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歳がばれるようでいささか気が重たいのですが(笑)、私達は「1973年のオイルショック→狂乱物価」、要は、トイレットペーパの買い溜め騒動を子供の頃経験しています。そして、それに先立つ「公害列島」キャンペーン騒動も。

四日市の大気汚染、水俣病やイタイイタイ病の悲惨とも無関係ではないが、それとは別次元でマスメディアが発信し続けた1970年前後の「公害列島」キャンペーン。その際、私達の郷里、福岡県大牟田市は日本でも最悪の「カドミウム汚染米」の産地として連日報道されました。実は(「ベルリンの壁」の崩壊後、旧社会主義国の公害の凄まじさが公表されるまでは)、「世界で一番化学物質に汚染された汚い川」として有名だった大牟田川が郷里のシンボル。当時の大牟田川は、良きにつけ悪きにつけ「世界一というのは凄かことばい♪」と、私達、大牟田育ちの子供達のアイデンティティーの依代でした。

而して、風評被害の凄まじさを子供心に焼き付けて、それとの比較において、その後の「カイワレ大根」や「ダイオキシンほうれん草」等々の騒動を見ながら私達は世過ぎ身過ぎしてきました。要は、大牟田川等々の地域に根ざした産業構造の裏面としての公害とは異質の、マスメディアが生産・流通・消費する<情報>だけが捲き起こす風評被害の怖さを一応知っているつもりです。その私達の目にも、東日本大震災を契機とする現下、首都圏の「米不足」は、一種、この社会の時代の変り目と映るのです。

品薄情報が宣伝され数の子やミネラルウオーター等々の「嗜好品」がスーパーの棚から消える、逆に、「体に悪いのではないか」という情報が独り歩きして代替のきく商品が売れ残る。つまり、プラスとマイナスの風評被害は「人情」として私達も理解できる。自分でも、頭では「大したことはない」と理解していても有害性が喧伝されているのなら、例えば、ほうれん草は買わずにチンゲンサイを買うかもしれないから。また、放射能予防に効くらしい(?)という都市伝説が広まれば、私も「そんな御伽噺に影響されているお馬鹿な私」と自嘲しつつも納豆とかヨーグルト買うかもしれないから。

けれども、民衆の「パン寄越せ」デモに対して「パンがなければお菓子を食べれば」と言ったとか言わなかったというマリー・アントワネットでもあるまいに、米はまずは必需品。しかも、供給も問題ないことは明らか。なのに、例えば、川崎市麻生区で私がインタビューした80歳代の一人暮らしの女性グループ5人組みの皆さんは(通常は月に5キロしか消費しない所)、この2週間毎日、一人が20キロ購入したとのこと。「タクシーを相乗りして買出しも楽だったわよ」、と。これ実に彼女達の平均消費ペースのほぼ4~5年分!

sanwa.jpg


ということで、

皆さんのご近所のスーパーとかお米屋さんでは、
普通の消費者が米を容易に買えますか?


とブログ仲間に聞きました。
以下はいただいた回答。


北海道帯広市>
震災前と変わりません。

北海道旭川市>
普通です。

青森県八戸市>
東日本大震災の被災地ですが、米は現在そこそこありますね。ただ、地震直後から1週間ぐらいは品薄状態でした。それと余談なんですが、コメの袋が足りなくなって、特別に「新米」の表記がされてる袋に新米じゃないコメを入れて販売してます。  


群馬県伊勢崎市>
地震の次の週初めにほとんどなくなりました。
ある場合も個数制限されていました。

私の見る限りでは20日以降は確保できるようになっているようです。今は地震前同様かどうかはわかりませんが売っていますし、特に値段がつり上がっている様子はありません。値段に関しては、他の品目についても極めて普通の値段で売られているので、助かっています。ただ、ヨーグルトと納豆は個数制限にもかかわらず完売状態です。

東京都江東区>
米は入手困難でした。わがやでは幸い購入したばかりで備蓄があったので問題はありませんでしたが、行きつけの食堂では、近所の奥さんが「米を売ってくれ」と言ってこられて、一人に売れば他の申し出も断れないし対応に困ったと聞いています。

東京都葛飾区>
先週まで、米は店頭から消えていました。ちょうどなくなっていたので、少々困ったのですが、山陰の実家から「緊急支援物資」が届けられたので。

で、本日見たところ、かなりのレベルに回復していました。一時の嵐は過ぎ去ったか、と。余談ですが、ヨーグルトと納豆はまったく消えたまま、ですねえ。当方の帰宅時間の観察ですけれども。

東京都小金井市>
震災の直後にお米が店頭から無くなる事が有りました。妻の勤めるスーパーでは、開店1時間前から並ぶ人も居たそうです。現在では、お米に関してはいつもより少ないモノの、我が家がお世話になっている安い価格帯のモノまで揃っています。
数は少ないですが、パニック買いがichijunしたのでしょうか^^;。

神奈川県横浜市鶴見区・磯子区>
神奈川県川崎市多摩区>
おこめ少ないですね。【専業農家のブログ同志】にご近所の分も含めて
緊急要請し送っていただきました。感謝しています。

神奈川県海老名市>
海老名では、スーパーの米は不足してますね。殆ど売切れです。埼玉の実家の方に行って見ますと、JA​の農産物直売所は売り切れ。しかし、民営の農産物直売所にはまだまだ沢山ありましたね。

物が何も無いコンビニで、見かけた光景。
『何か買って行きましょうよ。何も無くなっちゃうかも知れないから』

いや、無くならへんって・・・(^^;)

あと、お米屋さん。定期的に配達するお得意さん向けにはきちんと確保してあるみたいです。一見さん(って言うのか?)には売ってくれないとか。

これは、会社の同僚の証言です。 では(^^​)ノ


そして、私、

神奈川県川崎市麻生区>
川崎市麻生区では昨日(28日)もスーパーにお米がありません。というか、5日くらい前(23日)からは「開店後15分くらいはある」状態にまで<回復>してきていますが、それまでの10日以上は、正に、全くお米が手に入らない状態でした。

でもね、一人暮らしのサラリーマンや共働きの若夫婦が
「開店15分」に向けてスーパーに並べるかちゅーねん、なんです。   



大阪府大阪市>
米に関しては値段・品揃え共に特に変わった様子は見受けられません。今日も普通にスーパーの精米売り場に積み上げられていることを確認。ただ、ミネラルウォーターが入荷量が絶対的に不足しているためか空っぽになっていたことが印象的でした。

京都府京都市左京区>
気にしたこともありません。米足りなくなってるんですか?

京都府京田辺市>
うちはパン食ですが、【高校の】生徒の保護者からもお米の話は聞いたことありません。

京都府福知山市>
うちもわたしと主人の実家も米余って困ってます。

香川県高松市>
高松は異常なしです。

山口県山口市>
売るほどありますが何か?

福岡県福岡市>
九州は今のところ地震災害の影響は少ないです。

ご質問の米についてですがじ震災以前とかわらぬ品揃えで大概の店舗でまだ安く販売されてます。
ディスカウント系のスーパーで
5キロ 1298円~1680円(銘柄ブランドで価格差あり)
10キロ 2480円~3000円程で販売してます。
震災前より若干値が下がった感があります。

でもペット水の販売は少なく品切れの店が多いです。

福岡県大牟田市>
米んなかなら宅急便で送ろうか?
そげんか食糧難ては終戦直後のごたんね。

熊本県北部玉名地方>
米は普通に売っていて不足しているということはありません。

熊本県熊本市>
米は今のところ大丈夫です (^^)ゞ

ただ、日曜日、近所(熊本市中央部)のスーパー無洗米は品切れでした。
それがたまたまなのか、震災の影響なのかはわかりません。

ところで、、、
塩を買い占めたあげく困っている中国人のニュースに、久しぶりに笑いました。
こんなことで、いかんいかんと思いつつ、、、
やっぱり、災害で暴利を貪ろうとする輩は、許せんですもんネ!

鹿児島県鹿児島市>
パン党なのでよくわりませんが、近所のスーパーの売り場に特に変わったことはないように思います。    


ということで、現在の所、首都圏以外では今回の「米騒動」は起きていなかったものと思われます。そして、三重県の専業農家のブログ同志からはこんな情報をいただきました。

そして、お米も~♪ アキラさん、感謝だよね!

ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿



現在三重県伊賀地方では、スーパーその他の小売店では米不足は起きておりません。
スーパー、ホームセンター、米屋、酒屋など、普通にお米は在庫があります。
まぁ人口あたりの耕作面積が優秀な地方なので余るぐらいです。
我が家の在庫ですが、ほぼ例年通りの減り方をしています。
価格も30kg袋玄米が13,000円(身内価格10,000円)は変わりません。
小売店の方でも販売価格に上下はなさそうですよ。

お米の流通は、すでに秋の収穫直後にモノがJA(全農)もしくは
卸しの方にほとんど流れてしまっているので、
首都圏の小売店舗に在庫が無いのは、ほぼ間違いなく、

・需要過多
・卸し(中卸し含む)、小売段階での在庫の締め付け

の2点であると思われます。国家レベルでの備蓄米自体はアホほどありますので、
ごく一部地域でさえも足りないわけはないのです。
つまり、供給側の輸送力、物流不具合が原因ではないでしょうかね。
もちろん圧倒的大多数の情報弱者ちゃんたちの
根拠の無い不安による先買いも大きな原因です。    



imamukashi5.jpg


本日、2011年3月30日、午前11時の段階でも私達の住む川崎市麻生区の新百合ヶ丘エリアのスーパーにはお米が棚に残るようになりました。それが冒頭の画像です(画像中の張り紙の赤い文字は「お一人様一袋」を消して「一家族様一袋」と書き直したもの)。これ、在庫払底の2-3日前の状況に比べれば夢のような光景。それ、正に、溢れんばかりの米の山!

スーパーの皆さんのご苦労を感じないわけではないのですが、しかし、1973年のオイルショック時とは異なり、取り敢えずは米がなくなるはずのない今回、その情報を多くの国民が頭では理解していたはずなのになぜ3週間近くも首都圏では普通のスーパーから米が消えたのか。

私はそこに、「平成の米騒動」とも言うべき事態を感じました。首都圏の多くの住民は、例の「無計画停電」よりも拙劣な「ロシアンルーレット停電」ともいうべき「計画停電」を一つの契機として、政府やこの社会の仕組みに対する、そして、この社会の将来に対する不信と不安を募らせた、と。

左翼かぶれのインテリの理屈や官僚の計画ではなく、1918年、富山の漁村の主婦が火をつけた「米騒動」が、(その後、40年体制から55年体制と続く)日本の社会主義路線への移行を決定ずけ、そして(大正デモクラシーの残り火を誘導灯にして)1923年の関東大震災がその社会主義路線導入を確定したように、「神は細部に宿る」。また、歴史の変化は日常の平凡な風景の中にこそ表われているの、鴨。それは、ポー『盗まれた手紙』と同じ、鴨。

そう思えば、今回の「平成の米騒動」には『盗まれた手紙』どころかアガサ・クリスティーの『ベールをつけた貴婦人』の構図の如き、後から見れば明白な<歴史の変化>が淡々と描かれているのではないか。繰り返しにまりますが、それは一見愚かな庶民の皮膚感覚的不信感に根ざすこの国の政府や社会の仕組みに対する「三行半」の絶縁宣言だったの、鴨。

それは、ベックが素描した「リスク社会」にいよいよ日本も本格的に突入したことの合図なの、鴨。要は、所謂「格差社会」などという(その認識が正しいとしても)まだ社会全体としては豊かで安定した社会から、勝ち組も含め誰も安閑としてはいられない社会に日本も入ったの、鴨。ならば、「平成の米騒動」は、これからこそ深く静かに浸透していき、この社会を別の社会に押し流していくのではないか。その予感を私は払拭できないのです。

而して、いずれにせよ、


б(≧◇≦)ノ ・・・頑張れ、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・君は一人/独りじゃない!
б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!






(2011年03月30日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 民主党・菅直人政権
ジャンル : 政治・経済

eastjapangreateq

2011年3月11日の東日本大震災の被災者の方のブログには、全国からの支援を「善意」と捉えて感謝の言葉を書いてあるものも見受けられます。もちろん、取り敢えず、何かの直接的な強制もなく募金をしたり、震災地救助・支援に向けた国の巨額の予算出動に対して反対する声がほぼ皆無であることを「善意」と呼ぶことは間違いではないし、それらをそう記しておられることはその方の人間性の高貴さの証左であることも明らかでしょう。けれども、私は些かこの「善意」規定には疑義があります。誤解なきように、善意に疑義があるのではなく「善意規定」に些か疑義がある。

蓋し、それらの募金等々は「善意」でもあるでしょうが、「善意」だけではないのではないでしょうか。

「偽善」か? 否、「偽善」もあるでしょうが、「行動しない善意」より「行動する偽善」が10万倍とは謂わないが、9万9999倍は尊い。そして、「渡る世間は鬼はなし」ではないかもしれないが「鬼ばかり」でもないでしょう。カントが厳しく指摘している通り、「打算-偽善」を動機とする行為は道徳的に無価値ではあるが、「定言命令に従う行為-義務感をのみ動機とする行為」が同時に「打算-偽善」とも整合的であったとしてもその行為の道徳的価値は毫も棄損されないのでしょうから。

私は何が言いたいのか?

