otsukaaichan


姉妹ブログのgooブログにアップロードした『再出発の英文法』について、目次をまとめて欲しい。例題を追加して欲しいという希望を何人かの読者からいただきました。嬉しいです。何につけ反応があるというのはブログ管理者として嬉しい。元気がでます。

個人のブログとはいえ「客商売」。ご要望に応えさせていただきます。ということで。「例題」の作成に着手し始め、また、この記事を作成しました。この記事が少しでも『再出発の英文法』を読んでいただく上で読者の皆様のストレスを軽減できるようなら、そして「英語大好きだよ」と一人でも多くの方に感じていただける、そんな契機に『再出発の英文法』ともどもこの目次がなるようなら大変嬉しいです。日本のために頑張りましょう!

頑張る!


■再出発の英文法の目次


『再出発の英文法』と英文法の体系
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/456520dd47a80deecba9b890028a6c0e

文型
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/44acbe36196ec583d19e6294e26980af

動詞 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/8f5676a662b2f4ccfade28c0fdb5bfd8

目的語と補語 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/bf56ab2a890c666b30c7817810c19685

接続詞 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/1222fad711972da22f46c827609eafa1

関係代名詞 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/57fb8692346e79d6ddf937d7abc45743

時制 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7359aa0a6698662c8d63750bdd31ad19

仮定法(1)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f1e8bdf5a6f2b23a822c27fd70485b3a

仮定法(2)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7a6f009616d7121612fd4828d03002e1

不定詞と分詞 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/da0db16e5aec8a541153360e6288a990

不定詞と動名詞
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f5e8bdda5bea6bc945fbe97feb028903

修飾 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/ad6397c7b0666b676e075be56b03f90c

「冠詞」および「可算名詞と不可算名詞」 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/aef4903502fb7d276163a5cd4249f453

不定代名詞・不定形容詞と呼応 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/68358b234ce0e9b64ec53719332cc4bd

比較表現 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/1e79d59baf3fc98111ddb89720ac6bd7

前置詞  
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d1c726bcff85213cbf50703e71bfaefe

前置詞の語法(1)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0a4cbc1ba3edef1c4dcebfd26fb2bb5f

前置詞の語法(2)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2a8a8826934a8e1cf8895f9f40178f3c

倒置・疑問文
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f7bad0fd4920faf623fbfddc26caa405

省略・挿入・同格
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f9f7248b0b9a515405d1097a2c7369ef

パンクチュエーション
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9430334f7fc3d0abd9ca8777d8e0daeb




(2008年6月29日:goo版&yahoo版にアップロード)

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テーマ : 教育問題
ジャンル : 政治・経済

sengyoshufu



■フェミニズムは玉葱の皮である
フェミニズムは思想の混合物である。現在の先鋭化した日本のフェミニズムにとってそのどの思想基盤からも、天皇制や日本型の儒教的家族道徳が男性優位かつ女性蔑視の考えとして批判されることには変わりない。しかし、フェミニズムに日々突きつけられている諸々の現代的や国際的な思想課題に対しては、フェミニズムはその課題や問題の性質に応じて自己の政治的な主張を押し通すのに最適な思想のアイテムを適宜使い分けているのではないか。私にはそう思われるのである。

フェミニズムは玉葱の皮である。考えれば考えるほどフェミニズムとは玉葱の皮であると私は思う。その心は。フェミニズムの思想的なアイテムを一枚一枚剥いていくと何も残らない。フェミニズムを形成するアイテム間の関連は希薄であり、フェミニズムの政治的な主張や法律的な解釈はフェミニズムの思想基盤とは論理的には無関係なフェミニスト自身の願望や勝手な思い込みからなされたものにすぎない。而して、その法制度論的な主張は涙なしには語れないほど醜悪なものである、と。要は、フェミニズムは自己の主張を貫くために、つまり、男女同権を越えて実現可能な総ての社会領域と場面で男女の取り扱いを同じにするために使えるものなら何でも使うというタイプの社会思想、否、社会思想の姿をした政治イデオロギーなのかもしれない。

フェミニズムは政治イデオロギーでありその主張の核心はフェミニズム思想の基盤から必ずしも演繹されるものではない。この認識からはフェミニズムの中での路線闘争は、正に、古の講座派と労農派の論争とパラレルである。

蓋し、フェミニズムが実現しようとする将来の日本社会の姿は、実は、フェミニスト各自がフェミニズムとは別途調達したイデオロギーに規定され、かつ、路線闘争の分枝は各論者が日本社会における反フェミニズム勢力の強固さと日本社会に組込まれた勢力基盤個々の構造をどう評価するのかに左右されているのだが、男女同権を越えて実現可能な総ての社会領域と場面で男女の取り扱いを同じにするという彼等の目標自体には差はない。すなわち、フェミニスト達は同床異夢の関係にあるが、彼等が現在の日本社会を成り立たせている日本の文化や伝統を破壊する壊し屋である点ではフェミニスト間に差はないのである。ここで、赤本以来検討してきたフェミニズムに内在する問題点を整理敷衍しておく。   


●フェミニズムは「家族」や「夫婦」を共同の幻想にすぎないと考える 
   
△「家族」や「夫婦」が幻想であることは正しいだろう。しかし、その点では「国家」や「国際関係」も幻想にすぎない。問題は、ある事柄の幻想性ではなくその幻想性の効能ではないだろうか。要は、役に立つ幻想は良い幻想であり役に立たない幻想は悪い幻想である。■    
    
●フェミニズムは「家族」や「夫婦」の幻想性が資本主義的な疎外構造と搾取構造を下支えする   と考え、その幻想性は男女の性差に基づく(genderを理由とした、)分業を女性に(否、女性にも男性にも、)強いる人間性に対する桎梏と考える  
  
△資本主義的な生産関係のあり方を男女の性差(gender)が下支えしていること(性差に基づく分業が資本主義的な社会関係に組込まれていること)は事実であろう。しかし、それが<悪>であり<邪>なこととして否定されるべきかどうかは自明ではない。厳しく言えば、資本主義が嫌なら資本主義的でない社会を形成するか非資本主義的な社会に逃げるかない。そして、そのような意見が明らかに少数である日本社会に生きているのならば、資本主義的な生産関係や分配構造を自明の悪という前提で論を組み立てたとしてもフェミニストと同じ宗派に属する者以外にはなんらの説得力もないに違いない。■   
    
●フェミニズムは「家族」や「夫婦」の幻想性は、家父長制、すなわち、儒教的な封建的意識の残滓であり、それらは資本主義的な疎外構造を下支えしていると考える  
  
△近代日本社会では家父長制の抑圧と資本主義的な抑圧による二重の支配に女性が晒されていると理解することはある意味で正しいだろう。しかし、儒教や封建的な意識構造が<悪>であり<邪>なこととして否定されるべきかどうかは自明ではない。他方、近代立憲主義が抽出する均質でアトム的な個人を社会における唯一の価値の主体とするアイデアは社会思想の歴史とメニューの中では、寧ろ、特殊なものである。個人の尊厳や基本的人権の尊重は歴史的にはとても「人類普遍の原理」などと呼ばれ得る代物ではない。■    
    
●フェミニズムは男女の生物学的な差異(sex)を認めるもののその性差(sex)が社会関係に組込まれることを激しく忌避する。生物学的な差異、それに基づく性行為や性欲の存在は認めるものの生物学的や社会学的な理解を超えてその結果(快楽や妊娠、夫婦の一体感と家族の連帯感の涵養等々、)が人生において意味や価値のあることと捉える見解をフェミニズムは痛烈に批判する(1970年代後半までは、京都大学あたりのフェミニストグループではスカートを穿いているだけで批判されたらしい。「あんた、<女>みたいなカッコーしてんやん!」、と。)    

△フェミニズムには自己の性的なアイデンティティーの確立に葛藤する思春期特有の悩みを回避する心性があるのではないか。それは葛藤を回避し結果を先送りする思想ではないか。フェミニズムは性欲も対幻想も生物学的と社会学的な範疇で処理する。男女はそれ以外の領域では均質な同じ人間とフェミニズムは考える。

要約しよう。フェミニズムは、男と女の性差を生物学的な範疇に還元することで、♂と♀という性差(sex)以外の社会的な差異(gender)を逆に幻想として解体できると考える。私にはこのフェミニズムの立場は「目をつむれば世界はなくなる」と語る議論と異ならないと思える。フェミニズムはこのような観念的な言辞を多用し、自己の性という実存的な事柄から目をソラシ、而して、性差(gender)に起因する運命から自分が自由な存在であるかの如く考える所の思春期のお嬢様/お子様の議論にすぎないのではないだろうか。■ 
   
    

私にはフェミニズムは玉葱であると思われる。その思想の基盤は近代立憲主義であり、マルクス主義であり、ヨーロッパ中心主義批判の社会思想である。しかし、フェミニズムの政治的な主張はこれらの思想基盤を適宜援用しつつ以下の如くに展開されているのではないだろうか。すなわち、

イ) 重層的な抑圧から人間(♀&♂)を解放すべく
ロ) 均質なアトム化した個人を想定し
ハ) そのような個の想定に際して零れ落ちる<女性性>なり<男性性>を人間本性にとっての過剰として捨象する。而して、
ニ) フェミニズムはそれらの過剰を行政と司法の力で社会的にも切り捨てることを画策する。「男女差別があるのは社会が悪いんやんか、そやからな、その悪弊はな法律と行政の責任においてな改善されなあかんねん」、というのがフェミニストの常套句なのも頷ける


要は、イ)の主張のためにはマルクス主義を、ロ)の主張のためには近代立憲主義とヨーロッパ中心主義批判の社会思想を援用する。また、ハ)を述べるためにはヨーロッパ中心主義批判の社会思想のアイデアを準用し、ニ)の正当化のためには三つの思想基盤総てを借り出すという具合である。

ウーマンリブのフリーセックス運動は「誰とも気が合えばニャンニャンするのが自然で当然」との主張ではなく「性に纏ろいつく因習や固定的なイメージや考え方から自己を解放しよう」ということだった。このことからも想像できるように、1970年代後半までのフェミニズムは、社会を変えるために個を変革する運動であったのに対して現在のフェミニズムは個を変えるために社会を変革しようという極めて操作主義的な倣岸不遜な思想である。識者が現在の先鋭化したフェミニズムを指して「文化大革命」を画策する不逞の輩と喝破される、蓋し、所以であろう。

私はこれらの雑多な思想基盤と個々のフェミニストの政治的イデオロギーを「玉葱」として統合しているものをフェミニズムに内在する所の、ある特殊な人間観とユートピア的な社会観ではないかと考えている。ある特殊な人間観とは、自己の性的なアイデンティティーを認めたくないという思春期で立ち止まっている者に特徴的な人間観であり、ユートピア的な社会観とは、生物学的な差異(sex)を捨象した均質な人間が男女同権の主張の範囲を遥かに越えて社会生活を営みうると考える社会観である。  

国際的な競争がまさにヒートアップしている21世紀のこのメガコンペティションの時代に、他方、目も眩まんばかりの多様な民族の文化や民族の一体感が世界の諸国民の中に現存している国際社会の現状を前提にして、現在の生産力や国際競争力を損なうことなく男女同権を越えて均質な男女が共生できる社会を夢想するものをユートピア思想と言わずして何と言おうか。また、思春期的の言辞は思春期にある若者が自己の実存的課題に悩みその課題への真摯な回答を素直に語る時にのみ思春期特有の清々しさを他者に感じさせるだろう。

これに対してフェミニズムの言辞や論理(もしフェミニズムに論理なるものがあるとするならばだが、)は剥いたばかりの玉葱の皮がそうであるようにそれを読むものを戦慄させ涙を流させずにはおかない。その思想基盤に走る断層の深さと、フェミニストがフェミニズムの思想基盤とは別所から調達してくる政治的なイデオロギーの陳腐さと醜悪さゆえにである。 


dolechan



■フェミニズムの躓きの石としての性差と性欲
フェミニズムは性差(gender)と性欲を人間にとっての<過剰>と考える。性差と性欲は人間が社会生活を営む上での余分なもの、そうフェミニズムは捉えている。性差(gender)は均質なアトム的な人間(♀&♂)にとっては確かに過剰な属性であろう。しかし、人間(♂&♀)は一人では生きていけない。而して、実際には性差(gender)は人間(♀&♂)の<不足>を埋めるものである。そして、この<不足>を埋めるための人類の経験と智恵が婚姻と家族の制度に他ならないのである。蓋し、性差(gender)を<過剰>と捉えるフェミニズムが婚姻や家族に対して露骨な敵愾心を隠さないのも当然であろう。

性欲をフェミニズムは単なる生理現象と理解する。正に、「事務処理」である。性欲が湧きあがればそれを解消するだけである。それは、髪が伸びれば散髪に行き、空腹を覚えれば食事をすることと何ら本質的な差異はない。しかし、性欲も人間存在(♂&♀)に<不足>なものを補う営為ではないだろうか。要は、反フェミニズムの立場からは、人間(♀&♂)は性差(gender)を越えて、否、異なるがゆえに互いの<不足>を補いあうという意味で対等なのである。それは非対称的であるが(あるがゆえに)対等なのである。他方、フェミニズムは人間(♂&♀)は均質であるがゆえにこそ対等と考える。

人間は「男」であるか「女」であるかのいずれかである。その規定性を捨象するためにフェミニズムは性差(gender)と性欲を<過剰>として切り捨てる。蓋し、観念的な考えを好む人にとっては観念的な認識の対象世界こそがリアルな世界である。恐らく、フェミニズムにとっては性差(gender)が捨象された世界こそが(それは反フェミニズムから見れば人間存在から性差(gender)が剥ぎ取られた空虚な世界であるのだろうけれど、そんな世界こそが)現実的なのかもしれない。もちろん、フェミニストがどんな世界にリアリティーを感じようともそれは論者の自由である。しかし、その世界認知はフェミニスト以外の者にはなんの説得力も持たないことは言うまでもない(★註1)。

家族も夫婦も擬制であり想像の共同体にすぎない。しかし、それらは想像上のものであり、幻想にすぎないとしても<共同体>ではある。「人は女に産まれるのではない。女になるのだ」というボボワール『第二の性』の主張は正しい。女は社会において作られるのだろうしその経緯は男も同じであろう。「人間」という普通名詞は辞書か六法全書の中にのみ存在する。

何が言いたいのか。それはこうである。女も男も社会的にその属性を与えられる社会的存在(a gender)にすぎないけれども、人間(♀&♂)は<男>か<女>というユニフォームを着ることなしには社会の営みに十全には参加できない。加えてこの不条理と不正義に満ちた人生の七難八苦を乗り越え人生において自己の個性を華開かせ感動的な人生を具現することはこのユニフォームを着ることなしには難しい、と(★註2)。

人は一人では生きられない。それは、生活資料(衣食住等々の物質的資材、)を生産獲得するための社会的分業が人間の社会生活に不可欠であるという意味でもあるが、同時に、生命の再生産のための性的分業の不可避性をも意味している。夫婦と家族の制度が形成する男女の社会的な性差に基づく分業こそこれらの社会的分業と性的分業が見事にブレンドされた人類の叡智ではないだろうか。フェミニズムの思想はこれらの分業の必要性を等閑視している。

フェミニズムは対自然関係においても対社会関係においても目に見える形での分業の必要を考えないでよいようなある意味恵まれた立場(ある意味不幸な立場、)からの社会認識ではないか。すなわち、私は現在の先鋭化したフェミニズムを、その主張のラディカルさや言辞の激しさ、論理の傲慢さとは裏腹に、「先進国の都市生活をするホワイトカラー」のひ弱な世界認識にすぎないと考えている。フェミニズムとは言わば都会のワンルームマンションからの人間観であり社会観にすぎない(★註3)。

★註1)フェミニズムによる性欲の矮小化と抽象的人間像の肥大化
例えば、関西で活躍されている深江誠子さんは、娘の深江たみさんと一緒にフェミニズムの普及活動をされておられるが、誠子さんはたみさんが小さい頃からコンドームを渡していたそうである。正に、生理現象としての性欲を処理する性的な事務処理において自分を傷つけることのないようにとの(妊娠や性病を考慮しての)フェミニズム的には周到かつも暖かい親の配慮なのだろう。

しかし、前にも書いたように、ウーマンリブ運動が提唱した「性からの解放」とは性にマツワリツク社会的な感情と意識の体系から自己を解放しようというスローガンであり、特定の異性と特定の感情を持続することを相対化することは(まあ、要するに、気が合えば誰ともニャンニャンすることは、)その性からの解放のための手段の一つでしかなかった。

而して、それはそれでいいのだけれど、性からの解放は多分、人生や社会の最大の問題ではない。親の介護、やりがいのある仕事(もちろん専業主婦業はその最たるものである。)を通して社会に貢献することと自己実現の重要性は性からの解放のそれに優ることはあっても劣ることはないのではないか。畢竟、もし、人生の課題が性からの解放以外に目白押しだとするならば、人生の諸々の課題をバランス良く解決しながら自分の一生を歩ききるための智恵として婚姻や家族の制度は結構うまく出来た制度だと私は考える。

ならば、深江さん、男女(♂&♀)の等質性を主張するために性欲や性差(sex)が邪魔だからといって性欲や性差(sex)を矮小化すべく、性を振り回して周辺の皆さんにあんまり迷惑かけなさんな。子供にコンドームを持たせるのは勝手だけど、そんなん世間に言いふらすことじゃないでしょう、と。そう私は考える。


★註2)ゲイ・レズビアン・ホモセクシュアル
同性愛者(性的自己同一性の先天的不適合者も所謂文化的不適合者もここでは区別しないでおく。)は、自己に与えられた生物学的な性差(sex)を拒否するが、文化的な擬制としての性差(gender)を熱烈に歓迎する。ただ、その性的役回り(the gender)が社会から与えられるものと同性愛者が希求するものとが異なっているだけである。そう、世間では青のユニフォームを着るように促されているのに、自分は赤のユニフォームが着たいというようなそれだけの違いである。これに対して、現在の先鋭化したフェミニズムはユニフォームを着ること自体を拒否する。


★註3)人類の財産としての性差
平成14年『正論』8月号は「フェミニズム批判大特集」を組んだ。その中に大変共感できるコメントがあった。東京女子大学の林道義先生の寄稿記事である。以下引用する。
「フェミニストはジェンダー(文化的性差)を頭から「悪いものと」決め付けている。

しかし文化的に培われてきた性差は、人類の大切な文化的財産であり、人間にとって必要な智恵の結晶である」(林道義「「男女平等」に隠された革命戦略 家族・道徳解体思想の背後に蠢くもの」241頁)。「子供は抽象的な「大人」になるのではなく、必ず「男の大人」か「女の大人」になるのである」(242頁)。「ジェンダーからフリーになろうとするのは大きな間違いであり、ジェンダーは人間にとって必要な文化なのである。身体的本能的な区別をもとに文化的な具体化と洗練化の結果できあがったものであり、生得的な部分と後天的な発達とが結合したものである」(242頁)。「整理すれば、ジェンダーフリーは二つの根本的な間違いを犯している。「性差は文化によってのみ出来上がる」と考えている点と、「文化的性差はなくすべきだ」と考えている点である」(243頁)。
 


recruitgirl



■幸福の青い鳥は<家族物語>の中にいた
アリストテーレスが語るように「人間は社会的な(ポリス的な)動物」である。人間は一人では生きられず、社会(ポリス)における生活を運命づけられている。ならば、他者から与えられる規定性(すなわち、「他人が君を見る見方」や「社会が私の性質として理解する事柄」等々、)は社会的な存在としての人間にとって寧ろ本質なのではないだろうか。

ならば、家族や夫婦が幻想であり擬制であることはそれらの社会的意義や有用性を否定する根拠には必ずしもならないだけでなく、それらの制度が与える<幻想の共同性>は社会的存在としての人間の本質でさえある。人間はその人類史の経験の中で、夫婦や家族という<物語>を生きる生き方を編み出した。この<家族物語>は幻想にすぎないとしてもそれは人類史の中で推敲を重ねられた文化の結晶である。

ポスト=構造主義が教えるように、多様な自分と多様な人生をスキゾ的(精神分裂病的)に軽やかに生きる生き方も、あるいは先進国の都会のワンルームマンションで暮らすホワイトカラーには魅力的でリアルな提案に聞こえるかもしれない。しかし、断片的な人生をモンタージュ(montage:断片的な場面をつなぎ合わせて新しい一つの画面を組み立てること。)のように継ぎはぎするような生き方がはたして人間性の本性に適ったものなのだろうか。蓋し、フェミニズムの提案する生き方が世界観の一つにすぎず、フェミニズム的な世界観とは別の選択肢を我々が持っていることだけは確かである。

再度記す。家族や夫婦は幻想にすぎぬ。これは正しい。しかし、本当の自分を発見しようとしてそれらの擬制が与える社会的な規定性を一枚一枚剥ぎとた結果何が残るというのだろう。私は人間(♀&♂)の本性を社会的な規定性自体の中に見る。すなわち、社会的や文化的な規定性が編上げられたものが<自分>に他ならず、本当の自分とはそのような社会的規定性以外には存在しないと考えている。畢竟、ここにもう一つの玉葱の皮剥きをする愚がある。

蓋し、ヨーロッパ中心主義を批判する社会思想が教えるように、パラノイア的(偏執症的)な自己幻想には何の普遍性もない。けれども、パラノイア的幻想に普遍性や必然性がないこととパラノイア的な自己幻想や対幻想や共同幻想が無意味であることとは同じではない。

