altteacher


・すべての個人や団体のすべての活動は政治性を帯びる
・公務員が一市民として政治にコミットする権利は最大限尊重されるべきだ
・公務員労組を排除する国家意志の形成は歪である
・公務員労組の歪な政治的影響力は排除されるべきである
・公務員労組と公務員の権利は無関係ではないが位相を異にする


上の二つの思考実験は、「公務員労組を排除してする国家意志の形成は歪である」ことと「公務員労組の歪な政治的影響力は排除されるべきである」ことが(トレードオフとまでは言えないけれども)アンビバレントな関係にあることを示唆していると思います。畢竟、公務員と公務員労組の政治的権利の制限を巡る憲法訴訟論において、妥当な審査基準と合憲判断基準が那辺にあるかは、正に、紛争当事者である各プレーヤー各々の人数や利用ニーズ、そして、影響力の占拠の度合という現実具体的な<ボリューム>からしか帰納できない類の事柄であろうと思います。

最後の「公務員労組と公務員の権利は無関係ではないが位相を異にする」ことは、それらに自然人と法人の違いがあるだけでなく、公務員労組が極めて大きな社会的影響力を保持していることから演繹できるのではないでしょうか。

企業の政治活動の権利を認めた八幡製鉄所政治献金事件最高裁大法廷判決(1970年6月24日)、そして、労働組合の政治活動の権利を一定限度で認めた諸判決、例えば、沢の町モータープール事件最高裁判決(1962年5月24日);三井美唄労組事件最高裁大法廷判決(1968年12月4日);中里鉱業所事件最高裁判決(1969年5月2日);国労広島地本事件最高裁判決(1975年11月28日)を勘案すれば、蓋し、

労組が政治活動を行うことは、企業等々の私的な団体一般に認められているのと同様、必ずしも禁止されるわけではないが、さりとて、労組の政治活動を専ら目的とした活動は憲法が保障する「労働組合」の正当な活動の範囲外の事柄である
    

とする立場に判例はあると言えると思います。更に、同一の構成要件に該当する犯罪事実を惹起したとしても(特に、累犯の場合)組織犯罪を常套する団体(例えば、任侠系団体や神農系団体)の構成員と一般の実行行為者では求刑にも宣告刑にもあからさまな差があること。これと同様、(公務員労組の影響力の過半は、公的な資金とインフラによって可能になっていることを鑑みるならば)公務員労組の政治的影響力によって政治が歪められることを防止することは現行憲法上も可能であるだけでなく、むしろ、国民主権の原則を採用する現行憲法の要請でさえある。と、そう私は考えます。


puroshimindazo99



■憲法における公務員と公務員労組の政治活動の内容
アメリカ連邦最高裁は、2010年1月21日、「企業・団体等が政治広告に資金を支出することを制限した政治資金規制法」を政治的表現の自由を不当に制限するものだとして違憲判決を下しました。ご存知のように、アメリカでは、原則、企業等自体からの政治献金は禁止されていますが、企業等がその分離基金(Separate Segregated Fund:企業等が間接的に寄附を行うための組織)を通して政治献金をすることは許されています。これを形式的な「お芝居」のような方便と感じる向きもあるでしょうが、法的な筋を通すことと、「すべての個人や団体のすべての活動は政治性を帯びる」という実存的な現実とを両立する智恵ではないかと思います。

すなわち、

企業や労組が政治活動にコミットする方途を確保する一方で、企業や労組がその本分(存在理由)を政治にコミットすることで喪失することのないように、また、企業や労組の影響力によって政治が歪められることがないように、企業・労組の活動と政治活動に一線を引かしめて、かつ、「企業・労組⇔政治セクター」の人・物・金の出入りを可視化すること
    

これが、健全な保守主義が根づくアメリカの智恵なのだと私は考えています。而して、これが「公務員と公務員労組の政治活動の範囲」に関する現行憲法の内容を抽出する導きの糸になるの、鴨。

ならば、繰り返しになりますが、私は「公務員と公務員労組の政治活動の範囲」に関する現行憲法の規範内容を希求するとき、問題は両面性を持っていると考えるのです。

すなわち、

(甲)公務員と公務員労組の政治活動の必然性と不可避性
行政権(というか行政サービス部面)が肥大化した現在の福祉国家の大衆民主主義体制下では、誰のどんな行為も<政治性>を帯びる、他方、地方・国・第三セクターを併せて労働人口の公務員比率が優に10%を超える(また、一般・特別・財投を合わせればGDP比の公的支出が50%近い)日本で、公務員の政治活動を認めないということは抽象的な「国民概念=非公務員概念」で現実には1-2割の国民の政治参加を縛るに等しい。

(乙)公務員労組の影響力制限の必要性と不可欠性
組織犯罪が個人の犯罪とは別枠で処理されているのと同様、極めて巨大な公務員労組に、政治的活動のフリーハンドを与えてよいのか。それは、逆に、「国民の政治活動の自由」を錦の御旗にして、実は、かなり特殊な利害単位が政治を歪めることにならないか。しかも、その団体の影響力が公的サービスに付随する物である以上、そこには線引きがなされなければならない。
    


birahaifu


蓋し、今回の赤旗配布事件で、1974年の猿払事件最高裁大法廷判決を踏襲して「行政の中立性確保のため、公務員の政治的行為の禁止が合理的で必要やむを得ない限度内で憲法上許される」「被告は特定政党を積極支援し、政治的中立性を著しく損ねた」として有罪を言い渡した一審判決も、他方、(繰り返しになりますが)「表現の自由は民主主義国家の政治的基盤を根元から支えるもので、公務員の政治的中立性を損なう恐れのある政治的行為を禁止することは、範囲や方法が合理的で必要やむを得ない程度にとどまる限り、憲法が許容する。規制目的は国民の信頼確保で、判断で最も重要なのは国民の法意識であり、時代や政治、社会の変動によって変容する。・・・ただし集団的、組織的な場合は別論である」と判示した今次の東京高裁の判決も、その結論は異にしつつも、同じく上記(甲)(乙)を見据えた判断と言えると思います。

ならば、郵便局に勤める全逓組合員が社会党(当時)候補の選挙運動を行った行為が国家公務員法違反に当たるとして有罪判決を言い渡した1974年の猿払事件最高裁大法廷判決以降、最高裁・下級審を問わず、公務員の政治活動を巡ってはこの猿払事件判決における判断が踏襲されてきたこと。

更に、産経新聞が指摘する通り、国家公務員法・人事院規則の法の趣旨が「公務員の地位や職種」に関わらず一律の規制を妥当とするものである以上(尚、地方公務員法や教育公務員法においては、「地方公務員≒自治労組合員」や「地方の公立学校教師≒日教組・全教組合員」の違法な政治活動に対する罰則規定はないにしても、それらの違法行為に対しては石原東京都知事が綱紀粛正の範を示された如く(北教組を除けばほぼ)行政処分が科されているのだから)、正に、産経新聞社説が述べている「今回の判決が公務員全体の職場規律などに与える影響が懸念される。上告審での適正な判断を待ちたい」という主張も根拠がないわけではないのです。

実際、「公務員の地位や職種」に着目した多様な規制が法技術的には「言うは易く行なうは難い」類の事柄であることを鑑みれば(再々になりますが、公務員の政治活動が無制限に認められて良いはずもない以上)、他方、労使双方にとって(何をどれくらい激しく政治活動を行なえば違法とされるかが予め社会的に認識されている状態としての)「法的安定性=予見可能性」の確保という法価値が、満更、現実の「学校経営=労働運動圏」においても枝葉抹消のものなどではないだろうこと。否、理想と現実が常にせめぎ合う現場でこそ法的安定性はかなり大事な価値であることを前提にすれば、赤旗配布事件の(もちろん、憲法理論としては高裁判決が優れていることは大方の同意を得られるにせよ)第一審と高裁のいずれが憲法訴訟に対する<具体的ソリューション>としては中庸を得たものであるかは微妙である。と、そう私は考えています。


mazerunakiken


而して、これらを前提にすれば、(その影響力が公的インフラと法的権限に起因する)公務員労組の活動は政党に対する資金提供と政策提言にほぼ限定されるべきであり、まして、公務員たる組合員を統制して、その職場に政治活動を持ち込ませることは原則禁止されるべきだ。畢竟、公務員労組はその政治参加は厳しく制限されるべきである。蓋し、労働組合は労働運動にその本分がある。しかし、このことは公務員が個人の資格で勤務時間外に(off duty)、職務遂行中の政治的中立性を「一般市民=非公務員」から疑われない限度で政治にコミットする権利が保障されるべきこととは位相を異にしている。

ならば、公務員労組の政治活動を制限する立法に対する憲法訴訟は、社会的規制と同様、審査基準において合憲性の推定を受けるタイプの事例であり、その合憲性判断基準もまた、国民主権の原則を鑑みるならば、明白性の原則(合理性の基準)が適用されてしかるべきだ。と、そう私は考えています。

蓋し、かなり悩ましいケースではあるけれど、(α)公務員の政治活動の規制の是非が問われた赤旗配布事件に関しては一審被告人の無罪が、そして、(β)公務員労組の政治活動の規制の是非が問われるであろう小林代議士に絡んだ北教組違法献金事件に関しては、それを厳罰に処する判断が、おそらく、現行憲法の規範意味に適うものではなかろうか。と、私はそう考えます。


ladyjustice



■参考記事
●憲法訴訟
・外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(壱)~(九)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58930300.html

・護憲派による自殺点☆愛敬浩二『改憲問題』(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/34986878.html  


●憲法総論-憲法の概念
・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59308240.html

・憲法無効論の頑冥不霊と無用の用(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58998947.html

・憲法と常識(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58258370.html


●憲法総論-憲法の価値
・三権分立と国民主権★民主党による「政治主導」は
 民主主義の帰結か、それとも、民主主義と憲法の破壊か?(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58913235.html

・戦後民主主義的国家論の打破
 ☆国民国家と民族国家の二項対立的図式を嗤う(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/36117902.html





(2010年3月30日:yahoo版にアップロード)

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ジャンル : 政治・経済




■公務員の政治活動の制限と憲法訴訟
現行憲法15条2項は「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と定めており、また、かっては、所謂「特別権力関係論」(公務員・在監者等、一般国民とは異なり、国家権力との間で特殊な「命令-服従」の関係にある者は憲法上の権利の享受・行使が制限されてもやむを得ないとする議論)から、当然、公務員はその政治活動の権利が制限されるという憲法解釈論が存在していました。けれども、現在、「全体の奉仕者」や「特別権力関係」の6文字からアプリオリに、かつ、オートマティカルに、①すべての公務員の、②すべての政治活動の自由を、③一律に制限することは憲法上は認められないという立場が通説であろうと思います。例えば、芦部信喜『憲法第四版』(岩波書店・2007年3月)はこう述べています。

公務員の人権については、国家公務員の政治的自由の制限(国家公務員法102条、人人規則14-7)と、公務員等の労働基本権の制限(国家公務員法98条2項、地方公務員法37条、特定独立行政法人等の労働関係に関する法律17条【逆に、1954年の改正に際して、その違法な政治活動に対する罰則規定が原案から削除された教育公務員特例法】)がとくに問題となる。公務員の人権制限の根拠は、初期の判例においては、公共の福祉および「全体の奉仕者」(憲法15条2項)という抽象的な観念に求められていた。その背後には、特別権力関係論の考え方があった。(pp.104-105)

しかし、人権制限の究極の根拠は、憲法が公務員関係という特別の法律関係の存在とその自律性を憲法秩序の構成要素として認めていること(15条・73条4号)に求められなければならない。(p.263)

つまり、政党政治の下では、行政の中立性が保たれてはじめて公務員関係の自律性が確保され、行政の継続性・安定性が維持されるので、そのために一定の政治活動を制限することも許されるのである。しかし、公務員も一般の勤労者であり市民であるから、政治活動の自由に対する制限は、行政の中立性という目的を達成するために必要最小限度にとどまらなければならないと解するのが妥当である。そういう立場をとれば、公務員の地位、職務の内容・性質等の相違その他諸般の事情(勤務時間の内外、国の施設の利用の有無、政治活動の種類・性質・態様など)を考慮したうえで、具体的・個別的に審査することが求められよう。

