共産党宣言


政府は、就職先が決まらないまま大学を卒業した、卒業後3年以内までの既卒者を雇用した企業に助成金を出す制度を設けるそうです。蓋し、これは部分的にせよ、企業の人件費を国が負担するものに他ならず(それは、WTOが規制の対象としている「農業補助金」等と同じく、「非関税障壁」として諸外国から物言いをつけられかねない施策であり)、それは、現行憲法に謳われている自由主義と資本主義と矛盾する姑息な内閣支持率対策と言えるのではないでしょうか。





まずは報道紹介。

◎3年以内既卒者雇用に奨励金 政府が緊急対策発表

政府は30日午前、新卒者らの雇用に関する緊急対策を発表した。インターンシップ(職場実習)や卒業後3年以内の既卒者のトライアル雇用(試験的採用)を現状の3倍、2.4万人に増やすため、卒業後3年以内の既卒者の正規雇用や試験的採用をする企業に奨励金を出すことなどが柱。・・・卒業後3年以内の既卒者を新卒枠で採用するよう経済団体に要請することも盛り込んでいる。

(毎日新聞:2010年8月31日)    



数年前にある大手教育機関の面接担当者を務めた際、私は新卒応募者全員を漏れなく平等に不採用にしたい衝動に駆られたことがありますが、企業は求職者が雇うに値する能力がないと考えるから雇用しないのです。畢竟、現在でも24時間戦えるガッツと日々成長できる素直さ、そして、礼儀作法と(新人に要求される範囲での)具体的かつ豊富な知識を備えた人材ならどこでも採用します。

而して、求職者の能力を判断する企業の判断の前提は、温室効果ガスの25%削減の宣言、あるいは、膨大な赤字国債増発に象徴される民主党支配の続く日本自体に対する不安でしょう。ならば、多くの企業が可及的速やかに海外に脱出したいと考えている現下の段階で、既卒者雇用企業への奨励金制度などは、日本企業の競争力向上の自己努力を税金を使って妨害するものに他ならず、結局、それは財政を更に悪化させた上に中長期的には雇用を一層減らす愚策ではないかと思います。

加えて、インターンシップやトライアル雇用の効果も未知数。蓋し、どのような職業でも、そこで働く方は数年をかけてその業務に対応できる<身体>を作りあげるものだから。

例えば、私の知人に高卒で「○|○|」(←マルイ!)に就職して、最初の5年間、靴売り場の売り子さんをしていた方がおられる。優秀だった彼女はその後、希望していた憧れのバイヤー部署に転属になり内勤になった。そして、3ヵ月後過労で入院。何故か。はい。彼女は5年かけて(最初は辛くて毎夜、寮で泣いていたそうですが)「立ちっぱ」業務に対応できる<身体>に自分を作り変えていたということ。だから、傍から見れば楽な内勤のデスクワークが彼女の<身体>には拷問のように堪えたのです。    


ならば、その業務に対応できる<身体>を作り上げるのに数年単位の時間が必要なことを度外視したインターンシップやトライアル雇用は、幾つかの業務を体験してはいるものの、それらのどれにも対応できない<身体>の持ち主を量産しかねない制度、鴨。蓋し、ポストと人材をとにかく数量的にマッチングさせればよいと考えるのは、文字通り、官僚の机上の空論、社会主義の計画経済ばりの空論なの、鴨。と、そう私は考えます。

ことほど左様に、これら程度のことにも考えが及ばない民主党政権は無能である。而して、それは無能だけでなく社会主義政権ではないのか。『共産党宣言』(1848年)の有名な次のリストを読み返して私はそう感じました。


プロレタリアートは、その政治的支配力を使って、ブルジョワジーから次第にすべての資本を奪い、すべての生産用具を国家に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中し、そして生産力の量をできるだけ急速に増大させるであろう。・・・

そこに至る手段や方策は、もちろん、それぞれ国が異なれば異なるものとなろう。
とは言え、最先進の国々では次の方策はかなり一般的に適用されるだろう。

01)土地所有制度の廃止とすべての地代の公共目的での運用
02)強度の累進課税
03)相続制度の廃止
04)すべての国外脱出者と反逆者の財産没収
05)国からの資本および排他的独占権を持つ国立銀行による信用の国家への集中
06)通信輸送手段の国家への集中
07)国有工場および国有の生産用具の増加。国または地域全体を睨んだ共通で公の計画に基づく耕作地開墾推進とすべての土壤の改善
08)すべての人に対する労働の平等な義務化。産業軍の編成、就中、農業のための産業軍の編成
09)農業と工業の結合。より適切な人口分布を全国的に実現することによる都市と農村との格差の段階的な除去
10)すべての児童に対する公教育の無償化。現在の形態においてなされる児童の工場労働の廃止。産学の連携、すなわち、教育セクターの活動と産業セクターの活動との結合、等。

これらの発展の進行にともない、階級の区分は消滅し、すべての生産活動が全国レベルで結合された広範な協同体の手の中に集中されてくると、公的権力はその「政治的-権力的」な性格を失うだろう。・・・而して、諸階級の存在と階級間の対立を内包した古いブルジョワ社会に代わって、我々は協同体、すなわち、各人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となっているような協同体を持つことになるに違いない。 

(KABU訳『共産党宣言』第2章末尾:岩波文庫版pp.68-69)   


民主党政権が推進している①子供手当や高校実質無償化(10)、あるいは、②農家への戸別所得補償(07・09)だけでなく、例えば、民主党応援団の識者が繰り返し主張している③「累進課税の強化」や「相続税率の引き上げ」(02・03および実質的に01)、更には、民主党応援団の総本山とも言うべき連合が執拗に要求している、④公的セクター存立の堅持(06・07)、そして、⑤連合加盟労組組合員に対する怠ける権利の平等な保障(08)等々を想起するとき、引用したテクストは、その文中の「プロレタリアート」「民主党政権」と読み替えれば日本社会の現下の動向と整合的であろうと思います。160年以上前に欧州で書かれたこのテクストを現在の民主党政権の施策の工程表としても読むことが可能ということです。

160歳どころか200歳の方も戸籍上は生存しているとされてきたことが露見して、官公労組合員の杜撰さが露呈した昨今ではありますが、1989年-1991年、ソ連と東欧の崩壊によって社会主義の不可能性が明白になって久しい現在、マルクス-エンゲルスが160年前に掲げた工程表を実行しようとしている民主党政権は歴史から学ぶ能力のない社会主義政権である。そう断じても満更間違いではないのかもしれません。尚、マルクス主義に関する私の基本的な理解については下記拙稿をご参照ください。

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57528728.html




マルクスの経済理論は、それが、「労働価値説」という<釣り針>と一緒に英国の古典派経済学を飲み込んだ段階で、要は、その初手の段階から<北斗の拳>だった。畢竟、論理的には、「限界効用」のアイデアを契機に再構築された新古典派(総合の)経済学にマルクス経済理論は粉砕され、他方、歴史的には、上に引用した「社会主義への工程表」をほぼ忠実に実行したソ連と東欧諸国が破綻したことで「資本主義 vs 社会主義」の勝負は資本主義の勝利で終わった。

社会主義の不可能さは、しかし、上に引用した『共産党宣言』のテクストで既に明らかだったの、鴨。蓋し、マルクス経済理論のみならずマルクス主義もその初手から<北斗の拳>だったの、鴨。

すなわち、「各人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となっているような協同体が、しかも、全国レベルで結合された広範な協同体がすべての生産活動をその手の中に集中する」ことと「公的権力はその「政治的-権力的」な性格を失う」ことは矛盾するだろうということ   


簡単な話です。例えば、「私はそのような協同体には加わりたくない/協同体の意向に従いたくない」という、ヤクザや起業家、出家志望者や分離独立運動家、あるいは、過度な怠け者や過度な働き者はこの協同体の中でどう扱われるのか。而して、「権力=他者の行動を、実力と公の権威の結合によって左右できる地位や勢力」と定義すれば、左翼の論者が語るように、「権力=支配階級が被支配階級を抑圧する社会的仕組み」であり、よって、「階級がなくなれば階級間対立もなくなり権力も国家も死滅する」という自己論理内完結型の目論見とは異なり、「各人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となっているような協同体」においても、それら異分子を協同体の意志に従わしめる<権力>は残らざるを得ないだろうということ。蓋し、ソヴィエト・ロシアとは、正に、そのような<権力>が猛威を振るった社会ではなかったのでしょうか。

而して、ここで、「社会主義の高次の段階たる共産主義社会では、各人の意向と協同体の意向が異なることはあり得ない」という左翼の論者からの、前提と結論が同語反復的な言い訳が来る、鴨。

蓋し、世界同時革命や革命の輸出は考えないとしても、また、天変地異や戦争により協同体が機能不全に陥る事態は無視するとしても、一国規模の人間集団でどのようにしてすべてのメンバーが満足する生産と消費の内容をタイムリーに確定できると言うのか。各人が「自分の希望や状態=自由な発展の目標や成果」と判断するための情報に不足も非対称性も生じないとなぜ言い切れるのか、あるいは、情報を理解する各人の能力差をどう止揚するというのか。而して、これらテクニカルな問題に加えて、「その希望や状態が自分も含めすべての協同体メンバーの自由な発展であるか否かを、誰がどのような根拠で測定し確定できるというのか」という本質的な問題をこの言い訳は孕んでおり、よって、言い訳は成立しないのです。尚、この本質的な問題に関しては取りあえず下記拙稿とその続編をご参照ください。

・風景が<伝統>に分節される構図-靖国神社は日本の<伝統>か?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html


畢竟、ハイエクは『集権的経済計画』(1935年)や『隷属への道』(1944年)そして『自由の条件』(1960年)等々で、「設計主義的合理主義」でしかない社会主義は必ず「強制と計画-計画の強制と強制的な計画」が蔓延る官僚支配の権威主義的社会をもたらすと正確に予想しました。而して、ハイエクの予想を反芻しながら現下の民主党政権がこの社会に及ぼしている実害を見るとき、既卒求職者も日本企業も政府に頼ることなく自力更生するに如くはない、蓋し、既卒者採用奨励金など求職者と求人企業の双方にとって<毒饅頭>でしかないと、そう私は考えています。






(2010年8月31日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 民主党
ジャンル : 政治・経済

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下記(↓)前稿では<伝統>が社会的に生成される経緯を一瞥しました。本稿はその「復習」から書き起こし、世の移り変わりとともに変化しつつも<伝統>がその同一性を保持しながら再構築される構図を検討してみたいと思います。而して、<世間=社会>が<伝統>の同一性の基底であること、他方、その変化が臨界点を超える場合、<世間=社会>の変化は<伝統>を最早<伝統>ではないもの、すなわち、「生きられてある世界」を構成する風景の一部にしてしまう経緯を確認すること。これが本稿の獲得目標です。

・風景が<伝統>に分節される構図-靖国神社は日本の<伝統>か?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html



◆再論-伝統生成の構図

蓋し、「何が伝統であり、何が伝統ではないのか?」「何が伝統として尊重されるべき事象であり、何がそうではないのか?」これらの問いに、自他共に納得できる解答を出すことはそう容易なことではありません。

例えば、ある論者は「日本は万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠に存在する。この大義に基づいて億兆一心、忠孝の美徳を発揮するものだ。これこそ我が国体の精華であり、永遠不変、国史を貫く伝統である」と厳かに宣言される。他方、別の論者は「憲法9条は国是であり戦後日本を戦争から守ってきた伝統である」とのたまう。けれど、彼等は共に(そうは考えないという他者を納得させられる)根拠を何も提示することができない。

新カント派の方法二元論を持ち出すまでもなく「Sein-Sollen:事実-当為」の両者を巡る議論はその位相を異にする。ゆえに、(それらの主張が現在の歴史学や国際政治学の知見からは極めて怪しいことは別にしても)、たとえ2670年の間、あるいは、65年の間これらの論者の謂わゆる「国体」や「国是」なるものがこの社会で尊重されてきたとしても、その事実をもって明日も日本人がその「国体」や「国是」なるものを尊重すべきであるとは言えないのです。

では、「何が伝統か?」の問いに対してどのような構えで臨めばよいのか。蓋し、その要諦は、我々は<伝統>を巡る言語ゲームを通して、「何が伝統か」「誰が伝統と伝統以外のものを識別するのか」という<伝統>確定のルールを感得し体得するしかないということ。そして、そのルールは<物語の編み物>という形態を取りながら間主観性を帯びる公共的な性格のものであり、<私>にとって規範的拘束力をも持っているということです。而して、その理路は次の通り、

(甲)「何が伝統か」を感得できるのはこの世に私の自我たる<私>だけである

(乙)「何が伝統か」を感得するための資料は、<私>にとっての「生きられてある世界」(生活世界)内の、かつ、(その存在を最早疑いようもないと<私>に感じられる)不可疑性を帯びる事柄、畢竟、<伝統>を巡る言語行為に限られる

