、適度な難易度の単語や文法の知識が盛り込まれたものでなければ、逆に、そのテキストは大人が学ぶ教材としては、正直、「つまらない」と受け取られかねないだろうからです。


最後に、再度” TOP OF THE WORLD”の歌詞(Lyrics)を取り上げてこのことを説明します。緑字の箇所が(ピリオドを除き)文法的に省略されている内容と私が考えるポイント。どうです? 「以下の歌詞で文法的に省略されていると思われる字句を入れて完全な文章にしなさい」という問題としてこの歌詞を考えれば結構これはこれで骨のある英文ではないでしょうか。
 
Such a feeling is coming over me.
There is wonder in almost everything I see.
There is not a cloud in the sky.
I have got the sun in my eyes.
And I won’t be surprised if it’s a dream.

Everything (that) I want the world to be
is now coming true, especially for me.
And the reason is clear.
It’s because you are here.
You’re the nearest thing to heaven that I’ve seen.

I’m on the top of the world looking down on creation.
And the only explanation that I can find
is the love that I’ve found ever since you’ve been around.
Your love has put me at the top of the world.

Something in the wind has learned my name.
And it’s telling me that things are not the same.
In the leaves on the trees and the touch of the breeze,
there’s a pleasing
sense of happiness for me.

There is only one wish on my mind.
When this day is through, I hope that I will find
that tomorrow will be just the same for you and me.
All (that) I need will be mine if you are here.



(2005年8月1日:goo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロード)

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テーマ : 英語・英会話学習
ジャンル : 学校・教育

kant


カントの哲学と思想の「奥の院」とはいわないが、少なくとも、外宮の御神体ではある『純粋理性批判』を理解するための「Book Guide Book」です。この記事を読んでいただいたある哲学教師からは、

「この十冊を読むくらいなら、『純粋理性批判』十回読んだほうが早いと思いますが・・読めと言われてこれを全部読む健気な人はいますか? カントについては、単に理性や悟性を持ち出すのではなく、「経験の可能性の条件」という論点を組み込むことで、カントは相対主義を克服しようとした」のではないか。


というコメントを頂戴いたしました。確かに。けれども、実は、カントの『純粋理性批判』やヘーゲルの『精神現象論』、あるいは、マルクスの『資本論』やアダム・スミスの『国富論』などは、その思想家の専門研究者でもない限り、なかなか1回でも読み通した人は少ないのが現状です。それは、彼や彼女の不勉強のせいばかりではなく、哲学や社会科学といえども研究の細分化の潮流が激しい現在、自分の研究テーマと少しでも離れた古典を読むほどの時間の余裕はなかなかないということ。

ならば、御用とお急ぎの方に、1回でも『純粋理性批判』を読見通してみようという気になってもらうには、これくらいの補助線というか下準備の作業を薦めるのは満更無理難題であるとは私は思いません。FC2版に収録する所以です。


■『純粋理性批判』とは何か?
世界は個々の人間が主観的に認識しえた限りの「世界」にすぎない。ならば、人間の認識する「世界」のあり方は人間の認識能力に規定される。この主張と、人間が認識する「世界」についての知識は、単なる個々人の主観を越え万人を納得させうるような客観性を帯びるのではないかという主張を両立させる試みをカントは『純粋理性批判』の中で展開した。

どの哲学史の教科書にもこう書いてあると思います。而して、その両立の秘訣は、外界の本当の姿である物自体(Ding an sich)が人間の認識=感性認識の原因であり、物自体そのものの姿を神ならぬ身の人間は認知することはできないものの、人類の一員としての個々の人間に共通に与えられている感性と悟性と理性の働きにより単なる個人的主観を超えた客観的な世界認識に人間は到達することができるとカントは考えた、とも。

このカントの試みは成功したものでしょうか? この問を自分で考えるために役に立つ10冊を紹介します。日本語で読め(絶版にしても)比較的容易に手に入るものを選んだつもりです。ポイントは、①哲学の教科書やカントの原典や原書を読まなくとも、また、②「最新流行の哲学諸説」をフォローなどせずとも、(イ)カントが『純粋理性批判』で狙った意図の可否を自分で判断するために必要かつ十分な情報を入手できる、而して、(ロ)21世紀の現在に生きている日本人と日本市民が「カントの試みの成否」を問う中で自分に関係の深い政治的な諸問題をより論理的に考えられるようになるための10冊に絞ったこと。

ちなみに、私はカントの意図は成立しないと考えています。しかし、カントは『純粋理性批判』の試みによって、人間中心の哲学という別の大きな果実を人類にもたらしたとも考えている。この経緯は、そう、喩えれば、コロンブスがインドに行こうとして新大陸を(地理上の)発見したのとあるいは同じようなものかもしれません。

而して、これはマルクスが資本主義を批判しようとして「生態系と市場との妖艶な関係」を探り当てた経緯にも似ているし、あるいは、ウィトゲンシュタインが分析哲学の樹立に貢献したと同時に、哲学そのものの存在論的な限界を見出したことと一脈通じるかもしれない。神ならぬ身の人間にとって、間違いなく一個人のキャパシティーを越える「言語」や「論理」に挑戦するという営みは、所詮、哲学史のスパンで振り返ればこのような一種、ドン・キホーテ的な営みであることは避けられないのかもしれませんね。けれども、それがまた哲学というか科学の醍醐味でもありましょうし、哲学者の喜劇的な努力が、しかし、人類に与えた影響はけして小さくはない。そのことは、錬金術から化学が生まれた経緯や、20世紀の半分×地球の半分をマルクス主義が支配した現実を想起すれば思い半ばにすぎるのではないでしょうか。

尚、私の基本的な社会思想的の立場は<筋金入りのマルクス主義民族主義>であり、哲学の立場はカントとカール・ポパーと現代解釈学と中島みゆきに足場を置くものです。もしご興味があれば、下記の拙稿もご参照ください。

哲学と将棋のアナロジー遊び
 
哲学と地ビールと
 

■『純粋理性批判』を批判する視点
(A)物自体からの刺激が均一であり得るか? 
  人間の感性と悟性と理性は個々人の個体差を超えて均一であり得るか?

(B)『純粋理性批判』の主張する人間一般の認識/判断能力は所詮、スコラ哲学に源を発する<論理学>の図表に過ぎぬのではないか? これを否定できないとするならば、カントの主張の正しさの「射程距離」はスコラ哲学の正しさのそれと運命を共にするのではないか?

(C)カントの試みがスコラ的な論理学に依拠するものかどうかは別にして、カントの主張が言語分析と論理分析を材料に組み立てられていることは自明であろう。ならば、『純粋理性批判』の正しさは、言語が持つ歴史性や社会性によって減じられることはないだろうか?

(D)カントの試みが人間一般の認識能力、即ち、感性・悟性・理性の個体差を越えた共通性に依存するものである以上、心理学から捉えられた人間の多様性や異常性によってカントの主張は減じられることはないのだろうか?

(E)カントの語る物自体は『純粋理性批判』では物が存在している<事実>であるに対して、『実践理性批判』では(実は、『純粋理性批判』でも!)道徳や価値判断の根拠とされる。ここには、「神が物も道徳も与えた」というキリスト者の間でしか了解されえない<仲間内の合意>という、いわば「輸入検疫」の済んでいない前提が伏在してはいないか?



■『純粋理性批判』を批判するための10冊
00)デカルト『方法序説』『哲学原理』
・・論点(A)
・・これはやっぱ読まないとね。

01)岩崎武雄『カントからヘーゲルへ』
・・論点(B)&(E)
・・名人芸。

02)ウィトゲンシュタイン『論理哲学論稿』
・・論点(B)
・・これは英語で読まれることをお薦めします。

03)竹田青嗣『現象学入門』
・・論点(B)&(E)
・・最初にこれ読んだら、哲学が分かった錯覚に陥る。

04)渡辺慧『認識とパタン』
・・論点(A)&(B)&(E)
・・絶版。でも名著。

05)池上嘉彦『記号論への招待』
・・論点(B)&(C)
・・記号論ブームが去り、記号論の「取説」の本書が残った?

06)マルクス『ドイツ・イデオロギー』
・・論点(C)
・・『ヘーゲル法哲学批判序説』でも可。

07)廣松渉『今こそマルクスを読み返す』
・・論点(C)
・・廣松さんの著書の中で唯一お薦め。

08)川勝平太『日本文明と近代西洋』
・・論点(C)
・・これ読んだらアナール派もウオーラスティンも読まなくともよい。

09)川喜多二郎『素朴と文明』
・・論点(C)
・・第1部だけでもOK。

10)フロイト『精神分析学序説』
・・論点(D)
・・フロイト流精神分析学は過去の遺物だろうが、お話としては面白い。



(2005年3月6日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

gakuto
【Students' Departure to the Front】


◆『新々英文解釈研究』
:山崎貞・研究社出版、第9訂版・1979年9月(品切)


戦前からの名著。なんと、初版は大正元年(1912年)秋の出版;ということは90年以上にわたって読者受験生の支持を集めてきた、伝説の参考書です。学習参考書の世界では、さしずめ英文解釈のジャンルの<不沈空母>とも呼ぶべきものでしょう。 

旧制高校受験生をメインターゲットとして出版された本書は、大東亜戦争後も大学受験生はもとより大学院受験生、そして、英文読解力のアップを目指す社会人にも広く受け入れられてきた文字通りのベスト&ロングセラーです。その事情は平成を迎えても変わらず、実際、21世紀の最初のアメリカ留学生になられた、ある大学院留学予備校での私の昔の生徒さんにも本書の威光は及んでおり、「体力的にも精神的にも厳しいアメリカの大学院をキックアウトもせずに卒業できたのは、読解でも英文作成についても高校時代にやった『新々英文解釈研究』のお蔭だ」と語られる方は平成の御世になっても少なくありません。

私自身、高校生の時、本書の第8訂版を手にした時からの愛読者ですが、正直、最初は収録されている例文のあまりの難易度の高さに歯がたたず、途中から「奇数番号の問題」だけ一つおきにやることにしました。それでも九州の田舎の高校生の私には当時それが精一杯。それから数年、大学院入試準備のために本書の第9訂版を買い求め大学4回生のひと夏をかけて本書にリベンジできた感動は今でもクッキリ覚えています


本書の素晴らしさは、収録されている英語頻出構文&語法の豊富さと例文のボリューム、特に、例文問題の品質の素晴らしさだと思います。例文問題数850と解説項目数115(小項目数は208)の収録陣容は、現在、(英語を頑張っているタイプの?)大学受験生に最も支持されている類書:『英語の構文150 Second Edition』(岡田伸夫監修・美誠社、2003年12月)や『英語重要構文400』(永田達三・ナガセ、1999年11月)、『新・英文法頻出問題演習 (Part1)&(Part2)』(伊藤 和夫編・駿台受験シリーズ、2001年1月)や『エキスパート最新英語構文124』(金谷憲監修・文英堂、1999年1月)等々と比べてもそう際立って多いというわけではない。けれども、収録されている英文のボリュームと個々の例文の<風格>は、他のベストセラー学習参考書と比べても次元が違います。そう、物が違う!

それほど『新々英文解釈研究』の例文は他の類書を圧倒している。要は、個々の例文がすべて暗誦したい衝動にかられる名文であるだけでなく、個々の学習項目で解説される構文や語法が当該項目内の各例文の中にピッタリ収まっている。換言しますと、「他の表現では書き手の言いたいことがこうピッタリとは言えないよな」という正にそんな例文に学習項目として取り上げられた構文や語法がコンシステントに配置されている。それくらい『新々英文解釈研究』の英文の選定は行き届いている。うっとり、です。逆に、今の私の仕事柄、収録している例文の原著者やその相続人から著作権侵害で訴えられることはないのだろうか、と余計な心配をしてしまうほど見事な出来栄えです。

『新々英文解釈研究』のもう一つの醍醐味は、大正初年以来、日本のリーダー達が本書で英語を学んできたことにある。そう、おそらく岸信介・池田勇人・佐藤栄作・福田赳夫・中曽根康弘、等々の歴代の首相達も、青雲の志を胸に秘めている頃に本書で英語を勉強していたかもしれない。吉田茂や近衛文麿などのお坊ちゃまは外国人の家庭教師から英語を学んだかもしれませんが、庶民出のリーダーの多くは本書にタックルした可能性が高いと思います。

それは、体制側のビッグネームだけではありません。マルクス主義経済学の闘将として有名なあの先生も憲法の大御所で人権派の巨頭のあの先生も、あるいは、世界を舞台に活躍したあの高名な画伯も教育者の女史も本書で英語を勉強したに違いない。何人かの先生からは直接私はそれを聞きましたが、そんなことを想像しながら本書の例文を読み進んでいくと、現代の日本を作った先人に対する理解も深まるような気がします。つまり、本書は英語の例文や構文を通してですが(ですから、かなり特殊で小さな画像を通して、しかも、写真で言えばあくまでも「陰画」の形ではありますが、)日本の近現代史を担った若者の精神を追体験できる貴重な一書である。そう思います。うみゅー、なんでこんな実用的にも優れた書籍が実質絶版になるのでしょうかね?  

実質絶版になったのも、しかし、不思議ではないです。広い意味の英語教育業界にいる一人として私には、「なぜ『新々英文解釈研究』が版元品切れになるのか」など痛いほどよくわかります。簡単な話です。売れないから。はい終わり。はい終わりではあるのですが、大げさな物言いではなく、本書が日本の若い英語学習者の支持をマーケットで失ったことと日本のあんまりかんばしくもなく愉快でもない社会の現状とは関連している気がします。その心は?

その心は、ゆとり教育によって日本人の学力が崩壊して以降、大学入試のテスト問題は問題自体が本当に簡単になったか、(受験者のレヴェルの一般的低下によって)少なくとも実質的に難易度が低下した。そんな現在の大学入試に対応するために、本書のような本格的参考書にタックルする必要も必然性もなくなって久しいのです。このことが第一。そして、もっと広く考えれば、本格的で骨太の思想内容が充満した英文の意味を素早く厳密につかみ取る能力なんかよりも、文字にせよ音声にせよ英語で伝えられる大量の情報を条件反射的に処理できる英語力の方をこの国では現在求めているとしか思えない。これが第二。この記事を書いていて改めてそう思いました。皆さんはいかがお考えですか。




(2005年6月11日:goo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロード)

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テーマ : 英語・英会話学習
ジャンル : 学校・教育

◆英語ができるとどんなことができる?
NOVAにせよgabaにせよ、ベルリッツにせよイーオンにせよ、英会話スクールに通う方にはそれなりの目的があるはずです。例えば、「駅前にいつでも通える休憩室を確保する」とか、「外国人講師のあの彼氏/彼女をナンパする」とか、何かしらの目的があって人は英会話スクールに通うでしょう。そして、英語教育の世界に20年近くかかわってきた私の経験から言えることは、日本では英会話スクールに通う目的に他国に比べて(少なくとも、私がファーストハンドなビジネス経験を持つ、韓国・台湾・タイ・アメリカ本土・ドイツと比べただけでも)際立った特徴がある。それは、「英会話スクールに通う目的として英会話能力の向上や外国人とのコミュニケーション経験」を挙げる方の比率がどのアンケートや申込面談の記録でも際立って大きいことです。言っている意味がわからない?