そのための審査基準としては、公務員が公権力(国ないし地方公共団体)と特別な法律関係にある者であることも考えあわせると、「より制限的でない他の選びうる手段」の基準が適切であろう。現行法上の制限は、すべての公務員の政治活動を一律全面に禁止し(その点で表現の内容規制である)、しかも刑事罰を科している点で、違憲の疑いがあるが、判例は、全農林警職法事件判決【以降、これらをすべて合憲と解している】(p.266)
    

畢竟、現在の憲法訴訟論における憲法上の権利の制限は、(a)可能な限りそれをミニマムにすべく、(b)制限される自由の種類と性質に着目してこれを類型化し、かつ、(c)権利制限の根拠の合理性を、権利制限の手法に着目してこれまた合理的に類型化する、重層的な類型化の思索を基盤としています(★)。

ならば、それ自体を切り取る時、その業務が公権力の行使・運用とは必ずしも言えない現業的職務や単なる事務処理的な業務に専ら携わっている公務員と高級官僚を同一視すること、または、教師が勤務時間中、あまつさえ、卒業式や入学式で日の丸・君が代に反対するとか、あるいは、「竹島は韓国の領土だ」などと日本国政府の立場と異なる見解を子供たち教えるなどいう破廉恥な行いと、同じ、教師が公休日に「北方領土返還デモ」や「拉致問題糾弾市民集会」に参加することを同一視することは現下の憲法訴訟論からは支持されないのではないか。

蓋し、芦部さんが述べておられる通り、判例が公務員の政治的自由に関して、現行法規の広範囲、かつ、一律の制限を合憲としている現状においても憲法訴訟論からはそう言えると思います(要は、判例もこの同じ憲法訴訟論を前提に、異なる事実認定と法益の異なる比較考量から通説とは正反対の結論を導いているということです)。

★註:憲法訴訟による権利の保障と制限
現在の憲法訴訟論の地平からは(一応、二重の基準論を前提にした上で)精神的自由の制限か、経済的自由の制限か、経済的自由の制限とすればそれは(食品や住居等の安心安全を図るための)社会的規制かそれとも狭義の経済規制か、更に、後者とすればそれは(所有権や経済活動の自由を制限する)消極的な経済規制か、それとも、ケインズ政策の断行、社会経済の円滑な運営や福祉国家の実現のための積極的経済規制であるかに従い、権利が国家により保障される度合には差があるものと考えられています。理念的に言えば、規制を行なう国家にとって違憲判決を喰らい易い順、すなわち、権利制限のための敷居が高い順(高→低)に並べれば次の通り、

↓表現内容に着目した精神的自由の制限
↓表現内容には無関係な精神的自由の制限
↓消極的経済規制
↓積極的経済規制
↓社会的規制

而して、憲法が「権利制限を制限する度合」は、具体的には、(イ)憲法訴訟の審査基準:どの程度の厳格さで人権侵害を審査するか(および、この裏面としての「権利を制約する法規に合憲性が推定されるかどうか」あるいは「違憲を立証する責任は誰に帰属するか」)、そして、(ロ)憲法訴訟の具体的な合憲性判断基準:何が満たされれば違憲とされるか(例えば、「より制限的でない他の選びうる手段」の基準等々)の二つの軸の交点に求められるのです。
    



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■憲法における公務員と公務員労組の政治活動の本性
私は、赤旗配布事件はともかくとして、今般の小林代議士の違法献金事件に醜悪にも露呈した、日教組・全教の政治活動に対しては日頃から不信を抱いている者です。その私が「公務員の政治活動を制限することは現行憲法から見ても慎重を要する」と、なぜ、縷々述べてきたのか。

それは、繰り返しになりますが、現在は、「公共の福祉」や「特別権力関係」、あるいは、「全体の奉仕者」等々のBig Wordsを「水戸黄門の印籠」よろしく示せば事足りるなどという古き良き時代ではないこと。畢竟、憲法訴訟論の地平で、個々の権利の性質について具体的な論拠を繰り出すのでなければ「左翼-リベラル派」との議論では太刀打ちできない、と。そう考えているからです。

けれども、現在の判例たる、全農林警職法事件最高裁大法廷判決(1973年4月25日)や猿払事件最高裁大法廷判決(1974年11月6日)が、公務員の政治活動を無条件に認めているわけではないことからも明らかな如く、「公務員の政治活動を制限することは現行憲法から見ても慎重を要する」ということは、必ずしも、日教組教師が勤務時間中に「竹島は韓国の領土」であると子供達に教える権利を容認するものではないことは当然です。否、「現行憲法の解釈論からは公務員の政治活動を一律に制限することは許されない」という理路は、一方で、日教組教師の跳梁跋扈を封じつつ、他方では、例えば、安全保障政策を巡って、専門家でありその第一線にある自衛隊員諸氏が市民の立場からする政治的発言を憲法から正当化し得る側面もあるのです。

而して、私は、今般の北教組の破廉恥な違法献金事件が示唆している課題は、個人としての公務員に憲法が認めている政治活動の範囲の確定だけではなく、公務員労組の適正なる政治活動の範囲、あるいは、政治的影響力の度合の確定であると考えます。そして、後者を明らかにするためには、現行憲法における公務員と公務員労組の政治活動の本性を措定しなければならず、また、その考察が前提にすべきは次の5個ではないか。と、そう私は考えています。

・すべての個人や団体のすべての活動は政治性を帯びる
・公務員が一市民として政治にコミットする権利は最大限尊重されるべきだ
・公務員労組を排除する国家意志の形成は歪である
・公務員労組の歪な政治的影響力は排除されるべきである
・公務員労組と公務員の権利は無関係ではないが位相を異にする


例えば、それが私的行為であれ皇族の行為は強い政治的影響力を帯びざるを得ないように、まして、国家の権限と責務が社会の広範囲に及ぶ、所謂「行政権の肥大化」を伴った現下の大衆民主主義下の福祉国家では、どの労組であれ企業であれのどのような活動も政治に影響を及ぼさないことはない。ならば、公務員とその労組の政治活動につき憲法的に「許される/許されない」の線引きの基準として<政治性=政治的影響の有無と強弱>にはあまり多くを期待できないでしょう。

また、「公務員が一市民として政治にコミットする権利は最大限尊重されるべき」ことは、前項で引用した芦部さんの主張を反芻するまでもなく自明のこと。蓋し、彼や彼女が、()勤務時間外に、()政治政党の正式メンバーとしてではなく、かつ、イベントや配布物の主宰者や文責者側としてではなく、()政治的意見を表明したりイベントに参加したりすることは自由である。と、そう私は考えています。而して、()に関しては、現在、裁判官・検察官・警察官等を除けば公務員も政党の党員になることは禁止されていませんが、それは、些か<過剰サービス>ではないかと私個人は思います。

「公務員労組を排除する国家意志の形成は歪である」とは、<国民>という「国民」は存在しないことから明らか。つまり、普通名詞や抽象名詞の<国民>などは、政治を抽象的に考究する学的思索の中にしか存在せず、この世に実存するものは固有名詞の「国民」であり、企業経営者や公務員や民間企業の被雇用者である具体的な諸個人でしかない。何を私は言いたいのか。それは、地方・国・第三セクター併せて労働人口の公務員比率が優に10%を超える(また、一般・特別・財投を合わせればGDP比の公的支出が50%近い)現在の日本で、公務員の政治活動を認めないということは、現実には、1-2割の国民の政治参加を拒絶するに等しい暴挙でしかないということです。二つの思考実験で敷衍します。


なんらかの集会のために公園を利用したいという申請を「一般の利用者を排除する」ことを理由に当局が拒絶するケースを想起してみてください。それは、公務員の政治活動を「抽象的な国民概念=非公務員概念」を理由に拒絶することとパラレルではないでしょうか。常日頃、その時間帯には40人足らずの親子連れしか利用していない公園を、「一般の利用者の排除」を名目に例えば、400人の市民が集会に使用することを禁止するのは不条理を超えて滑稽でさえあるでしょう。

しかし、「公園=公共財」の利用というこの同じ思考実験から、別の不条理もイメージすることができるかもしれません。すなわち、常日頃、100人の固定メンバーがあたかも自分達のグループ専用の公園のようにその公共財を占有しているケースです。この場合、確かにその日その日の「一般の利用者」は40人足らずにせよ、その背後には潜在的に4000人からの利用希望者が控えているとしたら、前のケースとは逆に、その100人の固定メンバーは、公共財のフリーライダーであるだけでなく不法占拠者と呼べるのではないでしょうか。
   


<続く>







(2010年3月30日:yahoo版にアップロード)

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ジャンル : 政治・経済




東京高裁は、2010年3月29日、所謂「赤旗配布事件」の控訴審で一審の有罪判決を覆し逆転無罪を言い渡しました。本件は、平成2003年10月~11月、(当時)社会保険庁職員が東京都中央区のマンションなど130世帯に共産党機関紙「しんぶん赤旗」を配ったとして、国家公務員法違反に問われた事例。而して、判決翌日の3月30日、朝日新聞・毎日新聞・産経新聞の三紙が社説でこの高裁判決を取り上げたことからも推察できる通り、本高裁判決は下級審の判決ながらかなり重要な司法判断ではないかと思います。

東京高裁の法廷意見曰く、「表現の自由は民主主義国家の政治的基盤を根元から支えるもので、公務員の政治的中立性を損なう恐れのある政治的行為を禁止することは、範囲や方法が合理的で必要やむを得ない程度にとどまる限り、憲法が許容する。規制目的は国民の信頼確保で、判断で最も重要なのは国民の法意識であり、時代や政治、社会の変動によって変容する」「ただし集団的、組織的な場合は別論である」「本件配布行為に罰則規定を適用することは、国家公務員の政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度を超えた制約を加え、処罰の対象とするものと言わざるを得ないから、憲法違反との判断を免れない」、と。

本稿ではこの高裁判決を導師として「公務員労組と公務員の政治活動が孕む現行憲法の規範意味の構図」について考察したものです。尚、憲法の概念と憲法訴訟を巡る私の基本的な理解については本稿末尾の参考記事を参照いただければ嬉しいと思います。

本東京高裁判決を社説で取り上げた三紙は賛否が分かれていました。すなわち、朝日・毎日が「時代に沿う当然の判断」「おおむね妥当な判決」と評価している一方、産経は「判決が公務員全体の職場規律などに与える影響が懸念される。上告審での適正な判断を待ちたい」と否定的(笑)。

いずれにせよ、民主党の小林千代美衆議院議員に対して、北海道教職員組合(北教組)から多額の違法な資金が流れていたとされる事件が世間を騒がせている現在。畢竟、公務員の政治活動は許されるものなのか、まして、公務員労組が(正に、その公務員労組の中核たる自治労と日教組は現下の民主党政権の有力な「支持団体-圧力団体」なのですけれども)国の政治に容喙し多大な影響力を持つことが許されるのか等々、少なからずの有権者・国民がこれらのことに疑問に感じている現在、本高裁判決は、賛否を問わず、また、法律論と政治論を問わず、「公務員と公務員労組の政治活動」につき熱い議論を捲き起こす契機になることはほとんど必定だと思います。本稿はこのような認識に立って「赤旗配布事件」や「北教組違法献金」等の個別の問題を超えるより一般的な地平でこのイシューを俎上に載せようとするものです。まずは本高裁判決の概要。出典は3月29日付共同通信配信記事です。


●赤旗配布で逆転無罪判決要旨-東京高裁

【概要】
表現の自由は民主主義国家の政治的基盤を根元から支えるもので、公務員の政治的中立性を損なう恐れのある政治的行為を禁止することは、範囲や方法が合理的で必要やむを得ない程度にとどまる限り、憲法が許容する。規制目的は国民の信頼確保で、判断で最も重要なのは国民の法意識であり、時代や政治、社会の変動によって変容する。

罰則規定を合憲とした「猿払事件」に対する最高裁大法廷判決当時は国際的に冷戦下にあり、国民も戦前からの意識を引きずり、「官」を「民」より上にとらえていたが、その後大きく変わった。国民は事態を冷静に受け止め、影響については少なくとも公務員の地位や職務権限と結び付けて考えると思われる。勤務時間外の政治的行為の禁止についても、滅私奉公的な勤務が求められていた時代とは異なり、現代では職務とは無関係という評価につながる。

