altteacher


・すべての個人や団体のすべての活動は政治性を帯びる
・公務員が一市民として政治にコミットする権利は最大限尊重されるべきだ
・公務員労組を排除する国家意志の形成は歪である
・公務員労組の歪な政治的影響力は排除されるべきである
・公務員労組と公務員の権利は無関係ではないが位相を異にする


上の二つの思考実験は、「公務員労組を排除してする国家意志の形成は歪である」ことと「公務員労組の歪な政治的影響力は排除されるべきである」ことが(トレードオフとまでは言えないけれども)アンビバレントな関係にあることを示唆していると思います。畢竟、公務員と公務員労組の政治的権利の制限を巡る憲法訴訟論において、妥当な審査基準と合憲判断基準が那辺にあるかは、正に、紛争当事者である各プレーヤー各々の人数や利用ニーズ、そして、影響力の占拠の度合という現実具体的な<ボリューム>からしか帰納できない類の事柄であろうと思います。

最後の「公務員労組と公務員の権利は無関係ではないが位相を異にする」ことは、それらに自然人と法人の違いがあるだけでなく、公務員労組が極めて大きな社会的影響力を保持していることから演繹できるのではないでしょうか。

企業の政治活動の権利を認めた八幡製鉄所政治献金事件最高裁大法廷判決(1970年6月24日)、そして、労働組合の政治活動の権利を一定限度で認めた諸判決、例えば、沢の町モータープール事件最高裁判決(1962年5月24日);三井美唄労組事件最高裁大法廷判決(1968年12月4日);中里鉱業所事件最高裁判決(1969年5月2日);国労広島地本事件最高裁判決(1975年11月28日)を勘案すれば、蓋し、

労組が政治活動を行うことは、企業等々の私的な団体一般に認められているのと同様、必ずしも禁止されるわけではないが、さりとて、労組の政治活動を専ら目的とした活動は憲法が保障する「労働組合」の正当な活動の範囲外の事柄である
    

とする立場に判例はあると言えると思います。更に、同一の構成要件に該当する犯罪事実を惹起したとしても(特に、累犯の場合)組織犯罪を常套する団体(例えば、任侠系団体や神農系団体)の構成員と一般の実行行為者では求刑にも宣告刑にもあからさまな差があること。これと同様、(公務員労組の影響力の過半は、公的な資金とインフラによって可能になっていることを鑑みるならば)公務員労組の政治的影響力によって政治が歪められることを防止することは現行憲法上も可能であるだけでなく、むしろ、国民主権の原則を採用する現行憲法の要請でさえある。と、そう私は考えます。


puroshimindazo99



■憲法における公務員と公務員労組の政治活動の内容
アメリカ連邦最高裁は、2010年1月21日、「企業・団体等が政治広告に資金を支出することを制限した政治資金規制法」を政治的表現の自由を不当に制限するものだとして違憲判決を下しました。ご存知のように、アメリカでは、原則、企業等自体からの政治献金は禁止されていますが、企業等がその分離基金(Separate Segregated Fund:企業等が間接的に寄附を行うための組織)を通して政治献金をすることは許されています。これを形式的な「お芝居」のような方便と感じる向きもあるでしょうが、法的な筋を通すことと、「すべての個人や団体のすべての活動は政治性を帯びる」という実存的な現実とを両立する智恵ではないかと思います。

すなわち、

企業や労組が政治活動にコミットする方途を確保する一方で、企業や労組がその本分(存在理由)を政治にコミットすることで喪失することのないように、また、企業や労組の影響力によって政治が歪められることがないように、企業・労組の活動と政治活動に一線を引かしめて、かつ、「企業・労組⇔政治セクター」の人・物・金の出入りを可視化すること
    

これが、健全な保守主義が根づくアメリカの智恵なのだと私は考えています。而して、これが「公務員と公務員労組の政治活動の範囲」に関する現行憲法の内容を抽出する導きの糸になるの、鴨。

ならば、繰り返しになりますが、私は「公務員と公務員労組の政治活動の範囲」に関する現行憲法の規範内容を希求するとき、問題は両面性を持っていると考えるのです。

すなわち、

(甲)公務員と公務員労組の政治活動の必然性と不可避性
行政権(というか行政サービス部面)が肥大化した現在の福祉国家の大衆民主主義体制下では、誰のどんな行為も<政治性>を帯びる、他方、地方・国・第三セクターを併せて労働人口の公務員比率が優に10%を超える(また、一般・特別・財投を合わせればGDP比の公的支出が50%近い)日本で、公務員の政治活動を認めないということは抽象的な「国民概念=非公務員概念」で現実には1-2割の国民の政治参加を縛るに等しい。

(乙)公務員労組の影響力制限の必要性と不可欠性
組織犯罪が個人の犯罪とは別枠で処理されているのと同様、極めて巨大な公務員労組に、政治的活動のフリーハンドを与えてよいのか。それは、逆に、「国民の政治活動の自由」を錦の御旗にして、実は、かなり特殊な利害単位が政治を歪めることにならないか。しかも、その団体の影響力が公的サービスに付随する物である以上、そこには線引きがなされなければならない。
    


birahaifu


蓋し、今回の赤旗配布事件で、1974年の猿払事件最高裁大法廷判決を踏襲して「行政の中立性確保のため、公務員の政治的行為の禁止が合理的で必要やむを得ない限度内で憲法上許される」「被告は特定政党を積極支援し、政治的中立性を著しく損ねた」として有罪を言い渡した一審判決も、他方、(繰り返しになりますが)「表現の自由は民主主義国家の政治的基盤を根元から支えるもので、公務員の政治的中立性を損なう恐れのある政治的行為を禁止することは、範囲や方法が合理的で必要やむを得ない程度にとどまる限り、憲法が許容する。規制目的は国民の信頼確保で、判断で最も重要なのは国民の法意識であり、時代や政治、社会の変動によって変容する。・・・ただし集団的、組織的な場合は別論である」と判示した今次の東京高裁の判決も、その結論は異にしつつも、同じく上記(甲)(乙)を見据えた判断と言えると思います。

ならば、郵便局に勤める全逓組合員が社会党(当時)候補の選挙運動を行った行為が国家公務員法違反に当たるとして有罪判決を言い渡した1974年の猿払事件最高裁大法廷判決以降、最高裁・下級審を問わず、公務員の政治活動を巡ってはこの猿払事件判決における判断が踏襲されてきたこと。

更に、産経新聞が指摘する通り、国家公務員法・人事院規則の法の趣旨が「公務員の地位や職種」に関わらず一律の規制を妥当とするものである以上(尚、地方公務員法や教育公務員法においては、「地方公務員≒自治労組合員」や「地方の公立学校教師≒日教組・全教組合員」の違法な政治活動に対する罰則規定はないにしても、それらの違法行為に対しては石原東京都知事が綱紀粛正の範を示された如く(北教組を除けばほぼ)行政処分が科されているのだから)、正に、産経新聞社説が述べている「今回の判決が公務員全体の職場規律などに与える影響が懸念される。上告審での適正な判断を待ちたい」という主張も根拠がないわけではないのです。

実際、「公務員の地位や職種」に着目した多様な規制が法技術的には「言うは易く行なうは難い」類の事柄であることを鑑みれば(再々になりますが、公務員の政治活動が無制限に認められて良いはずもない以上)、他方、労使双方にとって(何をどれくらい激しく政治活動を行なえば違法とされるかが予め社会的に認識されている状態としての)「法的安定性=予見可能性」の確保という法価値が、満更、現実の「学校経営=労働運動圏」においても枝葉抹消のものなどではないだろうこと。否、理想と現実が常にせめぎ合う現場でこそ法的安定性はかなり大事な価値であることを前提にすれば、赤旗配布事件の(もちろん、憲法理論としては高裁判決が優れていることは大方の同意を得られるにせよ)第一審と高裁のいずれが憲法訴訟に対する<具体的ソリューション>としては中庸を得たものであるかは微妙である。と、そう私は考えています。


mazerunakiken


而して、これらを前提にすれば、(その影響力が公的インフラと法的権限に起因する)公務員労組の活動は政党に対する資金提供と政策提言にほぼ限定されるべきであり、まして、公務員たる組合員を統制して、その職場に政治活動を持ち込ませることは原則禁止されるべきだ。畢竟、公務員労組はその政治参加は厳しく制限されるべきである。蓋し、労働組合は労働運動にその本分がある。しかし、このことは公務員が個人の資格で勤務時間外に(off duty)、職務遂行中の政治的中立性を「一般市民=非公務員」から疑われない限度で政治にコミットする権利が保障されるべきこととは位相を異にしている。

ならば、公務員労組の政治活動を制限する立法に対する憲法訴訟は、社会的規制と同様、審査基準において合憲性の推定を受けるタイプの事例であり、その合憲性判断基準もまた、国民主権の原則を鑑みるならば、明白性の原則(合理性の基準)が適用されてしかるべきだ。と、そう私は考えています。

蓋し、かなり悩ましいケースではあるけれど、(α)公務員の政治活動の規制の是非が問われた赤旗配布事件に関しては一審被告人の無罪が、そして、(β)公務員労組の政治活動の規制の是非が問われるであろう小林代議士に絡んだ北教組違法献金事件に関しては、それを厳罰に処する判断が、おそらく、現行憲法の規範意味に適うものではなかろうか。と、私はそう考えます。


ladyjustice



■参考記事
●憲法訴訟
・外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(壱)~(九)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58930300.html

・護憲派による自殺点☆愛敬浩二『改憲問題』(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/34986878.html  


●憲法総論-憲法の概念
・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59308240.html

・憲法無効論の頑冥不霊と無用の用(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58998947.html

・憲法と常識(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58258370.html


●憲法総論-憲法の価値
・三権分立と国民主権★民主党による「政治主導」は
 民主主義の帰結か、それとも、民主主義と憲法の破壊か?(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58913235.html

・戦後民主主義的国家論の打破
 ☆国民国家と民族国家の二項対立的図式を嗤う(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/36117902.html





(2010年3月30日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★



スポンサーサイト

テーマ : 裁判
ジャンル : 政治・経済




■公務員の政治活動の制限と憲法訴訟
現行憲法15条2項は「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と定めており、また、かっては、所謂「特別権力関係論」(公務員・在監者等、一般国民とは異なり、国家権力との間で特殊な「命令-服従」の関係にある者は憲法上の権利の享受・行使が制限されてもやむを得ないとする議論)から、当然、公務員はその政治活動の権利が制限されるという憲法解釈論が存在していました。けれども、現在、「全体の奉仕者」や「特別権力関係」の6文字からアプリオリに、かつ、オートマティカルに、①すべての公務員の、②すべての政治活動の自由を、③一律に制限することは憲法上は認められないという立場が通説であろうと思います。例えば、芦部信喜『憲法第四版』(岩波書店・2007年3月)はこう述べています。

公務員の人権については、国家公務員の政治的自由の制限(国家公務員法102条、人人規則14-7)と、公務員等の労働基本権の制限(国家公務員法98条2項、地方公務員法37条、特定独立行政法人等の労働関係に関する法律17条【逆に、1954年の改正に際して、その違法な政治活動に対する罰則規定が原案から削除された教育公務員特例法】)がとくに問題となる。公務員の人権制限の根拠は、初期の判例においては、公共の福祉および「全体の奉仕者」(憲法15条2項)という抽象的な観念に求められていた。その背後には、特別権力関係論の考え方があった。(pp.104-105)

しかし、人権制限の究極の根拠は、憲法が公務員関係という特別の法律関係の存在とその自律性を憲法秩序の構成要素として認めていること(15条・73条4号)に求められなければならない。(p.263)

つまり、政党政治の下では、行政の中立性が保たれてはじめて公務員関係の自律性が確保され、行政の継続性・安定性が維持されるので、そのために一定の政治活動を制限することも許されるのである。しかし、公務員も一般の勤労者であり市民であるから、政治活動の自由に対する制限は、行政の中立性という目的を達成するために必要最小限度にとどまらなければならないと解するのが妥当である。そういう立場をとれば、公務員の地位、職務の内容・性質等の相違その他諸般の事情(勤務時間の内外、国の施設の利用の有無、政治活動の種類・性質・態様など)を考慮したうえで、具体的・個別的に審査することが求められよう。

そのための審査基準としては、公務員が公権力(国ないし地方公共団体)と特別な法律関係にある者であることも考えあわせると、「より制限的でない他の選びうる手段」の基準が適切であろう。現行法上の制限は、すべての公務員の政治活動を一律全面に禁止し(その点で表現の内容規制である)、しかも刑事罰を科している点で、違憲の疑いがあるが、判例は、全農林警職法事件判決【以降、これらをすべて合憲と解している】(p.266)
    

畢竟、現在の憲法訴訟論における憲法上の権利の制限は、(a)可能な限りそれをミニマムにすべく、(b)制限される自由の種類と性質に着目してこれを類型化し、かつ、(c)権利制限の根拠の合理性を、権利制限の手法に着目してこれまた合理的に類型化する、重層的な類型化の思索を基盤としています(★)。

ならば、それ自体を切り取る時、その業務が公権力の行使・運用とは必ずしも言えない現業的職務や単なる事務処理的な業務に専ら携わっている公務員と高級官僚を同一視すること、または、教師が勤務時間中、あまつさえ、卒業式や入学式で日の丸・君が代に反対するとか、あるいは、「竹島は韓国の領土だ」などと日本国政府の立場と異なる見解を子供たち教えるなどいう破廉恥な行いと、同じ、教師が公休日に「北方領土返還デモ」や「拉致問題糾弾市民集会」に参加することを同一視することは現下の憲法訴訟論からは支持されないのではないか。

蓋し、芦部さんが述べておられる通り、判例が公務員の政治的自由に関して、現行法規の広範囲、かつ、一律の制限を合憲としている現状においても憲法訴訟論からはそう言えると思います(要は、判例もこの同じ憲法訴訟論を前提に、異なる事実認定と法益の異なる比較考量から通説とは正反対の結論を導いているということです)。

★註:憲法訴訟による権利の保障と制限
現在の憲法訴訟論の地平からは(一応、二重の基準論を前提にした上で)精神的自由の制限か、経済的自由の制限か、経済的自由の制限とすればそれは(食品や住居等の安心安全を図るための)社会的規制かそれとも狭義の経済規制か、更に、後者とすればそれは(所有権や経済活動の自由を制限する)消極的な経済規制か、それとも、ケインズ政策の断行、社会経済の円滑な運営や福祉国家の実現のための積極的経済規制であるかに従い、権利が国家により保障される度合には差があるものと考えられています。理念的に言えば、規制を行なう国家にとって違憲判決を喰らい易い順、すなわち、権利制限のための敷居が高い順(高→低)に並べれば次の通り、

↓表現内容に着目した精神的自由の制限
↓表現内容には無関係な精神的自由の制限
↓消極的経済規制
↓積極的経済規制
↓社会的規制

而して、憲法が「権利制限を制限する度合」は、具体的には、(イ)憲法訴訟の審査基準:どの程度の厳格さで人権侵害を審査するか(および、この裏面としての「権利を制約する法規に合憲性が推定されるかどうか」あるいは「違憲を立証する責任は誰に帰属するか」)、そして、(ロ)憲法訴訟の具体的な合憲性判断基準:何が満たされれば違憲とされるか(例えば、「より制限的でない他の選びうる手段」の基準等々)の二つの軸の交点に求められるのです。
    



unionmen7



■憲法における公務員と公務員労組の政治活動の本性
私は、赤旗配布事件はともかくとして、今般の小林代議士の違法献金事件に醜悪にも露呈した、日教組・全教の政治活動に対しては日頃から不信を抱いている者です。その私が「公務員の政治活動を制限することは現行憲法から見ても慎重を要する」と、なぜ、縷々述べてきたのか。

それは、繰り返しになりますが、現在は、「公共の福祉」や「特別権力関係」、あるいは、「全体の奉仕者」等々のBig Wordsを「水戸黄門の印籠」よろしく示せば事足りるなどという古き良き時代ではないこと。畢竟、憲法訴訟論の地平で、個々の権利の性質について具体的な論拠を繰り出すのでなければ「左翼-リベラル派」との議論では太刀打ちできない、と。そう考えているからです。

けれども、現在の判例たる、全農林警職法事件最高裁大法廷判決(1973年4月25日)や猿払事件最高裁大法廷判決(1974年11月6日)が、公務員の政治活動を無条件に認めているわけではないことからも明らかな如く、「公務員の政治活動を制限することは現行憲法から見ても慎重を要する」ということは、必ずしも、日教組教師が勤務時間中に「竹島は韓国の領土」であると子供達に教える権利を容認するものではないことは当然です。否、「現行憲法の解釈論からは公務員の政治活動を一律に制限することは許されない」という理路は、一方で、日教組教師の跳梁跋扈を封じつつ、他方では、例えば、安全保障政策を巡って、専門家でありその第一線にある自衛隊員諸氏が市民の立場からする政治的発言を憲法から正当化し得る側面もあるのです。

而して、私は、今般の北教組の破廉恥な違法献金事件が示唆している課題は、個人としての公務員に憲法が認めている政治活動の範囲の確定だけではなく、公務員労組の適正なる政治活動の範囲、あるいは、政治的影響力の度合の確定であると考えます。そして、後者を明らかにするためには、現行憲法における公務員と公務員労組の政治活動の本性を措定しなければならず、また、その考察が前提にすべきは次の5個ではないか。と、そう私は考えています。

・すべての個人や団体のすべての活動は政治性を帯びる
・公務員が一市民として政治にコミットする権利は最大限尊重されるべきだ
・公務員労組を排除する国家意志の形成は歪である
・公務員労組の歪な政治的影響力は排除されるべきである
・公務員労組と公務員の権利は無関係ではないが位相を異にする


例えば、それが私的行為であれ皇族の行為は強い政治的影響力を帯びざるを得ないように、まして、国家の権限と責務が社会の広範囲に及ぶ、所謂「行政権の肥大化」を伴った現下の大衆民主主義下の福祉国家では、どの労組であれ企業であれのどのような活動も政治に影響を及ぼさないことはない。ならば、公務員とその労組の政治活動につき憲法的に「許される/許されない」の線引きの基準として<政治性=政治的影響の有無と強弱>にはあまり多くを期待できないでしょう。

また、「公務員が一市民として政治にコミットする権利は最大限尊重されるべき」ことは、前項で引用した芦部さんの主張を反芻するまでもなく自明のこと。蓋し、彼や彼女が、()勤務時間外に、()政治政党の正式メンバーとしてではなく、かつ、イベントや配布物の主宰者や文責者側としてではなく、()政治的意見を表明したりイベントに参加したりすることは自由である。と、そう私は考えています。而して、()に関しては、現在、裁判官・検察官・警察官等を除けば公務員も政党の党員になることは禁止されていませんが、それは、些か<過剰サービス>ではないかと私個人は思います。

「公務員労組を排除する国家意志の形成は歪である」とは、<国民>という「国民」は存在しないことから明らか。つまり、普通名詞や抽象名詞の<国民>などは、政治を抽象的に考究する学的思索の中にしか存在せず、この世に実存するものは固有名詞の「国民」であり、企業経営者や公務員や民間企業の被雇用者である具体的な諸個人でしかない。何を私は言いたいのか。それは、地方・国・第三セクター併せて労働人口の公務員比率が優に10%を超える(また、一般・特別・財投を合わせればGDP比の公的支出が50%近い)現在の日本で、公務員の政治活動を認めないということは、現実には、1-2割の国民の政治参加を拒絶するに等しい暴挙でしかないということです。二つの思考実験で敷衍します。


なんらかの集会のために公園を利用したいという申請を「一般の利用者を排除する」ことを理由に当局が拒絶するケースを想起してみてください。それは、公務員の政治活動を「抽象的な国民概念=非公務員概念」を理由に拒絶することとパラレルではないでしょうか。常日頃、その時間帯には40人足らずの親子連れしか利用していない公園を、「一般の利用者の排除」を名目に例えば、400人の市民が集会に使用することを禁止するのは不条理を超えて滑稽でさえあるでしょう。

しかし、「公園=公共財」の利用というこの同じ思考実験から、別の不条理もイメージすることができるかもしれません。すなわち、常日頃、100人の固定メンバーがあたかも自分達のグループ専用の公園のようにその公共財を占有しているケースです。この場合、確かにその日その日の「一般の利用者」は40人足らずにせよ、その背後には潜在的に4000人からの利用希望者が控えているとしたら、前のケースとは逆に、その100人の固定メンバーは、公共財のフリーライダーであるだけでなく不法占拠者と呼べるのではないでしょうか。
   


<続く>







(2010年3月30日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : 裁判
ジャンル : 政治・経済




東京高裁は、2010年3月29日、所謂「赤旗配布事件」の控訴審で一審の有罪判決を覆し逆転無罪を言い渡しました。本件は、平成2003年10月~11月、(当時)社会保険庁職員が東京都中央区のマンションなど130世帯に共産党機関紙「しんぶん赤旗」を配ったとして、国家公務員法違反に問われた事例。而して、判決翌日の3月30日、朝日新聞・毎日新聞・産経新聞の三紙が社説でこの高裁判決を取り上げたことからも推察できる通り、本高裁判決は下級審の判決ながらかなり重要な司法判断ではないかと思います。

東京高裁の法廷意見曰く、「表現の自由は民主主義国家の政治的基盤を根元から支えるもので、公務員の政治的中立性を損なう恐れのある政治的行為を禁止することは、範囲や方法が合理的で必要やむを得ない程度にとどまる限り、憲法が許容する。規制目的は国民の信頼確保で、判断で最も重要なのは国民の法意識であり、時代や政治、社会の変動によって変容する」「ただし集団的、組織的な場合は別論である」「本件配布行為に罰則規定を適用することは、国家公務員の政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度を超えた制約を加え、処罰の対象とするものと言わざるを得ないから、憲法違反との判断を免れない」、と。

本稿ではこの高裁判決を導師として「公務員労組と公務員の政治活動が孕む現行憲法の規範意味の構図」について考察したものです。尚、憲法の概念と憲法訴訟を巡る私の基本的な理解については本稿末尾の参考記事を参照いただければ嬉しいと思います。

本東京高裁判決を社説で取り上げた三紙は賛否が分かれていました。すなわち、朝日・毎日が「時代に沿う当然の判断」「おおむね妥当な判決」と評価している一方、産経は「判決が公務員全体の職場規律などに与える影響が懸念される。上告審での適正な判断を待ちたい」と否定的(笑)。

いずれにせよ、民主党の小林千代美衆議院議員に対して、北海道教職員組合(北教組)から多額の違法な資金が流れていたとされる事件が世間を騒がせている現在。畢竟、公務員の政治活動は許されるものなのか、まして、公務員労組が(正に、その公務員労組の中核たる自治労と日教組は現下の民主党政権の有力な「支持団体-圧力団体」なのですけれども)国の政治に容喙し多大な影響力を持つことが許されるのか等々、少なからずの有権者・国民がこれらのことに疑問に感じている現在、本高裁判決は、賛否を問わず、また、法律論と政治論を問わず、「公務員と公務員労組の政治活動」につき熱い議論を捲き起こす契機になることはほとんど必定だと思います。本稿はこのような認識に立って「赤旗配布事件」や「北教組違法献金」等の個別の問題を超えるより一般的な地平でこのイシューを俎上に載せようとするものです。まずは本高裁判決の概要。出典は3月29日付共同通信配信記事です。


●赤旗配布で逆転無罪判決要旨-東京高裁

【概要】
表現の自由は民主主義国家の政治的基盤を根元から支えるもので、公務員の政治的中立性を損なう恐れのある政治的行為を禁止することは、範囲や方法が合理的で必要やむを得ない程度にとどまる限り、憲法が許容する。規制目的は国民の信頼確保で、判断で最も重要なのは国民の法意識であり、時代や政治、社会の変動によって変容する。

罰則規定を合憲とした「猿払事件」に対する最高裁大法廷判決当時は国際的に冷戦下にあり、国民も戦前からの意識を引きずり、「官」を「民」より上にとらえていたが、その後大きく変わった。国民は事態を冷静に受け止め、影響については少なくとも公務員の地位や職務権限と結び付けて考えると思われる。勤務時間外の政治的行為の禁止についても、滅私奉公的な勤務が求められていた時代とは異なり、現代では職務とは無関係という評価につながる。

ただし集団的、組織的な場合は別論である。

【具体的検討】
本件は地方出先機関の社会保険事務所に勤務する厚生労働事務官で、職務内容、職務権限は利用者からの年金相談のデータに基づき回答するという裁量の余地のないもので、休日に職場を離れた自宅周辺で公務員であることを明らかにせず、無言で、郵便受けに政党の機関紙などを配布したにとどまる。

被告の行為を目撃した国民がいたとしても、国家公務員による政治的行為だと認識する可能性はなかった。発行や編集などに比べ、政治的偏向が明らかに認められるものではなく、配布行為が集団的に行われた形跡もなく、被告人単独の判断による単発行為だった。

このような配布行為を、罰則規定の合憲性を基礎付ける前提となる保護法益との関係でみると、国民は被告の地位や職務権限、単発行為性を冷静に受け止めると考えられるから、行政の中立的運営、それに対する国民の信頼という保護法益が損なわれる抽象的危険性を肯定することは常識的にみて困難だ。行為後、被告が公務員だったことを知っても、国民が行政全体の中立性に疑問を抱くとは考え難い。

本件配布行為に罰則規定を適用することは、国家公務員の政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度を超えた制約を加え、処罰の対象とするものと言わざるを得ないから、憲法違反との判断を免れず、被告は無罪だ。

【付言】
わが国における国家公務員に対する政治的行為の禁止は一部とはいえ、過度に広範に過ぎる部分があり、憲法上問題がある。地方公務員法との整合性にも問題があるほか、禁止されていない政治的行為に規制目的を阻害する可能性が高いと考えられるものがあるなど、政治的行為の禁止は、法体系全体から見た場合、さまざまな矛盾がある。

時代の進展、経済的、社会的状況の変革の中で、国民の法意識も変容し、表現の自由、言論の自由の重要性に対する認識はより一層深まっており、公務員の政治的行為についても、組織的なものや、ほかの違反行為を伴うものを除けば、表現の自由の発現として、相当程度許容的になってきているように思われる。

また、さまざまな分野でグローバル化が進む中で、世界標準という視点からもあらためてこの問題は考えられるべきだろう。公務員制度の改革が論議され、他方、公務員に対する争議権付与の問題についても政治上の課題とされている中、公務員の政治的行為も、さまざまな視点から刑事罰の対象とすることの当否、範囲などを含め、再検討され、整理されるべき時代が到来しているように思われる。

(共同通信:2010/03/29 11:51)
    


これに対して、産経新聞社説は、おおよそ、次の4点を挙げて本高裁判決に疑問を呈しています。

・判例からの逸脱
東京高裁判決は猿払事件最高裁大法廷判決(1974年)を大きく踏み出している。同大法廷判決は、「衆院選で社会党(当時)の選挙ポスターを掲示、配布した郵便局員を有罪とした」ものであり、「国家公務員の政治活動について、その公務員の地位や職種、勤務時間であったか否かなどのいかんを問わず、幅広く禁止できるという判断を打ち出した」ものだ。【公務員の政治活動の禁止一般を違憲とするのならまだしも、公務員の政治活動の禁止が合憲になり得る点では、猿払事件最高裁大法廷判決を踏襲しながら、その禁止規定の適用の様態によって「違憲-合憲」が分かれるとするのは筋が通らないのではないか】

・状況の変化は必ずしも「合憲→違憲」の一方方向のものではない
高裁判決は「冷戦の終息などに伴って国民の法意識や公務に対する意識が変わり、公務員の政治的行為にも許容的になってきたとしている。だが、いまなお、日本の周辺は中国の軍拡や北朝鮮の核開発など新たな脅威も生まれている。最高裁判決のころと時代が変わったことは事実だが、高裁の判断は少し一面的ではないか。当時も今も、公務員に政治的中立性が求められる状況に変わりはない。最近も北海道教職員組合(北教組)の違法献金が発覚し、公務員の政治的行為に対する国民の目はますます厳しくなっている」。

・規制立法は職務内容や地位に基づく権利の異なる取り扱いを想定していない
「公務員は管理職であろうと一般職員であろうと、公のために奉仕する義務を負っている。地位や身分にかかわらず、政治活動を制限されるのが【国家公務員法・人事院規則の】法の趣旨である」。

・世界標準なるものの斟酌・忖度はあくまでも国益の観点からなされるべきだ
「高裁判決では「日本の国家公務員の政治的行為の禁止が諸外国より広範なものになっている」として、世界基準の視点などから再検討を求める異例の付言もした。その場合も、まず国益を踏まえることが重要だろう」。
   



ihousitting



結論から言えば、私は、本判決は、(α)「公務員の政治活動規制と基本的人権の均衡点」を求めたその理路の枠組みの点ではおおよそ妥当であろうと思います。加えて、本判決がその法廷意見の中で「ただし集団的、組織的な場合は別論である」と述べて、(β)「公務員労組の政治活動規制と基本的人権の均衡点」が(α)とは位相を異にすることを明示した点は高く評価します。

また、本判決が、(χ)いかにも「左翼=リベラル派」の言い分と思しき、公務員の政治活動を一律に規制する立法自体を違憲とする一審被告人側弁護士の主張を退けたこと、かつ、(ψ)違憲判決を出す上で抑制的な所謂「適用違憲判決」の手法(あるタイプの行動を規制する法規自体は違憲ではないが、現実の取締局面でのその法規の適用の仕方が違憲であるとする憲法判断の手法)を採用したことも中庸を得たものではないか。そして、(ω)憲法を含む法規範の規範意味が「社会状況の変化と国民の法意識」によって決定されると断じたことは、それこそ世界標準の「法哲学:法学方法論+法概念論」の通説を踏まえたものであり至極もっともと言うべきだと考えます。

よって、最高裁判所で原審としてこれから吟味されることになるだろう本判決の最終的な妥当性の有無は、おそらく、最高裁も否定しないであろう上述(α)の理路枠組み内部で、而して、産経新聞社説が提示した疑問点、就中、第2点と第4点、「状況の変化」と「世界標準なるもの」の斟酌・忖度において、その判断における「パラメータ」とも言うべき(また、「憲法の効力根拠=憲法の妥当性と実効性の基盤」でもある)現下のこの社会の<国民の法意識>が那辺にあるか、その事実判断の帰趨によって決せられるに違いない。と。そう私は予想しています。


<続く>





(2010年3月30日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : 裁判
ジャンル : 政治・経済




下記はブログ友のfukufukimama女史の記事転載です。
尚、転載記事下に原文と解題を収録しています。
以下、転載。



「バターン死の行進」(Bataan Death March)って、ご存知でしょうか。

ウィキペディアによりますと、
「第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍捕虜の死の行進。戦闘・病気での消耗と過酷な行軍に加えて、辻政信の扇動などにより虐待も行われ、約7千人から1万人の捕虜が死亡した。
フィリピンでは、バターン半島が陥落した4月9日を勇者の日 (Araw ng Kagitingan) として休日に定めている。
本事件は戦時中アメリカ本土で誇張して宣伝され、格好の反日プロパガンダとして利用された。」
だそうです。

普天間問題で米軍に興味が深まったわたくしですが、米軍の機関紙Stars & Stripesのサイトを見ておりましたら、
面白い記事がありました。

http://epaper.stripes.com/
「After 65 years, news service adjusts Bataan photo caption to match veteran’s memory」
「Bataan photo corrected」
By Adam Geller
AP

記事の概要は、ずっと「バターンの死の行進」の写真だとして米国が認識し(そして反日プロパガンダに活用されていたに違いない)ていた有名な写真が、実は亡くなった捕虜を埋葬するために運んでいる様子であり、死の行進中のものではなかったことが分かったというものです。それは、当時19歳だった、そして現在87歳になる、元米兵の指摘がきっかけだったそうです。誤った注釈を付けてこの写真を報道していたAP(The Associated Press)が、指摘を受けて半年かけて調査し、修正することを決めたとか。

この記事を読んで、いくつか、気が重くなったり再認識したりしたわたくしでした。

原爆も東京大空襲もとりあえず脇に置いておられるようではあるけれど、とにかく、米国は、米軍は、自分たちが払った犠牲という部分においては過去をずっとずっと大事に持っているということ。
(たとえば、自国民を大虐殺された東京大空襲を指揮した人間に、その後どのような事情があったとしてもです、最高レベルの叙勲をしたような行為とは、少なくとも大違いではないでしょうか)
そして、その裏返しともいえるのでしょうが、記録の正確性にはこだわり、客観的に正しいと思えば修正するという面。

英米人って基本的に傲慢で自己中で能天気だと思っているわたくしですが、しかし、
自分の国の先人たちの苦痛を決して忘れないこと、そしてそのためにこそ、正確な事実認識に少なくとも可能な範囲でまじめであること。
これって、我々にっぽん人、できているのだろうかと、改めて、思ったのでした。
(以上、転載終了)

転載元: なぜかロンドンそして東京
http://blogs.yahoo.co.jp/fukufukimama/59602446.html


batandeathmarch1.jpg


■記事原文抜粋
◎After 65 years, news service adjusts Bataan photo caption to match veteran’s memory
By Adam Geller, The Associated Press
Pacific edition, Monday, March 22, 2010

NEW YORK — For 68 years, John E. Love has been haunted by the memory of carrying fallen comrades to a mass grave hollowed out of a Filipino rice field. Now, at last, a bit of history is being rewritten because of those memories.

After six months of research, The Associated Press is correcting the caption on one of the most famous photos in its library, 65 years after the image first moved on the newswire. The image shows defeated Allied soldiers after their surrender to Japanese forces on the Philippines’ Bataan Peninsula in April 1942.

Over the years, the photo has become perhaps the most widely published image of what came to be known as the Bataan Death March.

But for many of those years, Love, a native of Albuquerque, N.M., who fought to defend Bataan as a 19-year-old Army corporal, saw captions paired with the photo that he believed did a disservice to the truth.・・・

A Journal reporter, Charles D. Brunt, found other local Bataan survivors who agreed, wrote a story about the conflicting information and contacted AP, the source of both the photo and the caption. That launched the cooperative’s own investigation of the photo, originally supplied to news services by the U.S. military after it was confiscated from defeated Japanese forces.