(丙)<伝統>を巡る言語行為を包摂する言語ゲームの中で<伝統>を確定するルールが生成され、しかる後、そのルールに則った新たな言語ゲームの中で次世代のルールが再生成され、このルール再生産のプロセスは順次継続していく

(丁)<伝統>を確定するルールは、「何が伝統か」を記述する1次ルールと、「誰がどのような手続でルールを制定・修正・解釈できるのか」を記述する2次ルールの結合として<私>の現前に立ち現われる

(戊)<伝統>を確定する2次ルールの内容は、「現象学に言う「他我構造」を通して、<私>が<我々>と看做す同じ<世間=社会>のメンバーの社会的意識として、すなわち、間主観性を帯びたものとして、かつ、言語ゲームを通して<私>に了解される」というもの

(己)<伝統>を確定する1次ルールの内容は、「ある<世間=社会>のメンバーとしての自己同一性を保持する<我々>が形成する、社会的意識に定礎された当該<世間=社会>コミュニティーメンバーの行為慣行」と言える   


敷衍すれば、(甲)の独我論的の構えは<私>が霊能力者でも超能力者でもないことを前提にすれば不可避かつ唯一の出発点でしょう。「国体」なり「国是」なりがアプリオリにそれらの内容が普遍的に確定したものとしてこの日本列島の中空を漂っているわけではないのですから。ならば、(乙)~(丁)で述べた如く、<伝統>をこの社会の風景から切り取るためには、その存在や価値が<私>にとって疑いようもない言語ゲームの戯れを構成する言語行為の観察による他はないことになる。

而して、(戊)2次ルールと(己)1次ルールの確定作業の前哨として、ルールが<私>にとって規範的拘束力を及ぼし得るための条件は何かという検討が不可避になる。蓋し、<私>がその運命共同体のメンバーであると<確信>している<世間=社会>で、そのルールに従うことが<私>のアイデンティティーの根拠になるという契機を欠けば、<私>にとってそのルールは規範的拘束力も持ちえないという経緯がその条件であろうと私は考えています。

尚、(戊)の「他我構造」とは「他者も<私>に立ち現われる<私>の生活世界内の存在であり、かつ、他者は<私>が<私>と同型の「認識者-行為者」と「理解=解釈」した存在にすぎない」という程の意味です。畢竟、この「他我構造」を通して、<私>の「理解=解釈」に<私>は'''間主観性'''を覚えることになる(誤解なきように、「理解=解釈」が帯びる間主観性という性質は<私>にとっての評価に過ぎず、これまた、アプリオリにこの日本列島を間主観性を帯びた「国体認識」や「国是概念」が覆っているわけではないのです)。



◆伝統の可変性と同一性

前項の(丙)で述べた如く、<伝統>を巡るルールは言語ゲームの戯れの中で変化していく。蓋し、保守主義とは「伝統の恒常的な再構築の営みである」と私は考えていますが、(丙)の認識はこのことを<伝統>の側面から表現したものに他なりません。では、例えば、所謂「憲法改正の限界」の如き意味で<伝統>の変化に限界はないのでしょうか? 

すなわち、刑事訴訟法や民事訴訟法では、訴訟対象論(訴因・公訴事実や訴訟物を巡る議論)において、証拠や新事実の発見、あるいは、法規解釈の修正にともない訴因や請求の変更があった場合、ある訴えが同一性を保持するかどうかが問題になりますが、事実の変化や<我々>の社会的意識の変遷が<伝統>の同一性を掘り崩したりそれを単なる風景の一部に格下げにすることはないのでしょうか。蓋し、

(a)甲子園の高校野球大会を、選手の健康と公平性を考えて、①出場校を64チームにして2回戦からの参戦組と1回戦からの登場組の不公平を解消する、②試合は1回戦から準々決勝までは、大阪・名古屋の2ドーム球場で行い、準決勝・3位決定戦・決勝の4試合は大阪ドームで行なう。(b)所謂「女系天皇」を認める。(c)捕鯨活動と鯨食を違法にする、等々。    


例えば、これらの変化は<伝統>の同一性を失わせるものでしょうか。

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結論から言えば、これら(a)~(c)が<伝統の再構築>であるか<伝統の破壊>であるかは、どこまでも「他我構造」の内部に置かれた<我々>が間主観性を覚えるこの日本社会の社会的意識の「理解=解釈」に収斂すると思います。蓋し、真夏の甲子園球場で繰り広げられるからこそ夏の甲子園大会は<伝統>として価値があると考える<我々>が少なくないからこそ現在に至るまでそれは続いてきているのでしょう。

いずれにせよ、ここで補足すべきは次の2点、

(α)<伝統>の重層性と相互連関性
それに直接係わる<我々>が少ないからといって、その事象が<伝統>ではないとは言えないということ

(β)<伝統>の体系性と民族国家性
近代国家成立以降の日本の<伝統>が、「日本国民=日本人」という国家規模の「間主観性=共同性」に底礎されている以上、日本の<伝統=物語の編み物>もまた、(単に(α)のエスニカルな契機だけではなく)ナショナル契機を帯びた国民国家の身の丈サイズの<伝統>ということ


蓋し、実は、高校野球に関心のない人々も稀ではない。まして、流鏑馬や薪能を演じたこと、否、見たことさえある日本人は極少数でしょう。しかし、それらが日本の<伝統>の一斑であることを否定する人もそう多くはないのではないか。畢竟、<伝統>の構成要素は単体で存立するものではなく、フッサールの言う意味での生活世界と伝聞の世界と神話的世界の三者を覆う広範な<物語の編み物>の一部なのです。而して、<伝統>の各要素はその編み物の内部で相互に連関しており、ならば、日本の<物語の編み物>にその座を占めている限りは、流鏑馬も薪能も、捕鯨と鯨食も日本の<伝統>と言えるのです。

他方、女系天皇の是非を定める<我々>の社会的意識は日本国を統合している<政治的神話=皇孫統べる豊葦原之瑞穂國のイデオロギー>と共鳴している。畢竟、皇室を巡る<伝統>は、それがナショナルな契機を媒介にしているがゆえに、日本の<伝統=物語の編み物>の中で要の位置を占めていることだけは明らかであろうと思います。尚、女系天皇を巡る私の基本的な考え、および、グローバル化を睨んだ上での<物語の編み物としての伝統>の変化と同一性ということの歴史的経緯については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・女系天皇は憲法違反か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59468610.html

・法とは何か☆機能英文法としての憲法学
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59457108.html

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html


最後に確認すべきは<伝統>の基底たる<世間=社会>の変遷と様相のこと。

而して、<伝統>とはそのコミュニティーを運命共同体と感じている<我々>の社会的意識とその社会的意識に定礎された行為慣行である。ならば、「大東亜戦争で沖縄は本土の犠牲になった」などとのたまう人々は、彼等が「沖縄≠日本」と考えているだろう段階で、すでに日本の<伝統>を確定する資格を有する<我々>ではない。畢竟、彼等は、運命共同体としての日本に帰属することに自己のアイデンティティーを感じる<我々>ではなくなっており、よって、<伝統>を遵守尊重することで自己のアイデンティティーを確認する<我々>でもないということです。

蓋し、人口に膾炙している「沖縄には在日米軍基地の70%がある」というのは「沖縄には在日米軍専用施設の44%、(自衛隊との共同利用施設等々も算入すれば)、在日米軍の全施設の18%がある」の間違いであることを不問に付すとしても、このような論法は、「東京には国会議事堂の100%がある」という命題同様それ自体としてはなんら、同盟国アメリカと自衛隊員諸君に対して無礼極まりない沖縄の「非日的-反日的」の社会意識を正当化するものではない。地勢も歴史も非対称的な現在の都道府県の領域が単一の国民国家を形成した以上、沖縄県民の戦中と戦後もまた、日本人たる沖縄県民がその「地政学的条件-歴史的背景」からして必然的に甘受するしかなかった体験であったと言えるだろうからです。

ならば、「沖縄は独立するべきだ」と多くの沖縄県民が考えるのならば、沖縄が<我々>の<世間=社会>でなくなるのなら、日本の<伝統>を担う意志も資格も欠いている彼等に対しては、「どうぞご自由に」と言う他はない。と、感情的な排除の論理からではなくそう私は考えます。再見沖縄?


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(2010年8月30日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 沖縄米軍基地問題
ジャンル : 政治・経済

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靖国神社の前身は1869年創建の東京招魂社、1879年に「靖国神社」と改称され現在に至っています。靖国神社に対しては、「靖国神社は陸海軍省が祭事を取り仕切った<国策神社>であり、それは日本古来の豊潤な神道的世界観とは異質な、国家統合のイデオロギーをヘーゲル流の<万世一系の国体>観念に求めた明治政府による近代的で人為的な国家神道の宣伝装置である」という主張をしばしば目にします。このような主張は妥当でしょうか。

靖国神社は日本の<伝統>ではないのか。本稿は「伝統とは何か」という切り口からこの問いに答えるものです。尚、「靖国神社≠伝統」論とは一応区別される、靖国神社に対する左翼・反日勢力からのイデオロギー的批判に対する私の反批判については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいと思います。

・高橋哲哉『靖国問題』を批判する(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/2499484.html

・高橋哲哉『国家と犠牲』を肴に<高橋哲学>の非論理性をクロッキーする
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/10702380.html





◆伝統とは何か?

ある言葉をどのような意味で使用するかは基本的には論者の自由でしょう。而して、これは「伝統」についても言えること。しかし、その論者が他者とのコミュニケーションを生産的にしたいと考えるならば、就中、学術的な議論に参画したいと希望するのならば、言葉の意味は、①一般的に流通している語義(辞書的定義)に沿ったものか、②その学術的議論が属する専門家コミュニティー内部で彫琢を施され蓄積されてきた語義(言葉の経験分析に適った語義)を踏まえるか、あるいは、③その言葉を明確に定義した上で(規約定義を明示した上で)使用されるべきだと思います。尚、言語使用のルールと言語の性質に関しては下記拙稿の前半部分をご参照いただければ嬉しいです。

・「プロ市民」考
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57630212.html


重要なことは、(イ)どのような言葉にも普遍的で単一の明確な意味は存在しない。しかし、(ロ)普遍妥当な語義を持たないはずの言葉が、かなりの程度まで共通の意味内容をコミュニケーションに参加する各自にイメージさせているという事実です。    


上に紹介した拙稿では、(イ)「言葉の指示対象の恣意性」、(ロ)「言葉の一定程度固有の指示対象保有性-言語コミュニケーション成立の可能性」が両立する経緯を「言語とその指示対象の関係」に着目して整理しています。本稿はその考察を受けて、言葉を巡る言語行為の構図に踏み込むものです。


ウィトゲンシュタインはその後期の言語ゲーム論において、言葉の意味は言葉を巡って行なわれる人々の言語行為の観察によって感得され体得されると考えました。この理路は、橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』(講談社現代新書・2009年)の6章に手際よく紹介されていますので是非ご参照いただきたいのですが、

例えば、「1,2,3,4,・・・」の数列を見れば、誰しも「4」の次の第5項には「5」が来ると<分かる>ということ。ここで、実は、この数列が「1,2,3,4,1,2,3,4,・・・」であり第5項は「5」ではなく「1」なのだというのは数列の記述のルールに反する。同様に、人間は物心つくかつかない時から5個や10個、あるいは数百数千の机を観察して(それらは各々異なっているもののそれらには共通の性質が備わっていること、すなわち、「机」と呼ばれる個物の間に「家族的類似性」が見られることを感得して)<机>という概念を体得していくのだ、と。    

要は、<伝統>という概念も、「歌舞伎,文楽,能,流鏑馬,・・・,甲子園高校野球大会,女子高生のセラー服,カレーライス,寿司,・・・」という「伝統」と呼ばれる事物を巡る数多の言語行為を観察して、そこになんらかの家族的類似性が感得されることによって体得されるということです。蓋し、家族的類似性の感得に至る他者の言語行為の観察こそ、すべての言葉や行為に意味を付加してコミュニケーションを可能にするルールを紡ぎ出し、他方、そのようなルールと戯れる営みたる「言語ゲーム」の基盤である。


而して、『はじめての言語ゲーム』の8章に展開されている、否、同書の前編とも言うべき『言語ゲームと社会理論』(勁草書房・1985年)以来の橋爪さんの持論、(ある作為や不作為を行為者に命じるルールを1次ルールと呼び、誰がその1次ルールを制定し改正し解釈するのかを定めるルールを2次ルールと呼ぶ場合)「1次ルールと2次ルールの結合としてのハートの法概念論は言語ゲーム論の影響を受けて成立した」という仮説の是非は留保しておきますけれども、言語ゲームが紡ぎだす、あるいは、それによって言語ゲームが執り行われるルールが1次ルールと2次ルールの結合の形式を取っているという指摘は正しいと思います。    

