ブログ友のvioletさんとnipponiaさん所で見かけた占い2本紹介します。


yamanotesenuranai


●山手線占い
http://www.web1week.com/tokyo/uranai/index.html

【短評】怖いほどよくあたっていました(恐)
    怖くて「結果」は書けません(動揺)

 



urakenmin
  

●ウラ県民性占い
http://enmusubi.yahoo.co.jp/imap/uraken/

【短評】何となく当たっていました(笑)私はウラ長野県民らしいです。
    理屈っぽく議論好きで頑固なところがあるため、やや社交性に
    欠けるのが玉にキズ。『とにかく真面目で正直で曲がったことが嫌い』
    なので、冗談が通じないことも・・・。

    確かに当たっている気もしますが、  
    ただ、パーソナリティーのパターン認識としてはともかく、
    そのパーソナリティーのパターンと特定の「県民性」を
    結びつけることに合理性はあるのかどうかは、ちと疑問。






(2008年8月03日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 地方再生
ジャンル : 政治・経済

takeshima1


●わたしの竹島ですが、何か?





日本固有の領土で島根県隠岐の島町に属する竹島への関心を深めてもらおうと、日本青年会議所(JC)島根ブロック協議会が7月16日、インターネット上で公開を始めた竹島啓発の動画「わたしの竹島ですが、何か?」に、アクセスが集中している。

公開直前に、竹島を初めて領土問題とした新学習指導要領解説書が公表され、最近では、米政府機関が竹島の帰属先表記をめぐって迷走し「韓国」に戻すなど国内外で議論が巻き起こっている。約2週間で2万アクセスを突破し、JC島根ブロックは「予想をはるかに上回る反響」と驚いている。

動画投稿サイト「ユーチューブ」で公開し、動画は竹島問題に無関心な風潮を嘆き、原因として愛国心が希薄になっているなどと問いかけている。映像は画用紙に解説のイラストを描きながら進行。「竹島問題は国内問題です」などのナレーションを流し、約4分訴えかけている。

書き込みも100件以上が寄せられ、約3割が「日本の歴史を知ろう」などと動画の趣旨に賛同。なかには「日本政府は『わたしの竹島ですが、何か?』と韓国になぜ言えない」などと政府の姿勢を批判する声もある。

JC島根ブロック郷土愛育成委員会の平下智隆委員長は「まず、健全な愛国心を養ってほしい」と話している。(産経新聞電子版:2008.8.2 20:40)



takeshima2



竹島問題と拉致問題は日本の政治課題のごく一部にすぎません。しかし、それらは、それらが解決できないようでは日本には政治という機能自体が存在しないことになるような重要な一部である。

蓋し、領土と国民を守ることができないような国家は非力で脆弱な国家でしょうが、他国の侵略や略出からその領土と国民を守ろうとしない国家は、最早、国家とは呼べない。私はそう考えています。

竹島奪還・拉致問題の完全解決。麻生太郎自民党幹事長を押し立ててそれらが解決できる国家に日本を再編成すること。今回の内閣改造、いうなれば、「嵐の前の静けさや岩に染み入る無策総理の自己満足福田改造内閣」の先にある保守改革派主導の政界再編を切に求めたいと思います。




takeshima4



(2008年8月3日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 竹島問題
ジャンル : 政治・経済

nomohideo


●野茂投手、現役引退 メジャーでノーヒット・ノーラン2回
米大リーグでノーヒット・ノーランを2度達成した野茂英雄投手(39)が現役を引退することが17日、分かった。野茂は、1990年に近鉄入り。1995年にドジャースに入団、日本人選手の米大リーグ進出の先駆け的存在となった。大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独特の投法は公募により「トルネード投法」と命名された。日本と大リーグで通算201勝(155敗)。【産経新聞:7月17日18時27分】


野茂選手引退。このニュースに接して私が思い出すのは、1995年のシーズンに近鉄バッファローズからロサンゼルス・ドジャーズに移籍した時の野茂英雄投手のこと。実は、この年は仕事で、5月上旬と8月下旬の二回私はアメリカを訪れました。

その5月、Base ballが大好きな旧知の大学関係者に私が「野茂はどうですか。メジャーで活躍できると思いますか?」と聞いたら、マサチューセッツでもミネソタでも(そして、サンフランシスコでも!)皆、”Nomo who?””I don’t know of a Nomo.” 「野茂って誰?」「野茂とかいう奴なんか知らないよ」・・・。(ちなみに、I know Nomo.は「野茂選手を(個人的に親しく)知っている」:I know of Nomo.は「(知識や情報として)野茂選手のことを知っている」の意味。また、人名に冠詞がつくと、a Charles Johns「チャールズ・ジョーンズと名乗る人」の意味です)。

そして、8月末。その時すでに10勝をあげ、奪三振王確実の成績を収めていた野茂投手のことを、春と同じ大学関係者の人々が逆に私に聞くではありませんか。”Do you know Nomo?” と。私は”No. but I know of him very well!”と答えましたとも。その時、日本人としてなんと誇らしかったことか。

このエピソードはアメリカの社会の一面をよく表していると今でも思います。つまり、(優等生的な言い方ではなくて)アメリカでは国籍やエスニシティー(ethnicity)の違いを超えて、フェアにルールを遵守しつつ活躍した者には誰もが賞賛を惜しまないということ。


もう一つエピソード。アメリカでは、野球といわずフットボール(=日本語では「アメリカン・フットボール」)といわず、また、プロとアマとを問わず「地元意識」は凄いです。簡単に言えば、すべてのチームについて「日本の、そう、野球では甲子園球場の阪神タイガース、Jリーグでは新潟のアルビレックスや浦和のレッズ、鹿嶋のアントラーズの比ではない」と言えば少しはイメージしていただけるでしょうか。

例えば、私は、昔、人口10万人弱のミネソタ州のある大学町に長期滞在していました。そこは1A(=日本で言えば、トップ選手の1軍から3つ下の「4軍」)のあるプロ野球チームの本拠地。而して、こと野球に関してその町で「今日は勝った」「先週は負け越した」のセンテンスの主語(They)はすべてその1A球団。誰も、州一の大都市ミネアポリスが擁するツインズや、まして、ヤンキース(日本でいえばさしずめ「巨人」?)のことなど話題にもしません。これを見て、アメリカ体験の醍醐味は地域コミュニティーの一員になること/地域コミュニティーの一員になればアメリカも英語も数倍深く理解できるんだなと気づきました。

