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◆「左翼-リベラル」と保守主義

ヘラクレイトスが呟いた如く、万物は流転する。而して、左翼も、よって、「左翼」という言葉の語義も変化しています。実際、現在、「左翼」は「左翼=社会主義」であり、つまり、左翼とは「生産と分配の決定権と責任が個人ではなく「社会=集団」に帰属すべきだとする主張」という、プリミティブというか(そのコミュニティーメンバーが共同で収益可能な入会地等を利用する用益物権が広範に認められていた)プレ近代の社会主義にこそより当てはまる定義を連想する向きはそう多くないでしょう(逆に言えば、そのようなシンプルな「社会主義」は「全体主義」だけでなく「保守主義」ともそう矛盾するものではないと思います)。

畢竟、この項の結論を先取りして言えば、2010年の現在、保守派が対峙すべき<敵の正体>としての「左翼」の語義は、「左翼-リベラル」として重層的に構成せざるを得ないのではないかということ。そう私は考えています。

国家権力と資本主義を否定する左翼は、社会主義体制の崩壊を目撃して、資本主義の打倒が国家権力を手段としては到底不可能な現実に慄然とした一方、例えば、ネグリ&ハート『帝国』(2000年)に端的な如く、資本主義に引導を渡す役目を伝統や文化とは無縁な「普遍的で形式的な価値観」を紐帯とする共同体やネットワークに求めた。他方、(新自由主義を含むレッセフェール的なリバタリアニズムを鋭く批判する)リベラル派は、伝統や文化の多様性に価値を置きつつ、よって、国家権力や国家社会の諸個人に対する文化的介入を忌避しながらも、資本主義下の資源と所得の再配分領域では国家権力の積極的な活動を要求する勢力と規定できるかもしれません。

蓋し、ハーバマスが唱えた(その社会の固有で自生的な伝統や文化とは無縁な、「法治主義」や「適正手続としての法の支配」「法が支配する安定的な社会秩序」等々の形式的な憲法的価値を中核とする)「憲法愛国主義」による社会統合のアイデアは、正に、「左翼-リベラル」を縦断する世界観の社会思想的表現なの、鴨。畢竟、ケインズに対して「知的傲慢」や「理性の濫用」という非難を常套していた、保守主義の代表的論者とされるハイエクの主張が、人間理性への不信にあるとすれば、正に、それが左翼的世界観と対立すること、他方、あるタイプのリベラリズムとは協調の余地もなくはないだろうことは、伝統と文化、および、国家権力の役割を巡る上記の観点から推測できるのではないでしょうか。閑話休題。   

蓋し、「左翼-リベラル」と保守主義を巡るこのような概観が満更間違いではないとすれば、現下の「左翼」と「リベラリズム」の事物定義は次のようなものになると思います。

・「左翼」の事物定義

①人間理性と国家権力の万能感、および、社会改革理論の教条主義
②社会に内在する伝統的と文化的な多様性への無関心
③伝統的な「価値観=社会規範」を再生産する(保守政権の)国家権力の介入の忌避
④伝統的な「価値観=社会規範」を脱構築する(左翼政権の)国家権力の介入の容認
⑤形式的な価値を紐帯とする人為的な共同体やネットワークによる資本主義の消滅
⑥国家権力否定のための自己の国家権力の拡大強化
⑦伝統の帰属点であり伝統を紡ぎだす苗床としての国家社会への無関心   

・「リベラリズム」の事物定義

①人間理性の万能感もしくは性善説、国家権力に対する性悪説、および、社会改革理論への無関心
②社会に内在する伝統的と文化的な多様性の推奨
③伝統的な「価値観=社会規範」を再生産する(保守政権の)国家権力の介入の忌避
④伝統的な「価値観=社会規範」を脱構築する(左翼政権の)国家権力の介入の忌避
⑤資本主義の活動結果の矛盾の国家権力による解消
⑥国家権力の容認、資源と所得分配の手段としての国家権力の拡大強化
⑦伝統の帰属点であり伝統を紡ぎだす苗床としての国家社会への無関心    



而して、保守主義とは、(a)(人間理性と国家権力の万能感を否定し、よって、その人間理性が発見したと称する「普遍的な社会改革の理論」なるものへの不信を露にする)反教条主義的で(b)国家権力に多くを期待しない自己責任の原則を尊ぶ態度であり心性と言えるでしょう。ゆえに、保守主義は、(c)社会的紛争の解決においても可能な限り国家社会や国家権力の作るルールではなく、伝統と慣習に任せるべきだとする態度であり、よって、(次善の策として)国家社会や国家権力の作るルールには可能な限り伝統と慣習がインカーネートされるべきだとする心性とも言える。と、そう私は考えています。

(a)保守主義→反教条主義-漸進主義
(b)保守主義→国家権力からの脱依存-自己責任の原則の称賛
(c)保守主義→伝統と慣習の尊重


白黒はっきり言えば(冒頭に例示した、夫婦別姓法案の是非がその一つの典型事例なのですが)、保守主義は、①②③④「左翼-リベラル」とは異なり、それが自分たちの伝統であり文化であり慣習であると考えるものが、(地域コミュニティーではなく国家社会規模の社会においては次善の策として)国家権力の強制力を用いてでも社会において実現されるべきと考える強面の思想である反面で、彼等が当該の社会に自生する伝統と文化、ルールやマナーに敬意を表する限り、他の伝統と文化を呼吸する人々が彼等の伝統と文化を尊重することを容認、否、賞賛さえする寛容な社会思想でもある。畢竟、保守主義は、伝統や文化に価値を認めない左翼やそれらの価値を相対主義的に容認するにすぎないリベラル派とは鋭く対立することにならざるを得ないのだと思います。

ならば、⑦近代の「国民国家=民族国家」成立以降、<政治的神話としての民族>と<政治的神話としての国民>が自生的な伝統と文化が仕分けされ収納される枠組の単位として確立して以降、(ヘーゲルの謂う「絶対精神」などの観念の空中楼閣ではなく、伝統と文化の帰属点として社会学的に観察可能な機能を発揮している)国家社会に対して保守主義は積極的にその価値を認めることになる。他方、左翼は、(先のハーバマスの憲法愛国主義に顕著な如く)歴史的に特殊な内容をともなった自生的な伝統や文化が帰属する国家社会の価値を否認し、また、リベラル派もそのような国家社会単位の伝統と文化の(他の多様な諸価値や伝統と比べた場合の優越的な)価値を認めようとはしない。而して、保守主義とナショナリズムは戦友であり、それらと「左翼-リベラル」は不倶戴天の関係にあると言えるでしょう。尚、伝統と文化、そして、ナショナリズムを巡る私の基本的な理解については下記拙稿をご参照いただきたいと思います。

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html


保守主義は、健全な保守主義が根づくアメリカ社会に明らかな如く、⑤⑥(個々の企業ではなくマクロ的に観察された場合)本質的に無計画で無制限な資本の自己増殖運動としてのグローバル化の昂進から自分達の生活と生存、伝統と文化を守る国家権力の機能に期待する半面、(例えば、過剰な累進課税制度や過剰な社会福祉政策の如き)自己責任の原則に容喙する国家権力の私的領域への介入を忌避する。土台、社会思想史的に見れば(保守主義やナショナリズムの素材としての伝統や文化は、例えば、日本の場合、文字通り、その起原は神代にまで遡り得るにせよ)保守主義とナショナリズムは、資本主義的な生態学的社会構造(自然を媒介として人と人とが取り結ぶ社会的諸関係の総体)と、伝統と文化に価値を置く、すなわち、家族と地域コミュニティーに価値を置く人々が上手に折り合いをつけた人類の智恵と言うべきものかもしれません。而して、資本主義に取り敢えず代わり得る生態学的社会構造が成立しない限り、(あらゆる社会改革の理論に猜疑の眼差しを向ける)保守主義は資本主義との「平和的共存」を選択するしかないの、鴨。と、そう私は考えています。

以下、「保守主義」の事物定義と(<8・30>のマニフェストとその後に民主党政権が成立させた法案・予算案を見る限りでの)民主党政権の社会思想を理解するための試案を整理しておきたいと思います。

・「保守主義」の事物定義

①人間理性と国家権力へ不信感、および、社会改革理論の教条主義への嫌悪感
②社会のスタンダードな文化と伝統の推奨
③伝統的な「価値観=社会規範」を再生産する(保守政権の)国家権力の介入の推奨
④伝統的な「価値観=社会規範」を脱構築する(左翼政権の)国家権力の介入の拒否
⑤資本主義との「平和的共存」
⑥グローバル化の波濤から伝統と文化を守護する国家権力への一定程度の期待
⑦伝統を紡ぎだす苗床としての国家社会への称賛   

・民主党政権の社会思想<試案>

①人間理性と国家権力の万能感、および、社会改革理論の教条主義(左翼)
②社会に内在する伝統的と文化的な多様性への無関心(左翼)
③伝統的な「価値観=社会規範」を再生産する(保守政権の)国家権力の介入の忌避(左翼-リベラル)
④伝統的な「価値観=社会規範」を脱構築する(左翼政権の)国家権力の介入の容認(左翼)
⑤資本主義の活動結果の矛盾の国家権力による解消(リベラル)
⑥国家権力の拡大強化(前代未聞!)
⑦伝統を紡ぎだす苗床としての国家社会への無関心(左翼)


蓋し、このように捉えるとき、民主党政権は「左翼」ですらない。それは、(将来的にせよ)国家権力の死滅を目指し、かつ、プロレタリア独裁の旗幟を鮮明にして、よって、経国済民の責任を自ら自身が担う覚悟がある左翼の矜持すらない、単なる無責任で「親方日の丸」的、かつ、その「日の丸=日本の国家権力」の基盤たる日本の国家社会の伝統と文化を軽視する、統合失調症的で権力志向の反日利益集団にすぎない、鴨。尚、支那の社会思想が、左翼とはかなり異質なものであることは最早論じるまでもないでしょう。而して、私は現下の支那の実定的な社会思想は、<帝国>としての中華主義とは似て非なる、漢民族のウルトラナショナリズムとしての「中華主義」であると考えていますが、このことに関しては上にURLを記した『「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠』をご参照ください。また、民主党政権と民主党政権の誕生をどう捉えるかについては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・民主党政権の誕生は<明治維新>か<建武新政>か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59444639.html

・政治主導の意味と限界
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59888125.html

・「事業仕分け」は善で「天下り」と「箱物」は悪か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59556356.html

・自民党<非勝利>の構図-保守主義とナショナリズムの交錯と乖離(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59722931.html

・海馬之玄関は自民党現執行部支持に舵をきります
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59982629.html


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◆「左翼」の陥穽

先に一瞥した如く、「左翼=教条主義」批判は現在でも有効としても、かっての左翼批判の定番定跡、「左翼=全体主義」批判は現在では通用しないのでしょうか。「真正」の二文字を掲げる保守派による左翼理解の貧困と脆弱を照射する前哨としてこの点を吟味します。

畢竟、2010年の現在、左翼は全体主義に向けた死に至る病から治癒したのか。私は、しかし、(例えば、ハイエクやハンナ・アーレントが指摘した)この批判軸は、左翼が中央集権型の計画経済や生産手段の国有化を放棄した現在でも、マルクス主義の世界観をもう一段掘り下げるとき、今尚、有効な左翼批判の水脈に到達すると考えます。

このブログでも前に記したことですが、「左翼→全体主義」の必然性を巡る議論を再録しておきます。蓋し、その水脈との接点は、社会思想史上のマルクス主義のデビュー作と言ってよい『共産党宣言』(1848年)自体に既に組み込まれているのではないか。同書の次の記述を読み返す度に私はそう感じています。

これらの(資本主義体制から社会主義体制に移行するための10個程の施策、すなわち、「土地所有制度の廃止」「強度の累進課税」「相続制度の廃止」「通信輸送手段の国家への集中」「すべての人に対する労働の平等な義務化」「教育セクターの活動と産業セクターの活動との結合」等々の、代表的な施策の)発展の進行にともない、階級の区分は消滅し、すべての生産活動が全国レベルで結合された広範な協同体の手の中に集中されてくると、公的権力はその「政治的-権力的」な性格を失うだろう。

・・・而して、諸階級の存在と階級間の対立を内包した古いブルジョア社会に代わって、我々は協同体、すなわち、各人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となっているような協同体を持つことになるに違いない。

(KABU訳『共産党宣言』第2章末尾, 岩波文庫版,p.69)    


学説史的には、「限界効用」のアイデアを契機に再構築された新古典派(総合の)経済学にマルクス主義経済学は粉砕されたのだけれど、論理的には、マルクスの経済理論は、それが、「労働価値説」という<釣り針>と一緒に英国の古典派経済学を飲み込んだ段階で、要は、その初手の段階から<北斗の拳>だった。而して、社会思想としての左翼の不可能性、左翼が必然的に全体主義、すなわち、強権的な政治システムに逢着せざるを得ない経緯は、上に引用した『共産党宣言』のテクストに既に明らかだったのではないか。蓋し、経済理論のみならずマルクスの社会思想もその初手から<北斗の拳>だったの、鴨。

すなわち、「各人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となっているような協同体が、しかも、全国レベルで結合された広範な協同体がすべての生産活動をその手の中に集中する」ことと「公的権力はその「政治的-権力的」な性格を失う」ことは矛盾するだろうということです。簡単な話。例えば、「私はそのような協同体には加わりたくない/協同体の意向に従いたくない」という、ヤクザや起業家、出家志望者や分離独立運動家、あるいは、過度な怠け者や過度な働き者はこの協同体の中でどう扱われるのか。

而して、「権力=他者の行動を、実力と公の権威の結合によって左右できる地位や勢力」と定義すれば、左翼の論者が語るように、「権力=支配階級が被支配階級を抑圧する社会的仕組み」であり、よって、「階級がなくなれば階級間対立もなくなり権力も国家も死滅する」という自己論理内完結型の目論見とは異なり、「各人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となっているような協同体」においても、それら異分子を協同体の意志に従わしめる<権力>は残らざるを得ないだろうということ。蓋し、ソヴィエト・ロシアとは、正に、そのような<権力>が猛威を振るった社会ではなかったのでしょうか。   

けれども、ここで、「社会主義の高次の段階たる共産主義社会では、各人の意向と協同体の意向が異なることはあり得ない」という左翼の論者からの、前提と結論が同語反復的な言い訳が来る、鴨。実際、「共産主義社会ではヤクザはどういう存在なんでしょうか」という質問に対して、有名なマルクス主義の哲学者・廣松渉氏は「共産主義社会にヤクザなんかいるのですかね」と答えられたそうですから(笑)

(*・・)_☆⌒○ ←「言い訳サーブリターン、返し♪」

蓋し、世界同時革命や革命の輸出は考えないとしても、また、天変地異や戦争により協同体が機能不全に陥る事態は無視するとしても、一国規模の人間集団でどのようにしてすべてのメンバーが満足する生産と消費の内容をタイムリーに確定できると言うのか。各人が「自分の希望や状態=自由な発展の目標や成果」と判断するための情報に不足も非対称性も生じないとなぜ言い切れるのか、あるいは、情報を理解する各人の能力差をどう止揚するというのか。

これらテクニカルな問題に加えて、「その希望や状態が自分も含めすべての協同体メンバーの自由な発展であるか否かを、誰がどのような根拠で測定し確定できるというのか」という本質的な問題をこの言い訳は孕んでおり、よって、言い訳は成立しないのです。尚、後者の本質的な問題に関しては取りあえず下記拙稿とその続編をご参照ください。 

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html

畢竟、ハイエクは『集権的経済計画』(1935年)や『隷属への道』(1944年)そして『自由の条件』(1960年)等々で、「設計主義的合理主義」でしかない社会主義は必ず「強制と計画-計画の強制と強制的な計画」が蔓延る官僚支配の権威主義的社会をもたらすと正確に予想しました。而して、上の『共産党宣言』に内包されている最もプリミティブなジレンマを鑑みれば、「左翼=全体主義」批判は、計画経済と生産手段の国有化を放棄する方向に左翼が変容しているとしても、

それが、①個人に憑依する伝統の価値を軽視して、個人を本質的には「没個性的存在=アトム」として捉え、②政策の決定は、諸政策を巡る賛否の「アトムの量の多寡」に従い行なわれるべきであり、③「アトムの多数派=民意」に従った国家権力は「男を女にし女を男にする以外=物理的に不可能なこと以外」すべてのことができるという世界観を撤回しない限り、(要は、アトムの要望や希望は測定可能であり、かつ、互換性があり共約可能という前提に立った、「プロクルステスの寝台」の如き人間観と政策決定モデルを彼等が放棄しない限り)左翼に当てはまる批判であろうと思います。



◆「真正保守主義」なるものの暴走と失速

英国の法哲学者H.L.Aハートに従えば、法体系は現実の行為規範たる第一次ルールと第一次ルールを認定・改変する第二次ルールの結合体です。ならば、保守派が現下の日本の社会で再構築を期すべき社会規範には(それが法であるか道徳であるかは別にして)、ある歴史的に特殊な伝統と慣習を尊重することを定める第一次ルールに加えて、「何が伝統」かを決める第二次ルールとしての「コミュニケーションの討議のルール」等が含まれることになるでしょう。

畢竟、(そうでなければ、自己の主張の正しさを自己が認定する、「プレーイングマネージャー」ならぬ「プレーイングレフリー」にならざるを得ないがゆえに)この観点を欠落した真正保守主義などは、原理的に左翼と同様の教条主義に陥る危険性を帯びているのではないでしょうか。

ここで、保守主義の第二次ルールの核としての(社会学的に「観察-記述」可能な)「国民の法的確信」の存在形態、および、「法の支配」の原理の意味内容に関しては下記拙稿をご参照いただきたいのですが、

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879748.html

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59308240.html

例えば、「法の支配」の原理とは、(イ)英国社会(あるいは、英国法を継受した、原則、フランス法を継受しているルイジアナ州を除くアメリカ社会)に伝統的なコモンローが存在するという確信と、(ロ)コモンローの具体的内容は専門の裁判所たる裁判官のみが発見できる(要は、コモンロー裁判所がコモンローとして認定したルールがコモンローである)という確信に基礎づけられたものです。而して、(ハ)法解釈学的に見た場合、あるいは、法制史的に見た場合、(国会主権主義が確立する名誉革命(1689年)以前の英国においてさえ)具体的な内容を持つ普遍的なコモンローの豊饒なる体系が存在していたとは言えず、法規範の内容は社会の変遷とともに常に変化してきたことも自明の理なのです。   

ならば、「法の支配」の原理をリファーしつつ、これらの(イ)(ロ)(ハ)を欠く主張、例えば、(イ)現在の日本において、(ロ)有権解釈の権限を掌中にしている裁判所を介在させることなく、私人たるある論者が「コモンロー」と自分で認定した、(ハ)具体的な内容をともなったルールが法的効力を帯びるはずだなどの妄論を述べる「真正保守主義者」などの暴走する心性と思考パターンは、(左翼と同様「没個性的存在」としての均一な人間観を前提とする)独善的な教条主義であり「自分=第二次ルールの認定権者=権力」の万能感を醸し出しているという点で「左翼」のそれとそうあまり変わらないのではないか。蓋し、「真正保守主義」と「左翼」はシャム双生児の関係にある。そう言っても満更間違いではないと思います。

畢竟、このような左翼的な真正保守主義の論者が理解する「左翼」のイメージが、現実の左翼とは似ても似つかない、論者の想像上の産物にすぎなくなることは寧ろ当然のことでしょう。ならば、左翼理解において失速しているこれら真正保守主義なるものは、その保守主義自体の理解に関しても破綻しているのではないのか。蓋し、(ソシュールの記号論を持ち出すまでもなく)あらゆる記号の意味は他のすべての記号との差異性によって形成されるのと同様、ある社会思想の「定義=主張内容」もまた他の全ての社会思想との差異性によってより明確になるでしょう。ならば、「左翼」との対比で保守主義の内容はより明確になるはずであり、その「左翼」の理解が誤謬に満ちたものであれば自己規定も貧困で脆弱なものになることは避けられないだろうからです。

而して、(α)彼等の「左翼」理解が、例えば、支那の(左翼とは中立的な)「偏狭なナショナリズム」としての「中華主義」という認識を曇らせ、あるいは、左翼的ですらない民主党政権の夫婦別姓法案の批判を不的確にすることと通底している以上、または、(β)保守主義をあたかも「魔界からコモンローを口寄せする巫女の技術」の如くに世間に誤解させる可能性がなくもない以上、知識において貧困で論理において脆弱な、「真正」の二文字を背負ったこのような保守派の左翼理解は正しく修正されるべきである。と、そう私は考えています。

尚、本稿を貫徹する私の社会思想の体系に関しては下記拙稿の記事案内をご参照ください。

・社会思想の<海馬之玄関ワールド>観光ガイド
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59971352.html






(2010年10月26日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




社会主義・共産主義に対する資本主義・自由主義の最終的勝利(1989年-1991年)が歴史的に確定して早20年。現在では、自身を「社会主義者・共産主義者」と規定する論者はほとんど相手にする必要のないほどの少数派であり、今更「左翼」の定義を云々する実益はないようにも思われます。しかし、現下我が国の民主党政権を見るまでもなく、世には「リベラルの羊の皮を被った左翼の狼」が少なくない。そして、保守派の中には「左翼-リベラル」に対する不勉強からか、例えば、民主党政権や支那政府に対する些か見当違いや筋違いと思える左翼批判もまま見られる(而して、それは「左翼的でないものに対する左翼批判」であり、敵に的確なダメージを与えられていない節も少なくない)。畢竟、これが屋上屋を架す趣もなきにしも非ずではあるけれど、本稿をアップロードしようと考えた所以です。

最初に本稿の結論的な「左翼」認識を明示しておきます。

計画経済と生産手段の国有化を通して国家社会の経済的・文化的な発展(要は、生産力の増大と、社会主義社会・共産主義社会の生産関係およびそれらの生産関係と整合的な価値観や社会規範をより多くの人々が内面化すること)を成し遂げた上で、国家権力の死滅を志向する社会主義の不可能なことが歴史的に証明された現在。

国家権力と資本主義を否定する心性と理論を「左翼」、国家の個人に対する文化的介入を忌避しながらも(資本主義下の)資源と所得の再配分領域では国家権力の積極的な活動を要求する心性と理論を「リベラル」と名づける場合、日本の民主党政権や70年安保後の全共闘解体によってエコロジー運動や市民運動に流れ込んだ「リベラルの羊の皮を被った左翼の狼」の立場は、国家権力ならぬ国家自体を否定しながら国家権力の機能の拡大を目指す社会思想と定義できる。

要は、それは性善説的と天動説的な予定調和の国際政治認識と社会秩序認識に基づき、他方、同じく天動説的に国家権力の機能に万能感を覚える、国家や民族、家族や地域コミュニティーの価値を否定する強権支配の社会思想。それ正に、(国家権力にこれ以上ないほどどっぷりと依存しながらも、その国家権力を生み出す国家社会に自生する伝統的な価値を軽視無視、軽蔑中傷してやまない)鼓腹撃壌的の強権支配の社会思想である。と、そう私は考えています。   


本稿の目的は2010年の現在、保守派にとって「左翼-リベラル」を批判するために必要な「左翼」という言葉の意味内容の提示であり、他方、「左翼」という言葉を巡って観察される保守派の議論の無知と非論理性、すなわち、貧困と脆弱さの指摘です。而して、本稿は左翼の思想内容に踏み込むものではなく、あくまでも、保守派の思考と議論、行動と運動をより生産的にするためのものです(よって、「左翼」の中核を占めるマルクスの思想と保守主義に対する私の基本的な理解については下記拙稿をご参照ください)。

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57528728.html

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59891781.html



◆保守派の「左翼」理解の貧困

この社会では現在次のような大雑把な思い込みがまかり通っている。蓋し、この程度の認識に基づく「左翼-リベラル」批判などは「左翼-リベラル」にはおそらく何の痛痒も与えない。再度記しますが、このような小さいけれどくっきりとした危惧が本稿執筆の動機なのです。所謂「夫婦別姓法案」に関してある「保守派氏」慷慨して曰く、

夫婦別姓法案が招来するであろう「家族解体」が、我々保守派の単なる危惧かといえば、勿論そうではない。この法案の目的は、明確に「家族解体の完成」に他ならない。マルクス・レーニン主義において、「家族解体」は必須事項であり、目下これを実行せんと躍起になっているのは、生粋の極左ばかりである。


而して、「マルクス・レーニン主義において、「家族解体」は必須事項」という点に関するこの論者の根拠は、例えば、『共産党宣言』(1848年)の次の記述ということ。

家族の廃止! もっとも急進的な人々でさえも、共産主義者のこの恥ずべき意図に対しては激怒する。現代の家族、すなわち、ブルジョア的な家族は、何に基礎を置いているか? 資本に、私的営利にそれは基礎を置いている。完全に発達した家族は、ブルジョア階級にだけしか存在しない。しかも、そういうブルジョア階級の家族制度を補うものとして、家族喪失と公娼制度がプロレタリアに強要されている。

ブルジョアの家族は、この補完物がなくなるとともに必然的に消滅することになる。そしてその両者は資本の消滅とともに消滅することになる。・・・

ブルジョアにとっては、その妻は単なる【子供の再】生産用具に見える。だから、生産用具は共同に利用されるべきであると聞くと、彼等は当然、共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。ここで問題にしているのは、単なる生産用具としての婦人の地位の廃止だ、ということには、ブルジョアは思いもおよばない。

(KABU訳,但し、岩波文庫版 pp.63-64参照)    


貴族の令嬢を妻に向かえ、その正妻から生まれた娘達には極めてブルジョア的な教育を施しながらも、女中との間に生まれた息子はプロレタリア的に処遇して無教養なまま放置したマルクスの事跡を想起するまでもなく、ここでマルクスが述べているのは、プロレタリアートが家族を持てない状況に置かれていること(独身であるか、売春婦とその顧客であるかでしかない状況)の糾弾であり、その状況の上に咲く徒花としての「ブルジョアの家族」が社会主義への移行にともない(「ブルジョアの家族」を成立させてきた、「資本の自己増殖運動」をエンジンとした経済構造や社会的諸条件の消滅とともに)消滅するという予測以上でも以下でもありません。

実際、エンゲルス『家族、私有財産、及び国家の起源』(1884年)を除けば、マルクス=エンゲルスの著作には「家族」どころか「宗教」または「民族」の本性に焦点を当てた理論的考究はない。而して、欧米において、1975年~1995年に亘って続いた、マルクス主義フェミニズムとリベラルフェミニズムの論争において、「マルクスの思想や「マルクス-レーニン主義」からフェミニズムが演繹、補強・正当化できるのか」という点は主要な論点でしたが、マルクス主義側から(「売春は人類最古の職業」であることでも自明なように、最も、理論化し易い「再生産拠点」としてさえも)家族の規定や家族の解体が、マルクス主義を根拠にして立論可能という主張はつい成功しなかったと言えると思います。

畢竟、この経緯は、例えば、日本にマルクス主義フェミニズムを輸入した第1世代とも言うべき、上野千鶴子氏の主著『家父長制と資本制』(1990年)の冒頭第1章で彼女自身が書いているように、マルクス主義フェミニズムからのマルクスと「マルクス-レーニン主義」に対する不満は、それらが労働力の再生産システムとしての家族を「市場」の外にあるものとして分析と批判の対象から外したこと(逆に言えば、社会主義社会・共産主義社会になれば自動的に家族の問題は解消すると楽観視していたこと)にあったことからも明らかであろうと思います。

ならば、例えば、「宗教は民衆の阿片である!」というマルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』(1844年, 岩波文庫版 p.72)という名文句を引き合いに出して、というか、この1センテンスだけを根拠にして(宗教嫌いだったエンゲルスや、宗教や信仰には無関心、「敵対する宗教勢力=ギリシア正教」は弾圧し、「味方の宗教勢力=イスラーム」とは手を携えたレーニンとは異なり、スターリン同様に宗教や信仰に対しては微妙な立場に生涯終始したマルクスから)左翼は宗教を否定しているという結論を導き出すのと同程度に、上に引用した如き、「左翼→夫婦別姓法案推進論」認識は、社会学的にはその傾向性は認められるものの社会思想的には「1対1」的に成立するものではない。畢竟、このような筋違いの批判は現実に夫婦別姓法案を推進しているリベラル勢力にとっては(再々の言い草になりますが)痛くも痒くもない批判、保守派の無知の表明にすぎない。尚、夫婦別姓法案に関する私の批判については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・完全攻略夫婦別姓論要綱-マルクス主義フェミニズムの構造と射程
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59250899.html


◆過剰なる「真正」の二文字

保守派の仲間内での議論の場面と、現下の政治課題を巡って「左翼-リベラル」を批判する場面とでは、左翼の用語や思想に対して要求される知識の量と精度は自ずと異なるでしょう。後者の場合には、保守派ではなく、「黒猫でも白猫でも鼠を取る猫が良い猫」だと考える人々。つまり、「左翼-リベラル」でもそれが「鼠を取ること=社会の安寧と繁栄」を実現できるのなら「良い猫=良い政権」と考える広範な「国民-有権者」が想定される聴衆の多数派なのでしょうから。

而して、前項で述べた保守派の「左翼」理解の水準の低さに関連して、ある意味、その裏面として常々気になる現象があります。それは、ネット上には「真正保守主義」とか「真正護憲論」とか、やたらと「真正」の二文字を自称する論者が散見されること。大体、世間では「自分は正直者です」という人物に限って詐欺師なのは常識だから(笑)。実際、例えば、刑法学で言うところの「真正不作為犯」「不真正不作為犯」の場合には、

・真正不作為犯
不解散罪(刑法107条)、不退去罪(130条)、保護責任者遺棄罪(218条後段)等々、刑罰法規が不作為の実行行為(構成要件に該当する行為)を予定している犯罪

・不真正不作為犯
刑罰法規が作為の実行行為(構成要件に該当する行為)を予定している犯罪を不作為で実現する場合


と、刑法理論が与える定義によって間主観的に「真正」「不真正」の意味が定まるのですが、自身や仲間内で「真正保守主義」などと100万回雄叫びを上げたところで、他者にとってその「真正」の二文字は単なる余計な「形容句」にすぎない。

もっとも、しかし、英米流の分析哲学、例えば、J.A.オースティンの先駆的分析が明らかにした如く、言語行為は「事実の記述」のみならず(遺言や契約の申込と承諾の如き)「意思の表明」や「意思の確定」、あるいは、「威嚇」「哀願」「感情の吐露」等々様々な機能を帯び得る。ならば、「真正保守主義」を自称する論者が個人的に「真正」の二文字を愛用することは自由ではある。ただ、ここで一つ理解されるべきは

「真正」の二文字を用いたからといって、彼や彼女の主張が保守主義に親和性のあることを保証するわけではなく、また、彼等が「何が保守主義であるか」を間主観的に定め得る立場にあることを保証しているわけでもない 


ということです。実際、往々にしてこれらのブログでは、他者を「左翼」と認定すればそれで「相手に対する批判が完了した」と考えている節もまま見られる。而して、前項で述べたような「左翼」理解の貧困とあいまってこのような「真正保守主義」なるものを標榜する論者は、保守主義の対極にあるはずの教条の色彩を漸次濃くしているのではないか。と、そう私は危惧しています。


left2.jpg


◆資本主義と社会主義の収斂

2010年現在の「左翼」の定義(事物定義)に進みたいと思います(★)。ポイントは「時代の変化-グローバル化の昂進」にともない左翼も、よって、「左翼」の語義も変貌を遂げているということ。