すなわち、

①自然災害には国家といえども逆らえない

②自然災害に関しては、よって、被災地を非被災地がその生活再建体制が整うまでバックアップするしかない

③そうしなければ、日本の国力自体が衰退する。だって、東北は日本の一部、否、日本の精神の中心地の一つなのだから

④要は、少し長い時間軸を取れば「困ったときはお互い様」がマナーでありルールであり、国の政策の根幹

⑤よって、自由主義・資本主義、個人主義・責任主義を根幹とするこの社会では、もの凄く酷な言い方になりますが、天災は文字通り「不運」と割り切って被災地に自助努力は尽していただくしかない

⑥しかし、非被災地の国民が被災地の国民を救助・支援するのは「善意」というだけではなく、当然の義務である。それは、道徳的な義務というだけではなく、極論すれば、近代の「主権国家=国民国家」の事物の本性、よって、実質的意味の憲法の概念からも演繹可能な法的義務でさえある

⑦このことは、形式的意味の憲法に定める「生存権」とは無関係ではないが全くの別物であり、(国を頼るのではなく)「不運」を自分で引き受けざるを得ないという厳しい「自己責任の原則」の裏面としての保守主義的な憲法論の帰結でもある。実際、「自己責任の国=アメリカ」でも災害に対する国と世論の基軸は以上の線とほぼパラレルなのですから    


と、そう私は考えています。


また、「被災地間格差」について一言。

()誰もが上記の「善意=義務」を被災者に平等に尽すことはできない

()これは、お金にせよ時間にせよ、「善意=義務」に拠出できる元手が有限だからというのではない。誰しも「より親しい人や地域」と、よって、「より親しくない人や地域」の区別があるのは当然だから

()而して、その親しさの同心円状の連続する広がりの構図の中で、「親しさ」の中心点に行くほど「善意=義務」を手厚く尽したくなるのも当然だから(よって、私の場合、昔、仕事でお世話になった岩手県盛岡市や青森県八戸市の知人の安否が判明した段階で、最も親しい「被災地=被災者」たる福島県南相馬市&浪江町(本ブログでは「アイアン地方」と呼びます)に専ら関心が向いていることは否定しませんし、そのことについてはなんら変更する理由を見出しえません)。ちなみに、アイアン地方が大震災直後から「福島原発問題」の中心地の一つになってしまったことは偶然です

()ことほど左様に、誰もが、自分の「同心円」に従い「善意=義務」を果たせばよい、と。   


そして、なにより、普通名詞の「被災地」という被災地はこの世に存在しない。存在するのは「福島の南相馬市」であり「石巻市」であり「いわき市」であり・・・・と、個別の被災地しかない。だから、被災者も支援者も、「福島」なり「岩手」なりを俎上に載せることで(一般的な)<被災地>の窮状とその支援の不備、あるいは、自衛隊の隊員の皆さんの献身的な支援活動への感謝について話すしかないのだと思います。ヒュームが説いた如く、「個物に一般的な意味」を含ませて用いるしか、我々は、現前の状況を他者に対して語りえないのでしょうから。


eq5.jpg


しかし、上記の()~()のことは、<私>の「善意=義務」の配分指針についてのことであり、国の配分指針はそれとは自ずと異なるべきことも明らかでしょう。而して、国はその「善意=義務」をどのような指針に従い配分すべきなのか、蓋し、ビジネスジャッジメントと同様、それは簡単に言えば、次の二つの基準に従い決定されるべきではないでしょうか

(甲)取り返しのつかない被害の価値と被害防止の緊急性
(乙)日本の国力の維持にとっての支援の重大性


この二つの軸の作るx-y平面のどの点にその「被災地内-被災地」が位置づけられるか、と。要は、その点までの原点からのスカラー量としての線分の距離に従い判断されるしかない。而して、「人命」が地球より重いのかどうか、「地域コミュニティーの一体感や伝統」の維持が究極の価値なのか等々、(甲)(乙)の「価値」や「重大性」の決定自体が更に別の価値体系を持ち出さなければ決められないことではあるでしょうが、少なくとも、最も弱い立場の被災地や被災者の方に最大限の優先順位が与えられるべきことも(パラドキシカルではなく)自明であろうと思います。

なぜならば、マスメディアもブログも報じないような(否、震災後3週間近く経過するというのに、電気も電波も届かない。よって、情報を得ることも、まして、発信することなど全くできない地域も稀ではない!)「見捨てられた被災地」をも救助・支援してこそ、(個々の<私>が個々の「善意と義務の同心円」に従い行動するのが当然であることの裏面として、そんな<私>の行動の集積の不備を補うのが国の本業であってみれば)国家権力の正当性と正統性は維持でき、かつ、そのような国家権力のみがこの社会統合を保つことができるでしょうから。そして、この点に関しては下記拙稿を参照していただきたいのですけれども、この日本社会の社会統合の維持こそ国の最優先かつ最重要なタスクでしょうから。ならば、「最後のカナリア」が死ぬ前に、その「鳴くことさえできないでいるカナリア」こそ国は救え、と。そう私は考えています。

・地震と政治-柘榴としての国家と玉葱としての国民(上) ~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60340034.html




しかし、それにしても・・・。大震災関連で政局の話は意図的に避けてきている私にしても、現下の政府の頼りなさには慄然を通り越して唖然としてしまう。蓋し、「日本人が日本の存続を願うなら、日本はアメリカの51番目の州に一刻も早く格上げしてもらうべきだ」という私の常套する「パラドックス」が、パラドックスではなくなりかねない肌寒さを覚えます。

思考実験のためのこの「アメリカの51番目の州としての日本」という補助線が(要は、それを目にして「馬鹿な!」と誰も第一感では思う主張ながら、いざ、憲法論的にも国際法的にも社会思想的にもそれを論破しようとすれば実はそう簡単ではないというところが味噌だったはずのこのパラドックスが)論理の「お遊び空間」を超えて現実的な<正解>になりかねない現状。

関東大震災(1923年)を明確な境にして日本は別の国なったとは人口に膾炙している認識ですが、少なくとも、政治的な勢力図と誰が権力を掌中にするのかを決める実質的なルールに関しては、私は東日本大震災を境として日本は別な社会にならざるを得ないと確信しています。現下の民主党政権、そして、予定調和的な業務遂行しかできない行政組織が自然災害対応という究極の予測不可能性を前に機能不全に陥っている光景を見るにつけそう確信します。

いやー、それにしても、凄いね。(左右のイデオロギーではなく、能力的に)そこまで酷かったか民主党政権と日本のマスメディア、です。ならば、頼りになるのは国民自身と自衛隊のみなの、鴨。冗談抜きにそう思えてきます。

而して、


б(≧◇≦)ノ ・・・頑張れ、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・君は一人/独りじゃない!
б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!





(2011年03月30日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




引き続き、福島県の浜通り南相馬市&浪江町という相双エリア(弊ブログでは「アイアン地方」とも呼びます。)で被災したブログ友nanaさんの記事の紹介です。蓋し、解題コメント不要でしょう。自然の威力が人智を超えるものである以上、要は、大災害への対応は「被災地を非被災地が助けること」しかない。そして、それは「可哀想」とか「お気の毒」とかではなく、少し長い時間軸を取れば「お互い様」なのだから。被災した福島県民や宮城県民も非被災者の東京都民や神奈川県民も、被災した岩手県民も青森県民も非被災者の大阪府民や福岡県民も日本人として<日本>と運命を共にしているのだから。そして、一刻も早い震災復興が<日本>の盛衰に死活的に重要なことは多分間違いないのだから。と、そう私は考えています。


б(≧◇≦)ノ ・・・頑張れ、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・君は一人/独りじゃない!
б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!




ななさん


◎福島の朝

2011/3/27(日) 午前 6:27

品物がはいりません


まだまだ、東北は厳しい状態です。今朝は雪で、-4の表示を見ました。
自衛隊の車も、幾つもアイアン地方へと向かいます。
頑張れ東北!
   

元記事URL:
http://blogs.yahoo.co.jp/nana7pannda8/37826869.html




◆参考記事
・東日本大震災現地状況☆福島は雪
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60343727.html

・ガソリンを☆東日本大震災で被災したブログ友アイアンさんの記事転載
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60344432.html

・福島県浪江町で被災したブログ友の記事転載
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60347337.html

・被災地で、欲しいもの
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60354908.html

・地震と政治-柘榴としての国家と玉葱としての国民(上) ~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60340034.html





(2011年03月27日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 震災救援・復興
ジャンル : 政治・経済




天災を奇貨としての政権批判は美しくない。けれども、国家権力の機能の最優先事項である食糧供給と安寧秩序維持に破綻をきたしている。よって、国家権力の機能の核心である社会統合に破綻を引き起こしかねないでいる政権を批判することは当然のことでしょう。而して、現下の民主党政権こそその典型例ではないかと思います。ならば、民主党政権は即刻政治のマーケットから退場させられるべきである。と、そう私は考えます。

私は1週間前(3月25日)このブログで、天災を奇貨としての政権批判は美しくないと述べました。もちろん、その主意は、「大震災という国家の緊急時においては民主党政権の批判は封印しよう」という呼びかけではありません。そうではなく、その主意は、

国難の緊急時には、①揚げ足取り的な政権批判は控え、また、②(当然、コアの自民党支持者としては、本来、一秒でも早い政権再交代を希望しているものの)とりあえず、事態が沈静化するまでは、可及的速やかな政権交代の要求を前提とした主張も控えよう(民主党政権にせよどの国のどの与党も政権を大人しく禅譲することなどなく、この非常時に総選挙を実施するのも、総選挙が危機管理施策だけを争点にできるものでもない以上、)というだけのこと。    


・原発事故を奇貨とした保守派の民主党政権批判は見苦しい
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60347126.html

畢竟、危機管理施策に関しても国難中も政権批判は原則自由。まして、日本は国民主権下の民主主義国。いわば、オナーたる国民有権者が、危機管理に関しても、施策やパフォーマンスを巡り時の政権を批判するのは当然中の当然であろう。と、1週間前も現在もそう私は考えています。

しかし、事態の悪化は私の予想を遥かに超えるものでした。正直、行政の素人の民主党政権といえどもまさかここまで酷いとはというレベル。 本記事末に転記した朝日新聞の記事を読んで身震いするほどの怒りを覚えました。

而して、東日本大震災から2週間余り経過した昨日も、川崎市麻生区新百合ヶ丘と百合丘のスーパーにはお米がありません。ガソリンスタンドもその多数は稼動していないに等しい状態。そして、何時来るか分からない停電。蓋し、これが世界第三位の経済力を誇る民主主義国の危機管理の状態とはとても思えません。否、これまさに<政治>の不在ではないか。


政治の果たすべき機能を論じて『論語』顔淵篇に曰く、

子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立。

子貢、政を問う。子曰わく、食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ。子貢が曰わく、必ずやむを得ずして去らば、斯の三者において何れをか先きにせん。曰わく、兵を去らん。曰わく、必ずやむを得ずして去らば、斯の二者に於て何ずれをか先きにせん。曰わく、食を去らん。古より皆死あり、民は信なくんば立たず。   


畢竟、「政治-政権」は「民に信なくんば立たず」です。而して、自己の避難指示の不備が引き起こした人為的な「食糧不足」と「ガソリン不足」について、いまだに、何の手立ても講じないでいる民主党政権、否、その指示が不備であったことさえも認めようとはしない民主党政権への「民の信」は最早存在しないというべきではないでしょうか。ならば、一刻も早い民主党政権の退場を求めたいと思います。

б(≧◇≦)ノ ・・・頑張れ、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・君は一人/独りじゃない!
б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!



◆参考記事
・地震と政治-柘榴としての国家と玉葱としての国民(上) ~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60340034.html

・民主党政権とは何だったのか
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60333201.html

・続・民主党政権とは何だったのか-国家なき国家論の稚拙な暴走
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60337052.html


・東日本大震災現地状況☆福島は雪
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60343727.html

・福島県浪江町で被災したブログ友の記事転載
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60347337.html

・被災地で、欲しいもの
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60354908.html



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◆資料
◎「届かぬ食材、閉まる店…福島・南相馬、深刻な食料不足」

 福島第一原発の北にある福島県南相馬市。放射能を恐れる人が次々と街を離れた。人口7万人の市に、残るのは2万人。物資の輸送が滞り、各世帯の食料は尽きかけている。市の関係者は漏らす。

 「このままでは餓死する人が出かねない」

 「避難した人も不安、残った人も不安だよ」。同市鹿島地区の農家鈴木浩さん(65)は語る。原発の半径20~30キロ圏に一部がかかる1万1千人の同地区。残っているのは1300人ほどという。

 近隣の店も閉まり、食材は隣の相馬市まで車で20~30分かけて買いに行く。走行距離は平均40~50キロ。食事は自分の家で作った米と缶詰、ソーセージなどが多い。

 もうすぐ種まきの時期だ。「でも、誰も買わないなら作っても意味がない。どうやって暮らしていけばいいか」

 人口7万人の同市は、避難指示の半径20キロ圏▽屋内退避の20~30キロ圏▽何も指示のない30キロ超の区域――の三つに分断された。市は、避難指示の地区以外も含め、希望する住民を新潟県、群馬県、長野県などにバスで送り出した。

 「国には30キロ圏まで避難を指示してほしかった」。桜井勝延市長は残念がる。「屋内退避」という政府の判断が市民の放射線への不安を助長した。「言葉が独り歩きして『南相馬市は危ないのではないか』と思われてしまった」

 ガソリンのタンクローリーの運転手が南相馬市のはるか手前で乗り入れを拒んだため、市は大型免許を持つ職員や市民に取りに行かせた。食料品などの生活用品が届かず、スーパーやコンビニが次々と営業をやめ、市全体が深刻な物資不足に陥った。市の関係者は「各家庭の食べ物は底をつきはじめていると思う」と話す。相馬市の相馬総合卸売市場を貸し切って、運送業者が24時間常駐し南相馬市内への食料供給に対応している。ここが命綱だが、届く食料は先細りだ。