AP archivists contacted the Pentagon. Eventually, that led to the original photograph, on file in the National Archives in Washington, D.C. The catalog recorded it as a photo of U.S. prisoners using improvised litters to carry comrades. But a note filed along with the image, date unknown, said that, according to a retired U.S. Army colonel, the photo was not of the death march, but of the burial detail in the weeks that followed.・・・

After discussing the evidence, AP decided to correct the caption. It now reads, in part, “At the time of its release, this photo was identified as dead and wounded being carried by fellow prisoners during the Bataan Death March in April 1942 ... Subsequent information from military archivists, the National Archives and Records Administration, and surviving prisoners, strongly suggests that this photo may actually depict a burial detail at Camp O’Donnell.”



■転載記事解題
蓋し、①欧米、就中、英米の歴史観は中立的などではなく極めて傲岸不遜なものである。②けれども、彼等は、自己の正当性を「中華-周夷」の<イデオロギーとしての歴史>そのもので担保しようとする支那や韓国の中華思想とは異なり、<科学としての歴史学>の権威でもって自己の歴史観を補強しようとする。③もちろん、支那も英米もその歴史観は自国の正当性と自国民のプライドを提供するイデオロギーである点ではなんら変わらないが、イデオロギーの正当化の手法が異なる。

畢竟、④英米では自己の歴史観がトータルで否定されない限り、個々の歴史的事実の改訂や修正は厭わない(というか、それを行なうことがひいてはトータルな彼等の歴史観の正当化の補強につながるという点で、歓迎さえする)。例えばアメリカでは、ネーティブアメリカンの虐殺や抑圧、黒人奴隷制度への反省は<歓迎>されるが、米西戦争や中南米諸国への干渉、まして、東京大空襲や原爆が正式に<反省>されることはない。また、英米(西欧)全体を通して帝国主義時代のアジア・アフリカの植民地支配が(最早、「帝国主義的植民地支配など(儲からないから?)今後はやりません」という<反省>はともかく)<謝罪>されることもない。

而して、①~④を反芻するならば、繰り返しになりますが、英米は一見自国の不利に見えることでも大胆に認めることがあるという事実。これは、支那や韓国に比べて彼等がより「紳士淑女」であること(だけ?)を意味するのではなく、彼等の歴史観が中華主義のそれに比べて遥かに堅固であることの裏面なの、鴨。将棋でも玉の固い陣営は相手の攻撃に対してより寛容に振る舞えるのとこれは似ている、鴨。ここは日本も見習うべきポイントなの、鴨。と、そう私は考えています。

ならば、「英米が正確な事実認識に真面目なら、最早、不可能とさえ思われている「南京事件虚構の証明」をアメリカで持ち出せる可能性はあるのでしょうか」。と、もしこう問われたら私は次のように答えたいと思います。

それは十分に可能だと思います。しかし、そのための「難所」が3個ある、と。

蓋し、その「難所」とは、()英語で具体的かつ論理的に主張すること、()その主張が結果的に戦前の日本の正当化に与するとしても、その主張自体が直接戦前の日本擁護のイデオロギーの表出(だけ)とは感じさせないレトリックと主張の目的の設定がなされていること、()現在の英米を中核とする世界秩序とも、今後の多極化した世界秩序ともその主張が親和性のある主張であること。

いずれにせよ、相手の特定アジアがそうだらか(売り言葉に買い言葉的に)仕方のない側面はあったとはいえ、基本的に「南京」も「慰安婦」も、これら()~()を欠いた<内弁慶の遠吠え>でしかなかったのではないか。ならば、この半世紀のこちら側の営みは、最早、(根拠を添えて論理的にアピールされなかった事象は存在しないとされる)国際政治のスタンダード的には「不作為による追認」と受け取られても仕方がない側面さえある。畢竟、英語で論理でイデオロギーで、重層的に勝負しなければ「正義も真実も出し遅れの証文」にしかならない。それが現下の国際政治ではないか。と、そう私は考えています。尚、歴史と「ナショナリズム=イデオロギーとしての歴史観」を巡る私の基本的な認識については下記拙稿をご参照ください。


・政治と社会を考えるための用語集(Ⅳ) 歴史
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/1325177.html

・左翼にもわかる歴史学方法論☆沖縄「集団自決」を思索の縦糸にして
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/50035076.html

・歴史教科書の記述基準☆「集団自決」の記述再修正を求める
 沖縄県民集会が照射した日本の歴史教育を巡る問題点素描
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/49942866.html

・沖縄集団自決を巡る教科書記述問題を契機に
「歴史教育の再構築」という現下の日本の課題を再考する
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/49826923.html

・キムヨナを<物象化>する日韓の右翼による社会主義的言説
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59298740.html

・<中国>という現象☆中華主義とナショナリズム
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/53505603.html






(2010年3月29日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済




フィギュアスケート 2010年世界選手権が終わりました。その年のオリンピックの金メダリストが出場することは稀といっていい。まして、今シーズン限りでのプロ転向が既定路線と言われているキムヨナ姫にとっては「消化試合」でしかない世界選手権。しかし、ヨナ姫は、ある意味、フィギュアスケートファンの記憶に残る演技で(おそらくアマチュアとしては最後になるこの)世界選手権を戦い抜いた。芳紀19歳とはいえ、私はその精神力というか成熟した精神に感銘を受けました。

将棋好きの間では有名な勝負哲学というか人生哲学に「米長理論」というアイデアがあります。

米長理論とは何か

米長理論とは、日本将棋連盟の現会長、米長邦雄元名人が提唱したもので。勝負や人生においては、「自分にとって重要ではないが相手の棋士にとっては死活的に重要な一戦こそ全力で相手を打ち負かすべきである。もしそうしなければ、勝負や人生において最も重要な<運>を逃すことになる」というもの。例えば、こちらはこの一局に勝っても負けても昇級や降級になんら影響はないが、相手はこの一局に昇級や降級、あるいは、タイトル挑戦権がかかっているという一戦。まして、その相手が日頃からお世話になっている先輩という一戦こそ、長年捜し求めた親の仇に対峙するが如き気迫で臨まねばならない、と。

蓋し、私は「米長理論」は<運>という微妙な経緯を持ち出すまでもなく正しいと考えています。簡単な話。誰もが、その一局に自分の昇級や降級がかかっている戦いには、他人に言われるまでもなく全力を尽すでしょう。例えば、大相撲。前頭上位で千秋楽を待たずに10勝2敗の星を残した力士は、残り3番に全力を投入するに決まっている。星によっては来場所の三役入りも可能なのだから。

逆に、幕尻(最下位)で2勝10敗の力士にとっての残り3日はどうでしょうか。彼にとって残り3番全部勝っても全部負けても来場所の番付は十両の上位で動かない。そんな状況で残り3番に全力を出せるかどうか。あるいは、あるフランチャイザーのスーパーバイザーとして、あと数ヵ月でFC契約が切れ双方ともFC契約を更新する予定がない、まして、それほど重要ではないフランチャイジーから持ち込まれたエンドユーザーとのクレーム処理に本部スタッフとして全力投入できるかどうか。

ことほど左様に、米長理論を実践するということは、誰しも手を抜きたい局面で精進するということ。ならば、当然ながら、単なる経験値としてもそれをやらない普通の人と比べてここで「1回分」の差がつく(否、「行って来い」で「±1回分=2回分」の差がつく)。そして、経験値だけではなく、「どんな時にもベストを尽せる自分」というプライドと自信が獲得できる。このことを考えただけでも米長理論は美味しい勝負哲学であり人生哲学なのだ。と、そう私は考えています。
    
而して、彼女にとっては「顔見世興行=消化試合」にすぎないトリノでの世界選手権2010。キムヨナ姫は精彩を欠いたSPでの不出来の翌日。しかし、フリーで見事な追い上げを見せた。これこそ、米長理論の実践に他ならない。

米長理論を下敷きにこう考えるとき、バンクーバーオリンピックの際にキムヨナ姫の細い両肩にかかっていたプレッシャーの大きさをあらためて感じると同時に、キムヨナ姫には今回の「どうでもいい世界選手権=消化試合」を通して、更に、<運>が味方についたの、鴨。ならば、正に、キムヨナ姫こそ<神の愛する賢者>ではないか。と、そう私は考えています。以下、トリノの「消化試合」を報じたNew York Timesの記事紹介。出典は"Kim Rallies, But Asada Wins Worlds A 2nd Time"「キムの猛追をかわし浅田再度世界チャンピオンの座を手にする」(March 27, 2010)です。尚、キムヨナ姫と保守主義に関する私の基本的認識については本稿末尾の参考記事をご参照ください。







Mao Asada beat her longtime rival Kim Yu-na to win her second title at the World Figure Skating Championships on Saturday.

Their rivalry that had gone quiet recently as Kim, the Olympic champion, dominated the last two seasons, losing just one competition. That was to Asada.

And now, again.

“I didn’t think I would be sitting here,” Asada said, noting that she had had trouble all season with her triple axel. “I had to continue and challenge and push myself. And I guess that is what led to today’s results.”・・・

Asada, who also won the title in 2008, finished with 197.58 points, almost 7 more than South Korea’s Kim. ・・・


長年のライバルキムヨナ選手を破り、土曜日【2010年3月27日】浅田真央選手が自身2度目となる世界選手権優勝を決めた。

二人のライバル間の力関係は、オリンピック金メダリストのキムヨナ選手がここ2シーズンで優勝を逃したのが1回だけという状況の中で、キムヨナ優位の構図が破られることはなかった。もっとも、その優勝を逃した1回は浅田選手に敗れたものなのだけれども。

而して、今回、再度、キムヨナ選手は浅田選手に敗れたのだ。

「優勝できるとは思っていませんでした」と。浅田選手は、トリプルアクセルの出来不出来に悩まされ続けた今シーズンを振り返ってそう語ってくれた。「自分の信じた道を突き進むこと、その過程で遭遇する困難に挑むこと、そうやって自分の背中を押すしかなかった。そして、今日の優勝はそうやって積み重ねてきたことの結果なのだと思います」とも。(中略)

2008年にもこの大会で優勝した浅田選手は197.58点で演技を終了した。それは韓国のキムヨナ選手に7点強の差をつけるものだった。(中略)
    







Asada’s free program was the cleanest of the day — no falls, and just an under-rotated triple axel — but it was not the best. That belonged to Kim, who rebounded after an uncharacteristically bad showing in the short program left her in seventh place.

Despite two errors, Kim edged Asada on difficulty, landing an effortless triple-triple combination and a soaring triple flip that earned extra execution points. But the exhaustion from the Olympic season was clear as Kim fell on a triple salchow and popped her final double axel. She scored 130.49 points, 1 more than Asada in the free program but nearly 20 points behind her Olympic performance.

Still, it was enough to redeem herself after a disastrous short program, in which she had errors on such basic elements as a spin and a spiral.

“I am just really happy that I didn’t make a mistake like that in the Olympics,” Kim said. “This competition, I just wanted to enjoy it.”

The world championships after an Olympics are always tough even for the best skaters — and especially so for the champions, who are so in demand.


浅田選手のフリー演技はこの日の全選手の演技の中で最も欠点のないものだった。転倒もなく、唯一の減点はトリプルアクセルの回転不足を1回取られらだけの出来栄え。しかし、浅田選手のフリー演技はこの日の全選手の中で最高のものではなかった。フリー最高点はキムヨナ選手が記録したのだから。キムヨナ選手は、彼女にあるまじき不出来なショートプログラムの7位から猛追を見せたのだ。

而して、二つのミスを犯したにも関わらず、キムヨナ選手は浅田選手を演技の難易度において辛うじて退けた。すなわち、滑らかに舞い降りるトリプル-トリプルのコンビネーションと中空に舞い上がるかのようなトリプルフリップによって演技構成点を稼いだのである。しかし、トリプルサルコーと最後のダブルアクセルを失敗した時には、キムヨナ選手がオリンピックシーズンならではの疲労を抱えていることは誰の目も明らかだった。キムヨナ選手のフリーのスコア130.49点は浅田選手を1点強リードしたものの、それは彼女が自身オリンピックで記録したスコアから20点近く低いものだった。

しかし、そのフリーの演技やスコアは、基本的なエレメント(技)であるスピンやスパイラルでのミスを犯した、正に、魔が射したとか災難としか言いようがないショートプログラムの不出来から彼女が面目を施すには十分であった。

「オリンピックと同様、ミスをしないで滑ることができて本当に嬉しい」「この世界選手権を楽しみたいと思っていましたから」とキムヨナ選手は吐露してくれた。

毎回、オリンピック後の世界選手権は最優秀のスケート選手にとってさえも極めて難しい大会になる。而して、オリンピックの金メダリスト達にとってはなおさらだ。彼女達や彼等には勝って当然という高いレベルの期待がかけられることになるのだから。
  
  

■参考記事

●キムヨナ姫セルフマネージメント能力から学び取る教訓
・浅田真央は「ルール」を理解できなかった愚者か(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59281198.html

・浅田真央は「ルール」を理解できなかった愚者か-採点基準考(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59285142.html

●保守主義の意味と意義
・キムヨナを<物象化>する日韓の右翼による社会主義的言説
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59298740.html

・保守主義の再定義(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59162263.html

・保守主義とは何か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/56937831.html








(2010年3月28日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : このままで、いいのか日本
ジャンル : 政治・経済

asotaro3

憲法9条教や憲法無効論という左右の社会主義と通底する、「政治」や「権力」というものへの万能感を基盤とした民主党政権。その「政治」や「権力」の万能感から<自民党的政治>、否、<既存の政治>自体に対する批判と軽蔑を流布することで成立した民主党政権。而して、その民主党政権のこの半年の迷走自体が、①グローバル化の昂進著しいこの時代の、②行政領域が肥大化した福祉国家における、③大衆民主主義下の政治を担う政権、そんな政権がフリーハンドでできる政策領域は(旧自民党政権や欧米諸国の政権を見るまでもなく)<既成の政治>の枠組みの中での微修正的なものをそう大きくは超えるものではないことを明確に示していると思います。

パラドキシカルならが、しかし、現下の、①グローバル化の時代の、②福祉国家における、③大衆民主主義下の政権の持つ(かって、19世紀後半までは常備軍さえ満足に制度化していなかった英米を持ち出すまでもなく、夜警国家と比べた場合の)その<微修正>の内外への影響の甚大さもまた、例えば、国によっては、自国に残してきた子供一人当たりにつきその国の平均一人当たり年収を遥かに上回る金額を外国人に給付する「子供手当て」を想起すれば自明ではないでしょうか。ましていわんや、民主党政権がその成立を期す「外国人地方選挙権付与」や「夫婦別姓」においておや、です。


asosourigokurousama_20100328094859.jpg


畢竟、かってトーマス・マンが喝破した如く、やはり、「政治を軽蔑する国民には軽蔑に値する政治しか与えられない」のでしょう。而して、このような現実を直視するとき、私は一人の政治指導者の言葉を反芻せざるを得ない。その名は「麻生太郎」。蓋し、彼は単に「愛国=憂国」の士であっただけでなく、類稀な経済通であり、また、官僚機構を存分に運用できる練達の政治指導者、そして、外交スキルにおいても当代随一の力量を持った人物である。と、そう私は評価しています。

畢竟、ハイデッガーの言葉「乏しき時代の詩人」の顰に倣えば、「英雄なき時代」「政治の華々しさ艶っぽさが行政の肥大化の中で埋没せざるを得ない時代」。歴史の比喩を使い敷衍すれば、21世紀初頭のこの社会が「源平の争乱から引き続く鎌倉時代でもなく戦国乱世から元和偃武に至る時代でもない、そんな華やかさとは程遠い室町時代にも喩えられるべき英雄なき時代」であればこそ、英雄なき時代の英雄を僭称した民主党政権とは異なり、英雄なき時代の国家権力の役割の限界性と、他方、英雄なき時代であればこその国家権力の役割の死活的な重要さを熟知する<叡智>を、私は「麻生総理」に感じるのです。

けれども、政治は結果責任。「麻生総理」が2008年世界金融危機の対処という時代の優先課題に殉じたのと同時に、「麻生総理」が(戦後のこの社会に安定と繁栄をもたらした成功体験の「呪縛=しがらみ」の中で、制度疲労に陥っていた)「自民党的政治」の象徴として政権交代を許したことも否定できない事実。

ならば、我々、()政治や権力に多くを期待しない自己責任の原則に価値を置く、()人間の本質的有限性を自覚するがゆえに歴史と伝統、家族と地域に価値を置く、()非教条主義と価値相対主義を旨とする社会改革の漸進的前進の態度としての、(英米の社会思想における)言葉の正確な意味での保守主義に立つ者は、「麻生総理」の言葉をこそ反芻して、かつ、「麻生総理」の言葉を移しかえる<新しい皮袋>を求めるに如かずではないか。而して、現下の情勢で「麻生太郎」の後継として我々が顕揚すべきは「稲田朋美」「小池百合子」「櫻井よしこ」「丸川珠代」「阿部俊子」等々の諸氏なの、鴨。と、そう私は考えています。
    


■麻生太郎の日本の言葉 (^_^)/



■参考記事
・<改訂版>自民党解体は<自民党>再生の道
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59365402.html

・麻生内閣メールマガ最終号
 ☆捲土重来、麻生総理を平成の足利尊氏公に!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58624863.html

・日本を考える<夏>はまだ終らない
 ☆総選挙海外報道-Washington Post総括記事(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58629804.html

・日本を考える<夏>はまだ終らない
 ☆総選挙海外報道-New York Times 総括記事(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58633148.html

・日本を考える<夏>はまだ終らない
 ☆総選挙海外報道-Financial Times 総括記事(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58636731.html






(2010年3月28日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : 自民党
ジャンル : 政治・経済

takaujikou

3月末の各社世論調査の結果によれば、民主党政権の支持率は30%を切る水準まで低下してきているそうです。ただ、自民党はその<民主党離反層>の受け皿になりえていないとも。蓋し、民主党のジリ貧に期待しているばかりでは自民党の政権奪還は難しいのではないか。畢竟、かっての自民党がそうであったように民主党は「負けそうで負けない」の、鴨。ならば、ここはずばり、党首交代、而して、経済政策の明確化、これしかないと思います。本稿はこの視座からする自民党再生のための「状況分析=私的試論」です。

昨年の総選挙、自民党の主要な敗因は「麻生降ろしの跳梁跋扈=組織の呈をなしていない自民党」の見苦しさにあった。そう批判してきた弊ブログがなぜ総裁退陣を求めるのか。本稿は、この点を導きの糸にして、自民党再生の道、否、「自民党解体→自民党再構築」の道筋と私が考える理路を俎上に載せるものです。而して、本稿の要旨は以下の通り、


◎民主低迷の中で受け皿足り得ない自民党
民主党の支持率低迷に関わらず、有権者には、まだ、「自民党政権下の日本だけには戻りたくない」という意識が強固。これは、民主党が綺麗に経済を壊滅させたことが誰の目にもわかる来年の今頃までは続くと考えるべきだ。ならば、本来、過半の有権者が「政権交代」を渇望した事態を鑑みれば(昨年の総選挙と今回の参議院選挙はワンセットであり)今回の参議院選挙で自民党に勝の目はなかった。

而して、それが、民主党の政策実現におけるあまりのパフォーマンスの低さとセルフマネージメント能力の低さ、そして、「労組依存-党内独裁制」に顕著な、古い自民党よりも一層古い、正に、55年体制の亡霊の如きその体質の露呈によって、参議院選挙でも自民党に勝の目が出てきた。

畢竟、この民主党低迷の事態は、舛添氏や与謝野氏にとって意外に早く「次の総理」の目が出てきたことを意味すの、鴨。而して、この局面を目にした途端、またもや内部での足の引っ張り合いの露呈・・・。新党も辞さないと言いながら竜頭蛇尾に終わった与謝野氏等々。もっと、素直に「俺が次の総理になりたいから総裁を代われ」とでも言えば可愛げもあろうというものなのに。と、まー、この間のプチ騒動の中で、自分のことしか考えない自意識過剰&自己中の鳩山弟氏が離党してくれたのはラッキーだったけれど(笑)

蓋し、ことほど左様に、民主党を参議院選挙で打倒するためには、自民党は「確かに変わった」と有権者の誰もが感じるアクションが不可欠。例えば、総裁を女性の若手にする。而して、お飾りではなく彼女を盛り立てながら、我が国の最大の懸案事項たる経済政策を既存のしがらみに縛られることなく明確に打ち出すこと。この線しか勝利の道はないのではないか。


以下、敷衍します。


■自民党敗北の構図
繰り返しになりますが、そもそも、なぜ、自民党は下野せざるを得なかったか。そして、民主党政権発足から既に半年、それが数多の不祥事と幾多の拙劣さを露呈しているというのに、なぜ、自民党の支持率は低空飛行状態なのか。この点につき私はこう考えています。


なぜに、自民党の支持率は低空飛行を余儀なくされているのでしょうか。畢竟、それは、自民党の支持率が一向に芳しくない理由、つまり、三年前の<7・29>の参議院選挙と昨年の<8・30>の総選挙で有権者が自民党的政治の何に不満を感じて、「もう、自民党政権が継続するのだけは勘弁!」とばかりに、不安てんこ盛りの民主党政権を選んだのかが全く総括されていないからだと思います。

蓋し、自民党の支持率低迷の根幹は「筋の通った経済政策」の不在にある蓋し、<7・29>と<8・30>の敗北の理由は論者によって様々でしょう。而して、それが検証不可能である限り、「自民党はなぜ負けたか」の問いは解答が見出せないタイプの問いかもしれません。よって、以下に述べることはあくまでも「仮説」にすぎないのですが、私は、その理由と原因を(経済情勢の悪化は別にして)次の3点に集約すると考えています。

①構造改革の断行と地方再生の同時実現のビジョンを明確に示せなかったこと
②安倍政権以降、かっての守旧派勢力の蘇生と横行を許したこと
③麻生降ろしに象徴的な「組織の呈をなしていない」状態を露呈させたこと
    
すなわち、保守層有権者にとっても政治にまず第一に期待することは経済政策であり、小泉構造改革の後、どのような産業構造を具現していくのかを安倍・福田の両政権は国民に示すことができず、他方、それを「構造改革の断行と地方再生の同時実現」として示した麻生政権は、しかし、その目的地に至る具体的なマイルストーンを国民に告知する前に(「政党の呈をなしていない民主党」よりも遥かに下劣な)「組織の呈をなしていない自民党」というイメージを有権者に与えてしまったことがその敗因である、と。

この私の仮説は、対北朝鮮強硬策は当然のこと、例えば、首相の靖国神社参拝にせよ、南京・慰安婦・強制連行という反日プロパガンダの打破にせよ、あるいは、夫婦別姓や外国人地方選挙権への反対にせよ、これらどちらかと言えばイデオロギー的なイシューについて自民党の本来の主張を支持する「保守派」が<7・29>と<8・30>から現在に至るまで一貫して(自民党議員と保守系民主党議員の得た得票数から算定する限り)有権者の過半を占めているのに関わらず、そして、再度述べますが民主党政権発足以来、細かく数えれば2ダースを上回る<敵失>にも関わらず、自民党の支持率もまた低迷していることを鑑みれば満更荒唐無稽な仮説ではないのではないか。と、そう私は考えています。

而して、もちろん、対北朝鮮政策、首相の靖国神社参拝、南京・慰安婦・強制連行、そして、夫婦別姓や外国人地方選挙権は大変重要なイシューであることは間違いないけれど、それは「必須科目=経済政策」で及第点を取って初めて、政党の評価項目になるのではないか。而して、私のこのような認識からは言葉は勇ましい「保守への回帰」や「民主党の金と政治の不透明さの徹底追及」などいう現下の自民党の主張はアドバルーンとしても愚劣である。なぜならば、それは自民党に期待しているコアおよびポテンシャルの支持者にとっては、(経済政策の路線対立を巡って党内抗争の勃発や党分裂を恐れるためか、世間の耳目を集めはするが)国民が政党を評価する際の必須科目への正面からの取り組みを「回避-先送り」した姑息に他ならないから。と、そう保守層は受け取るのではないかと私は考えます。
    


換言すれば、私は自民党再生の道筋(否、自民党などは潰れてもかまわない! よって、正確には「保守政党再生」の道筋)は以下の3点に集約されると考えています。

構造改革と地方再生の同時実現のビジョンとマイルストーンの提示
労組・官僚を結節軸とした守旧派勢力との決別
納期を明らかにした上での路線論争と保守政治家再結集の同時遂行


失われた10年と揶揄されながらも、急激な社会変動を避けてソフトランディングした日本のやり方は、その当否は別にして一つの智恵だったのかもしれません。けれど、いよいよそのやり方の限界が誰の目にも明らかになり、よって、急激な社会変革を妨げてきた「政官財+労組」の<戦後権門体制>の解体が希求された。

これが、小泉政権発足以来、基本的には現在まで続いているこの社会経済を取り巻く基本的な構図だと思います。そして、民主党政権は自民党政権に比べて遥かに非力であり拙劣。ならば、「自民党政権=保守政権」への政権再交代は4-5年のスパンで見れば歴史的必然でさえある。蓋し、その時まで日本が存在していればの話ですけれども。


inadachan



■自民党再生の道筋
大衆民主主義下の福祉国家における政治とは、マックス・ウェーバーが喝破した如く、「理想の旗を常に掲げながら、現実を一歩でも理想に近づけるために行なわれる妥協と説得の積み重ねの中で多数派を形成していく営みに他ならない」と思います。ならば、かって、左翼がそれで衰退したような「排除の論理」は最後の手段でしょう。

蓋し、連合赤軍事件や「中核vs革マル」の抗争劇を見ても、組織の純化は手のひらサイズの政治を効率化するためには有効かもしれないけれど、少なくとも、グローバル化の昂進の中、社会の構成メンバーが多様な価値観を背負い相互に交錯する利害を帯びる主権国家規模の政治に関しては「排除の論理=最後の手段」ということです。

よって、朝日新聞的な独善と教条を排し、差別排外主義を拒絶するメンバー間でなされる路線討議の中で党の方針を定め、一人でも多くの保守の政治家を「小異を捨てて大同につく」ように促すべきだと思います。そして、安全保障政策、拉致問題、首相の靖国神社参拝、南京・慰安婦・強制連行、そして、夫婦別姓や外国人地方選挙権の諸問題についてことごとく鋭い党内対立を抱える民主党に比べれば自民党が分裂しなければならない理由は乏しいかもしれない。

では、こう考える私がなぜ総裁交代を要求するのか。それは、「麻生降しと違い、谷垣降しが野に下った自民党内の出来事」だからか。否、です。逆でしょう。「政権=求心力」が作用する政権与党においてよりも野党においての方が「小異を捨てて大同に就く」必要性は大きいと言えるでしょうから。その理由は以下の3個です。

①路線論争を避け党の基本政策の集約を「回避-先送り」する総裁に存在理由はない
②民主党政権の「穴だらけの政策/危険な政策」に対して、国民運動を組織しようとしない自民党総裁はその使命を果たしていない
③自民党の再生、すなわち、「自民党解体=自民党の再構築」は清新な執行部しかなしえない  


この半年でこれらのことがはっきりしたこと。すなわち、民主党のあまりの拙劣さを見てでしょうか、党内抗争を恐れてでしょうか、党の基本政策の集約を先送りして「敵失による棚ボタ式の政権再交代」を狙うような、汗をかくことを厭う政治家は野党の指導者たる資格はない。また、守旧派勢力との決別のためには、しがらみにとらわれていない清新な人材の登用が不可欠。すなわち、私は一貫して次のことを主張しているのです。

基本政策を集約できない政党は組織ではない
自民党は組織の呈を取り戻せ


蓋し、組織の呈を欠いたまま惰性に流されている自民党が再生するためには、組織の呈を取り戻す上での「障害=谷垣総裁」は取り除かれなければならない。而して、路線論争を有権者国民に可視化する上で、それが有効であるならば「自民党の解党→保守政党の再構築」という手順も十分合理的な選択肢でありうる。つまり、「組織の呈をなしていないこと」を、<7・29>と<8・30>の自民党敗北の原因と考える私は、この同じ認識に立って「谷垣退陣」を支持するのです。


tamayochan.jpg



■「自民党」の解体は<自民党>再生の一里塚
民主党の<8・30>総選挙における地滑り的な勝利の基底には、しかし、もう一つの原因があったのではないか。そう私は考えています。而して、それは、(1)国民が自民党的政治に閉塞感を覚えていただけではなく、(2)民主党が撒き散らしてきた「政治や権力の万能感」を前提とした、政治自体に対する過剰な期待と、現下の自民党政治に対する軽蔑が蔓延していたのではないかということ。

けれども、グローバル化が進む福祉国家においては、逆に、政権のフリーハンドの余地、すなわち、権力や政治に新しくできることは極めて限られている。このことは、この半年間、民主党政権自体が日々国民に教育してくれている。ならば、自民党が政権奪還できるかどうかの成否は、自民党が古い自民党から決別できるかどうかにかかっている。と、そう私は考えています。

而して、サッチャー体制の保守党政権下で、英国労働党はブレアを育てて、満を持して政権を奪取、長期政権につなげた。他方、正直、政府を運営し、国家を経営するスキルの点では、2010年3月の今の今であれば能力的には「麻生太郎」という選択肢しか日本にはないようにも思う。

しかし、歴史のダイナミズムの中で「麻生総理=最後の15代将軍」が再登板するのは難しいだろう。まして、健康問題を理由に退陣した、また、経済政策の統一的ビジョンも示せなかった「安倍晋三」カードは全有権者を想定した場合金輪際あり得ない。そうなれば、自民党は、新しい党首を全党を上げて育てるしかないの、鴨。選挙目当てのお飾りとしてではなく、「次の宰相」として育て盛り立てるしかないの、鴨。と、そう私は考えています。

蓋し、鎌倉幕府が、それ自体歴史的必然である北条得宗体制の強化に起因する経済社会の閉塞感の中で、現在の民主党政権と酷似した、史上最低の「天皇-後醍醐」の新政に移行するも、僅か数年で「新しい皮袋=足利尊氏公」のもと日本が再建された故事。これこそ我々保守改革派がイメージすべき歴史の教訓ではないか。

新しい酒は新しい皮袋へ。ならば、ここは稲田朋美・小池百合子・櫻井よしこ、等々の新しい有為の人材を棟梁陣に据えて、それを丸川珠代・阿部俊子氏らが事務局として支える。この体制で反転攻勢をかけるべきのみ。そうでなければ、自民党は「馬糞の川流れ状態」で漸次消滅に向かい、他方、姑息な自民脱藩組の保守系新党は単なる「選挙互助会」と国民有権者から足元を見られるだけに終わるかもしれない。畢竟、党一丸となって自民党は自身を「解体→再構築」して新総裁を盛りたてるに如かず。と、そう私は考えています。






(2010年3月24日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★



テーマ : 自民党
ジャンル : 政治・経済




◆パワーの舞台裏
諸星大二郎は名手である。例えば、『西遊妖猿伝』『諸怪志異』という大作はもとより、『碁娘伝』『マッドメン』『暗黒神話』等々。どれも素晴らしい。どの作品を取ってもストーリー展開と人物設定に対する諸星さんのこだわり(舞台裏での工夫と行き届いた配慮)が感じられる。修行と取材がシッカリしている作品は読んでいて清々しい。ポスト構造主義が日本で流行した時期以降の(1980年代半ばから1995年のオーム真理教地下鉄サリン事件に至る時期以降でもある)、宗教やエスニック、エロスやバイオレンスを扱うマンガの底の薄さに辟易している向きにはお薦めである。

宗教は摩訶不思議なものでは多分ない。それは人間の日常と現存在に非常に近しいものだと私は思う。だからこそ宗教は人類史の最初からあったし今もその存在感を保っているのだろう。ならば、読者の異文化趣味を満たすためや日常性をぶち壊す契機としてだけ宗教やエロスやバイオレンスを導入しても作品は空虚である。

簡単な話だ。エロ本ばかり連続して10冊読めますか? 私なら2冊も嫌だね。AVばかり3本続けて見られますか? 私は贔屓の女優さんのものでも飛ばし飛ばしで1本見るのがやっとだよ(★)。何故か? それらの切り口は非日常的で新鮮であっても(そうでない駄作中の駄作も少なくない!)、作品世界で遊ぶために必要な肝心な何かが欠けているから。それが作者の修行と取材であり、あるいは異文化理解の前提条件とか個人と組織の軋みを解決する条件とかのしち面倒くさいことを読者に気にさせない作品構成の技と配慮である。つまり、舞台裏の苦労を読者に悟らせない作品の完成度である。

★AVとは何か? AVを通して日本の今を考える
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/235068.html

どんな聖人君子も性欲を持ち、どんな朝日新聞的な平和主義者も自分自身が暴力でやられそうな場面では暴力には暴力で対抗するだろう。だから、エロスやバイオレンスは、日常性の背後に隠れている人間性や人生の現実をえぐり出す有効な切り口ではある。それは間違いない。しかし、作品のパワーの度合いは、日常-非日常を通じて具体的な行動の指針を読者に与えるパフォーマンスにかかっているのではないか。よって、人間性や人生についての整合的な全体像を再構築できているかどうかが名作と駄作を分かつ。私はそう考えている。そして、この再構築には際物趣味や異文化趣味だけでは不足なのだ。それらは斬るかもしれないが刈り取りはしないだろうから。

際物趣味や異文化趣味だけの作品は言葉の素直な意味で「児戯」、子供の遊びに等しい。例えば、インド哲学やチベット密教の論理を(それらを理解したりそれらと格闘したりすることもなく、)作品の舞台装置として導入しても、それは一番上手く行った場合でも、自分の世界観や日本社会の日常の風景を相対化する役割しか果さない。それは単なるお話。右から左に消費されて終わる消費財的な情報にすぎない。蓋し、異文化趣味や際物趣味を<見事な作品世界>に昇華するものこそ作者の力量であり配慮である。諸星大二郎や西岸良平、森雅之、岡崎二郎、川原泉はその点で素晴らしい。


moroboshidai.jpg



◆パワーの構図
諸星大二郎さんの作品の特徴。それは、小林よしのりさんの作品と対比すればよくわかる。例えば、『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論2』。労作である。ここにも豊富な「修行と取材」があり「技と配慮」が行き届いている。蓋し、諸星大二郎・森雅之・岡崎二郎さん達が、<見事な作品世界>をマンガで表現しているとするならば、小林さんの作品は<マンガという言語>で情報と思想を伝達する上質な作品と評すべきか。作風(=スタイル)が違うのだ。そして、スタイルが違えば作品が持つパワーのあり方も異なってくるだろう。

