ジウ姫1


◆高岡蒼甫「韓流批判騒動」が拡大してお台場が大変
お台場が大騒ぎになっている。先月下旬に高岡蒼甫が「8はマジで今見ない。韓国のTV局かと思うこともしばしば」とフジテレビの韓流ベッタリの姿勢を批判。これが原因で所属事務所をクビになった騒動が拡大しているのだ。

まずフジの株価。先月中旬には12万円台だった株価が23日の高岡発言後にジリジリと下げ、29日にいったん終値が12万円台を回復したものの、今月に入って再び下がって4日には前日比3.42%ダウンの11万2800円になった。

これが高岡発言の影響か不明だが、不安材料があるのも事実。ひとつはフジの主要スポンサーでもある花王への攻撃だ。ネットユーザーによる花王への質問で「フジを支持している」といった回答がネット上で広まり、花王製品の不買運動が起きているのだ。

また、8月8日の「フジテレビの日」の前日7日に「フジテレビの親韓の偏向放送を止める」などとして、お台場での抗議デモを呼びかけるサイトもできている。最大1万人程度としており、決行されれば大変だ。
「当初、高岡発言は俳優にあるまじきテレビ局批判といわれたが、その後は高岡にも一理あると風向きが変わり、スポンサーの製品の不買運動にまで発展してしまった。フジはネットなんかとタカをくくっていたフシがありますが、ノンキに構えていられない事態です」(マスコミ関係者)  週末のお台場に注目。

(日刊ゲンダイ2011年8月8日10時0分)  



ジウ姫2


この高岡蒼甫さんの発言については、別の何とかというタレントさんが「見たくなけりゃ見なけりゃいいじゃん」と発言して、その方のツィターも炎上したらしですが、私も基本的にそう思います。確かに、韓流は多いように感じるがどうせ見ないから一所だもん、と。

というか、もっと率直に言えば、韓国のコンテンツよりも廉価でまともな作品がなんぼ日本側にあるのよ、と。二番煎じ三番煎じの韓流作品や、いかにも、日本マーケットを意識したのが見え見えのK-POPも酷いけれど、日本のコンテンツはそれに輪をかけて凄まじくないかい、と。

正直、チェ・ジウ姫に比べれば、日本の女優さんで勝てるのは、同じ女優さんでもジャンルが違うけれど「お姫様女優-沢口靖子」さん、「個性派女優-深田恭子」ちゃん、「ポストプレ専門女優-松嶋菜々子」さんくらいのものでしょうが。違うかな。而して、フィギュアスケートに至っては、気品溢れるキムヨナ姫の、銀盤を羽毛が滑るような、それ自体が最上等の音楽のような演技を見終わった後に、あの、間抜けな表情の浅田真央選手の跳んだり跳ねたりの小五月蝿い演技を見せられた日には、もう興ざめですから。

何が言いたいかといえば、

韓流ブームが(行く所まで行けば、コミンテンルンやユダヤ資本の陰謀だとかの如き)与野党双方に巣食う「反日特定アジア・ロビー集団」の陰謀だとかなんとか考えて、お台場まで行って騒ぐ暇があれば(その陰謀が嘘でも、否、陰謀が真実であればなおさら)実力で韓流コンテンツに太刀打ちできるラインナップを取り揃えるように<汗>をかいたらどうでしょうかね。畢竟、「韓流批判騒動」-坊主憎けりゃ袈裟まで憎い類の批判にすぎない。と、そう私は考えます。






(2011年08月9日:yahoo版にアップロード)

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【三井三池炭鉱の最初期の施設壁面跡・福岡県大牟田市】


◆解題
これは姉妹ブログ「英語と書評 de 海馬之玄関」に、随分前、そう5年半前(2005年12月2日)にアップロードした記事の改訂版です。現在、津田梅子先生と新島襄先生の英文書簡を読んでいるのですが、そんな中、改めて読み返してみて、(英語の解説の部分を割愛した上で)自家原稿転載することにしました。

というのも、2009年8月の<政権交代>も2年前のこと、今、鳴いている蝉君達がまだ熟睡していた頃のこと。而して、この足掛け6年で、今鳴いている蝉君達がやっとベッドに入ったかどうかの頃に比べれば地上の模様は大きく変わった。実際、自民党政権が続いていても<なでしこ>が世界一になれたかどうかはわかりませんが、少なくとも、間違いなく自民党政権下なら<2011年3月11日午後2時46分>に対する政府の対応はより機敏かつ適切なものになったでしょうから。