日本では世界金融危機を契機に、「2008年の世界金融危機によって、規制撤廃と市場万能論を基盤にした新自由主義の誤謬が明らかになった」と説く論者が跋扈しています。而して、このような主張は「交通事故の悲惨を鑑みれば自動車文明の誤謬は明らかだ」という主張と大差のない論理の飛躍であろうと思います。

蓋し、「独占」を排除するための独占禁止法体系や雇用者と被雇用者の力関係を対等にして健全で持続可能な労使関係を具現するための労働法体系が、資本主義を維持する上でも肝要な制度である如く、「投機的な金融取引」や「実需とあまりにも乖離した金融商品」を規制することは、資本主義、就中、自由で公平な競争に価値を置く新自由主義と矛盾しないどころか、むしろ(労働法的な働く者の権利の具現に貢献する「健全な労働組合」が新自由主義の戦友でさえあるように、そのような規制は)新自由主義的制度の不可欠の一斑と言うべきだと思います。

独占禁止法や労働法や金融規制によって資本主義は社会主義化するのではなく、益々、力強く新自由主義化への歩を進める。そう私は理解しています。蓋し、「市場万能論に立った新自由主義は弱肉強食の経済を志向するものであり、国内外で格差を拡大する」等のオドロオドロしい主張は、完全に間違いというわけではなく現象の一部面を正しく指摘している認識ではある。しかし、新自由主義的経済の帰結たる格差や貧困の解消は経済の社会主義化によってではなく、セフティーネットの整備に基づく敗者復活可能な「新自由主義的-保守主義的」な社会の具現によって(自己責任の原則が貫徹する社会における個人と民間の旺盛な活力の発露の中で)解決されるしかないと私は考えます。    

畢竟、「過度な競争や強欲な活動」を制限する仕組みによって資本主義社会を「より人間と自然に優しいし経済活動が機能する舞台」にできるとの考えは、意識改革とその制度改革によって(現状の技術水準に基づく生産力と資本主義的生産関係を維持したまま)社会主義を実現できるとする「空想的社会主義」に他ならない。蓋し、マルクス『資本論』(1867年-1894年)が喝破した如く、

「主要な生産が商品生産」として行なわれ、「人と人の関係が商品と商品の関係に物象化」する、而して、「商品の価値が(個々の商品の個性差に起因する)その使用価値とは別に(諸商品の使用価値の表示がその使用価値である「貨幣商品」によって均一な基準で測定される)交換価値の形態」として立ち現われる資本主義社会は、「商品生産と交換に基づく利潤獲得プロセス」の再生産というその運動法則自体を止揚しない限り社会主義や共産主義が支配する社会に移行することはあり得ない。


そして、マルクス主義経済学が予想したようには、この資本主義の運動法則が当分終焉を迎えることがないことも確実でしょうから。しかし、マルクス主義経済学と社会主義体制の崩壊は左翼思想がすべて反古になったことを意味しない。逆に言えば、(労働価値説と史的唯物論を世界中のほぼすべての左翼が「法則」ではなく「仮説=思考枠組み」に過ぎないことを認めている現在)フリードマン、ハイエク、シュンペーター、セン等々、文字通り左右の多様な方向からその理論と政策への批判は喧しいものの、国家権力の財政・金融への容喙を推奨するケインズ経済政策のプラットフォームの上に世界のほぼ全ての国は乗っているのであり、世界中の国の政府は(純粋な資本主義経済下の政府ではないという意味では)すべて社会主義政権と言っても間違いではないのです。蓋し、社会主義体制が崩壊した現下の世界は、資本主義と社会主義の収斂化の第二段階にあると見るべきなの、鴨。


収斂化。社会主義諸国の市場経済導入と(所有権の不可侵・契約自由の原則・過失責任の原則の三原則の修正をともなう)資本主義諸国の社会福祉政策導入の同時進行という、社会主義崩壊に先んじて始まったこの傾向は現在もその歩みを止めてはいません。畢竟、収斂化と現下のグローバル化の昂進は地続きなのです。

蓋し、()第二次世界大戦後、信仰においては最も保守的で内政においては最もリベラルと言われたカーター大統領が信仰に関する寛容政策を継続せざるを得ず、また、1978年の年頭教書演説では「政府ができることは限られているから、国民は政府に期待しすぎることなく自分の生活は自分で守らなければならない」と保守主義者よろしくアメリカ国民に訴えたこと、逆に、()「左翼-リベラル」が跋扈する日本のマスメディアでは、「吉良上野介」「梶原景時」の如き保守の敵役と取られる向きもあったジョンソン大統領(民主党)とニクソン大統領(共和党)の政権下で、(すなわち、1963年-1974年の期間、現在次々とそれに対する違憲判決が連邦最高裁判所で出されている)所謂「アファーマティブアクション」(人種・性別、性的嗜好性等々に基づく現在に至る差別状態の解消には、単に今後の差別の禁止だけでなく、現在のマイナスの状態に対する「埋め合わせが措置=逆差別!」が必要とする暴論)が粛々と実行されたことを鑑みても、グローバル化の胎動を背景にして社会主義と資本主義の収斂化にともない、先進資本主義国の国内においては「左翼-リベラル」と保守主義の収斂化もまた進んでいたと言えるのだと思います。

★註:定義論-定義することの定義

英米流の分析哲学は、語を定義するという言語行為を、大きくは、「辞書的定義」「規約定義」「事物定義=語の経験分析」の三者に区別します。要は、その語彙が世間ではこのような意味で使用されてきたという情報提供、私はこの語彙をこれこれの意味で使用するという宣言、そして、過去の経験に基づきその語彙を巡り人々が連想する事態や事物の範囲や属性、構造や機能に関する陳述の三者を「語の定義」と考えるということ。

而して、例えば、「左翼」や「保守主義」という言葉に関して、ある論者が自己の語義を明示するのならば、その規約定義の内容を他者からとやかく言われる筋合いはなく、どの言葉をどんな意味で使用しようも原則自由であろうと思います。しかし、彼や彼女がその議論や意思伝達をよりノイズの少ないものに、より生産的にしたいと欲する場合、彼や彼女は自己の「左翼」の定義を一般的に使用されている「語義≒辞書的定義」に合わせるか、または、「左翼」という言葉で通常イメージされる諸々の事象に共通な本質的要素(その要素を欠けば最早そのsomethingは「左翼的事柄」ではなくなると感じられる要素)を可能な限りその定義に盛り込むか、あるいは、その両方を選択すべきでしょう。更には、彼や彼女がより専門的な議論を遂行したいと考えるならば、その定義は専門家コミュニティテーで慣習的に成立している語義と親和性のあるもでなければ彼や彼女の意図は十全には達せられないと思います。尚、「左翼」の辞書的定義に関しては下記拙稿をご参照ください。    


・保守主義とは何か(1)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/56937831.html



◆「左翼」の変貌とマルクス主義の価値の不変

社会主義の崩壊以降、否、実は、(A1)バベルク(1851年~1914年)による「マルクスの価値論=循環論法」批判以来、左翼教条の核心たる「剰余価値学説」(商品の価値の源泉は労働であり、その労働を使用価値とする「労働力商品≒労働者」を資本側は合法的に搾取して資本を増殖させているという主張)は単なる「思考の枠組み=作業仮説」の類にすぎず「法則」などではないことは明らかです。他方、(A2)カール・ポパー『歴史主義の貧困』(1957年)により、左翼教条のもう一つの主柱「唯物史観」も「法則」などではなく単なる歴史を見る一つのパラダイムにすぎないことが論定されている。

加えて、(B1)左翼にとって、資本主義終焉の必然性を説く(ほとんど唯一の)論拠であった、資本の有機的構成比の高度化の予想(要は、市場での競争を見据えた場合、資本の再生産過程で機械等々に振り向けられる資本比率が漸次高まり、「労働力商品の購買=賃金」に振り向けられる比率は逓減していく。よって、早晩、人口のより多くの部分がプロレタリアートへ転落し、かつ、プロレタリアート全体の窮乏化が惹起するという予想)は歴史的に見事に「外れ!」たこと。他方、(B2)ヘクシャー・オリーンの定理(「自由貿易が貫徹されれば、生産要素価格(=賃金率・地代・利子率)は世界中でいずれ同一になる」という証明)は些か机上の空論であるにせよ数学的には正しい。つまり、所謂「従属理論」(先進国の経済的繁栄は後進国の遅れた、そして、先進国によって歪に偏らされた産業構造の犠牲の上に維持されているという主張)には経済史的な仮説を超える意味はなく、先進資本主義国の帝国主義への移行の必然性を説いたレーニンの『帝国主義論-資本主義の最高の段階としての帝国主義』(1917年)の近未来予測は完全に間違っている。

畢竟、現在の左翼は(それが、仲間内で「籠城する城内の宴」に興じるマニアックな輩ではなくて、先進国において政権を狙う野心を抱くほどのものならば)これら二つの教条と二つの神託とは無縁な、「理論的には無害化-政治的には塹壕戦の準備万端した」ものと捉えるべきなのです。

ことほど左様に、現下の左翼は、(少なくとも、仲間内以外に対しては)「疎外-物象化-物神性」「国家の死滅」「帝国主義-民族解放路線」「「上部構造-下部構造」の階層的な社会と歴史の認識」「政治的国家と市民社会の分裂」等々の用語を思考枠組みとしてしか使用していない。ならば、計画経済と生産手段の国有化を放棄して塹壕に籠もる左翼に対して、これらの点に着目してする単純なハイエク流の「左翼=全体主義」「左翼=設計主義的合理主義」批判もそう大して有効ではないの、鴨。   


他方、モンテスキュー『ペルシア人の手紙』(1721年)の先駆例を見るまでもなく「所変われば品変わる」式の思考は鬼面人を驚かせるような際物ではなく中庸を得たもの、蓋し、物質的な諸条件に規定されるものとしての社会という、マルクス=エンゲルスが『経済哲学草稿』『ドイツ・イデオロギー』(1843年―1845年, 1845年-1846年)で定式化した思考枠組みは、左右を問わず現在の社会認識の共有財産と言ってよいでしょう。

而して、マルクスの、労働価値説とは無関係に成立可能な価値形態論(ある商品の使用価値の量で測られる別の商品の使用価値としての交換価値)や「労働と生産の社会性の反映としての資本=社会的労働による資本の生産」というアイデア、更には、「資本の無計画な無限増殖プロセス」という資本主義の規定性から演繹される資本主義の問題点の指摘等々もまた現在では左右を問わず使用されている人類の知的共有財産であろうと思います。

要は、「マルクス侮り難し」であり、かつ、左翼は昔の左翼ならずということ。ならば、左翼に対する伝統的な批判を(例えば、「左翼=全体主義」批判を)現在の左翼に浴びせ掛けても所謂「蛙の顔に小便」なのかもしれません。


<続く>





(2010年10月26日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




【解題】

ブログ友のアリス姫の記事。この記事にも背中を押されて、「左翼」と「リベラル」というものの異同について(ただし、言葉の意味に重心を置いたものを)弊ブログでも近々アップロードしたいと思います。

というか、アリス姫はきちんと使っておられますが、保守系ブログには「真正保守」とか「真正護憲論」とか、やたらと「真正」の二文字を自称するものがある。大体、世間では「自分は正直者です」という人物に限って詐欺師なのは常識(笑)。また、相手を「左翼」と言えばそれで「相手に対する批判の終了のご連絡」ができたと考えているお目出度い向きもある。いくら、社会主義体制が不可能なことが歴史的に証明されたからといって、それは、左翼思想が100%駄目なことの証明ではないのにね。と、筋違いながらこの記事を読んでそう思いました。

しかし、それにしても、民主党政権というのは、「左翼」でさえない無知で不遜な存在でしょうね。それは、天動説的蒙昧を苗床とする傲岸の顕現である。

蓋し、計画経済と生産手段の国有化を通して国家社会の経済的・文化的な発展を成し遂げた上での国家権力の死滅を志向する社会主義体制が歴史の遺物になった現在。

ある意味、国家権力を否定する心性と理論を「左翼」、国家の個人に対する文化的介入を忌避しながらも(資本主義下の)資源と所得の再配分の領域では国家権力の積極的な活動を要求する心性と理論を「リベラル」と名づける場合、日本の民主党に代表される立場は、国家権力ならぬ国家自体を否定しながら国家権力の機能の拡大を目指す思想ではないか。

要は、それは性善説的と天動説的な予定調和の国際政治認識に基づき、他方、同じく天動説的に国家権力の機能に万能感を感じつつ、国家や民族を否定するもの、鴨。それ正に、鼓腹撃壌の政権なの、鴨。ならば、一刻も早くこの国の政権は<地動説>を基盤とする政権に戻されねばならない、と。そう私は考えています。

以下、アリス姫の記事転載。尚、民主党政権の本性に関する私の基本的な理解については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。而して、「地動説=コペルニクス的宇宙観」に帰れ!



・海馬之玄関は自民党現執行部支持に舵をきります
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59982629.html

・民主党政権の誕生は<明治維新>か<建武新政>か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59444639.html

・政治主導の意味と限界
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59888125.html

・「事業仕分け」は善で「天下り」と「箱物」は悪か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59556356.html


・自民党<非勝利>の構図-保守主義とナショナリズムの交錯と乖離(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59722931.html



tendousetsu88



◎岡崎公安委員長「反日デモは国益にかなう」
産経新聞 10月22日(金)22時14分配信

岡崎トミ子国家公安委員長は22日の衆院法務委員会で、自身が通常国会の会期中の平成15年2月、ソウルの在韓日本大使館前で韓国の慰安婦問題支援団体主催の反日デモに参加したことについて、「私は国益にかなうという思いを持っている」と強調した。菅直人首相はこれまで「本人は過去の言動に配慮に欠けた面があり、誤解を招いたことを深く反省している」(6日の衆院代表質問)と答弁しており、閣内不一致の様相を呈している。

岡崎氏はデモで韓国人参加者と大使館に向かってこぶしを振り上げた。現場には日の丸に「×印」をつけた看板も並べられていた。

岡崎氏は「私の活動が『反日』だといわれたことが誤解だ」と主張。「×印」付きの日の丸については「後方にあったので気付かなかった。日本の国旗国歌を尊重することは大事だと考えている」と弁明。デモで訴えた内容については「人間の尊厳回復を訴えた」と述べた。

質問した自民党の稲田朋美氏は「日本の国会議員として適切ではない。(岡崎氏が)日本の治安のトップにいることは不適切だ」と厳しく批判した。

これに先立つ法務委理事会では、民主党側が稲田氏の岡崎氏への質問通告の内容が「法務委になじまない」として質問取り下げを求めた。自民党側は「国政にかかわる重要な話だ」と反論。稲田氏に質問させないなら委員会を流会にすべきだと主張し、最終的には民主党側が折れた。(以上、引用終了)



政権交代はいわゆる「革命」ではありません。政治的には自民党から民主党へ、合法的に政治権力移譲が行われたのであり、本質的には守旧派である自民党支持母体から、同じく守旧派である民主党支持母体への権益移譲がなされただけです。国民的には「より優れた政治」をしてくれるなら自民党であろうが民主党であろうがどちらでも良いのですが、残念ながら民主党には国家意識やそれに付随する危機管理能力、経済成長戦略やそれに付随する景気対策、総じて統治能力や政権担当能力が著しく欠如しているため、今後国民にとってこれを選択することは自国の不利益を招くということが、この一年二ヶ月の間に証明されたと考えています。

さて、民主党議員は率先してこの政権「後退劇」を「革命」と位置づけようとしたわけですが、その「革命賛美思想」を持っている民主党議員が、民主党リベラルと言われている方々です。「リベラル」と言ってもアメリカ型の国益にコミットメントするリベラル思想ではなく、旧社会党勢力が便宜上自称して「リベラル」といっているにすぎません。

実態は反日サヨクそのものなんですよね。

その代表が今やその地位にいることすら疑問視されている岡崎トミ子国家公安委員長です。この方は「現代の価値観」で戦時中の日本を批判するのが大好きなようで、韓国人と一緒になって反日デモに参加したツワモノです。

で、当人はこの時の自分の行為を踏まえて「国益にかなう」と言っている。正当なビジネスが成立していた商売女を今になって「従軍慰安婦」として被害者扱いする活動のどこが「国益にかなう」のか全くわかりませんね。

また、証拠となる「日の丸に×印」には気づかなかったといっているわけですが、そんなことはないはずです。「日本の国旗国歌を尊重することは大事だと考えている」なら、その異常な光景に「気がつかないはずがない」でしょ。日常的にそんなデモに参加しているから「気づかなかった」、国旗国歌なんてどうなっても良いと考えるから「気づかなかった」だけです。どの道「気づかなかった」ならそれこそ問題でしょう。政治家としての資質が問われるのですからね。

「人間の尊厳回復」を訴えるなら、今でも深刻な中国の人権侵害に対して声を上げているはずですが、「ノーベル平和賞」をとった監禁中である劉氏の解放を求める民主党議連にも参加していないようでは説得力さえありません。
何から何まで後付けばかりで無様なんですよね。






稲田議員の質問にも答えられない行為をしたのは間違いないようですね。
岡崎委員長「人間の尊厳の回復を訴えた」
稲田議員「抽象的、個人補償を日本国政府に対して訴えたのではないか?」
岡崎委員長「人間の尊厳の回復を訴えた」
稲田議員「答えてない、個人補償を日本国政府に対して訴えたのではないか?」
岡崎委員長「人間の尊厳の回復を訴えた」
稲田議員「答えてない、個人補償を日本国政府に対して訴えたのではないか?が質問」
岡崎委員長「答えました」
稲田議員「答えてない、個人補償を日本国政府に対して訴えたのではないか?訴えたのか訴えてないのか」
岡崎委員長「7年前のことなので正確なことを覚えていない」
民主当議員拍手←??



馬鹿かと。




◎仙谷氏、国会での謝罪に「ノーコメント」6連発

産経新聞 10月22日(金)22時14分配信

仙谷由人官房長官は22日、参院議院運営委員会理事会に出席し、自身の国会答弁に批判が出ていることについて「不適切な答弁があったことを陳謝する」と述べた。しかし、その後の記者会見では、どの答弁が不適切かを聞かれても「ノーコメント」を6回も連発し、理事会で「真摯な答弁に努める」と約束したのとはほど遠い対応をみせた。

記者「どういう点が不適切だったのか」

仙谷氏「ノーコメント。はい、(次)どうぞ!」

記者「謝罪の感想は」

仙谷氏「ノーコメント」

記者「議運理事から発言はあったか」

仙谷氏「それもノーコメント」

記者「与野党協議のあり方が議論されている中、自身の答弁が議運で問題視されたことについては」

仙谷氏「ノーコメント」

記者「長官、なぜノーコメントなのか」

仙谷氏「ノーコメントだからノーコメントだ」

仙谷氏は会見で、理事会での謝罪内容を読み上げた後、記者団の質問に対し、このような対応をみせた。

21日の参院内閣委員会では、報道機関による答弁の“つまみ食い”を避けるため、記者会見の一問一答全文を首相官邸のホームページ上で公開する考えを明らかにした仙谷氏だが、日ごろから強弁やはぐらかしも多い。

公開によって、この日のやりとりのように、傲慢さをみせる仙谷氏の実態も赤裸々にさらされることになりそうだ。

(以上、引用終了)



菅改造内閣の閣僚には自称「リベラル」が多いのですが、仙谷健忘長官のために他の自称リベラル閣僚は随分影が薄いですね。

どこの世界に反省して謝罪した後、上記引用記事のような態度をとる人間がいるのでしょう。
仙谷官房長官は、政治家としてより社会人として失格ですね。おかげで、自称「リベラル」の社会性のなさが国民にアピールされることにはなっていますが、ここまで空気読めない方を官房長官にしている菅総理も菅総理。総理は無能、官房長官は傲慢不遜(野党や国民に)ではこの内閣は既に末期でしょうね。

仙谷無双も大概にしないと。


転載元:
http://blogs.yahoo.co.jp/kira_alicetear/26950118.html

aho3


(2010年10月23日:英語と書評 de 海馬之玄関 goo 版にアップロード)

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テーマ : 民主党・菅直人政権
ジャンル : 政治・経済

aho1


【解題】

ブログ友のPONKO姉さんの記事です。

蓋し、論理的には、米国からの相対的自立を掲げる民主党政権下でこそ、憲法改正、集団的自衛権の政府解釈の変更、非核三原則、武器輸出禁止は見直されざくなる。問題は、論理的にはこれらを見直さざる得ない民主党政権が、これらの見直しをすることなく米国離れを行なう可能性も強いこと。

而して、アメリカは日本自体のことなどどうでもいいのですよ。出て行けと言うならさっさと出て行くのがアメリカ流ですし、寧ろ、アメリカ国内の世論は日本駐留には冷たいとまでは言わないが生暖かい視線ですから(というか、日本なんかほとんど意識にない)。問題は、民主党政権のこの「やることやらずの米国離れ」がアジア地域の不安定要因になること。実は、短中期的にはそれは支那も「勘弁」と思うこと。要は、日本の民主党政権は支那からでさえ問題視されるトンデモ政権ではないか。

正に、それは行動力のないドン・キ・ホーテ、性善説という名の傲岸不遜なる天動説的外交。いやはや、インド人も吃驚、ならぬ、支那人も迷惑な民主党政権ではないか、と。と、そう私は考えています。

蓋し、現実を見据えるための好個の記事、そう思い転載させていただきました。尚、この記事を考える上での国際政治理解の私の基本的なパラダイムに関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。以下、引用記事。


・書評☆「ワケありな国境」
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59986724.html

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html

・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59898544.html

・<中国>という現象☆中華主義とナショナリズム(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59895258.html


aho3

◆尖閣紛争で日本人は覚醒するか


「小さな戦争」を奇貨として

今日の産経新聞一面トップには「中国『尖閣棚上げ』打診 首脳会談に向け懐柔か」とある。

南沙諸島でも同様の手口で実効支配してしまった常套手段だという。ならば自民党政権の犯した過去の過ちを繰り返すこと無く、民主党政権は敢然として実効支配の具体的な行動で対応すべきである。

戦後日本に蔓延した空想的平和主義を打ち破るには、北朝鮮から核ミサイルを一発落としてもらうしかないのではないかとPonkoは常日頃半分本気で考えている。尖閣衝突事件は核ミサイルには程遠いが、小型焼夷弾くらいにはなったかも知れない。

同じく産経新聞のコラム「正論」で入江隆則明治大学名誉教授は、「日本人覚醒させる『小さな戦争』」と題して、日本は戦後、米国に守られて空想的平和を貪ってきたが、「この迷夢から覚醒させるには、普通の手段では難しい」という。

日本人は本来柔和な国民性を持っているがイザとなると180度、国勢を転換させることが出来たとして、明治維新と日米戦争を上げている。現在直面している中国との「第三の国難」で日本人を覚醒させる小さな戦争が尖閣諸島をめぐって戦後初めて起こる可能性があるという。

日本の自衛隊は世間が考えているよりはるかに精強であり、日本は中国に勝つかも知れない。そうすれば中国の反日世論が中国政府に向かい、共産党一党独裁政権は倒れるかも知れない。仮に日本が負けそうになれば米軍の介入もありうる。尖閣は日本領と確認されて「戦争」は終わる。

この結果、国民はようやく空想的平和主義から覚醒し、集団的自衛権の不行使、非核三原則、武器輸出三原則の呪縛から解放される・・・

と入江氏は言う。

まことに喜ばしいストーリーである。北朝鮮から核ミサイルを撃ってもらわなくて済む。しかし、民主党政権では「柳腰」と称して中国に媚び諂い尖閣諸島も沖縄も中国に取られかねない。なにせ仙谷官房長官によれば「日本は昔から中国の属国」だからである。

入江氏はこう結語する。

「戦うべきときに戦わない国は、滅亡する。海保と自衛隊の奮起を望んでやまない」

なにやらクーデターをそそのかしているようにも聞こえるが、そのくらい日本はいま危機的状況にあるということである。


 
転載元: 
http://blogs.yahoo.co.jp/nipponko2007/36333014.html



aho2





(2010年10月22日:iza版にアップロード)

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テーマ : 民主党・菅直人政権
ジャンル : 政治・経済

ネコ将棋4


本書『初心者でも必ず解ける詰将棋 羽生の一手詰』(マガジン・マガジン社-2010年7月)は羽生善治名人監修の詰将棋問題集。KABUは将棋は嫌いではない(さして強くもない)ということもありますが、ブログで本書を取り上げようと思ったについては幾つか理由があります。

本書を紹介したいと思った理由は、次の事柄を理解する上で本書が「参考になった」「考えさせられた」からです。

◎紹介に値すると感じたポイント

①思考におけるパターン認識の重要性
②学習におけるスモールステップの有効性
③学習計画における<夢と現実>の均衡の肝要性
④情報伝達における<信用>の重み   


漸次、これらについて述べて行きますが、ただ、先に申し上げておきたいことが二つある。それは、本書を「学習技法」の素材として、要は、詰将棋をメタファーとしてそれ以外の何事かを考える素材として読む場合、どうしても「プロ棋士」と「プロ棋士達の住まう世界」についての知識が不可欠だろうということ。もう一つは、逆に、本稿の関心の所在から見て本稿では将棋プロパーの話は割愛せざるを得ないということ。

前者、すなわち、羽生名人を現役最強棋士に戴くプロ棋士達が皆将棋に関しては尋常ならざる能力と才能の持ち主であること、正に、彼等全員が<超人>であることに関しては下記拙稿をご参照いただきたいと思います。そして、後者の将棋プロパーの魅力についてはブログ友の下記ブログをご訪問いただくことをお薦めいたします。

・渡辺明永世竜王誕生に思う「定跡」と「人格」の弁証法的交錯
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/56638820.html

・女流プロ将棋界の独立に暗雲
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/45424822.html

・猪狩守のSyogi Note ← KABU推奨ブログ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/papaya_papa2000


ネコ将棋2


将棋の羽生善治名人(1970年・埼玉県生まれ)をご存じない方は少ないのではないでしょうか。羽生名人とともに現役引退後の「永世名人襲名資格」を持つ当代のもう一人のカリスマ棋士、谷川浩司九段(1962年・兵庫県生まれ)ファンの私にとって羽生名人は「憎き敵役」なのですが、その実力は図抜けていると認めざるを得ません。

型がないのが型。盤上に新たな宇宙を忽然と出現させる羽生マジック。そして、常に変化し続けられる将棋への飽くなき探究心。羽生名人はイチロー選手と並んで平成の鬼才と呼ばれるべき存在だと思います(ちなみに、本書の第1章、扉絵の4駒マンガにはイチロー選手が登場しています!)。


と、まずは、詰将棋のルール紹介(本書, p.12)。

一、攻め方は王手の連続で攻める
二、攻め方は最速の手順で詰ます
三、玉方は最長の手順で逃げる
四、玉方は【盤上に配置されていない】残りの全ての駒を持ち駒として合い駒に使える   


その作品が失敗作でもない限り、以上のルールを遵守していれば必ず奇数手で後手玉は詰む。つまり、将棋も囲碁もゲーム理論で言えば「交互ゲーム」であり、詰将棋は「攻め方が指して→玉方が指して→攻め方が指して→・・・」と先手と後手が交互に手を指し進めて行き、このどこかの攻め方の手で玉方の玉は詰む。これが詰将棋というゲームの本性です。

而して、詰将棋は、初心者用の3手詰問題、5手詰問題から、中級者向けの9手詰以上、上級者仕様の15手詰や17手詰クラスの問題と、想定されるプレーヤーの棋力が上がるに従い、原則、詰みに要する手数も増える傾向がある。実際、マニアックな(実戦を想定してない遊び心溢れる)作品としては、江戸時代の伊藤看寿の作品・「寿」(1755年)の611手詰や、現在の詰将棋作家、橋本孝治氏の「ミクロコスモス」(1995年)の1525手詰というのもある!   

蓋し、一番簡単なはずの1手詰の問題集を現役最強棋士が監修したというところに私は妙味を感じました。これが「1手詰問題集」の類書が皆無ではないのに私が本書を求めた最大の理由なの、鴨。

正にマーケティングの勝利!!