而して、ポスト=構造主義も、否、ポスト=構造主義こそが<自分>とは文化的な規定性の体系に他ならないことを喝破したのであり、だからこそ多様な社会的な規定性を適宜使い分ける生き方をポスト=構造主義は提案したのではなかったか。曰く、「適宜、生活の場面場面で人生の段階段階で多様なユニフォームを使い分けたらどうだろう。そうすることで今までより感動的で快適な人生を送れるようになるかもしれないよ」、と。ならば、現在の日本に蔓延する先鋭的なフェミニズムはこの点ではポスト=構造主義とは無縁である。なぜならば、それは裸で街を歩くことを提案しているに等しい主張なのだから。

フェミニズムはユニフォームを脱ぎ捨て、モンタージュよろしき断片的な人生をスキゾ的に生きる生き方を提案する。私は人間(♂&♀)が、しかし、そのようなモンタージュ、すなわち、社会的場面の断片ごとに様々な役柄を演じるということを生涯に渡って継続できるような存在ではないと思う。限りないモンタージュの断片が作る<自分>を演じるのに疲れた時。本当の自分に幸福を与えるために本当の<自分>、すなわち、スキゾ的な自分とともにモンタージュの如き人生を生きるのに疲れた時。幸福の青い鳥は自分の2LDKの部屋で見つかるのではないか。それは、パラノイア的な自己幻想と家族幻想への回帰であり、断片的ではない<自分の物語>への回帰である。そして、それは「遊動空間」から「実動空間」への回帰でもある。

物語といい実動空間といい、それらが擬制であり幻想であることには変わりはないが、それらは民族が作り上げた歴史と文化とによって公共的な属性(間主観性)を獲得している家族と夫婦の物語である。そのような民族の文化と歴史に基礎づけられた<家族物語>の中で人間(♀&♂)は効率的に幸福を発見することができるのではないか。私はそのことを疑わない。蓋し、幸福の青い鳥は自分の2LDKにいた。


第1部赤本と第2部青本を通じて、夫婦別姓論の基盤たる現在の先鋭化したフェミニズムの分析を行った。畢竟、フェミニズムの性差理解(feminists' outlook in gender)は正しい一点を突いているかもしれないけれど、その社会思想の帰結は自明なものではない。蓋し、ヨーロッパ中心主義批判の哲学によって社会において実体的とされてきたものを解体し尽くした後に残るものがあるのではないか。それは、夢と愛なくしては生きていけない人間の現存在であり、それは、家族と民族の物語の中でのみ自己のアイデンティティーとプライドを確認できる社会的動物(ポリス的動物)としての人間の現存在である。





(2002年4月20日-7月20日:海馬之玄関サイトにアップロード)

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テーマ : 性差別
ジャンル : 政治・経済

womendayo


■フェミニズムの思想基盤に走る断層
フェミニズムの基盤には断層が走っている。断層は2種類ある。フェミニズムの土台を構成する個々の思想とフェミニズム間の断層とフェミニズムが異質な思想体系を基盤としていることに起因するものとの2種類である。以下これらの断層群を検討するが。検討は3個の思想とフェミニズム間の断層の吟味から始め、フェミニズムの基盤たる思想体系相互の軋みの考察に至る。もって、フェミニズムが主張する男女の性差についてのものの見方がそれほど自明で自然なものかどうかを漸次明らかにしたい。

●フェミニズムとその思想基盤の間に走る断層

【甲:近代立憲主義とフェミニズムの断層】
近代立憲主義的な人間観と世界観は、平等かつ均一なアトム的な個人こそが社会的な唯一の価値の主体であり、国家も民族も家族も擬制にすぎないと主張する。国家も民族も家族も擬制でありそれらが想像の共同体であることに私は激しく同意する。現代の先鋭化したフェミニズムはこの近代立憲主義的な人間観と世界観に依拠して夫婦別姓の法制化や就労・育児における完全で実質的な男女の平等を主張する。そもそも、性別(gender)なるものは文化的な規定性にすぎず、自然的性差(sex)に直接起因しない男女へのあらゆる異なった取り扱いは近代立憲主義体制下では認められない、と。これが現代のフェミニズムの考えだと思うし、而して、私がフェミニズムの基盤の一つとして近代立憲主義を挙げるゆえんである。

しかし、近代立憲主義はあらゆる共同体をフィクション(擬制)として捉えただけで完結する思想体系ではなかった。それは、一度、論理的にあらゆる社会的な共同体のアプリオリな存在根拠を否定しさった後さらに前進する。想像の共同体の王国を政治哲学的に再構築する方向へ。すなわち、あらゆる政治制度や社会関係はフィクションにすぎないが、そのフィクション自体の中に人々を納得させ帰依させる妥当性の根拠を発見し体系化したのである。ホッブス、ロック、ルソー、モンテスキュー、バーク、ジェファーソン等々の営為はそのような類の知的格闘であった。それは、端的には国民を支配する権威の根拠を持たないもの(国家)に神の如き権力を与える(ホッブスの言う可死の神としての国家。)という難題との格闘であった。

蓋し、フェミニズムと近代立憲主義との間には断層が存在する。畢竟、性(gender)をフィクションと捉える所まではフェミニズムは正しい。しかし、性(gender)がフィクションであることと、文化的な性差(gender )に基づく法的や慣習的な諸制度が無根拠であることは別のことである。まして、文化的な性差(gender)の反映であるような諸制度が人間性の本質からみて許されないような人倫に反しているものか否かは性(gender)がフィクションであることだけからは肯定も否定もされることではない。


【乙:マルクス主義とフェミニズムの断層】
フェミニズムとマルクス主義(★註)は次のような物語、蓋し、女性の労働の価値を巡る女性にとっての不条理劇の中で結びつく。すなわち、人類が人類として存続していくためには、生活資料(衣食住等々の物質的資材、)の生産獲得と生命の再生産が不可避である。これら二つのタスクを人類は専ら男女の性的役割に基づく分業の中で営々と行ってきた。

問題は、総ての社会的な価値が貨幣によって計量される社会(資本主義社会)の登場とともに顕在化した。なぜならば、資本主義社会では、原則、あらゆる生活資料は商品として生産され商品として流通されるから、商品としての生活資料と交換するための貨幣を稼ぐ者が総ての社会的な価値を屋外から屋内にもたらすことになる。つまり、屋内にとじこもる女性は社会的な価値を表面的には何も生み出さず、1ペニー相当の価値(貨幣)をも屋外から獲得してこない社会的価値のない存在に貶められたのである。人類の存続に不可欠な生命の再生産のための大部分の営為は女性達が引き受け、また、家父長を含む男性労働者の労働力の再生産は彼女達なしには行えないというのに、資本主義体制下では女性の社会的な価値はゼロになったのである、と。

このような女性の境遇の不条理さを糾弾するマルクス主義の指摘はある意味正しい。誰しも「ただ働き」はご免こうむると言うに違いない。マルクス主義からのこのような女性の現状認識がフェミニズム思想の基盤の一つとなるのも当然である。

例えば、水田珠枝先生はこのようなマルクス主義的な社会認識に立った上で女性解放の戦略につきこう述べられている。「階級闘争による資本主義の克服だけでなく、資本主義を下からささえた性支配の組織、家父長的家族の根底からの変革がなければ、女性の解放は達成されない。家族が、これまでのように生産や消費の唯一の単位でなくなり、出産や教育の唯一の場でなくなることによって、つまり、家族が荷ってきた機能が社会の手にうつされ、家族の性格がおおきく変革されることによってはじめて、長い間、分離・対立させられてきた生活資料の生産と生命の生産、社会と家族、公生活と私生活は結合されるであろうし、女性は、労働者であると同時に生命の生産のにない手として、男性におとらない評価をあたえられるにちがいない」(『女性解放思想史の歩み』岩波新書・1973年、16頁)。「わたくしは、女性問題を、労働と性の矛盾の問題、そしてその矛盾を固定化し制度化した家族制度と、それにささえられた階級社会の問題としてとらえた」(同書、204頁)、と。

フェミニズムがフェミニズムを標榜するマルクス主義である限りフェミニズムとマルクス主義の間には恐らく断層は存在しないであろう。その場合、しかし、フェミニズム的なマルクス主義はマルクス主義一般が被る批判を甘受せねばならない。すなわち、労働価値説と唯物弁証法が分析道具であることにすぎないことによる限界性である。例えば、「マルクス主義は社会や歴史を見る非常に成功した見方の一つではありますが、そのアングルから抜け落ちる文化とかナショナリズムとか個人の主観的な幸福感の方を歴史や社会を見る上でより本質的と考える議論を否定することはできません。もちろん、そのような議論からマルクス主義的な世界観が否定されることもありませんけれども」という語りかけに対してマルクス主義は頷くしかない。

本来、マルクスは人類のあるべきあり方がどのようなものであるかに関してはそれが大きな問題だとは考えていなかったと私は思う。マルクスはそれを実に明快に語っている。それは、人間の「自由な意識活動や自由な対象化活動」を通じて人類全体の生活資料が充分に生産され必要に応じて分配される社会である。マルクスはそのような状況に人類が至るための方途を究明すべく眼前の現代社会たる資本主義社会の矛盾の解明に没頭した。その解明と方途の発見のために採用し開発した分析道具が労働価値説であり唯物弁証法である。

畢竟、マルクス主義は現代社会の矛盾を解明することとその矛盾を解決するという二つの部分からなる社会思想である。ならば、フェミニズムがフェミニズムに関心を抱くマルクス主義から分離し、マルクス主義を社会認識の道具として扱うとき、つまり、マルクス主義的なフェミニズムとなるときその基盤たるマルクス主義とフェミニズムとの間に鋭い断層が走る。私はそう考える。

簡単な話だ。マルクス主義は人類を解放するために眼前の資本主義社会の矛盾を鮮明に浮き上がらせた。それは、そうすることが人類解放の方途を指し示すために有効だったからである。しかし、この営為は資本主義社会が止揚された後のあるべき社会のイメージを楽天的と言われるにせよ牧歌的と皮肉られようとも厳としてマルクス主義が保持していたからこそ意味のあることだった。マルクス主義はその中に社会認識と社会改革の思想をあわせ持つことにより、「いいたいことも言うが、社会改革の成果につき責任も負う」という言わば潔い社会思想なのである。

しかし、フェミニズムが現代の資本主義社会が変革された後の具体的な社会のイメージを持たないまま資本主義社会と家父長制の支配する現代の日本社会の矛盾をあげつらったところでそれは書生論にすぎない。マルクス主義者のように現在の日本の社会に罵詈雑言の雨を降らせても、マルクス主義者のようにある明確な目的地を想定しその目的地に到達するためのある明確な経路をリスクを負って指し示す根拠と気概がなければそれは書生論である。そして、男女共同参画社会基本法の如き法的な裏付けを獲得した書生論ほど危険なものはないのではないか。マルクス主義とマルクス主義的なフェミニズムの断層は後者が前者のいいとこ取りをするがゆえに生じる。それは、「具体的なあるべき社会のイメージとその社会への経路をその思想体系自体から演繹できるか否か」という社会思想にとっての鼎の軽重が問われる枢軸に沿って鋭く走っている。

★註)マルクス主義
マルクス主義は、唯物弁証法(上部構造―下部構造の概念による重層的な社会認識と唯物史観および階級闘争史観という歴史認識)を構えとし、労働価値説(商品論・疎外論・物象化論・物神性論)を尖兵とする壮大な世界観提示型の社会哲学である。それは後に帝国主義論(資本主義の発展段階論)および社会主義リアリズム(文化戦略論)を生み出す母胎となったほか、多様な社会認識と社会改革のアイデアの源泉となった。



【丙:ヨーロッパ中心主義批判の思想とフェミニズムの断層】
現代日本のフェミニズムが基盤とする3番目の思想こそヨーロッパ中心主義批判の社会思想である。ヨーロッパ中心主義批判は日本ではポスト=構造主義(★註1)といわれる一群の哲学と同値と考えられている節もある。ヨーロッパ中心主義批判の思想は、しかし先述したように、ヨーロッパの胎内で営々として彫琢を加えられたものである。その核心を私は次の3個と考える(以下の記述に関しては、「記号」を「言葉」や「単語」と置き換えて読んでいただければ解りやすいと思います)。すなわち、

イ) 実体概念の否定
記号に意味を付与するものは記号そのものではなく記号の使用に関するルールである

ロ) 記号の成立条件としての差異性
ある記号を記号として存在させる条件は、その記号がその記号以外の総てから明確に識別されていることと、他の記号との差異である(例えば、「こいし」と「こいぬ」は最後の「し」と「ぬ」の差異によって初めてお互いを、「小石」と「子犬」という別の記号として成立させている。)

ハ) 記号の使用に関するルールの恣意性
記号の使用に関するルールの妥当性は、あるときは慣習、あるときは当事者同士の規約、またあるときは権威者の命令によって付与されるのであってそこに天然必然の関係は存在しない

ヨーロッパ中心主義批判の思想は性別(gender)につきこう考える。「女」とか「男」なるものがアプリオリに存在するわけではない。「男」や「女」が時間や空間を超越して普遍的に「女」や「男」であるわけではない。なぜならば、「男」や「女」が普遍的に存在する実体・実在(Substance)であるということを経験的に論証しようとするならば、「女」や「男」と呼ばれている個々の個体(個物)間で、共通の性質の個数が(大きい、小さい、男根を持つ、子供を産む等々の性質を何個共通に持っていかということ、)明らかに「女A」と「女B」の方が「男A」と「男B」よりも多いことにならなければならない(似ている度合いが高くならなければならない)。

詳細は割愛するが、数学的には「女A」と「女B」のペアと「男A」と「男B」のペアの似ている度合いは全く同じになる。それどころか「女A」と「女B」のペアの類似性は、「灰皿A」と「モンブランの万年筆B」のペアと比べてさえ同じなのである。よって、我々の経験に先立つ所で厳として実在するような実体は存在せず、「男」とか「女」とかいう区別立てには何の根拠もないことになる、と。

しかし、この結論は我々の日常生活の実情とあまりにも隔たっている。世界のあらゆる事象に区別がないという世界に我々は生きているのだろうか。また、そんな世界で我々は生きていけるだろうか。人間はパンの変わりに鋏を食べても気づかないだろうか。子猫が可愛いと思うが、いきなり飛び出してきた野犬に対して両手を広げて迎え入れるだろうか。否である。しかし、数学的かつ哲学的にはこの帰結は動かない。ヨーロッパ中心主義批判の思想はこのジレンマを斯く解決する。

すなわち、人間はその生活と生存の必要のために「より重要な性質」をもとに世界の森羅万象を主体的に区別(分節)しているのではないか。「より重要な性質」という限られた個数の性質をもとにするのであればある個物のペアと別の個物のペアとの間で似ている度合いの差が生じうる。例えば、「男根」を持っているという性質を「より重要な性質」とすれば総ての人間をモーゼの前の紅海のように男と女のグループに真っ二つに分けることができよう、と。しからば、この「より重要な性質」の「重要性」はどこから人間に与えられるのだろうか。ヨーロッパ中心主義批判の思想はこれを文化が人間に与えると考える。人間は生活と生存の必要のために記号(概念)使用のルールやコードを編み出し社会の中に蓄積してきた、と(★註2)。

男女に本質的な差異はない。男女の差異などは文化の中で便宜上行われている因習にすぎない。このヨーロッパ中心主義批判の思想からのメッセージはフェミニストにとって福音だった。フェミニストはこの福音書を胸に抱き、文化の中に潜む男女差別、女性蔑視の隠されたコード(言語を始めあらゆる記号使用のための暗号解読表)を探し、その暗号解読表に基づいて表面的には男女差別には価値中立的と思われていたテクスト(憲法や法律や文学から冠婚葬祭の習慣や小学校のクラス名簿に至るまで、)の中に女性蔑視の破廉恥な内容がふんだんに盛り込まれているのを発見した(★註3)。

フェミニズムとヨーロッパ中心主義批判の社会思想との間には断層が走っている。それは、他の思想基盤とフェミニズムの間の断層よりも致命的なものではないかと私は考えている。なぜならば、ヨーロッパ中心主義批判の思想構造のキーストンに現代の先鋭化したフェミニズムの主張と相反しかねない契機が孕まれているからである。それは、記号の使用に関するルールの恣意性に関する。

すなわち、記号の使用に関するルールやコードの妥当性は慣習や文化の中で定まり、そのルールやコードは人間の生活と生存の必要性のために歴史的に文化の中で形成されたものである(自生的秩序)。他方、フェミニズムは「男」と「女」に本質的な差異はなく、「女」と「男」に差異を設けるのは文化の規定にすぎず人為的に変更が可能であると主張する。けれども、歴史的に育まれてきた「文化の規定」を人為的に変更することがそれほど容易であろうか。また、「文化に蓄積」された偶然の集積こそ人間の生活と生存のために世代を越えて人間が蓄積した英知そのものではなかろうか。ならば、ヨーロッパ中心主義批判の社会思想を基盤としつつ自生的な文化を擁護する立場から「男」「女」の文化的な差異(gender)を肯定する見解もフェミニズムと全く同じ根拠を使って主張可能になるではないか。

もともと、ヨーロッパ中心主義批判の社会思想が「ヨーロッパ中心主義批判の」という形容句を付けて呼ばれるようになった理由の一つは、ヨーロッパの文化が他と隔絶して優秀であるという倣岸不遜かつ無知蒙昧の考えを、文化なるものは人間の記号使用の営為のパターンに他ならず、その記号使用にルールとコードを与えているやり方はヨーロッパも非ヨーロッパも共通していますよ(共通でないにしても、理論的にはどちらが優秀なやり方とはいえない同じレヴェルのものですよ)、ということを証明し倫理的かつ思想的に嗜めたからに他ならない。

人間のあらゆる文化は社会生活のためのあらゆる記号使用にルールとコードを与えるやり方の束にすぎないし、その記号使用においてどの文化が他の文化よりも数段優れているということはないのである。ならば、総ての文化は社会生活のためのあらゆる記号使用にルールとコードを与えるやり方の束であるという点で同じならば、逆に、世界中を「ヨーロッパの文化一色に染めても文句はあるまい」と言えるだろうか。否であろう。欧米以外の諸民族が欧米列強のそのような策動に対して激しく非難抵抗をしたのが20世紀の歴史ではなかったか。蓋し、フェミニズムの主張は男女の平等という口当たりの良いスローガンを掲げながら、実は、このような文化を人為的に操作しようという倣岸不遜の立場なのかもしれない。それは、ヨーロッパ中心主義批判の思想を援用しながらもかってのヨーロッパがヨーロッパ以外の諸民族に対して行った人倫にももとる文化破壊を引き起こす危険性を秘めているのではないか。フェミニズムとヨーロッパ中心主義批判の思想の間に走る断層は絶望的なほど深い。

★註1)ポスト=構造主義
ポスト=構造主義なるもは日本でももう流行らなくなったけれども、その本国フランス以外ではある意味終始マイナーな存在でしかなかった。何と言っても現代哲学の世界の主流は英米の分析哲学であり、カント・ヘーゲル・フッサール・ハイデガー・現代解釈学派と続くドイツ哲学である。こんなことはインターネットが普及している現在、少し英語とドイツ語とフランス語が読めるのであれば誰もが容易に確認できることである。げに日本の思想界は歪である。これは哲学には素人のリベラル側=旧体制側の進歩的文化人が垂流す噴飯ごとの所業に異議申し立てをしない専門哲学者の責任も大きいと思う。


★註2)実体概念の否定
ここでは便宜上、ポスト=構造主義的からの説明は行わずより分析哲学的な説明をあえて行った。ポスト=構造主義から説明しようとすると一般言語学(例えば、ソシュール)の幾つかの用語や用語の操作の経験を前提にせざるをえないからである。しかし、実体概念の否定、記号の成立条件としての差異性および記号の使用に関するルールの恣意性の意味はある程度お伝えできたかと思う。尚、本文で割愛した実体概念不成立の数学的証明のもっとも簡明なスタイルについては、今は品切れと思うけれど、渡辺慧『認識とパタン』(岩波新書・1978年、90頁以下)の一読をお薦めする。


★註3)記号としての文化
記号は言語に限られない。道徳的な慣習も冠婚葬祭のような習俗もすべて記号と記号の使用例と考えられる。ヨーロッパ中心主義批判を標榜するポスト=構造主義の源流の一つはこのような文化を記号と記号の運用の総体と見る所謂文化記号論的から薫陶を受けた哲学であった。一般には、ある事柄がそれ事柄以外の総ての事象から明確に識別され、他の事柄との差異も明確であり、また、その事柄が別の事柄を指し示すという関係にある場合。そして、その指し示すものと指し示されるものとの関係が明確にルールとして定まっているのならば、そのようなすべての事柄は「記号」と考えられてよい。ヨーロッパ中心主義を批判する思想はこのような、文化を記号と記号の運用の総体と考える視点から言葉(音声言語/自然言語)で書かれたもの話されたものを越えて(慣習や習俗や個人の身体行為等々の中に、)人間が込めた意味を見出そうとする。正直、その知的作業は素晴らしい。



●フェミニズムの思想基盤相互の間に走る断層
フェミニズムの基盤には断層が走っている。私はそう考えている。フェミニズムの土台をなす個々の思想とフェミニズムとの間の関係を一瞥した今、フェミニズムの思想基盤相互の間に走る断層の検討に移ろう。すなわち、相互に異質な思想体系を基盤としていることに起因するフェミニズムの破綻の可能性を考察するのである。もって、フェミニズムが主張する男女の性差(gender)についてのものの見方がそれほど自明なものでも自然なものでもないことを明らかにするつもりである。

フェミニズムを支える個々の思想を私は二つの観点から分類する。第1の観点は、それらの社会思想が「個人の幸福を増大することで社会全体の改革を目指す」ものか、逆に、「社会全体の改革を押し進めることによって個人の幸福の増大を目指す」ものかという言わば「個人志向型 Vs 社会志向型」のチェックである。