けれども、与野党を問わず(というか、麻生太郎元総理と引退された小泉純一郎元総理、そして、幾人かの例外を除けば)この記事で言いたかった、「政治家に必要な英語力の乏しさ」は5年半後の今もあまり変わらないと思う。要は、例えば、西園寺公望・宮澤喜一等々の語学上手はいても、伊藤博文・桂太郎等々の語学運用の達人は稀少になりつつあるの、鴨。否、当時野党の民主党が政権を取った現在、(公式・非公式に政策決定にかかわりうる)政治家の範囲が拡大したわけですから、そうなれば、「政治家の英語力」は5年半前よりも<加重平均的>に落ちていることは確実。ならば今でも、この記事は読んでいただくに値するの、鴨。そう思った次第です。       




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【Jutaro Komura in the negotiation for Treaty of Portsmouth】



明治時代の政治家の英語力? 主題では「大風呂敷」を広げましたが、そう大したことを述べるわけではありません。日本人の英語でのコミュニケーション能力は明治維新から現在までどう変わってきたのだろうか? と、ある英文記事を読んでいるときにふとそんな浮世離れした疑問が浮かんだのです。そんでもって、漠然と「明治維新以来の日本人の語学力の変遷」とかよりも、「明治時代」「政治家」「英語力」と限定した方が書くほうも読むほうもイメージしやすいかな、と。その浮世離れした疑問を私に抱かせた記事はこれです。

After all, by pushing the constitution to its limits in sending navy refuelling ships and escorts to the Indian Ocean during the Afghan war in 2001 and keeping them there, and by putting peacekeepers in southern Iraq, Mr Koizumi has gone out of his way to show support for America. With peacekeeping missions in Cambodia and East Timor, Japan has also helped cut America's burden in the region. Hence the praise this week. But should America's commitment to Japan ever waver, a more independent stance to fall back on wouldn't hurt.

(The Economist,"Can I be your friend?, "Nov 17 2005)     




<戦前の政治家の英語力を想像する>
浮世離れした話に入ります。もちろん、双方とも外交関係にコミットするレヴェルとスペックの政治家に限定して考えるのですが、私は英語力自体は、明治時代の平均的な政治家と現在の政治家を比べれば現在の方が遥かに高いと思います。これは、「話し」「聞く」だけでなく「読み」「書き」も含めた英語力全般について言えることだと思います。もちろん、大した根拠があるわけではありませんがそう思います。

これに対して、明治の高等教育を受けた第一期の世代(要は、「英語」だけではなく、つまり、少し前の初等・中等の公教育に喩えれば、「国語」を除き、「数学」「理科」「社会」「体育」「家庭科」と「ホームルーム」に至るまで「お雇い外国人というネーティブスピーカーに英語やドイツ語で直接知識を伝授された世代)の抜群の語学力の伝説や、語学と哲学に中心を置いた「旧制高校」の教育の神話を持ち出して、明治時代というか戦前の語学教育の素晴らしさを熱く語られる方もおられるかもしれません。しかし、私はそれらは伝説や神話にすぎないと思っています。

百歩譲っても「英語学者」や「ドイツ語学者」の語学力については戦前の方が優れていたと言えるかもしれませんが、社会科学を含む他の分野の研究者やビジネスマンや政治家の語学力については、お雇い外国人の授業も旧制高校の影響もそう過大に評価できないのではないでしょうか。

また、鷗外や荷風や二葉亭四迷、露伴や芥川、あるいは、津田梅子先生や新島襄先生を引き合いにだして戦前の語学教育の優秀さに思いを馳せる方もおられる。しかし、英語のネーティブスピーカーと看做すべき梅子先生は別格としても、これらの例はいつの時代にも語学の上手はいるという単純な事例にすぎないと思っています。

ここまで断言しておいて「もちろん、大した根拠があるわけでありませんが」では世間が許してくれないでしょう。よって、そう私が確信している根拠を二つ述べておきます。



<根拠-旧制高校の名物教授の英語力>
山形県のある有名な英語教授を祖父に持たれている私の極めて親しい方から伺った話ですが、その英語の達者上手であられた先生は、終戦直後、アメリカの進駐軍が山形に来た際に県庁から「通訳」を依頼されたということです。ところが彼の英語は進駐軍に全く通じず、また、筆談もシドロモドロで数日で御役ご免になられたとのこと。