ただし集団的、組織的な場合は別論である。

【具体的検討】
本件は地方出先機関の社会保険事務所に勤務する厚生労働事務官で、職務内容、職務権限は利用者からの年金相談のデータに基づき回答するという裁量の余地のないもので、休日に職場を離れた自宅周辺で公務員であることを明らかにせず、無言で、郵便受けに政党の機関紙などを配布したにとどまる。

被告の行為を目撃した国民がいたとしても、国家公務員による政治的行為だと認識する可能性はなかった。発行や編集などに比べ、政治的偏向が明らかに認められるものではなく、配布行為が集団的に行われた形跡もなく、被告人単独の判断による単発行為だった。

このような配布行為を、罰則規定の合憲性を基礎付ける前提となる保護法益との関係でみると、国民は被告の地位や職務権限、単発行為性を冷静に受け止めると考えられるから、行政の中立的運営、それに対する国民の信頼という保護法益が損なわれる抽象的危険性を肯定することは常識的にみて困難だ。行為後、被告が公務員だったことを知っても、国民が行政全体の中立性に疑問を抱くとは考え難い。

本件配布行為に罰則規定を適用することは、国家公務員の政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度を超えた制約を加え、処罰の対象とするものと言わざるを得ないから、憲法違反との判断を免れず、被告は無罪だ。

【付言】
わが国における国家公務員に対する政治的行為の禁止は一部とはいえ、過度に広範に過ぎる部分があり、憲法上問題がある。地方公務員法との整合性にも問題があるほか、禁止されていない政治的行為に規制目的を阻害する可能性が高いと考えられるものがあるなど、政治的行為の禁止は、法体系全体から見た場合、さまざまな矛盾がある。

時代の進展、経済的、社会的状況の変革の中で、国民の法意識も変容し、表現の自由、言論の自由の重要性に対する認識はより一層深まっており、公務員の政治的行為についても、組織的なものや、ほかの違反行為を伴うものを除けば、表現の自由の発現として、相当程度許容的になってきているように思われる。

また、さまざまな分野でグローバル化が進む中で、世界標準という視点からもあらためてこの問題は考えられるべきだろう。公務員制度の改革が論議され、他方、公務員に対する争議権付与の問題についても政治上の課題とされている中、公務員の政治的行為も、さまざまな視点から刑事罰の対象とすることの当否、範囲などを含め、再検討され、整理されるべき時代が到来しているように思われる。

(共同通信:2010/03/29 11:51)
    


これに対して、産経新聞社説は、おおよそ、次の4点を挙げて本高裁判決に疑問を呈しています。

・判例からの逸脱
東京高裁判決は猿払事件最高裁大法廷判決(1974年)を大きく踏み出している。同大法廷判決は、「衆院選で社会党(当時)の選挙ポスターを掲示、配布した郵便局員を有罪とした」ものであり、「国家公務員の政治活動について、その公務員の地位や職種、勤務時間であったか否かなどのいかんを問わず、幅広く禁止できるという判断を打ち出した」ものだ。【公務員の政治活動の禁止一般を違憲とするのならまだしも、公務員の政治活動の禁止が合憲になり得る点では、猿払事件最高裁大法廷判決を踏襲しながら、その禁止規定の適用の様態によって「違憲-合憲」が分かれるとするのは筋が通らないのではないか】

・状況の変化は必ずしも「合憲→違憲」の一方方向のものではない
高裁判決は「冷戦の終息などに伴って国民の法意識や公務に対する意識が変わり、公務員の政治的行為にも許容的になってきたとしている。だが、いまなお、日本の周辺は中国の軍拡や北朝鮮の核開発など新たな脅威も生まれている。最高裁判決のころと時代が変わったことは事実だが、高裁の判断は少し一面的ではないか。当時も今も、公務員に政治的中立性が求められる状況に変わりはない。最近も北海道教職員組合(北教組)の違法献金が発覚し、公務員の政治的行為に対する国民の目はますます厳しくなっている」。

・規制立法は職務内容や地位に基づく権利の異なる取り扱いを想定していない
「公務員は管理職であろうと一般職員であろうと、公のために奉仕する義務を負っている。地位や身分にかかわらず、政治活動を制限されるのが【国家公務員法・人事院規則の】法の趣旨である」。

・世界標準なるものの斟酌・忖度はあくまでも国益の観点からなされるべきだ
「高裁判決では「日本の国家公務員の政治的行為の禁止が諸外国より広範なものになっている」として、世界基準の視点などから再検討を求める異例の付言もした。その場合も、まず国益を踏まえることが重要だろう」。
   



ihousitting



結論から言えば、私は、本判決は、(α)「公務員の政治活動規制と基本的人権の均衡点」を求めたその理路の枠組みの点ではおおよそ妥当であろうと思います。加えて、本判決がその法廷意見の中で「ただし集団的、組織的な場合は別論である」と述べて、(β)「公務員労組の政治活動規制と基本的人権の均衡点」が(α)とは位相を異にすることを明示した点は高く評価します。

また、本判決が、(χ)いかにも「左翼=リベラル派」の言い分と思しき、公務員の政治活動を一律に規制する立法自体を違憲とする一審被告人側弁護士の主張を退けたこと、かつ、(ψ)違憲判決を出す上で抑制的な所謂「適用違憲判決」の手法(あるタイプの行動を規制する法規自体は違憲ではないが、現実の取締局面でのその法規の適用の仕方が違憲であるとする憲法判断の手法)を採用したことも中庸を得たものではないか。そして、(ω)憲法を含む法規範の規範意味が「社会状況の変化と国民の法意識」によって決定されると断じたことは、それこそ世界標準の「法哲学:法学方法論+法概念論」の通説を踏まえたものであり至極もっともと言うべきだと考えます。

よって、最高裁判所で原審としてこれから吟味されることになるだろう本判決の最終的な妥当性の有無は、おそらく、最高裁も否定しないであろう上述(α)の理路枠組み内部で、而して、産経新聞社説が提示した疑問点、就中、第2点と第4点、「状況の変化」と「世界標準なるもの」の斟酌・忖度において、その判断における「パラメータ」とも言うべき(また、「憲法の効力根拠=憲法の妥当性と実効性の基盤」でもある)現下のこの社会の<国民の法意識>が那辺にあるか、その事実判断の帰趨によって決せられるに違いない。と。そう私は予想しています。


<続く>





(2010年3月30日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 裁判
ジャンル : 政治・経済




ドキュメンタリー映画The Coveにアカデミー賞が授与されて80日程、日本でもこの初夏には上映されるそうです。もちろん、現行憲法上、日本では表現の自由も営業の自由も保障されており、反日映画であろうが、人種差別主義的な映画であろうが法に抵触しない限りそれを上映することは自由でしょう。それに、日本の素晴らしい漁村の景色も紹介されていて、その面では懐かしささえこの映画には感じないではないですから。

而して、上映会に足を運んだ一人として、私はこの映画を「反・反捕鯨」の立場に立つ一人でも多くの同士の皆さんが鑑賞されることをお薦めします。蓋し、「文化帝国主義-ヨーロッパ中心主義」、すなわち、カルト的「人権論」や「地球と人類の共生の提案」なるものがいかなるものであるか、それらがいかに傲岸不遜なものであるかを、端的に理解できるだろうから。蓋し、The Coveは「文化帝国主義」を理解するためのまたとない材料である。と、そう思うからです。

以下、The Coveのアカデミー賞受賞を報じたロイターの記事。出典は、”With The Cove’Victorious at Oscars, Japanese Village Defends Itself”「The Coveのアカデミー賞受賞の現実を前にしても、自己弁護するThe Coveの舞台になった日本の村」(March 8, 2010)です。鯨を喰う権利を死守するために、すなわち、縄文以来の日本の文化伝統を保守するために、共に闘わん! 尚、捕鯨問題に関する私の基本的な考えについては記事末尾の拙稿をご一読いただければ大変嬉しいです。



б(≧◇≦)ノ ・・・鯨は鯨だけの問題に非ず、たかが鯨されど鯨。
б(≧◇≦)ノ ・・・鯨は、食糧安保・国家主権・日本の文化を、 日本人が自分で守れるかどうかの問題だぁー!






The day after “The Cove” won the Academy Award for best documentary, the Japanese fishing village in that film said its dolphin-hunting practices were legal, and that the movie was unfair to its fishermen.

“The Cove,” directed by Louie Psihoyos, uses surreptitiously gathered footage to document dolphin hunts in the village of Taiji, where about 2,000 such animals are killed for their meat each year with the permission of the government. The hunts are frequently targeted by environmental and animal activists who protest the drives, in which dolphins are herded near the shore with boats, and sometimes attempt to interfere with them. The film has been particularly controversial in Japan, where it has been threatened with legal action and only recently gained distribution to be shown there in April.


「The Cove」【本来なら「その(問題の)入江」と訳すべきだけれど、日本でも「Cove」で通っているので原字のままにした。但し、この場合定冠詞のtheは落すべきではない。意味が全く変わるから】がアカデミー賞を受賞した翌日、The Coveの舞台となった日本の漁村はイルカ漁は合法であり、The Coveはイルカ漁に携わっている漁民を一方的に貶めているという声明を発表した。

Louie Psihoyosがメガホンを取った「The Cove」は、太地町で行なわれているイルカ漁を記録に残すべく盗撮したフィルムを寄せ集めた作品である。太地町は日本政府の許可を得て【この箇所は変蜜に言えば「県知事の許可を得て」が正しいが原文テクストに従った。詳細は下記「囲み情報」参照】、食肉生産目的で、毎年、約2,000頭のイルカ類を捕殺している。このイルカ漁は、しばしば、環境活動家や動物愛護運動家の標的になっており、彼等【文化帝国主義者】は、小型漁船で岸にイルカを駆り立てる追い込みに抗議したり、時には、追い込みを妨害したりしている。The Coveは日本で論争の嵐を巻き起こしている。実際、この映画に対しては法的措置も辞さないという圧力が加えられており、やっと最近、4月に日本国内での上映が決まったくらいなのだから。

◎小型捕鯨-イルカ類狩猟許可の仕組み
所謂「イルカ」を対象に含む小型捕鯨には、①農林水産大臣の許可を得て行なう(狭義の)「小型捕鯨業】と、水産庁が決めた狩猟頭数の大枠に従い道県知事から許可を得て行なう「いるか漁業」があります。

広義の小型捕鯨(both with農林水産大臣の許可 and with道県知事の許可)の狩猟対象となっているイルカは、「脳死状態団-IWC」の管理権限外の(絶滅の恐れが今のとことほとんどない)鯨類に限られます。尚、「脳死状態団-IWC」の管理権限内の鯨類でも偶然網にかかった場合は、「混獲」と呼ばれ、この場合には個体毎のDNAを採取保管する等の手続さえ踏めば合法的にその鯨肉を販売できます。

ウマウマ(^◇^)

さて、農林水産大臣から許可を得る「小型捕鯨漁」は、48トン未満の船で「捕鯨砲」で狩猟する方法。5箇所(北海道網走、北海道函館、宮城県鮎川、千葉県和田、和歌山県太地)に許可が与えられている。対象魚種はハナゴンドウ、コビレゴンドウ、ツチクジラです。ちなみに、動物学上は、イルカは鯨です。また、

б(≧◇≦)ノ ・・・鯨は魚ではありませんよぉー!
б(≧◇≦)ノ ・・・鯨は美味しい哺乳類でーす!

道県知事許可の対象の「いるか漁業」は、突きん棒猟 (北海道、青森県、岩手県、宮城県、千葉県、和歌山県、沖縄県)と追込み猟(和歌山県太地町、静岡県富戸)。また、対象魚種は、バンドウイルカ、イシイルカマダライルカ、スジイルカ、ハナゴンドウ、コビレゴンドウ、オキゴンドウ、シワハイルカ等です。而して、The Coveが盗撮したイルカ漁は「和歌山県知事の許可」を受け法令に従った正当なものなのです。
   
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In a statement reported by The Associated Press, the office of the mayor of Taiji defended the village’s practices and said “The Cove” contained statements that were not based on science. “There are different food traditions within Japan and around the world,” the statement said. “It is important to respect and understand regional food cultures, which are based on traditions with long histories.”

Hisato Ryono, a local councilman who appears in “The Cove,” told The A.P.: “This is a close-knit group of fishermen. The more they feel squeezed, the more they will close off to outsiders. They won’t stop this hunt because of such pressure.”

Backstage at the Oscars after receiving his award, Mr. Psihoyos said he hoped “the Japanese people will see this film and decide themselves whether animals should be used for meat and for entertainment.”