重要なことなので再度書いておきます。畢竟、何を私は言いたいのかといえば、それは、大きく言えば「異文化理解」に他ならない英語のセンテンスの理解には英文法はマストだとしても、それは英語のセンテンス理解の必要条件にすぎず十分条件ではないということ(English grammar is not a sufficient condition but a necessary condition to understand an English sentence.)。ならば、最低限の英文法の知識をさっさと獲得した上で、実際に、英語を使うのが合理的に決まっているということ。その点、アメリカで地域コミュニティーの一員になれるようなら、使える英語力の向上においても最高の環境であり手段でしょう。

而して、地域コミュニティーの一員になるためにも英語力は大事(そして、最初のうちは変な英語(?)だなーと思われようと、(支那の人や韓国の人とは違い、世界でも評判のよい日本人らしく、あくまでも、TPOをわきまえて)どんどん話しかける勇気がもっと大事)。


そのためにも今からどんどん英語に触れましょう。
英文法書を捨てて、街に出ましょう。できれば、
英語圏の地域コミュニティーに入りましょう。

そして、そのためにも英文法、鬼のように頑張りましょう、
英文法書を一刻も早く投げ捨てられるように。

Let's do it, shall we?




(2008年8月02日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : アメリカ合衆国
ジャンル : 政治・経済

americanflag1


<Ⅱ>「激論」第二部:日本人のアイデンティティーとは何か?
森巣さんの思考の第2の特徴は、空想的な地球社会の成立からの国民国家の現実的な文教政策批判である。ご自分が勝手に設定されたこのコスモポリスのあり方を基準に『心のノート』を批判されている。実に、痛快、しかし、空虚。この経緯を「激論」第二部(「「日本人」とは誰のことなのか」。双方の発言で九番目から十五番目まで、)を主な範囲として検討してみる。


◆日本人のアイデンティティーはボーダーレスの時代には消滅せざるをえないか?
森巣⑩「教師用の『中学校 心のノート 活用のために』には「我が国を愛し、その発展を願う」という項目に「国際化が進めば進むほど、日本人としての自覚を持つことが大切になってくる」と。こんなこと、いったい誰が決めたんですか」
河合⑩「誰も「決めて」などいません。でも、一般的にある程度言えることでしょう。(後略)」
森巣⑪「私はこう考えるのです。いわゆる国際化、グローバリゼーションとは、資本、宗教、情報、雇用、商品などがボーダーレスになることです。いま唯一残るボーダーの存在理由は、「人間の移動の管理」だけ。(中略)私は難民問題などを通して、そのうちボーダーはなくなると考えています。あと50年はかかるかもしれませんが」
森巣⑫「(前略)たとえば私が(東京都)新宿区に住んでいる野球選手だとして、隣に住ん住んでいる人と文化状況が一緒か。それともNYメッツの三軍の野球選手と文化状況が一緒か。私は後者に近いんじゃないかと思うんです」
森巣⑬「それを、「日本人としての自覚を持つ」などと、ナショナルな境界を持ち出して括るのは無理があるのじゃないか」
河合⑬「ボーダーレスになればなるほど、「自分はこういう人間だ」という根本が問われると思います。(後略)」
森巣⑮「なりませんよ。オーストラリアの学校でまず教えられるのは、「It's okay to be who you are.(あなたがあなた自身であっていい)」。私自身でいいのです。別にナショナルな境界で区切られた存在である必要はない」
河合⑮「いあ、ナショナルとは違うんです。自分が生まれてきたところとか、育ってきた場所、言葉、そういうものはなかなか抜けない。そこは相当自覚し、認識して生きていったほうがいい」


先ず減点コーナー。森巣⑪はご自分の願望や予想を述べたものにすぎず、しかも、この<Ⅱ>全体の森巣さんの主張は、他者には何の説得力も論理的な拘束力もないこの願望(ここまでくれば、最早、妄想というべきか。)、に基盤を置いている。次に、森巣⑮のオーストラリアの学校の例は、所謂ワンサンプルにすぎず、ナショナルなものを超克するボーダーレスな地球社会が早晩現出するに違いないとかの森巣さんの妄想の発想の起点や主観的な根拠にはなったとしても他者に対する説得力は皆無である。これらは論旨と無関係な主張を盛り込みディスクールを混乱させるもの。よって、この「激論」をディベートに喩えるならば、ここで2点の減点が適当であろう。

尚、私には、森巣⑮で「オーストラリアの学校でまず教えられる」こととして引用されている「It's okay to be who you are.(あなたがあなた自身であっていい)」が、森巣さんの「ナショナルな境界で区切られた存在である必要はない」という主張をサポートしているとは到底思えない。これは、かっての白豪主義にノスタルジーを感じる極右勢力のここ10年来の台頭に抗して、現在のオーストラリアの国家の基本政策たる「多文化国家オーストラリア」というイデオロギーの表明だと思うからである。

ならば、「It's okay to be who you are.」は、「あなたがどんな文化的なルーツを持っていようとも、それは、あなたがオーストラリア社会の正規の一員であることと矛盾しません。あなたは、あなたが現在持っているエスニカルなバックランドを堂々と持ちつづけてください。自分の文化を持っているということは素晴らしいことなのですから」と解釈すべきではなかろうか。もし、この解釈が成り立つとするならば、自己の主張の証拠として森巣さんが取り出した<オーストラリア印の証文>は、逆に、森巣さんを窮地に追い込むことになる。なぜならば、オーストラリアの学校でもナショナルな契機の大切さが教えられていることになるのだから。

また、「It's okay to be who you are.」の意味が、森巣さんの紹介する通りであったとしてもそれは森巣さんの主張にダメージを与えるのではないか。少なくとも、このセンテンスは森巣さんの主張を補強しているとは言えまい。なぜならば、オーストラリアでも「多文化国家オーストラリア(あるいは、森巣さんの妄想によれば、「無国籍国家オーストラリア」か、)の一員であることに、自己のアイデンティティーを感じプライドを持ちなさい」と、国家が教えている(そう教えることを国家が容認している)ということになるわけで、それは国家が道徳を「強要」しているものに他ならなくなるからである。蓋し、「It's okay to be who you are.」の意味の如何に関わらず、ディベートに喩えれば、森巣⑮は、主張の根拠と内容の整合性が欠けていると言わざるを得ない。ここは減点2か1。まあ、引用英文の正確な意味がジャッジの私にも不明なので後者の-1を採用しておこう。