彼は英米文学だけでなく英米の時事問題や英米流の経済学にも造詣が深い方であり県庁もかなり期待して三顧の礼をもって「通訳」をお願いしたということですが、全く期待はずれだったらしいのです。そして、その替わりを務めたのが昔横浜で貿易実務に従事していた方だったとか。これ自体は、「読み」「書き」中心の戦前の(というかここ15年くらい前までの)日本の英語教育の駄目さ加減を象徴する例のようですが、ポイントは「筆談」もコミュニケーションのスピードについて行けなかったという所でしょうか(★)。

★註:受験英語は悪者か?
私は、読み書き中心の所謂「受験英語」は大変素晴らしい英語教育のメソッドであったと考えます。蓋し、その問題点は、<音声>教材が比較的容易にかつ極めて廉価に使用できるようになった、安全に言って1970年代半ば以降も<音声>の契機を導入しなかったこと。而して、例えば、センター試験問題を見れば赤裸々なように、「会話コンテクスト偏重」の現下の英語教育のカリキュラムが、読み書きの側面だけでなく、話し聞く部面においても日本の英語教育を壊滅させたこと。このことは、今後の英語教育に関する制度設計に際して、納税者である全国民が肝に銘じておくべき<歴史的失敗>であろう。と、そう私は考えています。尚、この点に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。


・企業内英語研修の<窓>から覗く国際化の波高し
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f5c335cad81a75b8a3d91a7ef3cc98f7/?img=a9e1436253c6c20571ad875658e27fb8


要は、「進駐軍が駐屯する場所はどこか」とか「進駐軍の命令は(日本側の)誰にどのように伝えればよいか」、あるいは、「進駐軍の物資の横流し先はどこで/レートはいくらか」とか「どこに行けば美味しい酒が安く飲めるか」、「アメリカの家族への贈り物は何がいいか/それはどこで入手できるか」「こっちで仲良くなった彼女/彼氏の家族に結婚の了解を得るために伺うことになったが、その挨拶の際に着ていく服装はどんなものがいいか」等々、決まりきったパターンの情報伝達をノイズ少なく素早く処理する能力と、英米文学や英米の時事問題を深く正確に理解するための語学力は全く別物ということでしょう。これは、この所ちょっと気合の入っていない「吉原のNo.1」さんが、新小岩や新百合の女子高校生にも負けることがあるということではなくて、そう、テニスの世界チャンピオンが卓球では中学生以下というのとこれは同じです。

要は、能力が試される種目が違う。蛇足ながらコメントしておくと、現在の日本で求められる英語力は後者(そう前者の「進駐軍の通訳」ではなく)を基盤にした、広くビジネスを英語で遂行できるコミュニケーション能力だと私は考えています。率直に言えば、ある程度の会話力は当然として、2時間以内に、1枚500ワード換算のビジネスペーパーを20枚読んで、そのサマリーを250ワードの英文にできるかどうか。これが現在の日本人に求められている、最狭範囲の、かつ、最低ラインの英語力だと思いますが(ちなみに、大体、英語でのビジネス経験/海外在住/アメリカ人の彼氏や彼女との交際経験が3年以上おありなら、TOEIC800点前後の方は、数日のイメージトレーニングだけでほぼ100%これは可能です。)、これさえ育成できない、日本の会話偏重の現下の英語教育は<菅直人>でしょう。だって、戦前の英語教育はこれをほぼ実現していたのですから。



<根拠-戦前の翻訳>
これは英語だけではありませんが、数名の名人上手の作品を除けば、戦前の翻訳本は、「それだけを日本語のテクストとして読んで理解できない」、そんな代物が少なくありません。例えば、岩波文庫に収録されている篠田英雄さん訳のカントの著作などは、当時も現在も、(原書テクストと併せて読み進めることが不可能な)大部分の日本人にとっては、ほぼ<大蔵経>の経文のようなものだったのでは/のようなものではないでしょうか。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。

而して、西田幾多郎にせよ、和辻哲郎にせよ、彼等が英語やドイツ語で原書を本当に理解できていたのかについて私は留保します。もちろん、彼等と同世代か少し下の世代の田中美智太郎先生、井筒俊彦さん、渡辺慧先生、恒藤恭先生の語学力は折り紙つきですけれどもね。