小林作品のスタイルは、そう、『美味しいんぼ』の雁屋哲さんと同じではある。あるいは、『マンガ 日本の歴史』『マンガ 日本経済入門』の作者としての石ノ森章太郎さんと同じである。小林さんを雁屋さんと比べるのは両者に迷惑な話だろうし、戦後最高のマンガ家の一人で多様なスタイルを駆使する石ノ森さんと小林さんをスタイルの面で対比するのはあまり意味がない。しかし、とにかく私は『戦争論2』183頁の台詞には感心させられた。我が意を得たりの感を持った。ここまでマンガは主張を伝え切れるツールなのか、と感動した。それを引用しておく。

戦後 社会党 朝日新聞 
テレビを含むサヨクマスコミがやってきたことで
歴史的評価に耐えるものは何一つなかったことは明らかである  
 
日本の左翼は現実に社会主義国家をつくる覚悟もなく
日本の体制の中に甘えて無責任な夢想を吐き散らしてきた

彼等は日本の体制の中で安定した生活をむさぼりながら
日本の安全を脅かす言動だけを一貫して取り続けた

そして今でも
彼らは「正義」の旗を振り
国への帰属心を薄めるよう主張し
19世紀的な「国家主権論」は時代遅れだ
21世紀は国民国家の枠がなくなっていくと唱えている

彼らは日本だけに
国民国家なんか終わりだとそそのかすのだが
そのことを中国やロシアや アメリカに向かって説くことはない
日本人にだけ「国を守る」意識を捨ててしまえと説くのだ



◆パワーの確認
諸星さんや岡崎さんの見事なマンガに比べて、マンガのような考え方しかできない人々が現在の日本には存在する。否、跳梁跋扈している。平等妄想と民主主義幻想に自己の思考をからめ取られた、戦後民主主義を信奉する彼等は自己中心的で独善的であるだけでなく、極めて観念的である。逆に言えば、観念的だからこそ自己中心的で独善的に振舞えるのだろう。

例えば、朝日新聞の読者の中には、「戦争や報復は憎しみの連鎖しかもたらさない」と説き、「戦争や武力行使は一般市民の犠牲をもたらすから絶対に許されない」と考えておられる方がまだ投書欄を見る限り少なくないようだ。確かに戦争は万能や完全な国際紛争解決の手段ではないが、さりとて、戦争が国際紛争を解決する効果的で公共的な手段であることも否定できない事実だろう(だからこそ、国連憲章もあるタイプの戦争を正当な国際紛争解決の手段として規定している)。

ならば、憎しみの連鎖を断ち、一人の市民の犠牲も出さないことを現実の国際紛争解決のシステムに要求するというのは、論者が勝手に設定した条件にすぎない。それは、極めて観念的な条件設定であり、現実の国際政治とはとりあえず何の関係もない主観的なチェックポイントである。おそらく、SFマンガでもこんな非現実的な設定を採用しはしない。実際、諸星大二郎『栞と紙魚子』シリーズはその設定の奇抜さや奇妙さを突き抜けて人間と社会に関するリアルなイメージを与えていると思うけれど、戦後民主主義者の語る安全保障政策はどこまでも空虚である。正に、「マンガのような考え方しかできない人々」と私が評した所以である。彼等には川原泉『ブレーメン』や諸星さんの諸作品を読んで反省してもらいたいものだ。



◆パワーの源泉としての作品の世界観
諸星大二郎と森雅之。森さんは諸星さんと違い短編専門の作家である。では、両者の短編集;諸星大二郎『自選短編集Ⅰ 汝、神になれ鬼になれ』『自選短編集Ⅱ 彼方より』と森雅之『夜と薔薇』『水の夢』『惑星物語』『散歩しながらうたう唄』『追伸』;の違いは何か。蓋し、諸星さんが、あたかも人間のDNAに書き込まれているかのごとき<人類史の記憶や痕跡>をストーリーの基盤に据えてドラマを描き出すのに対して、森さんは同じ普遍性でも、人がその生涯で巡りあうだろう小さな小さな、しかし、確実に存在する感動を繰り返し描き出そうとする。その違いだと私は考えている。

換言すれば、森雅之さんが日常の風景を題材にしながら神から預かった言葉を伝える預言者であるとするならば、諸星大二郎はSFの世界や異空間を描き切ることで太古の地球から現在のホモサピエンスとしての自分/この豊葦原瑞穂国の末裔たる自分に流れ込む<運命>を提示する予言者ではないか。けれども、森さんも諸星さんも共に人間性に普遍的なものに確実に触れている。だから、森雅之の短編はいつも清々しい。だから、諸星大二郎の作品はいつも懐かしい。そして、両者の作品はいつも温かい。

マンガは総合芸術である。世の国語指導者の中には「挿絵入りの書物は想像力がその挿絵に捕われるから抽象的な思考を持続していく能力養成には好ましくない。え、マンガ? マンガなんか論外です」、とおっしゃる方が今でもおられる。また、日本人ビジネスマンがマンガを電車の車中等の公共の場所で恥ずかしげもなく読んでいるのを「子供っぽい奴ら」と軽蔑しているアメリカやヨーロッパのビジネスマンも少なくない。まあ、国語の先生や外国人のエリートさんの言われることもわからんではないけどね。でも、マンガは<芸術>ですよ。それでも地球は廻っている、んです。

挿絵が想像力の翼をしぼませ畳んでしまうことは事実だろう。また、大の大人が電車の中で夢中で読んでしまう名作が毎週毎週発刊されているとも思わない。だけど私は言いたい。世の国語の先生方。今時の子供はマンガさえ読まんですよ。もっぱら、携帯メールです。豪の者になると友人と交換した(ゆえに、自分の知り合いが一人も写っていないことも少なくない)プリクラを貼った手帳をパラパラ眺めることを<読書>とほざいています。ならば、想像力の翼が畳まれるとしても、思考を持続する訓練としては、寧ろ、マンガを推奨してもよいくらいではないでしょうか。そして、想像力の翼を使える大人が自分の好みでマンガを堪能することは彼女/彼の自由です。そのような大人の鑑賞に堪えうる名作を日本は沢山持っています、と。


after_zero_01.jpg



◆パワーの源泉としての作者の世界観
岡崎二郎の作品は素敵だ。『アフター0』『大平面の小さな罪』『国立博物館物語』『時の添乗員』どの作品も秀逸。私の岡崎さんへの唯一の不満は作品が少ないことである。

岡崎さんの作品は本格的なSFである。自然科学の知識レヴェルの高さは恐らく日本のマンガ家の中でトップクラスではないだろうか。『コブラ』の寺沢武一や『Dr.スランプ』の鳥山さんのSF(?)は、現在の科学水準からイメージできる風景を舞台に選んだScientific Taleではあるが現在の科学理論から導き出される人類史や宇宙論を背景にしたドラマではない。科学的な知識において同時代の他のマンガ家から頭一つ抜けているという点では岡崎二郎は手塚治虫以来の存在だと思う。

しかし、岡崎さんの本当の特性はその生死観である。私はそう思う。それは仏教的な輪廻転生的な生死観であり、西岸良平さんと通底する点かもしれない(もちろん、岡崎さんと西岸さんの作品の印象はだいぶん違うけれども)。「岡崎」というペンネームからか、私は岡崎さんが「智慧第一の法然坊」と言われた京都は岡崎に縁のある法然上人に似ていると思っている。法然上人は岡崎さんのような方だったんじゃないかな。勝手にそう想像している。で、対する、西岸良平さんは一遍上人かね。

煎じ詰めれば作品は人である。それにしても、岡崎二郎さんにせよ森雅之さんにせよ、私が好きな作家の作品はマイナーだ。ほとんどの作品が絶版/品切れだよ。大人の鑑賞に堪えうる名作を日本の出版界はもっと大事にしてほしい。そうでなければマンガのパワーは可能性で終わるよ。と、そう私は考えています。






(2010年3月22日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★



http://blogranking.fc2.com/tb.php/214389

テーマ : 教育問題
ジャンル : 政治・経済




私はマンガが好きだ。奥様の寛子ちゃんもマンガが大好きだ。つまり、我が家はみんなマンガ好きである。マンガなんか単に楽しめればいいのだろうけれど、マンガに理屈はいらないのだろうけれど、時々、何でこんなにマンガは素晴らしいのか考えないではない。お気に入りの漫画家;諸星大二郎・森雅之・岡崎二郎・西岸良平さんなど;の作品を思い浮かべながらマンガの素晴らしさ(=パワー)とその可能性について考えてみる。春三月の休日の朝。


◆マンガは素晴らしい。漫画は人類の文化遺産だ!
マンガは素晴らしい。漫画は人類の文化遺産だ! このことを論じる。語る。KABUはマンガが好きだ。寛子さんもマンガが大好きだ。5年前にBLOGをはじめたときから、BLOGというツールはサブカルチャー評論、特に、マンガ評論に相性がいいと漠然と思っていた。といことで参ります。楽しみ♪

楽しみだが、のっけから予防線を一つ。要は、「マンガ」の定義をここでは保留したまま話を進めさせていただきたいということ。取り敢えず、ページにコマ割がなされ、台詞がフキダシの中に入っているストーリー性のある画像と文章の合体した情報媒体くらいのイメージでマンガを捉えており、つまり、アニメーションは一旦除外し、挿絵入りの小説も一応マンガではないと考えて話を進める。また、外国の特に米国のコミックと日本のマンガの違いについては書きたいことはてんこ盛りだけれど本稿は日本のマンガに絞らせていただきます。

よって、ここで言うマンガとは、田河水泡『のらくろ』、横山隆一『フクチャン』、島田啓三『冒険ダン吉』等の大東亜戦争前からの伝統を持ち、手塚治虫・横山光輝・白土三平という戦後のストーリーテラーの巨匠達が育て、長谷川町子・石ノ森章太郎・ちばてつや・藤子不二雄・赤塚不二夫・萩尾望都、池田理代子・みつはしちかこ・大和和紀・大島弓子・竹宮恵子・里中満智子・山岸涼子、等々の才能が技とアイデアを競った<昭和>に隆盛を誇った出版ジャンルとしてマンガをイメージしてい。けれども、20世紀の最後の20年間も21世紀も、大友克洋・石井隆・ジョージ秋山・梶原一騎・鳥山明・秋月リス・たがみよしひさ・桂正和・高橋留美子・本宮ひろし・あだち充・吾妻ひでお・岡崎京子等々のカリスマに日本のマンガ界はこと欠かない。ちなみに、私のお気に入りのマンガ家ベストファイブは、西岸良平・森雅之・諸星大二郎・岡崎二郎・川原泉である。


10年前の統計だけれど(2000年)、実に、日本で出版される出版物販売総額の25%をマンガが占めており(雑誌・書籍の販売総額は2兆5千億円であり、その内の約6千億円がマンガである。)、況して、単価比較から想定される出版総数の中のマンガの割合は絶大である。マンガを出版の一つのジャンルとして見た場合、マンガは他の文学ジャンルを販売総額でも出版点数でも圧倒しているのである。しかし、私は思想的な影響力や教育的効果においてもマンガは他の文学ジャンルを圧倒していると考えている。特に、今時の<読書をする習慣のない>子供や子供のような大人に対しては際立った優位性をマンガは持っていると思う。何故そう言えるのか。そのポイントは、以下の4個である。即ち、

●文字を読む習慣のない者に対する教育効果の優位性
 ①ストーリーを追う訓練における優位性
 ②場面を構想する訓練における優位性
●心象風景と写実描写における優位性
●SFと歴史と最先端思想的課題を表現する優位性
●複合的アートとしての表現の多様性


以下、これらのポイントについて説明していきたい。蓋し、「マンガやゆうて舐めたらあかんぜよ!」ということ。マンガって本当に素晴らしいですよ(そうそう。岡崎二郎さんの作品は、8年前出版された『時の添乗員①』以来まとまった作品は読んでいない。その第3話「交換日記」なんかにはジーンと来ましたね。彼は素晴らしい。岡崎さんもっと作品一杯描いて下さい! )。


tokiten1.jpg



◆マンガの構造と本性
マンガは教育と情報のツールとしての側面と複合的なアートとしての側面を併せ持っている。小説やビデオ画像と比べた場合の教育ツールとしてのマンガの優位性はしかし劣位性の裏返しであるかもしれない。「大学生にもなってマンガばっか読んでどないすんねん」とは今でも時々聞く台詞。世には、小説の挿絵でさえ<本質的な想像力や構想力>を身につけるのに有害だと仰る先生方も少なくない。そのような先生方にとって画像が主、文字が従のマンガなんぞ教育ツールの範疇に入らない、もし入ったとしてもそれは補助的な役割をしか与えられないに違いない。私もマンガが<本質的な想像力や構想力の開発>においては補助的な役割しか果さないだろうことに同意する。あくまでもマンガは自転車に乗れない子供が、自転車に乗れるようになるためのトレーニングの一時期に使う補助輪に過ぎないであろう、と。しかし、現在の子供や子供のような大人の国語力の現状を鑑みるにこのマンガという補助輪の意義は残念ながら小さくないと思う。


マンガは、文字を読む習慣のない者への教育と情報伝達の効果において文字媒体に数段優る。昔の記事の繰り返しになるかもしれないが、さいとうたかお『ゴルゴ13』を通して国際政治を学び国際関係の情報に親しみ、石ノ森章太郎『マンガ日本経済入門』や『マンガ日本の歴史』で日本の経済や歴史に関するイメージを獲得した方、雁屋哲&花咲アキラ『美味しんぼ』で食べ物や食文化について考えさせられた経験を持つ人は決して少なくないはずである。教育的の影響力という点で、ゴルゴ13に優る国際関係論のテキストはないし、石ノ森版日本の歴史を上回る日本通史の書籍は存在しない。而して、この情報優位性を担保するものが他の文字媒体に比べた場合のマンガの持つ二つのユーザーフレンドリーネスではないかと思う。即ち、読者がストーリーを追うことの容易さ、読者が場面イメージを構想することの容易さである。この容易さが教育ツールとしてのマンガの優位性に他ならない。整理する。

●マンガの優位性
(A)文字を読む習慣のない者に対する教育効果の優位性
① ストーリーを追う訓練における優位性
② 場面を構想する訓練における優位性
(B)マンガの情報媒体としての優位性



◆マンガの機能と属性
マンガはその複合性(文字と画像との、)によって文字のみでは切り込みにくい対象にまで思索の営みを広げることができる。例えば、SFと歴史と最先端の思想的課題である。これらを表現するマンガの優位性は説明するまでもなかろう。手塚治虫・横山光輝・白土三平という戦後漫画界の巨匠は各々これらのすべて領域で代表作を持っている。『鉄腕アトム』『ブッダ』『火の鳥』であり、『鉄人28号』『項羽と劉邦』や『カムイ伝』と記せば、この点でのマンガの優位性をこれ以上説明する必要はないのではないかと思う。

マンガは教育ツールや情報媒体として優れているだけでなく、心象風景の描写や写実描写においても優れている。心の内側と外部世界のイメージを文字を通して構成する訓練を受けていない子供や子供のような大人にとってマンガは恰好のトレーニングツールを提供している。否、文字の作る世界で戯れることができる大人にとってもマンガは独特の存在意義を持っているのではないだろうか。それは、より厳格に作者のイメージに拘束される反面、最も、微妙な心理と世界の認識に自己の解釈を集中的に投入できる。物理学は数学ほど自由ではない。けれども、物理学が数学に比べてクリエティヴィティーの乏しい知的分野であるという人は少ないだろう。

立原あゆみ『本気!』の中の風景はほとんど写真画像である。しかしそれは間違いなく絵画の画像であって立原が作画においてモデルにしている千葉県船橋市や習志野市の風景ではなく、読者は自分なりに『本気!』の作品世界をイメージしなければならない。

作者に拘束される度合いが小説よりも大きいものの(作者が与えた登場人物の容姿や気分や街の風景を前提せざるを得ないとしても、)マンガを読む読者は別の意味で想像力と構想力の翼を激しく羽ばたかせることになる。柳沢きみお『夜の街』、たがみよしひさ『軽井沢シンドローム』等々。桂正和『電影少女』、ジョージ秋山『浮浪雲』そして、私が日本マンガの最高傑作の一つと考える森雅之さんの『夜と薔薇』、川原泉『笑う大天使』はある意味小説よりも小説的であるのに関わらず阿刀田高、星新一という日本の短編小説創作の名手をもってしても文字のみで表現することが不可能な事柄と思想内容を<作品世界>にまで昇華していると私は思う。

複合的なアートとしてのマンガは文字と画像の必ずしも相性が良いとはいえない二つの要素により豊穣で官能的な作品世界を作り上げる。マンガは挿絵交じりの小説でも言葉が少し添えられた絵本でもない。それは、絵画によって触発されたイメージとエクリチュ-ル(書かれた言葉)によって意味づけられたストーリーとの鬩ぎ合いの結晶である。

サッカーやアメリカンフットボールでも将棋や囲碁でもデイフェンスとオフェンスの二律背反的なバランスの上で闘い(ゲーム)が展開されるのと寧ろマンガは近しい。マンガはノルディック複合(ジャンプと距離レースとの複合)である。石井隆『名美』『赤い教室』、大友克洋『アキラ』『童夢』『さよならニッポン』、および、諸星大二郎の諸作品、例えば、『孔子暗黒伝』『無面目・太公望』『天崩れ落つる日』『暗黒神話』は人類の知的遺産でさえあると私は思っているけれど、その作品の価値はマンガという表現ツールの性能にそのかなりの部分を依存していると私は考えている。

マンガは小説や絵本にはできない多様な表現をしかも先端的な思想的テーマに対して投入することができる。そして、その情報伝達と教育ツールとしての効果は極めて高い。マンガは本当に素晴らしい。では、何故にマンガはそのような「パワー」を持ちうるのか。このことを、今度は具体的な作者に引き付けて考えてみたい。


<続く>






(2010年3月22日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : 教育問題
ジャンル : 政治・経済

gishisgishi

『「邪馬台国」はなかった』と言えば、戦後日本古代史の一つの奇蹟と言ってよいかもしれません。市井の一高校教師の著書が半世紀近く(安全に言っても間違いなく四半世紀以上)日本古代史を巡るアマチュアの議論に強い影響を及ぼしてきたのですから。

けれども、今回、『古田武彦・古代史コレクション』シリーズ発刊にあたって、その広告惹句に「なぜ四十年間も、古田理論は学界から無視されてきたのか」とあるように、それが最初に上梓された1970年代前半から、プロの古代史研究者はほぼ一貫して本書を相手にしてきませんでした。蓋し、それは当然のことではないか。そう私は考えています。何故か。それについては、以下、本書を俎上に載せた書評の自家記事転記と自家解題をご一読いただければ嬉しいです。



◆『「邪馬台国」はなかった』
 古田武彦(朝日新聞社・1971年11月/角川文庫・1977年10月)
 後に、朝日文庫に収録(1993年1月)そして、
 ミネルヴァ書房より『古田武彦・古代史コレクション』の一冊として刊行(2010年1月)

古田武彦氏は1971年に『「邪馬台国」はなかった』を朝日新聞から出版されました。一世を風靡した書物です。古田さん曰く、所謂「邪馬台国」が記述されている『三国志』には実はただの一箇所も「邪馬臺国」などとは書かれていない。すべて「邪馬壹国」である。現存する最古の『三国志』版である紹熙本の総ての文字を調べたが、臺を壹と書き間違ったような箇所はなかった。よって、「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の書き間違いであろう、などはテクスト批判のルールを外れた見解である。それは、「やまたいこく」が「やまと=大和」と音が似ていることと相まって、現在に至る天皇家が3世紀前半にはすでに日本列島の過半を支配する勢力であったと主張する論者に好都合だから踏襲されてきたに過ぎないものである、と。

要は、古田さんに言わせれば、「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の書き間違いであろという主張は、『三国志』の原典原文を無視するものであり、それは、「文献学的には確かにおかしいが。とにかく日本は古代より万世一系の天皇家がしろしめされていたはずだからして、「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の書き間違ということでまあいいんじゃないかい」てな感じの議論にすぎない。而して、「邪馬壹国」を「邪馬臺国」の書き間違えと考える論者は、<証拠より論>を貴ぶような学者の風上にもおけない者たちではないか。彼等は、先学の安易な態度をこれまた惰性のマドロミの中で踏襲してきた者たちであると言えば言い過ぎであろうか、と古田さんは憤慨されたのです。

yamatainew.jpg


しかし、学者の風上にも置けないのは古田武彦氏の方でしょう。これに関しては、井上光貞先生を始め幾人もの大家がコメントされ、また、古田武彦研究家(?)の安本美典さんは古田武彦氏の誤謬誘導の手口を完膚無きまでに解明し批判しておられます。「邪馬臺国」はなかった(あったのは「邪馬壹国」である。)という古田説への批判は次の通り。

3世紀に発行された『三国志』の原典など20-21世紀の現在この世に存在していない。現存するのはすべてその写本か写本の写本である(『三国志』の場合、版本ですけれど)。確かに、現存する『三国志』の最古の写本にも「邪馬臺国」という文字列はなく、そこに見られるのはすべて「邪馬壹国」の方である。この文献学的な事実を再確認された古田さんの(歴史愛好家に対する)教育的貢献は小さくないのかもしれない。

しかし、現存する『三国志』の最古の版は12世紀の南宋期のものであるに対して、原典原本の『三国志』が世に出てから現存する最古の版が出版されるまでの(3世紀から12世紀の)900年近くの期間に出回っていたであろう『三国志』(恐らく、複数の系統のものがあったと推定されますが、)を見て書かれたと推測される様々な書物にはすべて「邪馬壹国」ではなく「邪馬臺国」と記されている(例えば、『後漢書』425年前後成立、『隋書』636年、『通典』801年前後成立、『翰苑』大宰府天満宮所蔵版9世紀の写本と推定、『太平御覧』10世紀末に成立)。

テクストクリティークによる校訂作業(原典復元作業)とは、このような様々な異本や逸文から原典を復元していく作業に他ならないのであって、そして、テクストクリティークの常識からは3世紀末に最初に原典原本が編まれた当時の『三国志』には「邪馬臺国」と書かれていたと考えるのが自然である。これが古田説に対する現在の歴史学研究者の標準的な批判であり、古田説の土台を完全に崩壊させた指摘です。そして最早、歴史研究社のコミュニティーで「邪馬台国はなかったという」古田説を支持する論者は存在しないと思います。


要は、古田武彦氏はテクストクリティークという作業がインターテクストの広がりを持つということ、つまり、テクストクリティークの営みは単一のテキスト内部だけでなく様々なテクスト間の整合性と諸原典の復元の作業にまで及ぶということ。これら文献批判の最も基本的なことさえ古田氏は理解できていなかったということだと思います。よって、古田説は<アマチュアの知的遊戯の帰結>に過ぎなかった。

古田さんは『「邪馬台国」はなかった』に始まる古代史研究(?)以前にも、これまたアマチュアの親鸞研究家として幾つかの親鸞研究書を出版されています(例えば、『親鸞』清水書院)。これら親鸞研究は、顕微鏡による筆跡や紙質の比較検討を行う等の1970年前後の時期としては斬新な手法を導入したものとして、これまた少なからず話題になったものです。ある領域の専門家の手法を表面的に使うことはどうも古田さんの癖なのかもしれない。でもね、素人の生兵法は怪我のもとですよ。実際、古田さんは文献批判に統計学的分析を導入する「数理文献学の手法」を真似して、『「邪馬台国」はなかった』では大怪我をされたのですから。

畢竟、読み物としては、『「邪馬台国」はなかった』は面白い。確かに面白いです。けれども、それは歴史研究書ではない。断じてない。そう私は思っています。
    

img09s.jpg


■自家記事解題
本書に対する批判は本編記事の通りですが、要は、①土台、神ならぬ身の人間が、原典原本がすべて喪失している状況下で、100%正しい原典復元などできるはずはないこと。而して、②他方逆に、では、どのような原典復元のための解釈も等価であり尊重されるべきかと言えば、断じてそうではない(要は、「誰も本当のことはわからない」という前提で、「では、どういう手続をとればより正しく原典復元ができるか」ということが「原典復元作業-原典復元解釈」のαでありωであるということ)。

畢竟、③専門家コミュニティー内部で容認される文献学的手法を運用した、かつ、数理統計学的な知見からも是認される通説と、文献学的手法を無視して、かつ、数理統計学的な知見からは毫も正当化され得ない古田氏の「邪馬台国はなかった」の主張は等価などではなく。④「古田理論が学界から四十年間も無視されてきた」のも、蓋し、当然のことである。と、そう私は考えています。

まして、「標本」と「母集団」の定義も無視した<全数調査>なるものが、統計学的には、憲法無効論なみの無駄で無意味な作業であることはいうまでもないことでしょう。すなわち、現存する『三国志』の全文を調査しても、(問題の、研究者が「邪馬臺国→邪馬壹国」の書き誤りと考えている箇所を除き)「臺→壹:台→壱」という書き間違いと思われるケースは一例もなく、よって、「邪馬臺国→邪馬壹国」という原文改定は決め手を書いている、と。この統計学的推論の場合、一体、『三国志』の全文は「母集団」なのでしょうか、それとも、「標本」なのでしょうか(笑)

蓋し、「原典現本の『三国志』が書写される過程で「臺→壹:台→壱」の書き誤りが起こったとは統計的に考えにくい」と古田氏は主張したいのでしょうから(999個の赤玉と1個の白玉が入っている皮袋から玉を取り出しては、元の皮袋に取り出した玉を戻して、それが赤であるか白であるかの回数を数える実験と同様)、古田氏の議論にとって現在存在する『三国志』内の「臺」「壹」の文字は「標本=赤玉や白玉:標本=サンプル」でしかないのです。ならば、ここで想定されている「母集団=皮袋:母集団=かって存在した『三国志』を含む『三国志』と同時代のテクストの総体」から見て、古田氏の全数調査などは、統計学的にほぼ何の意味もない作業である。と、そう言えると思います。

而して、この「標本」と「母集団」の定義も無視した<全数調査>なるもの滑稽さこそ、古田武彦研究家の安本美典さんが『「邪馬壱国」はなかった』(新人物往来社・1980年1月)以来、古田氏に投げかけている批判であり疑問なのですが、古田氏も古田ファンも、彼等の統計学風の推論が統計学からはサポートされないことをいまだに理解できていない。と、そんな節さえ感じます。ならば、これは、「現行憲法は無効だ」と唱えながら、法概念論と法学方法論の基礎的知見を欠如している憲法無効論に匹敵する噴飯ものの奇観なの、鴨。と、そう私は考えています。


・憲法無効論は不毛ではないが無効である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57820628.html

・憲法無効論の頑冥不霊と無用の用(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58998947.html








(2010年3月21日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : このままで、いいのか日本
ジャンル : 政治・経済

rachiposter


「手のひらを太陽に」は左翼・リベラル派が好む定番の楽曲ではないかと思います。而して、私はこれにこの社会に蔓延する<非論理>が端無くも露呈している。それは、憲法9条教から憲法無効論という左右の社会主義、そして、「命を救いたい」とのたまう民主党政権からその社説で「捕鯨問題は、国際捕鯨委員会で粘り強い合意作りへの努力を重ねることがなにより大事だ。日本側も食文化の議論にはまれば解決の出口を失う。問題を解決することと留飲を下げることは、しばしば別のことである」とどこの国の新聞かわからない主張を垂れ流す朝日新聞に至るまで、この社会で繰り広げられる言説に広く確認できる非論理ではないか、と。と、そう考えています。

「手のひらを太陽に」の歌詞の確認。


「手のひらを太陽に」
作詞:やなせたかし
作曲:いずみたく

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ
    






この歌詞のどこが非論理的なのか。
言うまでもないでしょう。

第1項
(a)ぼくらはみんな生きている→生きているから歌うんだ
(b)ぼくらはみんな生きている→生きているからかなしいんだ

第2項
(c)手のひらを太陽にすかしてみれば→まっかに流れるぼくの血潮

第3項
(d)ミミズだってオケラだってアメンボだって→血潮は流れている
(e)血潮が同じく流れている→ぼくらもミミズもオケラもアメンボもみんなみんな生きている

第4項
(f)ぼくらもミミズもオケラもアメンボもみんなみんな友だちなんだ
    

而して、

・(a)~(e)の命題内部の「前提→帰結」は論理的に正しい。
・「第2項→第1項」「第2項→第3項」が形成する「前提→帰結」は論理的に正しい。

けれども、

・「[第1項←第2項→第3項]→第4項」という理路はなんら論証されてはいない。
    

つまり、同じ第1項~第3項を前提に、

(f1)ぼくらもミミズもオケラもアメンボもみんなみんな敵なんだ
(f2)ぼくらもミミズもオケラもアメンボもみんなみんな無縁なんだ
    

という命題を置いても元の歌詞と論理的にはなんらの差異もないということ。



■記述理論からする「手のひらを太陽に」の非論理性の暴露
バートランド・ラッセルの「記述理論」を借用して敷衍するならば、「2010年3月21日現在のフランス国王(king)は男性である」という命題は、文法的に正しく、また、命題の内部に論理矛盾は含まれていないとしても、経験的事実に反するという意味では「偽」であるのと同様、「ぼくらもミミズもオケラもアメンボもみんなみんな生きているのだからみんなみんな友だちなんだ」という命題も、文法的には正しく、また、(例えば、「ぼくらもミミズもオケラもアメンボもみんなみんな生きているのだからみんなみんな死んでいるんだ」という命題が内部に矛盾を抱えているのに対して)命題の内部に論理矛盾は含まれてはいないけれども、それは経験的事実に反する。而して、それは実は論理的にも間違いなのです。

すなわち、

「2010年3月21日現在のフランス国王(king)は男性である」という命題は、実は、

「2010年3月21日現在フランス国王(king)が少なくとも一人存在する」
「その国王(king)は男性である」
という二つの命題の結合であり、前者の命題が経験的事実と反するがゆえに、この命題は論理的にも「偽」であるのと同様、

「ぼくらもミミズもオケラもアメンボもみんなみんな生きているのだからみんなみんな友だちなんだ」という命題も、

「ぼくらもミミズもオケラもアメンボもみんなみんな生きている」
「生きているものは友だちである」
「ぼくらもミミズもオケラもアメンボもみんなみんな友だちなんだ」
という3個の命題の結合であり、而して、第2の命題は経験的事実に反しており、よって、「ぼくらもミミズもオケラもアメンボもみんなみんな生きているのだからみんなみんな友だちなんだ」という命題は論理的にも「偽」なのです。       


たかだか「童謡」について何を大人気なく小難しい話をする。と、そうお感じになった読者も少なくないのではないかと思います。けれども、この程度の<粗雑な非論理>がこの社会には溢れている。そのような危惧を私は常日頃感じている。ラッセルの「記述理論」というシンプルだけれども結構強力な<武器>をご紹介するのと併せてこのことを俎上に載せたかったのです。例えば、

憲法9条教の主張、

・憲法9条は戦争を放棄している→日本は戦争をすることができない
・日本が戦後平和でいられたのは憲法9条のお蔭である
    

には、第1項と第2項の間に「日本が戦争をすることができなければ日本を巡る戦争は惹起しない」という経験的事実に反する命題がその理路に密輸されており、

また、

憲法無効論の主張

・日本国憲法の「改正手続」は大日本帝国憲法の諸条項に反している
・日本国憲法の「改正手続」はハーグ陸戦条約等の国際法に反している
・日本国憲法の「改正手続」はポツダム宣言等の日本と連合国間の取決めに反している
・日本国憲法は無効である
    

には、「大日本帝国憲法の諸条項、あるいは、ハーグ陸戦条約等の国際法、または、ポツダム宣言等の日本と連合国間の取決めに反する「改正手続」で具現した日本国憲法は憲法としては無効である」という、法概念論・法学方法論から見てなんら自明ではない主張がその理路に組み込まれている。

・憲法無効論は不毛ではないが無効である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57820628.html

・憲法無効論の頑冥不霊と無用の用(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58998947.html



そして、朝日新聞の捕鯨反対派擁護社説。

「捕鯨問題は、国際捕鯨委員会で粘り強い合意作りへの努力を重ねることがなにより大事だ。日本側も食文化の議論にはまれば解決の出口を失う。問題を解決することと留飲を下げることは、しばしば別のことである」には「国際捕鯨委員会で粘り強い合意作りへの努力を重ねることが可能である」という経験的事実に反する命題が密輸されている。

・鯨と日本の再生
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-306.html

・反捕鯨論の文化帝国主義的で傲慢な謬論を逐条撃破する
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-313.html

・書評☆星川淳GPJ事務局長『日本人はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-318.html



では、鳩山首相の「命を救いたい」はどうか。正直、論理分析の埒外であろう。蓋し、論証は各自にお任せいたしますが、畢竟、それは問題外の外、憲法無効論なみの妄想でしかない。と、そう私は考えています。

・鳩山<理系>首相の非論理性☆ゲーム理論から見た普天間問題
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59200260.html



而して、マルクスの『ユダヤ人問題によせて』 の掉尾の言葉に倣えばこう言えるの、鴨。すなわち、


「手のひらを太陽に」の歌詞が共感とリアリティをもって受け入れられる日本社会の実現は、「手のひらを太陽に」の如き非論理性からの日本社会の解放の可否にかかっている、と。





(2010年3月21日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : これからの日本
ジャンル : 政治・経済

erikamomoko3


神ならぬ身の人間だもの。好きなスポーツや嫌い(というか、あまり、興味のないスポーツ)はゴルフやテニスの賞金女王にもあるに決まっています。けれども、「所詮人気商売」のプロスポーツ。ゴルフやテニス、野球やサッカーという「先のあるスポーツ」の、そのまた影響力の大きいTopプレーヤーがその好き嫌いや、興味の有無強弱を述べることには<政治的>というか<ビジネス的>配慮が求められるかもしれない。そして、そのような配慮はある競技分野で天下を取るほどの選手であれば21歳の小娘だからと言って免除されるものでもないのかもしれない。

