■保守主義の心性
「左翼」の対概念ではない「保守主義」。すなわち、保守主義の本性とは何でしょうか。例えば、保守主義を伝統に格別の価値を置く社会思想と理解する場合、その「伝統」の価値の根拠は何なのか。畢竟、保守主義の正当性の根拠は那辺に求められるのでしょうか。

若きマルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』(1844年)の中で「宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現であり、また、現実的な悲惨に対する抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、また、非情な世界の心情でもあるとともに精神を失った状態における精神である。宗教、それは民衆の阿片である」と記しています。

マルクス主義と宗教については、マルクスもその推敲に携わり自ら一章を執筆した『反デューリング論』(1877年)の第3篇5章の中でエンゲルスは「いっさいの宗教は、人間の日常生活を支配する【自然的と社会的な】外的な諸力が、人間の脳裏に空想的に反映されたものに他ならず、この反映においては、地上の諸力が天上の諸力の形態をとる。・・・社会が一切の生産手段を掌握してそれを計画的に運用することによって、社会自身とその全成員とを、現在彼等がこの生産手段【を巡る資本主義に特有の生産関係】・・・のために陥れられている隷属状態から解放するとき、従って、人間が、最早、【生産手段の私的所有の廃止と計画経済の導入により】事を計画するだけではなく事の成否をも決するようになるとき、そのとき始めて、いまなお宗教に反映されている最後の外的な力が消滅し、【宗教が権力的に廃止もしくは禁止されるというのではなく】それとともに宗教的反映そのものも消滅する。それは、そのときにはもう反映されるべきものがないという、簡単な理由によるのである」と述べ、宗教の禁止を唱えた(ポルポト派の仏教徒弾圧や支那共産党によるチベット仏教と東トルキスタンのイスラム教への抑圧を髣髴とさせる)デューリングの宗教否定論を批判しています。

マルクス主義が、剰余価値の搾取と労働における疎外、更には、階級支配を隠蔽している宗教の社会的機能(就中、宗教教団の機能と存在)を超えて個人の<信仰の営みとしての宗教>を否定するものとは一概には言えませんが、少なくとも、マルクスとエンゲルスがあらゆる宗教に批判的だったことは間違いない。而して、それから幾星霜、今年2009年はエンゲルス死後114年-マルクス死後126年。蓋し、マルクスとエンゲルスの言説にもかかわらず消滅したのは社会主義体制と「マルクス=レーニン主義」の方であり、「人間存在の有限性」の確信に発する<信仰の営みとしての宗教>が無くなることはありませんでした。

畢竟、宗教と保守主義はその根元でつながっている。それは保守主義が価値を置く伝統の基盤には個々の社会に自生してきた「世界観-宇宙観」が横たわっていないはずはないからであり、そのような「世界観-宇宙観」と宗教は地続きだろうからです。

すなわち、伝統に価値を置く保守主義の基盤は「人間存在の有限性」に対する確信、そして、自分が属する社会の歴史や文化と無縁ではあり得ない自分、畢竟、歴史的で特殊なある伝統をその社会のメンバーとして引き継いでいる自分という自己同一性認識、蓋し、「自己の歴史的特殊性」に対する確信に支えられている。逆に言えば、伝統は自己の自己同一性を形成する不可欠のパーツであるがゆえに保ち守られるに値する価値を持つ。而して、これら「人間存在の有限性」と「自己の歴史的特殊性」の確信が否定されない限り保守主義の妥当性もまた否定されることはなく、保守主義の正当性と妥当性の根拠はこれら保守主義的の基盤を支える二つの心性に他ならない。そう私は考えています。


1970年代-1980年代の日本の大学の風景を記憶している者にとっては、現在の「左翼」の影響力の欠如には文字通り隔世の感を覚えます。当時、全国の大学で経済学部専門科目の少なくとも半分は「マルクス経済学」関連であり歴史研究者の過半は「唯物史観の言語と文法」で著書・論文を書いていたのですから。

世界的に「マルクス=レーニン主義」の退潮が顕著になった1970年代半ば以降、「左翼」は<マルクス>を捨ててフェミニズム・エコロジー・外国人・経済のグローバル化を巡る問題領域に運動の中心を移行させました。蓋し、日本における60年と70年の二つの安保、西欧における60年代の反ベトナム戦争運動と80年代の「米ソ中距離核ミサイル交渉」を巡る反米動向は、全体的には「左翼の言語と文法」を借りてした「ナショナリズム」の顕現と総括すべきではないかと私は考えていますが、個別日本においては1980年代以降の「左翼運動」はマルクス主義の言語を隠してする伝統批判に収束していった。要は、現在における「左翼」の本性は<マルクス>ではなく「自由主義=リベラリズム」でありその目指すものは「反伝統」。そう私は認識しています。


■保守主義の本性
「人間存在の有限性」と「自己の歴史的特殊性」に対する確信が保守主義の心性である。而して、世界システムとしての資本主義とグローバル化の昂進から保守主義が現在受けている挑戦は、逆に言えば、資本主義と産業化、および、それらの結果としての国際化にともなうこれら二つの心性の揺らぎに収斂する。

而して、教条主義・観念論に塗れつつ保守主義の両心性に批判的な思想を内在化していた「マルクス=レーニン主義」が崩壊して以降、社会思想の競技場で保守主義と鋭く対峙しているのは「自由主義=リベラリズム」です。ならば、保守主義は資本主義とグローバル化の昂進に(「マルクス=レーニン主義」を媒介することなく)直接対峙しなければならず、それは「自由主義=リベラリズム」との競争の色彩を帯びている。繰り返しますが、この状況認識こそが「社会と歴史を理論的・体系的に認識する枠組み」、すなわち、人類史規模の世界の現下の変化に拮抗し得る、および、「リベラリズム=自由主義」をこれまた世界規模の公共的議論の場で凌駕しうる「社会理論としての保守主義」の必要性を私が主張する所以なのです。

隋唐期の「仏教隆盛」(とその背景にある「社会の多民族化」)は、支那においてそれまで認識と行動の「態度」「作法」や「宗教感情」の域を大きくは出なかった儒教(および、その裏面としての道教)に教義の理論化を迫った。而して、現下の資本主義とグローバル化の昂進、その思想的な尖兵の役回りを旗幟鮮明にしてきている「自由主義=リベラリズム」と保守主義の間にもこれと同じことが言えるかもしれません。これが本連載の基底にある私の認識ですが、差し当たり、「再構築されるべき保守主義」は(資本主義とグローバル化が及ぼしている影響の範囲と射程から逆算して)少なくとも、「資本主義と産業化」「厚生経済政策」「権力デザイン=国家権力の形と相貌」「内政外交を結ぶ政策の正当性」「国家権力と道徳」「家族とコミュニティーの価値」を覆う編成でなければならないと思います。

旧「左翼」(すなわち、現在の「自由主義=リベラリズム」勢力)が1970年代半ば以降、フェミニズム・エコロジー・外国人・資本主義の暴走に着目してその運動を再構築したことは我々保守改革派が他山の石とすべき事柄かもしれません。蓋し、「人間存在の有限性」の確信と「自己の歴史的特殊性」の認識を保守主義の基底と理解する場合、保守主義が守るべき客体としての伝統も教条主義的や観念論的なものではあり得ないからです。

畢竟、ある社会において歴史的に特殊で固有な物品を巡る<使用価値の体系>を離れては伝統なるものは存在しない。蓋し、例えば、人間が<使用価値の体系>を自己の自己同一性の一斑にせざるを得ないのは、人間が精神と共に身体を持つ重層的あるいは両義的存在であり、(一部の数学や論理学、規範論理学や組織神学的な思弁を除けば、社会生活にまつわるおよそ一切の)人間の観念や表象は個物としての事物に対応付けられない限りリアリティーを獲得し得ないだろうからです。而して、このような「経験主義的な現実主義」は保守主義の基盤の一つだと思います。

保守主義を巡る挑戦と応戦とも保守主義が息づく当該の社会の外部からもたらされる外発的な契機を含むがゆえに、(国粋馬鹿右翼的な独善的な観念論ではなく)「経験主義的な現実主義」に立った状況認識の上に保守主義はその社会理論を、ならびに、「伝統の競争力向上=伝統再構築」のための施策パッケージを組み立てなければならない。他方、それらの施策パッケージは当該の社会の「再構築された伝統」に結晶して自己のみならずその社会の他のメンバーをも拘束する<規範体系=価値体系>になるのでなければ「伝統」の名に値しないでしょう。ならば、現下の大衆民主主義社会において「再構築された伝統」は最終的には実定道徳的か政治的な権威のいずれかによって担保されなければならないのです。

ここで、「絶対的な価値や真理は存在しないが(あるいは、少なくとも人間がそれを認識することはできないが)、今の自分にとって「相対的に最高の価値や真理」は実存的に見出しうるし、それは公共的討議のプロセスを経る中で間主観的にも他者に共有されうる」という主張を「実存主義的な価値相対主義」と措定すれば、現在における保守主義はこの「実存主義的な価値相対主義」の哲学をも受容するものでなければならないでしょう。「経験主義的な実証主義」からは「再構築されるべき伝統」にアプリオリな絶対的な価値が付与されることはなく、他方、その社会において当該の伝統が公共的な効力を帯びることを保守主義が希求する限り、その「再構築されるべき伝統」は「実存主義的な価値相対主義」から基礎づけられる他に正当化される道はないと思うからです。蓋し、「実存主義的な価値相対主義」もまた保守主義の基盤である。そう私は考えています。

現状が恒常的に変化する以上、保守主義とは「変化する現状に対する常なる伝統の再構築という開かれた営み」であるのに対して、「「自由主義=リベラリズム」は現状の変化に目を瞑ってなされる教条主義的で観念論的なドンキホーテの愚行を導く思想」である。畢竟、「川の水は止まることを知らないが川自体が流れることはない」、蓋し、この箴言にこそ保守の真髄がある。而して、産業と物流の格段の発達による社会の変化を受けて、閉塞した北条得宗体制と統治の実効性を喪失した荘園支配を基盤とする公家-寺社-武家の権門体制という伝統を破壊することで、武家と公家の双方の権威の均衡という「伝統の再構築」を成し遂げた足利尊氏公の業績はこの点で保守主義再構築の作業にとって示唆に富むものだと思います。

蓋し、「自己の自己同一性を保つための恒常的な伝統の再構築と、そのような伝統を公共的な社会規範に高める漸進の前進を旨とするコミュニケーションの営み」。これこそが保守主義の本性と言うべきものである。而して、資本主義とグローバル化、ならびに、伝統を軽視する「自由主義=リベラリズム」からの挑戦に対して保守主義は現在いよいよ再構築されなければならない。而して、「再構築されるべき保守主義」を構成する社会規範の形態とその具体的内容、すなわち、「新しい皮袋に入れられるべき新しい酒」についての検討が最終の二節の内容になると思います。


rivivalmiyuki


■保守主義の社会規範
規範とは行動の準則であると同時に状況認識のための枠組みです。而して、「伝統」はそれ自体が価値であると同時に規範である。よって、「伝統の尊重」を当該の社会のメンバーに要求する保守主義も社会規範のシステムであり、再構築されるべき保守主義の要素としての総合的な社会理論と「伝統の国際競争力を向上させるための政策施策パッケージ」もまた(行政法における組織規定や定義規定と類似のものとして)社会規範の構成要素に他ならない。保守主義を社会規範の側面から見ればこう言えると思います。

而して、社会規範のシステムとしての保守主義を構成するルールには、保守主義が守護しようとする伝統を指定するルールとその伝統遵守を命じるルールが含まれている。例えば、「祝日には国旗を掲揚しなさい」という伝統に結晶した道徳規範があるとして、この規範を巡る保守主義のルールは、この道徳規範が日本の伝統に含まれることを判定するルールと、実際に「今日は祝日だから日の丸を掲揚すべきだ」と行為者に命令するルールの組み合わせとして存在し機能しているということです(★)。

他方、現下の保守主義が希求している総合的な社会理論とそれを実行する政策施策パッケージもまた、それがある慣習・道徳を公共的な伝統として説明する論理であり、他方、有限な資源を使用して行う政策選択を指導するものである限り、価値判断のシステム、畢竟、保守主義を構成する社会規範システムの構成要素に他なりません。

重要なポイントは、(認識あるいは行動の準則である)これらの保守主義の社会規範のパーツは法律と道徳に跨って分布しているものの、その大部分は各自の価値相対主義的な実存的決断を通して自生的に確定され共有されている伝統に裏打ちされた道徳規範だということです。蓋し、個人から遊離した「地球市民」や「真正日本人」なるものをそれ自身が顕揚し帰依する「平和憲法の理念」や「八紘一宇の精神」と言った<伝統>を守護する主体と捉える、大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する勢力や国粋馬鹿右翼と言った「観念的社会主義」という点では(例えば、天皇制や靖国神社を巡る評価は180度異なるにせよ)「シャム双生児」の関係にある左右の主張と保守主義が決定的に異なるのは、保守すべき伝統を確定し伝統を守護するための社会規範を実定法-実定道徳の領域に参入させるには(間主観性を求める討議の形態での)政治的と社会的な不断の努力の必要性を痛感しているか否かであろうと思います。

而して、再構築されるべき保守主義を形成する諸社会規範は「現実が可変的であり、人も国も相対的で有限である以上、恒常的に臨時的で相対的なものである」という認識を基盤にするものでしょう。そして、この認識こそが保守主義の「プラットフォーム:議論と行動の共通の基盤」なのだと思います。畢竟、そのようなプラットフォームが共有されるのならば、(相手の個性を尊重しあうという意味での)保守の国際連携の道も開けてくるのではないか。

保守主義の再構築と再構築された保守主義の国際的連携。もしそれが可能だとするならば、それは「帝国」の時代にあって世界規模で「諸国民が個々の伝統を恒常的に再生しうる保守主義の形態」なのかもしれません。畢竟、保守主義に関しては、思想面では総合的な社会理論が、現実場面では伝統の競争力の向上を具現し得る政策施策のパッケージが、而して、運動論の部面においては国際的な連携が求められている。そう私は考えています。

連帯を求めて孤立を怖れず、万国の保守主義者よ、
団結せよ! 而して、共に闘わん!
Together we stand!