森巣さんは「道徳」という言葉で「平面的な道徳規範」をイメージしておられるようだ。ご自分では、「同一律」とか「排中律」という論理学の用語を森巣さん独特の意味で使っておられるけれども、森巣さんの「道徳」の概念には、論理学でいう本来の意味での同一律と排中律(要は、「AはAである」、「AはBであるか、Bでないかのいずれかである」というシンプルな命題のこと。)が単純に妥当するのではないか。だからこそ、日本人の道徳とNYメッツの三軍の野球選手の道徳が二者択一的なものという認識が導かれているのだろう。

この「道徳」の捉え方は間違いである。人は、あるときは夫であり、別のあるときには会社の部長。はたまた、数年に一度は大学のOB会のメンバーとなり、アフターファイブは行きつけの飲み屋の常連でもある。人間存在はこのように重層的な存在である。そして、人間存在を規定している個々の層に対して(夫・部長・OB会のメンバー・飲み屋の常連、等々の各々の立場に対して、)異なる道徳規範が対応している。よって、「NYメッツの三軍の選手」に近しい文化状況にある「新宿区に住んでいる野球選手」が、同時に、日本人としてのアイデンティティーを自覚することは何ら矛盾しない。

人間は多様な道徳規範を場面場面で適宜使い分けする存在である。そして、それら多様な道徳を適宜使い分けしながらも、1個の自己同一性に貫かれた自我が1回の人生を生きる存在。それが人間存在である。ならば、このような多様な諸道徳規範間の衝突を調整し場面場面でスムースに最適な道徳規範を選択できるようになるために、それら諸道徳規範が自ずと体系化していくこともまた自然なことである。畢竟、道徳は平面的に存在するのではなく立体的な構造において(そうピラミッド型の構造や、時空の変化に伴う変化を加味すればクラインの壷型の構造において)存在するものなのである。

道徳規範はその具体性と抽象性に無限の段階差がある。また、ある道徳規範は他の道徳規範に正当性と権威を授け、ある道徳規範は他の道徳規範からその正当性の根拠を受取っている。蓋し、人間存在が場面場面で使い分ける道徳規範には、具体的だが適用される機会が特殊な事態に限定されているものから、抽象的ではあるが他の規範に正当性の根拠を与えつつ常時適用されるものまで(例えば、小学校の同窓会のメンバーとしての自分に妥当する規範から、日本人としての自分にアイデンティティーとプライドを与え、日本人としての行動様式を教え諭す規範に至るまで)、多様なタイプの規範が相互に連関しながら1個の道徳規範の体系として機能していると考えるべきである。

而して、ボーダーレスの時代だからといって日本人のアイデンティティーが消滅せざるをえないわけではない。そして、森巣⑫、森巣⑬、および、河合⑬の発言を読む限り、道徳規範のこのような重層性や体系性への認識を森巣さんは欠いており、河合さんはきちんと踏まえられている。よって、本セクション<Ⅱ>全体の私の採点は、河合さん1点、森巣さん-3点である。



<Ⅲ>「激論」第三部:「愛国心」は危険か? 
「激論」ディベートマッチも3分の2を終り、両者の得点は河合さん5点、森巣さん-4点である。この点差では「最終セクションでの挽回はかなり難しい」というのがディベート通の認識だとは思うけれど、勝負は下駄を履くまでわからない。彼のナポレオンも言ったではないか、「戦いの勝敗は最後の5分間で決する」、と。森巣さんには是非とも頑張ってもらいたいものだ(仮定法過去完了形)。

最終セクションのテーマは「「愛国心」とは何か、「愛国心」を学校で教えることの意義は何か」である(双方の発言で十六番目から二十五番目まで)。ここでは、森巣さんの思索の第3の特徴と私が考える「愛国心とナショナルな契機の混同」ということに焦点を当てながら「激論」を検討する。

東京工業大学の橋爪大三郎さんが平明かつ明晰に説かれているように、近代以降の国民国家は「人為的国家」に他ならず、国家への愛(国家にポジティブにコミットメントする心性とその心性から導かれる行為の内容)の根拠は、近代国民国家においては、先ず、個別歴史的に特殊なナショナルな契機とは無縁な所に求められなければならない。

私自身は、「人間は、そのような個別歴史的に特殊な契機から切り離された存在としては自己をアイデンティファイし尽すことはできない」と考えているけれども、近代国家における<愛国心>がナショナルなものだけを根拠にするわけではないことは認めなければならないだろう(★)。そして、『心のノート』に盛り込まれた河合隼雄さんの<愛国心>のイメージは、正に、ナショナルな契機から相対的に独立なものであると思う(既に引用した河合⑮および下記に引用する河合⑲参照)。しかるに、森巣さんは、愛国心をナショナルな契機から切り離すことができないらしく、而して、ナショナルな契機を批判(否定)するあまり愛国心をも批判(否定)するに至っておられる。

★註:人為的国家における愛国心については次の拙稿を参照いただきたい。

橋爪大三郎『愛国心の根拠は何か』の根拠を問う 


◆「愛国心」は危険か? 「愛国心」は不要か?
森巣⑯「私が『心のノート』で一番気になったのは「愛国心」の項目ですね(中略)。「この国を愛することが、世界を愛することにつながっていく」「ふるさとを愛する気持ちをひとまとまわり広げるとそれは日本を愛する気持ちにつながってくる」。私にはわからない。前者はなんとなく納得できるレトリックです。しかし、やはりおかしい。この国を愛するゆえに、中国大陸や朝鮮半島や東南アジアで殺人や強かんをやってきた人たちがしこたまいたわけです」
河合⑯「でも、「この国を愛するからやったかどうか」はわからない。(後略)」
森巣⑰「そうでしょうか。彼らの場合、主観的にはやはり忠君、愛国で行動を起していたはずです」
河合⑰「本当に国を愛するということは、そんなことじゃないでしょう。国を愛するからといって、どこかの国に行って人を殺しますか。(後略)」
森巣⑱前段「じゃ、日本の兵隊さんたちは、本当の愛国者じゃなかったわけだ。特高も憲兵もみんな国賊」
森巣⑱後段「つまり、愛国は決して「世界を愛することにつなが」らない。これが私の説です」
河合⑱「つながりますよ。(後略)」
森巣⑲「では、愛国とナショナリズムの違いは、どこにありますか」
河合⑲「ナショナリズムとは、自分の国が一番大事だとか、自分の国が一番上だとか、「自分の国こそ」と単純に考えてしまうこと。でも私は、国を愛しているけれども、ナショナリストではないですよ」
森巣⑳「私の理解では、ナショナリズムと愛国心の違いは、前者は政治性が出る。後者は政治性を隠蔽している。たとえばスコットランドには、イングランドからの抑圧の歴史があったから、「愛国心」なんてない。あるのはナショナリズムです。愛国心とは、抑圧する側のものなのです」