AP電によれば、太地町の町長室は、太地のイルカ漁を擁護して、The Coveには科学的に根拠のない主張が含まれているという談話を発表した。而して、「日本には日本の、他の国にはその国なりの食の伝統があるのです」「その地域にはその地域の食文化があることを理解し尊重することが重要なのではありますまいか。長い歴史の中で形成された伝統に食の文化も基盤を置いているのですから」とも。

「The Cove」にも登場する【かって、太地町のスーパーで売っているイルカ肉には有害な水銀が含まれていると騒ぎ立てたが、結局、国の許容値を超える水銀の検出は後にも先にも彼等が騒ぎ立てた検体からしか検出されず、顰蹙を被った】太地町会議員の漁野尚登氏は、AP通信に対して「この町は漁民が緊密に連帯している。圧力が強まっていると彼が感じれば感じるほど、彼等はよけいに結束を固めよそ者に対して戸を固く閉めるでしょう。而して、The Coveが世界で煽り立てている圧力などでは、彼等がイルカ漁を止めることはないでしょうね」と語ったとのことだ。

アカデミー賞授賞式の楽屋裏で、オスカーを受け取った直後、監督のPsihoyos氏は、「この作品を見た日本人が、イルカはその肉を取るためや人間の慰みのために利用されるべきかどうかを自分で判断することになるのではないでしょうか」と述べた。
  





■捕鯨問題に関する参考記事


・鯨と日本の再生
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-306.html

・反捕鯨論の文化帝国主義的で傲慢な謬論を逐条撃破する
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-313.html

・書評☆星川淳GPJ事務局長『日本人はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-318.html



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連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、
力尽くさずして挫けることを拒否する。共に闘わん!






(2010年6月5日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 捕鯨・反捕鯨問題
ジャンル : 政治・経済




民主党政権は、政権奪取の高揚感からか、今般の政権交代を「明治維新」になぞらえ、而して、鳩山政権に至らぬ所が散見するとしても(というか、目を皿のようにして捜しても「至らぬ所」しか見当たらないのではありますが)、再度、自民党に政権を渡すなどという「時計の針を戻すようなことをしてはならない」と当の鳩山氏ご自身が述べておられる。蓋し、本稿は民主党政権誕生の歴史的性格を論じた随想です。


■明治維新と建武新政
民主党政権の誕生は、「明治維新」ではなく、日本史上、「最も愚劣な天皇-後醍醐」による「建武新政」に擬えるべきものだ。これが本稿を貫く私の認識です。

蓋し、自分が説明したい何かを他の何かに喩えることは論者の自由であろうと思います。けれど、その比喩が自己正当化の域を超えて、比喩に反映されている偶さかかもしれない「類似」を「必然」であると思い込むのは滑稽というものでしょう。そして、

制度疲労に陥った旧体制を打破すべく、統治能力的には旧体制にかなり劣るかもしれない、しかし、旧体制のしがらみに縛られない新しい指導体制が不可避となり実現した政権交代


こう明治維新を捉えるとき、確かに、「明治維新≒民主党政権誕生」の主張は満更間違いでもない、鴨。もっとも、それを言うなら、巨人軍やサッカー日本代表の監督交代もなにがしか<明治維新>的ではあるのでしょうけれども。ならば、民主党が明治維新に今般の<8・30>政権交代をなぞらえたいのならば、彼等は上の認識を超えるより本質的な類似性を提示しなければならない。


蓋し、実相は逆ではないか。すなわち、

経済政策の観点から見た場合、あきらかに大きな政府を志向している民主党政権は「55年体制=社会主義体制」に立ち戻ろうとするものであり、ならば、今般の政権交代は、言うなれば明治時代から江戸時代に戻ったようなもの。あるいは、田沼意次首班体制から松平定信首班体制に移行したようなものであり、それは時代の逆行に他ならない
    

と、そう私は考えます。蓋し、<8・30>で生起した事態は、小泉政権が先鞭をつけた保守主義に基づく日本再生の始まりの終わりではなく、55年体制的な古い近代主義の本格的な終わりの始まりである。民主党の実質的な支配者が、「田中派-竹下派」の直系たる小澤一郎氏であり、彼の民主党内での力の源泉の一つが旧社会党系分子からの支持であることが、なによりも、この経緯、「民主党政権誕生=55年体制への回帰」を雄弁に物語っているのではないでしょうか。

而して、<8・30>は、民主党のマニフェスト、否、民主党という選択肢の存在が、自民党支配の中で閉塞感に鬱々としていた有権者・国民に<倒幕>の機会と大義名分を与え、もって、この社会に充満していた自民党に対する不満のガスに火がついた結果である。蓋し、<8・30>をこのように把握するとき、それは、「建武新政」と極めて似たものだと思います。蓋し、私は「建武新政」をこう捉えています。

農業以外の商工業・流通サービス業の発展、および、交易活動の全国的ネットワークの形成、それら非農業経済セクターを守護する寺社権門の強化等々の社会経済の変遷、すなわち、私の言う「生態学的社会構造」(自然を媒介にした人と人とのある歴史的に特殊な社会的関係のあり方の総体)の変容が生起していた鎌倉時代後期

逆に言えば、「武家の棟梁家=貴種の職能的武士血縁集団」が「御家人=武装農民」を束ねた政治体制としての鎌倉幕府がこれらの生態学的社会構造の変容に正面から対応することができず、単に、鎌倉幕府の権力支配の実効性のみを時代の趨勢から守るべく、一種の歴史的必然として北条得宗家の独裁に純化していった鎌倉幕府の末期

鎌倉時代初期・中期に農地争奪競争の中でいち早く没落していた旧御家人層を「身内人=鎌倉将軍の陪臣」として吸収しつつ独裁の純化を進める北条得宗家と鎌倉幕府のエスタブリッシュメントとも言うべき有力御家人層との利害が鋭く対立するに及び、「史上最低の天皇=後醍醐」の倒幕の綸旨が、六十餘洲に充満していた「反得宗独裁体制」のガスに火を付けた
    


而して、建武新政の推移は「history:誰もが知っているつまらない話」でしょう。蓋し、

①北条得宗家中枢も「史上最も無能な天皇=後醍醐」も、当時の生態学的社会構造のあり様を理解できていなかった点ではなんら変わらなかった

②曲がりなりにも人口の過半を占めるに至っていた(皇室・公家・寺社という権門の直轄荘園と国衙領を除く)「武装農民と武装農民が囲い込んでいた農民」の利害を一応代表していた鎌倉幕府と違い、建武新政は、政治と経済の仕組みを(武家支配を生ぜしめた源平争乱期以前の生態学的社会構造に適合的なsomethingに戻そうとした
    

この①②を踏まえれば、建武新政が極めて短期間に瓦解して「史上最も間抜けな天皇=後醍醐」の妄想が画餅に帰したことは、そして、南朝・後南朝の惨めな末路は悲劇ではなく喜劇であり、歴史的必然であったと思います。そして、民主党政権も、

①国際政治経済を含め、生態学的社会構造のあり様が「55年体制」が機能した冷戦期と現在の日本では変化していること

②曲がりなりにも労働人口の過半を占める「中小企業経営者」「建設業者」「地方在住者」の利害を一応代表していた自民党政権と違い、民主党政権はバブル期以前の生態学的社会構造に適合的なsomethingに政治と経済の仕組みを戻そうとしている
    


畢竟、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』でヘーゲルの言葉としてマルクスが引用している如く「歴史は二度繰り返される。最初は悲劇として、そして、二度目は喜劇として」という傾向が歴史にあるとすれば、民主党政権は「史上最も滑稽な天皇=後醍醐」の凋落をなぞる<喜劇の北斗の拳>に他ならない。と、そう私は考えています。而して、保守主義に基づく日本再生を期す我々保守改革派は、平成の「足利尊氏」を棟梁に据えて民主党政権を一日も早く打倒しなければならない。もっとも、我々が棟梁に戴くべきは平成の「持統天皇」か「二位の尼=北条政子」かもしれませんけれども。


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■民主党政権は社会主義政権である
明治維新に<8・30>を喩える場合、()自民党政権がなぜ崩壊したのかの説明は比較的スムースですが、()旧政権が対処することに失敗した生態学的社会構造の変容の特定という点では、即、比喩の射程距離外に出てしまう。ならば、民主党議員が「民主党政権の誕生=明治維新」と規定するのは勝手だけれども、それは、単なる(教育心理学で言う所の)「自己拡大化:子供が縁日で買ってもらったお面を被るとウルトラマンになったと思い込む症状」にすぎないのではないか。実際、そうなりつつあるのではないでしょうか。

而して、(当時、「日本=世界で唯一成功した社会主義体制」と皮肉な称賛を寄せられていた如く)民主党政権は「55年体制」への回帰を志向する社会主義政権である。ならば、民主党政権が呪文のように繰り返す「官から政へ:官僚支配の打破と説明責任をより十全に果たす政治家主導の政府の構築」とはこの民主党政権認識からはどう理解すればよいのか。私はこう考えています。以下、過去記事からの引用。

 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59422241.html


民主党政権は「脱官僚支配」を標榜しながら、その実、官僚と労組が猖獗を極める社会主義国家を目指している。而して、民主党政権が唱える「政治主導」とは、行政実務を任せる宛先を人脈的に自民党の与力だった「官僚A群」から民主党に尻尾を振る「官僚B群」に変更するだけのものに過ぎない。ならば、「脱官僚支配」は(大統領が変われば、特に政権与党が交代すれば、3000人以上の高級官僚が交代する)アメリカの猟官制的な官僚の人事制度を議院内閣制の我が国において導入する、すなわち、行政に赤裸々な権力闘争を持ち込む不適切な政策指針ではないか。・・・民主党政権は赤裸々な猟官制を行政機構に導入しようとする、古い古い自民党よりも更に古い政権である。

畢竟、高校償化にせよ、子供手当てにせよ、それは財源論から言えば、「A:生活が苦しくて子供も産めない/結婚もできない層」から所得を奪い、「B:Aグループ層よりは豊かな、結婚もでき子供も産める層」に所得を配分する(世代間負担の移動モデルを考えてもそう言わざるを得ない)凄まじい悪制です。而して、日本国内に住んでいない外国人の子供への支援の出鱈目さと相まって、このような、子供でも分かる、憲法無効論なみの馬鹿げた施策法案がなぜ堂々と主張され国会を通過するのか。

蓋し、それは、(イ)民主党の政策のお粗末さと、パラドキシカルながら(ロ)自民党政権の時代に比べても遥かに大きな官僚依存の結合である。すなわち、コトナカレ主義の官僚が「注文主=民主党政権」の注文に従い出した法案に対して、「注文主=民主党の政治家」も「料理人=官僚」も、本質的に誰もその中味がわかっていないという構図である、と。 而して、この滑稽な悲惨の源泉は那辺にあるか。

蓋し、それは、しがらみを断ち切り制度を変えれば政治はうまく行く。要は、多少の混乱はあったとしても、旧政権下で培われた富や技術は丸のまま生かせるはずだという単純な思い込みがあったのではないか。けれど、旧政権下の<社会的&産業的な資産>は旧政権という特定の社会の約束事を前提にしてのみその額面通りの機能を果たし得るものだった。この、建武新政において「史上最も愚かな天皇-後醍醐」が陥ったのと同じタイプの誤謬に民主党も絡めとられているのではないか。

更には、実は、失われた90年代以来、日本は「構造改革の推進と地方再生」という相矛盾する課題を背負い、弥縫策と言えばそれまでだが自民党政権の自転車操業的対処策でやっと綱渡りしていたのを、民主党は「日本にはもっと余裕がある」と勘違いしていたこと。それで、麻生政権の暫定予算を凍結し、すなわち、景気回復のための貴重な財政出動のチャンスを逃した。これらが、現在、民主党政権が晒している悲惨と滑稽の構図ではないだろうか。(以上、自家転記終了)
    

蓋し、「既存の官僚機構の硬直化」を打破するという主張と、「民主党政権=社会主義政権」の認識は矛盾しない。そして、その政府が社会主義を志向する限り(旧政権が代表していた利害から新政権が代表する利害が変化することはあったとしても、基本的に)「官僚支配」は強化され、「新しい官僚機構の硬直化」に至るに違いない。