はい。国の安全保障、つまり、憲法9条を巡る議論と同様、日本以外の普通の国では(笑)、「なぜ、英会話習っているの?」の問に対して、「英会話能力の向上のため」などと答える英会話スクール受講生は皆無ではないにせよほとんど見当たらない。ということは、日本以外の普通の国では、「英会話能力の向上のためにこの英会話スクールに申し込みました」と答えたとしても、質問者は納得してくれるないだろうということです。ことほど左様に、

What is your main purpose of attending English conversation school ?

と聞かれて、(Because) it is to study English conversation.

と回答したではおそらく質問に答えたことにはならない。蓋し、このような答えは質問者を満足させる回答ではないことは、実は、文法的にも言えることです。つまり、質問の中の「English conversation school」に冠詞がついていないことでも明らかということ。中学校の英語の授業でも誰しも習ったことでしょうが、「その施設の本来的な用途」のためにそこに行く場合には施設を表す名詞は無冠詞になる。例えば、次の二揃いの例文は「冠詞」のあるなしで決定的に意味が異なってくる。

I go to school.(学校に(勉強に)行く)
I go to church.(教会に(礼拝に)行く)

I go to the school.(学校に(殴り込みに/電気配線工事に?)行く)
I go to a church.(教会に(盗みに/結婚式の飲み会に??)行く)


前置きが長くなりましたが、以上の説明からも「 it is to study English conversation.」が「What is your main purpose of attending English conversation school ?」の回答ではありえないことは自明でしょう。畢竟、「What is your main purpose of attending English conversation school ?」という質問は、「英会話能力を身につけられたとして、それでもって(英会話能力が乏しければできない/達成することが困難な)何をしたいのですか」を尋ねる質問なのです。

要は、普通の国の人々にとって、英会話の学習は自己目的的ではありえない。脱線になりますが、だからこそ、「なぜ、エベレストに登るのですか?」と聞かれて、「それはそこにエベレストがあるからです:"Because it is there."」と答えたGeorge H. L. Mallory 卿の言葉は含蓄のある名言として、逆に、歴史に残ったのです。

けれども、日本の場合、この「英会話能力の獲得向上」の先にある目的が欠落もしくは極めて希薄な方が多いと言わざるをえない。而して、英会話学習の動機に関する日本人の問答の多くは、アメリカ人講師やアメリカ・台湾・韓国の英語ビジネスの経営者から見れば次のような「漫才」もしくは「哲学的問答」の色彩を帯びて受け取られかねないのです。

Why do you study English conversation at our school?
(なぜ、わたしどもの英会話スクールで英会話を学ばれるのですか?)
Because it is there.
(それは、そこに英会話スクールがあるからです)



何のために英会話スクールに通うのか? そして、その目的のために「英会話スクール」に通うことは合目的的か、あるいは、英会話スクールに通うことのコストパフォーマンスはリーズナブルだろうか? まして、全員が英語の母語話者である外国人講師がマンツーマンもしくは少人数で教える英会話スクールが、貴方の英会話研修目的から見て合目的的なのか、あるいは、そのコストパフォーマンスはリーズナブルか? 

蓋し、本稿のメインテーマである「英語ができるとどんなことができる?」というポイントがあやふやなままであれば、実は、通う英会話スクールの選択も通っている英会話スクールの評価もできはしないのです。ましていわんや、そのコストパフォーマンスの高低の判断などできるはずがない。換言させていただければ、英会話スクールに通おうとする各人の研修目的と研修達成の納期と研修のために割ける予算から逆算しない限り、英会話スクールの評価どころか、英会話スクールに通うべきかどうかさえ判定はできないということです。

答えを先に言うようですが、英会話スクールに通うべきかどうか、どのスクールのどのコースを選ぶべきかの解答は一様ではない。英会話スクールに通う目的は、幾つかのグループには括れるのでしょうが、究極的には個々に異なるだろうからです。

尚、上で記した「予算」という言葉は比喩的なものであり、それは、文字通りの「負担可能な金額」という意味と自宅での予習復習を含め日々割ける「研修時間」の二つを含ませて私はここで使っています。畢竟、「Time is money.」であり、ならば(?)、「Money is time.」でもある。つまり、「時間がないなら時間を金で買え」という経緯もまた、人が英会話スクールに通う理由の一つであることは間違いないと思うからです。このような観点に立って、「英会話を学ぶ動機」を俎上に乗せた英会話スクールの宣伝について一緒に考えてみましょう。

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◆gabaの広告を読んでみる
広い意味の「英語教育屋」である私は、語学スクールや海外の大学院が日本で運営しているプログラムの広告宣伝には日頃から興味を持っています。今のお気に入りはgabaマンツーマン英会話の宣伝コピー。個別指導形態の英会話研修に特化しておられるgabaの広告にはいつも考えさせられています。

最近の「歯医者さんや美容院にはグループ治療とか集団ケアとかないのに、英会話スクールではいまだにグループレッスンが盛んなのはなぜでしょうか」という挑発的なコピーには笑ってしまいました。確かに、一人一人の実力も目的も到達目標も納期も違うのだから、このコピーを素直に読めば英会話のレッスンも(顧客側の予算とスクール側の投資リスク管理が折り合う限り)歯医者さんや美容院のようなマンツーマンの指導がベストだよな、と思わないではない。

このコピーには、しかし、落とし穴があると思います。簡単な話です。24時間×4週間の缶詰研修などのよほど特殊なケースを除いて、英会話スクールの受講生にとって、スクールに通っている時間は英会話や英語を学ぶ時間のごく一部でしかないということです。逆に言えば(仕事で長らく英語を使ってきた方や、すでにTOEICで860点を超える実力の方を除けば)、それがマンツーマン指導であるにせよスクールで受けるレッスン時間の少なくとも5~6倍の時間を学習とトレーニングに投下しない限り短期間での英会話力の大幅な向上は望めないだろうということです。

そうであれば、英会話スクールの意義と効果は、単に、どれくらい多く英語を聞いたり話したりできるかということだけで定まるものではなく、スクール以外の学習とトレーニングにいかに良いフィードバックがあるかによっても決まってくるのではないでしょうか。そして、このポイントが先程のgabaの広告ではスッポリと抜け落ちている。

基本的な語彙や文法知識の基礎、あるいは、初歩的なリスニング能力の獲得という研修の工程を(しかも、最早、日本語の母語話者:日本語脳になっている)アダルトの受講生が英語のネーティブスピーカーとのマンツーマンのレッスンで行うことは、コストパフォーマンスも学習のパフォーマンスも悪いと思います。考えてもみてください。英語の初級者が日本語でも知らない概念や日本語と異質な語の配列のルールを、英語で説明を受ける非効率さを! 

英語圏で24時間英語にどっぷり浸かり英語のシャワーを浴びるというケースでは(その場合でも、私はアダルトの初級者に「英語は英語で学ぼう」というダイレクトメソッドだけの研修は薦めませんけれど)、研修者の性格や目的・目標によってはひょっとすれば「量が質に転化」することもありえましょう。しかし、たかだか週に90分×10コマ以下のレッスンを日本で受講する想定では、「英語のネーティブスピーカーとのマンツーマンのレッスン」がすべての英会話研修志望者に対して万能薬ではないことは明らかだと私は思います。

加えて、先程も述べましたように英会話スクールには、英語を話し聞く経験値を積み重ねることの他に、スクール以外での学習とトレーニングへの良いフィードバックの効用も求められています;要は、学習の方法論の体得と学習を持続するモティベーションの提供も英会話スクールのコストと研修双方のパフォーマンスを決定する上で大きな要素でしょう。ならば、自分と同じ程度か少しレヴェルの低い他の受講生の下手な英語に対するインストラクターの指摘を第三者として見聞きすることの効用は一概に否定されることではない。これ「他人の振り見て我が振り直せ」の理屈です。

インストラクター1人生徒4人のグループレッスンでは、マンツーマンでのレッスンに比べれば、インストラクターと直接話せる時間は確かに4分の一になる。しかし、グループレッスンではその分コストが比較的廉価ですむだけでなく、「他人の振り見て我が振り直せ」による自分の不十分さを客観的に観察できる<気づきの契機>や自分に合った学習法を他人をモルモットにして自分でつかみ取る<獲得の契機>もあり(もちろん、これらの契機=チャンスをものにできること自体が研修者の資質と能力ではありますが)、少なくともグループレッスンがマンツーマンレッスンに比べて必ず劣るわけではないと思います。

換言します。率直に言えば、短期間で大幅な成果を出さなければならない方にとっては、英語圏での留学研修や特殊な4週~8週間の缶詰研修などを受講するしか他に道はないのかもしれません(尚、現在ある程度の実力をお持ちの方(例えば、長らく仕事で英語を使っておられる方やすでにTOEICで860点以上のスコアをお持ちの方)にコストと効果の両面でお薦めするのは、毎日、30分から1時間の電話での英会話です。退屈でシンドイですけれども、これ講師とスクールを選べば悪くないです)。この場合、グループレッスンと同様にマンツーマンレッスンでも研修が足りず、マンツーマンレッスンは皮肉なことにその高いコストとゆえに(くどいですが、成果がでないことでは同じなのだから)、グループレッスンよりもコストパフォーマンスが悪いことになります!

マンツーマンの英会話には、コスト面でも効果の面でも上で述べたような「落とし穴」がある。けれども、この記事は、別にgabaさんの商いを妨害するつもりで書いているのではない(笑)。よって、大急ぎで補足させていただきますが;現在の英語力・目的・目標・納期・コストからみて、英語のネーティブスピーカーから日本でマンツーマン指導を受けることが合理的な方も少なくない。ポイントは、その研修スタイルとボリュームがご自分の現在の英語力・目的・目標・納期・コストからみて合理的で合目的的かどうかです。

そして、この点ではgabaマンツーマン英会話は、文字通り、英語のネーティブスピーカーの英会話の個人指導だけでなく、個々の受講生に合った最適なレッスンプランを提案する<カウンセリング>にも力を入れておられるということですから、gabaのコンセプトとシステムは一応、合理的で良心的だと言えると思います。もちろん、どんなスクールと受講生の間にも<相性>というものがある。では、マンツーマンスタイルにどんな方が向くのでしょうか。私見を述べさせていただければ、それは、

(1)英語の基礎はできている方(TOEICで600点以上か、600点~470点だが英語を話すのが苦にならない方)で、

(2)英語のネーティブスピーカーとの交渉が英語で可能な英会話力(投資家から投資を募る英会話力:売り手に必要な英会話力)までは求めないが、ビジネスを英語でディールできる程度の英会話力(投資先を吟味する投資家に必要な英会話力:買い手に必要な英会話力)を

(3)2~3年以内には身につけたいという向きには(コストとの相談になりますが)マンツーマン英会話スクールは合理的な選択でしょう。



◆英語ができるとどんなことができる?
現在の英語力・目的・目標・納期・コストを踏まえなければ最適な英語研修のスタイルは確定できない。この観点から、gaba英会話スクールのもう一つの広告を取り上げたいと思います。これ力作です。「英語が話せたらやりたいこと」:”If I could speak English, I would like to do・・・.” について、実に「75人の声」を拾って作った全面これ文字のあの広告です。確かに、英語が話せたら(今はできない)こんなこともできるかもしれないな、こんなことできたら素敵だろうな楽しいかなと、思わず微笑がこぼれる楽しい広告。

一言居士のKABUは、しかし、この広告を通勤の小田急線の中で見かけたときに、これらの”If I could speak English, I would like to do・・・.”のそれぞれの声の主にあることを問いかけたくなりました。

それは、これらはすべて英語が話せればやりたいことであることは間違いないでしょうけれれど、(イ)これらの「夢」を実現するために必要な英語力のレヴェルには物凄い差がありますよね、(ロ)これらの「夢」の中には、それを実現するためには英語以外の能力や知識、それに<運>の方が決定的に重要なものとそうでもないものとが混在していますよね、そして、(ハ)これらを実現するために英語力が必要になるものと、実現するための前提として(つまりその道でチャレンジしたりトライする「有資格者」になるためにすでに)英語力が要求されるものとが、これらの「夢」には混じっていませんか、ということです。

最後者と後者の違いはいささか微妙ですが、例えば、海外で就職するとか海外でビジネスを立ち上げるという場合、ビザ・パスポートの取得や法人登記の問題がクリアされなければチャンス自体が実質与えられない。ならば、最後者ではどんなに英語力があっても元々チャンスがないパターンもでてくる。ならば、後者と最後者、(ロ)と(ハ)は最初から分けておいた方が後々便利ですし、後で「詐欺師」呼ばわりされるリスクもヘッジできると思います。

これら(イ)~(ハ)の問いで私は75名の方々に何を言いたいのか? それは、これらの「夢」を実現するために必要な、英語力のレヴェル・英語以外の他の知識や能力のレヴェル・運の度合いを考えるとき(そして、土台、「夢」を実現する可能性がもともとゼロかもしれない可能性を鑑みた場合)、現在手持ちの英語力から到達すべき英語力を獲得するコストとリスクは、その「夢」を実現して得られる利得と比べて果たして合理的でしょうかということです。

ここで語られている「夢」の実現に必要な英語力はどうみても英会話のスキルに限定されるものばかりではないでしょうから(つまり、その獲得にはかなりの時間がかかるケースもでてくるでしょうから)、上のポイントは「夢」を本気で実現したいのならなおさら、夢に向かって走り出す前に真面目に考えるに値することだと思います。

さて、75の各々の声に対して、私は(イ)~(ハ)の3点についてどう思ったか;1行3列の行列で表記すればそれは、(英語力高, 英語力意外の能力の比重大, 有資格者になる時点で英語力必要)のようになり、行列で表記すれば数値化も可能になるでしょうがこれらについては述べません。これを読んでいただいている皆さんに考えていただきたいからです。そして、私自身皆さまのお考えをいつか聞かせていただきたいと思っています(尚、以下ではgabaスクールの著作権というか広告担当者の労力に敬意を表して、75名分のすべての声は採録しませんでした)。では、どうぞお楽しみください。


◆海外・自己開発&趣味
日本の伝統工芸を海外にぜひとも伝える。焼き物や織物(文具メーカー常務)/日本人のどこがダメなのか、世界に問いたい(食品卸問屋経営)/自分の好きな日本人作家を翻訳して世界中の人に読んでもらう(教育機関事務)/会社を数年間休んで国際ボランティアをしてくる(保険会社営業)/JFKの謎に世界一深く迫る私(IT関連会社プログラマー)・・他、6名


◆国内・自己開発&趣味
DVDを字幕無しでモードで見たい(女子高校生)/カラオケ合コンを、洋楽でびしっと決めたい(大学生)/自由自在にネットサーフィンしたい(商社勤務OL)/多国籍合コンを開きたい(ネイリスト)/世界中から届く迷惑メールの中身を知りたい(ウェブデザイナー)/自分のTシャツに書かれた英語の意味を知りたい(中学生)・・他、8名