本セクションの本筋とも仮想ディベートのスコアともあまり関係ないけれど、ある意味、「激論」の中で最も興味深い発言を森巣さんは第21番目にしている「私の基本的な考え方は、(明治時代の初めの)西南戦争の頃まで、一部の知識人を除いて、「日本人」なんてなかったというものです。それゆえに政府による民衆の国民化が行われた。その際に中心を求めるから、排除された人たちが出てくる。外部を創出することによって国民というものが成立する。同一律を求めれば、必ず排中律が働きます。そういうことを教育の場で奨励してもいいものか」、と。

今現在、日本の領土と呼ばれている範囲全体に「自分は日本人なんだ」という意識を持った人間が登場し始めたのは明治維新以後のことだという森巣さんの認識は必ずしも間違ってはいないと思う。けれども、森巣さんの言われるように排中律(おそらく、非日本人を排外する意識と行動のことらしいが、それは論理学で使われる「排中律」の語義とは無縁。為念)、を防ぐために日本人としての自己同一性を否定するなどは本末転倒の沙汰である。なぜならば、個々の国家を超克した地球社会(コスモポリス)などはその片鱗さえ見ることはできない人類史の段階に我々は生きており、また、アリストテーレースが喝破した如く、「人間はポリス的な存在」であるとするならば、21世紀初頭の空気を呼吸している人間が、個々に自分の国家のユニホームを着るのでない限り、国内-国際のどのような社会的活動のゲームにも参加できないことは自明だからである。

畢竟、森巣さんの言われる語義での「同一律」は人間存在にとって不可避である。而して、もし森巣さんの言われる語義での「排中律」が「同一律」と両立不可能なものであるならば、我々は「排中律」をこそ投げ捨てなければならない。尚、国家が「同一律」を奨励する権限と義務を負っていることは<Ⅰ>で述べたので論証は割愛する。


減点コーナー(笑)。森巣⑯、河合⑯、森巣⑰、そして、森巣⑱後段は、またもや、単なる自分の思い込みによる「推論と決めつけ」である。森巣さんは、ご自分の「皇軍を始めとする日本人の海外での残虐行為」のイメージに自縄自縛になっている。それは、「大東亜戦争終結に至るまで、皇軍や日本人が海外で(他国の軍隊とは比べものにならないくらいの、他の欧米列強の植民地支配とは比較にならないくらいの、)横暴な支配や残虐行為を繰り返してくれていればいいのにな」という森巣さんご自身の願望の表明ではあっても、それは、ディベート相手の河合⑯「この国を愛するからやったかどうか」は解らないではないかという問いに応えておらず、到底他者に対して説得力を持つものではない。

要は、河合さんが(もし、皇軍に残虐行為や日本人に常軌を逸した横暴な振るまいがあったとして、)そのような行為や振るまいが、「この国を愛するから」行われたのかと、動機を問うているのに対して、森巣さんは、自分が勝手に妄想し願望した<事実>を繰り返しているだけである。これまた、論旨と無関係な主張を繰り返しディスクールを混乱させている。よって、1点の減点。

森巣⑱前段と後段の間に論理不整合がある。要は、森巣⑱後段冒頭の「つまり」という順接もしくは理由を述べる節を導く接続詞の前後が、順接でも「主張→理由」の関係にもなっていない。この論理不整合で1点減点。

しかし、森巣⑱前段には更に悪質な反則が認定される。すなわち、河合⑯と⑰で、ディベート相手が、「この国を愛するからやったかどうかは解らない」と(もし、海外で皇軍や日本人が残虐行為や横暴な振る舞いを行っていたとしても、)、戦前の海外での日本人の残虐行為と愛国心の関係を否認しているのにも関わらず、森巣さんは、

大前提:「愛国心があれば他民族/他国民に対する残虐行為が行われる」
小前提:「皇軍や日本人は残虐行為を行った」
結論:「日本の兵隊さんたちも特高も憲兵も、本当の愛国者だったはずだ」


という自分が勝手に設定した推論を持ち出して揶揄している。自分が勝手に設定した推論をもとに(かつ、修正された大前提を繰り込むことで)ディベート相手の議論を曲解しているのである。すなわち、

大前提:「愛国心があれば他民族/他国民に対する残虐行為は行われない」
小前提:「ところが、皇軍や日本人は残虐行為を行った」
結論:「じゃ、日本の兵隊さんたちは、本当の愛国者じゃなかったわけだ。特高も憲兵もみんな国賊」
、と。

ディベート相手である河合さんが、愛国心と残虐行為の関係を否認しているのなら、その関係を立証しないかぎり相手の立論に打撃を与えることはできないのに、森巣さんは徹頭徹尾、自分が勝手に設定した愛国心と残虐行為の関係に依拠しながら文学的な談話を続けている。これは、論理が破綻しているだけでなく、ディベートにおけるフェアプレーのマナーに反するものであり、2点の減点が課されるのが相当であろう。


さて、<Ⅲ>の主題たる「「愛国心」とは何か、「愛国心」を学校で教えることの意義は何か」に関する森巣さんの主張を検討してみよう。注目すべきは、森巣⑱後段と森巣⑳である。森巣さんはこう述べている。「つまり、愛国は決して「世界を愛することにつなが」らない。これが私の説です」、「私の理解では、ナショナリズムと愛国心の違いは、前者は政治性が出る。後者は政治性を隠蔽している。たとえばスコットランドには、イングランドからの抑圧の歴史があったから、「愛国心」なんてない。あるのはナショナリズムです。愛国心とは、抑圧する側のものなのです」、と。

数次に渡り述べたように、個々の国家を超克するコスモポリスを基準に現在の日本の文教政策や愛国心の是非を論じることは無意味である。つまり、愛国心が「世界を愛することにつなが」るかどうかは不明としても、近代国民国家の国民と市民はその属する国を愛するべきであり、国家は愛国心を国民と市民に教える権限と責務を負っている。ならば、森巣⑱後段の発言の真偽は判定不能としても、その発言が愛国心を子供達に「強要」し「強制」すべきではないという主張の構成要素である限り森巣さんの主張は破綻していると言わざるを得ない。