★註:法の概念
H.L.Aハートに従えば、法体系は現実の行為規範たる第一次ルールと第一次ルールを改変する第二次ルールの結合体です。ならば、(それが法であるか道徳であるかは別にして)再構築されるべき保守主義を構成する社会規範には、ある伝統を尊重することを求める第一次ルールに加えて、第二次ルールとして何が「伝統」であるかを決めるコミュニケーションの討議のルール等が含まれることになります。

英国において保守主義の不倶戴天の敵としばしば考えられている、(ベンサムの弟子にして、「法=主権者命令説」を唱導した英国分析法学の始祖)J.オースティンは、しかし、八木鉄男先生の先駆的な業績によれば、道徳の機能する余地を残すために「法の概念」を極めて限定的に措定した。他方、法学的な「憲法制定権力論」の家元であるカール・シュミットもまた「道徳とも事実とも疎遠な法の運用」を唱導する19世紀世紀末前後の「法実証主義」に対する懐疑から、法を形成する実力の契機を法学方法論に導入した。要は、(いかなる憲法の改正も合法と考える当時の法実証主義者に比べて)カール・シュミットの「憲法制定権力」は憲法改正と新憲法の制定を区別できる利点があり、かつ、憲法制定権力をも縛り得る「伝統」「民族精神」等々を憲法総論に導入する余地を残した。

蓋し、政治社会の運営において法や国家の意思だけではなく、伝統に培われた道徳にも発言権を認めるべきだという見解が保守主義と整合的だとするならば、(コーク・バーク・ハミルトン・アダムスとともに、但し、英米の保守主義とは異なる流派として)J.オースティンもカール・シュミットも再構築されるべき保守主義の先人と言えるのではないか。そう私は考えています。




■保守主義の社会思想
再構築されるべき保守主義の内容は如何。それは、旧来の保守主義や、例えば、現在の日米の社会・経済政策の志向性とどう異なるのか。これらのことをマトリックス画像を使い考えてみました。尚、マトリックスで用いたアイコンについては最後の画像でご確認ください。

これらのマトリックスは作業仮説的なものであり(KABUの主観によって各アイコンを配置しただけのものであり)その配置には何の数値的な根拠もありません。畢竟、再構築されるべき保守主義の採用する政策施策のパッケージはどのような内容であるべきかを考える上での仮説の提起、あるいは、個人的な「知的遊戯」にすぎない。けれども、その社会理論と政策パッケージの構築が可及的速やかに求められている現下の保守主義にとっては(経験主義的な現実主義と実存主義的な価値相対主義を踏まえた保守改革派内部のコンセンサスを得るためには)このような試みも満更無駄ではない。そう思い画像を披露します。而して、保守主義を巡る世界の認識基準に関しては記事末尾の「ポリティカルコンパス」のテストをご参照ください。


matrix0

●マトリックス0:資本主義×産業化
経済と文化の両面で国際競争は容易には沈静化することはない。而して、今般の世界金融危機に鑑み金融商品の規制ルール等は導入されるべきとしても、結局の所、アントニオ・ネグリの言う「帝国」(すなわち、資本主義のシステムとしての「帝国」、厳密に言えば、具体的な<皇帝>を欠いた、資本主義の運動法則が自己完結的に、かつ、加速しつつ世界を緊密に連関付けつつある<皇帝>なき「帝国」)は現下の保守主義にとっても与件とすべきことだと思います。更に、プロメテウスの火を一度手にした人類が、あるいは、楽園の智恵の実を一度食した人類がその技術開発の歩を緩めると考えるのは非現実的。ならば、資本主義と技術開発を両輪とする産業化が止まることも、否、減速することさえありそうにない。

このような認識に立った場合、 [マトリックス0]で表した「資本主義×産業化:資本主義-反資本主義×産業化-脱産業化」の軸において「再構築されるべき保守主義」は既存の保守主義に比べて資本主義に対する選好の度合いを落とすことになりますがそう大幅な変動はありません。



matrix1

●マトリックス1:「パイ」の拡大×「パイ」の分配
経済政策の対立軸は那辺。これを考えた画像が[マトリックス1:「パイ」の拡大×「パイ」の分配]です。このマトリックスは、縦軸で「GDPの拡大」という国全体の所得拡大を目指す方針を表し横軸でその総所得をいかに公平に配分するかを表したもの。尚、このマトリックスのアイデアは広井良典『定常型社会』(岩波新書・2001年)15頁からの借用です。

エコロジー的観点を踏まえて「再構築されるべき保守主義」は、経済成長は減速させるものの、機会の平等を越える格差是正には消極的であり(セーフティーネットの整備により何度でも敗者復活が可能な活力のある社会を具現することには賛成でも)、基本はあくまでも「自己責任」と「自助努力」を中心にしたパイの分配を考えるべきだと、そう(「再構築されるべき保守主義」は判断することになるだろうと)私は考えました。尚、「左翼」解体以降の「左翼」を引き継いだ「自由主義=リベラリズム」との関係では、この対立軸を巡っては「エコロジー」と「市場主義」が主な争点になると思います。


matrix2

●マトリックス2:政府の硬軟×国家権力の「保護者」度合
縦横の軸について少し説明が必要でしょうか。縦軸「強面な政府-穏やかな政府」は所謂「大きな政府-小さな政府」ではなく、社会のルールをそのメンバーにどれくらいの例外を許容しつつ政府が遵守させようとするか、端的には、安全保障や犯罪防止のためにいかほどの予算を投入するか/法規でどれほど細かく国民の行動を規制するかということと対応しています。

また、横軸は、刑事政策でいう所の「非犯罪化」(今まで犯罪とされていた行為を「国家が刑罰権を行使してまで防ぐほど悪質性はない」と考え犯罪のメニューである刑法から外す動向)や「政府による地球環境に優しい行為の積極的推奨」の度合を示しています。而して、ある政府が強要する「道徳の内容」を度外視すればエコロジストもファシストも横軸の観点からは同一視できることに注意してください。尚、「自由主義=リベラリズム」との関係では「外国人:地球市民」と「フェミニズム」がこの対立軸上の主要な争点になっている模様です。


matrix3

●マトリックス3:生態学的環境×ナショナリズム
縦軸「ロマン派的自然選好-バロック派的自然開発選好」は国内政策の中心である自然環境や文化環境の開発/破壊をどれくらい容認するか、他方、横軸は外交政策の底流にあるナショナリズム志向の分布を表しています。「再構築されるべき保守主義」がエコロジーの観点を踏まえて旧来の保守主義よりも上に移動していますが、ナショナリズムの堅持の姿勢は不変。言うまでもなく「自由主義=リベラリズム」と保守主義の間ではこの対立軸において「エコロジー」と「外国人:地球市民」を巡って激しい応酬が行なわれるはずです。


matrix4

●マトリックス4:家族の価値×福祉サービス提供形態
「自由主義=リベラリズム」と保守主義が「フェミニズム」と「市場主義」に関して対立するだろうこの対立軸は、人間の本性を巡る価値観の問題、すなわち、社会の基本を原子論的な個人と考えるか家族やコミュニティーと考えるかにかかわる縦軸と、福祉サービスの提供を市場を通じて行なうことを容認するか、それとも、市場に福祉を任せるのは可能な限り控えて家族やコミュニティーこそが担うべきなのかを問う横軸を組み合わせたもの。「再構築されるべき保守主義」は、資本主義自体への警戒感から、そして、伝統を担うのは「家族やコミュニティーの一員である個人」という基本的認識から旧来の保守主義や現在の日本に比べれば上や右に移行するのではないかと考えました。



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(2009年2月24日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済

dobaideshobai

■保守主義と国家
例えば、『広辞苑』に言う「旧来の風習・伝統を重んじ、それを保存しようとすること」という一般的な意味ではなく(現在のロシアで旧共産党を支持する勢力を「保守」と呼ぶということではなく)、「保守」を歴史的にある特殊な内容を持った社会思想として捉えるとき、「保守主義」の内容は(すなわち、「左翼」の対概念としての「保守」の内容は)前節までの考察で一応提示できたと思います。要は、「保守主義」とは、世界と社会と歴史についての総合的で体系的な理論ではなく、ある歴史的に特殊な特徴を持った「社会認識のための姿勢」「社会改革を実践する際の態度」であり、その基盤は「人間存在の有限性」「自己の歴史的特殊性」に対する確信に遡り得る「実存主義的な価値相対主義」「経験主義的な現実主義」であると。

而して、現在、保守主義は資本主義やグローバル化の昂進に拮抗すべく自己の再規定と再構築を迫られている。そして、言わばこの保守主義の危機は資本主義とグローバル化の波濤に洗われている保守主義の苗床たる国家の揺らぎに連動している。私はそう考えています。

◎「左翼」の対概念としての「保守主義」の構造
保守主義の心性:「人間存在の有限性」「自己の歴史的特殊性」の確信
保守主義の基盤:「実存主義的な価値相対主義」「経験主義的な現実主義」
保守主義の形態:「社会認識のための姿勢」「社会改革を実践する際の態度」
保守主義の内容:「反教条主義」「反観念論」「伝統の尊重」
「人為的権威の懐疑」「政治または法の作用する対象領域の肥大化の嫌悪」


本稿の結論の一つを先取りして述べれば、「左翼」の対概念を超える「保守主義」の積極的な意味の核心は「ある社会に自生的な伝統に格別の価値を認め、政治的と社会的な諸問題をその伝統が担保する法規範または道徳規範を格別に尊重して解決しようとする態度」である。ならば、近代の国民国家(≒主権国家)成立以降の社会において国家は「伝統」の地理的妥当領域を画する<管轄単位>であり、現下の主権国家(≒国民国家)の揺らぎは保守主義に対する資本主義やグローバル化からのラディカルな挑戦であることは間違いない。換言すれば、「保守主義」はインターナショナルな概念であり得るけれども、具体的なその内容は(現在においては)国民国家毎に異なり各主権国家の枠内でのみその効力を保持する。ならば、国家の揺らぎは保守主義の危機に他ならない。

国家の揺らぎと保守主義の変容の連動は、しかし、常態であった。伝統に根ざした(普遍的で抽象的な人権などではない、ある社会の固有のメンバーの奪われざる権利を定めた)コモンローの至高性を認め、それを司法が護り得ることを当然と考える「法の支配」のアイデアを中核とした保守主義が英国で誕生した16世紀末から17世紀初頭はウェストファリア条約(1638年)により現在に至る(国内においては最高の他国との関係においては独立の主権を持つ、ホッブスの所謂「可死の神」としての)「主権国家」の理念が地上に蒔かれた時代でもあり、それはまた資本主義がその輪郭を人類史の中で現し始めた時代でもある。而して、所謂「違憲立法審査権制度」に保守主義が結晶するアメリカ合衆国建国(1783年)の前後、18世紀末から19世紀初頭にかけてはフランス革命(1789年)によって現在に至る「国民国家」が人類史上始めて成立した時代なのですから(★)。

歴史は繰り返す。「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現われる、と言っている。ただ彼は、「最初は悲劇として二度目は茶番として」とつけ加えるのを忘れた」とはマルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の冒頭のセンテンスですが、現在それが受けている人類史規模の試練を保守主義が克服した暁にはこれまた人類史を画する新しい<国家類型>が成立しているかもしれない。そんな予感がしなくもない。もちろん、それが「悲劇」でも「喜劇」でもないことを祈るばかりですけれども。いずれにせよ、本稿の冒頭に記した如く、保守主義とは恒常的な伝統の再構築の営みであり保守主義の危機は保守主義にとっての好機でもあり得る。蓋し、このこともまた国家概念の変遷と英米の保守主義の連動を巡る歴史が示唆していることではないでしょうか。

この状況認識に基づき、以下、資本主義やグローバル化から国家と保守主義が受けている挑戦の構図を概観したいと思います。而して、その作業は前節で暫定的に措定した「左翼」の対概念としての「保守主義」を超えて保守主義の本性を手繰り寄せる作業の前哨になるはずです。

★註:国家
「国家」は統治の制度や機構としての「国家権力:state」と、その国家権力が統治する政治社会のメンバーやそのメンバーの社会的と文化的な統合としての「国家/国民:nation」の二つの語義を含んでいる。もっとも、「国家」という日本語は古代においては「天皇」御一身を指す言葉であり(実は、明治初年1868年に制定された仮刑律でも「謀叛の罪」を規定するに際して「国家」を「天皇」の語義に使用しています)、また、戦国期から江戸期に亘る近世では「大名の領地と領民たる(統治の客体としての)国と、それらを支配する家(「家中」:統治の主体としての大名と大名の家来衆)」をあわせた言葉として現在の「藩」とほぼ同じ意味でも使用されてきました。

いずれにせよ、ウェストファリア条約によって明確な国境線(border)と最高独立の主権(sovereignty)が実際の各国家(特に、神聖ローマ帝国内のドイツ諸邦)に確認されるまで、また、フランス革命とその後のナショナリズムの勃興により、原則、ある一つの主権国家に専属する国民の概念(nation)が発明されるまでは、国境は「フロンティア:frontier」として幾多の政治社会の<権力の磁場>が緩やかに重なる空間であり、また、国民も同時に複数の政治社会のメンバーであり得ることが欧州でもむしろ普通だった。而して、日本でも明治維新によって「主権国家」「国民国家」が成立するまではこれと同様。要は、現在の「国家概念」を過去に投影してもあまり意味はないということです。

尚、今でいう「主権国家」の概念が確立したのは、ウェストファリア条約から一世紀後のフランス革命による「国民国家」の成立を踏まえた(ウェストファリア条約から二世紀を経た)「ドイツ国家学」によると考えた方が無難であり、畢竟、「ウェストファリア条約による欧州主権国家体制の成立」とは後付で認定された<神話>と考えるべきだと思います。



■資本主義と国家
私は「儲けるためには何でもやる人をヤクザと言い(もっとも、三代目の田岡組長以来「菱」では薬物はご法度です!)、儲けるために合法なことなら何でもやる人のことを企業と呼ぶ」とよく若い同僚諸氏に言っています。この認識は私の資本主義理解と通底している。