この点で忘れられないのは、忘れもしない1983年の6月、史上最年少で将棋の名人位を獲得した21歳の谷川浩司さんのこと。現在の谷川九段(永世名人有資格者)はその時に既に、実にmatureな雰囲気を漂わせておられたと記憶していますから。而して、逆に、映画の主演女優という地位と状況にありながら、肝心の映画ファンを無視する態度と指弾されても反論できない「別っーに」を連発した行為は、21歳という年齢によっては弁明不可能なのだと私は思います。

自分が主演した映画の舞台挨拶で無関係な第三者の如き「別っーに」発言を連発したプロ意識の欠如(というより、成人した人間なら当然備えているべき社会性の欠如)について、もちろん、それらをすべて21歳の小娘のせいにするのは酷であり、それらの不細工な仕儀は沢尻エリカ嬢を「エリカ様」と舞い上がらせた周りが悪いという声もあるようです。けれども、沢尻エリカ嬢は沢口靖子さん以来の、ほとんど20年ぶりに日本映画界が得た「生まれつきのお姫様女優」にして「大女優」になりうる可能性も秘めた逸材だと期待していた分辛口になりましたが、概略、「「別っーに」は、21歳という年齢によっては弁明不可能」と私は考えています。


erikamomoko6


ここまで考えてくれば、われらが桃子姫の「情熱大陸」での言動が誰からも批判される筋合いのものではなかったことはいよいよ自明でしょう。蓋し、桃子姫は、「先がないスポーツ」を嘲笑中傷したのではなく、まして、バレーボールやバスケットボールなどの「先がないスポーツ」を嫌いとも興味がないとも言ったのではないのですから。

畢竟、「プロの世界と地続きでその道でお金を稼げる可能性のある、先があるスポーツかどうか」という平明明瞭な基準で「私ならそのスポーツで頑張れる」と判断すること。これは、冷静な自己分析と客観的な状況認識に基づくmatureな進路判断でしょう。つまり、芳紀21歳の上田桃子嬢の「情熱大陸」でのコメントは、しっかりしたセルフキャリアディベロップメントのイメージを桃子姫が小中学生の頃から持っていたことの証左なのです。而して、そのような自己分析能力と状況認識、加えて、ある進路を進んで行く自分の姿を具体的にビジュアルにイメージできる資質とスキルこそは、現在、小中高生の進路指導一般においても正に求められているものなのです。蓋し、上田桃子嬢の「職業としてのゴルフ選択」の決心のプロセスは公教育における進路指導の再構築のためにも大変参考になる素晴らしい成功事例と言えるでしょう。畢竟、上田嬢にその選択を可能ならしめた資質こそ、頑固な合理主義としての「おてもやん」性、あるいは、「肥後もっこす」性。そう表現するのが適当であるsomething ではないか。私はそう考えています。

ならば、上田プロのブログを「炎上」させたものは何なのか? 蓋し、桃子姫のブログを「炎上」させたものは、

(A)小学生や中学生が「そのスポーツの先のあるなし」で競技を選択すべきではない

(B)「先がないスポーツ」と「先があるスポーツ」などという2分法はそれが事実であったとしても(否、むしろ「事実であるがゆえに」でしょうか。)公の電波を使って流すべきアイデアではない

(C)昨年の優勝経験のない賞金ランキング13位の熊本の芋ねーちゃんゴルファーの発言ではなく、すでに今期4勝をあげほぼ賞金女王を掌中にしている選手の発言は「影響」が大きいがゆえに叩かれねばならない。また、ほぼ今期の賞金女王を掌中にしている選手なら「反論などすれば社会的に(あるいはCM契約などを考慮すれば金銭的にも)失うものが大きく」、つまり、こちら側は批判のし放題に違いない
    

というようなさもしい心根ではなかったかと私は想像しています。敷衍すれば、「スポーツでお金を稼ぐなどは本来美しくない」という大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義的な思い込みと、上田プロ側から反論すれば「彼女自身失うものの方が大きい→上田プロ側が反論などするはずがない→叩き放題だ!」といった左翼や労組的なさもしい心根。少なくとも、それらと同質同根なものを私は「桃子姫ブログ炎上」に感じたのです。

畢竟、桃子姫は、姫より1学年年長の宮里藍プロ(1985年6月19日生まれ)や横峯さくらプロ(1985年12月13日生まれ)が、一足先にマスメディアに取り上げられ舞い上がっているここ2年間で着実に強くなったと思います。プロゴルフ関係者の間では「現在の日本女子で最強」と彼女が評されているのも同じ九州出身者の贔屓目ではなく納得がいくというものです。今年に関しては、(素人目にはですが)なんと言っても宮里・横峯の現在の両スター選手達より5センチ高い桃子姫の身長が(および、他者の追随を許さない桃尻姫の「脚の短さ」、もとい、上背の割に安定したその重心が)物を言っている気もしますが、今後、順当に推移すれば向こう10年以上続くだろう競い合いの中で上田桃子プロとそのライバル達の力関係がどうなるかは、正直、「神のみぞ知る」でしょう。


けれども、繰り返しになりますが、「私は先がないスポーツではそんなに頑張れないタイプだ」、ならば、「先があるゴルフの道で頑張ろう」と小学校高学年の少女時代に自己分析に基づく進路決断をできた上田プロの Self-Management Skill の資質は素晴らしいし、その資質こそ、正に、現下の日本の教育界がすべての子供達に涵養しようとしている「自己実現力」そのものでしょう。而して、今回のブログ炎上事件で端無くも明らかになったように、日本ではまだまだ嫌われる向きも少なくない、「自己実現力を持つ自立した人格」の進路決定プロセスの表白でもあった「情熱大陸」における上田桃子プロのインタヴューコメントは子供達にも参考になる進路思考パターンのサンプルであったし、それは自立した若きプロフェッショナルとしての気品と品格の表出でさえあった。私はそう総括せざるをえないのです。

蓋し、芳紀21歳の今にして戦う賢女の気品と品格漂わせる桃子姫。そのおてもやん桃子姫を、あの<美獣>と比べるなどは無意味な作業と言うべきである。あるいは、<美しいかもしれないが動物>の衝動的言動と上田桃子プロの「先があるスポーツ」コメントを比べること自体が桃子姫に対して失礼。私はそう考えています。今期残すはあと2戦。頑張れ、桃子姫! 






【自家記事解題】
資源と所得の配分に関して(もちろん、「市場の失敗」の可能性、否、それが必然でさえあることを甘受しつつも、そして、「市場の失敗」を調整する政府の機能にも限界があること、否、グローバル化の昂進著しい現下の大衆民主主義下の福祉国家においては、政府の役割の肥大化と裏腹に政府のフリーハンドの余地など「蟷螂の斧」ほどもない現実を睨みながら、資源と所得の配分に関しては)「市場」を中心とせざるを得ない人類史段階に我々は生きています。

ならば、ケインズ的の意味での「美人コンテストの投票」でしかない(他者の多数が誰を一番の「美人」と考えているかの予想が自分の投票の唯一の指針でしかない)「他人の使用価値の度合の想定」に基づき<商品生産>が行なわれ、その商品の生産を横軸にしつつ縦軸においては資本の無限の増殖が展開される社会。そのような個人としては煩悩に、社会としては業にまみれた人類史の段階に我々は生きてあることを直視しなければならない。と、そう私は考えています。畢竟、色即是空空即是色、諸行無常・諸法無我、而して、四諦八正の道はこの率直素直な認識と、そして、教条主義(エリカ嬢的で朝日新聞的な、すなわち、憲法無効論やマルクス主義の言説に露な、あるいは、民主党政権の言動の如き「人間の万能感」)とは正反対の「人間の有限性の確信→伝統慣習の尊重」、正に、非教条主義としての「足るを知る」保守主義はこのような世界観と親和的であろうということも。    


erikamomoko7


ならば、「稼げるスポーツ=継続的に自立しつつ自己実現することが可能なスポーツ」を選択した上田桃子姫の選択は人類史的に正しいのであり、更に、言えば「稼げないスポーツ」をある若者が選択した以上、彼女や彼に対して「社会=国家」が資源を配分すべきかどうかは、その競技が社会や国家にとってトータルで見返りのあるものかどうかで判断されるべきことも自明ではないでしょうか。

而して、それで金メダルを100個取ろうが世界ではほとんど認知されないソフトボールやバレーボールや卓球などへの国の支援はやめて、また、優秀な選手を帰化させない限り上位に食い込む余地が最早ほぼない、体操や男子マラソンなどからは潔く撤退して、①競技の日本文化継承における効果、②競技のメジャー度合、③メダルへの距離の三個の軸から、例えば、剣道・弓道・囲碁・将棋、女子サッカー、女子ホッケー、女子カーリング、女子マラソンに支援先を絞り込むべきではないか。と、そう私は考えています。この観点からは、キムヨナ姫と同様、上田桃子姫こそ、正に、(ハイデッガーの顰に倣えば)「乏しき時代の詩人=英雄なき時代の英雄」であり、資本主義を嫌悪しつつそれと同衾するしかない時代のマチュアーな<真の保守主義者=大人の保守主義者>ではないか。と、そう私は考えます。

    



さて、ご存知のように桃子姫は、2007年11月18日、「今期残すはあと2戦」の最初の一戦「大王製紙エリエールレディースオープン」で優勝して日本女子プロゴルフの「史上最年少の賞金女王」に輝きました。而して、桃子姫はその後、更に上を目指してアメリカで泥水を啜りながら、「藍先輩」の成功に自己嫌悪に陥りながらも明るく奮闘中。そして、「エリカ様」はあいかわらず、世間を騒がせ顰蹙を各方面から浴びていらっしゃることも皆様ご存知の通り。

蓋し、水は高きから低きに流れる。「菜の花や月は東に日は西に」(蕪村)。「天網恢恢疎にして漏らさず :天網恢恢疎而不漏:The mills of God grind slowly but they grind exceedingly small」(老子)。畢竟、日本史上最低最下劣の「天皇=後醍醐」の建武新政を想起するまでもなく、エリカ様も鳩山民主党もこの理からは逃れられないの、鴨。と、そう私は考えています。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・

    



・やったね、上田桃子プロ☆2007年度のゴルフ賞金女王確定!(2007年11月19日)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9bdecb47627a69722857bf9a704c0cd5

・キムヨナを<物象化>する日韓の右翼による社会主義的言説
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59298740.html








(2010年1月21日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : 教育問題
ジャンル : 政治・経済

erikamomoko4
【Beautiful Beast and Brilliant Champion】


以下は2年半くらい前、そう2007年11月15日に姉妹ブログgoo版の「英語と書評 de 海馬之玄関」にアップロードしたものの転載です。今回、思う所もありそのまま転記することにしました。要は、「昭和末娘」と呼ばれた沢口靖子さんの後、ひょっとしたら日本で最後の<お姫様女優>になれる資質をもった素材も、「努力することこそ人生の真善美である」あるいは「自分が今こうしてあるのもご先祖様と周囲の皆様のお蔭」という認識を欠くのならばかくも短期間に無惨な姿をさらすものか。そういう、祇園精舎の鐘の声を最近聞いたように感じたから。と、後は850日前の<私>に語らせましょう。





もう10日前のことになりますが、KABUが応援している上田桃子プロが、全米女子プロ公式戦を兼ねたミズノクラシックで優勝。今期4勝目で上田プロ自身初の賞金女王に一歩近づきました。今日、11月15日現在、女子プロトーナメントツアーも残すところ後2試合(大王製紙エリエールレディスオープン:11月16日~18日, LPGAツアーチャンピオンシップリコーカップ:11月22日~25日)。上田さんはKABU&寛子さんと同じ九州出身ですが、広い意味の同郷というそれだけでなく、今回の桃子姫の優勝を私は大変嬉しく思いました。なぜか。

これまた、かなり旧聞に属しますが、上田桃子プロのオフィシャルブログが「炎上」したそうです。TBS系「情熱大陸」の10月7日の放送で、「同級生とかで、バレーとかバスケとかをしてる子がもう、不思議でしょうがなかったと言うか、先がないスポーツを何でできるんだろうと思って」という上田さんのコメントが発端になり、「他のスポーツを解りもしないのに語らないでほしい」「見てただただ腹が立つ。ゴルフだって稼げる一部の人間だけじゃないか」「思ったことを何でもずばずば言えばいいというものではありません。【2007年度のツアーも最終盤に入った段階で賞金ランキングで貴方はTopに立っているのだから】昨年までの上田プロとは立場が違うということを認識しましょう」などといった批判的なコメントが多数寄せられたとのこと。この「ブログ炎上事件」以来、週刊誌等は桃子姫を「女子ゴルフ界のエリカ様」と揶揄する記事の on parade 。

「女子ゴルフ界ではないエリカ様」とは、そう、ご自分が主演した映画の舞台挨拶の際に「別っーに」と「不機嫌モード炸裂」させて世間から「おいお前、その小娘、お前何様」の顰蹙とバッシングの十字砲火を浴びた末に涙の謝罪会見に追い込まれた、あの<美獣>沢尻エリカ嬢のことです。上田プロの公式ブログのタイトルが「桃尻桃子の「待ってろ世界!」」ということもあり、後ほど記すように本来「月とスッポン」の両者を非常識な言動で世間を騒がせた21歳という共通項で括り、「沢尻&桃尻」とパラレルに扱う記事が続出したのです。


erikamomoko5


そんな、世間の「女子ゴルフ界のエリカ様」批判から1ヵ月。我らがおてもやん桃子姫は上で紹介したように、日本の女子プロトーナメントの中でも最も格上の大会の一つ、ミズノクラッシックの優勝で見事に世間の誹謗中傷を自力で捩じ伏せた。流石、肥後女! 凄いぞ桃子姫♪

さて、ここで話はまた10月7日の「情熱大陸」に戻ります。「先がないスポーツ」発言によるブログ「炎上」を受け、翌10月8日、上田プロは速攻で件の発言の真意を説明しました。その大意は、件の発言はゴルフ以外のスポーツに情熱をもって取り組んでいる人を嘲笑したものではないということです。そして、インタヴューで話した「先がないスポーツ」 という批判の中心となった言葉の意味についても「だって、プロっていうものがないじゃないですか? なのにどうしてそこまで頑張れるのかなっと思って」と、これ以上ないほど正直かつ率直に自分の真意を説明した。また、その同じ10月8日の公式ブログ記事では、上田プロが、小学校4年生でゴルフを始め、バレーやバスケも学校でよくやってたことや、今では「冗談抜きで私スポーツ界の中で一番バレーをよく観るんですよ」とバレーボール好きをアピールしたのです。

こうして、ブログ炎上に結びついた桃子姫のTVインタヴューコメントの内容を調べてみると、同じ21歳の<非常識な言動>として取り上げられたものの、<美獣>エリカ嬢の「別っーに」発言が、TPOにそぐわないだけでなく、TPOから切り離してその発言だけを見た場合にも無内容かつ礼儀知らずのものであったのに対して、(TV局が編集したインタヴューがゆえにTPOは元来問題にならない上に)問題にされた桃子姫のコメントは実は内容的になんら問題がないことは明らかだ、そう私には思われてきたのです。

否、桃子姫のコメントは現在の日本の若者に切に求められているあるタイプの資質を彼女が濃密に備えていることを示しているとさえ思える。それは何か? あるタイプの資質と何か? それは冗談抜きに「おてもやん性」であり「肥後もっこす性」ではないか。今現在、私はそう考えるに至ったのですが、それを説明する前に桃子姫と<美獣>エリカ嬢のプロフィールを比較しておきましょう。


◆おてもやん桃子姫
D.O.B. :June 15, 1986
Home Town:熊本県熊本市
School graduated from:東海大学付属第二高等学校卒業
Size: hight -161cm, weight -54kg, blood type-A
Ranking:2006年賞金ランキング13位ー0勝
   2007年賞金ランキング01位-4勝(2007年11月15日現在)

◆<美獣>沢尻エリカ嬢
D.O.B. :April 8, 1986
Home Town:東京都
School graduated from:日出女子学園高等学校中退
Size: hight -160cm, weight -N/A kg, blood type-A
    


上田桃子プロの発言は何も間違ってはいない。私はそう思っています。上田プロが「お金が稼げるかどうか」という基準で、任意のスポーツを「先があるスポーツ」か「先がないスポーツ」かに2分したことは誰からも批判される筋合いわないということです。実際、「情熱大陸」の録画を何度見返しても、上田さんが「先がないスポーツ」を馬鹿にしているなどということはない。上田さんの語る「先がないスポーツ」とは「将来、人気が低迷し競技者人口も減少するようなスポーツ」という意味ではなく、「競技者がそれに職業として携われるスポーツ」という意味であり、これは「馬鹿にする」などの価値判断ではなく、「スポーツの職業としての可能性」という純粋な「事実認識」の問題に他なりません。

加えて、放送されたインタヴューの中で上田さんは、このような「スポーツの職業としての可能性」という純粋な「事実認識」を前提にした上で、あくまで、「私なら先がないスポーツではそんなに頑張れないよ」と正直に告白しただけではないでしょうか。つまり、上田さんは「先がないスポーツなんかやめれば」と他人に言っているわけではない。上田桃子プロのコメントをこう捉えるとき、「スポーツの職業としての可能性」と「どんなスポーツなら自分は頑張れるか」を巡る認識を披露したことの何を批判されなければならないというのでしょうか。何も批判されることはないに決まっています。





上田プロの言う、バレーボールやバスケットボールが(日本の女子において)「先がないスポーツ」という事実認識が間違いならそれを指摘すればよい。けれども、上田プロの事実認識が満更間違いでない場合、上田プロが「私なら先のないスポーツではそんなに頑張れないな」と吐露することを他人がとやかく批判することなどできはしないのです。それとも、ゴルフやテニスの賞金女王は、競馬の賞金獲得 Top 騎手は、あるいは、プロ野球やサッカーの億円プレーヤーは、その影響力を考えて「自分がどんなスポーツなら頑張れるのか/どんなスポーツなら頑張れないのか」を言ってはいけないとでもいうのでしょうか。

もし、そんな主張をする論者がいれば、その主張はそれこそ憲法の表現の自由と思想信条の自由を理解しない議論でしょうし、加えて、それは若い才能がどんな認識と覚悟でもって厳しい競争世界であるスポーツ界に飛び込んだかの本音を知りたいと思う多くの若者の知る権利を封じる権威主義的な言説と言われるべきではないでしょうか。

桃子姫の言う「先がないスポーツ」関係者が、「ゴルフの賞金女王は、「自分がどんなスポーツなら頑張れるのか/どんなスポーツなら頑張れないのか」などを公言して欲しくない」という願望を持たれることを私は否定も批判もしません。けれども、その願望は他者を拘束する権限も他者に反省を促すような内容も持ち合わせていないことは明確でしょう。この点が、自分が主演した映画の舞台挨拶という、いわば(それがグレーゾーンであるにせよ、おそらく)「主演女優」のタスクの範囲内かその極めて近傍の活動において、「別っーに」を連発したあの<美獣>のケースとは決定的に違う。私はそう考えるのです。


erikamomoko2



<続く>






(2010年3月18日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : 教育問題
ジャンル : 政治・経済




前々から「KABUの法律の基本書を教えて欲しい~!」という要望をいただいてきました。ただ、『合格者1,000人に聞きました! 司法試験合格者が使った基本書』とかなら、(流行廃りを知ると言う点でも)まだいかほどかの意味はあっても私個人が使った基本書(≒「専門家の卵用の体系的入門書」)を披露しても何の意味があるのと思い記事にしてきませんでした。而して、今回、「海馬之玄関ブログの記事を読む上で<著者>のバックグラウンドが分からないと気持ちが悪い、だから教えて欲しい」と重ねて要望いただき背中を押された。ということで、There you go♪

■前口上あるいは取り説
①KABUの修業時代は「1980年~1990年」と今から約30年~20年前の大昔のこと。他方、②KABUは、一応、憲法・法哲学の研究者を目指していた者であり、また、実務家としては民事訴訟法が専門。よって、それらの領域では、逆に、現在最新のテキストも含め大凡の「基本書」には目を通しています。而して、下記リストは次の基準で選定することにしました。

いずれにせよ、下記リストは「資格試験受験者」用というより、ブログ等で時事を俎上に載せるためもあり、「法律を(もう一度)勉強したい、鴨」という法学再入門希望の方に参考になる(鴨)という程度のものであることは予め明記しておきます。尚、法哲学に関しては選定基準の下にURLを記した拙稿をご参照ください。

・その領域の体系的知識を習得する上で使用した
・現在でもその領域の諸問題を考察する際の体系的理解の基盤となっている
・専門書は除き、基本書(専門家の卵用の体系的入門書)に限定
・概説書的基本書(A)と本格的基本書(B)に分ける
・現在の初心者に薦めるもの(C)が別にあればそれも記す
・リストの性格から「絶版」であるかどうかは気にしない
・私自身の専門性が低い商法と行政法、マニアックな著作権法と国際私法は割愛
    

・法哲学の入門書紹介 でも、少し古いよ(笑)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/136992.html



■KABUの法律の基本書リスト
▼法学入門-実際は少なくとも民法・憲法・刑法の(A)を読んだ後に読むべき、鴨
・(A)伊藤正己   『近代法の常識』(有信堂)
・(A)林修三    『法令解釈の常識』『法令用語の常識』(日本評論社)
・(A)末弘厳太郎  『法学入門』(日本評論社)
・(A)末弘厳太郎  『民法雑記帳(上)(下)』(日本評論社)
・(A)我妻栄    『法律における理窟と人情』(日本評論社)
・(A)碧海純一   『法と社会』(中公新書)
・(A)井上茂    『現代法』(日本放送出版協会)
・(A)イェーリング 『権利のための闘争』(岩波文庫)
・(B)麻生建    『解釈学』(世界書院:KABUの種本の一つです)
・(B)ヴィノグラドフ『法における常識』 (岩波文庫)
・(B)カー     『歴史とは何か』(岩波新書)
☆最後の2冊は原書(英語)も容易に入手できますので、是非、英語でも
 読まれることをお薦めします。

▼憲法
・(A)山本浩三 『憲法』(評論社:同志社大学の当時の教科書)
・(A)宮澤俊義 『憲法』(有斐閣全書:小品だが今でも読むに値する名著)
・(B)橋本公旦 『憲法』(青林書院新社:ドイツ流憲法学の秀峰)
・(B)伊藤正己 『憲法』(弘文堂:KABUが最も好きな一冊)
・(B)佐藤幸治 『憲法』(青林書院)
・(C)長谷部恭男『憲法』(新世社:2010年現在の通説を体現する基本書)

▼民法
・(A)我妻・有泉『民法Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(一粒社→勁草書房)
・(B)四宮和夫 『民法総則』(弘文堂)
・(B)我妻栄  『民法講義』(岩波書店)の『総則』『物権』『債権総論』
・(B)星野英一 『民法概説』(良書普及会)の『序論・総則』『物権・担保物件』『債権総論』
・(C)内田貴  『民法Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(東京大学出版会:チャート式みたいで実に読みやすい)

▼刑法
・(A)藤木英雄 『刑法(全)』(有斐閣双書:小品だが今でも読むに値する)
・(B)団藤重光 『刑法綱要総論』(創文社:KABUが法学部生の最初の3年間嵌った一書)
・(B)大谷實  『刑法講義各論』(成文堂:KABUの師匠筋の一書)
・(C)林幹人  『刑法総論』『刑法各論』(東京大学出版会:KABUと感性の相性が抜群)

▼民事訴訟法
・(A)中田淳一 『民事訴訟法概説』(有斐閣双書)
・(B)三ヶ月章 『民事訴訟法』(弘文堂)

▼刑事訴訟法
・(A)平場安治 『刑事訴訟法』(日本評論社:学燈上はKABUの師匠筋)
・(A)平野龍一 『刑事訴訟法概説』(東京大学出版会)
・(B)平野龍一 『刑事訴訟法』(有斐閣全集)
・(B)団藤重光 『刑事訴訟法綱要』(創文社:本書の理論の形式美に三島由紀夫が惚れた話は有名)
・(C)田宮裕 『刑事訴訟法』(有斐閣:実務と理論、現実と理想の「架け橋=刑訴」を体感できる一書)

▼その他
・(A)田中和夫 『英米法概説』(有斐閣:恩師の推奨「教科書」でしたが結果All rightでした)
・(B)伊藤正己 『英米法』(筑摩書房:2ヵ月でボロボロになるまで読み、買い換えた思い出の一書)
・(B)兼子仁  『教育法』(有斐閣全集:敵ながら天晴れの一書)
・(B)田畑茂二郎『国際法Ⅰ』(有斐閣全集:これまた敵ながら天晴れの一書)
    

aliceinwonder2.jpg



■法律オタクの小言、あるいは、老婆心的アドバイス
昔、司法試験委員(憲法3名+刑法1名+刑事政策1名+刑事訴訟法1名)をされていた先生方と飲んでいるとき、「基本書なんかなんでもえーねん」という話をしばしば伺いました。もちろん、()最低限の情報が網羅されていること(司法試験にせよ公務員試験にせよ、法律に造詣の深いビジネスマンになるにせよ、その目的にあった「最低限の情報」ですが)、()(()に含まれるかもしれませんが)一応、最新の学説の動向や現下の現実的課題について触れられているか、それらが鳥瞰・予感・復元できる情報が盛り込まれていることは「基本書」のマストでしょう。しかし、現下の日本の出版環境下であってもそのようなマストを満たした「基本書」はどの分野でも複数存在する。そして、TOEIC対策でも法律の学習でも、「10冊の書籍を読むよりも、1冊を10回、それが少し不安なら2冊を5回通り読むほうが遥かに知識は身につく」ことは常識でしょう。

そうなれば、基本書を選択する基準としては、むしろ、選択する側の主観的・個別的な要因が大きくなると思います。それはある意味、そう、兎と出合ったアリスが全く偶然に不思議の国に迷いこんだのと同じことなのかもしれません。そして、その要因とは、例えば、次のような理由です。

・履修科目の教科書に指定されていたのでとにかく一度は読んだことがある
・著者が「恩師筋/親戚筋/親の友人」だから親近感を感じる
・少数説より多数説や通説の立場で書かれたものが安心安心
・多数説や通説より少数説の立場で書かれたものが興味津々
・大部のものが安心感もあり「彼氏/彼女」にも自慢できる
・小部のものが気楽でもあり「彼氏/彼女」との時間も多く確保できる
・著者の感性や理路と相性がよいのか読むのが苦にならない
・ページ割や註付けが読みやすくて好感がもてる
    


私の場合、権威主義的で、かつ、身内贔屓の小賢しい人間ですので、最初は「恩師筋の基本書」か「当時最も読まれていた基本書」から入りましたが、結局、「好き嫌いは説明できない」「好きなものは好き/嫌いなものは嫌い」という当然の理屈からか、大体、どの法域でも半年足らずで一生涯の「基本書」というか「基本書の著者(の系統)」が見えてきたように思います。

さて、法律の学習。これこそ「基本書なんかなんでもえーねん」という箴言の「真意=顕教」なのだと思いますが、要は、法律の学習というのは「法」を学ぶことであり、基本書はあくまでもそのための道具に過ぎないということ。つまり、学ぶべきは「法規の条項」であり「判例」であり「行政やビジネスの実務のあり方」ということ。これがよく誤解されている点だと思います。蓋し、法律の基本書は「観光ガイドブック」や「地図」に過ぎず、大切なことは「現地の風景=法規・判例・実務慣行」ということです。すなわち、基本書はそこそこにして、何より(諸外国の法制も加えた)法規と判例を学ぶべきでしょう。

・法律の基本書=観光ガイドブック
・法規・判例・慣行=観光地の風景


而して、「基本書なんかなんでもえーねん」という箴言の先にはもう一つの教えが、「顕教」ではなく「密教」とも言うべき言外の認識があるのではないか。すなわち、法規・判例・慣行さえも、実は、学ぶべき<法>そのものではなく、<法>を知るための<メディア>に過ぎないという経緯が横たわっているのだと思います。蓋し、実際に、ある観光地を訪れても「見れども見えず」「聞けども聞こえず」という人は少なくない。禅家がよく口にする「花は紅、柳は緑」(出典は 蘇東坡「柳緑花紅真面目」)ではありませんが、法規・判例・実務慣行をいかに勉強しても、


(甲)裁判所が国会が実務慣行がどのような判断・立法・取り扱いをあるイシューについて行なうのか
(乙)裁判所や国会や実務慣行の新たな判断・立法・取り扱いによって社会がどう変化するのか
(丙)ならば、裁判所は国会は実務慣行は本来どのような判断・立法・取り扱いをすべきなのか
    

これらを、事実と根拠を挙げながら整合的・論理的に語ることができなければ、その人は「花=法規」や「柳=判例」を見ても「花=紅」であることも「柳=緑」であることも分かっていないのではないかということです。畢竟、「法」を通して<法>を「見る=予見」できる、具体的豊富で論理整合的な「力=知識」を法学の知識というのではないか。と、そう私は考えています。ならば、正に、「基本書なんかなんでもえーねん」なのです。




と、書いてしましましたが、結果的には、上に挙げた基本書は現在の私にとってはかけがえのない「恩師」であり「相棒」であり、少なくとも、<戦友>です。蓋し、唯物史観的な「歴史法則」なるものや労働価値説的な「(少なくとも共時的には)普遍的な交換価値」なるものは存在しないけれど、歴史的偶然性や歴史的特殊性・非対称性の中で自生的に展開した「生態学的社会構造」は諸国民や諸民族の生きてある現下の社会の中に成立している。また、個人の行動選択もまた偶然の集積ではあるが、その選択の「結果=事態」はその個人の責任であり、また、その「結果=作品」はその個人の人格と一体化しており分離不可能である。

ことほど左様に、私にとってこれらの基本書を選択したことが偶然の帰結であっても、これらが現在の私の思考や思想の一部を構成していることもまた事実。ということで、「豚もおだてりゃ木に登る」式の記事でしたが、改めてリストアップしてみると<戦友に対する初恋>のようなアンビバレントな情を感じないではないです。而して、よろしければ、いろんな分野での皆さんの<初恋の戦友>を紹介していただければ嬉しいと思います。

It's your turn, please(笑)







(2010年3月15日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : これからの日本
ジャンル : 政治・経済

nucleraweapon


些か旧聞に属しますが、「佐藤栄作首相が在任中に対支那核攻撃の準備を米国に要請していた事実を記した日本の外交文書が公開された」という報道がなされました。これに対して、佐藤元首相(首相在任期間:1964年-1972年)は、正に、核兵器を持たない・作らない・持ち込ませないという所謂「非核三原則」なるものを打ち出したことで(冷戦構造期における世界の緊張緩和への貢献により)1974年度のノーベル平和賞を受賞した人物であることを引き合いに出して、佐藤元首相の<言行不一致>を質す声や所謂「非核三原則」なるものの内実を問う報道も散見された。蓋し、これらの報道は噴飯ものの事柄というべきでしょう。

確かに、佐藤元首相は所謂「非核三原則」なるものを主な受賞理由としてノーベル平和賞を受賞した。けれども、その「非核三原則」とは「持たず・作らず・核基地に持ち込ませず」と世界では理解されていた。また、当時のソ連も日本にアメリカの核基地がないことだけでもどれだけ安心していたかは(佐藤元首相のノーベル賞受賞後5年~10年の間全欧州を緊張と恐怖に包み込んだ)「中距離弾道ミサイル」交渉の推移(ソ連が譲れぬ線とした交渉の落とし所)を見れば自明でしょう。

要は、佐藤元首相の提唱にかかる所謂「非核三原則」なるものはたかだかそんなものであり、しかし、それさえもノーベル賞に値する破格の業績であった。ならば、同原則を核兵器の「物理的な持ち込み(transition)」さえ禁止するものといまだに思い込んでいる上記の佐藤元首相の<言行不一致>を質す報道等は日本特有のものであり、その基底には「核兵器=絶対悪」とでも言うべきアプリオリな前提が横たわっている。それは謂わば<核兵器の物神性>に絡めとられた、而して、所謂一つの「平和ボケ」にすぎないと思います。

畢竟、左右を問わず、あるいは、核武装に対する賛否を問わず、核兵器や核武装に対してはアプリオリに善悪の認定や機能の論断が可能であり、核兵器や核武装を巡っては倫理的にも政治的にも普遍的に(いつでもどこでも成立する)正しい政策選択が可能と考えるが如き、謂わば<核兵器の物神性>に絡めとられた<信仰告白>の言説ゲームは百害あって一利なしである。そう私は考えています。


核兵器の物神性。大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する教条的な平和主義者の言動において「核アレルギー」と揶揄される、他方、「核武装さえすれば日本の安全保障のパフォーマンスは格段に向上し、かつ、日本は支那・韓国・北朝鮮という特定アジアに対してのみならずアメリカに対しても独自の外交を実行できる」とのたまう国粋馬鹿右翼の妄想に見出される核兵器に対する認識は、正に、例えば、『経済学・哲学草稿』(1844年)から『資本論第1巻』(1867年)に至るまで、マルクスが資本主義社会において「貨幣」に対する人々の認識から抽出した<物神性:Fetischismus, fetishism>とパラレルでしょう。

蓋し、それは人間が作ったにすぎないトーテムポールが<祖霊神>としての権威を持ちそれを作った人々自身の行動や認識を拘束するのと同様、本来、人間が造った「物」にすぎない(よって、端的にはその具体的な使用価値をもって他者と区別されるにすぎない)「貨幣」や「核兵器」が、現実の社会関係や国際関係の中に配置された場合、あたかも、それ自体が普遍的でアプリオリな価値と意味を持つ事物として認識理解され、而して、人間や国家の行動を拘束する機能を果たしている現状は、就中、核兵器を巡る日本の戦後民主主義者と国粋馬鹿右翼の心性と言動は<核兵器の物神性>に自縄自縛された滑稽譚以外の何ものでもない。そう私は考えます。

