小室直樹さんが亡くなられたとのこと。結構その著作を読んできた者としては少し寂しい気持ちになりました。ということで、この機会に<小室直樹>という表象を契機に私の心に紡ぎ出された諸々の事柄を書いておく。本稿はそんな「随想」にすぎません。

一面識もなかったけれど、私は世の読者を二つに分ければ間違いなく小室直樹ファンに属しており、そして、おそらく四つに分けても一番上に属する小室ファンだと思います。ただ、私は、小室さんの<弟子>の副島隆彦氏や宮台真司氏を全く評価しておらず、小室さんご自身についても「好きではある」が、なにがしかの「胡散臭さ」を感じないではありませんでした。

小室さんに感じていた一種の胡散臭さ。これは、例えば、「小室さんの出世作の一つと言われる『危機の構造-日本社会崩壊のモデル』(1976年;中公文庫版・1991年)は、その後、研究者や政治家としてそこそこ有名になられたある女性のゴーストライターが書いた」という、四ツ谷は上智大学界隈ではそこそこ有名な<都市伝説>を耳にしてきたこと、他方、私の(強いて言えば、「表芸」である)憲法や法哲学に関する小室さんの理解の水準がお世辞にもそう高いとは言えないこと。これらを鑑みるならば、全く理由がないわけでもない。だから、<弟子>のお一人で、些かご縁のあった橋爪大三郎さんから<師>の力量や人となりを伺っているのでなければ、私にとって小室さんは、結局、<好きなBGM>程度の存在でしかなかった、鴨。

まずは訃報の転記。

◎<訃報>小室直樹さん77歳=評論家、「アメリカの逆襲」

政治学や社会学など、幅広い学問領域をカバーした評論家の小室直樹さんが4日午前1時3分、心不全のため東京都内の病院で死去したと、東京工業大世界文明センターが28日に発表した。77歳。葬儀は近親者で済ませた。小室さんが特任教授を務めていた同センターは業績を記念したシンポジウムを後日開く。

東京都生まれ。京都大で数学を学んだが、経済学に興味を持ち、大阪大大学院へ。フルブライト留学生として米マサチューセッツ工科大、ハーバード大などでも学んだ。帰国後は東京大大学院などで丸山真男、川島武宜、篠原一、京極純一の各氏らの指導を受けながら、文化人類学、法社会学、計量政治学などを研究した。

大学院修了後は在野の研究者として活動し、自主ゼミを主宰。橋爪大三郎・東工大教授、宮台真司・首都大学東京教授らを指導した。1980年、ソ連崩壊を予測した著書「ソビエト帝国の崩壊」、続いて出した「アメリカの逆襲」がいずれもベストセラーになり、以後は評論家として活躍した。著書はほかに「危機の構造」「韓国の悲劇」「田中角栄の呪い」など多数。

(毎日新聞 ・2010年9月28日)    



oven2



もし、「小室直樹とはどんな存在でしたか」と聞かれれば、私は、躊躇なく「いい腕のパン屋さんの、古いけどしっかりした大きなパン焼きカマドのような、厚くて熱くてあったかい方でしたね。私とは志向性のベクトルが少し違いましたけれども」と答えると思います。

すなわち、

私は、小室さんが採用する「より進んだ段階にある学問領域の方法論をより遅れた領域に適用する」研究戦略には違和を覚える。例えば、新古典派総合の経済学の方法論を社会学や文化人類学に応用するという、要は、「数学→物理学;物理学→経済学;経済学→社会学;・・・」という研究戦略には物足りなさを感じるということ。

而して、この戦略と親和性が高いであろう研究フィールドの見つけ方に対してもまた然り。すなわち、「問題の本質は、ある事態と事態、ある事象と事象の境界、すなわち、両義的存在に集中的に顕現する」という想定にも私は些か不満なのです。昔、中沢新一『チベットのモーツァルト』(1983年)を読了したときに、チベットまで行く暇があったら、富士山でビートルズを聞いたり靖国神社でベートベーンのメロディーでも口ずさんだらどうでしょうかと感じたのとこれは同じ不満、鴨。

だから、例えば、<女子高校生>に焦点を当てた宮台氏の研究には食指がどうも動かない。日本における法社会学の黎明期、それこそ小室さんが尊敬しておられた川島武宜さんを含め、多くの研究者が敗戦まだ覚めやらぬ全国の農村にフィルドワークに出かけて行くのを見た、戒野通孝さんが「そんなわざわざ東北や信州の農村に出かけなくても、東大法学部の教授会の中にだって幾らでも法社会学の研究材料は転がっているよ」と喝破されたのと同じような感想を私は宮台氏の作品に感じるのです。閑話休題。   

しかし、もちろん、小室さんの研究戦略は現在の学術研究の定跡ではある。王道とまでは言えないかもしれないけれど、間違いなく定跡ではあるでしょう。畢竟、16世紀-17世紀の「科学革命」以降、ある意味、21世紀の現在に至るまで(将棋に喩えれば、全盛時代の大山永世名人や中原永世名人の負けない棋風の如く)、それは知識社会学的の見地からは極めてオーソドックスな戦略であることは間違いない。

けれども、

言語ゲーム論とフッサールの現象学を「存在論-認識論」の基盤に据え、他方、新カント派の方法二元論と価値相対主義、および、現代解釈学の立場から「認識論-価値論」を再構築しようとしている私にとっては<小室戦略>は今ひとつ方法論的な堅固さに欠けるように見えるのです。   


すなわち、「解釈学的学術領域」こそ人間の知の原基的モデルであるという確信の下、徹頭徹尾、法学・歴史学・哲学・組織神学という「解釈学的学術領域」を中核に据えた社会科学方法論を希求している私にとって(ゆえに、その領域の境界確定のために数学・経済学を少々嗜んできた私の目には)、小室さんの研究戦略は全く正反対の方法論に思えてならない。而して、「私とは志向性のベクトルが少し違いましたけれども」というのはこのような意味なのです。尚、私の社会科学方法論に関しては取りあえず下記拙稿をご参照ください。  

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html

 

けれども、小室さんは「いい腕のパン屋さんの、古いけどしっかりした大きなパン焼きカマドのような、厚くて熱くてあったかい存在」でもあった。間違いなくそう思います。

而して、圧倒的な学識を前提に、常識に裏打ちされた健全なロジックでもって人類の代表的な知的遺産を次々に俎上に載せるその心地よさと小気味良さは、喩えれば、かって長らく世界のプロレスリングの最高峰、NWAのチャンピオンとして君臨したハリー・レイスを髣髴とさせる。自身は地味であるにかかわらず、対戦する選手の技量を最大限に引き出し、見る者すべてにプロレスの魅力を堪能させたあのハリー・レイスです。

harileisu



第一に、小室さんの書かれたものはどれもコストパフォーマンスが素晴らしい。どの一冊も読めば必ず有意義な知識なり発想に出会うことができた。第二に、その理路はどれも圧倒的に分かりやすい。

コストパフォーマンスに関して言えば、

例えば、『危機の構造』で展開されている「構造的アノミー論」(私の言葉で換言すれば、生態学的社会構造の変容にともない、社会統合を担ってきた<政治的神話>がその神通力を失うことに起因する社会の構造的な無秩序状態)。または、『ソビエト帝国の最期“予定調和説”の恐るべき真実』(1984年)の中で簡潔に定式化されているマルクスの「疎外」の意味(これまた私なりに敷衍すれば、マルクス経済理論における「疎外」とは、人間が作り上げた商品や貨幣や資本が、人間の主観や人為的な統制から離脱して独自の自然科学的法則性を帯びる経緯であり、よって、自然に妥当する法則を知ることで人間は自然を漸次支配できるようになるのとパラレルに、商品や貨幣や資本に妥当する法則を知ることにより人間はそれらが編み上げている資本主義社会を制御できるというアイデアに過ぎないということ)、あるいは、『日本人のための経済原論』(1998年)で述べられている、マルクスの「労働価値説は同語反復にすぎず破綻している」ことの説明は秀逸だと思います。   

その大半がビジネス書という書籍の性格から見てそれも当然でしょうが、小室作品には内容面でのオリジナリティーはほぼ皆無と言ってよい。けれども、名人上手ならではのその圧倒的平明性と明晰性は読むものを圧倒していたと言ってよいと思います。尚、マルクス主義に関する私の基本的理解については下記拙稿をご参照ください。

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57528728.html

・グローバル化の時代の保守主義
 ☆使用価値の<窓>から覗く生態学的社会構造
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59596608.html


その平明さと明晰さに多くの小室ファンは喝采を叫んできたのではないか。もちろん、私もその一人ですけれども。コストパフォーマンスと並ぶこれが小室作品のもう一つの特徴なのだと思います。蓋し、TOEICや大学受験の英語教材、大学受験やロースクール入試の小論文対策の教材を20年以上に亘って企画・編集してきた身には、「時間対情報」のコストパフォーマンスと並んで、小室作品の分かりやすさというのは驚異的でさえある。

それは、例えば、カリスマ講師として駿台予備校で長らく物理を講じておられた、元東大全共闘議長・山本義隆さんの往年の「講義=作品」に十分に匹敵するのではないか。而して、山本さんの<作品>は、同じ授業を聴講する、片や「東京大学か京都大学に進み物理学の専門研究者を目指す生徒」にも、他方、「単に東京大学か京都大学に進む理工系志望の生徒」にも、遍く納得と感動を与えるものでした。教育業界の方には説明は不要でしょうが、これら両グループの力量差は、将棋に喩えれば、プロ棋士を真剣に目指す奨励会の二段クラスとアマチュアの県大会ベスト16クラスの差はあるのです。    

而して、世の中に摩訶不思議なことはない。畢竟、山本作品と同様、小室作品にも上級者から入門者まで楽しめる工夫と配慮が尽されていた。と、そう私は確信しています。

ことほど左様に、<小室直樹>という些か古くて風変わりなカマドから炊き上がるパンはどれも美味しかった。しかも、パン通にとっても生まれて始めてパンを食べる人にとっても美味しかった。而して、この比喩の延長線上で述べれば、小室さんの多くの<弟子>もまた小室ブランドの<作品>と言えるのでしょう。



fufufu




蓋し、<小室直樹>はマルクス主義の教条と戦後民主主義の欺瞞がこの社会を覆っていた時代に世界水準の知の開花を準備する苗床となった。社会理論と社会思想の分野にほぼ限定されるものの、その貢献は、喩えるならば、支那の五代十国の乱世に五朝十一君に宰相として仕え社会の安定と伝統の継承に大きな足跡を残した馮道(882年-954年)のそれに優るとも劣らないの、鴨。畢竟、<小室直樹>の戦後日本社会への貢献は極めて大きい。私などが言うことでもないでしょうが、そう私は考えています。


小室直樹先生のご冥福をお祈りいたします。







(2010年9月30日:yahoo版にアップロード)

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【ブリューゲル『盲人の寓話』1568年】
「盲人が盲人を手引きするなら、彼等はみんな穴に落ち込むであろう」
(マタイによる福音書,15章14節)




今回の中国との衝突は
果たして本当に解決に向かっているのでしょうか?

これで尖閣諸島周辺で不法操業の漁船を発見しても、
海上保安庁もうかつには手を出せないことになってしまいました。

それどころか下手すると、
向こうが日本に手を出してくるかもしれません。

中国人は誰よりも貪欲です。
きっと多くの漁船が寄って来ることでしょう。

民主党(那覇地検も含む???)は、
どこまで結果を考えてあの決断したのでしょう。

この件に関して今もって総理が何も語らないのは
いったい何故でしょう?

経団連は早く解決を望んだらしいが、
この結果をどう考えているのでしょう?

是非
お聞かせ願いたいものです。

まあ、日本企業も中国で(ボロ)儲けさせてもらおうと
進出しているわけですが、

この際すでに儲けの出ている日本企業は、
いっそのこと全部中国を撤退しては如何でしょう?

国境を接している中国・韓国・ロシアから、
一切撤退して、

もはや消費の魅力を知っている彼らは、
金持ちなら日本製品を欲しがる筈ですから、

別の国で製造しても販売することはできると思いますし、
日本に買い物ツアーに来る事も出来る訳ですし、

さらに言うならば、これら3国の人件費が
安く抑えられる時代は終わりつつあるのでは?

これからの海外進出は
領土問題を抱えていない国に限定しましょう。

インドやベトナムやインドネシアなど、
同じ問題を抱えている国々ともっと仲良くして、

一緒になって中国などに対する戦略を
練っていくべきなのでは?

でないと何かある度にやれ社員が拘束された、
なんてことになるわけです(これじゃたまりません)。

残念ながらというべきか、事実上、中国・韓国の人々が、
日本を許す日は永遠に来ないと思います。

そんな中、日本も中国や韓国で
ずいぶん儲けさせてもらったので、

この辺でくるっと
国を挙げて方向転換したらどうでしょう?

民主党政権じゃ
無理かしらね。


(2010/9/30(木) 午前 8:19)


転載元:つれづれ@キタカントー ~上海に住んでたんでしたっけ?

http://blogs.yahoo.co.jp/kitunenoshippowind/35827805.html





【転載解題】

ブログ友のkitunenoshippowind姉さんの記事です。

蓋し、欧米諸国では、どこの国も「市場・生産・原料」のどれか一つでも、ある一国に依存するのは避けようとする。例えば、対外投資、まして、エネルギー、いわんや、食糧。それらに関しては、たとえ、些か高コストであろうとも欧米諸国は複線化を旨として、可能ならば自給体制へいつでも移行できる基盤を整えようとする。それが、帝国主義と帝国主義の行き詰まりの中で体得した国の指針、そして、1973年以降の数次のオイルショックの中で、文字通り、「スタグフレーション」をストラーグルする過程で欧米諸国が身につけた生きる智恵。

実際、1970年代半ば、日本の食糧自給率は(カロリーベースでも価格ベースでも)西欧諸国に比べてそう低くはなかった。それが、「高付加価値商品生産と集中豪雨的な対外輸出」に特化することによって、次のオイルショックと失われた90年代をなんとか乗り切る中で(要は、益々、日本が素朴に、牧歌的な「自由貿易の普遍的価値」を信じ込むようになった間に)食糧自給率は先進諸国の中でも断トツの最低水準に落ち込んでしまった。

蛇足ながら、高付加価値商品生産への特化と集中豪雨的な対外輸出への傾斜は、この社会の産業構造を変化させないわけにはいかなかったでしょう。つまり、「東京一極集中=地方の衰退」と食糧自給率の凄まじい低さはこの40年の日本社会の歩みの楯の両面でもあったろう。と、そう私は考えています。閑話休題。


それにつけても、現下の「貿易と投資」の支那に対するこの依存の高さ・・・。

日本は、韓国ほどではないし、対外投資に関する支那の比重は相対的にこの10年間で下がっていますが、やはり、支那依存の度合が高すぎるように思います。健全な英米流の保守主義が根づく同盟国アメリカならまだしも、国内に鋭い経済格差を抱える一党独裁の人治国家、すなわち、潜在的なカントリーリスクの高さとそれが及ぼす影響の巨大さという点では、世界広しといえども間違いなく「朝青龍引退後の一人横綱白鵬」にも比すべきこの国にこんなに依存してもよいものか。正直、私は背筋に冷たいものを感じます。

而して、しかし、・・・。

しかし、尖閣諸島問題を巡る民主党政権幹部の言動を見ていると(あるいは、自民党の谷垣総裁の<失言>を反芻するに)、彼等が、そう日本の大多数の政治家が・・・。

政治家が本当に怖いのは支那でも日本の産業界の意向でもなく、<変動>そのものであるとつくづく思えてくる。蓋し、<性善説的国際関係理解の神話>が壊れ、戦後のパラダイムが見直され、それにともない有権者の利害が再編されることの忌避。要は、自分の選挙の帰趨の予測可能性の度合が下がることと、とにかくしんどいことは先送りしたいという感覚・・・。正に、これ「コトナカレ」主義の発露では。正に、これ三猿の態度心性。而して、彼等の言動を見聞きしていると、「お前等、官僚かよぉー!」、と。そう言いたくなる。

政治というのは「変動」への対応のことなんですけどね(笑)
           ↑
б(≧◇≦)ノ ・・・笑い事ちゃうちゅーねん!

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。


畢竟、kitunenoshippowind姉さんが書かれた通り、

>この辺でくるっと
>国を挙げて方向転換したらどうでしょう?

>民主党政権じゃ
>無理かしらね。

と、正直、もちろん、民主党政権では絶対無理でしょう。そして、
残念ながら、党の政策方針を統一できないようでは自民党でも難しいの、鴨。
と、そう私は考えています。 (><)


(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。







(2010年9月30日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 中国問題
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今度は長距離ミサイルを日本に向けて♪ 

続々くるよぉ~!! 

さぁどうする民主党政権!!


尖閣諸島問題で、一度、弱気を見せたら最後、

ほらほら、続々と来ましたよ♪

どーする民主党政権!!




今度は長距離ミサイル日本に向けて・・・発射台車両16台・ミサイル48機だってさ♪



記事:http://news.chinatimes.com/mainland/0,5245,50504959x132010092701185,00.html



bepinsans.jpg



◎漢和:江西部署巡弋飛彈旅


2010-09-27
新聞速報
【中央社】

最新一期加拿大出版「漢和防務評論」指出,中國江西省宜春市北部最新組建第219巡航導彈 (巡弋飛彈)旅,至少裝備16輛發射車及48枚CJ10巡弋飛彈,以日本、沖繩等為作戰目標。 報導指出,中國戰略導彈部隊(簡稱二炮)在宜春市北部組建的第219巡航導彈旅(二砲内部稱作巡導旅),司令部為紅瓦小型磚房,至少存在7個連體形車庫,司令部屋頂天線林立,2群建築群隔著一條街道,擁有2個裝檢場,與廣西省柳州市東南郊建設的CJ10巡航導彈旅部完全相同。

漢和根據宜春基地巨大的車庫和汽車訓練場估計,219巡航導彈旅至少裝備了16輛發射車,部署了48枚CJ10巡弋飛彈。

漢和指出,第219旅是在湖南洞口組建,在宜春基地建設完成後搬遷,可見二炮巡航導彈旅多數時間處於「訓練在前、人等裝備」的状況。

漢和又稱,中國幾乎所有的巡航導彈旅番號都以2字頭開頭,目前二炮至少組建了3個巡航導彈旅,估計近期還有更多的2字頭巡航導彈旅逐歩組建,對應各個戰略方向的需要。

漢和認為,從作戰任務上分工,柳州部署的821旅(現番號215旅)主要負責對越南甚至印度的戰略目標,而宜春部署的CJ10負責打擊日本、沖繩等地。

此外,從中程彈道飛彈的部署状況來看,中國幾乎在毎一個戰略方向都部署了至少2個中程彈道飛彈旅,主要作戰方向是美日、印度、越南、駐阿富汗美軍等。



【参照拙稿】

尚、尖閣問題を巡る私の主張に関しては下記拙稿を
ご参照ください。

・日本の謝罪と賠償による尖閣衝突問題の<終結>と日本の<終了>のご連絡
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59914003.html

・日本外交再生の道は<米国への加盟>または<胡錦濤の獲得>である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59920973.html

・尖閣諸島問題解決の<最適解>としての靖国神社首相参拝
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59908627.html

・<中国>という現象☆中華主義とナショナリズム(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59895258.html






(2010年9月28日:iZa版にアップロード)

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大和撫子


ブログ友のJodyさんの記事を転載させていただきます。今般の「尖閣問題」を巡っては、民主党政権の拙劣な対応振りに悲憤慷慨する声はよく見聞きするのですが、このJodyさんの主張のように、「自分自身もこれだけの事を覚悟する。だから国も、政府も、きちん対応してください」という主体性のある建設的な意見を寡聞にして知らないように思います。

而して、この記事の底に横たわる姿勢と美意識こそ、

吾・唯・足るを知る


の保守主義そのものではないか、と。
そう私は考えます。


この記事に対しては、また、同じく尊敬するブログ友から、

「レアアースがレアアースがと浮足立ったメディア報道と比べて、
なんと地に足のついた、肝心なことを我々に思い出させてくれる記事でしょうか・・・。

中国になにも「いただけ」なくなっても頑張る覚悟、
そういった当たり前の覚悟を前提に物事の考え方を改めて持ちたいです」


というコメントが寄せられました。

蓋し、同感。

畢竟、

そうなんです。お米と水と、信仰と教育と、伝統と家族の絆とコミュニティテーの紐帯さえ健在あれば、人間も民族も死にゃーせんです。もちろん、「竹やりではB29は落せない」ことは明らかですが、他方、<レアアース恐慌>に近しい状況は、「生きられてある生活世界」の現実の事態を本当に把握した上でのものなのかしら。私も些か疑問があります。

而して、レアアースで大騒ぎしている連中も、例えば、女系天皇制の導入に大騒ぎしている連中も、所詮、かっての、観念的で教条主義的な朱子学やマルクス主義の徒となーんも変わらん。彼等は、自分が勝手に作った<敵の虚像=不愉快で不安な将来像>に自分で憤慨し恐れをなし動揺しているだけ、鴨。と、そう私は考えています。

以下、転載記事。尚、尖閣問題を巡る私の主張に関しては下記拙稿をご参照ください。また、一部、私のポリシーとは抵触する「表現」が使用されていますが、それも「時代の生き生きとした元気のでる言葉」と思い、なーんも気にせず転載させていただきました。




・日本の謝罪と賠償による尖閣衝突問題の<終結>と日本の<終了>のご連絡
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59914003.html

・日本外交再生の道は<米国への加盟>または<胡錦濤の獲得>である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59920973.html

・尖閣諸島問題解決の<最適解>としての靖国神社首相参拝
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59908627.html

・<中国>という現象☆中華主義とナショナリズム(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59895258.html




味噌汁1




◆大和撫子をなめるなよ


話しによれば、中国がレアアースの対日輸出を
停止する計画
をしているそうだ。


携帯電話とか液晶テレビとか、
いろいろと便利なものに使われているので、
慌てている政治家も多いらしい。


携帯電話?
別に・・と思う私。



昔は子供の頃、どこへ行くのでも、
家族へ行き先を言ってか出かけたもんだよ。


あれば便利。でも、なくても不便じゃない。
孫さんは悲しむけどね(笑)。


液晶テレビ?
それがなにか・・と思う私。



毒されたテレビ局の番組を見なければ
もっと心が癒されるよ。


3Dテレビなんていらない。
1Dの私の部屋には不必要(笑)。


日本の政治家はだらしない。
何をビクビクしてるの?



食料? 作ればいいじゃない!
レアアースの代替品を作る会社を応援しなよ!


不良品の中国製品?いらないよ。
日本らしい美しく品のあるものを見直そうよ!


台所を任せられている日本の女は、
そんな中国のものがなくても、
きちんと家族に食べさせる!
って、母が言っていたよ!



一汁一菜でもいいじゃない!
私は恐くないよ・・・。


味噌汁2



腰が砕けてる政治家も
家庭を預かる大和撫子を信頼しなよ!
今こそ清貧の思想なんじゃない?


日本の女はね、
あんたたちが思うほど弱くないよ。



男ならば、ちゃんと発言して、
尖閣諸島が日本の領土だってこと世界に宣言しなよ。



少し脅せば日本がビビると思ってんのか支那は?(笑)
ビビってんのは売国奴の政治家とユニクロぐらいだよ(嘲)


「チャンコロに日本の心が伝わると
信じている奴はバカだ」

と祖父が申しております。





転載元:あなたが斬らないで誰が斬るの!お姉さんも一緒に斬るからね!
    http://blogs.yahoo.co.jp/give_me_your_opinion/33729654.html



目玉焼き




(2010年9月28日:英語と書評 de 海馬之玄関版にアップロード)

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◆防衛大学学園祭

現在、公私多忙というか多難ではあるけれど。今年(2010年)は防衛大学の学園祭に行こうと思っています。海外出張とか缶詰研修の統括とかがない限り、大体、毎年行っていた。私にとっては年中行事みたいなものだった。国防の第一線を担おうとする若者と身近に接することができるのは実に愉快だし、こちらも元気をもらえるから。けれど、けれど、・・・。


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昨年は行けず、ブログ記事を読み返してみたら、その前年と前々年も行くには行ったものの慌しかったのか、結局、最後に「防衛大学学園祭:防衛大学開校記念祭」関連の記事をアップロードしたのはなんと3年前。正に、光陰矢の如し、ですね。

今年、平成22年(2010年)の防衛大学学園祭は11月20日-21日の土日。ということは、22日の月曜日に休みが取れれば、勤労感謝の日(23日)と合わせて、遠方の方もちょっとした東京旅行(←防衛大学があるのは神奈川県ですよぉー!)も可能な日程。学園祭のオフィシャルサイトはこちら(↓)です。特に、今年は、尖閣諸島問題や普天間基地問題が炸裂した後の学園祭。絶対、防大生諸君も国防の思いと気合が入っているのではないでしょうか。

・防衛大学開校記念祭(2010年度)オフィシャルサイト
 http://www.nda.ac.jp/ed/Festival/2010/


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ということで、以下は、かなり前の記事の再録(なんと5年前にエントリーした記事、光陰矢の如し!)。でも、「古代史は人類の普遍史」、寧ろ、一昨年とかの、まだリーマンショックや日米での政権交代前夜の生臭い世相の記憶を呼び覚ましかねないものよりも、<防大学園祭の本質>をより素直にお伝えできる、鴨。そう思い再録させていただきます。

防大学園祭、この記事を読んでくださっている読者の皆さんも、この11月20日-21日の土日、時間があればどうですか、横須賀まで足を伸ばしてみては。太平洋の潮の香りもいっぱい吸えるし美容と健康にもいいですよ。



防衛大学・学園祭(開校記念祭)
行きましょう!!!
行くぞ!!


Let's go to the festival, shall we?




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◆【2005年11月14日】たまには本当に日記を書いてみる

週末、防衛大学の学園祭に行った。私の兄が防大卒ということもあり、また、防衛大学の教授を勤めていたこともあり、行けるときにはこの「学園祭」(=防衛大学開校記念祭)には行くことにしている。

とはいえ、防大キャンパスは横須賀市でも市街からは少し離れた小山の上にあるため、同じ神奈川県でも川崎市麻生区に住む私達にとってはちょっとした<小旅行>になる。横浜まで出て京急で馬堀海岸駅か横須賀中央駅→防衛大学行きバス:あるいは、JR横須賀線で横須賀駅→防衛大学行きバス:または、京急浦賀から山越えの徒歩強行軍(?)が一般的だけれど、今回は新百合ヶ丘【小田急】→湘南台【地下鉄】→上大岡【京急】→馬堀海岸→バスで防衛大学に到着。

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確かに片道2時間半ほどの<小旅行>ではあるけれど、日頃、一般人が来校することが稀な防衛大学生にとって(郷里から来てくれる懐かしい家族の姿とは違った意味で)、一人でも多くの市民がキャンパスを訪れてくれることは、「国防に貢献しようとする自分達をこの社会が応援してくれている」ことを実感する契機であり、私は努めて防大学園祭には行くことにしている。それに何より、防大の女子学生は美人が多いし皆賢そうだから(尚、数年前から女子学生の制服は男子と全く同じになった。防衛大学志望の女子高校生諸君、制服超カッコイイですよ♪)。そして、訓練展示(実戦を想定した訓練の見学)と学園祭の華棒倒しは一見の価値あり。


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キャンパスでは学園祭定番の出店屋台や喫茶店で腹ごしらえをして、学生弁論大会を覗き海外からの留学生が作るブース(タイ・モンゴル・マレーシア・インドネシア・ルーマニアとあと特定アジアの2カ国)を訪問した。学生とは言え、正規の軍人でもある彼等から各国の安全保障事情や徴兵制度などについてのコメントを直接聞けるのはいい経験だ。

また、弁論大会では東京大学や早稲田大学の立論が国防力の一層の強化を主張したのに対して防衛大学側の論者が「冷戦崩壊後、日本の脅威レヴェルが下がっているのに、かえって防衛力の強化を訴える世論が強くなっているのは問題だ」という主張を展開したのが面白かった。いつの世でも戦争に本当に反対するのは職業軍人であり(予算はもっと欲しいが戦争は嫌だ!)、戦争を熱望するのがインテリと庶民ということかしら(笑)。まあ、この弁論大会の論旨の差異にそんな大した意味はないと思うけれど。


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例年に比べて一般の来訪者はかなり多かったと思う。グランドに展示されている装甲車や偵察用のバイク・ジープを例年は7~8人づつが取り囲むくらいだけれど、今年はそれに加えて各10人以上の子供たちに占領されていたくらいだから。しかし、何より微笑ましいのが、郷里から駆けつけてくれた両親や兄弟姉妹に囲まれて談笑している防衛大学生の姿である。

「おねーちゃんの部屋は(宿舎、大隊棟の)何階にあっと」とかとか幼い妹に質問攻めにあう九州出身の女子防衛大生。「東京は(←おじいさん、防大があるのは神奈川県横須賀市です!)暖けーな、もう国では雪がちらつく頃だべ」と祖父と思しき方に声をかけられる北海道出身の防衛大生。聞いているこちらまで暖かくなってしまう。

実は、ブログにアップすべく「家族と談笑する防大生の画像」を何枚か撮りたいと思っていたのだけれど(また頼めば快く撮影させてくれたかもしれないけれど)久しぶりに水入らずで過ごしている家族の会話を妨げるのがどうも嫌で、その類の画像は今回も一枚も撮れなかった。でも、その暖かくなる微笑ましい光景は、これから日本の国防を担うだろう防大生への信頼感とともにクッキリと私の胸にしまわれている。



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(2010年9月28日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




今般の尖閣問題では日本外交の拙劣振りに唖然として言葉を失った向きも少なくないのではないでしょうか。では、どうすれば日本外交の再生は可能か。あくまでも、あらゆる予断を断ち切り、かつ、眼前の事実を踏まえながら理性の赴くまま恒久平和実現の道を思索した、カントの『永久平和のために』の顰に倣いこのことを考えてみました。

ポイントはサッカー日本代表の強化策とパラレルなの、鴨。

要は、

システムへの新基軸の導入か
有能なる新しい人材の獲得か
もしくは、その両方の同時実現か。



而して、今般の「尖閣諸島問題」が孕んでいることの重大性を鑑みるに、システム改革にせよ、人材の調達にせよ、日本に与えられた時間はそう多くはないのかもしれません。例えば、

竹島の場合は、韓国に日本は(国際法上、領土帰属の最終決定要因と言っても過言ではない)「平穏なる実効支配」をさせていません。他方、逆に、北方領土に関しては、SF平和条約締結の際の経緯に加えて、日本は1945年8月9日から9月2日まで旧ソ連軍の侵攻に対して(皆さん! 「北の姫ゆり」のこと、断じて忘れてはなりませんよぉー!!)、斑模様状態でしか抵抗または領有権者としての適切な対応をしなかった(すなわち、旧陸海軍の現地部隊、そして、旧内務省の地方政庁に対する外務省(ここでも外務省かよぉー!)の致命的な連絡ミスがあり、ロシア側の領有権の主張は全く根拠を欠いているというわけではありません)。

尚、大急ぎで言い足しておきますが、しかし、白黒はっきり言って、竹島と北方領土の国際法上の帰属に関しては、竹島は210%、北方領土もおそらく120%は日本の領土と言えると思います。    

而して、今回の尖閣諸島問題の帰趨がもたらした国際法上の帰結は凄まじい。正に、それは、国賊、否、文字通り「売国奴=売国土奴」ものの所業。蓋し、今回の事例を踏まえれば、最早、210%にせよ120%にせよ、要は、間違いなく日本の領土である竹島や北方領土さえ、日本が領有権を主張するのは苦しくなったのかもしれない。

それどころか、今回の民主党政権の拙劣さで、沖縄・対馬等の日本が「平穏なる実効支配」をしている。かつ、支那と韓国という潜在的な当事国政府でさえ表向きには領土問題があることをアピールしていない日本の領土に関してもその確保が危うくなりかねなくなった。

加えて、尖閣諸島問題の、ある意味、最大の問題点は、(例えば、尖閣諸島どころではなく、靖国神社境内でも伊勢神宮の内宮参拝所であろうと)支那の人々に対して日本国内での属人的治外法権を認める結果になること。   

冗談抜きに、法論理的には尖閣諸島問題の影響はそこまで及び得る。そう我々は覚悟すべきであろうと思います。尚、最後の「属人的治外法権」に関しては下記拙稿をご参照ください。

・日本の謝罪と賠償による尖閣衝突問題の<終結>と日本の<終了>のご連絡
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59914003.html


而して、どうする。
而して、どうすれば日本外交は再生できる。
而して、国際政治の舞台で存在感と尊敬を日本が取り戻す方策は如何。


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ここで、「内容なき形式は空虚であり、形式なき内容は盲目である」と。感性を通して得られた事実を凝視して、悟性によって経験的事実の整除を行い、然る後に、あらゆる予断を廃止して理性による推論を行なう。そう、正に、カントが『永久平和のために』(1795年)で繰り広げたのとパラレルな思索を展開してみようではないですか。と、思索と推論の詳細は別稿にゆずるとして、本稿ではその結論だけ書いておきます。


蓋し、

日本外交再生の道は、

而して、

国際政治の舞台で日本がその存在感と尊敬を取り戻す方策は

アメリカの51番目の州に<格上げ>してもらうか
胡錦濤級の人材のスカウト、あるいは、これらの併用に如くはない。



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◆アメリカ合衆国への加盟

アメリカ合衆国は、その憲法典を紐解くまでもなく、連邦制国家であり、皇室を戴く日本がそれに加盟することは全然不可能ではない。実際、「オーストリア=ハンガリー二重帝国」「デンマーク=ノルウェー二重王国」「スウェーデン=ノルウェー二重王国」等々、類例は多くはないが稀でもない。

何より、(その「法的効力関係=法体系間の授権関係」に関して)国際法優位の一元論、国内法優位の一元論、あるいは、国際法と国内法の二元論のいずれを採用するかにかかわらず、皇室を戴く日本の<憲法>が現に現下の国際法体系と並存していることを鑑みるに、たかだか、アメリカ合衆国と日本の<憲法>の整合性などは容易に調整できる事柄。この点で、現行の日本の<憲法>の一斑、現行憲法典たる日本国憲法が、マッカーサー元帥に作っていただいた、アメリカの<憲法>と親和性の高いものであることは日本がアメリカの51番目の州に<格上げ>してもらう上で更に好都合。と、そう私は考えています。なぜならば、<憲法>とはおそらく次のようなものだからです。

蓋し、<憲法>とは法典としての()「憲法典」に限定されるのではなく、()憲法の概念、()憲法の本性、そして、()憲法慣習によって構成されている。而して、()~()とも、間主観的な「論理的-歴史的」な認識であり最終的には国民の法意識(「何が法であるか」に関する国民の法的確信)が確定するもので、それらは単に個人がその願望を吐露したものではない。そうでなければ、ある個人の願望にすぎないものが他者に対して法的効力を帯びることなどあるはずもないから、と。    


尚、①皇室を始め<伝統>という事柄の性質と保守主義の意味内容、ならびに、②<憲法>の概念、すなわち、再度記しますが、最高法規としての法的効力を帯びる<憲法>が、憲法典と憲法の概念、憲法の事物の本性、そして、憲法慣習という社会学的に観察可能か、または、論理的に抽出可能な諸法規範が編み上げる織物であるという経緯と認識については下記拙稿をご参照ください。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59891781.html

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59308240.html

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879748.html


日本がアメリカ合衆国への加盟を許された場合、アメリカ合衆国憲法の規定により、日本州には連邦下院議員と大統領選挙人の約三分の1が割り当てられ、かつ、日本州においてのみならず、日本州の皇室はアメリカの連邦法体系が間接的にせよその権威を認めるアメリカの皇室になる。

けれども、カントが「非武装路線」を取りあえず否定した如く、日本のアメリカへの加盟が、しかし、残念ながら多くのアメリカ国民の支持を得ることは、少なくとも、短期的には難しいでしょう。繰り返しますが、日本が51番目の州になる場合、実質的に日本州の世論がアメリカ政治の帰趨をほぼ決める事態になりかねないから(現在の、カリフォールニアとニューヨーク、テキサスとフロリダ、イリノイとペンシルバニアという人口上位6州を合わせたよりも日本州のプレゼンスは大きくなる。まして、日本州の教育水準の高さを想起すれば結果は更に凄まじい!)。

蓋し、この巨大な日本州の出現は、畢竟、到底、既存のアメリカ国民が許容する限度を超えるものではないでしょうか。加えて、正直な所、平均的アメリカ国民にとって日本などは日頃意識にも上らないマイナーな存在。ならばなおのこと、そんなマイナーな州にアメリカの政治の実権を譲ろうとは考えないのが人情でしょうから。


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◆胡錦濤の獲得

システム面での新基軸導入が困難なら、日本外交の再生に向けて残る道は人材の獲得しかない。而して、予断を排して見渡せば、世界には日本が渇望している人材はいるではないですか。そう、ビスマルク閣下等とともに私が政治指導者として尊敬してやまない小平先生の愛弟子にして、「仮想」の二文字が取れつつある「仮想敵国支那」の現在の総大将、胡錦濤主席。あるいは、「北の姫ゆり」や「シベリア抑留」、就中、北方領土問題で日本には怨み骨髄のロシアは<影の皇帝>ウラジーミル・プーチン首相等々。

蓋し、支那の国家主席としての任期もいよいよ第4コーナーを廻った胡錦濤主席をヘッドハンティングして契約ベースで(かつ、その「無条件での解雇権」が憲法典の定める正規の行政府と立法府、すなわち、間接的に「日本国民=有権者たる日本国籍保有者」の手にあるという当然の条件の下に)日本外交の最高指揮官として迎え入れるのです。

而して、(「絶対権力は絶対に腐敗する」の理を鑑みて、その後は、)次期ロシア大統領就任がほぼ確実と噂される、ロシアの現首相・プーチン元大統領が次の大統領職の任期を全うした段階で、今度は彼をスカウト。「内閣外交最高顧問」という謂わば<令外の官>を設けるならば、必ずしも、外交分野のこの最高指揮官の獲得は現行の日本国憲法の改正などせずとも充分可能であろう。と、そう私は考えています。   

畢竟、役立たずの日本の政治家より、否、普天間基地問題と尖閣諸島問題で端なくも明らかになった、人畜有害、否々、有害無比な民主党政権の政治家に任せるよりは、サッカー日本代表監督の獲得とパラレルに、優秀な<外国人監督獲得=外国人の外交の最高指揮官獲得>という手も真面目に考慮すべき時代に日本も入っているの、鴨。

ついでに、政治家よりもある意味遥かに役立たずの外務省職員は全員、介護サービスか不良外国人対策の現場に移して、これまた、経験もあり優秀でありながらも正規のポジションから離れておられる旧東欧や中南米の腕っこきの外交官を雇うべきなの、鴨。事業仕分けの観点から見てもこれはそう荒唐無稽な話ではないのではないでしょうか。


畢竟、現実を見据えるに、しかし、システム改革も人材の獲得も、正直、そう簡単ではないのでしょう。而して、日本が皇室を戴く法治国家である限り、また、今時、「5・15」や「2・26」の時代でもなく、そして、三島由紀夫のような馬鹿者の言動は大人が真面目に考慮するに値しないとすれば、要は、テロなどは論外とすれば、我々、保守改革派の日本国民が選択しうる方途は当座一つしかないのではないでしょうか。


すなわち、

それは、

б(≧◇≦)ノ ・・・打倒、民主党!