◆海外・社会生活
ハワイで、犬をたくさん飼って生活をする(花嫁修業中)/アメリカで子育て。一人はアーティストに、一人はプログラマーにする(パティシエ)/朝起きて、そのままプールに飛び込めるような家に住みたい(インターネット会社経営)/リタイヤ後、妻と共にカナダに住む(メーカー役員)/旅行という非日常ではなく、海外の日常生活を味わいたい(グラフィックデザイナー)/西海岸に住みたい。のんびりと創作活動(ミュージシャンの卵)/国境を越えた恋愛と人生!(飲食店フリーター)/相続税の必要ないオーストラリアに引越し(印刷会社オペレーター)/夫に海外勤務をさせて、私もついていく(専業主婦)/外国で日本語教師をやりながら数年暮らしてみたい(女子大生)/外国人のお嫁さんになって、子供はカリフォルニアで育てたい(短大生)・・他、14名

◆国内・社会生活
電車の中ではしゃいでいる外国人に説教したい(自動車販売代表)/自慢気にしゃべる周りの帰国子女を見返す(OL)/外国からの留学生ホームステイの受け入れ先になる(テレビ局業推部)・・3名

◆海外・旅行
世界中のありとあらゆるデザートを食べてやる(女子大生)/本場NYのブロードウェイミュージカルをハシゴしたい(主婦)/旅行地図にはない場所に行く(フラワーショップ販売スタッフ)/ニュースでは伝わってこない、海外スポーツの興奮を直に感じたい(自動車販売営業)/飛行機の機内アナウンスを速記する(大学生)/新婚旅行で、妻にいいとこ、見せてみたい(部品メーカー販売)/海外旅行先で逮捕されたときに現地通訳に翻弄されて生涯懲役を受けたくない(映画配給代表)/ニューオリンズで本場ジャズ&オイスター三昧の休暇(ファッションブランドPR)/卒業旅行でアメリカ横断(大学生)/全ての国に一人ずつ友達を作りたい(高校生)・・他、10名

◆海外・能力開発 
ケロッグのMBA(★)で最先端のマーケティング理論を学ぶ(経営コンサルタント) /家具職人になりたい。英国でしっかりと学んで、東京でオリジナルの家具ショップを(インテリアコーディネーター)/海洋生物学の教授になりたい。カリフォルニア大学で博士号をとる(大学生)/ハリウッドの裏方スタッフとして修行したい(映画監督志望)・・他、5名
★KABU註:
「ケロッグ」とはケロッグのコーンフレークで有名なケロッグ財閥の寄附でできた、米国はイリノイ州シカゴ郊外のエヴァンストンにあるノースウェスタン大学のビジネススクールのこと。世界的なマーケティング理論の権威・フィリップ・コトラー教授を始め錚錚たる陣容を誇りマーケティングの分野では全米のトップMBAという評価を享受しています。



◆海外・ビジネス
ロンドンのアンティックショップに自分で買い付けに行く(ショップ店員)/セレブ専用の指圧マッサージサロンをハリウッドで開業する(指圧師見習い)/週刊の漫画誌を英語圏で創刊する(専門学校生)/研究費の出るアメリカ企業で満足いくまで実験する(製薬会社開発チーム勤務)/ニュージーランドのプロリーグに挑戦したい(某メーカーラクビー部キャプテン)/将来、宇宙ステーションで仲間はずれにならないようにしたい(大学生)/炊きたてのふっくらコシヒカリに辛子明太子の幸せを外国に普及させる(居酒屋店主)/自分の会社のNY支社設立(オフィスデザイン会社代表)/米国における知的所有権の対日本向け管理運営法人を設立する(弁護士)/ブラックバスを全部アメリカに戻す作業(公務員)/トップクラスの通訳になって世界の大統領とお話したい(メーカー商品企画)/国連で働いて(★)、世界中の喧嘩をやめさせる(カフェ店員)/通訳の要らない政治家になりたい(渋谷区議会議員)/海外のマーケティング会社に再就職(玩具メーカー商品企画)/年収を100倍にしたい(銀行員)/グローバル系M&Aをガンガン仕切って、30代で引退(外資系金融戦略担当)・・他、19名
★KABU註:
国連は加盟国が論議するための常設の国際会議場にすぎず、国連自体に「世界中の喧嘩をやめさせる」権限も能力もありません。



◆国内・ビジネス
アロマセラピーを原材料で買って、自分で調合したい(フラワーコーディネーター)/外国人御用達の歯医者さんを作りたい(歯科医師)/従業員を全てアメリカ人にして、雰囲気にこだわったハンバーガー屋を始めたい(カフェ経営)/私の小説を世界中の人々に読んでもらいたい(コラムニスト・作家)/英語のキャッチコピーを書きたい(広告代理店制作局)/海外事業部を希望してプロジェクトリーダーになる(商社キャリアウーマン)/一見、できる人になりたい(家事手伝い)・・他、10名




(2005年9月30日:goo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロード)

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テーマ : 英語・英会話学習
ジャンル : 学校・教育

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2007年11月14日、経営譲渡を受け再建途上の新生NOVAの第1号教室がオープン。このニュースを期に、ちょうど2年前に書いた記事、NOVAに代表される日本の英会話スクールの主張を切り口に日本の英会話教育を俎上に乗せた記事を加筆の上、ここに収録したいと思いました。

NOVAの経営破綻は、企業体力を越えた規模拡大路線が原因としても、また、(その破綻が現実のものとなった今、誰もが否定し嘲笑しさえする)そのような無理な経営戦略をNOVAが採用したについては(これまた後知恵的に)、前社長のエクセントリックな性格から説明が可能としても、仮にもNOVAの創業者にして20年以上にわたり英会話ビジネスで<飯を喰ってこられた>猿橋前社長やNOVAの経営幹部が、拡大路線でいけると予想しあるいは錯覚したについては、彼等なりの英会話マーケットに関する経験と認識が伏在していたことは間違いないと思うからです。すなわち、「日本の消費者はNOVAの主張とサーヴィスをそれなりに支持するはずだ」、と。

英会話ビジネスの経営企画・商品企画にも10年近くかかわった者として、あるいは、英会話ビジネスと隣接する留学研修、そして、英会話ビジネスを含む企業内の人材開発研修に延べ20年近くかかわってきた者として私は、NOVA旧経営陣の経営自体は too shabby だったけれども、彼等が前提にしたであろう「日本の消費者が英会話スクールに求める the very thing をNOVAは提供できているはずだ」という認識はそう間違っていなかったのではないかと考えています。

英語ビジネスの専門家の端くれとしては(それは、そのような英会話ビジネスを巡る日本のマーケットの意識状況を変革できないできた自分の力不足の結果でもあるわけで)忸怩たる思いは払拭できませんし、また、英語教育に関心のある一人の日本人としては実に情けない話しなのですが、日本の英会話マーケットを支配している「英会話スクールへのニーズ」はその程度のものではないか、と。畢竟、「英会話はネーティブ講師から習うべき」であり、「レッスンは少人数であれば少人数であるほどよく、マンツーマンレッスンが最高」であるというNOVAの主張に代表される認識がNOVAの破綻にかかわらず現在も日本の英会話マーケットを覆っていると思うのです。

では、NOVAの主張は正しいのでしょうか。gabaマンツーマン英会話等のNOVAと親和性の高い主張を掲げる英会話スクールが日本の英会話ビジネスの圧倒的多数である現状を鑑みれば、NOVAの破綻はNOVAの主張の誤謬の帰結ではないこと、少なくとも、英会話ビジネスのマーケット(需要側と供給側の双方とも)がNOVAの主張を間違いとは考えていないことだけは確かだと思います。では、NOVAの主張は間違いなのか? もし、間違いとすれば、なぜに英会話サービスを市場で購っている消費者はその間違いに寛容なのでしょうか?  このような問題意識から2年前の記事を紹介します。


関連ニュース:
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071116-00000218-yom-soci

*****  *****

英会話ブームと呼ばれる状況が日本にもかってありました。15年近く前、大学生やビジネスマンが我先に英会話教室の門を叩いたバブル期前後のことです。その頃に比べればブームは去ったと言えるでしょうが、2005年の今も英会話ビジネスはその拡大を続けています。

例えば、児童英会話、テレビ電話やウェブを使った在宅レッスン等々の新サーヴィスを導入しつつ、大手の英会話スクールは拠点数の拡大を進めている(★)。また、小規模の個人経営的な英会話教室も(『タウンページ』をベースにした調査では、)この15年間でけっして減少してはいません。あるいは、起業家セミナーやアントレプレナーフェアでのアンケート調査を見ても(これは企業秘密であり詳細の数字はここには書けませんが、初期投資額の大きい「飲食系」を避けて比較的少ない開業資金で起業できる)学習塾等の「スクール系」に関心のあるフランチャイズオーナー希望者の間では、投資対象としての英会話スクールの人気はけして低くはないです。要は、英会話研修のニーズは、ブームなどという一過性のものではなくなり、この15年間で日本の社会にビルトインされ、むしろ、日常の風景になったと言えると思います。

★註:英会話スクールの規模
全国展開しているある児童英会話スクールの経営管理者を務めた経験から言わせてもらえば、各スクールが公表している生徒数などは実はあまり参考になりません(笑)。よって、ここでは、児童英会話を除いたアダルトの生徒が通学するための拠点数と平均床面積から各スクールの規模を比べてみたいと思います。いずれも2005年7月5日の各社のホームページで確認したもの。それによれば、ECC(150拠点);NOVA(620拠点);ジオス(510拠点);イーオン(250拠点);gabaマンツーマン英会話(27拠点);ラド・インターナショナル(4拠点)。

拠点の坪数や間取りの雛形(とその施工コスト)は各社の企業秘密であり正確な所は何とも言えませんが、各スクールの想定平均顧客単価と家賃の推定平均坪単価と人件費ならびに広告宣伝費から逆算すると、(大教室・中規模教室の差を捨象して大雑把に推計すると)損益分岐点を越え初期投資を3年で回収するためには各拠点には最低でも年間で150人の新規生徒数が必要になります。つまり、NOVAだけでも最低でも真水で90,000人の新規受講生を抱えており、入退会を含めた述べ生徒数が年間200,000人という公称も満更嘘ではないのです。

★補注:2007年に思う「NOVAの規模」
この記事のアップロードから2年後、NOVAが経営破綻した2007年10月段階では、生徒数は40万人前後に達していたと報道されています。NOVAは「自転車操業的資金繰り」のためか、「不調なときには攻めにでる」猿橋前社長の経営者としての性癖のゆえか分かりませんが、これま報道の通り、NOVAは教室数の伸びにともない生徒数もこの2年間で約2倍近いの規模拡大を行ったものと推測できます)


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英会話への日本人の関心は底堅い。それ自体は悪いことではないでしょう。しかし、日本の英会話には一種<歪な常識>が絡みついているのではないか、日頃から私はそう感じています。それは次のような<常識>です。

・英会話は英語のネーティブスピーカーに習わなければ身につかない。
・少人数であれば少人数であるほど英会話のレッスンは効果がある。
・英会話は「勉強」するものではなく「トレーニング」によって始めて身につくものだ。
・受験勉強のように嫌々勉強するのではなく、話したいことが話せるようになる喜びを感じながら楽しくトレーニングすることが英会話上達のコツである。
・英会話能力の開発のためには留学が理想だ。よって、留学するのと同じような環境を準備した「英会話スクール」が良いスクールである。


このような<常識>についてはこのブログの読者の皆さんからご意見をうかがいたいくらいなのですが、その叩き台にすべく以下にNOVAとgabaマンツーマン英会話の主張を収録しておきます。なぜこの両スクールを取り上げたかというと、NOVAは最大手の英会話スクールというだけでなく、「英会話は英語のネーティブスピーカーに習わなければ身につかない」という思想を明確に打ち出した最初の全国区のスクールであること。そして、NOVAだけでは「ある特異な経営者に率いられた特殊な英会話スクール」の英会話思想の紹介に陥るおそれもあり、NOVAの主張を通して日本人の英会話スクールサービスに関する常識を検討するための叩き台としてはいささか心細いからです。

ではなぜgabaマンツーマン英会話なのか。それは、gabaマンツーマン英会話は後発ながらも(1995年創業)、しかも、そのビジネス展開も現在は首都圏に限定しているのですが、「少人数であればあるほどレッスンは効果的」という理念を勇敢にも他者との差別化ポイントにした始めての英会話スクールということによります(★)。

★註:NOVAとgabaマンツーマン英会話を選択した理由の補足
ECCやラド・インターナショナル、ジオス、イーオンは日本人講師と英語のネーティブスピーカーの講師を併用しています。講師は原則全員が外国人ではあっても例えばシェーン英会話スクールのようにフランチャイズ展開に頼るブランドは本部の思想が末端の現場まで行き渡っているとは限らない。また、ベルリッツは英会話スキルを獲得するモティベーションの高い顧客を囲い込む戦略を取っており必ずしも全国展開を目指していない。すなわち、消去法から言っても、上に述べた<常識>を全国規模で、かつ、思想的に考えるためにはNOVAとgabaマンツーマン英会話の主張を取り上げるのが最も適切と思いったしだいです。

尚、私は、おそらく日本で始めて「実用英会話のレッスン」を「どの拠点スクールでも」、ということは「日本人講師でも」、かつ、「一定水準の品質を確保しながら教えることができる教務マニュアルを整備した」という点で、日本の英会話スクールの歴史の中でECCが果たした功績はけして忘れられるべきではないと考えています。地方を中心にした堅調なECCジュニアビジネスの成功は偶さかの成功ではないと思います。

それは、トータルでのCS&ES&FS(顧客満足度・従業員満足度・フランチャイジー満足度、所謂「ステーツホルダー満足度」)の高さに裏打ちされた成功であり、それは、一群の「強いタイプの生徒や従業員」、つまり、生徒においては「費用・時間・スタート段階での英語力」のうち2個以上、従業員スタッフにおいては「アンントレプレナー志向かつ資金力のあるスタッフ」からの評価はそこそこ高いものの全体としては低い水準にとどまっているNOVAが「大手競合スクール」との競争では必ずしも利益をenjoyできていないと思われる事実と好対照をなしていると思います。



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【New NOVA school opens. November 14, 2007】


・NOVAの主張
『なぜ、日本人は英語を話せないのか?』(nova:駅前留学NOVAが発行するミニフリーマガジンVol.1)からNOVAの主張を要約引用しておきます。

(1)「勉強」では身につかない英会話力
中学・高校で6年間も英語を勉強したのに、それだけでぺらぺらしゃべれるようになった人はほとんどいないはず。それは文法を丸暗記したり、単語を詰め込んだりするような“読む・書く”を重視した方法で、読み書きに必要な知識は得られても、外国語を聞き・話す力を習得するのに適した方法ではないから。

(2)英会話力習得の鍵は海外留学
外国語を身につける近道は、みなさんご存知の通り「海外留学」。海外留学の環境では、自らの意志とは関係なく、生活していく上で外国語を聞き、話さざるを得ません。実際のコミュニケーション・経験を通して覚えた外国語は、なかなか忘れないもの。だから自然に無理なく身につくのです。(中略)国内で身につけるにはどうしたらいいでしょうか?