畢竟、「価値の表示・価値の支払と運搬・価値の貯蔵」等々の貨幣の経済的機能、他方、相互確証破壊(MAD)体制に基づく抑止力としての核兵器が国際政治において果たしている役割も、それらは、貨幣や核兵器を巡る社会関係や国際関係において始めて歴史的に特殊で相対的な意味と機能を獲得する関係主義的な現象にすぎない。しかるに、(繰り返しになりますが日本では)そのような歴史的に特殊で個性的な国際政治経済の関係を超えてアプリオリで普遍的な善悪の価値判断と外交・安全保障における機能が核兵器に付与されている傾向がありはしないか。

もし、<核兵器の物神性>が日本の国内外の政治に憑依しているという私の認識が満更無根拠ではないとするならば、日本の安全保障と外交の再構築はこの<核兵器の物神性>を止揚すること、核兵器に対する善悪の価値判断を放棄して、他方、核兵器がもたらす日本の安全保障のパフォーマンスを現下の具体的な国際関係の中で論理的・実証的・体系的に再構築するに如くはない。畢竟、日本は<核兵器の物神性>から自己を解放すべき時期、核武装戦略の脱構築が求められている時期に来ているのではないでしょうか。

而して、経済の拡大(=資源獲得の加速と内外市場&移民先の拡張)を武力を背景にしても実現するしかとりあえず生き残る道が見当たらない支那、世界の孤児-韓国、テロ支援国家ならぬテロ実行国家の北朝鮮という反日特定アジアに隣接している日本の地政学的条件、更に、世界の唯一の超大国から極普通の大国に「大政奉還」を行いつつある唯一の日本の同盟国アメリカの現状、国際政治におけるこれらのありさまを睨みながら日本との距離を再考しつつある東南アジア諸国、就中、日本の生命線にして運命共同体たる台湾の現状。これらを与件とした場合、現下の日本にとっては<核兵器の物神性>を止揚することに引き続き可及的速やかに核武装に着手すること、および、ロシアとの関係強化に踏み出すことは真剣な検討に値する外交の選択肢であると私は考えています。


核兵器の物神性の止揚と憲法改正の断行。核武装は現行憲法となんら抵触せず(否、数次に渡り政府が国会でも明言してきた如く、更には、核兵器が本来的に抑止力をその使用価値の本性とする以上、現行憲法や所謂「専守防衛」なる原則と核武装は極めて整合的であり)、よって、核武装の推進のためには憲法の改正は不必要なのです。けれども、核武装の推進は、おそらく、<核兵器の物神性>の止揚と共に<憲法の物神性>とも言うべき事態の止揚を伴うことにならざるを得ないのかもしれない。

すなわち、憲法改正は不要にしても「憲法も法であり、それは、社会生活と国家活動の便益のための道具にすぎない」という認識を日本国民が再獲得すること、而して、その再獲得された国民の認識が憲法秩序の効力基盤たる国民の法意識、就中、国民の法的確信になることが<核兵器の物神性>の止揚と共に日本の核武装の前提となろう。そう私は考えています。

注意すべきは<物神性>という現象自体が間主観的な現象であり、例えば、日本国民の意識改革だけでそれが止揚されたり脱構築されるものではないことです。逆に言えば、物神性をそのような主観的認識や個人的の意識に還元する論者は、これまた、マルクスの言う意味での「空想的社会主義者」に他ならず、これら戦後民主主義を信奉する論者と国粋馬鹿右翼とは、核兵器や現行憲法に対する善悪・好悪・正邪の認識の差にかかわらず核兵器や憲法の物神性に絡め取られている「空想的核武装論者」と言うべきでしょう。蓋し、憲法と核兵器を巡る左右の物神性が大東亜戦争後の日本で通用したについては、「日本が軍事的脅威にさらされる恐れがまずなく」「日本の軍事的な脅威化を米ソとも期待していなかった」冷戦構造という与件があってのことだという認識が彼等左右の「空想的核武装論者」には欠けている。

物神性の止揚と脱構築に焦点を置いて敷衍すれば、①核兵器なり憲法なり貨幣が「物神性」を帯びることの裏にはその物神性を成り立しめている社会自体にビルトインされた実定的な世の中のものの見方、すなわち、支配的なイデオロギーが横たわっており、また、②社会生活と国家活動をスムースにするためにはこれらのイデオロギー(=「政治的神話」)は満更意味のないものではない。けれども、(否定肯定の価値判断は逆のベクトルであるにせよ)核兵器と憲法に対する非論理的で非実証的な認識が日本の国益を日々損ないつつある現状においては、これらの物神性の打破は不可避不可欠である。そう私はそう考えます。


以下は共同通信が打電した当該イシューを俎上に載せた英文記事の紹介。核武装を巡る日本の国益を<核兵器と憲法の物神性>から解放されて冷静に考えるためには、文芸評論の文体と大差のない日本のマスメディアのウェットな報道は叩き台として不適切である。そう思いこの英文記事を紹介することにしました。出典は、”Sato wanted U.S. ready to nuke China - Later went on to win Nobel Peace Prize,” Kyodo News, Dec. 22, 2008「佐藤氏は米国に支那に対する核攻撃の準備を要請していた - 而して、佐藤氏は後にノーベル賞を受賞」です。

尚、日本の核武装と安全保障を巡る憲法論を中心軸とした私の基本的な考えについては記事末尾の拙稿をご一読いただければ嬉しいです。




Prime Minister Eisaku Sato, who won the 1974 Nobel Peace Prize for working out Japan's three-point nonnuclear policy, asked the United States in 1965 to use its nuclear weapons against China in immediate retaliation should a war break about between that country and Japan, according to newly declassified Japanese diplomatic documents.

In talks with Defense Secretary Robert McNamara in Washington, Sato also said it would be possible for the United States to put such an operation into action immediately from the sea — remarks that could be taken as tacit consent to bring nuclear arms into Japanese territory.


佐藤栄作首相、日本の非核三原則を構築した功績により1974年のノーベル平和賞を受賞した佐藤氏が、1965年、日本と支那との間で戦争が勃発した際には米国がその保有する核兵器を使い直ちに支那に報復するように米国に対して要請していたことが新たに公開された日本の外交文書によって明らかになった。

ワシントンにおけるロバート・マクナマラ国防長官との会談で、佐藤首相は米国はそのような行動を海域から直ちに実行に移すことも可能であろうと述べた。而して、この発言は日本の領域内に核兵器を持ち込む暗黙の了解があったことをうかがわせるものだ。


The revelation confirms that Sato, prime minister from 1964 to 1972, distrusted Beijing because he was asking the U.S. to be ready to launch a nuclear first strike.

The diplomatic documents are among a raft of roughly 30-year-old papers officially declassified Monday by the Foreign Ministry.・・・

Sato made the remarks to McNamara on Jan. 13, 1965, a day after he held a summit with President Lyndon Johnson in which he asked for a guarantee of protection under the Japan-U.S. security treaty.

McNamara mentioned to Sato China's successful atomic test in October 1964 and said attention should be paid to how the country's nuclear program developed over the next two to three years, according to a summary of their talks, written mostly in Japanese.

McNamara then pointed out during the meeting with Sato at Blair House, the U.S. president's guesthouse, that an important issue would be whether Japan would move to develop its own nuclear weapons, the summary says.


今回公になった事実によって、佐藤氏(首相在任期間:1964年-1972年)が支那政府を信用していなかったことが確認された。というのも、佐藤氏は米国に対して核兵器による先制攻撃の準備をするように依頼していたのだから。

当該の外交文書は、月曜日【2008年12月22日】に外務省が公開した、原則30年以上前の大量の書類の一部である。(中略)

マクナマラ国防長官に対する佐藤首相の発言は1965年1月13日、佐藤首相がリンドン・ジョンソン大統領との首脳会談を行った翌日になされた。そして、その首脳会談でも佐藤氏は日米安全保障条約に基づく日本防衛の保証を求めたのである。

マクナマラ国防長官が佐藤首相に対して1964年の10月の支那による核実験の成功を指摘した上で、今後2~3年の間に支那がどれくらい核開発を進めるのかにつき注意が払われなければならない旨を述べたことが、その大部分が日本語で書かれた佐藤-マクナマラ会談の要旨には記されている。

而して、マクナマラ国防長官はブレアハウス (Blair House:米国大統領の賓客を迎えるための迎賓館)で行われた佐藤首相との会談の際に、重要なことは日本が自国の核開発に着手するかどうかであることを指摘したこともまたその会談要旨から判明した。


Sato, who was on his first visit to the United States as prime minister, emphasized that while Japan had the technical capability to create atomic bombs, it did not intend to possess or use such weapons.

He asked that the United States be careful about making remarks concerning bringing its nuclear arms onto Japanese territory, citing the stipulations of the bilateral security treaty.

But Sato said it would "of course be a different matter in the event of a war."

"We expect the United States to retaliate immediately using nuclear (weapons)," he said.


佐藤氏は、この首相としての最初の訪米において、日本は核爆弾を開発する技術力を持っているけれども核兵器の保有や使用をする意図を日本は持っていないことを強調した。

日米安全保障条約の規定を引き合いに出した上で、佐藤氏は、米国が日本の領域内に核兵器を運び込むことに関して言及する際には十分配慮して欲しいとも述べた。

佐藤氏は、しかし、「戦時においては事は当然異なってしかるべき」という認識をも語った。

「我々は米国が核(兵器)を使い直ちに報復してくれることを期待している」と佐藤氏は述べたのだ。


Sato also said it might not be easy in such circumstances to create a facility on Japanese land for using U.S. nuclear arms, but that he believed the use of such weapons from the sea would "immediately" be possible.

Sato also mentioned the possibility that, if necessary, Japan could divert to military use the rockets it had been developing for peaceful purposes as part of its space development.

The remark was in response to McNamara's expression of hope that Japan would develop its defense-related industry and provide assistance to military programs in other Asian countries.

A separate summary of the summit between Sato and Johnson shows Sato asked for a U.S. guarantee that it would protect Japan under its nuclear umbrella. Johnson responded, "You have my assurance." Sato pledged in 1967 that Japan will not possess or produce nuclear arms, or allow them onto its territory.


現下の状況を鑑みるに、日本が米国の核兵器を運用するための施設を日本の領土内に施設することは容易ではないけれども、日本の領海から核兵器を行使することは「現在においても」可能であると彼自身確信している旨もまた佐藤氏は述べた。

もし必要とあらば、非軍事の平和的な宇宙開発のために推進してきたロケットを軍事利用に転換することも日本にとって可能であると佐藤氏は公式に言明した。

この言明はマクナマラ国防長官の日本に対する要望に対するものである。而して、マクナマラ氏の要望とは、日本がその防衛産業を発展させ、もって、他のアジア諸国の軍事力充実の計画に対する支援を提供することを望むというものであった。

【対マクナマラ会談とは】別に行なわれた佐藤-ジョンソンの首脳会談では、佐藤首相は、その核の傘の安全保障によって日本を守るという米国の保証を要請しており、他方、ジョンソン大統領はこの要請に対して「私が保証する」と応じた。而して、1967年、佐藤首相は日本が核兵器を保有することも作ることもしないし、更には、その領域内に持ち込まれることを許容することもない旨を誓約するに至ったのである。



【参考記事:核武装と安全保障を巡る憲法論】

・破綻する峻別論☆集団的自衛権と個別的自衛権
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/41008859.html

・敵基地先制攻撃と専守防衛論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/37578758.html

・第二次世界大戦の終焉☆海外の日本核武装推進論紹介(上) (下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/41643367.html

・米国にとって日本の核武装は福音である☆<Frum>論説紹介(上) (下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/41975111.html

・護憲派による自殺点☆愛敬浩二『改憲問題』(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/34986878.html








(2010年3月11日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★



テーマ : 沖縄米軍基地問題
ジャンル : 政治・経済




朝日新聞の今日の社説は「朝鮮学校」援護ネタ。高校無償化支援を朝鮮学校にもだって。そもそも、民主党不況の中で国民がこんだけ苦しんでいるというのに、高校無償化とか馬鹿言ってんじゃねー。大体、生活が苦しいから子供はよーつくらん言ってる男女から税金取り立てて、それをより生活が楽な層に配分するというのがこの制度。これ「逆鼠小僧」だよ。而して、そんな渦中に「朝鮮学校―除外はやはりおかしい」と社説を書く朝日新聞。まじ、民主党も朝日新聞も、こいつら狂ってる!

今日の朝日新聞社説。皮肉ではなく、正直、見事だと思いました。批判できません。内容がないから。正に、「蛸の缶詰」(手も足も出せません)。要は、本文全629字、400字原稿用紙1枚半かけてこの社説が言っていることは、

朝鮮学校で学ぶ生徒への支援の問題と、北朝鮮の異様な体制への対応を同一線上でとらえるのは、やはりおかしい。

    
そして、その根拠は

子どもの学ぶ権利は、基本的に差別なく保障されるべきだ。核開発や拉致問題で制裁を続けていることを理由に朝鮮学校を支援から外すことは、そうした問題とは関係のない子どもたちにも、制裁を加えることになる。それはあまりにも不当なことだ。
   


と、こんんだけ。朝日新聞さん、おかしいのはアンタの方だよ。

第一に、「子供の学ぶ権利」を保障すべきはその子供が属する国です。要は、朝鮮学校の場合は北朝鮮政府(子供の権利条約からも相互主義を越えて、子供の「滞在国=日本」になんの責任にもありません)。

第二に、この高校無償化の制度は日本国民に対しても「社会権」の具現ではないという制度趣旨。つまり、当然、その給付は憲法上の権利ではありません。よって、どこを支給先として認めどこを認めないかは行政の裁量で決められること。而して、各種学校扱いの<学校>の中でも線引きは当然ありうる。

要は、国家予算も無限ではないのだし、というか、火の車なんだから。その線引きに必然性はないけれど「調整問題」的にどこかに線を引かなければならない問題(★)。つまり、「朝鮮学校」を支援しないにせよ、日本の私立学校には支援しないにせよ、これは「差別」には土台なりえない問題なのです。

★註:調整問題
交通信号の「赤」が止まれ、「緑」が進めの意味を帯びる必然性はどこにもないからといって、信号のルールが決まっていなければおちおち道も歩けなくなるでしょう。あるいは、左右の両側、同じ距離に質・量とも全く同じ餌を置かれた羊が、左右のどちらから食べるべきかを悩んだ末に餓死することは(おそらく)ないでしょう。これらの思考実験に含意されている、社会規範の正当化ロジックを調整問題と言います。

ある社会規範の内容が論理的にも政治哲学的にも必然性を欠くとしても、取り敢えず社会的にある取決めがなされていて、社会の構成メンバーがその取決めに従うことを当然と考えていることが、当該の社会にとってメリットがあるとする見解です。日本の憲法学界では<将来>の通説を代表すると思われる長谷部恭男さんがしばしば使用するロジックでもあります。

ただ、私はこの「調整問題」のアイデア自体は実にマチュアーな法的思考の枠組みだと思いますが、長谷部さんが、人権理念の普遍性と人権が現実的には各主権国家単位でしか保障されないジレンマをこの枠組みを使い説明しておられることには疑問を感じています(『権力への懐疑』(1991年), pp.39-41)。    



もっとも、個別、朝鮮学校。これは、資格試験予備校や高校卒業者を受け入れている専門学校等、他の多くの各種学校扱いの<学校>と比べて、普通教育(も)している以上、他の専門学校よりも支給されるべき度合は大きいのは事実でしょう。また、支給と引き換えに、学習指導要領の拘束力がこれからマストとして及ぶのであれば、要は、今後は日本政府の監視下で「反日教育」や「テロリスト養成教育」をしないように管理できるというのなら、支給はむしろ朝鮮学校の管理強化という目的から悪い話ではない、鴨。

けれど、逆に、朝鮮学校が、核武装を進め拉致という国家犯罪を犯しといてなんら悪びれない<仮想敵国>であり、反日国の<学校>であるのも事実。そして、彼等が日本政府の監視と管理を受け入れる制度的な保証は皆無。ならば、「やらずぼったくり」、というか、「反日やり放題のぼったくり」の可能性が極めて高いことを鑑みれば、「朝鮮学校への支援」は金輪際なし。それが、普通の大人の判断ではないか。と、そう私は考えています。

ということで、結局、朝日新聞の今日の社説は、単に、

朝鮮学校で学ぶ生徒への支援の問題と、北朝鮮の異様な体制への対応を同一線上でとらえるのは、やはりおかしい。
    


と、呟いているだけの代物。おいおい、

全国紙の社説紙面を使ってtwitterすなちゅーねん!




ということで、今日の無内容社説「記録」としてブログに格納しておくことにしました。 



chimachogo




●朝鮮学校―除外はやはりおかしい

高校無償化法案の審議が国会で始まった。対象に朝鮮学校の生徒を含めるかどうかについて、川端達夫文部科学相は「排除の立場では検討していない」と述べ、北朝鮮との外交上の問題は判断基準にはしないとした。

発端は中井洽・拉致問題担当相が、北朝鮮制裁を理由に除外を提起したことだった。鳩山由紀夫首相も先月末、「国交のない国だから、教科内容を調べようがない」と語った。

だが朝鮮学校の教育の大半は日本の学校に準じており、内容も公開されている。「調べようがない学校」ではない。先週は、衆院文科委員会の約20人が東京朝鮮高級学校を視察した。

朝鮮学校が北朝鮮とつながりがあることは事実だ。北からの援助金に運営の一部を支えられる。高校の教室には金日成、正日父子の肖像画があり、修学旅行は中国経由で平壌に出かける。独裁体制維持の手段である主体(チュチェ)思想も朝鮮史などの授業で触れられる。

そうであっても、朝鮮学校で学ぶ生徒への支援の問題と、北朝鮮の異様な体制への対応を同一線上でとらえるのは、やはりおかしい。

子どもの学ぶ権利は、基本的に差別なく保障されるべきだ。核開発や拉致問題で制裁を続けていることを理由に朝鮮学校を支援から外すことは、そうした問題とは関係のない子どもたちにも、制裁を加えることになる。それはあまりにも不当なことだ。

日本の朝鮮半島併合から100年。日本で暮らすコリアンが植民地支配以来の歴史を背負わされた存在だということも、忘れてはならない。

第2次大戦後も日本に残った人は、その後の祖国の分断という状況に苦悩した。北を支持する人、南を支持する人、どちらにも距離を置く人。差別に囲まれ本名すら名乗りづらい日本社会の中で、北朝鮮政府に支援された朝鮮学校が、在日朝鮮人社会のひとつのよりどころになってきた。

現在は、朝鮮学校生の半数程度が韓国籍だ。父母の姿勢も北朝鮮の支持者から反発する人まで様々である。それでも、民族の文化や言葉を大事にしたいという気持ちは共通している。

この問題は、あくまで子どもに必要な学びの保障という観点から判断すべきだ。拉致や核と学校とをことさら結びつけるような発言に、子どもたちは動揺し、傷つく。政治家は想像力を働かせてほしい。

大阪府の橋下徹知事は「北朝鮮という国は暴力団と一緒。暴力団とお付き合いのある学校に助成がいくのがいいのか」と、疑問を呈した。

だが、今冬の全国高校ラグビー大会で、大阪代表として4強入りを果たしたのは、大阪朝鮮高級学校だった。地域に深く根を下ろした学校の子どもたちを、差別する理由はない。

(朝日新聞:2010年3月8日)
    







(2010年3月8日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : 北朝鮮問題
ジャンル : 政治・経済




■憲法における公務員と公務員労組の政治活動の本性
私は、今般の小林代議士の違法献金事件に関わらず、日教組の政治活動に対しては日頃から不信を抱いています。その私が「公務員の政治活動を制限することは現行憲法から見ても慎重を要する」と、なぜ、縷々述べてきたのか。

それは、繰り返しになりますが、現在は、「公共の福祉」や「特別権力関係」、あるいは、「全体の奉仕者」等々のBig Wordsを「水戸黄門の印籠」よろしく示せば事足りるなどという古き良き時代ではないこと。畢竟、憲法訴訟論の地平で、個々の権利の性質について具体的な論拠を繰り出すのでなければ「左翼-リベラル派」との議論では太刀打ちできない、と。そう考えているからです。

けれども、現在の判例たる、全農林警職法事件最高裁大法廷判決(1973年4月25日)や猿払事件最高裁大法廷判決(1974年11月6日)が、公務員の政治活動を無条件に認めているわけではないことからも明らかな如く、「公務員の政治活動を制限することは現行憲法から見ても慎重を要する」ということは、必ずしも、日教組教師が勤務時間中に「竹島は韓国の領土」であると子供達に教える権利を容認するものではないことは当然です。否、「現行憲法の解釈論からは公務員の政治活動を一律に制限することは許されない」という理路は、一方で、日教組教師の跳梁跋扈を封じつつ、他方では、例えば、安全保障政策を巡って、専門家でありその第一線にある自衛隊員諸氏が市民の立場からする政治的発言を憲法から正当化し得る側面もあるのです。

而して、私は、小林代議士を巡る北教組の破廉恥な違法献金事件が示唆している課題は、個人としての公務員に憲法が認めている政治活動の範囲の確定だけではなく、公務員労組の適正なる政治活動の範囲、あるいは、政治的影響力の度合の確定であると考えます。そして、後者を明らかにするためには、現行憲法における公務員と公務員労組の政治活動の本性を措定しなければならず、また、その考察が前提にすべきは次の5個ではないか。と、そう私は考えています。

すべての個人や団体のすべての活動は政治性を帯びる
公務員が一市民として政治にコミットする権利は最大限尊重されるべきだ
公務員労組を排除する国家意志の形成は歪である
公務員労組の歪な政治的影響力は排除されるべきである
公務員労組と公務員の権利は無関係ではないが位相を異にする


例えば、それが私的行為であれ皇族の行為は強い政治的影響力を帯びざるを得ないように、まして、国家の権限と責務が社会の広範囲に及ぶ、所謂「行政権の肥大化」を伴った現下の大衆民主主義下の福祉国家では、どの労組であれ企業であれのどのような活動も政治に影響を及ぼさないことはない。ならば、公務員とその労組の政治活動につき憲法的に「許される/許されない」の線引きの基準として<政治性=政治的影響の有無と強弱>にはあまり多くを期待できないでしょう。

また、「公務員が一市民として政治にコミットする権利は最大限尊重されるべき」ことは、前項で引用した芦部さんの主張を反芻するまでもなく自明のこと。蓋し、彼や彼女が、()勤務時間外に、()政治政党の正式メンバーとしてではなく、かつ、イベントや配布物の主宰者や文責者側としてではなく、()政治的意見を表明したりイベントに参加したりすることは自由である。と、そう私は考えています。而して、()に関しては、現在、裁判官・検察官・警察官等を除けば公務員も政党の党員になることは禁止されていませんが、それは、些か<過剰サービス>ではないかと私個人は思います。

「公務員労組を排除する国家意志の形成は歪である」とは、<国民>という「国民」は存在しないことから明らか。つまり、普通名詞や抽象名詞の<国民>などは、政治を抽象的に考究する学的思索の中にしか存在せず、この世に実存するものは固有名詞の「国民」であり、企業経営者や公務員や民間企業の被雇用者である具体的な諸個人でしかない。何を私は言いたいのか。それは、地方・国・第三セクター併せて労働人口の公務員比率が優に10%を超える(また、一般・特別・財投を合わせればGDP比の公的支出が50%近い)現在の日本で、公務員の政治活動を認めないということは、現実には、1-2割の国民の政治参加を拒絶するに等しい暴挙でしかないということです。二つの思考実験で敷衍します。

なんらかの集会のために公園を利用したいという申請を「一般の利用者を排除する」ことを理由に当局が拒絶するケースを想起してみてください。それは、公務員の政治活動を「抽象的な国民概念=非公務員概念」を理由に拒絶することとパラレルではないでしょうか。常日頃、その時間帯には40人足らずの親子連れしか利用していない公園を、「一般の利用者の排除」を名目に例えば、400人の市民が集会に使用することを禁止するのは不条理を超えて滑稽でさえあるでしょう。

しかし、「公園=公共財」の利用というこの同じ思考実験から、別の不条理もイメージすることができるかもしれません。すなわち、常日頃、100人の固定メンバーがあたかも自分達のグループ専用の公園のようにその公共財を占有しているケースです。この場合、確かにその日その日の「一般の利用者」は40人足らずにせよ、その背後には潜在的に4000人からの利用希望者が控えているとしたら、前のケースとは逆に、その100人の固定メンバーは、公共財のフリーライダーであるだけでなく不法占拠者と呼べるのではないでしょうか。
   

上の二つの思考実験は、「公務員労組を排除する国家意志の形成は歪である」ここと「公務員労組の歪な政治的影響力は排除されるべきである」ことが(トレードオフとまでは言えないけれども)アンビバレントな関係にあることを示唆していると思います。畢竟、公務員と公務員労組の政治的権利の制限を巡る憲法訴訟論において、妥当な審査基準と合憲判断基準が那辺にあるかは、正に、紛争当事者である各プレーヤー各々の人数や利用ニーズ、そして、占拠の度合という現実具体的な<ボリューム>からしか帰納できない類の事柄であろうと思います。

最後の「公務員労組と公務員の権利は無関係ではないが位相を異にする」ことは、それらに自然人と法人の違いがあるだけでなく、公務員労組が極めて大きな社会的影響力を保持していることから演繹できるのではないでしょうか。

企業の政治活動の権利を認めた八幡製鉄所政治献金事件最高裁大法廷判決(1970年6月24日)、そして、労働組合の政治活動の権利を一定限度で認めた諸判決、例えば、沢の町モータープール事件最高裁判決(1962年5月24日);三井美唄労組事件最高裁大法廷判決(1968年12月4日);中里鉱業所事件最高裁判決(1969年5月2日);国労広島地本事件最高裁判決(1975年11月28日)を勘案すれば、蓋し、


労組が政治活動を行うことは、企業等々の私的な団体一般に認められているのと同様、必ずしも禁止されるわけではないけれども、さりとて、労組の政治活動を専ら目的とした活動は、憲法が保障する「労働組合」の正当な活動の範囲外のもの
    


とする立場に判例はあると言えると思います。更に、同一の構成要件に該当する犯罪事実を惹起したとしても(特に、累犯の場合)組織犯罪を常套する団体(例えば、任侠系団体)の構成員と一般の実行行為者では求刑にも宣告刑にもあからさまな差があるのと同様、(公務員労組の影響力の過半は、公的な資金とインフラによって可能になっていることを鑑みるならば)公務員労組の政治的影響力によって政治が歪められることを防止することは現行憲法上も可能であるだけでなく、むしろ、国民主権の原則を採用する現行憲法の要請でさえある。と、そう私は考えます。


kobayashisandazo2




■憲法における公務員と公務員労組の政治活動の内容
アメリカ連邦最高裁は、2010年1月21日、「企業・団体等が政治広告に資金を支出することを制限した政治資金規制法」を政治的表現の自由を不当に制限するものだとして違憲判決を下しました。ご存知のように、アメリカでは、原則、企業等自体からの政治献金は禁止されていますが、企業等がその分離基金(Separate Segregated Fund:企業等が間接的に寄附を行うための組織)を通して政治献金をすることは許されています。これを形式的な「お芝居」のような方便と感じる向きもあるでしょうが、法的な筋を通すことと、「すべての個人や団体のすべての活動は政治性を帯びる」という実存的な現実とを両立する智恵ではないかと思います。

すなわち、

企業や労組が政治活動にコミットする方途を確保する一方で、企業や労組がその本分(存在理由)を政治にコミットすることで喪失することのないように、また、企業や労組の影響力によって政治が歪められることがないように、企業・労組の活動と政治活動に一線を引かしめて、かつ、「企業・労組⇔政治セクター」の人・物・金の出入りを可視化すること
    


これが、健全な保守主義が根づくアメリカの智恵なのだと私は考えています。而して、これが「公務員と公務員労組の政治活動の範囲」に関する現行憲法の内容を抽出する導きの糸になるの、鴨。

ならば、繰り返しになりますが、私は「公務員と公務員労組の政治活動の範囲」に関する現行憲法の規範内容を希求するとき、問題は両面性を持っていると考えるのです。

すなわち、

(甲)公務員と公務員労組の政治活動の必然性と不可避性
行政権(というか行政サービス部面)が肥大化した現在の福祉国家の大衆民主主義体制下では、誰のどんな行為も<政治性>を帯びる、他方、地方・国・第三セクターを併せて労働人口の公務員比率が優に10%を超える(また、一般・特別・財投を合わせればGDP比の公的支出が50%近い)日本で、公務員の政治活動を認めないということは抽象的な「国民概念=非公務員概念」で現実には1-2割の国民の政治参加を縛るに等しい。

(乙)公務員労組の影響力制限の必要性と不可欠性
組織犯罪が個人の犯罪とは別枠で処理されているのと同様、極めて巨大な公務員労組に、政治的活動のフリーハンドを与えてよいのか。それは、逆に、「国民の政治活動の自由」を錦の御旗にして、実は、かなり特殊な利害単位が政治を歪めることにならないか。しかも、その団体の影響力が公的サービスに付随する物である以上、そこには線引きがなされなければならない。
   


而して、これらを前提にすれば、(その影響力が公的インフラと法的権限に起因する)公務員労組の活動は政党に対する資金提供と政策提言にほぼ限定されるべきであり、まして、公務員たる組合員を統制して、その職場に政治活動を持ち込ませることは原則禁止されるべきだ。畢竟、公務員労組はその政治参加は厳しく制限されるべきである。蓋し、労働組合は労働運動にその本分がある。しかし、このことは公務員が個人の資格で勤務時間外に(off duty)、職務遂行中の政治的中立性を「一般市民=非公務員」から疑われない限度で政治にコミットする権利が保障されるべきこととは位相を異にしている。

ならば、公務員労組の政治活動を制限する立法に対する憲法訴訟は、社会的規制と同様、審査基準において合憲性の推定を受けるタイプの事例であり、その合憲性判断基準もまた、国民主権の原則を鑑みるならば、明白性の原則(合理性の基準)が適用されてしかるべきだ。と、そう私は考えています。







(2010年3月8日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★



テーマ : 労働問題
ジャンル : 政治・経済

northground

民主党の小林千代美衆院議員陣営に、北海道教職員組合(北教組)側から多額の違法な資金が流れていたとされる事件が世間を騒がせています。而して、このことが事実ならば、小林代議士は、当然、法的と政治的の責任を問われるはずです。この<事件>が世間を騒がせているについては、しかし、より深い疑問というか憤りというかを有権者国民が感じているからではないか。

すなわち、公務員の政治活動が許されるのか、まして、公務員労組が(現在、正に、それは政府与党の有力な「支持団体-圧力団体」なのですけれども)国の政治に容喙し多大な影響力を持つことが許されるのか。これらのことを国民は疑問に感じているのではないでしょうか。

本稿はこのような認識から、個別、小林代議士や北教組の問題を超えるより一般的な地平でこのイシューを俎上に載せようとするものです。まずは、事実の概要。出典は、2010年3月2日付Japan Timesの記事(より一般的な視点から考えるという意図から、あえて英文記事で事実を振り返りたいと思いました)。


●Unionists held over DPJ-linked illicit funds
●労働組合幹部、民主党に違法な資金提供を継続

Prosecutors arrested four people Monday, including three senior members of a teachers union in Hokkaido, on suspicion they made \16 million in illegal donations to Lower House lawmaker Chiyomi Kobayashi before last year's general election.

月曜日【3月1日】検察(prosecutors)は、北海道の教員労組の幹部3人を含む4人を逮捕した。昨年の総選挙前に小林千代美衆議院議員(Lower House lawmaker)対して1600万円の違法献金(illegal donations)を行なった容疑での逮捕である。

Kobayashi is a member of the ruling Democratic Party of Japan, and the arrests from the major support base will likely deal more damage to the administration of Prime Minister Yukio Hatoyama. ・・・

小林氏は与党民主党(the ruling Democratic Party of Japan)の代議士であり、而して、民主党の有力な支持団体から逮捕者が出たことは、鳩山由紀夫首相の政権(the administration)を、それが現在置かれている厳しい状況よりも一層厳しい窮地に追い込むもののように見える。(中略)

The three union members・・・ allegedly donated a total of 16 million yen over four occasions between December 2008 and July 2009 for Kobayashi's campaign in violation of the Political Funds Control Law. ・・・The fourth person arrested, received the sum as chief accountant for the campaign, according to the prosecutors.

逮捕された3人の北教組メンバーは、2008年12月から2009年7月にかけて4回に亘り総額1600万円もの金額を政治資金規正法に違反して(in violation of the Political Funds Control Law)献金した容疑をかけられている(allegedly donated)。・・・検察側によれば、而して、逮捕された残りの一人は、その違法な献金を小林氏の選挙対策本部の会計責任者として(as chief accountant for the campaign)受領したということだ。

Among the campaign staff to Kobayashi, who was elected to her second Lower House term by the Hokkaido No. 5 constituency, an acting chief ・・・is appealing a guilty verdict handed down last month by the Sapporo District Court.