而して、第2の観点は、フェミニズムを支える個々の思想が社会に内在する問題を認識しその解決のための施策を抽出するために、ある理念なりある普遍的に妥当するような概念を中心に体系化されるタイプのものか、数学における公理主義的な構造を使って考察を展開するタイプのものかである。それは、言わば「イデア論型 Vs 非イデア論型」の判定である。蓋し、「個人志向型 Vs 社会志向型」および「イデア論型 Vs 非イデア論型」の二つのチェックポイントの軸がつくるマトリクスの中にフェミニズムを支える個々の思想を位置づける。

畢竟、私の認識はこうである。すなわち、近代立憲主義的な人間観と世界観は、個人志向型&イデア論型。マルクス主義的な人間観と世界観は、社会志向型&非イデア論型、そして、ヨーロッパ中心主義を批判する人間観と世界観は、個人志向型&非イデア論型であると。

◎人間観と世界観のタイプ
・近代立憲主義 - 個人志向型&イデア論型
・マルクス主義 - 社会志向型&非イデア論型
・反ヨーロッパ中心主義 - 個人志向型&非イデア論型


(甲) 近代立憲主義的な人間観と世界観
近代立憲主義は個人を社会的な価値の唯一の源泉と考え、個人をして国家に論理的に先立ち国家権力に統治の根拠を与えるものと考える。また、近代立憲主義は、「人権」や「国民主権」ならびに「自由」や「平等」や「平和」等々の理念を国家権力がその実現をめざすべき内容であり、それらは国家の恣意的な権力行使から優先的に護られるべき社会的価値であると主張する。私が近代立憲主義的な人間観と世界観をしてイデア論型と解する所以である。

尚、近代立憲主義的な人間観と世界観は、社会から個人以外の総ての実体をいったん抹消しさった後に、個人の尊厳を確保するために国家権力の根拠を再構築する営為でもあった。その点で近代立憲主義は社会志向型と見られる余地もある。しかし、このような意味でならばほとんどの「社会思想」は社会志向型になるわけであり、とりわけ修正資本主義下(行政権の肥大化と選挙権の拡大を特徴とする。)の大衆社会を考察の主な対象とする現代のあらゆる社会思想は社会志向型であると言えよう。ここでの分類の観点が「個人の幸福」と「社会全体の改革」のいずれに思考の優先権を与えるかという文字通り社会認識のプライオリティーに着眼するものである以上、近代立憲主義の人間観と世界観を個人志向型と判定しても間違いではないと思う。


(乙) マルクス主義的な人間観と世界観
社会主義とは、本来、世に生起する問題を「個人」と「国家権力」の両極から捉えることには限界があることを主張する立場であった。失業や諸物価高騰、富の偏在や道徳の紊乱を解決するには個人と国家との間に横たわる「社会」をこそ考究しなければならない、と。

これが社会主義の基本的なモティーフであった。ゆえに、社会主義をその思想体系の源泉の一つとするマルクス主義が社会志向型であることは自明であろう。また、フーリエやサン=シモンに代表される所謂空想的社会主義者は近代立憲主義と同じ「自由」や「平等」や「豊かさ」を理念として社会改革を目指すものであった点でイデア論型である。しかし、マルクス自身は所謂実体概念の呪縛から離脱し、所謂関係概念を使用して社会の認識と社会問題の解決の方策に向かったとの廣松渉先生の見解を私は妥当と考える。私がマルクス主義をして非イデア論型と解する所以である(★註)。

★註)マルクスは実体概念の呪縛から逃れることができたか?
廣松渉『もの・こと・ことば』(勁草書房・1979年)、『マルクス主義の地平』(勁草書房・1969年)、『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房・1972年)、『事的世界観への前哨』(勁草書房・1975年)、『存在と意味』(岩波書店・1982年/1993年。特に第2巻第2篇)をご参照いただきたい。尚、実体概念と関係概念(関数概念)に関してはカッシ-ラー『実体概念と関数概念』(みすず書房・1979年)を是非参照いただければと思う。



(丙) ヨーロッパ中心主義を批判する人間観と世界観
ヨーロッパ中心主義を批判する社会思想が非イデア論型であることには争いはないと思う。そもそも、ヨーロッパ中心主義を批判する主張の発端は普遍的な実体や実在と考えられている事象が擬制やフィクションにすぎないことを告発することにあったのだから。問題は、ヨーロッパ中心主義を批判する人間観や世界観が個人志向型か社会志向型かである。要は、ヨーロッパ中心主義を批判する社会思想には個人志向型と社会志向型の両方が存在しうる。

蓋し、前者が「家族」「国家」「夫婦」「民族」等々のあらゆる共同体の幻想性を解体に留まるのに対して、後者はあらゆる共同体の幻想性を解体した後に新しい社会の再構築に向かう、例えば、フェミニズムに関心を持つマルクス主義等の社会思想である。

しかし、私の理解では「新しい社会の再構築」の動機と戦略戦術案はヨーロッパ中心主義を批判する社会思想自体から論理的に演繹されるわけではない。ゆえに、ヨーロッパ中心主義を批判する人間観や世界観自体は(その地点に留まる限りは、)個人志向型と分類さられるしかない、と私は考えている。ならば、現在のフェミニズムが、社会に根ざした伝統や権威を壊すばかりで、再構築されるべき新しい社会の具体的なイメージを必ずしも提供できていないように思われるのも、フェミニズムが個人志向型に留まるヨーロッパ中心主義批判の哲学を土台としている限りなんら不思議ではない。上記の考察を図表にまとめてみる(下図参照)。

▼個人志向型 -  社会志向型
▼イデア論型  - 近代立憲主義 (空想的社会主義)
▼非イデア論型  - ヨーロッパ中心主義を批判する社会思想



●フェミニズムの思想基盤相互の間に走る断層とその様相
フェミニズムはその基盤に極めて調整が困難な断層を抱える所の思想的の混合物である。
近代立憲主義とマルクス主義の相克は明瞭である。前者は個人の尊厳や基本的人権、すなわち、「自由」や「平等」を国家権力が実現せざるあたわざる目標と考えるのに対して、後者は「自由」や「平等」という概念自体にアプリオリな価値を認めない。

尚、歴史的にマルクス主義が人権、就中、平等の具現を強く主張したという事実は問題にならない。ここではその社会思想の基盤に横たわる社会認識の傾向性とその傾向性の根拠を検討しているからである。要は、マルクス主義が「平等」を追求することを止めたとしてもそれはマルクス主義的であることに変わりはないが、社会全体の改革を押し進めることによって個人の幸福の増大を目指すことを止めたとするならば、最早、その思想営為はマルクス主義的ではないと私は主張しているのである。

近代立憲主義に基盤を置くフェミニズムは(フェミニズムのある主張が近代立憲主義から基礎づけられるときは、)基本的人権と個人の尊厳から演繹される「女性の権利」を国家権力の権威と威力を通して実現しようとするのに対して、マルクス主義的なフェミニズムは近代国家とそれを支える市民社会自体の改革をさえ主張する。近代立憲主義は伝統の中でその内容の具体性を獲得してきた人権に軸足を置く点である意味保守的である。つまり、女性が専業主婦としての自己実現に喜びを感じ、男女のカップルが夫婦として運命を共有することに人生の醍醐味を感じるのならば、この性的分業制度は法的保護の対象たりうる。しかし、マルクス主義からはそのような喜びや醍醐味は思想の本質とは無関係な気分や感情にすぎないと捉えることになろう。

近代立憲主義とヨーロッパ中心主義を批判する人間観と世界観の齟齬は近代立憲主義とマルクス主義の相克とパラレルである。ヨーロッパ中心主義を批判する社会思想は人権の普遍的な価値を認めないからである。つまり、マルクス主義とヨーロッパ中心主義批判の相克は、前者が将来斯くあるべきという社会のイメージとそれに至る明確な経路の案を保有する世界観提示型の社会思想であるのに対して、後者、ヨーロッパ中心主義を批判する人間観と世界観が単なる幻想や擬制の解体屋のそれであることに収束する。もちろん、マルクス主義が提出する経路案を正しいとか、現実的であるとか考える人は今日極めて限られるだろうけれども。

ここで再度記しておきたい。ヨーロッパ中心主義を批判する人間観と世界観からはフェミニズムはフェミニズムが再構築する新しい社会の具体的なイメージも経路も演繹することはできない。要するに、ヨーロッパ中心主義批判の哲学に基盤を置くあるフェミニストの政治的や法律的な主張は当該のフェミニストが別途他所で調達した価値観や政治哲学からなされていることになる。

フェミニズムの主張に傾聴すべきことは少なくない。それは、あらゆる社会的な共同体が幻想にすぎないことを踏まえ、現代日本においても女性は資本主義的と家父長制的の抑圧に晒されていることを告発する。そして、国家権力の唯一の源泉が均質なる個人であるとの近代立憲主義の主張を流用することで、日本社会を再構築する論理的と思想的な根拠をフェミニズムに与える。ここまでは真っ当な主張ではないかと思う。けれどもフェミニズムの主張には限界がある。つまり、フェミニズムの主張のある部分はフェミニズム的な世界観に賛同する者だけにしか説得力を持ちえない内容なのである。以下、その経緯を確認しておきたい。すなわち、

・ 日本社会再構築に関して近代立憲主義が与える根拠はフェミニズムだけに与えられたものではない。要は、フェミニズムがイメージする将来において改革された日本社会とは別の日本社会のイメージが幾らでもフェミニズムと同程度の根拠を保有しつつ存在しうること

・ マルクス主義からの現状認識はマルクス主義的な社会改革とセットになって初めてその論理の首尾一貫性が保てる性格のものである。ゆえに、マルクス主義的な社会改革の経路認識から切り離された所のフェミニズムの社会認識(2重に抑圧された女性観等、)は単なる社会認識の仮説の一つにすぎないこと

・ ヨーロッパ中心主義を批判する社会思想と哲学は社会的な共同体と自己と家族と夫婦の幻想性を解体する点までは正しい。しかし、この認識から一歩先に進んで、どのような生き方やどのような社会のあり方をフェミニズムが提案するかに関してはヨーロッパ中心主義の社会思想は何らの援助もフェミニズムに与えることはできないこと

・ フェミニズムを「男女同権」を越えて実現可能な総ての社会の領域と場面で男女を同じものとして取り扱おうという思想と定義する場合。その具体的な主張、例えば、夫婦別姓法制化の推進や「男子らしく」とか「女子らしく」という伝統的な言葉使いの廃止は、それを主張する当該のフェミニスト個人の私的なイデオロギーや価値観から導出されるのであってフェミニズムの社会思想的な基盤とはなんらの論理的かつ思想的な関係もないこと

テーマ : 性差別
ジャンル : 政治・経済

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目次
◆はじめに
◆赤本 夫婦別姓論の基底 <夫婦別姓論の根拠を覗いて見てみれば>
■夫婦別姓論の根拠を覗いてみる
■「家族」と「夫婦」の幻想性を検討してみる
■「家族」と「夫婦」の幻想再生産の検討

◆青本 夫婦別姓論の射程 <幸福の青い鳥は自分の2LDKにいた>
■思想的混合物-その名はフェミニズム
■フェミニズムの思想基盤の検討(以上、(上)所収)
■フェミニズムの思想基盤に走る断層(以上、(中)所収)
■フェミニズムは玉葱の皮である
■フェミニズムの躓きの石としての性差と性欲
■幸福の青い鳥は<家族物語>の中にいた(以上、(下)所収)



◆はじめに
夫婦別姓を巡って様々な議論が展開されています。私は、夫婦別姓に関しては原則反対。ただし、「通称」として婚姻前の姓や離婚前の姓を名乗る行政法的や商法的な余地を認める法制度の改革は必要かもしれない。しかし、(選択制にせよ)夫婦別姓を容認するような民法や戸籍法の制度改革は妥当ではないと考えています。而して、本稿は私の「夫婦別姓」を巡る主張の基盤となる「家族」と「フェミニズム」に対する理解を整理したものです。畢竟、本稿は、夫婦別姓の「制度」ではなくどちらかと言えば夫婦別姓の「論議」に焦点を当てたものであることは最初に明記しておきます。

本稿は2部構成。すなわち、夫婦別姓論の根拠を概観する第1部(赤本)、♂&♀の性差理解から夫婦別姓論を検討する第2部(青本)の構成です。もって、「フェミニズムに反対する立場は国家主義的で古い考え方である」「フェミニズムの正しさは議論の必要もないくらい自明なことだ」などとノタマウ、そう、ファシスト的でさえある現在のフェミニズムの行動様式や思考様式を相対化して、もってフェミニストという名のファシズムを攻略するためのベースキャンプを設営できればと念じています。尚、以下の「註」は些かマニアックな補足説明。興味のない方、御用とお急ぎの方は飛ばしていただいて結構です。


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◆赤本:夫婦別姓論の基底 <夫婦別姓論の根拠を覗いて見てみれば>

■夫婦別姓論の根拠を覗いてみる
夫婦別姓を推進する論議の背景には以下のような「夫婦」や「家族」や「性差分業」に関する考え方が横たわってはいないだろうか。すなわち、

(1)「家族」や「夫婦」は幻想に過ぎない
<夫婦>なるものは、法的な制度=擬制に過ぎず、実体として(現実に)存在するのは、<男>と<女>という個々の人間(個人)に過ぎない。かつ、夫婦同姓の現状は、結局、「家族」という法的な擬制を維持するためのイデオロギーの反映に過ぎず、本来は実体のない<夫婦>なるものや<家族>というものを、何かありがたいもの、個人とは別個に独自の価値を持つものと誤解させるものである。畢竟、個々の人間を離れて存在する「家族」や「夫婦」なるものは存在しえず、「家族」や「夫婦」なるものの本質はそれを構成するとされる個々人の物理的と精神的な関連性の総和に過ぎない。

(2)幻想再生産の背景
では、何故に、「家族」や「夫婦」の本質を誤解させるような擬制が堂々とまかり通っているのか? それは、(a)儒教的な意識構造(封建的な意識構造)と(b)資本主義的な支配構造、ならびに(c)男が女を支配することが当然と考える男(=ロゴス=ファロス=男根)を世界観の中心に据える所謂ヨーロッパ中心主義の世界観の重層的な存在である。<男>による<女>に対する性差に基づく抑圧/支配構造を維持するために、そのような封建的と資本主義的と西欧的な三重の「抑圧/支配構造」を維持するためにそのような擬制=イデオロギーが有効だからである。


■「家族」と「夫婦」の幻想性を検討してみる
「家族」や「夫婦」が擬制=幻想にすぎないことは自明である。このことは「国家」や「国際社会」が擬制であること、所謂「想像の共同体」であることと同値である。しかし、この意味での擬制は、「巨人軍なるものは読売ジャイアンツと契約している個人事業主である選手や監督、コーチの総和に過ぎず、存在するのは個々の人間以外にはない」とか「天皇制とは天皇を<天皇>と考える人々の意識と行動の総和に過ぎず、天皇制なるものはそれらの人々の意識と行動以外になんらの実体もない」、ということと同じであり、この擬制論=幻想論で否定される事柄と否定されない事柄があるのではないだろうか? 

「夫婦」や「国家」が幻想に過ぎないとしても、それらは正に幻想や擬制そのものとして実体的な影響を人生や社会や国内外の政治に及ぼしている。この幻想の持つ実体的な影響力が無視し得ないからこそ、夫婦別姓推進論者は家族や夫婦の幻想性を批判しているに違いない。ある擬制はそれが幻想であるからといってその存在意義までも否定されるわけではない。ある擬制の存在意義はその擬制の幻想(=イデオロギー)としての性能・効能・機能に収斂することになろう。

例えば、「人間はいずれ死ぬものだ」という命題が正しいとしても、「人生には何の意味もない。なぜならば、人間はいずれ死ぬものなのだから人生なるものは一時の幻想に過ぎない」という主張が正しい訳ではない。夫婦や家族の幻想姓をアゲツラウことでは夫婦別姓論は何の説得力も獲得しないし、夫婦同姓論がいささかでも否定されるわけではない。それは、人生の意義が所詮自己幻想(パラノイア的な幻想性)に過ぎないことで否定されるわけではないことと同じである。

所詮、夫婦なり家族は所属する草野球チームのユニフォームなりチーム名に過ぎないのかもしれない。しかし、所詮、野球は一人ではできない。野球の試合に出場するにはニフォームがあれば便利だろうし、野球のチームに所属することが不可欠である。而して、ユニフォームやチームが所詮記号や幻想や擬制に過ぎないとしても、野球のゲームをエンジョイするにはそのチームやユニフォームは不可欠である。ならば、人生というゲームに参加し、生涯の七難八苦を乗り越え、そして、自己の個性を華咲かせ感動に満ちた人生を各人が享受するために、「家族」や「夫婦」という幻想や記号を使用することが有効であるならば「家族」や「夫婦」という擬制やイデオロギーの意義は何ら批判される筋合いはない。


■「家族」と「夫婦」の幻想再生産の検討
「家族」や「夫婦」の幻想は、男女の性差による役割分担を当然のことと了解させる封建的な支配のイデオロギーであり、自立した存在として生きたいという女性を抑圧する社会の仕組みを上部構造の面でサポートしている。また、この男女の性差による分業体制は、資本主義的な疎外と搾取構造を補強する仕組みでもある。なぜならば、男が搾取され疎外されるにせよ、彼は家庭で女を抑圧することでその労働力を再生産することが可能であり、彼の労働力再生産に資本側は特別なコストを割く必要がないのだから。と、大体このように夫婦別姓論の論者は主張しているように見える。さて、この見解は正しい認知であろうか? 「正しい」と、実は、私は考えている。

しかし、その性差に基づく役割や資本主義的な疎外構造や搾取の仕組みは邪悪で倫理的に許されないような悪いことであろうか? 私は、必ずしも邪でも悪でもないと考える。蓋し、夫婦別姓論は、男女の性差に基づく役割分担や資本主義的な疎外構造、はたまたヨーロッパ中心主義が悪であることを自説の正しさの根拠としている。しかし、夫婦別姓論が「性差による役割分担や資本主義的な疎外構造は悪である」との論証に必ずしも成功しているとは私は考えない。はたして、善なる生産関係や正義に適った分配構造なるものが社会制度として存在しうるものだろうか? 夫婦別姓論の論者は自分の価値観や願望を基準にして、言わばご自分が作ったその<価値空間でのみ妥当する基準>から神でも悪魔でもない人間の作るこの社会の生産関係や分配構造を批判しているだけではないだろうか。

「家族」も「夫婦」も幻想であり擬制でありイデオロギーである。しかし、その幻想性・擬制性・イデオロギー性は「家族」や「夫婦」の存在意義を何ら減じない。ここで、私が尊敬してやまない小平先生の言葉を転用させていただければ、「黒い幻想も白い擬制も鼠を取るイデオロギーはよい幻想であり、鼠を取らないイデオロギーは悪い幻想である」。蓋し、現在の「家族」や「夫婦」という幻想が個々人(♂&♀)をしてその人生を感動的に送らしめ、個性を華開かせることを個々人に可能にせしめ、活気と隣人愛に満ちた日本社会を具現する上で有効であり、日本を尊敬される国としていく上で役立つならばその幻想性はよいイデオロギーであり、よいイデオロギーに担保された法的制度である。而して、私は「家族」や「夫婦」というイデオロギーは結構、よくできた幻想でありそれに担保された法制度は充分に尊重されるに値するものであると考えている。

家族や夫婦という共同幻想を否定し、産む性と産めない性という生物学的な差異を生物学的な差異としてのみ位置づけ、ジェンダーを捨象した等質な個々人のみを社会の構成要素と考える夫婦別姓論も、それがある種の社会と個人の幻想に依拠する擬制であることは夫婦同姓論となんら変わらない。なぜならば、生物学的な差異に起因する文化的な差異を捨象することはある種の価値観(♂も♀も等価値で等質であるべきだという価値観、)を待ってはじめて可能になるある特殊な世界と社会の見方に過ぎないからである。

染色体の差異も♂と♀の生殖器の差異をも捨象することは間違いなく事実の記述ではなくて、ある御伽噺(フェアリーストーリー)の提示に他なるまい。ならば、小平翁の顰にならった先の言葉がここでも聞こえてこよう。すなわち、「黒い幻想も白い幻想も鼠を取るイデオロギーはよい幻想であり、鼠を取らないイデオロギーは悪い幻想である」、と。


womendane



◆青本:夫婦別姓論の射程 <幸福の青い鳥は自分の2LDKにいた>

■思想的混合物-その名はフェミニズム
この第2部青本では夫婦別姓論のとる男女の性差についてのものの見方を軸に夫婦別姓論が依拠する思想の根拠につき検討する。夫婦別姓論が依拠する人間観や社会観が立法論や法解釈論に反映される場合の言わば有効射程距離を見積もるのである。要は、夫婦別姓論の主張がはたして家族制度改革に関する政策提言としてどこまでは根拠がありどこからは別姓論者個人の願望や思い込みにすぎないのかを究明するわけである。

尚、夫婦別姓論が依拠する世界観や人間観を本稿では便宜上「フェミニズム」とひと括りにして話を進めさせていただくが(★註)、本稿において「フェミニズム」とは「男女同権」を越えて実現可能な総ての社会の領域と場面で男女を<同じもの>として取り扱おうという主張とその基盤となる思想と定義しておく。夫婦別姓法制化を支持し、女性を蔑視攻撃し、「男子らしく」とか「女子らしく」という伝統的な言葉使いを言葉狩りによって糾弾する、およそ、ジェンダー(gender:文化の中で形成される性別の観念)の反映と理解されるようなすべてを批判せずにはおかない現在の日本におけるジェンダーフリー推進グループの思想が本稿でいう「フェミニズム」の典型である。