蓋し、日本において日本国民のアイデンティティーを持ち得ない者は、(自己と他者の認識と評価の基準、行動の規準が確立できないのであるから)世界像と世界観の構築が不完全なままにならざるをえず、而して、独立自存、自己の認識と行動に責任を持ちうる<主体>足りえない。ならば、日本国民や日本市民としてのアイデンティティーを持ち、日本国と日本社会の一員たる自分にプライドを感じられないものは<近代国民国家のメンバーたる主体>ではないのである。畢竟、愛するという行為が独り<主体>にのみ許された行為/可能な行為であることを鑑みれば、日本を愛せない者が「世界を愛すること」など原理的に不可能なことである。

『心のノート』に記された「この国を愛することが、世界を愛することにつながっていく」の中の「つながっていく」を可能性と蓋然性の存在と解釈することが許されるのであれば、この「この国を愛することが、世界を愛することにつながっていく」という命題は真理と言うべきであろう。尚、同じく『心のノート』の記述、「ふるさとを愛する気持ちをひとまとまわり広げるとそれは日本を愛する気持ちにつながってくる」の真偽の検証については、本稿の読者におまかせする。

森巣さんの思考には、愛国心とナショナルな契機の混同が見られる。ゆえに、森巣さんは、森巣⑳「私の理解では、ナショナリズムと愛国心の違いは、前者は政治性が出る。後者は政治性を隠蔽している」と両者を現象形態の差異としてしか把握できておられない。これを、<Ⅲ>の冒頭に述べた橋爪大三郎さんの立場と地平から見れば、森巣さんは、表面的には愛国心やナショナルな契機を批判しているが、それら「愛国」や「サムシング・ナショナル」の概念は、日本の伝統や文化の価値を無批判に力説しがちな維新政党新風の支持者にしばしば見られる国粋馬鹿右翼の論者とパラレルである(もちろん、日本の文化や伝統に対する評価は正反対であるけれども)。彼等は、共に、人為的国家に対するポジティブなコミットメントのメンタリティーという意味での「愛国心」の必要性どころか存在自体を表象することができないのかもしれない。

「激論」でも語られ、『心のノート』にも盛り込まれている河合隼雄さんの<愛国心>のイメージは、正に、日本の文化伝統を中核にしながらも、ナショナルな契機から相対的に独立した「人為的国家に対するポジティブなコミットメントのメンタリティー」であると思う(河合⑮および⑲参照)。よって、それを巡って、<Ⅲ>で闘わされたテーマ、「「愛国心」とは何か、「愛国心」を学校で教えることは許されるか」については、河合さんの連勝と判定せざるを得ない。畢竟、「激論」ディベートマッチの最終結果は、河合さん7点、森巣さん-8点。得点を自然数に調整して、河合さんの15対0の圧勝となる。


kokorononote3



■結語
ディベートの結果はさておき、「激論」を読んで向自化できた事象を最後にまとめて置きたい。尚、私の教育問題と教育政策に関する基本的な立場に関しては下記の拙稿をご参照いただければ大変嬉しいと思います。

・ゆとり教育路線批判 寝言は寝て言え<文部官僚>
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E/E29.htm

・続・ゆとり教育路線批判 寝言は寝て言え、朝日新聞
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E/E56.html

・義務教育において教育改革の目指すもの    
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/EM/MMsample.htm#MM2

・学力低下と教育力の偏倚低迷
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/EM/MMsample.htm#MM6



◇国家が教えるべき道徳の内容
国家が学校教育を通して日本の子供達に与えるべき「道徳の基盤」はなんであろうか。私は、橋爪大三郎さんの主張に従い、それが何よりも「日本社会に妥当している公共性」であることを認める。けれども、国家が教えるべき「道徳の基盤」はこれに限定されないのではないか、「道徳の基盤」はこれらの「公共性」に加えて日本国民が日本人としてのアイデンティティーを持ち、この豊葦原之瑞穂の我が神州の一員たることにプライドを持てるために有効かつ適切な道徳でもあろう。また、そのような道徳が誘う世界観を持った日本人が多数を形成する日本社会の一員としてのアイデンティティーとプライドを(永住外国人を中心とする)日本市民に与えることが学校教育を通した道徳教育の眼目となるに違いない。ゆえに、「在日韓国人や華僑の子女が通っているから、通知表の評価項目として「国を愛する心情」を盛り込むことは不適切」などは、全く成り立たない議論であると私は考える。

◇『心のノート』の意義と限界
『心のノート』の意義は、大東亜戦争後の戦後民主主義のイデオロギーに疑問を呈したことである。すなわち、「日教組先生、朝日新聞さん。「国家は必ずしも<悪>ではなく、市民の立場がいつも<善>ではないのではないですか」「社会の秩序と安寧を維持する役目を国家が負っているのなら、国家が道徳を学校教育を通して子供達に教えても許されるのじゃないですか」、そして、「国家が子供達に道徳を教えることは「土足で心に入り込む」のとは違うんじゃないですか。寧ろ、法的には何の権限もない日教組や全教の先生方が、戦後民主主義のイデオロギーを子供達に吹き込んできた、現在完了進行形の行為こそ「ドアをガスバーナーで焼き切った上で、土足で子供達の心に入る行為」なのではないでしょうか」、と。

我々、日本人と日本市民が戦後民主主義の呪縛から解き放たれようとしている21世紀初葉の今こそ、日本社会を弱体化せしめた戦後民主主義の正体をきちんと把握して置くことの意義は小さくないと思う。「喉元すぎれば熱さを忘れる」ではならない。暗い戦後民主主義の時代。「自由」と「平等」と「平和」という特殊戦後日本的な「裸の王様」の社会思想のキーワードが馬鹿馬鹿しくも君臨した不真面目な時代を(日本国民と日本市民の恥の戦後社会思想史を)正面から見据え総括しなければ、戦後民主主義が跳梁跋扈し猖獗を極めた時代の後に、日本人と日本市民がどのような社会と国家を再構築するのかの解答は見出せないと思うからである。『心のノート』はその魁ではある。河合隼雄さんのリーダーシップには頭が下がる。願わくば、「副読本でもない単なる資料」という文部科学省のへっぴり腰をぶちのめし、一刻も早く、「正規教科書」の位置づけにしたいものだ。『心のノート』の改善作業や全国の学校現場での完全実施の実現とともに私はそう願っている。

<了>


(2008年8月02日:yahoo版にアップロード)

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本稿は5年前の2003年、平成15年10月17日に本家サイトにアップロードしたものです。「森巣博」または「心のノート」の検索ではgoogleとYahooともそれから数年間Topにランクされていたこともあり道徳教育や愛国心教育に関心のある方にはそれなりに読まれた記事なのかなと思っています。