尚、「法=主権者命令説」を批判した、保守主義の法哲学者としてのハートも(実は、コモンロー優位を否定して立法運動を推奨したベンサムの与力にして、「法=主権者命令説→制定法万能論→反保守主義」と看做さている英国分析法学の源流、ジョン・オースティンが、法と道徳とを峻別し、かつ、法は主権者の命令であるとしても道徳は主権者をも拘束すると考えていたという、英国分析法学研究の世界的権威である八木鉄男先生がつとに指摘されていた側面を鑑みるならば)、英国分析法学の伝統の中でこそその法概念論はより重層的かつ整合的に理解できるのではないでしょうか。いずれにせよ、保守主義を巡る私の基本的な考えについては下記拙稿をご参照ください。閑話休題。

・保守主義の再定義(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59162263.html

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59541275.html


畢竟、<伝統>を定める言語ゲームのルールもまた、何が伝統であるかを定める1次ルールと、誰がその<伝統>の線引きを行ない改正し解釈するのかを巡る2次ルールの結合である。而して、「伝統」の語義を定めるものは国語辞典、あるいは、伝統文化保護を巡る予算措置と規制措置を分掌する政府部局かもしれない。しかし、ルールの効力がルールの妥当性と実効性を不可欠の要素とする以上、ある社会の風景から<伝統>を切り取り、<伝統>の範囲を決めるものは、すなわち、風景から<伝統>を分節するものは、その<伝統>が息づく社会のメンバーの社会的意識でありその社会的意識を基盤とするメンバーの行為のあり様に他ならない。<伝統>が尊重されるべきものとして価値を帯び、そのメンバーに対する規範的拘束力を保持する限りそう言わざるを得ない。すなわち、日本の<伝統>を巡る言語ゲームの1次ルールの内容は、

日本人としての自己同一性を保持する、よって、自分を日本国という運命共同体のメンバーと意識している日本人が構成するこの社会の意識に定礎された、日本社会のメンバーの行為慣行   


と、一応はそう言えると思います。よって、1915年に始まった舶来球技の大会にすぎないにせよ甲子園の高校野球は<伝統>であり、それが日本古来の神道と些か毛色が異なっていようとも靖国神社もまた<伝統>である。では、<伝統>を巡る言語ゲームの2次ルールの内容は如何。この点を次項で検討します。







◆伝統の不可疑性と間主観性

<伝統>を定めるものは日本人の社会的意識である。けれども、誰がどのような権威や権限と手続でその社会的意識なるものを確定できるというのでしょうか。

フッサールが喝破した如く、ある色を私と他者が同じ色として認識しているかどうかは実証できません。ならば、「ある事象を私が<伝統>と考えているのと同じ意味で他者も<伝統>と考えていること」など到底論証のしようはないはずです。蛇足ながら、言語ゲーム論は、人々の行動の観察からそこで遂行されている言語ゲームを構成するルールを体得するという迂回戦術によってこの独我論のジレンマを解消したと言えるでしょう。

フッサールに従い結論から先に記せば、

蓋し、()<伝統>を巡る社会的意識の内容を定めるものは日本人としての私の意識そのもの(自我=純粋意識=<私>)以外のものではありえない。而して、()「生きられてある世界」(生活世界)の知見と矛盾しない範囲で(その「理解=解釈」が生活世界に根っ子を持っている限りで)他我構造から再構成された、間主観性を帯びる重層的な世界像の中に、()編み上げられた日本文化を巡る<物語>のパーツであると<私>が「理解=解釈」したものだけが<伝統>である。と、そう言えると思います。   


繰り返しますが、霊能力者でもない限り<私>は他者、まして、社会の意識など認識することはできません。ならば、社会的意識なるものもどこまでも<私>が「理解=解釈」した限りでの<社会的意識>にすぎない。加えて、<私>にとって、「生きられてある世界」、すなわち、そこに存在する事物や生起する事象の実在や意味が疑いないと感じられる(可疑性が最早成り立たない不可疑性の)世界に根っ子を持つ事柄でないのならばそれらは<伝統>としての規範的拘束力を<私>に対して持ち得ない。

更に、<私>と同様な認識者であり行為者である「他者=他の日本人」の存在もまた、<私>が<私>とアイソモティーフな存在であると<確信>する限りで成立する「理解=解釈」にすぎません。この(他者も<私>の生活世界内の存在という)他我構造は、しかし、他方では、「理解=解釈」された内容の間主観性を<私>に<確信>させるのです。

畢竟、「生きられてある世界」を基盤とする<私>にとって、<伝統>とは「生きられてある世界」を超えた<伝聞的世界&神話的世界>に向けて「生きられてある世界」の根っ子から童話のジャックが登った<豆の木>の如く伸び広がる<物語=フィクション>であり、また、その<物語>は多様な事物や出来事が織成す編み物として<私>に立ち現われる。この経緯はカール・ポパーが述べた、「世界Ⅲ=作品世界」の独自存在性と、「世界Ⅲ」が「世界Ⅱ=自我が形成する主観的世界」と相互に作用する世界論と相補的であろうと思います。

敷衍すれば、<伝統>とは「生きられてある世界」に根っ子を持つ<物語>であり、それは、間主観性を帯び、そして、<伝統>を定める1次ルールは<伝統>を巡る言語ゲームを通して<私>に了解される。蓋し、この認識が<伝統>を巡る言語ゲームの2次ルールの内容であろうと思います。   

蓋し、靖国神社が「生きられてある世界」に根っ子を持っていることは、英霊の御霊に感謝の誠を捧げる参拝者の列が切れることがないことによって自明であり、更に、その同じ事実は、他我構造の中で「靖国神社=日本の伝統」と多くの他の日本人も考えていると<私>に<確信>させる。而して、同じ他我構造の中でこれらの<確信>の内容は間主観性を帯びる「理解=解釈」となる。ならば、靖国神社は間違いなく日本の<伝統>である。否、それは<伝統=重層的な世界を覆う物語の編み物>の中でもこの社会の社会統合を担っている<政治的神話>の核心の一つでさえある。と、そう私は考えています。

<次記事の続編に続く>



yasukuni1





(2010年8月29日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 靖国参拝
ジャンル : 政治・経済




秋空の下に真夏の熱気とゲリラ豪雨が猛威を振るう日本列島。日も短くなってきたとはいえ夏が最後の意地を見せているこの頃、私は、2年前の8月19日から続けている日課のウォーキングに加えて、この7月27日からはラジオ体操を始めました。近所の公園で毎日30人程の近隣の方々と毎朝6時半に顔を合わせているということ。而して、健康増進とともに地域コミュニティーとの交流もできて実に愉快です。蓋し、コミュニティーの紐帯こそ保守主義の苗床である。と、その確信を毎朝深めています。

ところで、ラジオ体操とは何か?
ご存知ない方は少ないでしょうが、
学習の勘所は予習、而して、その本体は復習。
復習しておきましょう。

以下、ラジオ体操を<主催>しているかんぽ生命保険の資料の抜書き。

日本のラジオ体操は1925年3月にアメリカのメトロポリタン生命保険会社により健康増進・衛生思想の啓蒙を図る目的で考案され、広告放送として放送されていた世界初のラジオ体操が基となっている。1925年に保険事業の視察で訪米した当時の逓信省(現在の郵政省→総務省)簡易保険局(現・かんぽ生命保険)の職員がラジオ体操を知り帰国した後、日本でもラジオ体操を行うことを提案。1928年11月1日にNHKが放送を開始した。

ラジオ体操第1も第2も現在三代目、各々、1951年5月と1952年6月から放送開始。ちなみに、第1は「子供からお年寄りまで一般の人が行うことを目的とした体操」であり、第2は「体をきたえ筋力を強化することにポイントを置いて、働き盛りの人が職場で行うことを目的とした体操」。と、実際やってみるとその通りです。  


さて、合宿研修で宿泊した御殿場の国立青年の家等でお遊び程度にやった以外は、ほとんど30年ぶりくらいにラジオ体操に接してみて考えさせられたことがありました。それは、ラジオ体操が学習方法論を体得する上で実によくできたツールということ。そして、コミュニティーの紐帯を維持強化する上でこれまたラジオ体操はかなり優れもののシステムということです。


何事においてもプロフェッショナルとアマチュアの差は「学習総量=練習量」と「学習方法論=練習方法とその練習方法を考案できるスキル」に収斂する。実際、(それでご飯が食べられるようになるかどうかは「市場の規模」と「競争の度合」に左右されるとしても)ピアノにせよバイオリンにせよ、哲学にせよ英語にせよ、電気配線工事にせよ少年サッカーのコーチングにせよ、素人の水準を超えたいと思うのならば、毎日2時間の努力を5年間 続ければ、誰でも素人としては一流になれる。数千人の大学院留学研修に直接携わり、大学受験・大学院受験・資格試験の法律科目指導等々併せて数万人の学習指導を経験してきた私はそう断言します。文字通り、「継続は力なり」なのです。

而して、素人の中で一流の水準を超えて、(くどいですが、その道で生活の糧が得られるようになるかどうかは置いておくとしても)少なくとも力量的には専門家の仲間入りをしたいと思うのならば、上で述べた努力の総量を満たすことに加えて、努力の仕方、考えるための考え方、学習する方法論を体得しなければならない。畢竟、この体得が個人の単独の精進では困難だからこそ、全国の将棋の天才少年少女もプロ棋士に<弟子入り>するのであり、また、哲学や法学、歴史学や神学という所謂「解釈学的学術領域」では、いまだに、そして、世界的にも、師匠と弟子の系列、すなわち、<学統=学燈>がその人物の力量を推察する上で重視されるのだと思います。

蓋し、大学も卒業していない弁護士が独学で立てた「憲法無効論」など誰も相手にしないのは、むしろ、当然のことなのです。法学方法論も法概念論も、而して、それら「法的諸問題を考えるための考え方の体系的知識」を新カント派から現代の分析法学や功利主義の法学理論に至る理論史的背景の中で学んだとは到底思えない人物が立てた説など、プロの法学研究者にとっては高校生や中学生が政治経済や公民や現代社会の教科書を根拠に自説をまくし立てているのとあまり変わらない。尚、「師匠が弟子に教えるもの/伝えるものは知識ではなく努力の仕方や努力する覚悟である」という経緯と「憲法無効論」の荒唐無稽さに関しては下記拙稿をご参照ください。閑話休題。

・衛星放送型通信教育☆サテライトの思想的可能性
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/53613469.html

・憲法無効論の頑冥不霊と無用の用(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58998947.html


ことほど左様に、学習に関しては、①努力の総量、②学習方法論の二つが決定的に重要。幾らかエピソードを添えて敷衍しておきます。

Uさん
企業派遣でのMBA留学候補生に選抜されたある機械メーカー本社工場勤務の方。彼は、品質管理担当の腕っこきの技術者であると同時に原料購買チームのメンバーでもあり多忙を極めていた。また、彼の代わりの人材を手当てすることなど全く不可能。而して、頑張り屋さんでもありTOEFL(PBT)のスコアは、春先から初夏にかけて530点から560点(TOEIC換算で670点から760点)までは上がったけれど、それから3ヵ月足踏みが続き目標の600点には届きそうにない。なぜか。要は、トータルの学習時間が、学習の絶対量が足りなかったということ。悪いことに住まいは工場の敷地に隣接しており、通勤時間にリスニングやボキャブラリービルディングなどすることも不可能で、自室に戻れば「バタンキュー」の生活だった。  


私が提案した<解決策>は? はい、夜頑張るなどという健康にも悪く無理な精神論は捨てて早く起きること。そして、工場の周りを(1周1時間弱!)散歩しながら弱点のリスニングを補強すること。聞けば24時間やっている最寄のファミレスまでバスで40分かかるという環境でしたからそれしかないと思ってアドバイスした。而して、毎朝2時間の「リスニング-ウォーキング」の成果か、「夜は頑張るな!」というアドバイスが心に余裕をもたらしたのか、この方はその翌月のTOEFLで620点(TOEIC換算で930点)をゲットされた。


Kさん
MPA(行政組織管理学)専攻の私費留学志望の看護師の方。帰国子女ということもありTOEFLはすでに目標点を軽くクリアしていたが、GMATとGREのVerbalが全然駄目。また、出願書類の文章も稚拙。要は、英語でのコミュニケーションには不自由はないけれど、英語での(否、日本語でも)思想水準の高い思考ができないという「家庭の教育力が低い、しかし、賢い帰国子女」の典型。留学時期は家庭の事情で最早延ばすことはできず、つまり、背水の陣。よって、勝負は付け焼刃で臨むしかない上に今のままでは学習時間の総量を確保できそうにない。    


私のアドバイスは、はい、「病院を辞めなさい」。無責任のようだけれども、留学資金の目処が立っている以上、これが合理的なアドバイス。結果は? 向学心に燃える彼女の辞意の固さに感動した(折角採用した、看護学修士号を持つ看護師を手放してなるものかと算盤を弾いた?)その医療法人の人事部局が、彼女を夜勤なしのパートタイム勤務にシフトしてくれた。而して、彼女は私がリストアップした社会思想・社会科学分野の書籍を40冊程読みまくり、また、(読ませっぱなしは駄目!)それらのサマリーと感想を英語で提出した。で、もちろん、第一志望のアイビーリーグの大学院からアドミッションレターをゲット!