「限定されたマルクス主義」と私が呼ぶ、現在の社会思想の共有財産としての「資本主義の運動法則の説明」は、『資本論』本文冒頭、第1巻4章・11章の「資本主義的生産様式が支配する社会の富は「巨大な商品集積」として現れる。だから我々の研究は商品の分析から始まる」「資本としての貨幣の流通は、自己目的である。・・・したがって、資本の運動は無制限である」「資本主義的生産過程を推進する動機とそれを規定する目的は、できるだけ大きな資本の自己増殖である」に明らかなように、資本主義社会は主要な生産が商品生産の形態で行なわれる社会であり、資本主義の運動法則は「商品生産→商品と貨幣との交換」のプロセスを無限に繰り返し、より大きな資本集積を目指すものだという認識に収斂すると思います。畢竟、資本主義下の資本の運動にはシステム内在的な限界はなく、よって、資本の自己増殖プロセスは(その資本集積の限界を定めるという意味での「計画性」を欠いて)無限に拡大する活動である。而して、資本主義は国境に遮られず、文化的環境や生態学的環境を破壊する危険性がある、と。私はこの認識は基本的に正しいと考えています。

近代のレッセフェールの時代は、個々の国民は国家の政治社会のメンバーであると同時に(取り敢えずは非政治的な)市場の参加参入メンバーでもあり、また、政治と経済から切り離される生態学的環境の住人でもあるという性格を帯びていた。けれども、主要な国家が大衆民主主義の社会に変貌した第二次世界大戦以降、就中、世界システムとしての資本主義が全世界を暴力的に均質化しつつある1989年-1991年の社会主義崩壊の前後からは、市場はその非政治性をかなぐり捨てて、かつ、生態学的環境もまた政治や経済と相互に無縁ではなくなってきている。これが、現下の国家と資本主義を巡る大枠の状況だと思います。

ドイツ国家学の泰斗イエリネックは「領土」「国民」「統治権」の三者を「ある政治社会が国家であるために欠くべからざる要素」と看做した。イエリネックの三要素に着目した場合、世界システムとしての資本主義は、現下、(人・物・金・情報の流通を促すことで)生態学的環境や産業構造の自生的棲み分け秩序としての領土を変貌させ、社会を多民族化することで国民自体を(社会学的と遺伝学的の双方において)変貌させ、かつ、個々の主権国家単独では解決できない多様で錯綜した諸問題を次々と惹起させることで国家主権の権威と権限を縮小化させつつあると言えるのではないでしょうか。

川勝平太『日本文明と近代西洋』が明確に論じているように、国境を超えた商品が購入されるために「命がけの跳躍」(『資本論』第1巻3章)をしようとも、その跳躍が実を結ぶか否かには購入する側が保持している物産を巡る<使用価値の体系>の中にその舶来品が適切に自己の居場所を占め得るかどうかが決定的な役割を果たす。畢竟、寿司が行き渡るまでのアメリカ社会では鮮魚を食べる習慣はかなり限定されており、最高級の鯛やヒラメの生け作りを日本から輸出したとしてもキャットフードにされるのが落ちだった。ことほど左様に、上記の「資本主義の運動法則」を抽出するプロセスでマルクスが斬り捨てた商品の(貨幣価値(=価格)に換算される交換価値ではない、個々の商品の個性的な用途や利便性である)「使用価値」の高低の判断はある国民と民族の文化コードであり、すなわち、伝統の一斑を構成している。

而して、けれども、資本主義を動因としたグローバル化の昂進の中で、ある国家に固有の<使用価値の体系>もまた変容を余儀なくされているのかもしれない。もしそう言えるならば、それは保守主義が保ち守ろうとする伝統自体が変容しかねないことを意味しており、畢竟、それは、国内におけるグローバル化の顕現たる「国際化」の中で、(移民・外国人の漸増、国際結婚の増加、ネットを通した情報の世界的均一化と同時化によって)保守主義の担い手、すなわち、伝統を保ち守るべき主体自体も変容を免れないことを意味している。蓋し、これが資本主義から保守主義が受けている挑戦の実相ではないか。そう私は考えています。


toshoheisensei


■保守主義が受けている挑戦
世界システムとしての資本主義とグローバル化の昂進にともなう国家の揺らぎ。すなわち、主権国家の権限縮小、産業構造の変動に起因する生態学的環境の変貌、而して、国境を跨ぐ人の移動の増加、ならびに、これらの結果不可避的に生じる、一定程度固有で歴史的に特殊だった(物品に憑依する)物品の<使用価値の体系>の変容は、領土・主権・国民という国家の三要素を(更には、国民の意識内容や価値観をも)文字通り融解させている。

近代主権国家(≒国民国家)成立以降に限定すれば国家/国民(nation)は保守主義の苗床と言える。ならば、保守主義は、現在、それが保ち守ろうとしている「保守主義の客体」と保ち守る「保守主義の主体」の双方についてその基盤を危うくしている。すなわち、保守主義は世界システムとしての資本主義とグローバル化から挑戦を受けている。と、これが前節で提示した私の状況認識でした。

而して、今まで緩やかに使用してきた「グローバル化」という言葉を世界システムとしての資本主義の昂進と区分けして、より狭義に「産業化と情報化の拡大・強化・浸透・深化」を意味するものとして、かつ、「国際化」を「広義のグローバル化(=資本主義と狭義のグローバル化の拡大と浸透)からのある国家と国民(both state and nation)に対する影響」とここで定義するならば、保守主義が受けている挑戦は次のように整理できると思います。

◎保守主義が受けている挑戦の構図
(X1)グローバル化としての世界システム(=資本主義)の拡大と浸透
(X2)グローバル化の拡大と浸透(産業化と情報の均質化・同期化)

(Y1)人の国際化:国内外ともに生じる外国人との共生問題
(Y2)物の国際化:輸入品の安心安全の危惧・国内の産業構造の変動
(Y3)金の国際化:経済活動の不安定化・国内資産の安心安全の危惧
(Y4)情報の国際化:国民の意識内容と価値観の変動

(Z1)主権:国家主権の縮小・制限
(Z2)領土:産業構造の変動に起因する生態学的環境の変貌
(Z3)国民:多民族社会化の昂進
(Z4)伝統:<使用価値の体系>の変容=国民の意識と価値観の変容


蓋し、世界システムとグローバル化によって、(生産力の拡大と既存の生産関係との矛盾が歴史変動の動因だとする、マルクスの「唯物弁証論」風に言えば)産業化によって「下部構造」としての生産力と生産関係も、また、国際化による<使用価値の体系>の変容を媒介にした「上部構造」としての法制度や国家/国民(nation)の意識内容と価値観も揺さぶられている。更に、これら「上部構造」と「下部構造」の二階層構造をその内に包み、他の文明や政治社会からその二階層構造を防御する防波堤としての国家(state)も融解しつつある。本稿の第2節で述べた如く、唯物弁証論と唯物史観は単なるイデオロギー的な仮説(歴史と社会の認識と説明のツール)にすぎませんが、そのツールを用いればこう敷衍できると思います。

而して、ヘクシャー・オリーンの定理(「自由貿易が貫徹されれば、生産要素価格(=賃金率・地代・利子率)は世界中でいずれ同一になる」という主張)は些か机上の空論であるにせよ数学的には正しい。つまり、所謂「従属理論」(先進国の経済的繁栄は後進国の遅れた、そして、先進国によって歪に偏らされた産業構造の犠牲の上に維持されているという主張)には経済史的な仮説を超える意味はなく、先進資本主義国の帝国主義への移行の必然性を説いたレーニンの『帝国主義論-資本主義の最高の段階としての帝国主義』(1917年)の主張は完全に間違っている。畢竟、世界システムとしての資本主義とグローバル化が今後もその拡大と浸透を続けるならば、少なくとも、国際化を通して保守主義の苗床たる国家/国民は人類史的尺度においては均質化に向かっていると言わざるを得ないのかもしれません。

現下の保守主義の危機は個別日本だけの現象ではなく文字通りグローバルなものでしょう。而して、第一次世界大戦終結直後の欧州における伝統の解体と欧州の権威の凋落を予感したシュペングラーが『西洋の没落』(1918年)を書いたのは今から90年前でした。言うなればこの90年間(あるいは、遅くとも、ある意味、人間中心主義的でヨーロッパ中心主義的な西洋社会思想の「鬼子」と言うよりはその最後の正当な「嫡出子」と言うべき、「マルクス=レーニン主義」が崩壊した1989年-1991年からの20年間)保守主義の危機は続いている。そう言っても過言ではない。そして、ヨーロッパ後の社会思想はいまだに具体的には提示されていない。蓋し、それはポスト=ヨーロッパの時代の社会思想を、欧米以外の文化や文明に欧米の眼鏡を通して探す傲慢な態度や不毛な異文化趣味、他方、没落した欧米にさえを劣ったヨーロッパ以外の文化や文明をそのまま次の時代の主役として扱おうとする一層不毛な厚かましさとに原因があるのではないか。私はそう考えています。


■保守主義の応戦
世界システムとグローバル化からの挑戦に対して保守主義はいかに応戦をすべきか。すなわち、伝統の揺らぐ時代の保守主義は何を守るのか? 守るべき伝統にどう優先順位をつけるのか? 誰が伝統を守るのか? これらを意識しつつ「保守の応戦」について以下検討してみます。而して、ある文化と文明を守護しようとする場合、一般的に考えられる応戦パターンは以下の5種類ではないでしょうか。

(甲)反転攻勢-世界征服
(乙)鎖国
(丙)管理社会-異文化・文明の水際管理
(丁1)非管理社会-自文化・文明の競争力向上型
(丁2)非管理社会-ケセラセラ型


これらはあくまでも「応戦パターンの理念型」であり現実の施策と完全に一致するわけではありませんが、喩えるならば上から順に、支那:北朝鮮:スイスおよび韓国:アメリカ:オランダおよび日本が各類型に対応すると言えるかもしれません。

注意すべきは、寛平と寛永に発令された、平安期と江戸期の日本の鎖国政策は、就中、後者は「経済のお付き合いは貿易収支が大幅な赤字に陥り貴重な金銀が流出しない程度にはやりますが、政治上のお付き合いは原則的に勘弁してください」という一種の管理貿易制だったこと。更に、日本のそれとは異質な<使用価値の体系>が憑依した物品も、それらが日本の<使用価値の体系>の中に位置づけられる限り(そうでなければその商品は「命がけの跳躍」に失敗するでしょう。)江戸期を通して少なからず流入していたことです(あるいは、五島列島や肥前、壱岐対馬や薩摩の人々は「フロンティア」たる東シナ海で江戸期を通じて交易に従事していた事実です)。要は、江戸期はもちろん、(90年あるいは20年前の)世界システムとグローバル化の動向が本格化する以前とそれ以後とを比べた場合、人・物・金・情報の移動が各国/国民の<使用価値の体系>に及ぼす影響の度合が格段に大きくなっているということ。正に、量が質に決定的に転化したということです。

今更言うまでもなく(私が尊敬してやまない、小平先生が支那の改革解放を決断せざるを得なかったように)、この人類史規模の世界システムとグローバル化の拡大・浸透を鑑みるとき(貿易やエンターテーメントコンテンツの流通、あるいは、技術移転のみならず、金融・環境・人権・安全保障の諸問題に端的に現われているように)現在では世界のどの国も他国と無縁ではありえない。このことを想起するならば、所詮、(甲)は「風車に挑んだセルバンテスの騎士」をそう大きく超えるものではないでしょうし、(乙)は「頭隠して尻隠さず」の類の愚行、而して、(丙)は「蟷螂の斧」であり、ならば、(丁2)「座して死を待つ」ことを潔しとしない保守主義にとって、現下、真面目に検討に値する応戦オプションはアメリカ型の(丁1)しかないと思います。

蓋し、保守主義の立場からは、日本では(丁2)から(丁1)への路線転換が求められている。而して、自己の文化と文明の競争力を向上させること、すなわち、他の幾多の<使用価値の体系>との競争において勝利するほか日本の伝統が日本国民の伝統として生き残る道はない。而して、この保守主義を担い、守るべき伝統内部の優先順位を決める者は、日本の伝統や日本に一定程度固有の<使用価値の体系>を自己の行動と認識を律する規範や価値と捉える<日本人>以外にはありえない。そう私は考えています。

挑戦と応戦。保守主義の敵の正体と応戦の戦略メニューを一瞥した今。本稿の主題たる「保守主義の概念」と「再構築されるべき保守主義の内容」について考察する準備が整ったと思います。而して、その考察は今までのような「保守主義」という言葉を巡る受身の検討ではなく、そうあるべき保守主義としての「保守主義の本性」を積極的に規定し再構築するもの、すなわち、これまでも何度か先取りして記してきた「ある社会に自生的な伝統に格別の価値を認め、政治的と社会的な諸問題をその伝統が担保する法規範または道徳規範を格別に尊重することで解決しようとする態度」という保守主義の定義を根拠づけ、そのような「再構築されるべき保守主義の内容」に肉付けする作業になるはずです(★)。

マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』(1845年)の最後に「哲学者は、これまで世界を様々に解釈してきたにすぎない。大切なことはそれを変革することである」と書いた。蓋し、正に、我々、社会主義の崩壊と「マルクス=レーニン主義」の破綻後の時代に、而して、我々の伝統が世界システムとグローバル化からの挑戦を受けている時代に生きている保守改革派は「世界を変革するための社会理論」を希求獲得すべきである。そう私は確信しています。


★註:定義論
この世に普遍的で唯一絶対の「保守」や「伝統」の意味など存在しません。また、概念自体の真偽を直接判定することはできず、演繹と帰納、論理と経験を通して人がその真偽を判定できるのは「Aは・・・である」という命題の真偽に限定されます。要は、「迂回生産」よろしく、ある言葉を巡る命題を通して人はその言葉の正しい「概念」あるいは「定義」に接近できるにすぎない。而して、ここで言う「正しさ」も、言わば賞味期限付きで遂行論的な、かつ、その当該の問題を解決するに足る情報とスキルを持つ「専門家」の<政治的多数決>によって定まる間主観的なものにすぎない。