鯨退治(=テロリスト集団グリーンピース退治)も一段落した今、本ブログの次のテーマである、「右翼Vs左翼:保守Vsリベラル」の社会思想の解明、憲法改正、地方再生と構造改革の同時推進、ならびに、日本人の国際化対応能力開発と日本の文化伝統の維持強化の同時推進に取り組む準備として愛国心教育について少し詳しく取り扱った本稿をブログに収録することにしました。

而して、このイシューを巡るこの国の状況は、小泉・安倍という保守改革派政権の5年間を経た現在もあまり変わっていない。残念ながら、本稿を読み返してみてそう感ぜざるを得ません。ならば、(愛国心に対する評価は180度異なるにしても)それを維持強化しようとする自覚的な国民の努力などなくても愛国心なるものは自然とこの社会に行き渡ると考える、大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する勢力や国粋馬鹿右翼、すなわち、左右の観念的な社会主義に抗して、日本の文化伝統が息づく活気と隣人愛に溢れる、かつ、他民族との共生、ならびに、国際競争力の維持強化、更には国家主権の貫徹と磐石なる安全保障を具現しうる日本を再構築するために本稿は今でも少しは保守改革派の同志の皆さんの参考になるかもしれない。

残念ながらそう思い、加筆修正を施した上で、ここにアーカイブ記事として「週刊金曜日・森巣博の『心のノート』批判を検討する」をアップロードします。尚、愛国心に関する私の基本的な考えについては下記拙稿を参照いただければ大変嬉しいです。

日本のために、日本の子供達のために
共に各自の持ち場で微力を尽しましょう。
共に闘わん。



国を愛することは恋愛ではなく人としての嗜みである
 
愛国心教育などは愛されるに値する国になってから言いなさい?
 
在日韓国人の「差別的な日本社会」からの解放の道
 
サッカーとナショナリズム
 
朝日新聞社説「「単一民族神話」を乗り越える」批判
 

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目次
■はじめに
■「激論 なぜいま「心のノート」なのか」のディベート審査的な検討
 <Ⅰ>「激論」第一部:『心のノート』は国家による道徳の「強要」か?(以上(上))
 <Ⅱ>「激論」第二部:日本人のアイデンティティーとは何か?(以下(下))
 <Ⅲ>「激論」第三部:「愛国心」は危険か?
■結語




■はじめに
『週刊金曜日』(2003年10月10日号)紙上で、河合隼雄さんと森巣博さんが『心のノート』(★)を巡って対談を行われていた。「激論 なぜいま「心のノート」なのか」(pp.18-20)である。河合隼雄さんはユング派の臨床心理士にして元京都大学教授。現在、文化庁長官であり、文部科学省が道徳教育の資料として作成した『心のノート』の制作を主導された。森巣さんの経歴の詳細を私は寡聞にして知らないけれど、当該『週刊金曜日』には「雑誌編集者、記者を経て、現在は国際博奕打ち、兼業作家」と紹介してあった。

★註:『心のノート』
所謂ゆとり教育の本格実施を意図した「2002年学習指導要領」の施行にあわせ、2002年4月から、「道徳教育の充実」のために文部科学省が全国の小学校・中学校に配布した小冊子。A4判総天然色。小学校用3種類(低学年・中学年・高学年向けの3種類)、中学校用1種類の計4種類があり、国公立だけでなく私立も含む総ての小中学校に配布された。また、「思いやり」ってなんだろう、我が国を愛しその発展を願う、等々の項目ごとに、子供達自身が自分で考えたことを書き込める「ノート形式」になっている。「ノート形式」を採ったことにより、子供達が、自分の中でもうひとりの自分と<会話>しながら自分の思索を確かめながら深めることができるようになっている。この点では優れた教材と言えよう。但し、文部科学省は、その配布・活用の状況は調査するとしているものの、他方で、「道徳の教科書でも副読本でもない。あくまでも補助的に使う冊子」と説明しており、『心のノート』の取り扱いに関しても文部科学省のへっぴり腰ぶりが目立っている。



私は、広い意味の教育セクターに属する者として、義務教育段階における道徳教育には少なからず関心を持っている。また、座長としての河合隼雄さんの強いリーダーシップがあればこそ形になったと言われている『心のノート』ではあるが、結果的には少なからず物足りなさを感じてもいた。これらのこともあり、興味津々で「激論」を読ませていただいた。

激論は大きく3部構成。すなわち、(Ⅰ)『心のノート』の意義と必要性、(Ⅱ)『心のノート』が想定する読者たる<日本人>とは誰なのかということ、そして、(Ⅲ)「愛国心」とは何か、「愛国心」を学校で教えることの意義は何かを巡って対談が推移している。而して、ボリュームは、各対談者25回、計50回の発言。原稿用紙14枚程度の「激論」である。

しかし、否、「けれども」と言うべきか。半分も読まないうちに「激論」をフォローする意欲はなくなってしまった。ディベートのコンテストとしては河合さんの7対0(反則を加味すれば15対0かな)のワンサイドゲーム。また、野球に喩えれば、ゲームが成立した6回表以降は勝敗に関しては退屈な「激論」だったからだ。これは、私の立場が河合さんに近いことによるタウンジャッジメントや身内贔屓の結果では恐らくない。

双方25回ずつ、計50回の発言の応酬において、河合さんは常に根拠をあげつつ自説を展開しておられるのに対して、森巣さんはと言えばその吐かれる言葉は修辞に富み断定的で力強いものの、河合さんへの質問や『心のノート』への懸念を表明するものの他は、ご自分の思い込みや認識に依拠した『心のノート』に対する印象論的の批判に終始されていたからだ。そう、朝日新聞の社説や所謂「憲法無効論」並みの空虚な発言の集積。ディベートのコンテストとしては、誰が採点してもこの得点差になるということ(すなわち、私は、森巣さんへの誹謗中傷や河合さんへのヨイショで「比喩的な得点差」を書いたのではない。その<証拠>ということもあり、本稿では「ディベート」の試合になぞらえながらコメントを書き進めることにする)。