б(≧◇≦)ノ ・・・政権の受け皿としての自民党の再生!

б(≧◇≦)ノ ・・・そのための自民党総裁の更迭!


ということ。

秋雨がそぼ降る昼下がり、カントの『永久平和論』を紐解きながら、
このようなことを夢想してしまいました。でも、これ満更夢ではない、鴨。


而して、この尖閣諸島事件の民主党政権のていたらくについては、実は、

(1)悪いのは支那だ、民主党を叩いて国論を分裂させるのは敵の思う壺だ
(2)米国が船長の釈放を強く促したんじゃないか
(3)弱腰外交はけしからん!


とかの主張も見聞きします。

けれども、支那が一主権国家として国益を追求するのは当然のこと。また、国際法上の根拠が皆無でも「領土問題」が一旦政治問題化した段階では、アルゼンチンであれ、フインランドであれ相手が英国でもソ連でも引けない。まして、尖閣での相手は世界有数の外交弱小国。

更に、外交の手筋として米国といえども「領土割譲」に結びつく妥協など薦めることはない。それは、それが判明した段階での米国が失う国益と釣り合いがとれないから(日本における反米感情や、諸々の領土問題を抱える同盟国からの信頼の喪失や、あるいは、アメリカ自体の領土問題での主張の正当性の低下を考えれば、期待値から見ても割が合わない事柄なのですから)。

そして、最後の(3)について言わせていただければば、畢竟、それが有利で筋が通るものなら「身の丈にあった弱腰外交」は正解でさえある。

さて、これらを踏まえて言えることは、民主党政権の外交は「理解不可能」であり、それは「弱腰」でさえないということ。畢竟、それは戦後のこの国の<性善説的国際政治観>の顕現なの、鴨。ならば、民主党政権は<戦後の結晶>であり、その最後を飾る花火であると私は考えています。否、最後の花火として歴史的に葬らねばね。共に闘わん。


尚、なぜに自民党総裁が更迭されるべきなのか、あるいは、自民党の現在の執行部が新しい総裁の下でなぜ一旦再編成されるべきなのか。このことに関しては下記拙稿をご参照ください。


・自民党再生の<切り札>はハートのロイヤル・フラッシュ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59903566.html




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(2010年9月27日:yahoo版にアップロード)

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hoshinotop

【解題】
ブログ友のPONKO姉さんの記事『私だったらとルーピーハトヤマ』の転載。保守系最大ブログから転載しても情報拡散的には無意味ですが、今のこの社会の薄汚れた薄っぺらさの記録として転載させていただきました。それにしても、日本国民の怒りが、対支那外交での「弱腰=理屈が通らない妥協」に起因することを理解できず、支那との間で波風を起こさないことがベストと考えている節のあるこの元首相の状況認識と国民世論の乖離は決定的ではありましょう。

しかし、そんな感性・悟性・理性の範疇の「世論」の状況認識の拙劣さなどは、最早、この人物の場合どうでもよいことなの、鴨。蓋し、鳩山氏には、なにがしか「無能ではなく異常なもの」を感じますね。誹謗中傷ではなく、ここまで「自己評価」と「他者からの評価」がずれる、自愛の勝った方は<病気>です。而して、私の周囲の見立てでは、


鳩山氏は精神異常ではなく性格異常。


要は、前者なら「入院」すれば直る(少なくとも、社会に再適応することができるようになる)こともある。けれど、後者は直らない。かつ、彼はテロの対象になるほどの大物ではない。よって、速やかな、日本からの永久退去を彼には求めたいと思うます。

アメリカでもロシアでも、支那でもどこへでもどうぞ(どうせ、どこも個人としての鳩山氏など相手にしないのだから日本への実害はないし)。と、呆れてものが言えない情報、愚直に転載させていただきます。


尚、尖閣問題に関する私の中間総括と、支那への急傾斜を志向していた「鳩山首相」を見るアメリカ・イギリスを始めとする世界の冷たい視線に関しては下記拙稿をご参照ください。


・日本の謝罪と賠償による尖閣衝突問題の<終結>と日本の<終了>のご連絡
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59914003.html

・尖閣諸島問題解決の<最適解>としての靖国神社首相参拝
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59908627.html


・民主党政権の対中国<前のめり>を懸念する米国世論(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59428358.html

・民主党の狂気と純情
 ☆鳩山New York Times寄稿論稿紹介(壱)~(四)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58602990.html

・「東アジア共同体構想」という鳩山首相が投げた<驚愕の波動>(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58823884.html

・レディ「安全保障を巡り広がる日米の亀裂」紹介
 ☆国民を危険に曝しつつ<夢>と戯れる民主党政権(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58824703.html

・天まで舞い上がるか鳩山政権の中国片思い
 ☆民主党政権を見る海外の冷たい視線(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59197639.html

<以下、PONKO姉さんの転載記事>



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◆私だったらとルーピーハトヤマ


思い上がりも甚だしい


小沢一郎氏は「政治と金」で真っ黒である。
市民活動家出身の菅首相は国家観もない骨なし男である。
しかし、何が悪いといって鳩山前首相ほど悪い男はいない。

東アジアの海を「友好の海」と称し、日本の領土である尖閣諸島の領有権の問題は中国と話しあえばいいといい、普天間基地移設問題では日米関係を悪化させ、一旦は小沢氏と無理心中して、いずれ政界を引退すると宣言したのに3ヶ月も経たない内に、民主党代表選で小沢氏を担ぎ、日米関係を悪化させた事で中国に付け入る隙を与えた。

そのようなルーピーハトヤマが私なら中国とうまくやる的な発言は臍が茶を沸かす。
自民党も内部抗争はあったが、自分なら上手く出来たはずなどと党内の政敵を公に批判するなどという子供じみたことはしなかった。

民主党政権になってから、ほんとうに政治が幼児化している。
経済も外交も悪化の一途を辿っている。
来る臨時国会では、野党は徹底的に民主党政権を追求し、解散総選挙に向かって突っ走るべきである。
それしか日本が立ち直る方法はない。
首相をクルクル代えてはならないなどという反日マスコミの世論誘導に騙されてはならない。

◎産経ニュース(2010/09/25)
「私なら温家宝首相と腹割って話し合えた」鳩山氏が首相を批判


鳩山由紀夫前首相は25日、沖縄・尖閣諸島(中国名・釣魚島)沖で中国漁船衝突事件に対する政府対応について「私だったら事件直後に、この問題をどうすべきか中国の温家宝首相と腹を割って話し合えた」と述べ、政府の対応を批判した。視察先の京都市内で記者団に語った。
この中で鳩山氏は、自身が首相だったときに温首相との間にホットライン(直通電話)を構築していたことを明かし、「ホットラインは菅(直人)首相にも引き継がれている」と述べて、事件後、菅首相が温首相と直接対話を怠ったのではないかとの見方を示唆した。
 中国側の賠償要求には「日本側の主張が正しければ賠償要求などどいう話は論外」と批判。ただ「事実関係で見えていないところがある。国民や中国側にしっかりと伝える責務が(日本政府に)ある」と、政府の説明不足を指摘した。
 那覇地検保釈決定についても「国民の中に釈然としないものが残っている。(政府から)何らかの働きかけがあったのかも含めて、事実は事実として真相を国民に知らせる責務がある」と述べた。



転載元URL:http://blogs.yahoo.co.jp/nipponko2007/36171297.html



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(2010年9月27日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 尖閣諸島問題
ジャンル : 政治・経済




本稿は新聞報道のスクラップと簡単な解題を付した過去記事URLリストです。
よって、全く目新しい主張内容はありません、

ただ一つ、

「この事態を鑑みれば、可及的速やかな憲法の改正、あるいは、アメリカの51番目の州へのこれまた可及的速やかな格上げの実現が望まれる。その際、普天間基地問題を見ても、膨大なる見返り予算をもらいながらも「やらずぼったくり」を繰り返し、かつ、独立もしくは支那への併合を望む県民世論が県民の多数と喧伝される<小早川秀秋予備軍>の沖縄には、これまた、可及的速やかに日本から離脱してもらうこと。そして、それらは、今般、国際法の無視、かつ、他国の国内法の運用を侵害するといった支那の常套手段に日本が屈したことを見て、対支那関係において日本が全く頼りにならないことを確認したであろう東南アジア諸国等の近隣諸国の強く願うことでもある」    


という主張以外には。この主張をこのブログでも漸次展開して行く予定です。


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◆報道スクラップ


◎中国外務省「日本の司法手続き、違法かつ無効」 中国人船長釈放

中国外務省の姜瑜報道官は24日、沖縄・尖閣諸島(中国名・釣魚島)周辺海域で起きた漁船衝突事件で勾留されていた中国人船長の釈放が決まったことを受け、「日本側が中国人船長に対して進めた、いかなる形式のいわゆる司法手続きも、違法であり無効である」との談話を発表した。・・・

(産経新聞・2010年9月24日 19:29更新)




◎日本に謝罪と賠償要求=船長帰国、「拘束で主権侵害」―中国

中国外務省は25日、尖閣諸島(中国名・釣魚島)沖での漁船衝突事件で処分保留のまま釈放された中国漁船船長(41)が帰国した後、「日本側は船長らを違法に拘束し、中国の領土と主権、国民の人権を侵犯した」と強く抗議する声明を発表し、日本側に謝罪と賠償を求める方針を明らかにした。

(時事通信 2010年9月25日(土)5時53分配信)




◎いらだつ首相「超法規的措置は取れないのか」
「『超法規的措置』は、取れないのか」
22日の訪米を控えた菅首相は、周囲にいらだちをぶつけた。沖縄・尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件で、中国の対抗措置の報告が次々に上がってきていた。首相は「民主党には(中国で副首相級の)戴秉国(国務委員)と話せるやつもいない。だからこういうことになるんだ」とこぼした、と関係者は語る。

首相とその周辺が中国人船長の扱いをめぐる「落としどころ」を本気で探り始めたのは、船長の拘置期限が延長された19日以降のことだ。この日を境に中国政府は、日本人4人を拘束し、レアアース(希土類)の対日輸出禁止の動きに出るなど、本格的な「報復カード」を相次いで切った。

実際に「船長釈放」に動いたのは、仙谷官房長官と前原外相だったとされる。

23日朝、ニューヨーク。日中関係の行方を懸念するクリントン米国務長官と向かい合った前原外相は、こう自信ありげに伝えた。

 「まもなく解決しますから」

那覇地検が船長を釈放すると発表したのは、その半日余り後の日本時間24日午後2時半だった。東京・霞が関の海上保安庁に、寝耳に水の一報が入ったのは、そのわずか10分ほど前。

「戦争になるよりはいい。このまま行けば、駐日大使の引き揚げ、国交断絶もありえた」――。首相に近い政府筋は24夜、船長釈放に政治判断が動いたことを、周囲に苦しげに認めた。

「那覇地検の判断なので、それを了としたい」

仙谷官房長官は24日夕の記者会見で、ひたすら「地検の判断」を繰り返し、政治の介入を否定した。柳田法相もこの後すぐ、法務省で記者団を前に「法相として検察庁法14条に基づく指揮権を行使した事実はない」とのコメントを読み上げた。質問は一切受けつけなかった。

だが、こうした弁明は、世間には通用したとはとても言えない。首相官邸には直後から「弱腰だ」といった抗議電話が殺到。官邸職員は対応に追われた。・・・

民主党代表選での再選、内閣改造・党役員人事を経て、ようやく本格的な政権運営に着手したばかりの菅首相。「中国に譲歩した」と見られて再び世論の支持を失う失態は、できれば避けたかった。首相がそれでも「政治決断」を選択したのは、中国の反発の強さが当初の予想を超えていたためだ。

19日の拘置延長決定後、中国は、20日に日本人4人を拘束、21日にはレアアース(希土類)の対日禁輸に踏み切るなど、たたみかけるように「対抗措置」を取った。日本側はこれらを公表しなかった。だが、ニューヨークにいた温家宝首相は21日夜(日本時間22日朝)、在米中国人約400人が出席する会合で、船長釈放を要求する異例の動きに出た。これが、官邸内に広がりつつあった「このままではまずい」という思いを、政府の共通認識にまで押し上げるきっかけとなった。・・・

菅政権の政治判断の背景には、郵便不正事件をめぐって大阪地検特捜部の主任検事が最高検に証拠隠滅容疑で21日に逮捕されたことで検察の威信が低下し、「今なら検察も言うことをきくだろう」との思惑が働いていたとの見方がある。・・・

検察幹部も「外務省から、起訴した場合の日中関係への影響などについて意見を求めた」と話し、双方で早い段階からやりとりをしていたことがわかる。その際、起訴に向けた表立った異論はそうなかったとみられる。政府内に「迷い」が生じたのは、やはり19日に船長の拘置延長が決まった後だったようだ。

船長釈放は、結果として日米首脳会談直後というタイミングになった。このため、「米国からこれ以上の日中関係悪化について、いいかげんにしろ、と圧力がかかったのでは」との指摘すら出ている。

政府・民主党内でも、官邸の判断に対する評価は分かれる。「中国ではスパイ容疑は最悪、死刑が適用される。4人の人命がかかっていた」との危機感から理解を示す声がある一方、「レアアース問題は、世界貿易機関(WTO)に提訴すれば中国は負ける。ごり押しすれば勝てる、と中国にまた思わせただけだ」といった批判も多い。

「菅も仙谷も、外交なんて全くの門外漢だ。恫喝され、慌てふためいて釈放しただけ。中国は、日本は脅せば譲る、とまた自信を持って無理難題を言う。他のアジアの国々もがっかりする」。党幹部はうめいた。

(読売新聞・最終更新:9月25日(土)3時16分)   



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◆尖閣問題関連自家記事リスト

冒頭の認識を繰り返します。「明確な日本領海における明々白々なる公務執行妨害事件について、かつ、容疑者が容疑を全面否認するケースでの処分保留での容疑者の釈放」という今回の政治的措置は、アジアの近隣諸国、就中、支那と国境を接しており、日々、その脅威を肌で感じている東南アジアの諸国民にとって、「日本は頼りにならない」「小泉自民党政権下の日本と民主党政権下の日本は別の国だ、畢竟、支那と日本との関係は、「大蛇-虎」関係から「龍-猫」関係に変容した」という認識を決定的にしたと思います。

日本の国益から見て、この件が、「覆水盆に返らず:It’s no use crying over spilt milk.」、かつ、死活的に重大なことは、すなわち、民主党政権が崩壊し自民党が政権を奪回すれば復旧するという類のものではなく、よって、今後、長らく日本の外交と内政の桎梏となるだろうことは、次の(甲)(乙)によって明白ではないでしょうか。蓋し、

(甲)日本外交の負の二重螺旋スパイラル

対支那外交に関して、近隣諸国を与力として圧力をかける「カード」を日本は今回自ら手放した。加えて、「尖閣問題では当該船舶の船長を処分保留で釈放したではないか、つまり、尖閣諸島を巡る領土問題が存在することを日本が容認したとまでは言わないけれど、間違いなくその問題の存在を日本も認識したでしょう」(蓋し、貴方が支那の外交官の立場なら貴方だけでなく誰しもそう言うでしょう!)というロジックの根拠を支那に与えた。これらは日本外交の「不良債権」であり、これらによって、日本外交的は負の二重螺旋的なスパイラル構造へ移行したと言えると思います。

畢竟、今回の「尖閣プレゼント」は対馬も沖縄もプレゼントに至る一本道。極論ではなく、論理的にはそれらは等価ということ。そこが、実効支配はしていないが「平穏なる支配」も韓国にさせていない竹島、あるいは、ロシア側にもそれなりの言い分もある北方領土とは全然違う。而して、この事態を打破するには、保守改革派の政権奪還だけでは、最早、論理的に手遅れで、憲法改正、または、アメリカの51番目の州への格上げが必要なの、鴨です。


(乙)対支那関係における日本の国内法の「空洞化-無力化」

法の生命、法の肝の一つは、法的安定性、すなわち、行為者にとっての国家の行為の予測可能性の確保です。而して、今後、支那の船舶、否、支那の観光客が、日本国内で、例えば、靖国神社境内や伊勢神宮の内宮参拝所で騒動を起こし、公務執行妨害罪の明白な実行行為を行なったとしても、彼や彼女は処分保留で釈放されることになる。少なくとも、彼女や彼がそう期待することは法の生命が「法的安定性=国家の行為の予測可能性」であって見ればそれは正当な期待と言うべきでしょう(蓋し、貴方が支那の観光客の立場なら貴方だけでなく誰しもそう期待するでしょう!)。

この事態こそ、昔懐かしい言葉で言えば、而して、陸奥宗光・桂太郎・小村寿太郎がその半生をその改正にかけたと言っていい不平等条約の一斑、すなわち、「属人的治外法権」がこの事件を契機に支那の人々に与えられたということ。少なくともその論理的可能性を妨げるものは何もなくなったということです。    


ことほど左様に、

民主党政権の罪は歴史的にここに確定した。


と、そう言っても間違いではないと思います。支那の非常識は国益確保という点から理解可能である。しかし、民主党政権の非常識は誰にも理解不可能、と。すなわち、支那の非常識は国益確保の観点からは十分に理解可能なのです(誤解なきように! 容認可能というのではない! 腹減った犬の前に牛肉のミディアムレアの塊を置けば、まず食べるだろうという意味で理解可能ということ)。而して、外交は何でもあり。よって、巷で囁かれている如く、「今回、フジタの4人が中国の依頼によって現地に行った」かどうかなども、今般の日本外交の敗北に関しては何の理由にもならない。

また、民主党政権の幹部の行動も理解可能ではありましょう(これまた誤解なきように! 容認できるというのではないのです。そう、例えば、ある人が万引して店の外に出たけれど誰も追ってこない場合、その万引き犯がそのままずらかろうとするのは人情として分かるということ)。

畢竟、今回の問題の問題点は、民主党政権の対応が国益の観点から見て理解不可能ということに収斂する。これは「弱腰」だから駄目、「勇ましい」から良いという問題ではない。例えば、ある意味、したたかな旧東欧諸国や旧アラブ連邦諸国とソ連との外交関係のように、弱小国でも、ロジックと面子が内外に立つのならば、また、それが前例になってもトータルでは自国に得な、筋の良い案件では「弱腰こそ正解」も(日本を中心に世界が廻っているのではないのだから)外交においては十分にありうるということ。

而して、今回というか、民主党政権の毎度の外交的対応はそんな<凄みのある弱腰>などでは到底なく、なーんも考えていない、考えることができないというものでしょう。真面目に、政権交代まで待てないの、鴨。

尚、(甲)に関しては下記(a)(b)、そして、(乙)については(c)~(e)の拙稿をご参照いただければと思います。

(a)<中国>という現象☆中華主義とナショナリズム(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59895258.html

(b)戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59898544.html


(e)尖閣諸島問題解決の<最適解>としての靖国神社首相参拝
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59908627.html

(c)尖閣問題-共産党にも劣る民主党政権は<張子の虎>以下か?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59902792.html

(d)「沖縄は中国領?」☆さよか、なら、「さよなら沖縄♪」かな?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59900150.html


畢竟、「どの政党が政権を取っても大した変わりはないさ」とはしばし耳にする認識でした。蓋し、確かに国際政治のパラダイムが安定していた古き良き冷戦構造下ではそうだったの、鴨。また、内政に関しては、①グローバル化の昂進著しい歴史段階での、②大衆民主主義下の、③行政権が肥大化せざるを得ない福祉国家であれば一応そうとも言える、鴨。

しかし、こと外交においては、その政権の優駿拙劣は国家と民族の(そして、東南アジアの諸国民にとっては、「諸国家と諸国民」の!)運命と命運を端的に左右しかねない。蓋し、「戦争責任/戦後責任」論などの懐メロ的イシューとは異なり、現在完了進行形の支那の脅威は現下の現役の課題であるという認識とともに、「国家にとっての政権の死活的重要性」ということを国民が学習するとすれば、このことが今回の尖閣事件から日本国民が得る貴重な教訓なのでしょうか。しかし、その教訓の対価はかなり高いものになるのは必定でしょうけれども。


打倒、民主党!共に闘わん!







(2010年9月25日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 尖閣諸島問題
ジャンル : 政治・経済




国際法上、それが日本領であることに全く疑問の余地のない尖閣諸島。その近辺で惹起した現下の「尖閣問題」に関しては、皆様ご案内の通り、支那は(世界中の支那通の<期待>を裏切らない)非常識な反応を示しているようです。而して、いかにすれば「尖閣問題」は速やかに解決可能なのか。このことを読者の皆様と一緒に考えてみたいと思います。

まず支那政府の直近のアクションの確認。

◎「無条件釈放しかない」中国外務省副報道局長
中国外務省の姜瑜(きょうゆ)副報道局長は22日、仙谷官房長官が尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件を巡り、日中間のハイレベル協議を呼びかけたことについて、「両国関係のさらなる悪化を避けるには、船長の無条件釈放しかない」との談話を発表し、船長を釈放しない限り、協議には応じないとの考えを示した。

(読売新聞・2010年9月23日)   



◆尖閣問題が解決するということ

外交における問題解決とは、今、存在してない何が実現することなのでしょうか。実は、プラトン・アリストテレス、あるいは、孔子を引き合いに出すまでもなく、古来、それを正義の実現と理解する向きも少なくありませんでした。

では、TVの水戸黄門よろしく、原則、外交でも正義が勝つものでしょうか? それとも、「印鑑遠からず」、支那の王朝交代の歴史の如く、勝った方が正義であるがゆえに、論理的に、外交では正義は必ず勝つものなのか? あるいは、現行憲法を日本に与えて下さったマッカーサー元帥の行いは国際法違反の非道な所為かそれとも人類史の潮流に掉さした正義の行いか? 


蓋し、何をもって外交交渉や国際紛争の解決における<正義>とするかということ自体が不分明であり、上のようなナイーブな問いは、幾つかの前提を設けない限りそう生産的なものではないと考えます。而して、ここでは、外交における問題解決を、取りあえず、法的安定性と具体的妥当性との間の均衡、すなわち、'''法的妥当性を帯びた秩序の樹立'''と理解することにします。更に、ブレークダウンすれば、それは、

①紛争当事者間で、②当該の紛争に関して、③将来に向けて、
④より安定的な紛争処理のルールが、⑤合意され、
⑥そのルールの実効性が当事者を含む国際関係において担保されること    


である、と。そう理解するということ。

さて、この「外交における問題解決のイメージ」が、そう満更荒唐無稽ではないとするとき、では、今般の尖閣問題に引き付けて考える場合、例えば、

①日支間で、②尖閣諸島近辺に関して、③将来に向けて、
④日本領海・排他的経済水域を支那艦船が侵犯しないことが、⑤合意され、
⑥この合意に反する支那艦船に関する、事実の究明と責任者の処罰、その究明と処罰を確認するための手続についても合意がなされた   


ということにでもなれば、尖閣問題は解決したと言えるのでしょうか。

私はそうは思いません。


なぜならば、「外交における問題解決とは、今、存在してない何が実現することなのか」という問いの前提には、更に、「その外交紛争の中で何が争われているのか」ということが横たわっていると思うからです。而して、尖閣問題においては何が争われているのでしょうか。刑事訴訟法の用語で喩えるならば、尖閣問題の<訴因>と<公訴事実>は何なのか、上の解決の詰め上がり例の場合、この点が私には些か疑問なのです。


畢竟、蓋し、

尖閣問題の問題は、()支那が、「尖閣諸島=国際法上疑う余地のない日本の領土」という事実を認めていないこと、()支那が、「領土紛争の存在する海域においてであろうが、平穏なる実効支配の一斑として、国際法的にも尊重されるべき、違法操業を行なう外国漁船を対象とした日本の法手続き」を政治的に批判することで、日本の国内法の運用を中止させようとしていることである。 


と、私は考えます。

要は、上で述べた「尖閣問題解決のイメージ」は前者の()の側面に関しては評価できるものの、それが、後者の()の側面を看過しているがゆえに、到底、それは問題解決の処方箋足り得ない、と。而して、尖閣問題の問題としての射程をこう捉え返すとき、蓋し、尖閣問題の解決とは、例えば、次のようなものにならざるを得ないのだと思います。すなわち、

①日支間で、②尖閣諸島の帰属決定に関して、③将来に向けて、④⑤それが日本領土であることが合意されたか、あるいは、④その帰属決定のためのルールと、帰属が決定するまでの期間の尖閣諸島近辺での支那艦船の航行と操業のルール、および、ルールを犯した支那艦船を日本が取り締まるルールに関して、⑤合意され、⑥そのルールに実効性を付与する各種の仕組みについても合意がなされた、ということ。   




◆尖閣問題の解決のための処方箋

現在・過去・未来の数多の領土紛争を反芻するとき、それが一度、政治問題化した以上、領土問題を領土の外交問題としてのみ解決することは実質的に不可能と言うべきでしょう。ならば、竹島とパラレルに、国際法的に支那以外のどの国からも疑義を出される筋合いのない尖閣諸島の帰属に関しても、

日本としては、(イ)万端怠りなく実効支配を十全にする一方で(ということは、支那が国外向けに発信する「尖閣諸島=支那の領土」というメッセージには素早く抗議しつつも)、他方、(ロ)支那がその国内向けに「尖閣諸島=支那の領土」と発信することは原則、不問に付し、かつ、(ハ)実効支配の一環としての海上保安庁の活動とその活動に起因する法的手続きについては支那に一切の容喙を許さないことが実現できたのならば、それで、よしとすべきなのだと思います。   

而して、現下の<尖閣問題2010>が日本にとって極めて重大なことは、実は、()支那が「尖閣諸島=日本領土」を否定していることではなく、()支那が、(竹島を不穏に実効支配している韓国とは異なり)尖閣諸島を平穏に実効支配している日本の、よって、それが領土紛争の係争地であろうが国際法的も適切な、尖閣諸島近海を巡る日本の法の運用と執行を政治的圧力でもって「空洞化-無力化」させようとしていることではないでしょうか。

◎尖閣問題の問題性の問題点

Not 尖閣諸島を巡る日本の領有権の否定
But 法治国家である日本の法秩序の否定   


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ポイントは、イエスが語ったごとく、「神のものは神へ、カエサルのものはカエサルへ」返すべきことでしょう。何を言いたいのか。

すなわち、()尖閣諸島を巡る領土問題という政治の範疇の問題を、支那が、<政治の言語>を用いて解決しようとすることはなんら問題ではない(もちろん、支那が、これまで軍事力にものを言わせて、例えば、東南アジア地域で多くの領土・領海を獲得してきている事実を日本人は絶対に忘れるべきではありませんけれども!!)、しかし、()支那が、領土問題と関係はするが一応別の問題である、国際法的にも尊重されるべき日本の法手続きの運用に対して、<法の言語>ではなく<政治の言語>を用いて容喙することは断じて許すべきことではないということです。  

なぜならば、それは「カエサル=法の領域」のものであり、そこに「神=政治の領域」の<価値観-イデオロギー>を導入するということは、(今後、少なくとも、支那関連のイシューに関しては)日本は法不在の政治社会になることを意味しているからです。

ならば、尖閣問題解決のための処方箋は、支那に対して、「神のものは神へ、カエサルのものはカエサルへ返すべきだ」という、国際法と確立した国際政治の慣習を<体得>させること以外にはあり得ないのだと思います。もっとも、民主党政権に「支那の首に鈴をつける」能力があるかどうかはかなり疑問ではありますけれども。


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ビジネスにおいても政治においても、ある問題について唯一絶対のソリューションしかないという事態の方が寧ろ稀であろうと思います。さまざまなソリューションがあり各々一長一短である。冷の剣菱も良いが微温燗の爛漫も捨て難い、と。而して、尖閣問題に関しても、誰しも居酒屋で小一時間も談笑する間にはその「解決策-処方箋」を半ダースほどは思いつくのではないでしょうか。例えば、

自衛隊の尖閣諸島への配備、尖閣諸島への普天間基地の全面移転、逆に、(沖縄県民がそれを望めばの話ですが)尖閣諸島を沖縄県ごと支那にプレゼントする、尖閣諸島とその近海の排他的利用権を999年間支那に譲渡する・・・。
   

重要なことは、<鞭>であろうが<飴>であろうが、これらの'''処方箋は、尖閣諸島問題の解決のための手段'''だということです。極めて重要なことなので、繰り返しますが、手段たる処方箋が実現すべきことは、「神のものは神へ、カエサルのものはカエサルへ」という国際関係を統べる常識、すなわち、国際法と確立した国際政治の慣習を理解できていない支那に対してそれを<体得>させることなのです。而して、日本が選択すべき処方箋は、あくまでも、この目的から見て、最もコストパフォーマンスに優れた、具体的で政治的にも物理的にも実行可能な施策であることになります。而して、2010年の秋、それは何か。

尚、<最適な解>を得るためには、ここで補助線として押さえておかなければならないことがる。それは、今回の支那の行動は極めて非常識なものではあるけれど、支那がこのような対応を選択しているについては、実は、今までもそのような対応が日本に対して効果的であったこと。すなわち、支那の非常識な対応の背景には「プッシュ要因-支那の中華主義」と同時に「プル要因-日本のコトナカレ主義&自虐史観」の存在も見逃せないのではないかということ。

ことほど左様に、支那の非常識の背景としての日本の非常識という補助線までも鑑みる場合、私は、尖閣問題を解決可能な具体的処方箋の中で最も有望なものは、実は、「首相の靖国神社参拝」ではないかと考えます(★)。

★註:政治性と非政治性の揺らぎの構造

元来、靖国神社や皇室は、政治・外交の<カード>として使用すべきものでは断じてありません。けれども、<靖国>にせよ<皇室>にせよ、あるいは、<卓球大会>から<B級ご当地グルメ大会>に至るまで、どのようなものも政治性を帯び得るのであって、逆に、それらを、政治の埒外に置くことができると考えることもまた間違いでしょう。 


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首相靖国神社参拝戦略の採用により、支那の反日動向はもちろん現在よりもより激しくなるでしょう。しかし、「神のものは神へ、カエサルのものはカエサルへ」の原則を歪めてきた<靖国問題>の解消はトータルでは日本にとって得であろう。すなわち、法がその実現を徹頭徹尾保障すべき、靖国神社および時の首相の信仰の自由に属する、よって、カエサルの範疇の事柄である首相の靖国神社参拝を、支那および支那の尖兵&傭兵たる朝日新聞等の反日メディアは、神の範疇たる政治の争点に移し変えてきました。ならば、<靖国カード>は、同様な構図の問題になりかねない尖閣問題を、断乎、「神のものは神へ、カエサルのものはカエサルへ」という国際政治の原則に引き戻しうる論理的必然性と政治的なポテンシャルを孕んでいるの、鴨。要は、ボタンの掛け違いの修正は最初からやり直すに如くはないということ、仮名。而して、

365.25日、毎日是好日!


時は秋、正に、2010年の秋の例大祭は10月18日~20日。畢竟、土台、一国の宰相が、国のためにその命を捧げられた英霊の御霊に感謝の誠を捧げるのに相応しくない日など存在するはずがないのですから。ただし、覚悟すべきは、<靖国カード>をもし万が一民主党政権が今秋切った場合、自民党の政権奪還は更に遠のくだろうということ。これは悩ましいこと、鴨。

尚、支那の外交が世界標準のそれとはかけ離れていることと、そのことが支那自体に関して帯びている現下の意味については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・<中国>という現象☆中華主義とナショナリズム(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59895258.html






(2010年9月23日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 尖閣諸島問題
ジャンル : 政治・経済




皇紀2670年、平成22年、そして、西暦2010年の秋分の日の前日、今日、皇紀2670年、平成22年、そして、西暦2010年の9月22日、本家のYahoo版-海馬之玄関ブログは延べ60万人目のお客様をお迎えすることができました。ブログ友には予めご通知してきましたように、事情があり、また、思う所もあり、この春から夏にかけては「冬眠」ならぬ「春眠&夏眠」に入っていた中での到達。まだ、本格復帰には少し時間がかかる模様ですが、これ<ブログの神様>からいただいた「復帰催促の支度金」なの、仮名。


前の御礼記事でも書きましたように、

実際、「KABU自身の浅学菲才の限界もあり、「曖昧ではないが、分かりやすくもない」という辺りが投稿記事の目標とする線です」、また、思う所があって最近とみに全記事に占める海外報道紹介の比率を増やしていたりもする。これらを見れば、我ながら「ヒット数を上げないことがブログ運営の目標なのではないか」とさえ思える節もある。   


そんな日頃の運営振りを想起すれば、

たかだかブログとはいえこの60万ヒットにはかなりの感慨を覚えます。
なんと言っても、今日、2010年9月22日に60万件ヒットということは、
2005年2月20日のブログ開設以来、

2041日目での60万+αヒット達成
1日平均、294.0+βアクセス


この数字には十分満足していますし、繰り返しますが「春眠&夏眠」中に到達できたことは感慨一入。
日々来訪いただいた皆様には感謝の言葉もありません。



畢竟、いずれにせよ、この「春眠&夏眠」の後は、ヒット数とかブログの賑わいというよりも、同志の方々に参考になる情報と主張を、愚直に発信していきたいと考えています。蓋し、基本に帰り、

(甲)大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判
(乙)戦後の軽薄なこの社会の<属性>でもある、左右のgroup polarizationの批判
(丁)海外報道の、可能な限り手を加えない素の形態での紹介
(戊)法学・哲学・比較教育学等の専門的情報の時宜を得た紹介  


に大方の記事のジャンルを漸次シフトして行き、
而して、自己の得意な技で世の一隅を照らすのみ、と。
蓋し、今後とも日本のためにお互い微力を尽くしたいと念じています。





つまり、具体的には?