これが、基本的に私が採用する分析哲学の定義論のエッセンスですが、具体的には、ある言葉の定義はその言葉を含むある命題が(イ)どのような意味内容を運ぶための言明として使用されたのか、(ロ)語義や命題が通常の人間の経験と整合的かどうか、加えて、(ハ)そこで使われる当該の言葉の語義や命題の構文形態が通常の言語使用の慣習から許容されるものかどうかという、機能的・経験的・慣習的な基準から間主観的かつ漸進的、恒常的に臨時で遂行論的なものとして確定されるしかないのです。

而して、緩やかには、『広辞苑』の「保守」の説明等が慣習的検討(=辞書的定義)、また、本稿の本節までの考察が「保守主義」を巡る経験的検討(=言語の経験分析)、そして、次節以降が「保守主義」を巡る機能的検討(=遂行論的規定)と言えると思います。尚、この註に関しては和書ではありますが碧海純一『新版法哲学概論』(弘文堂・1989年)の第二章の熟読をお薦めします。



<続く>



(2009年2月21-22日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済

marxdayo

保守とは何か? 保守主義とは「何を保ち守ろうとする思想」なのか? 本稿ではこのことを少し掘り下げてみたいと思います。なぜならば、1989年-1991年の社会主義崩壊以降、「保守主義」なるものが対抗してきたとされる「敵役」が不在になるに従い、一層のグローバル化の昂進の中で保守主義は「資本主義」や「国際化」という諸問題と(社会主義を媒介とすることなく)直接対峙せざるを得なくなっており、すなわち、保守主義には(「社会主義」や「左翼」の対概念としての「保守主義」を超えて)自己の再規定化が不可避になっていると思うからです。

換言すれば、社会主義の崩壊によって「社会主義」の対概念として「保守主義」を規定することは無意味になった。他方、1970年代後半以降、保守主義を代表してきた新自由主義もまた、「小さな政府」と「グローバル化」を希求するその諸制度に起因するとされる国内と国際双方の所謂「格差拡大」、而して、今次の世界金融危機を契機に反省が迫られていること。ことここに至り、保守主義を再生具現するためにも既存の保守主義の本性とその主張内容を今一度整理する必要がある。そう私は考えるのです。

而して、資本主義がウォーラースティンの言う意味でのインターステート・システムとしての「世界システム」やアントニオ・ネグリの言う「帝国」として所謂「世界標準の政治・社会・経済の制度」を強化伝播する側面と、これまたウォーラースティンの言う「反世界システム運動」としてのナショナリズムの昂揚をもたらす、保守主義にとってアンビバレントな現象であり、それにともない「国際化」もまた(保守主義の取り敢えずの基盤たる)「国民国家」の国境線をより低くする局面と、一層高くする局面を持つそれ自体相矛盾する現象として保守主義者の前に立ち現れている。

保守主義とは、しかし、伝統を恒常的に再構築する思想の営みであった。ならば、現下の保守主義の再構築の不可避性は我々保守改革派にとっては「保守主義の危機」であるだけでなく「保守主義再生の好機」でもあろう。

このような問題意識に立って本稿は、まず、「左翼思想」と「資本主義および国際化」を検討することで「保守主義の意味」を裏面から一瞥し、更に、これらの作業を前哨として「保守主義の本性」および「保守改革派が再構築を目指す保守主義の内容」について考究する予定です。また、他の幾つかのブログでの「保守とは何か」を巡る議論の少なからずが「空中戦=信仰告白合戦」に陥ったとしか私には思われなかった経験を鑑み、左翼思想の歴史、国家の概念、分析哲学からの定義論、ならびに、憲法の概念について註を付けます。けれども、御用とお急ぎの向きはこの註は読み飛ばしていただいても論旨は通るようにするつもりです。


■左翼の歴史と意味
「革新」という言葉も「左翼」と並んで「保守」としばしば二項対立的に使われます。「革新」は現状を改善するためには伝統の全部または一部を捨て去ることも辞さないタイプの思想でしょうから、伝統や現状により価値を置く「保守」と二項対立的に用いられるのは不思議ではなく、更に、遅くとも19世紀後半からの1世紀の間、「左翼≒社会主義」が現状改善のための最有力の思想と認識されてきたのだから「革新」と「左翼」が同義に使われることも自然な成り行きだったのかもしれません。逆に言えば、ロシア革命からその崩壊まで70年を積み重ねた旧ソ連や共産支那の誕生から60年を経た支那においては「社会主義・共産主義」が現状や伝統の一斑となっており、旧ソ連や支那で「マルクス=レーニン主義」を信奉する勢力を「保守派」と呼ぶことも間違った用語法ではないと思います。

では、「左翼」とはどんな意味が憑依する言葉なのか。人口に膾炙している如く、例えば、『広辞苑』によれば「左翼」とは「(フランス革命後。議会で議長席から見て左方の席を急進派ジャコバン党が占めたことから)急進派・社会主義・共産主義などの立場」であり、「右翼」とは「(フランス革命後。議会で議長席から見て右方の席を占めたことから)保守派。また、国粋主義・ファシズムなどの立場」という故事に由来する言葉です。

但し、フランスにおいて社会主義が曲がりなりにも社会変革のビジョンを持った「革新」の思想となったのは、フランス革命から15年程後の(マルクス主義者からは)「空想的社会主義」と呼ばれる19世紀初頭のフーリエ・サンシモン以降であり、まして、マルクスとエンゲルスがその社会主義(≒共産主義)を本格的に世に問うたのは1848年の『共産党宣言』(「マルクス主義」のパーツの一部である「唯物史観」を提示した『ドイツ・イデオロギー』に遡っても1845年-1846年)。要は、当初の「左翼」という言葉には「マルクス主義」という意味はなかったのです。

畢竟、「マルクス主義」が世界の社会主義を席捲し始めたのは、どう遡っても『資本論』の第1巻が出版された1867年の12年後、よって、マルクスの死の6年後にあたる1889年の第二インターナショナルの発足からであり、プロレタリア独裁の理論に基づく共産党の一党独裁体制・生産手段の国有化・中央集権的な計画経済を志向する所謂「マルクス=レーニン主義」が「左翼」とほぼ同義になったのは、当然ながら1917年のロシア革命以後のこと。日本共産党がその設立の最初期1922年から「コミンテルン日本支部」であったことで明らかなように、「マルクス=レーニン主義」はソ連共産党が指導する第三インターナショナル(通称「コミンテルン」:1919年~1943年)を通して世界の社会主義の「世界標準」になり、而して、「左翼」は「マルクス=レーニン主義」の意味をも獲得したのです。

けれども、長らく「モスクワの長女」と呼ばれた親ソ連のフランス共産党を除けば、議会制と複数政党制を尊重し暴力革命を否定する、もって、資本主義体制の内部で「所得再配分による結果の平等」と「手厚い社会福祉」を目指す漸進的な「社会民主主義」の伝統は西欧では根強い。蓋し、労働価値説を堅持するリカード派社会主義を含む空想的社会主義の流派だけでなく「マルクス主義」や「マルクス=レーニン主義」の流布以降に誕生した、フェビアン協会に源泉を持つ英国労働党、ベルンシュタインに源泉するドイツ社会民主党、構造改革路線の魁であるイタリア共産党の後身・左翼民主党等々西欧の社会主義においてはむしろ広い意味の「社会民主主義」が主流なのです。

畢竟、「左翼」とは現在では「マルクス主義」「マルクス=レーニン主義」「社会民主主義」の三者を緩やかに含む多義的な概念と考えるべきかもしれません。而して、「左翼」の対概念としての「右翼」や「保守主義」もまたこれら三者に対する否定的評価を重層的に内包していると一応は言えると思います。

「社会民主主義」はしばらく置いておくとして、では、「保守主義」が批判する「マルクス主義」「マルクス=レーニン主義」とはどんな主張なのか。エンゲルスは『空想より科学へ』(1878年-1883年)の中で「唯物史観」と「剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露」の二つを「社会主義を科学にした」マルクスの発見と論じていますが、私は「マルクス=レーニン主義」を、

①唯物弁証法を基盤とする唯物史観
②労働価値説を基盤とした剰余価値論
③労働過程の物象化と疎外論
④商品生産と商品交換の過程に着目した資本主義の運動法則の説明
⑤資本主義の運動法則の貫徹による資本主義終焉の予測
⑥上記①~⑤は科学的法則であり普遍的必然的に妥当具現するという主張


等々の認識によって編み上げられた教条主義的な思想体系と考えています。

而して、現在では、①「唯物史観」と②「労働価値説」よって⑥「科学的社会主義の普遍性」は単なるイデオロギー的な仮説にすぎないこと、加えて、「恐慌」「労働者の窮乏化」「資本の有機的構成の高度化にともなう資本の利潤率の低下」による⑤a「資本主義の終焉の予測」が成り立たないことは大方の「左翼」も承認する所でしょう。要は、社会思想の体系としての「マルクス=レーニン主義」は破綻している。他方、現在において現役の社会思想としてのマルクスの主張(=「マルクス主義」)は、③「疎外論」、④「資本主義の運動法則の説明」、および、(自己目的化した資本蓄積とその資本蓄積のための際限のない「生産力の拡大」に起因する自然と文化と社会の破壊という)生態学的な観点から読み返してする⑤b「資本主義の変化の予測」にほぼ限られるのではないかと思います(★)。

畢竟、そのように「限定されたマルクス主義」は、最早、現在の社会思想の<共有財産>であり毫も「保守主義」と矛盾しない。逆に言えば、「限定されたマルクス主義」は「社会民主主義」とともに保守主義再構築の導きの糸の一つになり得る。そう私は考えています。


★註:「マルクス主義」と「マルクス=レーニン主義」
例えば、①⑤に関する『ドイツ・イデオロギー』『経済学批判要綱』および『経済学批判』の序文の如く、マルクス(そして、エンゲルス)の残した著作や遺稿に上記①~⑥の主張が散在していることは誰も否定できない事実です。けれども、「マルクス=レーニン主義」と「マルクス主義」を同一視することは、しかし、フェアーではない。なぜならば、それは、「ソ連」や「共産党支配下の支那」というマルクスとエンゲルスの没後に惹起した<事態>から逆算して「マルクス主義」を再構成するものだからです。

他方、例えば、『資本論』第1巻24章「資本の本源的蓄積」の「歴史がいろいろな段階を通る順序も時代も国によって異なる」という言葉や後進国ロシアでのブルジョア革命(=市民革命)を経ない共産主義革命の可能性(すなわち、「複線的歴史発展」の可能性)を肯定した『ザスーリッチへの手紙』(1881年)を引き合いに出して、スターリンや毛沢東による、あるいは、ポルポト派支配下のカンボジアや北朝鮮における大虐殺、そして、1989年-1991年の社会主義の崩壊を「マルクス主義」と無縁なこととすることもまたフェアーではないでしょう。蓋し、<作者の真意>などは<テクスト>から解釈されるしかない事柄であり、アルセチュールや廣松渉がいかに精緻華麗な解釈を施し、「教条主義」や「実体主義」とは無縁な<関係主義者マルクス>を再構成しようとも(「マルクス主義」の<テクスト>はこれからも新たな再解釈の余地を残している<読者に対して開かれたテクスト>ではあるでしょうけれども)、歴史的に影響を与えてきた<マルクスの真意>なるものは多くの人々がマルクス(および、エンゲルス)の著作から読み取った①~⑥以外には存在しないからです。

畢竟、実際の歴史の中で捉えられてきた「マルクス主義」は「マルクス=レーニン主義」ほどは教条主義的ではないにせよ、カール・ポパー『歴史主義の貧困』が喝破した如く「実体主義」的であり、他方、ウォーラースティン『史的システムとしての資本主義』が指摘しているように(生産力の拡大を肯定し歴史の流れを進歩と捉える)「進歩主義」であることは否定できないと思います。而して、そのような「マルクス主義」もやはり「保守主義」が到底容認し得ないものなのです。



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■左翼の対概念としての保守
ロシアや支那では「マルクス=レーニン主義」を支持する勢力が「保守」とされています。要は、「保守」という言葉は相対的かつ機能主義的な概念なのです。

もっとも、「保守」に限らず、ある言葉をどのような意味で使うかは論者の自由であり、加えて、その定義と(できれば)そう定義した根拠が添えられるのであればそれは公共的コミュニケーションにおいても特に問題はない。ただ、()それがあまりにも伝統的や一般的な語義とかけ離れている場合にはコミュニケーションのパフォーマンスの低下を甘受しなければならず、また、()自分の定義から演繹される認識や評価はそれだけでは他者の認識や評価を拘束しはしないこと(例えば、「自分達が「真正右翼」であり、親米保守派や憲法無効論を支持しない者は皇室の安泰を祈念しているにせよ「擬似右翼」である」と定義するのは勝手だけれども、だからと言ってそのような「真正右翼」の論者の主張が万人に認められとは限らないこと)はこの段階でも押さえて置くべきことだと思います。

言語使用一般に見られる定義の効果と限界、而して、個別「保守」という言葉にまつわる相対性と機能主義的性格からは、しかし、「保守とは・・・である」という積極的定義の形式ではなく、しばしば「保守」が「左翼」の対概念としてのみ表象されることの理由は不明なままです。畢竟、私はその理由は「保守」を巡る次のような事情だと考えています。

(α)伝統に起因する多様性
(β)伝統の多様性と重層性に起因する恣意性
(γ)総合的な社会理論の欠如


イスラームとアメリカの伝統が異なるように、保守主義が少なくとも伝統に格別の価値を置く社会思想である限り、その息づく社会が変われば保守主義の具体的意味内容も異ならざるを得ない。ならば、「保守」という言葉で保守主義一般を表象することが極めて困難なことは当然ではないでしょうか。