ネコ将棋1


しかし、少しでも詰将棋をやったことのある方ならお分かりのように、確かに、一般的にはその難易度は「15手詰>13手詰>・・・>3手詰>1手詰」と言えるかもしれませんが(実際、詰みに要する手数が増えるに従い、読まなければならない、というか、読むことが可能な手数は鼠算式に幾何級数的に増えるわけで、一応、そう言えるかもしれませんが)、難解な3手詰問題もあれば比較的容易な9手詰問題もある。要は、1手詰問題集が自動的に簡単だとも言えないのです。では本書はどうか。

ここで些か脱線します。


昔、NHKの将棋講座かなにかで、アナウンサーに「プロ棋士って一手指す際には何手くらい先を読むんですか?」と聞かれた大山康晴永世名人が「指して→指されて→指しての3手ですよ」と答えておられた。

また、歌手としても有名な内藤國雄九段は、「プロ棋士って30分間に何手くらい読むんですか?」と聞かれて、「有望な筋を中心に5手から7手、有望な筋が幾つかあるのが普通なので、そうですね、50手くらいでしょうか。まあ、中には数百手読むという人もいますが、そんな人のことをプロ棋士の仲間内では「あの人は頭の丈夫な人やな」言うんですよ」と答えておられた。    

質問したアナウンサーは、「70手先まで読むとか千数百手読むとか」の常人離れした<超人>的の答を期待しておられたの、鴨。しかし、何人かのプロ棋士に直接聞いてみても、プロ棋士が書いた文章を読んでみても、大山永世名人・内藤九段の回答は(実は、「実戦ではそうもなかなか上手くはいかんが理想はそうありたい」という回答だったとは思いますが)満更嘘ではないと思います。

畢竟、プロとアマの差はいかに無駄な筋を読まないかどうかである、と。蓋し、その局面で、読むことが論理的に可能な手数の中で、いかに、無駄な読み筋や手数を捨てられるかが棋力のバロメーターである、と。

而して、「光速の寄せ」が代名詞の谷川浩司九段の凄さは、将棋に関しては<超人>がひしめくプロ棋士の世界でも詰み筋を発見する尋常ならざる嗅覚、よって、その詰み筋に局面を誘導する暴力的な独創性にあるらしい。素人が「独創性」などと知ったかぶりを書いても滑稽なだけでしょうが、それら<超人>の中でも鬼のように強い羽生名人が、谷川九段が詰ませに来たのを見て「本当は詰まないのに自玉が詰んでいると錯覚して敗着となる悪手を選んだ逸話」(伝説の、1997年、第55期名人戦第1局)を鑑みれば、「光速の寄せ」ブランドの<信用>がいかに尋常ではないかということも想像がつくのではないでしょうか。閑話休題。脱線終了。    


ネコ将棋5



さて、本書の難易度は如何。はい。本書は、実は、極めて簡単な1手詰問題集なのです。「光速の寄せ」まで持ち出した上で竜頭蛇尾の結論ですが、本書は収録されている全81問がすべて基本形。当代最強棋士監修の1手詰問題集の収録問題が全て平易で平凡なものばかり。而して、これが本書の第二の意外性。

ならば、「金返せ! 700円返せ!」と思ってもおかしくないはずなのに、しかし、本書の満足度は低くはなかった。なぜか。

蓋し、「光速の寄せ」も「羽生マジック」もその基底は基本的なパターン認識である。そう痛感できたからです。もちろん、羽生名人出演のCMで有名な公文式ではないけれど、基本的なパターン認識を積み重ねれば、誰もが羽生・谷川になれるなどとはいいません。しかし、基本的なパターン認識の積み重ねなくしては誰しも谷川・羽生にはなれない。そう痛感したということです。    

実際、監修者は著者ではない。これは当然のこと。しかし、詰将棋問題集の監修を引き受けた以上(無限に作成できる類題の中から)どんなタイプの問題を選ぶかについて監修者が意見しなかったとも考えにくい。このことは想像するしかないのですが、私は羽生名人の次の読者への言葉を読んでそう確信しました。

どの局面が詰みで、どの局面が詰んでいないか、正確に百%の認識が出来るならば、それだけでアマ初段の実力があると思います。・・・どのようにして詰みを理解して行くかですが、昔からよく言われているように「習うより慣れろ」が良いのではないでしょうか。つまり、詰みの型をたくさん知る事によって、徐々に詰みとは何かという理解を深めて行く訳です。・・・本書の問題は一手詰めばかりになっていますが・・・何回も繰り返して読む事によって、詰みの型が解って来ますし、脳を鍛える体操にもなっているはずです。

(本書, はじめに)    



羽生名人の読者への言葉は、正に、言語ゲーム論の「家族的類似性」を通したパターン認識の事例そのものであり、分析哲学の科学方法論から見ても中庸を得た妥当なものだと思いますが、蓋し、本書の素晴らしさは、本書が<学習を巡る黄金法則>とも言うべきものを体得できるツールでもあるということでしょう。換言すれば、本書の満足度の源泉は、「羽生名人=当代最強棋士」が監修したという<信用>が醸し出す安心感に裏打ちされた、()局面認識における基本的なパターン認識の重要さの体得、そして、()基本的なパターンの蓄積、すなわち、スモールステップの蓄積こそ学習の実体であるということの体得が可能なことだ。畢竟、()「学問に王道なし」という真理を体得させうる<王道>が本書を貫通している、と。そう私は考えています。

◎学習の黄金法則

・学問に王道なしの体得
・基本的なパターン認識の重要性の体得
・基本的なパターンの蓄積、スモールステップの蓄積こそ学習の実体という認識の体得



而して、これらのことが体得できれば学習者は自ずと、

(甲)自分の現在の能力と目標間の距離、学習の納期と使える時間の絶対量から見て、最適なスモールステップがどんなものか、採用すべき<努力の方法>を嫌でも知りたいと願うだろうし、(乙)「来年には羽生名人より強くなりたいな」とか「いつか谷川九段と同じくらい強くなるんだい」という、不可能または漠然とした<夢物語>ではなく、実現可能かつ納期つきの<到達目標としての夢>が何であるかを明確にしたいと思うでしょう。  

ならば、①<学習の黄金法則>を体得させ、②学習者本人が渇望する<方法>と<夢>を彼女や彼が向自化、すなわち、言語化・数値化することを促し、③(将棋にせよTOEICにせよ、ロースクール合格やアメリカのトップMBA合格にせよ)最適な学習の素材と学習のスタイルを紹介提供、観察監督することが、すなわち、教育の作業というものではないか。と、本業の学習方法論にひきつけて私はそう改めて確信しました。

(*・・)_☆⌒○ ← <方法>と<夢>のサーブ♪

ご興味のある向きには本書のご一読をお薦めいたします。それにしても、他者に情報を伝授する上での、「論者=監修者」に憑依する<信用>や<権威>の効果には侮り難いものがありますね。菊池寛の『形』の寓意が身に沁みます。と、このこともまた痛感しました。



ネコ将棋3






(2010年10月22日:英語と書評 de 海馬之玄関 goo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済

わけあり国境


国際法上、領土問題が存在しない所に民主党政権の不手際で領土問題を出現させた尖閣諸島、あるいは、韓国による不法占拠が続く竹島、そして、(実は、竹島等とは異なり現在の状況に至るについては、真珠湾奇襲攻撃に開戦通告を間に合わせることができなかった不手際より数倍凄まじい、日本の外務官僚の「国賊もの=売国奴もの」の不手際が介在する)所謂「北方領土」等々、実は、日本が抱える「ワケありな国境」は少なくありません。というか、ご案内の通り、尖閣諸島に関しては台湾もその領有権を主張しているのですから、日本は実にその国境を接する、支那・韓国・ロシア・台湾のすべてと(国際法上ではなく国際政治的にはですけれども)領土問題を抱えているのです。

本書、武田知弘『ワケありな国境』(彩図社・2008年)は国際政治の肩の凝らない薀蓄収集本。どこから読んでもいいし実に読みやすい。どこぞの2行読めば眠たく記事ばかりアップロードしているブログとはえらい違いです。

もちろん、(一読した限りでは、数箇所を除いて嘘は書いていないようですが)当然ながらと言うか残念ながらと言うか、説明に奥行きはない。要は、そこに紹介してある事柄の「理由の理由」や「原因の原因」に関してはほとんどスルーしてある。

例えば、日本にとっても重要な「沖ノ鳥島」が領土主権の及ぶ「島」なのか領土主権の対象外の「岩礁」なのかについて、本書は「国際法(国連海洋法)でいうところの「島」とは、人が住んでいるか、漁業など経済生活が営まれていなければならない。しかし、沖ノ鳥島には人も住んでいないし、経済生活もほとんど行われていない」(本書, p.242)と記している。而して(この記述自体は正しいのだけれども)領土主権の帰趨の判断に際して、その判断の理路において国連海洋法が占める位置と比重、そして、その位置と比重がなぜその程度であるのかの説明が欠落していては、本書の記述でもって沖ノ鳥島を巡る領土問題について何がしかを語れるようになるとは思わない方が無難でありましょう。

しかし、そのような奥行きのある説明を本書の如き薀蓄本に期待するのは、100円持ってマクドナルドに行き、フレンチのフルコースを期待するようなものではある。而して、一般向けの肩の凝らない薀蓄本と割り切れば、有象無象の類書に比べて本書はよくできた一書だろうと思います。

嫌がらせではなく、再度記しますが、国際法や国際政治を巡って、ある事柄の「理由の理由」や「原因の原因」はほとんど全くスルーされているにせよ、「南北アメリカ編」(第1章)から終章の「日本列島編」(第5章)まで、欧州、中近東・アフリカ、アジア・オセアニアと世界中の、しかも、(その領土問題に関わる土地の面積や住んでいる人口等、問題の深刻さや規模の大きさというよりも)領土問題が発生した理由の意外性に着目して62の事例をピックアップした著者のセンスとそれを平易かつ正確に紹介する手際は、「定価1,300円+消費税」の価格から見ても読者予備軍にとって損な取引ではないと思います。

蓋し、本書が取り上げている62の事例は、ある意味、国際政治や国際法に些か関心のある向きには既知のものばかり、鴨。しかし、尖閣諸島問題が(別にこちらは国際司法裁判所で結着をつけてもいいんですけどね)支那でヒートアップしているらしい現在、この62項目をまとめて反芻する機会が本書の購入または立ち読みによって得られれば、それは儲けものと言うべきでしょう。ちなみに、KABUは自宅最寄の、川崎市麻生区のスリーエフ百合丘3丁目店で購入しました。

ということで、KABUが面白かったと思った項目のリスト。立ち読みに便利(笑)

・なぜブラジルは大きいのか?(p.40)
・小説「最後の授業」の真実(p.80)
・国境のない国、マルタ騎士団(p.83)
・サウジアラビアの適当な国境(p.125)
・イランとイラクの国境問題-たかが川と侮るなかれ(p.128)
・西サハラはだれのものか?(p.146)
・マレーシアの奇妙な領土-国内移動にパスポートがいる(p.212)
・南樺太-日本のすぐそばにある帰属未確定地域(p.234)


ヽ(^o^)丿


尚、竹島問題の項目「竹島問題も難しい-今も続く韓国の実効支配」(pp.238-240)で筆者は、竹島の領土問題は「はっきりいって、日本に分が悪いのである。私は「もともと竹島が日本の固有の領土ではなかった」などといっているわけではない。その点で分が悪いのではなく、問題解決を現実的にみると分が悪いということなのである。国境の画定というものは、「そもそも誰のものだったのか?」ということより、「今実質的に誰のものか?」という観点から問われる場合が多い。その点でいうならば、竹島は現在、韓国の手中にある」と述べていますが、しかし、この記述には問題がある。蓋し、この指摘は、竹島問題・尖閣諸島問題・北方領土問題を考える上で、我が国の世論に欠けている、就中、保守派に欠けているある視角を提供している一方で、正直、この記述の箇所だけ取り出せばそれは明確な誤りです。

畢竟、前者の有意義な視角の提供とは、蓋し、白黒はっきり言えば、現在の国際法においては「固有の領土」なる概念は存在しないということです。そして、この記述が明確な間違いというのは、現在の国際法では「平穏なる実効支配の継続」が領土の帰趨を判定する上での決め手になる。つまり、「平穏なる実効支配の継続」の有無が領土の帰属判定における水戸黄門の印籠、遠山の金さんの桜吹雪、銭形平次親分の投げ銭であるということです。

すなわち、韓国は竹島を「実効支配」はしているが、日本の適宜な数次に亘る抗議によってその支配は、国際法上、「平穏なる実効支配の継続」とは看做されない。ならば、竹島の帰属は「平穏なる実効支配の継続」以外の要因、すなわち、その支配の履歴という二次的な資料で判定されるを得ず、言うまでもないことですが、その資料状況において竹島は210%とは言わないけれど120%日本の領土であることは自明。と、国際法上はそう考えられるのです。しかし、一読した限り本書に含まれる明確な間違いはこの一箇所くらいしかなかったの、出羽。

ならば、「お客さん、これは上出来ですよ」
大体、「本なんてそんなもんですよ、お客さん」


ヽ(^o^)丿


いずれにせよ、それが初歩的であれ、<国境>を巡る国際政治や国際法に関する広範な知識を、しかし、大体において正確に説明してある本書には好感をもちました。蓋し、国家の三要素といえば「国家=領土・国民・主権」と機械的に覚えてことたれりと済ますのと、本書で、例えば、領土なきマルタ騎士団やその国民が確定しずらい西サハラの事例をインプトすることは(イエリネックが国家の三要素の定義で何を言いたかったのか、国家を他のどんな社会的組織と区別したかったのか、近代の「主権国家=国民国家」とプレ近代の「国家」の違いをどういう点に認めたのかを自分の頭で一度反芻してみることは)我々の現前の尖閣諸島問題や竹島問題に日本人が取り組むに際してかなりの違いをもたらすであろう。このことは確実、と。そう私は思います。

ならば、本書は、畢竟、数年前に世間を騒がせた「腐った肉」「種類の違う肉」を混入した精肉加工業者、すなわち、「牛挽肉100%」と表示しておきながら、豚や鶏、羊、廃棄予定の肉、挙句の果てには鳥インフルエンザで価格が落ちた支那産鴨肉等々を製品に混入した北海道のミートホープ社よろしく、例えば、(「法の妥当性」「法の実効性」すなわち「法の効力」という用語の理解、他方、「法の支配」の原理の理解内容等々に馬脚を現している)憲法無効論や日本でのみ観察される「日本的なバーク保守主義」のような極めて特殊で論者独自の憲法や法哲学の理解の如く、(集団的自衛権と個別的自衛権を区別する等々)極めて戦後の日本に特殊な国際法や国際政治に関する知見をさも世界の定説でもあるかの如く書いて毫も恥じない類書とは雲泥の差がある。と、そう私は考えています。

尚、国境をワケありにする、近代の「主権国家=国民国家」というシステムとそのシステムを駆動するエナジーである所のナショナリズムに関しては下記拙稿を併せてご一読いただければ嬉しいです。本書とは違い、眠くなりますけれども。

(*・・)_☆⌒○ ← 記事講読案内のサーブ



・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html

・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59898544.html

・<中国>という現象☆中華主義とナショナリズム(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59895258.html







(2010年10月19日:英語と書評 de 海馬之玄関 goo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
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moshidora000


ためになるけれど肩の凝らない読書。これ本好きの至福の一つではないかと思います。本書、岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』(ダイヤモンド社・2009年12月)はそんな至福の数時間を与えてくれました。本稿は書評と本書の舞台と思しき日野市を探訪した報告です。

本書の舞台は、「東京の西部、関東平野が終わって多摩の丘陵地帯が始まる」(本書p.7)エリアにある架空の都立高校「都立程久保高校」です。ある事情から2年生の夏休み前に野球部の女子マネージャーになった「川島みなみ」が本書の主人公。程久保は多摩モノレール線の程久保駅の近辺、京王動物園線の多摩動物公園駅と高幡不動駅の間の地域。

そして、「大小さまざまな丘の連なる一角」にある程久保高校の校舎は、「見晴らしのよい高台の上に建っていた。教室の窓からは、遠く奥多摩の連山や、晴れた日には富士山まで見通せた」(p.7)こと。また、程久保高校は「進学校だった。偏差値は六十を超え、大学進学率はほぼ百パーセントで、毎年数名の東大合格者を出すほどだった」(pp.7-8)ことから、偏差値は若干足りないものの、本書の舞台である架空の都立程久保高校のモデルは程久保地区と隣接する日野市南平地区にある都立南平高校ではないかと思いました。

・都立南平高校
 http://www.minamidaira-h.metro.tokyo.jp/

架空の高校が舞台ですから南平高校と程久保高校には幾らか違いはあります。しかし、そういう想定を立てて、昨日、本書の<舞台>を散策してきました。私の連載記事「ウォーキングde新百合ヶ丘」の読者の方にはお馴染みでしょうが、日野市と新百合ヶ丘との位置関係については下の地図画像をご参照ください。

minamidaira1bs.jpg



■書評
最初に本書を読了した際に感じたことは「この程度の書籍なら自分でも書ける」というもの。けれど、本書を反芻していく中で、材料が同じだとしても自宅で作った牛丼と吉野家の牛丼には天と地の開きがあるように、やはり自分には書けないと思い返した。彼我の間には、正に、<マーケティング>において小さな一歩かもしれないけれど決定的な差がある、と。

推理小説ほどではないでしょうが小説のストーリーを紹介するのは掟破り。よって、必要最小限の粗筋をまとめると、それは大体次の通り。

①ある事情があり高校2年生の夏休み前にみなみは野球部のマネージャーになる
②みなみは野球部を甲子園に出場させる目標を持っている
③ドラッカー『マネジメント』にみなみが偶然出会う
④野球部は甲子園を目指すどころのレベルではないことをみなみは思い知らされる
⑤ドラッカー『マネジメント』を読み込む中でみなみは野球部を改革する
⑥魔法使いではないみなみの力で魔法のように野球部は強くなる
⑦・・・
⑧みなみはドラッカー『マネジメント』の意味を更に深く反芻する    


本書の粗筋は、みなみが『マネジメント』を読んでいることを知った、前々から経営学を自学自習してきた起業家志望の野球部員・二階正義の次の言葉に集約されているのかもしれません。「野球部の女子マネージャーが、野球部のマネージャーに。『マネジメント』を読んで、野球部をマネジメント・・・・」(p.49)、と。しかし、みなみと『マネジメント』の出会いはまったくの偶然。私は本書の成功は女子高生と『マネジメント』の組み合わせを無理なく演出したこの出会いの部分で半ば決まったように思います。本書で私の一番好きな箇所の一つ。少し長いですがその箇所を引用しておきます。

野球部のマネージャーになって、みなみがまず初めにしたことは、「マネージャー」という言葉の意味を調べることだった。それがどういう意味かということさえ、彼女はよく知らなかったのだ。そこで、家にあった広辞苑を引いてみた。(p.12)

次に、今度は近所の大型書店に出かけていった。・・・本屋さんまでやってきた彼女は、店員にこう尋ねた。「何か『マネージャー』、あるいは『マネジメント』に関する本はありますか?」

するとその若い女性店員は、一旦店の奥に引っ込むと、すぐ一冊の本を手にして戻ってきた。それを差し出しながら、彼女はこう言った。「これなんかいかがでしょうか? これは『マネージャー』あるいは『マネジメント』について書かれた本の中で、最も有名なものです。世界で一番読まれた本ですね。もう三十年以上も前に書かれたものなんですが、今でも売れ続けているロングセラーです」(p.13)

本を買ったみなみは、家に帰ると早速それを読み始めた。しかし、読んですぐに後悔し始めた。本の中に、野球についての話がちっとも出てこなかったからだ。それは、野球とは無関係の、「企業経営」について書かれた本だった。おかげで、みなみは自分にうんざりさせられた。・・・それでも、すぐに気持ちを切り替え、その先を読み進めた。せっかく二千百円も出したのだから、読むだけは読んでみよう。(p.14)   


moshidora10s.jpg

みなみが『マネジメント』を買ったと思われる書店候補の一つ

・啓文堂書店豊田店
 http://www.keibundo.co.jp/toyoda/

moshidora11s.jpg

JR豊田駅北口すぐの啓文堂書店豊田店さんにも「もしドラ」が!



『不思議の国のアリス』の著者ルイス・キャロルは、ヴィクトリア女王から「どうやってこんな奇想天外な小説が書けたのですか」と聞かれて、「チョッキを着た白ウサギが穴に飛び込む場面を思いついたら後は自然とお話ができてしまいました」と答えたとか。而して、本書もみなみと『マネジメント』のこの出会いから先は、名人の古典落語や団十郎の歌舞伎十八番と同様、予想通りの展開が豊穣であるにもかかわらず気持ち良いほど軽やかに進んでいく。次はそうしてストーリーが軽やかに滑り出した出会い直後の一文。

ところが、そうやって読み進めてみると、その本は意外に面白かった。また、単に「企業経営」についてだけ書いてあるわけではないというのも次第に分かってきた。そこには、企業を含めた「組織」経営全般について書かれていた。そして、それなら野球部に当てはまらないこともなかった。野球部も、広い意味での組織だった。だから、組織経営について知ることは、野球部の経営を知ることにもつながった。(p.15)    


これ以降、試行錯誤を繰り返しながらもみなみは、(1)「組織の定義づけ-顧客と事業の絞込み」、(2)「マーケティングとイノベーション」、(3)「専門家の戦力化」、(4)「自己目標管理制度の導入」、(5)「社会貢献」、(6)「人事戦略の断行」等々、『マネジメント』を導きの糸として野球部の改革を進めて行くことになります。而して、ビジネス書としてみた場合の本書のメッセージは、おそらく、

あらゆる経営学の著書と同じくドラッカー『マネジメント』も魔法の書ではない。『マネジメント』から魔法のような成果を引き出すためには、だから、読者が主体的に、つまり、自分が解決したい問題に引き付けて『マネジメント』を血肉化しなければならない。   


というありきたりのものに尽きていると思います。けれど、これまたありきたりな物言いだけれど、それは言うは易く行なうのは難しいこと。而して、この観点からは、本書が『マネジメント』から引用している、約17項目、細かく数えて40数箇所のドラッカーの言葉は、本書のコンテクストの中に置かれることで(要は、川島みなみという読者の分身を与えられることで)覚えるだけの知識からいつでも使える知識に血肉化しやすいものになっている。それは確実に言える。ならば、それは想定される読者層を本書がきちんと定義していることに他ならず、ここにも優れたマネジメントが発揮されている。蓋し、素人が吉野家に牛丼で勝つことは不可能に限りなく近い。本書を二回読了した今、そう私は考えています。



■探訪
JR登戸から分倍河原に出て、京王高尾線に乗り換え、お目当ての南平に向かいました。下は私が勝手に「都立程久保高校」のモデルと想定している都立南平高校。日曜日なのに部活が盛んでした。

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次に本書の重要な登場人物、みなみの幼馴染で同級生、かつ、1年生の時から野球部のマネージャーを務めている宮田夕紀が入院している市立病院。その市立病院にお見舞いに行く際にみなみが目にしたかもしれない風景。

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「終業式の日、学校を出たみなみは、家には帰らず、バスを乗り継いで市の中心部にある大きな総合病院へと向かった。そこに入院している友人を見舞うためだ」(pp.19-20)

「二時間後、みなみは市立病院の玄関を入ったところにあるロビーにいた」(p.227)   


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みなみも乗ったと思われる南平高校と市立病院方面を結ぶバス



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尚、「程久保」「南平高校」「①日野市立病院」「②啓文堂書店豊田店」の位置関係に関しては次の地図を参考にしてください。

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本書『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』を読んでもう一つ感心したことがあります。それは、「野球部を甲子園に出場させる目標」をみなみは『マネジメント』と出会う前にもう明確に意識していたということ。しかも、このことはみなみと野球、みなみと野球部との関わりが明らかになるにつれ非現実的なものではないと読者に感じさせる本書の構成です。

マネージャーになったみなみには、一つの目標があった。それは、「野球部を甲子園に連れていく」ということだった。彼女はそのためにマネージャーになったのだ。それは夢などというあやふやなものではなかった。願望ですらなかった。明確な目標だった。使命だった。みなみは、野球部を甲子園に連れて「いきたい」とは考えていなかった。連れて「いく」と決めたのだ。(pp.5-6)   


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実は、「実現できない目標は夢ではなく妄想である」「実現可能な目標を意識させ、その実現のためにステップ・バイ・ステップで進ませることが教育である」と。これが広い意味の教育産業に従事している私の持論ですが、この「目標の自己管理指導」を巡る私の経験からも、明確な目標を既に抱いている主人公が『マネジメント』に出会って以降の展開。「砂漠に水を与えるが如き」、そして、「鬼に金棒の如き」みなみの急激なレベルアップとそんなレベルアップしたみなみの魔法のような野球部改革の成功はリアリティを備えている。本書の状況設定はつくづく見事だと思います。くどいですが、やはり素人が吉野家には勝てん、とも。本書のご一読をお薦めします。



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(2010年5月10日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 地方再生
ジャンル : 政治・経済




【解題】

satti姉さんの記事。本当は解題不要でしょう。暴言ではなく、少なくとも、NHKを国営放送にすべきであると確信します。政府を批判するメディアは自由にその活動をしていいけれど、政府の立場を発信するメディアがないという状況は、民主主義を歪にする。と、この記事を読んでもそう痛感するからです。

尚、この社会の報道を巡る問題に関しては下記拙稿をご参照ください。

・マスメディアと政治の適正な関係を実現するための覚書
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58543388.html



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◆一年前の週刊朝日・・・国民洗脳の日々

病院に見舞いに行って、そこで暇つぶしに週刊誌を読んだ。
なんと、昨年の7月の週刊朝日。
いつもなら、あげるといわれても読まないのだが、清掃の為、病室に入れず、
仕方なく暇つぶしに読んだのだ。

麻生太郎氏は、史上最低の首相だ云々と、だらだらと悪口が書いてあった。
どんなことが書いてあるかと読んだが、結局、麻生氏のどこがどう悪い政治なのか
さっぱり理解できなかった。
屋山太郎氏という方が、あれこれ批判しておられた。
何度読み返しても、麻生氏のここが悪いというのは、記事のどこにも書いてないというか、
必死に貶そうと躍起になっているとしか思えない記事だった。
一年後の今読めば、陳腐でしかないが、当時は政権交代教の呪文に、日本が惑わされていたので、
内容のない麻生叩きも、真実味があるように錯覚した人が多かったのだろう。

朝日は、恥ずかしくないんだろうか。
あれから一年以上たった。
鳩山氏、菅氏、共に、麻生氏など足元にも及ばない失政のオンパレードなのに。
この二人こそ、まごう方なき、史上最悪の総理大臣だろう。
普天間基地問題は、袋小路に入りこみ、アメリカとの関係が悪化した。
日韓併合百年の、売国的謝罪、尖閣諸島問題での、腰砕け土下座外交。
子ども手当、高速道路無料化の、マニフェスト違反。
ど素人でも、はっきりと指摘できるほどの失政を重ねている。

週刊朝日さん、よくはずかしくありませんね。
失政というほどのものもなかった麻生氏を、あんなに叩きまくったこと。
一年前の週刊朝日、これこそ、無能民主党政権誕生に向けての、マスコミの、
国民洗脳の日々の記録だった。


転載元:
http://blogs.yahoo.co.jp/rrtjx752/61802332.html





(2010年10月18日:iza版にアップロード)

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テーマ : 報道・マスコミ
ジャンル : 政治・経済

煙草姉さん


【解題】

ブログ友のPONKO姉さんの記事です。そう、保守系最大ブログの「反日勢力を斬る(2)」からの転載。要は、情報拡散という意味ではこの転載はほとんど全く意味のない行為。しかし、2010年の10月のこの社会の政治を巡る風景を記録するべく、また、その目的のためには好個の記事と思い転載させていただくことにしました。

而して、このブログ的には重大な方針転換の表明。
  ↑
こんなマイナーブログがどう方針を変えようが、
世間的にはなーんも影響はないんですけどね(笑)

蓋し、この海馬之玄関ブログで私は今まで、(民主党批判は当然の塔子ちゃんと禅乃介君だけれども)その民主党の悪政、というか、「政治」という言葉の水準に達していない政治ごっこに延命を許しているものは、「民主党も酷いが自民党政治への回帰だけは勘弁!」という国民の皮膚感覚の叫びを理解することができず、政権交代から1年を経た現在においても受け皿足りえない自民党にむしろ問題があると主張してきました。正直、下記拙稿の中で数次に亘り展開してきたこのような認識が間違っているとは今の今も思いません。

・民主党政権の誕生は<明治維新>か<建武新政>か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59444639.html

・自民党解体は<自民党>再生の道
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59586792.html

・自民党<非勝利>の構図-保守主義とナショナリズムの交錯と乖離(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59722931.html


畢竟、歴史的な帰結としては縁起があんまりいいとは言えないのですが、華北・華中に蟠踞する数多の軍閥や支那共産党を粉砕して、所謂「北伐」による統一政権の樹立の後の対日抗戦を考えた蒋介石総統に倣い、どうせ民主党政権は岩にかじりついてでも向う3年間は総選挙はしないだろうから、自民党は、寧ろ保守系市民を巻き込み党内外で徹底的な路線論争を行ない、向う10年~30年の日本の経済構造と社会構造のイメージ、そして、そこに至る各ステージのビジュアルなイメージを党の経済・財政政策の形で明確にするに如くはないと考えてきたからです。

それに対して、現在の自民党執行部は、曲がりなりにも民主党は、空理空論&お子様ランチながらそれを提示して<8・30>に結びつけた、経済財政政策・産業構造改革、公務員改革について、党再分裂を恐れるあまりか議論停止の状況にあり、棚ボタ・敵失での政権奪還を期待しているだけ、と。実際、自民党は小泉構造改革に対する総括さえまだ作成できていないではないか、と。ならば、再度記しますが、民主党の悪政、否、民主党の非政治的政治が続いて1年、この期に及んでも受け皿になりえない自民党に関しては、「自民党の改革=谷垣執行部の刷新」こそ焦眉の急である。と、そう考えてきたということです。

しかし、私は説を改めます。
上のような認識を改めるのではなく、新たな認識を加えるべきと考えたゆえに、
それら、拡大された新旧の認識の上に、説を改めます。

現執行部の拙い言動には叱咤激励を遠慮すべきではないとしても
この期に及べば、原則、熱烈に自民党を支持するに如くはない、と。
而して、この期における自民党の支持とはすなわち現執行部の支持である、と。
そう、私は説を改めます。


畢竟、

①グローバル化の昂進著しい、②行政権の肥大化傾向が避けられない福祉国家の、
③大衆民主主義社会の政治においては、

どんな意味でも政治や政党に余り多くを期待するのは、要は、ないものねだりである。畢竟、見通しの良い白黒はっきりした、しかも、世間を奪還の暁にはそくそれを実現可能な具体性を帯びた経済・財政政策の作成というのは理想であるが、多様な利害が錯綜する問題でそれを政党に求めるのは非現実的とはいわないがほとんど不可能に近いの、鴨。ならば、それを自民党に求めるのはある意味、民主党の「政権交代=政権交代した何もかもが変えられる」という催眠術にこちらもかかっているようなものではないか。そう思い始めたのはあるブログで次の二行を目にしたことが大きい。それはsatti姉さんの言葉。すなわち、

>谷垣自民に対するもどかしさ・・・それは他の総裁でも同じでしょう。
>野に下るとはそういうことですよ。何一つ、思い通りにならない。


・バッシングだらけの日本
 http://blogs.yahoo.co.jp/rrtjx752


この2行は深いです。而して、そういう目で見れば、何もかもが思い通りにいかない野党の身で谷垣現執行部はそれなりにやっているではないか、と。そう思うに至ったのです。自分の抱く理想に固執して現状を看過するのは、反民主党的の勇ましい態度・心性に見えて、実は、民主党の悪政・非政治的政権運営を利する三猿的の態度・心性でさえある、と。而して、今後、弊海馬之玄関ブログは、(もちろん、拙い所は遠慮なく叱咤激励することを躊躇しないものの)基本的には大枠、自民党現執行部支持の立場に立ちます。以下、PONKO姉さんの記事の転載。


б(≧◇≦)ノ ・・・打倒、民主党!
б(≧◇≦)ノ ・・・自民党頑張れ! 
б(≧◇≦)ノ ・・・自民党現執行部支持!
б(≧◇≦)ノ ・・・「麻生総理」come back!
б(≧◇≦)ノ ・・・「麻生総理」断乎支持! 頑張りましょう。



三猿2


◆民主党政権存続こそが「最大不幸社会」


産経でなくては読めない記事

産経新聞の長野支局長が民主党政権に激しい怒りをぶっつけている。
これほどまでに政権に厳しい批判を加えた記事は最近見たことがない。
だから産経新聞が時々ブレてもやめられないのである。
乙に構えて一流紙を自認する朝日新聞も見習うべきである。
反日サヨク新聞には無理な注文ではあるが・・・

別に自民党に肩を持つ気はないが、民主党議員はなにかというと不都合な現状を過去の自民党政権のせいにするのが許せないと常日頃思っていた。長野支局長もそう思ったと見えて痛烈に批判していたので溜飲を下げた。

産経新聞の地方版のコラムが敢えて地元のトピックスを論じないでニ回に亘って時の政府を批判したのは私達と同じ危機感を共有しているからだ。この記事を読んで産経新聞の購読者が増えれば日本もまだ捨てたものではないと希望が持てるのだが。

民主党政権存続そのものが日本を「最大不幸社会にする」と切って捨てた論評をまだお読みでない方のためにご紹介する。


三猿3


◎産経ニュース(2010/10/17 19:04)
日本国民にとっての「最大不幸社会」とは民主党政権の存続そのものだ!