はい、それは、

この社会に巣食っている、リベラリズムやポスト=モダンを装った「社会主義の残党と残滓」を叩くのは当然として、また、無知蒙昧で品性下劣なる憲法無効論の論者は当然として、その他、「右派-保守派」を自任する論者であれ、例えば、かくの如き無根拠な言説を、すなわち、単に自己の願望にすぎない言説を、他者をも拘束する根拠を備えた<間主観性のある言説>と勘違いしている論者をも批判の俎上に載せて行くことになると思います。蓋し、彼等は、おそらく、労働価値説と唯物史観の正しさを信じ込んだ上で、護岸不遜で教条主義的な言説を流布したマルクス主義者とその理路の粗雑さと自己中的の心性においてほとんど差はないと考えるからです。

それら右の社会主義者曰く、

女系容認派は、「女系=皇統断絶」という一番重要な点をどう思われているのか。「女系」で形だけを取り繕ってみても、これは文字通りの「皇統断絶」なのですが・・・。保守派を自任する論者の中には、「国民の支持こそが皇統の根拠」というような暴論をぶっている向きもまま見られますが、保守派を自任しておられる方々は、皆そういう拙劣な発想なのでしょうか? そうであれば、「女系容認派」は極左の極み、「保守」など自称して貰っては迷惑千万ですから、きちんと「民族派」なり「国家社会主義者」なりを標榜していただきたいものです・・・。 

民族派は、「愛国心」を保持している分だけ「反日左翼」より幾分かましですが、実のところは「国家社会主義者」であって、「全体主義」の色彩が濃く、「愛国左翼」と呼ぶのが正しいのです。「愛国」と「左翼」が結びつけば、「皇統の根拠は現世の国民による支持である」「現世の我々の意見で皇室典範を変えても良い」などといった異常思想に結実するのです。「法の支配」の意味をきちんと理解していれば、国民などは当然のこと、たとえ、「御皇室」であっても、「天皇陛下」であっても、「皇室典範」に触れる事はならないことは自明の理のはずですから・・・。    

「皇室典範」とは、皇室の家法ですが、最高の日本国法でもあります。ですから、皇位継承は天皇陛下や皇室が決めるものでさえありません。法の支配の始祖エドワード・コーク卿が国王ジェームス一世に対し、自身の処罰をも覚悟して言った言葉。「国王も神と英国法の下にある!(=英国法には国王といえども従わねばならない)」は英米では有名です。同様に、「天皇陛下・皇室でさえ、皇室典範(=国法)に従って頂かねばならない」と言うのが真の回答です。況や、一般国民が皇室典範の改正云々を口にすることすら許されないと言うのが、バーク保守主義からの帰結なのです。日本国民にはっきり言っておきますが、小林よしのりや中西輝政のような、嫌米・嫌韓・嫌支那の国粋主義的な民族派の保守論などは暴論の書の類であり、読む価値など皆無です・・・。    

日本は万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠に存在するものです。
これが万古不易の国体であり、この大義に基づいて一大家族国家として億兆一心
聖旨を奉体し、忠孝の美徳を発揮するものです。
これこそ我が国体の精華なのです。この国体は我が国永遠不変の大本であり
国史を貫いているものなのです。   


等々と、誠に勇ましい。蓋し、「盲、蛇におじず」「知らんということは強い」とは、正に、こういうことを言うのであろう、と。そう、つくづく感じさせられる次第(笑)。しかし、これらの主張には、「私はそうは考えない」という他者を納得させられる根拠は皆無。而して、彼等は、そのような<縁なき衆生>に対しては、「極左」「似非保守」「国家社会主義」「仮面左翼」「法の支配を理解できていない」等々のレッテル貼りでこと足れりと考えるのか、後は、仲間内で「引き篭もり-籠城戦」を決め込み、蓋し、城内の宴に耽ることになる。

而して、社会主義崩壊直前の日本の「マルクス経済学の学徒」の<城内の饗宴>がそうであったことを回顧するに、他人事ながら、自分と異質な思想や発想との、かつ、共通の土俵の上でなされる<饗宴>ではあり得ない、これら、<籠城中の城内の宴>は、その表面的な勇ましさとは裏腹にさぞや退屈で貧困なものであろうと想像します。

具体的に語りましょう。一例を挙げれば、例えば、所謂「法の支配」の理解においても、(何が「法の支配」の原理が価値を認める、伝統の中で守られてきた「法ルール」の内容であるかを発見する)司法の介在を考慮することなく、「自分の伝統と信じるものが、他者をもアプリオリに拘束する<伝統>である」とのたまう、英米流のバーク保守主義とは似ても似つかない、日本でのみなされているバーク保守主義なるものの奇想天外・荒唐無稽な解釈が、よって、「言葉の正確な意味での英米の保守主義」とはほとんど何の関係もないことは自明でしょう。

而して、我々日本の保守改革派は、法律実務の蓄積の点でも法哲学の理論史からもそう規定できる、「反教条主義としての英米流の保守主義」にこそ学ぶべきではないか。と、そう私は考えています。



そう躊躇することなく、左右の社会主義、および、左右のgroup polarizationと思しき現象に対して、上のような些か激しい言辞でこう批判を書くことができるようになったについては、蓋し、この「春眠&夏眠」中に、再度、積み重ねた思索と検算の作業が私に与して力を貸してくれているの、鴨。すなわち、

現象学と言語ゲーム論から基礎づけ可能で、かつ、社会学的に観察可能な、国民の「生きられてある生活世界」の中に自生的に形成され国民の多数がそれに<法的確信>を抱いている諸規範と諸価値は確かに存在している。

ならば、(哲学的に基礎づけ可能で、かつ、社会学的に観察&記述可能な)それらの規範と価値を、新カント派の立場から、すなわち、価値相対主義的な謙虚さを堅持した上で選び取る<実存的な決断>こそ<保守主義の態度>である。そして、そのような伝統を常に再構築しながらも、伝統を自らの責任で選択する態度を好ましいと感じる<美意識>こそ保守主義の真髄であり醍醐である。   


と、現在、私はそう考えています。尚、保守主義を巡る私の基本的な考えについては、下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59891781.html

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879748.html

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html

・女系天皇は憲法違反か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879735.html


而して、そのような保守主義の真髄と醍醐を希求しつつ、少しでも、自分の得意な<技>で世に貢献できるようになりたいな。世の一隅を照らせればいいな。喩えれば、小さな小さな<お弁当>でも、心づくしの<お弁当>をこのブログに来ていただける皆様に提供できたらいいな、そして、その<饗宴=シンポジオン>の中で相互に成長していければいいな、と。そう念じています。


日本国万歳、皇室に弥栄あれ!


共に闘わん。






◆過去の御礼記事

・海馬之玄関Yahooブログ「55万アクセス」達成御礼!【2010年4月28日】
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59477314.html

・海馬之玄関BLOG開設5周年<満願>成就の御礼【2010年02月20日】
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59253537.html

・御礼☆海馬之玄関ブログYahoo版-20,000コメント! 【2010年01月23日】
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59158278.html

・海馬之玄関Yahooブログ「50万アクセス」達成御礼! 【2010年01月10日】
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59112340.html






連帯を求めて孤立を恐れず、
力及ばずして倒れることを辞さないが、
力尽くさずして挫けることを拒否する。
共に闘わん!






(2010年9月22日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済

royalflush


今日、9月21日、自民党は所謂「影の内閣=シャドーキャビネット」のメンバーを発表。蓋し、この<影の閣僚リスト>を見る限り、正直、大方の予想の通りではありますが、自民党の復活はまだまだ当分先のことのように思われます。畢竟、数人を除けば、そこには、政策の骨格策定に踏み込むことにならざるを得ない党内論争を回避した、安全運転の地味な面子と、些か色あせた客寄せパンダOG若干1名の名前が並んでいるだけだったから。

土台、「権力」という求心力装置を失った以上、国粋馬鹿右翼からリベラル左派まで、社会主義的統制経済を志向する論者から新自由主義の信奉者まで、ある意味、多様さにおいては民主党と比べてもそう遜色のない自民党が、党内の路線論争を回避した以上、党勢が<自然死>に向けて衰退&衰微していくことは、それこそ、むしろ<自然の流れ>と言うべきでしょう。

けれども、①グローバル化の昂進著しい、かつ、②行政権の肥大化した福祉国家における、③大衆民主主義下の政治においては、国民の意志を統合する政治政党は、資源と所得の社会的に適正な配分と再配分を具現しつつ社会の統合を維持する上での必須の<社会的制度インフラ>であることも事実。

更に、政権交代をもたらし民主党政権を樹立せしめた先の<8・30>総選挙、そして、その2年前の<7・29>参議院選挙でさえ、自民党支持者と保守系民主党支持者を合算すれば、この国の有権者の圧倒的多数が所謂「保守派」である事実を鑑みるに、自民党が<衰微>するのは必然としても、我々保守改革派の有権者・国民が保守政党の再構築と保守政権の再興を期待するのもまた当然であり、而して、()人材の豊富さ、()国家経営と国政運営、すなわち、政権担当能力から見て再生され再興されるべき保守政党と保守政権の中核は現下の自民党以外には見当たらないのも事実。以下、そのような現下の<自民党自然死前夜>の情勢を報じた新聞報道です。

●河野氏を「行政刷新担当相」に 自民、影の内閣内定
自民党は21日、新設する「シャドーキャビネット(影の内閣)」の担当を内定した。首相に谷垣禎一総裁、官房長官に石破茂政調会長が就くほか、河野太郎前幹事長代理を行政刷新担当相に起用した。また、山本一太参院政審会長が政調会長代理に就く。22日の総務会で正式決定する。シャドーキャビネットの担当は以下の通り。(敬称略)

▽首相=谷垣禎一
▽官房長官=石破茂▽総務相=岩城光英
▽法相=平沢勝栄▽外相、沖縄・北方対策相=小野寺五典
▽財務相=林芳正▽文部科学相=下村博文
▽厚生労働相=田村憲久▽農林相=宮腰光寛
▽水産相=野村哲郎▽経済産業相=西村康稔
▽国土交通相=山本公一▽環境相=田中和徳
▽防衛相=岩屋毅▽国家公安委員長、金融・経済財政・消費者・国家戦略担当相=竹本直一
▽防災担当相=長島忠美▽行政刷新・公務員制度改革担当相=河野太郎
▽少子化担当相=橋本聖子

(産経新聞・2010年9月21日)
    


inadasan2



自民党<衰微>は不可避。けれど、保守政党の再構築、而して、その再構築されるべき保守政党の中核は現在の自民党以外にはありえない。この一見相矛盾する現実から目を逸らさない場合、では、我々保守改革派はどのように行動すべきなのか。一体、日本はどこへ行こうとしているのか。そもそも、自民党はなぜにこのような状況に追い込まれたのか。自民党が苦境に陥った原因と自民党を取り巻く現下の状況に関する私の基本的な状況認識については下記拙稿をご参照いただくとして、本稿はこの「Japon, Quo vadis?」の問題意識から、「自民党解体→自民党再生→政権奪還」のための処方箋。その結論部分の走り書きです。

・自民党解体は<自民党>再生の道
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59586792.html

・自民党<非勝利>の構図-保守主義とナショナリズムの交錯と乖離(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59722931.html



而して、その結論とは、

・保守政党による政権奪回の道は自民党の再生であり、
・自民党再生の道は自民党の解体である。而して、
・自民党再生の切り札は<Royal Flush Hearts>に他ならない


すなわち、

執行部を一新して、稲田朋美・小池百合子・丸川珠代等の諸氏に自民党と日本の保守政治の、畢竟、日本の将来を託すこと。重要なことは、単なるお神輿や選挙目当ての看板としてではなく、彼女達に党内の人事権を始めすべての党内権力を集中すること。

更に、森喜朗・福田康夫の両元首相等の引退。安倍晋三・麻生太郎の両元首相を始め、町村信孝・額賀福志郎・谷垣禎一・古賀誠・伊吹文明・二階俊博・高村正彦等々の有力者は、率先して新執行部のための<球拾い>と<バッティングピッチャー>、あるいは、<マネージャー>に専念すること。もちろん、この<マネージャー>とは、「監督」という意味ではなく、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』の「マネージャー」の意味です。

これが、江戸幕末の如き、あるいは、鎌倉幕末の如き、(イ)能力的には遥かに倒幕勢力を幕府側が上回りながらも、(ロ)時代の流れの中で、「資源と所得の適正な再配分」、そして、国民意識の統合をなしえなくなった自民党を再生させる道であろうと私は考えます。 

  

自民党<衰退>の原因は、複雑に絡み合った既得権的利害調整が政治のほとんどすべてを占めるに至った<しがらみ>であるとすれば、そのようなしがらみから相対的に距離を置いてきた、また、自民党の結党の理念をより率直に政治に反映させるモティベーションが高い、女性政治家を抜擢するに如くはない。と、そう私は考えるからです。

而して、鉄血宰相ビスマルクが喝破したように、(立憲主義の支配する近代国家においては)「政治とは予算」であり、その政治を動かす「権力とは人事権」に他ならない。ならば、我等がハートのロイヤル・フラッシュ(royal [straight] flush hearts)が、「党内の人事権」を適宜行使しながら、(a)下記の指針を堅持して、(b)国民に新生自民党の政策を分かりやすく語りかけることができたならば、そして、(c)組織の呈をなした組織に自民党を生まれかえらせるのであれば、「お雛様執行部=選挙目当ての執行部」などという為にする批判は早晩雲散霧消するものと私は考えます。尚、私の考える「保守主義」の内容については下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59891781.html

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879748.html

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57528728.html



・構造改革と地方再生を同時に確実に具現すること
・戦後の権門体制、すなわち、「政官財+労組」と自民党のしがらみを断ち切ること

・冷戦構造下の欺瞞に満ちた惰眠から国民を覚醒させること、
 就中、集団的自衛権の解釈変更と憲法改正の断行
・アメリカとの同盟強化、特定アジアとは「政凍経冷」を目指すこと

・英米流の中庸を得た言葉の正確な意味での<保守主義>を具現すること
・皇室をその不可欠の一部とする日本の国柄を自覚的に復活強化し、世界の保守勢力との連携を強化すること


而して、「自民党解体→自民党再生→政権奪還」を期した、
自民党の執行部として私が期待する「Team of royal flush hearts」
は次の通り、




◆KABUの希望する再生自民党の新執行部


inadasan6

総裁:稲田朋美
DOB:1959年2月20日
POB:福井県今立町(現:越前市)
EDU:早稲田大学法学部
OCC:弁護士
CID:衆議院議員(当選2回:財務金融委員会)     




koikesans.jpg

幹事長:小池百合子
DOB:1952年7月15日
POB:兵庫県芦屋市
EDU:カイロ大学社会学部
OCC:ニュースキャスター
CID:衆議院議員(当選6回:予算委員会)     




marukawasans.jpg

政調会長:丸川珠代
DOB:1971年1月19日
POB:兵庫県神戸市
EDU:東京大学経済学部
OCC:テレビ局社員
CID:衆議院議員(当選1回:厚生労働委員会)     




yamatanisans.jpg

総務会長:山谷えり子
DOB:1950年9月19日
POB:東京都武蔵野市
EDU:聖心女子大学文学部
OCC:ジャーナリスト
CID:参議院議員(当選1回:元衆議院議員(当選1回), 内閣委員会)    





sakuraisanbig.jpg

最高顧問:櫻井よしこ
DOB:1945年10月26日
POB:ベトナム・ハノイ
EDU:ハワイ大学マノア校史学部
OCC:ジャーナリスト
CID:N/A    







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catandtool


まず、昨日、2010年9月20日、敬老の日のしんぶん赤旗の記事抜粋。

◎日本の領有は正当-尖閣諸島 問題解決の方向を考える

沖縄の尖閣(せんかく)諸島周辺で今月、中国の漁船が海上保安庁の巡視船に衝突し、漁船の船長が逮捕されたことに対し、尖閣諸島の領有権を主張する中国側の抗議が続いています。日本共産党は、同諸島が日本に帰属するとの見解を1972年に発表しています。それをふまえ、問題解決の方向を考えます。

・歴史・国際法から明確
尖閣諸島(中国語名は釣魚島)は、古くからその存在について日本にも中国にも知られていましたが、いずれの国の住民も定住したことのない無人島でした。1895年1月に日本領に編入され、今日にいたっています。1884年に日本人の古賀辰四郎が、尖閣諸島をはじめて探検し、翌85年に日本政府に対して同島の貸与願いを申請していました。日本政府は、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで1895年1月14日の閣議決定によって日本領に編入しました。

歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為であり、それ以来、日本の実効支配がつづいています。所有者のいない無主(むしゅ)の地にたいしては国際法上、最初に占有した「先占(せんせん)」にもとづく取得および実効支配が認められています。

日本の領有にたいし、1970年代にいたる75年間、外国から異議がとなえられたことは一度もありません。日本の領有は、「主権の継続的で平和的な発現」という「先占」の要件に十分に合致しており、国際法上も正当なものです。

中国側の領有権主張は70年代から中国、台湾が尖閣諸島の領有権を主張しはじめたのは1970年代に入ってからです。1969年に公刊された国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の報告書で、尖閣諸島周辺の海底に石油・天然ガスが大量に存在する可能性が指摘されたことが背景にあります。台湾が70年に入って尖閣諸島の領有権を主張しはじめ、中国政府も71年12月30日の外交部声明で領有権を主張するにいたりました。

たしかに、尖閣諸島は明代・清代などの中国の文献に記述が見られますが、それは、当時、中国から琉球に向かう航路の目標としてこれらの島が知られていたことを示しているだけであり、中国側の文献にも中国の住民が歴史的に尖閣諸島に居住したことを示す記録はありません。中国が領海法に尖閣諸島を中国領と書き込んだのは1992年のことでした。それまでは、中国で発行された地図でも、尖閣諸島は中国側が「領海」とする区域の外に記載されていました。

(しんぶん赤旗2010年9月20日の紙面より)    


 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-09-20/2010092001_03_1.html



catandcat



◆海馬之玄関ブログの感想


日本共産党でさえこう言うてはるんやで、

なら、民主党政権、尖閣問題、どないすんねん!

それと、自民党も、アリバイ的にもごもごもごもご、

「尖閣諸島は日本の固有の領土、尖閣諸島周辺には領土問題は存在しない、中国政府の今般の一連の対応は遺憾」等々、言うとるだけやのうて、ちゃんと、その正しい主張を内外に発信して、支那をディベートに引きずり込まんでどないすんねん!   


民主党も自民党も、ネコの共産党にも劣る、

張子の虎か、ちゅーねん!


要は、

尖閣諸島の問題もそうやねんどな、外交問題は、就中、特定アジアとの問題は、ディベートで解決せな埒はあかんということや思うんですよ。而して、欧米でも特定アジアでも(要は、日本以外では?)

「ディベートで解決」ちゅーことはやね、

①「武力や実力行使ではなく理性的な言論で解決」


という意味だけやのうて、ていうか、
そんな①のニュアンスと違うて、

②ロジックと広報戦略を武器にした<喧嘩>で解決するという意味なんやで、と。   


今般の尖閣問題では、このことを、日本国民が学習するえー機会に自民党はせなあかんのとちゃうやろか。と、そう私は思うんです。

畢竟、この須臾の間、日本国民の眼前で繰り広げられてきた外交安全保障分野での無為無策、支離滅裂&偽装牛肉・・・的の状態を想起すれば、民主党政権の実害は憂慮すべきではある。確かにそれはそうなんやけど、他方、コトナカレ主義の<性善説>が(要は、なんか支那や韓国が怒りはって、問題が生じたんは日本外交の失敗やとか、例えば、「小泉首相の靖国神社参拝」は日本外交の例外的な大失敗やったんやでとかの認識が)あたかも世界の常識であるかの如く伝えてきた、これまでの朝日新聞を始めとする日本のメディアの非常識な虚偽が、この尖閣諸島問題を契機に露呈しつつあるのは、せめてもの朗報や言うべき「鴨南蛮」やなかった、言うべきなんかもしれへんな。と、そう私は考えてます。


その点、「流石、筋論で矜持を示した虎ネコ、じゃなかった、共産党」というべき、鴨。

ということで、ほんま頼むで。

張子の虎、じゃなかった、民主党と自民党。




hosino-aki629ss.jpg



尚、尖閣問題がもう一つ炙り出した日本の問題、沖縄問題について。

そして、更にもう一つ、

近代の「国民国家」成立以降、現下の、①グローバル化の昂進著しい中の、②大衆民主主義下の、③行政権が肥大した福祉国家では、就中、政権を目指す「包括政党」においては、()各政党の政策が漸次接近して変わりばえしなくこと、()ナショナリズムが左右を問わず(日本共産党から維新政党新風に至るまで)政党の政策の標準装備の枠組みになる経緯    


これらについては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・「沖縄は中国領?」☆さよか、なら、「さよなら沖縄♪」かな?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59900150.html

・自民党<非勝利>の構図-保守主義とナショナリズムの交錯と乖離(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59722931.html

・政党政治が機能するための共通の前提
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59892102.html


б(≧◇≦)ノ ・・・打倒、民主党!
б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!!





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海上自衛隊嬢


支那の新聞に「沖縄は日本が不法占領」しているもので、元来は、支那の領土であるとする論文が掲載されたそうです。曰く、「かつての琉球王国住民の大部分は福建省、浙江省、台湾付近の出身で、言葉も制度も中国大陸と同じだった」、と。この<論文>は、もちろん、現下の尖閣沖での日支の紛争を巡る、支那側のなんらかの政治的意図を帯びたものでしょうし、なにより、法学と言語学の専門的知見からは馬鹿げた主張なのですが、しかし、いろんな意味で考えさせられる<論文>だと思いました。

蓋し、国際法的に見て、また、言語学的に見ても、あるいは、民俗学的に見て、更には、DNA的に見ても「沖縄は日本の領土」であり、沖縄県民、所謂「ウチナンチュー」と、日本列島本土の住民、所謂「ヤマトンチュー」とが遅くとも2千年以上前から<民族学的な意味での同族>であったことは紛れもない事実です。

それに比べれば、

この同じ2千年間で、少なくとも、五胡十六国、五代十国の2回、(民族浄化どころか)DNA的にはほとんどその社会を構成するメンバーが総入れ替え状態になり、かつ、(大体、支那の最初の王朝、殷や周自体が、それ以前の夏王朝や殷王朝にとっては異民族が侵入して打ち立てた王朝じゃねーか!)隋・唐、元、清と4代3期に亘り、非漢民族の王朝に支配されてきた支那人に「言葉も制度も中国大陸と同じだった」などと、ハッタリを言われる筋合いはねぇー!  
  

なのです。ということで、
支那紙に掲載されたこの戯けた<論文>についての報道紹介。


◎中国紙、「沖縄は日本が不法占領」との論文掲載

19日付の中国紙、環球時報は琉球(沖縄県)は明治政府が19世紀末に清国から奪い取ったもので、日本政府は今も沖縄住民の独立要求を抑え込んでいるとの趣旨の署名入り論文を掲載した。

中国大陸に近い尖閣諸島(中国名・釣魚島)については中国領であることは明白で「日本には中国と話し合う資格もない」と結論付けている。

筆者は在日中国大使館勤務経験がある商務省の研究者、唐淳風氏。

論文ではかつての琉球王国住民の大部分は福建省、浙江省、台湾付近の出身で、言葉も制度も中国大陸と同じだったと断言。

(共同:2010年9月19日)   



実際、

紀元前後の前漢・後漢の支那人のDNAからは、当時の支那人は現在の東欧の人々と縁戚であった、また、中国語の統辞論研究(要は、文法の研究)からは、それが(インド=ヨーロッパ語とは別系統であるにせよ、むしろ)印欧語に近しい、と考えられる。   

これらは誰も否定できないこと。また、

律令制のシステムを継受した国は、日本であれベトナムであれ朝鮮であれ、大なり小なり、支那と「同じ制度」を使用したと言える。それは間違いない。なら、現在、英米法系やドイツ法系の法制を継受している国は、実は、英国やアメリカやドイツの領土なのか? なら、実は、戦前の日本法の影響をかって濃厚に継受していた(そして法域によっては現在も継受している)韓国や支那は日本の領土なのか?    

而して、国際法の話。

沖縄が、かって、日本だけでなく支那にも朝貢していたことが(要は、当時の環東シナ海の国際関係においては、「朝貢=貿易」に他ならない!)沖縄が支那の「固有の領土」である理由になるというのなら、支那は(鮮卑や元の後身たる)モンゴルの領土であり、同様に、現在のイラクもクエートも、シリアもエジプトも、トルコの領土になります。

元来、現在の国際法には、白黒はっきり言えば、「固有の領土」という<固有の概念>は存在しないと言った方が正確。要は、大体において近隣諸国からおおよそ認められた平穏なる実効支配がなされているかどうかが「現在の領土問題解決のαでありω」なのです。歴史的事実や記録などは、この「α=ω」が成立していない場合の、紛争解決のための交渉のそのまた資料という位置づけにすぎない(念のために申し添えておけば、だからこそ、尖閣諸島も竹島も日本の領土なのですけれども)。

畢竟、「沖縄が支那の領土」などということはあり得ない。   


これらの事実を踏まえるならば、「言葉も制度も中国大陸と同じだった」などとはよく言ったものだなぁー、と。流石、その厚顔無恥の見事さは、到底、皇室を中心に<大家族類似共同体>として2670年間暮らしてきた我々日本人が真似のできることではないよなぁー、と。この報道に接して皮肉ではなく感心してしまいました。

尚、支那の「世界観-宇宙論」たる「中華主義」、および、土台、<漢民族>という実体が存在していないこと、また、比較言語学的な日本語の歴史に関しては下記拙稿をご参照ください。

・<中国>という現象☆中華主義とナショナリズム(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59895258.html

・日本語と韓国語の距離☆保守主義と生態学的社会構造の連関性
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59190400.html





けれども、しかし、私は思うのです。

もちろん、沖縄は間違いなく日本の領土であり、沖縄県民も間違いなく日本人である。けれど、もし、沖縄県民がその総意として希望されるのならば、沖縄が独立しようが、支那に併合されようがそれはそれでかまわない、と。

畢竟、公共施設に掲げられた日の丸を焼き、皇室に火炎瓶を投げた沖縄。普天間基地問題で、やらずぼったくりを繰り返しながらいまだにごね続けてている沖縄。そして、現下においても沖縄で繰り広げられている、自衛隊の隊員諸氏、そして、同盟国であるアメリカの米軍将兵に対する、<沖縄人>の無礼千万&失礼千万な振る舞い・・・。

これらをを見るにつけ、私はそう感じるのです。

否、自衛官の親族としては、本音では、「沖縄なんか、支那に熨斗つけてくれてやりたい!」くらいですけどね。実際の所、このブログを立ち上げて以降の5年間に限っても、沖縄に関しては堪忍袋の緒が三回くらい切れてますから、独立しようが、支那に併合されようが、お好きにどうぞ、と。而して、その方向性を沖縄県民が決められるまでは、少なくとも沖縄関連の予算は全面凍結でいいのじゃないでしょうかね。
   
すなわち、

戦後生まれの本土の人間にとって「鉄の暴風雨」とやらがいかほど激しかったにせよ、それは、現在、沖縄が特別扱いされる理由には全くならないということ。大体、国民が等しくその運命を甘受するしかない戦争状態において、かつ、どの国の国土も、位置的にも地勢的にも歴史的にも非対称である以上、「沖縄は本土の犠牲になった」という表現自体が成立しないのではないでしょうか。「沖縄」は「日本」の一部ではないのか、と。

なら、沖縄戦に向け戦艦特攻を敢行し撃沈した大和の乗組員遺族や、沖縄戦後、その占領された沖縄を出撃&補給拠点としたアメリカの攻撃に終戦の9月2日までさらされた本土の被害と恐怖を沖縄県民が償ってくれるとでもいうのだろうか、と。<沖縄>以外の日本人は誰もそんなこと思いつきもしないでしょうけれどもね。 
    
と、ことほど左様に、

もし、<沖縄人>が<日本人>としての誇りもアイデンティティも失っているのならば、たとえ、<沖縄人>がDNA的や言語学的や民俗学的には間違いなく<日本人>であろうが、また、国際法的には間違いなく沖縄が日本の領土であろうが、もう、いいよ、と。日本から出て行ってくれ、と。別に、日本にいてくれなくてもいいよ、と。    

そう、私は<沖縄>に言いたい。而して、<沖縄>にそう言いたい気持ちを自分が抱いていることを、この支那の専門的には戯けた<論文>を俎上に載せた報道に接してくっきりと確認できました。

ということで、

「さよなら沖縄」も合理的な選択肢なの、鴨。


ならば、この支那の戯けた<論文>は、案外と、
我が邦の八百万の神々の深謀遠慮のなせる業なの、鴨。

と、そう私は考えています。

あきちゃん



尚、沖縄に対しての戦後責任など法的にも思想的にも成立する余地のないこと、また、コミュニティーに自生する<伝統>に価値を置く保守主義の立場からも、<日本である沖縄>が<日本>から独立しようとも、それは、少なくとも思想的には特に問題はないという経緯に関しては下記拙稿をご参照ください。

・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59898544.html

・<伝統>の同一性と可変性☆再見沖縄?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59839208.html



さよなら沖縄?

再見 or 不再見-沖縄?







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日韓併合条約締結から100年。この社会では、しかし、「日韓併合条約はその当初から無効だった」などという妄想を喧伝する論者も少なくないようです。而して、「日韓併合条約の無効性が認識できない者は、無知か狭量か、いずれにせよ、歴史を見る眼か、または、道徳心か、あるいは、その両方が曇っているのだ」、と。それくらい言い出しかねない勢いで、彼等は国際法的に全く成り立たない独善的な議論をして毫も恥じ入る気配もないように見える。本稿では彼等のこの心性の構図を俎上に載せたいと思います。

日韓併合条約の法的性質に関して、例えば、和田春樹や高橋哲哉、または、戸塚悦朗や中塚明等の論者の<研究>など国際法的にはなんの価値もない。すなわち、日韓併合条約無効論が成立しないのは証拠の不足ではなく法的論拠の不在が主な理由ということ。つまり、

彼等がいかに日韓併合条約締結の事情や背景を精緻に調べて、1910年当時、その自由意思が全く認められない程、韓国が日本に抑圧されていたという事実を言挙げしようとも、「どのような事態が存在すれば、日韓併合条約は当初から無効だったと言えるのか」「そもそも条約が当初から無効であるということはどういうことなのか」という議論の根幹が不分明なままであれば、彼等の努力や主張は「笊で水を汲む」シューシュポスの神話的で無意味な行為でしかないのです。   

この点に関しては、実際、韓国側が招集したとされる国際会議でも、無効論の主張は欧米の国際法研究者からことごとく退けられており、また、現在の民主党政権でさえも「日韓併合条約は有効に成立した」と認めていることを鑑みれば、無効論の根拠の薄っぺらさといかがわしさは自明であろうと思います。閑話休題。

grapechapter.jpg

◆世界標準としてのナショナリズム

グローバル化の昂進と轍を一にして、日本社会では新しいタイプの<ナショナリズム>が蔓延しつつある。と、戦後民主主義を信奉するリベラル派の論者はそう危惧しているのでしょうか。5年近く前の論稿ですが、逆に言えば、それだけ彼等の危惧を簡明直截に吐露していたとも言えるテクストがある。『世界』(2006年2月号 pp.104-111)掲載の中西新太郎「開花する「Jナショナリズム」 『嫌韓流』というテクストが映し出すもの」。同稿を導きの糸にしてリベラル派の心性を観察してみたいと思います。尚、現在では、すべての国のすべての政権は<ナショナリズム>をその基軸に据えざるを得ないことに関してはとりあえず下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・自民党<非勝利>の構図-保守主義とナショナリズムの交錯と乖離(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59722931.html

同稿は、何の根拠も示すことなく、『嫌韓流』を「あからさまな排外主義的言説」と断定し、それを歓迎した世間の動向を「ナショナルな言動がこれほど急に浸透するようになった」と看做している。正に、「あなた何様」ものの論稿。以下、引用します。


インターネットの世界から生まれたといえるコミック、山野車輪『嫌韓流』(晋遊舎)がベストセラーになったことに、「なぜ?」と疑問を抱く向きは多かろう。ただし、・・・なぜ青年層があからさまな排外主義的言説を支持するのか、なぜナショナルな言動がこれほど急に浸透するようになったのか・・・、等々、疑問の焦点は必ずしも定かではない。

そしておそらく、これらの漠とした疑問の底には、今日の青年層にたいする、その心情や振る舞いの「わからなさ」に対する不安と不満が潜んでいる。・・・つまり、戦後日本のナショナリズム感情とは異質で、それゆえに既存の批判が通用しないナショナリズムが広がっているのではないか、という危惧である。

『嫌韓流』・・・には、しかし、「新しい歴史教科書をつくる会」などの既存の右派言論と異なる目新しい内容があるわけではない。したがって、・・・『嫌韓流』現象に固有の問題はそれでは浮かび上がって来ない。また、『嫌韓流』の読者ももっぱら若年層に限定してとらえることにも留保が必要であろう。マンガという表現形式が通用する読者層は四〇代まで及んでおり、少なくとも三〇代ホワイトカラーはすべて読者層に想定しうる。・・・

筆者の結論を予示的に述べておく。『嫌韓流』流行現象における「テクスト様式-解読様式」の全過程は表象のコロニアルな暴力を亢進させ、新たな性格を帯びた攻撃的ナショナリズムの出発を予兆している。このナショナリズムは、軍事大国化を遂げようとする現代日本の歴史的段階に見合うものであるとともに、後述するいくつかの位相を持った文化的自閉性の帰結でもある。(以上、引用終了)   


ポスト=モダンの衣装を纏った左翼流の文体には些か閉口させられましたが、その理路は曖昧ではない。
すなわち、


①『嫌韓流』流行現象の底には、グローバル化の進行の中で、かっての植民地支配国と被植民地国という歴史的に特殊で個性的な日韓の関係をも世界の他の国との関係の中のone of them と見る視点がある

②このような「クールな視点」からは、被害者である韓国の人々が感情的に日本の責任を言いつのる姿勢はそれだけで説得力の薄いものと感じられ、『嫌韓流』にビルトインされている「理性的日本」対「感情的韓国」という対比の構図は、言説の内容以前の段階で日本側の主張に説得力を付与する様式である

③この「ジャパン・クール」という姿勢は、かっての植民地支配に対して怒りを感じないではおられない、よって、クールにもシニカルにもなれない韓国の人々を見下す表象のコロニアルな暴力にほかならない

④『嫌韓流』流行現象の基底には、復古的なナショナリズムとはとりあえず異質な、グローバル化の時代の新たなナショナリズムの萌芽が看守できる。それは、中韓朝という特定アジアの国々と日本との歴史的に特殊な関係にあまり関心を示さない、「文化的自閉性の帰結たる」「軍事大国化を遂げようとする現代日本の歴史的段階に見合う攻撃的ナショナリズム」である、と。   


蓋し、③と④後段の「文化的自閉性の帰結」や「軍事大国化を遂げようとする現代日本の歴史的段階に見合う攻撃的ナショナリズム」なるものを除けば、私は同稿の認識はおおよそ妥当だと思います。

畢竟、韓国併合は国際法上なんら違法でも不当でもなく、また、特定アジア諸国を含む世界のすべての国との戦争処理も日本は(ナチスに責任を押し付けて戦後処理を糊塗したドイツとは違い)完全に終えている。ならば、現在、まして、戦後生まれの日本人が特定アジア諸国に対して謝罪すべきことなど皆無であり、更なる賠償の必要など毛頭ない。而して、かくの如く、特定アジア諸国を含む他国と確立した国際法と国際慣習に従い日本が付き合おうとするのは当然のことでしょう。   

要は、同稿が「ジャパン・クール」と呼んで批判している国際関係のパラダイムは、むしろ、世界のデファクトスタンダードなのです。ならば、「文化的自閉性」なる言辞は、むしろ、中華鍋じゃなかった中華主義を振り回す特定アジア諸国にこそ相応しいのではないでしょうか。

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◆戦後責任論の衰退とナショナリズムの再興

戦後責任論を切り口に、更に、リベラリズムの独善性を観察します。

高橋哲哉さんは、『戦後責任論』(講談社・1999年12月/講談社学術文庫・2005年4月)および『歴史/修正主義』(岩波書店・2001年1月)等の著書で精力的に(専ら日本の)戦争/戦後責任論を展開されている。而して、そのロジックは、例えば、家永三郎『戦争責任』(岩波書店・1985年7月/岩波現代文庫・2002年1月)等の、戦後第一世代の戦後責任論と比べればエレガント(尚、高橋戦後責任論に関しては下記拙稿をご参照いただければありがたいです)。    

・書評☆高橋哲哉『歴史/修正主義』
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59883244.html

これら新旧の戦後責任論は概略こう要約できるでしょう。

◎家永説:
「なぜ自分の生まれる前の、自分としては関知せず責任を負うよしもないこと思う行為に対して、恥ずかしさを覚え、それにふさわしい応対をしなければならないのか。それは、世代を異にしていても、同じ日本人としての連続性の上に生きている以上、自分に先行する世代の同胞の行為から生じた責任が自動的に相続されるからである」(前掲岩波現代文庫、p.338)、と。 
   

しかし、同書のどこにも「責任が自動的に相続される」根拠は示されてはいないのです。
蓋し、同書の理路は、「日本人は戦争責任がある」→「戦後生まれの日本人も日本である」→よって、「戦後生まれの日本人にも戦後責任がある」というもの。而して、この主張の是非は、初項の「日本人は戦争責任がある」の妥当性に帰着せざるを得ず、それは結局、「日本人」「戦争責任」の定義問題に収斂する。

ならば、小倉紀蔵さんの言葉を借りれば、その主張の根拠は「良識ある日本人なら戦後責任があると感じるのがあたり前である」という家永さんの信念にすぎないということになりましょう。尚、小倉さんの日韓関係認識には、例えば、「今後、韓国と敢えて疎遠になる」という日本の選択肢が意図的に除外されている等々の問題も見受けられますが、本稿の論点を考える上でも参考になります。ご興味のある方は下記拙稿をご一読ください。

・小倉紀蔵『歴史認識を乗り越える』の秀逸と失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/20460048.html