男女の性差についてのものの見方は、「人間とは何か」「人間がつくる社会はどのようなものであるべきか」等々の人間観や社会観、総じて世界観といわれる思想の体系の中に位置づけられて初めて具体的な社会変革の主張に反映され立法や法解釈のロジックのパーツとなりうるのではないか。本第2部で夫婦別姓論の検討の一環としてフェミニズムの人間観と世界観の妥当性の根拠を検討するゆえんである。

フェミニズムは思想のごった煮ではないか。フェミニズムは思想的な混合物、すなわち、思想の本籍地も現実への適用可能な領域も異なる本来異質な世界観と価値観の寄せ集めではないか。それは、近代立憲主義の「均質かつ平等なる人間」という人間観を含むかと思えば、他方、資本主義批判の哲学に導かれ家父長制を批判する。更に、ポスト構造主義の洗礼を受けて以後のフェミニズムは、ヨーロッパ中心主義批判の社会思想をも援用するという具合である。

もちろん、多様な思想や理論を組み合わせ取り組むべき社会的な課題の種類によって言わば構築主義的に最適な理論のセットを運用すること自体は何ら非難されるべきことではない。ホワイトヘッドは言っているではないか、「総てのヨーロッパの哲学はプラトン哲学の脚注にすぎない」、と。所詮、市民革命のイデオロギーといいマルクス主義といい、または、ポスト=構造主義といえどもそれは人類全体の思想のカタログの中ではヨーロッパの哲学というある特殊なカテゴリーに属している。しかし、思想を構成するアイテム間に両立不可能な関係があるとすれば話は別。思想を構成するアイテム間に両立不可能な関係があるような場合にはその思想は破綻していると言わなければならないだろうから。而して、私はフェミニズムにそのような破綻を感じている。

★註)フェミニズム(feminism)
フェミニズムは「男女同権主義、女性解放または女権拡張の運動・思想・理論」の意味で使われている。紀元前5世紀は古代ギリシアのアリストファネス『女の平和』にフェミニズムの泉源を求めるのは極端としても、ウルストンクラフト『女性の権利の擁護』(1792年)、フーリエ『四運動の理論』(1808年)、トムソン『人類の半数である女性のうったえ』(1825年)、エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』(1884-1891年)等々を前史として、第二次世界大戦後「女性の性格は社会的に作り出されたもの」と考えるヴィオラ・クライン『女性―イデオロギーの歴史』(1946年)およびシモ-ヌ・ドゥ・ボーボワール『第二の性』(1949年)が現在に至るフェミニズムの黎明期を開いた。

本稿でフェミニズムと言う場合にはこの黎明期以降の男女同権論や女性解放論を主に念頭に置いている。すなわち、1960年代半ばから70年代後半(日本では1970-1977年)所謂ウーマンリブの運動に端を発するフェミニズムの潮流。すなわち、80年代前後の所謂女性学の潮流。80年代半ばから本格化したフェミニズム論争(性差の相対化、あるいはフェミニズム自体の相対化の運動)を通過した後の、男女同権を越えて実現可能な総ての社会の領域と場面で男女を<同じもの>として扱おうという思想とその主張を本稿ではフェミニズムとして主に念頭に置いている。



■フェミニズムの思想基盤の検討
フェミニズムには3個の思想の基盤があると私は考えている。すなわち、(A)近代立憲主義的な人間観と世界観、(B)資本主義を批判するマルクス主義的な人間観と世界観、および、(C)ヨーロッパ中心主義を批判するポスト=構造主義的な人間観と世界観の3者である。フェミニズムの取る性差理解を批判する予備作業として、できるだけフェミニズムに引きつけながらこれらの思想内容につき一瞥しておく。

●近代立憲主義的な人間観と世界観
平等かつ均一なアトム的な個人こそが社会的な価値の唯一の主体である。国家も民族も家族も擬制、つまり、想像の共同体にすぎない。国家権力の役割は、社会的な価値の唯一の主体たる個人と個人の尊厳性から演繹される基本的人権を護ることにある。国家権力は基本的人権と基本的人権の現実的な細目であり基本的人権を実効的に確保するための諸々の権利を、国家と個人の間にある所謂中間団体(部族や封建領主や地域社会や企業や教会、等々)から護るための必要悪である。

●資本主義を批判するマルクス主義的な人間観と世界観
近代における国家は市民社会の支配勢力(ブルジョアジー)が人民を支配するための装置である。国家とはエゴイステックな欲望が赤裸々にほとばしる市民社会の支配勢力(ブルジョアジー)が中立を装う公的な権力を行使することによって自己の支配を貫徹するための暴力装置/イデオロギー装置にすぎず、国民や民族、家族という概念はこのような支配を補強するための擬制でありイデオロギーにすぎない。

屋外では資本家と労働者(男性)が労働の価値を争点に生産物の配分の比率を争い、屋内では家父長と女達が労働力の再生産および生命の再生産のための営為の価値を争点に家屋内の指導権を争っている。性的分業体制は資本主義体制が歓迎しその維持強化を望むものである。なぜならば、男性プロレタリアートは労働において疎外され搾取されるが、自らの家庭に帰れば家父長制的な支配構造の恩恵を享受する。男性プロレタリアートは家父長制によってその母や妻や娘から労働力再生産に必要なサーヴィスを無償で受けとることができるからである。而して、無償で労働力が再生産される所のこの家父長制的な支配構造の温存強化をブルジョアジーが支持することは当然である。ゆえに、資本主義社会において女性は資本主義的な抑圧と家父長制的な抑圧の2重の圧制下にある(★註1)。

●ヨーロッパ中心主義を批判する人間観と世界観
性別(gender)は文化によって形成され社会の中で人間に与えられた記号にすぎぬ。社会にビルトインされた性的差異を割り当てる文化的コードは歴史的に社会の中で形成されたものであり、「男」と「女」という性別(gender)はそのような文化が与える恣意的な規定性である。確かに性差(sex)は存在する。しかし、同性間の個体差と性別の差異に基づく性差がいかほど違うというのか。ならば、性の差異(gender)は人間本性にとって自明のことではなかろう。

このような人間観から見るならば、近代以後の自由・平等を唱道する人権思想も哲学も文学も法律も文化的な性(gender)を前提にしたいわれなき女性蔑視のメッセージが編み込まれたテクストにすぎぬ。それらは、一見価値中立的という意味で「透明なテクスト」であるかに見えて、実は、男性優位と女性蔑視の価値観が編み込まれたテクストである。それらは、一見、ジェンダーを超越した「人間」の視点から書かれているように見えるけれども、実は、<男>の視点から書かれている(ということは、<女>の視点からは読めない、)「不透明なテクスト」である。それは、<男>の視点からしか読み取れない炙り出しが組み込まれたテクストである。

畢竟、<男>の視点はロゴス中心主義的でありファロス(男根)中心主義的である。それは中心と周辺を隔絶することによって成立するパラノイア型=偏執症型の<男の論理>に貫かれている。そして、他者の介在なしにアプリオリに実在するイデア(実体概念)の実在を前提に構築された、ロゴス中心主義的でファロス中心主義的、かつ、パラノイア型の思想こそヨーロッパに典型的な思考パターンであった。

而して、女性の解放は<男の論理>からの<人間>の解放、ヨーロッパ的の思考様式からの世界の解放を意味している。なぜならば、それは<男の論理=ヨーロッパの思考様式>から女性を解放するだけでなく男性も含む総ての人間を<男の論理=ヨーロッパの思考様式>から解き放つことを志向しているからである。

では、<男の論理>からの全人類の解放はいかにして可能か。それは、<女の論理>による<男の論理>の包摂によって達成されよう。多様な価値を適宜使い分ける、否、多様な複数の分裂した<自分>を分裂したままで生きて行くことを可能にするスキゾ型=分裂症型の<女の論理>を基盤にパラノイア型の<男の論理>をもその一部に組み入れることによってである。(★註2)。

★註1)マルクス主義におけるフェミニズムの眷属
マルクス主義フェミニズムの基礎には、もちろん労働価値説等々のマルクス主義の経済哲学が横たわっており、かつ、マルクス主義経済哲学の周辺にはアミン等の従属理論やアンドレ・ゴルツ、ポランニ兄弟、イワン・イリ一イッチ等々から打ち出された広い意味のエコシステム論が控えている。

そしてなによりもマルクス主義の疎外論が黎明期前の女性解放思想に与えた影響は大きい。労働者(もちろん『経済学・哲学草稿』を執筆している時にマルクス自身は主に男性の労働者を念頭に置いていたと思う、)はその労働において4個の疎外(Entfremdung)を受けるとマルクスは語る。曰く、労働生産物からの疎外、生産活動そのものからの疎外、類的存在からの疎外、および人間関係からの疎外である。黎明期の女性解放思想はこの箇所を自分なりに引きつけてこう考えたのだと思う。すなわち、

家父長制支配下の女性は、その「家事労働」において疎外されている。なぜならば、(a)「労働」の成果は家父長のものとなり自分のものにならない(労働生産物からの疎外)、(b)「労働」自体家父長から命じられたものである(労働活動そのものからの疎外)、(c)生命を再生産し家父長を含む男性の労働力を再生産するという生活と生存のためだけに「労働」がなされ、自由な意識活動や自由な対象化活動への道が遮断されている(類的存在からの疎外)、(d)このような労働成果・労働・人間の本来あるべきあり方からの疎外を強いる家父長制下において、女性と男性は潜在的な敵対関係に入らざるを得ない(人間関係からの疎外)。このような疎外論を援用した家父長制理解は黎明期の女性解放思想や1970年代後半までの初期のフェミニズムに対して社会認識の足場を提供したと思われる。

尚、家父長制批判への疎外論の援用に対する初歩的な批判に私からここで応えておく。すなわち、(b)に対する「自発的に喜々として家事を行う女性がいるではないか」という反論と(d)における「夫婦や家長を含む家族・親族が仲がよいケースはいくらでもあるではないか」という批判についてである。これらの批判は成立しない。なぜならば、資本主義体制下の(男性)労働者でも自分の仕事が好きで好きでたまらないという者も少なくなかろうし、また、資本主義体制下でも労働者(男性)と資本家の関係が極めて良好という場合も少なくなかろう。(b)の場合の要点は、労働者(男性)も家事労働者も資本家や家父長の出す命令に反することが許されていないという点にあり、(d)における問題点は労働者(男性)および家事労働者の利害と資本家および家父長を含む男性の利害が本質的に対立するという点にあるのだから。


★註2)ヨーロッパ中心主義批判の思想
ヨーロッパ中心主義批判の思想は中世リアリズム論争に端を発し(ということはその源泉は古代ギリシアの哲学にあり、中世イスラーム世界の中で育まれた。)、19世紀末から20世紀初頭にかけての数学の存在論的革命の中で既に結論は見出されていた。カントールの素朴集合論とデデキントンによるその定式化を前哨にし、ヒルベルトによる公理主義、ブラウアーの直観主義、ラッセルとホワイトヘッドによる論理主義という数学基礎論の構築がその思想の数学における表現である。日本におけるポスト=構造主義の旗手浅田彰さんが影響を受けたとされるブルバキ『数学史』とワイルダー『数学基礎論序説』は数学の存在論的革命の経緯を記述する教科書にすぎない。

人間の行動パターンをパラノイア型とスキゾ型に大別して理解するアイデアは、浅田彰『逃走論』(1984年)によって日本では一般的になったと思う。しかし、概念の実体性の否定、唯名論的思考による存在論の再構築は別にポスト構造主義の手柄というわけではない。否、イデアの実体性を主張する概念実在論を否定する哲学的な作業は、実質的にはフレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインを通じてシュリックおよびカルナップに至る論理実証主義と現代の分析哲学派によって成し遂げられたと私は考えている。いずれにせよ、ヨーロッパ中心主義への批判がヨーロッパの哲学によってしか成し遂げられなかったことは、際物のエスニシズムが日本でこれ以上跳梁跋扈することを防止するためにも記憶されておくべきことだろう。


テーマ : 性差別
ジャンル : 政治・経済

nkbush



アメリカ政府は「北朝鮮のテロ支援国家指定解除」を米議会に通告しました。これにより、45日後の8月10日以降、特段の状況変化がない限り、北朝鮮は「テロ支援国家」としてアメリカ政府が同国(ちなみに、私は自国民の1~2割を餓死せしめるような政治体制を近代的な意味での「国家」とは呼べないと考えていますけれども、その北朝鮮に)課してきた数多の経済活動の制約から解放されることになります。

11月に大統領選挙を控えていることを鑑みた場合、(a)ブッシュ政権が残している任期の短さ、(b)国際問題に関しては北朝鮮などよりもイラク・イランに、そして何より国内問題によりエネルギーを注がねばならない同政権の状況、(c)アメリカ政治におけるアジア・太平洋地域の本質的な非重要性、ましていわんや北朝鮮問題の本質的な「細事性」を考慮すればアメリカ政府のこの決定はアメリカにとっては当然のことと言うべきでしょう。次期アメリカ大統領のポジションを争っている民主党オバマ、共和党マケインの両候補とも基本的にはこの決定を支持する旨を表明したことがなによりそれを雄弁に物語っていると思います。而して、この報道に接して私がまず感じたことは、むしろ今まで「テロ支援国家指定解除」を行なわないでくれたブッシュ政権への感謝です。

Thank you, President Bush.
I would like to express my heartfelt thanks to you
for your kindly support until yesterday.




以下、産経新聞とNew York Times (AP配信)から報道の引用。

●米政府「指定解除」を発表 20年経てついに
北朝鮮による核計画の申告書提出を受け、米政府は26日、同国を「テロ支援国家」としてきた指定を解除すると発表した。指定解除を議会に通告し、通告から45日で発効する。1988年から約20年間にわった米側の指定が解除に踏み込むことで、米朝関係は、最終的な非核化への取り組みをにらみつつ、将来的な正常化に向け動き始める。

指定解除に絡み、日本側で問題棚上げの懸念が強まる拉致問題については、ブッシュ米大統領が25日、福田康夫首相との電話協議で「決して忘れない」と伝達。米国務省のケーシー副報道官も、「解決に向けた日本の取り組みを引き続き支援する」と説明した。

テロ支援国家の指定解除は、大統領からの書面指示を受け、国務長官が議会に通告手続きを取るもよう。リビアなど過去のケースから、指定解除にかかわる一連の文書には、北朝鮮に関してテロ支援の危険がないと判断した根拠が簡潔に示されるものとみられる。(2008.6.26)


●Bush administration lifts North Korea sanctions
After months of stalling, North Korea offered a glimpse of its secretive nuclear program Thursday and was promptly rewarded by President Bush with an easing of trade sanctions and a move to take the communist state off the U.S. terrorism blacklist.

Bush, who once famously branded North Korea a part of his ''axis of evil,'' offered mostly symbolic concessions in exchange for Kim Jong Il's agreement to hand over a long-awaited accounting of its nuclear bomb-making abilities. Critics said even symbolism was too much give to a regime that can't be trusted.

●ブッシュ政権が北朝鮮制裁を解除する
数ヵ月の停滞を経て、北朝鮮が木曜日(26日)これまで秘密にしてきたその核開発計画の一部をほのかに垣間見せる報告書を申告した。この報告書の提出に対してブッシュ大統領は、貿易に関する制裁の緩和とこの共産主義国家(★KABU註:北朝鮮は「絶対主義王朝」と言うべきである。)をテロ支援国家のリストから削除することで北朝鮮に報いることにした。

周知の如く、かって彼の言う「悪の枢軸」の一角と北朝鮮を名指ししたことさえあるブッシュ大統領は、遅れに遅れたとはいえ核兵器開発能力に関する説明の提出がなされたこともあり、その説明提出を巡る金正日氏との協定に基づき、その提出に対する見返りとして象徴的なものではあれ譲歩したわけだ。而して、識者によれば、象徴的なものとは言え、到底信用できるはずもない政権に対するものとしては、このブッシュ政権の決定は気前が良すぎるものらしい。(June 26, 2008:以上、引用終了)



boltonsensei



率直に言えば、拉致問題はアメリカの問題ではなく日本の問題です。よって、この件に関してアメリカ政府の不義理をなじることなど筋違いである。まして、冷厳冷徹な国際政治の現実、かつ、「万物は流転する」の理が最も顕著な国際政治の現実を鑑みるならば、再度述べますが、昨日まで「テロ支援国家指定解除」を拒んでくれていたブッシュ大統領に感謝こそすれ、北朝鮮の報告書の提出を受けて「テロ支援国家指定解除」を決断したブッシュ大統領を非難するなどは大人の態度ではない。それは、単なる一ファンにすぎない者が贔屓のアイドル歌手の熱愛発覚報道に接して怒りをぶちまける愚行にさえ等しい。そう私は考えます。

畢竟、日本国民はアメリカ政府による北朝鮮のテロ支援国家指定解除という事実を冷静に受け止めるしかない。その事実を踏まえて日本国民は冷厳冷徹、かつ、「100年の友も100年の敵も存在し得ない」変転極まりないな国際政治においては、確立した国際法と国際政治の慣習、つまり、国際政治の世界の作法に則った対応を粛々と行なうべきのみ、と。而して、施策の実際の効果と政治的メッセージとしての効果を考えるならば、日本が今後取るべき施策とは次のようなものではないかとも。すなわち、


(0)日米同盟が日本外交の基軸である認識の表明
(1)アメリカ政府に対する遺憾の意とこれまでの感謝の意の表明
(2)アメリカ政府に対する日本国民の遺憾の意の表現として、
  ・対米軍の所謂「おもいやり予算」の1年間凍結
  ・1年間の所謂「おもいやり予算」と同額の資金を1988ー2008の間、日本駐留経験のあるアメリカ兵またはその遺族に謝礼として贈与(公務員利益供与禁止、就中、外国政府からの利益供与を禁止するアメリカ国内法に抵触する部分に関しては、在日駐留米軍勤務経験者の人数比に応じて各地の在郷軍人会に寄付、または、Veteran's benefitの一貫として本人またはその親族の方を対象とした日本留学奨学基金「ブッシュ基金」の設立)

(3)上記、(0)(1)(2)の趣旨を米国の主要な新聞・TVに記事広告として掲載

(4)拉致問題が解決するか検証可能で不可逆な前進が認められるまでの間、所謂「6ヵ国会議」への出席の無期限停止

(5)ロシアとの間で「軍事同盟の締結」を議題から排除することなく、包括的な関係強化交渉に入る用意がある旨を表明

(6)北朝鮮籍在日朝鮮人の方の所謂「在日特権」の廃止(尚、この措置はその運用によっては、現行憲法の理念に反する「差別的取扱」に該当する恐れもある。而して、公平平等を期し北朝鮮籍の方々だけではなく韓国籍の在日韓国人の方に関しても所謂「在日特権」の廃止を同時に行なう。また、この措置により増加が予想される帰化希望者に対しては人員的に法務省だけでは対処できないかもしれない。よって、公安調査庁・国税庁の職員も動員して帰化申請に対しては失礼のないように手厚く対応する)

(7)日本が核武装に向けて研究を開始する旨の表明
(8)現行の有事法制を改正し、スパイ防止法・軍事法廷の設置(戦車からウインカーを外せ! 航路の優先航行権を自衛艦に認めよ!)等々、非有事・非周辺事態における「軍隊」としての自衛隊を運用する上での障害の全廃

(9)所謂「6ヵ国会議」にかかわった過去現在の外務省職員の責任を明らかにすべく(日本政府に籍を置いている者に関しては)、外務省から自衛隊の現場部隊に5年間もしくは定年までの短い方の期間出向させ、安全保障の現場感覚を「反省文」という形式で全国民に還元する

(10)上記の措置の人的手当として、また、日本外交のステップアップのためにボルトン元国連大使等のアメリカの北朝鮮制裁解除反対派、ならびに、旧ソ連・東欧およびラテンアメリカの優秀な外交官経験者を外務省の幹部職員として大量に採用する



今回のアメリカ政府による「北朝鮮のテロ支援国家指定解除」の決定という現実が、このような措置を日本が取ることについて日本国民のコンセンサスを形成するための契機になるとするならば、蓋し、ブッシュ政権の決定は日本にとって<神風>と呼ぶべきものかもしれない。私は真面目にそう考えています。畢竟、人生万事「塞翁が馬」。ピンチはチャンス、チャンスはピンチです。而して、拉致被害者全員の一日も早い救出に向けて、保守改革派の仲間の皆さん、各自自分の持ち場で微力を尽くしましょう。共に闘わん。




(2008年6月27日:yahoo版にアップロード)

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megumisan



海馬之玄関ブログの同志の皆さん

タイトルの通り、弊ブログでは、
福田康夫若旦那首相に対して即刻の退陣を求めます。

以下、毎日新聞の記事引用。


<福田首相>北朝鮮のテロ支援国家指定解除、容認を示唆


福田康夫首相は24日、米国が26日にも北朝鮮のテロ支援国家指定解除の手続きに入ることに関し、「北朝鮮の核問題が解決する方向に進むのであれば、歓迎すべきことだ」と述べ、解除の前提となる北朝鮮の核申告を前向きに評価した上で、指定解除を容認する考えを示唆した。

福田首相は「わが国は拉致の問題も解決を果たさなくてはいけない。そのためにも日米が緊密な連絡を取り合うことが必要だ」とも述べ、拉致問題の進展に向け、米側の協力を引き続き求めていく考えを強調した。首相官邸で記者団に語った。(毎日新聞:6月25日0時15分配信)



福田首相の退陣を求めるにつき、弊ブログの呼称ルールを暫定的に修正します。畢竟、弊ブログでは、一国の指導者や指導者であった方、あるいは、その与力として活躍された過去現在の方々を、呼び捨て、または、「ちゃん」「君」づけで特定することは原則お断りしています。例えば、北朝鮮(ちなみに、私は自国民の1~2割を餓死せしめる政治体制を近代的な意味での「国家」とは呼べないと思いますが、その北朝鮮の)金正日氏に対しても、江沢民氏に対しても、ビル・クリントン氏に対してもこのルールは適用されます。