(3)NOVAは、海外留学の環境を国内で再現!
NOVAは、海外留学並みにたくさんの外国語を聞き・話せ、レッスンを無理なく続けられるため(には次のポイントを英会話スクールは備えるべきだと考えます)。
・ネーティブスピーカーと少人数でレッスンすること
・多くの量の外国語を聞き・話せる環境であること
・カリキュラムが一人ひとりに対応していること
・続けられる環境であること

(4)上達のヒミツは「第二言語習得法」
・外国語を第二の母国語(ママ)として身につける方法
これに対して、これまで多くの日本人がしてきたのは、外国語を外国語として学習するという「外国語教授法」でした。
・講師はネーティブスピーカーでなければならない。日本人の講師は絶対に不か
これに対して、これまでの英会話学校では、日本人の先生。または日本人と外国人のペアティーチングが主流でした。
・ネーティブスピーカーが英語で、英語を教えるスタイル
これに対して、これまでは日本人の先生が、日本人の生徒に、日本語で、外国語を教えるスタイルでした。必然的に、文法・構文・発音などが中心となっていました。NOVAのスタイルでは、身振り手振りを交えた片言から始め、“実践的”なトレーニングでだんだんきれいで流ちょうな話し方に仕上げていきます。
・子どもが言葉を自然に身につける順番で英語を習得していきます
話す→聞く→書く→読む。これに対して、これまでは文法・構文の学習が中心で、読む→書く→聞く→話す の難しい順番に習得してきました。



・gabaマンツーマン英会話の主張
各種英語学習雑誌に2005年3月-4月に出稿された広告『gabaの理由』から引用します。

(1)これまでの英語教育は嘘だと思う。
日本人は中学と高校の授業だけで、少なくとも1,100時間という途方もない英語学習量に拘束されているにもかかわらず、皆からっきし話せないから。

(2)語学をグループレッスンで勉強するのは、どうも摩訶不思議な方法だと思う
他の日本人がしどろもどろ話すのを聞く時間の方が、講師が話す時間より長かったりして、率直にそれは逆効果だから。

(3)英会話業界を根底から覆していきたいと思う
各社とも大差ない(と、我々の目には映る)サービスで、イメージだけの競争に甘んじてきたから。カウンセラーとよく相談した上で、優れたマンツーマン専門講師との1対1レッスンを行うことが、最も効果的な英会話の学習形態であると思う。そこでは、あなた自身がよく聞きよく話す、しかないから。


◆KABUのコメント
私は、先に<歪な常識>と書いたようにNOVAとgabaマンツーマン英会話の主張には疑問があります。それは煎じ詰めれば、英語のネーティブスピーカーから英語を英語で学ぶスタイルで果たして(挨拶や道案内、あるいは、青い目や褐色の肌の恋人と愛を語らったり、買い物をして公共交通機関を利用することに必要な英会話力を越えた:私はこの程度の英会話力のことを「進駐軍の通訳の英会話力」と言っていますが、)ビジネスを英語で行える英会話力が身につくのか?  もし、身につくとしてもそれは効率的な方法だろうか?  という疑問です。

大学院留学予備校の経営管理者として学部正規留学生や大学院留学生の留学前後の英語力を万人単位で知る者として、私は留学自体にも英会話力の向上に絞ればそう過大な期待をすべきではないと考えていますが、まして、日本国内で行われるダイレクトメソッドの英会話スクールの効果においておや、です。

元来、中学や高校の英語の授業は英会話力養成を元来目標にしてはいないのです。よって、日本の中学・高校の英語の授業を受けても英語が「それだけでぺらぺらしゃべれるようになった人はほとんどいないはず/皆からっきし話せない」というのは、(少なくとも今までの)英語教育に対する過大なクレームであり不当な非難だと思います。

約束していないことを達成していないからと言って誰も非難されるはずはないからです。私に言わせれば、NOVAとgabaマンツーマン英会話の批判は「八百屋でマグロが売っていない」と詰るようなものです。

社会権的基本権の実現をはかるべく教育の機会均等を全国規模で具現することこそ初等中等教育の目的であり、そのための資源の合理的配分を考えた上で、「英語が話せるようになること」を公的な英語教育はその達成目標にしてこなかったのです。そして、それが達成目標にしてきた単語や文法と構文の知識の習得は、子供達が将来英会話を習得することを考えても大切なものだと思います。

最後に指摘したいのは、英語のネーティブスピーカーから習えば英語が身につく(そうしなければ身につかない)というのは妄想ではないかということです。ラド英会話のHPでこういう文章を見つけました。

「日本人だからといって、誰でも正確な日本語を教えられはしないのと同じで、英語の先生はネイティブなら誰でもいいというわけではない。きちんと英語教授法について学んだことのある講師に教わらなければ、間違った英語が身についてしまう恐れがあるのだ」、
と。

その通りだと思います。そして、物理的に限られたレッスンにおいて、目一杯ネーティブ講師と英語で話すのも一興ではありますが、他の日本人の無様なたどたどしい英語を聞いて「他人の振り見て我が振り直す」のも効果的なレッスン時間の使い方ではないでしょうか。


◆gabaの広告で go over
繰り返しになりますが、私はNOVAの主張が満更間違っているとは思いません。彼等の主張が「万人に対して正しい」とは思わないけれど、逆に、外国語は結局それを母語とする外国人に習わなければなかなか話せるようにはならないのは確か。また、一斉授業ではなく「マンツーマン」で習うことが極めて効果的な場合というか外国語習得の学習時期は誰にでもやっぱりあると思うからです。

けれども(対費用効果は別にしたとしても)、学習の効果だけ見ても、全ての外国語学習者にとって、しかも、外国語習得の全てのプロセスを通して外国人にしかもマンツーマンで習わなければ効率的に外国語が話せるようにはならない、とは到底言えることではないと考えています。

つまり、第二言語習得法(NOVA)もマンツーマンスタイルでの英会話研修(gaba)もそれが有効な時と場所がある。これが私の考えです。以下、gabaのある広告についてコメントした上でこの私の主張を go over したいと思います。さて、その広告がこれです。

gaba1



英会話の
上達の秘訣は、
リラックスです。
(これ真実です。)


受験英語では必死で単語や文法を詰めこんだなあ。そんなつらい思い出をお持ちのみなさん、ご安心を。よく外国人の恋人をつくるのが語学の上達の近道なんて言いますが、マンツーマンスクールgabaでは、あなたが自然にどんどん英語を口に出せるようにリードしていくことにおいて、恋人以上のプロであります。

私がgo over したいポイントは二つ。
(a)リラックスして話すためには、その前にある程度の知識の習得は必要じゃないかい?

(b)外国人の恋人ができると語学が上達するのは、リラックスして話すからじゃなくて、(わりと簡単な内容のセンテンスを)いっぱい話したいから/いっぱい話さなければならないからじゃないかい?


リラックスしようがラリルっていようが「テレパシー使いの超能力者」でもない限り、知らない単語やイデオムは聞き取れもせず、まして、話せっこない。相手が恋人だろうが親兄弟だろうが「相手にとって未知」のことを伝えようとする場合には、文法に適った話さない限り意思の疎通は難しいと思います。

ならば、リラックスして話すのは愛を語り合うにはいいとしても、愛する二人の言語行為の極意としては限界が大きすぎる。例えば、愛し合う二人の間でひとしきり”I love you.” “So do I.”の交歓が終って次のデートの相談になった場面を想像するに、ディズニーランドに行きたいと考えている彼氏に対して防衛大学の学園祭に行こうと提案する彼女の交渉の成否に「リラックス」の度合いはあまり関係ないでしょう。蓋し、恋人同士の会話とはいえそれは「政治的交渉」になる。つまり、「愛の語らい」から一歩出た段階では、「愛する二人の会話」とはいえそこはrelaxよりもtacticsがものを言う世界なのだと思います。

畢竟、「英会話の上達の秘訣はリラックス」というのは真実かもしれませんが、リラックスして話すためにはある程度の勉強と政治が必要である。そして、これは仕事として英会話を教えているNOVAやgabaの講師の方々と話す際にも当てはまることではないでしょうか。 gabaではここ数年、講師の先生方の処遇も改善されておられようですが、少し前にgabaで働いた講師の方々の<本音>はこのようなものですから(簡単な英語だし、あんまり愉快な内容でもないので訳はしません)。


●GABA in Tokyo [JAPAN]
The lowest paying job in Tokyo (1350 yen) with the highest charging fees for students (8000 yen + extras). Crammed with abusive, law-skirting rules that are designed for one purpose: to cut your pay. Be prepared for rules such as "no facial hair, must wear black suit, must give 2 months notice, no social contact, must be available anytime, etc."

Lesson gaps are many and unpaid. Working hours are irregular from 7AM start to 10.40PM finish

No guaranteed minimum pay - often well below survival rate for Japan (200,000 yen). Teachers are left to fight it out amongst themselves to get enough hours.
No advancement opportunities but plenty of lies about potential benefits.
No commission is offered on sales of courses to students, just a flat fee of 1 lesson´s payment bonus.
No transport fee is supplied.
No tax processing offered. (You want to fill out your own end-of-year tax forms in kanji??)
No bonuses.
No pension contribution.
No insurance (even if you fall sick in class!!).
No pay for class preparation or administration.
No pay for cancelled lessons - you lose.
No consultation from the management - it´s "up to you to check your status" ^ which can change on an hour by hour basis.
Withholding tax is charged but not reimbursed (your classified as a "partner" - not an employee).
Expect to wait 2 months for your first paycheck from starting to work.

too good for Gaba [ID: 1305-1292]


出典:http://www.englishschoolwatch.org/notebook_detail.php?topic_id=1305【2007年11月15日現在リンク切れです】

私は、どんな職場でもスクールでも「不満」を持つスタッフの方は残念ながらいると思います。だから、上で紹介した声からgabaが「駄目なスクール」とは絶対に言えることではありません。上の元講師の方に対しては「スクールを経営する立場や顧客の立場からもう一度gabaを考えてみてください」と言いたいし、むしろ、gabaやNOVAはトータルでは職員の士気も高く、その運営システムも大変よく工夫されているスクールだと思います。しかし、「英語は楽しく話せば身につきますよ」という(全く嘘ではないけれど)過剰な広告はいかがなものかと、少なくとも、あまり英会話スクールでの就労を happy とは感じられない講師が構造的に存在している状況を放置しておいてそのような「万人に当て嵌まるわけではない主張」を広告し続けるのはいかがなものかと思わないではありません。



(2005年7月6日ー9月30日:goo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロード)

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erikamomoko
【Beautiful Beast and Brilliant Champion】

もう10日前のことになりますが、KABUが応援している上田桃子プロが、全米女子プロ公式戦を兼ねたミズノクラシックで優勝。今期4勝目で上田プロ自身初の賞金女王に一歩近づきました。今日、11月15日現在、女子プロトーナメントツアーも残すところ後2試合(大王製紙エリエールレディスオープン:11月16日~18日, LPGAツアーチャンピオンシップリコーカップ:11月22日~25日)。上田さんはKABU&寛子さんと同じ九州出身ですが、広い意味の同郷というそれだけでなく、今回の桃子姫の優勝を私は大変嬉しく思いました。なぜか。

これまた、かなり旧聞に属しますが、上田桃子プロのオフィシャルブログが「炎上」したそうです。TBS系「情熱大陸」の10月7日の放送で、「同級生とかで、バレーとかバスケとかをしてる子がもう、不思議でしょうがなかったと言うか、先がないスポーツを何でできるんだろうと思って」という上田さんのコメントが発端になり、「他のスポーツを解りもしないのに語らないでほしい」「見てただただ腹が立つ。ゴルフだって稼げるの一部の人間だけじゃないか」「思ったことを何でもずばずば言えばいいというものではありません。【2007年度のツアーも最終盤に入った段階で賞金ランキングで貴方はTopに立っているのだから】昨年までの上田プロとは立場が違うということを認識しましょう」などといった批判的なコメントが多数寄せられたとのこと。この「ブログ炎上事件」以来、週刊誌等は桃子姫を「女子ゴルフ界のエリカ様」と揶揄する記事の on parade 。

「女子ゴルフ界ではないエリカ様」とは、そう、ご自分が主演した映画の舞台挨拶の際に「別っーに」と「不機嫌モード炸裂」させて世間から「おいお前、その小娘、お前何様」の顰蹙とバッシングの十字砲火を浴びた末に涙の謝罪会見に追い込まれた、あの<美獣>沢尻エリカ嬢のことです。上田プロの公式ブログのタイトルが「桃尻桃子の「待ってろ世界!」」ということもあり、後ほど記すように本来「月とスッポン」の両者を非常識な言動で世間を騒がせた21歳という共通項で括り、「沢尻&桃尻」とパラレルに扱う記事が続出したのです。

そんな、世間の「女子ゴルフ界のエリカ様」批判から1ヵ月。我らがおてもやん桃子姫は上で紹介したように、日本の女子プロトーナメントの中でも最も格上の大会の一つ、ミズノクラッシックの優勝で見事に世間の誹謗中傷を自力で捩じ伏せた。流石、肥後女! 凄いぞ桃子姫♪

さて、ここで話しはまた10月7日の「情熱大陸」に戻ります。「先がないスポーツ」発言によるブログ「炎上」を受け、翌10月8日、上田プロは速攻で件の発言の真意を説明しました。その大意は、件の発言はゴルフ以外のスポーツに情熱をもって取り組んでいる人を嘲笑したものではないということです。そして、インタヴューで話した「先がないスポーツ」 という批判の中心となった言葉の意味についても「だって、プロっていうものがないじゃないですか? なのにどうしてそこまで頑張れるのかなっと思って」と、これ以上ないほど正直かつ率直に自分の真意を説明した。また、その同じ10月8日の公式ブログ記事では、上田プロが、小学校4年生でゴルフを始め、バレーやバスケも学校でよくやってたことや、今では「冗談抜きで私スポーツ界の中で一番バレーをよく観るんですよ」とバレーボール好きをアピールしたのです。


こうして、ブログ炎上に結びついた桃子姫のTVインタビューコメントの内容を調べてみると、同じ21歳の<非常識な言動>として取り上げられたものの、<美獣>エリカ嬢の「別っーに」発言が、TPOにそぐわないだけでなく、TPOから切り離してその発言だけを見た場合にも無内容かつ礼儀知らずのものであったのに対して、(TV局が編集したインタヴューがゆえにTPOは元来問題にならない上に)問題にされた桃子姫のコメントは実は内容的になんら問題がないことは明らかだ、そう私には思われてきたのです。

否、桃子姫のコメントは現在の日本の若者に切に求められているあるタイプの資質を彼女が濃密に備えていることを示しているとさえ思える。それは何か? あるタイプの資質と何か? それは冗談抜きに「おてもやん性」であり「肥後もっこす性」ではないか。今現在、私はそう考えるに至ったのですが、それを説明する前に桃子姫と<美獣>エリカ嬢のプロフィールを比較しておきましょう。

◆おてもやん桃子姫
D.O.B. :June 15, 1986
Home Town:熊本県熊本市
School graduated from:東海大学付属第二高等学校卒業
Size: hight ー161cm, weight ー54kg, blood type ーA
Ranking:2006年賞金ランキング13位ー0勝
   2007年賞金ランキング01位ー4勝(2007年11月15日現在)
公式Web:http://www.momokoueda.com/
公式Blog:http://www.golblo.jp/momoko