実は、この「激論」を私は一度ならず二度、三度と読み返した。それは、雑誌紙面に編集収録されているだけでも25回、実に、2ダース以上も空虚な発言を積み重ねる<森巣博>の思考過程に興味を覚えたからだ。而して、結局、私は、森巣さんの発言の特徴を以下の如く抽出した。すなわち、(イ)自己の発言や認識に関する無謬性の確信(根拠なき無謬性の確信)とその現れとしての<決めつけの論法>、(ロ)人類がいまだかってその片鱗さえ見たことのない、(「コスモポリス」とも呼ぶべきだろうか、)国家なき地球社会の成立可能性を前提にし、かつ、そのようなコスモポリスで一般的になるであろう(と森巣さんが妄想している所の)価値観を基準にして現在の「近代主権国家-近代国民国家」日本の教育政策の是非を論じるユートピア性、そして、このコスモポリタニィズムの帰結としてのナショナルな契機の徹底的な批判、ところが、(ハ)国民国家に憑依しているナショナルな契機を批判/拒否する森巣さんの基準軸自体がナショナルな国家と民族のイメージから脱却できていないこと。この三者である。畢竟、それは自己と同じイデオロギーを呼吸するものにしか説得力を持たず、また、理解不可能な文字の羅列にすぎない。


森巣『心のノート』批判検討の切り口
●無謬性の確信に依拠した推論と決めつけ
●空想的な地球社会の成立からの国民国家の現実的な文教政策批判
●愛国心とナショナルな契機の混同


私が森巣さんの発言の特徴として抽出した上記3点は、しかし、個別森巣博氏に特有のものではないのかもしれない。それは、朝日新聞や岩波書店に代表される、戦後民主主義を信奉する論者に共通に見られる特徴だろうからである。また、(ロ)の「コスモポリス」を国際的なものではなく日本一国のあるべき理想的な状態と読み替え、他方、(ハ)国民国家に憑依しているナショナルな契機を肯定的に捉えるならば、これら(イ)~(ハ)は国粋馬鹿右翼にも共通する特徴ではないかと思う。而して、以下、森巣さんの発言に顕現している思考パターンの分析を通して左右の観念的社会主義、就中、戦後民主主義者に特有の粗雑な論理(?)が紡ぎだされる論者の心性を検討したいと思った。


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■「激論 なぜいま「心のノート」なのか」のディベート審査的な検討

<Ⅰ>「激論」第一部:『心のノート』は国家による道徳の「強要」か?

森巣さんの思考の第一の特徴は、単なる自分の思い込みによる「決めつけ」である。「激論」の第一部(双方の八番目の発言までの部分)から幾つかサンプルを示そう。尚、発言の前に附した発言者と数字は「激論」中の誰の何番目の発言かを示している。

◆『心のノート』は副読本か?
森巣①「(前略)『心のノート』は、全国の学校に1200万部配られました。道徳教育の副読本として使われる」
河合①「副読本ではないんです」
森巣②「強制ですか」
河合②「違います。使っていない学校もたくさんありますよ。(後略)」
森巣③前段「しかし「強制はしない」という明確な閣議決定がありながら、日の丸君が代を学校の現場で文科省は強制してきたでしょう。違いますか。」
森巣③後段「たとえば小学校六年生の通知表の評価項目に「国を愛する心情」を盛り込む公立小学校も出てきています」
河合③「それはこちらが強制していると言うより、いま教育委員会はかなり自主性を持っていますから。(後略)」


『心のノート』は「副読本ではないんです」(河合)の発言でこの議論は終わっている。森巣さんは、自分のイメージの中にあるのだろう「強制」の概念を振り回しているだけだ。別に、生徒本人が、日の丸や君が代に敬意を表さなかったといっても退学や休学に処せられることはない。ならば、森巣さんが、どんなに力瘤を溜めてめいっぱい現状の日の丸と君が代が(やっと、)全国の学校現場で「国旗・国歌」として扱われ始めた状況を「強制」よるものだ、そして、それは日の丸と君が代を強制しないと明言した閣議決定に反すると叫ぼうが、それは、そう考えない他者には何の説得力も持たない。学校現場での国旗と国歌の取り扱いの現状が、森巣さんが勝手に想定した「強制」の概念には該当するのかもしれないが、森巣さんの認識によって直ちに、法律上と社会通念上も「強制があった」ということにはならない。

もっとも、国旗・国歌に敬意を表さない生徒に対して教育的指導が行われること、まして、公務員たる教師が国旗・国歌に敬意を表すべきことは当然のことである。そのような事態を「強制」であり思想信条の自由という<左翼先生>や<プロ市民たる保護者>には文科省は率直に諭し告げるべきである。すなわち、「国家への忠誠心を要求しない近代国民国家は地球上に存在したこともないし存在していない。国家に対して、よって、国旗・国歌に対して敬意を払わないものは(敬意を払いたくないのは勝手であるが、職務中に敬意を払う行動を取れない者は、)、公務員たる教員になるべきではない」、と。

森巣発言の③の前段と後段は全く無関係である。だから、森巣さんが「たとえば」という接続詞で、発言③の前段後段を連結することは論理的に間違っている。なぜならば、前段は国旗・国歌の法的な性質をイシューにしているのに対して、後段は、「国を愛する心情」を教育されるべき内容と規定する学習指導要領の是非を扱っているからである。もちろん、森巣さんの思考過程では、国旗・国歌の「強制」も小学校の通知表の評価項目に「国を愛する心情」を導入することも共に、「生徒の心に国家が土足で入り込む危険」な事態である点では同じ問題なのかもしれない。けれども、それは、森巣さんが勝手に設定した文教政策評価の基準から見た場合のことであり、そうは考えないという他者にとっては、後段は前段の主張を(さらに『心のノート』が強制であるというここでの本筋のイシューに関する森巣さんの主張を)何らサポートするものではない。ディベート的には、この前段と後段の論理の断絶に対して森巣さんに減点1(-1)が課せられることになろう。

この後段については、かなり自主性を持っている教育委員会が学習指導要領に従い実施しているものであり、「国を愛する心情」を小学校の通知表の評価項目に導入すること自体は問題ではない(もっとも、河合さんご自身は「国を愛する心情」は通知表の評価項目に馴染むかどうかについて否定的に考えておられるようだけれども、)、という河合隼雄さんの回答は過不足無く穏当なものと言えよう。ここまでの「激論」をディベートに見立てるとき、(a)強制の有無、(b)「国を愛する心情」と『心のノート』の関係の有無の2 争点で河合さんの連勝。河合さん2点ゲットである。


◆『心のノート』は同一律(同じ一つの原理)を国家が強要するものか?
森巣⑤「『心のノート』は子どもたちに、道徳を通して同一律(同じ一つの原理)を強要する」
森巣⑥「そうじゃないと、『心のノート』をつくった意味がないでしょう」
河合⑥「(前略)いま大人は子どもに対して、どういう躾けをし、どういう道徳を教えたらいいのか、全然わからない。日本の場合、若者を見ていてもわかりますが、何も教えられていないために、平気で犯罪を起こしたり、勝手なことをする。彼等には「道徳の基盤」がないんです。だから、いったんこれを学校教育の中で与える。その後、そこを乗り越えるやつは乗り越えてくれたらいいわけだし」
森巣⑦「すると、「道徳の基盤」を国家が提供する、と」
森巣⑧「そういうものは、学校で教えられなくても、育っていく過程で自分で学ぶものじゃないですか」