【笠原健の信州読解】
「のど元過ぎれば熱さを忘れる」とのたとえ通り国内の様子をみていると、日本の朝野を震撼させた中国漁船による尖閣諸島への領海侵犯事件もなにやら忘却のかなた、といった感がしないでもない。菅直人内閣は日中防衛相会談を行ったり、日中首相会談を画策したりと、日中関係が何とかうまく行っているかのように取り繕うのに懸命となっているが、覇権主義に基づく中国の膨張政策はいささかも変わるはずがない。媚中政策を推し進めようとする民主党政権が存続することは、日本がさらに危うくなることを意味している。

この記事のタイトルは「信州読解」。前回、中国漁船による尖閣諸島への領海侵犯事件のことを取り上げたにもかかわらず、今回も長野県のことには全く触れようともしないのか、とおしかりを受けるかもしれない。しかし、今この問題を直視しないようでは、日本の言論人として失格である。サッサと筆を折った方がいい。

「『後の世代に解決を託そう』といったト(=登におおざと)小平の知恵に今こそ学ぶべきだ」「いずれは中国も日本との関係改善を模索するはずだ」「胡錦濤国家主席ら中国共産党指導部が強硬な態度を取ったのは、国内の対日強硬派を意識せざるを得なかったからだ」としたり顔で解説する向きがある。だが、こうした論には一切くみしない。

中国がベトナム、フィリピン、インドネシアなどを相手に南シナ海でやってきた行為をみれば、こんな主張はまったく根拠がない、いいかげんなものだということがすぐに分かるはずだ。

北沢俊美防衛相は中国の国防相との会談実現に躍起となったが、そんなことに汗を流すよりも侵略の意図をむき出しにして迫ってくる中国とどうやって渡り合っていくのかということについて、ベトナムやフィリピンなどから辞を低くして教えを請うべきだろう。菅直人政権の人権意識の低さにも驚く。菅首相は14日の参院予算委員会で、ノーベル平和賞の受賞が決まった中国の民主活動家で服役中の劉暁波氏について「釈放される方が望ましい」と述べたが、中国政府に直接要求するかについては言及しなかった。普遍的な理念である基本的人権に関する事柄でなぜ、共産党一党独裁の中国に直言できないのか。

日本の政治家の中には中国公安当局が仕掛けたハニートラップにはまって売国的な行為をする者もいるという。まさか菅首相がこの卑劣なわなにかかってしまったとは思いたくもないが、あまりにも情けない姿勢に、「もしや?」という疑念さえも浮かんでしまう。

菅首相は「最小不幸社会」の実現を目指す考えを示しているが、国家の名誉や威厳をいささかも顧みることがない民主党政権が続けば続くほど、国家の存立基盤はいよいよ破壊されてしまう。民主党政権そのものが日本に「最大不幸社会」をもたらす。

国会論戦をみていても全く情けない。民主党議員から「自民党政権の政策によってここまで財政状況が悪化した」「自民党の政策によって年金政策はゆがんだ」といった言葉がよく出てくる。

陣がさ議員なら、われわれはその資質の低さを嘲笑していればいいが、衆参両院本会議場のひな壇や衆参の予算委員会の政府委員席に居並ぶ閣僚クラスからこんな言葉が出てくるのは看過できない。政権与党としての矜持がまるで感じられないからだ。こんなことを言うぐらいのなら政権を今すぐに返上すればいい。(長野支局長 笠原健)


転載元:
http://blogs.yahoo.co.jp/nipponko2007/36308425.html


三猿1




(2010年10月18日:iza版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済

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めぐろのさんま【目黒の秋刀魚】
落語の一。ある殿様が鷹狩りの途中、目黒の農家で供せられたさんまの美味が忘れられず、後日家臣に所望したところ、蒸して脂を抜いたりしたためすこぶるまずく、「さんまは目黒にかぎる」といった話。(広辞苑)

目黒のさんま(めぐろのさんま)とは落語の噺の一つである。さんまという下魚(低級な魚)。これを産地から離れた場違いな場で無造作に調理したものが美味く、丁寧に調理したものはかえって不味いという滑稽噺。落語界の中では秋の噺としてよく知られている。成立時期は不明。3代目三遊亭金馬が得意としていた演目である。(wiki)



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国際法上は実はそこに「領土問題」など存在しない尖閣諸島の領有権を巡り、例によって白髪三千丈のあの国では反日デモが盛り上がっているらしい昨日、例によって日課のウォーキングとラジオ体操もすまして寛いでいたら重大なことに気づきました。

あっ、「昼食の麻婆豆腐に入れる豆腐が切れてたよぉー!」、と。

孫子曰く、「知彼知己者、百戦不殆」。
そう、孫子が言うとおり「敵に勝つには敵と己を知らねば」、ならば、医食同源(?)
蓋し、この反日国に勝つには中華料理に限る。
ということで、「今日のお昼は麻婆豆腐、中食は中華三昧四川風!」に決めていたのでした。

そこで、例によって最寄のスーパー三和百合丘店に出撃。
と、その途中というか、自宅のある町内の公園なのですが、地域興しのイベントに遭遇。

これです。

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よさこい祭りとならんで、最早、全国的に秋の定番イベントになった感のある「さんま祭り」ではないですか。そう、より正確に言えば「目黒の秋刀魚祭り」@百合丘とでも呼ぶべきもの。

ちなみに、その「秋刀魚祭り」の本家というか、鉄の生産におけるヒッタイト、小麦の生産における肥沃な三日月地帯、要は、文化伝播の発祥地は、もちろん、目黒。wikiによればこんなことらしい。

落語の「目黒の秋刀魚」の噺にちなみ、1996年9月に目黒駅をはさんで「目黒のさんま祭り」「目黒のSUNまつり」という2つの祭が生まれた。前者は品川区上大崎の誕生八幡神社付近、後者は目黒の区民祭の一環として目黒区内の田道広場公園付近で開催される。古くから「目黒」と呼ばれてきた目黒駅界隈の大部分が現在は品川区に属していることからこのような事情となった。

2つの祭りは、毎年開催日がずれており、双方とも楽しむことができる。開催日がずれる最大の理由は、品川区上大崎の「さんま祭り」が岩手県宮古、目黒区の「SUN祭」が宮城県気仙沼で水揚げされるものを使用するためであり、それぞれの旬にあわせて1 - 2週間ずれている。どちらも露天の下で焼かれたサンマが無料で振舞われる。   


б(≧◇≦)ノ ・・・なるほどぉー!

1996年と言えばバブル崩壊の後のこと。東京の下町も、文字通り、「あの猛威を振るった地上げの嵐はどこいったの」の状況だった頃。そんな、「バブル敗戦後の焼け野原」状態の中でこの地域興しイベントは始まったのですね(★)。そして、二つの目黒の秋刀魚祭りは、現在では「目黒のさんま祭、食べるのに3時間待ち!」とかの報道も目にするくらいのメジャーなイベントになった。而して、よさこい祭りとは違い、(火を使い食べ物を供する以上、消防署と保険所関連の手続はあるにせよ)そう大仰な設備もいらず、ほとんどフリマの乗りで実施できるこの「秋刀魚祭り」は全国に伝播普及したのでしょうか。そんなこと考えてしまいました。

★参照記事:

・B29とバブルと地方の再生☆地方再生を賭した自民党総裁選
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-69.html




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上の画像は、イベント開始30分前の午前10時ちょい過ぎ頃の百合丘1丁目の風景ですがもう「長蛇」とは言わないけれど「中蛇の列」(あっ、ちなみに、このシリーズの記事でも何度かメンションしたことですが、川崎市麻生区には「百合ヶ丘」という地名はありません。あるのは「百合丘」で「ヶ」は不要なのです。ただし、小田急線の駅名は「百合ヶ丘駅」「新百合ヶ丘駅」。ですから、小田急新百合ヶ丘駅や百合ヶ丘駅を中心とした地域を漠然と指す場合には「新百合ヶ丘エリア」「百合ヶ丘エリア」とこのブログでは呼んでいます)。閑話休題。

主催者側も、早くもスタートダッシュで(←大体、スタートダッシュは「早い」ものだと思いますが)秋刀魚焼きに全力投入です。

その秋刀魚さんはこんな感じ。

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ところで、KABUの本業の語学教育の観点からは、「秋刀魚祭り」の呼称は「語句の形態と意味の変遷」(要は、語句を構成する単語の組み合わせと語句の意味の移り変わり)を考える上で興味ある事例だと思います。

目黒のさんま祭り
目黒のSUNまつり

つまり、「秋刀魚祭り=さんままつり」というのは、間違いなく、落語の『目黒の秋刀魚』を下敷きにして1996年に東京の目黒駅周辺で始まった。ということは(もちろんJR山手線を挟んで二つの「秋刀魚祭り」が同時に始まったのだから当初からその両者を識別する必要はあったにせよ)、元祖の二つの「秋刀魚祭り」に付けられている「目黒の」という限定句は、

①地域興しのための地域宣伝の意図
②イベントに由来を供給してくれている落語の『目黒の秋刀魚』を連想させる意図


の二つの目的を担わされたのでしょう。ということは、しかし、1996年当時は世界中というか銀河系中捜しても「秋刀魚祭り」はこの二つしかなかったわけですから、「目黒の」という言葉は、他の「秋刀魚祭り」と区別識別するためには不要だったということ。これは、1840年、世界で最初に郵便切手を発行した英国が現在でも切手に国名を表記していない事情に一脈通じるものがある。こういうことです。

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★註:英国の切手

英国は世界で最初に郵便制度を導入し、而して、1840年に世界ではじめて切手を発行しました。最初の切手にはビクトリア女王の横顔を印刷し識別としましたが当時、他国に切手はなかったので国名表記は必要なかったのです。

その後、他国でも郵便切手が漸次発行され、切手印刷に関する国際的なルールが必要となるのは当然の流れ。而して、1964年、郵便ルール統括国際組織である万国郵便連合(UPU)で、「1966年以降発行の切手には国名・地域名をアルファベットで表記するものとする」というルールが採択された。しかし、英国はこの採択に関して留保を付け、今でも女王陛下の横顔を識別とするだけで、国名は表記していないのです。   





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而して、我が街の(文字通り、私が住む百合丘1丁目の!)「さんま祭り」のこと。この「さんま祭り」を言語学的にはどう理解すればよいのか。つまり、なんで「秋刀魚祭り=さんま祭り」であって「百合丘の秋刀魚祭り」ではなく、また、正確に言えば意味的には本来そうあるべき「百合丘の「目黒の秋刀魚」祭り」でもないのか。これが私の興味を惹いた問題なのです。蓋し、これは二つの理由が重なったものではないか。そう考えています。すなわち、

(甲)普通名詞の固有名詞化
(乙)目黒の秋刀魚祭りのメジャー化にともなう「目黒の」の脱落  


(甲)「普通名詞の固有名詞化」というとなんか烏賊飯じゃなかった厳しいですが、要は、そのエリアに一軒しかないある種類のお店はしばしば屋号ではなくその商いの名で呼ばれるということ。

例えば、私が住んでいる川崎市麻生区百合丘1丁目と3丁目の道筋にはコンビニが1軒しかないのですが、そんな状況下では、誰も「コンビニのスリーエフ百合丘三丁目店に行って来るよ」などとは言わずに、「コンビニに行って来るよ」で済ますでしょう。そして、全国どこの町内でも、そこに1軒しかない八百屋さん、魚屋さん、クリーニング屋さんは、おそらくそれぞれ立派な屋号をお持ちでしょうが、お客さんは大体商売の種類を表す普通名詞でそれらのお店を呼んでいるだろうということ。

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(乙)の「目黒の秋刀魚祭りのメジャー化にともなう「目黒の」の脱落」というのは、日本で初めて、ということは銀河系で初めて「秋刀魚祭り」が始まった1996年からもう早15年。この間にTVで放映され雑誌に掲載されと、最早、「秋刀魚祭り」は、落語の『目黒の秋刀魚』を連想させる「目黒の」という形容句なしでも全国で(少なくとも、新百合ヶ丘エリアでは)、「目黒の秋刀魚祭り」を人々に連想させるくらいメジャーなジャンルのイベントになったということ。

これまた落語でお馴染みでしょうが、徳川家康の将軍宣下の際には(権威付けのため、また、源氏の氏長者と幾つかの役職がセットになっていたこともあり)「内大臣、従一位、征夷大将軍、源氏の長者、淳和奨学両院別当、兼右近衛大将、右馬寮御監」という、「寿限無」ほどではないですが、長い肩書きを朝廷からもらった。そして、前例踏襲が鉄則の時代のこととて、その後も、ほとんどこのタイトルを歴代14名の徳川将軍は宣下される。しかし、徳川将軍家の権威が確定した寛永年間(1624年~1644年)の後期には、徳川将軍家を指す際に誰もこんな寿限無的タイトルは使わなくなり、単に、「将軍」あるいは「大樹」「上様」という言葉で済ますようになった。このような経緯が(乙)の「目黒の秋刀魚祭りのメジャー化にともなう「目黒の」の脱落」ということなのです。

蓋し、これら二つの理由で「百合丘の「目黒の秋刀魚」祭り」は「さんま祭り」になったの、鴨。蓋し、このイベントは、(甲)百合丘町内のアットホームな、しかし、(乙)ジャンルとしてはメジャーな種類に属するイベントということ。とかとか、スーパー三和に行く途中でそんなことをつらつら考えてしまいました。下は、そのスーパー三和に売っていた(あっ、これも単に「スーパー」でいいの、鴨)秋刀魚君たち。

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ということで、今回の番外編、ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」はこれにてお仕舞いです。ご一読いただきましてありがとうございました。尚、今回の舞台、百合丘町内、そして、このシリーズの過去記事に関しては、ご興味があれば次の拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」:麻生川花見&総合目次編
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/608a9c0e185fa7a994299f5dabae8483

・ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」番外編:
 独断で選ぶ「新百合エリアで一番美味しい食べ物屋さん」
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9dffa16522b1af44fcf7c5c67c4664a7


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(2010年10月17日:英語と書評 de 海馬之玄関 goo版にアップロード)

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テーマ : 我が街☆新百合ヶ丘
ジャンル : 地域情報




「偏狭なるナショナリズム」なるものを批判する官房長官の不埒で不勉強な談話を耳にしてから、ネットサーフィンしていても、「ナショナリズム」「愛国心」に関するコメントが何気に目につきます。そんな中、あるBLOGで概略次のようなコメントに接しました。

与党側やマスコミの論調は「愛国心」の強要はいけないというものが多い。
誤解を恐れずに言えば、「愛国心は強制」するものである。
なぜなら「愛国心」をもつことは正しいことであるからである。
幼い子供のしつけには体罰を通して行うことが効果的(幼児はまだ動物と同じで善悪は体で教える)であると同様に、愛国心も正しいこととして強要すべきである。



◆愛国心の強制は当然か必然か?

私はこの主張に不満です。なぜならば、「誤解など恐れるまでもなく、「愛国心は強制」するもの」と私は考えているから。蓋し、「誤解を恐れずに言えば、「愛国心は強制」するもの」程度の理解でよいのなら、教育基本法の再改正等、民主党政権の文教政策における左翼反動の動向には監視をゆめゆめ怠るべきではないでしょうが、法規的には(教育公務員法改正等いくらか望まれることはあるとしても)、むしろ、現行の教育基本法と学習指導要領でほぼ十分であり、愛国心促進のための立法などは屋上屋を架す類のものであろうと思うからです。

蛇足になりますが、「誤解を恐れずに言えば、「愛国心は強制」するもの」という程度の理解でよいのなら、蓋し、むしろ、教育行政が解決すべき問題としては、日教組の跳梁跋扈や、その日教組教師も唖然とする無能力・不適格教師と、「学校=授業サービス付の託児所」と勘違いしている所謂「モンスターペアレント」や、これまた、そのモンスター達も首を傾げる無関心保護者の対応措置が焦眉の急ではないか。彼等、学校現場の機能障害要因に対してタイムリーでエフィシエントな措置を現場が取りやすくするための<武器=法規・予算・ALL文教行政のバックアップ体制>こそ肝心であろうかと思います。蓋し、日の丸・君が代問題などは納税に見合った適切な教育現場の実現という地味だけれど本質的な課題に比べれば寧ろマイナーなイシューにすぎない。閑話休題。

けれども、致命傷は1箇所でも致命傷たり得る。上に書いた日の丸・君が代問題に対する私の理解が満更間違いではないとしても、ならば、そんなマイナーイシューでさえ、石原都知事・小泉純一郎・安倍晋三という保守のBig Nameが、ラクビーに喩えれば、謂わば「モールとラックからの連続攻撃」を仕掛けなければ正常化できなかった現実こそ問題の深刻さの証左である。と、そう私は考えています。

ことほど左様に、この社会の<教育>が抱える重層的で深刻な問題状況を睨むとき、私は愛国心教育においてさえ、現下のこの社会の現状は、最早、「誤解を恐れずに言えば、「愛国心は強制」するもの」程度のゆるゆるの理解では駄目だ、と、駄目出しをせざるを得ないのです。

私は何が言いたいのか? 単なる言葉遊びか? 実際、この両者、

(甲)「誤解を恐れずに言えば、「愛国心は強制」するもの」
(乙)「誤解など恐れるまでもなく、「愛国心は強制」するもの」


の違いは何か。簡単です。それは、前者が、「「愛国心は大切だ」と国民の圧倒的多数が考えるような状況にしなければならない」という帰結につながるのに対して(けれども、どの世論調査を見ても安倍内閣が行った教育基本法の改正に60%~70%の「国民=有権者」が賛成していたことを想起するまでもなく、実は、そんなことはとっくに実現しています!)、後者は「愛国心は大切だという「国民=有権者」の認識に従い、愛国心を巡る教育改革は可及的速やかに実現されるべきだ」という主張につながる。

蓋し、自分の論拠を自ら否定するようですが、残念ながら「愛国心の価値を国民の圧倒的多数が認知している状態」という、明治初葉以来先人たちが蓄積してきた教育立国・日本の素晴らしい無形資産(intangible assets)は、民主党政権下で日々蒸発し目減りしている。ならば、(甲)(乙)の立場にかかわらず、日本国民は一刻も早い愛国心教育の改革の断行を政治に要求すべきなのと考えます。

以下、(乙)の主張を二つの点で補足します。それは、、(A)「愛国心が大切だなどは愛されに値する国なってから言いなさい」という類の主張への反論。他方、(B)現行憲法と愛国心の関連、すなわち、基本的人権と愛国心の強制が抵触する可能性の検討です。尚、愛国心とナショナリズムというものを大筋私がどう捉えているかについては下記拙稿を参照いただきたいと思います。

・再論☆国を愛することは恋愛ではなく人としての嗜みである
  http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59972670.html

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html


◆国家と愛国心

愛国心も、家族の情愛、郷土への愛着等々と同じく情念に属する感情をその基底に据えているでしょう。けれども、それら普通の情愛の心性とは異なり、愛国心はその(歴史的に特殊な)国民国家に属することだけを理由として、国民に忠誠と献身を求め、他方、アイデンティティーとプライドを供給するものです。

ところで、近代の「主権国家=国民国家」は人為的なものであり、ありていに言えば、人間の本性からは歪で不自然なもの。而して、国民を国家に社会的に統合するメンテナンスの作業は常に継続されなければならないのです。国民が社会の安寧秩序を享受し、他方、政治権力が国民の遵法を期待できるためには、間違っても他国に自国民が拉致されたまま30年以上も放置されることなどなく、また、排他的経済水域に眠る自国の天然ガス資源を他国に簒奪されるままにしてはならず、畢竟、国民の国家への帰属意識を国家権力は常に維持強化しなければならないのです。蓋し、このメンテナンスの不可欠性が、家族愛・地元愛・郷里愛と愛国心とのの最大の違いと言えるの、鴨。もっとも、家族愛さえそれを維持するためには家族間での相当な努力が必要なこともまた人生の真理ではあるでしょうけれども(笑)。

畢竟、愛国心とはそのメンテナンスを怠れば劣化するたぐいの社会的インフラである。誤解を恐れずに言えば(笑)、国家は、国民のために愛国心を国民に強制する義務がある。而して、この経緯は、当該の国家が国民に愛されるに値するサービス提供できているかどうかという、国家権力のパフォーマンスとは位相を異にする事態なのです。逆に言えば、愛国心の強要はある国家が<国民や市民から愛されるに値するパフォーマンス>を発揮しているかどうかの判定要因の一斑であり、属する組織に対する組織愛の強要は、民間企業や官公庁、NPOや任侠団体を含むあらゆる人為的な組織についても言える組織論的な法則(a law of organizational-behavior)である。と、そう私は考えています。

●愛国心は自然に発生するものではなく、
 まして、自然に維持されるものでもない
●国民から愛されるに値する国家になるためにも、
 国家権力は愛国心を国民に強制しなければならない
●愛国心の強制は国家の責務である



◆憲法と愛国心

このように愛国心を理解するとき、現行の日本国憲法を含む<憲法>の秩序と愛国心および愛国心の強制はなんら矛盾するものではなく、むしろ、愛国心は憲法秩序の枢要な一部であることもまた了解されるのではないでしょうか。実際、イエリネックの国家法人説に既に含意されており、法と国家の同一説の中でケルゼンが喝破したように、法秩序は国家の成立を前提にしているか、あるいは、憲法秩序と国家秩序は同一のものなのですから、この帰結は至極自然なものなの、鴨。

よって、左翼=リベラル派の論者がしばしば口にする議論、「愛国心の強制は戦前への回帰であり、日本を北朝鮮のような独裁国家にしようとするものだ」という類の議論は、ある意味正しくある意味間違いでしょう。すなわち、北朝鮮を含むすべての国は愛国心を強制しているのであるが、すべての国が「北朝鮮」というわけではないから。蓋し、北朝鮮の醜悪さの原因は愛国心に帰すものではなく、而して、愛国心においては、先の「偏狭なるナショナリズム」なるものを批判した官房長官談話に象徴される現下の日本社会の軽薄な傾向は、断乎、(愛国心と国家の関係に関して現在に続くグローバルスタンダードを踏まえていた)戦前の状態に可及的速やかに復旧されるべきなのです。

尚、注意すべきは、ここで言う「憲法秩序」とは、憲法典(=形式的な意味の憲法)だけではなく、「天壌無窮、皇孫統べる豊葦原瑞穂之国」という我が国の社会統合のイデオロギーを中核とする<憲法>(=実質的意味の憲法の体系)が具現している法秩序ということでしょうか。而して、国家権力の正統性と正当性の根拠を、所謂「国家契約説」的なロジックに求めるのか、あるいは、天賦人権論-個人の尊厳の価値の絶対性等々の自然権思想に求めるか否かに係わらず、国家秩序の事物の本性から、愛国心の価値と愛国心の強制の正当性は「歴史的-論理的」に演繹される。と、そう私は考えています。

繰り返しますが、端的にはアモルフで、かつ、ばらばらな諸個人を<日本国民>として社会的に統合し、そして、<国民国家日本=神州日本>に収斂する社会的統合を常にメンテナンスすることは憲法秩序が国家権力に要請するところと解すべきでしょう。而して、ハーバマスが唱えた所謂「憲法愛国主義」、すなわち、民主主義・基本的人権・平和・適正手続の価値による社会統合の正当化は、しかし、それらの高尚な諸価値が国家を超える普遍性を詐称している点で、逆に、日本の実存的な国家権力に対するこの憲法秩序からの要請に応える資格はなく、よって、「憲法愛国主義」は現実的のみならず論理的にも破綻しており、独り、伝統と文化の中で鍛えられ精錬され結晶した<政治的神話>、個別日本においては、<神州>のイデオロギーのみが<憲法>からのこの要請、「愛国心涵養=愛国心強制」の正当化の任を耐えうるのではないかと思います。

●<憲法>と愛国心は矛盾せず、
現行の日本国憲法と愛国心も矛盾しない
●否、愛国心は憲法秩序の枢要な一部であり、現行憲法の諸規定
(例えば、19条、20条、21条、26条)は「国家の愛国心強制の責務と権限」
と矛盾しないように解釈運用されなければならない



もちろん、国を愛さない自由も現行憲法19条および21条の保障するものです。しかし、北朝鮮や支那と同様、アメリカやロシアと同様、そして、英仏独伊や北欧諸国と同様、この国でも「国を愛することが正しいとされている」ということを国家は国民に周知徹底しなければならず、その施策と措置は毫も現行憲法と矛盾するものではない。畢竟、「誤解など恐れるまでもなく、愛国心は強制されなければならない」と。そう私は確信しています。





(2010年10月16日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済

あきちゃんだにょん


「偏狭なるナショナリズム」に民主党政権は組みしない。このような発言が恥ずかしげもなく官房長官という政権中枢からなされる等、愛国心を巡って、戦後のこの社会は不健康で重苦しい雰囲気に覆われている。私にはそう感じられます。蓋し、現下の日本では、

ナショナリズムや愛国心については、それらに価値を置く国民が存在するのは、民主主義社会でもあり表現の自由も保障されていることだから仕方がないとして、しかし、それらがマスコミ報道で好意的・積極的に取り上げられるのは、まして、政治において、就中、外交や教育といった国の根幹にかかわる領域でナショナリズムや愛国心が政策を誘導するが如きは政治の大衆迎合主義であり許されるべきではなかろう


といった主張が<社会の公式見解>とされている節がなきにしも非ず、鴨。而して、現在の日本社会を「不健康」と評するのは、この<公式見解>が国民世論とはかけ離れたものと考えるからです。蓋し、(皇室と靖国神社に寄せられる国民の畏敬尊崇の誠は言うに及ばず)例えば、各種スポーツの国際大会で日本選手に送られる声援、あるいは、教育現場における「国旗・国歌を巡る適切な取り扱いを促す行政の指導措置に対する数多の憲法訴訟に粛々と下される合憲判決、その判決に寄せられる国民世論の圧倒的な支持を想起すれば、世論と<公式見解>の乖離分裂云々は独り私の悲観的妄想とは誰も言えないの、出羽。

本稿は、愛国心に関して戦後民主主義を信奉する側のある典型的な主張を俎上に載せるもの。すなわち、「愛されるに値する国になれば愛国心など国民の間で自ら澎湃と湧き上がってくる。ならば、愛国心を強制するなど愚の骨張である」という主張の粗雑さを咎めるもの。而して、本稿の理路の根拠、逆に言えば、左翼・リベラル派の愛国心批判の根拠自体に対する検討については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html

・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59898544.html

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59891781.html


◆権力的言説としての「愛国心=不必要悪」論

ミシェル・フーコーが喝破した如く、一般的に専門家の言説は(素人を沈黙せしめる権威を帯びるという点で)「権力的」です。ならば、なにがしかの専門的な知見の帰結としてそれが語られてきたとあれば、憲法や社会思想に不案内な大多数の国民にとって上に述べた如き<公式見解>が世論を沈黙せしめる権力性を纏ったとしてもそう不可思議ではないの、鴨。

いずれにせよ、世論から乖離した<公式見解>が半世紀以上も流通している構図は民主主義社会においてそう健全な姿ではないのではないか。否、蓋し、愛国心を巡る現況は、陰鬱で不健全・不健康のみならず、不条理かつ正義に反する事態である。なぜならば、この<公式見解>自体には、現在の社会思想の水準から俯瞰するとき、実は、そう確固たる根拠が備わっているとは到底言えないからです。以下、敷衍します。


国家を「期間限定の必要悪」と看做し、「国家の死滅」を喧伝していた社会主義の方が、最早、歴史の遺物になってしまった現在、親亀こけたら小亀もこけたよろしく戦後民主主義の論者(すなわち、左翼と隠れ左翼を主力とするリベラル派、つまり、民主党政権の幹部や朝日新聞)が唱えてきた、愛国心批判、畢竟、謂わば「愛国心=許容値内では禁止不要な、単なる、不必要な悪」と看做す認識もまた、「歴史的-論理的」にその根拠を喪失したのだと思います。

◎愛国心=許容値内に限り禁止不要の不必要な悪?


ならば、「国家=必然的に死滅すべき期間限定の必要悪」という、その<専門家的認識>の基盤が破綻している状況で、専門的には破綻している論拠を掲げる専門家の<権力>が社会全体を引き続き覆っているという図は「不健康・不健全」を通り越して、正に、「不条理かつ非道」と評するしかない。蓋し、それは、カフカの文学やダリの絵画の(あるいは、諸星大二郎さんのマンガの)好個のモティーフになる類のものである。と、そう私は考えています。


◆「愛国心=不必要悪」論の亜種-自由恋愛型愛国心論

冒頭にも記した如く、戦後民主主義側のある論者は愛国心と国家の関係についてこう述べています。

民主主義の国では、主権者である国民が統治の仕組みを決め、選挙で選んだ代表を通じて国を治める。どういう国をつくりたいかはそれぞれ考えが違うだろうが、自由に意見をたたかわし、妥協が必要なときは妥協して、社会をつくり、国をつくっていくのである。みんなが参加してつくった民主的な社会や国だからこそ、そこに愛情が生まれる。国民一人ひとりが尊重され、その意思が反映される国ならば、愛国心は自然に生まれ、育っていく。国を愛せ、と一方的に教えるだけで愛国心が育つはずがない。(中略)自分の国をどう愛するかは、人によってそれぞれ違う。(中略)国の愛し方を一方的に決めつけるようでは、ゆがんだ愛国心になってしまう。(引用終了)


これは、教育基本法改正が現実味を始めた平成16年6月17日付け、ある意味、彼等が戦後最も真剣に「愛国心反対」を世論に訴えていた時期の朝日新聞社説「教育基本法――愛する国とはどんな国」からの引用です。而して、正に、これ一種の「自由恋愛型愛国心論」、より正確に言えば、「愛されるべき国家」と「愛される資格のない国家」に国家を二分した上での「個人主義至上主義の自由恋愛型愛国心論」の宣言でしょう。すなわち、

「国家が民主主義的であり、国民の意に沿う政治が行われているのなら、国家への愛は自ずと芽生える。ただし、国の愛し方は人それぞれ。ならば、愛国心の強制、まして、国の愛し方まで画一的に強制するなど寧ろ愛国心を歪めるものだ」、と。


而して、もし、この社説に対する理解が満更我田引水の類ではないとすれば、蓋し、この社説の主張は、世界は自分を中心に廻っていると考える「子供」、あるいは、支那人や韓国人の心性と親近的と言えると思います。


◆愛国心は自然なものでも必然でもない

文化人類学的観点からは、国家は本質的に人間存在にとって非本質的存在です。畢竟、在日韓国人がメンタリティー的には100%日本人であるのと同様、100%日本人のDNAの子供でもアメリカでアメリカ市民の子として育てばそのメンタリティーは100%アメリカン。

また、法学的な観点からは、①ケルゼンが喝破した如く、国家とは法的な権利義務がそこにタグ付けされるための「目印-帰属点」にすぎず、他方、②ゲルナーの言うとおり、近代の「主権国家=国民国家」が、歴史的に特殊な存在であり、日本を含むすべての国で、近代の「国民国家=民族国家」のかなりのパーツが人為的な造作物であることは自明。よって、③国民から見れば国家は便宜的なものでありベネディクトが規定した如く「想像の共同体」にすぎないのでしょう。

国家は人間存在にとって自然なものではない。ならば、それを愛することが自然に涵養されるなど期待すべきもないことではないでしょうか。それは、自分の意志と無関係に与えられた運命であり、帰属点であり、歴史的に特殊な人為的の造作物であり、想像の共同体なのですから。蓋し、このような疎遠で不自然な対象を愛することなど(換言すれば、自分よりも大事にすることなど)、どう見てもかなり異常な事柄なのだと思います。畢竟、愛国心とは総て「ゆがんだ愛国心」でしかないのです。

ならば、朝日新聞の社説子が言うように、ある条件が与えられれば「愛国心は自然に生まれる」などと語ることは詐欺師の手管か狂人の戯言、あるいは、その両方でしょう。白黒はっきり言えば、本質的に異常な事態である愛国心を自由恋愛とパラレルに捉えることで、その一部を正当化する議論はその初手から<北斗の拳>である。と、社会思想的にはそう評するしかないのです。


◆愛国心の尊重は自然であり必然である

蓋し、愛国心自体は自然でも必然でもないが、愛国心の尊重は自然であり必然でもある。蓋し、愛国心は恋愛の情ではなく大人同士の嗜みである、と。ならば、国家に対して、個々の国民がどんな感情を抱いているかということと、社会的に愛国心が要求されることは位相を異にしている事態なのです。敷衍します。