radiotaiso2


繰り返しますが、学習の要諦は努力の総量と方法論。而して、昔、長嶋茂雄監督は「練習(努力)できるのも才能の内」と述べましたが、教育とは才能がそれほどではない人の能力開発を行なう営みでもある。この観点から言えば、ラジオ体操には、「普通の努力する才能の人が努力を継続するための方法論」が盛りだくさんではないか。ラジオ体操は学習方法論の宝庫ではないでしょうか。どういうことか。

すなわち、()毎日決まった時間に行なわれること、()自分の努力を誰かが見ていること、()一見簡単そうな動作種目の中に、それを正しくやろうとすれば守らなければならないポイントが幾つもあって達成感が味わえること、()正しい動作が公開されており「競争」がフェァーであること、そして、()全国で同時刻に数万人の人々が自分が参加しているのと同じイベントに参加しているという想像を与えてくれること。   


蓋し、「継続は力なり」ということは誰しも分かる。毎日2時間の努力を5年間も続ければ、バイオリンでも英語でも素人の中では図抜けた存在になれるだろうということも、少しでも何か習い事や学問の修業に携わったことのある人なら誰にでも想像できる。けれど、継続すること自体が難しい。ならば、学習方法論の第一番目の内容は、いかに、「普通の努力する才能しかない人に努力を継続させるか」というノウハウでありスキルではないか。その点で、()~()の性質が見事に融合しているラジオ体操は素晴らしい。と、そう私は思うのです。

()の「定刻性」、()の「自分の頑張りやサボり具合を気にしている人が存在しているという確信」、()「競争ルールの明晰性と公開性」が努力を継続する上で重要なことは説明の必要もないでしょう。而して、()「教材とカリキュラムの適度な難易度」に関しては語学教材の選択に関して類例がある。それは、私が「赤頭巾ちゃんの法則」と呼んでいるもの。畢竟、ある人の現在の英語力やドイツ語力から見れば、小学校低学年のネーティブスピーカー用の童話が彼や彼女の教材としては適当としても、あまりに、幼稚な内容の教材は大人の学習意欲を低減させ努力の継続を妨げるのです。

その点、例えば、ラジオ体操第2を構成する13種目の動作の中でも、8番目の「片あしとびとかけ足あしぶみ運動」、9番目の「からだをねじりそらせて斜め下にまげる運動」、そして、10番目の「からだを倒す運動」は、これらをきちんとやろうとすれれば、それなりに<学習=訓練>をしなければいつまで立っても我流のままで終わりかねない適度な難度のもの。また、その他、簡単に見える動作種目も、「この運動の際には踵を上げるのかそのままにしておくのか」等々、運動効果を上げるために注意すべきポイントは結構盛りだくさん。ラジオ体操は奥が深い!

そして、ラジオ体操は保守主義の苗床になりうる、鴨。ラジオ体操に組み込まれた()「全国性-同時性」は、例えば、九州の田舎の高校生が生まれて初めて「全国模試」を受験したり、「旺文社のラジオ講座」を聞いたときに覚える感動や心強さに近しい、鴨。畢竟、この()の契機は()に連なる地域コミュニティーへの参加の実感や快感とあいまって、フッサール流に言えば「生活世界=生きられてある世界」を日本人が全国的にまた地域コミュニティーで共有しているという<確信>をラジオ体操に参加している個々人に与えるものではないか。而して、その<確信>は「生きられてある伝統を尊重する立場」としての保守主義とも親和性が高い、鴨。と、そう私は考えています。

ラジオ体操侮り難し。




ラジオ体操第1


ラジオ体操第2




(2010年8月25日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 日本の良いところを守りたい
ジャンル : 政治・経済

coffee1


世に「悪魔のように黒く、地獄のように熱い、天使のように清純で、恋のように甘い」と評される珈琲。本書、臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』(中公新書・1992年10月)は、<珈琲>がいかに人類史に登場し、人類史の中で<珈琲>がどのような役割を演じてきたかが骨太な構図の中に描かれた作品です。而して、著者のバックボーンは些か陳腐なマルクス主義経済理論と思われる。しかし、「どこから弾が飛んでくるか分からない気味悪さ」がない分、逆に、著者のこの知的背景は読者が本書をよりリラックスして読み進めることを可能にしている、鴨。





◆目次

第一章:スーフィズムのコーヒー
第二章:コーヒー文明の発生的性格
第三章:コーヒー・ハウスと市民社会
第四章:黒い革命
第五章:ナポレオンと大陸封鎖
第六章:ドイツ東アフリカ植民地
第七章:現代国家とコーヒー
終章 :黒い洪水   


著者は、第一章で、エチオピア等、紅海対岸のアフリカ東岸を原産地とするこの木の実が、アラビア半島を経由して(就中、エチオピア対岸の当時の港町モカを拠点として)、インドネシアを含むイスラーム世界全体に広がった経緯を紹介します。蓋し、不眠不休で修業を積む禁欲的な「スーフィーと呼ばれるイスラーム神秘主義の僧侶」(p.9)が珈琲の<飲むと眠れない>性質を逆手に取って「眠らないためにこそコーヒーを飲」(p.17)み始めた、と。

また、「珈琲:coffee」の語源たるアラビア語の「カフワ」が、「嫌悪」「食欲がない」「慎む」の語感を持つ「本来ワイン」と同じ意味であったことが紹介される(pp.12-13参照)。すなわち、「アルコールのワインも、・・・コーヒーも、一点において共通している、それは食物への欲望を払うのである。ワインを食前酒と理解している現代人には奇妙に思われるかもしれないが、ワインをカフワと呼んで愛飲した人々は・・・むしろ食事を避けるためにワインを飲んでいた」(p.13)、と。蓋し、この語源分析譚はスーフィズムがアフリカ原産のこの木の実が<珈琲>として人類史に登場する<産婆役>を演じた経緯を裏付けていると思います。

第二章は、珈琲がいかにして、また、どのような人々の手を経て全イスラーム世界に拡散していったかの描写に充てられており、それに続いて、珈琲が西欧社会に到達した後、人類史において<珈琲>として雄飛していった経緯が第三章と第四章で描かれています。

珈琲はイスラーム修道院から出て全イスラーム世界に広がる。それに際しての、オスマン・トルコの影響、そして、モカとカイロ、「レヴァント=地中海東岸地方」とオランダの商人達が演じた役割を紹介する第二章は、文字通り見事な<第二楽章>。「コーヒーは決して「自然な」飲み物ではない。ほっておいても犬や猫が飲むという代物ではない。倉庫のコーヒー豆にはネズミも手を出さない。・・・最初からコーヒーが好きであるという人間は少ない。それが大量に消費されるためには、商業資本は人間のうちにコーヒーに対する自然的・精神的な内的欲求を作り出さなければならない。商業資本主義は人間と自然とを内的に変化させる巨大な装置である」(p.55)との指摘は些かマルクス主義臭さが気になるものの間違いではないでしょう。而して、この指摘が本書全体を貫く主旋律と言えると思います。

また、オランダ商人の活動が、最初は西欧世界に珈琲を持って来るのではなく、イスラーム世界に向けた珈琲生産と貿易に限られていたという指摘は、「非西欧→西欧」という一次産品貿易に関してはいまだに根強い西欧重視の図式に修正を迫るものかもしれません。「十六世紀は「トルコの世紀」、(オスマン)トルコの快進撃は止まるところを知らなかった」(p.93)等の記述とともに、本書が、イスラーム女性からスカーフを奪い、日本の伝統たる捕鯨を妨害し、あろうことか、死刑を廃止して犯罪者が道徳的責任を公的に取る権利を奪い去って恥じることを知らない「ヨーロッパ中心主義=文化帝国主義」への地味だけれども痛烈な批判の書でもあることは明らかだと思います。

第三章「コーヒー・ハウスと市民社会」が本書の白眉と呼ぶべき一章。蓋し、「ピューリタン革命とそれに続く王政復古の時代において確立された(当初は女性は排斥されていたものの、その人物が理性的に振舞い論理的に話す限り、男性に関しては身分の分け隔てなく誰もが議論と情報交換を楽しめるという、一種、戦国末期の日本の「茶の湯の庵」の如き)コーヒー・ハウスという近代市民社会の公共的制度と、(アルコールのように人の理性を狂わせるのではなく、逆に、人を覚醒させ理性的にするという)コーヒーという商品イメージは、敬虔なるピューリタンのイデオロギーとの内的連関抜きにはおよそ考えることができない」(p.70)、近代市民社会の成立によって社会を統合する神通力を失った中世的と近世的な「社会の公的領域と私的領域の区別の秩序」を、すなわち、「旧来の公私の関係を溶かし、新たな近代市民社会の公私の関係を鋳造していくかまどの役目を果たすのが、コーヒー・ハウスに他ならなかった」(p.60)という指摘は鮮烈。畢竟、珈琲にそのような霊験があるということではなく、人を覚醒させるという使用価値を持つ珈琲が、偶さか「近代市民社会=資本主義社会」の黎明期にそのような役割を与えられたということに過ぎないのでしょうけれども。

蓋し、現代、喫茶店の珈琲代金なるものは珈琲の対価ではなく、時間と空間と雰囲気を占有する対価であるのと同様、近代の黎明期においてもコーヒー・ハウスの代金は、近代市民社会の一員に生まれ変わるための理性的討論経験と情報との対価であった、と。こう著者は述べているのだと思います。而して、第四章以降終章まで、この同じ視座から著者は、(珈琲の生産と貿易を巡るよりマクロ経済学的な側面に着目しながら)フランス革命から現代に至る<珈琲>が彩ってきた世界史を綴っている。そして、その到達点は「コーヒーを飲むという行為は、・・・酒を飲むのとはかなり程度の異なった極めて「不自然」な、人工的・文明的な行為である。それはヨーロッパ列強の植民地支配という長大な過去と円滑な世界交易の存在を前提して初めて可能な行為」(pp.221-222)というもの。左右の立場の違いにかかわらずこれは多くの方が共感できる認識ではないでしょうか。

coffee2



◆解題

本書の副題にそう記されている通り、19世紀後半以降(英国をほとんど唯一の例外として、逆に、珈琲の消費量が始めて緑茶を抜いた1982年以降は日本を含め)、<珈琲>は「近代市民社会の黒い血液」となった。而して、1979年の「アフリカ諸国をみてみれば、コーヒーが全輸出に対して占める割合は、ウガンダ98%、ブルンディ82%、エチオピア75%、ルワンダ71%という数値を示している」「世界の海洋をコーヒーを積んだ船舶が行き交う。年間輸出総額120億ドル、世界貿易全体の中で原油に次ぐ第二位の位置を占めている」(p.229)こと。また、国連開発計画(UNDP)によれば、2004年の世界の珈琲小売販売総額は800億ドルであることを想起するとき、現在、<珈琲>が単なる飲み物ではないことだけは確かでしょう。

しかし、実は、「珈琲:coffee, der Kaffee」がイスラーム世界から西欧社会に伝播したのは17世紀前半、日本で言えば徳川三代将軍家光公の治世(1623-1651)の頃のこと。そう大昔のことではないのです。実際、ロンドンに最初のカフェが開業したのは1652年。そのロンドンでは「1656年、あるコーヒー・ハウスから流れ出る「悪魔の臭い」の処置を求めて(群衆が)裁判所に押しかけ」(p.72)たくらいなのですから。他方、フランスでは、1669年、駐トルコ大使がルイ14世に珈琲を献上したことを契機にやっと上流社会で流行し始めたとされる。畢竟、珈琲が一般大衆に至るまで人々の日常的な飲料品になったのは欧米社会でもここ200年程のことなのです。

而して、「悪魔のように黒く、地獄のように熱い、天使のように清純で、恋のように甘い:Black as the devil, hot as hell, pure as an angel, sweet as love.」とはタレーラン(1754-1838)がそのレシピに書き記した珈琲讃歌ですが、これは、まだ、フランスでも一般的なものでは必ずしもなかった、オリエントの異国情緒溢れるこの飲み物から受けた西欧人の衝撃を綴った言葉と理解すべきなのかもしれません。

ことほど左様に、珈琲は人類史の広がりの中ではまだ新参者。コロンブスが新大陸から持ち帰り、17世紀後半には西欧世界だけでなくアフリカ・アジアに広く普及したトウモロコシは言うまでもなく、各々16世紀前半と後半に同じく新大陸から西欧世界にもたらされ、(最初はソースの原料としてですが)17世紀後半には西欧の社会に定着したトマト、他方、アダム・スミスがその『国富論:The Wealth of Nations』(1776年)の中で「人間を養いうる栄養の面から見た場合、それは単位面積あたり小麦の三倍の収穫量が期待できる:an acre of potatoes would produce three times the nourishment of an acre of wheat.」と驚きとともに絶賛しているように、遅くとも18世紀初頭には、欧米の貧しい人々の主要な食料になっていたジャガイモと比べても珈琲は新参者であり、また、それが純粋の嗜好品であるがゆえにでしょうかその伝播普及の足取りもトウモロコシ、ジャガイモ、トマト程には速いものではなかったのです。