而して、個別日本のそれを想起するまでもなく伝統自体が多様で重層的な存在。皇室や伊勢神宮はもとより、雛祭・和服・捕鯨・大相撲・歌舞伎から高校野球・女子学生のセーラー服・横須賀の海軍カレー・仏教、あるいは、電気炊飯器で炊いたご飯・出会い系サイト・キャバクラ、更には、企業別労働組合・霞ヶ関の強大な権限に至るまで日本の文化や伝統は実に多様なパーツによって重層的に構成されており、例えば、世界システムとしての資本主義とグローバル化の昂進の前に「何をもって残すべき日本の伝統」とするのかという言わば「伝統選択のプライオリティー基準」は保守主義を信奉する論者の中でも極めて多様でしょう。

逆に言えば、伝統とはある民族が今に至るまで恒常的に選び続けてきたものの集積に他ならない。そして、伝統や文化は現在生きてある人間にとっての「価値」であり「規範」として作用する。ならば、資本主義の世界システムやグローバル化の昂進に対応するプロセスで「何が残すべき伝統なのか」を決めるものは現在生きてある当該社会のメンバー個々人が自生的に形成している国民意識以外にはありえず、畢竟、その決定は価値選択を巡る<神々の闘争>にならざる得ないでしょう。先回りして結論を先に述べれば、その価値選択が現下の大衆民主主義社会における<神々の闘争>である限り、その闘争のルールは「価値相対主義」であり闘争の決着は「個々人の実存主義的な決断の集積に基づく政治的決定」によってなされる他はない。私はそう考えています。

多くの場合「保守主義」が「左翼」の対概念として表象されることの最後の理由は、既存の保守主義が「マルクス=レーニン主義」の如き世界認識のための「総合的な社会理論」を欠いていたことでしょう。保守主義が論者の属する社会の伝統の具体的・個性的・一回生起的なリアリティーにその論者にとっての妥当性を依存している以上、世界と歴史を一般的・総合的・普遍的に理解する原理論的・段階論的・現状分析論的な(良く言えば「総合的」な、悪く言えば「大風呂敷」な)社会理論を必要としてこなかったことがこの背景にあるのかもしれません。

蓋し、良くも悪くもこれまでの保守主義はその属する社会の伝統に格別の価値を置く諸個人にとっての「状況を認識する姿勢」あるいは「実践の作法や態度」にすぎなかった。けれども、本稿の冒頭で述べたように、社会主義崩壊後(「マルクス=レーニン主義」が破綻して以降)の時代に生きる保守主義者にとって社会と歴史を理論的・体系的に認識する枠組みを欠いた現在の状態では、最早、その暴力性をいよいよ剥き出しにしつつある資本主義とグローバル化の波濤から保ち守るべき伝統を保守することは難しいのではないか。繰り返しになりますが、この認識が本稿の問題意識の中心なのです。



■左翼から逆照射される保守の意味
「保守」は「左翼」の対概念として表象されてきた。蓋し、本稿でも今まで「保守」は「左翼」の対概念だという暗黙の前提に立って考察を進めてきましたが隔靴掻痒の趣は如何ともしがたい。よって、前々節で整理した「マルクス=レーニン主義」に引き付けて「保守主義」の意味内容を暫定的にここで措定して置きます。而して、「保守主義」とは、

(a)教条主義の否定/実存主義を基盤にする相対主義
(b)観念論の否定/経験主義を基盤にする現実主義
(c)認識枠組&行動規範としての伝統の尊重
(d)人為的権威への懐疑
(e)政治または法の作用する対象領域の肥大化への嫌悪


社会主義批判の古典。ハイエク『従属への道』、ミーゼス『社会主義』、ポパー『開かれた社会とその論敵』、ハンナ・アーレント『全体主義の起源』等々を紐解くまでもなく、現実の歴史の展開において「マルクス=レーニン主義」に保守が激しく反発してきた理由は、それが(c)「伝統を軽視」するものであり(d)「中央集権的な官僚機構の権威」を押し付けるものだからでしょう。而して、これらは(a)「教条主義」と (b)「観念論」を基盤にしており、(旧ソ連や支那における管理社会のありさまを想起すれば)その現実政治における帰結は(e)「政治または法の作用する対象領域の肥大化」と言える。もし、左翼に対する保守の抱く憤りをこのように整理することが満更荒唐無稽ではないとするならば、「左翼」の対概念としての「保守主義」を(a)~(e)の軸で捉えてもそう間違いではないと思います。

検算。「マルクス=レーニン主義」は、その①「唯物史観」と②「労働価値説」を⑥「科学的かつ普遍的」と標榜することで (a)「教条主義」と (b)「観念論」の朝日新聞的な傲岸不遜に陥った。而して、教条主義的で観念論的な思想の害毒が(現代の社会思想の共有財産とも言うべき、③「疎外論」と④「資本主義の運動法則の説明」を活かすことなく)、文字通り「物神性」を帯びた⑤a「資本主義の終焉の予測」に絡め取られ(e)「政治または法の作用する対象領域を肥大化」させ、非効率かつ不合理な経済、ならびに、自由と人権の抑圧を止めどなく続ける中、結局、(c)「伝統の軽視」と(d)「中央集権的な官僚機構」に反感を抱く内外の人々の支持を加速度的に喪失した。これが1989年-1991年の社会主義崩壊の実相ではないでしょうか。

蓋し、「左翼」から逆照射される「保守主義」の核心は「人間存在の有限性」と「自己の歴史的特殊性」の確信を軸とした(a) 「実存主義的な相対主義」と(b) 「経験主義的な現実主義」であろう。ならば、前々節で留保した「社会民主主義」と「保守主義」の関係は前者が(a)(b)を後者と共有するものである限り親和的になりうる余地はあるものの、前者の打ち出す具体的政策が(c) (d) (e)を巡って当該の社会に特有の<保守主義の許容値>を超えた場合には「社会民主主義」も「保守主義」の<敵>となる。社会民主主義と保守主義の間にはそのようなモデレートではあるが本質的な対立の契機が潜んでいる。そう私は考えます。


前節で述べた如く、(例えば、自生的に形成された至高の法の認識を基盤とする「法の支配の原則」、そのアメリカにおけるコロラリーとしての「違憲立法審査権」という<制度>に着目することは幾らか可能にしても)「左翼」によって逆照射される既存の「保守主義」をその具体的主張内容に着目して一般化することは難しく、「保守主義」は「状況を認識する姿勢」や「実践の態度」でしかない。而して、この「姿勢」または「態度」という「保守主義」のイメージを使用すれば本節の立論を以下の如く整理できると思います。

●国家権力に対する適度な期待と警戒の姿勢
「保守主義」は、例えば、「政権さえ取ればどんな政策でも実行できる」といった類の国粋馬鹿右翼に顕著な、あるいは、朝日新聞に代表される戦後民主主義を信奉する<地球市民=プロ市民>にまま観察される感覚(具体的には、「我が党が政権を取れば即刻直ちに、「核武装に手をつける/支那と国交断絶する/在日韓国人・朝鮮人を強制送還する/日米安保条約を破棄する/靖国神社を閉鎖する/外国人参政権を認める/週の最長労働時間を24時間に引き下げる」・・・」。このような言わば)「国家の万能感」とでも表現すべき感覚を忌避する姿勢でしょう。

畢竟、このような万能感に支えられた国家権力に対する信頼と恐怖は政治に対する「他力本願」の心性に他ならない。それに対して、「保守」の心性は政治を常に自分がコミットすべき事柄と考えるがゆえにこそ、人為的な権威、就中、国家権力に社会や人生の枢要な領域を全面的に左右されることを必ずしも歓迎しない。国家権力に多くを期待しない姿勢。政治という社会と人生の枢要な領域は法や国家権力の意向などではなく伝統に従い秩序づけられるべきであり、紛争は基本的には自己責任の原則に則り処理されるべきだという姿勢。これこそ「保守主義」の核心の一つだと思います。

●漸進の前進の態度
人口に膾炙してきた政治に対する保守主義者の態度。『職業としての政治』の中でマックス・ウェーバーは、「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である」(岩波文庫, p.105)と述べています。ウェーバー(1864年-1920年)の時代にはまだその片鱗が現われていたにすぎない、現下の大衆民主主義の時代に引き付けた上で私なりに意訳すれば、政治とは、「理想を掲げ続けながらも、半歩でも一歩でも現実を改善する営みであり、それは、日々、ビジョンとマイルストーンの説明に言葉を尽くして国民の支持を集め、他方、常に、戦略的な妥協を積み重ねながら多数派を形成する営為。而して、それは、最善でなくば次善、次善でなくば三善の具現を目指す、けれども、決して諦めず立ち止まりもしない恒常的な漸進の営み」ということだと思います。

恒常的な漸進の前進。これを(タイ製ソーセージならぬシャム双生児とも言うべき)戦後民主主義を信奉する勢力と国粋馬鹿右翼という左右の観念的な社会主義の姿勢や態度と比べれば、「保守」と「左翼」の違いは明確だと思います。この認識もまた「左翼」からの逆照射による「保守」措定の帰結であり、而して、恒常的な漸進の前進の態度や覚悟もまた「保守主義」の核心の一つである。私はそう考えています。


<続く>



(2009年2月18-19日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済

asotaro


Other details are no less grim. Consumer spending sank at a 3.5% annual rate, similar to its third-quarter drop, despite a big rise in real after-tax income, thanks to the huge drop in petrol prices. Spending and incomes went in opposite directions because once-profligate consumers are now trying to save more. They put aside 2.9% of their income (after tax) in the fourth quarter, the highest rate since the beginning of 2002. They are doing so either by choice, because retirement savings have been devastated and they fear losing their jobs, or by necessity, because it has become so difficult to borrow.

Businesses are cutting back more savagely. Their investment sank by 19%, worse than any quarter in the 2001 recession which was, after all, a business investment-led slump. And that was despite some firms boosting spending to exploit a temporary tax benefit that expired at the end of the year.

Both exports and imports fell sharply, leaving no net impact on GDP (lower imports raise the calculation of GDP, while lower exports reduce it). Matters are likely to get worse. The dollar has strengthened in recent months and much of the rest of the world is in worse shape than America. According to JPMorgan, the economy in Britain probably shrank at an annual rate of 5.9% in the fourth quarter, the euro-area by 5%, and Japan by a heart-stopping 9%, in a country with no housing bubble or banking crisis.


経済情勢を巡る他の事項は動かし難い事実である。消費の低迷は第3四半期と同様に年率3.5%に達しており、それは石油価格の大幅下落による税引後の所得の増大にもかかわらず生じているのだ。消費と所得は【不況脱出に必要な経済成長やGDP拡大とは】反対方向に流れている。なぜならば、かって浪費家であった消費者は現在では貯蓄に走っているからである。実際、第4四半期に消費者は税引き後所得の2.9%を消費せずに貯蓄したのであり、この貯蓄率は2002年の年初以降最高の数値なのだ。而して、彼等がそういう行動選択を行なうについては、一つは、退職後に備えた貯蓄が目減りしてきていること、あるいは、失業の危惧が払拭できないことであり、他方では、お金を借りることが徐々に難しくなってきている状況下での必要に迫られていることがその理由である。

企業活動の縮小傾向は更に激烈である。その投資は19%も減少したが、それは2001年の不況以降のどの四半期よりも大きな減少である。而して、2001年の景気後退は最終的に投資不況に陥ったのである。しかもその投資不況は、その年末に期限が切れる臨時の税制優遇措置を利用することで幾つかの企業が投資を加速させたものの生じた結果なのだ。

貿易は輸出入とも急激に落ち込んでいる結果、GDPは貿易の数値によって実質ほとんど影響を受けていない(輸入の沈滞はGDPの算定数値を引き上げているが、他方、輸出の沈滞によりその引き上げられた分も帳消しになっている)。事態は徐々に悪化しているように見える。而して、ドル高基調がここ数ヵ月続いており、世界のその他の国の中にはアメリカよりも経済情勢が悪化している諸国も少なくない。JPモルガン社によれば、英国の経済は第4四半期におそらく年率5.9%縮小し、ユーロ圏は5%、そして、日本はなんと9%の縮小という緊迫した状況ということだ。しかも、日本は不動産バブルや銀行を巡る危機とは無縁の国なのにこの状況なのである。



If there is any silver lining, it is that while the recession was a year old in December, its first half was not especially deep: net GDP actually rose in the first half, and the downturn is actually a bit milder than the median post-war recession after 12 months. But the typical post-war recession was over (or close to it) by this point; this one is getting worse. Claims for unemployment insurance were high in January, sales of new homes slumped in December, and several big companies, most recently Starbucks, Boeing and Sprint Nextel, have announced thousands of job cuts.・・・

What could turn this around? Most recessions end as companies clear excess inventories and as households, with a boost from lower interest rates, release pent-up demand for cars and houses. This time is different. Tightened credit severely limits the ability of consumers and companies to spend even if they were so inclined.

More than usual, an end to this recession will depend on policy. Enormous hopes are riding on Barack Obama’s $819 billion stimulus package, which has passed the House of Representatives and is now being debated in the Senate. Of that sum, just $170 billion will find its way into the economy before this fiscal year ends on September 30th, largely in the form of expanded unemployment insurance benefits and reduced income tax which will make their mark within months.・・・


もし、このような悲観的な状況の中にも一筋の光明が見いだせるとすれば、それは不況は12月で1年間続いたことになる一方で、最初の半年間は特にそう酷い状況ではなかったこと、実際、実質GDPは最初の半年間は拡大していたのであり、而して、12ヵ月間の統計としてみれば今回の経済縮小の程度は戦後の不況の中でも平均的なものに比べてもまだいくらかは緩やかということである。しかし、戦後の典型的な不況は12ヵ月程度で終了した(あるいは、それに近い状況に至った)。けれども、今回の不況はいまだに悪化の一途を辿っている。すなわち、失業保険の給付請求金額は1月も高い水準であり、新築家屋の販売は12月も低空飛行状態、そして、巨大企業の幾つか、最近ではスターバックスやボーング、あるいは、スプリント・ネクステルが数年人規模の人員整理を表明するに至っている。(中略)

では、この状況を好転させ得るものは何か? 不況はその大部分が、企業による過剰な在庫の処分と、低い金利に押し上げられる形で家計がそれまで押さえ込まれていた自動車や家に対する欲求が解放されることによって終焉した。けれども、今回は今までとは様相を異にしている。緊縮した信用が消費者と企業の支出能力を猛烈に拘束しており、たとえ彼等が支出したいと思ってもそうすることは容易ではないからだ。 

而して、通常以上に今回の不況の終焉の是非は政策に左右されるだろう。よって、バラク・オバマ大統領の総額8190億ドルの総合景気刺激施策に尋常ではない大きさの期待が寄せられている。而して、その施策はすでに下院を通過しており、現在、上院で審議中である。その施策の総額の中で1700億ドルだけが9月30日に終わる今財政年度にアメリカ経済に注入されることになっており、その大部分は失業保険の優遇措置の拡大や数ヵ月の期間限定の所得税の減税である。(中略)



Still, the package will help. The Congressional Budget Office thinks that GDP by the end of 2009 will be between 1.3% and 3.6% higher than it otherwise would have been, thanks to the stimulus. It had thought that the unemployment rate would rise from 7.2% in December to 9% by the end of this year; with the stimulus in place, it thinks it will only rise to between 7.9% and 8.6%.