◆<美獣>沢尻エリカ嬢
D.O.B. :April 8, 1986
Home Town:東京都
School graduated from:日出女子学園高等学校中退
Size: hight ー160cm, weight ーN/A kg, blood type ーA
公式Web:http://erika-official.com/index.html (女優キャラクタ版)
     http://www.erika-web.com/ (歌手キャラクタ版)


momoko


上田桃子プロの発言は何も間違ってはいない。私はそう思っています。上田プロが「お金が稼げるかどうか」という基準で、任意のスポーツを「先があるスポーツ」か「先がないスポーツ」かに2分したことは誰からも批判される筋合いわないということです。実際、「情熱大陸」の録画を何度見返しても、上田さんが「先がないスポーツ」を馬鹿にしているなどということはない。上田さんの語る「先がないスポーツ」とは「将来、人気が低迷し競技者人口も減少するようなスポーツ」という意味ではなく、「競技者がそれに職業として携われるスポーツ」という意味であり、これは「馬鹿にする」などの価値判断ではなく、「スポーツの職業としての可能性」という純粋な「事実認識」の問題に他なりません。

加えて、放送されたインタヴューの中で上田さんは、このような「スポーツの職業としての可能性」という純粋な「事実認識」を前提にした上で、あくまで、「私なら先がないスポーツではそんなに頑張れないよ」と正直に告白しただけではないでしょうか。つまり、上田さんは「先がないスポーツなんかやめれば」と他人に言っているわけではない。上田桃子プロのコメントをこう捉えるとき、「スポーツの職業としての可能性」と「どんなスポーツなら自分は頑張れるか」を巡る認識を披露したことの何を批判されなければならないというのでしょうか。何も批判されることはないに決まっています。

上田プロの言う、バレーボールやバスケットボールが(日本の女子において)「先がないスポーツ」という事実認識が間違いならそれを指摘すればよい。けれども、上田プロの事実認識が満更間違いでない場合、上田プロが「私なら先のないスポーツではそんなに頑張れないな」と吐露することを他人がとやかく批判することなどできはしないのです。それとも、ゴルフやテニスの賞金女王は、競馬の賞金獲得 Top 騎手は、あるいは、プロ野球やサッカーの億円プレーヤーは、その影響力を考えて「自分がどんなスポーツなら頑張れるのか/どんなスポーツなら頑張れないのか」を言ってはいけないとでもいうのでしょうか。

もし、そんな主張をする論者がいれば、その主張はそれこそ憲法の表現の自由と思想信条の自由を理解しない議論でしょうし、加えて、それは若い才能がどんな認識と覚悟でもって厳しい競争世界であるスポーツ界に飛び込んだかの本音を知りたいと思う多くの若者の知る権利を封じる権威主義的な言説と言われるべきではないでしょうか。

桃子姫の言う「先がないスポーツ」関係者が、「ゴルフの賞金女王は、「自分がどんなスポーツなら頑張れるのか/どんなスポーツなら頑張れないのか」などを公言して欲しくない」という願望を持たれることを私は否定も批判もしません。けれども、その願望は他者を拘束する権限も他者に反省を促すような内容も持ち合わせていないことは明確でしょう。この点が、自分が主演した映画の舞台挨拶という、いわば(それがグレーゾーンであるにせよ、おそらく)「主演女優」のタスクの範囲内かその極めて近傍の活動において、「別っーに」を連発したあの<美獣>のケースとは決定的に違う。私はそう考えるのです。


神ならぬ身の人間だもの。好きなスポーツや嫌い(というか、あまり、興味のないスポーツ)はゴルフやテニスの賞金女王にもあるに決まっています。けれども、「所詮人気商売」のプロスポーツ。ゴルフやテニス、野球やサッカーという「先のあるスポーツ」の、そのまた影響力の大きいTopプレーヤーがその好き嫌いや、興味の有無強弱を述べることには<政治的>というか<ビジネス的>配慮が求められるかもしれない。そして、そのような配慮はある競技分野で天下を取るほどの選手であれば21歳の小娘だからと言って免除されるものでもないのかもしれない。

この点で忘れられないのは、忘れもしない1983年の6月、史上最年少で将棋の名人位を獲得した21歳の谷川浩司さんのこと。現在の谷川九段(永世名人有資格者)はその時に既に、実にmatureな雰囲気を漂わせておられたと記憶していますから。而して、逆に、映画の主演女優という地位と状況にありながら、肝心の映画ファンを無視する態度と指弾されても反論できない「別っーに」を連発した行為は、21歳という年齢によっては弁明不可能なのだと私は思います。

自分が主演した映画の舞台挨拶で無関係な第三者の如き「別っーに」発言を連発したプロ意識の欠如(というより、成人した人間なら当然備えているべき社会性の欠如)について、もちろん、それらをすべて21歳の小娘のせいにするのは酷であり、それらの不細工な仕儀は沢尻エリカ嬢を「エリカ様」と舞い上がらせた周りが悪いという声もあるようです。けれども、沢尻エリカ嬢は沢口靖子さん以来の、ほとんど20年ぶりに日本映画界が得た「生まれつきのお姫様女優」にして「大女優」になりうる可能性も秘めた逸材だと期待していた分辛口になりましたが、概略、「「別っーに」は、21歳という年齢によっては弁明不可能」と私は考えています。

ここまで考えてくれば、われらが桃子姫の「情熱大陸」での言動が誰からも批判される筋合いのものではなかったことはいよいよ自明でしょう。蓋し、桃子姫は、「先がないスポーツ」を嘲笑中傷したのではなく、まして、バレーボールやバスケットボールなどの「先がないスポーツ」を嫌いとも興味がないとも言ったのではないのですから。

畢竟、「プロの世界と地続きでその道でお金を稼げる可能性のある、先があるスポーツかどうか」という平明明瞭な基準で「私ならそのスポーツで頑張れる」と判断すること。これは、冷静な自己分析と客観的な状況認識に基づくmatureな進路判断でしょう。つまり、芳紀21歳の上田桃子嬢の「情熱大陸」でのコメントは、しっかりしたセルフキャリアディベロップメントのイメージを桃子姫が小中学生の頃から持っていたことの証左なのです。而して、そのような自己分析能力と状況認識、加えて、ある進路を進んで行く自分の姿を具体的にビジュアルにイメージできる資質とスキルこそは、現在、小中高生の進路指導一般においても正に求められているものなのです。蓋し、上田桃子嬢の「職業としてのゴルフ選択」の決心のプロセスは公教育における進路指導の再構築のためにも大変参考になる素晴らしい成功事例と言えるでしょう。畢竟、上田嬢にその選択を可能ならしめた資質こそ、頑固な合理主義としての「おてもやん」性、あるいは、「肥後もっこす」性。そう表現するのが適当であるsomething ではないか。私はそう考えています。

ならば、上田プロのブログを「炎上」させたものは何なのか? 蓋し、桃子姫のブログを「炎上」させたものは、

(A)小学生や中学生が「そのスポーツの先のあるなし」で競技を選択すべきではない

(B)「先がないスポーツ」と「先があるスポーツ」などという2分法はそれが事実であったとしても(否、むしろ「事実であるがゆえに」でしょうか。)公の電波を使って流すべきアイデアではない

(C)昨年の優勝経験のない賞金ランキング13位の熊本の芋ねーちゃんゴルファーの発言ではなく、すでに今期4勝をあげほぼ賞金女王を掌中にしている選手の発言は「影響」が大きいがゆえに叩かれねばならない。また、ほぼ今期の賞金女王を掌中にしている選手なら「反論などすれば社会的に(あるいはCM契約などを考慮すれば金銭的にも)失うものが大きく」、つまり、こちら側は批判のし放題に違いない



というようなさもしい心根ではなかったかと私は想像しています。敷衍すれば、「スポーツでお金を稼ぐなどは本来美しくない」という大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義的な思い込みと、上田プロ側から反論すれば「彼女自身失うものの方が大きい→上田プロ側が反論などするはずがない→叩き放題だ!」といった左翼や労組的なさもしい心根。少なくとも、それらと同質同根なものを私は「桃子姫ブログ炎上」に感じたのです。

畢竟、桃子姫は、姫より1学年年長の宮里藍プロ(1985年6月19日生まれ)や横峯さくらプロ(1985年12月13日生まれ)が、一足先にマスメディアに取り上げられ舞い上がっているここ2年間で着実に強くなったと思います。プロゴルフ関係者の間では「現在の日本女子で最強」と彼女が評されているのも同じ九州出身者の贔屓目ではなく納得がいくというものです。今年に関しては、(素人目にはですが)なんと言っても宮里・横峯の現在の両スター選手達より5センチ高い桃子姫の身長が(および、他者の追随を許さない桃尻姫の「脚の短さ」、もとい、上背の割に安定したその重心が)物を言っている気もしますが、今後、順当に推移すれば向こう10年以上続くだろう競い合いの中で上田桃子プロとそのライバル達の力関係がどうなるかは、正直、「神のみぞ知る」でしょう。

けれども、繰り返しになりますが、「私は先がないスポーツではそんなに頑張れないタイプだ」、ならば、「先があるゴルフの道で頑張ろう」と小学校高学年の少女時代に自己分析に基づく進路決断をできた上田プロの Self-Management Skill の資質は素晴らしいし、その資質こそ、正に、現下の日本の教育界がすべての子供達に涵養しようとしている「自己実現力」そのものでしょう。而して、今回のブログ炎上事件で端無くも明らかになったように、日本ではまだまだ嫌われる向きも少なくない、「自己実現力を持つ自立した人格」の進路決定プロセスの表白でもあった「情熱大陸」における上田桃子プロのインタヴューコメントは子供達にも参考になる進路思考パターンのサンプルであったし、それは自立した若きプロフェッショナルとしての気品と品格の表出でさえあった。私はそう総括せざるをえないのです。

蓋し、芳紀21歳の今にして戦う賢女の気品と品格漂わせる桃子姫。そのおてもやん桃子姫を、あの<美獣>と比べるなどは無意味な作業と言うべきである。あるいは、<美しいかもしれないが動物>の衝動的言動と上田桃子プロの「先があるスポーツ」コメントを比べること自体が桃子姫に対して失礼。私はそう考えています。今期残すはあと2戦。頑張れ、桃子姫! 


(2007年11月15日:goo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロード)

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テーマ : 教育問題
ジャンル : 政治・経済

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まる4年前。もう随分前になりますが、2001年7月に文部科学省は「英語が使える日本人の育成のための戦略構想」という英語教育の指針を発表しました。この「戦略構想」の中で文部科学省は、①中学卒業時に英検三級程度、高校卒業時には英検二級または準二級程度の英語力を子供達に身につけさせるという具体的な成果目標を、日本の英語教育行政の歴史上初めて明示しました。また、その成果目標の達成をにらんだ施策として、英語を学ぶ子供達の動機づけのために、②高校・大学では在学中の留学の機会を増やす、③2006年度を目標に大学入試センター試験への英語のリスニングテスト導入を謳い。かつ、中学・高校における英語の指導体制の充実をはかるべく、④週2回以上は外国人が英語を教えること(そのために必要な外国語指導助手(ALT)総計11,500人の確保を目差すほか、外国人教員の正規採用を促進すること)を提唱しました。

旧聞に属する「戦略構想」ではありますが、私は小学・中学・高校の英語教育のあり方を考えるとき、いつもこの提唱を思い出します。それは、この提言が英語教育行政の指針として影響力を保持し続けていること;4年が経過た今も、この国の初等中等の英語教育はこの提唱の<御釈迦さんの掌>から一歩も出ていないように思われる。これが一つ。そして、特にALTの本格導入というポイントに私は当時も今も違和感を覚えているからです。

「何のための英語教育なのか」、「子供達にとって、また、国家や社会にとってALTの週2回程度の授業にどんな意味があるというのか」。数値目標を設定したことは評価されるべきだと思うものの、これら英語教育の目的について「戦略構想」はあんまり真面目に考えていないのではないか。そういう感想を私は払拭できない。以下、「ALTは必要か」というテーマを検討しながら行政が達成すべき英語教育の目的について考えてみたいと思います。


最初この「戦略構想」を目にしたとき私はいささか複雑な気持ちになりました。それは次のような葛藤を覚えたからです。

(イ)全国の津々浦々の学校現場で(それこそ今まで英語を母語とする生身の外国人なんか、大東亜戦争後に村にジープでやって来た進駐軍の兵隊さんくらいしか誰も見たことがないような地域でも)、週に2回程度とはいえ英語のネーティブスピーカーの外国人の先生から子供達が直接英語を教わることは、「純粋に素晴らしいことだよ」というポジティブな気持ち。

他方、(ロ)ALT導入は「コストパフォーマンスに問題があるよな」という認識;1名のALTを1年間雇う費用と現場が担うしかない彼/彼女のケアの大変さを考えると(格安のALTブローカーの仲介を頼んだとしても、そのコストと現場の気苦労は、日本人の英語教師をフルタイムで雇うのに比べても安いことはないでしょう)、11,500名のALTを雇う費用があれば英語教育に限定しても他にもっとやれることがあるんじゃないか、という気持ち。


これらのALTについての相反する(イ)(ロ)評価を同時に抱いてしまったのです。4年前も現在も、多くの<ALTの先生方>は、幾つかの学校を掛け持ちしながら多数多様なクラスを順次巡回されている。彼等のアカデミックやプロフェッショナルなバックグランドは(必ずしも)教育関係とは限らないし、実際、「時々教室に来て(日本人の英語の)先生の話を生徒と一緒に聞いている外国人のお兄さん/お姉さん」の域を出ないALTも少なくない。このALTのマクロ的に見た実情を知っている身としては、後者の「11,500名のALTを雇う費用があれば他にやれることがもっとあるんじゃないか」というネガティブな感想の方が漸次強くなってきています。

週に2回以上、よしんば、週5回のレッスンを英語のネーティブスピーカーから受けたとして、30人から40人の一斉授業を通して子供達の英語力が(会話力・読解力・聞き取り能力・英文作成能力のすべてが)、日本人の先生から授業を受けるよりも格段に伸びるということはまずありえない。この点については納得できないという方も少なくないでしょうが、ALTの授業を受け始める段階ですでに単語や文法の知識が豊富で、かつ、ALTのレッスンが始まってからも授業とは別に(自宅でも最低毎日)リスニングのトレーニングを30分以上は持続できるというような、能力的や向学心も高く家庭環境にも恵れたごく一部の生徒を除けば、私はそう断言できます。「基礎なくして応用なし」です。

そして、能力と向学心が備わっている生徒などどんなに多く見積もっても全体の2割どころか1割にも満たない。つまり、11,500名のALT導入というのは、公的な予算を使って全体の2割から1割の子供達にだけ有効かもしれない英語教育サーヴィスの提供にすぎないのではないのか、私は当時も今もこの疑念を捨てることはできません。私に言わせれば、ALT配備の制度目的は、英語のネーティブスピーカーと話す経験を積むことを通して子供達が英語を話せるようになることではありえない。もし、子供達の英会話能力の向上をALTの制度目的と言うのなら、厳しく言えば、そう言われる論者は英会話レッスンの効果についての素人か(どんな名目であれ予算が取れればいいと考える)詐欺師か、その両方かのいずれかだと思います。