では、こののろまな新参者はいかにして<珈琲>へと雄飛したのか。

この興味ある問題について、著者は、(イ)珈琲の「効用=使用価値」、すなわち、イスラーム神秘主義の修道院生活や近代市民社会がその構成メンバーに求めるエートスと珈琲の効用との整合性、(ロ)<珈琲>を契機として形成される時空間と近代市民社会との、就中、市民革命の時代の空気、そして、ナポレオン戦争から第一次世界大戦へと続く国民皆兵の時代の空気との親和性、(ハ)珈琲生産と珈琲貿易に整合的な資本主義のあり方、就中、帝国主義のあり方の三個の観点から解答を編み上げていきます。 
  

蓋し、本書が、ソ連崩壊の年、社会主義に対する資本主義の勝利が確定した年の翌年に出版されていること、また、著者の専門がドイツ文学であり社会科学の専門家ではないこと。これらを考えれば仕方のないことかもしれませんが、本書に散見されるマルクス主義経済理論の陳腐さは隠しようもない。特に、上記(ハ)に関してはほとんど見るべきものはない。けれども、前二者(イ)(ロ)を巡る記述は秀逸。而して、陳腐とはいえ(ハ)の「経済学的な社会認識の枠組み」を欠けば(イ)(ロ)も散漫なアイデアの陳列にしかならなかったであろうことを考えれば、やはり、トータルでは本書の完成度は高いと言える。と、そう考え本書を紹介することにしました。ご興味があればご一読ください。お薦めします。

尚、私の考える「資本主義の世界システム」のあり方については、とりあえず下記の拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・グローバル化の時代の保守主義☆使用価値の<窓>から覗く生態学的社会構造
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59463433.html

・京都☆保守主義の舞台としての生態学的社会構造
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59260126.html

・日本語と韓国語の距離☆保守主義と生態学的社会構造の連関性
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59190400.html









(2010年8月21日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 世界システム論
ジャンル : 政治・経済

ganryujima


流石は「政局の達人」、小澤一郎氏が自民党壊滅に向けて必殺の手を放つの、鴨。もし、そうなれば現在の自民党に勝ち目はない、鴨。蓋し、「政局の達人」に対抗するには自民党も、平成の大宰相して「政局の天才=小泉純一郎元首相」のカムバックか、あるいは、<ハートのロイヤルフラッシュ>の線での執行部一新&解党的出直ししかないの、鴨。と、残念ながらそう感じざるを得なかった報道を目にしました。

これです。

◎民主代表選、小沢氏が出馬を検討
民主党の小沢一郎前幹事長は18日、9月の党代表選について、小沢グループ以外からの幅広い支持が得られることを条件に出馬を検討する考えを周辺に伝えた。

(8月19日読売新聞)     



畢竟、これは小澤氏が、代表選挙に出ることで自身が勝っても負けても、「全国の党員&サポーターを巻き込み全党を挙げて政策論争を繰り広げた上での代表選択」が行なわれた実績を積むことで、民主党の自滅を見込み「棚ボタでの政権奪取」を狙ってか、党内での政策論争を封印している自民党との彼我の差を「国民=有権者」に印象づける作戦ではないのか。宮本武蔵と佐々木小次郎の<巌流島の決闘>の名場面の台詞を借用すれば、

小次郎敗れたり!
勝つ積もりなら、なぜ、鞘を捨てた!

自民党敗れたり!
政権奪還を狙うのなら、なぜ、党内の政策論争を封印した!   



畢竟、いかに民主党が政策の素人集団であろうと、また、ビジョンとは到底呼べる代物ではなかろうと、「日本をこんな国にしたいんです」という曲りなりにもメッセージを出す民主党と、ビジョンもメッセージも何も出さない、最初から四球か死球狙いの四番バッターの如き自民党とでは、結局、世論の支持がどちらに集まるかは自明だと思うのです。


要は、(A)現職の菅直人氏が勝てば菅改造内閣は「小澤嫌いの世論」も味方につけられるだろう。それはそれで民主党にとって損な話ではない。他方、(B)自分が勝てば小澤内閣はひょっとすれば内閣支持率ゼロからのスタートになるかもしれないが、時間の経過とともに政党支持率では再度自民党にダブルスコアの差をつけることも可能ではないか。まして、どちらのケースでも、自民党が「誘いの隙=小澤資金疑惑」を力瘤をいれて追求してくれればくれるほど、世論の支持は政策論議とは直接の関係に乏しい「政治と金の問題」に血道をあげる自民党から益々引いてしまうだろう。いずれにせよ、<小澤一郎>が勝っても負けても民主党に損はない。    


と、そう小澤氏は計算した上で、代表戦出馬を決断するのではないか。

而して、そこには、政党を自分の選挙運動のツールと考える与野党の大部分の議員とは全く違う、また、民主党を政権交代のためのツールと考えていた鳩山由紀夫氏や菅直人氏等の民主党幹部連中とも次元の違う、民主党を日本の政治の仕組み自体を変える、よって、日本をぶち壊すツールと位置づける小澤氏の哲学が横たわっているの、鴨。

蓋し、自民党とその支持者にとって、「小澤代表戦出馬」という手は将棋で言う、「読んではいたがいざ指されてみれば嫌な手」ではなかろうか。ならば、自民党も真っ向勝負で行くしかないのではないか。と、そう私は考えています。ことほど左様に、「小澤一郎侮り難し」の感を覚えた報道でした。尚、私が考える自民党の衰微の原因と自民党再起に向けた処方箋に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。


・民主党政権の誕生は<明治維新>か<建武新政>か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59444639.html

・自民党解体は<自民党>再生の道
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59586792.html

・自民党<非勝利>の構図-保守主義とナショナリズムの交錯と乖離(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59722931.html

・自民党再生の<切り札>はハートのロイヤル・フラッシュ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59398718.html









(2010年8月19日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 民主党
ジャンル : 政治・経済




先日、8月11日に実施された自民党参議院議員会長選挙、町村・額賀・古賀の三大派閥の支援する候補を「脱派閥」を唱えた中曽根弘文氏が紆余曲折の末に退けました。而して、本稿は、「中曽根当選」に象徴される、現在、政界の内外で評判の悪い「派閥」の是非について検討するものです。

派閥は日本政治の癌細胞なのか? 派閥は可及的速やかに解体されるべきものなのか? 蓋し、中曽根氏は会長選の当日に所属していた伊吹派に退会届を提出したものの、氏の現在に至る政治力の源泉が中曽根大勲位のご子息である事実、すなわち、「伊吹派の本流=旧中曽根派」の<若旦那の良いご身分>にあることは周知の事実。その中曽根氏が「脱派閥」を唱え当選したことは一種ブラックジョークのようにも感じます。而して、このように<派閥>に思い巡らせているとき、次のような報道を目にしました。


◎山岡氏、小沢氏に出馬要請へ=野田グループは首相再選支持―民主
民主党の山岡賢次副代表は17日午後、国会内で自身が主宰する勉強会の世話人会を開いた。出席者からは9月の党代表選について、小沢一郎前幹事長を念頭に菅直人首相の対抗馬を擁立すべきだとの意見が続出。山岡氏は記者団に「19日の鳩山由紀夫前首相グループの研修会後に世話人会を開き、具体的な候補者をまとめる」と述べ、小沢氏に出馬要請する意向を示した。・・・

一方、野田佳彦財務相を中心とするグループは17日夜、神奈川県小田原市内のホテルで研修会を開催。野田氏は「わたし自身は首相の続投が望ましいと思っている」と重ねて表明。グループとしても再選支持で一致した。・・・

今後、鳩山グループに加えて、旧民社党系や旧社会党系がそれぞれ会合を予定しており、代表選に向けて動きが激しさを増している。・・・
(時事通信:8月17日)  


自民党の党内グループは「派閥」であり否定されるべきだけれど、民主党内のグループは「派閥」ではない。と、そういうことなのでしょうか(笑)。蓋し、「派閥」とは何なのか。


◆派閥の弊害
自民党や民主党だけでなく、(左翼マニアや創価学会ウォッチャーの常識ですけれど)社民党、否、共産党や公明党の内部にも政策や政治手法、そして、人脈の違いに起因する「一定程度固定的な人間集団=党内グループ」は存在します。ことほど左様に、経済小説の類では「副社長派 vs 専務派」の派閥抗争は御馴染みの<ストーリーの舞台装置>でしょう。蓋し、「ある組織内の一定程度固定的な利害と主張を共にする人間集団」という意味での「派閥」の存在は特に政党に限られた現象ではないでしょう。

実際、オックスフォードやケンブリッジの教育と研究の根幹の単位たる個々のcollegeは(各専門領域の教育と研究をcollegeから請け負う「学科=department」とは異なり)、11世紀以来、ほぼ千年に亘って「教授と学生が形成してきた派閥」と捉えれば分かり易いですし、また、(当初は天台密教教義の解釈、そして、共に比叡山延暦寺システムのTopを務めた第三代天台座主円仁と第五代天台座主円珍のどちらの流れを自分が受けているかという法統の差異、その後、荘園等の利権争いに起因する)「比叡山延暦寺=山門」と「園城寺三井寺=寺門」の千年に及んだ抗争もまた典型的な「派閥間闘争」であったと思います。閑話休題。

では、それを批判してきたマスメディア内部にも確実に存在するであろう「派閥」を、政党、就中、自民党の派閥を、マスメディアはなぜかくも執拗に批判してきたのか。また、中曽根氏や中曽根氏をお神輿に担いだ自民党の「派閥横断」の中堅若手の参議院議員達はなぜ「脱派閥」を喧伝したのでしょうか。

派閥の弊害。普通、派閥の弊害としては①「適材適所の人事を妨げる」「政策よりも人間関係優位の党内政治力学の源泉である」が掲げられるようです。更に、②「少数者支配に道を開く」という派閥批判もあります。

畢竟、政権与党、すなわち、これまでの自民党の派閥が党と政府の人事を歪め、政策論議&イデオロギー論議を<不透明化=非争点化>させてきたこと、また、政府と世論を乖離させてきたということは、確かに、55年体制下、就中、「田中派-竹下派」支配の時代の現実でしょう。例えば、橋本龍太郎首相は、「派閥均衡型=年功序列型」でする組閣作業に興味が持てず、さりとて、自己の権力基盤たる派閥システムを否定するわけにも行かず、前後3回に及ぶ橋本内閣の組閣作業をほとんど自民党執行部に丸投げしていたという伝説が残っているくらいなのですから。

派閥はそのメンバーに資金・ポスト・選挙支援を与え、その対価として派閥のメンバーに党内外での派閥の影響力の維持拡大に貢献せしめる「自己組織化&自己目的化したシステム」であり、それは、政策とイデオロギーを中核として、世論を集約統合する<社会の公器=政治政党>の機能を著しく損なう政党政治の癌細胞である、と。では、「少数者支配」とは何か。

話を簡単にするために、定数500の一院制の議会を持つ国を考えましょう。例えば、その国の現在の与野党の議席がそれぞれ260と240とする。そして、与党内には2個の派閥があり、それぞれ、135、125のメンバーを擁しているとします。

而して、この場合、与党の最大派閥は議会の27%の勢力であるにもかかわらず政権を掌中にすることが可能なのです。蛇足ながら、この最大派閥が実は派閥領袖の直参旗本組とそれ以外の外様組に、これまた、70対65で分かれていると仮定すれば、この最大派閥内の主流派は実に議会全体の14%の勢力でこの国の政治を壟断することができるのです。    


かっての「田中派-竹下派」支配なるものの実体もこのようなものだったの、鴨。いずれにせよ、政党助成法(1994年)によって政党に公費が投入されるようになった現在、また、自民党が政権与党ではなくなった現在、すなわち、派閥が容喙できるポストが党内のポストに限定されている現在、自民党の派閥の弊害は極小化しており、むしろ、政権与党たる民主党内の派閥の弊害に我々は注目すべきでしょう。

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◆派閥の機能
元来、自民党の派閥は(現在の韓国の政党がその支持する候補を大統領にするために存続しており、大統領選挙の度に離合集散を繰り返しているように)、その派閥の領袖を総理総裁に担ぎ上げるための「期間限定の人的紐帯」にすぎませんでした。よって、佐藤栄作首相までの自民党の総理総裁は一旦自分が最高権力者のポジションに就いた段階では(党内の反抗勢力を弱体化させる狙いもあり)、むしろ、「派閥解消-党内党を廃しフラットな自民党組織の実現」を呼びかけてきたし、その派閥領袖が総理総裁を退陣した以降は、少なくない派閥は漸次解体していった。畢竟、派閥があたかもそれ自体が法人格を持つ企業のように、あるいは、国家のみならず陸軍自体をも機能不全に陥らしめた旧陸軍内部の派閥のように自己目的化して行くのは(不本意な首相退陣をバネに再度の首相就任の野望を燃やし続けた)田中角栄氏が田中派の膨張戦略に舵を取って以降のことと言えると思います。