But more must be done. “The real problem is a feedback loop from the economy to credit losses,” says Richard Berner of Morgan Stanley. The fiscal stimulus will achieve little until that is fixed. Thus the administration’s real work lies ahead: coming up with a bigger and more comprehensive plan for recapitalising banks and relieving them of bad loans.


しかし、それにしてもこの総合景気刺激施策は景気浮揚の一助にはなるだろう。連邦議会予算事務局の試算によれば、同施策が実施されなかった場合に比べて施策の景気刺激効果によって2009年末までにGDPは1.3%から3.6%は高くなるとのことである。而して、同予算事務局はまた失業率は先の12月の7.9%から今年末には9%に上がりかねないけれども、同施策が実施された場合には失業率の上昇は7.9%から8.6%の巾に収まると考えている。

しかし、二の矢として実行されるべきことがある。「本当の課題は経済から信用失墜への信頼回復である」とモルガン・スタンレーのリチャード・ベルナー氏は述べる。今次の財政出動による景気刺激策は金融機関の信用が回復しない限りほとんど効果はない。而して、オバマ政権の真の使命は財政出動の先にある。すなわち、それはより規模の大きな、そして、より徹底的な銀行の資本強化策であり銀行を不良債権の重圧から救済することなのだ(★)。


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★註:金融規制を巡る新自由主義とマルクス主義の経済学
日本では世界金融危機を俎上に載せつつ、「今回の世界金融危機によって、 小泉政権が押し進めた「規制撤廃と市場万能論を基盤にした新自由主義」の誤謬が明らかになった」と説く論者が跋扈しています。而して、このような主張は「交通事故の悲惨を鑑みれば自動車文明の誤謬は明らかだ」という主張と大差のない論理の飛躍を犯しているものと私は考えます。

蓋し、「独占」を排除するための独占禁止法体系や雇用者と被雇用者の力関係を対等にして健全で持続可能な労使関係を具現するための労働法体系が、資本主義を維持する上でも肝要な制度である如く、「投機的な金融取引」や「実需とあまりにも乖離した金融商品」を規制することは資本主義、就中、自由で公平な競争に価値を置く新自由主義と矛盾しないどころか、むしろ(労働法的な働く者の権利の具現に貢献する「健全な労働組合」が新自由主義の戦友でさえあるように、そのような規制は)新自由主義的制度の不可欠の一斑と言うべきだと思います。

独占禁止法や労働法や金融規制によって資本主義は社会主義化するのではなく、益々、力強く新自由主義化への歩を進める。そう私は理解しています。蓋し、「市場万能論に立った新自由主義は弱肉強食の経済を志向するものであり、国内外で格差を拡大する」等のオドロオドロしい主張は、しかし、完全に間違いというわけではなく現象の一部面を正しく指摘している認識ではあるでしょうが、新自由主義的経済の帰結たる格差や貧困の解消は経済の社会主義化によってではなく、セフティーネットの整備に基づく敗者復活可能な新自由主義的な社会の具現によって(個人と民間の旺盛な活力の発露の中で)解決されるしかないものと私は考えます。

畢竟、「過度な競争や強欲な活動」を制限する仕組みによって資本主義社会を「より人間と自然に優しいし経済活動」が機能するものにできる等との考えは、意識改革とその制度化によって(現状の技術水準に基づく生産力と資本主義的生産関係を維持したまま)社会主義を実現できるとする「空想的社会主義」に他ならない。蓋し、マルクスが喝破した如く、「主要な生産が商品生産」として行なわれ、「人と人の関係が商品と商品の関係に物象化」する、而して、「商品の価値が(個々の商品の個性差に起因する)その使用価値とは別に(貨幣によって均一な基準で測定認識される)交換価値の形態」として立ち現われる資本主義社会は、「商品生産と交換に基づく利潤獲得プロセス」の再生産というその運動法則自体を止揚しない限り社会主義や共産主義が支配する社会に移行することはありえない。そして、マルクス主義経済学が予想したようにはこの資本主義の運動法則が終焉することがないことも確実でしょうから。尚、この最後の点に関する私の基本的考えについては取りあえず下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・世界金融危機への対処の日米落差 (上)
  http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/56685206.html




(2009年2月11日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 世界金融危機
ジャンル : 政治・経済

obamapr



アメリカの経済が重篤です。而して、アメリカ経済の需要に依存する度合の大きい支那・韓国の経済も暴風雨圏内の様相を呈している(就中、その支那とアメリカに輸出先と投資元&先を依存する度合の大きい韓国経済の沈没は確実)。また、アメリカ経済を奈落に突き落としたアメリカ発の世界金融システムのフリーズ状態によって貿易立国の日本もまた(世界経済を機能させる信用付与&債権債務の決済システム、言わば経済という身体の血液循環システムとも言うべき金融システムが停止したことに伴い、今次の金融危機による直接のダメージが比較的に軽微であった日本もまた)厳しい経済情勢に突入しています。KABUの同志の大手ヘッド・ハンターオフィスCEO曰く、(多くの企業が決算期を迎える)来月には「(失われた10年の期間も転職にそれほど苦労しなかった)20代-30代前半のファイナンス-アカウンティング専攻の若年層MBAホルダーの労働力市場も凍結する見込みですよ。転職を考えている若い友人知人がおられれば2月中に転職するか少なくとも5月までは動かないようにアドバイスされればどうでしょうか」、と。

アメリカの経済は重篤。昨日2009年2月10日、アメリカ上院で大型景気対策法案が可決成立したものの(産経新聞電子版によれば、大型景気対策法案やオバマ政権の発表している「金融安定化策は具体性が乏しいとの失望感が広がって全面安の展開となり」)ニューヨーク株式市場は8,000ドル割れの大幅下落の展開になっています。而して、そんなアメリカ経済と世界経済が風雲急を告げている一昨日2月9日(繰り返しますが、韓国経済は、『北斗の拳』的に言えば「お前はすでに死んでいる」状態、すなわち、最早「終了」していますので風雲は韓国では急を告げていません)、バラク・オバマ大統領は大統領就任後初めてとなるTV生中継による記者会見を異例の事ながらTVのゴールデンタイムに行い、米経済について「普通の景気後退(リセッション)ではない」「大恐慌以来の最悪の経済危機を経験している」と強い危機感を示し、「我々は、大胆で迅速な行動をとらなかった1990年代の日本で起きたことを見ている」と日本の「失われた10年」を教訓とするよう訴えられました。

Washington Post紙の"Obama Says Economic Crisis Comes First,"February 9, 2009「経済危機への対応が最優先課題」によれば、He compared the situation to Japan in the 1990s, saying the Japanese, failing to act quickly enough, suffered a "lost decade."(オバマ大統領は1990年代の日本と現下アメリカの経済状況を比較して、日本は求められていた迅速な行動をとらなかったことにより「失われた10年」に苦しめられた)と。而して、蓋し、アメリカ経済の回復のためには<小泉純一郎>が求められている。そして、小泉政権の中枢にありその「大胆で迅速な行動」を担った我等が麻生太郎首相を宰相に擁している日本は実に幸運と言えると思います。ことほど左様に、「政局と人事の天才」の名を欲しいままにした小泉純一郎元首相は、(衆院大蔵委員長経験者でもあり、竹下登-宮澤喜一両元首相の世代を引き継いだ、実質、最後の「大蔵族議員の総帥」でもあり)日本を「失われた10年」の苦しみから脱却させた経済政策の練達の士でもありました。

小泉政権による「失われた10年」からの脱却。バブル崩壊後、在庫調整と資産調整の所謂「複合不況」に旧田中-竹下派的な55年体制の政治がなんら有効な手を打てず、(消費性向と投資性向が低迷する中、要は、公共投資の乗数効果が縮小する中。長篠の戦いの実像は異なるのですが)「織田-徳川連合軍の馬防柵と三段構えの鉄砲の一斉射撃システムに無謀な突撃を繰り返した武田騎馬軍団」の如く、あるいは、機関銃を備えたコンクリート製の近代要塞で待ち受けるロシア軍に愚かにも数次にわたり徒に突撃を敢行せしめた愚将乃木希典の如く無駄な公共投資を投入し続け、他方、所謂「ゼロ金利政策」によって(国民の金融資産を実質目減りさせながら)事態解決の先延ばししかできなかったのに対して、(1998年3月の金融機能安定化法に基づく総額約1兆8000億円の資本注入、1999年3月の早期健全化法による総額約7兆5000億円の資本再注入。而して、この前段を踏まえた上で)2001年以後、平成の大宰相・小泉純一郎元首相による銀行の直接償却の促進、大手銀行の特別検査、資産査定厳格化と銀行のリストラの強制。これらにより、2003年のりそなホールディングスに対する資本注入に至り日本の金融危機は終焉した。

ケインズのマクロ経済学を持ち出すまでもなく、不況とは急激な「有効需要収縮」に他ならず、而して、有効需要は投資と消費の合算です。ならば、不況脱出とは(そのプロセスやプロセス誘導の施策がいかに複雑であろうとも、端的には)投資か消費の拡大に尽きることは、高校生や中学生でも知っている事柄であろうと思います。そして、有効需要を決める要因が(1)「消費性向」(2)「資本の限界効率」(3)「流動性選好」という究極的には「心理的な変数」であることも。

蓋し、(3)「流動性選好」(資産をリスクが比較的大きく換金に時間を要する証券等ではなく貨幣の形態で持ちたいという心理とその行動の一国経済における度合)により利子率が均衡状態で定まり、その利子率により投資水準や所得水準が定まることで(ここに、(1)「消費性向」と(2)「資本の限界効率」が作用して消費と投資の規模が、すなわち、)有効需要が決定され景気循環の位相が定まるとはどんなマクロ経済学の教科書にも書かれていることでしょう。

而して、本記事に画像として収録した(但し、ここでは価格とともに利子率を一定と仮定した、y軸に総需要(D)、x軸に国民所得(Y=総供給)をとった「消費需要曲線」による有効需要による所得決定の説明モデルたる)「45度線モデルでみた財政政策効果」分析によって、「国民所得の水準は有効需要によって決定される」「実物経済市場で需要と供給が均衡していたとしても、労働力市場で需要と供給が均衡する論理的必然性はなく、よって、非自発的失業をなくすためには政府による財政出動で実物経済を人為的により高い水準にしなければならない」こともまた理解するのにそう難しいポイントではないと思います(★)。


45degree

★註:45度線モデルでみた財政政策効果
簡単に言えば、総需要(D)と総供給(=国民所得:Y)が同じ比率で増減するのならば、消費需要曲線はD=Yのグラフになりその傾きは45度になる。また、総需要は「C:消費」と「I:投資」と「G:政府支出」の合算と定義できる。尚、所得がゼロであっても人間が生きていくためには最低限の消費をしなければならず画像一番下のC(C0+cY)のグラフはy軸上に切片C0を持つ。而して、グラフは下から「消費」、「消費+投資+政府支出」、そして、(一番上が)「消費+投資+政府支出+政府の公共投資の追加支出(△G)」を示しています。

而して、45度線と(公共投資の追加支出がなされる前の)消費需要曲線「C+I+G」との交点(E0)が理論的にはその国家経済の総需要と総供給が均衡している点なのですが、本文でも触れたようにその均衡点で労働力市場の需要と供給(=求人件数と求職件数)もまた均衡する保障はない。よって、政府の公共投資の追加支出(△G)を行い、新たな消費需要曲線「C+I+G+△G」を人為的政策的に作り(完全雇用が実現する国民所得水準(Y1)に対応する)、45度線とその新たな消費需要曲線との交点(E1)が完全雇用を実現しうる総需要と総供給の均衡点ということになる。ポイントは、政府の公共投資の追加支出(△G)の総額は経験を通して推察される「完全雇用が実現するY1」の値から逆算されて見出されるのであって、アプリオリにその値が45度線や(公共投資の追加支出がなされる前の)消費需要曲線「C+I+G」から数学的に演繹されるわけではないということです。




問題は、グローバル化の一層の昂進の中で、最早、大企業の正社員や公務員の雇用も「聖域」ではなくなるリスク化の時代への不安と、他方、(安いけれど特徴のない品揃えが文字通り市場から拒否されて倒産した「主婦の味方ダイエー」の例を想起すれば自明なように、生きるために最低限必要な物品やサーヴィスのみならず、TVで見る限り「派遣村」の派遣切れの人々の少なからずがワンセグ携帯電話を保持していた如く、普通の耐久消費財も国民にほぼ行き渡っている先進国では)現在において「所得が増えた度合いほど消費は増えない」「所得が増えた度合いほど(消費が増えない以上、つまり、資本の限界効率が低い以上、投資意欲は高まらず)投資は増えない」ことです。畢竟、天下の回り物の「貨幣」が銀行の金庫か家計の箪笥の中から出にくくなっている。

このことは絶後ではないかもしれないけれど空前の低金利(実質ゼロ金利)であるにかかわらず、企業の投資が低迷していること、而して、「失われた10年」の間になされた公共投資が(それはそれで、地方再生という別の政策目的のためには全く無駄であったとは思いませんが)「地方の建設業者の生命維持装置」を越える経済的意味はなかったことを想起すれば思い半ばに過ぎるのではないでしょうか。要は、「45度線分析の消費需要曲線」の傾きは(所得の増加率と消費の増加率が等しい場合の)45度などよりも遥かに緩やかになり(究極的にはx軸とほとんど平行になり)、よって、公共投資の乗数効果も極めて低い水準に止まるがゆえに公共投資による景気浮揚は想像を絶する額の財政出動でもしない限りそう効果はないということです。

しかして、今次の世界金融危機に端を発する不況からの脱出の施策は、(実需要から余りにも乖離した投機的価値を体現しうる金融商品の禁止等々の新しい競争のルールの導入による)世界金融危機の原因たる金融システムの再構築と並んで、消費性向の向上が、よって、(資本の限界効率も流動性選好も究極的には、ケインズの喩えを借りれば「美人コンテストの投票行動」としての心理的要因である限り)消費性向を向上させるための政府の景気対策への本気度を示すことに尽きるのではないか。その意味で個別日本においては、麻生政権がその実現を期す「定額給付金」は必ずしも悪いアイデアではない。と、そう私は考えています。

けれども、世界的に見れば、世界の有効需要(=景気)は浪費大国アメリカにおける消費性向と流動性選好と資本の限界効率にかかっている。而して、アメリカ経済は再生できるのか。この点に関して参考になる記事をEconomistで目にましたので以下紹介したいと思います。出典は、”The economy -Even worse than it looks:America's economy shrank sharply in the fourth quarter. There are few reasons for optimism,” Jan 30th 2009「経済-傷は思いのほか深い:アメリカ経済は第4四半期急激に減速した。而して、今後も明るい材料はほとんど見当たらない」です。




IT IS a measure of the prevailing gloom that the worst economic performance in 26 years could still be described as better than expected. Real gross domestic product fell at an annual rate of 3.8% in the fourth quarter, below the decline of 5% or more that many economists had anticipated.