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では、ALT配備の制度目的は何なのか? ALTはまったくの役立たずなのか。そんなことはない。実際、ALTの授業は子供達にそう評判が悪いわけではない。あたりまえです。異文化体験、しかも、異文化と生に接触する経験は誰にとってもファンタスティックであり、ALTとの生身の交流を通して英語圏の人々の生活や歴史や文化に関心を持つ機会を子供達に与えることは素晴らしいことに違いありません。ならば、ALTに関心を持つ ⇒ 英語に関心を持つ ⇒ 英語学習に気合いが入る/英語学習を継続しようと思う ⇒ 英語学習を頑張り続ける ⇒ 英語力が向上する ⇒ もっと頑張ろう思う ⇒ 英語力がさらに向上する、という良い意味の「風が吹けば桶屋が儲かる」式の<動機と努力と成果>の連鎖も期待できないではないでしょう。

まじ、<動機と努力と成果>の連鎖は馬鹿にならない。例えば、現在1学齢120万人の子供達がいるとして、(大学・短大・専門学校への進学の有無に関わらず)高校卒業の段階で英語学習をギブアップする生徒が同一学齢の(大あまに少なく見積もって)25%いるとします。すると、この中の1割でもALT制度のお蔭で英語への興味を持続できたとすれば、英語ができる/必要とあれば英語を身につける努力を厭わないタイプの労働力として、毎年毎年、現状よりも3万人多くの若者が社会に出て行くことになるのですから(∵120万人×25%×10%=3万人)。もちろん、この試算は「ALTの効果」と「日本の子供達の英語力の現状」に対してかなり甘い想定に基づいている。我ながらそう思います。けれども、ALT配備の制度目的として子供達のモティベーション維持向上を考えることは満更間違いではないと思います。

しかし、と私の中の天邪鬼魂がささやく(笑)。子供達に英語への興味を持ってもらい英語学習を頑張り続けてもらうことは果たして11,500名ものALTを配備するコストは見合うものだろうか、と。つまり、ALTのコストパフォーマンスは妥当なものか、と。しかも、子供達のモティベーションアップのためにALTはそもそも効率的な方法なのでしょうか。もっと、有効かつ廉価な方法があるのではないでしょうか。11,500名のALTを配備するコストはその人件費と採用・研修費用および研修と着任のための交通・宿泊費だけでも恐らく500億円は下らない。果たして、子供達に英語への興味を持ってもらい英語学習を頑張り続けてもらうことに500億円も使う余裕が我が国にあるのでしょうか。そういう問題です。

例えば、教科書採択区単位での年2回(各2週間)の英語コミュニケーション能力強化・異文化理解促進合宿、そして、その合宿準備も兼ねた月1回の英語のネーティブALT(というか、Assistant Language Performer = ALPという規定の方が現状に合うと思いますが)の巡回レッスンとかの方がはるかに廉価で効果にも当たり外れがないのではないでしょうか(効果が高いとまでは言いませんが)。まして、英語の能力開発以外にも教育の課題は幾らでもある;例えば、現在の子供達の国語力低下をなんとか挽回する、あるいは、国を思い国を愛する心を育てそれを子供達が日々の行動で表せるようにすることなど文教行政がタックルすべき課題は山積でしょう。ならば、財政再建の途上の現下の文教行政を取り巻く状況下で、11,500名ものALTを配備することは果たして合理的なのか。私は一英語教育屋として疑問を感じています。

冒頭で紹介した「文部科学省戦略構想策定」は数値目標と納期、およびそれらを達成するための施策を明記したものであり優れた政策の提唱だと思います。しかし、再度言いますが、肝心なことは「何のための英語教育なのか」、「子供達にとって、また、国家や社会にとってALTの週2回程度の授業にどんな意味があるのか」であり、「戦略構想」ではこの点はそう真面目に考えられているとは思えない。皆さんはいかがお考えでしょうか。ご意見を伺いたいと思っています。尚、日本の英語教育、就中、小学校からの英語教育導入に関しての私の基本的な考えについては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

小学校からの英語は必要か

英語ディバイドという現象-日本人に英語力は必要か



(2005年7月18日:goo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロード)

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テーマ : 教育問題
ジャンル : 政治・経済

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◆『TOEFL・TOEICと日本人の英語力 
  資格主義から実力主義へ』
 鳥飼玖美子(講談社現代新書・2002年4月)


本書は鳥飼玖美子さんの警醒慷慨の書です。鳥飼玖美子さん(立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科教授)と言えば、私の世代の者には、バイリンガルのカワイイ&カッコイイお姉さんという印象が強い;誤解と後難をおそれず申し上げれば、アグネスチャンさんとあまり変わらない一種の芸能人という印象さえあります。けれども、鳥飼さんは上智大学在学中から同時通訳や翻訳の実務経験を積まれ、それらを踏まえた彼女の英語論や英語教育論には日頃から納得できる部分も少なくありませんでした。例えば、『歴史をかえた誤訳 ― 原爆投下を招いた誤訳とは!』(新潮OH!文庫・2001年5月)などは英語教育に携わっている者の必読書ではないかと思っています。そして、本書も共感をもって読み終えました。そうなのです、

鳥飼玖美子さん
=カワイイ&カッコイイ&カシコイそう


『TOEFL・TOEICと日本人の英語力』の主張は概略次の5点だと思います。
①試験で測定できる英語力と実際の英語運用能力にはギャップが生じる
②TOEIC・TOEFL等の各試験はその目的が異なっており測定される英語力も違う
③TOEIC・TOEFLで測定される英語力と日本の伝統的な英語教育が目指してきたもの(文法・語彙、イデオム・構文の知識の定着)は意外と近い
④TOEFLの結果から日本の英語教育が間違っているとは必ずしも言えない
⑤TOEFLでの日本人平均点の低さが示す問題は文法や語彙力の低さである


KABUは鳥飼さんほど流暢に英語を話せるわけでもありませんし、多様なジャンルの英語を翻訳したり通訳した経験もありません。しかし、20年近くTOEFL・TOEIC、GRE・GMAT・LSAT、SAT・ACT等の英語の試験対策に関わった経験から、私は鳥飼さんの主張の総てに同意できます。

世界的に見た場合、「日本人の英語力は低い」としばしば語られます。確かに、日本人のTOEFLの平均点は低いですし、(受験者の大多数が日本人である)TOEICのスコアでも同様の結果がでています。詳細はTOEFL・TOEICを制作実施しているETS(Educational Testing Service:1947年に設立された米国の公共的教育機関)のサイトをご参照ください。

Research-Related Publications:TOEFL

Research-Related Publications:TOEIC

日本人の英語力は低いのか? TOEFLの平均スコアを根拠にして「日本人の英語力は低い」とする主張に対してはいろんな反論がなされています:各国の人口比を加味したとしても受験者数に数倍から数十倍の開きがある平均点の比較に統計上どんな意味があるというのか:受験者数の差は「試しに/話の種に/留学する友人の付き合いでTOEFLを受験する」層が日本ではむしろ多数であるのに対して、諸外国では(特に、非先進国では$140の受験料が馬鹿にならないから)米国留学に人生を賭けているような、よって、十全な準備をした者が受験者の中核であることを示してはいないだろうか:TOEFLの平均スコアが低いとしても、米国の学部や大学院に進学した日本人の成績(★)が他の国や地域からの留学生に比べて特に低いということはないのだから、それは(科目や専門の知識が入学前に十分備わっているとかのノイズ要因を除外しても)日本人の英語力が数値で示されているほどは低くないことの証拠ではなかろうか、等々。

★註:米英の成績・GPA
GPA(Grade Point Average)は通常、2.0-4.0の範囲の数値で表わされる学業成績の指標です。日本ではICU(日本で最も社会人として使い物にならない英語ができる卒業生を輩出することで日本企業の人事担当者のコミュニティーでは有名な大学です)や上智大学の成績表示に使用されていますが、米国では高校・大学・大学院の一般的な成績表示システムです。

その数値は、履修した各科目の単位数に各々の評価を掛けて、その和を求め、最後に履修総単位数で除した加重平均値です。例えば、法学概論が4単位で優(4×4=16)、体育実技は2単位で可(2×1=2)、日本の近代化と同志社大学は3単位で良(3×3=9)・・これらの積の合計を取得総単位数で割ると、分子は、16+2+9+・・、分母は4+2+3+・・であり、2.0以上で4.0以下の数値の範囲でGPAが算出されます。

留学志望者を抱える高校の先生方からよく寄せられる質問は、「うちの高校は、5段階評価なんですけど、評価の各段階を何点とカウントすればいいのですか?」、「灘高のGPAと例えば東京都立葛西南高校のGPAは同じに扱われるのですか?」等々です。前者も留学情報雑誌に書いてあるほど実は簡単ではなく、まして、後者の問題は、いわば学校間格差の処理であり奥が深いです;それはいわば<留学カウンセラー中級>認定試験レヴェル(?)の難易度の問題です。これらの説明には欧米の大学制度に関して若干の予備知識が必要なので説明は割愛させていただきますが、機会があれば今後このブログでもご紹介したいと思います。


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日本人の英語力は低くないのか? この解答は「Yes and No」だと思います。やはり、TOEFLやTOEICの平均スコアが極めて低いことは事実として認めるべきでしょう;いくら、日本人のTOEFL受験者の多数が「試しに/話の種に/留学する友人の付き合いでTOEFLを受験」しているにしても、英語や米国に全く興味のない方が英語の資格試験を受けることもないでしょうし;日本人の中で英語に興味のある部類の方の英語力の指標としてこれらの平均点を見た場合、その数値はかなりミゼラブルであることは否定できないからです。つまり、他の国との比較はあまり意味がないにしても、絶対評価として見た場合、日本人の英語力には問題があり、求められる水準に比べれば「日本人の英語力は低い」と考えるべきであろう。と、私はそう思っています。

日本人の英語力は低いのか? に対する解答は「Yes and No」である。この結論に、おそらく本書の著者・鳥飼玖美子さんも同意されると思います。それは、鳥飼さんが、「資格試験で測定できる英語力と実際の英語運用能力にはギャップがある」、「TOEIC・TOEFL・IELTS等の各試験はその目的が異なっており測定される英語力も違う」を認めた上で、現在の日本の英語教育に対する激しい憤りを表明されていることからも推測できるのではないでしょうか。

ここが本書のポイントだと思いますが、現在の日本の英語教育への鳥飼さんの批判は、英会話というかオーラルコミュニケーション重視の立場からの現行英語教育への批判ではなくて、英語の基礎基本の養成をおざなりにした(うわべだけの)、国際人育成なるものを目指した英語教育の改革に向けられている。また、その批判は、国際化とグローバル化が日々加速する現在、そこで生きていくしかない日本人にとっての必須の能力の一つであろう英語力を、<バイリンガル幻想>とでも言うべきものにスポイルされた英語教育が崩壊させ棄損しているという危機感に基づいているのではないか。私は本書を読んでそう感じました。


実際、「TOEIC・TOEFLで測定される英語力と日本の伝統的な英語教育の目指すものは意外と近い」、「TOEFLの結果から日本の英語教育が間違っているとは必ずしも言えない」、「TOEFLでの日本人平均点の低さが示す問題は文法や語彙力の低さ」なのです。本書でも取り上げられていることですが、英文法や英文読解をしっかり学習した世代とそれ以後の世代のTOEICやTOEFLのスコア、スコアアップに要する時間の差は、指導の現場で観察する限り歴然としています。

中央教育審議会が打ち出した「新しい学力観」に基づく89年の学習指導要領が学校現場に導入される以前に高校教育を終了した方々(現在、34歳以上の世代)とそれ以後の方々では、文法や単語、イデオムや構文など、英語の基礎体力の違いは歴然です。これはリーディングプロパーの問題ではない。TOEFLでもTOEICでも、リスニングセクションといえども選択肢や設問の英文を速く正確に読んで理解できなければ正解はできないですし、聞き取りや会話そのものでも知らない単語は聞き取れませんし話せないのですから。

六本木や横須賀の街でカッコヨク&カワイク英語が話せることと、英語圏で高等教育を修了し英語でビジネスを遂行できることには大きな差があります。要は、お客さんに要求される英語力と営業マンに要求されるそれとは異なるのです。日常の生活をおくるために自分の意思が伝わればよいというシチュエーションをデールするのに必要な英語力とビジネスやアカデミックな領域で成果をあげ尊敬を勝ち取るための英語力には歴然とした差があります。

考えてみてください。渋谷や池袋にたむろする女子高生でもとりあえず日本語は話せる(と信じたい?)。けれども、例えば、彼等に新聞の社説を読んでもらい、「400字原稿用紙1枚にこれを要約して、次に原稿用紙2枚でこの社説に対する自分のコメントを書いてください。制限時間は30分。辞書持込可」と言えば、同じ女子高生でも個々人の力量差は凄まじいものになるでしょう。そして、この程度の作業を他人様に見てもらっても恥ずかしくない水準で完遂できるのでなければ;その作業を処理できる日本語の理解力と日本語での表現力がなければ、日本でも大学院を卒業したりビジネスで成功することは難しいと思います。

この事情は米国でも同じです。つまり、(スペイン語を母語とする一部の人々を除き)アメリカ人の大部分が英語を話せるとしても、米国社会の中で立派にビジネスを遂行し、大学・大学院教育を通じて平均以上のGPAを取得するのはむしろ少数派なのですから。ならば、米国に8年住もうが18年住もうが平均的なアメリカ人以上の英語力が、米国社会に住むだけで身につくはずはないのです。そして、住むだけで身につけられるタイプのそのような英語力を日本の公教育で子供達に提供する意味がいかほどあると言うのでしょうか? 