南相馬市立総合病院の金澤幸夫院長は、急患に対応するため、今も病院に残っている。「ここには救急車すら入ってこない。30キロ圏内に入る手前で救急車から自衛隊の車に患者を乗せかえている」と憤る。

 暮らしたくても暮らせない。街は風前のともしびだ。

      ◇

 一部地域が屋内退避の対象となった福島県いわき市では、市民の流出が止まらない。市は人口34万人のうち、すでに5万人超が市外へ避難したとみている。

 23日午前、市内の常磐道いわき中央インターチェンジでは、関東方面へ向かう乗用車が目立った。近くに住む橋本将夫さん(63)は「21日から、ずいぶん車が増えた。みんな逃げてるんだ」。

 橋本さんの家の前には飲み物の自動販売機などがある。高速に入る前に立ち寄るドライバーたちと話してみると、みな「放射能が怖いから避難する」と言う。「特に赤ちゃんがいる人は心配しているよ」

 11日の地震で通行止めになっていた常磐道は、21日からいわき中央インターから関東方面の通行を再開。ガソリンも届き始め、20日から営業を始めたスタンドもある。待望の燃料だが、マイカーの給油を終えると、そのまま県外へ出る人も。東京行きの高速バスでも満席が続く。

 そもそも市域の大半は原発から30~50キロ圏におさまる。市内の大気中の放射線量も一時高まったが、17日以降は比較的低い水準で推移している。それでも、市は15日、国が20~30キロ圏に屋内退避を指示した際、広報車や地元FM局を通じて市全域に「外出自粛」を呼びかけた。

 鈴木英司副市長(59)は「15日は雨。放射線がどう影響するか分からないなか、原発から30キロ圏の内と外で対応を変えれば、市民が混乱すると考えた」と説明する。

 しかし、市民の受け止め方は違った。「国の指示なら『安全圏』なのに、市は危険だと言わんばかり。一体どっちなんだ」。原発から40キロ付近に住む会社役員の男性(64)は怒る。「市の全体が危ないという話が広まった。市民が逃げるような街に物資を届ける人なんかいない」

 関東方面から燃料や食料を運ぶ運送会社の中には、途中の福島県郡山市までしか運ばない業者も増えた。市職員や消防隊員が郡山まで荷物を取りに行ったが、ガソリン不足で回数は限られた。

 市内はまだ6割の世帯で断水中。「20キロ圏内の住民が私たちの目の前を通って逃げていった。市内には食べ物も水もない。市が『大丈夫です』と言っても説得力がない」。市職員はため息をついた。


ここ数日、徐々に物資が届き始めた。時間限定で営業を再開したスーパーでは、パンや弁当を確保しようと長い列ができた。鈴木副市長は「市全域に外出自粛を呼びかけたのは大げさすぎたかもしれない。だが、国の指示がそもそも中途半端だった」と言う。

      ◇

 一部が屋内退避圏にかかる福島県飯舘村。人口6100人の村には今、ほぼ半数の3200人しか残っていない。

 村内では原発事故以降、大気中や栽培するブロッコリーから高めの放射線量や高濃度の放射性物質を検出。23日には、文部科学省が村内の土壌からも高濃度の放射性物質・セシウムを検出したと発表した。

 菅野典雄村長は訴える。「なぜこうなったのか、村はどうすればいいのか。国から全く示されず困っている」

 村内で不安が高まったのは18日。大気中の放射線量がテレビなどで放送され、時には原発により近い地域よりも高い数値を示した。住民から不安を訴える声が相次いだ。

 「どうして今まで隠していたのか」「早く村の外に逃げたい」……。村の幹部会はこの日、「大規模な避難もやむを得ない」として希望者が離村する際の支援策を決めた。

 希望する村民と避難指示地域などから村内に退避していた人ら計314人が19日、バスで栃木県鹿沼市に到着。20日にも195人が同市へ逃れた。マイカーで避難する住民にも、20リットル分のガソリンを優先的に給油できるチケットを配布。村に4カ所あった避難所はすべて閉鎖した。

 村から鹿沼市に避難した高橋薫さん(40)の一家は、家族8人のうち夫ら3人が村に残る。「家は井戸水だから震災後も苦労はしなかった。でも、夫に『子どもにこれからどんな症状が出るか分からないから』と言われて出た。いつ帰れるんだろう。残してきた家族が心配です」


(朝日新聞・2011年3月23日20時1分) 
   






(2011年03月24日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 民主党・菅直人政権
ジャンル : 政治・経済




◆玉葱としての国民

前節の考察を受けて「柘榴としての国家」という表象を前提とするとき、この柘榴としての国家を<ゲームの舞台>とする<政治>はどのような本性を帯びているのでしょうか。国民を自然の猛威やグローバル化の波濤から守ることのできる政権とはどのような政権なのか。近代の「主権国家-国民国家」における<政治>のあるべきあり方を考えるため、<国民>の概念を吟味検討することで考察を続けていきたいと思います。

なぜならば、国家が「柘榴としての国家=自然と政治との両義的存在である疎外体」である限り、すなわち、ホッブスの語る如く「国家=可死の神」(自然に比べれば有限ではあるが、人間世界では自然と同一視可能な万能の存在)である限り、また、その国民を自然から守護するある国家やある政権のパフォーマンスが社会統合のスキルに収斂するのであれば、そのパフォーマンスの度合は国民からの自発的な支持をその国家や政権がどれほどのコストパフォーマンスで調達できるかと同値でしょう。ならば、あるべき<政治>のあり方は、(日本や英米の如き民主主義国であれ、支那や北朝鮮の如き独裁国においてであれ)そのような自発的な支持を国家や政権にいかほどかは与えている<国民>の本性を一瞥しない限り明瞭にはならないだろうからです。尚、この点の裏面とも言うべき、社会統合の制度としてのデモクラシーに関しては下記拙稿をご参照ください。而して、まずは前節の主張の整理。

・民主主義とはなんじゃらほい(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/53753364.html


(甲)国家は疎外体である
・国家は、国民の観念の産物、すなわち、国民の共同的な観念形象にすぎない
・国家は、(間主観的な諸作品の形成する世界、すなわち、カール・ポパーの言う「世界Ⅲ」にその場を占めており)個々の人間の願望や意図を離れた独自の運動法則性を持っている。要は、例えば、物価や為替の変動、あるいは、言語や性の規範と同様に、それが人間の観念の産物であるとしても、それが疎外体として成立している以上、最早、個々の人間の意図や願望からは離脱している存在である。よって、疎外体としての国家は、ある意味、自然の一部とも言える

(乙)国家における社会統合は与件でも自然的でもない
・近代の「主権国家=国民国家」は、歴史的に特殊な存在であるだけでなく、個々人の心性と価値観の最深部にある宗教・信仰を捨象する極めて人為的で人間にとって非自然的な存在である。畢竟、近代以降、現在の人間存在は、(a)人間のコントロールを離脱しているという意味では自然の一部である、しかし、(b)人間の本性に反しているという点では非自然的な国家と共存する運命を課せられている。サルトルは「人間は自由という刑罰に処せられている」と述べたが、蓋し、近代以降の人間は「自然的で非自然的な国家との共存という刑罰に処せられている」の、鴨。而して、アリストテーレースが喝破した如く「人間は「ポリス的=社会的&政治的」存在」であるとするならば、この類の刑罰は、実は、近代以前から、否、アダムとイブの失楽園以来のく<人類の終身刑>なの、鴨
・国家が人間にとって非自然的な存在でもある以上、国家社会における社会統合は予定調和的に具現する与件でもない。而して、<政治>の役割のαでありωは、この社会統合を可能な限り高いコストパフォーマンスで実現すること。国民からの自発的な支持を廉価に集めて社会に安寧秩序を具現することである、と。   


前節の考察をこう整理するとき、国家を産み出し、国家に制約され、そして、国家権力や政権に支配の正当性と正統性を付与する国民とはどのような存在として理解すればよいのか。再々になりますが、ゲルナーのナショナリズム論、あるいは、フランスのアナール学派やドイツの社会史流の歴史叙述を紐解くまでもなく、近代の「主権国家=国民国家」は極めて歴史的に特殊な産物です。人口に膾炙している如く、フランス革命以前にはフランス人などはこの世に存在しなかった。この点に関して私は旧稿で概略このように述べたことがあります。

民族も国民も国家もフィクションである。それは日本においては、歴史と文化と伝統を基底にした<皇孫統べる豊葦原瑞穂之国>という国家の成立と来歴の物語を中核として、そのような国家の一員としてのアイデンティティーとプライドを国民に供給するフィクションである。

畢竟、神武天皇の建国から万世一系の皇孫が統べる日本の国家イメージの妥当性は歴史的事実とは無縁である(要は、それが事実かどうかなどは国家の正当性と正統性の基礎づけにおいてはどうでもよいことである)。しかし、フィクションにすぎないとはいえ、皇孫統べる豊葦原瑞穂之国という理念は国民を国家に統合する機能を果たし、かつ、日本の独立と安全、個人の尊厳と個人の生存を国家が保障することを可能にする制度インフラに他ならない。

喩えれば、国家のフィクションは演劇の脚本と言える。演じるにせよ鑑賞するにせよその演劇に参加する者はその演劇のストーリーを認めなければならないという意味で国家のフィクションは脚本である。而して、その演劇が上演されている国家の内部においてその脚本や演出は唯一無比のものである。再度記す。(国家のフィクションは現実の歴史的事実をいかほどかは踏まえることが一般的とはいえ)国家の神話の正当性はなんら歴史的事実に拘束されるものではない。史実の吉良上野介は名君であったとしても仮名手本忠臣蔵の演劇空間では高師直(≒吉良上野介)は極悪人でなければならないことを想起されたい。

プラハで生まれカリフォールニアで没した、20世紀最高の法学者の一人、ハンス・ケルゼンは、国家をも含むこのようないわば演劇空間を、価値や評価の帰属点として整理した。帰属点(Zurechnungspunkt)とは実体的な存在ではない。それはある価値や評価が結びつけられ帰属する思考の対象として人間の観念の中にのみ存在する。

例えば、サッカーワールドカップのゲームで、柳沢敦が得点しても大黒将志が得点しても、「日本代表」に1点が記録され、彼等の活躍により日本が勝利すれば「日本代表」は勝点3を得る。しかし、私は当時のベルマーレ平塚の練習場で中田英寿を、宮本恒靖を同志社大学の学食で見かけたことはあるが「サッカー日本代表」には触ることはもちろん目で見ることもできはしない。蓋し、「サッカー日本代表」とは、サッカーのルールとサッカーの伝統と文化と慣習が意味的世界に作り上げた所の評価・価値・意味(得点や勝点)の帰属点である。それは主観的個人的なものではなく、間主観的で社会的、かつ、公共的な性格を帯びている。そして、日本という国家もこの世に無数にあるこのような帰属点の一つにすぎない。

国家は帰属点にすぎない。それはその国民から見た場合、喩えればサッカーや野球のゲームに参加する際のチームやチームのユニフォームと理解できようか。特に、そのチームに所属することやそのチームのユニフォームに必然性はないにしても、対内的には最高で対外的には独立を属性とする主権国家が割拠する国際社会において、ある個人がその生存を確保し、よりよく自己を実現しようと思うならば何らかのユニフォームを着用することがマストになるということだ。蓋し、ユニフォームを着用しないことは「You can, but you may not」なのである。(自家記事引用終了)    


国家も国民も民族も「擬制=フィクション」に過ぎない。けれども、それらもまたカール・ポパーの言う意味での「世界Ⅲ」、間主観的な諸作品の形成する世界にその場を占めている存在であるということ。また、ヘーゲルやマルクスが見出した如く、それらは疎外体であり、人間の観念表象でありながらも人間の認識と行動を制約する存在であるということです。畢竟、柘榴としての国家もその<国民>もまた、この意味でも、人為と自然との両義的存在であると言えるのだと思います。




人間の本性は玉葱である。何を私は言いたいのか。例えば、ある女性は、娘であり母であり、妻であり愛人であるかもしれない。また、彼女は小学校のPTAの役員であり近隣の絵画サークルのメンバー、そして、旧家出身で高学歴の上流階級に属する人であり、同時にコンビニのレジのパートのおばちゃんでもあり得るでしょう。では、何が彼女の「本性」なのか。

蓋し、彼女の本性とは、妻や母等々のそれら諸々の規定性の連関以外には存在しない。畢竟、玉葱の皮としてのそれら個々の規定性を一枚一枚剥ぎ取るとき最後には何も残らない類の、玉葱としての諸規定性の連関の総体こそが彼女に他ならない。と、そう私は考えています。而して、ある国家の正規の構成員であるという規定性、すなわち、国民であるという規定性もまた人間を形成するそんな玉葱の皮の一枚にすぎないとも。例えば、アガサ・クリスティーの『リスタデール卿の謎:The Listerdale Mystery』(1934年)には、没落した上流階級のヴィンセント夫人が登場しますが、私は、クリスティーが描くヴィンセント夫人像こそ人間の本性、玉葱としての人間という経緯の最も分かりやすい言語表現ではなかろうかと思います。

而して、このように、多様な規定性の連関の総体として人間を理解するとき、ある国家やある政権の徳の核心、すなわち、社会統合スキル、よって、自然に対する危機管理能力は、その政権や国家が玉葱としての国民に「国民」としての規定性をいかに上手に受け入れさせることができるかどうかと同値である。些か、同語反復的な言説ですが私はそう確信しています。