北海道5区(the Hokkaido No. 5 constituency)選出で現在衆議院議員2期目の小林代議士の選挙対策本部では、その選対本部委員長代行(an acting chief)もまた、先月、札幌地裁(the Sapporo District Court)で有罪判決を受け現財控訴している(is appealing a guilty verdict)ところなのだ。


基本的な事実の確認ですが、いかに北の大地に拠る「最強の労組-北教組」といえども、それが公に政治活動(政党の選挙応援はその最たるものでしょう!)にコミットする場合、その幹部は教師を退職しなければなりません。普通、教組幹部が選対委員長をやる場合、その人物は「教師=公務員」を退職しています(そのような場合、この世界では「退職」とは言わず「離籍」と呼びますが)。ですから、当該の小林代議士違法献金事件は、その点は(残念ながら)法的には問題にならないと思います。


kobayashisan.jpg




■公務員の政治活動の制限と憲法訴訟
現行憲法15条2項は「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と定めており、また、かっては、所謂「特別権力関係論」(公務員・在監者等、一般国民とは異なり、国家権力との間で特殊な「命令-服従」の関係にある者は憲法上の権利の享受・行使が制限されてもやむを得ないとする議論)から、当然、公務員はその政治活動の権利が制限されるという憲法解釈論が存在していました。けれども、現在、「全体の奉仕者」や「特別権力関係」の6文字からアプリオリに、かつ、オートマティカルに、①すべての公務員の、②すべての政治活動の自由を、③一律に制限することは憲法上は認められないという立場が通説であろうと思います。例えば、芦部信喜『憲法第四版』(岩波書店・2007年3月)はこう述べています。

公務員の人権については、国家公務員の政治的自由の制限(国家公務員法102条、人人規則14-7)と、公務員等の労働基本権の制限(国家公務員法98条2項、地方公務員法37条、特定独立行政法人等の労働関係に関する法律17条【逆に、1954年の改正に際して、その違法な政治活動に対する罰則規定が原案から削除された教育公務員特例法】)がとくに問題となる。公務員の人権制限の根拠は、初期の判例においては、公共の福祉および「全体の奉仕者」(憲法15条2項)という抽象的な観念に求められていた。その背後には、特別権力関係論の考え方があった。(pp.104-105)

しかし、人権制限の究極の根拠は、憲法が公務員関係という特別の法律関係の存在とその自律性を憲法秩序の構成要素として認めていること(15条・73条4号)に求められなければならない。(p.263)

つまり、政党政治の下では、行政の中立性が保たれてはじめて公務員関係の自律性が確保され、行政の継続性・安定性が維持されるので、そのために一定の政治活動を制限することも許されるのである。しかし、公務員も一般の勤労者であり市民であるから、政治活動の自由に対する制限は、行政の中立性という目的を達成するために必要最小限度にとどまらなければならないと解するのが妥当である。そういう立場をとれば、公務員の地位、職務の内容・性質等の相違その他諸般の事情(勤務時間の内外、国の施設の利用の有無、政治活動の種類・性質・態様など)を考慮したうえで、具体的・個別的に審査することが求められよう。

そのための審査基準としては、公務員が公権力(国ないし地方公共団体)と特別な法律関係にある者であることも考えあわせると、「より制限的でない他の選びうる手段」の基準が適切であろう。現行法上の制限は、すべての公務員の政治活動を一律全面に禁止し(その点で表現の内容規制である)、しかも刑事罰を科している点で、違憲の疑いがあるが、判例は、全農林警職法事件判決【以降、これらをすべて合憲と解している】(p.266)

   

畢竟、現在の憲法訴訟論における憲法上の権利の制限は、(a)可能な限りそれをミニマムにすべく、(b)制限される自由の種類と性質に着目してこれを類型化し、かつ、(c)権利制限の根拠の合理性を、権利制限の手法に着目してこれまた合理的に類型化する、重層的な類型化の思索を基盤としている(★)。

ならば、それ自体を切り取る時、その業務が公権力の行使・運用とは必ずしも言えない現業的職務や単なる事務処理的な業務に専ら携わっている公務員と高級官僚を同一視すること、または、教師が勤務時間中、卒業式で日の丸・君が代に反対するとか、あるいは、「竹島は韓国の領土だ」などと日本国政府の立場と異なる見解を子供たち教えるなどいう破廉恥な行いと、同じ、教師が公休日に「北方領土返還デモ」や「拉致問題糾弾市民集会」に参加することを同一視することは現下の憲法訴訟論からは支持されない。

蓋し、芦部さんが述べておられる通り、判例が公務員の政治的自由に関して、現行法規の広範囲、かつ、一律の制限を合憲としている現状においても憲法訴訟論からはそう言えると思います(要は、判例もこの同じ憲法訴訟論を前提に、異なる事実認定と法益の異なる比較考量から通説とは正反対の結論を導いているということです)。

★註:憲法訴訟による権利の保障と制限
現在の憲法訴訟論の地平からは(一応、二重の基準論を前提にした上で)精神的自由の制限か、経済的自由の制限か、経済的自由の制限とすればそれは(食品や住居等の安心安全を図るための)社会的規制かそれとも狭義の経済規制か、更に、後者とすればそれは(所有権や経済活動の自由を制限する)消極的な経済規制か、それとも、ケインズ政策の断行、社会経済の円滑な運営や福祉国家の実現のための積極的経済規制であるかに従い、権利が国家により保障される度合には差があるものと考えられています。理念的に言えば、規制を行なう国家にとって違憲判決を喰らい易い順、すなわち、権利制限のための敷居が高い順(高→低)に並べれば次の通り、


表現内容に着目した精神的自由の制限
表現内容には無関係な精神的自由の制限
消極的経済規制
積極的経済規制
社会的規制


而して、憲法が「権利制限を制限する度合」は、「より制限的でない他の選びうる手段」の基準等々、具体的には、(イ)憲法訴訟の審査基準:どの程度の厳格さで人権侵害を審査するか(および、この裏面としての「権利を制約する法規に合憲性が推定されるかどうか」あるいは「違憲を立証する責任は誰に帰属するか」)、そして、(ロ)憲法訴訟の具体的な合憲性判断基準:何が満たされれば違憲とされるかの二つの軸の交点に求められるのです。

    


<続く>






(2010年3月7日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★



テーマ : 労働問題
ジャンル : 政治・経済

fujiwara12


◆憲法規範の言語分析
大東亜戦争後の日本の憲法学が唱えた<日本にしか存在しない法段階説>は一見、論理的にも実務的にも磐石と見える。けれども、それは憲法を巡る政治や思想の現実的な課題を解決する力を持ち得ません。なぜならば、なにが現行憲法体系の頂点たる価値であるかの判定は論者の主観に依存するしかなく、その現実的な決定は多数決で行われるしかなくなるからです。この事態は「憲法規範による国家権力の制限」や「民主的な手続きによっても奪われない人権の立憲主義的な保障」という彼等が後生大事に護ろうとする<近代憲法の本質>なるものとさえ危うくするに至る。いずれにせよ、戦後民主主義を信奉する輩が自身の願望と妄想にすぎないものを「憲法の精神」や「憲法の主意」と呼んで現実政治を批判する現在の日本の日常風景は、実にこの戦後日本の憲法学が犯した掟破りに起因するのかもしれません。尚、各自が憲法の内容と信じる内容の多様性については下記拙稿をご参照ください。

・憲法と常識(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58258370.html

・憲法無効論の頑冥不霊と無用の用(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58998947.html

憲法を含む総ての法規範は幾つかのタイプのルールの結合と考えられます。H.L.A ハートがその主著『法の概念』(みすず書房・1976年2月)で抽出したように、法とは第1次ルールと第2次ルールの結合である(同書・90頁)。第1次ルールとは(例えば、「汝姦淫するなかれ」とか「殺すな・傷つけるな・盗むな」という規則のように)、人に具体的な行動の指針を直接与えるタイプのルールであり;第2次ルールとは、第1次ルールを誰が供給するのか、ならびに、誰が第1次ルールを変更・廃止するのかを定めるルールである。

ケルゼン流の法段階説とH.L.A ハートが主張する二種類のルールの結合としての法体系のイメージとの差異は、前者が抽象的な規範論理の世界でしか法体系の一体性を提示できなかったのに対して、後者は具体的な個々の法律を念頭に置きながらも法秩序の体系理解(再構築)を可能にした点にある(尚、H.L.Aハートのアイデアは国内法秩序のみならず国際法秩序にも適用可能ですがこの記事では一国内の法体系についてのみ検討しています)。

一国の法秩序は体系を成す。しかし、具体的な法規範を念頭に置いて法体系をイメージする場合には、それは、ケルゼンが率いた純粋法学派が語ったように(正確には、その法段階説を換骨奪胎した日本の戦後憲法学の主流派が騙るように)、憲法の中の基本原則やそれを謳う条文→他の憲法の条文→法律→規則・政令・条例というような法律の形式に応じたピラミッド構造ではなく、諸法律の機能に着目した上での第1次ルールと第2次ルールが縦糸と横糸として編上げるダイナミックな法体系に他なりません。

フッサール的な言辞を使えば、国家とはそのような<生きられてある編物>としての法体系が社会学的に確認されるような人間集団:あるいは、そのような常に自己組織化を繰り返しながら自己を再生し再構築していく法体系を、自分自身のアイデンティティとプライドの源泉としている人々が作る公的関係性の総体に他ならないのです。

では、第2次ルールと実質的意味の憲法はどのような関係にあるのでしょうか? 「社会あるところ法あり」。文化人類学や考古学の報告を読む限りこの命題は恐らく正しいのでしょう。しかし、文化人類学や考古学のレポートは「あらゆる人間社会に第1次ルールが存在している」ことを示唆するにとどまる。第2次ルール、すなわち、誰がどのような手続きによって第1次ルールを定め修正し廃止することができるかを定めるルールが存在すると言えるためには、その社会に<権力>が発生していたことを確認しなければならないからです。否、第2次ルールの存在と権力の存在、ひいては、権力の存在と国家の存在は同値であるとさえ言えるでしょう。

ここで、権力とは「公的な資格(=権威)をもって他者の行動を左右する命令を出すことができる権威とその機能」と定義すれば、権力の存在の有無は当該の社会に公的な正当性が生じているか否かに収斂します。公的で正当な資格を持つ者(機関)の命令によって特別な強制がなくとも人々の集団的の行動が統合され、日常の生活が秩序を持って営まれることが権力と法の機能の核心である(よって、強権的な独裁国家はその統治する人々の行動を統合し制御するために法治体制と比べて膨大なコストを割かねばならず、見かけのその勇壮さとは裏腹に国家経営のスタイルとしては劣等だと言えよう)、と。蓋し、「国家(=権力)あるところ法(=第2次ルール)あり」なのです(★)。

★註:第2次ルールと法段階説と実質的の意味の憲法
ハート『法の概念』に言われる、第1次ルールと第2次ルールの差異は、現実の社会においてルールが果す役割に着目した(法の機能的側面に着目した)区別です。よって、憲法が第2次ルールで刑法や民法などの憲法よりも下位にある法規が第1次ルールというわけではありません。

また、ハンス・ケルゼンの言う根本規範、すなわち、総ての国内法秩序に授権する究極の最高規範(それは、法体系のピラミッドの頂点とイメージされる。)が第2次ルールでありそれ以外の大部分の憲法の条規を含む(些かでも内容を持った)法規範が第1次ルールというわけでもない。ケルゼンの考える法体系は、内容を捨象され上位下位という差異(それは石材の大小の規格の差異と考えればよい)だけによってそのあるべき位置を定められた石材によって積み上げられたピラミッドなのでしょうから。

ハートの考える第1次ルールと第2次ルールの結合としての法体系は、縦糸と横糸の二種類の糸によって編上げられる織物としてイメージできます。而して、実質的意味の憲法とは第2次ルールの核心たる権力の正当性を担うものであり、第2次ルールとしての実質的意味の憲法は、法の形式として必ずしも「憲法典」である必要も成文法である必要もないのです。



◆日本における実質的意味の憲法の成立とその内容
太安万侶の時代に憲法はあったのか? 太安万侶が古事の記録と格闘していた時代にも憲法は間違いなく存在した;なぜならば、太安万侶の時代には間違いなく公的な権力が存在しただろうから。先の問いに対してはこう答えることが許されると思います。

では、太安万侶の時代の憲法はどんな内容だったのか? 

私は上で、実質的な意味の憲法についてこう記述しました。憲法とは「法律の名称に「憲法」という文字が使われているかどうかは問わず、国家権力の所在と正当性の根拠、権力行使のルールや権力を行使する官僚・公務員の責務と権限の範囲、ならびに、国民の権利と義務(あるいは臣民の分限)を規定する法律」、であると。憲法の経験分析を経た今、この記述の中の「国家権力の所在と正当性の根拠、権力行使のルールや権力を行使する官僚・公務員の責務と権限の範囲」が直接的に;そして、「国民の権利と義務、あるいは臣民の分限」が間接的反射的に、第2次ルールの内容(の一部)となると私は考えます。

なぜならば、法体系とは第1次ルールと第2次ルールの結合でありそれらが縦糸と横糸となって編上げる秩序である。そして、法体系とはそのような秩序の恒常的な変化のダイナミズムである。また、第2次ルールの核心は権力でありその権力の正当性に他ならないからです。

ならば、太安万侶の時代の実質的な意味の憲法の内容とは、律令(大宝律令・701年、養老律令・718年)の中で「国家権力の所在と正当性の根拠、権力行使のルールや権力を行使する官僚・公務員の責務と権限の範囲、ならびに、国民の権利と義務(あるいは臣民の分限)を規定する法律」の規定を含みはするものの、その核心は、『記紀』(『古事記』・伝712年、『日本書紀』・720年)が描く我が神州、豊葦原之瑞穂国の成り立ちのイデオロギーそのものと言えるでしょう。また、文字を解読できない当時の多くの日本人にとってヴィジュアルに日本の国家権力の成立と正当性を悟らせたであろう藤原京こそ、書かれざる憲法テクストだったのではないか。私はそう考えています。そして、神話・都市・法典の三者を一体として実質的意味の憲法と捉えるこの点こそ、私が上山先生の立論の地平から一歩進めたいと思っているポイントなのです。

●神話・都市・法典の三位一体によりなる実質的な意味の憲法
実質的意味の憲法を含む形式的意味の憲法=律令
実質的意味の憲法の核心=記紀
実質的意味の憲法のヴィジュアルテクスト=藤原京



結論を書きます。太安万侶の時代にも憲法は存在した。それは『記紀』と藤原京をそのテクストの中核としながらその一部は律令の中に散在していた。そして、その憲法内容の核心は、この豊葦原之瑞穂国を万世一系の皇孫が統治したまうことの正当性であった、と。

ならば、安万侶の時代、憲法の存在の有無とその内容を最も知っていた一人は他ならぬ太安万侶自身だったと言えるでしょう。新首都建設の槌音を聞きながら、唐心の粋たる律令を我が神州の国柄にふさわしく改編すべく明けても暮れても律令のテクストと格闘する若い官僚達と交流しつつ、第2次ルールの核心たる権力の正当性を紡ぎだし編上げようとしていた太安万侶こそ、藤原京に憲法が華咲いた事実を知るなによりの証人であったと私は考えるのです。そして、藤原京に憲法が華咲いた事実と我が神州が<日本>として成立したこととは同値である、とも。

藤原京における憲法創造の作業は、スポンサーである持統天皇の命の下、藤原不比等をプロデューサーとして太安万侶を含むスタッフ、ならびに、不比等のブレーンたる帰化人グループが協働でことに当たったのでしょう。そして、不比等が中心となってデザインした日本の国家としての図柄は現在でもある意味不変である。而して、1300年の時空を超える生命力を持つ国家デザインを構築した不比等のタレントに私は驚愕せざるを得ないのですが、しかし、それと同時に、不比等の才能を見抜きその才能を存分に発揮させたスパークイーン持統天皇の偉大さもまた1300年の時空を超えて伝わってくるのです。

さてもさても、上山春平先生の顰にならい「ヴィジュアルテクストとしての藤原京」とまで口走ってしまいました。実に、筆の勢いの恐ろしさよ、です。しかし、神州の国家と憲法の基盤が構築された過程を考えてみるにつけ、私は日本と日本人に対して小さいけれど確実な希望を覚えました。

壬申の乱の際の天武天皇ほどの大義名分も手練手管も欠く、正に、日本史上「最低の天皇=後醍醐」の新政の如き、民主党政権がもたらす混乱とその収集にこれから10年ほどの日本は混乱を極めるのかもしれない。しかし、大東亜戦争後の日本を牛耳ってきた戦後民主主義の主張と思想がこの混乱の中で終にその神通力を喪失することもまた、確かであろう。

ならば次の保守改革派の政権が樹立されるまでは、「風車 風が来るまで昼寝かな」でも悪くない。今まで半世紀あまり戦後民主主義の欺瞞と詐術が続いていたことに比べれば、3-4年などものの数ではないでしょう。天智天皇と天武天皇の志は、大化の改新の60年あまり後、天智天皇の娘であり天武天皇の后であった鸕野讃良皇后のリーダーシップによって具現したのですから。而して、鸕野讃良皇后とは持統天皇その人のことです。







(2010年3月7日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済

kojikidazo


◆憲法規範の経験分析
大東亜戦争後の戦後の第一世代の憲法学のチャンピオン宮沢俊義先生や清宮四郎先生を始めとする日本の多くの憲法研究者に強い影響を与えたハンス・ケルゼンとその学派(法学のウィーン学派=純粋法学派)は「法段階説」を唱えました。

曰く、憲法は国の最高法規としてその下位の法律に法的な正当性の根拠を与え(上位規範のこの作用を授権規範と呼ぶ)、かつ、法律各条の意味内容について大枠の指針を与える(上位規範のこの作用を制限規範と呼ぶ)。そして、議会が作る法律は憲法がしたと同じようにその下位の規則や政令および条例に法的な正当性の根拠を与え、かつ、法律各条の意味内容について大枠の指針を与える。かくして、一国の国内法体系は憲法を言わばピラミッドの頂点にして整然とした階段状の秩序を形成する、と。このアイデアはコロンブスの玉子ではあるが確かに美しい。

宮沢俊義先生を始めとする日本のケルゼニアンの憲法学者は、しかし、ケルゼンの法段階説を換骨脱退する掟破りを犯している。すなわち、ケルゼンの法段階説は、具体的な内容を捨象した規範論理としてこの法体系のイメージを考えたのに対して、宮沢先生以来の日本の憲法学の通説は法段階説(的な紛い物)を使って具体的な条文間の授権と制限の関係を説明しようとした。大東亜戦争後の日本の憲法学の通説は、国民主権・平和主義・基本的人権を憲法改正の手続きによっては改正不可能な事項にすべく、現行憲法の103条が規定する諸憲法規範の中にも数段階のレベル差を設定し、現行憲法の内部にも授権と制限との関係を設定しようとしたのです。

法段階説がコロンブスの玉子になれたのは、それ以前のどの時代の法律家も、具体的な法規と法規の関係を想起した場合、純粋法学派がやったようなシンプルでラディカルな体系性をイメージすることができなかったからです。他方、ケルゼン率いる純粋法学派にそれが可能だったのは彼等が法規範の具体的な内容を捨象して、あくまでも規範論理的思考を貫徹しえたから。新カント派法学方法論の切れ味はここに極まった。そして、法段階説を上のように捉える場合、日本の憲法学の通説は格闘技のK1の試合にピストルや日本刀を持ち込んだようなもの。具体的な法内容(ピストルや日本刀)を捨象することで始めて成り立つ法段階説(K1のゲーム)に、法段階説の構図はそのままに法の具体的内容を導入したのですから。

このケルゼンと日本に特殊な「法段階説」を補助線とするとき、我々が表象する憲法の経験はどのように捉えられるでしょうか。私はそれを次の様な標語で表現することにしています。すなわち、

・事実と規範の世界を跨ぐ憲法
・事実と価値の交錯する特異点としての憲法


蓋し、憲法とは国家の最高法規であり、実定法上それを根拠づける法規は存在しません。畢竟、憲法は政治的実力によって<事実>の世界から<規範>の世界に産み落とされ、その後は、その規範の世界でこんどは自分が産んだ下位法という雛鳥をその規範の翼の下で育てるすべての下位法規の母鳥となる最高法規なのです。

畢竟、ならば、最高法規としての憲法を(少なくとも、国内法的には)根拠づける実定法は存在しない。よって、現行憲法9条と(国家および憲法の概念から導かれる)自衛権との関係、あるいは、米国憲法における政教分離原則とキリスト教会への補助等々、ある憲法体系の内部に条項間で、または、憲法典と憲法慣習の間に矛盾抵触がある場合には憲法の有権解釈者が解釈を通して解決するしかないのです(★)。

★註:憲法改正の限界
憲法改正には限界があるのでしょうか。この点について注意すべきは、憲法改正に限界があるとしても、現実的に「改正=制定」された新しい憲法の効力が直ちに否定されることはないことです。

例えば、憲法無効論の論者が述べるように、現行憲法は旧憲法に違反するがゆえに無効だというのなら、法概念論からは、それは旧憲法とは別の新しい憲法が制定されただけのこと。蓋し、(憲法改正限界説を採る論者にとって)旧憲法に違反する新憲法、すなわち、憲法改正の内容的限界を越えたか、あるいは、憲法改正手続きを逸脱してできた法規もそれが最高法規として当該の社会で機能しているのなら憲法に他ならず、その場合、件の憲法改正は(旧憲法の改正手続条項を新憲法の<戴冠式>のアクセサリー、つまり、<戴冠式>セレモニーの式次第として使った)新憲法の制定であり、畢竟、新憲法は旧憲法からの正当化を期待していないというだけのこと。

この点、長谷部恭男さんの見解、憲法の「改正権に限界があると主張する論者も、そのような限界を越える改正が事実として起こりえないと考えるわけではなく、そのような「改正」が行われたとしても、それは法的な観点から見れば「改正」」とは評価しえず、変更後の憲法と変更前の憲法との間には、法的連続性はない、つまりそれは「改正」ではなく「革命」であるとするにとどまる。したがって、新しい憲法は、前の憲法とは異なる根本規範に立脚した憲法だということになる」(『憲法第3版』p.41)、および、この論点の専門研究者である赤坂正浩さんの見解、「いずれにせよ、裁判所による改正内容の事後審査が、事実上はもちろんのこと【事後審査する当の裁判の権限を基礎づけるものは最早<改正-制定>後の新しい憲法なのだから】法的にも困難だとすれば、法理論的な説明のレベルを超えた現実の世界では、憲法改正限界論には改正提案への警鐘という役割だけが期待されることになるのだろう」(「憲法改正の限界」(ジュリスト1289号所収), p.25)は、憲法が事実と価値の交錯する特異点であること、憲法の事物の本性を踏まえた中庸を得たものだと思います。



◆憲法規範の効力根拠
憲法を前項の如く考えるとして、そのように認識される憲法が、社会の秩序を担保する機能をどうして発揮できるのか。このことを我々はどう考えればいいのでしょうか。蓋し、19世紀中葉以降、「自然法 vs 実定法」の二項対立の図式で論じられてきた「法の効力根拠」は何かという論点(★)(★)。これがここで一瞥する問題です。

畢竟、「なぜ我々は憲法とそれを枠組みとする憲法秩序に従っているのか/従わなければならないのか」という問いに対する解答体系を「法の効力論」と呼びます。この法の効力根拠に関しては、尾高朝雄先生が定式化しておられる(『実定法秩序論』(1942年, pp.71-87)、『改訂法哲学概論』(1953年, pp.232-239))。すなわち、法の効力とは、

①法の妥当性と法の実効性である
②法の妥当性とは規範意味実現への社会的要求
③法の実効性とは規範意味が事実として実現されていること


注意すべきは、ケルゼンの純粋法学のみならずフッサールの現象学を学んだ尾高先生にとって、法の妥当性とは、「法規範が現実に行なわれねばならないという要求」であり、その本質は、「国民の法意識-法的確信」という社会的実在であること。よって、「法の正統性」と法の妥当性は論理的には無関係ということ。また、後に、尾高先生の高弟である井上茂先生がより明示的に示された如く、法の実効性も法の妥当性も、単なる一法規条項の問題ではなく法体系を単位にその有無強弱が判定されることです。

尚、日本では、単に、法体系の認識論として取り扱われる向きも無きにしも非ずのケルゼンの「法段階説」も(確かに、法段階説自体は、事実と価値、存在と当為を峻別する新カント派の認識論を基盤としており、「法現象とは法的観点から見られた社会現象に他ならない」という法概念論の帰結ではありますが)、実は、「なぜ国家の「命令=法」に我々は従わなければならないのか/従っているのか」の問いに対する解答でもあるのです。

★註:自然法と自然権
人が人であることだけを根拠に普遍的に認められる、かつ、誰からも奪われることのない人間に固有の権利を自然権と言い、その自然権を定める法を自然法と言います。このような「自然法-自然権」の法思想は鬼面人を驚かす類の際物ではなく、ラートブルフが喝破したように、「法哲学は、最初から19世紀の初頭にいたるまで、すべて自然法論であった」(『法哲学』, p.125)のであり、「ある法:law as it is」ではなく「あるべき法:law as it ought to be」を希求する営みが、洋の東西を問わず(韓非子等の法家思想を含む)人類の法思想であったことは間違いないでしょう。而して、基本的人権を「天賦人権=rights that God gives to us」とも呼ぶのは、「あるべき法=自然法」として基本的人権を理解するということであり、それは、18世紀の「法哲学=法概念論」の残滓と言うべきものだと思います。

自然法(natural law, law of nature)という概念は、現在で言う自然法則(natural law, laws of nature)のアナロジーから生じたと言われています。しかし、その概念に憑依する「事実の本性=法規範の内容を認識するために不可欠な、予め慣習的にある言葉として形態づけらた概念に盛り込まれる経験的素材」から言えば、すなわち、観念の領域では、自然法則の観念が寧ろ自然法のアナロジーによって形成されたと言うべきかもしれません。

重要なことは、ラートブルフが「19世紀の初頭にいたるまで」と限定しているように、近代主権国家誕生の前夜まで、既存のレジュームに対する批判イデオロギーであった「自然法-自然権」の具体的内容(精神的自由権や財産権等々)は、所謂「市民革命」の後、近代主権国家が成立するや否や、その憲法秩序にビルトインされたこと。尾高朝雄先生の言葉を借用すれば、18世紀の「自然法-自然権」の具体的内容が「法超越的正義→法内在的正義」に移行したこと(尾高朝雄『改訂法哲学概論』pp.272-278)。而して、自然法の歴史を紐解くとき、具体的な規範内容とは別に、現前の実定法秩序を相対化し批判する<論理形式>としての「自然法-自然権」概念を措定することが可能であり、また、井上茂先生が定式化された如く、自然法の存在の是非と「自然法思想は、事実、歴史的に存在した」(『自然法の機能』)ことは別の位相にあると言うべきなのです。

★註:法実証主義
法実証主義の意味については、矢崎光圀先生の説明が日本の法学研究者コミュニティーの共通財産になっていると思います(「法実証主義の再検討」『法実証主義の再検討:法哲学年報-1962年』(1963年4月)所収;『法哲学』(筑摩書房・1975年;pp.312-322))。私なりにそれを整理すれば、法実証主義とは以下のような傾向性を帯びる法的思考のスタイルと言えるかもしれません。

①実定法主義(法とは人間の命令である)
②経験主義(経験的に認識できる規範だけが法である)
③ある法主義(法と道徳の峻別;法外の価値判断に対するイデオロギー批判)
④法についての確実性または蓋然性の信念

些か補足すれば、①に関しては、八木鉄男先生によれば、近代主権国家成立以降は「法とは主権者の命令」と解した方が実情に近いかもしれません。また、ハートによれば、④には「社会学や社会心理学、政治哲学的な法価値論からの法解釈学の独自性に対する信念」「法は閉じた意味空間であり、論理的演繹操作によって法規範の意味を発見しうるという信念」がコロラリーとして含まれると思います。



<続く>






(2010年3月7日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済



古事記と藤原京と憲法。この三題話しを書く。戦後、日本に繁栄と安定をもたらした自民党政権が、その成功の代償たる経済社会の閉塞状況の中で瓦解した姿に、なにほどか壬申の乱に至る政治の流れと似たものを私が感じているからです。それもあり、最近、改めて大化の改新から白村江の敗戦、そして、壬申の乱を経た藤原京から「あおによし奈良の都は、咲く花の匂うがごとく今盛りなり」の平城京までの歴史を反芻しいています。

神話・都市・法典と並べれば、「それ上山春平先生の二番煎じですか」と感じる向きもあると思う。その通りです。この記事の枠組みは上山先生からの全くの借用。

蓋し、上山先生の主張、(甲)現在に続く日本国の国家デザインは藤原不比等(とスポンサーの持統天皇)が行なった;(乙)そして、その国家デザインの手法は、 (1)日本風にアレンジした支那の「法制度=律令」であり、(2)国家体制確立をヴィジュアルに示すためのこれまた支那風の大規模な「都城=藤原京」、および、(3)国家権力の正当性をアピールし国民に日本人としてのプライドとアイデンティティを与える「歴史と神話の体系=記紀」である、との立論に私は原則同意します(尚、本稿では些かマニアックな記述はすべて「★」印の註で論じています。御用とお急ぎの向きは註を飛ばして読んでいただければと思います)。

「持統天皇の御世になされた国家デザインの中で、はじめて日本と日本人なるものも成立した」とする上山説をベースキャンプにしながら、憲法に焦点をあてることで<不比等による日本国家デザイン説>を敷衍したい(★)。もって、早晩訪れるであろう、保守改革派の政権下でこの国をもう一度「咲く花の匂うがごとく」するための思索の嚆矢としたい、と私は思っています。

而して、本稿の論点も結論もシンプル。本稿の論点は『古事記』(★)を編纂したと言われる「太安万侶の時代にはたして日本に憲法があったのか」であり、結論は、「太安万侶の時代の日本にも憲法はあった。私はその証人を知っている」ということです。畢竟、本稿は古事記と藤原京と律令を補助線に使ってする憲法の本性の考究;特に、現代に生きる我々日本人と日本市民にとっての憲法の内容を考える試みです。

★註:不比等による日本国家デザイン説
私が<不比等による日本国家デザイン説>と名づける上山説については下記を参照いただきたい。上山春平『神々の体系』(中公新書・1972年7月)、『続・神々の体系』(中公新書・1975年4月)、および、『日本の国家デザイン 天皇制の創出』(日本放送出版協会・1992年4月)。

★註:古事記偽書説
私は「古事記偽書説」が一定の説得力を持つことを否定できないと考えています。よって、本稿では『古事記』を「国家権力の正当性をアピールし国民にアイデンティティの根拠を与える「歴史-神話体系」」という意味で使用しています。



◆憲法の定義
憲法とは何か。これはどの憲法の教科書にも書いてある。それらによれば、この辞書的定義とも言うべき憲法の意味は(イ)形式的意味の憲法:『日本国憲法』とか "The Constitution of the United States of America" のように「憲法」という文字が法律の標題に含まれている憲法典の意味。および、(ロ)実質的意味の憲法:「憲法」という文字が名称に含まれているかどうかは問わず、国家権力の所在と正当性の根拠、権力行使のルールや権力を行使する官僚・公務員の責務と権限の範囲、ならびに、国民の権利と義務(あるいは臣民の分限)を規定する法という意味の両者ということ(★)。

辞書的定義としての「憲法」の意味は大きくこの二つに分けられる。そして、実質的な意味の憲法は、成文の形態を取ることもあるけれども多くの場合それは書かれていない法(=慣習)として存在する。例えば、(現在、彼の地では成文憲法典の立案が模索されているのですが)立憲主義の母国の一つ英国には「憲法典」は存在しない。つまり、英国は形式的意味の憲法はないが実質的意味の憲法を持つ国なのです。

★註:憲法の意味
形式的意味の憲法と実質的な意味の憲法については、例えば、芦部信喜『憲法第三版』(岩波書店・2002年9月)の第1章第2節(4-5頁)参照。但し、もっと本格的に憲法の意味を知りたいという向きにはやはり、カール・シュミット『憲法論』(みすず書房・1974年5月)の第1編の熟読をお勧めします。


ところで、「国家あるところ憲法あり」とはシバシバ聞く命題ではないでしょうか。邪馬台国でも21世紀初頭の北朝鮮でも、そこに国家があれば憲法もそこにある。これは「憲法」の意味を実質的な意味の憲法と考えれば間違いではないと思います。

大東亜戦争後に猖獗を極め跳梁跋扈した戦後民主主義を信奉する憲法研究者の中には、しかし、実質的な意味の憲法を「立憲主義が組込まれているか否か」を基準にして更に二分し、国家権力を制限する立憲主義的な(実質的な意味の)憲法だけが<憲法>であると考える方もおられる。権力分立と人権規定が備わっている実質的な意味の憲法だけが<憲法>の名に値する、と。

このような論者にとっては、例えば、北朝鮮などは「憲法典は持っているものの憲法を持たない国」ということになるのでしょう。尚、私は、立憲主義の有無というよりも、数年間で自国民の1~2割を餓死せしめるような政治体制を近代的な意味での「国家」とは呼べないと考えていますけれども。

もちろん、「憲法」という言葉で何を意味させようがそれは論者の勝手です。それは文字通り言葉の問題にすぎない。しかし、ある政治体制がどのような規範に従って組織され、その組織がどのようなルールに従い動いているか、他方、その時代と社会で生きていた人は公民としてのどんなアイデンティティとプライドを持ち、どのような政治的な社会統合作用の渦の中で生きていたのかを問うに際しては、立憲主義がビルトインされた憲法だけが<憲法>だとの立場からはほとんど何も解答できないことは確かでしょう。

「国家あるところ憲法あり」。親鸞上人が法然上人の教えだけを根拠に西方浄土の存在を確信した故事に習い、私も、「国家あるところ憲法あり」→「太安万侶の時代には国家があった」→「ゆえに、太安万侶の時代にも憲法はあった」というシンプルな理路で「太安万侶の時代に日本にも憲法があったのか」について「肯」と答えようか。

しかし、こんな子供騙しの理屈で納得する読者はそう多くないでしょう。そのような<注文の多い読者>からは次のような問いが投げかけられるに違いない。では、「国家とは何か」あるいは「太安万侶の時代の憲法はどんな内容の憲法だったのか」、と。親鸞上人ほどの方だからこそ、「私には西方浄土が存在するかどうかは解りません。ただ、私は法然上人のお教えを信じるだけです」との言葉に世間は納得したのでしょうから。

論証過程は割愛しますが、「歴史的-社会思想的」な知見に頼ることなく「国家あるところ憲法あり」という命題だけを頼りに憲法や国家の定義を求めることは無益です。なぜならば、「国家とは何か」の問いと「憲法とは何か」の問いはこの文脈では同値だから(これは、x + y = 5, 3x + 3y = 15が解けないのと同様:未知数2個、式が実質1個の見かけ上の二元二式の連立方程式が解答不能であるのと同じです)。すなわち、「憲法」の意味を希求するに際して「国家あるところ憲法あり」の命題は何の助けにもならないということ。では、憲法とは何か? 辞書的定義を離れて言葉の経験分析からこの問いにタックルすることにします(★)。

★註:定義論
「言葉を定義する」ということについて確認しておきます。要は、メタ言語領域の「定義の定義」。畢竟、どのような言葉にも唯一絶対の意味はない。而して、「個々の言葉には各々唯一の指示対象がある」という考えがプラトン以来の西洋哲学の伝統的考え方なのですが、それはなりたちません。