畢竟、民主党政権は(民主党に尻尾を振るメンバーに官僚層を純化させつつなされる)「官僚支配の強化」を志向する政権ではないか。もし、こう考えることが満更間違いではないとすれば、小澤支配の拡大深化、すなわち、「党内民主主義の欠如=党内官僚制の強化」が露になっていることも(スターリン体制確立期のソ連や、「史上最も下劣な天皇=後醍醐」が建武新政の初期、足利尊氏公をその政権運営から疎外した故事を紐解くまでもなく)、あるいは当然のこと、鴨。と、そう私は考えています。


尚、政権交代の背景と自民党再生のための施策に関する私の基本的な考えについては、下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・自民党解体は<自民党>再生の道
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59411956.html


hatoyamagodaigotogether






(2010年4月17日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 民主党・鳩山政権
ジャンル : 政治・経済

nakayamakun


鳩山政権の終末期、各社世論調査の結果によれば、民主党政権の支持率は20%を切る水準まで低下してきていた。ただ、自民党はその<民主党離反層>の受け皿になりえていないとも。蓋し、民主党のジリ貧に期待しているばかりでは自民党の政権奪還は難しいということ。畢竟、かっての自民党がそうであったように民主党は「負けそうで負けない」の、鴨。ならば、ここはずばり党首交代、而して、経済政策の明確化、これしかないと思います。本稿はこの視座からする自民党再生のための「状況分析=私的試論」です。

昨年の総選挙、自民党の主な敗因は「麻生降ろしの跳梁跋扈=組織の呈をなしていない自民党」の見苦しさにあった。そう批判してきた弊ブログがなぜ総裁退陣を求めるのか。本稿は、この点を導きの糸にして、自民党再生の道、否、「自民党解体→自民党再構築」の道筋と私が考える理路を俎上に載せるものです。


inadachan


■自民党敗北の構図
繰り返しになりますが、そもそも、なぜ、自民党は下野せざるを得なかったか。そして、民主党政権発足から既に半年、それが数多の不祥事と幾多の拙劣さを露呈しているというのに、なぜ、自民党の支持率は低空飛行状態なのか。この点につき私はこう考えています。


なぜに、自民党の支持率は低空飛行を余儀なくされているのでしょうか。畢竟、それは、三年前の<7・29>の参議院選挙と昨年の<8・30>の総選挙で有権者が自民党的政治の何に不満を感じて、「もう、自民党政権が継続するのだけは勘弁!」とばかりに不安てんこ盛りの民主党政権を選んだのかが全く総括されていないからだと思います。

もちろん、<7・29>と<8・30>の敗北の理由は論者によって様々でしょう。而して、それが検証不可能である限り、「自民党はなぜ負けたか」の問いは解答が見出せないタイプの問いかもしれません。よって、以下はあくまでも「仮説」にすぎないのですが、私は、その理由と原因を(経済情勢の悪化は別にして)次の3点に集約すると考えています。

①構造改革の断行と地方再生の同時実現のビジョンを明確に示せなかったこと
②安倍政権以降、かっての守旧派勢力の蘇生と横行を許したこと
③麻生降ろしに象徴的な「組織の呈をなしていない」状態を露呈させたこと
    
すなわち、保守層有権者にとっても政治にまず第一に期待することは経済政策であり、小泉構造改革の後、どのような産業構造を具現していくのかを安倍・福田の両政権は国民に示すことができず、他方、それを「構造改革の断行と地方再生の同時実現」として示した麻生政権は、しかし、その目的地に至る具体的なマイルストーンを国民に告知する前に(「政党の呈をなしていない民主党」よりも遥かに愚劣な)「組織の呈をなしていない自民党」というイメージを有権者に与えてしまったことがその敗因である、と。

この私の仮説は、対北朝鮮強硬策は当然のこと、例えば、首相の靖国神社参拝にせよ、南京・慰安婦・強制連行という反日プロパガンダの打破にせよ、あるいは、夫婦別姓や外国人地方選挙権への反対にせよ、これらどちらかと言えばイデオロギー的なイシューについて自民党の本来の主張を支持する「保守派」が<7・29>と<8・30>から現在に至るまで一貫して(自民党議員と保守系民主党議員の得た得票数から算定する限り)有権者の過半を占めているのに関わらず、そして、再度述べますが民主党政権発足以来、細かく数えれば2ダースを上回る<敵失>にも関わらず、自民党の支持率もまた低迷していることを鑑みれば満更荒唐無稽な仮説ではないのではないでしょうか。

而して、もちろん、対北朝鮮政策、首相の靖国神社参拝、南京・慰安婦・強制連行、そして、夫婦別姓や外国人地方選挙権は大変重要なイシューであることは間違いないけれど、それは「必須科目=経済政策」で及第点を取って初めて、政党の評価項目になるのではないか。而して、私のこのような認識からはその言葉は勇ましい「保守への回帰」や「民主党の金と政治の不透明さの徹底追及」などいう現下の自民党の主張はアドバルーンとしても拙劣である。なぜならば、それは自民党に期待しているコアおよびポテンシャルの支持者にとっては、(経済政策の路線対立を巡って党内抗争の勃発や党分裂を恐れるためか、世間の耳目を集めはするが)国民が政党を評価する際の必須科目への正面からの取り組みを「回避-先送り」した姑息に他ならないから。と、そう保守層は受け取るのではないかと私は考えます(尚、私の考える「保守主義」の内容については下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです)。
    


・保守主義の再定義(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59162263.html

・保守主義とは何か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/56937831.html

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57528728.html

換言すれば、私は自民党再生の道筋(否、自民党などは潰れてもかまわない! よって、正確には「保守政党再生」の道筋)は以下の3点に集約されると考えています。

・構造改革と地方再生の同時実現のビジョンとマイルストーンの提示
・労組・官僚を結節軸とした守旧派勢力との決別
・民主党政権批判の国民運動の組織化と保守政治家再結集の同時遂行

  
失われた10年と揶揄されながらも、急激な社会変動を避けてソフトランディングした日本のやり方は、その当否は別にして一つの智恵だったのかもしれません。けれど、いよいよそのやり方の限界が誰の目にも明らかになり、よって、急激な社会変革を妨げてきた「政官財+労組」の<戦後権門体制>の解体が希求された。

これが、小泉政権発足以来、現在まで続いているこの社会経済を取り巻く基本的な構図だと思います。そして、民主党政権は自民党政権に比べて遥かに非力であり拙劣。ならば、「自民党政権=保守政権」への政権再交代は4-5年のスパンで見れば歴史的必然でさえある。蓋し、その時まで日本が存在していればの話ですけれども。


masakochan.jpg



■自民党再生の道筋
大衆民主主義下の福祉国家における政治とは、マックス・ウェーバーが喝破した如く、「理想の旗を常に掲げながら、現実を一歩でも理想に近づけるために行なわれる妥協と説得の積み重ねの中で多数派を形成していく営みに他ならない」と思います。ならば、かって、左翼がそれで衰退したような「排除の論理」は最後の手段でしょう。

蓋し、連合赤軍事件や「中核vs革マル」の抗争劇を見ても、組織の純化は手のひらサイズの政治を効率化するためには有効かもしれないけれど、少なくとも、グローバル化の昂進の中、社会の構成メンバーが多様な価値観を背負い相互に交錯する利害を帯びる主権国家規模の政治に関しては「排除の論理=最後の手段」ということです。

よって、朝日新聞的な独善と教条を排し、差別排外主義を拒絶するメンバー間でなされる路線討議の中で党の方針を定め、一人でも多くの保守の政治家を「小異を捨てて大同につく」ように促すべきだと思います。そして、安全保障政策、拉致問題、首相の靖国神社参拝、南京・慰安婦・強制連行、そして、夫婦別姓や外国人地方選挙権の諸問題についてことごとく鋭い党内対立を抱える民主党に比べれば自民党が分裂しなければならない理由は乏しいかもしれない。

では、こう考える私がなぜ総裁交代を要求するのか。それは、「麻生降しと違い、谷垣降しが野に下った自民党内の出来事」だからか。否、です。逆でしょう。「政権=求心力」が作用する政権与党においてよりも野党においての方が「小異を捨てて大同に就く」必要性は大きいと言えるでしょうから。その理由は以下の3個です。

①路線論争を避け党の基本政策の集約を「回避-先送り」する総裁に存在理由はない
②民主党政権の「穴だらけの政策/危険な政策」に対して、国民運動を組織しようとしない
自民党総裁はその使命を果たしていない
③自民党の再生、すなわち、「自民党解体=自民党の再構築」は清新な執行部しかなしえない    


この半年でこれらのことがはっきりしたこと。すなわち、民主党のあまりの拙劣さを見てでしょうか、党内抗争を恐れてでしょうか、党の基本政策の集約を先送りして「敵失による棚ボタ式の政権再交代」を狙うような、汗をかくことを厭う政治家は野党の指導者たる資格はない。また、守旧派勢力との決別のためには、しがらみにとらわれていない清新な人材の登用が不可欠。すなわち、私は一貫して次のことを主張しているのです。

・基本政策を集約できない政党は組織ではない
・自民党は組織の呈を取り戻せ


蓋し、組織の呈を欠いたまま惰性に流されている自民党が再生するためには、組織の呈を取り戻す上での「障害=谷垣総裁」は取り除かれなければならない。而して、路線論争を有権者国民に可視化する上で、それが有効であるならば「自民党の解党→保守政党の再構築」という手順も十分合理的な選択肢でありうる。つまり、「組織の呈をなしていないこと」を<8・30>の自民党敗北の原因と考える私は、この同じ認識に立って「谷垣退陣」を支持するのです。


marukawasan


■「自民党」の解体は<自民党>再生の一里塚
民主党の<8・30>総選挙における地滑り的な勝利の基底には、しかし、もう一つの原因があったのではないか。そう私は考えています。而して、それは、(1)国民が自民党的政治に閉塞感を覚えていただけではなく、(2)民主党が撒き散らしてきた「政治や権力の万能感」を前提とした、政治自体に対する過剰な期待と、現下の政治の能力自体に対する軽蔑が蔓延していたのではないかということ。

けれども、グローバル化が進む福祉国家においては、逆に、政権のフリーハンドの余地、すなわち、権力や政治に新しくできることは極めて限られている。このことは、この半年間、民主党政権自体が日々国民に教育してくれている。ならば、自民党が政権奪還できるかどうかの成否は、自民党が古い自民党から決別できるかどうかにかかっている。と、そう私は考えています。

而して、サッチャー体制の保守党政権下で、英国労働党はブレアを育てて、満を持して政権を奪取、長期政権につなげた。ならば、自民党は、新しい党首を全党を上げて育てるしかないの、鴨。選挙目当てのお飾りとしてではなく、「次の宰相」として育て盛り立てるしかないの、鴨。と、そう私は考えています。

蓋し、鎌倉幕府が、それ自体歴史的必然である北条得宗体制の強化に起因する経済社会の閉塞感の中で、現在の民主党政権と酷似した、史上最低の「天皇-後醍醐」の新政に移行するも、僅か数年で「新しい皮袋=足利尊氏公」のもと日本が再建された故事。これこそ我々保守改革派がイメージすべき歴史の教訓ではないか。

新しい酒は新しい皮袋へ。ならば、ここは稲田朋美・小池百合子・山谷えり子等々の新しい有為の人材を棟梁陣に据えて、それを丸川珠代・森雅子・阿部俊子氏らが支える。この体制で反転攻勢をかけるべきのみ。そうでなければ、自民党は「馬糞の川流れ状態」で漸次消滅に向かい、他方、姑息な自民脱藩組の保守系新党は単なる「選挙互助会」と国民有権者から足元を見られるだけに終わるだろう。畢竟、党一丸となって自民党は自身を「解体→再構築」して新総裁を盛りたてるに如かず。と、そう私は考えています(尚、自民党再生の具体的戦術論の<初手>に関しては下記拙稿をご参照ください)。

・自民党再生の<切り札>はハートのロイヤル・フラッシュ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59398718.html






(2010年6月3日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 民主党・鳩山政権
ジャンル : 政治・経済

sumoukyoukai
【誰が理事長になっても横綱が引退しても変わらない組織・・・。民主党に似てる?】


鳩山総理が辞意を表明しました。総理の辞意表明それ自体については、いろいろなところでいろいろな人が論評しているので、屋上屋を架すことはしませんが、総理の辞意表明に関連して、民主党の危険な本質について、少々考えてみたいと思います。
 