そして、21世紀前半に生きる人間存在にとって、「地球市民」なり「世界国家」なる表象が決定的にリアリティーを欠如している現下の状況を直視するとき、また、例えば、ハーバマスの語る「憲法愛国論=伝統とは無縁な合理的支配を保障する憲法に従い運用されている限り、国家にモラルサポートを与えるべきだ/与えても国家権力による人権蹂躙の危惧はミニマムにできるという主張」の書生論性が、(国家権力をも凌駕する国際テロネットワークの成立やリーマンショックでも明らかな如く)グローバル化がその獰猛性を一層顕著にしている現在、そして、東日本大震災に際して、国家の無力と無能な政権の有害さが露呈している現在、「国民」という規定性を個々の国民と折り合いをつけさせ得る社会統合スキルは、民族の伝統と文化の延長線上に<国民>概念を想定する保守主義的なもの以外には見当たらないとも。実際、元来、「憲法愛国論」と親和性の高かったアメリカでも、建国200年を経過する中で、その「合理的でエスニシティー的に価値中立的な憲法」はアメリカの伝統文化の一斑としてアメリカ市民のアイデンティティーの結節軸の一つになっているのですから。

東日本大震災を契機に(強請りたかりが得意なある県を除けば)、日本人間の連帯が日に日に強化されつつある現在、そして、(それが、合法的な政権であれば、その政権に対する国民の支持は与件であると)いまだに機械論的な国家権力認識を引きずっているとしか思えない現下の民主党政権の凄まじい能力不足が露呈するにつれて、国家社会統合のスキル、すなわち、国家と政権の徳の核心は保守主義的な国民統合イデオロギーを排除しては機能しないのではないか。地震を大震災にすることのない政権、よって、国民を自然の猛威やグローバル化の波濤から守ることのできる政権とは保守政権に他ならないのではないか、と。このような認識を一層深めているところです。





(2011年03月23日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
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zakuro8


◆柘榴としての国家

地震等の自然災害を「リトマス試験紙」とするとき、そこで測定されるある政権やある国家の危機管理能力は、それらが保有する社会統合スキルの関数である。すなわち、近代の「主権国家=国民国家」において、ある政権の徳の核心とはイデオロギーを駆使した社会統合スキルに他ならない。この前節の主張を踏まえて本稿全体の結論を先取りして記せばそれは次の通りです。

国家権力の社会統合スキルの核心は、①「自然災害―自然開発」による環境変化、そして、グローバル化の昂進に伴う社会の産業構造やライフスタイルや価値観の変化の両面での、<政治>を包摂する状況の恒常的変化に拮抗すべく、②ある「絶対者-絶対性」の認識およびそれら「絶対者-絶対性」に帰依する心性、これら相互間では共約不可能な個々人の信仰の営みには容喙しない非宗教的な形態での、③当該の社会に間主観的に妥当する認識と行動の規範体系としての、かつ、当該の国家社会に正当性と正統性を供給する「政治的神話=イデオロギー」をいかにメンテナンスできるかどうかに収斂する、と。    


社会統合スキルに着目するこの観点からは、マックス・ウェーバーの政治的な支配の三類型論(伝統的支配・カリスマ的支配・合理的支配の三区分論)とは別のアングルから、過去の主要な社会思想はこう理解できるのかもしれません。

()近代以前の「政治社会=国家」では、このような社会統合は②の宗教的な権威を準用してなされていたのに対して、()プレ近代期から連綿と存在する社会主義とは(人間理性への過信ゆえに、このような社会統合は予定調和的に具現するものと楽観して)、社会統合のための特別なイデオロギーは不要であるか、少なくとも、そのようなイデオロギーを確立しメンテナンスするために特別な努力は不要であるとするイデオロギーである。

そして、()社会主義の亜種としてのマルクス主義もまた、社会統合に関する予定調和的楽観という社会主義の蒙古斑を帯びてはいるものの、彼等の楽観論の基盤には(例えば、本邦の国粋主義等の素朴な社会主義的主張とは流石に異なり)、このような社会統合は社会にとって不可欠であるが、それは人為によって、すなわち、合理的に設計された国家権力の、(インプットとアウトプットの関係が管理可能という意味で)機械論的なイデオロギー操作によってメンテナンスできるとする認識が伏在している。   

而して、21世紀前半の現在、世界の実定的な社会思想の王座の地位を争う両雄。リベラリズムと保守主義もまたこの社会統合スキルという切り口からは次のように理解可能であろうと思います。

リベラリズムとは、()人間理性を信頼する、よって、社会に沈殿する因習や国家権力の干渉を排除することさえできれば、社会統合は予定調和的に具現すると楽観する。その点ではそれは社会主義の嫡出子と言える。

しかし、リベラリズムはマルクス主義と同様にそのような社会統合の重要性と希少性を認識しており、かつ、マルクス主義とは異なり、そのような予定調和の具現は十分な情報の流布と主張間の適正な競争の結果としてのみ達成されると考える。而して、現実には、(ミシェル・フーコーの知の権力論が指摘したように)情報や知識が偏在しており、そして、社会内のグループ間に政治力が偏在している以上、<政治>にはそれらの知識の偏在を是正する責務と諸グループ間の競争を公平にする責務が課されているとも。蓋し、(国家の概念も機能も多様であり、厳密に言えば論理矛盾とまでは言えないけれど)リベラリズムは、国家の権力的行使による国家の権力行使の制約を求めるというジレンマを抱えたイデオロギーなの、鴨。    

ならば、保守主義とは何か。蓋し、

保守主義とは、()上に述べた①~③の経緯、すなわち、国家権力にとっての社会統合スキルの死活的重要性と、そして、恒常的に変化する森羅万象の千変万化に対する「政治的神話=イデオロギー」のメンテナンスの重要性を直観的に理解しているイデオロギーである。而して、現状が諸行無常であり諸法無我であることを確信する、また、人間理性なるものが全幅の信頼を置くには程遠いものであることを直観している保守主義は、社会統合が予定調和的に具現するなどとは考えず、よって、当該の社会に自生的な文化・伝統をこれまた恒常的に(場合によっては国家権力を行使してでも)再構築することを辞さないとする社会思想に他ならない、と。

畢竟、保守主義は、恒常的な伝統の再編という営為が、自然に対して圧倒的に無力な人間存在にとっては、賽の河原で健気に石を積む子供達の行為、あるいは、果てしなく続くシーシュポスの徒労にも比すべき営みでしかないとしても、伝統のそのような恒常的な再構築の営みだけが、無限の幸福を希求せざるを得ないが、しかし、有限なる人間存在が形成する<国家>においては、人間の現存在に与えられた唯一可能な<政治>の方途であるという社会思想的な洞察であろう、と。   
 
カントは『純粋理性批判』第一版序の冒頭で、「人間の理性は、ある種類の認識において特異な運命を課されている。つまり、人間の理性は、それらが理性そのものの本性によって課せられているがゆえに拒むことはできず、さりとて、それらが人間理性の全体の能力を遥かに超えているものであるがゆえに答えることもできないという幾つかの問いに常に悩まされ続けているという運命である」(KABU訳)と述べていますが、この「認識」を「幸福」、あるいは、「幸福に至る方途の認識」と読み替えれば、保守主義とは、人間存在と人間の能力の有限性を確信するカント的テーストの洞察を基盤とする社会思想なのかもしれません。


◎リベラリズム:

・人間理性への信頼→社会統合の予定調和的具現の確信
・社会統合の条件整備の要求→<政治>の権力的運用による社会統合案間の競争条件の公平化の要求

◎保守主義:
・人間理性への不信→社会統合の予定調和的具現の否定
・社会的に唯一求心力を帯びうるものとしての伝統の尊重の要求→<政治>の権力的運用による伝統の維持の要求



尚、保守主義と社会主義を巡る私の基本的な認識に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59891781.html

・「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60002055.html

zakurogirl


大震災の惨状を想起すれば自明な如く、国家も人間もどこまでも有限なる存在でしかない。しかし、他方、人間が無限に無限の幸福を希求せざるを得ない存在であることもまた(それはあくまでも、科学方法論の基礎づけに専ら関係する『純粋理性批判』内の言説ではあるのですが)カントの洞察とパラレルに言えることではないでしょうか。畢竟、少なくとも原初的には、(社会学的に観察される共同体としての国家ではなく、社会思想上の)国家とはそのような無限と有限の狭間で呻吟することを運命づけられた人間存在が自生的に形成した観念表象に他ならない。冥界と現世の交点を象徴するものとしてギリシア神話に語られる柘榴の如く、それは無限と有限の交点に存在する両義的な観念形象なの、鴨。

けれども、それは単なる観念の産物ではない。蓋し、国家は(社会学的にも観察可能であり現象学的にもそう了解される)社会において間主観性を帯びる規範体系であり、また、(蟻塚等々、ある特定の生物がある特定の<文化>を外界に表現するという意味での)謂わば「人類の拡張された表現形」でもあるの、鴨。

ヘーゲルとマルクスの顰に倣い敷衍すれば、(それが「階級支配の道具」なるものでもあるかどうかは別にして、少なくとも)国家とは自然との共存を運命づけられている人間がその幸福を最大限にして、かつ、リスクを最小限にすべく自生的に形成してきた観念形象であり疎外体である。すなわち、国家は人間の観念の産物に過ぎないのだけれども、それは間主観性を帯びる社会の共同的な観念の形象であり、逆に、個々の人間の意識と認識と行動を制約する規範体系として現存している。要は、トーテムポールが人間の制作物でありながら、そのトーテムに帰依する個々人の行動を左右する経緯とこれはパラレルではないか。と、そう私は考えるのです。尚、近代国家成立の社会思想的意味を巡る私の基本的な理解については下記拙稿をご参照いただければと思います。

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html


この疎外体としての国家という認識からは、上で述べた国家権力の社会統合スキルの核心を巡る本稿の結論的な主張、すなわち、①「国家権力の社会統合スキルの機能=状況の恒常的な変化への対応」、および、③「社会統合スキルの本性=当該の社会に間主観的に妥当する認識と行動の規範体系としての政治的神話」ということの説明は不要でしょう。ある国家社会を形成するのはその社会のメンバーの共同的な観念であり意識であるとするならば、当該の国家の正当性と正統性の源泉もまたそのメンバーの政治支配の正当性に関する法的確信以外にはあり得ないのでしょうから。

而して、近代の「主権国家=国民国家」の形成が、資本主義的な生態学的社会構造の勃興に対する人類の応戦であった経緯を見れば、(要は、個々の宗教や信仰を奉ずる人々の枠を超えた、つまり、宗教から中立的な存在として彼等を国境内に同じ国民として包摂することが求められた)その社会統合イデオロギーの中核が非宗教的なsomethingでなければならなかった経緯も自明ではないでしょうか。蓋し、ヘーゲルの理神論的で非宗教的な国家神学こそ、正に、18世紀後半から19世紀前半にかけて人類が希求したそのような国家と<政治>のイメージだったの、鴨。

ならば、現在の国家と<政治>が備えるべき、社会統合スキルもまた、②「非宗教的なタイプのもの」にならざるを得ないだろう。なぜならば、繰り返しになりますけれども、そのような社会統合スキルが、宗教イデオロギーを越えて、規範としての妥当性と実効性を確保して「主権国家=国民国家」の域内で通用するのでなければ、それは単なる個々の論者の願望にすぎないでしょうから。このような認識が、人智を超えたものとしての「自然」概念を媒介として<政治>を見た場合演繹されると思います。重要なことは、

人間存在がそれに対処するために形成した国家やその国家を舞台として繰り広げられる<政治>が立ち向かう「自然」には大震災等の文字通りの自然災害や自然環境破壊だけではなく、自然としての、(要は、これまた疎外体として、それが人類の営みの結果であり集積であるにせよ)(a)人類のコントロールの能力を遥かに超えて、かつ、(b)独自の運動法則性を帯びるに至っているグローバル化の昂進もまた含まれるだろうことです。蓋し、過去の大戦も、<9・11>のテロも、オーム真理教によるテロも、あるいは、2008年9月のリーマンショックもまたこのような<自然>の猛威の一斑として理解可能なの、鴨。    


畢竟、国家は柘榴である。それは、生身の人間の住むこの世と無限なる自然の世界、政治と地震、人為と自然との接点であるという点で彼岸此岸の両義的存在なのだから。他方、それは、宗教やイデオロギーを異にする多様な国民を包摂する存在であり、かつ、現下のリベラリズムや保守主義等々、それは多様なイデオロギーの形成を誘発する<社会思想の芽>であり、多産の象徴という点でも柘榴である。と、そう私は考えています。


<続く>





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災害に対する危機管理は公共財の供給と並んで「国家=政府」の責務の中核でしょう。このことは、例えば、古代支那の殷王朝が黄河の治水をその本質的機能として発生したとされること、そして、歴代の支那の王朝では天変地異は天子の徳の至らなさの兆表として「革命」や「改元」、稀には「免税」や「減税」の理由とされたことを想起するまでもなく、人類史を通してある程度普遍的に言える事柄ではないかと思います。

人類が、例えば、古代ギリシアの人々が、ミクロコスモスとしての人間とマクロコスモスとしての宇宙の間に一種擬人的でパラレルな関係を見出していたこと。つまり、惑星や星座の運行、および、天変地異を含む天上の世界の秩序と、人の支配する地上の世界の秩序になんらかの対応関係を見立てていたことは周知の事実。そして、そのような擬人的な宇宙論が西洋の社会思想の根っ子にビルトインされている経緯は、ハンス・ケルゼンがそのイデオロギー批判の中心的主張として『神と国家』(1922-1923)以来指摘してきたことです。ならば、「自然=地震」を切り口に<政治>や<国家>のパフォーマンスの評価やその評価基準のことを考えることもそう荒唐無稽な試みではないの、鴨。

蓋し、例えば、天の与える警告や懲罰として、徳の乏しい政権の時に「大震災」が起きるのか、あるいは、徳の乏しい、要は、社会統合のパフォーマンスが低劣な政権下で惹起した地震が社会的には「大震災」として意識され歴史的に記憶されることになるのか。占星術に疎い私にはそれはよく分かりません。けれども、少なくとも、危機管理能力の劣る政権下で惹起する震災が日本国民にとっての文字通り<災難>と呼びたくなる類のものであることは間違いないでしょう。

しかし、本当にそうなのか。すなわち、社会統合スキルが拙劣な、就中、危機管理能力に劣る政権下で惹起する地震はその国民にとって、その国民の過去の行いとは無関係な悪しき不愉快な事柄としての<災難>と言えるのでしょうか? 