英語圏に住むだけで英語は身につくし、そこで身についた英語力は日本の受験英語とは違い英語でコミュニケーション可能な本物の英語力である。といういわば<バイリンガル幻想>は幻想にしかすぎません。そして、<バイリンガル幻想>の打破と本当の本物の英語力の紹介、かつ、そのような本物の英語力を(英語力が必要な)一人でも多くの日本人に身につけてもらうために実行可能な施策の提示、これが本書『TOEFL・TOEICと日本人の英語力』で鳥飼玖美子さんが行おうとされたことではないか。私にはそう思われました。


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社会人や大学生の英語教育に携わっている方の多くは、マスコミや一部の英会話学校主導の受験英語批判や英会話推進論、留学万能論にはかなり懐疑的だと思います。もちろん、受験英語批判の底には長年にわたるオーラルコミュニケーション軽視への反動があると思う。それは大切な批判でしょう。しかし、「和訳中心の無味乾燥な暗記科目」という英語教育は現在では公教育においてもむしろ例外です。鳥飼さんの怒りがここでも炸裂しているように、現在の英語教育論の少なからずは論者が受けられた20年から30年以上前の学校教育のイメージに基づいて行われていることは噴飯ものでしょう。

英語の公教育の目標を考える場合のポイントは、少々英語が話せるようになるということと英語の基礎基本を養成することの重要性に関する認識の違いだと思います。しかし、この結論は自明です。なぜならば、単に定型的な会話ができるようになるには、同志社大学や京都大学の入学試験長文問題に対応できる程の文法や語彙の力が備わっているのであれば、比較的短期間で(そう2~3ヶ月もあれば)誰にでも可能なのに対して、その逆は(学習を持続できるとして)、少なくとも2~3年の時間が必要だからです。そして、ビジネスを英語で遂行できる英語力、英語圏で高等教育を修了するために必要な英語力を獲得するには、定型的な英会話がカワイク&カッコヨクできるよりも日本の大学入試の長文問題を堂々と処理できることの方が重要であることは間違いないと思います。

実際、TOEICにせよTOEFLにせよ英会話の能力を直接判定するセクションは存在しないか(会話セクションにおいてもむしろ、)、文法や語彙の比重が大きい。なぜか? 簡単な話です。英語のネーティブスピーカー相手のビジネスや英語圏で高等教育を修了するために必要な英語力の完成形を考えた場合(あれかこれかの究極の選択をする場合)、会話よりも文法や語彙の力の方がよりクルーシャル(肝要)だからです。そのことをこれらの試験を作成しているETSは知っているからです。正に、「TOEIC・TOEFLで測定される英語力と日本の伝統的な英語教育の目指すものは意外と近い」、「TOEFLの結果から日本の英語教育が間違っているとは必ずしも言えない」ということ。

鳥飼さんの憤りは、(イ)いわば帰国子女程度のバイリンガルの英語力を、(ロ)使える本物の英語の力として英語教育の目標に掲げ、(ハ)そのような英語力は英語圏で何年か生活すれば誰にでも身につくと安易に考える、そのような識者と世間が抱く<帰国子女神話=バイリンガル幻想>への反感ではないかと私は想像します。しかも、識者にせよ世間にせよ、(ニ)自分たちが受けた四半世紀以上前の英語教育を前提に論を立てているとなっては鳥飼先生が悲憤慷慨されるのも当然でしょう。

英語圏から帰国した者の英語力は、実は、千差万別であり、彼等が英語でビジネスを遂行でき英語圏の大学や大学院で平均以上のGPAを取れるかに関しては全く depends on the person/family なのが現状です。ならば、英語のノンネーティブが日本国内で公教育を通して身につけるべき英語力は、<悪しき帰国子女タイプの英語力>ではなく実力としての英語力ではないか、それは、<優秀な帰国子女タイプの英語力に発展可能な基礎基本の英語力>であろう。これが鳥飼さんの主張の核心だと私は考えます。つまり、「TOEFLでの日本人平均点の低さが示す問題は文法や語彙力の低さ」の方なのです。

実力としての英語力は、どちらかと言えば、カッコイイ英会話のスキルではむしろなく、ある意味では受験英語との親近性を持った英語力である。極論すれば、「日本人の英語力は低いのか?」 に対する解答は1989年までは「No」であったが、残念ながら現在は「Yes」なのかもしれない。これが(ここまでの「極論」を述べてはおられなににしても)鳥飼さんの結論だと思いますし、私の17年間の英語指導経験からの帰結でもあります。

尚、国際化の時代を見据えたときに、日本の英語教育はどうあるべきなのか。日本に必要な英語力というものは、そもそもどのようなものなのだろうか。この本質的なポイントに関する私の基本的な考えについては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいと思います。

英語ディバイドという現象-日本人に英語力は必要か

国際化の時代だからこそ英語教育への過大な期待はやめませよう

企業内英語研修の<窓>から覗く国際化の波高し



(2005年7月31日:goo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロード)

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テーマ : 英語・英会話学習
ジャンル : 学校・教育

Portsmouth
【Jutaro Komura in the negotiation for Treaty of Portsmouth】

これは姉妹ブログgoo版の「英語と書評 de 海馬之玄関」に2年前(2005年12月2日)にアップロードした記事です。ミラーブログにアーカーブ記事を収録する作業の中で改めて読み返してみて、自家原稿転載することにしました。 新テロ対策特別措置法を巡る情勢や、アメリカが「拉致とテロ支援国家解除は無関係」などと言っている現状への理解を、明治の政治家ならどう把握しただろうか。そんな興味もあったからです。

加えて、<7・29>の参議院選挙から安倍首相の退陣、福田若旦那首相就任と、この2年で日本の政界模様も大きく変わりましたが、与野党を問わず(というか、我らが麻生太郎前自民党幹事長、中川酒豪元政調会長、安倍晋三前首相、そして、平成の大宰相・小泉純一郎元首相とその愉快な同志達を除けば)この記事で言いたかった、「政治家に必要な英語力の乏しさ」は2年後の今もあまり変わらないと思ったからです。否、野党の民主党が実質政策決定に参画するしかない現状では、(政策決定に係わりうる)政治家の範囲が拡大したわけで、そうなれば、「政治家の英語力」は2年前よりも<加重平均的>に落ちていることは確実でしょう。

英語と英語教育を切り口とする警世&警醒の記事。これは短編だけれども結果的にせよそう言えるのではないか。そう思い自家原稿を転載します。尚、姉妹ブログとミラーブログのURLは下記です。これまで開店休業の趣もなきにしもあらずでしたが、これからこのgoo版も充実させていく予定ですのでよろしければそちらにもご訪問ください。

・姉妹ブログ:英語と書評 de 海馬之玄関
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba

*****  *****

主題では「大風呂敷」を広げましたが、そう大したことを述べるわけではありません。日本人の英語でのコミュニケーション能力は明治維新から現在までどう変わってきたのだろうか? と、ある英文記事を読んでいるときにふとそんな浮世離れした疑問が浮かんだのです。そんでもって、漠然と「明治維新以来の日本人の語学力の変遷」とかよりも、「明治時代」「政治家」「英語力」と限定した方が書くほうも読むほうもイメージしやすいかな、と。

その浮世離れした疑問を私に抱かせた記事はこれです。

After all, by pushing the constitution to its limits in sending navy refuelling ships and escorts to the Indian Ocean during the Afghan war in 2001 and keeping them there, and by putting peacekeepers in southern Iraq, Mr Koizumi has gone out of his way to show support for America. With peacekeeping missions in Cambodia and East Timor, Japan has also helped cut America's burden in the region. Hence the praise this week. But should America's commitment to Japan ever waver, a more independent stance to fall back on wouldn't hurt.("Can I be your friend?":The Economist, Nov 17th 2005)


Reading 教材としてこのパラグラフを見た場合、固有名詞を中心にもし知らない単語があったとしても辞書さえちゃんと引けば最初の三つのセンテンス(After all・・・Hence the praise this week. )はそう問題にはならないと思います。問題は最後のセンテンス(But should America's commitment to Japan ever waver, a more independent stance to fall back on wouldn't hurt. )ですよね。大風呂敷の浮世離れした話をする前に、大風呂敷を「印象論の言いっぱなし」にしないためにも手短に解説しておきます(尚、訳はこの記事の最後にまとめました)。


ポイント(1) Ifの省略にともなう倒置
Should America's commitment to Japan ever waver,
=If America's commitment to Japan should ever waver,

これは仮定法の条件節でifが省略されると、
If+S+V → (If)+V+S
になるケースです。よって、この節の意味は、「万が一、アメリカが日本へのコミットメントを揺るがせるとすれば」くらいの所でしょうか。


ポイント(2) "A wouldn't hurt B."の構文
a more independent stance to fall back on wouldn't hurt.
には"A wouldn't hurt B."という構文が含まれています。この構文の意味は、直訳調と意訳調で考えると次の通りです。

直訳調「AをしたとしてもBが傷つくことはない」:意訳調「Bさん、Aをやったからといって損は(害は)ないですよ」=「Bさん、Aをやってみなさいよ」

例えば、研究社『英和中辞典』に載っている例文を引用すれば、Another glass won't hurt you.(もう1杯ぐらい飲んでも差し障りはないでしょう)=もう1杯飲みなさいよ♪

もう一つ。私のアメリカ人の同僚がこの構文で思い浮かべるのは彼の母堂との会話でよく出てきた次の文章らしいです。

Peter, take your medicine. It wouldn't hurt you.(ピーター、薬を飲みなさい。飲んだからといって死ぬわけじゃないんだから/この世が終わりになるんじゃないんだから/何も大変なことがおこるわけじゃないんだから)

つまり、この仮定法の帰結節の形と意味は、省略されているBを書き加えると次のようになると思います。

A[a more independent stance to fall back on]
+wouldn't+hurt(+B[Japan]).
=「(アメリカから)より独立性の高いスタンスに依拠したとしても、それは日本にとって悪い話ではないのではないでしょうか」

この構文自体は辞書にも載っているくらいですから、そうとんでもなく高い難易度の表現ではないです。しかし、TOEICの持ち点にかかわらず、政治・経済を語っている文脈でこの構文が使われると戸惑う方も少なくないのではないでしょうか。

katsurataro
【Taro Katsura:1847-1913】

浮世離れした話に入ります。もちろん、双方とも外交関係にコミットするレヴェルとスペックの政治家に限定して考えるのですが、私は英語力自体は、明治時代の平均的な政治家と現在の政治家を比べれば現在の方が遥かに高いと思います。これは、「話し」「聞く」だけでなく「読み」「書き」も含めた英語力全般について言えることだと思います。もちろん、大した根拠があるわけではありませんがそう思います。

これに対して、明治の高等教育を受けた第一期の世代(要は、お雇い外国人というネーティブスピーカーに英語やドイツ語で直接知識を伝授された世代)の抜群の語学力の伝説や、語学と哲学に中心を置いた「旧制高校」の教育の神話を持ち出して、明治時代というか戦前の語学教育の素晴らしさを熱く語られる方もおられるかもしれません。しかし、私はそれらは伝説や神話にすぎないと思っています。

百歩譲っても「英語学者」や「ドイツ語学者」の語学力については、戦前の方が優れていたと言えるかもしれませんが、社会科学を含む他の分野の研究者やビジネスマンや政治家の語学力については、お雇い外国人の授業も旧制高校の影響もそう過大に評価できないのではないでしょうか。

そして、鷗外や荷風や二葉亭四迷、露伴や芥川、あるいは、津田梅子先生や新島襄先生を引き合いにだして戦前の語学教育の優秀さに思いを馳せる方もおられるかもしれませんが、英語のネーティブスピーカーと看做すべき梅子先生は別格としても、これらの例はいつの時代にも語学の上手はいるという単純な事例にすぎないと思っています。

ここまで断言しておいて「もちろん、大した根拠があるわけでありませんが」ではブログの世間が許してくれないでしょう。よって、そう私が確信している根拠を幾つか述べておきます。

<根拠-旧制高校の名物教授の英語力>
山形県のある有名な英語教授を祖父に持たれている私の親しい方から伺った話ですが、その英語の達者上手であられた先生は、終戦直後、アメリカの進駐軍が山形に来た際に県庁から「通訳」を依頼されたということです。ところが彼の英語は進駐軍に全く通じず、また、筆談もシドロモドロで数日で御役ご免になられたとのこと。

彼は英米文学だけでなく英米の時事問題や英米流の経済学にも造詣が深い方であり県庁もかなり期待して三顧の礼をもって「通訳」をお願いしたということですが、全く期待はずれだったらしいのです。そして、その替わりを務めたのが昔横浜で貿易実務に従事していた方だったとか。これ自体は、「読み」「書き」中心の戦前の(というかここ15年くらい前までの)日本の英語教育の駄目さ加減を象徴する例のようですが、ポイントは「筆談」もコミュニケーションのスピードについて行けなかったという所でしょうか。

要は、「進駐軍が駐屯する場所はどこか」とか「進駐軍の命令は(日本側の)誰にどのように伝えればよいか」、あるいは、「進駐軍の物資の横流し先はどこで/レートはいくらか」とか「どこに行けば美味しい酒が飲めるか」「アメリカの家族への贈り物は何がいいか/それはどこで入手できるか」等々、決まりきったパターンの情報伝達をノイズ少なく素早く処理する能力と、英米文学や英米の時事問題を深く正確に理解するための語学力は全く別物ということでしょう。テニスの世界チャンピオンが卓球では中学生以下というのとこれは同じです。

要は、能力が試される種目が違う。蛇足ながらコメントしておくと、現在の日本で求められる英語力は後者(そう前者の「進駐軍の通訳」ではなく)を基盤にした、広くビジネスを英語で遂行できるコミュニケーション能力だと私は考えています。



<根拠-戦前の翻訳>
これは英語だけではありませんが、数名の名人上手の作品を除けば、戦前の翻訳本は、「それだけを日本語のテクストとして読んで理解できない」、そんな代物が少なくありません。私は学生時代の専攻がら新カント派の法哲学・歴史哲学つまり社会科学方法論の主要な著作はほぼ読んでいると言ってもよいと思いますが、戦前の/戦前の教育を受けた先生方の翻訳本はほんとど途中で投げ捨てました♪ 

而して、西田幾多郎にせよ、和辻哲郎にせよ彼等が英語やドイツ語で原書を本当に理解できていたのかについて私は留保します。けれども、郷里の尊敬する<敵将>である、向坂逸郎先生のマルクス理解が世界でも一定水準を越えていたことは彼の哲学的基礎体力を補って余りあるその類稀なドイツ語力によるものが大きいと思っています。もう一人の、尊敬するというか敬愛する郷里の<敵将>の廣松渉さんは・・・(笑)。



yamamotogonbee
【Gonbee Yamamoto:1852-1933】


<結語>
この記事の結論行きます。私は、英語力自体は明治時代の平均的な政治家と現在の政治家を比べれば現在の方が遥かに高いと思います。しかし、英語でのコミュニケーション能力に限ればひょっとしたら明治時代の平均的な政治家の方が現在の政治家よりも上ではないだろうかと考えています。

そして、冒頭で取り上げた"But should America's commitment to Japan ever waver, a more independent stance to fall back on wouldn't hurt."についても、現在の政治家の中にはこのセンテンスの意味がとれない方も少なくないけれど、明治時代の政治家はこのセンテンスの意味なら「感覚的にせよ正しく理解」したのではないかと思われてならないのです。少なくとも、彼等は「誰が傷つくのか/誰にとって損な話ではないのか」を取り違えることはなかったのではないか、と。

なぜならば、「誰が傷つくのか」というポイントを確認するためにこそ明治時代の政治家はコミュニケーションをしていたと想像するからです。つまり、「論理的に考える」こと、あるいは、「国益意識というか/自分は誰の利益を代表して交渉しているのか」という意識が現在の政治家の話す英語にはやや希薄なのに対して、明治時代の伊藤博文にせよ桂太郎、陸奥宗光や小村寿太郎の主張に私は明確にそれを感じるからです。

私はアメリカ人やカナダ人の同僚と仕事をしてますが、当然、英語力では彼等に太刀打ちできません。その点では、「通訳」を御役ご免になった山形の先生と同じです。しかし、英語でのコミュニケーションにおいては(自分で思っているだけかもしれませんが)彼等と結構互角にわたりあえています。つまり、それが英語を通したものにせよコミュニケーションも人間と人間の間のコミュニケーションである限り、論理的で立場意識が明確に確立している方が優れているに違いないと思うのです。これが、日々、英語のネーティブスピーカーとつたない英語でコミュニケーションしている私の持論です。そして、この持論からは大学ラクビーや神宮の野球の話ではなく「明治の勝」じゃないのかな、そう夢想するのです。

而して、政治家に引きつけて言えば「国益意識」と「国益をトータルでより有利に確保する戦略」を持ち合わせた上で英語で語られる情報に接しているか否か、それが「政治家が持つべき英語力」の核心であろうと。

羊頭狗肉ではないにしても、間違いなく竜頭蛇尾でとりとめもない話でしたが、皆さんはどう思われますか?