而して、例外は、韓国の前大統領(だって本当に「馬鹿」だから)、田中均、古賀誠、加藤紘一、山崎拓(だって、結果責任だけでなく本当に国益を考えない私欲に突き動かされた国賊だから)の合計五氏ですが、福田首相が退陣するまでの間は弊ブログでも福田康夫氏の「呼び捨て可」とします。海馬之玄関投稿ルールに関しては下記URLをご参照ください。

 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/44964835.html


(2008年6月26日:yahoo版にアップロード)

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whale888





Dangerous activities by Greenpeace



Dangerous activities by Greenpeace (from another angle)




「急告:グリーンピースの反捕鯨活動家日本で逮捕される」で始まる、オランダに本部を置くグリーンピース・インターナショナル(以下、「GP」と記します。)が全世界のそのサポーター(会費支払い済み会員)やその他の支援者に一斉送信したメールがあります。曰く、

「鯨肉横領の不正行為を暴いたグリーンピースの二人の活動家、佐藤潤一と鈴木徹が今度は自分達が逮捕されるに至りました。容疑は、伝えられる所によれば、証拠品として彼等が警察に引き渡した鯨肉の窃盗とのこと。(GPは)日本政府に活動家両名の解放を要求します」、と。

なるほど、GPが、あるいは、グリーンピース・ジャパン(以下、「GPJ」と表記します。)がこれを「日本語」で日本国内のサポーターやマスコミにメール送信していないのはよくわかります。また、6月20日に2名にGPJのテロリストが逮捕された日に新宿のGPJで出された抗議声明が英語で出されたこともよく理解できたような気がします。

そりゃー、こんな内容を日本語で出せば、ただでさえ少ないGPJのサポーター(公称5,000人、実数は昨年ベースで3,000人を切ったとか!)が激減するだろうし、GPJの窃盗事件に憤っている日本の国民世論に「火に油を注ぐ」ことになるのは火を見るより明らかでしょうから。このメールを読んでそんな感想を抱きました。以下、紹介します。GPがテロ集団に他ならないこと、及び、GPJの捕鯨反対論が荒唐無稽であること(並びに英文理解の際のSOS)に関しては下記拙稿をご参照ください。


このグリーンピースによる姑息な暴挙を「テロ行為」と言わずして何を「テロ」と言うのか
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-316.html

・グリーンピースの人権侵害救済申立書は「グリーンピース=テロリスト集団」の<自白証拠>
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-314.html

書評☆星川淳GPJ事務局長『日本人はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-318.html

・鯨肉窃盗事件☆グリーンピース・インターナショナルの「笑える」プロパガンダ紹介
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-394.html

・グリーンピースによる「鯨肉入り宅配便」窃盗事件を巡る刑事責任に関する覚書
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-384.html

・反捕鯨論の文化帝国主義的で傲慢な謬論を逐条撃破する
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-313.html

KABU版英文法の目次ページ
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/53719779.html
 


Breaking news: whale actiivsts jailed in Japan(★KABU註:「ママ」)
送信日時:2008年6月21日 3:08:30
返信先:(★KABU註:省略)


URGENT: Greenpeace whale activists arrested in Japan

Two Greenpeace activists who exposed a whale meat embezzlement fraud in Japan -- Junichi Sato and Toru Suzuki -- have been themselves arrested -- for allegedly stealing the whale meat that they turned over to police as evidence.

Demand the Japanese government free the activists

This is the backlash. We've uncovered a scandal involving powerful forces in the Japanese government that benefit from whaling, and it's not surprising they are striking back.

What is surprising is that these activists, who are innocent of any crime, would be arrested for returning whale meat that was stolen from Japanese taxpayers. Theirs are, to date, the only arrests that have been made in the Tokyo public prosecutor's investigation into the embezzlement we documented of millions of yen worth of whale meat.

This was not a police action -- it was an intimidation tactic by the government agencies responsible for whaling -- and the kind of harassment of whistleblowers that a modern democracy should not allow. Our first news that an arrest was imminent came from Japanese television stations. Someone leaked the information to ensure images of Greenpeace activists in handcuffs appeared on news reports in Japan.

More than 40 police officer raided our offices and the homes of the activists, and spent 10 hours seizing cell phones, documents, and computers, despite the fact that we had documented every step of how we obtained the whale meat, turned the full dossier over with the evidence, and made ourselves available to police to help with the investigation at any time.

A simple phone call could have brought Junichi and Toru to the police station. Instead, the government made a public spectacle of shutting Greenpeace down.

Don't let Japan shut down the truth. Demand the release of Junichi and Toru and demand an end to the whaling programme in Japan. The corruption of a few bureaucrats who profit from whaling should not be an excuse for harassing those who have exposed it.

Please, take The domestic and international shame which this scandal is bringing on the Japanese agencies responsible for whaling is just one more reason that Japan should stop its sham scientific whaling programme in the Southern Ocean forever.

action now and pass this message along to your friends. Let's get Junichi and Toru back with their families, and demand the real criminals go to jail.

Thank you,

The Greenpeace whale team



【妙訳紹介】

(前略)この事態は反捕鯨活動に対する(捕鯨推進勢力の)反転攻勢です。私達は、捕鯨利権を享受している日本の政府内部の強力な勢力が絡んだスキャンダルを暴露した。よって、彼等、日本政府内部の捕鯨利権勢力が反撃してくることは驚くには値しません。

驚くべきは、いかなる罪についても無罪である(★KABU註:どうしてそんなことGPが言える? GPは占い師か!)逮捕された活動家達が、日本の納税者から盗まれた鯨肉を(本来の持ち主に)返却したことそのことを理由に逮捕されたらしいことです(★KABU註:捕鯨船の船員は正規にその船会社から鯨肉を供与されており、かつ、その船会社・共同船舶は法と契約に基づきすべての鯨肉を買い取っている。ならば、「日本の納税者から盗まれた鯨肉」などはGPの夢想する空中楼閣にすぎません)。(中略)

活動家の逮捕は警察の行動などではない。それは、日本政府内で捕鯨を管轄している当局の脅迫戦略なのです。而して、それは近代民主主義がけして認てはならない密告者に対するいじめの一種なのです(★KABU註:自分を中心に地球を廻すのもいいかげになされば、である)。(後略)



(2008年6月25日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 捕鯨・反捕鯨問題
ジャンル : 政治・経済

greenpeaceillegal
【Which is illegal;Greenpeace or Japan?】


グリーンピース・ジャパンによる鯨肉窃盗事件は司直の手に委ねられつつあり、日本国内でのグリーンピースの活動には「終了のご連絡」が出たと言っても過言ではないでしょう。而して、グリーンピース総体(以下、「GP」と記します。)も今回のグリーンピース・ジャパン(以下「GPJ」と記します。)の仕出かした「オウンゴール」に関しては、それから派生する実損をミニマムにすることに獲得目標を切り替えた節も見えます。蓋し、日本の法律やIWC規約、そして、日本国内の世論の動向に不案内な日本以外のGPのサポーターやマスメディアに対するプロパガンダ作戦に。GPはこのプロパガンダ作戦に邁進中なのではないか、と。この真偽は別にして、本記事ではそのプロパガンダの嚆矢ともいうべき文書を紹介します。

http://www.greenpeace.org/international/news/activists-arrested-200608/release-our-activists

文中堂々と「事実」として主張されている諸々の事柄の荒唐無稽。すなわち、南極海で捕鯨に従事した乗組員の方が鯨肉を入手された経緯はIWC規約からも国内法からも「密輸」などとは無縁であり、かつ、共同船舶の乗組員が鯨肉を入手した行為は事実関係がGPJの主張通りであるとしても「横領罪」が成立することはないこと。他方、GPJの活動家が西濃運輸の営業所から鯨肉入りダンボールを運び出した行為は、事実関係がGPJの主張する通りであったとしても(所謂「不法領得の意思」に関する判例を踏まえる限り)間違いなく「窃盗罪」が成立すること。これらは大学学部生でも容易に論証できることでしょうからここでは詳論は割愛します。

ただ、「グリーンピース・ジャパン職員2名の逮捕についてのご報告」(下記URL参照)の中でGPJの星川淳事務局長が「逮捕された2名については、逃亡の恐れも証拠隠滅の恐れもありません」「にもかかわらず本日、2名が逮捕されたことは極めて遺憾であり、不要かつ不当な逮捕」であると述べておられることについて一言。

http://www.greenpeace.or.jp/

容疑者が犯罪の成立を認めておらず、かつ、事案が組織犯罪の可能性がある本件においては、「逃亡の恐れも証拠隠滅の恐れもありません」などとは刑事訴訟の実務においては通らない主張なのです。それは、立川のプロ市民による自衛隊官舎でのビラ配布事件で70余日の勾留を裁判所が認めたこと、その当該事件については最高裁でプロ市民側の敗訴が確定したことからも自明でありましょう。

それにしても、日本語にされることを予想せずに書かれた記事だから、あるいは、GP自体もGPJが上げてくる「自分たちに都合のよい情報」を鵜呑みにしたからでしょうか。「プロパガンダ」は「突っ込み所」満載。お楽しみください(笑)。尚、グリーンピースが環境テロ集団でしかないことに関しては下記拙稿をご参照ください。



このグリーンピースによる姑息な暴挙を「テロ行為」と言わずして何を「テロ」と言うのか
 
 


グリーンピースの人権侵害救済申立書は「グリーンピース=テロリスト集団」の<自白証拠>
 

グリーンピースによる「鯨肉入り宅配便」窃盗事件を巡る刑事責任に関する覚書
 
書評☆星川淳GPJ事務局長『日本人はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』
 
 

gpjhosikawa



Release our activists

Greenpeace activists in Japan have been arrested for exposing a stolen whale meat scandal involving the Japanese government-sponsored Southern Ocean whaling programme.

Junichi Sato and Toru Suzuki are charged with stealing a box of whale meat which they presented as evidence of a whale meat smuggling operation. The activists requested a Japanese government investigation into the scandal, and the Tokyo public prosecutor agreed there was sufficient evidence of wrongdoing. His investigation has not yet been concluded.

Our activists are innocent of any crime. They have been arrested for returning whale meat that was stolen from Japanese taxpayers, and exposing a fraud that may reach high into the Japanese government agencies that run the whaling programme.

Please write to the Japanese Prime Minister and Foreign Minister and demand the activists’ immediate release.



我々の活動家を救出しましょう
日本政府後援の南極海での捕鯨プログラムを巻き込んだ鯨肉盗難スキャンダルを暴露したことにより、グリーンピースの日本の活動家が逮捕されました。

佐藤潤一と鈴木徹は、彼等が鯨肉密輸活動の証拠として提出した鯨肉入が入っている箱を盗んだ容疑で告発されたのです。二人の活動家はこのスキャンダルに対して日本政府の捜査を求め、而して、東京地検の検察官も犯罪が行われている十分な証拠が存在しているとことに同意しました(★KABU註:刑事告発を受理しただけなんですけど)。しかし、検察官の捜査はいまだに終わっていません。

我々の活動家はいかなる犯罪に関しても無罪です。彼等は日本の納税者から盗まれた鯨肉を日本の納税者の元に返したこと、そして、捕鯨プログラムを運営している日本政府の幾つかの機関の高みまで届くかもしれないペテン行為を暴露したことによって逮捕されたのです。

よろしければ、日本の総理大臣と外務大臣に手紙を書いて、これらの活動家が直ちに解放されることを請求してくださいませんでしょうか。


【以下上と同じGPサイトにあるレター自動生成CGIと雛形レター文面】


・Your name
・Your email address (Don't fib! You'll need to confirm)
・Subject
・Message

Dear Ministers,

I am writing to protest, in the strongest terms, the arrest of Junichi Sato and Toru Suzuki for exposing a whale meat smuggling ring.

These activists are innocent of any crime. They have returned a box of whale meat stolen from Japanese taxpayers. They have openly cooperated with police in returning the whale meat and presented a full dossier on how it was obtained.

As a result of the evidence they presented, the Tokyo District Public Prosecutor has begun an investigation into allegations of embezzlement involving smuggled whale meat which raise serious questions about the scale and extent of the abuse of taxpayers' money by the operators of the Southern Ocean whaling programme.

That investigation should proceed to the highest level of the Japanese government. Those responsible for the scandal should be punished. Arresting the activists who have exposed this scandal is not acceptable, and suggests that the corruption that they called to the world's attention runs deep in the Japanese government.

It is an essential principle of democracy that those who act to expose wrongdoing in government should not be subject to intimidation or harassment, no matter how powerful the forces they oppose.

Please, release the activists and pursue the criminals.

Yours sincerely,


諸大臣閣下

私は、鯨肉密輸一味の(存在を)暴露したことによる、佐藤潤一と鈴木徹の逮捕に対して最大級の憤りをもって抗議します。

これらの活動家はいかなる意味でも無罪であり、彼等の行為は日本の納税者から盗まれ箱詰めされた鯨肉を(本来の持ち主に)返却したもの。彼等は警察ともこの鯨肉の返却に際して率直公然と協力していましたし、当該の鯨肉が詰められた箱をいかにして入手したかに関しても詳細な書類を提出しています。 

彼等が提出した証拠の成果として、鯨肉密輸に絡んで(その証拠を受けて)東京地方検察庁は横領に関する供述の捜査を開始しました。畢竟、その供述は南極海捕鯨プログラムの実行管理者による税金乱用の規模と範囲について深刻な疑念を浮かび上がらせたのです。

捜査は日本政府の高官にまで及びうるものであり、このスキャンダルに責任を負っている人々は処罰されるべきなのです。このスキャンダルを暴露した活動家達を逮捕することは容認できるものではありません。そして、活動家達の逮捕は、逮捕された彼等が世界に注目するよう呼びかけた腐敗が日本政府の中枢深く進行していることを示唆しています。 

政府の手による悪事を暴こうとした者が脅迫や嫌がらせの対象にされてはならないこと、悪事を暴こうとした者達が立ち向かった相手がいかに強い(社会的な)力を持っていようとも脅迫や嫌がらせを受けるべきではないことは民主主義の欠くべからざる価値原理の一つです。

どうか、活動家達を解放して下さい。そして、鯨肉横領に絡む犯罪を追及してください。お願いいたします。

敬具



(2008年6月24日:yahoo版にアップロード)

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rokumeikan


0:国境を越える人権と民主主義
人権と民主主義は国境を越えて遍く世界に広まる。このような認識がいまだに日本では熱く語られている。もちろん、「人権と民主主義が国境を越えて世界中に広がってきた」という主張であれば、私もそれはマクロ的には正しい認識だと思います。現在、『世界人権宣言』(Universal Declaration of Human Rights, 1948)以下の国際人権法が世界の政治に及ぼしている影響力は第二次世界大戦前の国際人道法に比べれば隔世の観がありますから。畢竟、ヘーゲル的の言辞を借用すれば、「人権と民主主義の理念は時代精神となり第二次世界大戦後の人類史に自己を顕現した」と言えるでしょう。

1:人権と民主主義の現実化の実相
第二次世界大戦後の世界における人権と民主主義の現実化は、しかし、ソヴィエト・ロシアの戦車とアメリカの戦闘爆撃機に乗って世界に広まったものでもある。そしてなにより、それらは皇軍兵士の背嚢に運ばれてアジアの旧植民地に浸透した。グローバル化の進行著しい現在、経済と経営のデファクトスタンダードであるアメリカ流の経営スキルと国際経済のルール、例えば、知的財産法とコンプライアンスの制度がマクドナルドのハンバーガーとマイクロソフトのOSに伴われて世界に浸透したと言えるとするならば、第二次世界大戦を契機とした人権と民主主義の人類史規模での伝播もまた、アジアの旧植民地解放に連なる我が皇軍の世界史的なインパクトと戦後冷戦構造下の米ソの正当性競争のプロセスにその具体的な展開の相を見ることも十分可能だからです。

人権と民主主義は国境を越えた。しかし、「人権」や「民主主義」の意味内容は現在においてもそれほど明瞭ではありません。また、人権や民主主義が国境を越えたのは、おそらく、正義に餓えた諸国民の祈りが天に通じたからでも歴史の発展法則なるものの結果でもない(少なくとも、それらの価値の絶対的な正しさや歴史の必然性によるものだけではない)。人権や民主主義が国境を越えたのは、おそらく、それらの社会思想的価値をデファクトスタンダードにしてしまう方が自国の国益に有利な欧米諸国の打算の結果であり、他方、日本とトルコを除く世界の多くの非欧米地域で人権や民主主義を受入れるための社会経済的の環境が漸次整った結果であろうと私は思います。

簡単な話です。朝鮮半島の付け根の国、(私は自国民の1~2割を餓死せしめるような政治体制は近代的な意味での「国家」とは呼べないと考えていますが、)その北朝鮮を想起すれば明らかなように、人権や民主主義を独裁国家が自発的に受入れるはずはない。ならば、多くの独裁国家や欧米とは異質な文化伝統を保持する社会が人権と民主主義を漸次受入れてきたのはその体制維持のためでしかないでしょう。すなわち、人権と民主主義を受入れなければ貿易も投資も制約される、あるいは、開発援助も受けることが難しい、更には、人権侵害と非民主的な政治状況を理由に他国からの内政干渉を受けかねない現実があればこそ、近代西欧の周縁領域にもそれらは漸次広まった。人権や民主主義の価値に絶対的・普遍的な正しさなど存在するはずもないことを鑑みるとき、私にはそうとしか思われないのです。

ならば、非欧米の後進民主主義国と社会にとって(つまり、それらの国の支配層だけでなく民衆にとっても)「人権」と「民主主義」は欧米から押しつけられた<不平等条約>であり、あるいは、<鹿鳴館>に他ならない。「人権」と「民主主義」が、単なる政治哲学的価値のone of themや統治機構を構成し運用するルールのone of themに止まるものではなく、当該の国家社会(=国家規模の社会)における人と人との社会的な関係のあり方を規定する社会規範でもあることを鑑みれば、「人権」と「民主主義」の<不平等条約性>や<鹿鳴館性>はあるいはその国の政治支配層に対するよりも民衆に対しての方が一層抑圧的なのかもしれません。


2:国境を浸食するものと国境を堅牢にするもの
人権や民主主義のアイデアは、しかし、徹頭徹尾、ある国の国内法秩序を媒介にして初めて(人々の行動や思想や認識を拘束する)実定的な価値や規範として機能する。要は、民主主義や人権の内容は国境を越えて広がるかもしれないけれど、結局、それらはある国内法秩序にインカーネート(incarnate)されるのでなければ、現実に人々の行動を拘束する社会思想的な価値や社会規範として実効性を帯びることはない。しかし、逆に言えば、多くの非欧米社会の人々にとって<不平等条約>であり<鹿鳴館>に他ならない人権や民主主義も、当該の国内法秩序に組み込まれるや否やその国民の人権やその国家社会の政治制度になる。

この認識から導かれることは、ある民族と国民にとって欧米式の(実は、フランス式の教条主義的な)人権や民主主義を国内法秩序の不可分の構成要素として(as an integral part of the domestic legal system)受入れなければならない義務も義理も全くないということ。加えて、人権と民主主義が「デファクトスタンダード」である現実は否定できないにせよ、ある国の人権や民主主義の内容はその当該の国家社会で特殊歴史的に形成された文化的な価値体系および当該の主権国家の国力に左右されるということです。

而して、昔懐かしい「世界同時革命論」よろしく、現在の世界において共時的に、普遍的な人権と民主主義の内容を世界のすべての国家社会と諸民族に要求するが如き大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する勢力や国際的人権利権集団として悪名高いアムネスティー等の傲岸不遜な言動は、それらに共鳴するプロ市民活動家のヒューマンな善意(笑)などとは別の意味で、 文字通り、欧米先進国のイデオロギーの押し売りにすぎない。そう私は考えています。

繰り返しますが、人権と民主主義の効力は国境を跨ぐことはない。例えば、教育を受ける権利や労働基本権の内容と現実的な水準、それどころか、国籍取得の要件や難民認定要件さえもが個々の国の国策と国力に左右されるものであることは自明のことでしょう。他方、人身の自由や表現の自由の具体的内容も個々の国家社会の治安状況ならびに歴史的に形成された特殊な文化的価値観のあり方をパラメーターとする函数でしかない。畢竟、憲法典の効力を含み、ある法規範の効力を担保するものが究極的には国民の法的確信の内容であることを否定しない限りそれは当然のことなのです。

実際、イスラームの国でも「アル・クーラン」や「ムハンマド」を冒涜する表現行為が許されるべきだと考える方が法概念論の勉強不足と言うものでしょう。あるいは、甲子園球場の一塁側でタイガースの選手に暴言を吐くことは法律論以前に世間知らずの愚かな行為に他なりません。他方、地下鉄車内で撒布するためにサリンを製造している、または、西濃運送の事務所に忍び込んで他人の鯨肉を窃取しようとしているカルト的テロリスト集団の通信の秘密も一切制限されるべきではないなどの主張は、憲法の人権論の通説的理解からも無条件に正当化されるものではないのです。蓋し、人権といい民主主義といいそれらは絶対的な価値でも普遍的な価値でもありえないだけでなく、寧ろそれらは個別の主権国家の法体系とその国家社会の価値観を他の政治社会から画然とさせるものとも言える。畢竟、人権と民主主義は国境を浸食するものであると同時に国境を堅牢にするものでもあるのです。


3:人権と民主主義の歴史的相対性
人権も民主主義もその根拠において相対的であり、また、その効力においては国境に規定されている。この経緯は現在において、更に3重の意味で一層その色彩を強めているのではないか。そう私は考えています。すなわち、人権と民主主義の(1)成立期に遡る相対性、(2)現代社会の大衆化と情報化に起因する相対性、そして、(3)現在の国際競争の進行に起因する相対性の三者です。