◎高橋説:
高橋さんのロジックは二重構造。すなわち、(A)戦争の悲惨を知ったことに発する(戦争被害者の声に応答する)倫理的な責任と、(B)法的に連続している日本国の一員としての法的な責任の結合が高橋戦後責任論の実体ということ。    


しかし、

(A)は高橋さんの美意識にのみその根拠があり、そのような美意識を共有しない論者に対しては家永責任論と同様、なんの説得力もない。

より滑稽なのが(B)。それは、「日本国民の法的規定性」を戦後責任の根拠と考えるのですが、そのような「法的に連続している日本国の一員としての法的な責任」なるものは、結局、日本の戦争処理が法的に完全に終了している以上無内容だからです。而して(B)に関して高橋さんは、「戦後生まれの日本人も責任を負っている。それが嫌なら、日本国のパスポートを返せ/日本国からの行政サーヴィスを受けようと思うな」と述べておられますが、これなどは振り込め詐欺の類の言説ではないかと思います。   
 

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蓋し、「Jナショナリズム」批判は、これら戦後責任論が共感を獲得できていたであろう、戦後民主主義を信奉する論者にとっての<古きよき時代>には一応の妥当性を帯びていたのかもしれません。しかし、歴史的に特殊な「固有名詞」の二国間関係を均一な「普通名詞」の二国間関係に移行させるグローバル化の昂進にともない、戦後責任論自体がその説得力を喪失してしまった現在、その崩壊した戦後責任論を基盤とした<ナショナリズム>批判には(例えば、『嫌韓流』を支持する読者にとっては)何の説得力もないのではないでしょうか。

而して、グローバル化の進行は誰も止めようがない以上、特定アジア諸国も、早晩、グローバル化とより親和性の高い国際関係の作法、すなわち、確立した国際法と国際慣習に従う行動様式と心性に、つまり、「ジャパン・クール」と類似の行動様式と心性に、漸次、移行せざるをえなくなるの、鴨。

ならば、再興しつつある、そのような世界標準の<ナショナリズム>に「Jナショナリズム」というレッテルを貼ることは、喩えれば、もうそこで買い物をすることは金輪際ない店から、「あなたは出入り禁止です」と言われたに等しい、イソップ童話の「酸っぱい葡萄」類似の事態であろうと思います。




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(2010年9月20日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済

戦争克服3


現代落語? 本書を最初に読んだ時そう思いました。その帯び広告にはこう書いてあった。「地上最強の自由人(博奕打ち兼業作家)が、当代随一の哲学者と国際法学者に、素朴な疑問をぶつけました! 戦争って何だろう? それをなくすことは可能なの?」、と。これが本書、阿部浩己・鵜飼哲・森巣博『戦争の克服』(集英社新書・2006年6月)の惹句です。

蓋し、「誰が当代随一の哲学者と国際法学者」であるかを言挙げするなどは大人気ないこと。けれども、当代随一の方々が加わったにしては、本書は「戦争とは何か」という問いに納得のいく回答を与えているとは言えない。これが正直な読後感です。

本書は三氏の対談と鼎談。それは、しかし、森巣さんの言葉を借りれば「チューサン階級」(=中学三年生程度の知識の持ち主)による床屋談義の域を大きく出るものではない。ならば、本書で展開されている、「戦争とは何か」を巡る国際法の諸説(cf.pp.148-152:★)に関する説明を批判することも大人気ないことでしょう。

而して、本稿では本書の死角と思われる一点を紹介し、もって、「戦争とは何か」を考えた本書の偏りを指摘する。尚、戦争を巡る私の基本的な考えについては下記拙稿を参照いただければ嬉しいです。

・集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59856822.html

・「核なき世界」なるものを巡る日本と世界の同床異夢
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59797305.html

・妄想平和主義の基底☆戦争は人為か自然か?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/19564598.html


★註:戦争とは何かを巡る諸説
①聖戦論:「正しい戦争と正しくない戦争が存在する」という主張。「何をもって両者を区別するのか、あるいは、誰がその判定を行えるのか」がこの説の難点。②無差別戦争観:「戦争には正しい/正しくないという区別は存在しない。よって、国際法の課題は、事実状態としての戦争に起因付随する惨禍と悲惨をいかにミニマムに制御するかに収斂する」という主張。③戦争違法観:「すべての戦争は違法である」という主張。但し、現在の歴史段階においては、国連憲章に定める3種類の武力行使パターン(集団的安全保障・自衛権行使・地域的取極め)は例外的に許されているとする。

この三者は順に19世紀以前、20世紀前半、20世紀後半を代表する戦争観ですが、現在、③の戦争違法観が無条件に正しく、よって、例えば、アメリカの所謂「単独行動主義」を基礎づける<聖戦論の再生>は間違いというわけではありません。むしろ、(a)自衛戦争以外の戦争は違法と考えられたことにより、かつ、(b)どの紛争当事国も自国の武力行使を自衛のためのものと主張するのは自然の流れである以上、(c)非戦闘員と戦闘員の双方に対してより公平でより手厚い保護が与える「戦時国際法」の運用が③では妨げられるとの批判は根強いのです。

現実的には、「聖戦=自衛戦争」と読み替えた上で再構築される①新しい聖戦論か、もしくは、国際人道法の観点から、戦時の人権確保をより実務的に手厚くした上での②新しい無差別戦争論、あるいは、これら両者の併用がより適切な戦争観なの、鴨。と、そう私自身は考えています。   



戦争克服1



本書の死角。それは「殺人が道徳的・倫理的に許される/推奨されるケース」を看過していることです。而して、その理路の綻びは、戦争と死刑をパラレルに捉え、国家や為政者には戦争にせよ死刑にせよ人を殺すなんらの正当性もないという主張に至って露呈している。本書の終章を森巣さんは谷川俊太郎さんの詩で結んでいます。

谷川俊太郎の詩の一節に、こんなのがあります。
暗殺とは一人が一人を殺すこと
戦争とは万人が万人を殺すこと
死刑とは万人が一人を殺すこと
突き詰めれば、戦争は、死刑や殺人と同じく、眼前の人間を文化包丁で刺せるかどうかという
レベルでとらえるべきものでしょ。違いますかね?   


違います、と私は思います。蓋し、(この詩に欠落しているもう一つの他殺類型、すなわち、「一人が万人を殺すこと」をテロと規定する場合)暗殺・テロ・戦争・死刑の4類型は、各々、殺人を行う行為主体に課せられる「殺すなかれ」と「殺すべし」という規範の源泉と規範の構図が異なる。この経緯を本書の鼎談者は以下の如く見事に看過している(pp.231-232)。

阿部:
森巣さんは、死刑廃止ネットに面白いことを書いているじゃないですか。・・・

森巣:
アムネスティ・インターナショナルの公式サイトのことですか。・・・そこで書いたのは、次のようなことです。死刑というのは、国民の名のもとに国家が犯す殺人である。そうであるなら、死刑執行を刑務官に委託するのはどう考えても不誠実ではなかろうか。だから、国民自身がやりましょう。具体的には、選挙人名簿から無作為抽出で執行者を選んでやってもらいましょう。手を汚さない、絞首刑みたいなやり方ではなく、千枚通しとか文化包丁で、血塗れになりながらやりましょう、と提案しました。・・・

そういうシステムができあがれば死刑は一発でなくなります。あなたは、文化包丁で眼前の人間を刺せますか。被害者の家族なら「やりたい」と言ってくる人が出てくるかもしれないけれど、あくまで無作為抽出で選ぶ。死刑は殺人だっていうことを、まずは理解していただきたい。

鵜飼:
人の命を殺めることの重さにおいて、死刑の問題と戦争の問題は同じなんです。

森巣:
要するに、私は殺す側の人間になりたくないのですよ。勝手に誰かが自分に代わって、殺人をしていることにも耐えられない。私の名前を使って、人を殺すな。やるのなら自分でやってくれ。・・・

阿部:
平和主義を貫徹するなら、死刑制度の問題も同時に考えないといけないですよね。

(以上引用終了)    



森巣さんの「新死刑制度導入による死刑制度の死滅論」に私は承服できません。架空の設定に推論を重ねてもそう意味はないでしょうが、蓋し、無作為抽出で選ばれた死刑執行者の中には(児童殺人事件等のあるタイプ事件では自ら進んで、他の事件では義務と割り切って)その責務を引き受ける国民は少なくないと思うから。

また、森巣さんの予想が正しいとして、その場合、次々に辞退者が出るのであればいずれその死刑囚の被害者・被害者遺族に順番が廻ってくるはず。ならば、「そういうシステムができあがれば死刑は一発でなくなる」という森巣さんの予測は、「次々に辞退者が出たとしても、誰かが引き受けるまで執行者が募られる」という通常の法運用の実際を鑑みれば、それは単なる願望の表明でしかない。而して、けれども、本書の死角とも言うべき問題は制度運用にまつわるこのようなテクニカルな側面ではないのです。

国家による刑罰権の行使は被害者側の復讐の権利の代行であり、逆に言えば、刑罰権を独占することで国家は被害者側から復讐の権利を奪っている。而して、刑罰は犯罪者や虞犯性の顕著な者から社会を防衛すると同時に、犯罪によって空洞化された法秩序の権威回復の機能をも果たしているのです。尚、前者の刑罰の特別予防機能に重点を置く刑法思想を目的刑主義、そして、刑罰の一般予防機能や報復機能に重きを置く後者の刑法思想を応報刑主義と呼びますが、どの時代のどの社会の刑法と刑罰もこれら両面の機能を追及具現してきたと言えると思います。    

畢竟、いずれにせよ、国家による刑罰権の独占は、被害者側やその地域社会の自力救済措置によって社会秩序が混乱に陥ることを防ぐ機能を果たしている。ならば、本書の想定の如く、死刑に<復讐の契機>が復活される場合、「待ってました!」とばかりに執行役を買って出る者も皆無ではないだろうこと。これは満更荒唐無稽な予想ではないのではないでしょうか。尚、犯罪と刑罰に関する私の基本的な考えについては下記拙稿をご参照ください。

・野蛮な死刑廃止論と人倫に適った死刑肯定論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/56484072.html

・戦後民主主義の非人間的な刑罰観を排して応報刑思想を復活せよ
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-144.html

戦争克服2

畢竟、同害報復の原理、所謂「目には目を、歯には歯を」で知られるタリオ法を支持したカントを引き合いに出すまでもなく、執行者に課せられる「殺しなさい」という規範は、「死刑囚を対等な人格と認め、彼/彼女に罪を償わす機会を与えなさい」という応報思想、すなわち、人格の平等性を尊重する価値観に根ざすものなのです。

要は、執行者に課せられる「殺すな」という道徳規範と「殺しなさい」という道徳規範は内容的に矛盾する(道徳規範と法規範が矛盾するだけではない!)。そして、どのジャンルのどちらのベクトルの規範内容に従うかは、その執行者が抱く価値観によって決定されるしかないと思います。いずれにせよ、刑罰権を独占する国家が介在しなくなれば死刑が存在しなくなるわけではないことだけは明らかでしょう。   

蓋し、執行者の個人的な価値観を捨象するとき、間主観的な国民の社会規範意識に根ざす実定法と実定道徳の観点からは、「戦争であれ死刑であれ、絶対に人を殺してはならない」という規範命題は、法規範と矛盾するだけでなく道徳規範との間でも緊張を孕むものなのです。ならば、本書が「殺しなさい」という規範命題の根底にも「道徳-倫理」の規範が横たわっていることを看過していることは確実であろうと思います。

いずれにせよ、道徳は推奨と禁止の両面を抱えつつも、マクロ的観点からは、死刑は道徳と法により二重に規制を受けている構図は正しい(ちなみに、暗殺とテロの場合は、この構図に行為者の個人的で特殊な規範が加わると言える)。而して、死刑を巡る諸規範の構図は、概略、戦争でも同じであり、死刑と戦争をパラレルに捉える本書の議論はそう間違いではない。

けれども、死刑の場合、殺人行為を巡る葛藤は、()「国家=法共同体」の内部で、法的主体たる個人に向けて、()その法共同体の安寧秩序に責任を負う国家権力が課して来るのに対して、戦争においては、()国際関係の中で、原則、法的主体ではない個人に向けて、()同じく国家権力の命令であるとしても、国家の存立と国民の生存、民族のアイデンティティーを確保するためにこの葛藤が課される点で些か異なるのだと思います。   

ならば、葛藤のコンテクストが異なる以上、「正しい戦争があるのかどうか」の問題を戦争と死刑の類似性の観点からのみ考究することはそう生産的とは思われません。それは殺人行為を推奨する道徳規範の存在を看過している上に、法規範の領域では、正当行為による殺人行為と正当防衛・緊急避難によるそれを混同する愚に近い。

蓋し、死刑と戦争は殺人行為を巡る葛藤を行為者に課す点では同じだとしても、それらの葛藤を引き起こす規範とその構図は非対称的なのです。ならば、本書の理路は破綻している。而して、本書の主張は、アプリオリに「人命に最上の価値」を認め、かつ、国家の権威と権能を相対化してやまない戦後民主主義者の自暴自棄か、あるいは、現代落語の類に近いものだ。と、そう私は考えます。


尚、これは「後書き」に近いのですが、本書に関しては、畏友の一人から次のような感想をいただいたことがあります。而して、本稿を書いているときこの彼女のコメントがいつも念頭にあった。それはこんな短信。

「要するに、私は殺す側の人間になりたくないのですよ。勝手に誰かが自分に代わって、殺人をしていることにも耐えられない」の部分にこの本の主張が凝縮されているように思われるのです。しかし、戦後民主主義を信奉する仲間内ではそのことが自明の理であったとしても、普遍的な妥当性をもつかどうか、他の人も同じように考えてくれるかどうかは別問題でしょうね、と。


このコメントは、正に、至言だと思います。「私は殺生をしたくないのですよ」と言って(間接的にせよ)それが確実に実行できる人間が世界の人口の中でどれ程存在するというのでしょう。論理的に皆無でしょう。例は異なりますが、例えば、実際、無農薬や微農薬での農業は社会におけるトータルな環境負荷を見た場合、農薬農業より環境に優しくない。私は本書を読んで、戦争とか死刑制度とかのハイブローな話しではなく、食料&エネルギー確保の問題を考えてしまいました。そして、(人類の半分以上が飢餓と水不足にさらされている現実の傍らで「究極の料理」や「至高の料理」なりを構想する)雁屋哲『美味しんぼ』の圧倒的なリアリティーのなさをも連想せざるを得ませんでした。







(2010年9月19日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




支那が中華主義を放棄することはあり得るか? 私はその成否は詳らかにし得ませんが、もし、支那が中華主義を放棄し得るとすれば、それは中華主義を止揚した通常のナショナリズムを支那がその社会統合の<政治的神話>に据えることに成功した場合であろうと考えています。

いずれにせよ、現下、支那は世界最大の不安定要因。空母建造に端的な、世界第2位の経済力にものを言わせたその止まるところを知らない軍拡推進、そして、凄まじい環境破壊。他方、チベットや東トルキスタンにおける「民族浄化」的な人権侵害は個別支那だけの問題にとどまらないことは確実。

要するに、世界人口の20%を占めるこの人口大国の内部に組み込まれた経済格差と少数民族統合を巡る不安定要素、すなわち、1978年に始まる改革開放路線の下、経済発展著しい沿岸部と取り残された内陸部との並存、漢民族とそれ以外の民族との間、および、共産党のメンバーとそれ以外との間に生じている格差の固定化と拡大を鑑みるならば、「支那問題」の深刻さは自明。    

而して、これらのことを反芻するとき、また、軍艦と人民元を駆って世界中で繰り広げている喧嘩上等の資源争奪等々を想起すれば、「支那=世界最大の不安定要因」であることは誰も否定はできないことではないでしょうか。

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私は、しかし、支那を巡る諸問題は個々に分離したものではなく、ある一つの軸に沿って整序可能ではないかと考えています。而して、その軸が「中華主義」であり、一個の主権国家たる支那が「中華主義」を社会統合のための理念に据えていること自体が孕んでいる矛盾です。蓋し、世界と日本にとっての支那問題の源泉は「中華主義の主権国家」という支那の自己規定性に埋め込まれた<矛盾>に起因する、と。

ならば、支那が「中華主義の国=中国」という自己規定を漸次「主権国家=支那」に移行させるのなら、<中国>という現象の帯びる脅威も逓減するだろう。否、「逓減」という表現が誤解を招くようであれば、「支那の脅威は減少することはないとしても、その脅威の予測可能性は格段に透明性を増すのではないか」と私は考えるのです。而して、チベットでの抗議行動への残忍な鎮圧、北京オリンピックの聖火リレーを巡り世界各地で惹起した混乱などは、実は、支那が「中華主義」を止揚して「中国→支那」への移行をなしつつあることの徴候だったの、鴨。

尚、「近代主権国家」「国民国家」「民族国家」成立以降の現在においては、その国家が社会主義国であるか自由主義国でるかにかかわらず、または、その政権が左翼政権であれ社会民主主義の政権であれ、あるいは、保守主義を信奉する政権であれ、好むと好まざるとにかかわらず、すべての国のすべての政権は<ナショナリズム>をその基軸に据えざるを得ないことに関して、そして、その<ナショナリズム>と保守主義とのアンビバレントで重層的な関係性のあり方についてはとりあえず下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・自民党<非勝利>の構図-保守主義とナショナリズムの交錯と乖離(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59722931.html

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59891781.html


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◆中華主義

ここで言う「中華主義」とは「夕飯はいつも西日暮里の餃子の王将で酢豚定食だ」とかいうライフスタイルのことではありません。また、「中華主義」の「中華」とは「世界の中心の国」という意味ではなく(文字通り、城壁で囲まれた限定的空間に成立する世界の一部分たる「国」ではなく)、それは世界そのもの。つまり、中華主義は、元来、(世界の一領域において、外に対しては独立の内においては最高の政治的権威であり政治社会である)「近代主権国家-近代民族国家」と整合的な理念ではなく、諸民族や諸国家を部分としてその内に包摂する<宇宙>や<帝国>として「中華=支那」を捉える世界観であり、而して、中華主義は<宇宙論>なのです(★)(★)。

★註:帝国と国家
「帝国」と「宇宙」の理解については、長尾龍一『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』(講談社学術文庫・1994年9月)を参照ください。

長尾氏曰く、「「近代主権国家」以前のユーラシア大陸においては、「国家」(states)ではなく、「帝国」(empires)が支配していた。(中略)帝国の中に住む大多数の人々にとっては、帝国は世界そのものであり、皇帝は天や神に命を享けて、世界全体の秩序に責任を持つ者であった」(pp.3-4)。「世界の部分秩序である国家を、『主権』という、唯一神の『全能』の類比概念によって性格づける国家論は、基本的に誤った思想であり、また帝国の『主権国家』への分裂は、世界秩序に責任をもつ政治主体の消去をもたらした、人類史上最大の誤りではないのか」(pp.6-7)、と。而して、長尾さんの言うように「近代主権国家」が誤った方途かどうかは別にして、少なくとも、支那が現在「帝国=中国」から「国家=支那」に移行しつつあることは確かだと思います。    

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★註:中韓の「反日」動向は世界標準の規格外
この「中華主義=中華思想」に関して、もう5年以上前に目にしたものだけれど(2005年4月15日)、我が意を得たりの感想を抱いたことを今でもくっきりと覚えている記事があります。読売新聞「読みトーク」に掲載された、筑波大学の古田博司さんのコメント「「反日」拡大 中華思想背景 論争恐れずに」です(以下、引用開始)。

東アジアでは、儒教文化を分有していきた。それは「礼」という行儀作法を共通の規範とするもので、世界の中心にあると自任する中韓から見ると、日本は「礼」も知らない野蛮な国で、教え諭すべき相手と位置づけられる。その論理の中では、戦争に敗れながら、一足先に経済発展した日本は、矛盾した存在となる。

批判の対象としての日本は「道徳性が欠如」しており、道徳的に優位に立つと考える彼らは、日本に対しては何を言っても、何をやってもいいということになる。それが彼らの伝統的な思考パターンだが、今、歴史認識、日本の国連安保理常任理事国入りの動きにかこつけて騒ぎとなっている。(中略)

過去の歴史に対する認識はどこまで行っても平行線だ。謝罪を繰り返しても、足りないと言い続けられるから解決策にならない。(中略)こうした東アジアでの隣国とのつき合い方は、相手の主張をよく聞いて、相手の誤解はただして、主張すべきはきちんと主張することだ。無視することが一番よくない。当然、論争になるだろう。そして結論はでない。その状況が出発点で、互いに前向きな知恵が出る。「和をもって貴しとなす」というのは、日本国内でだけ通用するもので、論争こそがつき合いの始めだ。(以上終了)

正に同感。蓋し、韓国の植民地支配もなんら国際法に反していたわけでもなく、支那との戦争も国際法的には完全に処理済みであるにもかかわらず、彼等が日本に「謝罪と反省」を言い続ける理由がここに簡潔に指摘されている。要は、中韓は、「中華思想-中華主義」とは無縁の、西洋列強から受けた損害と屈辱は国際法で解決するしかないにしても、「中華主義-中華思想」を分有しているはずの(「承認しているはずの」かな。)日本から受けた損害と屈辱に関しては、「中華主義=中華思想」のパラダイムの中部で解決しなければならないと考えているということ。

日本は(足利義満公の日明貿易の例外を除いて、)菅原道真公(845-930)の建白以来、そう、10世紀前半以降、中華主義のパラダイムから離脱してる。ならば、他国を「野蛮な国」と思うのは自由ではあるけれど、自分の国際関係認識のパラダイムが日本にも適用されると思い込むのは強引というもの。すなわち、その思い込みなどは、例えば、天津の外語大学で起こった支那人と韓国人による「靖国神社への日本の首相参拝糾弾集会」の際に惹起した、日本人留学生と日本人観光客への暴力沙汰を裁く管轄権や道義的な優越性を日本が持っていると思い込むのと同じくらい馬鹿げたこと、と。そう私は考えています。つまり、「反日」の動向を正当化する中韓の論理は、世界標準の国際認識の規格外のものであると。  



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中華主義を奉ずる支那人が抱いてきた世界観は「支那=世界」というものだったのではないか。要は、なにかにつけ「世界一」を自任するフランスやアメリカとは違い、世界中が本来は支那のものであるという感覚。皇帝が南面する中華の都から同心円的に離れるに従い中華の威光は徐々に希薄になりつつも、東夷西戎南蛮北狄の「化外の地」「化外の民」も含め、全世界は、本来、「中華=支那」のもの。よって、「支那=世界」であり、かつ、支那は「世界=宇宙」を治める「中国=帝国」なのだ、と。このような感覚が中華主義の神髄なのだと思います。

もちろん、現在では中華主義の世界観などは夜郎自大的な田舎者の世界認識にすぎないでしょう。けれども、再度記しますが、重要なことは、中華主義は宇宙の一部分でしかない「国」に付随する「愛国心」や「主権」や「民族」とは本質的に異質なものということ。ならば、畢竟、21世紀の支那問題の核心は支那が自らを「中国=中華」と規定する「近代主権国家」であるという矛盾の中にある。私はそう考えるのです。

◎「中国」という現象の構図

・中華主義の本質:世界はすべて「中国=帝国」の領土とする宇宙論
・支那の自己規定:中華主義を社会統合の核とする近代主権国家    




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◆<中国>という現象と日本の運命

地政学色の強い英米流の国際政治論からも(国連が採用する)平和不可分論的な国際政治認識からも、支那は日本にとって最大の懸念事項。けれども、「支那との国交断絶」「日本の核武装」、而して、対支那外交においては日本の主張を強く押し出せば支那問題は解決すると説く国粋馬鹿右翼あらため観念右翼社会主義者の主張などは、実行がそれほど容易でないだけでなく、もしそれが実現したところでそれだけでは支那問題を本質的には解決しないタイプの施策提案のように私には見えます。

ことほど左様に、アメリカでのビジネスをそこそこ経験してきた身として、「目を瞑れば支那を始め特定アジアはこの世からなくなる」と夢想するが如き観念右翼社会主義者の主張に私は与することはできない。他方、冷戦構造のマドロミからまだ完全には脱しきれないでいる、無為無策&無能無気力、かつ、支那の代理人のごとき、あるいは、国際政治と最も無縁の<性善説>を外交に持ち込もうとする外務省と現在の民主党政権にも当然ながら与することなどできはしない。ましていわんや、大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する勢力が流布する、「世界国家」や「地球市民」という空疎な妄想に基盤を置くその反米&親特定アジアの外交施策などは<問題外の外の戯言>にしか思われない。

畢竟、他国との外交関係を「敵か友か」の軸で考える傾向が左右にかかわらず日本には残存している。私にはそう見受けられる。而して、観念右翼社会主義者の中には、あたかも「鬼畜米英」や「敵性言語」的に支那や韓国にまつわる一切のもの(留学生・支那製食材・京劇、キムヨナ姫・チェジウ姫・キムチ・・・)と関係することさえ忌避すべきとする傾向もしばしば観察される。蓋し、これは(本当は空気感染しないのに)羅病患者にまつわるものを生理的に拒絶する感覚とパラレルな態度と言うべきでしょう。   

けれど、外交には「100年の味方も100年の敵」も存在しない。また、本来、国際政治は「友-敵」関係などという擬人化では語り尽せない現象である。それは個々の国民としては互いに好感情など持つはずのない、戦後の独仏関係が帯びている両国にとっての重要性を想起すれば自明のことでしょう。畢竟、支那との「政凍経冷」を実現するための施策として(支那が分割民営化するまでのある期間)「織田-徳川連合」の如き関係に日本と支那が入ることも可能であり、それは、日本にとって悪くない選択肢かもしれない。少なくとも、それを検討する柔軟性を我々保守改革派は保持すべきだと思います。

もっとも、『風の谷のナウシカ』の中で王蟲(オーム)がナウシカに諭したように、「蟲の住む世界と人の住む世界は別」であり(この比喩において、蟲が日本人なのか支那人なのかはどちらでもよいことです)、支那人と日本人、あるいは、特定アジアの人々と日本人は、国民同士の付き合いを少なくとも急激には深めない方がお互いの精神衛生にはよいのかもしれませんけれども。


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◆中華主義の呪縛と格闘する支那

ここで、2年前、北京オリンピック開幕の2ヵ月前に来日された、胡錦濤主席の来日中の言葉を借りれば、「支那は現在も国造りの最中にある世界最大の発展途上国」である。2010年の今年ついに日本を抜き去り世界第2位の経済大国になった支那、毎年前年比8%-10%を越える軍拡に邁進している支那、日本に照準を合わせた核ミサイルを少なくとも2-3百基配備していると言われている支那、世界中で食糧と資源を買い漁っている支那、そして、汚染物質混入黄砂や越前クラゲを大発生させている環境破壊大国の支那。

これらの日本と世界の脅威としての支那とは別に、胡錦濤主席のこの認識は正しいと思います。蓋し、毒入り餃子を輸出しておいて毫も悪びれぬ支那や世界最大最悪の人権侵害国である支那の姿は胡錦濤主席の発言の証左でもあり得るからです。

而して、支那共産党政権の第一世代の古きよき時代は「独立自存」のスローガンで支那の社会統合は可能だったかもしれない。政治家として私が尊敬してやまない小平先生が指導され後見された第二世代においては、「先富起来」と「反日」。すなわち、「豊かになれる人から先に豊かになりなさい」(≒内陸部の人もいずれ豊かになれますよ)と「日本の暴虐非道から支那人民を救った支那共産党の功績の訴求」をキーワードにすることで社会統合がなんとか可能だったかもしれません。    

けれど、その経済が一層拡大するに従い、他方、「格差固定」を打破して本当に「先富起来」を具現するためには(廉価な労働力を武器にした世界の組み立て工場から、環境に配慮しつつ高付加価値商品生産型に産業構造を移行するためには)日本の力を利用せねばならず、畢竟、社会統合のキーワードとしての「反日」は、早晩そのパフォーマンスの限界に突き当たるのは必然なのだと思います。

そして、「中華」とは別の意味で(つまり、「中華」が空間的であるとすれば時間的な意味で)普遍を詐称する「共産主義」は歴史的に特殊な個別の国家の社会統合の理念にはなりにくい。また、繰り返しますが、上で述べた「日本の利用価値」とは別の意味で、「反日イデオロギー」は、支那の社会経済の規模の拡大、および、日本と支那との相対的な力関係が逆転しつつあることを考えれば、最早、全国を一丸とさせるような「神通力=モメンタム」を供給することは難しいだろう。ならば、胡錦濤体制も第4コーナーに入りつつある現在、支那の社会統合を担保している理念は「世界の大国=支那」という自意識、すなわち、「中華主義の主権国家」というそれ自体矛盾を孕む自意識だけなのではないでしょうか(★)。

★註:漢民族という幻想
歴史的に自己同一性を保持した「漢民族」というものは存在しません。これは「西欧民族」というものが存在せず、存在するのは「ラテン語」と「聖書」を共有する諸民族でしかないのと同じであり、「漢民族」とは「道教-儒教」の宗教コンプレックスと「漢字-漢語」を共有する人々の総称にすぎない。尚、DNA的にも「漢民族」が歴史的に一貫した自己同一性を保持した「民族」ではないことに関しては、斉藤成也『DNAから見た日本人』(ちくま新書・2005年3月)p.129ffをご参照ください。   



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そう考えるとき、今にして思えば、やはり、支那の人々にとって北京オリンピックは「世界の大国=支那」に相応しいイベントだったのでしょう。ならば、そのオリンピックの聖火リレーに世界に散らばる支那の人々が世界の各地で<赤い海>を現出せしめたのも不思議ではない。私も長野の現地でそれを見た一人ですが、蓋し、私が支那人留学生の立場ならやはり長野に馳せ参じたと思う。それが、必ずしも自国に好意的でない異国に住む者の「ナショナリズム」というものでしょう。

再度、胡錦濤主席の言葉を借りれば、「現在も国造りの最中にある世界最大の発展途上国」からの栄えある留学生であればなおのことそうだろう。母国が世界中で批判非難される中(もちろん、チベット・東トルキスタンにおける事態を鑑みればその批判非難は当然なのですが)、母国擁護に立ち上がらないような人間は言葉の正確な意味での「愛国心」(patriotism)を欠く、朝日新聞の記者や外務省の職員のようなさもしい人間であり、逆に、そのような「愛国心」を欠いている人物は人間として信用できるものではない。   

蓋し、世界中で北京オリンピック聖火リレーを<赤い海>で覆った支那人留学生のナショナリズムの隆盛は、「中華主義」の終焉を告げる<ナショナリズムの赤い烽火>だったのではないか。なぜならば、世界に散らばる支那人留学生は、そこで否応なく、支那が「中国=宇宙全体」などではないこと、支那が単なる一つの主権国家でしかないことを肌で感じざるを得なかっただろうから。而して、それがゆえにこそ、彼等は、その国民国家である「母国=支那」のために立ち上がり駆け参じたのでしょうから。畢竟、<北京オリンピック体験>は海外在住の支那人を媒介にして(751年、サラセン帝国軍に唐軍が完膚なきまでに打ちのめされ、その後、支那は西域への進出が封じられたという意味で)、支那にとっての<21世紀のタラス河畔の戦い>とも言うべき事態だったの、鴨。

而して、ならば、マルクス『ユダヤ人問題によせて』の掉尾の言葉に倣えば、「支那問題からの世界の解放は支那の<中華主義>からの解放に懸かっている」、と。そして、想像の翼を羽ばたかせることを許していただければ、それこそ小平先生が目指そうとされた道ではなかったのか、と。もし、そうであるならば、やはり、「敵ながら小平翁侮り難し」、と。私はそう考えています。


支那問題からの世界の解放は、

すなわち、支那からの世界の解放は、

支那の<中華主義>からの解放に懸かっている




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(2010年9月18日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済

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菅改造内閣発足。国民的な「敵役=小沢氏」を代表選挙で下しての改造内閣発足ともなれば、支持率的にはその前途は、少なくとも向う100日は洋々たるものでしょう。しかし、政界は一寸先は闇。まして、民主党の統治能力の乏しさが支持率で解消するはずもなく、101日後の菅政権はもう<北斗の拳>状態に陥っているの、鴨。

鳩山政権末期、社民党の連立離脱によってはっきりしたことは、国の安全保障・外交政策という基本政策で一致できない諸政党が「連立政権」を形成することは不可能ということ。而して、これは大なり小なり「二大政党制」についても言えることではないか。ならば、改造内閣発足から101日目、今年の12月27日には、泡沫政党を掻き集めた形の連立政権になっているにせよ、あるいは、民自の二大政党による大連立政権になっているにせよ、日本の政治にそう期待はできないの、鴨。以下、敷衍します。

蓋し、社会政策や文教政策、そして、産業政策等々の領域で政策の違いはあり得るとしても(アメリカの共和・民主の両党を見ても、ドイツの社会民主党(SPD)とキリスト教民主同盟(CDP)を見ても政策が違うからこそ違う政党なのでしょうから)、国の安全保障・外交政策、そして、「何がその社会の統合軸であるか」に関する共通の枠組みがなければ、二大政党制にせよ連立政権にせよ安定した政治は不可能ではないかということ。

いずれにせよ、現下の民主党政権が標榜している「政治主導」なるものは、所得の再配分や産業構造の変換という政策部面では意味があるのかもしれませんが、危機管理や外交の部面ではそれは政権を動かす(少なくとも)第一順位の原則ではないのではないかということ。米英には 「政争は水際まで:Politics should end at the water's edge.」 (野党が与党を攻撃するのは当然であるが、国と国との境の海岸線から先の事柄、つまり、外交・安全保障・食料とエネルギー安保等々の分野は与野党を超えて協働してことに当たるべきだ)という箴言がありますが、民主党政権は、水際から向こう側の事柄をも「政治主導=与党の国会議員の主導」で解決できるとする誤謬を犯しているように見える。蓋し、この私の予想が満更間違いではないとすれば、その誤謬の基底には権力の万能感とも言うべき、傲岸不遜と無知蒙昧が横たわっているのかもしれません。この点に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・政治主導の意味と限界
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59888125.html

・「事業仕分け」は善で「天下り」と「箱物」は悪か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59556356.html

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◆政党の収斂化と包括政党の誕生

カール・シュミットは、大衆民主主義下の福祉国家を念頭に置く場合、「国家は全体国家(totaler Staat)に堕している」と喝破しました。而して、「全体国家」とは、人間の生活の全体を支配する強力で権力主義的な政府という意味ではなく、「全体化」したがゆえに、社会の種々諸々の雑多な国民大衆の要求をすべて顧慮せざるを得ない、図体は巨大であるにせよ主体性の乏しい弱々しい国家という意味なのです。このカール・シュミットの「現代国家=全体国家」認識は正鵠を射ているものではないか。

畢竟、1989年-1991年、社会主義が崩壊する随分前から、社会主義と資本主義の両体制が漸次接近する「収斂化」が見られるという考え方(Convergence Theory)がありました。蓋し、これは生産手段の私有を認めるかどうか、その裏面としての計画経済を放棄するか否か、あるいは、経済の計画と一党独裁的な前衛党を担う中央集権的官僚の存在を認めるかどうかとい<漸近線>を跨ぐことはなかったとしても(だからこそ、結局、政治以外の面では社会主義を放棄した支那を除けば、ほとんどの社会主義諸国は崩壊したのでしょうから)、この「収斂理論:Convergence Theory」は、昭和金融恐慌と大恐慌以来の、就中、1973年オイルショック以降の財政と金融のマクロ経済政策、すなわち、ケインズ政策を採用した資本主義諸国と社会主義諸国の比較においてはかなり成功したモデルではないかと思います。    

ならば、グローバル化の昂進著しい、大衆民主主義下の福祉国家を与件とするとき、すなわち、カール・シュミットの言う「全体国家」を前提とするとき、保守政党であろうとリベラル政党であろうと左翼政党であろうと、実は、その政党がキルヒマンの言う意味での「包括政党」、すなわち、国民全体の利害を代表する国民政党を目指す限り(パラドキシカルですが、現実の選挙においては国民・有権者の一部(part)の支持を受けたにすぎない政党(party)が、国民を代表して国家権力を行使するということは、建前にせよその政党は「包括政党」であることを自任しているということでしょう)、どの政党の政策も「収斂化」せざるを得なくなる。

要は、所定・定番の行政サーヴィスの遂行に政権のほとんどの能力を割かざるを得なくなる。よって、国の安全保障、そして、伝統と慣習を顕揚涵養することによる国民統合・社会統合の重要さを知らない我が国の民主党政権のような「悲劇的-喜劇的」例外は置いておくとしても、今回、英国で保守党と自民党の連立政権が誕生したことは単なる権力の甘い汁の分け前に与ろうとする不埒な野合ではない、繰り返しになりますが、それは21世紀の政治史の必然なの、鴨。

保守主義の立場に立つ者として、個別日本の現下の政治状況においても連立政権が、よって、比例代表制や中選挙区の選挙制度が好ましいとは必ずしも私は考えていませんが、少なくとも、英国に関してはそう言えると思います。尚、私の考える保守主義の意味については下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59162263.html