トーマス・マンが断じた如く「政治を軽蔑する国民は軽蔑に値する政治しか与えられない」とするならば、徳の低い政権下での天変地異の惹起は、すなわち、そのような巡り合せもまたその当該の国民の自業自得ではないのでしょうか。村山政権下での阪神大震災の生起や今般の菅政権における東日本大震災の発生という現実を前にしても(コアな自民党支持者であるにかかわらず)私はそう自問自答せざるを得ません。

而して、本稿は、個別、菅政権や村山政権の危機管理の能力を直接的に評価するものではなく、より一般的な観点から地震と政治、すなわち、自然と国家の関連を一瞥するものです。尚、本稿は下記の拙稿を「前書き」もしくは「後書き」とする本論とも言うべきもの。よって、もし、下記もご併読いただけるようであれば大変嬉しいです。

・民主党政権とは何だったのか
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60333201.html

・続・民主党政権とは何だったのか-国家なき国家論の稚拙な暴走
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60337052.html


◆自然の両義性-政治を免罪する契機と断罪する契機としての自然

まず確認しておくべきことは、自然の猛威の前にはどのような有能で老練な政権であろうとも、あるいは、世界唯一の超大国であろうと世界地図を顕微鏡で見ないと識別できない小国であろうともできることは極めて限られているという事実です。このことは、例えば、ハリケーン・カトリーナ(2005年)の襲来によってブッシュ政権が実質的にその政治的影響力に止めを刺されたこと、あるいは、ほぼ2億年の間続いたとされる食物連鎖における恐竜の支配がたかだか直径10キロ程度の1個の小惑星の飛来によって終焉を迎えたとされること(そう考えても科学的にはそう大きな問題はないこと)を想起すれば自明のことではないでしょうか。蓋し、国家などは自然の威力の前には「偏に風の前の塵に同じ」なのです。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
猛き者はついには滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ    


ならば、ある国家や政権の危機管理能力の評価は(安全保障にせよ、狂牛病や鳥インフルエンザ等の疫病対策にせよ、そして、地震への対処にせよ)、有限なる人間存在や有限なる国家権力の能力から見てその国家や政権がどの程度のパフォーマンスを発揮したかどうかによって判断されざるを得ないことになる。ならばこそ、史実として本当に「神風」が吹いたか否かにかかわらず、当時の日本の政治状況と社会状況を与件とした場合、可能な範囲で入神のリーダーシップを発揮した北条時宗には、「相模太郎の肝は甕の如し=北条時宗は大人物であることだな」と、北条得宗家に批判的なグループも含め元寇当時の大方の日本人から称賛の声が寄せられたのだと思います。よって、冒頭に書いた点に関して私は、

徳の乏しい政権の時に「大震災」が起きるのではなく
徳の乏しい政権下で惹起した地震が「大震災」として認識される    


と考えます。而して、重要なことは、ミシェル・フーコーの「知=権力」認識(現在においては専門家が独占する知識体系は専門家以外の素人を沈黙させる社会的な威力を帯びる<権力>であるという認識)を持ち出すまでもなく、現下の社会工学の発達とその知識や技術の国際的な伝播の状況を鑑みるに、(以下、「危機」を純粋な自然災害に限定しますけれど)危機管理のためのテクノロジーの品揃えに関してはマクロ的に見た場合に先進国間でそう大差ないだろうこと。ならば、例えば、現在の民主党政権とその前任の自民党政権の危機管理パフォーマンスの評価における条件はほぼ同一と看做しても双方にそう不公平ではないだろうことです。

何を私は言いたいのか。それは、同時代のある国の複数の政権間の危機管理における優劣の差異は、テクノロジー以外のスキル、畢竟、イデオロギーを用いた社会統合スキルの差異にほぼ収束するのではないかということ。而して、『論語』顔淵篇はこう諭している。

子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立。

子貢、政を問う。子曰わく、食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ。子貢が曰わく、必ずやむを得ずして去らば、斯の三者において何れをか先きにせん。曰わく、兵を去らん。曰わく、必ずやむを得ずして去らば、斯の二者に於て何ずれをか先きにせん。曰わく、食を去らん。古より皆死あり、民は信なくんば立たず。   


蓋し、政権の徳とは社会統合のスキルの錬度に他ならない。そう言えるのではないでしょうか。畢竟、地震に象徴される自然は、人智の及ばぬ領域としては政権の政治責任を免罪する契機であるとともに、他方、逆に、地震被害への対処に関して人智の及ぶ領域を明確にするメルクマールとしてはその責任を赤裸々に露にする契機でもある。政治に関して自然はそのような両義性を持っているのだと思います。

・近代国家における政権の徳とは社会統合スキルの錬度とパフォーマンスである
・自然は人智の可能と不可能との<境界>として、常に同時に、政権を免罪する機能と政権の責任を明確化して政権を断罪する機能を重層的に果たしている。   


加えて、国民主権と民主主義を憲法原理とする我が国を含む近代立憲主義が確立している先進国においては、各政党が保有する社会統合スキルの錬度自体もまた国民有権者の投票行動を左右するファクターの一つでないはずはない。よって、もし、ある国民が、徳のない、すなわち、社会統合のスキルにおいて拙劣で危機管理のパフォーマンスについて自国民や世界に不安を感じせしめるような政権を誕生させたとするならば、そのような政権の成立と不手際は、先のトーマス・マンの自嘲的箴言の如くその国民の責任であり、よって、例えば、

徳の乏しい政権下で惹起した地震はその国民の事業自得であり<災難>ではない    


と言わざるを得ないのだと思います。而して、では、「政権の徳の核心=イデオロギーを駆使した社会統合スキルの醍醐」とは何なのか。これ以降の考察に関しては、「国家」を近代の「主権国家=国民国家」に限定させていただくとして、国家と自然の連関性を更に掘り下げつつ次節ではこの点を俎上に載せていきます。要は、地震に象徴される自然が<政治>のゲームのパフォーマンスを評価する「免責-断罪」の重層的な基準であるとして、では、その<政治>のゲームが繰り広げられる舞台や枠組みとしての<国家>とは人間存在にとっていかなる事態なのか、それは自然とどのような思想的な位置関係にあるのか、このことを検討してみたいということです。



zakuro02.jpg


◆柘榴としての国家
◆玉葱としての国民



<以下続く>



P/S
私達の住む新百合ヶ丘エリアで今日午後から予定されている、東日本大震災にともなう東京電力の「輪番停電」を控えて、一応、作成した章節から未定稿ながら順次アップロードすることにします。いつ、停電になるかわからないから。そして、その後、いつキーボードに向かえるか本当にわからないから。実際、我が家の「足」である小田急小田原線は私達が利用する区間ではこの停電を睨んで終日完全に止まっていますから。

けれども、この程度の不便は、岩手・宮城・福島等々、大震災の直接の被災地で頑張っておられる被災者やその被災者の方々を救助・支援しておられる自衛隊員の方々の不便や不安、苦労や落ち込み、何より被災者の方々が被られた損害や打撃に比べれば全くものの数ではない。それを時空を越えて痛感する。正直、「被災者の方々が被られた損害や打撃」という言葉自体が他人事でしかないではないか。

しかし、そのことを痛感するがゆえに、私達なりのやり方で被災地に連帯をはかるべく、論理や字句の乱れ等々、何時にもましての拙劣を恐れず順次アップロードする所以です。大震災の翌日、石原慎太郎都知事が「都民にそれほどの被害がなかったことをありがたいと思う」と率直に述べられたように、誰しも自分からの親しさの程度の度合に従い、かつ、自分のできる範囲でしか震災被災者への連帯などは到底できないと思いますから。

而して、この石原知事の記者会見での発言を「被災者の心を踏みにじるもの」等々と非難する声もあるやに聞きます。しかし、私は、「都民にそれほどの被害がなかったことをありがたい」と心底思えないような、都知事としての責任と職務に真剣みの足りない(都民の生活と運命に対するコミットメントの度合の低い)知事の治める都(道府県)には怖くて住みたくありません。蓋し、本稿は、危機管理のパフォーマンスとしても頼りがいのある政治を、しかも、石原都政下の東京都だけでなく、国政はもとよりこの国の津々浦々にいかにしてリアラィズするか。そのことを考えるための試案でもあろうかと思います。


б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ろう、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・君は一人/独りじゃない!
б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!



(2011年3月14日午前11時30分に記す)





(2011年03月14日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済



東日本大震災に起因する福島の原発事故に関して、菅直人首相の失態を糾す声を見聞きします。曰く、「菅総理の東京電力本社視察は現場の緊急対策を邪魔し、士気を挫くだけに過ぎなかった」等々。例えば、信頼するあるブログ友もそのように書いておられる。しかし、正直、私はこのような言説には違和を覚えざるを得ません。

・災いを招いた菅総理
 http://blogs.yahoo.co.jp/nipponko2007/37207169.html

もちろん、私もこのブログ友と次のような認識、

民主党政権の東日本大震災と原発事故への対応には完全に失望した。
発生後一週間も経ってもまだこの有様では、もはや人災である。

菅総理の言動といい、蓮舫大臣のコンビニ視察といい、まったくのパフォーマンスに過ぎない。

現場の人達はほんとうに黙って命を懸けて原発を守ろうとしているのに、菅総理は遠くから口先だけで「命を懸けて」と言っているに過ぎない。それどころか東電に3時間も居座って緊急時の業務を妨害し、どやしつけているだけである。その怒声は廊下にまで響いたというではないか。

さらに小手先の人事で仙谷氏を副官房長官に据えてますます事態を悪化させようとしている。  


・もはや民主党政権の人災だ
 http://blogs.yahoo.co.jp/nipponko2007/37206993.html

を共有する者です。畢竟、この1週間、民主党政権の、それが他人事であれば、笑いたくなるくらいのガバナビリティーのお粗末さには憤りを越えて唖然とさせられていますから。しかし、例えば、原発事故を巡り菅首相の失態を糾す声に関して、私は、首相の原発視察や東京電力本社居座り行為と現下の原発事故の悪化の間に(専門的・技術的には)因果関係があろうとも、それを現政権の落ち度とするのは難しいと思います。誰も、社会的に相当な範囲の期待可能性を越えて責任を問われるべきではないのだから。そして、誰が首相でも、自分の視察や東京電力恫喝&3時間居座り行為が事故を歴史的な大事故に推移させるとは思わなかっただろうから。


而して、では、福島の原発問題で露になっている、
すなわち、東日本大震災がはからずも露呈させた現下の日本の政治の問題は何か。
民主党政権が孕む問題の本質は奈辺にあるのか。

蓋し、問題は、例えば、震災後1週間を経過したというのに現地にガソリンも食糧も満足に届けらていない現状。あるいは、現下、首都圏の「計画停電」なるものの無秩序性(それは「無計画停電」でさえなく、正に、「ロシアン・ルーレット停電」ですよ!)に顕現している。

そこに露呈している現政権の孕む問題性は左右の政治的な立場の違いなどを超越して凄まじい。民主党政権のガバナビリティーの低さ(それは突き詰めれば、大震災と原発事故という「国難」を踏まえて、国民を社会的に統合するスキルの欠落)は一般通常人の認識の枠組みを突き抜けており、正気の沙汰レベルを遥かに越えたものだ。と、そう私は考えています(尚、この点に関しては下記拙稿、福島県浪江町で被災したブログ友の転載記事および福島県南相馬市で被災したブログ友の転載記事をよろしければご参照ください。ちなみに、南相馬市と浪江町を併せて弊ブログのブログ仲間の間では「アイアン地方」と呼んでいます)。

・東日本大震災現地状況☆福島は雪
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60343727.html

・ガソリンを☆東日本大震災で被災したブログ友アイアンさんの記事転載
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60344432.html


実際、百歩譲って、被災地の南相馬市や浪江町ならともかく、東京や神奈川で、米やガソリンがマーケットで入手困難な状況はどう見ても異常でしょう。

例えば、知り合いの水道管の工務店さんや建築現場の足場専門の鳶の社長さんは、「1週間前の地震直後から、地震被害を修繕する工事の注文や打診は山積みなのに、(例えば、川崎市麻生区から東京都日野市! 道なりにわずか片道20キロ強の距離!)ガソリンが手に入らず現場に行けないので、仕事を受けられない!」と言っている。   


そんな状況が東京や神奈川には蔓延しているのです。

あるいは、丹沢山系をそのサービスエリアに含むある生活協同組合の職員の方からは、「タンクローリーで灯油を山間部の集落に運びたいのだが、そのタンクローリーを動かすガソリンの手配がつかないから、灯油を満載したタンクローリーが駐車場で寝ている」と聞いています。    


カフカも赤面させるような、このような不条理劇が大震災から1週間後の現下の首都圏では珍しくないのです。東北の被災地では、「ガソリンを運ぶタンクローリーを動かすガソリンの手配がつかないからガソリンが枯渇したままなのだ」とは新聞が日々報道していること。しかし、大震災の被災地とは呼べない東京や神奈川でなぜそれとパラレルな事態が起きているのか。また、その事態がなぜに東日本大震災から1週間が経過しても治癒されないのか。菅首相のお粗末な視察や居座り行為などではなく、この事態こそ問題ではないでしょうか。