我が国の憲法研究者の中には、「国家は必要悪であり、その国家から国民の基本的人権を護ることが憲法の役目である。而して、国家に権威と権力を与えるものは独り国民であり、国家権力は国民民意に沿い人権を護る限度においてその公権力としての威力を保つことが許される」と考える向きもまだあるようです。

近代憲法の成立時、すなわち、人権と民主主義が近代憲法の原理となった際に、近代憲法思想のイデオローグ達はこのように国家と人権および民主主義の関係を考えた。蓋し、(a)平等なる国民の身分制的な桎梏となっている教会やギルド等の「中間団体」の影響力を国民国家の実力によって粉砕すれば、(b)その段階で人権を侵害する意図と能力の双方を備えうるものとしては唯一国家権力だけが残る。ゆえに、(c)国家の権力行使に人権という足枷をはめ、国家の意思決定プロセスを国民自身が国民代表を通じてコントロールすることにすれば、主権国家の領土内に人権を侵害する意図と能力を持つものはなくなる。而して、このフランス流の憲法思想が『フランス人権宣言』(Déclaration des Dorits de l'homme et du Citoyen, 1789)の16条「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」に結晶した、と。(実は、下に挙げた拙稿をご一読いただければ明らかなように、ここで書いた「民主主義」の意味は現在の視点から捉え返した20世紀的なものなのですが)私はフランス流の憲法思想を概略こう理解しています。

しかし、アメリカ独立戦争とフランス革命の硝煙と喧騒の中で明文化され公共化された人権と民主主義の理念は、民主主義や人権の社会思想史の中では寧ろ特殊なものにすぎません。「伝統と慣習に基礎づけられた人権と民主主義」という英国流の社会思想からは、人権や民主主義と国家権力とは必ずしも原理的に対立するものではないのです。

而して、人権と民主主義を国家権力と原理的に対立するものと見る構図を前提に編み上げられたフランス式の人権と民主主義のイメージは極めて歴史的に特殊なものにすぎないし、他方、ロベスピエールの恐怖政治からナチスドイツのホロコースト、2千万人を優に超えるスターリンの粛清や総計億に達する毛沢東の殺戮、而して、クメールルージュの大虐殺に至るフランス流の民主主義の<前科>によってすべての民主主義のアイデアの有効性が否定されるわけでもない。尚、この点に関する私の基本的な考えについては下記およびそこにリンクを張っている拙稿をご参照ください。


民主主義とはなんじゃらほい
 
人権を守る運動は左翼の縄張りか? 保守主義からの人権論構築の試み
 
戦後民主主義的国家論の打破(上)(中)(下)
 
憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)(下)
 


911ss


4:大衆・情報化社会が及ぼす人権と民主主義の変容
理性的討論で優劣をつけようもない信仰の営みに容喙する教会組織の聳立、自由な経済活動の桎梏と化したギルド的組織の攅立等々の「中間団体」の跋扈、加えて、新たな国際政治状況に拮抗するための国民国家形成の必然性という18世紀後半のフランス社会が直面していた歴史的特殊性を鑑みるならば、「国家から国民の基本的人権を護ることが憲法の主要な機能であり、他方、国家に権威と権力を与えるものは独り国民の総意である。ならば、国家権力は 民意に適い人権を護る限度においてその存在が正当化される必要悪にすぎない」とするフランス近代憲法思想のイデオロギーは満更非合理ではなかったと思います。しかし、21世紀の現在、国民の人権を侵害する意図と能力を持ちうるものは国家だけに限られない。まして、北朝鮮による拉致事件を想起するとき(18世紀においてもそうであった如く)それは自国の国家権力に限定されるわけでは全くないのです。

20世紀を通して発達した科学技術。20世紀最後のディケードを通して加速した地球規模のロジステイクスの発展およびインターネットの普及。これら大衆レヴェルの情報化社会の現出は、現在、世界のどの国の大学生グループでさえ理論的には(容易にとまでは言いませんけれども)数万人を殺傷可能な生物化学兵器を製造することは不可能ではないのです。また、北朝鮮の例を挙げるまでもなくGDP比で日本の1825分の1以下の国力の国でも(再度言いますが、私は自国民の1~2割を餓死せしめるような政治体制を近代的な意味での「国家」とは呼べないと考えていますが、)核兵器の製造と弾道ミサイルへのその搭載が可能な時代に我々は生きているのです。而して、有力な国際テロネットワークが生物化学兵器あるいは核兵器を既に手にしているか極めて近い将来手にする可能性が高いことは寧ろ常識でしょう。

しかるに、日本の憲法研究者の中には、いまだに「人権は国家権力に対する権利概念であり、自国の国家権力以外の人権侵害主体なるものは憲法的思考の埒外である」と言い切る向きさえある。蓋し、このような言辞は、ケインズが「失業」を経済学的に「発見」する以前、失業者の群れは財の需要と供給の調整プロセスの一形態(完全雇用の一現象場面&部面!)にすぎないと嘯いていた経済学者とそう大きく変わらないと私は考えています。

而して、「人間であることだけを理由に認められる、かつ、その個人が帰属する国家がその国力と文化伝統の範囲内で最大限に尊重し庇護するべき諸権利」をここで<人権>と再規定するならば、現代の大衆レヴェルの高度情報化社会、そして、国際競争も国際的相互依存もグローバル化した国際経済を与件とする世界においては、<人権侵害>の潜在的脅威は国家権力だけではなく(当然、他国政府は言うまでもなく)国際テロネットワークであり、グローバル化した企業活動、更には、大学生の遊び心なのかもしれないのです。

畢竟、これらの状況認識が、近代憲法思想のイデオローグ達が考えた人権と人権保障のイメージが最早リアリティーを失ったと私が断ずる背景であり、現在、人権と民主主義の意味内容が18世紀のフランス流のそれであり続けることなどできはしないと私が考える一つの理由なのです。



5:グローバル化が及ぼす人権と民主主義の変容
国家の安全保障と国民の安心と安全を護るための人権と民主主義の相対化。すなわち、人身の自由や表現の自由の制約、ならびに、国民の知る権利の制約だけが人権と民主主義の現在における変容の相ではない。寧ろ、社会権的基本権と国家の社会統合の維持(本稿では割愛しますが、これらに加えて、持続可能なエコシステムと整合的な社会を実現)の場面でこそ、現在、人権と民主主義の相対化が生じており見直しが迫られていると私は考えています。

例えば、大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する、朝日新聞に代表される勢力は( 学校現場での国旗・国歌の扱いに対する消極的批判的な論調を見るにつけ)、国民国家としての社会統合は国や国民が意識的に努力せずとも自ずと達成されと考えているようです。而して、彼等は社会的弱者の救済による社会的な不公平の是正こそ国家権力の主要なタスクと考えている節がある。

蓋し、戦後民主主義を信奉する論者は、所謂「市民」なるものの性善説に立ち「社会的不公平の存在は国家の怠慢か国家の仕業(実は、中立を装う政治的国家を蔭で牛耳る「国家独占資本」や「アメリカ帝国主義」の仕業)に他ならず、よって、国家と支配者側の責任に帰する社会的不均衡を国家権力と独占資本が自分達の負担で解決するのは当然」といまだに考えているのかもしれません。

けれども、国家の財政もビル・ゲイツ氏の資産と同様無尽蔵などではありません。財政とは国民や法人が払う税金の集積でしかないからです。畢竟、グローバル化した現在の世界では、結局、国民も企業も国際的な競争の中で所得や利潤を得て初めて納税することが可能になるのであって、日本企業が国際的な競争において敗れるのならば日本の国家財政は早晩破綻するしかないのです。而して、幸いにして国家財政が健全に成立したとしても国家はその財政予算の範囲内でしか支出はできない。これは当たり前のことでしょう。

すなわち、社会権的基本権の内容は当該国の国力に、つまり、その国の予算にリンクする類の事象なのです。そして、更に、現代のグローバル化した世界では国家財政はその国際競争力にリンクしており、社会権的基本権の内容も国際競争力をパラメーターとする函数でしかない。

蓋し、20世紀半ばの(就中、1973年のオイルショック以降の)「福祉国家」の成立と前後して「社会権的基本権」を誕生させた国際経済のダイナミックスは、21世紀の個々の主権国家に対して(アメリカを冷戦で圧勝せしめ、かつ、その唯一の超大国アメリカをone of themの大国に正に今追いやろうとしている)グローバル化の激流にその姿を変えつつ18-19世紀的の人権と民主主義の相対化を迫っている。

繰り返しになりますが、大衆レヴェルの情報社会化、および、国際経済のグローバル化の進行の中で人権と民主主義の価値は相対化を余儀なくされ、その規範内容も変容を迫られている。畢竟、人権と民主主義には重層的に作用する相対化要因が働いている。 而して、これらが現在、所謂「夜警国家」のイメージで国家の機能を思念していた近代憲法思想における人権と民主主義のイメージが最早有効性を失ったと私が考える理由です。



6:人権と民主主義を巡る懐古的な空想と未来志向の論理
人権と民主主義は現在変容を迫られている。私のこの視座からは数百年単位の時代錯誤としか思えない朝日新聞の社説があります。「EUと難民――排外主義を防げるか」(2002年7月8日)。かなり旧聞に属するものですが、我々保守改革派が戦うべき「時の流れを止めて、変わらない夢を見たがる者たち」の人権と民主主義の理解を確認すべくここで紹介します。以下引用開始。


欧州連合(EU)域内での難民申請者は、昨年までの10年間で374万人を超える。うち難民と認められたのは約2割である。だが、難民でないとされた人たちのうち相当数が不法滞在を続けている。民族紛争が各地で激化したうえ、人々の移動が容易になったというポスト冷戦の国際事情が、欧州諸国へ流入する難民・不法移民の急増をもたらしている。その結果、各国に宗教や生活慣習が大きく異なる人々の居住地が生まれ、地元住民との摩擦が起こる。それが排外主義諸政党伸長の要因となっている。

EU諸国を支配する主要政党にとっては足元を脅かされた形だ。放置すれば、リベラルな多文化主義は後退し、不寛容な空気が広まる恐れがある。このため、先ごろ開かれたEU首脳会議は、難民・不法移民対策について行動計画をまとめた。(中略)

難民の出身国は、旧ユーゴスラビアやアフガニスタン、ソマリア、イラクなど内戦や民族対立を抱える諸国である。難民問題の根源が、迫害が横行するこうした国々にあることは言うまでもない。難民が母国を捨てる状況を変えるには、政治体制の民主化、対立する民族の対話、紛争後の和解促進などが不可欠だろう。こうした分野でEUやその加盟国が担うべき役割は大きいはずである。 (中略)

行動計画が看板倒れに終わると、失望感から危険な排外主義が膨らむことも予想される。難民・不法移民対策として即効性があるものではないが、EUとその加盟国は行動計画を着実に実施するしかない。その際、人道主義を重んじる欧州らしく、真に保護が必要な難民が排除されないよう、十分に配慮してもらいたい。(以上引用終り)



難民対策のコストは誰が払うべきなのか。この「筋論」や「べき論」は置いておくとして、財政的制約からEU諸国がそのコストを負担できなくなったとき、新たな難民は論理的には存在しなくなります。そうなれば、少なくとも新たな難民を原因とする「排外主義諸政党伸長」も「リベラルな多文化主義の後退」や「不寛容な空気が広まる恐れ」もなくなるに違いありません。そのような事態が朝日新聞にとって好ましかろうが好ましくなかろうが、難民の一時受入れ、または、半永久的か永久的かは問わずその当該EU加盟国の社会への同化統合コストにEU加盟国の財政が耐えられなくなった場合には「一切の難民受入れの拒否」しか道は残されていないのです。

畢竟、難民を原則受入れるのかどうか、受入れるとしてどの規模でどのようなタイプの難民を受入れるのか、また、(永住許可か就労許可か、はたまた、EU域内で誕生した子とその父母の国籍と永住権はどうするのか等々)どのような形で難民を受入れるのかは、難民受入国が社会統合のコストを含む難民受入れのコスト負担能力の範囲で決定すべき(否、決定するしかない)政策判断なのです。

敷衍すれば、難民の人権確保というイシューは、排外主義反対とか多文化主義擁護とかの国境を越える観念論とは別に、EU加盟国やアメリカ、日本等々の各主権国家がその国力や社会統合の現状のパフォーマンス、ならびに、人的資源の調達という現実に抱えている社会状況に基づき諸国の国境の範囲内で決定するしかない政策課題に他ならない。ならば、朝日新聞のこの社説の基盤を成している人権と民主主義の理解は18世紀的なものであるだけでなく、それは現実の近代主権国家を相対化した空想の中でしか存続しえないものではないでしょうか。

チベットと東トルキスタンにおける支那の人権侵害を見聞きするにつけ、今よりも少しでも人権が実現されることを願わずにはおられない。私もそんな一人です。けれども、そのような状態の具現は結果ではあってもプロセスではおそらくない。畢竟、世界と社会の改革には思想だけでなく理論が必要であり、理論に則った実践が不可欠である。宇野弘蔵的に記せば、人権と民主主義が変容を受けている21世紀とはそのような人権と民主主義の<段階論>が求められている時代ではないのでしょうか。

蓋し、この社説には<段階論的認識>が欠如している。そして、その<段階論>の欠如は、実は、民主主義や人権の思想の源泉に関する誤解と無知に起因するのではないか。畢竟、<段階論>の誤謬は<原理論>に起因しており、<段階論>と<原理論>が破綻していては現実の社会的紛争解決の方途を示す<現状分析>が荒唐無稽に終わるのは必定でしょう。結局、難民問題について何の具体的提言もできていないこの社説を反芻する度にそう私は感じるのです。





(2008年6月19日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済

clintonh


アメリカの大統領選挙は史上稀に見る激戦となった民主党の候補者争いを制したオバマ氏がその勢いのまま老練な共和党マケイン候補を負け犬にするのか、はたまた、クリントン候補支持の民主党保守派がオバマ候補支持でまとまることは難しく、オバマ候補にはマケイン候補は負けんのか。民主党の予備選挙で「獲得選挙人数」こそ難敵ヒラリー・クリントン候補を上回ったものの、投票総数では1,800万票を集めたヒラリーに僅かとはいえ及ばなかったオバマ候補にはこの両方の可能性がある。

蓋し、2008年アメリカ大統領選挙の争点は、率直に言って、(1)オバマ候補が民主党支持層をまとめきれるかどうか、(2)2006年の中間選挙で勝たせすぎた民主党に対するアメリカ国民の幻滅と8年に及ぶブッシュ政権への倦怠のいずれが、無党派層の中でも最大部分を占める通常は共和党候補に投票している有権者の投票行動により影響を与えるかの二点に絞られていると思います。

而して、この二点は(マケイン・オバマのどちらがアメリカの新しい大統領に就任したとしても)、アメリカの対外政策の大枠を決めるものになる。特に、民主・共和のガチンコ勝負が予想されるSwing States(大統領選挙の度に民主・共和の勝者が入れ替わる州)、就中、前回2004年からの社会階層別とエスニックグループ別の人口変化・州経済の変化・キリスト教原理主義の影響力の変化を加味した場合、KABUが予想する”Hottest Swingers”である:ニューハンプシャー, ペンシルバニア, バージニア, フロリダ, オハイオ, ミシガン, ウィスコンシン, ミネソタ, アイオワ, ミズーリー, アーカンソー, コロラド, ニューメキシコ, オレゴン, ネバダの15州における有権者の動向がひいてはアメリカの対外政策の大枠を定める。そう私は考えています。

よって、「日本にとってどちらが大統領になるのが有利か」等々の議論を展開するとしても、それらの議論はアメリカ社会の現実認識を踏まえるべきだ。そう思い、下記の記事を紹介することにしました。出典は、”Obama opens race with edge over McCain: poll”「世論調査:オバマ候補がマケイン候補をリードした構図で大統領選挙本戦開始」(Washington Post, Reuters, June 11, 2008)。

アメリカ大統領選挙と英文法に関しては下記、弊検定と『再出発の英文法』を適宜ご参照いただければ嬉しいです。


・アメリカ大統領検定:6級・5級・4級
 http://minna.cert.yahoo.co.jp/ormh/cert_list






・『再出発の英文法』の目次
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-389.html



ustwoparties




Presumptive Democratic presidential nominee Barack Obama has opened the general election campaign with a six-point lead over Republican John McCain, according to an NBC News/Wall Street Journal poll released on Wednesday.

Obama, an Illinois senator, leads McCain among registered voters, 47 to 41 percent. In the previous NBC/Journal poll in late April, Obama was leading the Arizona senator by three points, 46 percent to 43 percent.

Among respondents who said they voted for Sen. Hillary Clinton in the Democratic primaries, 61 percent favored Obama and 19 percent said they preferred McCain.

The poll found Obama leading McCain among African Americans, Hispanics, women and blue-collar workers.

Among white men, who made up 36 percent of the electorate in the 2004 presidential election, McCain has a 20-point lead over Obama, 55 percent to 35 percent, NBC reported.

Obama's lead over McCain expands when New York Sen. Hillary Clinton is added as Obama's running mate, the poll found.

An Obama-Clinton ticket would defeat a Republican one of McCain and former Massachusetts Gov. Mitt Romney by nine points, 51 percent to 42 percent, NBC said.


水曜日(6月11日)に公表されたNBC NewsおよびWall Street Journalの合同世論調査によると、民主党の大統領候補に決まったと推定されているバラク・オバマ氏は、対する共和党のジョン・マケイン候補に6ポイント差をつけて本番の大統領選挙戦をスタートさせた。

イリノイ州選出のオバマ候補は、大統領選挙の登録有権者において47%対41%で優位に立っている。4月末に行われた前回の同じNBC NewsおよびWall Street Journalの調査では、オバマ氏はアリゾナ州選出のこの上院議員(マケイン候補)を46%対43%の3ポイントでリードしていた。

民主党の予備選挙ではヒラリー・クリントン上院議員に投票したと答えた回答者の中では、61%の人々がオバマ候補支持、19%がマケイン候補が好ましいと回答した。

この調査によれば、オバマ候補はアフリカ系アメリカ人、ヒスパニック、女性、そして、ブルーカラー層でマケイン候補に対して有利に立っていることがわかる。

白人男性の間では、実は、彼等白人男性は2004年の大統領選挙では有権者の36%を占めていたのだけれども、その白人男性についてはマケイン候補はオバマ候補を55%対35%と20ポイントリードしているとNBCは報じている。

マケイン候補に対するオバマ候補の優位は、もし、ニューヨーク選出のヒラリー・クリントン上院議員がオバマ氏の伴走者になったとすれば更に広がる。この世論調査はそのような結果を示している。

オバマ大統領-クリントン副大統領という公認候補組み合わせリストは、共和党側のマケイン候補と前マサチューセッツ州知事のミット・ロムニー氏の正副大統領の組み合わせを9ポイント差で、すなわち、51%対42%で打ち負かすだろうとNBCの調査結果は語っているのだから。



Both presidential candidates are in the process of selecting a running mate.

Both Obama and McCain have promised "change" if they are elected to succeed U.S. President George W. Bush in the November 4 presidential election.

In the poll, 54 percent of respondents said they were looking for a president who would bring greater changes to current policies, even if that person is less experienced and tested, NBC reported.

Forty-two percent said they preferred a more experienced and tested person become president, even it means fewer changes.

The NBC/Journal poll of 1,000 voters was conducted from Friday through Monday. Clinton ended her bid for the White House on Saturday. The survey has a margin of error of 3.1 percentage points.


民主・共和の両大統領候補とも現在、伴走者(副大統領)選びの最中である。

オバマ、マケインの両候補とも、11月4日の大統領選挙で米国のジョージ・W・ブッシュ大統領を引き継ぐことになった場合には「変化」を起こすことを公約している。

而して、この世論調査によれば、54%の回答者は現在の政治に大きな変化をもたらしてくれる大統領を求めていることがわかる。もし、その人物が経験も実績も乏しいとしても、彼等は変化をもたらしてくれる大統領を求めている。そうNBCは報じている。

42%の回答者は、たとえそれがより少ない変化を意味しようとも、より経験と実績に富む人物が大統領になることを望んでいる。

この合同世論調査は金曜日から月曜日(6月6日~9日)にかけて1,000人の有権者から引き出された結果である。クリントン女史はその土曜日(6月7日)にホワイトハウスへの夢を断念した。また、この調査には3.1ポイントの誤差が含まれている(ことをお忘れなく)。



◆資料:
「オバマ vs ヒラリー」社会的グループ別の支持層の構図
「オバマ vs マケイン」現状の勢力予想-Swing Statesはどこか?