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◆連立政権と二大政党制の棲み分け

上述の如く、「グローバル化の昂進著しい、大衆民主主義下の福祉国家を与件」とするとき、各政党の政策は「収斂」せざるを得ず、よって、これまでは水と油、否、不倶戴天の敵同士と見られていた諸政党が連立政権を形成する条件は整ってきている。と、そう私は考えています。

否、今回誕生した英国の連立政権が、より政策とイデオロギーの近い「労働党-自民党」ではなく、比較的それらの差異が大きい「保守党-自民党」によって樹立されたように、支持基盤やイデオロギーの類似性は「近親憎悪」的な感情を惹起させるだろうから、むしろ、些か、異質な政党同士の方が連立を組みやすいの、鴨。この経緯は、日本の場合、支持層が重なる公明党と共産党、そして、イデオロギーが近しい共産党と社民党の間の<不倶戴天の関係>を想起すれば分かりやすい、鴨。

いずれにせよ、()政策面での各政党の違いが漸次極小化していること、他方、()これまたグローバル化の昂進に伴い「世界の唯一の超大国=アメリカ」もその超大国の地位を世界資本主義システム自体に<大政奉還>しつつある現在、畢竟、世界の相互依存関係の深化と世界の不安定化もまた加速している現在、すなわち、安定した実行力のある政府の形成が今までよりも一層必要になっている現在、連立政権、就中、大連立による政治的に盤石な政権の誕生は時代が要求しているものかもしれません。まして、()福祉国家における行政権の肥大化に基づく政策の収斂や時の政権のフリーハンドの余地の縮小とは逆に、グローバル化の昂進の中で有権者・国民の価値観が多様化する傾向を鑑みるならば、連立政権は人類史の必然とさ思います。    

では、日本でも、より連立政権を具現しやすい比例代表制や中選挙区制を大胆に採用すべきなのか。宮澤内閣(1991年-1993年)以来の政治改革の潮流の中で、アメリカの二大政党制とともに日本の政治が目指すべきお手本と喧伝された英国の二大政党制が今回潰えたことを見てそう語る論者もおられる。しかし、私はそのような議論には与しません。

蓋し、「いつでもどこでも、すなわち、普遍的に優れた選挙制度などは存在しない」のです。而して、2010年の英国においては連立政権が歴史的必然であり、今後、比例代表制を大幅に組み込んだ下院の選挙制度を導入するのが英国の順路かもしれない。けれども、日本の場合には英国とは置かれている「歴史的-政治的」な状況が異なる。ならば、2010年の日本においても比例代表制や中選挙区制が望ましいとは当然のようには言えないと思うのです。

畢竟、日本の政党政治が現在抱えている死活的に重要な問題は、(甲)有権者・国民の多様な意見や価値観の受け皿となる政党が存在しない、あるいは、有権者・国民の多様な価値観や意見が正確に諸政党の党勢に反映されていないことなどではなく、(自民党と民主党保守派の得票率を合算すれば)有権者・国民の圧倒的多数を占める保守層の受け皿となる政党が存在しないことではないか。而して、(乙)二大政党の一方の当事者として期待する向きもあった民主党が、経済政策・社会政策の拙劣さ荒唐無稽さは置いておくとしても、①安全保障政策、②文化・伝統の顕揚と涵養による社会統合という二点において(欧米を見渡す限り、左翼政権であろうと中道左派政権であろうと、政権与党の「必須科目」であるこの二点において)政権与党として致命的に拙劣であることだと思います。   

要は、日本には、政治力において有権者・国民の圧倒的支持を期待でき、かつ、能力的にも政権を担える政治勢力が、自民と民主の両党内の保守派、その他、有象無象の保守系新党に散在している。而して、日本の政治が孕む現下の問題を上の如く捉えた場合、

比例代表制の本格導入はこの「市場=有権者・国民」のニーズと「商品供給=政治政党」を乖離させる蓋然性が高く、現下の政治情勢においては日本では自民党と(鳩山政権の崩壊を「他山の石」として学習した)党内保守派が主導する民主党の二大政党制が次善であり、自民党内の保守改革派を中心に諸政党に散在するすべての保守派を糾合した新生自民党による一党独裁が最善である。   

ならば、憲法改正を嚆矢とする保守政党による戦後民主主義の清算が終わり、日本政治の新しいプラットフォームが形成されるまでは小選挙区制がむしろ望ましい。而して、比例代表制が最善の選挙制度になるのは日本ではその後の歴史段階においてである。と、そう私は考えています。尚、このような結論に導いた、現下の日本の政治状況に関する私の基本的な認識に関しては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・自民党解体は<自民党>再生の道
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59586792.html

・自民党<非勝利>の構図-保守主義とナショナリズムの交錯と乖離(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59722931.html

・「ねじれ国会」の憲法論と政治論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59802541.html





(2010年9月17日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済

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保守主義とは何か? このテーマが日本でも世界でもいよいよ実践的な重要性を帯びてきていると思います。グローバル化、すなわち、資本主義の一層の昂進に対して人類はいかにしてその生活と生存を守ることができるのか。あるいは、資本主義と鋭く対立する側面も持ちながらも、ある意味、グローバル化の裏面でもあるリベラリズムの浸透、「地球市民」なるものを標榜する伝統破壊のこの思想潮流に保守主義はいかにして拮抗し得るのか。これらは、『大学』に所謂「修身斉家治国平天下」の四個すべてのプロセスに影響を与えつつあるのではないか、なぜならば、「修身斉家治国平天下」を成し遂げるための主体的格率(maxim)である「格物致知誠意正心」の内容確定において、保守主義の意味内容、あるいは、保守主義とリベラリズムの関係性はパラメーターとして機能するだろうからです。

私はこのブログで既に「保守主義とは何か」という問いに対して自説を展開しています(下記拙稿参照)。畢竟、自己の自己同一性を保つための恒常的な伝統の再構築と、そのような伝統を公共的で実定的な社会規範に高める漸進の前進の営み。これこそが保守主義の本性である、と。すなわち、

保守主義とは、世界と社会と歴史についての総合的で体系的な理論ではなく、ある歴史的に特殊な特徴を持った「社会認識のための姿勢」と「社会改革を実践する態度」であり、その基盤は「人間存在の有限性」と「自己の歴史的特殊性」に対する確信に遡り得る「実存主義的な価値相対主義」「経験主義的な現実主義」である。畢竟、伝統は自己の自己同一性を形成する不可欠のパーツであるがゆえに保ち守られるに値する価値を持つ、と。


恒常的な伝統の再構築。これを(シャム双生児の関係にあると看做し得る)戦後民主主義を信奉する勢力と憲法無効論なる妄想に囚われている国粋馬鹿右翼という左右の観念的な社会主義と比べれば、「保守主義」と「社会主義≒リベラリズム」の違いは明確だと思います。

而して、保守主義の具体的な意味内容については旧稿に譲り、本稿は上で述べた如き保守主義の本性から演繹される、①伝統尊重、②人間の有限性の確信と反教条主義、③国家権力にあまり多くを期待しない心性といった保守主義のエッセンスと私が考えるものに絞って自説を敷衍したものです。

・保守主義とは何か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/56937831.html

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57528728.html


◆保守主義と伝統の多様性と単一性

旧稿でも書いたことですが、「保守主義」の再定義の前哨として、「言葉の意味」について確認しておきます。蓋し、私はどの用語を誰がどのような意味で使用するかは、それが、(甲)専門家コミュニティー内部で確立している一般的な用語法に従っているか、そうでなければ、(乙)その話者が事前に当該の言葉を明確に定義している限り基本的に自由であると考えます。

すなわち、概念実在論が想定していたような「言葉の本当の意味」なるものはこの世に存在しないのであって、言葉を使った相互討論が生産的で有意味なものになるか否かは、「言葉の正しい意味」ではなく、討論参加者の「言葉の正しい使用方法やマナー」に依存する、と。概念実在論を最終的に葬った分析哲学に従い私はそう考えています(尚、この論点に関しては下記拙稿の前段を参照してください)。

・「プロ市民」考
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57630212.html

蓋し、「保守主義」という言葉もまた本質的に多様ならざるを得ない。まして、例えば、イスラームとアメリカの伝統が異なるように各国各民族が唱える「保守主義」の具体的の意味内容も異ならざるを得ない。この経緯は共時的のみならず通時的な要因からもまた加速される。

すなわち、土台、「主権国家」「民族国家」、否、「民族」という概念自体が極めて歴史的なものであり、畢竟、一般に「主権国家」と「主権国家間の関係としての国際法秩序」を確立したとされるウェストファリアー条約体制(1648年)の後も1世紀余り、近世と近代の渾然融合は続いたのであって18世紀半ばまでは「主権国家」も「民族」も地球上に存在してはいなかった。ならば、「日本の固有の伝統」や所謂「法の支配」を可能にする「英国社会に普遍的な法」なるものがこの世に存在し得ないこともまた当然でしょう。後者に関しては、名誉革命(1689年)における「議会主権の確立」、および、階級対立の先鋭化を受けた19世紀後半以降の制定法の社会化とコモンローに対する制定法の優位の確立を想起すれば自明な如く、「法の支配」なる原理にいう「法」の意味もまた極めて歴史的で可変性を帯びたものなのですから。

実際、我が国においては、幕末・明治初葉までは「国家」とは統治の主体たる大名家中と統治の客体たる領地・領民を指す、ローカルガバメントに関する言葉でした。更に、ゲルナーが喝破した如く、例えば、現在、我々が「日本的なもの」「日本古来のもの」と感じているものの少なからずは、「皇国史観」然り、「家父長制的な家族関係」然り、「教育勅語」然り、明治維新を契機に人為的に作り上げられた表象にすぎないこと。これまた否定できない事実なのです。而して、「終身雇用制」や「年功序列制」に至っては(「農地改革」とともに)国家社会主義を目指した所謂「1940年体制」の産物であり、戦後改革の中でこれらが日本の伝統的なものと錯覚されたのは心理学で言う所の「記憶の自己改竄」に他なりません。
    
民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは、以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも、多くの場合それらを根本的に変造してしまう。死語が復活され、伝統が捏造され、ほとんど虚構にすぎない大昔の純朴さが復元される。(中略)

ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。それは、偶発的なものでは決してないのであって、それ故簡単には拒めないであろう。

【出典:アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)
 引用は同書(岩波書店・2000年12月)pp.95-96】


「国家」も「民族」も歴史的表象でありその意味内容も可変的で多様なものとすれば、これらを依代とする「保守主義」の意味内容もまた可変的で多様なものにならざるを得ないことは自明でしょう。これが、先に述べた、保守主義の意味内容は共時的のみならず通時的な要因からも本質的に多様ならざるを得ないという私の主張の背景です。


では、「日本の伝統」などはこの世に存在しないのか? 
保守主義とは定まった意味内容を欠く空疎な社会思想なのか?

否、です。伝統とは、よって、保守主義とは伝統の恒常的な再構築の営みに他ならず、「日本的なもの」「日本古来のもの」は厳然と存在している。ただ、それら個々の表現形が通時的な普遍性を必ずしも持たないだけのこと。つまり、伝統とは外化され物象化され物神性を帯びる個々の事物ではなく、伝統を再構築する人々の意識と規範と行為に憑依する(ポパーの言う意味での「世界Ⅲ」(★)としての)何ものかに他ならない。

★註:世界Ⅲ
カール・ポパーは『客観的知識』第3章・第4章で、「考えられる対象」と「考える行為」と「考えられた内容」とは、相互に密接な関係はあるだろうが、それぞれ別の独自法則性を持つ領域であるとして、それぞれを世界Ⅰ・世界Ⅱ・世界Ⅲと名づけ区別しています。蓋し、学問体系・常識・生活のノウハウ等々は、すべて、公共的な言説空間に間主観的に存在するものであり、もちろん、それらはすべて人間の主観が産み出した産物には違いないけれど、他方、それが産み出された後、間主観性を帯びて以降は、最早、「非主権的-客観的」な知識と言うべきものである。と、そうポパーは考えます。

単なる「物の世界:世界Ⅰ」や「主観の世界:世界Ⅱ」とは別次元の「間主観的な知の世界:世界Ⅲ」は確かに存在している。例えば、誰しも、義経が頼朝に危険視されて討伐された事実を知っている。あるいは、かぐや姫が求婚者を体よくあしらって最後には月の世界に帰る結末を知っているし、憲法無効論の信徒がいかに悲憤慷慨しようが、外国人地方選挙権の賛否を巡る「保守派-良識派」と「リベラル派-売国派」の議論は現行の日本国憲法の条規や最高裁の過去の判決を前提にして戦われている。歴史的事実も御伽噺も現行憲法も「物の世界:世界Ⅰ」ではなく、論者の主観にのみその場を占めるものでしかないにも関わらずそれらは間違いなく間主観性を帯びているのですから。



畢竟、歌舞伎や狂言が日本の伝統のパーツであるのと全く同じ論理的な資格で劇団四季のミュージカルも新国劇のオペラも日本の伝統のパーツである。ボンカレーもカップヌードルも、女子高校生のセーラー服も甲子園の球児達の仕草やそぶりも日本の伝統のパーツなのです。換言すれば、伝統とは伝統的な個物と制度を恒常的に再構築するコミュニティーメンバーの心性と行動に他ならず、保守主義とはそのような伝統的の個物と制度の再構築に価値を置く社会思想であり、この意味の伝統と保守主義は、「共時的-通時的」に単一の表象として「世界Ⅲ」の中に厳然と存在している。

而して、現行憲法第1章にインカーネトしている「皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」というこの社会を統合する<政治的神話>も、所謂「夫婦別姓」を断乎拒否する「家父長制的な家族イデオロギー」も、そして、「教育勅語」もまた日本社会の醇風美俗であり日本人が堅持すべき伝統である。と、そう私は考えています。

本節の帰結を定式化すれば以下の通り、

(甲)伝統とは事実ではなく表象である。それは「世界Ⅲ」にその場を占めている

(乙)伝統の価値は事実から演繹されるのではなく伝統に価値を置くコミュニティーメンバーの心性によって効力を獲得する

(丙)民族が異なれば、また、時代が異なれば、あるいは、属する社会階層や居住する地域の生態学的社会構造(自然を媒介にした人と人との社会関係のあり方)が異なれば伝統の内容もまた異なってくる。その意味での伝統と伝統に価値を置く保守主義の意味内容は極めて多様である

(丁)伝統に価値置く心性と伝統の恒常的な再構築という行動パターンは諸民族・諸国民に広く観察されるのであり、それらの伝統と伝統の恒常的な再構築に価値を置く社会思想は単一の思想類型と言える。畢竟、保守主義とはそのような思想類型に他ならない


尚、保守主義の基盤たる<伝統>というものの、<私>と<我々>に対するたち現れ方をどう捉えるのか。私はこの問題を、(イ)「存在論-認識論」的にはフッサールの現象学、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論から、他方、(ロ)「認識論-価値論」の領域においては、新カント派の価値相対主義の実践哲学から基礎づけています。而して、このことを巡る私の基本的な考えについては、とりあえず下記拙稿をご参照ください。

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html

・女系天皇は憲法違反か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879735.html

・完全攻略夫婦別姓論要綱-マルクス主義フェミニズムの構造と射程
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59250899.html


hoshinoakichandoronjo



◆反教条主義としての保守主義

資本主義が一層その勢力を拡大深化させている21世紀の現在、保守主義の死活的に重要な意味内容として私はその「反教条主義」に注目しています。詳細は旧稿に譲るとして、「保守主義と反教条主義の論理的関連」は次のように整理できると思います。

◎伝統に価値を置く心性
・伝統の苗床としての家族とコミュニティーと民族に価値を置く心性
・伝統以外の新規な理論や教説にいかがわしさを感じる心性
・この世に人知の及ばない領域の存在を肯定する、人間の有限性に関する確信
・価値相対主義的な世界観の採用と自己の格率としての伝統的な社会規範の選択
・自己と異なる伝統に価値を置く「他者=異邦人」の保守主義の尊重
・価値相対主義を軽視する左右の教条主義に対する軽蔑


保守主義をこのような心性に貫かれた社会思想と措定するとき、最も豊潤で中庸を得た保守主義の具体的モデルとしては、()そのコミュニティーに自生的な法規範が認める権利を不可譲のものと捉え、かつ、()具体的な事件における司法においてその法規範を実際に運用することで、()国家権力の人為的な立法に頼ることなく社会に生起する紛争を可能な限り解決するという「社会的擬制-イデオロギー」として英米流の保守主義は定式化できると私は考えています(★)。

より一般的な社会統制の場面を背景に換言すれば、()そのコミュニティーに自生的な社会規範と慣習に価値を認めること、()教条的な理論による予定調和的な紛争の一括的な解決ではなく、具体的な個々の事件毎に公共的な言説空間における討議を通して、()国家権力の行使をできるだけ避けながら社会に生起する紛争を可能な限り解決することこそ、保守主義の社会思想と親和的で整合的な社会統合の仕組ではないか。と、そう私は考えるのです。

而して、旧憲法に比べアメリカ憲法との親近性を増した憲法典を実定憲法の一斑としている我が国であれば、社会思想の領域でも英米流のマチュアーな保守主義を移入することは十分に可能ではないか。いずれにせよ、このような保守主義が「政治主導」を掲げ、権力の万能感に高揚して理性を喪失しつつあると見えなくもない民主党政権の「リベラリズム≒社会主義」、そして、「地球市民」なる空虚な表象を実体と錯覚している憲法9条教の主張、あるいは、ヘーゲルばりの「国家アイデンティティ=国体」の普遍性を夢想する憲法無効論とは対極にあることは間違いないと思います。尚、英米流の保守主義、就中、所謂「法の支配」の観念・理念との関連で<憲法>の正当性をいかに考えるかという論点に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59541275.html

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59308240.html

★註:保守主義と英国分析法学
旧稿でも記した如く、日本では英米の保守主義を精力的に紹介しておられる中川八洋氏の著書、例えば、『保守主義の哲学』(2004年)等々の影響か、コモンローと司法ではなく法の社会化を目指し立法と国会主権を果敢に推進したベンサムを保守主義の対極と理解する論者もまま見かけます。

けれども、世界的に見ても英国の分析法学研究の先駆者と言える八木鉄男先生が、例えば、『分析法学の潮流―法の概念を中心として』(1962年)、『分析法学の研究』(1977年)で提唱されたように、この認識は片手落ちと言うべきもの。なぜならば、法理論面でのベンサムの参謀格ジョン・オースティンの分析法学に結晶しているように、「法=主権者命令説」と呼ばれる「ベンサム-オースティン」の主張は、法が社会統制に容喙できる範囲と権威を限定して、以って、広く実定道徳による社会統制を考えていたと解すべきだからです。蓋し、それが所詮、歴史的事実ではない「物語=イデオロギー」であることを踏まえるならば、所謂「法の支配」で言うところの「法」と「道徳」にはそう大きな違いはないと考えられるから。と、そう私は考えています。



fukakyon3



◆国家と保守主義

保守主義は国家権力の積極的行使には疑義を呈する社会思想です。この一点では、保守主義は資本主義、就中、自由放任の旗幟を鮮明にした新自由主義と極めて良好な関係にあると言える。他方、保守主義は、地域の文化と生態学的社会構造を解体し伝統と歴史を相対化・無力化する資本主義の傾向(その制御が難しいという意味で盲目的で、かつ、時間的にも地域的にも無限の資本の自己増殖性)とは鋭く対立し、国家による資本主義の制御を正当化する社会思想でもある。蓋し、保守主義と国家は資本主義という与件を仲立ちにして重層的な矛盾の関係にあると言えると思います。

畢竟、元来、「デモクラシー」が小規模の社会集団を想定した社会思想であったのとパラレルに、おそらく、保守主義は伝統と歴史、文化と生態学的社会構造を共有する比較的小規模な地域コミュニティーを苗床として成立したのだと思います。保守主義は国家や民族とは必ずしも論理必然に結びつくものではなかった、と。

けれども、失楽園。

繰り返しになりますが、「18世紀-19世紀」の近代主権国家の成立以降、すなわち、「民族」なるものが(よって、「ナショナリズム」が)地球上に初めてその姿を現して以降、就中、資本主義が社会主義を崩壊させ、(アメリカを唯一の超大国に押し上げた同じ資本主義が)その唯一の超大国であったアメリカにさえ「大政奉還」を迫りつつあるグローバル化の昂進著しい現在、保守主義は地域コミュニティーの社会統合を専ら担う社会思想ではなくなった。

蓋し、保守主義はその意味具体的内容の供給を、元来、保守主義と親和的ではない「国家=民族」からも受けざるを得なくなったのであり、逆に、保守主義は近代主権国家の社会統合を担う「政治的神話=イデオロギー」としてのナショナリズムをも包含するに至ったの、鴨。それは、20数億年前の太古の海で、元来、別の生命体であった原ミトコンドリアと原核生物が合体して真核生物が生まれたようなもの、鴨。と、そう私は考えています。整理すれば以下の通り、

◎保守主義の弁証法的変遷と国家との重層的関係の成立
(1)地域コミュニティーの社会思想としての保守主義
   ↓
(2)資本主義の成立
   ⇔資本主義の自由放任性と親和的な保守主義
   ↓
(3)近代主権国家・民族国家の成立
   ⇔国家の権力行使と国家の正当性と疎遠な保守主義
   ↓
(4)主権国家の社会思想としての保守主義
   ↓
(5)グローバル化の時代の保守主義(A+B)
 ●グローバル化の時代の保守主義-保守主義A
 ・国家に期待せず国家の介入を忌避する社会思想
 ・ヘーゲル的な絶対精神としての国家観念を忌避する社会思想
 ●グローバル化の時代の保守主義-保守主義B
 ・国家による資本主義の積極的な制御を正当化する社会思想
 ・ナショナリズムを包摂するともすれば排他的な社会思想


言うまでもなく、「国家」も「民族」もフィクションであり擬制にすぎません。けれども、ケルゼンが見事に定式化したように(例えば「巨人軍」などこの世に物理的に存在しないにもかかわらず、谷や小笠原のスリーランホームランが出れば「巨人」に3点が「記録される=帰属する」ことでも分かるように)それは権利と義務、意味と価値が帰属する(法システムの世界で生成された)「帰属点」なのです。

而して、ゲルナーが喝破した如く、「国家」や「民族」、そして、「ナショナリズム」の意義はそれが単なるイデオロギーにすぎないことでは毫も否定されない。それは、実際に、国内的には社会統合と社会統制の機能を果たしており、対外的には諸国民の生存と活動を保障し、更に、グローバル化の昂進著しい現在では、それは資本主義から諸個人の生存と生活を守り、加えて、資本主義がもたらす諸個人のアイデンティティクライシスを緩和して、当該の国家社会がアノミー化することを防ぐ、近代国家成立以降の人類にとっては死活的に重要な「イデオロギー=世界Ⅲ」だからです。

私が尊敬してやまない小平先生の顰に倣えば、「黒猫も白猫も鼠を取る猫が良い猫」であるように「人間の社会生活を安定させ、人間の生存と生活を保障するイデオロギーは良いイデオロギー」であり、現在において国家も民族もナショナリズムも全体として見れば良いイデオロギーと言える。と、そう私は考えています。

蓋し、近代主権国家の成立以降、比喩的に言えば、人間は「ある国家のユニフォーム」を纏わない限り、国内的にも国際的にも行動することが難しくなった。つまり、ユニフォームは単なる記号にすぎないにしても、ユニフォームを着ていることが国の内外を問わず社会的活動というゲームに参画する基本的なルールになっているということ。ならば、どこの国のユニフォームを着るべきかというルールには白黒はっきり言えばほとんど必然性はないけれども、どこかのユニフォームを着用しなければならないというルールと、そして、とりあえずどこのユニフォームを着るべきかのルールが定まっていることには十分な合理性がある。而して、ナショナリズムを包摂する(反インターナショナリズムとしての)現在の保守主義は、そのような、国家規模のユニフォームの着用ルールを正当化する機能をも果たしているのではないでしょうか。尚、この点に関しては下記拙稿を是非ご参照いただければ嬉しいです。

・外国人がいっぱい
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-198.html

・揺らぎの中の企業文化
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-199.html

・外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(壱)~(九)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58930300.html


上記の考察を踏まえ、我々保守改革派が現下の日本において保守主義に盛り込むべき具体的意味内容は如何。このことを最後に一瞥しておきたいと思います。

蓋し、それは、①「自己責任の原則」が貫徹される、かつ、誠実さと勤勉さとを備えた敗者には「何度でも勝負する機会」を与える活気溢れ社会、および、②伝統の恒常的な再生、すなわち、日本社会統合のための<政治的神話>として「日本=皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」のイデオロギーを常に再構築する社会、更には、③そのような日本社会を統合する<政治的神話>をリスペクトする限り、能力ある善良なる外国籍日本市民を排外することのない開かれた社会、そして、④地方コミュニティー再生にプライオリティーを置く社会思想ではないか。

而して、『孟子』「梁上編」に曰く、「無恒産、因無恒心:恒産なくして恒心なし」。そして、『論語』「顔淵編」に曰く、「子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立」から逆に導かれるように、生存と秩序はすべての社会思想が<政治的神話>として機能する前提条件である。

このことを鑑みれば、我々が希求すべき保守主義の意味内容には、⑤国防と食糧は当然、歴史認識を巡るイデオロギー戦を含むあらゆる部面での<国の安全保障>において、自国は自国で守る意思と力の涵養を怠らず、他方、狡猾誠実に同盟国との連帯を維持強化できる現実主義的な国家、そして、⑥国際法と確立した国際政治の慣習を遵守する国家を正当化する内容もまた盛り込まれるべきである。


ならば、畢竟、例えば、かくの如き無根拠な言説を、単に自己の願望にすぎない言説を、他者をも拘束する根拠を備えた<間主観性のある言説>と勝手に勘違いしている論者は、おそらく、労働価値説と唯物史観の正しさを信じ込んだ上で、護岸不遜で教条主義的な言説を流布したマルクス主義者と、その理路の粗雑さと自己中的の心性においてほとんど差はないのではないでしょうか。それら右からの社会主義者曰く、

女系容認派は、「女系=皇統断絶」という一番重要な点をどう思われているのか。「女系」で形だけを取り繕ってみても、これは文字通りの「皇統断絶」なのですが・・・。保守派を自任する論者の中には、「国民の支持こそが皇統の根拠」というような暴論をぶっている向きもまま見られますが、保守派を自任しておられる方々は、皆そういう拙劣な発想なのでしょうか? そうであれば、「女系容認派」は極左の極み、「保守」など自称して貰っては迷惑千万ですから、きちんと「民族派」なり「国家社会主義者」なりを標榜していただきたいものです。

民族派は、「愛国心」を保持している分だけ「反日左翼」より幾分かましですが、実のところは「国家社会主義者」であって、「全体主義」の色彩が濃く、「愛国左翼」と呼ぶのが正しいのです。「愛国」と「左翼」が結びつけば、「皇統の根拠は現世の国民による支持である」「現世の我々の意見で皇室典範を変えても良い」などといった異常思想に結実するのです。「法の支配」の意味をきちんと理解していれば、国民などは当然のこと、たとえ、「御皇室」であっても、「天皇陛下」であっても、「皇室典範」に触れる事はならないことは自明の理のはずですから。


英米流の保守主義、もしくは、「法の支配」の原理を曲解して、あるいは曰く、

「皇室典範」とは、皇室の家法ですが、最高の日本国法でもあります。ですから、皇位継承は天皇陛下や皇室が決めるものでさえありません。法の支配の始祖エドワード・コーク卿が国王ジェームス一世に対し、自身の処罰をも覚悟して言った言葉。「国王も神と英国法の下にある!(=英国法には国王といえども従わねばならない)」は英米では有名です。同様に、「天皇陛下・皇室でさえ、皇室典範(=国法)に従って頂かねばならない」と言うのが真の回答です。

況や、一般国民が皇室典範の改正云々を口にすることすら許されないと言うのが、バーク保守主義からの帰結なのです。日本国民にはっきり言っておきますが、小林よしのりや中西輝政のような、嫌米・嫌韓・嫌支那の国粋主義的な民族派の保守論などは暴論の書の類であり、読む価値など皆無です。


と、誠に勇ましい。蓋し、「盲、蛇におじず」「知らんということは強い」とは、さも真実であるなぁー、とつくづく感じる次第(笑)。畢竟、本稿と本稿にリンクを張らせていただいた拙稿で論証したように、これらの主張は、全く、「法概念論-法学方法論」的な根拠を欠いている、それこそ「読む価値など皆無」の素人の戯言にすぎません。

而して、所謂「法の支配」の理解においても、(何が「法の支配」の原理が価値を認める、伝統の中で守られてきた「法ルール」の内容であるかを発見する)司法の介在を考慮することなく、「それを伝統と自分が信じるものが、他者をもアプリオリに拘束する<伝統>である」とのたまう、日本でのみなされるバーク保守主義の奇想天外・荒唐無稽な解釈に閉じこもるが如き「保守主義」ではなく、法律実務の蓄積の点でも法哲学の理論史からも、言葉の正確な意味での「反教条主義としての英米流の保守主義」にこそ、今、日本は学ぶべきではないか。現象学と言語ゲーム論から基礎づけ可能で、かつ、社会学的に観察可能な、国民の「生きられてある生活世界」の中に自生的に形成され国民の多数がそれに<法的確信>を抱いている諸規範と諸価値は確かに存在しているのでしょうから。ならば、それらの規範と価値を、価値相対主義的な謙虚さの上で選び取る決断こそ<保守主義>である。と、そう私は考えています。


fukakyon2






(2010年1月24日-9月17日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済

hoshinoakichan39


思う所もあり、今のタイミングでの「海馬之玄関自薦稿一覧」をアップロードさせていただくことにします。35本、一日に1本読んでいただいて約1ヵ月分。既読のものもこの機会に再読いただけるようでしたらこんな嬉しいことはありません。

しかし、「思う所もあり」といって、別に先日(2010年9月14日)の民主党代表選に向けて「独り相撲」的に気合が入ったというわけでもないのです(笑)。少しというか、本格的に忙しくなる予感がすることもあり、このタイミングで自薦稿リストをアップすることにした次第。

蓋し、1本の例外を除き、専門性の高い記事は割愛していますので、その分野の予備知識のない方も、少し我慢していただき丁寧に読んでいただければ理解可能なものばかりではないか、と。そう自分では甘く考えています。著者の非力故に、「分かりやすくはないが、曖昧ではない」(ウィトゲンシュタインのカントの評)が、目標ライン。しかし、この私の主観は間主観性を帯びていない、鴨。些か、忸怩たるものはあります。

畢竟、保守改革派による政権奪還のために共に闘わん。



hoshinoaki1000



◆民主党政権の「正体」をどう考えるか


・「ねじれ国会」の憲法論と政治論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59802541.html

・民主党政権の誕生は<明治維新>か<建武新政>か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59444639.html

・政治主導の意味と限界
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59888125.html

・「事業仕分け」は善で「天下り」と「箱物」は悪か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59556356.html

・自民党解体は<自民党>再生の道
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59586792.html

・自民党再生の<切り札>はハートのロイヤル・フラッシュ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59398718.html

・自民党<非勝利>の構図-保守主義とナショナリズムの交錯と乖離(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59722931.html

hoshinoaki1001



◆民主党政権の「政策」をどう捉えるか


・既卒者雇用企業に奨励金★民主党政権は社会主義政権である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59842947.html

・「外国人地方選挙権は違憲」☆長尾一紘新説の検討
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59183285.html

・外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(壱)~(九)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58930300.html

・公務員労組と公務員の政治活動を巡る憲法論(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59383691.html

・完全攻略夫婦別姓論要綱-マルクス主義フェミニズムの構造と射程
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59250899.html

・高校無償化の愚劣と蒙昧
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59874564.html

・民主党監視塔☆ゆとり教育路線の前提と誤算
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59055281.html

・所得と学力の相関関係と因果関係が投影する<格差論>の傲岸不遜
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59006021.html

・民主党監視塔☆学力低下と教育力の偏倚低迷(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58655491.html 

・民主党の反動に抗して義務教育において教育改革の目指すもの(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58202309.html 

hoshinoaki1003



◆民主党政権の「反動」に抗するための理論武装


・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59308240.html

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879748.html

・憲法と常識(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58258370.html

・法とは何か☆機能英文法としての憲法学
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59457108.html

・女系天皇は憲法違反か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879735.html

・憲法無効論の頑冥不霊と無用の用(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58998947.html 


・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59891781.html

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57528728.html

・グローバル化の時代の保守主義
 ☆使用価値の<窓>から覗く生態学的社会構造
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59596608.html

・日本語と韓国語の距離☆保守主義と生態学的社会構造の連関性
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59190400.html

・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59402294.html

hoshino1004



◆民主党政権を誕生させたこの社会の風景


・「核なき世界」なるものを巡る日本と世界の同床異夢
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59797305.html

・英会話学校の破綻と米国留学の減少は日本の成熟か衰退か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59471996.html

・メディア論から考える古書店-古本屋はなぜ潰れないのか
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59466145.html

・キムヨナを<物象化>する日韓の右翼による社会主義的言説
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59298740.html

・ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」:麻生川花見&総合目次編
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/608a9c0e185fa7a994299f5dabae8483

hoshinoaki1002



◆【付録-2010年9月15日】


・集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59856822.html

・<中国>という現象☆中華主義とナショナリズム(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59895258.html

・外国人の「党員・サポーター」が関与する民主党代表選挙は憲法違反ではないのか?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59863670.html

・政党政治における国民主権原理と外国人の政治活動の自由の交錯
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59878521.html

・派閥擁護論-派閥は政党政治の癌細胞か?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59888254.html

・書評と作品舞台探訪:もし高校野球の女子マネージャーが
 ドラッカーの「マネジメント」を読んだら
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59515237.html

・左翼にもわかる歴史学方法論☆沖縄「集団自決」を思索の縦糸にして
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59882299.html

・「精神障害者も社会に入れて」ですと? 考え違いもはなはだしい!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/36744255.html

・野蛮な死刑廃止論と人倫に適った死刑肯定論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/56484072.html



連帯を求めて孤立を恐れず、
力及ばずして倒れることを辞さないが、

力尽くさずして挫けることを拒否する。
共に闘わん!





hoshinoakichan







(2010年9月13日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : このままで、いいのか日本
ジャンル : 政治・経済

kaijyu2


民主党代表選も終わり、現在、党役員と閣僚の人事を巡り民主党内部は各<グループ>間の綱引きが激しくなっているとも。また、先日、8月11日に実施された自民党参議院議員会長選挙では、町村・額賀・古賀の三大派閥の支援する候補を「脱派閥」を唱えた中曽根弘文氏が紆余曲折の末に退けたとか。而して、本稿は、「中曽根当選」に象徴される、現在、政界内外で評判の悪い「派閥」の是非について検討するものです。

派閥は日本政治の癌細胞なのか? 派閥は可及的速やかに解体されるべきものなのか? 蓋し、中曽根氏は会長選の当日に所属していた伊吹派に退会届を提出したものの、氏の現在に至る政治力の源泉が中曽根大勲位のご子息である事実、すなわち、「伊吹派の本流=旧中曽根派」の<若旦那の良いご身分>にあることは周知の事実。その中曽根氏が「脱派閥」を唱え当選したことは一種ブラックジョークのようにも感じます。

而して、つい最近の9月14日、菅首相再選に落ち着いた民主党代表選こそ、「田中派 vs 福田派」の構図が火花を散らしていた派閥政治全盛時代の自民党でも、そう、例えば、「大平 vs 福田」の所謂「40日抗争」を含めてもそう幾つも例のない<派閥抗争>そのものだったのではないか。蓋し、日本のマスメディアの世界では、自民党内グループは「派閥」であり否定されるべきだけれど、民主党内のグループは「派閥」ではない。と、そういうことなのでしょうか(笑)。蓋し、「派閥」とは何なのか。


◆派閥の弊害

自民党や民主党だけでなく、(左翼マニアや創価学会ウォッチャーの常識ですけれど)社民党、否、共産党や公明党の内部にも政策や政治手法、そして、人脈の違いに起因する「一定程度固定的な人間集団=党内グループ」は存在します。ことほど左様に、経済小説の類では「副社長派 vs 専務派」の派閥抗争は御馴染みの<ストーリーの舞台装置>でしょう。蓋し、「ある組織内の一定程度固定的な利害と主張を共にする人間集団」という意味での「派閥」の存在は特に政党に限られた現象ではないでしょう。

実際、オックスフォードやケンブリッジの教育と研究の根幹の単位たる個々のcollegeは(各専門領域の教育と研究をcollegeから請け負う「学科=department」とは異なり)、11世紀以来、ほぼ千年に亘って「教授と学生が形成してきた派閥」と捉えれば分かり易いですし、また、(当初は天台密教教義の解釈、そして、共に比叡山延暦寺システムのTopを務めた第三代天台座主円仁と第五代天台座主円珍のどちらの流れを自分が受けているかという法統の差異、その後、荘園等の利権争いに起因する)「比叡山延暦寺=山門」と「園城寺三井寺=寺門」の千年に及んだ抗争もまた典型的な「派閥間闘争」であったと思います。閑話休題。