アリストテーレースが喝破したごとく、「人間は社会的な動物」でしょう。蓋し、国家は、人間が人間として自分に与えられた生態学的社会構造(自然を媒介として人と人とが取り結ぶ社会的諸関係の総体)の中で社会生活を営む上で不可避な存在。すなわち、動物行動学の用語を借りれば、国家は人類の「拡張された表現形」に他ならず、そのような不可欠でありながらも本質的に疎遠な国家と人間が共生するために編み出された文化的な知恵こそ<愛国心>に他ならない。と、そう私は考えています。

簡単な話。要は、木枯し紋次郎は上州新田郡三日月村出身の無宿人ですが、無国籍者として生きてく生活力があり、加えて、並み居る主権国家やテロリスト集団から自力で自分の身を守ることのできるゴルゴ13のような特殊な人間でもない限り、人間は、「愛国心を持つことは尊いことだ」という価値観と行動様式を後天的に学習しなければ生きても行けず生きて行く資格もない存在ということです。

換言すれば、国家がいかに疎遠で不自然な存在であれ、愛国心の価値は毫も否定されることはない、ということ。ならば、()「()「()「()「国を愛すること」は大切なことだ」とされていること」がこの社会の正統な意識であること」、あるいは、()「()「この国には()「()「国の愛し方」に関する緩やかではあるが伝統に裏打ちされた一定の型」が存在していること」が社会を構成する人々の間で共通の了解になっていること」という愛国心を尊重する態度を巡る重層的命題と、例えば、「自分の国をどう愛するかは、人によってそれぞれ違う」という命題は何ら矛盾しない。後者は単に愛国心を巡る重層的な言説の第一階層()に関するある日本人(多分?)の主観にすぎないのですから。

而して、この社会では、誰であれ愛国心を批判する自由を持つ。けれども、誰であれ、諸外国と同様に、この国もまた愛国心が尊重されている社会であることは知らなければならない。ならば、その国籍で差別されることなく、日本で学ぶすべての子供達は、この社会の愛国心を巡るルールとマナーを厳しく躾けられ強制されるべきである。そう考えれば、愛国心の涵養は子供達がこの社会でよりスムースにノイズ少なく生きていくことを支援するための不可欠な<カリキュラム>と言うべきでしょう。畢竟、冗談でも揶揄でもなく、蓋し、愛国心の涵養は、その26条で社会権的基本権としての教育権を保障している現行の日本国憲法の要請でさえある。と、そう私は考えています。








(2010年10月14日:yahoo版にアップロード)

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ジャンル : 政治・経済




記事案内記事。別に、誰からかご要望があったというわけではありませんが、海馬之玄関の「国家論・憲法総論・社会思想」の記事リストをアップロードさせていただきます。社会思想論6本、社会思想方法論6本の合計12本。加えて、社会思想の各論についての記事10本(人権から国家にアプローチした記事、政治制度から国家にアプローチした記事、各5本)。これで、海馬之玄関ブログの世界、KABUの考えている社会思想の全体像を「鳥瞰」というほど体系的ではないけれど、「俯瞰」または「通観」はできる、鴨。

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楽屋裏を明かせばなんのことはなかとです。「そんなリストがあれば、新しい記事書いたとき、参照記事URL捜すのに便利じゃないかい」と思いついただけのこと。そして、次に、どんな記事書くか考えるときも、「そんなリストがあればどの<戦線が手薄>か分かって参考になるんでないの」、と。

要は、「KABUによるKABUのためのKABUの記事リスト」。しかし、このブログ記事を読んでいただいている際に、記事の主張の基盤というか背景というかが、このリストを使えばより明確にはなるわけで(少なくとも、筆者本人が「これが私の考えていることの大枠です」と言っているリストが存在する以上、それが嘘でも本当でも著者は言い逃れができにくくなるわけで)、そういう意味では、「潜在的」または「副産物的」にはですが、このリストにはこのブログの記事をより理解しやすく、少なくとも、よりフェァーで透明性の高いものにする機能も少しはあるの、出羽。と、そう思いアップロードすることにした次第です。



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<社会思想論-国家と社会をどう考えるか>

・政治と社会を考えるための用語集(Ⅴ) 国家
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/1530165.html

・民主主義とはなんじゃらほい(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/53753364.html

・人権と民主主義は国境を越えるか(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/53973044.html

・戦後民主主義的国家論の打破☆国民国家と民族国家の二項対立的図式を嗤う(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/36117902.html

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59308240.html

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879748.html

<メタ社会思想論-国家と社会を考えることをどう考えるか>

・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59898544.html

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59891781.html

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html

・政治と社会を考えるための用語集(Ⅳ) 歴史
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/1325177.html
 
・左翼にもわかる歴史学方法論☆沖縄「集団自決」を思索の縦糸にして
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59882299.html
 

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<神は各論に宿る-人権領域>

・政党政治における国民主権原理と外国人の政治活動の自由の交錯
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59878521.html

・公務員労組と公務員の政治活動を巡る憲法論(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59383691.html

・完全攻略夫婦別姓論要綱-マルクス主義フェミニズムの構造と射程
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59250899.html

・女系天皇は憲法違反か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879735.html

・「核なき世界」なるものを巡る日本と世界の同床異夢
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59797305.html

<神は各論に宿る-政治制度領域>

・「ねじれ国会」の憲法論と政治論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59884108.html

・派閥擁護論-派閥は政党政治の癌細胞か?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59888254.html

・政治主導の意味と限界
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59888125.html

・政党政治が機能するための共通の前提
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59892102.html

・集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59856822.html


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(2010年10月14日:英語と書評 de 海馬之玄関goo版にアップロード)

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昨年、関東在住の仲間と参加した「さきもりまつり」。今年ももうすぐです。例によって、KABUは、公私多忙&多難ですが、イベント終了後は、解散地点から無理すれば歩いて自宅まで辿り着ける(あのー、無理すれば、「下関から青森」までは歩いて行けるんですけど?)というロケーションでもあり、なんとか、なんとか、と。考えています。

このイベント、古街道研究家の宮田太郎先生率いる「歴史古街道団」主催の「さきもりまつり-万葉時代・防人の道ウォーキング」に昨年参加してもの凄く有意義だった。大満足でした。

ウマウマ(^◇^)



例えば、某全国チェーンFC個別塾の「体験レッスンのアンケート調査」に喩えて言えば、

☑「自分の子も申し込ませるが、友人にも是非薦めたい」



もんレベルの満足度。何が具体的にどうよかったかは昨年の記事(↓)を読んでいただきたいのですが、

・ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」番外編:「防人まつり2009」
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/340f245e97979794484684f2fcd3cce6



要は、謂わば「ノルディック複合の得点型」というか
あるいは、「ショートとロングのフィギュアースケートの採点型」
というか、摩訶不思議なことはなくて、端的に次の二項目の合計得点が高いということです。

・知的好奇心が満たされる前頭葉&海馬の脳細胞満足度
・ウォーキングでの体の隅々の細胞満足度    




sakimori100s_20101013191915.jpg




で、What is the festival; Sakimori-Matsuri?
で、「防人まつり」とはなんですか?


と聞かれれば、ふっふっふっ、お答えいたしましょう。←昨年参加しただけなのに、偉そう?

(*・・)_☆⌒○ ←「サーブリターン!」


防人まつりは(←オフィシャルには、全文字開きの「さきもりまつり」と表記)、古代・中世から近世・近代に至る日本の社会で、我々の祖先達がどんな暮らしをしていたか、どんな思いで日々、時には落ち込み打ち拉がられながらも、明るく元気に逞しく前向きに生きていたか。そんな誰しも関心を抱かないではおられない歴史のロマンを、文字通り、アカデミック的にも精緻に復元された古代・中世のそれこそ<等身大>の街道ルートを前向きに歩くことで(←「やってられないことはない!」だろうけど、普通、4キロも6キロも、後ろ向きで歩くのは至難の業だと思う。)追体験する催しです。   


(^-^)ρ(^-^)ρ┳ ヽ(^o^)丿σ(^o^)┳ ヽ(^o^)丿(^-^)ρ┳σ(^o^)┳ヽ(^o^)丿 




sakimori20102s.jpg



KABUは、「ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」」の記事を書いているうちに、
新百合ヶ丘の歴史も少々関心を覚えた。← 多分、自然な流れ。

で、そのうち、えっ、えっ!

「鎌倉時代、桐光学園の後ろの丘を、鎌倉武士が頻繁に騎行していた?」
「新百合ヶ丘エリア南と西の端、岡上地区と黒川地区は古街道でつながっていた!」


とかとか、宝石箱というかおもちゃ箱をひっくり返したように興味津々の事実に遭遇。そんなとき、このイベントに出席させていただき、歴史古街道団団長の宮田太郎先生からいろいろお聞きすることができて、それまで掻き集めていたバラバラの知識を一本の糸でつないでいただいたような爽快感を覚えたのです。

ウマウマ(^◇^)



ということで、やっぱ、KABUは今年も参加する、鴨。
皆さんもいかがですか?

と、今年の「さきもりまつり2010-万葉時代・防人の道ウォーキング」の情報は、
こちらの、歴史古街道団のオフィシャルHPのPDF(↓)で各自皆様でご確認くださいね。

さきもりまつり2010案内【今後リンク切れの場合はご容赦ください】
 http://rekkodan.a.la9.jp/2010/chirashi/101031.pdf




ちなみに、防人まつりで歩くエリア関連の「ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」」の過去記事はこちらです。総合目次も併せて、適宜、閲覧&ご利用いただければ嬉しいです。

・黒川地区から始める小田急多摩線沿線-縦走編(壱)~(八)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d9731a9a3b8c2b94fac36de7bb097d50

・岡上地区-完全包囲編(壱)~(九)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c9a5ae03e08abf1910d1b7385819a705

・鶴川街道-完全踏破編(調布)~(町田)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/38910193134ac74221351ca749eac792

・書評と作品舞台探訪:(日野市~多摩市エリアの多摩丘陵の雰囲気紹介)
 もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59515237.html


・ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」:総合目次編
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/608a9c0e185fa7a994299f5dabae8483


ほしのあきちゃんちゃん



ということで、「防人まつり2010」、参加しませんか~♪



☑イベント開催日:2010年10月31日(日)
☑参加費500円(資料代)、☑但し、弁当は各自で準備!
☑少雨決行、集合は、今年は下記の2パターン。
 □①Aコース(8キロ) 午前08:30集合
  ・府中大国魂神社正面大鳥居前(京王線・府中駅歩5 分)
 □②Bコース(4キロ) 午前10:00集合
  ・京王線/聖蹟桜ヶ丘駅西口改札前(東京都多摩市)   



ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿


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(2010年10月13日:goo英語と書評 de 海馬之玄関版 にアップロード)

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テーマ : 我が街☆新百合ヶ丘
ジャンル : 地域情報




◆憲法とナショナリズム

日本ではよく「愛国心はならず者の最後の避難場所」という英米の箴言を引いて、ナショナリズムを顕揚信奉する保守派を揶揄する<識者>が見受けられます。愛国心とナショナリズムが当然のこととして理解されている、健全な保守主義の根づく英米では、上のような警句は含蓄のある言葉なのだとも思いますが、しかし、残念ながら、ナショナリズムの当然の価値を看過・軽視・否定する向きもなきにしもあらずのこの社会では、むしろ、

「「愛国心はならず者の最後の避難場所」と口にするのが、日本では、最早、「左翼-リベラル派」の最後の逃げ口上」


と、言っていいの、鴨。実際、そう思わないでもないですね。 畢竟、日本でも、ナショナリズムが「国民国家=民族国家」の正当化イデオロギーであり<政治的神話>であることについては人口に膾炙していますし、本稿でもその冒頭で述べておきました。而して、ナショナリズムが<憲法>の一斑であるという経緯は(特に、<憲法>規範の中でも、憲法訴訟で争われるタイプの憲法規範というよりは、憲法慣習を導きそれが蓄積されていくプロセスにおいて与して力あるタイプの憲法規範であるとことは)説明の必要もないでしょう。

実際、それを構成する素材は、文字通り、神代の時代からことかかない我が日本においても、「国民国家=民族国家」としての日本国やナショナリズムは近代の歴史的に特殊な観念表象であり社会思想である。而して、だからこそ、ある言説が「偏狭なるナショナリズム」に該当するか否かを判定する、謂わば<偏狭なるナショナリズム判定ストライクゾーン>の存在と内容を間主観的かつ論理的に説明することも可能になるのだと思うのです。尚、この点、<憲法>に関する私の基本的理解に関しては下記拙稿をご参照ください。

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59308240.html

・女系天皇は憲法違反か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879735.html


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蓋し、ナショナリズムが<ナショナリズム>を通して<憲法>に編入される経緯は、(島津藩の領主一族の分家の娘が、京都の摂関家の養女となりその資格で、徳川将軍家に正室として輿入れした<篤姫>の構図に似てなくもないからか)難解でないわけではないがイメージ的に理解されやすいようです。他方、(諸法規間の、あるいは、諸法体系間の授権関係としてみた場合)ある国のナショナリズムが実定的な国際法体系(就中、実定的な国際法秩序の枠組みとしての帝国)の川下にあるという経緯は若干敷衍する必要がある、鴨。要は、ナショナリズムが<憲法>とその周辺に位置する以上、それは<憲法>とパラレルにあるタイプの国際法の規制を受けることになるけれど、逆に、当該の国家は自国のナショナリズムをその同じ国際法の原理を根拠にして守護・堅持に努めなければならない、と。それだけのことなのですけれどもね。

例えば、「皇位承継者の選定に際して候補者の性別を考慮してはならない」という内容の法規範を、(A)オランダが制定した場合、(B1)それを定める国際条約が法として有効に発効したけれど日本は加盟しない場合、(B2)日本も加盟した場合を想定してください。


(A)(B1)のケースが日本の<憲法>とナショナリズムに何の影響もないことは自明です。復習になりますが、逆に言えば、「日本は日本、オランダはオランダ」「日本は日本、他国は他国」と悪びれることなく言える根拠が、国際法と国内法との間の授権関係の存在なのです。而して、(B2)の場合、皇位継承を男子に限定している皇室典範とこの条約の効力関係が問題になる。本稿の理路において最も重要なことは、(B2)に関して、効力関係において条約が皇室典範に優越したとして、たとえ愛子様が皇嗣になられたとしても、それは(「授権関係」の帰結ではなく!)あくまでも「皇室典範と条約の効力関係における優劣を定める日本の国内法」の帰結にすぎないということ。

更に言えば、(B2)の事例でも授権関係は存在しており、畢竟、それはこのケースでは、「皇室典範と条約の効力の優劣に関しては、効力関係における優劣を定める日本の国内法の定めに従うべきだ」というルールとして具現するということです。    

要は、実定的な国際法体系が<憲法>やナショナリズムの授権規範であるからと言って、自動的にある任意の国際法の規範内容が日本の<憲法>やナショナリズムに流れ込んでくるようなことはないのです。この知見を受けて、いよいよ「偏狭なるナショナリズム」なるものの意味について検討します。


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◆「偏狭なるナショナリズム」なるものの意味

改めて自問自答。一体、「偏狭なるナショナリズム」とはどういう意味なのでしょうか。「偏狭なるナショナリズム」の「偏狭なる」という形容句は、例えば、「我が偉大なる巨人軍」、あるいは、「偉大なる領袖」「我等が親愛なる指導者」とかの修辞的形容句と同様、特別の意味はない、すなわち、独特の指示対象を持たない<無意味>な言葉なのでしょうか。

いずれにせよ、実際、(もちろん、その言説が名誉棄損・脅迫等の犯罪や不法行為を構成するのであれば問題は少ないとしても、そうでない場合)ある言説が「偏狭なるナショナリズム」であるかどうかを、誰が、どんな判定基準に基づき、どのようなプロセスで判定できるというのか。それとも、この「偏狭なる」の4文字に特に意味はなく、而して、仙谷官房長官の「偏狭なるナショナリズムは好ましくない」という趣旨の発言は、逆に、「すべてのナショナリズムは好ましくない」という主張なのでしょうか。冗談抜きに(冗談では済まない問題なので、すぐ後で少し詳しく説明しますが)、もし、「偏狭なる」が、徹頭徹尾修辞的なものなら論理的にはそういう結論にならざるを得ないのですけれども・・・。

左翼活動家の経歴を誇る仙谷氏のことですから、ご本人はこの発言で、率直に「すべてのナショナリズムは好ましくない」と言いたかったの、鴨。しかし、本稿で論証したように、(a)近代以降の国家では、ナショナリズムは左翼の論者に対しても規範的拘束力を帯びる。また、(b)ナショナリズムは<憲法>の一斑でもあり、仙谷氏の願望がどうあれ、「すべてのナショナリズムは好ましくない」という主張は、少なくとも、実践的には社会思想と憲法論の双方の領域で成立しようがないのものなのです。

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表現の自由を巡る憲法訴訟を想定すれば自明の如く、政府高官の主観やTVのワイドショーのコンメンテーターの多数決で、ある言説の「偏狭度合」が決まるものではない。蓋し、ある言説や行動が「偏狭なるナショナリズム」であるか否かは、国内法的には、その言動が<憲法>と整合的であるかどうかで定まり、国際法的には、実定法的な国際法体系と整合的であるか否かで定まる。と、そう私は考えています。而して、後者に関して重要なことは次の2点、

(α)法体系間の効力関係を制御する原則から見ても、国際法の具体的内容が日本の国内法に自動的に流れ込むことはあり得ない

(β)実定法的な国際法体系や帝国から導かれる「偏狭なるナショナリズム」のストライクゾーンに関する意味内容は、(戦争犯罪等の極めて特殊な領域を除けば)法体系間の授権関係を律するルールに限定されること   


◎「偏狭なるナショナリズム」の判断基底

・国内法的判定:<憲法>との整合性
・国際法的判定:授権規範のルールとの整合性


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「偏狭なる」という言葉に戻ります。蓋し、「ナショナリズム」という観念的表象に「偏狭なる」という形容句がつく場合、その形容句が修辞的なものではないとするならば、それは、「ナショナリズム」を要素とする集合の内部に、「偏狭なるナショナリズム」や「偏狭ではないナショナリズム」と呼ばれるに相応しい要素が構成する集合が包含されていることと同値でしょう。

例えば、「赤い薔薇」という言葉の「赤い」という形容句がこの世に存在する/存在した/存在しうるすべての「薔薇」の中から、あるタイプの薔薇を選び出し切り取っているように、「偏狭なるナショナリズム」という言葉は、世に散見される多様なナショナリズムの中から特殊なあるタイプのものを選び出し切り取るものなのか。

それとも、それは、例えば、「偉大なる領袖」「我等が親愛なる指導者」とかの修辞的形容句に飾られた語句とパラレルな、J.A.オースティンの言う意味での「言語行為」の一斑として、「そうなれあれかし!」という話者の意志や願望、あるいは、「その実現を妨害するようなら対抗措置を覚悟せよ!」という威嚇の表明等々のどれかなのか。   

畢竟、「偏狭なる」の用法が後者の修辞的な言語行為であれば、「偏狭なるナショナリズム」はすべての「ナショナリズム」を包摂可能な極めて曖昧で不適切な言葉の用法であり、もし、前者であるとすれば、「偏狭である/偏狭ではない」の判定を誰かの主観の判定で済ますのではない以上、「偏狭なるナショナリズム」は<憲法>と実定的な国際法体系から枠づけられ補完されるべき概念ということになる。と、そう私は考えています。


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而して、仙谷発言のコンテクストに引き付け、国際的な局面を想定して言えば、ある言動が「偏狭なるナショナリズム」であるかないかは、次のトライアッドテストで判定可能ではないかと考えます。

(壱)覇権主義テスト
(弐)排外主義テスト
(参)差別主義テスト


(壱)自国の主権の及ばない領域で惹起した事態へのコミットメントが見られないかどうか、(弐)(もちろん、ナショナリズムである以上、「おらが国が1番!」という心性を世界のすべての論者が抱くのは当然として) 他者の抱く「自分の国が1番!」という主張を認めないメンタリティーが露出していないかどうか、そして、(参)国籍・民族・人種のグループに着目して、十羽一絡げ的に相手への否定的評価を下す態度が露呈していないかどうか。   

而して、(壱)は、対外主権の割り振りそのもののルールのナショナリズムへの反映。(弐)は、領土主権をお互いに尊重するルールの反映。そして、(参)は、主権国家のみが原則国際関係の主体であることと責任主義の反映として、各々授権規範のルールから抽出・再構成したものです。

些かテクニカルになる憾みもあり詳述は割愛しますが、これらの3個の判定指標は、実定的な国際法の授権関係から直接・間接に演繹可能なものであり、我が国<ナショナリズム>の内容とも親和的であろうと考えます。いずれにせよ、<皇帝なき帝国>の時代こそ、ナショナリズム再構築の旬。「偏狭なるナショナリズム」に陥る<死に至る病>を抱えた「中華主義」への警戒を怠ることなく、日本では今こそナショナリズムの華の百花繚乱が希求されている。と、そう私は確信しています。

頑張って行きましょう。
共に闘わん。









(2010年10月12日:yahoo版にアップロード)

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ジャンル : 政治・経済




◆帝国とナショナリズム

帝国たる冷戦構造の終焉から始まった<皇帝なき帝国>の時代。この時代はどこへ向かおうとしているのでしょうか。ナショナリズムは、それが<社会的文脈の中で人を動かす論理>として機能する場面では社会規範の体系であり、また、それは<国家を正当化する論理>でもある。要は、ナショナリズムは公共性を帯びている。ならば、ナショナリズムに対して授権規範の位置にある帝国は公的な存在であるだけでなく公共性をも帯びており、畢竟、ナショナリズムに関心のある論者にとって<皇帝なき帝国>の動向は無関心ではいられない類の事柄であろうと思います。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(1921年)が喝破した如く、しかし、「人間は語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(What we cannot speak about we must pass over in silence.)。ならば、(欧米の社会思想・国家論の伝統においては寧ろ普通名詞に近かった用語、例えば「帝国」、例えば「マルチチュード」を、一種、「時代の様相を切り取る固有名詞/歴史発展の普遍的な理が投影されている鍵概念」の触込みで<思想のマーケット>に持ち込んだ)ネグリ&ハート『帝国』(Empire, 2000年)がそうであるように、ほとんど想像力だけを頼りに近未来の<帝国>のイメージを描くことに私はそう意味があるとは思わないのです。

実際、『帝国』は、(要は、「資本主義の貫徹たるグローバル化の昂進が、やがて資本主義そのものを止揚するだろう」という)単なるマルクス主義者の願望の吐露ではないのか。蓋し、それは、資本主義社会から社会主義社会へ移行する有望な筋道としての、(甲)「グローバルネットワーク型の自生的移行モデル:マルチチュードモデル」への期待を謳い上げた黙示録に他ならないの、鴨。而して、『帝国』が、より広範な読者層に理解可能な、つまり、斬新さには欠けるものの安心感漂う定番のモデル、すなわち、(乙)「変革伝播の「中心-周縁」構図を背景としたトップダウン型の人為的移行モデル:革命震源地想定型モデル」を採用しなかったのは、「冷戦構造の終焉=社会主義に対する資本主義の最終的勝利」(1989年-1991年)が確定した後では、そもそも(乙)の選択肢はリアリティーを喪失していたからかもしれません(★:哲学愛好家限定的補註)。

尚、ここで俎上に載せた(甲)(乙)二つの近未来類型が、<皇帝なき帝国>の意味について前項の最後に記した(甲)(乙)と対応していることは慧眼の読者には先刻お気づきのことであろうと思います。閑話休題。






ことほど左様に、<皇帝なき帝国>の行く先は不明である。まして、それが社会主義社会に至る<回廊>なのかどうかは「we must pass over it in silence」すべき類の「what we cannot speak about」でしょう。けれども、それが、「歴史的に特殊で文化的に多様な諸々の民族の生態学的社会構造と諸々の民族の<憲法>が共存可能な実定的な国際法秩序の枠組み」という帝国の機能を今後もしばらくは果たすとするならば、要は、「二度目の喜劇に向けられる嘲笑」を少なくともしばらくは回避するとするならば、帝国とナショナリズムの<愛憎物語>のメインキャストとしての<皇帝なき帝国>に与えられた行動の選択肢は、おそらく、前任者の冷戦構造が採用したのと同じ道、すなわち、「主権国家=国家社会」との共存しかないのではないでしょうか。

確認になりますが、規範としての帝国の本質は主権国家の授権規範であることに収斂する。各主権国家の対外主権の及ぶ範囲を割り振ることができる権威と実力と意志の結合が帝国に他ならない、と。ならば、単なる「社会主義陣営の世界」と「資本主義陣営の世界」の足し算の結果ではなくて、東西両陣営の勢力均衡状態自体が「帝国=冷戦構造」であった。と、そう私は考えています。

而して、蛇足ながら付け加えれば、冷戦期間中の「社会主義陣営の世界」はその内部では一個の「帝国」であったけれども、結局、社会主義の帝国は地球全体を覆うほどのパワーを獲得できなかった。他方、「資本主義陣営の世界」は「帝国」たるに十分なるパワーを秘めていたことは、現下の<皇帝なき帝国>の止まる所を知らない快進撃振りを見れば誰の目にも明らかでしょうが、それは<帝国の皇帝>として、帝国の傘下に集う「歴史的に特殊で文化的に多様な諸々の民族の共存」に責任を負う意志を欠いていたと言うべきなのだと思います。

尚、①帝国の時代における主権国家の社会思想上の位相、そして、②その吟味検討のケーススタディとしての支那問題(すなわち、帝国正当化のロジックであった中華主義の脱構築として成立した「中華主義」。そのような漢民族ウルトラナショナリズムとしての「中華主義」と中庸を得た「主権国家イデオロギー」との鬩ぎ合い、畢竟、「偏狭なるナショナリズム」と「偏狭ではないナショナリズム」の支那内部における葛藤の社会思想的な風情)については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・戦後民主主義的国家論の打破
 ☆国民国家と民族国家の二項対立的図式を嗤う(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/36117902.html

・<中国>という現象☆中華主義とナショナリズム(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59895258.html


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★哲学愛好家限定的補註:マルクスに起因するマルクス主義の失速と破綻

ネグリ&ハート『帝国』に漂う、<皇帝なき帝国>が社会主義に接近する<回廊>であって欲しいと願うマルクス主義者の願望の強さ。逆に言えば、それは、マルクス主義が「社会理論的-経済理論的」な根拠をほとんど完全に喪失しており、後は、「神頼み」、すなわち、<皇帝なき帝国>内部でのマルチチュードの自生的な運動発展に期待する他、社会主義社会への活路が見出せないでいる彼等マルクス主義者の鬱積の裏面なの、鴨。

而して、そのような「神頼み」は、実は、歴史的にはマルクス主義のデビュー作と言ってよい、『共産党宣言』(1848年)自体に既に組み込まれていたもの、鴨。同書の有名な次の記述を読み返して私はそう感じました。

以下、KABU訳『共産党宣言』(第2章末尾:岩波文庫版,p.69)。    

これらの(資本主義体制から社会主義体制に移行するための10個程の施策、すなわち、「土地所有制度の廃止」「強度の累進課税」「相続制度の廃止」「通信輸送手段の国家への集中」「すべての人に対する労働の平等な義務化」「教育セクターの活動と産業セクターの活動との結合」等々の、代表的な施策の)発展の進行にともない、階級の区分は消滅し、すべての生産活動が全国レベルで結合された広範な協同体の手の中に集中されてくると、公的権力はその「政治的-権力的」な性格を失うだろう。・・・而して、諸階級の存在と階級間の対立を内包した古いブルジョワ社会に代わって、我々は協同体、すなわち、各人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となっているような協同体を持つことになるに違いない。(以上、引用終了)

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マルクスの経済理論は、それが、「労働価値説」という<釣り針>と一緒に英国の古典派経済学を飲み込んだ段階で、要は、その初手の段階から<北斗の拳>だった。畢竟、論理的には、「限界効用」のアイデアを契機に再構築された新古典派(総合の)経済学にマルクス経済理論は粉砕され、他方、歴史的には、上に引用した「社会主義への工程表」をほぼ忠実に実行したソ連と東欧諸国が破綻したことで「資本主義 vs 社会主義」の勝負は資本主義の勝利で終わった。

社会主義の不可能さは、しかし、上に引用した『共産党宣言』のテクストで既に明らかだったの、鴨。蓋し、マルクス経済理論のみならずマルクス主義もその初手から<北斗の拳>だったの、鴨。すなわち、「各人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となっているような協同体が、しかも、全国レベルで結合された広範な協同体がすべての生産活動をその手の中に集中する」ことと「公的権力はその「政治的-権力的」な性格を失う」ことは矛盾するだろうということです。

簡単な話です。例えば、「私はそのような協同体には加わりたくない/協同体の意向に従いたくない」という、ヤクザや起業家、出家志望者や分離独立運動家、あるいは、過度な怠け者や過度な働き者はこの協同体の中でどう扱われるのか。而して、「権力=他者の行動を、実力と公の権威の結合によって左右できる地位や勢力」と定義すれば、左翼の論者が語るように、「権力=支配階級が被支配階級を抑圧する社会的仕組み」であり、よって、「階級がなくなれば階級間対立もなくなり権力も国家も死滅する」という自己論理内完結型の目論見とは異なり、「各人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となっているような協同体」においても、それら異分子を協同体の意志に従わしめる<権力>は残らざるを得ないだろうということ。蓋し、ソヴィエト・ロシアとは、正に、そのような<権力>が猛威を振るった社会ではなかったのでしょうか。   

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けれども、ここで、「社会主義の高次の段階たる共産主義社会では、各人の意向と協同体の意向が異なることはあり得ない」という左翼の論者からの、前提と結論が同語反復的な言い訳が来る、鴨。実際、概略「共産主義社会ではヤクザはどういう存在なんでしょうか」という質問に対して、有名なマルクス主義の哲学者・廣松渉氏は、「共産主義社会にヤクザはいるのですかね」と答えられたそうですから(笑)

(*・・)_☆⌒○ ←「言い訳サーブリターン♪」

蓋し、世界同時革命や革命の輸出は考えないとしても、また、天変地異や戦争により協同体が機能不全に陥る事態は無視するとしても、一国規模の人間集団でどのようにしてすべてのメンバーが満足する生産と消費の内容をタイムリーに確定できると言うのか。各人が「自分の希望や状態=自由な発展の目標や成果」と判断するための情報に不足も非対称性も生じないとなぜ言い切れるのか、あるいは、情報を理解する各人の能力差をどう止揚するというのか。

而して、これらテクニカルな問題に加えて、「その希望や状態が自分も含めすべての協同体メンバーの自由な発展であるか否かを、誰がどのような根拠で測定し確定できるというのか」という本質的な問題をこの言い訳は孕んでおり、よって、言い訳は成立しないのです。本稿に関連して重要なことは、これらのマルクスの社会思想がその初手から抱えていた難点は、そのままネグリ&ハート『帝国』に対しても当てはまるだろうことです。 
  



<続く>


nelson


【Admiral Nelson: "Thanks God. I've done my duty."】





(2010年10月12日:yahoo版にアップロード)

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napoleondazo


◆ナショナリズムと帝国-規範の動態

春秋の筆法ながら、<中世的帝国>の世界観の弔鐘がナショナリズムの産声であった。この理解が満更荒唐無稽でもないとするならば、蓋し、帝国を、「歴史的に特殊で文化的に多様な諸々の民族の生態学的社会構造と諸々の民族の<憲法>が共存可能な実定的な国際法秩序の枠組み」と捉えるとき、次のような光景もまた、現下の<皇帝なき帝国>におけるナショナリズムの興隆の一斑と看做すべきかもしれません。