昨日の夜まで続投を匂わせていた総理が、突然、今日の朝10時の民主党の両院議員総会で辞意を表明しました。この日は衆議院でも参議院でも本会議が予定されていたのですが、民主党にとって本会議どころではない不測の事態の発生ということで、直前になって、両院とも本会議は流会という扱いになったようです。総理が辞意を表明したとはいえ、正式に内閣総辞職となったわけではなく、国会の活動は可能ですから、本会議も開会できるはずなのですが、最終的には数の力ですから、野党側にとっては本会議を開きたくても開けないという状況でした。すなわち、民主党は、国会という国家機関の役割よりも党内事情を優先したということで、このところ民主党に顕著な「国会軽視あるいは無視」の延長線上にある事例として捉えられるべきでしょう。
 
民主党政権が成立して8カ月余りですが、民主党の「国会軽視あるいは無視」には、目に余るものがあり、そのひとつの例が強行採決です。自民党政権でも強行採決は幾度となく行われてきましたが、自民党政権の場合は、与野党の水面下での合意の下、自民党は法案の成立という実利を、野党は国民へのアピールという名目を取っていたという、予定調和の世界でした。これに対し、民主党政権の場合、郵政改革法案の取扱いを見れば分かるように、郵政票がほしいという身勝手な都合により、わずか6時間の超スピード審理での強行採決による衆議院通過ですから、自民党の予定調和の世界とは異質のものです。「民主にあらずんば議員にあらず」の多数派絶対主義的な危険な本質が明らかになったと見るべきでしょう。報道によれば、民主党は今国会を延長する気はないようですが、内閣総辞職、新総理の指名、組閣、所信表明等々の総理交代に伴う時間のロスを勘案すれば(それらがなくても日程的には苦しいところですが)、郵政改革法案を今月16日の当初の会期内に成立させようとすれば、参議院でも強行採決は不可避です。
 
これまでのところ、民主党政権の国会運営は、数の力に頼った強行突破ばかりに見受けられますが、そのようなことを繰り返してきた結果、野党との交渉・折衝能力も失われてきているように思います。某アサヒった新聞によれば、選挙運動でのインターネットの利用を解禁する議員立法については、内容的には与野党とも合意していたのに、与党側が「不信任案乱発などの不測の事態に備えて」野党の合意なく本会議開会を決め、後に不測の事態がなくなったということで実際には本会議を開かなかったという事情を背景として、同法案を審議する委員会の理事会において、野党側が「やる気があるのか」と怒って、その委員会を開会できなかったということです。余談ですが、アサヒもたまには良いニュースを流すのだなと思いました(誤報でなければですが)。
 
民主党政権は、政策の実質的な決定は党内で行い、国会はその決定に承認を与えるだけという、旧自民党政権と同様の、あるいは、さらに悪質な密室政治を志向しているように思われます。その深層には、「自分たちは絶対に正しい、民主党以外はみんなバカであり、おまえたちは黙って俺たちに従え」みたいな、誤ったエリート意識があるのではないかとも思うのですが、うがちすぎでしょうか。今年2月4日の参議院の決算委員会で、「文化大革命」の仙石由人大臣が2005年の郵政選挙に関し、「政策的にまともなことをちゃんと提起するということではなかなかこの日本の選挙は勝てない・・・(中略)・・・、もう少し我々は大人にならないと政権にも近づけないし、自分たちがこうしたいという政策を実行することもできないんだなという、そういう反省をしたわけでございます」と述べていますが、「(愚かな)国民をだまくらかして、やりたいことをしよう」という、本音が漏れた格好となっています。
 
鳩山総理の次の総理には菅財務大臣が有力と言われていますが、誰が総理になろうと、以上のような民主党の本質が変わることはありません。確かに、民主制の根幹をなす多数決原理の意義は、多数者の意思を全体の意思として少数者に押しつけるところにあるのですが、それは、あくまでも合意形成が不可能なことが明らかになった場合に発動されるべきです。民主制のそもそもの前提条件として、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」ということ(ヴォルテールの言葉とされています)があるということを思い返すべきでしょう。


転載元:
http://blogs.yahoo.co.jp/totdjo/50791275.html



ブログ友のtotdjo女史の記事転載です。実は、昨夜、同志の民主党国会議員から「W辞任の真相」が聞けた。ただ、彼等は小澤系と前原系なのでバイアスはあると思います。

而して、おそらく、ここ数日以内にはメディアに出ると思う話ばかり。実際、自称国際問題分析家の青山繁晴氏も、「辞めない鳩山/辞めさせない反小澤勢力 vs 辞めさせたい参議院民主党/参議院での首相問責決議案」の板ばさみにあい、追い込まれていたのは小澤氏氏の方だという見解を述べています。

私の聞いた話しは必ずしも青山氏の話と矛盾しないがディテールは少し違う。而して、事実の暴露。


1)鳩山氏は5月31日の「8分間会談」までは辞める気は皆無だった。
2​)その5月31日の「8分間会談:鳩・小澤・輿石」で、<小澤氏>自身が道連れ辞任を提案。
3​)鳩山氏は、保留。
4​)翌6月1日の「30​分会談」で、観念した鳩山氏が道連れ辞任と、「政治と金」で小澤氏を悪者にする辞任談話の内容を主張。
5​)3時間後のTwo Topの電話会談両者が同意。
6​)同夜、小澤氏が、北教祖事件の問題議員等に根回し。および、両議院総会の招集通知を段取り。
7​)6月2日、鳩山氏、退陣表明。


ということ。

要は、鳩山氏は、①やっぱり、辞任は最後までしたくなかった。②辞任やむなしの状況に至って、大義名分を求め「政治と金」の件での「刺し違えW辞任」を自分のイニシアチブとすることで、プライドを保とうとした。蓋し、最後まで「自分の面子」のことが第一だった。而して、③その根回しも全部最後まで小澤氏にオンブに抱っこだった、と。

蓋し、政権を投げだして以降、隠遁した細川氏と似てなくもないけれど。私は、この鳩山氏というのは本当に「公職」につく人間的資質にかける、ナルシストではないか。自分のプライドと面子だけを考える人間ではないか。あらためてそう思い、一層、軽蔑の度合を深めました。



б(​≧◇≦​)ノ ・・​・打倒、民主党!
б​(≧◇​≦)ノ ・・​・頑張りましょう。







(2010年6月3日:iza版にアップロード)

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テーマ : 民主党・鳩山政権
ジャンル : 政治・経済



社民党の連立離脱によってはっきりしたことは、国の安全保障・外交政策という基本政策で一致できない諸政党が「連立政権」を形成することは不可能ということでしょう。而して、これは大なり小なり「二大政党制」についても言えるのではないか。そう私は考えています。敷衍します。

蓋し、社会政策や文教政策、そして、産業政策等々の領域で政策の違いはあり得るとしても(「選挙互助会」としてスタートした日本の民主党は例外として、アメリカの共和・民主の両党を見ても、ドイツの社会民主党(SPD)とキリスト教民主同盟(CDP)を見ても政策が違うからこそ違う政党なのでしょうから)、国の安全保障・外交政策、そして、「何がその社会の統合軸であるか」に関する共通の枠組みがなければ、二大政党制にせよ連立政権の形態にせよトータルでは安定した政治は不可能ではないかということ。

而して、いずれにせよ、現下の民主党政権が標榜している「政治主導」なるものは、所得の再配分や産業構造の変換という政策部面では意味があるのかもしれませんが、危機管理や外交の部面ではそれは政権を動かす(少なくとも)第一順位の原則ではないのではないかということ。米英には 「政争は水際まで:Politics should end at the water's edge.」 (野党が与党を攻撃するのは当然であるが、国と国との境の海岸線から先の事柄、つまり、外交・安全保障・食料安保・エネルギー安保等々の分野は与野党を超えて協働してことに当たらなければならない)という箴言がありますが、民主党政権は、謂わば「水際から向こう側の事柄をも「政治主導=与党の国会議員の主導」で解決できる」とする誤謬を犯しているのではないか。蓋し、この私の予想が満更間違いではないとすれば、その誤謬の基底には権力の万能感や憲法の万能感とも言うべき憲法無効論なみの傲岸不遜と無知蒙昧が横たわっているのだろう。と、そう私は考えています。この点に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・政治主導の意味と限界
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59541636.html

・「事業仕分け」は善で「天下り」と「箱物」は悪か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59556356.html



◆政党の収斂化と包括政党の誕生
カール・シュミットは、大衆民主主義下の福祉国家を念頭に置く場合、「国家は全体国家(totaler Staat)に堕している」と喝破しました。而して、「全体国家」とは、人間の生活の全体を支配する強力で権力主義的な政府という意味ではなく、「全体化」したがゆえに、社会の種々諸々の雑多な国民大衆の要求をすべて顧慮せざるを得ない、図体は巨大であるにせよ主体性の乏しい弱々しい国家という意味なのです。このカール・シュミットの「現代国家=全体国家」認識は正鵠を射ているものではないでしょうか。

畢竟、1989年-1991年、社会主義が崩壊する随分前から、社会主義と資本主義の両体制が漸次接近する「収斂化」が見られるという考え方(Convergence Theory)がありました。蓋し、これは生産手段の私有を認めるかどうか、その裏面としての計画経済を放棄するか否か、あるいは、経済の計画と一党独裁的な前衛党を担う中央集権的官僚の存在を認めるかどうかとい<漸近線>を跨ぐことはなかったとしても(だからこそ、結局、政治以外の面では社会主義を放棄した支那を除けば、ほとんどの社会主義諸国は崩壊したのでしょうから)、この「収斂理論:Convergence Theory」は、昭和金融恐慌と大恐慌以来の、就中、1973年オイルショック以降の財政と金融のマクロ経済政策、すなわち、ケインズ政策を採用した資本主義諸国と社会主義諸国の比較においてはかなり成功したモデルではないかと思います。   

ならば、グローバル化の昂進著しい、大衆民主主義下の福祉国家を与件とするとき、すなわち、カール・シュミットの言う「全体国家」を前提とするとき、保守政党であろうとリベラル政党であろうと左翼政党であろうと、実は、その政党がキルヒマンの言う意味での「包括政党」、すなわち、国民全体の利害を代表する国民政党を目指す限り(パラドキシカルですが、現実の選挙においては国民・有権者の一部(part)の支持を受けたにすぎない政党(party)が、国民を代表して国家権力を行使するということは、建前にせよその政党は「包括政党」であることを自任しているということでしょう)、どの政党の政策も「収斂化」せざるを得なくなる。


要は、所定・定番の行政サーヴィスの遂行に政権のほとんどの能力を割かざるを得なくなる。よって、国の安全保障、そして、伝統と慣習を顕揚涵養することによる国民統合・社会統合の重要さを知らない我が国の民主党政権のような「悲劇的-喜劇的」例外は置いておくとしても、今回、英国で保守党と自民党の連立政権が誕生したことは単なる権力の甘い汁の分け前に与ろうとする不埒な野合ではない、繰り返しになりますが、それは21世紀の政治史の必然でさえあるの、鴨。

保守主義の立場に立つ者として、個別日本の現下の政治状況においても連立政権が、よって、比例代表制や中選挙区の選挙制度が好ましいとは必ずしも私は考えていませんが、少なくとも、英国に関してはそう言えると思います。尚、私の考える保守主義の意味については下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・保守主義の再定義(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59162263.html

politicalparty2s.jpg



◆連立政権と二大政党制の棲み分け
上で述べたように、「グローバル化の昂進著しい、大衆民主主義下の福祉国家を与件」とするとき、各政党の政策は「収斂」せざるを得ず、よって、これまでは水と油、否、不倶戴天の敵同士と見られていた諸政党が連立政権を形成する条件は整ってきている。と、そう私は考えています。

否、今回誕生した英国の連立政権が、より政策とイデオロギーの近い「労働党-自民党」ではなく、比較的それらの差異が大きい「保守党-自民党」によって樹立されたように、支持基盤やイデオロギーの類似性は「近親憎悪」的な感情を惹起させ(もっと率直に言えば、労働党と自民党は総選挙では同じ有権者層の票を奪い合っている直接の敵なのだから)むしろ、些か、異質な政党同士の方が連立を組みやすいの、鴨。この経緯は、日本の場合、支持層が重なる公明党と共産党、イデオロギーが近しい共産党と社民党の関係を想起すれば分かりやすい、鴨。