では、それを批判してきたマスメディア内部にも確実に存在するであろう「派閥」を、政党、就中、自民党の派閥を、マスメディアはなぜかくも執拗に批判してきたのか。また、中曽根氏や中曽根氏をお神輿に担いだ自民党の「派閥横断」の中堅若手の参議院議員達はなぜ「脱派閥」を喧伝したのでしょうか。

派閥の弊害。普通、派閥の弊害としては①「適材適所の人事を妨げる」「政策よりも人間関係優位の党内政治力学の源泉である」が掲げられるようです。更に、②「少数者支配に道を開く」という派閥批判もあります。

畢竟、政権与党、すなわち、これまでの自民党の派閥が党と政府の人事を歪め、政策論議&イデオロギー論議を<不透明化=非争点化>させてきたこと、また、政府と世論を乖離させてきたということは、確かに、55年体制下、就中、「田中派-竹下派」支配の時代の現実でしょう。例えば、橋本龍太郎首相は、「派閥均衡型=年功序列型」でする組閣作業に興味が持てず、さりとて、自己の権力基盤たる派閥システムを否定するわけにも行かず、前後3回に及ぶ橋本内閣の組閣作業をほとんど自民党執行部に丸投げしていたという伝説が残っているくらいなのですから。

派閥はそのメンバーに資金・ポスト・選挙支援を与え、その対価として派閥のメンバーに党内外での派閥の影響力の維持拡大に貢献せしめる「自己組織化&自己目的化したシステム」であり、それは、政策とイデオロギーを中核として、世論を集約統合する<社会の公器=政治政党>の機能を著しく損なう政党政治の癌細胞である、と。では、「少数者支配」とは何か。

話を簡単にするために、定数500の一院制の議会を持つ国を考えましょう。例えば、その国の現在の与野党の議席がそれぞれ260と240とする。そして、与党内には2個の派閥があり、それぞれ、135、125のメンバーを擁しているとします。

而して、この場合、与党の最大派閥は議会の27%の勢力であるにもかかわらず政権を掌中にすることが可能なのです。蛇足ながら、この最大派閥が実は派閥領袖の直参旗本組とそれ以外の外様組に、これまた、70対65で分かれていると仮定すれば、この最大派閥内の主流派は実に議会全体の14%の勢力でこの国の政治を壟断することができるのです。    


かっての「田中派-竹下派」支配なるものの実体もこのようなものだったの、鴨。いずれにせよ、政党助成法(1994年)によって政党に公費が投入されるようになった現在、また、自民党が政権与党ではなくなった現在、すなわち、派閥が容喙できるポストが党内のポストに限定されている現在、自民党の派閥の弊害は極小化しており、むしろ、政権与党たる民主党内の派閥の弊害に我々は注目すべきでしょう。

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◆派閥の機能

元来、自民党の派閥は(現在の韓国の政党がその支持する候補を大統領にするために存続しており、大統領選挙の度に離合集散を繰り返しているように)、その派閥の領袖を総理総裁に担ぎ上げるための「期間限定の人的紐帯」にすぎませんでした。よって、佐藤栄作首相までの自民党の総理総裁は一旦自分が最高権力者のポジションに就いた段階では(党内の反抗勢力を弱体化させる狙いもあり)、むしろ、「派閥解消-党内党を廃しフラットな自民党組織の実現」を呼びかけてきたし、その派閥領袖が総理総裁を退陣した以降は、少なくない派閥は漸次解体していった。畢竟、派閥があたかもそれ自体が法人格を持つ企業のように、あるいは、国家のみならず陸軍自体をも機能不全に陥らしめた旧陸軍内部の派閥のように自己目的化して行くのは(不本意な首相退陣をバネに再度の首相就任の野望を燃やし続けた)田中角栄氏が田中派の膨張戦略に舵を取って以降のことと言えると思います。

而して、前項で述べたように、自民党の派閥は、()ポストと資金、および、選挙の支援をその構成メンバーに提供する、()「自己組織型-自己目的型」の組織内組織として<8・30=政権交代>を向かえた。けれども、自民党の派閥の弊害は(誰がどの大臣になっても実質何の違いも生起しないという)「予定調和の雰囲気が覆う泰平の世」でのみ成立可能な現象だったのではないでしょうか。蓋し、資金は政党助成金制度によって直接政党がそのメンバー提供するようになった現在、唯一残った派閥の機能としてのポスト配分も、政権交代が常態になった政界の状態では、「適材適所の原則」を大きく歪めることは、自民党であれ民主党であれ最早どの政権与党にとっても不可能であろう。ならば、()の基盤を漸次消失する派閥は()の機能もまた漸次低減させると私は思うのです。

この点、自民党の谷垣禎一総裁の次のコメントは示唆に富んでいると思います。

・今回の参院会長選では、2つに割れたことで党内にしこりが残るのではないでしょうか?
選挙をすればしこりが生じるかもしれないという懸念があって、しなければ昔からの派閥談合であるという疑念が出てくる。・・・

派閥の問題は、要するに「男子3日会わざれば刮目して見よ」と、・・・日々進歩、進化があるわけです。派閥とはよく言われますが、派閥は昔の派閥ならず。常に変転しているのではないのでしょうか。   



他方、派閥には政党政治をサポートする重要な機能がある。よって、派閥を単に「政党政治を歪める癌細胞」とばかりは言えないように私は思うのです。すなわち、

(甲)政党内の議論を活性化させる機能
(乙)政党内の議論を世に告知広報する機能
(丙)個々の議員の専門性を連結させ政党が集約する政策の整合性を高める機能
(丁)政権与党内では擬似政権交代を引き起こす機能   


最後の(丁)は「55年体制下では自民党内で、「リベラル→保守→リベラル・・・」の擬似政権交代が行なわれていた」としばしば人口に膾炙するポイントであり、特に説明の必要はないでしょう。また、(丙)のメリットも、田中角栄氏が田中派を「総合病院」「デパート」と自画自賛していたように、確かに、(行政権が肥大化する大衆民主主義社会では、政権与党は膨大かつ広範な行政領域に責任を負わなければならない以上、そして、一人の議員の専門性には自ずと限界がある以上)これまた否定できないのではないでしょうか。

蓋し、広範な領域の諸政策の統合作業や陳情への対処を200人から400人を超えるある政党の国会議員が、「議員集団全体=母屋となる政党一箇所」で行なうべきだというのは、悪しき直接民主主義の妄想に他ならない。蓋し、「母屋=政党」での意見統合や党としての陳情への対応方針決定の前に、より政策とイデオロギーが近い、気の置けない仲間内で論点整理と意見集約を行なうことは生産的でしょう。

而して、与野党を問わず派閥のメリットとして考えるべきは、(甲)(乙)の「党内民主制」と「政党と世論の連結」であろうと思います。畢竟、政党助成金を受けようが、政党は私的なものでもある点にその値打ちがある。蓋し、国家権力が独裁政党と一体化している社会主義国の硬直性と独善性は、旧ソ連や旧東欧諸国、そして、現在も支那や北朝鮮で観察できること。蓋し、究極的には私的な政治政党が<世論の支持=公権力>の獲得を巡りその政策とイデオロギーを切磋琢磨しあうことこそ政党政治の醍醐であり、派閥はそのような良き政党政治が機能するための欠くべからざるツールなのではないか。そして、党内民主主義の活性化は「最大派閥の少数者支配」をも漸次不可能にするだろう。ならば、自民党はこれからこそ派閥を活性化させるべきである。と、そう私は考えています。

政権交代が常態の時代、
予定調和の時代に惰眠と貪欲を貪った派閥は消えよ!
党内民主主義を活性化させる派閥は生きよ!   


尚、本稿の理論的前提である「政党政治における政治政党の意義」については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・「ねじれ国会」の憲法論と政治論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59802541.html

・政党政治が機能するための共通の前提
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59582134.html


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(2010年9月16日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 政治・時事問題
ジャンル : 政治・経済

hoshinoaki


「政治主導」をスローガンに掲げた民主党が政権を奪取したからでしょうか、それ以前の自民党政権下のこの社会を「政治不在の時代」と捉える見方が流布しているように思います。けれども、民主党政権の言う「政治主導」なるものは有権者・国民が本当にその手に<政治>を取り戻すことを可能にするのか。「政治主導」ということはそもそも可能なのか、あるいは、「政治主導」とはそもそもどのような事柄なのか。これらの点を以下考察します。

本稿は、「政治主導」なるものを国民主権と民主主義の観点から、些か、原理的・抽象的に描いた下記拙稿の解題です。順序は逆になりますが本稿で私の主張の帰結を確認した上でその根拠を論じたものとして前稿を再読いただければ分かりやすいかもしれません。

・三権分立と国民主権★民主党による「政治主導」は民主主義の帰結か、
 それとも、民主主義と憲法の破壊か?(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58913235.html


◆「政治主導」の意味
菅直人副総理が口にした「現行の日本国憲法には「三権分立」という言葉は書いていない」という妄言については前稿で詳しく批判しましたが、では、そもそも「政治主導」とはどのような主張なのか。ある意味、本稿全体がこの問いへの回答作業なのですけれども、ここでは、「国家権力が取り組むべき行政サーヴィスの内容項目と優先順位、そして、工程計画は中央官庁の官僚が決めるのではなく、形式的にも実質的にも内閣を握り国会を牛耳る政権与党の政治家が決めるべきだ」という主張を取りあえずその意味と措定しておきます。

而して、私は前稿で概略こう書きました。

民主主義は、「利害・価値観の決定的対立が存在しない社会において、十分なる情報が与えられた中で自由なる議論を通して、今日の少数派が明日の多数派になる可能性が存在する場合においてのみその政治哲学的な価値を主張しうるイデオロギー」にすぎません。而して、そのような条件下でのみ国民の部分にすぎない政府与党が「全体:国家&国民」を<僭称>することを「限時法」的に許す体制が民主主義なのではないでしょうか。

ならば、「国民主権の原理を採用する議院内閣制においては、「一元的に政党が内閣の中で活動をする」こと、すなわち、議会で多数を占める与党が行政権行使についても「政治主導=与党主導」で政策を決定し、政策の実現も指導することが国民主権のあるべき姿だ」という主張に端的な民主党の唱える「政治主導」なるものは民主主義の破壊であると同時に現行憲法の破壊でもある。

なぜならば、「部分」にすぎない民主党が(あたかも支那や旧ソ連の「前衛党=共産党」の如く)政府を支配するスタイルは、国民主権と民主主義のオフィシャルな発動回路たる現行憲法の定める「議院内閣制型の三権分立制」という統治機構とその運用スタイルを軽視して(たとえ、次の総選挙までの期間に限定するとしても)「立法・行政 Vs 司法」の二権分立に実質的に移行するものと考えざるを得ないからです。


要は、「政党:party」は「部分:part」である。すなわち、衆参両院とも全議席の三分の2を超える勢力を擁する政権与党といえどもそれは「国民の一部分」の支持を受けているにすぎず、その政権与党が「全国民」を代表して国家権力を行使するのは、土台、矛盾なのです。而して、その矛盾を回避するには、(あくまでも、それは擬制にすぎないのですが、憲法的には)真に全国民を代表する国会で、法案を巡って理性的かつ十分なる討議がなされた上で(繰り返しますが、「全国民の了承」を受けたという大義名分を入手した上で)法案が可決されることが必要なのです。

蓋し、そのような手続を踏まない限り、代表民主制は正当性を喪失して、少数派は多数派に従わなければならない理由を見出すことはできず、畢竟、法と秩序は崩壊する、鴨。このことは、ロシアや支那の少数民族問題を想起すれば満更非現実な話ではないのではないでしょうか。尚、民主主義の意味を巡る私の基本的な考えについては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・民主主義とはなんじゃらほい(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/53753364.html

・政党政治が機能するための共通の前提
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59582134.html


 
而して、政権交代以来、民主党が連発している「強行採決」は民主主義への挑戦であり、それが「政治主導」の帰結というのならば「政治主導」は憲法違反とさえ言えると思います。

蓋し、古今東西、反対者が皆無ではない、就中、反対者が採決に同意していない採決を「強行採決」というのならほとんどあらゆる採決が「強行採決」でしょう。

よって、国会でその法案審議の相場と見られる審議時間が割かれていない。要は、結局は多数派が法案を通すにせよ、①次の選挙での投票の目安にするため、②世論のコンセンサスを得るため、③法案が法となった際にハードケースを巡る運用指針を議事録の形で公に残すために必要かつ十分な審議がなされなかった採決を「強行採決」と言うのだと思います。    

実は、自民党政権はその半世紀余の歴史の中でも驚くほど丁寧に審議してきた(逆に言えば、予定調和的政治風景の55年体制の中、野党の面子を過剰なほど立てていた)。実際、調べて見れば上に記した私の定義に該当する「強行採決」は半世紀を越える自民党政権下で5本の指が余るほどしかない。これは、例えば、教育基本法改正案が十分な議論を尽すべく第164回通常国会で継続審議とされ次の第165回臨時国会で可決成立したことでも明らかでしょう。

いずれにせよ、憲法論的に真面目に議論するに値する「政治主導」とは「強行採決」を連発するようなものではないことだけは確かだと思います。ルソーの次の言葉のように、選挙のときだけ民主主義が顔を見せる、而して、その選挙で一度政権与党の座が確定した後は、ある意味、(審議をしないのだから)国会さえ不要になるが如き「二権分立主義」の準独裁制は端的に憲法に違反するだろうからです。

「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いである。彼等が自由なのは、議員を選挙する間だけのことであって、議員が選ばれるや否や、イギリス人民は彼等の奴隷となり、無に帰してしまうのである。その選挙という自由な短期間の間に、彼等が自由をどのように行使しているかをみれば、彼等が自由を失うのも当然といえる。」

(『社会契約論』第3編15章)   



◆政治主導の可能性と限界
結論から言えば、私は「政治主導は可能か」という問いの答えは「Yes/No」だと考えます。要は、①グローバル化の昂進著しい、②大衆民主主義下の、③福祉国家においては所謂「行政権の肥大化」は必然であり、与党の政治家が行政のすべての部面を監視して、「国家権力が取り組むべき行政サーヴィスの行動予定を、形式的にも実質的にも内閣を握り国会を牛耳る政権与党の政治家が決める」などということは、土台、不可能なのです。これが「No」の理由。ならば、

民主党政権は「政治主導-脱官僚支配」を標榜しながら、その実、官僚と労組が猖獗を極める社会主義国家を目指している。而して、民主党政権の言う「政治主導」とは、行政実務を任せる宛先を人脈的に自民党の与力だった「官僚A群」から民主党に尻尾を振る「官僚B群」に変更するだけのものにすぎない。ならば、「政治主導」は(大統領が変われば、特に政権与党が交代すれば、3000人以上の高級官僚が交代する)アメリカの猟官制的な官僚の人事制度を議院内閣制の我が国において導入する、すなわち、行政に赤裸々な権力闘争を持ち込む不適切な政策指針ではないか。
    
少なくとも、公務員を対象にした内部告発保護制度が公務員制度改革法(1978年)、ホイッスル・ブロワー保護法:WPA(1989年)によって保証され、政策執行過程のみならず政策形成過程における政治家の不当な圧力が抑止されているアメリカ。更には、政治的操作から公務員を保護するHatch法(1939年)、採用・昇進における縁故主義(猟官制:spoil system)ではなく能力主義(merit system)を担保しようとした上記の公務員制度改革法(1978年)等の制度的保証を併用しているアメリカに比べれば、これらの手当てを欠いてなされている現下の民主党の「政治主導」は民主党の息のかかった官僚による支配の強化の側面は否定できない。要は、民主党政権は赤裸々な猟官制を行政機構に導入しようとする、古い自民党よりも更に古い、古い古い政権である。と、そう私は考えます。   

蓋し、いかに現下の情報処理システムの技術革新が目覚しかろうと一日は24時間。而して、(300万人の地方公務員を捨象するとしても)100万人の国家公務員が日々担っておられる日本の行政セクターのタスクのすべてを監視しつつその行動予定の決定を「政治主導」で行なうなどは物理的にも難しいのではないか。もし、それを断行するとなると(「政治主導」を導入する領域を、利害の鋭い対立が存在する、かつ、高い専門性を要する行政タスクに限定するとしても)、それを実行する政治セクターも数万人規模の組織にならざるを得ないでしょう。これは、旧社会主義国で、行政サーヴィスを担う政府の官僚とそれを監視・指導する共産党の官僚が二重に存在していたことを彷彿とさせる究極の<行政の無駄>であろうと思います。

他方、しかし、官僚を信頼して、①大枠の方針を与えること、そして、②世論の支持を取り付け、結果の責任を負うことに「政治主導」の内実を限定するならば、私は、「政治が決断すべき主な行政タスクの行動予定を形式的にも実質的にも内閣を握り国会を牛耳る政権与党の政治家が決める」ことは可能であろうと思います。

逆に言えば、自民党政権下では、官僚が実質的に定めたそれら行政セクターの行動予定と与党の政治家が妥当と考えるそれとがほぼ同じだっただけではないのか。ならば、このより穏当な意味での「政治主導」は自民党政権下でも行なわれていたし、民主党政権下でも可能であろう。畢竟、その二つの「政治主導」の違いは、単に、行政セクターの行動予定の内容が異なるだけではないか。そう私は考えています。

けれども、このより穏当な意味に限定したとしても、民主党政権下の「政治主導」は危ういのかもしれない。畢竟、高校償化にせよ、子供手当にせよ、それらは財源論からも施策の効果論からも<北斗の拳>。而して、このような、憲法無効論なみの馬鹿げた施策の法案がなぜ堂々と国会を通過するのか。

蓋し、それは、(イ)民主党政権の政策のお粗末さ、そして、(ロ)パラドキシカルながら、自民党政権時代に比べても遥かに大きな官僚依存の結合ではなかろうか。すなわち、コトナカレ主義の「官僚=料理人」が「民主党政権=注文主」の注文に沿って出した法案に対して、素人の「注文主」もコトナカレ主義の「料理人」も、本質的には誰もその中味がわかっていないという構図なの、鴨。と、そう私は危惧しています。


б(≧◇≦)ノ ・・・打倒、民主党!






(2010年5月18日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済

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2010年9月14日、民主党代表選挙が終わりました。菅首相の<準圧勝>。而して、これまた、あくまでも「準」ですが、「準世論」の洗礼を受けたこともあり、菅政権も民主党もしばらくは支持率が大幅に回復するのでしょうね。しかし、その薔薇色とは言わないがコスモス色の民主党政権を待ち受けるのは棘の道。否、赤いジュータンならぬ、棘のカーペットを敷き詰めた<24時間TVのマラソン>のような国会運営、鴨。

ただ、それはコアな自民党支持者にとっても「ざまーみろ!」ではすまない事態。だって、(今、総選挙があったら自民党も民主党もともに過半数を取れない可能性が少なくないだろうから、畢竟、「ねじれ国会」)それは、日本の政治が機能不全に陥る可能性を意味しているのですものね。ということで、このタイミングで、その「ねじれ国会」なるものをもう一度よく考えてみよう。そう思い、1ヵ月前の記事を微修正の上再度アップすることにした次第です。


確認するまでもなく、2010年7月11日の参議院選挙の結果、日本の政界は、再度、衆参の両院で多数派が異なる所謂「ねじれ国会」状態に入りました。識者の中には、(3年後の参議院選挙でも、否、おそらく衆参同時選挙でも民主党も自民党も参議院で単独過半数を占めることは難しいのだから)これで今後少なくとも6年間は抜本的な「ねじれ国会」の解消は難しく、アメリカの凋落と支那の台頭、EUの失速と非国家のテロネットワークの跋扈、資源争奪と地球環境問題の先鋭化等々、世界が流動化している現下の激動の時代に日本の政治は安定性を欠いたまま更に漂流を続けることになると危惧する声も少なくないようです。

しかし、「ねじれ国会」自体は必ずしも悲観するだけのものではないでしょう。而して、もし現下の日本の「ねじれ国会」なるものに問題があるとすれば、それは憲政のマナーと現行憲法の規範内容を理解できなかった野党時代の民主党の不埒な<前例>に起因するのではないか。と、そう私は考えています。本稿は、「ねじれ国会」を巡る憲法論を前哨にして、「ねじれ国会」を政治的にはどう捉えればよいのか。また、今後6年間続くかもしれない「ねじれ国会」時代に自民党はいかなる方針で臨むべきなのか。このことを「政治政党」を導きの糸として考究するものです。


◆ねじれ国会は異常か
周知の通り、消費税導入の信任投票と位置づけられる1989年の参院選での自民党の地滑り的敗北(改選71議席→当選36議席)以降、2010年の現在に至るまで20年余、与党第一党(自民党・民主党)は一度も参議院で単独過半数を回復したことはありません。蓋し、この20年間は「ねじれ国会=日本の政治の常態」とさえ言えるのです。畢竟、「冷戦構造の崩壊-社会主義に対する資本主義の勝利」が歴史的に確定した、1989年-1991年のとば口で、実は、日本の政治はイデオロギーを巡るイシューが政治の重要な争点ではなくなる(よって、経済財政政策・産業政策・福祉政策・文教政策等々の個別の行政サービスの領域におけるWhat toとHow toが最重要の争点になる)<脱冷戦構造モデル>に移行し始めたということなの、鴨。

而して、キルヒマンの所謂「包括政党」(①肥大化した行政権がカバーするすべての行政サービスの領域に対して責任を負う、よって、②国民の可能な限りの多数の支持を獲得すべく左右両翼の有権者の利害関心を可能な限りその政策に取り込もうとする、③政権を担う野心と覚悟のある政党)に自民党も民主党も、否、(政権を目指さない政党なるものは「鼠を取らない猫」「ゴールを狙わないFW」であるのと同様)多くの泡沫政党もこの20年の間に漸次変化したのだと思います。畢竟、政党間の政策の違いもまた漸次縮小したということ。よって、ねじれ国会体制においても、実は、日本の政治はそれなりに連立政権という形態で機能する条件は備えているということです。

蓋し、1993年の8党・会派による細川連立政権の誕生、その後の、自社・自自公・自公連立政権の成立、(民主党を仲立ちにしていたとはいえ)社民党と国民新党の連立政権が存立したことを考えればこの理解は満更我田引水の類ではないのではないでしょうか。いつの世も権力亡者は少なくないとしても、<脱冷戦構造モデル>への移行前には、そのような<野合的連立政権>を各政党の支持者も許さなかっただろうし、また、連立政権の政策協議も困難だっただろうからです。尚、グローバル化、大衆民主主義化、福祉国家における行政権の肥大化にともなう政権党の「包括政党」化については下記拙稿をご参照いただければと思います。

・自民党<非勝利>の構図(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59722931.html


◆憲法から見たねじれ国会
現行憲法からはねじれ国会はどう理解されるのか。蓋し、両院制を採用する現行憲法はねじれ国会を想定している、と。結論から言えばそう言えると思います。畢竟、「国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する」(42条)、「何人も、同時に両議院の議員たることはできない」(48条)、「法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる」(59条1項)の諸規定を見れば、(あくまで論理的な確率にすぎませんが)4分の2の確率でねじれ国会は生起することになるのですから。実際、「与党勝利=野党敗北」を◎、「与党敗北=野党勝利」を×で表すと次通り。

衆 参
院 院
― ―
◎ ◎
◎ × ←ねじれ国会
× ◎ ←ねじれ国会
× ×


尚、繰り返しになりますがこれはあくまでも「論理的確率」であり、例えば、「月に兎が住んでいる確率」は「住んでいる/住んでいないの」どちらかだから二分の1、他方、「火星に蛸が住んでいる確率」も同様に二分の1、よって、「月に兎が住んでいる」かもしくは「火星に蛸が住んでいる」確率は(確率の和により)1=100%とかの議論は大人が真面目に取り扱うものではないのと同様、このような「論理的確率」は憲法解釈においてはそう意味のあるものではありません。閑話休題。


而して、確かに、現行憲法は衆参の両議院の権限に優劣の差のある所謂「跛行的両院制」を採用しているものの(具体的には「三分の2以上の多数による衆議院の法律案の再可決権」(59条2項)、「予算の先議権」(60条1項)、「予算と条約、および、内閣総理大臣の指名に関する衆議院の議決の優位」(60条2項・61条・67条2項)等々の衆議院の優越は見られるものの)、予算と条約を除くすべての立法と政府与党が任命する日銀総裁等の国会同意人事の議決に関して衆参両院はほぼ同一の権限を持っている。ならば、ねじれ国会を想定している現行憲法は、憲法の事物の本性から見て、すなわち、(イ)国家意志の統合、(ロ)国民の社会統合という憲法の最重要の機能に関して、ねじれ国会の惹起によってもそれら(イ)(ロ)が機能不全に陥ることのない規範内容を具備していると解するべきだ、と。そう私は考えます。

蓋し、国会法・衆議院規則・参議院規則、国会運営に関する憲法慣習の解釈においては(上記、59条2項、60条1項、60条2項・61条・67条2項等々の条項は「例示規定」として捉え、かつ、内閣総理大臣を単独で指名可能(67条2項)であり、また、内閣不信任案を単独で可決可能で、他方、内閣総理大臣から解散され得る(69条)、要は、参議院よりもより強い政治的責任を憲法上負っている)衆議院の優位の観点からねじれ国会が惹起しかねない(イ)(ロ)を巡る不備を軽減除去する線で憲法は解釈されるべきではないでしょうか。

而して、私は少なくとも次の2点は、自民党がもし早期の政権奪還とその後の保守改革派による半永久政権の樹立を狙うのならば、それが野党であるこの機会をむしろ好機と捉え、与党と協力して実定的な憲法慣習として確立すべきであろう。それが、「政策よりも政局」「国益より派閥の利益」を旗印に憲政のマナーと現行憲法の規範内容を蹂躙して憚らなかった小澤民主党の悪しき前例を修正して日本の政治を世界水準の政党政治に引き上げる道ではないか。と、そう私は考えます。蓋し、この機会に立法もしくは実定的な憲法慣習として確立すべきは、

(甲)予算関連法案の衆議院単独可決制度
(乙)国会同意人事の衆議院単独可決制度


現行憲法が予算に関して衆議院が単独で可決可能な制度を導入していることを鑑みれば、それらが国会を通過しない限り予算の執行が不可能なタイプの予算関連法案もまた憲法60条2項「予算について、参議院で衆議院と異なった議決をした場合には、・・・衆議院の議決を国会の議決とする」に定める「予算」に含まれると「予算」を広義に理解すべきということ。

また、国務大臣でさえ内閣総理大臣が単独で指名できる(68条1項前段)に係わらず(日銀総裁や人事院総裁の如く、いかに時の政府からの一定程度の独立性が求められるポジションも少なくないとはいえ)広い意味の行政権の運用を担う機関の長の任命に関して(再度記しますが、内閣総理大臣を不信任することもできず、他方、内閣総理大臣によって解散されることもない、よって、国民に対する政治的責任を内閣と共有する度合の低い)参議院が「拒否権」を持つ事態は、(イ)国家意志の統合、ひいては、(ロ)国民の社会統合という憲法機能の事物の本性から見て許されないと思うのです。

畢竟、自民党には、(もちろん、これら予算関連法案と国会同意人事を巡り小澤民主党に翻弄され恨み骨髄であろうとも)「江戸の仇を長崎で」などと、それこそ民主党の如きさもしいことは考えず、政権奪還後と保守改革派の半永久政権樹立後の政権運営を睨み綺麗事抜きに「肉を切らせて骨を斬る。骨を斬らせて命を断つ」くらいの構想力と覚悟で(甲)(乙)の憲法慣習化もしくは立法化に向かうべきなのではないか。そう私は考えています。


◆政治政党とねじれ国会
ねじれ国会なるものは存在しない。「ちゃぶ台をひっくり返す」ような物言いですが、この「ねじれ国会不成立論」とも言うべき主張もあながち荒唐無稽なものではありません。現行憲法43条1項に曰く 「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを構成する」、と。ならば、すべての議員が全国民の代表である以上、元来「ねじれ」なるものは存在しない、と。すなわち、「ねじれ」なるものが存在し得るのは、①一定程度固定的な特定の綱領と政策を掲げる、②その所属議員に対して(もちろん、離党の自由はあるにしても)一定程度強力な党議拘束力を帯びる、③政治政党を前提にする場合に限られるでしょう。

トリーペルの古典的な政党理解に従えば、政党と国家権力の関係は歴史的に、()敵視、()無視、()法制化、()憲法的編入の四段階を経てきたとされます。而して、公職選挙法、あるいは、現行憲法と同時に施行された国会法は「会派=政党」を前提にしていること。トリーペルの所謂「憲法的編入」の「憲法」を憲法慣習をも含む広義に捉えるとき、我が国では原敬内閣(1918年)以前の20世紀初葉以来、ほぼ一貫して政党政治が機能してきたこと。これらを鑑みれば、現行憲法は政党について()憲法的編入の段階か、少なくとも、()法制化と()憲法的編入の過渡期にあると言えると思います。ならば、憲法43条1項「両議院は、全国民を代表する議員でこれを構成する」の規定をもってしても、やはり、ねじれ国会は生じうるし、ねじれ国会を制御すべき現行憲法の規範意味はこの43条1項と政党制の矛盾をより低減する線で見出されなければならないのだと思います。

畢竟、両院でともに絶対多数を擁する政府与党といえども、所詮それは「国民=有権者」の部分(part)の利益代表にすぎません。而して、(それがいかに圧倒的多数派とはいえ)国民の部分の代表にすぎない政府与党の立法や行政に「野党=少数派」もまた従うべきだと語るロジックは、一重に、①イデオロギー的に共約不可能な意見の対立が少なくとも現実の政策イシューに関しては存在しないこと、②十全なる情報が与えられる中、議論と説得の営みを通し選挙によって今日の少数派が明日の多数派になりうる可能性が存在すること、また、③国会の審議においても十全なる議論が行なわれ、その帰趨と世論の動向によっては与党が譲歩・妥協する慣行が存在し、少なくとも、次の選挙の際の投票行動決定の資料が国会審議を通して「国民=有権者」に与えられること。これらが「野党=少数派」に遵法を説くロジックが機能する条件であろうと思います。尚、この点に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・政治主導の意味と限界
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59541636.html

而して、現行憲法がねじれ国会を惹起する政党政治をも予想していると考えるとき、ねじれ国会の弊害を軽減させ、「全国民を代表しているべき議員による立法」という(少数派をも納得せしめる)<政治的神話=法の正当性の源泉>を補強するためには現行憲法の規範内容には次の2点もまた含まれていると解すべきはないでしょうか。すなわち、

(丙)国会での十全なる審議を経ない議決の無効
(丁)政策・立法を巡る政党内の議論の公開性と党内民主制が担保されていない政府与党の法案の無効


蓋し、(そこで見られる比較的緩やかな党議拘束のあり方は、大統領制ではなく議院内閣制を採用する我が国にはそのまま導入できないとしても)アメリカの共和・民主の両党の党内における自由闊達な議論とその公開の実際を見るにつけ、我が国の政党、就中、田中派-竹下派支配の亡霊がいまだにそれを覆っているとしか見えない民主党の非民主性と反憲法性は打破されなければならない。と、そう私は考えています。





(2010年8月17日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済

歴史修正主義


◆はじめに
本稿は、『歴史/修正主義』(岩波書店・2001年1月26日発行)の批判記事です。著者の高橋哲哉さんは、著者は、ポスト構造主義が専門の哲学研究者だったのですが、現在は、「戦争責任-戦後責任」について疲れを知らない反日活動を展開しておられる方。

私は哲学の門外漢ですが、『歴史/修正主義』の論理には少なからず驚愕し義憤を感じた。素人を専門的な言辞で翻弄し、もって、それほど根拠があるとは思えない結論を素人に押し付ける、蓋し、<詭弁の強弁>とも言うべきそのあまりの傲慢さに反感を覚えました。


◆『歴史/修正主義』の要旨
同書は、前書き(=はじめに)、目次、基本文献案内、及び、あとがきを入れて130頁足らずの小著。しかしその主張はラディカル。本編は、第Ⅰ部「歴史と責任」、第Ⅱ部「歴史と物語」、第Ⅲ部「歴史と判断」の三部構成で、戦争責任の主体論・戦争責任の本質論、戦争責任を問うための方法論、そして、戦争責任の果たし方が順次展開されています。

本書のロジックは概略以下の通り。

(1)戦争責任の主体は実体的な「国家」でも「民族」でもない。
(2)戦争責任の主体は、戦争遂行時の国家指導者や戦争犯罪の実行犯/教唆犯/幇助犯に限られない。
(3)戦争責任の主体は、戦争犯罪や戦時下の暴力行為を、今現在、知りうるすべての人間である。
(4)戦争責任の原因となった、事実は歴史科学的に確定される必要はなく、また、歴史学の成果として「物語」のスタイルにまで洗練される必要もない。それは、「断片的な記憶」であってもなんら問題はない。
(5)この意味での戦争責任には時効はなく、人生とは責任を死ぬまで引き受けていくという決断と実行の累積である。
(6)戦争責任のある者は、戦争責任を回避しようという自国や他国政府に対して責任をとらせる責任がある。
(7)このような戦争責任論は、実定法的にはニュールンベルグ戦時法廷にその萌芽が見られる。そして、戦争犯罪を構成する法的要件と法的効果は、その後の国際人道法の発展の中で漸次強固なものとなってきている。
(8)戦争犯罪に関する国際人道法の理念をさらに推し進め、更に、十全になる責任を引き受けようとする決断を、戦争責任のある者は行わなければならない。
(9)この戦争責任は普遍的であり、例えば、この責任論の地平からは先の戦争におけるアメリカの日本の市民に対する責任をももちろん問われなければならない、と。

戦後責任


◆『歴史/修正主義』の斬新さ
本書に私が感じた斬新さは次の2点。

A:戦争責任の主体は国家でも民族でもない

戦争責任を巡る議論においては、「戦前のことは知らん」「国や軍の指導者、あるいは、戦争犯罪の直接の実行犯だった者だけが責任を負うべきだ」、との発言がリベラル側に苛立ちを与えているのでしょうか。「誰も自分がやっていないことに関して責任を問われない」という原則は、シンプルだけれども反論の難しい主張だろうから。

例えば、昔、支那人の彼氏と同棲していた私の大学時代のガールフレンドは、痴話喧嘩で、彼氏が「今の支那の社会的な矛盾には日本帝国主義の負の遺産がる。君はそれを恥じないのか」とのたまうのに対して、「私は戦後生まれやし、戦前のこと言われても知らんで」と反撃し、「100戦100勝や」と豪語しておられた。

而して、「戦前のことは知らん」という論理を突き崩すための、例えば、家永三郎氏に代表されるロジックが、「日本国民」や「日本人」であることを理由とする一種の<原罪論>でした。

曰く、「日本人は、韓国を植民地支配し、韓国の人民に塗炭の苦しみを与えた。支那でも、シンガポールでも、スマトラでも殺戮・陵辱・略奪の限りを尽した。ならば、日本と日本人の戦争責任は争えない。ところで君は日本人だよね。じゃあ、君の戦争責任は確定しているよ」、と。

このロジックの弱点は、それが、「国家」や「民族」という概念の実体性に依存していること。蓋し、「日本人であることを根拠とした日本人の戦争責任論」の妥当性は、「日本」と「日本人」の概念の実在性に依存しており、それらの概念の実在・不存在とこのロジックの妥当性は運命を共にするということです。

しかし、概念の実体性は成り立ちません。論証は(下記拙稿の前半部分をご参照いただくことにして)割愛させていただきますが、分析哲学の確立以降、つまり、20世紀半ば以降のこれが哲学と科学方法論の常識なのです。

・「プロ市民」考
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57630212.html

ここに至って、「誰も自分がやっていないことに関して責任を問われない」という常識的な論理は、日本の戦争責任と戦後責任を認めたい論者にとっては乗り越え難い障壁としてその行く手を遮ることになる。而して、『歴史/修正主義』は、「誰も自分がやっていないことに関しては責任を問われることはない」という障壁を「突き破る=迂回する」論理を、そう、言わば「戦争責任に関する第三の道」を提案する。

それは、「戦争犯罪を現在において知ることのできる者すべてが戦争責任を持つ」という極めてシンプルな提案。なるほど、これは名案。これならば、戦争責任は「戦争を知らない世代」にも遠慮なく課せられることになりますから。

そして、戦争責任があることの帰結として、「戦争責任を忘れよう、あるいは、少しでも加害が少なかったように歴史を改変しよう」とする自国や他国の政府に対して、すべての戦争責任者(貴方も私もですよぉー!)は、「戦争犯罪を自国の国民が忘れないような施策を取れ」と要求する責任を負っていることになるわけです。而して、現実的には、どの戦争責任者も(私も貴方もですよぉー!)、とりあえず、自国政府への働きかけが一番やりやすいだろうから、日本の戦争責任者に対して、この「第三の道」の帰結は、日本政府に対して戦争責任と戦後責任の追及を要求することになり、偶然にも(笑)、本書のロジックは、リベラル側の既存の反日運動と同じ機能と効果を発揮することになる。

なるほど、高橋さん、これはグッドアイデアですよね!