(1)社会主義の崩壊と民族国家の叢生
ソ連邦の崩壊と旧ソ連・旧東欧エリアでの「国民国家=民族国家」の叢生と離合集散。蓋し、マルクス主義が一旦打ち滅ぼしたはずの民族や宗教がマルクス主義に逆襲する構図は、オリンポスの神々と巨人族の争いというギリシア神話の構図と似ている、鴨。

(2)中華主義帝国の崩壊と「中華主義」支那の誕生
帝国の正当化ロジックとしての中華主義は、清朝の滅亡(1912年)にともないその神通力を失いました。而して、現下の支那における「中華主義」は、(中華主義の世界観では世界の中心に位置するとされた)皇帝を、対内的には「皇帝→共産党」と、そして、対外的には「皇帝→支那」と読み換えた、正に、中華主義の脱構築、もっと有り体に言えば、中華主義をその理念の正反対の方向に、俗に言う言葉の悪い意味での「換骨奪胎」した漢民族ウルトラナショナリズムなの、鴨。

ことほど左様に、その<ナショナリズム>の内容に「皇帝→共産党&支那」という項目を組み込んだ現在の支那の「中華主義」は、単に文化人類学的や社会学的な観察からだけではなく、社会思想の論理分析からも他の諸国民や諸民族のナショナリズムに敬意を払うことが論理的に困難な社会思想なのだと思います。畢竟、「中華主義」は、言葉の正確な意味での「偏狭なるナショナリズム」に陥る<死に至る病>が組み込まれた社会思想なの、鴨。

(3)「文明の衝突」とイスラーム原理主義の跋扈
中華主義と並びイスラーム共同体の理念は帝国正当化のロジック。ならば、ハンティントンの所謂「文明の衝突」がレポートした、イスラーム世界を取り巻く現状は、イスラーム世界が、<皇帝なき帝国>の一領域でしかない自己の姿に直面せざるを得なくなったあまり愉快ではない事態と言えましょう。而して、<9・11>の如きイスラーム原理主義の暴走は、単に、イスラーム的のナショナリズムの暴走であるだけではなく、同時に(「帝国であることを否定された屈折」をバネとする)イスラーム的の帝国主義による、同じく<皇帝なき帝国>の一領域にすぎない他文明に対する「八つ当たり」として理解可能なの、鴨。

尚、「偏狭なナショナリズム」に陥る<死に至る病>が組み込まれた「中華主義」とは全然異なり、エートスとしてのイスラームは中庸を得た極めて完成度の高いナショナリズムの社会思想体系であると思います。   


蓋し、帝国とナショナリズムの勃興と盛衰を巡るこのような構図、すなわち、「帝国の解体→ナショナリズムの興隆」というパターンは、<中世的帝国>の崩壊が人類史上始めて国民国家と「国民=民族」とナショナリズムを成立させて以降繰り返されてきた<帝国とナショナリズムの愛憎物語>なのだと思います。

要は、ヘーゲルもマルクスも間違っており、「歴史は二度とは言わず何度でも繰り返す」ということ、鴨。而して、本稿の叙述の工夫は、「社会思想の規範体系としてのナショナリズムと帝国」という規範論的の認識を貫徹させつつ以下の3点を明確にしたこと、鴨。

①民族主義とナショナリズムの差異
②ナショナリズムと<憲法>の媒介としての<ナショナリズム>
③帝国の盛衰とナショナリズムの盛衰の一般的な対応関係   


畢竟、①ゲルナーのアイデアに倣い、ナショナリズムに素材・材料・部品を提供する心性や慣習としての民族主義と、国民国家の<憲法>の一斑でもあるナショナリズム自体を識別したこと。また、②ナショナリズムは、システムとしての<ナショナリズム>という謂わば「濾過装置」を通ることで<憲法>の内容の一斑となる。よって、ナショナリズムを巡る現象は規範の動態論として再構成されるべきとの主張。そして、③「マルクス主義の凋落に起因するイスラーム原理主義の再興」「オスマン帝国の衰退にともなうバルカン半島でのスラブナショナリズムの沸騰」等ではなく、要は、普通名詞の帝国と普通名詞のナショナリズムとの間の関係のパラメータとしてナショナリズムの「神通力=規範的拘束力」の変遷を考えたこと。これらが強いて言えば本稿の独自の視点なの、鴨。


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◆ナショナリズムと帝国-規範の共存

ナショナリズムは<中世的帝国>の解体を梃子にして成立した。ナショナリズムには諸帝国の衰微に反比例して復活興隆する傾向がある。これらに加えて、ナショナリズムの歴史的な特殊性をよりよく理解するためには、今までの知見と一見相矛盾するような事態をも看過すべきではないと思います。

それは冷戦期の両義性。すなわち、冷戦の時代とは、「主権国家と帝国の二人主役制の時代」ではなかったか。要は、「冷戦構造は帝国であり、主権国家はその帝国と共存していた」のではないかということ。そして、この帝国と国家の共存関係こそ、我々の現前に広がっている<皇帝なき帝国>の風景なのではなかろうかということです。

呉越同舟。「帝国-ナショナリズム」両規範の共存。しかし、この事態は、(ウェストファリア条約(1648年)によって、主権国家が実定的な国際法秩序に組み込まれた瞬間から)実は、実定的な国際法の規範体系と主権国家が共存してきた経緯のコロラリーなのかもしれません。而して、<中世的帝国>の崩壊以降現在に至る帝国とナショナリズムの関係を私は次のように整理しています。

◎帝国-ナショナリズムの相互関係

(0)<中世的帝国>の世界観に基礎づけられた社会秩序の崩壊(16世紀~18世紀)
  →主権国家と国民の成立、<守護霊>たるナショナリズムの誕生
(Ⅰ)ナショナリズムの隆盛と主権国家の跋扈(17世紀~1945年)
  →中華主義帝国・イスラーム的帝国の崩壊と「主権国家=国民国家」への降下分裂
  →「西洋列強=帝国主義的資本主義諸国」の帝国への昇進忌避
(Ⅱ)冷戦構造の成立と帝国と「国民国家=民族国家」の共存(1945年~1989年)
  →社会主義帝国の崩壊と「主権国家=国民国家」への降下分裂
(Ⅲ)冷戦構造の崩壊と<皇帝なき帝国>の中でのナショナリズムの漂流(1990年~)


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自分がそれを生きている時代ということもあり、愛着も執着もあるでしょうから、誰しも、上記(Ⅲ)を、唯一の超大国アメリカが、謂わば「前任皇帝の残務処理担当の皇帝代行」または「次期皇帝就任含みでの見習い皇帝代行」であったかもしれない前期と、グローバル化の昂進の中でアメリカも「唯一の超大国」の看板を漸次引っ込め始めた、<大政奉還>以降の後期に、例えば、2008年の世界金融危機をメルクマールに更に細分化したいと感じる、鴨。それも一局。しかし、グローバル化の動向も生態学的社会構造の変化の動向も、他方、各「主権国家=国民国家=民族国家」の<憲法>も、トータルに見て、世界金融危機やイラク戦争の前後で本質的/定性的に変化したとは私には思われない。よって、(Ⅲ)を細分化せずともそう論理的な不備はないものと考えます。


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◆ナショナリズムと帝国-規範の階層

ナショナリズムと帝国の共存。重要なことは、帝国は、例えば、冷戦構造も<皇帝なき帝国>も規範論理的には実定的な国際法体系の一斑に他ならないということと、ナショナリズムと実定的な国際法体系や帝国との間には階層構造が成立しているのではないかということです。要は、帝国とナショナリズムの間には授権関係があるのではないかということ。

ナショナリズムと帝国の共存。而して、国際法と国内法の関係については日本では誤解が蔓延している節がある。要は、「効力」の2文字の意味が錯綜している。つまり、授権関係と効力関係という異質な事柄がこの同じ言葉を用いて語られている。

要は、ある法律が法律としての(イ)効力を保持できるのは憲法からの(ロ)授権があるからです。他方、(例えば、旧憲法下の社会のように、違憲審査制度のない社会では)憲法に違反する法律も、取りあえず現実の運用に際して法としての(イ)効力を失うことはありません。よって、憲法が(ロ)授権関係では法律に優位にありながら、ある法律が規定している案件に関しては(イ)効力関係では法律に劣ることもあり得る。

ことほど左様に、(イ)ある法的紛争を処理するに際して、国内法と国際法が相矛盾するルールを定めている場合にどちらのルールが優先するのかという(狭義)の「効力関係」の問題と、(ロ)日本の国内法体系が法として有効なのは国際法体系からの授権によるものか、逆に、国際法体系が法としての効力を認められているのは諸国家の国内法体系からの授権によるものか、それとも、国内法体系と国際法体系は無関係な二つの法体系なのかという「授権関係」の問題。これら(イ)(ロ)は全く別の論点なのです。


具体例を一つ。例えば、オーストラリアが日本の捕鯨を禁止する国内法を定めたとしても、原則、それは日本に対して何の(イ)効力も持ち得ないのですが、それは、国際法がオーストラリアの国内法の(イ)効力を、原則、オーストラリア国内に限定して(ロ)授権しているからなのです。

ことほど左様に、こう見てくれば、後は復習にすぎない、鴨。そう、ナショナリズムの基盤たる主権国家の成立はウェストファリア条約体制に基づくもの。つまり、授権関係としての階層構造においては、ナショナリズムは実定的な国際法体系、就中、(実定的な国際法秩序の枠組みである)帝国の傘下にあると言える。逆に言えば、縁日の的屋さんの場所割と同様に、国際法体系が、「縄張りの割り振り」を取り仕切っているからこそ(老婆心ながら、ここを「「縄張り」を取り仕切っている」とすれば効力関係の話になります!)、ある国のナショナリズムはその国の国において規範的拘束力を謳歌できるのです。

ならば、少なくとも、実定的な国際法の授権ルールに反する、排外主義的や覇権主義的なナショナリズムは「偏狭なるナショナリズム」として批判されるべきでしょう。而して、尖閣諸島問題にしても、授権ルールそのものに関して明確な国際法違反を繰り返す支那の行動を鑑みれば、かつ、「中華主義」の本質的な「偏狭なるナショナリズム」性を踏まえるとき、日本の政府高官が彼我のナショナリズムを同一視した上で、「日本も中国も偏狭で極端なナショナリズムを刺激しないことを政府の担当者として心すべきだ」と述べたことは適切ではなかったと言うべきなのです。

而して、かくの如く、ナショナリズムを巡るルールが揺らいでいる現在、<皇帝なき帝国>という現前の風景が次のいずれかは興味ある所です。しかし、そのどちらであれ、日本のナショナリズムが<伝統>を糧として自己をこれからも恒常的に再構築していくこと。それを私は確信しています。

(甲)帝国システムそのものの衰微解体に向かう風景
(乙)冷戦構造と新たな<皇帝>の戴冠との間の空位期の風景   



<続く>




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(2010年10月11日:yahoo版にアップロード)

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◆ナショナリズムと帝国-歴史哲学

経済活動を統べるルールがそこに埋め込まれていた社会的諸関係から資本主義が離床するにともない(すなわち、ウォーラスティンの所謂「近代世界システム」がその相貌を、漸次、現すにともない)<中世的帝国>の世界秩序は解体し、ナショナリズムがその<中世的帝国>の灰燼の中から生まれた。

畢竟、ナショナリズムは歴史的に特殊な近代の社会思想でありながら、(国民国家が成立して久しい現在)それは<憲法>の一斑として強い規範的拘束力をその当該の国家社会のメンバーに及ぼしています。では、ナショナリズムは今後もその規範的拘束力を保持し続けることができるのでしょうか。

1806年、陥落させたイエナーに入城する皇帝ナポレオンに、自由の実現に向けて人類史を動かす時代精神(その時代時代の絶対精神の具体的な内容)を見たヘーゲル(1770年-1831年)は、歴史のプロセスを絶対精神の自己外化のプロセスとして理解しました。而して、ヘーゲルは、(a)自由を本性とする絶対精神の最終的な依代たる<民族>が、他方、(b)自由の最終的な制度的表現である<国家>と合体した段階を(定性的な変化が最早生起しないという意味で)「歴史の終焉」と捉えた。  

ベルリン大学教授ヘーゲルにとって、ならば、首都ベルリンを擁するプロシアを盟主に戴きドイツ民族が国民国家を建国した時点、すなわち、普仏戦争において鉄血宰相ビスマルク率いるプロシアが鎧袖一触フランスを撃滅し、返す刀でドイツ帝国を成立せしめた1871年に歴史は終焉したのでしょうか。近代世界システムの双子の息子達、国民国家と国民の誕生をもって歴史は終焉したのか。獰猛なロムルスとレムスの<守護霊>たるナショナリズムは<不死の神>なのか。

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問題はこう詳説できます。

例えば、旧ユーゴスラビアや旧ソ連邦が四分五裂したように、確かに、個々の国民国家は今後も離合集散を繰り返すかもしれない、他方、過去に多くの言語が死語になっており、また、2009年現在で世界に存在する約6,000の言語の中で2,500が絶滅の危機にあるらしいという現実を鑑みれば、個々の国民のナショナリズムにも流行廃りはあるだろう。その意味ではナショナリズムも「可死の神」でしかない。それは誰にでも分かる。而して、問題はシステムとしての<ナショナリズム>である、と。ある言語が死語のリストに記載される事態と言葉というものを人類が使用しなくなる事態とは位相を異にするだろう、と。 
  

システム論の視座から、かつ、一般的に捉えたとしても<ナショナリズム>は「可死の神」でこそあれ<不死の神>ではない。私はそう考えます。

なぜならば、<ナショナリズム>には外界が存在しているから。すなわち、①地球環境的制約-資源環境的制約、そして、②ウォーラスティンの所謂「史的システムとしての資本主義」の展開、および、③(自体も、自然環境的の制約とグローバル化の影響を被りつつ、同時に、<ナショナリズム>を制約する存在でもある)生態学的社会構造、すなわち、「自然を媒介として人と人とが取り結ぶ社会的諸関係の総体」が厳として<ナショナリズム>の外部に存在しているから。畢竟、<ナショナリズム>は予定調和が支配する<閉じたシステム体系>ではあり得ないからです。

ローマの平和の余光に浸っていた古代ローマ帝国は「外部からの衝撃=民族大移動」のうねりの中に沈んだ。直径15キロ足らずのたった1個の隕石が恐竜達の楽園に終止符を打った。ならば、論理的には、近代が産んだ獰猛な双子達の<守護霊>も偏に「風の前の塵に同じ」ではないでしょうか。

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◆ナショナリズムと帝国-動態史観

ナショナリズムは「可死の神」である。そして、この可死性は、ナショナリズムが<政治的神話>にすぎず、他方、システムとしての<ナショナリズム>が外部世界からの挑戦に応戦するべく恒常的に自己を再構築せざるを得ない経緯の裏面であろうと思います。

ある種、弁証法的なパターン認識になりますが、要は、「変化か、あるいは、死か」とばかりに、ある社会が変化を促す挑戦を外部から受けている場合、往々にしてその社会には外部の影響が挑戦とは異なる形態でその遥か以前から、かつ、構造的に浸透しているもの。例えば、

古代ローマ帝国を滅ぼすことになる民族大移動が惹起した375年当時、実は、すでに数世代に亘って夥しいゲルマン人が帝国領内に入植し定住していた。だから、(江戸幕末、「佐幕-倒幕」両派の各々最精鋭部隊、新撰組と奇兵隊に農民出身層が少なくなかったのとパラレルに)ゲルマン人に対する帝国防衛戦の尖兵はそれらゲルマン系ローマ人だった。

『平家物語』は富士川合戦の段。東国出身の斉藤別当実盛から東国武者の勇猛ぶりを聞いて怯えた平家軍は、一斉に飛び立った水鳥の羽音に驚き戦わずして退却。逆に言えば、平家軍には実盛の如き東国武者が少なからず従軍していたということ。

オスマン帝国海軍。1416年のガリポリ海戦で海上武装都市国家ネットワークとも呼ぶべきベネチア連合に惨敗を喫した当時世界最強の陸軍大国オスマントルコ。オスマン帝国はその後海軍の増強に邁進。そして、1453年、コンスタンチノープルを陥落させ東ローマ帝国を屠ると、1538年のプレヴェザの海戦でスペイン・ベネチア・ローマ法王庁の連合艦隊を撃滅、地中海のほぼ全域を支配下に置いた。正に、世界史的に見れば16世紀はトルコの世紀! 而して、オスマン帝国海軍を支えたのは、実は、イタリア人。実際、自前での海上兵員育成が始まって久しい18世紀末でも、トルコ海軍の熟練水夫の95%、水夫の75%、砲手・水兵の50%がキリスト教徒だった。   


畢竟、ナショナリズムは恒常的な変化を宿命づけられた社会思想でもある。而して、その変化の多くは上記の如き弁証法的なものなの、鴨。閑話休題。

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いずれにせよ、ナショナリズム登場の歴史的背景は、「強大なオスマン帝国の存在が、欧州社会をしてその活路を新大陸とサハラ以南のアフリカ、そして、喜望峰経由でのアジアに求めざるを得ない状況に追い込んだ。而して、万事、塞翁が馬。この苦肉の策が、はからずも、欧州社会における<中世的帝国>の解体と資本主義の離床、そして、人類史における史的システムとしての資本主義の離陸につながった」、と。こう理解できると思います。重要な視点は、

ナショナリズムの成立が、欧州大陸規模で惹起した生態学的社会構造の変遷の中で生じた歴史的に特殊な事態であるのならば、21世紀の現在、日本社会のナショナリズムがその外部領域から受けている自己再構築の圧力もまた(しかし、その規模は、グローバル化の昂進にともなう、文字通り、グローバルな規模での)生態学的社会構造の変遷と通底していないはずはないだろうということ。    

グローバル化の昂進の中で、超大国ソ連が崩壊し、その後、唯一の超大国のアメリカもまた<大政奉還>を行い今や単なる世界最強の国に成り下がった事態、<皇帝なき帝国>の時代にどう対応するのか。蓋し、これこそナショナリズムが抱える現下の課題であろうと思います。而して、江戸幕末、植民地化を狙う欧米列強の虎口を掻い潜り、帝国主義の時代にも見事に適応できた日本が現下の変動に対応できないはずはない。私はそう確信しています。

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◆ナショナリズムと帝国-思想類型

グローバル化の昂進の中でナショナリズムはその神通力を漸次消失していくのか。私はそうは思いません。人口に膾炙していることですが、例えば、

現在のロシア国歌のメロディーは旧ソ連国歌のメロディーと同じ。すなわち、ソ連崩壊に際して、ロシアは歌詞も曲も全く別のものを一旦国歌にした。けれど、旧ソ連国歌の楽曲が世界的な名曲であっただけでなくロシア国民に深く愛されてきたことに鑑み、2001年1月1日、歌詞を差し替えてメロディーは旧ソ連時代の国歌に戻されたのです。

蓋し、ロシア革命と70年間とはいえソ連の一応の<成功>に本当に与して力あったものは、レーニンの強運でもスターリンの技量でもマルクスの天才でもなく、ロシアのナショナリズムの岩盤の強固さではなかったか。ソ連崩壊後、現在に至るも社会主義に対する低い評価が彼の地で回復することはないにも関わらず、メロディーだけとはいえソ連時代の国歌が復活したことはこのことの証左ではないでしょうかか。   

畢竟、ナショナリズムの岩盤は堅固であり、よって、ナショナリズムの神通力は容易には衰えないだろう。他方、<帝国>の規範的拘束力の基盤はそう強固とは言えない。なぜならば、ナショナリズムの基盤たる国民国家は、諸々の規範と価値が鬩ぎ合う舞台であると同時に規範と価値が紡ぎ出される<芽>でもあるのに対して、<帝国>は単に舞台にすぎないだろうから。支那清朝の名君・雍正帝の事績を反芻するに私はそう思わざるを得ないのです。


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清朝盛期の1728年に惹起した曾静事件(異民族の王朝の正当性と正統性に疑義を呈して、朱子学系読書人曾静が叛乱を扇動した事件)。時の雍正帝は、この教条主義者を単に処刑する道は選ばず、対等な立場で、徹底的な論戦を挑み、論破し転向させた。その問答を記した『大義覚迷録』にて雍正帝諭して曰く、

中華と謂い夷狄(東夷・西戎・南蛮・北狄)と謂う。両者の別は漢族たると非漢族たるの区別に非ず。一度、天命を授かり民心を得た者は、漢族・非漢族の出自の別を越えて中華の君主たらざるべけんや、君臣の忠誠を受くるの資格ある者にあらざるべけんや、と。


すなわち、中華と漢民族は位相を異にする概念である、と。帝国の正当化ロジックとしての中華主義の最も洗練された表現形態をここに見ることができるのではないでしょうか。しかし、この問答から180年、孫文の中国革命同盟会が1907年に東京で採択したその綱領には「駆除韃虜、恢復中華」((満州族の排除、漢民族支配の回復)の2項目が含まれており、孫文は明確に『大義覚迷録』のイデオロギーを否定したのです。   

孫文の顰に倣ったか、現在の支那では、帝国の正当化ロジックとしての中華主義は後背に追いやられ、単なる支那ナショナリズムが「中華主義の言語」を用いて記述されているだけのようにも見えます。

而して、マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(1852年-1869年)の劈頭の言、「歴史は二度繰り返される。最初は悲劇として、二度目は喜劇として」という傾向が歴史にはあるとすれば、<中世的帝国>も帝国の正当化ロジックとしての中華主義も解体してしまったように、現下の<皇帝なき帝国>も二度目の嘲笑の中で失速するのではないか。グローバル化の時代こそ自己の文化的のアイデンティティーの根拠が熱望されないはずはないから。そして、それを提供できる者は独りナショナリズムしかないだろうから。そう私は考えています。

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次項では、帝国とナショナリズムを巡るこれまでの認識を与件として、ナショナリズムの規範的な内部構造とその自己組織型の再構築のメカニズムについて検討したいと思います。



<続く>





(2010年10月10日:yahoo版にアップロード)

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偏狭12


◆ナショナリズムと国家-論理的考察

カントの「内容なき形式は空虚であり、形式なき内容は盲目である」の言葉通り、歴史的に特殊な社会思想である<ナショナリズム>の意味もまた「歴史的-論理的」に分析されるしかない。この経緯は、正に、百花繚乱、千紫万紅、個々の「国民国家=国家社会」に憑依しているナショナリズムの目も眩まんばかりの多様性についてだけではなく、「ナショナリズム」なるものに対する一般的な考究についても言えることでしょう。

英米流の分析哲学は、語を定義するという言語行為を、大きくは、「辞書的定義」「規約定義」「事実定義=語の経験分析」の三者に区別します(要は、その語彙が世間ではこのような意味で使用されてきたという情報提供、私はこの語彙をこれこれの意味で使用するという宣言、そして、過去の経験に基づきその語彙を巡り人々が連想する事態や事物の範囲や属性、構造や機能に関する陳述の三者を「語の定義」と考えるということ)。而して、「ナショナリズム」という語の経験分析から本稿では<ナショナリズム>を以下の意味で用いることにします。

(a))「ある国民国家のメンバーであることを自己のアイデンティティーとプライドの根拠と感じる心性」、(b)「(a)の心性が<私>だけではなく<我々>に間主観的に共有されており、かつ、その心性が共有されている事態は好ましいという心性もまた間主観的に共有されているという確信」、(c)「(a)の心性と(b)の確信は実定道徳の規範によって国民国家の内部で再生産されるべきであり、そのような実定道徳は<憲法>の一斑でもあるという判断」、そして、(d)「(c)の如き<憲法>秩序を維持し、かつ、当該の国民国家の存立と<我々>たる国民の生存を守護すべく、国家権力は国益の維持向上に最高の政策プライオリティーを置くべきだという主張」の複合体(★)   


尚、ここで言う<憲法>とは、法典としての()「憲法典」に限定されるのではなく、()憲法の概念、()憲法の事物の本性、そして、()憲法慣習によって編み上げられている、国家社会内部の<物語=最高法規体系>という意味で使用しています。而して、()~()とも、「歴史的-論理的」な認識であり最終的には国民の法意識(「何が法であるか」に関する国民の法的確信)が確定するもので、それらは単に個人がその願望を吐露したものではありません。もしそうでなければ、ある個人の願望にすぎないものが他者に対して法的効力を帯びることなどあるはずもないからです。






このように<ナショナリズム>を理解するとき、蓋し、左翼の論者が(「世界革命路線」を放棄して、彼等の心積もりではそれが仮初の「過渡的-戦術的」対応であったとしても)、ある「主権国家=国民国家」の内にその地歩を占め続けようとする場合、上で定義した<ナショナリズム>と、そして、歴史的に特殊なその当該の国家社会に憑依するナショナリズムの内容の多くは彼女や彼に対しても規範的拘束力を帯びる。と、そう私は考えます。

なぜならば、<ナショナリズム>を否定することは当該の国家の社会統合を断念することと同値であり、要は、当該の国家の社会秩序を否定することに帰すから。そして、その論者が左翼であろうとも、ある国民国家に住む者にとって、<ナショナリズム>とは<伝統>に基礎づけられた具体的なナショナリズムの規範と価値の体系を通して理解・感得できるもの以外ではあり得ないからです。

蓋し、例えば、旧ソ連の成立はロマノフ王朝の「家産国家」から脱してロシアが近代の国民国家を形成したとも解釈できること。また、日本の「安保闘争」は、60年安保も70年安保も、要は、「左翼の袢纏を着てした反米ナショナリズムの祝祭」であったとも位置づけられること。これらを鑑みれば「左翼の愛国心の可能性」は否定できない、但し、その愛国心の対象たる<国家>のイメージは我々保守改革派のそれとは些か異なるだろうけれども、と。そう言えるのではないでしょうか。

★註:ナショナリズムの「存在論的-認識論的」基底
フッサールに従い、例えば、乙姫様のいる竜宮城が「神話的世界」に属し、目の見えない方にとってのモナリザの絵は「伝聞の世界」に、そして、私の現前の電子辞書は<私>の「生活世界=生きられてある世界」に属するとしましょう。而して、<ナショナリズム>の定義を構成する(a)~(d)の契機の基盤には、国家がこれら三世界を縦断する重層的な観念表象であるという認識が横たわっています。

すなわち、ある事柄が、(Ⅰ)実証不可能であり、よって、(「その存在を疑うことができる」という意味で)可疑的な「神話的世界」、(Ⅱ)実証可能ではあるが可疑的な「伝聞の世界」、そして、(Ⅲ)実証可能で、かつ、(最早、その存在を疑う動機を<私>が保ち得ないという意味で)不可疑的な「生活世界」の三個の世界に跨がる観念表象として<国家>は<私>に理解されているということです。敷衍すれば、日本の国民国家は、例えば、(Ⅰ)『記紀』の神話の世界と、(Ⅱ)考古学的な知見や所謂『魏志倭人伝』の記述、あるいは、日々マスメディアが報ずる伝聞の世界にその座を占めているのみならず、(Ⅲ)<私>の「生きられてある世界」の中にも存在している。

ならば、「天壌無窮、皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」という、日本の国家社会を統合しているイデオロギーは、単なる右翼の願望ではなく論理的と社会学的に認識可能な観念表象と言えるということです。尚、この補注に関しては下記拙稿を併せてご参照いただければ嬉しいです。   


・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html


偏狭15




◆ナショナリズムと国家-歴史的考察

ナショナリズムは近代の歴史的に特殊な社会思想であり、それは、<中世的帝国>が担保していた社会秩序に比べて資本主義とより整合的な生態学的社会構造(自然を媒介として人と人とが取り結ぶ社会的諸関係の総体)と親和的な社会思想であろうと思います。而して、ナショナリズムは近代が産んだロムルスとレムスの双子の兄弟、すなわち、「主権国家=国民国家」と「国民=民族」に憑依した<守護霊>とも言うべき社会思想である。と、そう私は考えています。

狼に育てられたという伝承が示唆する通り、ローマ建国の英雄ロムルスとレムスの生涯は平坦なものではなかった。そして、この経緯は「主権国家=国民国家」と「国民=民族」についても同様でした。敵は内外に溢れていた。否、この獰猛な双子の新参者は内外の敵を容赦なく蹴落とした。

蓋し、①ラファイエットが美辞麗句を書き連ねた『人権宣言』(1789年)の可決から僅か5年後、1794年までの内乱で20万人~90万人が虐殺された(しかも、彼のギロチンで「正式」に処刑された者は4万人程度に過ぎず、他は、有名な「ナントの溺死刑」等、裁判なしの処刑や単なる虐殺の犠牲者としか考えられない)フランス革命の経過。そして、②ソ連成立時の凄まじい粛清と殺戮、ひいては、③我が戊辰戦争や西南戦争での惨状を想起すればこのことは思い半ばに過ぎるのではないでしょうか。   

偏狭14



畢竟、国民国家と「国民=民族」という双子の誕生期。<中世的帝国>の世界観が漂っていた社会では、同胞同士が鬩ぎ合い夥しい血が流されました。何のためにか。新しく成立する国民国家の構成メンバーになるために/構成メンバーからの脱落を阻止するために。ならば、春秋の筆法で記せば、これらの内戦の犠牲者は<ナショナリズム>が地上に降臨するために必要な生贄であったと言うべきなのかもしれません。

国民国家と「国民=民族」の成立期から幾星霜。それら双子の新参者が、最早、極自然な存在と受け取られるようになった20世紀後半以降は、寧ろ、ナショナリズムは諸民族と諸国民をして各々の自国をより完全なる国民国家にすることを促す機能を果たしているの、鴨。ソ連崩壊とともに雪崩を打って自由主義化・資本主義化した東欧諸国のあり様はその実例でしょう。そして、繰り返しになりますが、日本の「安保闘争」という事態もその一例なの、鴨。そう考えれば、西部邁さん香山健一さん等々、両安保闘争を担ったプロミネントフィギュアーがその後「保守派」に転向したとされるのも寧ろ彼等にとっては自然の成り行きであったの、出羽。と、そう私は考えるのです。


偏狭11



マルクスの理路を使いこれまでの考察を<検算>しておきましょう。蓋し、マルクス『ユダヤ人問題によせて』『ヘーゲル法哲学批判序説』(1844年)の地平によれば、国民国家の成立は、

(1)<中世的帝国>を依代とする世界観の下、経済活動を統べるルールが社会的諸関係自体に埋め込まれていたプレ近代の社会が、(2)私的活動に特化する市民社会と、他方、国家権力の行使を専らその機能とする政治的国家に分裂した事態であると描かれる。   

而して、やはり、マルクス主義社会理論の陥穽はそれが国家権力と国家社会の、あるいは、市民社会と国家社会の違いを認識できていないことだと思います。例えば、(もちろん、その後の『ナショナリズムとジェンダー』(1998年)等の著作で著者自ら自説の不十分さを認めてはいるのだけれども)上野千鶴子『家父長制と資本制』(1990年)のような、教条的マルクス主義者と著者自身一線を画しておられるはずの作品でさえ、「市民社会=市場原理が貫徹する世界」という、このマルクス主義の誤謬と桎梏からは自由ではないのですから。

ならば、国民国家の成立はどう理解すべきなのか。蓋し、それは、(1)プレ近代の社会が、(2)市民社会と政治的国家に分裂した事態というマルクスの認識を引き継いだ上で、

(3)市民社会と政治的国家の両者、加えて、<伝統>が生きられてある生活世界たる国家社会の三者が、<ナショナリズム>の契機によって相互に連関づけられ、恒常的に社会統合を担うイデオロギー、すなわち、<政治的神話>がその国家社会内部で自生的かつ自己組織的に再構築されている事態である、と。そう言うべきであろうと思います。    