而して、これらの事態は、民主党政権のガバナビリティー不足に起因する政治的な喜劇でしょう。しかも、それらは誰にとってもあまり愉快ではない喜劇である。そして、これらの政治的な不細工が諸外国からの日本に対する評価や信頼を劣化させていることは間違いないのではないでしょうか。

ならば、これらの事態を惹起せしめた政治的力量の乏しさこそなにより民主党政権は糾弾されるべきであり、そのシャビーな能力が惹起せしめたミゼラブルな現実の状況に対して民主党政権は政治的責任を負うべきだと思います。大震災の被災地で、あるいは、福島原発の事故現場で黙々と勇敢に使命を果たしておられる自衛隊の皆さんの気高さと比べ、それを邪魔することしかできない民主党政権の現状を反芻するにつけ、私はその感を一層深くせざるを得ません。

・東日本大震災☆自衛隊大活躍-民主党政権は自衛隊の邪魔をせず引っ込んでろ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60338241.html


蓋し、震災の救済支援と復興支援の要は、

①現地ニーズの施策への的確な反映
②復興のグランドデザインの明確化と国民各層への周知徹底、そして何より、
③​諸施策間の優先順位と納期と責任部署の明確化    


ではないか。かなり抽象的で、よって、この①~③は、危機管理を巡るあらゆる「ビジネスジャッジメント」について言えることかもしれませんが、ならばこそ、逆に、「ビジネスジャッジメント」の定跡に鑑み、やはり、私はそう考えます。

​而して、

①~​③に従って、3ヶ月は自衛隊に現地支援の指揮は一元管理させ、その後は、NG​Oやボランティアを含む多様な支援を、これまた、その采配と管理ができる適任の団体・機関に任せること。けれども、丸投げではなく「任じて任ぜず」。​ちゃんと、国民に説明責任を負う行政セクターがそれらを監視すべきだ、と。    

この方向で行くしかないのではないか。と、そう考えるのです。実際、どの役所も権限と予算とポストは欲しいが、責任と批判の矢面に立つのは勘弁というのが、例えば、現在の、被災地におけるガソリン不足や東京電力の「ロシアンルーレット停電」の遠因でさえあると私は確信していますから。

而して、もし、震災の救済支援と復興支援がこの方向に進み、幸いに救済支援と復興支援が軌道に乗り、よって、その結果、棚ボタ式に「現政権-民主党政権」が延命することにつながったとしても、私はそれはそれでよいと考えています。小澤氏でもあるまいに、政局や政権よりも<日本>が問題にならないくらい大切ですから。そして、強請りたかり名人のどこぞの県とは違って、<東北>は間違いなく<日本>なのだから。否、<東北>こそ<日本>の<精神的基盤&母体>の一つなのでしょうから。

ことほど左様に、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式の、一種、揚げ足取り的な民主党批判は厳に慎むべきではないか。そうではなく、民主党政権の孕む本質的な問題点、謂わば「先進国の政権としてのシンタックスエラー」が常態のそのシャビーな力量をこそ咎めるべきであり、しかし、大震災の救済と復興については(どんなことがあっても、当座、彼等が政権を投げ出すことは現実的にはまずあり得ない以上)、とことん「民主党政権を使い倒す」しかないのだろうと思います。いずれにせよ、

大震災を方便や奇貨とした政権批判は美しくない
原発事故を奇貨とした保守派の民主党政権批判は見苦しい


畢竟、保守派はそのようなさもしい言説は厳に慎むべきであろう。なにより、そのような、「ドブに落ちた犬を叩く」が如き、特定アジアの風俗に相応しい、よって、日本の淳風美俗とは異質な言説が、中長期的に見た場合、強固で広範な国民世論の支持を獲得できるとは思いません。

ならば、民主党政権に対して言いたいことが各自お腹の中に充満していたとしても、それはこの数週間程はぐっとそれらは飲み込んで、被災者支援、被災地との連帯のために自分ができることをやり、併せて、震災救援と震災復興のために合理的に妥当と思われる施策を中央と地方の自民党の同志議員、そして、敵であるにせよ民主党政府に訴えかけ働きかけるべきではないでしょうか。

実際、一昨日からの寒波の中、岩手県・宮城県・福島県の被災地には電気・ガス・水道などは言うまでもなく、食糧も燃料も、毛布も赤ちゃんのおしめも薬品も満足に行き渡っていないのですから。


漢方薬の如く緩慢で、大山永世名人の全盛期の受け将棋の如く迂遠なようですが、(民主党政権が自衛隊の足を引っ張る以外、何もできない現状を鑑みれば)、ガバナビリティーの低い民主党政権に、先進国の政権であれば左右を問わず当然できるはずの、しかし、残念ながら、彼等が到底それをできないだろう危機管理施策の実行を求め、かつ、その施策の進捗状況に関して説明責任を果たすことを求めること。

この方途が民主党政権を確実に倒す手立てでもあり、また、(民主党政権が瓦解した結果の棚ボタではなく)国民世論の広範かつ強固な支持を基盤とする、保守政権の半永久体制に道を開くものではなかろうか。と、そう私は考えています。尚、自然災害と政治を巡る私の基本的な考えについては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・地震と政治-柘榴としての国家と玉葱としての国民(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60340034.html


б(≧◇≦)ノ ・・・頑張れ、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・君は一人/独りじゃない!
б(≧◇≦)ノ ・・・保守派は揚げ足取り的な民主党政権批判を自粛せよ!

б(≧◇≦)ノ ・・・頑張れ、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・君は一人/独りじゃない!
б(≧◇≦)ノ ・・・民主党政権はなーんもせんでえーから、自衛隊の救援活動を邪魔するな!





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夏祭りかな



◆解題
б(≧◇≦)ノ ・・・解題不要!




eq10.jpg



不当解雇・失業者から被災者となった鉄主婦です。
思えばなんというジェットコースター人生でしょう。

さて、報道も再三されていますが、南相馬ではガソリンがまったく手に入りません。
避難したくとも避難できない人がたくさんいます。

そして、秋田の友人までガソリンがないと言ってます、被災地ならともかく、なぜ遠く離れた秋田までガソリンがないのでしょう?

お願いですから、買い占めをやめて、被災地にガソリンを送ってください。
放射能がこわいけど、ガソリンがなくて逃げられない、だんだん食料もつきる、そんな被災者の気持ちを想像してください。

被災者の一人として、訴えます!

2011/3/16(水) 午後 8:06    


【転載元】
 http://blogs.yahoo.co.jp/iron_shufu/37790408.html


<参考記事>
・【アイアンさんの記事転載】国道の海側が地獄のようです。
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/221b26334732163055b7874e15f20a10

・東日本大震災現地状況☆福島は雪
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60343727.html

・地震と政治-柘榴としての国家と玉葱としての国民(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60340034.html






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From nana-san's photo「Beautiful Sky of Fukushima」(March 9, 2011)


◆管理人挨拶
東日本大震災の被災地の一つ、福島県浪江町在住だったブログ友の記事転載です。nanaさんの記事。nanaさん一家は、福島県浜通りと中通りを隔てる阿武隈高地の山間部の避難所を転々とした後、今、福島市内に移動して、被災地の地元同胞を支援する活動に入っておられるとのこと。同じくブログ友のアイアンさん(福島県南相馬市で被災の方)の記事に引き続き、謹んで、かつ、ある覚悟のもとに転載させていただきます。

蓋し、頭の中で支援策を躍らせ、また、妄想の中で不安をつのらせているだけの、東京や神奈川を始め非被災地の私を含む多くの人々と、とにかく生き抜くしかないと、そう現状をゼロベースに見たてた上で行動を始めている現地との大きな落差の存在をくっきりと感じました。それは、しばしば、優雅で観念的なボランティアと現地被災者の間に見られる類の落差なの、鴨。

蓋し、滑稽なほどの大きな落差。否、両者の被災を巡る質の違いを(首都圏で現在起きている買い溜めパニックを、川崎市麻生区の地元のスーパーで見事に空になった食品棚の列や早々に売り切れて看板を降ろしているガソリンスタンド群を直接目にしている身としては)このnanaさんの記事を読んで感じざるを得なかったということ。

別に、(私がコアの自民党支持者だからといって)今回の「大震災-自然災害」をもっけの幸いに民主党政権の批判をする気はないのです。否、これでも大震災からのこの数日、むしろ意識的に現政権批判は控えてきた。

しかし、例えば、これは下種の勘繰りと言われればそうかもしれませんが、民主党政権の持論たる「政治主導」に沿ったリーダーシップをアピールしたかったこともあるのか、早々に発表された東京電力の「輪番停電」宣言なるものがなにがしか消費者の防衛本能に火をつけて現下の首都圏での買い溜めパニックを誘発したことは間違いないのではないでしょうか。なぜならば、首都圏以外の非被災地では今のところ目だった買い溜めパニックは起きていないのですから。而して、もし、私のこの推測が満更自民党支持者の悪意から発する民主党政権の震災対応に対する意地悪な解釈ではないとすれば、現政権のあまりの危機管理の稚拙さには憤りを越えて虚しさを感じます。

要は、民主党政権首脳部は、原子力発電所の事故も東京電力に恫喝をかければなんとかなる、あるいは、大震災の被災者救援も自衛隊の動員規模を5万人ではなく10万人に拡大すればなんとか対応できるとでも考えていたのではないか。畢竟、それは生身の国民消費者の実際の心理を理解できず、他方、自然災害に対しても国家の機関を機械論的に操作することで対処可能と理解する子供っぽさと言うべきものであろうと思います。而して、権力を持つ者のそのような子供っぽさには私は強い危惧を覚えます。子供は責任も権限も持っていないからこそ、その子供っぽさは愛すべきもとされるのでしょうから。

いずれにせよ、電気やガスの全面復旧とは言わないが、また、希望する被災者全員を収容可能な仮設住宅の建設の完了とも言わないが、震災後120時間が経過したというのに、食糧もガソリンも、電池も毛布も被災地に届けられない世界第三位の経済大国とは何なのか。それは、民主党政権下の日本がその経済力に反比例して世界でも屈指の政治小国に成り下がっていることの証左であることは間違いないでしょう。

ならば、畢竟、政府が頼りにならないのなら、国民は現場で黙々と汗をかいている自衛隊の皆さんには感謝しつつ、しかし、本質的には被災地の自力更生と被災地住民間の相互支援、そして、何より被災地と非被災地間の相互協力あるのみではないか。だって、長い時間軸を取れば今の非被災地も被災地もお互い様。困っている時にはお互い助け合うに如くはないのでしょうから。

nanaさんのこの記事を読んで一層その感を強くしました。


б(≧◇≦)ノ ・・・頑張れ、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・君は一人/独りじゃない!
б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!     



<参考記事>

・【アイアンさんの記事転載】国道の海側が地獄のようです。
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/221b26334732163055b7874e15f20a10

・東日本大震災☆自衛隊大活躍-民主党政権は自衛隊の邪魔をせず引っ込んでろ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60338241.html

・地震と政治-柘榴としての国家と玉葱としての国民(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60340034.html


jieikan.jpg


準スタッフしてます
ななは元気っす!!
思うよう、コメントできないのですが、(記事しかできない)なるたけ現じょうを伝えたいとおもいますので、聞きたいことあれば出来る限り伝えたいです

アイアン家も
奔走してると信じて!

各学校の先生がたは
地震直後から子供たちの
安否確認に、奔走してくださってます

子供たちのネットワークで安否確認しながら
中学校では、先生方のアドレス公開してくださっています
高校クラスになると、各活動で掲示板作ってくれて、生存確認してくれてるようです

悪質なチェンメールがないとはいいませんが
ちゃんとしたものだってあるんです
子供達だってリッパに活動してんだぞ

受け入れ先でも
一生懸命に、動いてくださってます。
心よく、井戸水、衣類など提供してくださる民家もありました
ご自身達の生活も、
断水だったりライフラインは回復してないんですよ
本当に感謝してます

ただ移動が広範囲にわたり人数にかなりのばらつきがあり、皆様のご好意が届かなかったり、足りない場合もあります

一番は
アイアン地方に
ガソリンを届けたい!
ガソリンがあれば
自力で来れるし、迎えにも行ける!
それすらできない    

☆KABU註:
福島県南相馬市で被災したアイアンさんからも、被災者同士助けあいたいと痛切に思うものの、「私ももうガス欠で身動きとれませんし、どうしたらいいかわかりません」という声を昨日いただいています。


個人的に移動中のひとは
受け入れ先も確保できず
問い合わせ先もわからず
迷走の場合もあります

いまだに事態を知らないで、周り片付けたりしてるひともいるかもしれない

テレビ、ラジオで
いくら呼びかけても
現地は電気ないのよ?
聞こえるわけないじゃないの!