B:戦争責任の根拠となる事柄は物語られる必要はなく記憶の断片でよい
例えば、「南京大虐殺」があったかどうか、所謂「従軍慰安婦」なるものが実在したか否か。これらの事実を確定することは誰にとってもそう容易なことではありません。而して、この事実確定の困難さもリベラル側の苛立ちの原因になっているらしい(もっとも、<南京大虐殺>があったかどうかということと、所謂「南京大虐殺」なるものを日本の中学や高校の歴史教科書に取り上げるべきか否は全く別の問題です。この点については下記拙稿をご参照ください)。

・左翼にもわかる歴史学方法論☆沖縄「集団自決」を思索の縦糸にして
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59882299.html

蓋し、リベラル側がここで取る常套手段が、個々の事実を大きなストーリーに付随させるトリック。要は、個々の事実の検証の精度に関わらず、戦争責任の原因となる事実は確定していると言い切る手法です。

左翼のとある大先生曰く、「何? 南京の犠牲者は30万人ではなく、周辺地域での犠牲者や便衣兵の死者を寄せ集め掻き集めても、せぜいが所、2万人が上限だぁ? そんなん、どうでもえーこっちゃないですか。日本は、内においては軍部独裁、外に対しては帝国主義により、アジア近隣諸国を侵略したのだ。日本が支那の民衆を抑圧した事実は動かない。ならば、君達の言っているのは、日本の戦争犯罪を少しでも軽減したいというサモシイ心根の顕れにすぎんのです。もっと、歴史の大局を見ないでどうしますか、恥を知りなさい!」、と。

あるいは、

「何? 実際、1982年の教科書検定で、日中戦争に限ってみれば、「侵略」を「進出」に書き改めさせられた事実はないですとぉー? そんな細かことはどうでもよろしい。文部省の検定が長年に亘り、日本の戦争責任を認めるのに消極的な姿勢を貫いてきたのは明らなことでしょうが。なら、君の意見は、研究者として一見誠実に見えながら、実は、歴史の真実から国民の目を背けさせようとしてる勢力に荷担してんねん。君は、大衆の中に入って出直して来なあかんわ。啄木も言うてるやろ、そうや、「ヴ・ナロード!」や、自分がどっちの味方せなあかんのか、そこんとこを抑えてもらわんな、大学のポストなんぞ君にはよー紹介できへんがな」、となる。

大きなストーリーによって個々の事実の検証精度を糊塗する戦術は、しかし、前述のリアリズムの崩壊と同時にこれまた破綻してしまいました。蓋し、今時、(例えば、周辺従属理論や宇野派の段階論・現状分析論を含めても)唯物史観や帝国主義論から歴史について何ほどのことが言えましょう。それらは、最早、社会思想の博物館の陳列品にすぎないのではないでしょうか。

而して、ここで『歴史/修正主義』が提案しているのが、「戦争責任や戦後責任の根拠/原因となる事柄の<告発>には、緻密さや整合性は必要ない。それらは、被害者/当事者の断片的な記憶で十分なのだ」という福音です。高橋さんは、ここで元デリダ研究者らしく、「検証され整合性を帯びた物語と断片的な記憶との間に何ほどの差があると言うのか。物語も記憶も<限界なき責任>に突き動かされて、生ある限り自己を変革=脱構築していくための契機すぎない」、とかなんとか難しいことを呟いて、清水の舞台から「エイ!」と、飛ばれたのだと思います。勇敢だ。しかし、それはそうは考えないという論者にとっては単なる<責任逃れの詭弁>から<詭弁の強弁>に向けて飛ばれただけにしか見えない、鴨。


◆『歴史/修正主義』への疑問
高橋さんは、国際人道法の内容と<戦争責任論の内容>が予定調和的に共鳴すると主張される。否、高橋さんの場合、むしろ、高橋さんが発明された戦争責任の内容に、漸次、現実の国際人道法が収斂してくるという予想なのかもしれません。要は、「本書で述べられているが如き戦争責任論は、確かに今現在の所、理想にすぎないと感じられる向きもあろう。しかし、本書で述べた戦争責任は、早晩、国際人道法が認めるものになるのです」、と。

畢竟、その予定調和の根拠は何なのか? 「今現在、戦時下における暴力行為を知ることが可能なすべての者にかかる責任」として「戦争責任」を定義するのは高橋さんの勝手でしょうが、しかし、かなり特殊なその責任の定義と責任の果たし方が、どうして、実定的な国際人道法の内容と早晩一致すると言えるか。本書のどこにもそれは説明されていません。

高橋さんの議論は、高橋さんの脳内で製作されたにすぎないかなり特殊な戦争責任の概念と内容が、漸次、国際人道法に具現化していくはずと考えている点で極めてヘーゲル的。そして、今はとりあえず影も形もない、<将来の戦争責任の概念と内容>を根拠にして、現在でも自分の戦争責任論が社会を動かしうると考えておられるのだろう点で、それは、一種、マルクス主義的と言ってもいいの、鴨。


蓋し、『歴史/修正主義』は、国家と民族の実体性を、オッカムの剃刀ならぬ哲哉の小刀で見事に切り捨てた。しかし、逆に、それは国際的で普遍的な人権という実体概念をこっそり密輸しただけではないのか。

而して、本書の中で、この国際的な人権という実体概念、すなわち、<キリスト教の組織進学>において、父なる神に対する聖霊の役割を演じているのが、<高橋戦争責任論>においては<各人が意識しないことが許されない戦争被害者の訴え>という、ほとんど、「あなた何様?」的契機なのです。

なるほど、『歴史主義/修正主義』に私が傲慢さを感じた理由がわかった気がする。
蓋し、高橋哲哉さんはお節介な宣教師なのだ。

「神=普遍的な国際的人権は存在する。否、最後の審判が必ず行なわれるように、それは必ず現実のものとなる。聖霊の声=戦争被害者の声を聞きなさい。悔い改めよ。戦争責任を知り、汝の政府の戦争責任を追及しなさい、それが貴方の戦争責任の果たし方なのですから」、と。

そう、頼みもしないのに他所の玄関にやってきて説教を呟くお節介な宣教師なのだ。
これが多分、正解、鴨。違うかな(笑)


尚、本書に炸裂している高橋哲哉さんの<詭弁の強弁>の芸風にご興味のある向きは、その<無根拠な独善性>を俎上に載せた下記拙稿も是非ご一読ください。

・高橋哲哉『靖国問題』を批判する(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/2499484.html

・高橋哲哉『国家と犠牲』を肴に<高橋哲学>の非論理性をクロッキーする
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/10702380.html



hoshinoakichan







(2010年9月14日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済





正しい歴史の認識とは何か? 正しい歴史の記述などというものはありうるのか? もしありうるとして、それはどのような条件を備えたものなのか? これらのことについて考えてみたいと思います。 

よく、「10人の歴史家がいれば10個の歴史がある」「すべての歴史は(現代の観点から再解釈された)現代史である」という言葉を耳にしますが、歴史教科書や歴史教科書の検定を巡る争いを目にするたびに私は「正しい歴史の認識とは何か」という問いを反芻してきました。他方、所謂「従軍慰安婦」なるものの存在や、沖縄戦での住民の集団自決に関する「軍の関与」なるものを言い募る論者にとっては、紛うことなき絶対の歴史の認識の存在は毫も疑いない事実なのかもしれない。保守主義に貫かれた実存的決断を躊躇しない、しかし、価値相対主義の徒でもある、ピラトーの弟子たる私には些か羨望の念も交えつつそう思えてなりません。

けれども、新カント派からも現代哲学の主流たる現代分析哲学の立場からも「正しい歴史の記述というものがありうるのか」という問いはそう簡単なものでもない。また、それはそう自明なものでもない。このことを「唯物史観」あるいは「地球市民が世界連邦に至る歴史観」をいまだに夢想することで「正しい歴史認識」の存在を確信されているらしい、左翼や戦後民主主義を信奉する論者にもわかるように説明してみよう。それが本稿執筆の動機です。尚、「歴史」という言葉の意味、および、沖縄戦の「集団自決」なるものを歴史教科書はどう扱うべきかについては下記拙稿も併せて一読いただければ嬉しいと思います。

・政治と社会を考えるための用語集(Ⅳ) 歴史
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/1325177.html

・歴史教科書の記述基準
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/49942866.html


◆歴史は事実そのものではない
「正しい歴史の記述はありうるか」という問いは自明ではない。第一に、歴史は事実の記述そのものではないからです。もちろん、歴史がSFや歴史に舞台を借りた大河ドラマの脚本ではない以上、歴史の記述は「歴史的事実」を踏まえたものでなければならないことは当然です。逆に言えば、歴史の記述は「歴史的事実」と矛盾することは許されない。けれども、歴史が「ありのままの事実」を記述したものなどでは到底ありえないことも確なのです。フッサールの言う「生きられてある世界=生活世界」とは「世界を再構成し解釈し理解する存在たる<私>にとってその存在が疑いようがない、不可疑の世界」というだけであって、その生活世界が間主観性を帯びることはあり得ても、それが「ありのままの事実」である保証はどこにもない。蓋し、端的に言えば、カントの「物自体」を持ち出すまでもなく、この世に「ありのままの事実」なるものなど存在しないか、それが存在するとしても人間がそれを知ることなどできはしないということです。

例えば、沖縄戦に参加したアメリカ軍と日本軍の個々の兵士の生い立ちから沖縄に来るに至った経緯、日米と支那やソ連の当時の指導部の沖縄戦を見る思いや予想。あるいは、沖縄戦の全期間の気象記録から動植物の生育の状態。また、沖縄の住民が隠れた個々の洞窟や壕やがまの衛生状態からその空間を満たしていた酸素原子や水素原子の個数に当時の星座のありよう・・・・。冗談ではなく、個別「沖縄戦」をとっても同所同時を巡っては多様で多層な事実が記述可能なのです。ならば、目の前で展開された目も眩まん限りの多様で広範な事実を文字列で描ききることなど到底不可能。それらは歴史教科書どころか歴史家のキャパシティーを越えた事柄であることは自明でしょう。

蓋し、歴史とは事実そのものではなく、歴史家の選択によって選りすぐられ再配置された事実でしかありえない。畢竟、歴史の記述の正しさなるものは事実からでなく事実を選択して再配置する歴史家のスキルの妥当性に左右される。畢竟、沖縄戦を例に取れば、「日本軍の強制があった」などという虚偽を正しい歴史の認識や記述が含んではならないことは当然としても、その正しさは事実からだけでなく事実を選択して再配置する視点の妥当性と一貫性に左右される。そう私は考えています。


◆歴史は事実ではない
次に、歴史の認識と記述は事実の記述そのものでもない。それは、例えば、「日本軍」や「強制」や「関与」、あるいは、「沖縄戦」や「帝国主義」や「大東亜戦争」等々のある特殊な意味を帯びる、すなわち、ある特殊で具体的な価値観によって意味づけられた言葉による事実なるものの切り取りであり再配置であり再編の作業なのです。

要は、(1)歴史とは「普遍」的な概念を通した特殊歴史的な個々の現象(=「個物」)の認識であり、而して、(2)そのようにして獲得された「個物」の認識による「普遍」の修正、更には、(3)より豊饒な意味を帯びた「個物」によって修正されるであろう新たなる「普遍」による「個別」の再認識。これら(1) →(2)→(3)→(1)→・・・という永久的の営みの積み重ねに他なりません。些か、説明がヘーゲル的になりました。敷衍しておきましょう。

蓋し、歴史の認識とは、(1)「日本軍の関与」という概念を通して渡嘉敷島での住民の集団自決という個々の事態を認識し、而して、(2)その渡嘉敷島における住民の集団自決に際して発揮された日本の守備隊長の高い人間性を「日本軍の関与」という概念に組み込むことで、(3)沖縄戦における日本軍の戦いの見事さを一層深く理解することである。言語と事実、普遍と個物を巡る関係の発展として歴史の認識と記述はこのように整理できると思います。畢竟、歴史とは事実ではなく事実を理解し解釈する営為の発展に他ならないのです。


◆歴史教科書における正しい歴史の記述
歴史は事実そのものではないし、歴史は特殊な価値体系の中にその本来の場を占める言葉による事実の永久的の再編作業である。ならば、歴史教科書にせよ歴史学の記述にせよ、「正しい歴史の記述」なるものは存在しうるのでしょうか。

簡単に言えば、そこでの記述の正しさは価値相対主義的な正しさしかないと私は思っています。すなわち、ある価値観や歴史観を共有するグループやコミュニティーのメンバーの中でしか歴史記述の正しさなる性質は成立しないのではないかということです。

けれども、価値相対主義とは不可知論そのものではありません。それは、自己の認識や行動の根拠には絶対の正しさは存在しないという認識を保有しながらも、現実に人間は何らかの行動を選択し認識を選び取らねばならないという人間存在の宿命を引き受ける中庸を得た成熟した大人の態度である。

蓋し、歴史認識においても歴史教科書の記述の選択においても、可能な限り事実を踏まえながらもなんらかの立場を選択する営みこそ価値相対主義の真髄と言ってよいと思います。而して、その選択と行動の指針は行動の目的に他ならず、個別、歴史教科書を含む政治的なエリアにおいてはその目的とは公共的な性格を帯びなければならないでしょう。

このように価値相対主義的態度をポジティブに捉えるとき、私は、究極の所、歴史記述には絶対的な正しさなどは存在しないという主張を否定しませんが、しかし、こと歴史教科書の記述に関しては充分に「正しさの基準」は成立すると考えています。何においても歴史が不可知であるからといって教科書の該当箇所を「墨塗り」ならぬ「空白」で済ますことなどできないでしょう。而して、私の考える「正しさの基準」は以下の3点に収束します。

(甲)より論理的に優れたイデオロギーの採用
(乙)より事実と整合的なイデオロギーの採用
(丙)教科書の目的により適ったイデオロギーの採用


唯物史観、廣松渉さん流に言えば、「戦前の日本を外に対しては邪悪、内においては暗黒の世界」と描くコミンテルン的で講座派的な歴史観の論理的な基盤は、例えば、歴史に発展法則を見出そうとする試みを粉砕したカール・ポパー『歴史主義の貧困』によって否定された。ならば、現在、歴史の教科書に戦前戦中の日本のあり方を「当然否定されるべきもの」との認識で描くことには何の根拠も存在しないということ。よって、いまだにそう書きたい論者は唯物史観以外の根拠を提示することが求められる。而して、このチェックポイントが「より論理的に優れたイデオロギーの採用」ということです。

例えば、沖縄戦を巡っては、戦艦大和の戦艦特攻を含め考えられうる限り最高度の努力を日本は尽しました。ならば、沖縄戦の最終場面で軍民を巻き込んだ集団自決を「日本軍の強制」などの虚偽はもちろん、「日本軍の関与」なる文学的言辞で記すことは(住民の自発的な自決や他ならぬアメリカ軍の攻撃を捨象して「日本軍の関与」のみにアクセントを置いて記すことは)歴史の正しい認識ではありえないし、それはより正しい歴史認識から読者の注意を逸らす誤りと言うべきでしょう。これが、私のいう「より事実と整合的なイデオロギーの採用」というチェックポイントです。

最後のチェックポイントは「教科書の目的により適ったイデオロギーの採用」です。簡単な話です。小学・中学・高校の歴史教科書の内容など歴史学の先端的な知識でもないし、また、歴史教科書の記述がどう変わろうが歴史学の最先端の知識が左右されることなどありえない。

而して、歴史教科書に期待される内容とは、次世代を担う日本国民と定住外国人たる日本市民に自分がそのメンバーであるこの社会の来し方の流れをトータルで理解してもらうことに尽きると思います。少なくと、この皇孫統べる豊葦原之瑞穂國のメンバーたる自分のアイデンティティーとプライドを涵養することは日本の歴史教科書の主な目的でないはずがない。

この目的は「近代主権国家」「国民国家」「皇孫統べる豊葦原之瑞穂國」という<政治的神話>を根拠にこの国土に統一的な憲法秩序を打ちたて社会の安寧秩序を維持している現在の日本国という公共性と極めて整合的である。畢竟、地球市民なるものや国際社会などという実体を欠いた共同体を国家秩序に置き換えようとする戦後民主主義の社会思想や、(現在の皇室を中心とする日本社会の秩序を敵視する点では)それと表裏一体を成す「コミンテルン的-講座派的」な歴史観という、恣意的かつ個人的な歴史教科書記述の指針や目的に比べても遥かにその公共性は多くの国民と市民の賛同を得る可能性が高いものではないでしょうか。

これらの観点を踏まえるとき、沖縄の集団自決への「軍の関与」などは教科書のボリュームを鑑みた場合にも掲載に値するような内容ではないだろう。また、それを記述する場合にも日本全体で沖縄を巡って戦った日本国民の営為の一貫として述べられるべきである。私はそう考えています。

尚、私の思索の基盤である保守主義、および、その<基盤の基盤>たる<伝統>というものについての私の現在の理解については下記拙稿をご参照いただければありがたいです。

・保守主義の再定義(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59162263.html

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57528728.html

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html


kaihinmakuhari






(2010年9月14日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

hoshinoakichan


現在のまま推移すれば男子の皇族がいずれ悠仁親王お一人になる。この事態を前にして、悠仁親王御生誕で一旦沈静化したものの、皇室の危機の構図に変化があるはずもなく、最近また「女系天皇」を巡る議論が喧しくなっているようです。しかし、私の目には「女系天皇」を巡る議論の多くは論理的には杜撰に見える。中には、「雅子様派-紀子様派」の<代理戦争>と感じられるものもあり、また、自己の願望を告白する「信仰告白-真理告白」の如きものもまま見受けられる。本稿は憲法基礎論の地平から「女系天皇」問題がどのような位相にあるのか、この一点に絞って検討するものです。


jyotei1.jpg



■女性天皇と女系天皇
現行憲法が天皇制をその不可欠の一部(an essential part of it)としている以上、すなわち、憲法改正を行なわない限り(というか、旧憲法の改正条項を使って現行憲法が新憲法として制定された経緯と同様、その場合の「改正」は法論理的には新憲法の「制定」と分類されるべきでしょうが)、天皇制の廃止や皇統の消滅は議論の対象から除くとして、所謂「女帝=女性天皇」に反対する論者は左右とも少数のようです(尚、「天皇制」という言葉を巡る私の基本的な考えについては下記拙稿をご参照ください。また、本稿では、「大王」「王」と記すべき8世紀以前に関しても「天皇」の表記で通しています)。要は、


(L)現行憲法の掲げる「男女同権」(14条1項・24条・44条)の価値

(R1)史上、10代・8人の女性の天皇(更には、実質的どころか形式的にも天皇であったとも見られる神功皇后・飯豊皇女を加えれば12代・10人の女帝)が存在した事実

(R2)我が国は文化史的や文化人類学的には、すなわち、家族制度、財産および地位の相続と継承に関しては「双系制」と言うべき社会であったこと。すなわち、朱子学が社会の公的イデオロギーの座を占めた江戸期中期以前は、そして、儒教とは別の意味で「男性中心主義」が強化された明治民法体制以前は(実は、その時代でも特定アジアの儒教国や西欧と比べれば女性の地位は高かったとも言えるのですが)「女戸主」や「女地頭」は、ある意味、普通の存在であり、まして、後には院政の主宰者の立場と同義になる、氏族としての「天皇家」の「家長権-氏長者権」は、皇室財産の過半を占めた長講堂領・八条女院領等の女院領の帰属と同値であったことからも推測できる通り、女性の財産権や政治的影響力は(例えば、二位の尼、北条政子のそれのように専ら「属人的-実質的」なものではなく)半ば公的なものであったこと 


これら(R1)(R2)を踏まえてでしょうか、保守系の論者も「女帝=女性天皇」にはおおむね支持か容認の立場ではないかと思います。   

・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59402294.html

尚、保守主義、および、保守主義の基盤たる<伝統>ということに関しての私の基本的理解については下記拙稿をご参照ください。

・保守主義の再定義(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59162263.html

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html


よって、問題は「女系天皇」。言葉の意味を整理しておきます。すなわち、

女性の天皇と女性天皇の容認を意味する「女性天皇」に対して、「女系天皇」とは、女性天皇の卑属に次世代の皇室身分と皇位継承の資格を認めるルール体系を意味する。而して、<制度>の側面から見た場合、「女性天皇」が単に個々の天皇と天皇有資格者の性別に言及する一代限りの天皇にかかわる制度にすぎないのに対して、「女系天皇」は皇統継承のルールにかかわる制度と言える。よって、「女性天皇」はある天皇が女性であるという事実の記述と制度概念の両義を帯びるが、「女系天皇」は専ら<制度>概念であり、正確にはそれは「女系天皇制」と表記されるべきものである。   


蓋し、皇室の危機のソリューションとして挙げられる、①女性天皇制、②旧宮家の皇籍復帰、③養子制度(現行の皇室典範9条を改正して、天皇および皇族が養子を迎えることを認める制度改革)、④女系天皇制のうち、皇族の自然消滅の蓋然性が解消されるべき危機とすれば、①は(聖母マリアのような奇跡でも起きない限り)次世代の皇族がその女帝の卑属としては論理的にはゼロになる制度に他ならず抜本的解決にはなりえない。よって、危機の抜本的解決策は、④の女系天皇制か、確率的には「抜本的」とは言えないが、②の旧宮家の皇籍復帰、もしくは、旧宮家の男子を養子に向かえる前提での③、あるいは、②③の併用に収斂すると思います。

◎ 皇室の危機解消の現実的ソリューション
(甲)女系天皇制
(乙)旧宮家の皇籍復帰∨養子制度の導入
    



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【第27新羅王・善徳女王】


■女系天皇論の陥穽
女系天皇を巡る保守派内部の賛否両論を見聞きしていて私が常々疑問に思うことがあります。それらは、ある意味、「左翼-リベラル派」が唱える男女同権論からの女系天皇賛成論よりも基本的な誤謬を犯しているのではないかということ。すなわち、「過去に事実がいかほど積み重ねられていようと、それはある法規範や相互に連関する法規範のパッケージたる制度が今後どうあるべきかという主張の根拠にはならない」ということです。これこそ、新カント派の方法二元論を持ち出すまでもなく法論理的には自明のことである、と。

すなわち、遅くとも継体天皇が即した6世紀初頭から千五百年余り、男系で皇統が継承されてきているとしても、それは、単に「事実:Sein」の問題であり「価値:Sollen」の問題である女系天皇制の可否決定には論理的にはとりあえず直接の影響はないのです(重要なことは「とりあえず直接」という限定句です)。

伝統や歴史、事実の蓄積は女系天皇を否定も肯定もしない


よって、次のような議論は、女系天皇制に関しては「とりあえず直接」の影響はない。

(P1)財産の継承や政治的影響力という点では女性の影響力は支那などに比べて本邦は強かった。また、藤三娘光明子までは「皇后」は「天皇」とほぼ対等の権威を持っていた。つまり、「天皇」と「皇后」を区別する現在の男系理論は、所謂「皇国史観」から流れ込む平田神道とドイツ流の観念的国家論の混合物にすぎない。

(P2)日本の皇統は6世紀近くまで「男女双系制」であったとも解される。実際、7世紀以降もあるタイプの婚姻慣行、すなわち、かなり限定されたある氏族(葛城氏・吉備氏・蘇我氏・藤原氏)と氏族としての「天皇家」が婿嫁をやりとしていたことは否定できない。而して、この文化人類学的事実を踏まえれば(『記紀』の記述を事実と仮定したとしても)皇統の継承においても、例えば、雄略系王統の断絶に際して履中系の仁賢天皇が「雄略系-允恭系」の春日太郎皇女に入り婿して皇位を継承したこと、あるいは、仁徳系王統の断絶に際して応神系の継体天皇が仁徳系の手白香皇女に入り婿する形で皇位を継承したことからは、少なくとも、6世紀初頭までは天皇を出せる氏族としての「天皇家」が複数あり、その複数の「天皇家」相互間では、皇位の継承に関しても双系制であった蓋然性は否定できない。

ならば、男系の天皇の卑属のみに皇位継承の資格を認めるという主張は、我が国の伝統とも文化とも直接の関連はない。蓋し、支那の則天武后、新羅の善徳女王・真徳女王・真聖女王等の極めて僅かの例外を除けば支那や朝鮮には存在しない(男系にせよ)「女帝」を日本は近世に至るまで認めてきたことでも明らかなように、7世紀以降も双系の皇位継承ルールと男女の対等な関係は日本文明の伝統であった。畢竟、現下の皇統消滅の危機に際しては平時の皇位継承ルールを日本自体の伝統に沿って変えることにはなんら問題はない。    


(C1)『記紀』を紐解けば神武以来皇統は男系で継承されてきた。10代8人の女帝を見ても女帝はすべて男系皇統に属していた。また、女帝の卑属が天皇に即位したケース(「皇極=斉明」天皇、元明天皇)ではその女帝の「配偶者=女帝の卑属の父」は天皇か天皇に準じる皇子(舒明天皇・草壁皇子)だった。畢竟、「天皇」は「天皇」であり、「皇后」は「皇后」である(そうでなければ、わざわざ、推古皇后・「皇極=斉明」皇后・持統皇后が「天皇」に即位する必要はなかったはずではないか)。

(C2)欽明朝以降、天武朝に至るまで通用した、皇位は天皇と前天皇の娘である(天皇の異母姉妹たる)皇女の間に出来た宮腹の皇子が継承し、当該の皇女の母は蘇我氏等の特定の有力豪族出身者にほぼ限定されるという慣行(クレオパトラのプトレマイオス朝の近親婚と類似の制度)の確立は、貴種を拡散させず、他方、皇位継承者をより確実に確保するための慣習と言うべきである。ならば、遅くとも、6世紀初頭の継体天皇の御世からは、皇位は男系の皇子が継承すべきだというルールが、否、ルールと言えば我田引水ならばそのような観念が成立したことは間違いない。

蓋し、8世紀初頭の『記紀』の成立期にはすでに、①家産や政治力の継承と区別される、②「天皇=国家の象徴」としての地位は(女帝を含む)男系皇孫に限定されるべきだという観念が成立していた。ならば、その観念に基礎づけられた千数百年の伝統は尊重されるべきだ。    



これらの主張は歴史的事実を巡る議論としてはどれも満更間違いではないでしょう。しかし、憲法論の地平からはそれらは女系天皇制を否定も肯定もしないのです。では、女系天皇制の可否を決めるものは何か。そもそも憲法とは何なのか。蓋し、

憲法とは法典としての()「憲法典」に限定されるのではなく、()憲法の概念、()憲法の本性、そして、()憲法慣習によって構成されている。而して、()~()とも、「論理的-歴史的」な認識であり最終的には国民の法意識(「何が法であるか」に関する国民の法的確信)が確定するもので、それらは単に個人がその願望を吐露したものではない。そうでなければ、ある個人の願望にすぎないものが他者に対して法的効力を帯びることなどあるはずもないから。    



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畢竟、(イ)日本の現行憲法の解釈を考えた場合、憲法の条項(第1章)からは女系天皇制の可否は決められない。また、(ロ)憲法一般の性質や内容を取り扱う憲法の概念や憲法の本性からもその可否は導き出せない。ならば、(ハ)その可否を決めるものは、それ自体としては「とりあえず直接」の影響を問題解決に及ぼさない上記の如き歴史的事実を踏まえた(そして、「旧宮家の皇籍復帰∨養子制度の導入」との比較考量をも鑑みた)憲法慣習を巡る国民の法意識に帰着する。すなわち、歴史的事実は国民の法意識の回路を通してのみ女系天皇制の可否決定に影響を及ぼすということです。

而して、上記(ハ)の歴史的事実に関する国民の評価(すなわち、ラートブルフの言う意味での「価値に関係づけられた事実判断」)に加えて、(ニ)例えば、国会や裁判所の運営は、原則、国会や裁判所が自律的に形成する慣習に任せられるべきだという、ある「部分社会を律するルール」を巡る国民の法意識が認められるとすれば、これらとパラレルに女系天皇制を巡る国民の法意識の確定においては、今上天皇および現在の皇室方の意志が尊重されるべきであろう。

蓋し、女系天皇は現行憲法の要請する所とは言えないが、さりとて、現行憲法が禁止しているものでもない。而して、その帰趨は、国民の法意識が政治的に決めるべきことであり、そして、その国民の法意識が参照すべきものは、過去の伝統慣習と並んで今上天皇と皇室方の御意志である。こう私は考えます。尚、憲法の概念に関する私の基本的な理解に関しては下記拙稿を参照いただければ嬉しいです。


・<改訂版>憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59308240.html 

・憲法と常識(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58258370.html

・憲法無効論の頑冥不霊と無用の用(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58998947.html  

・天皇の政治性を巡る憲法の精神
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59059411.html 

・法とは何か☆機能英文法としての憲法学
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59457108.html



aikosama





(2010年4月25日-9月13日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 天皇陛下・皇室
ジャンル : 政治・経済

tommy7


民主党代表選挙に外国人の党員が関与した事態を受けて、ブログでは「外国人が次の首相の決定に関与するのは憲法違反」という主張が盛んなようです。本稿は、前稿の認識と主張(↓)を憲法訴訟論と政党論の接点から敷衍するものです。

・外国人の「党員・サポーター」が関与する民主党代表選挙は憲法違反ではないのか?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59863670.html


前稿で私は概略こう述べました。

今般の「民主党代表選外国人関与問題」は憲法訴訟の地平では違憲とは必ずしも言えないが、それは(訴訟によってではなく、憲法慣習の形態において機能する)「憲法の趣旨」の一斑たる国民主権原理に明らかに反する。よって、民主党に対しては、「民主党代表選挙=憲法の趣旨違反」という批判を政治的に投げつけるべきだ、と。    


而して、この主張の前提は次の如き認識でした。

(1)政党は本来的に<私的>な存在である

(2)現行の日本国憲法は議院内閣制を採用しており、よって、現行の<憲法>は政党の不可欠性を想定している。尚、<憲法>とは、憲法典・憲法の事物の本性・憲法の概念、そして、憲法慣習という、いずれも、間主観的に認識可能な諸規範が編み上げている「国の最高法規の体系」の意味である

(3)政党政治の醍醐味は、国民の一部分の利害と価値観を代表する<私的>な政党が、国政選挙と国会での首班指名等の所定の手続を踏む中で、期間を限定的して、あたかも、国民全体を代表する<公的>な国家権力の担い手になる経緯である

(4)政党は<私的>と<公的>の両面を抱える両義的存在である。而して、例えば、国民主権原理、あるいは、結社の自由・政治的な表現の自由といった<憲法>に内在する価値をどの程度まで<憲法>が政党に強制できるのか、その裏面として、政党に対する助成金等の恩恵はどの範囲までなら<憲法>の許容するものと言えるのかという点を巡っては、現実政治的のみならず社会思想的にも二律背反的の緊張関係が見出せる、と    

尚、これらの認識に関しては下記拙稿をご参照ください。

・「ねじれ国会」の憲法論と政治論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59802541.html

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59308240.html


政党を巡って<公>と<私>の織成す二律背反模様。しかし、これは日本だけの現象ではない。より間主観的な相でこの矛盾を把握すべく、次に、アメリカ憲法の運用の実際を一瞥しておきましょう。

tommy3




◆政治政党と憲法訴訟

アメリカでは、(大統領選挙の予備選挙だけでなく、数多の<公>の役職に対する)共和・民主の各党の候補者確定のための予備選挙が、おおよそ、各州政府の費用と規制の下で実施されています。けれども、アメリカ憲法典には「政党」という文字列は存在しない。

而して、「カズンズ対ウィゴダ事件」(1975年)を嚆矢とする諸判例を通して、政党はアメリカ憲法修正1条から演繹される結社の自由を享受する存在、すなわち、あくまでも<私的>な存在と位置づけられている。よって、ある一線を越えた州政府の規制や助成は<私的領域>への<公的権力>の不適切な容喙として憲法違反とされるのです。

重要なことは、州政府の容喙が、ある一線を越えたかどうかは憲法訴訟を通じて判断され、かつ、その憲法訴訟においては(州政府側にとって最も不利な)厳格な審査基準と合憲性判断基準が適用されることです(ちなみに、アメリカには特別の「党員資格」なるものは、原則、存在しません。各地の選挙管理委員会が管理する、一種、住民票的なプロフィール登録の際に支持政党をチェック(☑)すれば、予備選挙に関してはそれが「党員登録」なのです)。

蓋し、前稿で述べた、憲法論的な「政党の事物の本性」を踏まえるならば、アメリカ憲法の運用の実際は、現行の日本国憲法の理解としてもまずは妥当なものではないかと思います。

ここで英米流の法思考を借用すれば、<憲法>の内部には、(イ)具体的に国家権力の行動規範を定めている「準則」と、(ロ)目標や理念を定めただけの「原理」の両極がある。而して、憲法保障に関しては、(イ)の極の近傍にその座を占めている規範を巡っては憲法訴訟による憲法保障が適切であり、他方、(ロ)の極の近隣に位置する規範の憲法保障は憲法慣習の再構築の営みを通して政治的に解決するのが妥当であろうと思います。なぜならば、「原理」の具体的な内容の確定は困難であり、それは、共約不可能なイデオロギー的対立を呼び寄せかねないからです。

敷衍すれば、(イ)党員資格要件に対する<公>の容喙が現行憲法21条の定める「結社の自由権」の侵害かどうかの確定には「憲法訴訟」の回路を、他方、(ロ)外国人が関与した代表選挙が現行憲法の前文に謳われる「国民主権原理」の侵害であるか否かの確定のためには「政治闘争」の回路を選択した方が、一般的には、より合理的であろうということです。

而して、では、例えば、国民主権原理が現実を拘束する枠組みとして機能するかどうかは、<政治の競技場>における国民主権原理を錦の御旗に掲げた勢力の勝敗次第ということなのか。

tommy2




◆外国人の政治活動の自由と国民主権原理の位相と相貌


所謂「党議拘束」を前提にすれば、与党の代表選挙とその後の国会での首班指名選挙は一体のものではないだろうか。もしそう言えるのなら、実質的に次の首相を選ぶ与党の代表選挙に外国人が関与する事態は明らかに国民主権原理と抵触する。このように重大な憲法違反のケースでも、そこで問題とされる規範が「原理」に属する限り、憲法訴訟の回路による憲法保障は不可能もしくは不適切なのか。   


前項の主張に対しては、あるいは、このような疑問が呈される、鴨。而して、この問いに対する回答は「肯」です。蓋し、イデオロギー的な紛争の解決はあくまでも<政治の競技場>で図られるべきであり、他方、<憲法>の規範を巡る現実具体的な紛争は憲法訴訟を通してなされるべきということ。

しかし、そうであるがゆえに、逆に、「原理」を巡る紛争でも、それが憲法訴訟に馴染むタイプの紛争は、憲法訴訟の回路を通して解決されるべきである。あくまでも、<憲法>を「原理」と「準則」に区別する作業は、最適な憲法保障の回路発見のための手段にすぎないのですから。最後に、この経緯を「民主党代表選挙外国人問題」を材料に使い敷衍しておきます。


(甲)憲法は政党の党員資格について白紙である
政党が本来的に<私的>な存在である以上、その党員資格の唯一あるべき内容を<憲法>から演繹することはできません(つまり、「外国人党員の是認」も「外国人党員の否定」も等価であり許されるということです)。    

この認識に対して、例えば、「政党交付金が支給されている以上現状の政党が私的団体とは言い切れない」という議論は成立しません。上で紹介した、アメリカの予備選挙に対する州政府のコミットメントを想起していただければ自明なように、喩えれば、ある企業が公の補助金を受けるのと引き換えに、その補助金の使途や成果を行政に報告する義務を負う事態とこれはパラレル。つまり、政党助成金の存在と、<憲法>のある規範の尊重をどこまで政党に要求できるかは別次元の問題ということです。


(乙)国民主権原理と外国人の政治活動の自由
国民主権原理、すなわち、現行の日本国憲法が「国民」に限定している「国政参加」の権能とは、ディノテーションとしては、オフィシャルな選挙権・被選挙権の付与の意であり、コノテーションとしては「日本国籍を保有している者のみが、運命共同体としてのこの国の進むべき進路を決定すべきだ」という「原理」の表明と理解すべきであろうと思います。   

なぜならば、①政治活動の自由自体は日本国民に限定されるものではなく、また、②例えば、帰化前の呉善花・金美齢両女史の影響力を想起するまでもなく、外国人や外国のエージェントの実質的な影響力を政治から一切排除することは適切でもなく、また、土台、不可能だからです(イエーリングが喝破した如く、「法は不可能を誰にも要求しない」のでしょうから)。   

人権や自由の憲法的な規制と保障には、(a)保障の段階(禁止は不可の段階)→(b)容認の段階(ニュートラルな段階)→(c)禁止の段階、があります。而して、外国人の人権保障に関するリーディングケースである、所謂「マクリーン判決」が、「外国人の政治活動の権利は憲法が保障するものではない」(=禁止するものでもない、要は、許容の段階にある)と述べていることが重要。畢竟、極論すれば、党員のほとんどが外国人の政党があり、その政党が極々少ない日本人党員を選挙に出馬させ、かつ、相当程度の日本人有権者の支持を受けて、結果的に、政党助成金を受けるとしてもそれは現行憲法違反ではないということ。実際、社民党などはそこまでもう半歩ではないでしょうか(笑)。