而して、前項で述べたように、自民党の派閥は、()ポストと資金、および、選挙の支援をその構成メンバーに提供する、()「自己組織型-自己目的型」の組織内組織として<8・30=政権交代>を向かえた。けれども、自民党の派閥の弊害は(誰がどの大臣になっても実質何の違いも生起しないという)「予定調和の雰囲気が覆う泰平の世」でのみ成立可能な現象だったのではないでしょうか。蓋し、資金は政党助成金制度によって直接政党がそのメンバー提供するようになった現在、唯一残った派閥の機能としてのポスト配分も、政権交代が常態になった政界の状態では、「適材適所の原則」を大きく歪めることは、自民党であれ民主党であれ最早どの政権与党にとっても不可能であろう。ならば、()の基盤を漸次消失する派閥は()の機能もまた漸次低減させると私は思うのです。

この点、自民党の谷垣禎一総裁の次のコメントは示唆に富んでいると思います。

・今回の参院会長選では、2つに割れたことで党内にしこりが残るのではないでしょうか?
選挙をすればしこりが生じるかもしれないという懸念があって、しなければ昔からの派閥談合であるという疑念が出てくる。・・・

派閥の問題は、要するに「男子3日会わざれば刮目して見よ」と、・・・日々進歩、進化があるわけです。派閥とはよく言われますが、派閥は昔の派閥ならず。常に変転しているのではないのでしょうか。   



他方、派閥には政党政治をサポートする重要な機能がある。よって、派閥を単に「政党政治を歪める癌細胞」とばかりは言えないように私は思うのです。すなわち、

(甲)政党内の議論を活性化させる機能
(乙)政党内の議論を世に告知広報する機能
(丙)個々の議員の専門性を連結させ政党が集約する政策の整合性を高める機能
(丁)政権与党内では擬似政権交代を引き起こす機能   


最後の(丁)は「55年体制下では自民党内で、「リベラル→保守→リベラル・・・」の擬似政権交代が行なわれていた」としばしば人口に膾炙するポイントであり、特に説明の必要はないでしょう。また、(丙)のメリットも、田中角栄氏が田中派を「総合病院」「デパート」と自画自賛していたように、確かに、(行政権が肥大化する大衆民主主義社会では、政権与党は膨大かつ広範な行政領域に責任を負わなければならない以上、そして、一人の議員の専門性には自ずと限界がある以上)これまた否定できないのではないでしょうか。

蓋し、広範な領域の諸政策の統合作業や陳情への対処を200人から400人を超えるある政党の国会議員が、「議員集団全体=母屋となる政党一箇所」で行なうべきだというのは、悪しき直接民主主義の妄想に他ならない。蓋し、「母屋=政党」での意見統合や党としての陳情への対応方針決定の前に、より政策とイデオロギーが近い、気の置けない仲間内で論点整理と意見集約を行なうことは生産的でしょう。

而して、与野党を問わず派閥のメリットとして考えるべきは、(甲)(乙)の「党内民主制」と「政党と世論の連結」であろうと思います。畢竟、政党助成金を受けようが、政党は私的なものでもある点にその値打ちがある。蓋し、国家権力が独裁政党と一体化している社会主義国の硬直性と独善性は、旧ソ連や旧東欧諸国、そして、現在も支那や北朝鮮で観察できること。蓋し、究極的には私的な政治政党が<世論の支持=公権力>の獲得を巡りその政策とイデオロギーを切磋琢磨しあうことこそ政党政治の醍醐であり、派閥はそのような良き政党政治が機能するための欠くべからざるツールなのではないか。そして、党内民主主義の活性化は「最大派閥の少数者支配」をも漸次不可能にするだろう。ならば、自民党はこれからこそ派閥を活性化させるべきである。と、そう私は考えています。

政権交代が常態の時代、
予定調和の時代に惰眠と貪欲を貪った派閥は消えよ!
党内民主主義を活性化させる派閥は生きよ!   


尚、本稿の理論的前提である「政党政治における政治政党の意義」については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・「ねじれ国会」の憲法論と政治論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59802541.html

・政党政治が機能するための共通の前提
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59582134.html





(2010年8月19日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 自民党
ジャンル : 政治・経済




2010年7月11日の参議院選挙の結果、日本の政界は、再度、衆参の両院で多数派が異なる所謂「ねじれ国会」状態に入りました。識者の中には、(3年後の参議院選挙でも、否、おそらく衆参同時選挙でも民主党も自民党も参議院で単独過半数を占めることは難しいのだから)これで今後少なくとも6年間は抜本的な「ねじれ国会」の解消は難しく、アメリカの凋落と支那の台頭、EUの失速と非国家のテロネットワークの跋扈、資源争奪と地球環境問題の先鋭化等々、世界が流動化している現下の激動の時代に日本の政治は安定性を欠いたまま更に漂流を続けることになると危惧する声も少なくないようです。

しかし、「ねじれ国会」自体は必ずしも悲観するだけのものではないでしょう。而して、もし現下の日本の「ねじれ国会」なるものに問題があるとすれば、それは憲政のマナーと現行憲法の規範内容を理解できなかった野党時代の民主党の不埒な<前例>に起因するのではないか。と、そう私は考えています。本稿は、「ねじれ国会」を巡る憲法論を前哨にして、「ねじれ国会」を政治的にはどう捉えればよいのか。また、今後6年間続くかもしれない「ねじれ国会」時代に自民党はいかなる方針で臨むべきなのか。このことを「政治政党」を導きの糸として考究するものです。


◆ねじれ国会は異常か
周知の通り、消費税導入の信任投票と位置づけられる1989年の参院選での自民党の地滑り的敗北(改選71議席→当選36議席)以降、2010年の現在に至るまで20年余、与党第一党(自民党・民主党)は一度も参議院で単独過半数を回復したことはありません。蓋し、この20年間は「ねじれ国会=日本の政治の常態」とさえ言えるのです。畢竟、「冷戦構造の崩壊-社会主義に対する資本主義の勝利」が歴史的に確定した、1989年-1991年のとば口で、実は、日本の政治はイデオロギーを巡るイシューが政治の重要な争点ではなくなる(よって、経済財政政策・産業政策・福祉政策・文教政策等々の個別の行政サービスの領域におけるWhat toとHow toが最重要の争点になる)<脱冷戦構造モデル>に移行し始めたということなの、鴨。

而して、キルヒマンの所謂「包括政党」(①肥大化した行政権がカバーするすべての行政サービスの領域に対して責任を負う、よって、②国民の可能な限りの多数の支持を獲得すべく左右両翼の有権者の利害関心を可能な限りその政策に取り込もうとする、③政権を担う野心と覚悟のある政党)に自民党も民主党も、否、(政権を目指さない政党なるものは「鼠を取らない猫」「ゴールを狙わないFW」であるのと同様)多くの泡沫政党もこの20年の間に漸次変化したのだと思います。畢竟、政党間の政策の違いもまた漸次縮小したということ。よって、ねじれ国会体制においても、実は、日本の政治はそれなりに連立政権という形態で機能する条件は備えているということです。

蓋し、1993年の8党・会派による細川連立政権の誕生、その後の、自社・自自公・自公連立政権の成立、(民主党を仲立ちにしていたとはいえ)社民党と国民新党の連立政権が存立したことを考えればこの理解は満更我田引水の類ではないのではないでしょうか。いつの世も権力亡者は少なくないとしても、<脱冷戦構造モデル>への移行前には、そのような<野合的連立政権>を各政党の支持者も許さなかっただろうし、また、連立政権の政策協議も困難だっただろうからです。尚、グローバル化、大衆民主主義化、福祉国家における行政権の肥大化にともなう政権党の「包括政党」化については下記拙稿をご参照いただければと思います。

・自民党<非勝利>の構図(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59722931.html


◆憲法から見たねじれ国会
現行憲法からはねじれ国会はどう理解されるのか。蓋し、両院制を採用する現行憲法はねじれ国会を想定している、と。結論から言えばそう言えると思います。畢竟、「国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する」(42条)、「何人も、同時に両議院の議員たることはできない」(48条)、「法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる」(59条1項)の諸規定を見れば、(あくまで論理的な確率にすぎませんが)4分の2の確率でねじれ国会は生起することになるのですから。実際、「与党勝利=野党敗北」を◎、「与党敗北=野党勝利」を×で表すと次通り。

衆 参
院 院
― ―
◎ ◎
◎ × ←ねじれ国会
× ◎ ←ねじれ国会
× ×


尚、繰り返しになりますがこれはあくまでも「論理的確率」であり、例えば、「月に兎が住んでいる確率」は「住んでいる/住んでいないの」どちらかだから二分の1、他方、「火星に蛸が住んでいる確率」も同様に二分の1、よって、「月に兎が住んでいる」かもしくは「火星に蛸が住んでいる」確率は(確率の和により)1=100%とかの議論は大人が真面目に取り扱うものではないのと同様、このような「論理的確率」は憲法解釈においてはそう意味のあるものではありません。閑話休題。


而して、確かに、現行憲法は衆参の両議院の権限に優劣の差のある所謂「跛行的両院制」を採用しているものの(具体的には「三分の2以上の多数による衆議院の法律案の再可決権」(59条2項)、「予算の先議権」(60条1項)、「予算と条約、および、内閣総理大臣の指名に関する衆議院の議決の優位」(60条2項・61条・67条2項)等々の衆議院の優越は見られるものの)、予算と条約を除くすべての立法と政府与党が任命する日銀総裁等の国会同意人事の議決に関して衆参両院はほぼ同一の権限を持っている。ならば、ねじれ国会を想定している現行憲法は、憲法の事物の本性から見て、すなわち、(イ)国家意志の統合、(ロ)国民の社会統合という憲法の最重要の機能に関して、ねじれ国会の惹起によってもそれら(イ)(ロ)が機能不全に陥ることのない規範内容を具備していると解するべきだ、と。そう私は考えます。

蓋し、国会法・衆議院規則・参議院規則、国会運営に関する憲法慣習の解釈においては(上記、59条2項、60条1項、60条2項・61条・67条2項等々の条項は「例示規定」として捉え、かつ、内閣総理大臣を単独で指名可能(67条2項)であり、また、内閣不信任案を単独で可決可能で、他方、内閣総理大臣から解散され得る(69条)、要は、参議院よりもより強い政治的責任を憲法上負っている)衆議院の優位の観点からねじれ国会が惹起しかねない(イ)(ロ)を巡る不備を軽減除去する線で憲法は解釈されるべきではないでしょうか。

而して、私は少なくとも次の2点は、自民党がもし早期の政権奪還とその後の保守改革派による半永久政権の樹立を狙うのならば、それが野党であるこの機会をむしろ好機と捉え、与党と協力して実定的な憲法慣習として確立すべきであろう。それが、「政策よりも政局」「国益より派閥の利益」を旗印に憲政のマナーと現行憲法の規範内容を蹂躙して憚らなかった小澤民主党の悪しき前例を修正して日本の政治を世界水準の政党政治に引き上げる道ではないか。と、そう私は考えます。蓋し、この機会に立法もしくは実定的な憲法慣習として確立すべきは、

(甲)予算関連法案の衆議院単独可決制度
(乙)国会同意人事の衆議院単独可決制度


現行憲法が予算に関して衆議院が単独で可決可能な制度を導入していることを鑑みれば、それらが国会を通過しない限り予算の執行が不可能なタイプの予算関連法案もまた憲法60条2項「予算について、参議院で衆議院と異なった議決をした場合には、・・・衆議院の議決を国会の議決とする」に定める「予算」に含まれると「予算」を広義に理解すべきということ。

また、国務大臣でさえ内閣総理大臣が単独で指名できる(68条1項前段)に係わらず(日銀総裁や人事院総裁の如く、いかに時の政府からの一定程度の独立性が求められるポジションも少なくないとはいえ)広い意味の行政権の運用を担う機関の長の任命に関して(再度記しますが、内閣総理大臣を不信任することもできず、他方、内閣総理大臣によって解散されることもない、よって、国民に対する政治的責任を内閣と共有する度合の低い)参議院が「拒否権」を持つ事態は、(イ)国家意志の統合、ひいては、(ロ)国民の社会統合という憲法機能の事物の本性から見て許されないと思うのです。

畢竟、自民党には、(もちろん、これら予算関連法案と国会同意人事を巡り小澤民主党に翻弄され恨み骨髄であろうとも)「江戸の仇を長崎で」などと、それこそ民主党の如きさもしいことは考えず、政権奪還後と保守改革派の半永久政権樹立後の政権運営を睨み綺麗事抜きに「肉を切らせて骨を斬る。骨を斬らせて命を断つ」くらいの構想力と覚悟で(甲)(乙)の憲法慣習化もしくは立法化に向かうべきなのではないか。そう私は考えています。