However, there is precious little reason for optimism. Almost all the unexpected growth came from a small rise in business inventories. This is almost certainly because firms did not reduce production quickly enough to keep pace with slumping orders. To get inventories back in line, more production cuts in the current quarter are likely. Morgan Stanley had expected GDP to fall by 4.5% in the current quarter, but now thinks it will fall by 5.5%.


この26年間で最悪の経済情勢も予想されていたよりもまだましと言えるかどうかが、景気の低迷の広がりを測る基準の一つである。しかし、第4四半期に実質ベースの国内総生産は年率3.8%下降したのだけれども、それはエコノミストの多くが予想していた年率5%規模の下降を下回る値だった。

しかし、情勢はとても楽観でるようなものではないと見る理由がある。予想を上回った成長のほとんどは各企業の在庫の微細な増加に起因するということ。すなわち、予想外のこの経済成長は、企業が注文の減少に対して素早く生産のペースの縮小を合わせることができなかったことによることはほとんど疑いようがないということだ。而して、これらの在庫が販売ラインに流れ込むことにより、現下の四半期ではより大きな生産縮小が惹起するものと思われる。実際、モルガン・スタンレー社は現下の四半期のGDPの落ち込みを4.5%と予測していたけれど、現在では5.5%の落ち込みになるものと予想を下方修正している。

<続く>

テーマ : 世界金融危機
ジャンル : 政治・経済

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オバマ大統領に対する期待と不安が渦巻いている。少なくとも、日本ではバラク・オバマ氏の若さと経験不足が「変化への期待」と「混乱への危惧」というアンビバレントな感情を人々に抱かせているように思われます。例えば、朝日新聞の社説は「オバマ大統領就任―米国再生の挑戦が始まる」(2009年1月20日)、「オバマ氏と世界―柔らかく、したたかに」(2009年1月21日)と大統領の就任式の前後2日に亘ってオバマ大統領への期待を吐露しており、他方、米国共和党人脈と親しい日高義樹氏は『不幸を選択したアメリカ~「オバマ大統領」で世界はどうなる』(PHP研究所)の中でオバマ大統領とオバマ大統領を選択したアメリカへの不安を率直に語っておられる。

朝日新聞曰く、「オバマ大統領の就任で、米国再生への挑戦が始まる。経済危機やイラク戦争で傷ついた米国を「対話と国際協調」で再建し、「賢い政府」による底上げで、厚みのある中流社会を目指せ」(1月20日)、「オバマ新大統領はイスラム世界に関係改善を呼びかけた。米国がイスラム世界と反目していては、中東和平もない。まずイラクからの米軍撤退を進めて、対米不信を解くべきだ」(1月21日)、と。而して、日高氏曰く、「アメリカは未曾有の危機にある。変わらねばならない」。この言葉によってアメリカ国民は魔法をかけられて、「オバマ大統領」を誕生させてしまった。それは、不幸な選択だったのではないか」、と。

而して、日高氏の主張の通り、(政府財政と貿易収支の)膨大な双子の赤字を抱えるアメリカが、オバマ民主党政権下で更に「公共土木事業」を推進し、「膨大な公的資金を金融界と自動車産業に投入」するならば、アメリカの経済はブッシュ(子)政権の時代よりも「もっと惨めで貧しい状態に落ち込む」可能性もなくはないでしょう。また、米軍の世界、就中、「アジアからの撤退」を志向するオバマ民主党政権によって、世界は「弱肉強食」の不安定な時代に突入する怖れもある。

私は、しかし、オバマ大統領への過度な期待もオバマ大統領のアメリカを絶望視するのも間違いではないかと考えています。畢竟、現代の福祉国家における大衆民主主義下の政治において(行政権の肥大と裏腹に)政治指導者がその個性や資質や哲学に基づき独自性を発揮しうる余地は極小化しているというパラドキシカルな現象が一般的に観察されるからであり、それは強大な大統領権限が憲法によって与えられているフランスやアメリカにおいても例外ではないからです。蓋し、日高氏が不安視する(1)財政と経済の破綻、(2)ハードパワー(軍事的プレゼンス)の縮小は(日高氏も認められる通り)「オバマ大統領」の属性ではなく「2009年ー2013年のアメリカ」の属性であり、(a)緊急避難的な財政出動と「実需要をともなわない投機的な金融商品の開発とその取引を規制する金融ルールの再構築」、(b)軍事的にも政治的にも他国の面倒を見る余裕のない状況下でのアメリカ外交の再編という対処指針の大枠は誰が大統領であっても民主共和のどちらが政権を取ったとしても不変であろうと私は考えています。

では、政治指導者の「顔」は政治的に無意味か? もちろん、それも正しくない認識でしょう。国民と世界に対して自分が実現しようと欲する具体的な政策ビジョンと明確な理念を繰り返し訴えることで、僅かとは言え残されたフリーハンドの余地を最大限に効果的に利用して現実を一歩でも半歩でも変革改善すること。それが大衆民主主義における保守政治の神髄であり、実際、新古典派総合(要は、ケインズ派)の財政緩和の中で行き詰まった福祉国家におけるスタグフレーションの閉塞を打ち破ったものは、サッチャー首相・レーガン大統領・小泉純一郎首相というそのような練達の保守政治家の継続的な努力であったと私は考えるからです。畢竟、総論から各論の時代にアメリカも世界も突入したのではないか。ならば、練達の政治家は現実改革の理念とビジョンのみならず政治を機能させるスキルを持たなければならないのではないか。

敷衍すれば、グリーバリゼーションの深化の中での社会主義の崩壊、そして、グローバリゼーションの一層の昂進の中での「世界の唯一の超大国アメリカ」の普通の大国への大政奉還。この課程の中で世界の政治はイデオロギーがせめぎあう総論の時代からスキルの練度が問われる各論の時代に移行しつつあるのかもしれない。他方、一国レヴェルの政治は「経済成長を前提にできる牧歌的な時代」から「環境との共生をにらんだ伝統的価値と地方の再生が不可避な定常型社会」への移行にともない<イデオロギー=国と社会の形>がそれを具現する政治スキルとともに問われる重層的課題の時代、言わば「両正面作戦」が不可避な時代に入ったのかもしれません。そう私は考えています。

では、オバマ大統領にそのような哲学と資質、イデオロギーとスキルが備わっているか否か。正直、それは現在においては不明としか言いようがない。けれども、リアリズムに立った政権運営のスキルの有無はアメリカ国民のみならず日本を含む世界が新しいアメリカ大統領に関して注目すべきポイントであろう。而して、このような問題意識から参考になる記事を目にしましたので以下紹介します。出典は、Washington Postに投稿されたMax Stier 氏の"Obama Signals Shift in Governing Philosophy," January 26, 2009「オバマ大統領、政府統治指針の変更を示唆」です。



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"The question we ask today is not whether government is too big or too small, but whether it works."

With this declaration from his inaugural address last week, President Barack Obama laid out a new governing philosophy, elevating the importance of basic government operations to rival political ideology and policy development. Although this shift may seem innocuous to some, it is potentially radical and could eventually make this line the defining passage of the president's historic speech and a hallmark of his administration.

To appreciate the significance of this statement, one needs to understand two things: the nature of government's operational challenges and Obama's actions that add considerable weight to these words.

The American people are looking to the new administration to rejuvenate our economy, resolve the conflicts in Iraq and Afghanistan, revitalize our schools and repair our environment. On each count, even if Obama gets the policy right, the public's expectations will only be met if these policies are well executed. Without dramatic improvements in the way government does its work, they won't be.

There are some fundamental reasons why our federal government's operational health has been allowed to steadily deteriorate. It's hard to change what you don't measure, and our government operates in an environment with very few meaningful and useful measurements for performance. Perhaps more significantly, it is run by short-term political leadership that has little incentive to focus on long-term issues.


「我々が今日問うている問題は、政府が大きすぎるか小さすぎるかなどではなく、政府が機能しているかどうかである」

先週の【2009年1月20日の】就任演説の中のこの宣言をもってバラク・オバマ大統領はそれにより政府を運営する新しい統治指針を提示した。すなわち、政府の基本的な機能を重視して、政治イデオロギーや政策立案にはあまり重きを置かないという姿勢を明らかにしたのだ。この政府運営の指針転換はそう大した影響はないように見えるかもしれない。けれども、この指針転換は潜在的には抜本的な方針転換であり、歴史的な大統領就任演説をこの線で解釈するべきガイドラインであり、而して、オバマ政権が本格的な改革派政権であることの証左となるものだ。

この宣言が帯びる意味の重大さを認識するためには二つのことを理解することが必要である。一つは、政府の機能が変化するということ自体の理解であり、他の一つは、これらの言葉に極めて重要な意味を付加するオバマ氏の行動の理解である。

アメリカ国民は 新政権がアメリカの経済を回復させ、イラクとアフガニスタンにおける紛争を解決すること、アメリカの教育を再活性化、そして、アメリカにおける環境破壊を治癒すること期待している。これらの諸論点に関して、オバマ大統領が正しい政策を選択したとしても、それら選択された政策がきちんと実行された場合にのみ大衆の期待に応えたことになるだろう。つまり、これらの諸論点において政府が問題を解決する方法において劇的な改善なしには政策は実行されたことにはならないだろう。

アメリカ連邦政府の作用の健全性が今まで悪化するがままになってきたについては幾つかの根本的な理由がある。測定されない事柄を変革することは誰に取っても困難であり、その活動に対して意味があり使い勝手のよい測定基準がほとんど存在しない状況でアメリカ連邦政府は活動してきたのだ。蓋し、もっと率直に言えば、アメリカ連邦政府は長期的に取り組むべき課題に焦点を当てる動機をほとんど持っていない短期間の政治的指導力によって運営されてきたのである。




A typical presidential appointee stays in government for roughly two years and is rewarded for crisis management and scoring policy wins. These individuals are highly unlikely to spend significant energy on management issues, when the benefits of such an investment won't be seen until after they are long gone.

To be clear, previous administrations have launched serious efforts to improve government operations, leading to limited, but not insignificant, improvements. But Obama's approach appears to be significantly different. He is not just saying we need to improve government operations. He's saying we need to put this issue front and center. We need to commit as much energy to policy execution as we do to policy development. This interpretation is based not on wishful thinking, but on the president's actions.

Start with the transition. Despite criticism that it was presumptuous, the Obama team heeded the advice of experts and began planning the transition to power months in advance of the election. The result: it was able to fill key White House posts and identify Cabinet nominees faster than any administration in history.


大統領に任命される政府スタッフは通常は約2年間そのポストに留まり、指名された対価として危機管理に従事し政策的な成功を収めることに邁進する。而して、彼等がそのポストを離れるまで投資のご利益がほとんど見られない以上、これらの大統領に任命されたスタッフ諸個人が経営管理的な事柄にかなりのエネルギーを割くなどということはほとんどありそうにないことである。

白黒はっきり言えば、これまでの政権も政府機能を向上させるために極めて真剣に努力してきものの、限られた、しかも、大して意味のない成果を出すにとどまってきた。しかし、オバマ大統領のアプローチはこれらとは根本的に異なるように見える。オバマ大統領は、単に政府の機能を向上させる必要があると述べているのではない。彼はこの論点を中心的で主要な争点にする必要があると述べているのだ。我々は今まで政策立案に割いてきたのと同じ熱意と労力を政策の遂行に注ぐ必要がある。この言葉の解釈は希望的観測に基づくものではなくオバマ大統領の行動から導き出されたものである。

政権の移行期から話しを始めよう。僭越との批判にかかわらず、オバマ氏のチームは専門家の助言に留意しながら、大統領選挙に先立つ数ヵ月前から政権移行の計画を立て始めた。而して、その結果、歴代のどの政権よりも早くホワイトハウスの枢要なポストを埋め、また、政権の閣僚候補を絞り込むことができたのである。



Look at the people the president appointed and their confirmation hearings. Time and again, they were willing to get into the weeds and talk about the importance of management issues to agency success.

Hillary Clinton described the State Department's career employees as "unsung heroes," adding that "they need and deserve the resources, training and support to succeed."