意味とは言葉が指し示す事柄のこと。ソシュールは、言葉が指し示す事柄のことを「指示対象」や「記号内容:所記」(sinifie)と呼び、指示対象を指し示す言葉を「記号表現:能記」(signifiant)と言っています。そして、プラトン以来の「個々の言葉には各々唯一の指示対象がある」という考え方を「概念実在論:実念論」(realism)、それに対して実在するのは個々の物事や事物だけであり、そんな物事や事物の名前、すなわち、言葉とは単なる社会的な約束事や慣習にすぎない。つまり、「個々の言葉には各々唯一絶対の指示対象はない」という考え方を「唯名論」(nominalism)と呼びます。而して、中世以来、概念実在論と唯名論の間で戦わされた論争(「中世普遍論争」)は、20世紀に唯名論の後身たる分析哲学によって最終的に唯名論の勝利、概念実在論の後身としてのヘーゲル哲学・マルクス主義の敗北で終った。

どのような言葉にも唯一絶対の意味はない。けれども、実際は、多くの言葉はかなりの程度決まった特定の意味を持つものとして使われている。この現象をどう考えればいいのでしょうか。

結論はコロンブスの玉子。畢竟、言語とその意味の恣意性は、しかし、個々の言葉とその意味の関係が「無政府状態」あるいは「万人の万人に対する戦い状態」であることを意味しない。要は、中世の唯名論がすでに指摘していたように、個々の言葉とその意味の間には規約・慣習により<自然法則>ではないけれど、法や道徳の如き<社会規範>が成立している。よって、現実的にはある言葉はかなり限定された固有と言ってよい指示対象を持ちうる。逆に言えば、言語と意味を巡るルールは<自然法則>ではなく<社会規範>の一種であるから、そのルールの内容(個々の言語とその意味の関係)は時間とともに変化しうる。こう考えれば、「キリギリス」と「コオロギ」の語義が藤原京の時代は現在と反対であった経緯も自ずと納得ができるというものです。

而して、個々の言葉とその指示対象との関係をこのように理解するとき、「語の定義:意味を巡る言語使用のルール」や言語行為のマナーについては次のように言えると私は考えています。すなわち、①どの言葉をどのような意味に使おうがそれは論者の勝手で。しかし、②その論者が自己の言説を他者に理解してもらいたいのであれば、一般的に使用されているその言語使用のルールを参照するか(その言葉が専門用語である場合には、専門家のコミュニティーの内部で確立している言語使用のルールを参照するか)、そうしないのであれば個々の言葉の定義を明示すべきである、と。

これら①②の前提からは「定義」には大きく3個の種差があることが了解できるでしょう。分析哲学的な定義論が区別する、規約定義・辞書的定義、そして、言語の経験分析の三者です。この三者は、(1)規約定義:その語彙自体を話者がどのような意味内容を運ぶための言明として使用したのか、(2)辞書的定義:その命題で使われる語彙が一般的にはどのような意味として使用されてきたのか、加えて、(3)それらの語彙が通常の人間の経験分析からはどういう内包と外延を持つものかということ。すなわち、機能的・慣習的・経験的な観点から総合的かつ間主観的、そして、漸進的に語の意味は確定されるしかないということです。



<続く>






(2010年3月7日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済

ashikagatakauji


自民党の与謝野元財務大臣が、自身「離党」を覚悟の上で谷垣禎一自民党総裁に退陣を迫る決意を固めた。そんな報道を目にしました。蓋し、この動きを私は支持します。

昨年の総選挙、自民党の主要な敗因は「麻生降ろしの跳梁跋扈=組織の呈をなしていない自民党」の見苦しさにあった。そう批判してきた弊ブログが今回はなぜ総裁退陣要求の動きを支持するのか。本稿は、この点を導きの糸にして、自民党再生の道、否、「自民党解体→自民党再構築」の道筋と私が考える理路を俎上に載せるものです。


■自民党敗北の構図
そもそも、なぜ、自民党は下野せざるを得なかったか。そして、民主党政権発足から既に半年、それが数多の不祥事と幾多の拙劣さを露呈しているというのに、なぜ、自民党の支持率は低空飛行状態なのか。この点につき、昨日アップロードした記事(↓)で私はこう記しました。

・自民党、徴兵制復活を検討とな? これ「必須科目」からの逃避ちゃう?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59302782.html


なぜに、自民党の支持率は低空飛行を余儀なくされているのでしょうか。畢竟、それは、自民党の支持率が一向に芳しくない理由、つまり、三年前の<7・29>の参議院選挙と昨年の<8・30>の総選挙で有権者が自民党的政治の何に不満を感じて、「もう、自民党政権が継続するのだけは勘弁!」とばかりに、不安てんこ盛りの民主党政権を選んだのかが全く総括されていないからだと思います。

蓋し、自民党の支持率低迷の根幹は「筋の通った経済政策」の不在にある蓋し、<7・29>と<8・30>の敗北の理由は論者によって様々でしょう。而して、それが検証不可能である限り、「自民党はなぜ負けたか」の問いは解答が見出せないタイプの問いかもしれません。よって、以下に述べることはあくまでも「仮説」にすぎないのですが、私は、その理由と原因を(経済情勢の悪化は別にして)次の3点に集約すると考えています。

①構造改革の断行と地方再生の同時実現のビジョンを明確に示せなかったこと
②安倍政権以降、かっての守旧派勢力の蘇生と横行を許したこと
③麻生降ろしに象徴的な「組織の呈をなしていない」状態を露呈させたこと
    
すなわち、保守層有権者にとっても政治にまず第一に期待することは経済政策であり、小泉構造改革の後、どのような産業構造を具現していくのかを安倍・福田の両政権は国民に示すことができず、他方、それを「構造改革の断行と地方再生の同時実現」として示した麻生政権は、しかし、その目的地に至る具体的なマイルストーンを国民に告知する前に(「政党の呈をなしていない民主党」よりも遥かに下劣な)「組織の呈をなしていない自民党」というイメージを有権者に与えてしまったことがその敗因である、と。

この私の仮説は、対北朝鮮強硬策は当然のこと、例えば、首相の靖国神社参拝にせよ、南京・慰安婦・強制連行という反日プロパガンダの打破にせよ、あるいは、夫婦別姓や外国人地方選挙権への反対にせよ、これらどちらかと言えばイデオロギー的なイシューについて自民党の本来の主張を支持する「保守派」が<7・29>と<8・30>から現在に至るまで一貫して(自民党議員と保守系民主党議員の得た得票数から算定する限り)有権者の過半を占めているのに関わらず、そして、再度述べますが民主党政権発足以来、細かく数えれば2ダースを上回る<敵失>にも関わらず、自民党の支持率もまた低迷していることを鑑みれば満更荒唐無稽な仮説ではないのではないか。と、そう私は考えています。

而して、もちろん、対北朝鮮政策、首相の靖国神社参拝、南京・慰安婦・強制連行、そして、夫婦別姓や外国人地方選挙権は大変重要なイシューであることは間違いないけれど、それは「必須科目=経済政策」で及第点を取って初めて、政党の評価項目になるのではないか。而して、私のこのような認識からは「徴兵制を検討」などいう奇策はアドバルーンとしても愚劣である。なぜならば、それは自民党に期待しているコアおよびポテンシャルの支持者にとっては、(経済政策の路線対立を巡って党内抗争の勃発や党分裂を恐れるためか、世間の耳目を集めはするが)国民が政党を評価する際の必須科目への正面からの取り組みを「回避-先送り」した姑息に他ならないから。と、そう保守層は受け取るのではないかと私は考えます。
    


換言すれば、私は自民党再生の道筋(否、自民党などは潰れてもかまわない! よって、正確には「保守政党再生」の道筋)は以下の3点に集約されると考えています。

・構造改革と地方再生の同時実現のビジョンとマイルストーンの提示
・労組・官僚を結節軸とした守旧派勢力との決別
・納期を明らかにした上での路線論争と保守政治家再結集の同時遂行


失われた10年と揶揄されながらも、急激な社会変動を避けてソフトランディングした日本のやり方は、その当否は別にして一つの智恵だったのかもしれません。けれど、いよいよそのやり方の限界が誰の目にも明らかになり、よって、急激な社会変革を妨げてきた「政官財+労組」の<戦後権門体制>の解体が希求された。

これが、小泉政権発足以来、基本的には現在まで続いているこの社会経済を取り巻く基本的な構図だと思います。そして、民主党政権は自民党政権に比べて遥かに非力であり拙劣。ならば、「自民党政権=保守政権」への政権再交代は4-5年のスパンで見れば歴史的必然でさえある。蓋し、その時まで日本が存在していればの話ですけれども。

inadatosakurai



■自民党再生の道筋
大衆民主主義下の福祉国家における政治とは、マックス・ウェーバーが喝破した如く、「理想の旗を常に掲げながら、現実を一歩でも理想に近づけるために行なわれる妥協と説得の積み重ねの中で多数派を形成していく営みに他ならない」と思います。ならば、かって、左翼がそれで衰退したような「排除の論理」は最後の手段でしょう。

蓋し、連合赤軍事件や「中核vs革マル」の抗争劇を見ても、組織の純化は手のひらサイズの政治を効率化するためには有効かもしれないけれど、少なくとも、グローバル化の昂進の中、社会の構成メンバーが多様な価値観を背負い相互に交錯する利害を帯びる主権国家規模の政治に関しては「排除の論理=最後の手段」ということです。

よって、朝日新聞的な独善と教条を排し、差別排外主義を拒絶するメンバー間でなされる路線討議の中で党の方針を定め、一人でも多くの保守の政治家を「小異を捨てて大同につく」ように促すべきだと思います。そして、安全保障政策、拉致問題、首相の靖国神社参拝、南京・慰安婦・強制連行、そして、夫婦別姓や外国人地方選挙権の諸問題についてことごとく鋭い党内対立を抱える民主党に比べれば「自民党≒保守政党」が分裂しなければならない理由は乏しいかもしれない。

では、こう考える私がなぜ谷垣退陣を支持するのか。それは、「麻生降しと違い、谷垣降しが野に下った自民党内の出来事」だからか。否、です。逆でしょう。「政権=求心力」が作用する政権与党においてよりも野党においての方が「小異を捨てて大同に就く」必要性は大きいと言えるでしょうから。では、なぜ私は谷垣退陣を支持するのか。その理由は以下の3個です。

①路線論争を避け党の基本政策の集約を「回避-先送り」する総裁に存在理由はない
②民主党政権の「穴だらけの政策/危険な政策」に対して、国民運動を組織しようとしない自民党総裁はその使命を果たしていない
③自民党の再生、すなわち、「自民党解体=自民党の再構築」は清新な執行部しかなしえない


この半年でこれらのことがはっきりしたこと。すなわち、民主党のあまりの拙劣さを見てでしょうか、党内抗争を恐れてでしょうか、党の基本政策の集約を先送りして「敵失による棚ボタ式の政権再交代」を狙うような、汗をかくことを厭う政治家は野党の指導者たる資格はない。また、守旧派勢力との決別のためには、しがらみにとらわれていない清新な人材の登用が不可欠。すなわち、私は一貫して次のことを主張しているのです。

・基本政策を集約できない政党は組織ではない
・自民党は組織の呈を取り戻せ


蓋し、組織の呈を欠いたまま惰性に流されている自民党が再生するためには、組織の呈を取り戻す上での「障害=谷垣総裁」は取り除かれなければならない。而して、路線論争を有権者国民に可視化する上で、それが有効であるならば「自民党の解党→保守政党の再構築」という手順も十分合理的な選択肢でありうる。つまり、「組織の呈をなしていないこと」を、<7・29>と<8・30>の自民党敗北の原因と考える私は、この同じ認識に立って「谷垣退陣」を支持するのです。


■「自民党」の解体は<自民党>再生の一里塚
民主党の<8・30>総選挙における地滑り的な勝利の基底には、しかし、もう一つの原因があったのではないか。そう私は考えています。而して、それは、(1)国民が自民党的政治に閉塞感を覚えていただけではなく、(2)民主党が撒き散らしてきた「政治や権力の万能感」を前提とした、政治自体に対する過剰な期待と、現下の自民党政治に対する軽蔑が蔓延していたのではないかということ。

けれども、グローバル化が進む福祉国家においては、逆に、政権のフリーハンドの余地、すなわち、権力や政治に新しくできることは極めて限られている。このことは、この半年間、民主党政権自体が日々国民に教育してくれている。ならば、自民党が政権奪還できるかどうかの成否は、自民党が古い自民党から決別できるかどうかにかかっている。と、そう私は考えています。

而して、サッチャー体制の保守党政権下で、英国労働党はブレアを育てて、満を持して政権を奪取、長期政権につなげた。他方、正直、政府を運営し、国家を経営するスキルの点では、2010年3月の今の今であれば能力的には「麻生太郎」という選択肢しか日本にはないようにも思う。

しかし、歴史のダイナミズムの中で「麻生総理=最後の15代将軍」が再登板するのは難しいだろう。まして、健康問題を理由に退陣した、また、経済政策の統一的ビジョンも示せなかった「安倍晋三」カードは全有権者を想定した場合金輪際あり得ない。そうなれば、自民党は、新しい党首を全党を上げて育てるしかないの、鴨。選挙目当てのお飾りとしてではなく、「次の宰相」として育て盛り立てるしかないの、鴨。と、そう私は考えています。

蓋し、鎌倉幕府が、それ自体歴史的必然である北条得宗体制の強化に起因する経済社会の閉塞感の中で、現在の民主党政権と酷似した、史上最低の「天皇-後醍醐」の新政に移行するも、僅か数年で「新しい皮袋=足利尊氏公」のもと日本が再建された故事。これこそ我々保守改革派がイメージすべき歴史の教訓ではないか。

新しい酒は新しい皮袋へ。ならば、ここは稲田朋美・小池百合子・櫻井よしこ、等々の新しい有為の人材を棟梁陣に据えて反転攻勢をかけるべきのみ。そうでなければ、自民脱藩組の保守系新党は単なる「選挙互助会」と国民有権者から足元を見られるだけに終わるかもしれない。ならば、党一丸となって自民党は自身を「解体→再構築」して新総裁を盛りたてるに如かず。と、そう私は考えています。






(2010年3月6日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : 自民党
ジャンル : 政治・経済

futenmadazos.jpg


以下ブログ友の桜乃宮アリス姫の記事転載です。

・浸食すること桜の如くブログ-元記事URL
 http://blogs.yahoo.co.jp/kira_alicetear/24209462.html

* * * * *

●普天間に国連軍 首相、官房長官知らず 質問の「ひげの隊長」あきれ顔

2010.3.5 20:30

鳩山由紀夫首相と平野博文官房長官は5日の参院予算委員会で、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)が、休戦状態にある朝鮮戦争の再発に備え日本にいる国連軍の指定基地であるのを知らないという失態を演じた。普天間移設には国連軍の扱いも必要だが、国連重視を唱える政権にもかかわらず、首相と平野氏の念頭にはなかったことになる。

質問したのは、陸上自衛隊のイラク先遣隊長だった「ひげの佐藤」こと佐藤正久参院議員(自民)で「そこも分からずに移設をうんぬんするのはおかしい」とあきれ顔だった。

日本には国連軍地位協定に基づき国連軍の軍人がいて司令部も存在するが、平野氏は「国連軍の形でいるか分からないが(神奈川県の米軍キャンプ)座間に国連軍の旗を掲揚している」「正規の国連軍は日本に駐留したことはない」と迷答弁。佐藤氏が「7カ所あるうちの一つが普天間だと知っていたか」と質すと、首相は「教えていただいたことに感謝する」と、初耳だと認めるしかなかった。

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100305/plc1003052032028-n1.htm

<引用終了>



そして、国会審議での首相と官房長官の答弁。


【3月5日(金)参議院 予算委員会 佐藤正久委員 午前中の質疑】から書き出し

・佐藤正久
  「(前略)防衛上の観点から、少し普天間基地を見てみたいと思います。
   総理、今、自衛隊は国連のPKOに参加しています。
   今、この日本に国連軍がいる。ご存知ですか?」

  ・・・・・・・・(答弁 停滞タイム有り)・・・・・・・・・

・平野官房長官
  「国連軍という形でおられるかどうかわかりませんが、座間に国連の軍の旗を
   掲揚しているという事でございます。」

・佐藤正久
  「そこだけじゃないんですよ。それは日本には朝鮮戦争における国連軍というものが
  (位置?配置?)されて、地位協定もあるんですよ、総理。勉強してください。

   で、その、まだ朝鮮戦争は終わっていないんですよ。まだ休戦状態ですから。
   その7つの箇所に、今、日本の7箇所に、後方司令部なり、国連の基地があるわけですよ。

   その1つが普天間基地なんですよ。総理、ご存知でしたか?」

・鳩山首相
  「今、教えていただきました事に感謝いたします。」 ←←注目!

【ソース:参議院TV】
 http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/


首相以下閣僚は、それ以前に「現在朝鮮半島は休戦状態である」という認識さえ無かったと思われます。日本や近隣国家の現在を形づくる歴史が、特に極東では「日本の侵略戦争」という認識のみで帰結しているため、中国国内での内戦や朝鮮戦争への認識が抜け落ち、本来極東地域の優先課題でもある地域防衛の概念さえ無いのでしょう。

従って、この部分の無知をさらした鳩山内閣は、二重に非難されるべきなのです。

「普天間が国連軍指定基地であるという戦略的意味を知らないのに移設案の検討をしようとした」
「国連重視を言いながら、国連の活動について無知だった」

鳩山首相の言う「ゼロベース」の「ゼロ」とは、知識「ゼロ」の素人ベースってことなんです。正直「普天間が国連の基地だった」ことを私も知らなかったのですが、佐藤議員はさすがですね。意外な論理での追及は大変参考になりました。

このことはメディアもスルーでしょうけど、こんな鳩山政権に国防や外交を任せられない危機感を私はどうしても持ってしまいます。「宥和外交」で国家間の緊張が緩和されるわけではないことは、平野官房長官まで言ってしまった「トラスト・ミー」のみで日米関係が改善されないことを見れば明らかなんですけどね。

自衛官出身の国会議員さんがもっと出ても良いと個人的には考えています。
(以上、アリス姫の記事引用終了)


* * * * *

futenma2.jpg


【KABUコメント】
アリス姫の仰る通り、そして、時々この私のブログでも書いている通り、私がコアの自民党支持者だからというわけではなく、この首相と官房長官の<無知>には背筋が寒くなりました。「ざまーみろ! がははははっ♪」というのではなく「日本の首相と官房長官なんだからもっとしっかりしてちょうだいよ。頼むよ」という感じ。

蓋し、政権交代があったのだから。もちろん私はその大部分の政策には反対だけれども、民主党政権が自党の政策を推進するのは当然だと思います。残念ながら、でも、それが民主主義でしょう。けれど、政策の方向性とかイデオロギーの違いは別にして、この政権は「政権運営の規定演技」の部分でかなりの問題があると思う。それは、主義主張とかいう高尚なレベルではなく、そう、内政・外交を高校生が運営しているような、そんな怖さを感じます。

次の政権交代までは独自の政策を推進していいから、
憲法の手続を踏まえる限り何してもいいから、
でも、日本を壊さないでくれぇー!



と、テクニカルなコメントを最後に一つ。

蓋し、不戦条約の成立と国連憲章に基づく「戦争違法観」の普及により、現在、国際法が合法と認める戦争は、原則、①自衛戦争か、②内乱に限定されます。要は、「宣戦布告」も「講和条約」も戦争の開始と終結の条件にはならないケースが大部分ということ。

実際、第二次世界大戦後の数多の戦争では、最後通牒(ultimatum)が出されたケースは極めて稀。要は、内乱は(お互いに?)反乱分子に対する武力行使であり、また、自衛戦争の場合も、(お互いに?)侵略国からの武力行使もしくはその急迫・重大な攻撃の予兆に対する<反撃>であり、前者は(お互いに?)内政事項であり、また、前者後者いずれの場合にも悠長に最後通牒などは出している余裕も筋合いもないから。

而して、「戦争」を(「平和」でない状態。そして、「平和」を「戦争」でない状態という、憲法無効論なみのアホげな定義でなく)「戦時国際法上の権利・義務が認められ課される状態」と通説に従い定義すると。厳密に言えば「朝鮮戦争」は終わっています。例えば、第三国に、交戦状態であれば不可欠の中立義務など現在要請されませんから。

ただ、その終結は「休戦協定」に基づくものであり、朝鮮戦争が変動をもたらした権利義務関係は(講和条約が成立していない以上)確定していない。これは、大東亜戦争の日本と連合国間の「戦争」が1945年9月2日の「降服文書調印」で終結し、1951年のサンフランシスコ平和条約は、日本と連合国間の「戦争」に起因する権利義務関係の最終的な確定を行なったものにすぎないことと同様です。

よって、朝鮮戦争がもたらしたこれらの権利義務の関係の是正(≒損害の賠償や報復、新たな領土や国民の範囲の画定)を理由に、北も国連軍もいつでも再度開戦できることは間違いない。

と、佐藤議員の主張はこのような国際法的な背景を踏まえて理解すべきだと思います。
尚、詳細は下記拙稿をご参照くだい。


・国連憲章における安全保障制度の整理(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57964889.html

・憲法無効論は不毛ではないが無効である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57820628.html

・憲法無効論の頑冥不霊と無用の用(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58998947.html 







(2010年3月6日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : 民主党・鳩山政権
ジャンル : 政治・経済




自民党が憲法改正案修正とからめて「徴兵制」の検討をするそうです。正直、唖然。もちろん、この海馬之玄関ブログが「徴兵制に絶対反対」というはずはない、要は、「必要と必然性があれば徴兵制導入も可」。而して、(実は、例の内閣法制局は「徴兵・兵役は日本国憲法(第18条)で禁じる「意に反する苦役」であり、違憲である」との見解を示してはいるのですが、ここでは憲法解釈論は割愛するものの)「その導入に際して必ずしも憲法改正は必要ない」という立場を私は取っています。

けれど、この期に及んでの「泥縄式-徴兵制検討」は(民主党政権がこれだけ迷走を重ねているというのに)自民党の支持率が一向に芳しくない理由、つまり、三年前の<7・29>の参議院選挙と昨年の<8・30>の総選挙で有権者が自民党的政治の何に不満を感じて、「もう、自民党政権が継続するのだけは勘弁!」とばかりに、不安てんこ盛りの民主党政権を選んだのかが全く総括されていない。と、そう私は考えます。自民党のコア支持者としては大変残念なニュース。自民党というか保守改革派の捲土重来のための「Don'ts系資料」としてブログに格納しておきます。

馬鹿言ってんじゃねーよ!




chouhei07s.jpg



●自民、徴兵制検討を示唆:5月めど、改憲案修正へ
自民党憲法改正推進本部(本部長・保利耕輔前政調会長)は4日の会合で、徴兵制導入の検討を示唆するなど保守色を強く打ち出した論点を公表した。これを基に議論を進め、05年に策定した改憲草案に修正を加えて、憲法改正の手続きを定めた国民投票法が施行される5月までの成案取りまとめを目指す。

参院選を視野に、離反した保守層を呼び戻す狙いとみられる。ただ05年草案も徴兵制には踏み込んでおらず、「右派」色を強めたと受け取られる可能性もある。今後党内外で論議を呼ぶのは必至だ。

論点では「国民の義務」の項目で、ドイツなどで憲法に国民の兵役義務が定められていると指摘した上で「民主主義国家における兵役義務の意味や軍隊と国民との関係について、さらに詰めた検討を行う必要がある」と記述。直接的な表現は避けたものの徴兵制復活の検討をうかがわせる主張を盛り込んだ。

2010/03/04 19:10 共同通信

  
  

chouhei02.jpg



■徴兵制検討は軍事的に筋悪である
再度記しますが、私は、徴兵制には賛成でも反対でもない。と言うことは、「徴兵制などはもっての他」「「徴兵制」という言葉を口にすること自体、それは<軍靴の音>を呼び寄せる危険な発言だ」という<言霊信仰>に骨絡みになっている憲法9条教の信徒さんからは、「徴兵制の是非はその時我が国が置かれている内外の情勢によって定まる」という私の立場は「徴兵制賛成論」と分類されるかもしれません。

けれども、私は現下の段階での徴兵制には反対します。その理由は次の2個、

・現代戦を考えた場合、少数精鋭の軍隊こそ望ましい
・国民の一体感の涵養や国防意識を向上させる制度としても非効率
    


(1)現代戦を考えた場合、少数精鋭の軍隊が望ましい
冷戦終結後、特に、2000年前後から西側諸国は雪崩を打って徴兵制を廃止した。また、NATOの拡大に伴い多くの旧東側諸国も徴兵制を廃止しました。畢竟、先進国や人口数千万を超える国で徴兵制を維持している国は下記の通りそう多くはありません。ちなみに、現在も徴兵制を制度上も維持している国は(CIAのWorld Fact Bookによれば)67ヵ国。なんと、(止まることを知らない軍備拡大まっしぐらの)あの支那でさえ、徴兵制度は存在するも、小平先生が断行された兵員縮小の流れの中で志願兵だけで定員が充足できるため実際には、この四半世紀近く徴兵は行われていないのです。

<欧州>
オーストリア、ギリシャ、スウェーデン、スイス、ドイツ、デンマーク、ノルウェー、フィンランド、ポーランド、ロシア

<アジア&アフリカ>
アルジェリア、イスラエル、エジプト、カンボジア、韓国、北朝鮮、シンガポール、タイ、台湾、トルコ、ベトナム、マレーシア

<中南米>
キューバ、コロンビア
    


要は、現代の高度化・近代化した軍隊において、徴兵制度で集められた半年から3年程度しか軍役につかない、素人に毛の生えたような兵士は足手まといであり、また、その足手まといを、一応、「兵士=戦闘要員」に仕立てるための研修コストは膨大。まして、給与・諸手当を含めればその足手まといに割かれる国家予算は天文学的数字になりかねない。そう考えて支那もアメリカも徴兵制を志願制度に転換してきている。これが世界の軍隊の現状だと思われます。実際、アメリカはベトナム戦争の敗北の後(流石アメリカ、転んでもただでは起きない!)それを奇貨として、兵員の大幅なリストラに成功したのですが、その組織改革はアメリカのMBAでも、極めて成功したビジネスジャッジメントの事例として現在でも取り上げられているくらいなのです。

(2)国民の一体感と国防意識を涵養する制度としても非効率性
論者の中には、(1)は百も承知ながら「所得や門地とは無関係に平等に国民が軍役につく徴兵制度は国民の一体感の涵養や国民の国防意識の育成という効果があり捨てがたい」という主張をされる方もおられます。私も定性的には徴兵制のこのメリットは認めます。けれど、メリットとデメリットを定量的に考えた場合、それが人的・予算的、そして、徴兵制なかりせば達成できたであろう労働生産性や産業の比較優位性を鑑みるに、到底このメリットはペイするものではないと想像します。

而して、国民の一体感の涵養や国防意識の向上には、例えば、小中高の学習指導要領に軍事教練をマストの科目として組み込み、あるいは、高校生や大学生の2週間から1ヵ月の自衛隊体験入隊をセンター試験の得点や卒業単位として看做す制度を導入すれば徴兵制よりも遥かに低いコストで同じ目的を達成できるのではないか。否、土台、研修がその本来の目的ではない兵役を通して国民の一体感と国防意識を涵養するよりも、国民の一体感と国防意識を涵養すること自体を目的とした研修制度を創設運用する方が遥かに合理的で効率的であろう。と、そう私は考えてます。


chouhei05.jpg



■徴兵制検討は政治的に愚劣である
ただ、上で述べたことだけなら、徴兵制検討の是非は、徴兵制導入のメリットとデメット、コストとリターンを巡るテクニカルなイシューにすぎないでしょう。而して、国家予算に余裕があり、目先の労働生産性の向上よりも中長期的な社会統合のパフォーマンス向上の方が重要という歴史的場面では、上記(1)(2)に関わらず、徴兵制導入はありかもしれません。けれども、私が、一応、現在の段階にせよ自分の支持政党に対して「馬鹿言ってんじゃねーよ!」とまで言うのは、それが政治的にも筋悪であり、愚劣拙劣であると考えるからです。その理由は以下の2個。

・保守主義と徴兵制の間には論理必然の関係はない
・自民党の支持率低迷の根幹は「筋の通った経済政策」の不在にある
    


(3)保守主義と徴兵制の間には論理必然の関係はない
主権国家の死滅と民族の相対化が可能であると考え国家と民族の解消を目指す、教条的な左翼・リベラル派を除けば、国家の主権と民族のアイデンティティを守る軍隊の存在を左翼・リベラル派といえども否定することはありません。否、空想科学小説ならぬ空想思想小説の如き、ドイツの緑の党でさ赤面するだろう、国家が消滅した地球コミュニティや地域アソシエーションを夢想する、そんな教条主義的の徒は左翼・リベラル派の0.001%も存在していないのであって、逆に、左翼・リベラル派も軍隊と(そして必要であれば)徴兵制を支持してきた。このことは旧ソ連や支那、東欧の旧社会主義諸国、あるいは、キューバ、北朝鮮を想起されれば自明のことではないでしょうか。

まして、1917年のロシア革命以来、1989年-1991年に「資本主義-自由主義」に粉砕されるまで社会主義は、その体制を「暴力的-権威主義的」に維持しなければ内部から崩壊する状態にあり続けたわけですから、左翼・リベラル派こそ保守主義よりも、かつ、歴史的のみならず論理的にも軍隊と徴兵制を求めていたとも言えるのですから。ならば、「保守層を呼び戻すために徴兵制の検討」に踏み込むなどは、木に登って魚を求める類の愚策であると断言できると思います。

(4)自民党の支持率低迷の根幹は「筋の通った経済政策」の不在にある
蓋し、<7・29>と<8・30>の敗北の理由は論者によって様々でしょう。而して、それが検証不可能である限り、「自民党はなぜ負けたか」の問いは解答が見出せないタイプの問いかもしれません。よって、以下に述べることはあくまでも「仮説」にすぎないのですが、私は、その理由と原因を(経済情勢の悪化は別にして)次の3点に集約すると考えています。

①構造改革の断行と地方再生の同時実現のビジョンを明確に示せなかったこと
②安倍政権以降、かっての守旧派勢力の蘇生と横行を許したこと
③麻生降ろしに象徴的な「組織の呈をなしていない」状態を露呈させたこと
    

すなわち、保守層有権者にとっても政治にまず第一に期待することは経済政策であり、小泉構造改革の後、どのような産業構造を具現していくのかを安倍・福田の両政権は国民に示すことができず、他方、それを「構造改革の断行と地方再生の同時実現」として示した麻生政権は、しかし、その目的地に至る具体的なマイルストーンを国民に告知する前に(「政党の呈をなしていない民主党」よりも遥かに下劣な)「組織の呈をなしていない自民党」というイメージを有権者に与えてしまったことがその敗因である、と。

この私の仮説は、対北朝鮮強硬策は当然のこと、例えば、首相の靖国神社参拝にせよ、南京・慰安婦・強制連行という反日プロパガンダの打破にせよ、あるいは、夫婦別姓や外国人地方選挙権への反対にせよ、これらどちらかと言えばイデオロギー的なイシューについて自民党の本来の主張を支持する「保守派」が<7・29>と<8・30>から現在に至るまで一貫して(自民党議員と保守系民主党議員の得た得票数から算定する限り)有権者の過半を占めているに関わらず、そして、再度述べますが民主党政権発足以来、細かく数えれば2ダースを上回る<敵失>にも関わらず、自民党の支持率もまた低迷していることを鑑みれば満更荒唐無稽な仮説ではないのではないか。と、そう私は考えています。

而して、もちろん、対北朝鮮政策、首相の靖国神社参拝、南京・慰安婦・強制連行、そして、夫婦別姓や外国人地方選挙権は大変重要なイシューであることは間違いないけれど、それは「必須科目=経済政策」で及第点を取って初めて政党の評価項目になるのではないか。而して、私のこのような認識からは「徴兵制を検討」などいう奇策はアドバルーンとしても愚劣である。なぜならば、それは自民党に期待しているコアおよびポテンシャルの支持者にとっては、(経済政策の路線対立を巡って党内抗争の勃発や党分裂を恐れるためか、世間の耳目を集めはするが)国民が政党を評価する際の必須科目への正面からの取り組みを「回避-先送り」した姑息に他ならないから。と、そう保守層は受け取るのではないかと私は考えます。


chouhei03.jpg






(2010年3月5日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★



テーマ : 自民党
ジャンル : 政治・経済




バンクーバーオリンピックの女子フィギュアスケート、キムヨナ姫の金メダル、浅田真央選手の銀メダルという結果を受けて、日韓のネット上には「キムヨナの勝利は韓国人の日本人に対する優秀さの証明ニダ」とか「キムヨナの勝利は韓国人の姑息さの証明だぁー」等の言説が溢れているようです。また、キムヨナ批判が盛り上がっていた2チャンネルに対して韓国からと思しきサーバー攻撃が行なわれ、実際、2億数千万円の損害が発生したため、当該サーバーがあるアメリカではFBIが捜査に乗り出したとか。蓋し、「見苦しい」の一言です。

而して、「キムヨナ姫の優勝をどう考えるべきか」ということについて、このブログでも幾らか私見を述べた経緯もあり、本記事ではこれら日韓の言説を、社会思想の言葉の正確な意味での<保守主義>から批判することにしました。 尚、キムヨナ姫の勝利に関する私の見解と保守主義を巡る私の基本的な理解については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。特に、この記事で「保守主義」の定義を行う紙幅の余裕はありませんので、「保守主義」の意味については拙稿をご参照いただくようお願いいたします。

●キムヨナ姫の勝利の構図とそれから学び取る教訓
・浅田真央は「ルール」を理解できなかった愚者か(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59281198.html

・浅田真央は「ルール」を理解できなかった愚者か-採点基準考(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59285142.html

●保守主義の意味と意義
・保守主義の再定義(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59162263.html