◆政治政党とねじれ国会
ねじれ国会なるものは存在しない。「ちゃぶ台をひっくり返す」ような物言いですが、この「ねじれ国会不成立論」とも言うべき主張もあながち荒唐無稽なものではありません。現行憲法43条1項に曰く 「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを構成する」、と。ならば、すべての議員が全国民の代表である以上、元来「ねじれ」なるものは存在しない、と。すなわち、「ねじれ」なるものが存在し得るのは、①一定程度固定的な特定の綱領と政策を掲げる、②その所属議員に対して(もちろん、離党の自由はあるにしても)一定程度強力な党議拘束力を帯びる、③政治政党を前提にする場合に限られるでしょう。

トリーペルの古典的な政党理解に従えば、政党と国家権力の関係は歴史的に、()敵視、()無視、()法制化、()憲法的編入の四段階を経てきたとされます。而して、公職選挙法、あるいは、現行憲法と同時に施行された国会法は「会派=政党」を前提にしていること。トリーペルの所謂「憲法的編入」の「憲法」を憲法慣習をも含む広義に捉えるとき、我が国では原敬内閣(1918年)以前の20世紀初葉以来、ほぼ一貫して政党政治が機能してきたこと。これらを鑑みれば、現行憲法は政党について()憲法的編入の段階か、少なくとも、()法制化と()憲法的編入の過渡期にあると言えると思います。ならば、憲法43条1項「両議院は、全国民を代表する議員でこれを構成する」の規定をもってしても、やはり、ねじれ国会は生じうるし、ねじれ国会を制御すべき現行憲法の規範意味はこの43条1項と政党制の矛盾をより低減する線で見出されなければならないのだと思います。

畢竟、両院でともに絶対多数を擁する政府与党といえども、所詮それは「国民=有権者」の部分(part)の利益代表にすぎません。而して、(それがいかに圧倒的多数派とはいえ)国民の部分の代表にすぎない政府与党の立法や行政に「野党=少数派」もまた従うべきだと語るロジックは、一重に、①イデオロギー的に共約不可能な意見の対立が少なくとも現実の政策イシューに関しては存在しないこと、②十全なる情報が与えられる中、議論と説得の営みを通し選挙によって今日の少数派が明日の多数派になりうる可能性が存在すること、また、③国会の審議においても十全なる議論が行なわれ、その帰趨と世論の動向によっては与党が譲歩・妥協する慣行が存在し、少なくとも、次の選挙の際の投票行動決定の資料が国会審議を通して「国民=有権者」に与えられること。これらが「野党=少数派」に遵法を説くロジックが機能する条件であろうと思います。尚、この点に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・政治主導の意味と限界
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59541636.html

而して、現行憲法がねじれ国会を惹起する政党政治をも予想していると考えるとき、ねじれ国会の弊害を軽減させ、「全国民を代表しているべき議員による立法」という(少数派をも納得せしめる)<政治的神話=法の正当性の源泉>を補強するためには現行憲法の規範内容には次の2点もまた含まれていると解すべきはないでしょうか。すなわち、

(丙)国会での十全なる審議を経ない議決の無効
(丁)政策・立法を巡る政党内の議論の公開性と党内民主制が担保されていない政府与党の法案の無効


蓋し、(そこで見られる比較的緩やかな党議拘束のあり方は、大統領制ではなく議院内閣制を採用する我が国にはそのまま導入できないとしても)アメリカの共和・民主の両党の党内における自由闊達な議論とその公開の実際を見るにつけ、我が国の政党、就中、田中派-竹下派支配の亡霊がいまだにそれを覆っているとしか見えない民主党の非民主性と反憲法性は打破されなければならない。と、そう私は考えています。





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テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済

nagasakiatomicbomb

今年、2010年8月6日、廣島の「平和祈念式典」に始めて米英仏の政府代表が出席しました。これに対して、これら核保有国の代表が式典に参列したことは、核兵器廃絶を訴えてきた<廣島の声>が世界に浸透してきたことの証左だと評価する意見がある一方、駐日米国大使には是非とも原爆投下に対する謝罪を口にして欲しかったという声もあるとか。蓋し、馬鹿げたことです。畢竟、アメリカの考える「核なき世界」なるものと<廣島の声>なるものは全くの別物である。本稿ではこのことを「戦争体験」という言葉を<補助線>にして考えてみたいと思います。

確かに、2009年4月5日のプラハ、アメリカのオバマ大統領は「核なき世界」の実現を世界に向かって呼びかけました。重要なことは、


(イ)オバマ政権が今年4月6日に発表した『核体制見直しのための報告書(NPR):Nuclear Posture Review』でも「核不拡散条約(NPT)の加盟国であり、かつ、NPT加盟国に課されている核不拡散の義務を承諾している国以外に対する(それが核保有国であろうとなかろうと)核兵器の先制使用」をアメリカは躊躇しないと明言していること。

(ロ)今年の2月1日に発表された「2011年度予算教書:会計年度=2010年10月~2011年9月」では、核兵器の削減と同時に、核兵器と核兵器運用設備の近代化、すなわち、核兵器使用の利便性の向上が謳われていること。つまり、核兵器削減は核兵器の近代化の裏面に他ならないこと。

(ハ)米国民の6割は「廣島・長崎への原爆投下は正しい判断だった」と考えていること。例えば、2009年8月4日にアメリカのキニピアック大学(Quinnipiac University)が発表した世論調査では61%、今年8月8日~9日に米世論調査会社ラスムセンが実施した調査では、59%の米国民が「原爆投下は良い決断だった」と考えているのです。蓋し、オバマ大統領といえども、「原爆投下によって日本の降服が早まり、連合国軍人のみならずより多くの日本人の命が救われた」とする米国社会マジョリティーの認識の枠内でしか「核なき世界」なるものへの道を構想することはできないのです。   


つまり、オバマ大統領の目指す「核なき世界」とは、核不拡散条約体制の原点への回帰に過ぎず、(潜在的核保有国であるイスラエルを含め)パキスタン・インド、そして、イラン・北朝鮮の核武装化によって空洞化しているNPT体制の再構築を大きく超えるものではないのです。

而して、そのオバマ大統領の<夢>さえ、米国民のマジョリティーからは全く相手にされていない。このことは、例えば、1995年、(廣島に原爆を投下した)エノラ・ゲイの機体の部分展示に併せて企画されたスミソニアン博物館の原爆展が世論の猛反発を受け中止に追い込まれ当時の館長が辞任に追い込まれたことを想起すれば誰しも思い半ばに過ぎるのではないでしょうか。実際、「廣島・長崎への原爆投下は間違いだった」と考える、よって、米国社会では誰からも相手にされていないある極左の論者は「オバマ政権とブッシュ前政権の軍事・外交政策の間には本質的な違いは存在していない」(Peter Kuznic アメリカン大学核問題研究所所長:『週刊金曜日』2010年8月6日号 p.27)と断言しています。


国際司法裁判所(ICJ)は1996年、「核兵器の使用は国際法違反」という勧告的意見を出しました。確かに(これが法的拘束力のない国際司法裁判所の「呟き」であることは置いておくとしても)、「文民=非戦闘員」と「軍人=戦闘員」の区別なく行なわれる無差別爆撃が国際法的に取りあえずは(違法性を阻却する事由が存在しないならば)違法であることは、「交戦者の定義と権利義務」を定めたハーグ陸戦条約、および、「戦時における文民の保護」を定めたジュネーブ諸条約第四条約、そして、現在は失効していますが空爆禁止宣言や結局未発効に終わった空戦に関する規則案を紐解くまでもなく自明でしょう。ならば、そもそも「民間人の大量殺傷」をその兵器の機能の本性とする(兵器の使用によってその結果が不可避的に惹起する)核兵器の使用も取りあえずは違法と言える。

けれども、例えば、空戦に関する規則案では、その22条で「非戦闘員等に対する爆撃の禁止」が謳われているものの、同じく24条では「敵兵力が強大であり、敵民間人を危険にさらしてもやむを得ない合理的な理由があれば、無差別爆撃も許される」と定められている等々、現代の総力戦においては、戦争勝利と自国により有利な戦後処理のためにそれが必要であると合理的に認められる限り、民間人に対する無差別爆撃、そして、核兵器の使用も国際法的に合法になる。重要なことはその必要性や合理性の有無を判断するのは、原則、戦争当事国、もっと率直に言えば戦争の勝者ということ。蓋し、将来行なわれるアメリカの核兵器使用の是非に国際司法裁判所が容喙することなどできるはずもないのです。

畢竟、世界における、少なくとも、アメリカにおける「核なき世界」とは、NPT体制の再構築以上でも以下でもない。ならば、それは「核兵器=not 必要悪 but 絶対悪」というアプリオリな思い込みの上に立つ<廣島の声=一切の核兵器の即時廃絶>とは似て非なるもの、否、全くの別物である。蓋し、「核なき世界」に関して日本と世界とは同床異夢の関係にある。よって、(被爆者への哀悼と憐憫の情を示すことはあるとしても)廣島・長崎に対する原爆投下を駐日米国大使が謝罪するなどは期待する方が間違っているのです。



◆「核なき世界」を巡る同床異夢と「戦争体験」

同床異夢はなぜ惹起したのか。別の視点から言えば、「核兵器=絶対悪」という妄想、あるいは、「被爆者を追悼する廣島と長崎の式典に出席する者は<廣島の声>に共感し、一切の核兵器の即時廃絶に同意しているはずだ」という傲岸不遜な思い込みはなぜかくも広範にこの国で流布するようになったのか。蓋し、それらの現象は、「戦争体験」というこれまた極めて空疎な言辞がこの社会で流布している現象と通底している。私はそう考えています。

いずれにせよ、私は「戦争体験」という言辞に些か違和を覚える。すなわち、

(甲)「戦争体験」は空疎な言辞

「戦争体験」なるものは「空襲体験」「疎開体験」「徴兵体験」「部隊内での虐め体験」「戦闘体験」「占領地での軍政体験」「戦友の埋葬体験」「飢えとマラリア体験」「捕虜体験」「引き上げ体験」等々の個別の体験やそれらの束にすぎず、例えば、「勤労体験」や「体験学習」という言葉で示唆される「チームの一員としてする労働」や「実地訓練を通して学習されるべきsomething」を「戦争体験」の「戦争」は持っていない。要は、「戦争体験」は指示対象を欠く無意味な言葉なのではないでしょうか。

(乙)「戦争体験」を巡る言語行為は不健康
「戦争体験」を巡ってそこで語られ聞かれる<体験>は、悲惨・残酷、不条理・非合理、不正義で人倫に悖る諸々の体験に限定される節がある。就中、「戦前の日本=絶対悪」「戦争は二度としてはならない」という主張と親和性のある<ネガティブな体験>が喜ばれるの、鴨。

(丙)「戦争体験」を巡る言語行為を操る論者の態度は独善的
現在のこの社会には「戦争体験」なるものに誰しも関心を持つべきだという雰囲気が漂っているように思います。誰もが(「戦前の日本=絶対悪」「戦争は二度としてはならない」という世界観と親和性の高い、悲惨で残酷で人倫に悖る)「戦争体験」なるものに関心を持ち、平和を願い、二度と日本が戦争をすることがないように国民各自が国家権力を監視していかねばならない、と。    

上記(甲)の「戦争体験」という言葉の空虚さについては説明の必要はないでしょう。而して、「戦争体験」自体は世界的に見ればそう特殊な体験ではないこと、そして、(丙)「戦争体験」なるものを語る論者の独善性については下記拙稿をご一読いただきたいと思います。以下(乙)の敷衍。蓋し、現在のこの社会で人口に膾炙している、就中、マスメディアの報道の中で俎上に載せられる「戦争体験」なるものは不健康で片手落ちのものではないか。

・退屈な戦争体験
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11142107293.html


「戦争体験」を巡る言語行為は不健康。蓋し、

①占領地で素晴らしい軍政を敷き現地の人々に喜ばれたとか、②高額の手当てでお金持ちになった所謂「従軍慰安婦」の方に借金してしまい立場が弱くなったけれど、それからも彼女のサービスのクオリティーが落ちることはなく「売春婦とはいえ流石プロの仕事振りは立派なものだ」と感銘を受けたとか、あるいは、③日本の敗色が濃厚になる中、大隊規模ではあるけれど乾坤一擲の作戦が図に当たり勝利を収め、後々、捕虜収容所でも「貴官があのときの指揮官ですか。敵ながらあれは見事な作戦でした」と米軍の将兵からも尊敬を受けたとか、④都会育ちの子が新潟の山村に疎開し、生まれて始めて農作業を体験して楽しかった等々  


「戦前の日本=誇りうる母国」という主張に通底する、愉快・合理的・人倫にかなった<ポジティブな体験>は「戦争体験」から排除されているように感じるのです。

大東亜戦争に日本が敗れた以上、もちろん、「戦争体験」なるものには悲惨で人倫に悖る事柄も沢山あるでしょう。また、ある論者が「戦前の日本=絶対悪」「戦争は二度としてはならない」と思うのは論者の勝手でもある。けれども、彼等の世界観や彼等が好ましいと感じる<ネガティブな体験>だけが「戦争体験」ではないことも明らか。ならば、もし、彼等が「戦争体験」という言葉で「戦前の日本=誇りうる母国」「国を守るためにそれが必要ならば戦争を日本は躊躇すべきではない」という世界観と親しい<ポジティブな体験>を排除できると考えているとすれば、その論者の態度は独善的であり、その言語行為は不健康なものであろうと思います。而して、「戦争体験」を巡るそのような独善的態度は<廣島の声>と共鳴しているのではないでしょうか。