Office of Management and Budget Director Peter Orszag said, "We need to make government work better and smarter; [that] means restoring the prestige and building the capability of the federal workforce."・・・


大統領が指名した人士と彼等の指名を承認する公聴会を想起していただきたい。何度も繰り返し、彼等、指名された候補者は難局に喜んで立ち向かう意思を表明して、而して、彼等が任せられる官庁の成功のためには経営管理的な諸問題が重要であることを自ら進んで述べたではないか。

ヒラリー・クリントン女史は国務省のキャリア職員を評して「縁の下の力持ち的な英雄」と述べた。「彼等は成功するための研修と支援を必要としており、また、それらに値する人々である」とも。

大統領府行政管理予算局のピーター・オルスザグ局長は、「我々【オバマ政権の幹部スタッフ】は政府をより良くかつより洗練された形で動くようにしなければならない。而して、このことは連邦政府の職員の声望を回復させ彼等の職務遂行能力を構築することを意味する」と語った。(中略)



Less than 24 hours after being sworn in, President Obama issued his first two Executive Orders, both of which focused on government operations. One will make government more open and transparent, helping to improve public trust in government. The other raises the ethical and professional standards for those who will serve in his administration, assuring the public that those who work on their behalf will be highly qualified and committed to public service, not their private enrichment.

On day two, he traveled to Foggy Bottom to speak to career employees at the State Department, a powerful acknowledgment of perhaps the most fundamental tenet of effective federal organizations: good government starts with good people.・・・

Barack Obama didn't campaign the past two years to pass legislation. He did it to achieve a set of ambitious goals. That requires not only approving policies, but implementing them. All indications are that our new president understands the importance of government operations. But making government work won't be quick. It won't be easy. But it must be done. Nothing less than the president's pledge to bring real change to America is at stake.


大統領就任の宣誓から24時間以内に、オバマ大統領は彼にとって最初の二本となる大統領令を発行した。而して、それらは両方とも政府の運営に焦点を当てたものだった。すなわち、その一つは政府をより開かれた透明性の高いものにする大統領令であり、政府に対する公衆の信頼を増進することを助けることになろう。他の大統領令は、彼の政権を担うスタッフの倫理的と専門的な行動基準を高い水準に設定するもの。それにより、彼等のために働く職員が上司たる彼等のためではなく公的な職務に邁進できることを国民に対して保障するものである。

就任二日目、オバマ大統領は【国務省のある】フォギー・ボトムに足を延ばして国務省のキャリア職員に話しかけた。それは、効率的な連邦政府組織に関するおそらく最も基本的な考えを述べた力強い表明だった。すなわち、政権の上首尾な始動は士気の高い有能な人々にかかっている、と。(中略)

バラク・オバマ大統領は過去2年間立法活動に指導力を発揮することはなかった。その代わり、彼はより野心的な目的を達成することに注力してきた。而して、それは政策評価のみならず政策の実現をも要求するものだ。蓋し、あらゆる徴候を鑑みるに、我々の新しい大統領は政府機能の重要性を理解している。もちろん、政府を機能させるためには時間が必要であろうし、それは容易なことでもあるまい。けれども、それは必ずや成し遂げられるに違いない。アメリカに真の変化をもたらすという大統領の誓いは何ものにも妨げられるはずはないからである。



(2009年2月9日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : オバマ大統領・政権
ジャンル : 政治・経済

akaitsuki


「難民申請、過去最高の1600人!」という報道を目にしました。ミャンマー国内の政情の不安定化にともない日本に逃れる「難民申請者」が激増したとのこと。その大部分は所謂「条約難民」(=政治難民)とは言えなかったものの1975年~1990年の間、社会主義体制の抑圧と恐怖から逃れようと(華僑への民族的迫害を逃れようと)ベトナムから海を渡ってきたボートピープルのことが思い出されます。而して、難民申請者には人道的配慮からも政治的配慮からも法令に従い適正に対処すべきでしょう。ソ連軍の戦車に追われ満州の大地を逃げ惑いその少なからずが命を失った我が同胞のことを思う時この感は一層深くなります。

蓋し、所謂「条約難民」の受入は日本も批准加盟している「難民の地位に関する条約・難民の地位に関する議定書」(以下「難民条約」と記します。)からも当然のこと。他方、難民であると移民であるとを問わず「異人が神州の土を踏むと日本が穢れる」などと捉える国粋馬鹿右翼的の観念論は少なくとも旧憲法・現行憲法を含む近代憲法秩序下では法律論としては成立しない。蛇足的に述べれば、畢竟、「異人が神州の土を踏むと日本が穢れる」等の心性は、記号論的-分析哲学的には「日本人」との相対的な諸々の関係主義的な差異の束でしかない「外国人」なるものを「実体」と捉え、かつ、超自然的な鬼神の作用を「外国人」に憑依させる「物神性」に絡めとられた心性であり、白黒はっきり言えば、「異人が神州の土を踏むと日本が穢れる」という心性は「外国人とセックスすれば自分も国際化する」と感じる心性と外国人に対する良否善悪の評価こそ180度異なるものの全く同じ「他力本願的(不)変身願望」に他ならない。

これに対して、「難民申請者の日本(への第三国)定住を原則認めよ」としか読めない主張を社説に掲載する全国紙も存在する。蓋し、そのような主張は国際法にも国際政治にも無知な「善意」か無頓着な「悪意」のどちらかであり、いずれにせよ、原則、「難民申請者に対して国を開け」なる主張は主権国家の社会統合基盤を流動化せしめようとする「反日的-反社会的」な主張である。そう私は考えます。以下、報道と社説の引用。

●難民申請、過去最高の1600人=ミャンマー情勢悪化で-法務省
法務省入国管理局は30日、2008年の難民認定申請者数は前年比約2倍の1599人で、認定制度が始まった1982年以降最高となったと発表した。申請者の国別内訳は、ミャンマー979人、トルコ156人、スリランカ90人など。入管は急増の理由について、大規模デモが武力弾圧された07年秋以降の「ミャンマー情勢の悪化が一因」と説明。不認定への異議申し立てに関する外部有識者の審査制度が05年に創設され、認定されやすいとの印象を与えたことも影響しているとみられる。【時事通信:2009年1月30日】


●難民受け入れ―もっと門戸を開けよう 
難民の受け入れに消極的だといわれてきた日本が、変わるべき時に来ている。

帰国のめどがないまま海外の難民キャンプで暮らしている人たちを受け入れる第三国定住に、日本も今年から取り組むことになった。タイにいるミャンマー(ビルマ)難民を対象に、今春から準備を進めて、2010年度から受け入れを始める方針だ。

まずは3年間の「試行」という位置づけだが、日本社会の門戸を開く一歩である。ぜひ定着させたい。国連も「アジアで初めてで、日本は地域のモデルになる」と歓迎している。

迫害を逃れて祖国を後にした難民は、世界で1150万人。そのうち約600万人が、5年以上も避難生活を送っている。生まれてから鉄条網の中しか知らない子供たちも増えている。キャンプ生活の長期化が、難民の生活に悪影響を及ぼすのは明らかだ。

だが海外の難民に対して、門戸を開いている国は少ない。他国に滞留している難民を引き取る第三国定住を実施している国は、欧米諸国など十数カ国に限られていた。日本もその仲間に加わることになる。

受け入れる難民は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が推薦リストを作り、日本政府の担当者がキャンプで面接して決める。

ただし受け入れ数は年に30人、3年間で計90人にすぎない。慎重な審査は当然だが、あまりに少ないのではないか。定住者たちが孤立しないためには、仲間同士で助け合えるコミュニティーを形成できる人数が望ましい。

異なる文化で育ってきた人たちを迎えるには、きめ細かい対応が必要だ。受け入れの成否は、地域社会の協力がカギをにぎる。日本語の習得、就職先の確保、子供の就学など、自治体、企業、学校が一体となって態勢をつくる必要がある。経済が厳しい時期だが、温かい配慮を示してほしい。

日本は81年に難民条約に加入したが、難民と認めたのは07年までに451人にすぎない。認定の厳しさから「難民鎖国」という批判も浴びた。

だがこの数年、日本での難民申請者が急増しており、昨年は約1500人に達した。認定数も増えつつあり、条約上の難民とは認められなくても、人道的配慮から在留が認められる例も出ている。

日本がベトナム戦争後に受け入れたインドシナ諸国(ベトナム、カンボジア、ラオス)の難民からは、医師や実業家などとして活躍している人たちも出ている。亡命先の米国で活躍したアインシュタイン博士のように、難民は貴重な人材になりうるのだ。

海外の難民も、新たな隣人として迎えよう。開かれた日本社会に向けて、小さな一歩を大きく育てていきたい。【朝日新聞社説:2009年1月6日】



言ってみればこれは「地球市民なるものの実体化→主権国家の相対化」を訴える十年一日の如き朝日新聞の社説の一つでしょう。けれども、私はこの社説に言うに言えない不愉快さを感じました。なぜそう私は感じたのか。

蓋し、その不愉快さの源はそれが主張の根拠を欠落させているからではないか。要は、「難民をもっと受入れよう」というこの社説は朝日新聞の願望を記しただけの文字列にすぎない。而して、根拠を伴わない主張は説得力が乏しい反面、誰もそれを反駁することはできない。畢竟、この1月6日付け朝日新聞社説「難民受け入れ―もっと門戸を開けよう」は最初から一切の反論を論理的に封じた上でなされた(しかも、全国紙の社説としての一定程度の影響力を見込んでなされた、柔道で言えば試合終了間際の)「掛け逃げ」的の政治的プロパガンダである。これがこの社説の不愉快さの原因だと思います。実は珍しく社説の全文を引用したのですが、それはこの経緯を保守改革派の皆さんと共有するためには全文引用が必要と考えたからなのです。閑話休題。


難民問題は広い意味の「外国人管理」のイシューではありますが(実際、難民を含むすべての外国人の日本への出入国と滞在の資格と手続を定める現行の「出入国管理及び難民認定法」は、1981年の所謂「難民条約・難民議定書」への日本の加入に伴い1982年1月1日から出入国管理令に難民認定関連手続に関する条項が追加されるまでは法令名も「出入国管理令」だったのですから、法規の面からも「難民問題」が「外国人管理問題」の一斑であることは自明でしょう)、難民問題は他の移民・帰化・国際結婚・商用&観光&研修目的での滞在等々とは異なる特殊性を帯びていることもまた事実です。

難民問題の特殊性とは何か。それは、(1)その対処施策は難民条約という国際法の規定に拘束されること、(2)適切妥当な人道的配慮を拒めない事例であること、(3)国際政治における関係各国の国益や利害と地続きの事例であることだと私は考えています。

逆に言えば、本国に帰れば政治的迫害を受ける蓋然性の高い所謂「条約難民」以外の「経済難民」はもとより、「条約難民」に関しても朝日新聞の言うようなアプリオリに(第三国たる日本での定住を認めるという意味で)「難民に国を開く」義務など国際法上はどの加盟国にもない。まして、(人道的配慮は別にして)生活の保障を行なう義務も受入国にはない。蓋し、所謂「ノン・ルフマン原則」(難民を迫害の迫っている国に追放・送還してはならないというルール)等々の規定が(1)「難民条約という国際法の規定に拘束される対処施策」のαでありωなのです。而して、このことは朝日新聞の社説自体も「だが海外の難民に対して、門戸を開いている国は少ない。他国に滞留している難民を引き取る第三国定住を実施している国は、欧米諸国など十数カ国に限られていた」と認めるしかなかったことからも明らかでしょう。

支那によるチベットや東トルキスタンにおける人権侵害批判を想起するまでもなく、(2)適切妥当な人道的配慮は、最早、綺麗ごとの領域ではなくその国の国際政治における発言権と、他方、国内統治における権力の正当性を左右しかねないマターである。この認識は主権国家を「唯我独尊-独立自存-自給自足が可能」な存在と考える国粋馬鹿右翼的な主権国家論者には不愉快な認識かもしれませんが、あるルールが事実として機能する国際政治の磁場において、主権国家は「国内においては最高の国際的には独立の主権」を持っていると捉えるウェストファリアー条約を契機とする通説的な主権国家論からは特に異論を挿むほどの特異な認識ではありません。大切なことは、何をもって「適切妥当な人道的配慮」であるかどかを決めるものは独り(条約難民を称する者を難民に認定して国際法上難民条約加盟国に課された責務を果たそうとする)当該の主権国家自体であるということです。

畢竟、日本は難民問題を巡っては難民条約に従い粛々と義務を果たせばよく(そして、これが最も重要なことですが、ここで言われる「受入」の意味も難民条約に規定された意味でしかないのです)、ならば、難民条約が規定する「難民処遇」ではない「政治的難民の第三国定住」やまして「経済難民」に対しては、日本がそれをどの程度受入れるか否かは100%日本政府の政策判断で決めるべきことになります。ことほど左様に、難民条約を越える範囲の難民に対する難民条約を越える範囲の処遇を与えることの是非は、個々の難民事案毎に(母国での政治的影響力=将来日本の手駒としてどれほど利用価値があるかどうか等々の具体的な観点から)(3)「国際政治における日本の国益や将来の利害打算」から判断すべき事柄なのです。

難民問題は人道と正義の問題であるだけでなくそれは政治と経済の問題でもある。ならば、「難民をもっと受入れよう」という朝日新聞の社説は「難民を受入れて開かれた国になろう」→「開かれた国になるために難民を受入れよう」という循環論法の戯言にすぎない。而して、日本がなぜ「開かれた国」なるものにならなければならないのか、「開かれた国」なるものになる日本にとってのメリットとデメリットは何なのか、外国人の流入は日本の社会統合を劣化せしめる怖れはないのか。これらを看過した上でするプロパガンダは国際政治において無益であるだけでなく有害である。畢竟、難民の受入れもまた国際戦略の手段であり、日本の国益増進のために日本はその手段をmake the best use of すべきである。そう私は考えています。尚、外国人問題に関する私の基本的な考えについては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいと思います。


・アーカイブ☆外国人がいっぱい
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-198.html



(2009年2月1日:yahoo版にアップロード)

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