<引用パラグラフの試訳>
結局、2001年のアフガン戦争の際に海上自衛隊の燃料補給艦船と護衛艦をインド洋に送り、現在にいたるまでその派遣を継続していること。あるいは、イラク南部に平和維持部隊の派遣を決断しこれまたその駐留を継続することにより、小泉首相は憲法の解釈をその限界まで突き詰めた。そして、これによって小泉首相はアメリカを支援する姿勢を示したのである。カンボジアと東チモールにおける平和維持活動によってもまた日本はアメリカの負担を減らすことに寄与した。今週の賞賛はこれらの賜物だっただろう。しかし、もしアメリカが日本の擁護を約束する(現在の)日本との関係のあり方を見直すようであれば、日本がその外交の指針をアメリカからの独立性の高いものに差し替えたとしても何も差し障りはないだろう。



(2005年12月2日:goo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロード)

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macdonalds


◆イデオロギーとしての英会話
20年くらい前、『イデオロギーとしての英会話』とかいう本が結構売れていたと思います(★)。確か、京都は寺町今出川にあった書肆で求めその書店の近所の<ほんやら洞>という喫茶店で、たまたま一緒になったサークルの後輩に(まだ読んでもいないくせに)薀蓄を垂れた覚えがあります。KABU先生曰く、

★註:イデオロギーとしての英会話
ダグラス・ラミス『イデオロギーとしての英会話』(晶文社・1976年10月)。ラミス氏はその後、日本国憲法の翻訳を共著で出されるなど、反米思想のはけ口を日本の戦後民主主義的言説との共鳴の中で奏でられるようになっておられる。


KABU:
「イデオロギーとしての英会話」ちゅうのはな、英語勉強して世界中の情報にアクセスしたろうとか、世界中の人と話したろとかな、そんなえーことばかりやないちゅうことなんや。

英語は道具や思うて、皆、勉強しとるんやろけどな。もっともっと性能のえー道具にしよう思うて熱心に勉強して声色までアメリカ人と同じようになったらえーな、そう思うて英会話学校とかにもよーけ通うとるんやろけどな。そやけどな、こっちは英語を道具や思うとってもな、実はな、英語自体に組込まれとる<英語圏のものの考え方>や<アングロサクソンの価値観や世界観>がな知らず知らずのうちに勉強しとるもんに伝染してきてやな、結局、英語に組込まれとるイデオロギーに自分の考え方や思考パターンが支配されるようになるちゅう、まあそんなことなんや。そやからな、「敵性言語」やちゅうて国民に英語を勉強させへんかった戦時中の外国語政策もな、まんざら理由のないこっちゃないねん。
     
英語は怖いでー。英語は米帝国主義の尖兵やねんでー。英語はブルジョア側が送り込んだトロイの木馬や、気つけなあかん、油断しとったら寝首かかれへんともかぎらへんでー、ちゅうこっちゃな。


AHIRU:
なーるほど。先輩が英語苦手なんは、わざと英語勉強してはらへんからなんやね。

KABU:
まあ(・・・)、そうゆこっちゃ。英語なんかもともとヨーロッパの田舎者の言葉や。そんなんやったらこっちの脳味噌まで田舎くそうなるがな。田舎もんの英語とか軟弱もんのフランス語とか、漢の倭の那の金印が出土した九州出身者のワシが何が悲しゅうてやらないけんねん。やっぱ、学問や思想ちゅうたらドイツやろ。志のあるもんはドイツ語やらなあかんねん。


AHIRU:
明確やーわ。ごっー論理的やね。うちもその本買わなあかんかなー、思うとったんですは。でも、本の内容わかったさかいもう買わんでよーなった。そや、お礼にここのコーヒー奢りますね。


KABU:
本の内容は大体、まあ、今言った通りや(冷汗!)。コ、コーヒーご、ご馳走さん。やっぱ、AHIRUは見どころのある後輩や。



この見どころのある後輩は、現在、関西のある大学で哲学を教えておられる。そして、彼女の専攻がドイツ哲学なのは言うまでもない。私の方はといえば、学生時代に英語をサボっていた罰が当ったのか、英語教育に携わるようになってしまい、現在は公私共に英語で苦労している毎日。トホホ、です。

私が英語よりもドイツ語に力を入れたのは全く福岡県出身者らしい俗物的な理由(★)からです。それは、端的に言えば目立ちたいから、議論に勝ちたいから、です。簡単な話ですよ。英語はどれだけ勉強しても自分よりできる方は廻りにどれくらいでもいる。他方、ドイツ語やフランス語、まして、ロシア語やスペイン語は5~6年少し真面目に勉強すれば、自分よりできる方は極々限られてくる、そういうこと。

もっとも、これはドイツ語が英語より日本人にとって習得が容易ということではありません。それは何よりコンペティターの数の違いでしょうし、また、たいがいのドイツ語学習者はドイツ語に取り掛かる前に中学・高校とまがりなりにも(ドイツ語と近しい)英語を勉強した経験があるから言えることだと思います。それにつけても、鶏口となるも牛后となるなかれ、です。

★註:福岡県民論
私は福岡県出身者が大嫌いです(笑)。栄光ある「九州男児」の形容句の自称を名乗れるのは鹿児島県と熊本県出身者に限定されるべきだと思っています。福岡県民は、一言で言えば、権威主義の権化:体制側でも反体制側でもいいから目立つ方やメジャーな方につきたがる。私自身その典型でしてそんな自分が嫌いで嫌いでたまらない(笑)。親が会津とか盛岡で産んでくれればどんだけよかったか。

もう亡くなられましたが同郷の廣松渉さん:マルクスの研究で日本では有名な哲学者の廣松さんなんかも(本人は「自分は長州人でもある」と飲み会とかではおっしゃってましたが←実は、産まれた産院が山口県だっただけ!)、この福岡県民の「メジャーな方につく権威主義」の性癖が爆裂したキャラクターだったと思います。尚、私がソフトバンクホークスの熱烈なフアンであり、大牟田市の大蛇山祭りと博多ドンタクに毎年熱い思いを馳せていることは言うまでもありません。



kfc


◆イデオロギーとしての英語
話は変わりますが、(少なくとも私が齧った経営学や社会科学、哲学や神学の領域では)議論に勝つためには英語以外のヨーロッパ語ができることが有効です。英語だけしか知らないのと英語と他のヨーロッパ語を一つでもできるのとでは、一つの情報を理解し分析し、そこからテーマと問題点を抽出することに関して決定的な差が生じると思います。この差は、議論に勝つ上で効果覿面。

例えば、分析哲学を英語文献だけで学ぶのと、ドイツ語文献、例えば、カール・ポパーにせよウィトゲンシュタインにせよカルナップにせよ(★)、若かりし頃の彼等のドイツ語の著作も読むのとでは、変な喩えですが「100メートル競争でゴール寄り20メートルくらいの地点からスタートする」くらい有利です。それに、分析哲学の歴史を楽しむ上でも(思想のストーリーを楽しむためにも)、TVの「水戸黄門」を印籠の出る直前の場面から見始めるのと、没落した正直者の庄屋さん一族(?)が悪代官に苦しめられている場面から見始めるくらいの差があります。閑話休題。

目立ちたい! 議論に勝ちたい! これが私のドイツ語学習の動機でした。
悪いかよ! フン! サモシイ、だ? そんなん他人に言われんかて解っとるがな、です。哀しいなー。

★註:カール・ポパー、ウィトゲンシュタイン、カルナップ
現在の分析哲学に影響を与えたドイツ語圏出身の哲学者。ウィトゲンシュタインの影響下にシュリック、カルナップ等の所謂ウィーン学団が成立し、ナチスドイツの政権獲得後(1933年)、ウィーン学団のメンバーの多くは英米に亡命しました。カール・ポパーは、当初からウィーン学団≒論理実証主義とは一線を画していましたが、逆に言えば、ポパー哲学は片やウィトゲンシュタイン、片やマルクス主義に親しいフランクフルト学派(アドルノ、ハーバマス等)との対決と対話の中で構築されたと私は思っています。

ウィトゲンシュタイン(1889-1951) オーストリア→ケンブリッジ大学
カルナップ(1891-1970) ドイツ→シカゴ大学
ポパー(1902-1994) オーストリア→ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス



現在、私が<イデオロギーとしての英会話>や<イデオロギーとしての英語>と言う場合、20年前に考えていたことよりも、しかし、もう少し現実的なことを連想します。そりゃ-そうですよ。20年経てば人間変わります。

現在の私にとってのイデオロギーとしての英語とは、英語教育のマーケットサイズであり、他の言語に比べた場合の英語の情報伝達/交通のコストの低さであり、逆に言えば、同じコストを掛けた場合の情報伝達/交通のパフォーマンスの優位性であり、交換価値/使用価値の高い情報に占める英語の割合であり、英語を学ぶことの他の言語を学ぶことに比べた場合の平均生涯賃金の差であり、そして、英語ができる度合いと権力や権限を獲得できる確率との相関関係、等々になります。

あるいは、これらの現実具体的な英語と他の言語との差異に定礎された(企業と国家の競争力や個人の人生への)英語の影響力全体を私は<イデオロギーとしての英語>という言葉で連想します。このような具体的な英語の影響力への知識や認識が付随して始めて、20年前に<ほんやら洞>で講釈を垂れた、上の文学青年的な、英米社会の価値観や世界観が住む森としてのナイーブな<イデオロギーとしての英語>の側面も、大人が真面目に議論するに値する課題になると思います。

cocacola


◆解体する英語
いずれにせよ、英語がこの20年間で一段と大きな影響力を持つに至ったことだけは間違いない。しかし、おごる平家は久しからず、です。バベルの塔もヤハウェの怒りに触れて崩壊したではないですか。ならば、いつまでも英語の天下が続くわけでもないのではないでしょうか。所詮、一つの言語には一つの価値観・世界観しか盛り込めない。なぜならば、価値観も世界観もそれが体系をなすからです。何を私は言いたいのか? 

ここで仮に英語が地球上で話される唯一の自然言語(Natural Language)になったとしましよう、私はその時には、すでにその<英語>はかって英語と呼ばれていた言語に似ているが、かっての英語とは最早別の幾つかの言語に分裂しつつあるだろうと考えています。

日本語母語話者の私にとってあんまり愉快ではないこの未来の設定でも、かって英語と呼ばれていた言語に似ているが互いに異なる複数の言語に<英語>は分裂し始めているに違いない。なぜならば、異なる文化や価値観を持つ人々がこの惑星上に存在する以上、彼等はその価値や文化を盛り込むのに使い勝手のよい独自の言葉を形成していくだろうからです。

共通語なる<日本語>がこの数十年にわたって毎日TVやラジオや新聞を通して暴力的に押しつけられているのに、九州弁も関西弁もまだまだ元気ではないですか。あるいは、渋谷や秋葉原で女子高生やアキバ系の人々が話す言語は最早普通の日本語母語話者には理解不可能になっているではないですか。これらを考えれば、私は上の想定に全持ち点を賭けますね。まあ、賭けの勝敗は置いておくとしても、<イデオロギーを解体するものとしての英語>という契機がこの文脈からたち顕れるのではないでしょうか。私にはそう感じられます。


◆イデオロギーを解体するものとしての英語
英語を通して、英語が話されている社会や文化をよりよく知ることができるということ。あるいは、アメリカやイギリスから輸入されたアイデアの意味がよりよく理解できるということ、これが<イデオロギーを解体するものとしての英語>という言葉でもう一つ私が表現したいことです。

解体する英語のところで述べた英語を考える契機:英語が話されている社会が実は、階級や階層や教育水準によって、あるいは、エスニカルなバックグラウンドによって分裂している社会であること、少なくとも、分裂していく契機が組み込まれた社会であることを英語を通して知ることの意義を、こんどは逆に英語に焦点をあてて敷衍すれば、現実に話されている英語は多様な言語の総称であること、英語はそれを話す人々の文化の多様性によって日々、英語とは似ているが英語ではない別の言葉に変化しつつあること、これらのことを英語を通して知ることができると思います。

英語が現在の世界を支配しているイデオロギーの反映であると同時に、そのイデオロギーが常に解体しつつあることの反映でもある。欧米流の「民主主義」や「平和」や「自由」や「人権」や「国家」という言葉が、あたかも一つの意味しか持たないかのように戦後民主主義という思想(かなりその思想的根拠はあやしい思想)を信奉する論者によって取り扱われている現在の我が国の状況を鑑みれば、解体する英語を通してイデオロギーを解体するものとしての英語という側面を日本人と日本市民が知る意義は小さくはないと思います。

英語のイデオロギー性を知ると同時に英語と英語に憑依しているイデオロギーが変化していることを知ることは、<単一の英語>や<英語に組込まれている価値観や世界観が支配する一様な社会>という幻想の解体に通じるでしょう。もちろん、英語圏の社会を支配する価値観や世界観を、それらの価値観や世界観というイデオロギーの色のついた分析道具(=英語)で、解明することの限界は自明です。この事情は、英語に限ったことではなく、北京語によって中国や台湾を、日本語によって日本社会を分析しようとする際に必ずつきまとってくるジレンマでしょう。誰もこのジレンマからは自由ではない。

ある社会に特有なイデオロギーを反映しているであろうその社会の言語でもってその当該の社会にビルトインされたイデオロギー性を批判すること(あー面倒くさい!)がそもそも可能なのか。分析道具としての言語のこの限界性は本質的なものかもしれない。つまり、このジレンマは、人間の意識を構成する言語そのもので人間の意識を分析せざるを得ない認識論の構図立てに起因しているのかもしれません。では、どないすんねんや? どげんすっと? 

フッサール先生曰く、「意識とはすべて、何ものかに対する意識である」=対象世界は言語によって構成されている。ウィトゲンシュタイン先生、言いて曰く、「世界は言語であり、人間は言語と世界の一致を語れるとしても、世界を探求した結果が真理であると語る権利を神様から与えられてはいない。ゆえに、人間は、What we cannot speak about we must pass over in silence. それについて語ることができない物事については沈黙しなければならない」、と。

私は、「イデオロギーとしての英語」「イデオロギーを解体するものとしての英語」については、まだ多くの語りうることが残されていると思っています。機会があればその幾つかは紹介いたしますが、とりあえず、語りうる根拠は<言語=英語>自体ではなく<英語を使って行われる行為の社会的な意味>に着目することから得られるのではないかな、そして英語とは別の言語と日本語との<三角測量>によって<英語を使って行われる行為の社会的な意味>は間主観性を獲得しうるのではないかと漠然と考えています。これまた機会があれば敷衍いたします。



(2005年7月17日:goo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロード)

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