畢竟、確かに、ナショナリズムは生態学的社会構造に底礎される観念表象が織成す<物語の体系>に他ならないでしょう。而して、マルクス『ドイツ・イデオロギー』『経済学批判序説』(1845年-1846年,1859年)流に言えば、それは社会のイデオロギー的な上部構造ということになる。しかし、ナショナリズムは国家社会の内部で規範的拘束力を保持しており、よって、「国家社会-市民社会」と「国家社会-国家権力」の回路を通してそれは、<伝統>を媒介に自己を恒常的に再構築する社会思想でもある。と、そう私は考えています。

以下、次項では、これらの考察を踏まえて、「帝国と国家の交錯」の切り口からナショナリズムの内容自体について検討を進めていきます。


<続く>



偏狭13




(2010年10月9日:yahoo版にアップロード)

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扇


仙谷由人官房長官が尖閣諸島問題を巡り「日本も中国も偏狭で極端なナショナリズムを刺激しないことを政府の担当者として心すべきだ」(2010年9月21日)と述べた由。確かに、支那国内での反日デモやこの1ヵ月足らずの間に日本国内で高まった支那脅威論に(10月1日・FNN&産経新聞合同世論調査で71%が「支那は脅威」と回答)、日支両政府が引きずられることを危惧した発言としては、蓋し、評論家の発言としては満更不適当とは言えない、鴨。しかし、私は政府高官の発言としては仙谷氏のこの「偏狭なるナショナリズム批判」は妥当性ではない。と、考えています。




「偏狭なるナショナリズム」なるものの忌避は、しかし、日本ではあたかも当然のことのように報じられている節がある。けれども、「偏狭なるナショナリズム」なるものの意味自体はそう明確ではないようにも思われる。本稿は、この「偏狭なるナショナリズム」という言葉を導きの糸にして国家と帝国とナショナリズムが交錯する構図を一瞥するものです。

ナショナリズムへの嫌悪や軽蔑には、国家の死滅を予想したマルクス主義の影響からいまだに脱しきれていない「団塊の世代」を最終ランナーとして、他方、国家を必要悪と看做すフランス流の「立憲主義」の影響を受けたリベラル派を先頭ランナーとして、蓋し、大きくは二つの潮流が日本の社会に跋扈しているのではないでしょうか。先ず、これらの反ナショナリズムを俎上に載せることから「偏狭なるナショナリズム」なるものの考察を始めたいと思います。


nationalpeople.jpg



◆反ナショナリズムの陥穽と誤謬

二つの潮流をなすと思しき「反ナショナリズム」や「嫌ナショナリズム」の認識は、しかし、例えば、マルクス自身が、資本主義社会から社会主義社会への複線的な移行の可能性を容認したとされる(すなわち、その国家社会の文化的背景の違いによって社会主義への進路は複数あり得ることを示唆したとも言える)『ザスーリチへの手紙』(1881年)を傍証に挙げるまでもなく、「国家=国家権力」への彼等のかなり特殊な認識でもって「国家=文化共同体としての国家社会」に対する否定的価値判断を下すものであり、論理的には成立しない議論でしょう。

なにより、近代の「主権国家=国民国家」の成立以降、国民意識としてのナショナリズムは国家社会を統合するイデオロギーの中枢、すなわち、<政治的神話>の核心に他ならず、よって、ナショナリズムの忌避は国家社会の秩序を否定することを意味する。而して、現下のグローバル化の昂進著しい<皇帝なき帝国>の時代において、個々の人間実存の生活と生存とアイデンティティーをグローバル化の波濤から守護する「主権国家=国民国家」の機能が死活的に重要になっている現在、「国家との闘争ならぬ、国家からの逃走」を夢想する彼等のナショナリズム批判の心性はそのリアリティーをも喪失していると言うべきでしょう。

畢竟、ナショナリズムへの日本特有の嫌悪感や軽蔑は、「各主権国家が、外に対してはその国益をマキシマムにすることを意図しつつ、内においては社会統合のイデオロギーをメンテナンスしつつ国民の一体感を演出することを怠らないという世界の現実」を看過する、①先進国の、②都会に住む、③ホワイトカラーの、④現実逃避の戯言に他ならない。と、そう私は考えています。


Germany-football-fan-Worl-006.jpg



◆ナショナリズムの歴史的特殊性

その二大潮流とも、日本でのみ見られる反ナショナリズムは「論理的-歴史的」に成立しない。けれども、他方、ナショナリズムは、あくまでも、極めて近代の歴史的に特殊な社会思想にすぎないことも事実なのです。すなわち、ナショナリズムは人間実存にとって自然的のものでも純粋に自生的なものでもないということ。

畢竟、ウェストファリア条約の締結(1648年)からナポレオン覇権下のその解体(1806年)に至る緩やかな「自然死」の過程でも、神聖ローマ帝国の権威を基盤とする<中世的帝国>の世界秩序が18世紀半ばまでの欧米社会では寧ろ自然で親しいものだったのです。その解体に至るまで、神聖ローマ帝国は(「それは「神聖」でも「ローマ的」でも最早「帝国の実を備えたもの」でもない」と揶揄されていたにかかわらず、そのあまり誇らしいとは言えない現実とは別に)、「神聖ローマ帝国の形成する<宇宙>の時空間内に諸民族や諸王家が存在している」という人々が抱く「世界観=宇宙観」が憑依する依代であり、その「世界観=宇宙観」は効力を持続していたということです。

尚、蛇足になりますが、支那の中華主義や民族と人種を超えるイスラーム共同体の理念、あるいは、所謂「一国社会主義路線」に転換する以前の「世界革命路線」の社会主義もまた、ある意味、このような「帝国=宇宙」の世界観に分類されるの、鴨。   

而して、領土・国民・主権によって構成される、内においては最高の統治権を保持し、外に対しては対等独立な対外主権の主体である(よって、その国内においては全知全能であるがゆえに、ホッブス(1588年-1679年)の言葉を借りれば、「可死の神」でさえある)近代の「主権国家=国民国家」は、17世紀-18世紀、否、一部19世紀初葉でさえ欧米の人々にとっては得体の知れない<リバイアサン>であり、ある種、不気味な存在だった。

畢竟、(イ)(現在でもフランスでは実定憲法の一部を構成する)所謂『人権宣言』(1789年)がその16条で「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」として「権力の分立」の制度による国家の権力濫用の抑制をはかり、

他方、(ロ)英国では13世紀の『マグナ・カルタ』(1215年)の捉え返しやコモンローの普遍性の捏造によって、例えば、エドワード・コークの有名な言葉、「王権も法の下にある。法の技法は法律家でないとわからないがゆえに王の判断が法律家の判断に優先することはない」「国王といえども神と法の下にある」(1606年)という「法の支配」の原理により国家の専断的な権力行使を制限する、所謂「マグナ・カルタの神話」が17世紀に成立したこと。

そして、(ハ)拡大解釈を可能な限り封じるべく連邦政府の権限を制限的に列挙している『アメリカ合衆国憲法』(1787年)を紐解くならば、独立当時のアメリカの人々が国家の権力行使をいかにして制御するかに苦心していたかを誰しも容易に追体験できるのではないでしょうか。

尚、「法の支配」と保守主義に関する私の基本的な理解については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。   

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139182915.html


愛国1


ことほど左様に、17世紀-18世紀、新参者の「主権国家=国民国家」に対して当時の欧米の人々が警戒感と猜疑心を抱いていたことは自明でしょう。ならば、その「主権国家=国民国家」と表裏一体のナショナリズムもまた人類史の中では比較的新しい社会思想であり、そう自然な事柄ではなかった。このことも明らかではないかと思います。而して、例えば、次のような「愛国心=ナショナリズム」に対する素朴な理解は、社会理論的には正しい一点を突いているが、しかし、社会思想史的には間違いと言うべきなのです。

日本では、「愛国心=偏狭なるナショナリズム」と言う論調がメディアにおいて優勢のようです。しかし、誰だって自分の故郷には愛着を持つもの。誰だって子供時代の懐かしい風景に強い郷愁と愛情を持つでしょう。「愛国心」とは、正に、そういうことの積み重ねの上にあるものであって、それは真っ当な感情であって、誰もが心の中に持っている当たり前の心情ではないでしょうか、と。    


蓋し、郷里への慕情やコミュニティーの紐帯。それらの「積み重ね」の上に、現在の日本で「愛国心=ナショナリズム」が表象可能であり涵養可能ということは正しいでしょう。けれども、「主権国家=国民国家」という契機を欠いていたとすれば、たとえ、その「積み重ね」が数千年に及ぼうとも「愛国心=ナショナリズム」は成立しなかった。繰り返しになりますが、17世紀-18世紀の欧米社会でのみ、かつ、神聖ローマ帝国の政治的な解体にともなう<中世的帝国>の神通力の消失という歴史的背景を得て初めて「愛国心=ナショナリズム」は成立したのですから。

畢竟、上に記した素朴な「愛国心=ナショナリズム」理解は、ナショナリズムをメンテナンスする社会の構造や仕組みと、片や、ナショナリズムの源泉(すなわち、ナショナリズムの成立原因とナショナリズムの規範の効力根拠)を混同するものだ。と、そう言えるのではないでしょうか。而して、ナショナリズムが自然な事柄ではないことと、しかし、他方、それが「主権国家=国民国家」成立以降の国家社会では必然性に近い規範的拘束力を帯びていること、この一見相矛盾する経緯を理解するについては、次のゲルナーの認識が参考になると思います。

民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは、以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも、多くの場合それらを根本的に変造してしまう。死語が復活され、伝統が捏造され、ほとんど虚構にすぎない大昔の純朴さが復元される。(中略)

ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。それは、偶発的なものでは決してないのであって、それ故簡単には拒めないであろう。

【出典:アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)
 引用は同書(岩波書店・2000年12月)pp.95-96】    



愛国2


反ナショナリズム批判を嚆矢としてナショナリズム成立の事情を一瞥しました。而して、このようなナショナリズム理解を前提に、以下、慌しく、「偏狭なるナショナリズム」なるものの検討に移ります。蓋し、その思索は、保守主義からする国家と帝国の概念の吟味検討を横糸に、他方、国民国家の成立事情と揺らぎの現状の省察を縦糸に進められますが、その思索の切り口は「左翼の愛国心の可能性」という論点です。

尚、本稿では保守主義について詳しく触れる余裕がありません。よって、保守主義とマルクス主義を巡る私の基本的な理解については下記拙稿をご参照ください。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11145893374.html


・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139986000.html


<続く>



愛国33





(2010年10月8日:yahoo版にアップロード)

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jackrantan


尖閣諸島問題を巡って、菅直人首相は「日中の双方が冷静に行動することが必要」(2010年9月26日)と述べた由。また、日本のマスメディアには「冷静な対応」を日本と支那の両国政府に求める論調が散見されるようです。しかし、生身の人間ではない、自然人ではない国家や政府が採用する外交施策が「冷静」であるとか「感情的」であるとかは果たしてどのような事態なのでしょうか。また、そのような「冷静なる外交」なるものが一体、領土や歴史認識という国家主権のハードコアに関して成立し得るのか、成立するとして、そのような外交スタイルの採用が妥当なのか。これらのことを英米流の分析哲学の手法を援用しながら考えてみたいと思います。

こう大上段に構えたものの、実は、「冷静な外交」という言葉の意味を明確にした例は、少なくとも、菅首相の談話はもちろんのこと朝日新聞や毎日新聞という反日メディアを検索しても見つけることができませんでした。要は、この「冷静な外交」はその語義が不分明なまま流布されている可能性が高いということ。

而して、この事態は、あるいは、「偏狭なナショナリズム」「過剰な愛国心」という言葉を巡る事態とパラレルなの、鴨。ということで、本稿では私なりの「語の論理分析」を提示して、冒頭に自ら掲げた疑問に答える橋頭堡を築くことで満足するしかない、鴨。つまり、本稿は、喩えるならば、家飼い猫の「真赭ちゃんと蘇芳ちゃん」(仮称)が出窓の内側から外界の雀さんを狙うが如きものなの、鴨。このことは、予め皆様にご了解いただきたいと思います。


真赭ちゃん蘇芳ちゃん2



自然人ではない国家や政府の外交施策について「冷静な-感情的な」という形容句がつく場合、その形容句が修辞的なものではないとするならば、それは、「外交」を要素とする集合の内部に、「冷静なる外交」や「感情的な外交」と呼ばれるに相応しい要素が形成する集合が包含されていることと同値でしょう。この経緯は、日本の中学校の数学でも習う「集合論」からも、それこそ、中学生が理解可能な事柄です。ただ、この「冷静な外交」が「外交」の(真)部分集合でなければ、「冷静な外交」なる言辞は、単なる修辞学的なこけおどしに過ぎないという経緯は重要。以下、敷衍します。

「赤い薔薇」という言葉に含まれる「赤い」という形容句がこの世に存在する/存在した/存在しうるすべての「薔薇」の中から、あるタイプの薔薇を選び出し切り取っているように(ここで「赤い」と「薔薇」の定義に踏み込む議論は割愛します。)、「冷静な外交」という言葉は、世の森羅万象に散見される多様な外交の中から特殊なあるタイプのものを選び出し切り取るのでしょうか。それとも、「冷静な外交」という言葉は、例えば、「我が偉大なる巨人軍」、あるいは、「偉大なる領袖」「我等が親愛なる指導者」とかの修辞的形容句に飾られた語句とパラレルな<無意味>なものなのでしょうか。


すなわち、「赤い薔薇」の「赤い」の如き(対象を切り取る)限定的な用法とは、おそらく、異質な形容句の用法をこれら「我が偉大なる」「偉大なる」「我等が親愛なる」の形容句に認める場合、(繰り返しになりますが、多くの「プロ野球球団」「領袖」「指導者」が各々構成する集合の中から読売ジャイアンツ、金日成主席や金正日書記を切り取る機能をこれらの形容句が果たしているのではなく)、つまり、J.A.オースティンの言う意味での「言語行為」の一斑として、「そうなれあれかし!」という話者の意志や願望や計画の吐露、あるいは、「その実現を妨害するようなら対抗措置を覚悟せよ!」という威嚇の表明等々のどれかであろうと考える場合、「冷静な外交」という形容句の用法は果たして前者か後者か、事態の記述に奉仕する限定的用法かそれとも事態の実現を目指す言語行為を飾る非限定的用法なのか。    

これが問題の所在ではないか。そう私は考えるのです。

◎ 「冷静な外交」という言葉が<無意味>ではない条件

・「冷静な」という形容句が限定的用法に用いられていること
・「冷静な外交」という言葉が現象を記述するものでもあり、自己の欲求や願望や威嚇を示唆する言語行為には尽きていないこと


真赭ちゃん蘇芳ちゃん1



上述の如くに「冷静な外交」という言葉を巡る構図と問題の所在を整理する場合、私は、この言葉が<無意味>でないためには、すなわち、それが「偉大なる領袖」「我等が親愛なる指導者」の如き自己満足的で近所迷惑な五月蝿い呟きに止まらない条件を下記の2個と考えます。蓋し、

(α)トータルで日本の国益に利すること
(β)実定国際法および確立した国際政治の慣習的ルールやそれら諸法規や諸ルールを基底で支える価値体系(国際法を巡る実定道徳)に反しないこと

なぜならば、自然人ではない日本国や民主党政権の行為に対して「冷静-感情的」という形容句が付加され得る論理的局面とは、国家や政府を巡る森羅万象的現象の中でそれらが法人格を認められる際の<行為>に限られるだろうからです。文芸評論でもない限り、「擬人法」が<意味>を帯びるのはその行為主体に<人格性>が認められる場合に限られるだろうということ。而して、国家や政府を巡る諸現象について、「冷静-感情的」の性質の有無と程度を決定するものは「法的評価=法的価値判断」と「実定道徳的評価=道徳的判断」以外には存在しない。と、そう言い切っても満更我田引水的言説ではないと思います。


真赭ちゃん蘇芳ちゃん3


ここで些か脱線になりますが「左翼」および「ナショナリズム」という言葉の内容を整理しておきます。畢竟、現在、尖閣問題に関して、民主党政権のことを「反日左翼政権」と呼ぶ言説を保守系のブログでしばしば見かけるから。もちろん、この民主党認識は海馬之玄関ブログの公式見解(笑)とそう異なるものではないのですが、しかし、ことはそう簡単でもない。

第一に、「左翼」について言わせていただければ、実際、産業・福祉、財政・金融の各政策に関して「左翼的=契約自由の原則の修正・所有権の制限・過失責任主義の修正を基盤とした経済社会への国家の計画的な容喙を認める傾向」を保持しない政権政党などは、2010年のこの世界に存在しない。逆に、今時、「労働価値説」「唯物史観」<法則>と考えている政権政党も世界の先進国・中進国にはまず存在しない。ならば、この「左翼」の切り口からは(再々になりますが、「左翼政党」に含まれる形容句たる「左翼」という言葉を限定的用法と捉える限り、よって、「左翼政党」という言葉は現象を記述するものと理解する限り)「民主党が左翼ならば日本の自民党も欧米のすべての政権政党も左翼であるか、民主党は左翼ではない」と言わざるを得ないと思います(而して、民主党政権の際立った「左翼性=反日性」は社会主義からだけではなくリベラリズムから規定されるべきでしょう)。   

畢竟、日本の所謂「安保闘争」とは、60年安保も70年安保も、要は、「左翼の袢纏を着てした反米ナショナリズム運動」であった。ただし、60年安保の際には、「労働者の祖国=ソ連」の社会主義の権威だけで運動の結集軸が賄えたのに対して、70年安保の際にはそれでは足りず、(全共闘運動の中枢たるML派に顕著な如く)毛沢東というか文化大革命というか、「アジア的共産主義」の権威をも使わざるを得なかった。けれど、そこに前提されていた「反権力」「反米帝国主義」の構想力は、所詮、マルクス主義からの国家の相対化と唯物史観、フランス流の立憲主義からの「国家=必要悪」イメージと近代国際法の主権国家平等の原則に依拠した「畳の上の水練」レベルに止まっており現実の経済社会との接点は乏しかったの、出羽。

第二に、現下の、①グローバル化の昂進著しい、②大衆民主主義下の、③行政権が肥大する福祉国家の、④国民国家において、()それが政権政党であろうとする限りは、()ナショナリズムは当然の前提であり、まして、()「外に対してはその国益の極大化、内においては社会統合イデオロギーのメンテナンス」は<必須科目>ということ。要は、この点でも自民党と民主党には(否、それが本気で政権を狙うのなら共産党でさえ)普天間問題の帰趨を反芻すれば自明な如く、紆余曲折は経るとしても、おそらくそう政策の枠組に広狭の差はない。   

ならば、ここで個別現下の日本における「ナショナリズム」の政策的な帰結を、すなわち、<反・反日的施策>の内容を、(イ)反日をその国是とする特定アジアに利する行為をしない、(ロ)日本の社会統合の軸をメンテナンスすることを怠らないという2点に集約する場合、民主党政権の「反日濃度=反ナショナリズム」は、日本共産党に比べても寧ろ高濃度とは言えるけれども、それは自民党の濃度と比べて程度の問題であるというのも厳然たる事実ではないかと思います。


注意すべきは「特定アジアを利する施策」が自動的に<反日的施策>になるわけではないということ。すなわち、ゲーム理論における、所謂「交互プレーの連続ゲーム」では(要は、ジャンケンのように、各プレーヤーが同時に戦略を選択するのではなく、囲碁将棋のように交互に各プレーヤーが戦略を選択し、かつ、Jリーグのリーグ戦や麻雀で「毎日半荘2回を競い年2回清算」するような長丁場の戦いの場合)、例えば、為替の協調介入の如き、特定アジアに有利でかつ日本にとって損のない手や局面、またはその逆の手や局面は幾らでもあり得ることです。

(a)ならば、反日勢力を利するからそれは当然に日本にとって良くない施策とも言えない。世界は日本と特定アジアだけでなりたっているわけではなく、日本と特定アジアを中心に世界が廻っているのでもないから。また、すべてのゲームが1回限りの「ゼロサムゲーム」というわけではないからです。

(b)しかし、領土、そして、国家統合のためのイデオロギーの一斑たる歴史認識や天皇制は、土台、交渉イシューではない。実際、民主党政権下の日本の以外の世界の国々は「交渉可能なイシューと不可能なイシューの境界はどこか」「交渉可能なイシューに関して相手の譲れる一線はどこか」を瀬踏みしながら交渉している。と、そう私は確信しています。   


而して、「冷静な外交」とは何か。帰結はシンプル。

すなわち、

(甲)ゲーム理論的に見た場合、「交互プレーの連続ゲーム」という外交が属するゲームの事物の本性から見て、(乙)日本政府の施策が、トータルで国益に利する場合、かつ、(丙)日本政府の施策が、「実定国際法および確立した国際政治の慣習的ルールやそれらを基底で支える価値体系に反しない場合」、その外交の施策は「冷静」である。


と、そう言えるのではないでしょうか。ならば、「戦争や武力の行使は何があっても避けるべきだ」、「経済制裁や支那人の入国制限は望ましくない」「彼や彼女に工作員の疑いがあろうとも、その支那人の活動を制約することは許されない」等々の、「感情的な言説」でもって、日本が本来取るべき「冷静な外交」を妨げることは、国益に反する反日的の言説に他ならない。而して、そのような、マスメディアの感情的な論調を隠れ蓑にして、本来粛々と進めるべき「冷静な外交」を民主党政権が怠るとすれば、それは、無能な政府の無為無策と断ずべきであろう。と、そう私は考えています。



fightingcats





(2010年10月6日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済

波浪印2


保守系最大ブログ、ブログ友のPONKO姉さんの記事転載。思わず転載。
なぜならば、この記事、いつにもまして、


б(≧◇≦)ノ ・・・単刀直入、論旨明快、内容適切!
б(≧◇≦)ノ ・・・吉野家の牛丼並に卵&味噌汁並の傑作!!











◆沖縄県民はタカリ県民か


米軍基地のない沖縄地域でも損害を訴えようと基地外運動が始まった。

ますます沖縄の人達への不信が高まりそうだ。

金になるなら何でもするというのか。


本土から移り住んだ一部の左翼が沖縄を牛耳っているのであって、一般の沖県民は違うと思いたいのだが。

尖閣諸島沖の操業を保護しろと政府に要求するくせに、沖縄の米軍基地は出て行けと言うし・・・

あまりに身勝手ではないか。


なんかゴネ得の見本みたいになってしまうと、日本の安全保障もヘッタクレもなくなってしまう。

それともなにか、運動の陰に補償金をせしめようとする市民活動家や政治家たちがいるとでもいうのか。



◎産経ニュース(2010/10/04)
「基地なくても被害ある」 沖縄の5市町村が協議会


国内の米軍専用施設の約74%が集中する沖縄県で、基地がない市町村にも被害があることを県内外に訴えようと、豊見城市などの5市町村が4日、「米軍基地の所在しない市町村連絡協議会」を立ち上げた。

沖縄には既に県と27の基地関係市町村による「軍用地転用促進・基地問題協議会」があるが、基地のない自治体だけの協議会設立は初めて。

県内41市町村のうち、米軍施設がないのは20市町村。協議会は比較的基地に近い中城村、豊見城市、南風原町、与那原町、西原町で構成し、米軍機の騒音調査や政府、米軍、県などへの要請を連携して行う。

5市町村は同日、県庁で記者会見し「米軍機の騒音被害や墜落の危険性など、基地がある市町村以外でも、基地から派生する諸問題があり、一歩間違えば大きな事故につながる」と声明を発表した。



転載元: 反日勢力を斬る(2)

http://blogs.yahoo.co.jp/nipponko2007/36226286.html








【解題】

蓋し、予算だけポッケに入れて、やらずぼったくりの沖縄県は、そろそろ支那にでも併合されるなり独立されるなりされればよろしい。簡単なことではないでしょうか。県民もそう望まれている由、ですし。

対支那を考えた場合、いかに、沖縄が地政学的に重要でも、<小早川秀秋>するのが確定的な沖縄を、「帳簿上味方」に記載しつづけようというのは、気休めにしかすぎす、百害あって一利なし、ですから。而して、地理的にも歴史的にも<非対称的な47都道府県>が平等に米軍基地負担をするべきだ、などは、平等好きの日教組先生レベルの戯言に過ぎない。と、そう私は考えています。

而して、保守系ブログを覗けば、

「アメリカの基地を望むのか、中国の支配を望むのか」という二者択一の選択を沖縄は迫られる日も近い気がします。という意見も目にする。そうかもしれない。

けれども、大きくはそうかもしれませんが、ゲーム理論的に見た場合、そのゲーム樹の途中には、①アメリカが沖縄、そして、日本に愛想を尽かす、②日本の非沖縄都道府県民が沖縄に愛想を尽かすという契機があるようにと思います。畢竟、沖縄は、「どうゴネても日本もアメリカも沖縄を手放すことなんかないさー」、という認識が満更間違いではなかったかもしれない、古き良き冷戦構造はとっくに終わっていることをそろそろ知るべきではないでしょうか。

実際、私の乏しい20余年のアメリカ体験によれば、知識人層の95%までは日本の安全保障に無関心であり、また、日本に関心のある残り5%を100にした場合、その95%は「なんで、日本のためにアメリカの若者の血を流さなあかんねん」と思っており、アメリカという国の立派さは、この知日派の多数派の感覚は潜在的なアメリカの世論の意向とぴったり重なること。蓋し、沖縄県民がそれを望むのならば、沖縄はもう日本にはいらんです。と、そう私は考えています。

ということで、


б(≧◇≦)ノ ・・・打倒、民主党!

б(≧◇≦)ノ ・・・但し、棚ボタでは政権奪還はできない!

б(≧◇≦)ノ ・・・問題は、問題の民主党政権よりも自民党である!



要は、凄まじい民主党に比べても、「とにかく自民党の政権復帰は嫌だ!」という国民の<感覚>が存在する<事実>は事実であり、それを直視しなければならない!


б(≧◇≦)ノ ・・・「麻生総理」come back!

б(≧◇≦)ノ ・・・「麻生総理」断乎支持! 頑張りましょう。



共に闘わん!



尚、この記事に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・「沖縄は中国領?」☆さよか、なら、「さよなら沖縄♪」かな?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59900150.html

・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59898544.html







(2010年10月5日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 沖縄米軍基地問題
ジャンル : 政治・経済

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おそらく、「そういえば、禁煙して2年半が経ちました」というタイトルを見ただけでもこれが、KABU自身の記事ではないことは、リアルで交流のあるブログ友はお分かりでしょう(笑)  はい、これはブログ友のvanilleさんの記事、転載です。この10月1日からのタバコ値上げを機会に禁煙しようと思っている皆さんに(そこ、福島県南相馬市の原町のアイアン鉄夫さん! 君もだよぉー!)参考になるようにというか、エールを送るべく転載させていただきました。




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ども。ようやく晴れた。
洗濯物が夜までに乾きますように(明日着る服が無い)。ヴァです。・・・

そういえば、タバコが値上がりしましたね。ざまぁ。
←意地悪。でも本心。

これで歩行喫煙者が減ってくれればいいのですが。別に煙草を吸うのは良いんですが(自分もさんざん吸ってたし)、人に迷惑を掛けるなよ、と。まぁ、ジャンキーと一緒なんで、しょうがないのかな。哀れ。中毒患者ですからね。

と、禁煙に何とか成功しているおいらからすると、喫煙者はそう見えます。無駄に税金払って(それを言うと酒もそうなんだが)、金を燃やしてその煙を吸って、体を病気にさせようとしているお馬鹿さん、とおいらは思うようになりました。辞められないのも良く分ります。おいらもさんざん禁煙失敗しましたから。

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周りに喫煙者のいる環境だと禁煙は難しいです。


最近のオフィスは喫煙所以外では吸えないとか、ビル内全部禁煙とか増えているらしいですね(おいらはサービス業なので良く知らん。うちの店は他にお客さんが居なければ喫煙可能にしています。おいら一人が我慢すればいいだけなので、お客さんにはリラックスしてもらいたいから。←一人の滞在 時間が平均2~3時間っていうのも全面禁煙に出来ない理由の一つ)。そういう環境なら禁煙はじめて3ヶ月くらい喫煙者となるべく行動を共にしなければどうにか辞められるかも知れませんね。


あと、完全に辞められるまでは仕事帰りに居酒屋行かない事。
それから辞める理由を明確にしないと辞められません。


○○の為に辞める、というお題目がないと禁煙を始めたばかりの頃の禁断症状に耐えられないと思います。あ。○○の為のお題目が自分の為とかだと難しいです。誰でも自分には優しいですから。家族の為とか新築の家が汚れない為とかペットの為とか何かしら理由付けしないと無理かも。400円台って払える金額ですよね。


あと、自力で辞めようと思わないこと。

強い煙草をたくさん吸ってた人はニコチン切れの禁断症状を舐めたらいけまへん。ニコチンパッチとかニコレットとか薬に頼りましょう。凄く効きます。(一度、ニコチンパッチ張り忘れてお出かけした時の苦しみ。ニコチンパッチがある無いで禁断症状が劇的に緩和されます)で、1ヶ月くらい煙草を吸わないでいられたら、後はパッチやガム無しでも何とかなります。

なりました。

おいらは肌が弱いみたいで、パッチの糊で被れてしまい(相当腫れてかゆかった)、丸一ヶ月でパッチの使用続行は不可能になり、手に入れたばかりの新しいパッチ20枚が全てパーになりました。だって、張るととんでもなく痒いんですよ。ぷくーって腫れるし。その後はガム噛みまくって(二日でボトル一本とか。あごが外れるかと思った)何とかやり過ごしました。


で、3ヶ月すると、煙草の臭いが「臭い…」と思うように。そうなったらこっちのもんです。

時々襲ってくるタバコが吸いたい欲求と戦いながら、でも、その頃には禁断症状はなくなっているので自分との戦いのみです。まぁ、それほど依存度が高くなくて2~3日くらい煙草吸わなくても平気という方、結構そういう方の方が精神依存が高いので辞めにくいみたいです(おいらの友達はそういうタイプで子供を生んでも辞められないらしい。タバコを辞めたから言うが、マジで赤ちゃん可哀想。風邪引きやすい子に育ったら、お前が原因だ、と思いましたが人の家のことなので何も言いませんでした。)


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あ。タバコが格好良いと思ってるなら、それは大いなるカン違い。

映画やテレビの向こう側のハンサム役者が吸ってたら格好いいけど、そういう人はごく一部のイケメンであって、その他大勢はタバコが似合ってるか似合ってないかとか正直どうでもいいタイプの人間であると思ってください。

あ、そうそう。女性の喫煙者。おいらも2年前まではその一人でしたが、女の喫煙は格好悪いということがやめて良く分りました。タバコ臭いのも女度を下げますし、歯の裏が黄色いのもサルみたいだし、自覚が無いからなのかもしれませんが鼻から立ち上る煙に目をしかめてる不細工女とか見ると「ああ、ああはなりたくないな」と 女としての美意識が働きます。(鼻から煙出してるブスって結構居る)美人のオネエチャンとすれ違って煙草臭かったりすると非常にがっかりします。あと、香水が強すぎるのも結構がっかりします。香水と煙草の臭いが混ざってたりすると、息を止めます。(臭い嗅ぎたくなくて)

以前はおいらも格好つけて煙草を吸っていましたが、タバコを辞めると色んな物事が見えてきます。喫煙者がいかに迷惑な存在であるか。いえ、マナーを守って煙草を吸っている人は良いんですよ。非喫煙者になるべく煙が行かないよう常に気を使うとか、煙が万が一行ってしまったら一言謝るとか、歩き煙草はしないとか、灰皿の無い場所で喫煙しないとか、飲食店では風下に座るようにするとか。

数えだしたら切りが無いんですけど、
そういう人に迷惑掛けるなって
JTもコマーシャルしてるじゃないですか。

 
つうか、煙草、もっと値段上げればいいのに。1000円とかにしても吸う奴は吸うよ。でも、1000円だったら中学生は買わないよね。高校生もバイトしてなかったら買わないよね。親も一箱1000円もする煙草なら子供に吸わせないだろうし。

毎年10円ずつ値上げすればいいのに。じわじわ値上げすれば、今回みたいに100円以上値上げする時より禁煙始める人減るんじゃないかな。税収も上がるし。一箱1000円が上限にしておいて。来年から開始すれば1000円になるまでには数十年かかるっしょ。うるう年は20円upとか。

おいらの友達には喫煙者はかなり減りましたが、お客さんはまだ結構居て、500円までなら払っても良いとか言ってるから、来年から毎年10円値上げしても8年は吸い続けるみたいですよ?(洋モクの場合)あ、うるう年は20円アップだから6年?間に二回オリンピック挟むよね? ああ!オリンピックの年は健康の為にいつもの倍値上げ! みたいな!
 