幾つかの事例で敷衍すれば、半世紀以上前、日本に初めて、憲法訴訟論の根幹の一つ「二重の基準論」を紹介された伊藤正己さんの英語力の卓越。あるいは、日本でというか世界で初めて、当時、埋もれていた英国分析法学(J.オースティン)の法思想が、バークの保守主義なる博物館の陳列物とは違い、21世紀の現在、愈々現役の社会思想たる<保守主義>の源泉の一つであることを喝破された八木鉄男先生の業績もそのいぶし銀のような英語力がなければ実現できなかっただろう。また、同郷の尊敬する<敵将>である、向坂逸郎先生のマルクス理解が世界でも一定水準を越えていたことは彼の脆弱な哲学的基礎体力を補って余りある、その類稀なドイツ語力によるものが大きいとも思っています。もう一人の、尊敬するというか敬愛する同郷の<敵将>、廣松渉さんの語学力は・・・(笑)。

・伊藤正己『言論・出版の自由』(岩波書店・1959年)
・八木鉄男『分析法学の潮流』(ミネルヴァ書房・1962)
・向坂逸郎訳『資本論』(岩波書店-岩波文庫版・1969年)


<結語>
この記事の結論行きます。私は、英語力自体は明治時代の平均的な政治家と現在の政治家を比べれば現在の方が遥かに高いと思います。しかし、英語でのコミュニケーション能力に限ればひょっとしたら明治時代の平均的な政治家の方が現在の政治家よりも上ではないだろうかと考えています。

そして、"But should America's commitment to Japan ever waver, a more independent stance to fall back on wouldn't hurt."についても、現在の政治家の中にはこのセンテンスの意味がとれない方も少なくないけれど、明治時代の政治家はこのセンテンスの意味なら「感覚的にせよ正しく理解」したのではないかと思われてならないのです。少なくとも、彼等は「誰が傷つくのか/誰にとって損な話ではないのか」を取り違えることはなかったのではないか、と。

なぜならば、「誰が傷つくのか」というポイントを確認するためにこそ明治時代の政治家はコミュニケーションをしていたと想像するからです。つまり、「論理的に考える」こと、あるいは、「国益意識というか/自分は誰の利益を代表して交渉しているのか」という意識が現在の政治家の話す英語にはやや希薄なのに対して、明治時代の伊藤博文にせよ桂太郎、陸奥宗光や小村寿太郎の主張に私は明確にそれを感じるからです。

私はアメリカ人やカナダ人の同僚と仕事をしてますが、当然、英語力では彼等に太刀打ちできません。その点では、「通訳」を御役ご免になった山形の先生と同じです。しかし、英語でのコミュニケーションにおいては(自分で思っているだけかもしれませんが)彼等と結構互角にわたりあえています。つまり、それが英語を通したものにせよコミュニケーションも人間と人間の間のコミュニケーションである限り、論理的で立場意識が明確に確立している方が優れているに違いないと思うのです。これが、日々、英語のネーティブスピーカーとつたない英語でコミュニケーションしている私の持論です。そして、この持論からは大学ラクビーや神宮の野球の話ではなく「明治の勝」じゃないのかな、そう夢想するのです。

羊頭狗肉ではないにしても、間違いなく、
竜頭蛇尾でとりとめもない話になった、鴨。


皆さんはどう思われますか?


【引用パラグラフ試訳】
結局、現在にいたるまで、2001年のアフガン戦争の際に海上自衛隊の燃料補給艦船と護衛艦をインド洋に送り、その派遣を継続していること。あるいは、イラク南部に平和維持部隊の派遣を決断しこれまたその駐留を継続することにより、小泉首相は憲法の解釈をその限界まで突き詰めた。これによって小泉首相はアメリカを支援する姿勢を示したのだ。カンボジアと東チモールにおける平和維持活動によってもまた日本はアメリカの負担を減らすことに寄与している。今週の賞賛はこれらの賜物だったのだろう。しかし、現在の日米関係を、もし、アメリカが見直すようであれば、日本がその外交指針をアメリカから独立性の高いものに変えたとしても何の差し障もないのではなかろうか。






(2011年08月6日:yahoo版にアップロード)

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稲田朋美(自民党衆議院議員)は、自民党の希望の星の一人。その、稲田氏を自民党復権のために総裁にそして総理にと望む保守派が漸次増えてきている。本書、『私は日本を守りたい』(PHP研究所・2010年7月)はそんな稲田さんの政策を網羅したコンパクトな一冊です。