いずれにせよ、()政策面での各政党の違いが漸次極小化していること、他方、()これまたグローバル化の昂進に伴い「世界の唯一の超大国=アメリカ」もその超大国の地位を世界資本主義システム自体に<大政奉還>しつつある現在、畢竟、世界の相互依存関係の深化と世界の不安定化もまた加速している現在、すなわち、安定した実行力のある政府の形成が今までよりも一層必要になっている現在、連立政権、就中、大連立による政治的に盤石な政権の誕生は時代が要求しているものかもしれません。まして、()福祉国家における行政権の肥大化に基づく政策の収斂や時の政権のフリーハンドの余地の縮小とは逆に、グローバル化の昂進の中で有権者・国民の価値観が多様化する傾向を鑑みるならば、連立政権は人類史の必然とさえ考えられると思います。    

では、日本でも、より連立政権を具現しやすい比例代表制や中選挙区制を大胆に採用すべきなのか。宮澤内閣(1991年-1993年)以来の政治改革の潮流の中で、アメリカの「共和党-民主党」の二大政党制とともに日本の政治が目指すべきお手本と喧伝された英国の二大政党制が今回潰えたことを見て、そう語る論者もおられるようです。しかし、私はそのような議論には与しません。

蓋し、「いつでもどこでも、すなわち、普遍的に優れた選挙制度などは存在しない」のではないでしょうか。而して、2010年の英国においては連立政権が歴史的必然であり、今後、比例代表制を大幅に組み込んだ下院の選挙制度を導入するのが英国の順路かもしれない。けれども、日本の場合には英国とは置かれている政治状況も異なり、よって、2010年の日本においても比例代表制や中選挙区制が望ましいとは当然のようには言えないと思うのです。

畢竟、日本の政党政治が現在抱えている死活的に重要な問題は、

(甲)有権者・国民の多様な意見や価値観の受け皿となる政党が存在しない、あるいは、有権者・国民の多様な価値観や意見が数量的に(ある許容限度内で)正確に諸政党の党勢に反映されていないことなどではなく、(自民党と民主党保守派の得票率を合算すれば)有権者・国民の圧倒的多数を占める保守層の受け皿となる政党が存在しないことではないか。而して、(乙)二大政党の一方の当事者として期待する向きもあった民主党が、経済政策・社会政策の拙劣さ荒唐無稽さは置いておくとしても、①安全保障政策、②文化・伝統の顕揚と涵養による社会統合という二点において(欧米を見渡す限り、左翼政権であろうと中道左派政権であろうと、政権与党の「必須科目」であるこの二点において)政権与党としては致命的に拙劣であること。まして、社民党・共産党は問題外の外であることだと思います。    

要は、日本には、政治力において有権者・国民の圧倒的支持を期待でき、かつ、能力的にも政権を担える政治勢力は、自民党内と民主党内の保守派、その他、有象無象の保守系新党の人士に散在している。

而して、日本の政治が孕む現下の問題を上の如く捉えた場合、比例代表制の本格導入はこの「市場=有権者・国民」のニーズと「商品供給=政治政党」を パラドキシカルにも乖離させる危険性が高く、現下の政治情勢においては日本では自民党と(鳩山政権の崩壊を「他山の石」として学習した)党内保守派が主導する民主党の二大政党制が次善であり、自民党内の保守改革派を中心に諸政党に散在するすべての保守派を糾合した新生自民党による一党独裁が最善である。    

ならば、憲法改正を嚆矢とする保守政党による戦後民主主義の清算が終わり、日本政治の新しいプラットフォームが形成されるまでは小選挙区制がむしろ望ましい。而して、比例代表制が最善の選挙制度になるのは日本ではその後の歴史段階においてである。と、そう私は考えています。尚、民主党政権の正体と自民党再生の方途に関しては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・民主党政権の誕生は<明治維新>か<建武新政>か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59444639.html

・自民党解体は<自民党>再生の道
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59462706.html





(2010年6月1日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済




First, the freedom to dress the way one wants is not what’s at stake here. Our debate is not about a type of attire or the Islamic head scarf that covers the hair and forehead. The latter is obviously allowed in France. The ban would apply to the full-body veil known as the burqa or niqab. This is not an article of clothing ? it is a mask, a mask worn at all times, making identification or participation in economic and social life virtually impossible.


第一に、自分が好きな仕方で衣服を着る自由がブルカ禁止の法規定によって危うくなることはないのである。我々の主張は衣服の種類に着目したものではないということだ。すなわち、髪や額を覆うイスラーム風の頭巾について我々法案推進派は問題にしていない。それらイスラーム風のスカーフがフランスで認められることは当然である。而して、我々が立法を目指している禁止規定は、全身を覆うタイプのブルカやニカブと呼ばれているベールに対してのみ適用される。要は、この禁止規定は衣類に対するものではなく仮面に関するもの。常時着用されている仮面、経済活動や社会活動における本人確認や参加を事実上不可能にする仮面に対する禁止規定なのである。

【「自分が好きな仕方で衣服を着る自由がブルカ禁止の法規定によって危うくなることはない」と述べておきながら、「全身を覆うタイプではないイスラーム風の衣服∈衣服」「ブルカ∉衣服」「ブルカ=仮面」という理路で、明らかに衣服であるブルカ(「ブルカ∈衣服」)を「自分が好きな仕方で衣服を着る自由」の対象から外すこの論理は詭弁以外の何ものでもない。実際、この寄稿の冒頭には自分で「イスラームのブルカやニカブのように顔を覆う衣服」と記しているのだから、その理路は憲法無効論なみの痛々しさである。と、そう私は考えているが、訳文はテクストに従った】   
kdin26l.jpg

This face covering poses a serious safety problem at a time when security cameras play an important role in the protection of public order. An armed robbery recently committed in the Paris suburbs by criminals dressed in burqas provided an unfortunate confirmation of this fact. As a mayor, I cannot guarantee the protection of the residents for whom I am responsible if masked people are allowed to run about.

The visibility of the face in the public sphere has always been a public safety requirement. It was so obvious that until now it did not need to be enshrined in law. But the increase in women wearing the niqab, like that of the ski mask favored by criminals, changes that. We must therefore adjust our law, without waiting for the phenomenon to spread.


ブルカやニカブによって顔が覆われている事態は、監視カメラが公の秩序維持に重要な役割を果たしている現在においては、治安面での深刻な問題を引き起こしている。而して、最近、パリの郊外でブルカを着用した犯人による強盗事件が発生したことは、上で述べたブルカやニカブの社会の安全面で孕む問題性をそれによって再確認せざるを得なかった不幸な事例といえるだろう。仮面を着用した人々が我がもの顔に街を歩くことが許されている限り、一人の市長として、その安全について私が責任を負っている住民を犯罪から守ることに関して、私は責任を全うすることはできない。

公の場所で顔が識別できるということは社会の安全確保の点で今までも常に必要とされてきたことなのだ。而して、このことは今まであまりにも当然のことだったので法の形式で確認される必要もなかったのである。しかし、スキー用マスクのように犯罪者に好都合なニカブを着用する女性が増えたことで状況は変わった。これらの状況の変化を鑑みて、ニカブ着用の女性が更に増えるまで待つことなく、我々は法の方を変えなければならないのだ。  

burqa.jpg



The permanent concealment of the face also raises the question of social interactions in our democracies. In the United States, there are very few limits on individual freedom, as exemplified by the guarantees of the First Amendment. In France, too, we are passionately attached to liberty.

【第二に、】恒常的に顔を隠すことは我々が採用している民主主義体制における社会的な交流という点でも疑問なのだ。アメリカでは、アメリカ合衆国憲法修正1条に例示されているように個人の自由の制限は必要最小限のものである。而して、その事情はフランスにおいても同様であり、我々フランス人は自由を熱烈に支持している。

【資料:アメリカ合衆国憲法修正第1条】 
連邦議会は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない。    

hijabhumanright.jpg


But we also reaffirm our citizens’ equality and fraternity. These values are the three inseparable components of our national motto. We are therefore constantly striving to achieve a delicate balance. Individual liberty is vital, but individuals, like communities, must accept compromises that are indispensable to living together, in the name of certain principles that are essential to the common good.


しかし、我々は市民間の平等と友愛をも断乎支持するものでもある。これら、自由・平等・友愛の三個の価値は互いに切り離すことのできないフランスの国是なのだ。而して、我々は常に同時にこれら三者間の微妙な均衡を維持することに心を砕いてきた。蓋し、個人の自由は重要である。けれども、個人は、社会的な共同体【=世間】と同様、公共の福祉の実現に必須な諸々の原理に敬意を表して、他者と共に暮らしていくのに必要不可欠な妥協を受け入れなければならないのではなかろうか。    

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Let’s take one example: The fact that people are prohibited from strolling down Fifth Avenue in the nude does not constitute an attack on the fundamental rights of nudists. Likewise, wearing headgear that fully covers the face does not constitute a fundamental liberty. To the contrary, it is an insurmountable obstacle to the affirmation of a political community that unites citizens without regard to differences in sex, origin or religious faith. How can you establish a relationship with a person who, by hiding a smile or a glance ? those universal signs of our common humanity ? refuses to exist in the eyes of others?


一つの例を考えていただきたい。すなわち、【ニューヨークはマンハッタンの】5番街を真っ裸でうろつくことは禁止されているが、それをヌーディストの基本的人権の侵害と考える人はそう多くないだろう。ことほど左様に、顔を全面的に隠すような被りものを頭部に着用することは基本的人権が保障する自由ではない。否、そのような行為【it=wearing headgear】は、男女の性・門地・信仰している宗教の違いにかかわらずその社会を構成するすべての市民を結びつけている政治的な社会関係に肯定的な価値を見出す立場とは金輪際両立しない障害なのである。蓋し、人類に共通の普遍的な意志表示のための記号である微笑や目配せといった所作を隠している、よって、他者の視線の中にあることを拒否する人々とどうやって人間関係を取り結べると言うのか。そういうことは不可能なのではなかろうか。

【(甲)それが個人の趣味であれ信仰の営みであれ、外面的行為を制限する点で「真っ裸で公道を歩くことの禁止」と「ブルカを着用することの禁止」の間に確かに差はない。しかし、両者は保護法益、すなわち、当該の法の禁止規定が実現を目指す利益を異にしている。而して、前者は社会の性秩序維持や公共空間の混乱防止が保護法益であり、後者はブルカやニカブの禁止が犯罪予防に必要という点を鑑みれば、「合憲性判定基準」においても「審査基準」からもその禁止の合理性の度合について両者には別物と言って良い差がある。また、(乙)政治社会に参加しない選択をすることも立派な「政治的主張」であり、そのような主張を否定する民主主義理解は立憲主義の憲法が到底認めないものである。よって、これらの主張も詭弁以外の何ものでもない。ただし、訳はテクストに従った】  

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Finally, in both France and the United States, we recognize that individual liberties cannot exist without individual responsibilities. This acknowledgment is the basis of all our political rights. We are free as long as we are responsible individuals who can be held accountable for our actions before our peers. But the niqab and burqa represent a refusal to exist as a person in the eyes of others. The person who wears one is no longer identifiable; she is a shadow among others, lacking individuality, avoiding responsibility.

From this standpoint, banning the veil in the street is aimed at no particular religion and stigmatizes no particular community. Indeed, French Muslim leaders have noted that the Koran does not instruct women to cover their faces, while in Tunisia and Turkey, it is forbidden in public buildings; it is even prohibited during the pilgrimage to Mecca. Muslims are the first to suffer from the confusions engendered by this practice, which is a blow against the dignity of women.

Through a legal ban, French parliamentarians want to uphold a principle that should apply to all: the visibility of the face in the public sphere, which is essential to our security and is a condition for living together. A few extremists are contesting this obvious fact by using our democratic liberties as an instrument against democracy. We have to tell them no.