蓋し、<廣島の声>とは、「戦争は二度と起こしてはならない」という論者の思い込みを赤の他人も無条件に受け入れるべきだとする傲岸不遜な態度の発露であろうと思います。而して、それは、(領土や国民の生存権を巡る紛争という)あるタイプの国際紛争に関しては現在でも最も効率の良い、否、唯一の紛争解決手段である戦争のポジティブな側面を看過する不健康で空疎な言語行為を身に纏った主張にすぎない。1945年8月9日、満州では怒涛の如きソ連軍が日本の民間人に襲い掛かった日、有明海を隔てて長崎原爆のキノコ雲を見た母を持つ私は、また、廣島の平和記念資料館を訪れる度に「唯一の被爆国たる日本は世界で最も核武装する権利が、少なくとも、道義的権利がある」と確信する私はそう考えます。

尚、戦争のポジティブな側面と日本の核武装に関する私の基本的な考えについては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・妄想平和主義の基底☆戦争は人為か自然か?
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c187dd58fb5747c0f767685c241e0f2b
 
・「佐藤首相は米国に対支那核攻撃の準備を要請」
 ☆核兵器の物神性から自己を解放して日本は可及的速やかに核武装に着手せよ
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/ea1566cafe61a2a162194a06568ee847

・「二重被爆が示すむごさ-広島と長崎」☆逆立ちした反核運動を教唆する朝日新聞社説
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-18.html

 





(2010年8月15日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済




昨年12月、京都市の管理する公園を不法に占拠している朝鮮学校に対する在日特権を許さない市民の会(在特会)が行なった抗議行動に関して在特会のメンバー4名が逮捕されました。本稿は、「①公園の不法占拠→②抗議行動→③威力業務妨害罪での逮捕」というこの一連の事象を憲法を<補助線>にして考えた覚書です。


まずは事実の確認。朝日新聞と読売新聞はこう報じています。


◎在特会幹部ら4人逮捕  京都府警、朝鮮学校の授業妨害容疑

京都朝鮮第一初級学校(京都市南区)の前で、「日本から出て行け」などと拡声機で叫んで授業を妨害するなどしたとして、京都府警は、在日特権を許さない市民の会(在特会、本部・東京)の幹部ら数人から、威力業務妨害などの疑いで近く事情聴取する方針を固めた。

捜査関係者によると、在特会幹部らメンバー約10人は昨年12月4日昼、京都朝鮮学校の周辺で一時間近くにわたり拡声機を使って「日本人を拉致した朝鮮総連傘下」「北朝鮮のスパイ養成所」「日本から出て行け。スパイの子ども」などと怒鳴り、授業を妨害した疑いなどが持たれている。

在特会のホームページによると、在特会は、京都朝鮮学校が、隣接する児童公園に朝礼台やスピーカー、サッカーゴールを無断で設置して「不法占拠」をしていると主張。これらを撤去したうえで街宣活動をしたとしている。(中略)

京都市などによると、京都朝鮮学校は約50年前から、市が管理する児童公園を運動場代わりに使用。市は昨春以降、許可を得ていないとして撤去を求めてきた。府警は、学校側関係者についても、都市公園法違反容疑で立件するかどうか検討するとみられる。

昨年12月の街宣活動に参加した在特会メンバーの一人は、朝日新聞の取材に「公園の無断使用は許されない。自分たちはマイク一つで、ぎりぎりの範囲でやってきた」と話している。

(2010年8月10日 朝日新聞)



◎「在特会」幹部ら逮捕
 
京都朝鮮第一初級学校の授業を妨害したなどとして、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)メンバーら4人が逮捕された10日、同校側の弁護団が京都市内で記者会見。児童らの目前で繰り返された差別的な発言について、「表現の自由を隠れみのにした犯罪行為」と指摘し、改めて在特会の活動に怒りと警戒感をあらわにした。

逮捕容疑となった街宣活動があった昨年12月4日の昼過ぎ。同校によると、校内には1~6年の約90人に加え、ほかの三つの朝鮮初級学校の児童らも訪れ、交流会を楽しんでいた。

メンバーらは同校の前で約1時間にわたり、「スパイの子ども」「日本からたたき出せ」などと拡声機でどなり続け、怖がって泣き出す児童もいた。翌日には「学校に行きたくない」と、腹痛を訴える子もいた。(後略)

(2010年8月11日 読売新聞)
    



而して、12月4日の当該の街宣活動の模様はこんな感じ。




結論から先に述べておきます。京都朝鮮学校抗議事件を巡る私の基本的な考えは次の通り。尚、在特会の主張と「在日特権」という言葉の意味に関しては下記URLをご参照ください。

・在特会
 http://www.zaitokukai.info/


(甲)在特会の基本的な主張は正しい

在特会の基本的な主張、すなわち、「在日特権に断固反対」「在日問題を次の世代に引き継がせ(てはなら)ない」(在特会『7つの約束』参照)という主張に私は全面的に同意します。

(乙)<12・4>の抗議行動は合法かつ正当

当該の抗議行動で、()在特会メンバーが行使した表現の自由は憲法論的にも最も手厚く保護されるべきタイプの「政治的表現の自由」であったこと、また、()朝鮮学校側撮影の動画を見てもそれは相手に生命・身体の危険を感じさせるものではなくまずは穏当な抗議、他方、()50年に亘り公共施設を不当に占拠してきた朝鮮学校側の違法性の大きさと悪質さを鑑みれば、日本国民が朝鮮学校に対して抗議行動を起こすことは当然のこと。畢竟、在特会メンバー4名の逮捕は「不当逮捕」以外の何ものでもないと思います。

(丙)<12・4>の抗議行動は「利敵行為」である

当該の抗議行動で在特会のメンバーが使用している言辞は品性下劣。蓋し、(甲)いかにその主張に正当性があり、かつ、(乙)その「表現行為=街宣活動」が合法で正当なものとしても、その「授業妨害=街宣活動」は、保守系市民の共感を広く勝ち取ることのできるようなものではないでしょう。而して、在特会の街宣活動は、例えば、外国人地方参政権付与の是非、所謂「高校無償化」に基づく朝鮮人学校に対する公的支援の是非を争点にした政治プロセスにおいて、それらに反対する側の主張全体を胡散臭く感じさせる。畢竟、それは正に<利敵行為>と断ずべきものである。在特会メンバーとその支持者には猛省を促したいと思います。

(丁)法廷を「在日特権の暴露と糾弾」の舞台に!

今回の逮捕は、「左翼の常套手段=法廷闘争」の機会を八百万の神々から与えられたもの。そうポジティブに考えるべきではないでしょうか。そして、在日特権を巡る日本国民の憤りは、単に、朝鮮学校や朝鮮総連のみならず、「触らぬ神に祟りなし」とばかりに見て見ぬ振りを決め込んできた京都市・京都府、旧自治省・総務省、国税庁、外務省等々の日本の腐りきった官公庁にも向けられるべきでしょう。ならば、これら諸々の行政庁のこれまでの不埒なサボタージュ振りを世間にアピールするについても「司法=法廷」という舞台は最適、鴨。裁判闘争が楽しみです。   


◆在特会の行動の合法性と正当性

上で述べた(丁)「法廷=街宣活動の舞台」については特に説明の必要はないと思います。また、(丙)「在特会=利敵行為の常習犯」という認識については、下記拙稿をご参照いただければ大凡私の真意はご理解いだけるのではないか。いずれにせよ、「日本からたたき出せ」と街宣メンバーがコールした段階で政治的には負け、すなわち、(少なくともこの件に関しては)世論の支持は在特会から離れた。と、そう私は考えています。

・世論に「外国人選挙権反対派=外国人排斥派」の印象を与える右翼分子は民主党の<別働隊>である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59238436.html

敷衍すべきは(甲)と(乙)。蓋し、本ブログのスタンスが在特会の基本的主張と親和性があることについては下記拙稿をご参照いただければと思います。ただ、大急ぎで一点付け加えるべきは、私は在特会の多くのメンバーや支持者とは違い「朝鮮人を日本からたたき出せ」などとは毫も考えないということです。否、それは憲法論的には不可能でさえある。

・朝日新聞の「朝鮮学校」援護社説
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59313744.html


日本が批准している「国際人権規約B規約」(1979年批准・発効)の13条前段「合法的にこの規約の締結国の領内にいる外国人は、法律に基づいた決定によってのみ当該領域から追放することができる」を紐解くまでもなく、また、現行憲法98条2項「日本国が締結した条約及び確立された国際法規(=慣習国際法)は、これを誠実に遵守することを必要とする」を想起するまでもなく、現在の人権規約B規約の「運用慣習=国際法規」からは、その外国人が(たとえ彼や彼女が不法入国者であったとしても、一度、合法的な滞在者となった場合)、(a)生活の主な拠点を日本においており、(b)その家族もまた日本で生活していて、かつ、(c)その当該外国人が日本国の安全と安寧を脅かす反日活動に従事しているのでもない限り、彼等を追放しようとする「法律に基づいた決定」は(一般的には、主権国家の裁量権を逸脱する国際法違反の決定であり、個別日本においては)現行憲法の保障する基本的人権を侵害する違憲な決定なのです。ならば、一般論として「朝鮮人を日本からたたき出す」ことは、現行憲法下においては、否、旧憲法下であろうが現下の「国際法規=慣習国際法」を与件とする限り我が国の政治プロセスの中では実現不可能なのです。

蓋し、「朝鮮人を日本からたたき出す」ことは一般論としては不可能。けれど、


(イ)それは個別の在日朝鮮人の追放が憲法的に不可能なことを意味しない。要は、その当該の在日朝鮮人が上に記した(a)~(c)のいずれかの条件を欠いている場合(就中、拉致に関わっている、あるいは、北朝鮮ロビーとして違法な手法で日本の政治プロセスに容喙している等々の場合)、彼や彼女を国外追放することは憲法的にも国際法的にも毫も問題はない。   


加えて、確かに「朝鮮人を日本からたたき出す」ことは一般論としては不可能。けれども、

(ロ)それは「在日特権」がすべて正当なものであるとか、まして、「在日特権」の縮小・廃止が不可能なことを意味してもいません。就中、(法的な根拠のある)「特別永住権制度」も含め「合法的な在日特権」の修正や廃止は一重に立法政策の問題であり、憲法がそれらを保障しているわけではない。すなわち、その修正や廃止は政治プロセスの中で解決されるべき問題なのです(だからこそ、在特会の利敵行為は保守系市民から激しく糾弾されてしかるべきと考えます)。まして況や、公的施設の不法占拠や不当な排他的利用、課税免除や減免といった法的根拠を欠く「違法な在日特権」は、むしろ、憲法を頂点とする法体系全体の整合性維持の必要を鑑みれば一刻も早く是正されなければならないのです。   


ことほど左様に、「在日朝鮮人を十把一絡げに「スパイは国に帰れ!」と糾弾すること」は<ヘイト・クライム>タイプの表現行為であり、(繰り返しになりますが、その表現行為が「合憲-合法」としても)少なくとも、世論の共感を得る上では政治的に得策ではないと考えます。他方、「特定の公園を不法占拠している当事者に対する「在日朝鮮人による公園の不法占拠を許さないぞ!」という抗議」は憲法的にも政治的にも正当なものであり、残る課題は政治プロセスにおける「パフォーマンスの度合=世論の支持獲得のパフォーマンス」、すなわち、表現行為の品格に収斂する。蓋し、この点に留意して全体的に見れば、<12・4>における在特会の抗議行動は(「表現の品性=政治的効果」の問題はあるものの)法的には妥当なものであったと思います。


而して、表現の自由の制約の許容限度の裏面として刑法の犯罪成立要件論から<検算>してみた見た場合、京都朝鮮学校抗議事件における在特会の街宣活動は威力業務妨害罪の構成要件該当性がないか、あったとしても、その違法性の度合は可罰的違法性の高見には達していないと言うべきだと思います。実際、朝鮮学校側の動画を見ても、1時間足らずの、しかも、マイク1本の街宣活動で授業ができなかったなどは噴飯ものの言草でしょう。

加えて、朝鮮学校側による50年にも及ぶ公園の不法占拠の事実が「現在進行形」で続いていた以上、それに抗議するのは日本国民の<公民としての義務>でさえある。すなわち、件の街宣活動は違法性を阻却されるべき正当行為とも言えるかもしれません。ならば、(街宣活動が利敵行為にならないようにする配慮と訓練は、今後、不可欠としても)不当逮捕に抗しつつ、これからの法廷闘争を街宣活動の一環として利用するに如かず。と、そう私は考えています。





(2010年8月13日:yahoo版にアップロード)

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