著者の稲田朋美さんの経歴は、

1959年生まれの弁護士・自由民主党所属の衆議院議員(福井1区・2期)。
早稲田大学法学部卒業(1981年)、自民党清和会(町村派)所属、
但し、麻生太郎元総理とも近い。
自民党福井県連会長・自民党シャドウ・キャビネット法務副大臣。


而して、稲田さんを自民党総裁に、日本の総理大臣にという声がある一方、
稲田さんを支持する保守派の中にも「世間への知名度や党内の派閥力学上無理だ」という声もある。

しかし、

そんな事を言っていてはいつまで経っても自民党の再生はない。ならば、日本の再生もないの、鴨。
この点、あるブログ友はこう仰っている。

本書は昨年7月に発刊されたものだが、いま読み返してみても新しい。これをそのまま自民党の党是とすべきである。いや本来、自民党の立党の精神はこのようなものだった筈である。それが何時の間にか党内のリベラリストや、支那や朝鮮半島との利権がらみの政治家のために歪められてしまった。

本書がまだ新しいと感じたのは、本書の指摘する諸問題、外国人参政権、人権擁護法民、夫婦別姓などの日本の家族制度を崩壊させる民法改悪の動きが民主党政権によっていまだに続いているからである。

しかし、この時はまだ菅直人氏が鳩山氏の後を継いでこれ程までに日本の政治を悪化させるとは思わなかった。今日の産経新聞一面は小沢一郎氏が不信任案を提出して菅直人氏を総理の座から追い落とすという。毒をもって毒を制すというのも結構だが、代わった新しい毒が日本を駄目にする。自民党も棚から牡丹餅と口を開けて待っていても埒が明くまい。(中略)

話が逸れたが、稲田朋美氏の事をあまり御存じない方、
本書をまだお読みでない方にご一読をお勧めする。   


http://blogs.yahoo.co.jp/nipponko2007/37894760.html


同感です。

自民党も棚から牡丹餅と口を開けて待っていても埒が明くまい


この1文には満腔の賛意を表します。古来、「権力-政権」は戦い取らない限り掌中にはできないだろうから。そして、なにより、棚ボタでは、要は、きちんとした党内での政策論争を経ない政党では、(選挙互助会の)民主党ほどではないにしても、結局、国民が求める新たな政治の枠組みの創出・提案などできず、またぞや、問題の先送りしかできない、そう、自民党が政権を失った構図が繰り返されるだけでしょうから。

そして、


世間への知名度や党内の派閥力学上無理だという声もある


これについては、私も「その通り」とも思う。閣僚経験もなく、当選2回の衆議院議員には、無理でしょう、と。何が無理なのか?

はい、現在の福祉国家が抱えている膨大な行政サービスの全領域に責任を持つことが。要は、適宜、官僚を使いこなしながら、錯綜する国民利害を調整しつつ、なにより、その政治プロセスの中で、(固定支持層たる保守派からの罵声を覚悟しつつ)妥協を行うことが。そして、それらの妥協によって修正・変更された党と政権の政策の全貌を、適宜、明確に内外に発信し続けることがです。

就中、本書第4章「日本国民の財産、暮らしを守るために-利益誘導型政治と決別し、国民全体の幸福と安心を実現する政策を」の中で、「小泉構造改革」を「地域経済を破壊する」と位置づけておられるのがその証左、鴨。要は、稲田さんは、何時の時代にもどの国においても正しい財政金融政策/経済産業政策など存在しないという<真理>を些か軽んじておられるようにも見受けられるから。要は、小泉政権下では構造改革の着手は妥当な政策だった。しかし、その後、構造改革の更なる推進と地方再生の同時実現に日本の課題がシフトした。この点の理解が弱いままなら<稲田朋美総理>には若干の不安を感じないわけにはいかない。

しかし、土台、一人の政治家にすべてを期待すべきではない。

ならば、「トップは任じて任ぜず」、下や周りに大胆に任せながらも要所要所はしめること。これができればいい。そして、稲田さんならそれができる、鴨。畢竟、周りがいかに稲田総裁の力になれるかでしょうが、それを引き出すのも総裁の器のうち。そして、稲田さんはその器、鴨。

そして、民主党政権によって社会のあらゆる部面が崩壊に瀕している現下の日本を鑑みるに、例えば、「小池百合子総裁-稲田朋美幹事長」の布陣で数年間、稲田さんに<準備>してもらう時間的な余裕はこの社会にはないの、鴨。と、そう私は考えます。