 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/oandhsupporter.html

勝負はやはりスーパーチューズデーでついていた?
[ここで圧勝できなかった時点でヒラリー候補には逆転の可能性は極めて低かった?]
[ヒラリー候補が制した州での「オバマVsマケイン」の動向は一興です]


 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/supertues.html




(2008年6月17日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : アメリカ大統領選挙戦
ジャンル : 政治・経済

sunchan



石原都政が地味だけども、重要な一歩を踏み出してくれました。この報道に関しては、近々、先の「日本人の父が出生後認知した子供の日本国籍確認を巡る国籍法違憲判決」とあわせこのブログで記事をアップロードする予定です。

土台、台湾が独立国であることは、(甲)半世紀以上実効支配が行なわれていること、(乙)20を越える国が台湾を国家として承認しており(台湾を国家として承認している国は2007年5月時点で、マラウイ、スワジランド、ブルキナファソ、ガンビア、セネガル、サントメプリンシペ、チャド、ソロモン諸島、ツバル、キリバス、バヌアツ、パラオ、マーシャル諸島、バチカン市国、ベリーズ、コスタリカ、パナマ、パラグァイ、セントクリストファーネビス、エルサルバドル、グァテマラ、ホンジュラス、セントビンセント、グレナディーン、ニカラグァ、ハイチ等とされる)、蓋し、国際法からは明らかなのです。しかも、(今年の1月11日の紙面で学研地球儀事件の際に産経新聞も報じたように)台湾を独立国と認めることは台湾に関する日本政府の見解とも矛盾しない。すなわち、

「日本政府は1972年の日中共同声明第2項で、台湾を自国の領土とする中華人民共和国の主張を「十分理解し、尊重する」としたが、認めたわけではない。同項では続けて、「ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」とし、台湾を中華民国に返還するとしたカイロ宣言にも間接的に言及している。しかし台湾の地位に関しては、宣言より上位のサンフランシスコ講和条約に基づくというのが政府の立場だ。同条約第2条bには、日本が台湾の領土権を「放棄する」と書かれているが、当時の国際情勢もあって、返還先はあえて記されていない。このため政府は平成17年11月、「台湾の領土的位置付けに関して独自の認定を行う立場にない」とする政府見解を改めて閣議決定している」
、と。


再度書きます。台湾が「国際法上」の独立国であることは自明の事実なのです。ならば、日本で台湾出身者の住民票の転出入地記載欄に「台湾」ではなく「中国」や「中国台湾省」など書いていること自体が、潜在的同盟国(アメリカをブリッジの支柱にした顕在的「同盟国」と言っても間違いではない)台湾に対する礼を失した対応だったといえるでしょう。東京都だけとはいえこの「一歩は地味で小さな一歩だが、日本にとっては大きな一歩」になりうる可能性を秘めている。そう私は考えます。

とにかく、よくやった石原都知事!

一層頑張れ、台湾!

台湾、加油!



●住民票に「台湾」、都容認 公文書で全国初
東京都が住民基本台帳(住民票)の転出入地記載について、「台湾」表記を認める通知を都内の全区市町村に出したことが6日、分かった。国が管轄している公文書で「台湾」表記は認められておらず、都も国の方針に従ってこれまで「中国」表記するよう区市町村に通知していた。都道府県が公文書で「台湾」表記を認めるのは初めてで、全国の自治体に影響を与えるのは必至だ。

都は昭和62年に都内の自治体に対し、台湾から転入届が出された場合の旧住所の国名表記について「外国人登録事務に準じて『中国』と記載する」と通知。住民が異動届に「台湾」と記載しても「中国」と記すよう指導していた。 

しかし、平成12年の地方分権一括法の施行以降、住民基本台帳業務が完全に区市町村に移行したため、国名表記について区市町村が独自で判断できるようになっていた。

ただ、自治体の中には都の62年通知に従って「中国」とするところもある一方、「中国(台湾)」「中国台湾省」と表記するなど、対応がバラバラだった。都にも「台湾」表記について、問い合わせが度々寄せられていた。

このため、都で対応を協議した結果、「62年の通知が現状に即しておらず、正確ではない」(関係者)と判断。5月30日付で台湾からの転入者の場合、本人の届け出に従って「台湾」と表記することを「差し支えない」とする通知を新たに出した。

日本国内の公文書では、政府の「一つの中国」方針に従い、「台湾」表記は認められていない。都の判断は、全国の区市町村が管轄する住民基本台帳業務に影響を与えるとみられる。

公文書が「台湾」表記を認めたことは、台湾出身の外国人にとって、外国人登録の国籍表記への問題提起につながる可能性もある。

                   ◇

■「是正の突破口に」関係者期待

東京都が公文書への「台湾」表記を認めたことは、日本国内で長らく“国名”を名乗れないでいる人々にとっての朗報といえる。日本政府の公文書などは「中国」表記のままだが、「是正の突破口に」と、関係者は期待を寄せている。

国際社会では、2つの政体が半世紀以上並立してきた。国連代表権と常任理事国の座は中国にあるが、中国は台湾を実効支配したことはなく、帰属問題は決着をみていない。

日本政府は外交上は、中国の立場を「理解し、尊重する」(日中共同声明)とするだけで、国としての立場は明らかにしていない。しかし、窓口の各種手続きなど実務面では、台湾を中国に含めてきた。

運転免許証も戸籍・外国人登録証も、台湾人や台湾出身者の国名表記は「中国」とされる。日台間のノービザ渡航、運転免許の相互承認など、現実の交流は盛んで、関係者は実態に即した見直しを求めてきた。

台北駐日経済文化代表処の許世楷代表はかつて、雑誌への寄稿で、「どのような小国といえども、その主権を尊重することが世界平和を維持する上に欠くべからざる要件ではなかろうか」(「朝日新聞」への質問状-台湾人を犠牲にするのか)と述べたことがある。

同代表処の朱文清広報部長は「うれしい。長いこと表記を認めてほしいという運動をしてきた。突破口になってほしい」と語った。

今回の通知は第一歩ともいえるが、問題もはらむ。「中国」か「台湾」かという政治判断を、区市町村長に委ねることにもなりかねないからだ。さらなる議論を期待したい。(牛田久美)

                   ◇

【用語解説】住民基本台帳(住民票)

市町村が行う行政サービスや事務処理の基礎となる台帳。各市町村が住民票を世帯ごとに編成して作成する。選挙人名簿や国民健康保険、国民年金の被保険者としての資格管理、学齢簿の作成などに使用される。住民は手数料を支払い住民票の「写し」を入手することができる。(産経新聞:6月7日8時0分)




<画像解題>
画像の孫燕姿(スン・イェンツー:Stefanie Sun)ちゃんについて一言。「孫燕姿はシンガポール出身者で大学もシンガポールの南洋工科大学なんですけど」、というコメントはご遠慮ください。それを百も承知の上で、この記事の画像に使っています。

シンガポール出身の台湾人華僑の「孫燕姿」さんもその国籍が台湾である限り「台湾人」であり、台湾から日本に孫燕姿ちゃんが転居するのならば、彼女の住民票の転出入地記載欄には「台湾」と書かれるべきである。そう私は考えて画像に拝借させていただいたわけです。




(2008年6月7日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 中国問題
ジャンル : 政治・経済

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民主主義とは何か。民主主義と多数決はどう違うのか。本稿は、「デモクラシーとは何か」という問いを立て、漸次、民主主義の概念、民主主義の意味の歴史的変遷、そして、民主主義の効力の限界について検討したもの。而して、本稿はその全体を通して、戦後民主主義の無根拠性についての考察でもあります。尚、デモクラシーを巡る私の基本的な理解に関しては下記の拙稿を参照いただければ嬉しいです。

政治と社会を考えるための用語集 ――「民主主義」
 
政治と社会を考えるための用語集 ――「政治と権力」
 
朝日新聞2007年元旦社説☆戦後民主主義の国際関係論批判
 


■民主主義とは何か?
私は、幾つかのブログが閉鎖されたり、あるいは、実質、仲間内のメンバー専用のブログに移行したりするネットコミュニケーションの現状を見聞きするたびに、デモクラシーを維持することの難しさを感じてきました。つまり、たかだかブログでさえも、自分の意見を他人様に読んでいただこうとする、管理人・投稿者・読者という関係者全員が割かなければならない労力(まあ、自分達が好き好んでやっているのだから「労力」というより「マナーに従う窮屈さ」と表現すべきでしょう。)を想起するに、国政においてデモクラシーという制度を機能させるために政府や個々の国民が拠出しなければならないエネルギーは膨大なものだと直感するということ。

私自身は消極的な(=消去法的な)デモクラシーの支持者です。「デモクラシーは最高の政治制度」(というか、人類の社会思想の歴史の中で現役の選択肢として残った「最後の政治制度」)と考えている。特に、法の支配と表裏一体の慣習としての英国流の民主主義には一目置かざるをえない。けれども、民主主義をあたかも無謬不可侵の政治シンボルと位置づける戦後民主主義には激しい嫌悪感をも覚えています。

大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する彼等は、「デモクラシーはいつでもどこでも正しい。よって、デモクラシーに親和的なものは善で天皇制等のデモクラシーと非親和的なものは悪」という実に単純な善悪の二元論を21世紀の今日も維持しているのではないか。けれども、彼等、戦後民主主義を信奉する勢力の説く「デモクラシー」の意味内容は多様であり往々にして明確さを欠いているように私には思われるのです。

民主主義とは何か。私はこう考えています。民主主義とは「ある社会の政治的な意思形成(=権力の所在と権力が推進する政策の決定)にその当該の社会の構成員のすべての意思が反映されるべきだ」という主張である、と。尚、この場合、<政治>とは権力の分配構造とその具体的な全過程(=権力の獲得と獲得した権力を行使しての政策の決定推進のすべてのプロセス)、他方、<権力>とは公的な資格によって他者の行動を命令的に左右しうる権威と威力である。そう私は理解しています。

●デモクラシーの意味の中核
政治的な意思形成には社会の全構成員の意思が反映されるべきだという主張

●政治
権力の分配構造とその具体的な全過程

●権力
公的な資格によって他者の行動を命令的に左右しうる権威と威力



このように、政治と権力と民主主義を理解する場合、民主主義は「多数による支配」に他ならない。なぜならば、限られた情報を下に、ある種の「制限時間」の中で恒常的に政治的決断が下されねばならない現実の政治場面を想定するとき、「政治的な意思形成に社会の全構成員の意思を反映させる」ということは、(畢竟、この想定においては少数だが正しい意見や少数だが尊重されるべき人物の意向なるものは原理的に存在しえないのですから)政治的に等しい価値を持つ社会の構成員間で行われる多数決による決定をその社会の政治的意思とせざるを得ないだろうからです。

ならば、民主主義というもの、デモクラシーなるものは独裁制や貴族制という政治支配原理の諸カテゴリーと同じ土俵に併置されるものであり、蓋し、民主主義がアプリオリに正しいという根拠はどこにもないことになる。畢竟、ある時代のある社会では民主主義が政治的な意思統合と支配の正当性の紡ぎ出しにおいて優れており、別の時代の別の社会では貴族制や独裁制の方が使い勝手のよい制度である。而して、政治支配に関する「正しいイデオロギー」は時代と社会によって異なるのであって、「政治支配の正しさ」などは相対的な正しさにすぎない。

逆に言えば、民主主義的な政治決定はその結果がいかに愚かなものであったとしても、しかし、「政治支配のイデオロギー」としての民主主義の正当性は毫も毀損されない。木馬の城内への搬入がトロイの滅亡を意味するとの正しい予言を説いたトロイの王女カサンドラーの悲劇の如き事態は民主主義を採る民族の悲劇を象徴しているかもしれませんが、民主主義、デモクラシー自体の社会思想的な効力を毫も傷つけるものではないのです。

民主主義的な政治的決定の正当性を毀損しかねない契機は、而して、寧ろ、「政治的に等しい価値を持つ社会の構成員が全員参加した上で行われる多数による決定」という民主主義的な政治的決定自体に組み込まれている。蓋し、この民主主義的な政治的決定の要件から演繹されることは、民主主義の理念はその原初的な形では所謂「直接民主制」の指導原理にしかすぎず、また、それは異なる意見を排除する全体主義的な志向性を持つということです。

民主主義と全体主義は双子の姉妹である。ならば、ナチス支配下やカンボジアにおけるクメール・ルージュのホロコーストも、スターリンや毛沢東の専制も、そして、ロベスピエールの独裁や彼の朝鮮半島の付け根の国(私は自国民の2~3割を餓死せしめるような政治体制を近代的な意味での「国家」とは呼べないと考えていますけれども、その北朝鮮)における将軍様の独裁もすべて極めて正統な民主主義の具現であり、プロレタリア執権(=独裁)をいまだに唱えている日本共産党が同時に「民主主義」を標榜しているのも満更ジョークではない。而して、この全体主義としての民主主義という側面こそフランスの外交官であったトクヴィルが1830年代のアメリカ社会を見て著した『アメリカにおけるデモクラシー』(Democracy in America)において定式化した民主主義の限界であり、その限界を乗り越えるために、トクヴィル自身が代議制との合体によるデモクラシーの改善を提案せざるを得なかったゆえんであろうと思います。

実際、19世紀の後半から20世紀の前半にかけて(国政選挙による国会議員の補任である)国民代表制と合体する以前の民主主義は「あぶない社会思想」と欧米では受け取られていた。それは、民主主義が当時の支配階級(ブルジョアジー)や特権階級(貴族・高級官僚・高級僧侶)の既得権に対する脅威だっただけではなくそれが「全体主義」的であり個人の「自由」を抑圧する可能性を孕んでいたからです。民主主義が、歴史的に完全にポジティブな政治シンボルになったのは(正に、社会哲学史においては、それは「なっちまったよ。おいおいおい」の事態なのですけれども)、第二次世界大戦において連合国側が「今次大戦は民主主義と全体主義の闘い」であるというイデオロギーキャンペーンを張り、そして、連合国側が勝利して以降のことなのです。


本来、民主主義は直接民主制の社会哲学にすぎなかった。而して、民主主義が現在の大衆社会の時代の社会哲学としてもその正当性を維持できる条件は、「政治的に等しい価値を持つ社会の構成員が全員参加した上で行われる多数による決定」が正当とされる条件に収束すると私は考えます。

畢竟、(婦人参政権が実現し普通選挙制度が実行されている)現代の大衆社会において民主主義の妥当条件は政治社会の等質性である。逆に言えば、共約不可能な信仰的や美意識のマターは政治の範疇から排除されていることです。すなわち、利害の対立が調整可能な範囲に収まっていること。蓋し、国民相互の間のイデオロギーの対立が修復可能な範囲に収まっているか、あるいは、究極のイデオロギー対立である信仰や美意識が政治のマターから排除されるのでなければ民主主義は大衆社会における正当性を獲得することはできなかった(実際、誰が、利害も世界観も完全に異なる者が定めたルールと秩序に(見た目には当該の社会の多数派であるにせよ、)服する「義理」を感じますかいな!)。すなわち、不倶戴天の敵同士に民主主義は成立しえない。かつ、立憲主義は民主主義と矛盾するものでありながら、全体的には立憲主義は民主主義的支配の正当性を保つための安全弁の機能を果たしている。

妥当条件と同様に民主主義の実効条件もまた、「政治的に等しい価値を持つ社会の構成員が全員参加した上で行われる多数による決定」が正当とされる現実的な条件として抽出できる。蓋し、民主主義の実効条件は権力の所在の決定と政策の決定に当たって充分な判断の材料が国民に提供されていること(情報公開制度はこの点で極めて重要でしょう)。理由は自明。充分な判断材料も与えられず形成された多数派が、あるいは、多数派だけが知っている情報をもとに下した政治的な決定を、その決定によって自己に不利なルールと秩序を押しつけられる少数派が納得するはずはないからです(尚、この点に関して、国家の存亡を左右する安全保障情報や同盟国との信頼関係を維持するための外交文書の非公開等は民主主義の要請に優先されるべきだと私は考えています。畢竟、国家自体の存続が、国家の政治的意思決定のあり方を決めるルールに優先するのは当然のことでしょうから)。

●民主主義の妥当条件
・利害とイデオロギーの協調可能性
・立憲主義

●民主主義の実効条件
・情報の公開
・情報の対称性


ことほど左様に、民主主義とは、今日の少数派も充分な情報を与えられた上での討議を経ることで明日の多数派になる可能性が残っている場合に、また、繰り返させていただくけれども、民主主義はそのような少数派と多数派が、しかし、本質的な利害と世界観の対立がない状況でのみその正統性と正当性を維持できる政治原理である。「話せば解り合える」人間の間でしか民主主義は実効性も妥当性も持つことはないのです。

ならば、最高独立の主権国家が構成する国際社会において民主主義の具現化を云々するのは全く筋違いのことである。すなわち、カルト的な国際人権団体や朝日新聞が喧伝しているような主張は妄想以外の何ものでもないことは上の説明からも明らかでしょう。国家という最高独立の法的主体は、自己の意思以外の何ものにも拘束されず、価値観と利害が対立しながらも統合に向う<社会>を形成することはないからです。つまり、「リヴァイアサン=国家」は孤独であり、孤独なリヴァイアサンが民主主義が機能する<社会>を構成するはずはない。そして、この帰結、すなわち、国際社会は民主主義社会ではないという帰結は「最終的な利害と世界観の調整可能性」が国際社会に存在していないことの裏面である。そう私は考えています。



■民主主義の意味の変遷
デモクラシーを考える上では幾つかのキーワードがあります。例えば、「平等」、「参加」、「寛容」そして「自由」。私は民主主義を巡る議論の際にはどの抽象度でそれを考えているのかを意識しなければ、その議論は即空中戦に移行すると危惧しています(尚、ここでいう「抽象度」とは、どの範囲の人々にどれくらいの範囲の社会的紛争に関してどれくらいの期間納得してもらうことを議論の目標にしているかという、議論の具体性と一般性の度合いのことと考えてください)。

畢竟、民主主義はさまざまな抽象度で討議可能な表象対象。社会哲学としての民主主義、社会思想としての民主主義、具体的な政治制度としての民主主義、具体的かつ実効的な政治制度のパーツとしての民主主義、等々。よって、議論の当事者がどの抽象度で議論しているのかを踏まえないならば民主主義を巡る問答は即刻「蒟蒻問答」に堕してしまい、およそ生産的な議論にはならない。

例えば、(政治的な価値観の差とは別に「抽象度の差」が原因となり)ある論者にとってはリンカーンのゲティスバーグアドレスやフランス人権宣言が民主主義の輝かしい記念碑であるのに対して、別の論者からはそれらは民主主義が立憲主義や国民国家イデオロギーに敗れた屈辱の文書と受け取られているようでは「民主主義」を巡る議論は、(自身が正しいと信じる信仰内容を互いに相手に開示するだけの)一種の真理告白論争にしかならないでしょう。


現代において民主主義が優れていると一応、考えられている根拠は、民主主義自体よりももう一つ抽象度の高い思想のレヴェルに源泉しています。すなわち、民主主義の正統性と正当性の根拠は<自由>である、と。これは、ハンス・ケルゼン『デモクラシーの本質と価値』(Vom Wesen und der Demokratie)が明確に論証したことなのですが、ケルゼンの主張の根幹は、誰も自分が参加しない所で決められた政策やルールに従う義理はないというごく常識的なもの。

蓋し、民主主義を「平等」や「参加」や「寛容」、あるいは、「人権」や「国民主権」や「権力分立」と結びつけたものは、議会制(=国民代表制:間接民主制)の社会思想であり政治制度でした。それらは、しかし、社会哲学や社会思想としての民主主義とは本来何の関係もない。なぜならば、本来、民主主義とは「多数の政治支配」を意味する用語であり、哲学・思想・制度・制度のパーツという社会思想的思索のすべての抽象度を貫くものとしては独り直接民主制においてのみその正当性を主張できるにすぎないからです。

逆に言えば、民主主義は西欧社会哲学の正統な女王たる「自由」と議会制を媒介にして野合した。しかるに、日本では民主主義という言葉で、この変容した「議会制民主主義」(それは、民主主義の歴史の中では極めて歴史的に特殊な<制度>と<イデオロギー>にすぎないのですが、その「議会制民主主義」)が専ら表象される傾向がある。而して、この民主主義の誤解の上に「民主主義は弾丸の替わりに投票で選良と政策を決定し、社会の資源の配分を巡る紛争を解決する」とか、「少数意見の尊重こそ民主主義の生命線」とか荒唐無稽な謬論が日本では堂々と述べられている。

再度記しますが、民主主義とは「自分が参加しなかった決定には従う義理はない」「主義主張の近しい者だけで政治社会を作らせてもらおう」という「寛容」とは到底呼べない類の主張を内在させた多数による支配であり、そのような多数による支配を正当化するイデオロギーなのです。畢竟、本来の由緒正しい民主主義は、寧ろ、全員一致の全体主義と整合的とさえ言える。そして、その「全員一致」が妥当する「全員」の範囲がその当該の民主主義的な政治支配の及ぶ範囲なのです。

ならば、弾丸を使わない、つまり、非暴力に貫かれた政治過程などは民主主義とは矛盾することさえない程に無縁な思想であり制度と言うべきでしょう。もちろん、私自身は政治過程における暴力を肯定するわけではない。私が言いたいのは、暴力の行使も不行使も民主主義の社会思想からは演繹されないということです。


19世紀後半から20世紀の前半、代表民主制が成立して以降、自由主義は代表民主制に思想的根拠を提供してきました。けれども、この古き良き<20世紀的民主主義>は終焉しつつあると思います。社会のあらゆる部面に肥大した国家サーヴィスのボリュームとそのサーヴィス提供の是非良否を判断するための専門知識が高度化し多様化したことにより、これまた多様化し数極分化した国民の利害を代表民主制の政治制度と政治制度のパーツでは統合調整できなくなっていると思われるからです。それは、「人権」や「国民主権」とほぼ同義語化した「民主主義」という空虚なビックワードでは政治的な意思決定を方向付けることが不可能になったことと同値でもある。而して、21世紀の現在は、天照大神が天の岩戸からお出になられたように、西欧社会思想の正統なる継承者(=自由主義)が民主主義の桎梏から解放され再度立ち上がろうとしている、その前夜ではないのか。私は真面目にそう考えています。

この点に関連して考えさせられる文章がある。平成14年9月8日の朝日新聞社説「テロ一年──寛容な社会に戻るには」。この社説では「寛容」や「自由」が「国家権力」と対比されており、珍しく「民主主義」という朝日新聞的キーワードの濫用はない。なぜか。ポイントは、民主主義国家においては国家権力は民主主義によって正当化されており、この社説が危惧する「寛容」と「自由」と「人権」に対する脅威は「民主主義」によってもたらされたということ。