辞めたから何でも言えるよな。無責任な事。


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禁煙を考えてる人、もしくは今日から禁煙を始めた人、頑張ってくださいね。

はじめは太るけど(煙草を吸いたいという欲が食欲に変わるので)、運動すればちゃんと痩せるし(おいらは運動しないのでどんどん太ってますが)、ご飯が美味しいですよ。風邪引きにくくなるし、何より口が臭くない。

荷物も減るし、かばんの中が煙草の葉っぱでざらざらしなくなるし、ライターのガスが切れたって言ってキッチンで前髪燃えることも無くなるし、朝煙草吸って出勤して家に帰ったら全焼してたとか、夜中に煙くて目が覚めたら自分の部屋が燃えていたとか、アパートだったら賠償金払えって言われて借金地獄になったり、自分の家だったら家族の誰かが自分の火の不始末で死んじゃったり

レストランで喫煙席は満席ですって言われてお店換えたり(連れの人は「別にいいよ」って言ってくれてもそれは社交辞令で「まじめんどくせー、煙草くらいがまんしろ、くそが」って思ってるはず。)、部屋の掃除してるときについうっかり白い壁を拭いたら雑巾が真っ黄色(というか黄土色)になってうひゃぁ、これって肺の中の色ってことでしょ?とかビビッてみたり、壁を見たら全部拭かないと逆に汚いじゃんって事に気づいて、思いがけず大掃除になって見たり、天井まで拭いちゃって翌日、肩が上がらなくてつり革に捕まるのもやっとになってしまったり。

とかとかそういう面倒臭い事柄から解放されるのですよ。

ああ。なんという開放感。



煙草なんか無くたって生きていけるんですよ、ニコチン中毒患者さん達。タバコを辞めたら負け、とかわけの分らない戦いから禁煙という修羅場を越えてシガレットフリーな生活。いかにくだらない呪縛から解放されて自由になれるか、3ヶ月の我慢です。(いえ、正直、一生の我慢です。禁煙は一本でも煙草に手を出したら禁煙失敗です。その一本が「ヴぇ、まずぅ。やっぱり辞めてよかった♪」と思ってみても、翌日には一箱手に持ってるなんて良くあること。(経験者は語る)禁煙はじめたら、死ぬまでずーっと禁煙です。煙草に一本でも手を出したら駄目!)

禁煙して後悔することなんか無いですよ。煙草をすうことの方が後悔の人生です。お金も勿体無いし。いえ。今の政権に協力したいから税金をたくさん払いたいのです!というならどんどん吸ってください。

あ。ちなみに、おいらの喫煙年数は20年で最後の方は一日30本のマルボロメンソール(ライトじゃないよ)を吸ってたお。時々葉巻も吸ってました。手巻き煙草のドラム←海外では貧乏人が吸う煙草として有名。美味しいけど。あ。フィルターは日本で買うとビックリするくらい高いのでノンフィルターでしたよ。

でも、それでも辞められるんだぜ!
 

でわでわ





転載元:vanilleめもちょう

 http://blogs.yahoo.co.jp/vanillechocolatcocote/33299232.html



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【解題というか蛇足】

このVanilleさんの記事は、最初、少し長めの解題記事をつけて転載させていただくつもりでした。煙草の歴史と喫煙の意味についての私なりの補足をともなった解題。

煙草を巡る世界史。蓋し、煙草という新大陸起源の「商品」がいかにして世界に拡散したか、而して、その際、世界の各地でその土地土地の生態学的社会構造(自然を媒介とした人と人とが取り結ぶ社会的諸関係の総体)の差異に従い、いかに多様で多層な「使用価値の体系=文化の体系」が煙草に憑依していったか。このことを縦糸に、そして、現下地元では「悪法」の評価が確定しつつある、所謂「神奈川県の嫌煙条例」を巡る憲法論と社会思想を横糸にして、些か個人的な、日米通算で30年近い喫煙体験を絡めた解題を考えていた。

しかし、解題はよいとして、この元記事にフィットした画像がなかなか見つからない(←実は、「画像を決めてから記事を書いているんじゃないかい」という噂もあるKABUです)。ということで、今回は、正に、転載だけの記事になりました。というか、vanilleさんのリラックスした中にも、禁煙希望者を応援する温かい気持ちが溢れるこの元記事を、賢しらな解題は、寧ろ、台無しにしかねへん。と、そうも感じたからです。


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P/S
しかし、「たかが画像、されど画像」「たかが煙草、されど煙草」ですね。幾ら個人的にはお気に入りでも大塚愛ちゃんや大黒摩季さんに、アイテムとしての「タバコ」は似合わない。着慣れない立派な服を着ている様子を指して、よく「服に着られている」と言いますが、雰囲気に本人が負けてるのですよ。

で、本海馬之玄関ブログでは「天照大神と同一神格」の中島みゆきさんのタバコ系画像は禁煙を考えている矢先から「タバコが吸いたくなる!」。だから、魅力的だけど記事内容とあわないし、没。でもって、もう一人の大物、というか、有資格者の<昭和末娘>の沢口靖子さんのタバコ関連画像は皆無。ならばとて、絵画系は・・・。印象派にせよアールヌーボーにせよシュルレアリズムにせよ、これまたKABUが個人的に嫌いではないミュシャやロートレック、佐伯祐三や藤田嗣治も、今一この記事の知的でリラックスした心の温かさが醸し出しているインパクトから見ると抽象的すぎる・・・。なかなか難しい、鴨。

ということで、この記事の画像は、特徴の乏しい、主張に一工夫足りない、
無難な線でまとめざるを得ませんでした。

蓋し、「禁煙の後、捲土重来を期す!」の心境です。
ということで、一服?




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(2010年10月4日:英語 de 書評版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済

おおた1


かなり前のことですが、素晴らしい新聞投書を目にしました。

片や、国際法のイロハも理解できず、「火のないところに煙」を立てて、尖閣諸島問題を「領土問題」にしてしまった民主党政権。他方、「法の支配=コミュニティーの中で自生的に成立した法が存在するという確信と権力に対するそのような法の優位の確信。そして、そのような法は権力から一定程度独立した裁判所によって<発見>されるという認識」、この英米流の「法の支配」の原理を捻じ曲げて、自分達が<法>だと考えたものが、司法の介在なしに、この21世紀の日本社会でも法として効力を持つとのたまう「保守主義者」が散見される現在、改めて読み返してみても、<法の本質>を考える上で、つまり、「法とは何か」の問いに答える契機として実に優れた投書だったと思います。2005年2月25日、もう5年前のこと。

5年前の投書。ただ、その値打ちは益々高まっているの、鴨。畢竟、普天間基地問題といい尖閣諸島問題といい民主党政権の国際法を巡る対処・措置・施策の拙劣さ、逆に、それこそ、(所謂「法の支配」の原理を最終的に退けた、英国の)国会主権主義を端的に吐露した標語とされる、「下院は、男を女に、女を男に変えること以外は何でもできる」(自然科学的に不可能なこと以外は何でもできる)と言わんばかりの、子供手当て・農家の戸別補償の導入、高校無償化実施等々の蛮行、そして、外国人地方選挙権付与法案推進等々の国家解体の策動に顕著な内政における民主党政権の横暴を想起するに、この投書の値打ちを改めて感じないわけにはいきません。

蓋し、「悪法も法である。而して、悪法は自体が悪法であることの責任を、すなわち、悪法を担った政権はその責任を政治的・道徳的に負わなければならない」、と。ならば、民主党政権がその汚物溜から汲み出し撒き散らしている悪法も法ではあるが、民主党政権とその「汚物=悪法」は、道徳的と政治的な責任を負わなければならないし、その責任は実定道徳的なものすなわち<憲法>的な責任である、と。

以下、その投書を紹介した記事再録です。尚、「法の支配」および「法の本質」を巡る私の基本的な考えについては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。



悪法も法である。而して、悪法は自体が悪法であることの責任を
政治的・道徳的に負わなければならない


・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879748.html

・憲法と常識(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58258370.html


おおた2


素晴らしい新聞投書があった。一昨日、2月25日、朝日新聞・東京本社版の『声』欄。東京都世田谷区在住の(まだ!)17歳の高校3年生の方。法ルールのあり方について、実によくその本質を理解しておられるものだと感動しました。かって、アリストテーレースは「人間は「ポリス的=社会的&政治的」な存在」と喝破し、26歳の青年カール・マルクスは『経済・哲学草稿』(1843年-1845年)の中で、人間の本質を<類的存在>と規定しましたが、この投書子の女子高生が見出した<人と社会の関係>はこれら社会思想史上のビッグネームの知見と通底している。教育の劣化、教育の崩壊が喧伝される感のある昨今、<社会の一員としての自分>ということについてこうもきちんと理解しておられる若い世代の存在を知って嬉しく思いました。そんな感想を抱いた投書は次の通り(以下、適宜要約しつつ引用)。


「私は高校3年生だ。同学年の多くが18歳なのに、3月3日が誕生日の私はまだ17歳だ。以前は自分が周りの友達より若くいられることに、ちょっとした優越感さえ抱いていた。ところが最近、喜んでいられない問題となってしまった」、と。

「喜んでいられない問題」とは、「運転免許を取得しようと教習所に行った」際や、「友達と一緒にアルバイトに応募」したときも、「誕生日が1ヵ月」だけしか違わない18歳の友達は受け入れられたのに、17歳である投書子は門前払いよろしく断られたということである。そこで彼女は考えた。

「私は思い知らされた。最初は免許もアルバイトも、あと1ヵ月で18歳なんだから何とか大目に見てもらえるだろうと思っていた。しかし、よく考えてみればどちらも大きな社会とつながっている。たった1ヵ月のことでもと思うが、ルールはルールなのである」、と。

この体験から投書子は、「いま、改めて18歳という年齢の重みを実感することができてよかった。今年の誕生日はいつもと違った気持ちで迎えられそうだ」と感想を述べ投書を締め括る(以上、要約と引用終了)。



ここには法や道徳という社会的ルールの本質が見事にとらえられてはいないか。

すなわち、(イ)ルールの内容自体には大概の場合「その規定と異なる他の内容はなりたたない」という程の必然性はない。しかし、(ロ)あるルールが社会的に一度決められたなら、それがどのような内容のルールだとしても、その「ルールを守ること自体」は社会的に尊重されるべき意義があり、(ハ)内容としては必然性のないルールであっても、そのようなルールをきちんと守る態度と行動は社会のメンバーとしての自分のアイデンティティーとプライドを満たすものだ、と。

このような認識を私はこの投書に読み取ったのです。蓋し、それは単なる「長いものには巻かれろ」式の「悪法も法なり」という処世術的でシニカルな態度ではなく、「自己の人格の品格を高めないでは満足しない欲求」に貫かれた、「自己責任の原則」と親しい保守主義の態度ではありますまいか。

ちなみに、この(イ)~(ハ)の認識は、現在の(分析哲学と功利主義を基盤とする)英米流の法哲学では定番と言っていい「選択問題」の認識とパラレルなもだと思います。繰り返しになりますが、要は、「赤信号」が物理的に「赤色」である必然性はあまりないかもしれないけれど、「赤信号=止まれ!」というルールが社会に成立している事実には意味があり、本来必然性の乏しいルールに従うべきだというその認識と態度は貴いものだというアイデアです。閑話休題。


而して、投書の認識は、古くはソークラテースが見出し、また、近世においてはカントが唱えたところのものとも轍を一にしているの、鴨。それは、形式的には「悪法に従うこと」と「悪法に反抗すること」の比較考量における後者の優位の主張であり、実質的には「自由とは法に従う自覚的な行為者のみが享受できる褒賞」なのだという認識です。蓋し、この認識ゆえに、ソークラテースは悪法に従い悠然と毒杯を仰ぎ、他方、『たんなる理性の限界内の宗教』(1793年)を巡り、プロイセン当局から、宗教に関する一切の著作と講義を禁止されたカントは、その禁書勅令に対して「自己の内面の確信を取り消したり否認することは恥ずべきことである。しかし、自己の内面の確信の内容について沈黙を守ることは臣下としての義務である。われわれが語ることはすべて真理でなければならないが、さりとて、しかし、すべての真理を公にしてしまうことは義務とは言えない」と述べたのでしょう。

畢竟、この(イ)~(ハ)の認識を思想の基盤に据えることで、ソークラテースは、有限なる存在たる人間が普遍にかかわる糸口を見出し(よって、有限による無限を巡る思念の営みたる哲学の歴史を開き)、他方、カントは人間が道具や手段としてではなく常に同時に目的として扱われる人間中心の批判哲学の体系を構築し得た。この17歳の女子高校生の投書はそんな人類の知的遺産の中核を占める認識と共鳴している。と、そう私は考えるのです。


確かにほとんどのルールには必然性は見当たらない。例えば、女系天皇制の是非を反芻するに、そう断言しても間違いではないと思います。

ほとんどのルールの内容に必然性はない。
正に、鰯の頭も信心から。

例えば、テニスコートのサイズや野球のインフィールドの規格などは、長年の経験を踏まえて決まったとはいえそう根拠のあるものではないでしょう。大相撲の土俵のサイズも、戦後、力士の大型化にともない変更されてきたくらいですから。まして、サッカーのオフサイドのルールやラクビーのトライの得点などは時代にあわせて随時変更されてきた。しかし、一旦、ルールが決まればそれを尊重する必要が生じる。そして、重要なことはそのルールを尊重する者だけがそのゲームをエンジョイできるということ。而して、そのようなルールを遵守する行為と意志こそがゲーム参加者のアイデンティティーとプライドを保障するということなのです。敷衍します。

ほとんどのルールの内容に必然性はない。
畢竟、形に仏が宿る。

必然性のないルール。しかし、そのルールに従ってプレーヤーが全身全霊を傾け全力を尽くす。そのようなルールに従ったプレーに観客はまた感動し、逆に、だから、ルールを守らない韓国チームは世界のどこでも爪弾きされる。例えば、テニスのグランドスラム大会の決勝戦、マッチポイントに追い込んだプレーヤーの強烈なサーブがフォルトかエースか。ジャッジの判定を伝える言葉を待ってプレーヤーだけでなく観衆は息を飲む。あるいは、1-1で迎えた後半ロスタイム、サッカー日本代表の選手がゴール右隅に突き刺したゴール。ここで副審の旗が水平にたなびき「オフサイド」が宣告されようものなら、我々ジャパンサポーターは「残念!」と叫び天を仰ぐでしょう。畢竟、感動はルールの厳守に担保されていると言わざるを得ないと思います。

こう考えるとき、あるゲームのプレーヤーやゲームの観衆とはそのゲームのルールを尊重する者に他ならないとさえ言える。ルールを尊重しゲームを享受しようという意志、加えて、自分はそのようなルールを尊重する人々の共同体の一員であるという意識が、ゲーム参加者のアイデンティティーとプライドを構成すると考えるのです。而して、ジャパンの一員、この社会の一員、すなわち、天壌無窮皇孫統べる豊葦原之瑞穂国の伝統と歴史を継承する存在たる日本国民の一員としての意識、<政治的神話=イデオロギー>もまたこのようなゲームとルールの理解に基礎づけられているのだと思います【2010年10月4日-追補:尚、ゲームとルールと<伝統>が交錯する事情に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです】。

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html

畢竟、ほとんどのルールの内容には必然性はなく、よって、その成立の事情と根拠がいかに怪しかろうと現行憲法も実定憲法たり得る。そして、そのような現行憲法を憲法典としてその内部の一斑に含む<憲法>の体系、すなわち、憲法典と憲法の概念、憲法の事物の本性、および、憲法の慣習という、①社会学的または論理的に確認または演繹可能な、すなわち、この社会の中で(自分達の勝手な願望ではなく)間主観性を確認可能な、かつ、②国の最高法規として(法の妥当性と実効性の両面で)法的効力を帯びる<憲法>の体系を編み上げている諸ルールに従うことこそが、(近代の国民国家のイデオロギーが成立して以降の)日本国民のプライドでありアイデンティティーの基盤でないはずがない。

而して、再度記しますが、そのような<憲法>の核心は、天壌無窮皇孫統べる豊葦原之瑞穂国のイデオロギーであり<政治的神話>に他ならない。ならば、憲法典に一定程度従いつつもそのような<憲法>を蚕食する、戦後民主主義のイデオロギーは、国民が遵法すべきルールとは無縁である【2010年10月4日-追補:ならば、そのような蚕食の所業を繰り返す民主党政権は<憲法>から見て、すなわち、これまた実定道徳に起因する政治的と道徳的な責任を負わなければならない】。と、そう私は考えています。

いずれにせよ、あと4日で18歳になるこの投書子は、国家と国民のあり方まで射的に入れ得る雄大な思想を、実に、平明かつ明晰に表現されたのではないか。そう私は思い感動しました。

うるうる。



おおた3





(2010年10月4日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




今年の早春2010年2月4日に引退した、歴代3位の25回の優勝を誇る第68代横綱・朝青龍の引退相撲がいよいよ明日に迫りました。物心ついてからの記憶に残るすべての力士の中でも、北の湖と並んで私の最も贔屓の力士だった朝青龍の引退相撲。この現実を前にしては些か寂寥の感を禁じ得ません。

贔屓かどうかという個人的感慨は、天高く馬肥ゆる秋空にかざしたビールグラスとともにグット飲み干すことにして、しかし、朝青龍を巡っては、言葉の正確な意味での「英米流の保守主義」を奉ずる者として、私は、ある種、忸怩たる思いを否定できません。すなわち、「朝青龍の引退」という現実は、日本のこの社会が<伝統>を再構築し続けていく<文化の生命力>を漸次喪失させつつあることの証なのではないか、と。蓋し、

朝青龍こそ<伝統継承>というものの体現者


だったのであり、その朝青龍に、本人も不本意な形で、「引退勧告=厄介払い」したことは、日本の相撲界のみならずこの社会の劣化の兆表。すなわち、異質な存在を受け止める余力を相撲界と日本社会が枯渇させているだけではなく、そもそも、「文化の恒常的な再構築の営み」に他ならない<伝統>を継承するこの社会の機能自体が制度疲労に陥っていることの証左ではないか。そう私は危惧するということです。

ならば、この9月27日に30歳になったばかりの青年横綱、モンゴル国籍のドルゴルスレンギーン・ダグワドルジ氏を日本は厄介払いしたのではなく、寧ろ、横綱朝青龍に日本の相撲界と日本の社会は愛想を尽かされ見捨てられたの、鴨。



<伝統>の基盤は由来の古さ正しさではない!
<伝統>の基盤は「尊重に値する慣習」という社会的共了解である!   


畢竟、「歌舞伎」や「茶の湯」、「伊勢神宮」や「出雲大社」が<伝統>であるのと同様、「天皇制」も「靖国神社」も、否、「カレーライス」も「女子校生のセーラー服姿」も、「甲子園の高校野球」も「鯨の竜田揚げ」も<伝統>でありましょう。すなわち、物事や制度はその縁が古いことによって<伝統>になるのではない。蓋し、ある物事や制度が、「尊重されるべき慣習」としてある社会を構成するメンバーに確信されるとき、要は、「尊重されるべき慣習」であるとの間主観的な了解がその社会で形成されて初めてある物事や制度は<伝統>としての価値を帯び、かつ、<伝統>としての規範的拘束力をその社会の構成メンバーに対して持ちうるのだと思います。

而して、<伝統>とは(20世紀半ば、分析哲学が完膚なきまでにそれらを粉砕した如く)、ヘーゲルやマルクス、水戸学や平田神道の独善的で教条主義的な社会思想が前提としていたようなある特定の内容を孕みながら普遍的に成立する「実体概念」などではあり得ないのです。要は、それはアプリオリに存立する実体ではない。よって、<伝統>に憑依する「間主観性」もまた、フッサール流に言えば、「<私>が了解する限りの、<我々>が抱く間主観性でしかない」のです。すなわち、<伝統>とは、「生きられてある生活世界」の中の存在であり、同時に、それは「尊重されるべき慣習」でもある物事や制度によって編み上げられている<物語>に他ならない。尚、<伝統>を巡るこの現象学的な経緯、および、<伝統>と「保守主義」との関連については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59891781.html

・グローバル化の時代の保守主義
 ☆使用価値の<窓>から覗く生態学的社会構造
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59596608.html


ことほど左様に、<伝統>とは、万物が流転する変転極まりない「生活世界」の中で、恒常的に再構築されて始めて<伝統>としての神通力、すなわち、「慣習として尊重されるべき慣習」という社会の共通了解を獲得堅持できる(繰り返しになりますが、「そのような共通了解を<我々>が抱いているという、<私>の不可疑的な確信を獲得しうる」ということ)。

ならば、「薪と釜でご飯を炊く家庭なんぞは、今時、無形文化財的の存在であろう。他方、電器炊飯器などはせいぜい高度成長期の半ばに普及した(2670年の長い日本の歴史から見れば、極々最近登場した)新参者にすぎず、よって、ご飯は日本の<伝統>ではない」などの主張は笑止千万。

あるいは、「女系天皇制の導入は「皇統」を断絶させるもの」などの主張も、それ自体(論者の考える「皇統」からはあるいはそうなのかもしれませんが、その「皇統」の意味内容が<伝統>のパーツとして間主観的に成立している保証がない以上)そう自明な主張ではないのです。    

尚、「保守主義」と<憲法>の交錯に関しては下記拙稿をご参照ください。

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879748.html

・女系天皇は憲法違反か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879735.html

・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59402294.html







このように<伝統>を捉えるとき、朝青龍こそ日本相撲界の<伝統>の再構築のメインエンジンだったの、出羽。それは、かの東郷平八郎元帥が旧海軍に導入したという伝説も残る、カレーライスや肉じゃがが、現在では、日本の津々浦々、各家庭定番の<我が家の味>になった経緯と、要は、日本の家庭の団欒と近隣の紐帯を再強化することにカレーと肉じゃがが与して力あった経緯とパラレルではないか、と。そう私は考えるのです。

2010年の秋場所、42名の全幕内力士中、日本人力士が23名しかいない現状を鑑みるに、また、(30年くらい前までは、プロ・アマの実力差が甚だしい競技の筆頭に将棋とともに必ず挙げられていた相撲において)プロと学生&社会人の実力差が漸次接近している現状を鑑みるに、比較的小兵の力士が、上手投げ、寄りきり、つり出しといった正攻法のスタイルで頂点を極めた朝青龍は、間違いなく、保守されるべき相撲の<伝統>の線で相撲界にインパクトを与え続けていた存在であり、すなわち、<伝統の再構築者=伝統の継承者>であった。と、この認識は満更贔屓の引き倒し的な朝青龍評価ではないのではないでしょうか。

ならば、世に物議を醸した朝青龍、否、ドルゴルスレンギーン・ダグワドルジ氏の数々の<不適切な言動>は、それらを見て見ぬ振りをするのではなく、大相撲の<伝統>を、而して、ひいては日本の社会の<伝統>を再構築するための好個の機会と捉え、衆智を集め、新しい時代の<伝統>と整合的な<ルール>を形成する契機にすべきだったの、鴨。

今年、アンディ・マレーが準決勝で敗退したことで、更に74年間、英国選手が決勝戦に進めていないことになったウインブルドンの男子シングルスにおいても、外国人選手も英国王族・貴族にフォーマルな儀礼を尽す<ルール&マナー>は確固として微動だにしていない。畢竟、ウインブルドンの運営システムにこそ大相撲は学ぶべきであり、<朝青龍>という現象はその学習の千載一遇の好機ではなかったのでしょうか。

而して、何を変えるべきで、何を守るべきなのか。そして、何が変わるのは時代の流れとして甘受すべきで、他方、何が変わることは阻止または抑制可能なのかということを学習する好機を日本の相撲界とこの社会は永久に逃したの、鴨。

要は、朝青龍の<不適切な言動>という木を見はしたが、<伝統再構築>の機会という森を見る機会に対しては、相撲界も日本社会も三猿を決め込んで「厄介払い=安直な道」を選択しただけなの、鴨   

見ざる



敷衍します。ドルゴルスレンギーン・ダグワドルジ氏を生んだモンゴル族と文化的にも歴史的にも近しい「女真族=満州族」が建国した清王朝。その清王朝最盛期の1728年に惹起したのが曾静事件(異民族の王朝の正当性と正統性に疑義を呈して、朱子学系読書人曾静が叛乱を扇動した事件)。而して、時の雍正帝は、この教条主義者・曾静を単に処刑する道は選ばず、対等な立場で、徹底的な論戦を挑み、論破し、転向させた。雍正帝諭して曰く、<中華>と漢民族は位相を異にする概念である、と。その問答を記した『大義覚迷録』に曰く、


中華と謂い夷狄(東夷・西戎・南蛮・北狄)と謂う。この両者の別は漢族たると非漢族たるの区別に非ず。一度、天命を授かり民心を得た者は、漢族・非漢族の民族出自の別を越えて中華の君主たらざるべけんや、君臣の忠誠を受くるの資格ある者にあらざるべけんや、と。    


問答から180年後、孫文の中国革命同盟会が1907年に東京で採択したその綱領には「駆除韃虜、恢復中華、建立民国、平均地権」 (満州族の排除、漢民族支配の回復、共和国の創設、土地権利の平均化)の「四綱」が謳われており、確かにそれは『大義覚迷録』のイデオロギーと矛盾する。しかし、例えば、同綱領起草の7年前、1900年に勃発した所謂「義和団事件」のスローガンが「扶清滅洋」「興清滅洋」であったことを想起すれば、畢竟、<中華主義>と<漢民族という存在規定性>は無縁とまでは言わないけれどもおよそ位相を異にするものとは言えるのです。而して、この経緯は、1853年のペリー来航の時点では「尊皇攘夷」が全六十余州共通の支配的イデオロギーであったものが、幕末の激動の中、「政治的-政局的」なモメンタムの赴くまま、「尊皇攘夷」→「佐幕開国」→「尊王開国」→「尊王倒幕」→「復古的天皇制イデオロギーを借用した近代国民国家形成」に支配的なスローガンが目まぐるしく移行した我が国の明治維新を巡る社会思想的な情景ともそうかけ離れているわけではないのではないでしょうか。閑話休題。

畢竟、ドルゴルスレンギーン・ダグワドルジ氏が、

日本国民ではないとしても、一度、「日下開山」たるべしとの天命を授かり、民心を得た以上、その国籍にかかわらず、朝青龍は日本相撲界の<伝統の継承者>、よって、<伝統の再構築者>たるべき人物であったのであり、かつ、彼の力量は十分にその歴史的使命に堪え得るものだったの、出羽。   

もしそう言えるのならば、朝青龍の引退相撲のポスターに記された言葉、「自業自得」とは日本の相撲界と日本社会についてこそ言えることであろう。と、そう私は考えています。



б(≧◇≦)ノ ・・・朝青龍、ご苦労さまでしたぁー!
б(≧◇≦)ノ ・・・朝青龍、いつか日本相撲協会の理事長として戻ってきてくれ!
б(≧◇≦)ノ ・・・ドルゴルスレンギーン・ダグワドルジさん、いい日旅立ち、を!








(2010年10月2日:yahoo版にアップロード)

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dalida


私の会社には色気だけはあるアホな女子社員がいます。



色気女子「尖閣諸島のビーチって♡、クラブあるんですか♡?」
地味な私「クラブって、あんたダンスする気?」



地味な私「あんた、そんなところで躍ったら逮捕されるよ」
色気女子「逮捕!クラブで危ないクスリとかまわってたりとかして(笑)」



地味な私「クラブはない!」
色気女子「じゃあ、メンズはどんな感じぃ?」



地味な私「海上保安庁のお兄さんしかいないよ」
色気女子「マジ!海猿!チョー行きたぁ~い!」



これだけ尖閣諸島が話題になっていますが、どうも国民の理解度は低いようです。中国や韓国は歴史の事実に関係なく、歪曲した宣伝を続けております・・・。



そこで、おねえさんからの提案です。


Jodysan




提案1

テレビ各局の天気予報で、毎日、「尖閣諸島のお天気」を流してください!そうすることによって、日本の子供たちも、尖閣諸島が固有の領土だと正しい認識を持って育ちます。


enoshima2

提案2

ライブカメラを設置してください。

今や日本全国の観光地にライブカメラは設置されています。同じように尖閣諸島にもライブカメラを設置して、パソコンでも、iPhoneでも、Yahoo!サイトでも、バンバン生の映像を流して欲しいです。ときには、海上自衛隊に撃沈される不審船の映像も流してくれれば最高です♡。



enoshima3



メディア各局の皆様、
国土交通省の皆様、
スレィーブ・ジョブス様、
孫様、



私がお天気おねえさんをやりますので、

よろしくをお願いいたします!




転載元: あなたが斬らないで誰が斬るの!お姉さんも一緒に斬るからね!

    http://blogs.yahoo.co.jp/give_me_your_opinion/33751909.html




enoshima1



【転載解題】


ブログ友のJody姫の記事転載です。座布団589枚!!


蓋し、これ最高に傑作あるね(←少し、これ日本語、変あるか?)!!


別所でも書きましたが、要は、支那問題は日本問題なんんですよ。多分。



畢竟、「支那」という鏡が、しかも、被写体の良いところ悪いところを(平均値というか中央値を、ある許容限度超えた部分を)選択的に強調してデフォルメする鏡。そんな、「三角縁神獣鏡」はどうも支那製ではないらしいけれど、あの有名な卑弥呼さんが魏の皇帝から下賜されたような、文字通り、<支那製の鏡>が映し出す<日本の光景>が、現下の支那問題である、と。そう私は考えています。


ならば、今更、「鬼畜米英」ののりで、「豚足支那」とか「妖怪特ア」等々、悪態をついたって自分が惨めになる、岳。ならば、Jody姫のこの記事のように、明確な問題意識に基礎づけられた、納期と目的と獲得目標に自覚的な、かつ、具体的で実現可能な対案の提示こそ肝要、出羽。


そう思い、本当にJody姫のこの記事には思わず膝を打ちました。導管じゃなかった銅管でも同館でもなかった、同感である、と。



而して、


б(≧◇≦)ノ ・・・花より男子、支那より日本!
б(≧◇≦)ノ ・・・打倒、民主党!
б(≧◇≦)ノ ・・・全国の保守改革派は団結せよ!
б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!


ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿← Jody and KABU!







(2010年9月30日:yahoo版にアップロード)

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