(2011/3/16(水) 午後 0:58)    


【転載元】
 http://blogs.yahoo.co.jp/nana7pannda8/37789370.html




(2011年03月16日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済

東日本大震災2

◆管理人挨拶
東日本大震災の被災地の一つ、福島県南相馬市在住のブログ友の記事転載です。アイアン主婦さんの記事&問題提起。謹んで、かつ、ある覚悟のもとに転載。

避難している、ある意味、避難出来る被災者とは別に、取り敢えず安全にせよ(ライフラインどころか、食糧事情においておや!)劣悪になった地元にいるしかなく、その場で<生きる>という戦いに対峙している、例えば、福祉施設の利用者への社会的ケアはどうすればよいのか。これは、おそらく、数週間~数ヵ月後には被災者のマジョリティーが対面する問題の<先駆的-原初的>露呈だと思います。

蓋し、この問題提起は「国や社会に対する甘え」などではないです。アメリカでも、災害に際しては「被災地」を「非被災地」が、生活再建の基盤整備が整うまでは支援する、而して、その後は自己責任の原則でお互いに頑張るという姿勢が常識なのだから。畢竟、要は、長い時間軸を取ればお互い様なのだから。

そんな、同胞意識と自己責任の原則に貫かれた災害支援を我々保守派も政府に促すべきであろう。この記事を読んでそう考えました。

<参考記事>

・東日本大震災☆自衛隊大活躍-民主党政権は自衛隊の邪魔をせず引っ込んでろ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60338241.html

・地震と政治-柘榴としての国家と玉葱としての国民(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60340034.html

P/S
それにしてもアイアンさんを始め、岩手県・宮城県・福島県の被災地の知人に対しては、やっぱ、こちらからの電話は今も通じませんね。ただ、もう4日だから、通じにくいだけなのかもしれないけれど。このことを見ても災害の甚大さを時空を越えて痛感しています。



東日本大震災1


鉄主婦です。


わがアイアン地方こと、福島県南相馬市を南北に走る国道6号線。

この国道の東側(海側)は、津波の被害で地獄のようです。

とくに国道付近の土地が低くなっている南相馬市鹿島区の惨状は目を覆うばかりです。

国道のすぐわきに、瓦礫や船や重機のタイヤやがれきがごろごろしています。

海まではかなりの距離があるはずなのに、津波がここまで襲ったのです。

わが職場は高台にあるのでなんとか無事でしたが、すぐそこに海が見えます。


そんなばかな。


ここから海なんて見えるはずがなかったのに。

海近くにあった集落は跡形もありません。

見渡す限りの瓦礫の山です。

まるでいつか見たパニック映画のような、、、


もう、感覚がおかしくなっていて、現実のことと思えないくらいです。

そんなばかな、そんなばかな、こんなことが、という気持ちがぐるぐる回っています。

わが職場の入所者の方たちは、何とか食事を提供していますが、十分とはとても言えません。

原発の爆発もあって、放射能もこわいです。

避難場所のない福祉施設の利用者さんたちはいったいどうしたらいいのでしょう。


誰か教えてください。


【転載元】
 http://blogs.yahoo.co.jp/iron_shufu/37783964.html




(2011年03月15日:iza版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済

自衛隊1

浪江町の避難所から更に離れた浪江町津山公民館で避難者の救援活動を
する自衛隊員。2011年12日午後5時17分、福島県双葉郡浪江町




危機管理は国家の核心的責務です。而して、震災の翌日、福島第1原発への無駄な視察を行い、都市火災、疫病の蔓延、治安悪化、そして、ライフラインの寸断にともなう老人子供の健康被害拡大とともに大震災の二次災害として誰しも危惧するだろう、原発事故の封じ込めを阻害した菅直人首相の責任は大きいでしょう。蓋し、何もできないなら専門家集団の自衛隊に全てを任せて、自衛隊員の足を引っ張るな! と、そう私は民主党政権に言いたい。当該の福島第1原発での自衛隊員の献身的な活動を見聞きするにつけ一層そう思います。以下、報道の転記。

б(≧◇≦)ノ ・・・打倒、民主党!
б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!




自衛隊2

被災地から駐屯地へ一時避難していた人に声をかける隊員=13日午前、
宮城県仙台市若林区の陸上自衛隊霞目駐屯地




◎政府、後手の対応 首相視察が混乱拡大との見方も

菅直人首相は12日夜、福島第1原発について「一人の住民も健康被害にならないよう全力で取り組む」と強調した。ただ、原発で爆発が起きたことで、政府の危機管理能力が問われることになった。「最悪の事態を想定」(枝野幸男官房長官)してきたはずなのに、退避指示の範囲を徐々に広げた。爆発の事実を発表したのも発生から2時間以上たってからで、官邸の混乱ぶりがうかがえた。

しかも首相が12日朝現地を訪れ、1時間近く視察したことは現場の作業を遅らせる一因になったとの指摘もあり、責任を問われかねない。

(産経新聞・2011/03/12 23:25)   




◎防衛省 自衛隊を原発施設にも投入 放射線調査や注水作業

政府は12日、福島第1原発の周辺住民の避難誘導のため、自衛隊を投入した。自衛隊は原発で放射線のモニタリング調査も行ったほか、冷却作業を支援するため注水も行った。

原発周辺には陸上自衛隊でNBC(核・生物・化学)テロ対処能力を持つ専門部隊「中央特殊武器防護隊」(埼玉県)約40人のほか、第44普通科連隊(福島県)の約80人など約200人が展開している。原発の10キロ圏内にある老人ホームなどから195人をヘリコプター10機で移送した。

陸自の消防車は第1号機で爆発が起きる前、注水を行っていたが、陸自要員にけが人はいないため、爆発時には作業を中断していたとみられる。12日夜に注水を再開。空自の給水車9台も13日未明までに原発付近に集結させる。

作業にあたり、中央特殊武器防護隊が付近で放射線のモニタリング調査を行った。陸自のヘリコプターUH1も上空からモニタリング調査を支援した。

一方、菅直人首相が被災地に派遣する自衛隊員を2万人規模から5万人規模まで増派する方針を表明したことを受けて、陸自は被災地以外の方面隊の師団や旅団から約2万人を増派。海・空自も1万人ずつ増派する。これまでに陸自は約2800人、海自は102人、空自は179人の計3081人を救助した。

米軍の協力については、横須賀基地(神奈川県)から海軍の艦艇を出してもらい、三陸沖で海自と共同捜索救難活動を実施することで調整が続いており、13日にも開始可能という。実現すれば自衛隊と米軍が初めて国内の災害で本格的な共同活動を行うことになる。

海自艦艇は三陸沖などに40隻以上が到着。米原子力空母「ロナルド・レーガン」も13日には三陸沖に到着する予定だ。米海兵隊が利用している高速輸送艦や、防衛省が高速輸送艦への転用を検討中の民間フェリーをチャーターすることも視野に入れている。

防衛省は12日朝、北海道の陸自要員約900人と車両約250両を米艦艇で輸送してもらうことで「調整中」としていたが、12日夜になり、「(調整は)白紙」とした。 

(産経新聞・2011.3.12 23:20)  






(2011年03月13日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 民主党・菅直人政権
ジャンル : 政治・経済

富士


民主党政権は国家観を欠いている。これはしばしば指摘されることです。実際、「日本列島は日本人だけのものではない」と言い放った鳩山首相、在日韓国人から政治献金を受けていた事実が発覚したにもかかわらず毫もそのことの重大さを理解しているとは思えない菅首相。そして、「竹島は日本の領土ではない」という韓国国会議員の宣言に何憚ることなく署名してしまうその菅首相の側近議員等々。これらのことを見れば、民主党政権に日本の国家権力を担っているという意識と気概が欠落していることは間違いないでしょう。しかし、私は民主党政権が孕んでいた問題は国家観の欠如ではなく、むしろ、それに憑依する国家観の歪さではないのか。すなわち、民主党政権とは<国家>なき国家論の稚拙な暴走ではなかったのか。と、そう考えています。

本稿は前稿「民主党政権とは何だったのか」の続編であり補足。よって、繰り返しになりますが、なぜ民主党政権が誕生したのか、この点に関する認識を確認した上で本稿の考察に進みたいと思います。

・民主党政権とは何だったのか
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60333201.html

なぜ民主党政権は誕生したのか? あるいは、民主党政権とは何だったのか? 

私はそれを、()現実的に<政治>が実現不可能な要求を、()現実の政治において極めて拙劣な政治スキルしか持ち合わせていない政党が国民有権者に実現を約束して政権を奪取した事象であり、而して、()<政治>には外在的と内在的の限界があることとともに、()<政治>が国家社会統合というイデオロギー的機能をその死活的に重要な役割としていることをこの悲劇の中で日本国民が学習した事態であると、ある種、楽観的に総括しています。    


以下、敷衍します。


◆ゲームの意味の変化とゲームのルールの変化

再々になりますが、民主党政権の誕生は自民党一党支配体制の終焉に他なりません。自民党政権末期のこの社会を覆っていた閉塞感に耐えかねた多くの有権者は民主党に一票を投じたと言えるのではないでしょうか。では、その閉塞感の正体とは何か。蓋し、それは、冷戦構造崩壊に象徴されるグローバル化の昂進にともなう(ビジネスにせよ国際関係にせよ、老後の生活にせよ就職や結婚にせよ)社会の予測可能性の低下を背景とした、<政治>のゲームのパフォーマンスへの不満であり、而して、民主党政権は(そして、ある意味、小泉構造改革も)<政治>のゲームのルールに対する異議申し立てを世論に問うことで政権を奪取したの、鴨。

予測不可能性とリスクの増大。すなわち、日本の相対的地位の低下、相対的に縮小するパイの大きさに反比例して拡大し機能不全に陥ってきた、①中央と地方の格差、②世代間格差、③国から地方への援助システム、④世代間支援システム。他方、冷戦構造崩壊の中で国家主権の原則に基づき見直されるべき、日本の安全保障政策に対する、あるいは、対特定アジア外交や日本の近現代史認識に対する事なかれ主義的で理不尽な<戦後民主主義の歴史観>の跋扈延命。そして、言うまでもなく「政財官+労組」のアンシャンレジューム体制の存在、等々。

これら誰が見ても、<政治>が今改革すべき現状を支配するルールが、しかし、他方、この社会の人々の(例えば、進学先・就職先の決定においても)行動のルールとして厳然と効力を維持してきていることが閉塞感の正体ではなかったのでしょうか。もちろん、例えば、かってこの社会に流布した、「番町小学校→番町中学校→日比谷高校→東京大学法学部→大蔵省」という程の予測可能性は現在では、進学においても就職においても婚活においても最早機能してはいないでしょう。けれども、大なり小なり、自分が忌避するルールに取り敢えずは従わざるを得ない現実が自民党政権末期のこの社会を覆っていた閉塞感の核心であったのではないか、と。

而して、

民主党は、自民党政権末期、この<政治>というゲームが醸し出していた閉塞感を「政治主導=官僚支配の打破」というゲームのルールの変更を通して払拭できると喧伝して政権を奪取した。そして、所謂「事業仕分け」とはそのようなルールの変更の一斑であったのかもしれない。けれども、そのルールを変更するには民主党の政治スキルはあまりにも稚拙であっただけでなく、彼等が標榜した「政治主導」ということの中には論理的に不可能な事柄も少なからず含まれていた(後段に関しては下記拙稿をご参照いただきたいのですけれども)。と、私はそう考えています。    

・政治主導の意味と限界
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59888125.html

・民主党政権の誕生は<明治維新>か<建武新政>か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59586802.html

・「事業仕分け」は善で「天下り」と「箱物」は悪か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59556356.html


上記の考察を整除すれば、


(甲)グローバル化の昂進、すなわち、①資本主義的な生産様式の波及と徹底、②「科学技術=人類の生産力」の向上、③「人物金+情報」の移動流通の拡大と高度化、④予測不可能性の増大等々の諸傾向中で主権国家が行ないうる<政治>の影響力は反比例的に縮小してきた。他方、(乙)同じくグローバル化の昂進の中で主権国家の社会統合維持のイデオロギー的機能の重要性はグローバル化の度合に比例して増大してきた。

畢竟、(丙)民主党政権とはこれら(甲)(乙)を共に看過して、かつ、ある種の「国家観-機械論的な国家論」、すなわち、権力の万能感を抱きつつ主権国家の<政治>がグローバル化の波濤に抗してその国民に保障すべき「日本国民としての一体性という政治的神話」のメンテナンスを放棄したものである。
    


わずか数百人のカルト教団が当時世界第二位の経済大国の首都で同時多発的に化学兵器によるテロを惹起できる生産技術の高度化と流通が現実のものとなっている人類史の現在。あるいは、テロネットワークが世界の唯一の超大国に対して民間旅客機を用いて自爆テロを敢行できるようなグローバル化の昂進した人類史の段階に我々が生きていることを想起するとき私はそう断ぜざるを得ないのです。

而して、近代国家を取り巻く人類史の変遷にともない近代国家の<政治>のゲームの意味も変化したのだろうし、よって、その<政治>のゲームのルールも変化されなければならない。けれども、小泉政権がその端緒を見事につけたのとは異なり、民主党政権は、ゲームの変化も理解できず、よって、ゲームのルールの変更を行なうこともできず、単に、ゲームの意味の変化という与件に掉さして政権を奪取したにすぎない。それは、伝統に基礎づけられた国家観を欠く、機械論的な「国家論=権力論」の暴走だったのかもしれません。



◆民主党政権に憑依する歪な国家観

機械論的な国家論。すなわち、伝統と文化と歴史を軽視する権力に対する万能感ゆえにか、民主党政権はグローバル化の昂進著しい現在、主権国家の<政治>に不可能なことを可能と錯覚した。他方、民主党政権は、グローバル化の昂進著しい現在であればこそ主権国家としての日本における<政治>がフォローすべき使命を放棄した。それは、伝統と歴史を苗床とした日本人としてのアイデンティティーを日本国民に供給しつつ、この社会を社会的に統合するイデオロギー的責務です。このブログでも何度か引用してきましたがゲルナーはこう述べています。

ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。それは、偶発的なものでは決してないのであって、それ故簡単には拒めないであろう。

【出典:アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)
 引用は同書(岩波書店・2000年12月)p.96】   


ナショナリズムと近代の「主権国家=国民国家」の関係についての私の基本的な理解については下記拙稿をご参照いただきたいのですが、もちろん、この世に普遍妥当な「日本人」なるものは存在しないでしょう。「民族」も「国家」も、よって、「日本人」も「日本」もゲルナーが喝破した通り、ある種、近代に特殊な歴史的な観念形象にすぎない。