この社説を反面教師として読めば、憲法論的には、民主主義は議会制を仲立に自由主義と身分違いの結婚を行い天賦人権と言う鬼子を産んだと言えるのかもしれません。国際的なテロや支那による人権侵害と国際的な経済競争が進行している現在の国際関係を踏まえた上で「民主主義」を考えるために今でも一読の価値はあると思います。以下引用開始。

米憲法には、信教や言論の自由を保障した修正第1条がある。米ファースト・アメンドメント・センターによる同条項に対する国民意識の調査では、「保障する権利の側に行き過ぎている」という意見の比率が1年前の39%から49%に上昇した。テロをきっかけに、自由の尊重ばかりを言っていられなくなった、ということだ。社会の自由と寛容さは、米国の大きな魅力だった。そこにつけ込まれたという悔しさは、普通の人付き合い、近所付き合いにも、ぎすぎすした空気を忍び込ませ、人種や宗教による隔たりが生まれている。イスラム教やアラブ系といった理由だけで、調べられたり身柄を拘束されたりする「推定有罪」の人たちが大勢いる、と人権団体は指摘する。政府がトラック運転手や郵便の集配人らから不審者情報を集めるシステムに対しては、「国民に国民をスパイさせるもの」という批判が出ている。(中略)

いま世界には、米国が主導するグローバリゼーションの中で、豊かな国と貧しい国、あるいは豊かな人と貧しい人との格差が広がったとする意見が多い。テロ組織の根絶をめざすのなら、その土壌にも鍬(くわ)を入れなければならない。国務省が、世界各国から研究者らを招いて「なぜ、米国は嫌われるのか」と問う会議を開いたのは、その一歩になる。(中略)

イラク攻撃にかけるブッシュ政権の執念は、頼れるのは自分だけ、という開拓時代に組み込まれた「遺伝子」の発現のようにも見える。しかし、海外はもちろん米国内でも強硬な世論は減ってきている。内外の世論の変化をみつつ、米国の対テロ戦略は軌道修正すべきではないか。それが、ぎすぎすした社会の空気を入れ替え、寛容な社会を取り戻すことにもつながることを期待したい。(引用終了)



■民主主義の効力の属地的限界
民主主義はある国家の内部でのみ有効な権力支配正当化の論理か否か。こ問いの答えは、現実場面では「肯」であり社会哲学の理論史的には「否」です。すなわち、民主主義というアイデアの正当性は国境や国籍に左右されないが、民主主義の実効性は国境と国籍に左右されるということ。民主主義はナショナリズムと論理的には無縁ですが、それらは現実政治の場面では相互に他を通して自己を具現する関係にあるということ。

理解を混乱させかねないのですが敢えて比喩を使えば、民主主義の効力根拠とその効力の限界は為替市場制度と通貨の効力の限界とパラレル。すなわち、世界の為替市場は連関統合されているが、ある通貨(円なりドルなりユーロなり)の交換媒体としての<神通力>は国境や国力により規定される。このことと民主主義の効力を巡る議論は同じである。

国際取引きにおいてある通貨が通貨として機能するのはあくまでも観念の領域や規範の領域でその「円」なり「ドル」がある比率で他の通貨と交換可能だからです。他方、100円なり25ドルがその通貨の数量によって表示している交換価値や購買力は当該の国家(日本や米国)の信用に依存している。蓋し、日本においても民主主義の根拠は国家を超越したところにあるがその具体的な妥当性は日本国内に限定されているということ。以下、日本における「民主主義」の語義の不明瞭さに引きつけて敷衍します。


日本において民主主義は、普通選挙制度、参政権や知る権利だけでなく、人権や国民主権、立憲主義や権力分立、はたまた、所謂シビリアンコントロールとさえ同一視される傾向がある。けれども、本来、人権や立憲主義のアイデアは民主主義の脅威に対抗すべく考案されたもの。日本におけるこの民主主義という用語の融通無限性の原因の一斑は日本に特殊な憲法理論にあると私は考えています。

戦後民主主義の社会思想は戦前と絶縁するべく、戦前の憲法価値である天皇制の対概念として民主主義を導入した。他方、清宮四郎や宮沢俊義という日本憲法学のケルゼン学派第1世代は、その始祖ケルゼンの理論枠組みを使いながらも、ケルゼンにおいては単に論理的に要求されるだけの(ということは、内容のない形式だけの、法規範体系の妥当根拠であった)「根本規範」を具体的な内容を持つものに読みかえた。

曰く、日本国憲法の基本原則は、平和・国民主権・基本的人権の尊重である(ゆえに、これらを制限する憲法改正は日本国憲法の体制下においては許されない)、と。ここに「民主主義」が日本において「人権」「国民主権」「権力分立」と融合する契機があった。蓋し、日本のケルゼニアン第1世代の理論的支援を受けたこれまた戦後民主主義的な社会思想にとっては「民主主義」とは次の諸認識の束だったのではないか。

(1)個人の尊厳こそ国家の存在理由/国民主権こそ国家の正当化根拠
(2)個人の尊厳を確保するための自由権的と社会権的の基本権の存在
(3)個人の尊厳を国家権力から守るための権力分立
(4)個人の尊厳を確保するための参政権の存在


ケルゼンの理論から離れ「具体的な価値を根本規範」に持ち込んだ戦後憲法学のつけが、本来、民主主義とは何の関係もない人権や国民主権、権力分立や立憲主義と同一視される「戦後民主主義的な民主主義の概念」を生み出したのかもしれません。而して、これが日本において「民主主義」の語義が曖昧になった遠因であり、本来、現実政治の実効性においては属地的限界性を帯びる民主主義が日本では普遍的なものと誤解される原因。そう私は思っています。



■民主主義の効力の制度内在的限界
前章まで述べてきたことを敷衍しつつ民主主義の効力の制度的限界について考えてみたいと思います。畢竟、「民主主義」は、社会思想においては次の3項目の主張のパッケージである。

(1)自分が参加していない政治的決定には従わない
(2)利害や世界観において協調できる仲間だけで政治社会を形成する
(3)上記の2条件が満たされる限り多数決に従う


(1)の主張に関しては、例えば、1765年、英国の本国政府による課税強化の決定に抗議してアメリカ植民地の人々が掲げたスローガン、“No taxation without representative”(代表なければ課税なし)が好例でしょう。

民主主義は、本来、直接民主制の正当化ロジックだったのであり、また、多数派の決定が社会の決定であり、その決定内容を制限する契機は民主主義自体には含まれていません。畢竟、人権の制限も、憲法改正条項の所定の手続を無視した憲法典の改廃も民主主義の理念を根拠に正当化される。よって、人権や立憲主義、権力分立は、元来、民主主義と対立することはあっても親和的ではありえなかった。

ことほど左様に、1933年の授権法によってヒトラーは合法的に独裁制を敷き、プロレタリア独裁を掲げたスターリン下のソヴィエト・ロシアが自己を「民主主義国家」と規定していたのは悪趣味な冗談ではない。而して、この民主主義と全体主義との親和性という契機から上の(2)が演繹される。

(2)が示唆しているのは、経済的利害、信仰、世界観やイデオロギーが相容れず、かつ、ある政治的決定が少数派に及ぼす不利益と不愉快が、彼等少数派にとって許容値を超える場合、 少数派はそのような政治的決定を「多数決で決めた社会」には最早留まらないだろう。あるいは、公共的で合理的な討論を通じて、今日の少数派も明日の多数派になりうる可能性が存在しない社会では、多数派による政治的決定は少数派にとっては「我々も参加した政治的決定」などでは早晩なくなるだろうということです。

この経緯は、信教の自由を求めたプロテスタント(逆に、一部のカトリック教徒)が新大陸に渡った事実、アメリカの独立、インドとパキスンタンの分裂、旧ソ連からのCIS諸国の分離、あるい、ルワンダやコンゴにおける種族間の殺戮、山口組の分裂抗争や自民党の派閥の離合集散等々を想起すればイメージしやすいのではないでしょうか。而して、日本の政治状況を鑑みても、例えば、人口に膾炙している所得「格差社会」の問題や、今後、老齢化に伴い(有権者に占めるその比率ゆえに)老人の意見が政治により反映される社会に移行した場合に若者が抱くであろう鬱憤などはこの経緯の延長線上にあると思います。

民主主義が(議会制と結合することにより)国家規模の政治社会においても権力支配の正当化ロジックになって以降。民主主義には、その妥当性の条件として、当該社会内部に深刻な利害や世界観の対立が存在しないか、あるいは、そのような対立が政治的決定の対象項目のリストから事前に除外されていることが必要となる。而して、後者の「事前に政治的決定の対象項目を限定すること」こそ立憲主義の根幹であり、第一章で、私が「立憲主義は民主主義的支配の正当性を保つための安全弁」と記したのはこの経緯を念頭に置いたものだったのです。

民主主義と立憲主義は人権を結節点にして、相互に他者を自己の正当化の論理として組込んでいます。社会哲学の抽象度においては、(自由主義によって自身、基礎づけられながら)権力を正当化する理念としての民主主義は権力行使の制約原理である立憲主義を正当化しており、他方、社会思想や政治制度の抽象度においてはその政治的決定の内容に「お墨付き」を与えるという形で今度は立憲主義が民主主義を正当化する。民主主義は他の社会思想的な諸価値とそのような連関性において機能している。

●民主主義と立憲主義の相互正当化の構図
社会哲学:自由主義→【社会の存在意義】→民主主義
社会哲学:民主主義→【権力の存在意義】→立憲主義
社会思想:立憲主義→【人権の価値】→民主主義
政治制度:立憲主義→【人権制限のお墨付き 】→民主主義



第一章を主に敷衍しつつ民主主義がその効力を発揮するための制度的諸条件を再確認しました。これまた再掲ですが、次の4点は民主主義が稼働する条件であると同時に正当なる民主主義の範囲をも画定するものと言えるでしょう。

●民主主義の妥当条件=妥当と不当な民主主義の限界
・利害とイデオロギーの協調可能性
・立憲主義

●民主主義の実効条件=有効と無効な民主主義の限界
・情報の公開
・情報の対称性




■民主主義の効力の制度外在的限界
21世紀初頭の今日、民主主義には(民主主義に内在する効力の制度的限界に加えて)多様な抽象度において、その外部から突きつけられている制度的な限界も露呈しているのではないでしょうか。畢竟、民主主義的な社会思想や政治制度が原因となり、国家と権力が文字通り制度疲労を起こしているのではないかという危惧です。

現代の福祉国家型社会において国家権力のサーヴィス領域が肥大していることは周知の事実。他方、国家を必要悪と考える戦後民主主義を信奉する勢力も含め、国家権力の使命には国民の生命・財産・身体・名誉を守護するべく国家主権を堅持することが含まれていることを否定する方はほぼ皆無でしょう。

しかるに、福祉国家の厖大な行政サーヴィスを(国政調査権の発動を常態化したところで)国民代表が国会の審議や喚問だけで把握することなど到底不可能。かつ、政権と政党の支持率および政策毎の支持率がほぼリアルタイムで調査され公表されている現在、国民多数が関心を持つテーマに対して、国民総体の最大公約数的や最小公倍数的な対処を政治権力が指向することもまた(宰相も大臣も人の子であれば)不可避でしょう。

けれども、予算も人員も技術も時間も情報も有限。ならば、100人の意見を少しずつすべて取り入れた結果100人が100人とも満足しない政策を実行するのは為政者としては愚かなことでしょうが、100人をすべて満足させたとしても国家の主権を毀損し民族の文化伝統を劣化せしめる施策しかとれないような為政者にはそもそも為政者の資格はない。国家と権力の使命を鑑みるに、政治指導者には、利害の調整を突き抜けた地平で、かつ、世論の総批判を甘受してもやるべきことがあるはずです。実際、新ローマ法王を互選する枢機卿会議で全枢機卿の意見を平等に採用するなどという馬鹿げたことが起こるはずはないのですから。

行政の肥大化・情報の同時化と対称化、グローバリズムの進行による冷戦構造の崩壊、同じくグローバリズムの更なる進行による帝国アメリカによる一極支配の終焉。これらの変化に伴い変容した国内外の政治風景を想起するとき民主主義は最早国民の桎梏であるとさえ言える。畢竟、民主主義は直接民主制の権力の正当化ロジックにすぎなかったのだから、福祉国家の代表民主制において民主主義が推奨する「立法過程を通じた行政のチェック機能」などが制度疲労を起こすのは蓋し必然というべきなのかもしれません。



■民主主義と多数決と保守主義
多様な意見の存在は民主主義の根幹としばしば耳にします。けれども、諸子百家よろしく多様多数の意見や表現が社会に散在していること自体は単なる状態であり、どの抽象度の民主主義ともそれは直接の関連はない。寧ろ、民主主義とは社会に散在する目も眩まんばかりに多様な意見を集約するルール。H.L.A ハート的に言えばそれは「ルールを決めるルール」であり「ルールを決める人を決めるルール」でもある。畢竟、民主主義とはルールを創造するメタルールと観念できるのではないでしょうか。

ならば、民主主義のすべての抽象度において、「多数決」というその明示的な民主主義の意味内容よりも、民主主義を稼働させている諸条件に着目する方が民主主義の意味内容について遥かに具体的かつ豊富な情報をもたらしてくれるだろう。この記事はそのような目論見の下に書き進めてきました。けれど、記事全体を鳥瞰すべく民主主義の明示的なルール「多数決」について言及しておきます。

民主主義と多数決はどうちがうのか。あるいは、民主主義において少数意見はなぜ尊重されなければならないのか。これらはある意味、サッカーボールとサッカーの違いは如何と聞くに等しいものでしょう。けれども、この問が繰り返し提出されるのは不思議ではない。なぜならば、直接民主制においても、(民主主義の稼働条件と実効条件が備わっている限り)国民代表制と結合して以後の民主主義は(選良の選挙においても議会での法案の可否決においても)「多数決ルール」としてしか可視化されないからです。

畢竟、民主主義とは「多数決ルール」で決せられた政治的決定を正当化するロジックおよびそのようなロジックを稼働させ有効にする諸条件の束に他ならない。而して、「少数意見の尊重」「(多様な意見の存在ではなく)多様な意見の存在が許されていること」がそのような諸条件のコロラリーやパラメーターであることは最早説明するまでもないと思います。

興味深いことは、民主主義のメタルール性は保守主義のメタルール性に通じるものがあるということ。蓋し、その個々の政治的主張の内容ではなく、「中庸」「漸進」「反教条」「伝統の尊重」の基盤の上に「自由競争」と「隣人愛」を追求する保守主義の姿勢こそ、多様な意見や多様な伝統を抱える人々を排除することなく、可能な限り多くの利害関係者に政治社会への参加の道を開きうる社会思想ではないでしょうか。

It has been said that democracy is the worst form of government except all others that have been tried.


上に引用したチャーチル卿の箴言に倣えば保守主義に主導された民主主義こそ、「今まで試されたすべての政治制度を除く最悪の政治制度」を具現しうる社会思想ではないか。畢竟、現下の民主主義の制度疲労を止揚する契機は保守主義にある。特に、法の支配と表裏一体をなす慣習としての英国流民主主義とはそのようなものなのかもしれない。

而して、民主主義の制度疲労と政治改革。詳述は別稿に譲るとして、保守主義的な民主主義からは、少なくとも、(i)国民代表の他に各分野で民間の専門家によるオンブズマン的な行政監査チームの立ち上げ、(ii)そのチームの報告を原則可及的速やかに公開させること、(iii)外交・安全保障、ならびに、(定住外国人の地方議会の選挙権等々)日本の文化伝統を保守するに不可欠なイシューについては直近の衆議院総選挙で勝利した政権与党の政策には野党も国会内では反対しない憲法慣習を形成するかもしくは法制の導入、(iv)立憲主義による民主主義の制約範囲を(その本来の理論的要請である)「自由権的基本権」に限定すること(=社会権的基本権の領域では、自己責任の原則の貫徹、セーフティーネット制度の整備、および、敗者復活可能な社会制度の構築の3施策を併用させること)、これらが民主主義の制度疲労を止揚する上で不可避の課題ではないか。そのように私は考えています。




(2008年6月04日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済

nausica


この1週間仕事で「缶詰」状態でした。けれど、転んでもただでは起きないKABU。前から書き上げたいと思っていた「英文法の参考書」を書きました。名づけて『再出発の英文法』。姉妹ブログのgoo版「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップしました。是非、ご一読ください。そして、ミススペルや文法間違い等あれば是非お知らせください。助かります。

以下、『再出発の英文法』全体の序文を転載します(『再出発の英文法』と英文法の体系より抜粋)。ご利用の利便性を考えてこの記事の末尾には目次もつけました。今後ともよろしくお願いいたします。



この一連の記事は、中学校・高校で英語を一通り学んだけれど今では綺麗さっぱり忘れてしまったという社会人・大学生・大学院生を主な読者と想定して書き上げました。英語は苦手というか「苦手でさえない」という方。けれど、英語ができないとこれからはどうも不便な時代になっていると薄々感じている、そんな<真面目な英語嫌いの大人>が私のお目当ての読者です。

現在の日本で「英語力が本当に必要か」と言えば、(企業内英語研修や大学院留学準備を中心に英語教育屋さんを20年以上しているこの私がいうのですから間違いないと思うのですが)、正直、大部分の日本人にとって英語力はマストではない。それに、大手予備校、全国展開している個別塾で英語教育に関する商品開発統括責任者を務めた身としては、

英語より国語だろう
国語より礼儀作法を身につけてこい
子供も親も公立学校の教師も!


というのが本音です。けれど、残念ながら確実に英語力の必要性は高まっているのも事実。日本人が生活の糧を得るためにも、また、日本がその伝統と文化を保守しつつ国の独立を堅持するためにも。而して、現在日本人に求められている英語力とは、学問や趣味としての英語ではなくスキルとしての英語力であることも間違いない。

要は、大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の時代の終焉とともに、(甲)外国のものを日本にもってきてことたりていた時代、(乙)専門知識を素人相手に面白おかしく披露していればことたりていた、ある意味、教師や官僚や企業、すなわち、所謂「知識人」なるものにとっての古き良き時代は終了しつつある。

而して、クリエーティブで付加価値の高い商品を開発生産し続けることで日本が経済の部面で国際競争に打ち勝つためにも、また、国際政治においてその正当性を根拠を添えて論理的に主張し、自国の伝統と文化と国益を守り続けるためにも一握りのエリートではない、エリート層としての日本国民が経済・政治のあらゆる戦線で英語を使って戦わなければならない。そして、個々の生活の糧も「自己責任の原則」がより貫徹される中でその個々の労働力商品価値に従い配分されるようになりつつある。好むと好まざるとにかかわらず、そんな時代に日本も入りつつあるのだと思います。


畢竟、 (甲’)日本のものを外国にもって行って勝負しなければならない時代、(乙’)素人の率直な疑問をを論理的整合性のとれた専門の「言語」で語らなければならない時代、英語がそんな新時代のエリート層としての日本国民の不可欠なスキルであることは説明の必要もないでしょう。加えて、空想の翼を羽ばたかせることが許されるなら、私は(受験者平均ではなく)日本国民のTOEICの平均点が730点程度になるのなら朝日新聞や岩波書店は壊滅すると本気で思っています。世界的に極めて特殊な戦後民主主義的な憲法論や国際関係認識をあたかも「世界の常識」であるかのごとく喧伝して毫も恥じないその報道や出版は、世界の生の状況を国民の過半が直接知ることができる状況になれば当然変わらざるをえないはずですから。

上でも述べたように、しかし、英語力などは日本人にとっての重要性から言えば、どうみても、礼儀作法>国語力>数学力>歴史認識の次に来るかこないかのプライオリティーしかないです。蓋し、私が夢想する「日本国民のTOEIC平均730点」という状況は、よって、それに優先する国語力・数学力・歴史認識、而して、なにより皇孫統べる豊葦原之瑞穂国のイデオロギーを中核に据えた礼儀作法。スキルとしてのそれらの充実をその前提としていることは言うまでもありません。

天の岩戸から天照大神が再度その姿を現され今に至る日本を開かれたように、あるいは、風の谷のナウシカが王蟲の大群と対峙してもって自らを新時代開拓の嚆矢としたように、自分と家族を守るためにも、日本の文化伝統を保守して日本国の国益を守るためにも、一人でも多くの日本人がスキルとしての英語力を獲得されることを私は念じています。「自分の言いたいことを根拠をつけて論理的に英語で言う」そのために「相手の言い分の理路や根拠を英語を通してきちんと理解する」そんな英語力のスキルを一緒に身につけていきたいと念じています。

日本のために英語頑張りましょう。共に闘わん!



■再出発の英文法の目次


『再出発の英文法』と英文法の体系
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http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7359aa0a6698662c8d63750bdd31ad19

仮定法(1)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f1e8bdf5a6f2b23a822c27fd70485b3a

仮定法(2)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7a6f009616d7121612fd4828d03002e1

不定詞と分詞 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/da0db16e5aec8a541153360e6288a990

不定詞と動名詞
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f5e8bdda5bea6bc945fbe97feb028903

修飾 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/ad6397c7b0666b676e075be56b03f90c

「冠詞」および「可算名詞と不可算名詞」 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/aef4903502fb7d276163a5cd4249f453

不定代名詞・不定形容詞と呼応 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/68358b234ce0e9b64ec53719332cc4bd

比較表現 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/1e79d59baf3fc98111ddb89720ac6bd7

前置詞  
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d1c726bcff85213cbf50703e71bfaefe

前置詞の語法(1)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0a4cbc1ba3edef1c4dcebfd26fb2bb5f

前置詞の語法(2)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2a8a8826934a8e1cf8895f9f40178f3c

倒置・疑問文
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f7bad0fd4920faf623fbfddc26caa405

省略・挿入・同格
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f9f7248b0b9a515405d1097a2c7369ef

パンクチュエーション
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9430334f7fc3d0abd9ca8777d8e0daeb

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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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