而して、政党の範囲を定めている政党助成法2条及び政治資金規正法3条1項と、国政参加の権能を国民に限定している現行憲法典とも矛盾しない。他方、この同じ法理から、謂わば「外国人党員排除法」なる法規もまた違憲にはならないことになる。畢竟、外国人を党員とする政党が政党助成金を公布されること、あるいは、政権与党になることと、ディノテーションとしての国民主権原理の間に矛盾は存在しないのです。


(丙)憲法訴訟による国民主権原理の保障の要件
コノテーションとしての国民主権原理の具現は<政治の競技場>で行なうのが手筋ではある。しかし、次のような場合には憲法訴訟の回路を通っての憲法保障も可能と考えます。すなわち、

①与党の代表選挙から国会での次の首相の指名までの間に国政選挙が介在しない場合、かつ、②不特定多数の外国人の意向が、あるいは、ある特定の国の組織的な関与が与党の代表を実質的に決める場合。   


このような事態が惹起した場面では、「政党の事物の本性の一斑たる党議拘束」の存在を鑑みれば、すなわち、政権与党の代表選挙とその後の国会での首班指名が実質的に「一体のもの」であることを鑑みれば(代表選から国会の首班指名までの間に当該の与党が分裂する可能性も皆無ではなく、また、論理的には、与党の議員には「党議拘束に従わない自由≒離党の自由」もあり、よって、「一体」という表現が誇大であれば、少なくとも「一連のもの」であることを鑑みれば)、それは、「日本国民のみが、この国の進むべき進路を決定すべきだ」という国民主権原理の、()明白かつ現在の侵害の危険性そのものであり、かつ、()より制限的でない他の取りうる手段(LRA)も存在しないと考えられる。ならば、この様な場面は、それが「原理=コノテーションとしての国民主権原理」侵害のケースでもあるにかかわらず、解決されるべき紛争が具体的であるがゆえに憲法訴訟の回路を通してその代表選挙の違憲と無効を争う必然性がある。と、そう私は考えています。



tommy4







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テーマ : 外国人参政権問題
ジャンル : 政治・経済




民主党政権が推進している実質的高校無償化は、無駄であるだけでなく不条理であり、その最初から<北斗の拳>である。本稿は、所謂「朝鮮学校への高校授業料無償化適用問題」を前奏としてこの制度の相貌を一瞥し、もって、「高校無償化」自体が孕んでいる愚劣と蒙昧を究明しようとするものです。

高校無償化を巡っては、朝鮮学校への無償化適用の是非が主要な論点として言及されているように見受けられます。曰く、その保有する大量破壊兵器を日本に対して使用することも辞さないと公言している北朝鮮の直接の影響下にある朝鮮学校に授業料支援するなど、「敵に塩を送る」的の美談ではなく「盗人に追い銭」的の戯言である、と。

私は、しかし、ある「前提条件」が満たされるのであれば、そして、この施策の根拠法である高校無償化法2条1項4号に基づき、文部科学大臣が「高等学校の課程に類する課程を置くものと」指定できる各種学校として朝鮮学校が本当に相応しいのなら「敵に塩を送る」のもありだと考えています。

蓋し、朝鮮学校は、学校教育法1条に該当しない「各種学校≒非1条校」であり、要は、そこでどんな<教育>をしていようが、それこそ、狐を拝もうが狸と踊ろうが、あるいは、金日成主席の写真を拝もうが金正日将軍の讃歌に合わせて踊ろうが本来自由なのです。而して、高校無償化法に基づき、文部科学大臣が朝鮮学校を「高等学校の課程に類する課程を置くもの」と指定するということは、

(イ)朝鮮学校が日本の学習指導要領の内容と水準を踏まえた<学校>であり
(ロ)高校無償化法に基づく授業料無償化の適用を受け続ける限り、今後も朝鮮学校は、(イ)の如き<学校>であり続けなければならず
(ハ)日本は(イ)(ロ)を確認すべく朝鮮学校を、適宜、調査・監視・指導できるということ   


実際、謙信公が信玄公に塩を送ったのは、単に騎士道精神の発露ではなく、品不足で高騰する塩で大儲けするためと、次なる武田との合戦に備えて、塩商人に紛れ込ませた密偵に敵の情勢を探索させるためだったとの説もあるらしい。

ならば、朝鮮学校がオープンスクールを頻繁に開催しようとも、「都合の良いとこだけ見せているのではないか」という日本国民の抱く当然の疑念を払拭できるはずもない以上、高校無償化の適用対象になることでその<教育>の実態が少しでも透明になるのであれば、それは日本にとっても悪い話ではないだろう。いずれにせよ、朝鮮学校の透明性を高めるためのコストが毎年5億円程度であることを鑑みればなお更私はそう思うのです(★)。

★註:朝鮮学校へ送る「塩」の費用
①文科省によれば、2009年度現在、全国で稼動している全65校の朝鮮学校の児童生徒総数は約8,300人。②朝鮮学校は各種学校であるが、学校教育法1条・教育基本法6条に定める日本の「普通の学校=1条校」と同様「6・3・3」制を採用しており、よって、高校課程在籍者数を児童生徒総数の3/12と仮定すると、その総数は約2075人。

他方、③各種学校に対する高校無償化法に基づく就学支援金は生徒一人当たり、11万8800円~23万7600円(∵通常は11万8800円;但し、年収250万円未満の世帯には23万7600円;250~350万円の世帯には17万8200円が国から学校法人等の設置者に支給される)。蓋し、④朝鮮学校が「上限満額」の支援金を狙うと想定すれば、求める費用の値は、2075人×23万7600円。    


しかし、結局、ある「前提条件」が満たされていないがゆえに、朝鮮学校への授業料無償化の適用は採用すべきではない。

而して、その条件とは、「時の政権が、文科省をして朝鮮学校を、適宜、調査・監視・指導させる意志を持っていること」。蓋し、民主党政権下での朝鮮学校への高校授業料無償化適用などは、「盗人の片割れに見張りをさせた金庫から投げられる、盗人への追い銭」以外の何ものでもないでしょうから。


◆高校無償化の愚劣

朝鮮学校への高校授業料無償化適用問題を通して高校無償化の制度について一瞥しました。要は、それは、高校教育に対する国からの資金支援の側面と、他方、個々の<学校の教育>が学習指導要領に沿う形で計画され実施されているかを文科省が管理し易くする側面を持つ<双頭のヤヌス>的制度なのです。

高校の義務教育化は日教組の宿願でした。他方、国際人権規約A規約13条は、高校と大学の学費を段階的に無償化することを目指すと定めており、2009年5月現在、同条約加盟の160ヵ国中、日本とマダカスカルの2ヵ国だけが同条を留保(13条に拘束されないという条件の下に同条約に加盟)しています。


国際人権規約A規約13 条
1.この規約の締約国は、教育についてのすべての者の権利を認める。締約国は、教育が人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべきことに同意する。更に、締約国は、教育が、すべての者に対し、自由な社会に効果的に参加すること、諸国民の間及び人種的、種族的又は宗教的集団の間の理解、寛容及び友好を促進すること並びに平和の維持のための国際連合の活動を助長することを可能にすべきことに同意する。
2.この規約の締約国は、1の権利の完全な実現を達成するため、次のことを認める。
(c) 高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。   


大東亜戦争の敗戦から幾星霜。高校の義務教育化という日教組の宿願も国際人権規約も、今では、「主婦の味方、ダイエー」のキャッチコピーに似た響きを感じさせる。蓋し、日本社会の現実によってそれらは乗り越えられ置き去りにされているということ。すなわち、

1974年に同学齢の90%を初めて超えた高校進学率は、その後35年間、93-94%前後の高原状態で推移しています。これは、同じこの期間、70%前後と80%前後で推移している英独、あるいは、90%弱で推移してきた米仏と比べても、日本が高校の実質的な義務教育化をとっくに、かつ、完全に実現してしまっていることの証左なのです。    

畢竟、最低限の生活資材にもこと欠いていた時代、安くて良い品を豊富に提供するダイエーは、確かに、「主婦の味方」だった。しかし、生活資材がほぼ行き渡った段階では、目新しい品物が見当たらないダイエーは退屈な存在でしかなくなった。而して、国際人権規約A規約において、高校無償化とは「能力のあるすべての者に教育を均等に与える」ための手段なのであり、実質的に高校の義務教育化を達成している日本にとって、そのA規約13条の留保を続けるかどうかなどは、最早、ほとんど本質的な意味を持っていない。ならば、高校の実質義務教育が現実に実現した状況下の日本社会でなされる、高校無償化などは「満腹の赤ん坊に更にミルクを飲ませるようなシュールな愚劣」に他ならないのだと思います。

高校無償化は無駄である。この点だけ見ても(もちろん、高校生の子供のいるご家庭や<高校の経営者>にとってそれは<福音>であったとしても)、高校無償化が、現在、イの一番に廃止と仕分けされるべきことは明らかでしょう。


◆高校無償化の蒙昧

高校無償化は無駄である。まして、苦しい財政事情の下、高校無償化の予算(約5000億円)を捻出するために、例えば、日本の国際競争力を維持強化するために誰しも不可欠と考えるだろう大学の研究予算が大幅に削れている現状を見れば、そして何より、生活が苦しいために子作りを断念した夫婦の世帯から、高校生の子供を持つより所得の高い世帯に税金が流れている現実、正に、所得の低い世帯からより高い世帯に所得が再配分されている現実を見れば、蓋し、高校無償化の愚劣さは自明。

高校無償化は、「低きから高きへの不条理な所得の再配分」をともなった、高校の実質義務教育化という目的のための手段が自己目的化した愚劣な施策である。而して、愚劣ということを超えて、高校無償化はこの社会に深刻なダメージを与える危険性を孕んではいないか。すなわち、高校無償化は、日本の若者の自律と自立を妨害する施策なのではないか。蓋し、高校無償化は、社会主義的な均一な人間観と単線的なライフイメージに導かれた施策であり、それを社会主義的に機械的に管理しようとする制度なの、鴨。要は、高校無償化は日教組流のアナクロニズムがゾンビや亡霊のように魔界転生したもの、鴨。

文科省の2004年度のデータによれば、日本の高校中退率は2.0%程度であり、よって、毎年18歳人口の92%が高校を卒業しているはずなのに(∵高校進学率94%×高校卒業率98%)、かつ、様々な進学を支援する奨学金制度が年々充実しているというのに、短大を含む大学進学率は50+α%を漸近線にしてここ20年近くほとんど変動していない。詳しくは、吉川徹『学歴分断社会』(ちくま新書・2009年)もしくは同書を紹介した下記拙稿を参照いただきたいのですけれども、要は、日本の高校生の半分は<確信犯的>に短大を含む大学への進学を選択していないということ。   

・書評☆吉川徹「学歴分断社会」(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57911269.html


ならば、国際競争力を維持強化するための人材育成という政策目的から、白黒はっきり言えば、(職業高校・総合高校を含め)高校教育が、短大・大学での高等教育の準備段階である側面を逃れられない以上、同学齢の半数が高校でその教育を終える状況が固定している現下のこの社会で(要は、笛を吹いても太鼓を叩いても大学進学志望者が増えない現状では)、高校無償化は、

上で述べたように、大学・大学院の教育と研究の予算を横取りする愚策であるだけでなく、高等教育を受ける意志と適性を欠く多くの子供たちを無意味に高校に<幽閉>している現状を固定化するもの。逆に言えば、それは、中学卒業と同時に働くというあるタイプの子供たちにとっての正しい選択肢をその子供たちが選択する機会を税金を使って妨害する慇懃無礼かつ無知蒙昧な施策ではないでしょうか。   

ならば、それは、思想的には「義務教育→高校→大学」という単線の学歴スタイルが、(適切な情報が与えられれば誰しもそれを選択するに違いない)唯一の学歴のあり方とする、社会主義的な人間観に基づく貧困な構想力の顕現であり、現実的には、日教組の組合員の職場を税金を投じて死守する姑息で狡猾な施策ではないか。むしろ、良くも悪くも格差社会が定着していくだろうこれからの日本の社会では英国やドイツなみの70%から80%の高校進学率がむしろ健全なの、鴨。いずれにせよ、高校無償化は、各々の若者にその適性にあった、かつ、自己責任の原則に貫かれた多様な人生のスタイルを提案しようとする保守主義の人間観の対極にあることだけは確かでしょう。

蓋し、高校無償化は、政策として愚劣なだけでなく、「社会主義的-リベラリズム」の貧困な人間観が憑依した蒙昧なる施策である。而して、ディケインズが『クリスマス・キャロル』の中で喝破しているように、蒙昧こそ愚劣と貧困の原因であるとすれば、この蒙昧なる高校無償化を、愚劣と貧困を体現している北朝鮮の支配下にある朝鮮学校が熱烈に希求していることは、ある意味、当然の帰結なの、鴨。そう私は考えています。






(2010年9月11日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 民主党
ジャンル : 政治・経済




先日、台湾在住のブログ友がアップされた記事(↓)に目が留まりました。ある画像が紹介されていたから。刺青の画像。而して、それらは、例えば、現在の浅草の一流の彫師の作品に比べて遜色がないだけでなく、オリジナリティーを感じさせるもの。蓋し、これは「文化の伝播と盛衰」というテーマを考える絶好の素材ではないか。ブログ友の記事を読んでそう直感しました。

・面白「看板」・・@@!?
 http://blogs.yahoo.co.jp/tackeykan/33932498.html


KABUは、昔、神田と浅草のお祭に長らく参加していたこともあり、要は、KABUが事務局長を務めていた、あるお神輿の同好会には刺青を背負ったメンバーも稀ではなく、よって、刺青の目利きもそこそこできるのですが、蓋し、台湾のこの作品は見事。韓国の作品と同様、ジャパニーズ・スタイルでありながら、韓国とは異なりその作品はクリエーティブだと思います。

19世紀末以降現在に至るまで、韓国の刺青も台湾の刺青も日本の強い影響を受けている。このことはそのマニア筋には良く知られている定説でしょう。而して、一般的に、ドイツではゲストをおもてなしする際の最高のフルコースメニューが「フレンチ」であるのと同様、韓国では最高級の刺青は、日本人の高名な彫師を韓国に招いて制作させた作品とか。しかし、台湾は違う。台湾ではジャパニーズ・スタイルでありながらも強烈に<台湾>を感じさせるホットでクールな作品を地元の彫師が制作している。ブログ友の記事の画像を契機に調べてみるとどうもそう言わざるを得ない。では、なぜそんな現象が起こっているのか。卑弥呼の出てくるあのテクストがヒントになる、鴨。

所謂『魏志倭人伝』に曰く、

男子無大小皆黥面文身。・・・夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。・・・計其道里、當在會稽、東治之東。

男性は長幼の別無く、顔と身体に刺青を施している。・・・夏王朝の第六代皇帝少康の庶子が会稽に封じられ、蛟龍の被害を避けるため、短髪にして身体に刺青をした。今の倭の海人は水に潜って上手に魚や蛤を採取する。身体の刺青は大魚や水鳥を厭うからである。後に装飾的文様となった。・・・その道程からすれば、倭は会稽の東冶の東にあたる。    



儒教文明が社会の骨の髄まで喰い込んでいた朝鮮半島と(要は、刺青が所詮社会の日陰者の身体装飾法であり、あるいは、犯罪者に焼き付けられるstigmaであった朝鮮半島と)、上に引用した『魏志倭人伝』の有名な叙述を読み返すまでもなく、刺青が、ある意味、普通の存在であった日本および台湾とでは「刺青=自分達の文化」という思いが格段に違うのでしょう。「会稽の東冶の東」とは、正に、現在の台湾のある位置なのですから(そうか! 邪馬台国は台湾にあった?)。いずれにせよ、日本と台湾には刺青に対する数千年かけて形成された慕情があるのかもしれません。

無視できないことは、調べれば調べるほど、刺青の文化が台湾では盛隆に向かいつつあるのに、日本では衰微に向かいつつあるらしいこと。台湾の隆盛の真偽の詮索は置いておくとしても、日本の衰微は、実は、日本の任侠系団体では「シノギ=business」に差し障りがある部署にいるメンバーには総本家から直々に「刺青禁止」の通達が出されているという噂も耳にしますし、なにより、サウナやプールや繁華街のキャバレーの入口に掲げられている「刺青をした方の入場お断り」の看板の存在を、あるいは、(彼や彼女の犯罪行為が一度発覚するやいなや)その芸能人が刺青をしている事実に対しても批判が浴びせ掛けられるこの社会の現実を想起していただければ誰しも否定できないのではないでしょうか。


tatto3.jpg


酒井法子さんの肩を持つ義理は全くないのですけれど、はっきりしていることは、未成年者に刺青を施す行為等を除けば、この日本の社会では、刺青を背負うことはなんら犯罪ではないということ。刑法学のタームで言えば、生命に危険が及ぶことのない「自傷行為-同意傷害」は犯罪では全然ないということ。更に、憲法学のタームで補足すれば(それが取りあえず他者に迷惑を与えるものではない以上)、刺青は「基本的人権の核心部分―自己決定権」の行使でさえあるということ。普通の言葉で敷衍すれば、要は、ピアスと刺青はパラレルということです。

加えて、例えば、「刺青判官=遠山金四郎」「刺青大臣=小泉進次郎代議士の曽祖父」という特異な存在を挙げるまでもなく、任侠系や神農系の方々だけでなく、否、極々最近までは、鳶職の人々は彼等よりも遥かに刺青を愛していて、そして、普通に背負っていた。要は、上でも触れたように、日本社会と日本人にとって刺青は普通の存在であったのであり、東京でも大阪でも、福岡でも仙台でもそれは極普通の銭湯の風景だった。と、そう私は考えています。

では、刺青はなぜこの社会では衰退しつつあるか。犯罪でもなく、基本的人権の最も本質的な価値の一斑でさえあるのに、なぜに、街のあちらこちらに「刺青をした方の入場お断り」という看板が当然のように掲げられているのでしょうか。これこそ人権侵害の最たるものではないのか。どうするんだ、アムネスティー・インターナショナル・ジャパン!

・刺青を巡る法的認識

①刺青は「自傷行為-同意傷害」であり犯罪ではない
②刺青は「基本的人権の核心部分=自己決定権」の行使そのものである   


而して、例えば、(未成年者に刺青を施すケースや他者に刺青を強要するケース以外でも)刺青を施す行為や刺青を背負う行為を一般的に禁止する立法が成立したとして、その合憲性の是非が憲法訴訟で争そわれる局面では、(イ)憲法訴訟の審査基準においては、刺青を禁止する法規に「違憲性の推定」が課され、他方、(ロ)合憲性の判定基準においては、所謂「明白かつ現在の危険」が見出されない限り、そのような一般的な刺青禁止法は違憲と判定されるものと思われます。閑話休題。
   

tatto2.jpg


これまたよく知られているように、現在、刺青を禁止する法規は日本の社会には存在しない。けれど(繰り返しますが、その本人が熱望したとしても未成年者に刺青を施す行為は条例等で違法とされるケースがあり、加えて、嫌がる本人に無理やり刺青を背負わせる行為は立派な傷害罪です!)、入浴施設と飲食施設を問わず、「刺青をしている方の入場お断り」の如き看板が堂々と街のあちらこちらに掲げられる等、なぜこの社会では刺青文化の担い手を萎えさせ、社会の表舞台から刺青の伝統と慣習を排除するような動向が許されているのか。

もちろんこれは言うまでもないでしょう。それは、刺青が刺青に止まらないから、と。子供でもあるまいに、誰しもそれは分かる。

・刺青を巡る記号論的認識

①刺青のディノテーションは「身体装飾」である
②刺青のコノテーションは「強面のメッセージ」である 


要は、任侠系や神農系の方々の刺青は「身体装飾」であると同時に、「強迫・恐喝・強要のツール」でもある、と。この社会を構成する人々の間ではそういう間主観性を帯びる認識が成立しているということです。

畢竟、「鳩」という単語が、表面的には鳥類に属するあの迷惑な鳥を意味しながらも、同時に、その裏面では平和の象徴とかなんとかと理解されているように、あるいは、「鳩山由紀夫」という単語が、表面的には前の首相経験者のあの人物を指しているのと同時に、その裏面では(かつ、世界的には)「ルーピーな人物」を示唆している場合、前者を「鳩」や「鳩山由紀夫」のディノテーション、そして、後者をそれらのコノテーションと呼びます。

而して、例えば、ある高校の校則違反の金髪や鼻ピアスがしばしばそうであるように、「刺青」のディノテーションは、肌に定着した物理的な文様であり身体装飾であるけれど、「刺青」のコノテーションは、世間に向けて発信された反社会的で強面のメッセージということ。    

だからこそ、刺青自体を禁止することは憲法論的に不可能であるにせよ(否! 憲法論的に不可能であるがゆえに)刺青の慣習や伝統が継承しづらい環境をこの社会は意図的に作ってきたのだと思うのです。

蓋し、江戸時代の町火消しが、燃えている家屋を鎮火するのではなく、燃えている家屋の周囲の「可燃物=他の家屋」を取り壊し取り除くことで火災の延焼を防止したのと現下のこの社会が行なっている刺青の封じ込めの手法は一脈通じるものがあるように思われる。而して、刺青文化的には江戸の町火消し衆の後身である鳶職の方々を(非任侠系と非神農系としては)ほとんど最後の担い手として、台湾の隆盛と裏腹に日本の刺青の文化は衰退していくのでしょうか。残るのは、文字通り、ファッションとしての「Tattoo」だけになるのでしょうか。


tatto4.jpg


しかし、『魏志倭人伝』の記録のように、あるいは、沖縄やアイヌの刺青文化が、おそらく、そうであったように、そして、鳶職の人々のそれがはっきりそうであったように、恒常的に変化する「生態学的社会構造=自然を媒介にした人と人とが取り結ぶ社会関係の総体」とこちらも恒常的に変化しつつ一体性を保ってきたからこそ、刺青は日本の文化であり続け、この社会にフッサール流の意味での「生きられてある伝統」を形成してきた。畢竟、それが日本の「生きられてある世界」と地続きである限り、よって、日本人を包摂する生態学的社会構造とリンクしている限り(たとえ、そのスタイルがアメリカン風やヨーロピアン調に変化しようとも、あるいは、道具がアメリカ製の電動針に変わろうと)その刺青作品は日本の伝統を構成する要素に他ならない。

ならば、おそらく逆もまた真なり。すなわち、その作品がジャパニーズ・スタイルの継承者としてつとに有名な、浅草の当代一流のある彫師の手になるものとしても、顧客である彼や彼女の生態学的社会構造と無縁なファッションとしての「Tattoo」は、最早、日本の文化や伝統ではなくなるのではないかということ。蓋し、ジャパニーズ・スタイルの刺青の<本場>は、近々、台湾に移るの、鴨。そして、この動向は、刺青だけでなく多くの日本の<伝統>に近い将来起きる運命なの、鴨。台湾在住のブログ友の記事であの画像を見た瞬間、残念ながら私はそういう衝撃にも似た予感を覚えました。


尚、私が言う「生態学的社会構造」ということの意味に関しては次の2拙稿。

・グローバル化の時代の保守主義
 ☆使用価値の<窓>から覗く生態学的社会構造
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59463433.html

・日本語と韓国語の距離☆保守主義と生態学的社会構造の連関性
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59190400.html

そして、フッサール流の意味での、「生きられてある世界」「間主観性」とによって編み上げられている<伝統>と、その<伝統>が変化する経緯に関しては下記拙稿とその続編をご参照いただければ嬉しいです。

・風景が<伝統>に分節される構図-靖国神社は日本の<伝統>か? 
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html





(2010年9月10日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : このままで、いいのか日本
ジャンル : 政治・経済




以下は、ブログ友の記事の転載です。記事の主張に激しく同意したこと、
この、アメリカ軍の涙ぐましい努力を一人でも多くの方に紹介したいと思い、
著者、fukufukimama女史のご許可を得て、転載するものです。



usjapanalliance2.jpg




BBCニュースで、
「在日米軍がマンガで日本の子どもたちに日米同盟をアピール(The US military is to use manga-style comics to teach Japanese children about the two countries' security alliance.)」
というものがあり(http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-pacific-10851195)、

エイプリルフールはとっくに過ぎたはず・・・と思いつつ、
在日米軍のホームページをチェックしてみましたら、


本当でした。


(在日米軍ホームページ)
http://www.usfj.mil/

(上記のホームページから行ける、日米同盟PR漫画のホームページ)
http://www.usfj.mil/Manga/Index.html

(↓そしてその漫画の第一部がもうアップロードされていました)
http://www.usfj.mil/Manga/Vol%201/Index.html

アップロードされていた「わたしたちの同盟」第一部
http://www.usfj.mil/Manga/Vol%201/Index.html
を読んでみました。


うーん・・・
・・・・・
・・・かわいいです!!!



なんと言いましょうか・・・・・。

まず第一に、
アメリカの人って、ある意味本当に合理的なのだなと、改めて感銘を覚えました。
民主党政権になり、最初はそのダメさをあなどっていたものの、真剣に本当に今の政権が安保政策をなにも分かっていないとようやく理解したアメリカは、
ではそもそも日本国民は日米安保について知っているのかとふと気が付き、
そして、知らないのだということに真剣に気がついたのではないでしょうか。

目的達成のためなら必要なことを合理的に行う。
日本国民が日米安保を正しく理解していないことが現状の問題の根源ならば、
理解してもらうことから始める。
そして、大人はもうダメだから、次の世代を担う、
まだ頭の柔らかい人々・・・子どもたちに、理解してもらう。


なんという、筋の通った理屈でありましょうか。

そして、なんというなさけない、我々にっぽん国でありましょうか。

学校では、国防のことなんか教えないので、外国に自国民を教育してもらわないといけないのですね。。。


なお、にっぽんの人々は(わたくしも含め)大きくなっても漫画を読みますので、
米側の唯一の誤算があるとしたら、
大人もこの漫画で教育できてしまうかもしれない、という点でしょうか。。。


転載元:
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59867296.html



usjapapnaaliance11




あんずちゃん、可愛い~♪ 好み~♪

と、そういう問題ではなく、記事にも書かれている通り、これはアメリカの危機感を表しているの、鴨。と、そう私も考えました。そして、可愛いマンガ。アメリカの涙ぐましい努力のあとがうかがえませんか(笑)。

ちなみに、本編最後の、

>米側の唯一の誤算があるとしたら、
>大人もこの漫画で教育できてしまうかもしれない、という点でしょうか。。。

にも激しく同意しました。畢竟、日本の民主党の幹部にこそ真っ先にこれを読ませたいものだと。畢竟、憲法を作ってくれたのだから、アフターケアーで、民主党の閣僚を「巣鴨拘置所」ならぬ「沖縄の米軍基地」に隔離して、アメリカにこのマンガを彼等に読ませて欲しい。と、そう強く感じます。






(2010年9月8日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 軍事・平和
ジャンル : 政治・経済

manabemadoka10


民主党の代表選挙に外国籍の「党員・サポーター」が関与できる事態が波紋を広げています。而して、憲法研究者の中には「外国人が参加できる民主党代表選は憲法違反」と断言している方もおられる。結論から言えば、しかし、今回の「民主党代表選挙外国人関与問題」は憲法の国民主権原理から見て好ましい事態ではもちろんないけれど、さりとて憲法違反とまでは言えないと私は考えます。

行政の行為でもない代表選について、その違憲性をどう訴えるのかという(所謂「憲法の私人間効力論」と裏腹の)憲法訴訟のテクニカルな問題は置いておくとしても、実は、この「民主党代表選挙外国人関与問題」は、そう簡単に違憲合憲を言い切れる問題ではなく、憲法と政党の関係という憲法解釈の難所に横たわる論点なのです。と、まずは情報の確認。

◎首相選び 外国人も関与 党員から除外せず 実数不明

民主党代表選は事実上、次期首相を選ぶ選挙だが、日本国民の大多数が参加しない中で、党員・サポーターになった在日外国人は投票できる。永住外国人の参政権付与問題では、民主党の付与推進派ですら地方選挙権に限るとの主張がほとんどだが、代表選では在日外国人が「国政参政権」を事実上持てる。にもかかわらず民主党は外国人がどれくらい含まれるか把握すらしておらず実態は明らかでない。・・・

党員・サポーターは約34万人で、全体の1224ポイント中300ポイントと約4分の1の重みを持つが、党事務局は「外国人を区別して集計していない」としている。

民主党は党員・サポーターを「党の基本理念・政策に賛同する18歳以上の個人(在外邦人および在日の外国人を含む)」と規定している。年間、党員は6千円、サポーターは2千円を納めれば投票資格を持てる。申し込み用紙に国籍欄はない。本人確認も十分行われているとは言えない。・・・

在日外国人の党員・サポーターは過去、平成14年9月の代表選の一度だけ、投票している。この時は民主党が野党だったためさほど注目を集めなかった。しかしいま民主党は政権党だ。・・・他党では自民、共産、みんな、国民新、たちあがれ日本の各党が党員要件として日本国民と規定。公明、社民両党は外国人党員を認めている。

(産経新聞:2010年9月6日)    



而して、中央大学の長尾一紘氏は同じ産経新聞の紙面でこう指摘しておられる。


在日外国人が参加できる民主党代表選は「違憲の疑いあり」ではなく、はっきりと憲法違反だと言い切ってよい。

現行憲法下の議院内閣制は、政党の存在を前提としている。政党の党首の選挙は、衆参両院での首相指名選挙の前段階であり一部分を構成している。

今回の代表選は実質的に、日本国の首相選びに外国人が加わることになり、外国人に参政権を与えるのと同じだ。国家の最終意思を国民が決定する国民主権と民主主義の立場からとても許されることではない。

政治資金規正法の趣旨に照らしても極めて重大な問題がある。同法が外国人からの寄付受領を禁じているのは、外国勢力の影響で日本の政治がゆがめられることを防ぐためだ。今回のような首相候補の選定選挙への参加は寄付金よりも直接的で、はるかに大きな影響力の行使を認めるものだ。

「外国人は大きな割合を占めておらず影響は限定的だ」との議論があるとしたら間違っている。代表選が接戦になればわずかな票が全体の結果を決定する可能性があるからだ。・・・

民主党が外国人の党員・サポーターの数を把握していないことは論外だ。ある外国に財政の大部分を依存している外国人組織が、意図的にメンバーを党員・サポーターにしていないと言い切れるのか。その場合、その外国が首相の候補者選びに加わる図式となる。

(産経新聞:2010年9月6日) 
  

尚、引用記事でも代表選挙と併せて議論されている外国人地方選挙権に関して、長尾さんの違憲論には、憲法解釈論としてみた場合、些か難点があることについては下記拙稿をご参照ください。    

・「外国人地方選挙権は違憲」☆長尾一紘新説の検討
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59183285.html



議会制民主主義を採用するおおよそ総ての国で自生的に発生してきた政党制と、片や、憲法典および憲法慣習、憲法の概念、憲法の事物の本性によって編み上げられている<憲法>との関係は極めてデリケート。詳細は下記拙稿をご参照いただきたいのですが、要は、憲法論から見た場合、政党制とは、①本来的に国民の一部分を代表するにすぎず、②究極的に私的な存在である政党が、③選挙等の所定の手続を経る中で、④次の選挙までの間に限り、⑤あたかも国民の全体を代表する、⑥公的な「政府=国家権力」を構成するという、自生的に発展してきた仕組みと慣習と言えるでしょう。

◎憲法から見た政党制の内容
①国民の一部分を代表するにすぎない
②究極的に私的な存在である政党が、
③ある特定の手続を経る中
④一定の期間
⑤国民の全体を代表する
⑥公的な「政府=国家権力」を構成する政治制度    



・「ねじれ国会」の憲法論と政治論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59802541.html

・派閥擁護論-派閥は政党政治の癌細胞か?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59808574.html

・政党政治が機能するための共通の前提
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59582134.html

・自民党<非勝利>の構図-保守主義とナショナリズムの交錯と乖離(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59722931.html

・政治主導の意味と限界
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59541636.html



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トリーペルの政党理解に従えば、政党と国家権力の関係は歴史的に、()敵視、()無視、()法制化、()憲法的編入の四段階を経てきたとされます。而して、ここで、政治と権力を「政治とは権力の分配構造とその構造運用の全過程であり、権力とは<公>の権威と実力の結合によって他者の行動を左右できる地位もしくは勢力」と定義する場合、政党制とは、一面、複数の<私的>な政党が<公>の権威と<国家>の実力を掌中にすべく競う政治闘争とも言えるでしょう。

畢竟、政党制の利点は、政党が<公>の権威と<国家>の実力を希求しながらも、それが究極的には<私的>な存在であることに収束する。すなわち、政党は常に他党との競争にさらされ、よって、政策と人材の両面で政治に新陳代謝がもたらされるということ。而して、では、現行の日本国憲法は政党と政党制に関してどのような段階にあり、また、政党制と政党を巡る我が国の<憲法>の規範内容はどのようなものなのか。

蓋し、(a)公職選挙法、あるいは、現行憲法と同時に施行された国会法は「会派=政党」を前提にしていること。(b)トリーペルの所謂「憲法的編入」の「憲法」を憲法慣習等をも含む広義の<憲法>と捉えるとき、我が国では原敬内閣(1918年)以前から、安全に言っても20世紀初葉以降、ほぼ一貫して政党政治が機能してきたこと。    

これらを鑑みれば、現行憲法は政党について()憲法的編入の段階か、少なくとも、()法制化と()憲法的編入の過渡期にあると言える。けれども、それは政党制が<憲法>の規範内容の一部であり、逆に言えば、政党制の運用は<憲法>に拘束されるというにすぎず、本来的に<私的>な個々の政党の内部運営に関しても<憲法>が容喙できるとは(所謂「部分社会の法理」を鑑みれば)、そう一概には言えないと思います。

「部分社会の法理」を、①議会・政党・大学・企業等々、ある範囲にせよ独立の運営方針と運営意志、および、自律的な法規範をもつ組織や団体においては、②それが一見明白に不合理でない限り、また、③その組織や団体を超え、直接、広く社会に影響を及ぼすのではない限り、④その組織や団体の運営はそれらの内部的規律に任せられるべきであり、そのような国家社会の一部分にすぎない「部分社会」内部の活動に司法審査の権限は及ばないとする、判例上確立している憲法理論    


と理解するとき、今般の「民主党代表選挙外国人関与問題」を巡る憲法判断は、上で述べた、(イ)<私的>という政党に関する事物の本性の尊重、および、部分社会の法理①④と、(ロ)部分社会の法理の「但し書き」とも言うべき②③、および、国民主権原理の実質的な蚕食の危険性という、合憲・違憲双方の要因の比較考量に収斂するのではないでしょうか。

而して、(イ)(ロ)の比較考量において、「最後的に首相を決めるのは首班指名が行なわれる国会の議決であり、その議決は日本国籍を保有する国会議員が行なう」のだから、それが、②「国民主権原理を蚕食する明白な不合理」であり、③「直接に広く社会に影響を及ぼす」という違憲要因は成立しないと解される余地もなくはない。実際、今回の代表選挙での「党員・サポーター」の影響の度合は最大でも(「党員・サポーター」/国会議員+地方+「党員・サポーター」の)、

300/(412×2)+100+300 ≒24.5%


に止まり、なおさら違憲の主張は難しい。



◎政治資金規正法
22条の五  何人も、外国人、外国法人又はその主たる構成員が外国人若しくは外国法人である団体・・・から、政治活動に関する寄附を受けてはならない。・・・

26条の二  次の各号の一に該当する者は、3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
三  ・・・22条の五第1項・・・の規定に違反して寄附を受けた者(団体にあつては、その役職員又は構成員として当該違反行為をした者)     



もっとも、上で長尾さんも述べておられるように、政治資金規制法が、外国人や外国組織からの寄付を禁止している趣旨から言えば、また、次期首相の決定への関与という結果の重大さを見据える場合、(就中、ある国が組織的に「党員・サポーター」の登録をしていたような事実があれば)政治資金規正法違反の成立はあり得る。少なくとも、民主党を政治的に批判して、(外国人の実数が本当に不明なら)確実に日本人の「党員・サポーター」と証明できる部分を除いた「党員・サポーター」からの寄付と同額の金銭を公費である政党助成金から国庫に返還させることは可能でしょう。

而して、国民主権原理から見て、政治的には当然、次期首相の決定に外国人が関与すること、また、その外国人の実数さえ不明であることは不埒千万であり、よって、政治的にはこの点を徹底的に批判すべきことは言うまでもありません。

しかし、望ましいことではないけれど、<憲法>を構成する<政党の事物の本性>、あるいは、司法審査の枠組みである「部分社会の法理」からは、民主党がその「党員・サポーター」を募るに際して国籍の限定を行なわなかったこと、そして、特定不可能かつ多数の外国人がその代表選挙に関与する事態も憲法上許される余地はある。残念ながら私はそう思います。


<同書庫の次記事(↓)に続く>

・政党政治における国民主権原理と外国人の政治活動の自由の交錯
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59878521.html





(2010年9月7日:yahoo版にアップロード)

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