最後に私が言いたいことは、フランスでもアメリカでも、個人の自由と個人の責任は表裏一体のものと考えられているということだ。この自由理解こそすべての政治的権利の要ではなかろうか。蓋し、他の市民に対して自分の行為の意味や意図を説明できる限りにおいて我々は自由なのである。而して、ニカブやブルカは他の市民の視線から自己を隔離することそのものではないか。なぜならば、ニカブやブルカを身にまとっている人は彼女が誰であるかを最早特定することはできず、すなわち、彼女は個性を喪失し責任を放棄した、他の市民にとっては蔭のような存在でしかないのだから。

この観点から言えば、街頭でのベール着用の禁止は特定の宗教を狙い撃ちにするものではなく、ある特定の信仰や民族の共同体に汚名を着せるものでもない。実際、フランスのイスラーム指導者は、『コーラン』には女性は顔を覆うべきだなどとは書いていないと指摘している。また、チュニジアやトルコでは公共の建物の中では顔を隠すことは禁止されている【to cover their faces is forbidden】。更に、メッカ巡礼においてもその事情は同様なのだ。而して、女性の尊厳の侵害でもあるこの習慣が引き起こした上記の如き混乱に最も悩んでいるのはむしろモスリムの人々なのである。

法による禁止措置によって、フランスの国会議員は、すべての国民に適用される一つの原理を顕揚したいと考えている。すなわち、公の場所では顔は見えなければならないという原則だ。畢竟、それは、社会の安心と安全に欠くことのできないものであり、また、市民がこのフランス社会で共に暮らしていくための条件なのである。この明々白々たる原理を批判する過激派も確かに幾らか存在している。而して、彼等過激派は我々の民主主義的な自由を道具に使って民主主義そのものを攻撃しているのだ。蓋し、しかし、我々は彼等に対してそのような論法や主張は成り立たないと言わざるを得ないのである。   


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(2010年5月31日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済




実質的にイスラーム女性を狙い撃ちする差別法案がフランスで成立しようとしています。人権・自由・平等を根拠に人の生命を奪い、信教の自由を制限し、排外主義を押し通してきたこの<精神分裂病国家>のこととすれば特に不思議なことではない。けれど、英米流の健全な保守主義を信奉する者は、モスリム女性がその伝統と慣習に従う権利を踏みにじるフランスの暴挙を傍観していてはならないのではないか。そう私は考えています。

本稿の中心はこの傲岸不遜な法案を推進しているフランス国内の論理を俎上に載せて批判することです。けれども、事は「異文化理解」、しかも、外国における「異文化理解」を巡る難易度の高いもの。よって、いきなりフランスの詭弁の紹介に移るのは些か無謀、鴨。

而して、まず、読売新聞とTimeの報道を紹介します。尚、私の考える保守主義の内容、そして、私の政教分離原則の理解に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。


・保守主義の再定義(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59162263.html

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59541275.html

・ムハンマド諷刺漫画と表現の自由
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/26113103.html

・首相の靖国神社参拝の「違憲判決」について考える(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/12928986.html


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◎欧州初のブルカ禁止法、フランスで成立へ

フランスのサルコジ政権は19日、「公の場で顔を隠す衣類の着用」を禁じるための法案を閣議決定した。法案は、頭から爪先までを覆うイスラム女性の「ブルカ」や「ニカブ」を対象に想定したもの。議会審議は7~9月に予定されているが、議会は与党・民衆運動連合が多数を占めているため、欧州主要国では初の「ブルカ禁止法」が成立する見通しだ。

法案は、官公庁や医療機関などの公共施設に加え、道路を含む公の場所で「顔を隠す着衣を禁じる」と規定。例外はオートバイ運転時のヘルメット、外科手術を受けた後のマスク、カーニバルでの仮装などに限定される。違反者には150ユーロ(約1万7000円)の罰金が科され、女性にブルカ着用を強制した夫や同居人は禁固1年か1万5000ユーロ(約170万円)の罰金刑に処せられる。法の施行は2011年春を目指すという。

ブルカ着用の広範な禁止については、行政最高裁にあたる国務院が「憲法上の根拠を欠く」と警告していた。だが、サルコジ大統領は19日の閣議の冒頭、「政治的責任を負うのは政府と国会」として禁止法成立を目指す決意を強調した。

(読売新聞・2010年5月20日)    


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◎France and the Veil

France's uneasy relationship with its estimated 5 million Muslims is about to get even more tense. Less than a year after warning that the face-obscuring, full-body Islamic veils worn by some fundamentalist Muslim women "will not be welcome on the territory of the French republic," President Nicolas Sarkozy is moving toward an official ban of the garment he derided as "a sign of subservience." On April 21, Sarkozy ordered his government to present a draft law in May to make wearing total veils that the French call burqas illegal in public places.

The move reflects concerns in France that the proliferation of women wearing Islamic scarves and veils is both a sign of growing Muslim fundamentalism and an overt challenge to the nation's fierce secular tradition. Those same considerations fueled France's 2004 law banning all ostentatious religious symbols in public schools, which applied to students of all faiths but passed only after the number of young Muslim women wearing the hijab headscarf grew.

Supporters of the pending "burqa ban" argue that the garment serves a dual purpose for extremists: it sends French society a visually arresting message of radical Islam's presence and forces adherents to efface their identity and individuality as a gesture of faith. In announcing Sarkozy's decision, government spokesman Luc Chatel said it took aim at "a symbol of a community's withdrawal and rejection of our values" and a "violation of the dignity of women."

Perhaps, but leftist (and even some conservative) opponents of the initiative wonder how the proposed ban can claim to protect the dignity and rights of women who are voluntarily covering themselves up. Polls show that the public is divided, with just 57% backing the measure. Worse, even people who loathe the full veil as dehumanizing and oppressive say a legal ban would prove counterproductive, causing further resentment among French Muslims who already feel ostracized by their fellow citizens.・・・

Official figures put the number of women wearing burqas and niqabs at a mere 2,000. That's a statistical blip in a nation of about 65 million--though apparently big enough to justify a ban in Sarkozy's eyes.

(Time・May. 03, 2010)


◎フランスにおけるベール
国内にいる推定5百万人のモスリムの人々をどうやってフランス社会に統合するかという容易ならざる問題が、一層、緊張したものになりつつある。ニコラス・サルコジ大統領が、顔の特定を難しくする、それを着用するイスラーム原理主義の女性も幾らかおられる全身を覆うタイプのイスラーム式ベールは「フランス共和国の領土内では好ましくない」と警告を発してから1年足らず、サルコジ氏は、彼自身が「卑屈の象徴」と軽蔑するこの衣服を公式に禁止する立法措置に動き出した。すなわち、4月21日、サルコジ氏は、フランスではブルカと呼ばれている全身を覆うタイプのベールを公の場所で着用することを違法にする法案を5月中に提出するよう彼の率いている政府に指示したのだ。

このブルカ禁止の動きはフランスにおける非モスリム市民の懸念を反映したものである。すなわち、イスラーム風のスカーフやベールを着用する女性の増大と拡散は、イスラーム原理主義の拡大の徴候であると同時に政教分離を貫いてきたこの国の伝統に対する端的な挑戦の象徴でもある。と、多くのフランス人がそう受け取っているのだ。而して、この同じ懸念に突き動かされて2004年には、公立学校内では一目でそれとわかる宗教的な記号の類の着用を禁止する法律が制定された。もちろん、この2004年の法律はモスリムの生徒だけではなくすべての宗教についても適用されるのだけれども、髪を覆うヘジャブというスカーフを着用する若いモスリム女性が増えてきたことを受けて制定されたのである。

懸案の「ブルカ禁止法」の支持者達は、過激派にとってこのタイプの衣服は二つの目的を持っていると主張している。すなわち、ブルカは、イスラーム過激派の存在をフランスの社会に否が応でも印象づけるものであり、他方、信仰に基づく行為という形式を取りながら、ブルカを着用する女性はそれを着用することで自分の自己同一性と個性を消失させている、と。サルコジ氏の指示を伝える会見の場で、政府広報のLuc Chatel氏は、イスラーム過激派は、ブルカを「社会からの離脱とフランス社会に内在している価値の拒否の象徴」にしようとしており、また、それは「女性の尊厳に対する侵害」でもあると述べた。

しかし、左派の(そして、保守派の中にもいる)このブルカ禁止法案の反対派は、自らの意志で自分の体全体を覆っている女性の尊厳と権利を禁止することの正当化は難しいのではないかと疑問を呈している。世論調査の結果は分かれていて、この法案に賛成しているのは57%にすぎない。更に、一層、法案に対して懐疑的にならざるを得ないのは、この全身を覆うベールは人間性の剥奪であり抑圧であると毛嫌いしている中にも、その法的禁止措置は逆効果であると述べる向きも少なくないことだ。すなわち、法による禁止は、今でも村八分扱いされていると感じているフランスのモスリムの人々の怒りの火に油を注ぐようなものではないか、と。(中略)

公式の統計によればブルカもしくはニカブを着用しているのは2000人にすぎない。而して、この数値は、人口6,500万人のこの国においては統計表の上の紙魚にすぎないだろうけれど、サルコジ氏にとってそれは禁止を正当化するに十分に大きな数値なの、鴨。    

burqas and hijab


以下、モスリム女性のアイデンティティとプライドを踏みにじる傲岸不遜な法案の論拠、蓋し、フランスの文化帝国主義が炸裂している詭弁を紹介します。件の法案を推進しているフランスの与党幹部がその論拠をNew York Timesに寄稿した記事。多くの人に読んでもらいたいから寄稿したのだろうという「寄稿記事」の性格と、「摘み食い的紹介にすぎない」という批判回避を許さないために全訳します。

紹介する記事の原典は、"Tearing Away the Veil"「ベールを剥ぎ取れ」(May 4, 2010)です。著者は、中道右派のUnion for a Popular Movement(UMP:国民運動連合)の幹部にしてパリ近郊のMeaux(モー市)の市長、JEAN-FRANÇOIS COPÉ氏。


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MOMENTUM is building in Europe for laws forbidding the wearing of garments that cover the face, like the Islamic burqa and niqab, in public. Just last week, the lower house of the Belgian Parliament overwhelmingly passed a ban on face coverings. And next week, the French Assembly will most likely approve a resolution that my party, the Union for a Popular Movement, has introduced condemning such garments as against our republican principles, a step toward a similar ban.

Amnesty International condemned the Belgian law as “an attack on religious freedom,” while other critics have asserted that by prohibiting the burqa, France would impinge upon individual liberties and stigmatize Muslims, thereby aiding extremists worldwide.

This criticism is unjust. The debate on the full veil is complicated, and as one of the most prominent advocates in France of a ban on the burqa, I would like to explain why it is both a legitimate measure for public safety and a reaffirmation of our ideals of liberty and fraternity.

欧州では、イスラームのブルカやニカブのように顔を覆う衣服を公共空間で着用することを禁止する法の制定が勢いを増している。正に、先週、ベルギー国会の下院は顔を覆うことを禁止する規定が圧倒的多数で可決された。また、来週にはフランスの議会も、私が所属する政党、国民運動連合が提出した決議案をよほどのことがない限り可決するものと思われる。而して、その決議とは、顔を覆う衣服は我がフランス共和国が掲げる理念に反すると宣言するものであり、この決議は同じ趣旨の禁止規定を制定する前哨となるものである。

アムネスティインターナショナルは、ベルギーの禁止規定は「信教の自由への攻撃」であると非難している。一方、ブルカを禁止することでフランスは個人の自由を侵犯し、かつ、モスリムの人々に汚名を着せようとしていると批判する論者もいる。而して、顔を覆う衣装の禁止を批判するアムネスティやこれらの論者は、結局、世界中で過激派を支援しているのだ。

蓋し、これらの批判は正しいものではない。而して、全身を覆うベールを巡る議論は複雑なものであるから、フランスにおけるブルカ禁止法案の最も著名な唱道者の一人として私は、社会の安心と安全を確保する上でブルカの禁止がいかに合法的な措置であり、また、それが自由と友愛というフランスの理念の延長線上にあるものであることを説明したいと思う。   

burqa-1.jpg

突然ですが、ここでもう一つ予備知識の提供。ちなみに、ブルカやニカブ等のモスリム女性が着用する「ベール」の違いご存知ですか。

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蓋し、「ブルカ」は、目の部分に網状の布をつけて全身を覆い隠す服装で、アフガニスタンやパキスタン北部でよく見られる。他方、「ニカブ」は、目の周囲だけを外に出すベールで、サウジアラビアやアラブ首長国連邦などペルシャ湾岸諸国の女性がよく身に着ける。「ヘジャブ」は頭髪を覆い隠すが、顔は外に見せるベールで、東南アジア、イランやエジプトの女性に多い。と、そう言えると思います。
   



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<続く>




(2010年5月31日:yahoo版にアップロード)

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