・保守主義とは何か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/56937831.html

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57528728.html


キムヨナを物象化する日韓の「キムヨナ言説」
私の批判点は、これら見苦しい日韓の言説はともに「キムヨナ」という記号を<物象化>したものであり、それは、グノーシス主義とも言うべき心性が紡ぎ出した妄想にすぎないということに収束します。而して、それらは、一見、不倶戴天の関係にあるように見えながらも、思考のパターンとしては同型のものであり、そして、それらは我々保守改革派が信奉する、言葉の正確な意味での<保守主義>とは相容れないものである。と、そう私は考えています。


kimiyunahime4445.jpg



■物象化論の陥穽
キムヨナ姫が勝利したら、なぜ、「韓国人が日本人より優秀」とか「韓国人が日本人より姑息」とか言えるというのでしょうか。このことは、「物象化」(人間と人間の関係があたかも物と物との関係、すなわち、自然現象の如き人間と人間の社会関係から相対的に自立した独自の法則性が支配する関係として現象すること)などというオドロオドロしい用語を持ち出すまでもなく、誰しも疑問に思うことではないでしょうか。簡単に言えば、

キムヨナの勝利→韓国人が日本人より優秀
キムヨナの勝利→韓国人が日本人より姑息


これらの命題が「真」であるためには、少なくとも、「優秀」とか「姑息」という性質に関して「キムヨナとすべての韓国人が同質」「浅田真央とすべての日本人が同質」であることが前提になると思いますが、そのような前提は、所謂「実体概念」を否定する現代哲学、就中、分析哲学から否定されるだけでなく(この経緯については下記拙稿の前段をご参照ください)経験的と数理的とを問わず科学的にも証明は不可能でしょう。

・「プロ市民」考
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57630212.html

「韓国人と異なる日本人」「日本人と異なる韓国人」は存在しない
まず、比較の前提となる「韓国人と異なる日本人」なるものや「日本人と異なる韓国人」なるものは科学的に成立しません。すなわち、現在の分子人類学。例えば、(A)数次に亘り列島に来た日本人の先祖はすべて北方系であり、弥生期以降のニューカーマーもそう多くはないことを示して、長らく通説の地位を保った、南方系の縄文人古層の上に朝鮮半島から渡ってきた北方系の弥生人が重なることで日本人の原形ができたとする埴原和郎先生の所謂「二重構造モデル」を完全に否定し、(B)返す刀で、日本人と(「女真族=満州族」を源流とする)韓国人の人類学的差も、日本人・韓国人と東南アジアの諸民族との人類学的差もそう大差はないことを証明した、崎谷満『新日本人の起源 神話からDNA科学へ』(勉強出版・2009年9月)等の最先端の人類学の知見からは、少なくともDNA的には「日本人」と「韓国人」に有意の差は見出せない。

よって、日本人と韓国人の優秀さや姑息さの比較は<文化規範>の種差や<文化規範>が育むパーソナリティの行動パターンとパフォーマンスから行なうのでなければ無意味と思います。而して、この文化規範の点では(下記拙稿で述べたように、日本語と韓国語の径庭が極めて大きいように)日韓は異質と言ってよい。けれども、レビストロースが喝破したように、文化間に優劣の差は存在しない。このこともまた、(よって、反捕鯨国の文化人類者には、同胞の捕鯨反対論者によくその理を説諭してもらいたいものですが)現在、大方の賛同を得られる認識であろうと思います。

・日本語と韓国語の距離☆保守主義と生態学的社会構造の連関性
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59190400.html

次に、「キムヨナとすべての韓国人」「浅田真央とすべての日本人」の同質性にもそれを肯定する何の根拠も存在しない。否、このナイーブな想定は、例えば、大学入試の偏差値、中学校の体育測定、あるいは、3歳から始めたグループ内でも小学校高学年にもなればピアノやバイオリンの技量で残酷なほどの差異やバラツキが生じる現実を想起するとき、誰しも否定せざるを得ない事柄ではないかと思います。確かに、短距離走であればアメリカやカリブ海諸国のアフロ系の人々や欧州人は我々日本人に比べれば優れているでしょうが、その同じ欧州やアフロ系の人々の内部ではこれまた目も眩まんばかりの能力差とバラツキがあるのですから。

ラッセルの「記述理論」を借用して敷衍するならば、「2010年3月3日現在のフランス国王(king)は男性である」という命題は、文法的に正しく、また、命題の内部に論理矛盾は含まれていないとしても、経験的事実に反するという意味では「偽」であるのと同様、「韓国人が日本人より優秀だからキムヨナは浅田真央に勝利した」という命題も、文法的には正しく、また、(例えば、「韓国人が日本人より優秀だからキムヨナは浅田真央に負けた」は内部に矛盾を抱えているのに対して)命題の内部に論理矛盾は含まれていないけれども、それは経験的事実に反する。而して、それは論理的にも間違いなのです。

すなわち、

「2010年3月3日現在のフランス国王(king)は男性である」という命題は、実は、

「2010年3月3日現在フランス国王(king)が少なくとも一人存在する」
「その国王(king)は男性である」
という二つの命題の結合であり、前者の命題が経験的事実と反するがゆえに、この命題は論理的にも「偽」であるのと同様、

「韓国人が日本人より優秀だからキムヨナは浅田真央に勝利した」という命題も、

「単一な属性を分有する韓国人なるものが存在する」
「単一の属性を分有する日本人なるものが存在する」
「韓国人として単一の属性を分有するキムヨナが日本人としての単一の属性を分有する浅田真央に勝利した」
「韓国人は日本人より優秀である」
という4個の命題の結合であり、而して、第1~第3の命題は経験的事実に反しており、よって、「韓国人が日本人より優秀だからキムヨナは浅田真央に勝利した」および「韓国人が日本人より姑息だからキムヨナは浅田真央に勝利した」という命題は論理的にも「偽」なのです。
   
 

kimiyunasama99.jpg



■グノーシス主義の呪縛
蓋し、「キムヨナの勝利は韓国人の日本人に対する優秀さの証明ニダ」とか「キムヨナの勝利は韓国人の姑息さの証明だぁー」という日韓の言説は、論理的にも科学的にも実体のない「日本人」や「韓国人」を<キムヨナ>という記号で物象化する誤謬を犯している。それは、<鳩>が「平和」の象徴として使用されるにすぎないことを看過して、目の前の一羽の鳩を誰かが駆除すれば平和が脅かされる、あるいは、卒業式の日の丸掲揚を容認すれば軍靴の音が聞こえてくるという類の妄想とパラレルなのです。

而して、これら日韓の言説は、一種のグノーシス主義の色調を帯びた社会主義であり、それは(「give and take」ではない無条件の献身に価値を置く美意識)「愛国心」と親しい、①伝統に価値を置き、②伝統の恒常的な再構築を求めて、③漸進の前進を重ねる、④非教条主義たる、英米流の言葉の正確な意味での<保守主義>とは相容れないものであろうと思います。

この点で、カトリックの信仰を持ち、自国に対する燃えるような愛国心を抱き、他方、差別排外主義丸出しで他国の選手に対して下品な振る舞いを繰り返す自国ファンに対して厳しい姿勢を取るキムヨナ姫は、正真正銘の保守主義者であると私は考えています。ならば、グローバル化という名の資本主義が昂進する中で、人間の万能感に基盤を置く「左翼=リベラル派」が跋扈する現下の情勢を睨むとき、万国の保守主義者の連帯が不可避であるとすれば、私は迷わずキムヨナ姫を同志として歓迎したいと考えます。

グノーシス主義とは何か
グノーシス主義は、キリスト教内部のグノーシス主義としては所謂「三位一体」の教義形成の触媒の役割を果たし、他方、世界観としては中世の錬金術の基盤とされていますが、1966年にイタリアで開催された「グノーシス主義の起源に関する国際学会」で集約された定義によれば、それは以下の通り、

●グノーシス主義
・反宇宙論からの二元論的「宇宙観-世界観」
・人間存在の内部に「至高神」に起因する「本来的自己」が存在するという確信
・人間に自己の本質を認識させる救済啓示者の存在の確信
    

つまり、この世は邪悪な(能力不足の)創造主が作った不出来な世界であるが、この世界の究極には全知全能の「至高神」があり、結局、人間存在を含む宇宙と世界のすべては遍くその「至高神」の力が及んでいる。そして、人間の内部にも僅かながら「至高神」に起因する「本来的自己」が存在しており、而して、人間はその「本来的自己」を認知(グノーシス)することで「至高神」と一体になることができるのだけれども、「至高神」は、その認知を促し導くために「救済啓示者」をこの世に使わす、と。

畢竟、この構図に、「日本/韓国」との不愉快な関係の存在、「韓国人/日本人」の本来的優秀さ、そして、「キムヨナ/浅田真央」の存在を当てはめるならば、日韓の「キムヨナ言説」は、正に、グノーシス主義とパラレルであることは自明でしょう。而して、それが「不愉快な現下の歴史段階」「人間の万能性」「マルクス」を三点セットする社会主義とも極めて近いことも。ならば、保守主義を信奉する我々は、このような日韓の妄説を厳しく批判すべきである。と、そう私は考えています。







(2010年3月4日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★



テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済




For every Lysacek or Kim, there are dozens of skaters who are still struggling to master the system. Sasha Cohen, who won the silver medal in Turin but didn't make this year's Olympic team, said last month during U.S. Nationals in Spokane, Wash., that she spends her routine counting instead of performing. ・・・

This focus on mental math can somewhat diminish the casual fan's enjoyment of the sport. Commentator Dick Button warned NBC viewers before nationals that they were not going to see the skating "we necessarily like the most."

"We have to remember that this is a judging system based on points," Button told NPR. "It's the point value that counts [for] each of the individual moves."


ライサチェクやキムヨナが一人いればそれに対して採点システムを習得するのに苦労している何十人もの選手が存在している。トリノオリンピックの銀メダリストながら今年のオリンピックでは代表選考に漏れたCohen選手は、先月、ワシントン州スポケーン市で開催された全米選手権の期間中に、演技中は演技より数えることに忙しいくらいだと語ってくれた。(中略)

選手が演技ではなく数えることに気を取られているという事態はフィギュアスケートからファンが得る楽しさを幾らか減退させるのではなかろうか。実際、全米選手権を前にしてコメンテーターのButton氏は、NBCの視聴者に「無理してそれが好きだと自分に思い込まさねばならないような」スケートを見に行くのはお薦めしないと述べている。

「我々がはっきり意識すべきは、現下の採点基準はポイント制をベースにした採点システムということなんです」と彼はNPR放送で語った。「選手の個々の動作を規定しているのは得点の大きさなんですよ」とも。
   

yunahime102.jpg


Jump combinations are still valued highly on the score sheet, but the "transitions" -- the moves and footwork that skaters perform while moving across the ice for their next jump combinations -- are important as well. Lysacek made the most of those. Skaters who dismiss such elements lose points but also give performances such as Plushenko's -- athletic, but more disjointed than graceful.

"They're so busy having to do all these things," Hamilton said. "A lot of skaters haven't taken the time to work on the artistic element. But the best are doing everything."

The system cuts both ways. It certainly doesn't reward artistic performers such as American Johnny Weir. ・・・

Of course, the system isn't set in stone. The pendulum has swung from a completely subjective free-for-all to a points-driven strait jacket. It eventually will swing back to some middle ground. Perhaps reducing the number of technical requirements would be a place to start. ・・・

ジャンプのコンビネーションには今でも高い得点が与えられる。けれど、「移行」 ― 次のジャンプのために氷上を移動する際の足の運びや技と技のつなぎ ― の重要性もコンビネーションに劣らない。そして、ライサチェクはこれら移行の大部分を上手にこなしたが、これら移行のエレメンツへの配慮を怠った選手は得点を失うことになる。もちろん、移行への配慮と引き換えにプルシェンコがそうしたように運動競技的なエレメントを実施する手もある。けれども、それはプログラムの流れをギクシャクさせ優美とはとても言えない。

「選手はすべてのことをやらなければならないので極めて慌しい状態に置かれることになる」「芸術性を高めるエレメントを行なう時間がないと感じる選手も大勢いる。けれども、ベストはすべてをやり尽すことだ」とHamilton氏は述べる。

現在の採点システムはもう一つの路線にも厳しいものである。すなわち、芸術性を追求するアメリカのWeirの演技にもそう高い得点は与えられないのだ。(中略)

もちろん、フィギュアスケートの採点システムは変更不可能というものではない。而して、採点基準は、客観性をより志向する地点と主観性をより志向する地点の間を常に揺れ動く振り子のようなもので、今は前者の地点から前者と後者の中間の地点に「振り子の針」は動こうとしているの、鴨。ならば、技術的な要求事項の個数を幾らか減らすことが、おそらく、最初に手を付けるべき採点基準改定の第一歩ではないだろうか。(後略)
   



She is intellectual as well as cute, isn't she? Having seen her overwhelming victory at this Olympics game, anybody may understand the victory was done on the basis of her mature personality, I think.



「ルール」の本性から考える採点基準改定の構図
私は、Hamilton女史の提言に基本的には賛成です。要は、(イ)現在の「客観化」には理由があるが、それがフィギュアスケートの存在理由たる<美の追求>を歪めるものとすれば、それは、角を矯めて牛を殺す類の愚策であろう、と。

また、(ロ)プルシェンコ提言にも全面的に反対というわけではない。カントの『美と崇高との感情性に関する観察』を紐解くまでもなく、人間技とは思えない高難度の演技を見る驚きも<美>と通底していないはずはないからです。

ここで考えるべきはソルトレークスキャンダルが発端となった「客観化」とはそもそも何を目指したものだったのかということ。裏から言えば、「客観化」には二つの意味があったのではないかということです。すなわち、

・審判員・国際スケート連盟の不正防止
・採点基準の与件化・明確化・可視化



もちろん、例えば、審判の責任の所在の明確化、(あるタイプのエレメンツやコンポーネンツに関しては)ビデオ判定の義務化等々、これら両者は相補的のものではあるでしょう。しかし、一方は審判員とISUの行動規範であり、他方は「選手の行動規範=審判員の裁判規範」であることから、その法規範としての性質の径庭は小さくはない。もっとも、これらが(イ)(ロ)という「選手の行動規範=審判員の裁判規範」の内容に関するものであるのに対して、浅田選手の贔屓筋の再改定要求内容(から(ロ)を除いた残余)と親和性を帯びていることは明らかだと思います。

ならば、まして、本編記事でも述べた通り、この「客観化」の流れがその基底に、「サーカス」からの脱却という<美>のイメージの転換、大きく言えば、思想的な路線変更をも伴ったものである以上、2010年の今、採点基準の再改定を求めるステーツホルダーにはかなり多様な隊列が含まれていると考えるべきでしょう。それ正に、

同床異夢


而して、このコメントは結論の抽出ではなく、問題がどういう構図をして我々の眼前に横たわっているのかを整理することが目的。よって、最後に一つだけ注意を喚起しておきたい。それは、「ルール」というものはそれが有権解釈される中で(例えば、以下の新聞情報がその一つの好例を示唆していると思いますが)自生的に変化していく経緯です。


●五輪フィギュア 採点傾向に変化、ジャンプ回転数甘めに

今大会は高得点化が進み、自己ベスト得点や今季ベスト得点の更新が続出。ジャンプ回転数の認定は甘めで、エレメンツ(要素)のGOE(出来栄え評価)、表現力などを示すプログラム構成点も高めだった。平松純子・国際スケート連盟(ISU)技術委員は「(ジャッジ用)教育ビデオで『質のいいものはどんどん点をあげよう』とあり、それが表れてきた」と指摘。「ジャンプは高さや前後の流れで質を評価するし、連続ジャンプは高さの差が大きい『親子』より、差が少ない『兄弟』の方がいい」と説明する。(毎日新聞: 2月27日)
    


法の自生的変化とは何か
例えば、キムヨナ姫にはジャンプの「回転数不足」という疑惑があるそうです。しかし、蓋し、そんなヨナ姫のジャンプも、有権解釈においては、「サーカス」ではない<美>の追求という現下のフィギュアスケートの<美>の理念からはOKだったということ。上の情報にもある通り、その点は他の競技者に対しても公平に適用されたわけですから。

実際、野球の場合、ルールブックの規定は不変なのに(デッドボールの危険性を減らすべく)、アメリカのストライクゾーンは内角と上辺がボール1個分(外/下)になっている。けれど、それが万人に適用される限り、公平性も含めなんの問題もない。と、これが法の自生的変化のもう一つのサンプルです。ならば、採点基準の改定要求に際しても「ルール」自体の自生性をも考慮に入れて案と策とを練るべきだと思います。

畢竟、今回のオリンピックでは、ヨナ姫の回転が「回転」の認定基準だったのかもしれません。而して、それは「ヨナ姫の回転=基軸通貨」ということであり、毫も、「ヨナ姫の回転=贋金」論とは位相を異にする認識です。要は、ヨナ姫の<信用>が「ルール」に自生的変化を促したの、鴨。

いずれにせよ、荒川静香・キムヨナ姫の両女王の戴冠を想起すれば、自己のスタイルを貫くことと、「ルール」を上手に利用することの両立が栄冠への道。ならば、次のオリンピックに向けて日本は、世界が希求する<美>のイメージを念頭に据えて、日本代表選手に可能な限り有利な「ルール」の改定を勝ち取るべく諸外国の同志との共闘を模索するのみ。と、そう私は考えています。

連帯を求めて孤立を恐れず、
力及ばずして倒れることを辞さないが、
力尽くさずして挫けることを拒否する。共に闘わん!








(2010年3月2日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★



テーマ : このままで、いいのか日本
ジャンル : 政治・経済




Figure skating scoring is not what it used to be
今日のフィギュアスケート採点基準は過日のそれと同じではない


・・・Remember eight years ago, when scandal rocked the Olympics and French figure skating judge Marie-Reine Le Gougne filled the Great Salt Lake with her tears and we all pounded the keyboards demanding a change in the sport's scoring system?

What the heck were we thinking?

The sport is certainly more fair than it was in 2002, when what many had suspected was finally confirmed: that judges colluded to rig the voting to help each other's skaters. In Salt Lake City, the arrangement was that the Russians would get gold in pairs and the French would win the ice dancing. Le Gougne was the French judge who allegedly was part of the fix. In the end, IOC President Jacques Rogge was pressured into giving gold medals to both the Russian and Canadian pair, and the International Skating Union was pressured into revamping its old 6.0 scoring system.

Under the new system, the medals in Vancouver have been awarded, in all cases, to the correct skaters. Former gold medalist and NBC commentator Scott Hamilton agrees. "Perfect. Pretty much perfect," Hamilton said. "The results have been spectacular." And that's the most important thing: The sport's results no longer veer into the embarrassing and inexplicable.


(前略)8年前、オリンピックをスキャンダルの激震が襲ったこと、フランスのフィギュアスケート審判員Le Gougne女史の流す涙がソルトレーク湖を溢れさせ、そして、我々のようなフィギュアスケート専門のジャーナリストがその採点基準の改定を要求して記事を書きまくった時のことを覚えていますか?

我々はトンデモないことを要求していたのかもしれない?

競技としてのフィギュアスケートは確かに2002年の段階に比べればより公正になった。審判員達が自国選手を助けるため共謀して採点数値の不正操作を行なっているのではないか、そんな不信を抱く向きも世間には少なくなく、正に、その疑惑が事実であると最終的に確認された2002年当時に比べれば、現在のフィギュアスケートは間違いなく公平だ。而して、ソルトレークの取決めは、ロシアがペア種目で金メダルを得る代わりに、アイスダンスではフランスに優勝させようというもので、Le Gougne女史はこの八百長に関与したと疑われたフランスの審判員だった。IOCのRogge会長は、結局、批判の圧力のゆえにロシアとカナダ双方にペア種目の金メダルを授与せざるを得なくなり、そして、国際スケート連盟は6.0満点制の採点システムを改定すると表明する破目に陥ることになる。

その新しい採点システム下のバンクーバーオリンピック、フィギュアスケート競技のメダル授与もすべて終わり、すべての種目についてその採点は正確に行なわれた。金メダル保持者でNBCのコンメンテーターも務めるScott Hamilton氏もこの認識に同意見だ。「完璧、いやまったく、ほとんど完璧だよ」「もらうべき人にもらうべきメダルが。この状況は壮観でさえあるね」と彼は述べているのだから。而して、重要なことは、フィギュアスケートの場合、メダルの行方に関する憶測が関係者を戸惑わせたり、あるいは、採点結果の説明がつかないなどということは最早ないということだ。
    




But -- and I say this gently -- some beauty has been lost. Presentation, interpretation, expression -- whatever you want to call it, some of the sport's inherent grace, some of what appealed most to those who could see beyond the sequins and makeup to the athleticism and artistry -- has been sacrificed in an effort to make the scoring more objective.

Frank Carroll, who coached Evan Lysacek to the gold medal, told reporters earlier this week there likely will never again be the "legendary artist" such as Peggy Fleming or Michelle Kwan because "the new system is all technical, technical, technical."

Fans used to swoon over Kwan's fabulous spirals, which seemed to go on forever. Those would never make it into her program now; with all the elements that must be accounted for, there's not enough time.

"It's so hard not to look like you're just gathering points," Kwan said. "Yu-na is able to make a performance."

Ah yes, Kim Yu-na. Like Lysacek, Kim has found a way to wring every point she can out of the system and look good doing it.

"She owns and operates the scoring system," Hamilton said. "If it was a 6.0 system, it would be hard not to give her 6.0s."

This topic was danced around a bit during the men's competition as well, but was lost amid the quad-or-no-quad debate. That was an interesting distraction but misleading. The central issue was that Lysacek worked the system to perfection, and silver medalist Evgeni Plushenko didn't. The quad won't win a competition, but strict adherence to the rules will.


しかし、そう声を大にして言いたいわけでもないけれど、フィギュアスケートから些か<美>が薄れてしまったと思う。表現・解釈・表出、お好きな言葉で呼んでいただいてかまわないけれど、間違いなくフィギュアスケートに備わっているべき優美さ、あるいは、衣装や化粧に誤魔化されずに演技に結晶する運動の技量と芸術の腕前にまで目配りできるような観客にとって、最も重要な何かが、採点基準を客観化して行く企ての中で犠牲になってしまったの、鴨。

ライサチェクを金メダルに導いたFrank Carrollコーチは、今週、記者団に、もうPeggy FlemingやMichelle Kwanのような「伝説の芸術家」がフィギュアスケートの世界に現われることはないだろう。なぜならば「新しい採点システムでは技術が肝要。そう、一に技術、二にも技術、三四がなくて五に技術なのだから」と述べている。

フィギュアスケートのファンは、もう永遠に続くかに見えたKwanのとてつもないスパイラルに卒倒するくらい夢中になったものだ。しかし、現在、そんなスパイラルが彼女の演技プログラムに組み込まれることはまずない。というのも、それらをマストで組み込まなければならないすべてのエレメントのことを考慮する場合、往時のスパイラルをプログラムに組み入れる時間的な余裕などないから。

Kwan選手は「ポイントを掻き集めていることを観客に覚らせないことは結構難しいのよ」と語ってくれた。そして、「ヨナはそれができる人なんだけどね」とも。

ピンポーン! そのお通り、ライサチェクと同様、キムヨナは採点基準の中で彼女が手に入れることができるすべての得点をゲットしながらも、単にポイントを掻き集めているだけとは絶対に覚られない術を会得している。

「キムヨナは採点システムというものを自家薬籠中のものにしている」とHamilton氏は述べている。「もし、現在の採点基準が6.0システムであったとして、彼女の演技に6.0をつけないことは極めて難しいのではなかろうか」とも。

この採点基準に関するイシューは、些か脱線気味であったとはいえ男子の競技結果を巡っても人々の口の端に登った。而して、それは4回転ジャンプの選択か回避かという議論の中でどこかに消えてしまった。蓋し、4回転論争は興味あるものではあったけれど、それは採点基準を巡る議論としては本質を突いたものではなかった。畢竟、ことの本質は、ライサチェクが採点システムを申し分なく利用したのに対して、銀メダルに終わったプルシェンコはそうではなかったということ。4回転ジャンプは優勝を保証するわけではないが、ルールを忠実に遵守することは優勝に直結するということなのだ。
    

kimuyuna54


<続く>







(2010年3月1日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : このままで、いいのか日本
ジャンル : 政治・経済




本編記事(下記URL参照)でも紹介したように、ロシアの銀メダリスト、プルシェンコ選手の問題提起等、今回のバンクーバーオリンピックのフィギュアスケートを巡っては採点システムについて幾つかの疑義が出されています。私が応援していたキムヨナ姫の優勝に関しても、日本の浅田真央選手の贔屓筋の中でもプルシェンコ提起と一部重なる批判がブログを賑わせているようです。

而して、このイシューを考える上での「資料」として、以下、フィギュアスケートの採点基準の来し方行く末を俎上に載せたコラムを紹介します。出典は、フィギュアスケート女子フリー終了直後、バンクーバー現地時間2010年2月26日にWashington Post紙に掲載された、Hamilton女史の“Figure skating scoring is not what it used to be”です。資料の前後に私自身の「論点整理」と「一般的な「ルールの性質と運用」についての法学方法論からのコメント」を併せて記すことにしました。ご興味があればそれらもご一読いただければ嬉しいです。

●本編記事
・浅田真央は「ルール」を理解できなかった愚者か(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59281198.html

kimuyuna53



プルシェンコ選手の問題提起は一言で言えば、「男子の4回点ジャンプ、女子の3回転半ジャンプ等、高い難易度のエレメントの得点を相対的に低く抑えている現行の採点基準は、フィギュアスケートの進歩を抑制する足枷になっており、また、現行の採点基準はそのことで競技会をエレメントの出来栄えという枝葉末梢の事柄を競う競争に矮小化しているのではないか」と言い換えることができると思います。これについてIOCはこう反応しています。

●「ジャッジは正しく採点」=フィギュアに関しIOC会長〔五輪・フィギュア〕

国際オリンピック委員会(IOC)のロゲ会長は28日、今大会のフィギュアスケートについて、「あくまで国際スケート連盟(ISU)の現行ルールに基づけば、正しく採点されていたと思う。採点自体には問題はなかった」との見解を示した。

4回転ジャンプを跳んだ男子のプルシェンコ(ロシア)、トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を計3度決めた浅田真央がともに銀メダルにとどまり、「高難度の技が得点に十分反映されない」(プルシェンコ)といった不満の声も少なくなかった。これについてロゲ会長は「あとはISUがフィギュアのスポーツ性をどう考えるか。プルシェンコが不満なら、ロシア連盟を通じてISUに(ルール改正を)働きかけていくべきだ」と述べた。(時事通信:2010年3月1日)
    


他方、あくまでもブログや掲示板で確認する限りですけれども、浅田選手の贔屓筋はこのプルシェンコ提言に加えて、①「特定の選手(具体的には、キムヨナ姫)に有利になるような採点基準の改訂と運用が少なくともバンクーバーオリンピックまでのこの1~2年間継続して行なわれてきたのではないか」、いずれにせよ、②「フィギュアスケートの採点基準は(就中、演技構成点とGOEに関しては)曖昧で抽象的であり、審判員の主観や政治的謀略によって左右される度合が大きすぎる」という主張のように見受けられます。

要は、キムヨナ姫の金メダルは、韓国やスポンサーの意向を受けた国際スケート連盟(ISU)内部の政治的策動の結果であり(具体的に、金銭授受があったかどうかは別にして、それが「出来レース」であったという意味では、それは)「八百長」に他ならず、「キムヨナ=八百長女王」である。と、最大公約数的と最小公倍数的に浅田選手の贔屓筋の言説をまとめれば、大体、その主張は以上のようなものだと私は考えています。而して、フィギュアスケートの採点基準に投げ掛けられている疑義、つまり、採点基準再改定の要求内容は、概略、次の4点に収束するのではないかと思います。すなわち、

・高難度のエレメントの得点引き上げ
・演技構成点とGOEの得点引き下げ、もしくは、廃止
・採点基準改定プロセスの可視化と説明責任の付加
・採点基準の明確化と審判過程の可視化(責任所在の明確化)


このような採点基準に対する疑義に対して、本稿で紹介するコラムの中で著者のHamilton女史は、現行の採点基準があまりにも「技術的」になっており、フィギュアスケートの演技の中で本来具現すべき「感性的」なsomethingがないがしろにされているという認識から、少なくとも、日本の浅田選手贔屓筋とは全く反対のベクトルから採点基準に対する疑義とその改定指針を挙げておられる。すなわち、次の項目。

・マストとして盛り込まねばならないエレメントの個数の削減


Hamilton女史が述べておられるように、「採点基準=ルール」は「石に刻まれたものの如く変更不可能というものではない。而して、採点基準は、客観性をより志向する地点と主観性をより志向する地点の間を常に揺れる振り子のようなもので、今は前者の地点から前者と後者の中間の地点に「採点基準改定の動き=振り子の針」は動こうとしている」のかもしれません。実際、次のような報道を目にすると近々大きな変更が採点基準に施される予感は誰しも感じることではないでしょうか。

●回転不足で「中間点」導入へ=高難度ジャンプ挑戦を促進−国際スケート連盟〔五輪〕

フィギュアスケートで回転不足とされたジャンプの基礎点について、国際スケート連盟(ISU)が来季から「中間点」に相当するルールを導入する見通しであることが26日、分かった。五輪終了を受け、6月のISU総会での改正に向けた詰めの議論が行われる。

現行ルールでは回転不足のジャンプは1回転少ないジャンプと見なされて大幅な減点になるが、その減点幅を縮小し、難度の高いジャンプへの挑戦を促すのが狙い。ISU技術委員会関係者によると、以前から話し合いが続けられていた。(中略)

近年は高難度のジャンプに対するルール緩和が行われてきた。昨季はトリプルアクセルと4回転の基礎点が引き上げられ、今季からは回転不足のジャンプに対してジャッジが評価点(GOE)を必ずしも減点する必要がなくなった。(時事通信:2010年2月28日)
    


kimuyuna52s.jpg


蓋し、採点基準の再改定もそう遠くないの、鴨。
ならば、月並みですが、

現下の諸々の事実、現行の採点基準のメリットとデメリットを踏まえ、かつ、その採点基準改定によってどのようなフィギュアスケートを具現したいとこの競技のステーツホルダー(選手・連盟・スポンサー、そして、スケートファン)が願っているのかを明らかにした上で、「論理的-政治的」にこの問題にはアプローチするしかないの、鴨。要は、事実も重要だが、フィギュアスケートにどんな<美の世界>の具現を期待するのかが死活的に重要ということ。と、そう私は考えています。

いずれにせよ、浅田選手の贔屓筋はバンクーバーオリンピックにおけるキムヨナ姫の演技に対する世界の評価を踏まえた上で、「陰謀論」や「回転不足疑惑」などは主張すべきであろうと思います。蓋し、世界のフィギュアスケート専門家およびファンの評価こそ採点基準改定を具現する上での鍵になることは自明でしょうから。

而して、asylum.comの「バンクーバーオリンピックの美人選手ランキング」で堂々第5位にランクインしたとかは別にしても(笑)、私がこの80時間余り目を通した限りでは、少なくとも、英米独のメディア報道の中に、「キムヨナ=八百長女王」説などという「負け犬の遠吠え」にしても失礼千万な認識はほぼ皆無であり、それどころか、世界はキムヨナ姫に対する絶賛の嵐状態なのです。以下、その一例を挙げておきましょう。出典はキムヨナ姫の戴冠直後の2月26日、New York Timesの“As Kim Raises the Bar, South Korea Delights”「キムヨナ選手、女子フィギュアスケートに新しい地平を開く-歓喜に沸きかえる韓国」 です。







Dressed in azure, accompanied by Gershwin, Kim Yu-na of South Korea seemingly floated to the clouds with her soaring jumps and airy elegance Thursday night, winning an Olympic gold medal and her rightful place as one of the greatest women’s figure skaters of any era.


コバルトブルーのドレスに身を包み、ガーシュインの曲に乗って、韓国のキムヨナ選手が高く優雅に舞い上がるとそれは雲にも届きそうに見えた。木曜日【2010年2月25日】の夜のことである。而して、彼女はオリンピックの金メダルを掌中にし、かつ、彼女があらゆる時代を通じて最も偉大な女子フィギュアスケート選手の1人であることを万人に認めさせたのだ。



Scott Hamilton, the 1984 men’s Olympic champion, compared Kim to Seabiscuit, the thoroughbred, as dominant athletes who broke their competitors’ will.

“Yu-na has only been at the top of her game for a couple of years,” Hamilton said. “But if she’s here another four years at this level, a lot of skaters would break down. They would try to up their games so much, there would be injuries. There’s no weakness there. Compare her with anybody; she’s got it all. Under any system, anywhere, any time, she’d win.”


1984年サラエボオリンピック男子金メダルのスコット・ハミルトン氏は、キムヨナ選手を、天下無敵の伝説的競走馬シービスケットに喩えて、ライバルの戦意を喪失させる圧倒的な存在と見ている。

「ヨナはここ数年は出場した大会でほとんど優勝しただけだった。けれども、彼女があと4年間、現在のレベルを維持するとしたら、他の選手は手も足もでなくなるだろう。否、焦りが無理につながり、けがをしてしまうかもしれない」とハミルトン氏は語ってくれた。「彼女には全く死角が見当たらないし、誰と比べてもその比較が意味をなす限度を超えている。どんな採点基準の下であろうと、大会がどこでいつ行なわれようと優勝するのはキムヨナ以外にはあり得ない」とも。
    



以下、Tracee Hamilton女史のコラムの紹介に続きます。







(2010年3月1日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


テーマ : このままで、いいのか日本
ジャンル : 政治・経済

プロフィール

KABU

Author:KABU
大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
yahoo版のミラーブログ。
2007年9月10日以降の新記事を随時、厳選した過去の自薦稿を漸次アップロードしていきます♪

百人一首 de 海馬之玄関
問い合わせ先
カレンダー
02 | 2010/03 | 04
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
使用状況de電気予報
人間が好きになる名言集

presented by 地球の名言

人生が輝き出す名言集


presented by 地球の名言
夢を叶えるための名言集


presented by 地球の名言
仕事が楽しくなる名言集

presented by 地球の名言

全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

ブログ内検索
検索 de 記事リスト
2010年03月の記事
最近の記事
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2ブログランキング
fc2rankbanner
miniTube