ここでも、森巣さんは自分が勝手にこしらえた「道徳」と「強要」という概念を振り回している。自分の意志とは取りあえず無関係に、何がしかの行為をすることを他者から強いられ、何がしかの行為をするうえでの行動規範を他者から与えられることを「強要」と呼ぶのなら、母語も美意識も家族間の情愛や同胞意識、はたまた、食事の嗜好でさえそれは総て「強要」の賜物である。しかし、そこまで「強要」の外延を広げた場合、その「強要」なるものが、最早、善悪や良否の問題ではなくなることは自明ではないか。森巣先生、あなたは「強要」されるのが嫌だから日本語を覚えるのを拒否しますか(笑)。

アリストテ-レ-スが喝破したように、「人間はポリス的存在」であるとするならば、道徳は人間が社会の中で生存するために必須の学習事項(後天的に獲得すべき知識やスキル)と言える。畢竟、道徳は充分に「強要」されるに値する知識でありスキルである。ならば、「いま大人は子どもに対して、どういう躾をし、どういう道徳を教えたらいいのか、全然わからない」でいるという、河合さんの状況認識を森巣さんが否定されない限り、子供達が生きて行く上で重要な道徳を国家が教えることは(少なくとも、緊急避難的には)、毫も、批判されることではない。否、社会のメンバーとして自立するために必須の道徳を教えられることは、日本国民の社会権的基本権の要請とさえ言えるだろう。この経緯を鑑みるに、また、少年による凶悪犯罪の恒常化を想起するとき、自らが信奉する戦後民主主義が日本社会の道徳の継承能力を現在完了進行形で破壊しつつあるというのに、「そういうものは、学校で教えられなくても、育っていく過程で自分で学ぶものじゃないですか」と語る森巣さんの道徳を巡る現状認識は、正に、破廉恥なる脳天気と言われるべきであろう。


後に言及することだけれども、単に、道徳はナショナルな要因に限定されるものではない。カントの言う意味での形式的・抽象的な道徳律は厳として存在し(「自分が他者にされたいとは思わないことを他者にすることなかれ」等々の形式的な道徳命題が作る道徳法則の体系は充分に尊重に値する)、また、「殺す勿れ」、「傷つける勿」、「盗む勿」。「姦淫する勿れ」、「約束を破る勿れ」、「家族を愛せ、隣人を愛せ」、「弱者をいたわれ、強者に阿るな」、「貧者を見下すな、富者を羨みなさいますな」などは内容を持った具体的規範であるにも関わらず、おそらく、人類史において国家や民族の境界を越える普遍的妥当性を持つと考えてもそう間違ってはいないだろう。更に、「時は金なり」、「努力すること人生の真・善・美である」、「労働は何ものにもまして貴い」などの資本主義の精神を体現する道徳律も、資本主義が全世界を遍く覆う動向にともない、最早、グローバルスタンダードの道徳律と考えてもよいかもしれない。

自然法則とは異なり、社会規範の実効性は(たとえ、その社会規範が普遍妥当性を持とうとも、)、社会のメンバーが学習によってそれを後天的に身につけなければ担保されない(例えば、「人を殺すな」という命題はおそらく普遍妥当性を持つだろうが、殺人事件がなくなることも、残念ながら、恐らくないだろう)。ならば、これらの普遍性妥当性を持つ諸道徳を家庭や社会が子供達に教えられないのであれば(日本において、そのような凄まじい家庭と社会を現出せしめたものこそ大東亜戦争後の戦後民主主義イデオロギーに他ならない!)、国家が子供達に学校教育を通して教えることは、国家の権限であるというより国家の義務である。

蓋し、現行憲法が保障する社会権の享受主体たる日本国民に「道徳の基盤」を学校教育の中で与えること、日本社会の構成員たる日本市民に「日本国に妥当している道徳」を教え、日本国の権威のもとに総ての日本国民と日本市民を精神的に統合し、もって、社会の秩序と治安を維持することは文教政策の正当な目的である。よって、国家がこの意味の道徳を子供達に「強要」することを批判する森巣さんの立論はなりたたない。

尚、「激論」全体の最後に森巣さんが語っておられることは(25番目の発言)、道徳教育における国家の役割と森巣さん一流の「決めつけ論法」を考える上で好例と言えるだろう。すなわち、「教師用の『心のノート 活用のために』を読むと、こんな無茶苦茶なことを誰への相談もなく勝手に決めていいのか、ということがたくさん書いてありますね。しかも学校でやるとすると、生徒の心に国家が土足で入り込む。その危険性が常にあります」、と。正に、文学的な決めつけの論法。実際、「心に土足で入り込む」とはどのような意味だろうか。それを、「道徳を「強要」する権限など持たない国家が、しかも、手法としても社会通念から見ても適当でないやり方で、生徒達に与えること」とパラフレーズすることが許されるならば、『心のノート』は「生徒の心に国家が土足で入り込む」ことでは全くない。この論証は本稿を読んでくださっている個々におまかせしよう。

畢竟、道徳には個々の国家や民族の範囲を超えて普遍的に妥当する規範内容もあれば、ある国家や国家内のある部分社会の中だけで通用するにすぎない(例えば、朝日新聞や週刊金曜日の読者の中だけで通用するにすぎない)道徳も存在する。ならば、日本において学校教育を通して与えられるべき道徳はそれら多様な道徳や世界観の基盤となる道徳であろう。こう考えれば、森巣さんの「『心のノート』は子どもたちに、道徳を通して同一律(同じ一つの原理)を強要する」という主張は半ば正しく半ば間違いというべきであろう。


「激論」第一部での考察をまとめよう。『心のノート』は同一律(これは、論理学の専門用語とは無関係な森巣さんの造語であるが、)を子供達に課すばかりのものとは言い切れず、また、国家が道徳を子供達に「強要」することはなんら問題ない(否、それは国家の責務でさえある)。ゆえに、「激論」ディベートでは、ここでも河合さんに2ポイントが与えられることになり、<Ⅰ>「激論」第1部全体では、河合さん4点、森巣さん-1点の結果になる。


<続く>

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Author:KABU
大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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