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html


けれども、日本国が「私は日本人である」あるいは「日本人がマジョリティーを占める社会でそのマジョリティーの支配を尊重しつつ生きている外国人である」と考えている人々、日本国民と日本市民によって構成されていること、そして、それら社会学的に観察可能で現象学的に理解可能な社会的意識によってこの社会の安寧秩序が保持されていることもまた事実ではないでしょうか。

ならば、そのような政治的神話としての日本人としてのアイデンティティーをメンテナンスすることは<政治>の最重要事項というべきであり、よって、「日本列島は日本人だけのものではない」と言い放った首相、在日韓国人から政治献金を受けていた事実が発覚したにもかかわらず毫もそのことの重大さを理解しているとは思えない首相。そして、「竹島は日本の領土ではない」という韓国側の宣言に署名してしまうその首相の側近議員を抱える民主党政権は、近代国家におけるナショナリズムの重要性を理解できていない、<政治>を担う資質に土台欠けていたと言うべきではないか。それは、<国家>概念を欠く歪な国家観、畢竟、国家なき国家論の稚拙な暴走だったの、鴨。と、そう私は思います。


国家は幻想にすぎない。それは、地球市民や国際社会が幻想にすぎないのと同じです。要は、国家は「擬制=幻想」にすぎない。けれども、その社会を構成するメンバーが国家という幻想を抱いているということは間違いのない事実であり、国家という擬制に基づいてこの社会の(否! 世界中の)人々が生活していることも明確な事実なのです。

而して、国家が幻想にすぎないとしても、正に、幻想や擬制そのものとして実体的な影響を国家は人々の人生や運命に及ぼしている。幻想はそれが幻想すぎないからといってその存在意義までも否定されるわけではないのです。

畢竟、グローバル化の昂進著しい現在、グローバル化の大津波の渦中に放り込まれながら社会生活というゲームで七難八苦に対面する運命を与えられているのが現在の人類史段階にある人間存在であり、そのような大津波が恒常的に押し寄せる国際政治や社会生活というゲームの中で自己の個性を華咲かせ感動に満ちた人生を享受したいと切に願っているのが人間の現存在とするならば、「日本国」や「日本人」という幻想が、この社会統合を維持して、グローバル化の獰猛な波濤から個々の日本人を護り、個々の日本人の願いを実現することに少しでも有効であれば、国家という幻想を社会においてメンテナンスすることは日本の<政治>にとって死活的に重要な責務であろう。而して、ナショナリズムと異質な民主党政権の機械論な国家論はこれらの<政治>の責務とは相容れないものであった。と、そう私は考えています。



大牟田




(2011年03月12日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




民主党政権の瓦解、あるいは、民主党の消滅は最早秒読み段階に入ったと言えると思います。而して、そのような現在の段階で、自民党一党支配体制の負の側面が露呈するとともにその自民党政権が自滅した中で起こった「民主党政権発足-大東亜戦争後初の実質的な政権交代」がどのような社会的と歴史的な構図を背景にしていたのか、民主党政権によるこの国の国力の低下と社会機能の劣化という<歴史の教訓>を無駄にしないためにもこのことを少し考えてみたいと思います。

民主党政権とは何だったのか。

この問いに答えることはそう難しくないのではいか。畢竟、民主党政権の誕生とは、<政治>に期待すべくもない過大なクレーム(要求)を掲げた、自民党に比べるまでもなく力量的に極めて拙劣な政治勢力が政権を奪取したものに他ならない。そして、その悲惨な結果は最早「ヒストリー=周知の事実」なの、鴨。

◎民主党政権誕生の意味
現実的に<政治>が実現不可能な要求を
現実の政治において極めて拙劣な政党が実現を約束して
政権を奪取した日本と世界の悲劇   


カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(1852年-1869年)の劈頭で「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現われる、と言っている。ただ彼は、「最初は悲劇として二度目は喜劇として」とつけ加えるのを忘れた」と書いていますが、今後、第二の<民主党政権誕生の喜劇>を阻止するために日本国民はどのような社会に対する理解、すなわち、社会思想を獲得しておくべきなのか。このことに答えることは実はそう簡単ではないのではないか。少なくとも、その喜劇を阻止するためには、「民主党政権の誕生-自民党体制の崩壊」という現象を思想的に反芻しておく必要がある。要は、<8・30政権交代>という歴史的事実を惹起せしめた、この社会を覆っていた国家観や社会観を言葉化しておく必要があるだろう。と、そう私は考えるのです。


◆民主党政権とは何だったのか
民主党政権誕生の意味と意義。すなわち、自民党体制崩壊の背景と構図。このことを敷衍しておきます。畢竟、民主党政権の誕生は民主党の勝利ではなく自民党の敗北であった。人口に膾炙して久しいこの認識を前提にする場合、たしかに、末期の自民党政権は、体制を支える「政官財+労組」のしがらみ、そして、「中央と地方の澱んだしかしなにほどか平和的共存的な関係」に絡め取られるあまり、<政治>に国民が期待しうるsomethingの少なからずに手をつけることができないでいたと言える。それは、逆に、単に郵政民営化に代表されるわずかばかりの公的サービス領域の民間移動にすぎなかった小泉構造改革が「新自由主義原理主義による既存秩序の破壊」などと喧伝されたことを想起すれば明らかではないでしょうか。蓋し、

自民党政権の末期は<政治>に国民が期待してもよい事柄を政治に練達する集団がネグレクトしていた体制であり、繰り返しますが、民主党政権とは<政治>に国民が期待すべくもない事柄をあたかも実現可能であると政治の素人集団が標榜して政権を奪取したものと言える。而して、両者はベクトルの向きこそ異なるものの、<政治>に期待できること期待すべきことの内容を看過していた点では同病の宿主であったの、鴨。そう私は総括しています。


◆政治の外在的限界
ならば、<政治>に国民が期待すべきこと期待してもよいこととは何でしょうか。これまた人口に膾炙している手垢のついた言葉で言うしかないのですけれども、

それは、①グローバル化の昂進著しい、よって、日本国や米国、支那や北朝鮮を含むあらゆる主権国家の権限と権威が蚕食され漸減している状況下で、②当該の国家社会の安寧秩序を確保するためには(就中、1973年以降の数次に亘るオイルショックを経るプロセスで)あらゆる主権国家が福祉国家化を目指さざる得ないこと、③大衆民主主義社会を現下の<政治>は前提にしていることから演繹帰納できるのだと思います。
   

ホッブスは近代の主権国家を「可死の神」(確かに、それが滅びることはあり得るとしても、それが存在する限り、他国に対しては対等の、他方、その領土内ではその国民に対して最高独立の万能の権威を保持する存在)と規定しましたが、現在、唯一の超大国であったアメリカの影響力の限界を想起するまでもなく、すべての国家の能力には限界がある。そして、重要なことは、国家のその能力はグローバル化の昂進の中で人類が獲得している物理的能力の総体が加速度的に増大していることに反比例して加速度的に縮小していると言うべきことではないか。

蓋し、戦後のケインズ政策の流行と、1973年のオイルショック以降の財政出動による国家予算の肥大、逆に言えば、(リベラル派からは「新自由主義=自由至上主義」と位置づけられる、かのサッチャー政権やレーガン政権とその前後の政権、まして、小泉政権とその前後の政権の予算配分構成比の推移を反芻するとき)日米を問わずどの国でもどの政権でも財政規模拡大とともに予算再分配のフリーハンドの余地が極めてタイトになっている現状を見ればこのことは思い半ばに過ぎるのではないでしょうか。そう私は考えています。


◆政治の内在的限界
近代の主権国家においては、国家権力には、よって、<政治>にはもう一つの限界が内在している。それは、国家にはその本性として社会統合の機能が要求されているにかかわらず、他方、近代の主権国家がその権力の正当性と正統性の基盤を極めて抽象的な「国民」概念に置いていることからくる、謂わば、「手を縛っておいて泳げ」と要求されているに等しい、国家権力の社会統合機能の限界です。而して、(日本で語られるそれは世界的に見てかなり歪な理解であり、ドイツ憲法の運用を見るまでもなくフランスとアメリカを除く世界のほぼすべての国ではそれは「国家と宗教の分離」ではなく「社会的勢力である教会と国家権力の分離」を意味するに過ぎないとしても)政教分離原則とは近代の主権国家に課されているそのような限界の端的な顕現であろうと思います。

鰯の頭も信心から。しかし、他方、「宗教」という宗教は存在しない。この世に存在している宗教とはローマ・カトリックでありルター派であり、浄土真宗であり阿含宗である。要は、固有名詞の「宗教」を包含する普通名詞の「宗教」とは我々の観念の産物にすぎない。何を私は言いたいのか。それは、あらゆるものは宗教的観点から見られるならば宗教的であり、非宗教的に観察されればそれは単なる社会現象や経済現象や政治現象に過ぎないということです。而して、現在の国家に課されている非宗教性なるものの意味内容も実はそう明確で普遍的に妥当するものでもないということ。

敷衍すれば、現下の主権国家の場合、原則、その国家社会の正式メンバーであるか否かのメルクマールは国籍の有無に収斂する。ならば、その彼や彼女のDNAやエスニカルなバックグラウンド、まして、信仰や性的傾向性等々の個性は国民の要件にはなりえず、よって、例えば、日の丸や君が代に敬意を表させるとか、彼等の出身国や抱く信仰のイコンを文字通り「踏み絵」に使用する等々の、彼や彼女が日の丸や君が代に対していかなる感情を抱いているかに着目してなされる国家社会統合の施策はこれまた憲法論的に許されない。

けれども、他方、「国家」という国家は存在しない。例えば、この世に存在する国家とは支那でありアメリカであり英国であり、そして、我が日本である。要は、固有名詞の「国家」を包含する普通名詞の「国家」とは我々の観念の産物にすぎず、よって、ある国家権力がその国家社会統合においてその固有名詞の国家に特有の文化的と歴史的な諸アイテムを非宗教的に使用することに関しては憲法論的にも社会思想的にもなんら問題はない。

蓋し、(ナチスドイツの如くそれらを歴史的に特殊でありかつ民族に普遍的なもの、すなわち、実体概念として理解することは断乎拒否すべきであろうけれども)ヘーゲルの言う意味での「国家」や「絶対精神の歴史的顕現としての時代精神」とは実はそのような端的には非宗教的で現在の憲法論とも親和的な、固有名詞の国家に特有の文化的と歴史的な諸アイテムを包含しているのではないかと思います。

畢竟、ある国家がその国家社会形成の素材となった諸民族の歴史と文化に内在するsomethingを国家社会統合の施策に使用すること自体に問題はない。而して、現在では政教分離原則を踏みにじった逆切れ的言説として理解される向きも少なくない、大東亜戦争の戦前にこの社会で流布した「国家神道は宗教に非ず」というテーゼは満更40年体制をリードした国家社会主義的官僚の詭弁ではないのではないか。ここのとは、例えば、ローマ・カトリックが上智大学の学生教職員を含む日本のカトリック信者に対して、大東亜戦争の戦中、そのような非宗教的な神道儀式に参加することはその国の国民の義務であると明確に諭し、基本的に現在に至るまでその理解をバチカンは維持している経緯を反芻するとき、私にはそう思えるのです。

蓋し、このテーゼに悪乗りした右翼や朝日新聞等のマスメディアの言説は醜悪であったとしても、「国家神道は宗教に非ず」というテーゼは、その権力の正当性と正統性を維持するためには非宗教化せざるを得ない近代主権国家たる日本が、他方、近代主権国家の機能に対する本質的な要請としての社会統合機能のパフォーマンスを維持向上させようとする場合、実に優れた<解答>であったと言えるのではないか。

而して、民主党政権とは明治維新以降のそのような戦前戦後の政治の智恵を理解できなかった、まして、日本社会に歴史的に特殊な文化伝統の政治的価値など理解する素養を欠いていた、(かの偽ユダヤ人の言葉を借用すれば、「安心と水はただ」とばかりに国家社会の統合と対特定国アジア諸国&米国との関係の良好なる推移は与件であるとでも考えていたのでしょうか)端的に、国家権力に不可避的に要求されている社会統合の機能を放棄したネグレクト政権であったの、鴨。そう私は考えています。


◆小括
民主党政権の誕生は自民党の敗北であり、自民党は<政治>に対する国民の期待の変化に対応することを怠ったために敗れた。何度も繰り返しますが、私のこの理解が満更間違いではないとするならば、「民主党の勝利-自民党の敗北」とは、かって、物が乏しき時代に豊富な物資を廉価に提供して隆盛を誇ったダイエーが最後には「価格破壊ほど安くはない陳腐な品揃えの退屈な店」の集団となってマーケットから退場を余儀なくされた事例と通底している。あるいは、かって「巨人・大鵬・卵焼き」と称賛された読売ジャイアンツが、否、プロ野球自体がサッカー等々の興隆の前にone of themの存在になってしまった事例とも通底しているのではないか。畢竟、万物は流転する。

しかし、国破れて山河あり、そして、万事塞翁が馬。

ならば、<政治>という概念の指示対象が変化したとはいえ、現下の日本国民は民主党政権という悲劇の学習を通して、<政治>に期待できることとできないことがあることを体得したはずである。そう私は楽観しています。ならば、自民党は、内在的と外在的の両面で限界のある<政治>という概念を踏まえながら、かつ、恒常的に変化するその<政治>の具体的な意味内容を可能な限り十全に達成することを目指すしかない。ハンナ・アーレントが喝破したように、<政治>というものが人間にとって不可避的な事象である限り、また、民主党政権の再登場という二度目の喜劇を阻止するためには、有限なる<政治>と<人間存在>にとっては取り敢えずそれが唯一の道である。自民党の政権奪還を確信しつつそう私は考えています。





(2011年03月10日:yahoo版にアップロード)

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