いずれにせよ、私も、

稲田朋美氏の事をあまり御存じない方にご一読をお勧めいたします。
尚、本書を巡っては下記拙稿を併せてご一読いただければ嬉しいです。

・自民党再生の<切り札>はハートのロイヤル・フラッシュ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59903566.html



「私は日本を守りたい」


【目次】
第1章 「保守再生」のために
    -伝統と創造を重んじ、有道、有徳の国を目指す
1 民主党政権の「不道徳」をもたらしたもの
   平成22年4月28日「主権回復記念日」の決意/自民党は何のために闘うべきか/
平成21年7月21日最悪のタイミングでの解散/解散当日、総理に訴えたこと

2 政治家・稲田朋美の原点
   きっかけは「東京裁判」/二重の意味で違法な裁判/『「南京大虐殺」のまぼろし』の衝撃/
私が総理の靖国神社参拝にこだわる理由/論壇デビュー論文に込めた想い

3 自民党再生に向けて
   戦後レジームからの脱却/下野した自民党が立ち返るべきところ/道義大国を目指して

第2章 日本国の主権を守るために
    -自分の国は自分で守り、自分の国のことは自分で決める
1 主権国家としてなすべき憲法改正
   改正手続法の成立に60年を要した異常さ/自分たちの国を自分たちで守れる法整備を/
普天間問題によるわが国安全保障の危機

2 日本人であることの価値-国籍法改正問題
   主権としての国籍問題/平成20年6月4日の最高裁判決が提起した問題/最高裁の家族観/
司法による立法/偽装認知防止策-DNA鑑定は慎重に/問題の本質は何か

3 日本に住むことの価値-在留特別許可制度
   生活保護を受けている外国人の割合は日本人の2.5倍/不法滞在、偽装滞在/
カルデロン事件/ 奈良の中国人姉妹の事件

4 主権国家の根幹を揺るがす外国人参政権問題
  「損得勘定」で国を売る民主党/外国人への参政権付与は憲法違反/
「平成7年2月28日最高裁判決」の読み方/法案を通すなら国民の信を問うべき/
参政権は国民主権の帰結/地方参政権ならよい理由は?/増え続ける中国人の一般永往者/
EU諸国と同列に論じるべきではない/外国人の政治活動の自由はどこまで認められるか/
地方参政権は「公約」と公言した赤松前農水大臣/国境の島と水資源を外国資本から守れ

第3章 日木国民の矜持、文化を守るために-「夫婦別姓」「人権擁護法」を許さない
1 家族の崩壊を招く法案(1)選択的夫婦別姓
  福井の普通のおっかさんは反対/平成8年の法制審議会の答申/法制度における原則と例外/
夫婦同姓を「人権侵害」と考える千葉法務大臣/通称使用の法制度化について/
「戸籍制度の廃止」が夫婦別姓の目的

2 家族の崩壊を招く法案(2)-民法772条問題
  「無戸籍の子」ではなく「未届の子」が正しい呼称/民法は生物学的な父子関係を絶対視していない/
具体的にかわいそうな事案の解決は司法の場で

3 家族の崩壊を招く法案(3)-相続分問題
  法定相続分の嫡子優遇を合憲とした最高裁判決/婚外予の割合が低い日本は遅れているのか

4「人権」の名のもとに人権を侵害する人権擁護法
  表現の自由や政治活動の自由が制限される危険性/映画『靖国』問題は人権侵害か/
大阪弁護士会の非常識な勧告書

5 なぜ国は戦後補償裁判で日本の名誉を守ろうとしないのか
  事実関係の認否も反対尋問もしない国の代理人/原告の主張が一方的に「事実」と認定される事態に/
米国下院の慰安婦非難決議に反論しなかった日本政府/下院決議に反論する意見広告を日本政府は無視/
中国に残る毒ガスはすべて日本軍が遺棄したものなのか/
個人的な賠償を認めることは国際法の正義にかなわない

第4章 日本国民の財産、暮らしを守るために
    -利益誘導型政治と決別し、国民全体の幸福と安心を実現する政策を
1 小泉構造改革をどう考えるのか
   地域経済を破壊する小泉内閣の郵政改革/自民党は小泉構造改革の総括を徹底的に行うべき/
   民主党の卑劣な利益誘導型政治/国民への説明を欠いた麻生政権の政策転換

2 財政再建についての考え方
   不況期には正々堂々と赤字国債の発行で景気対策を/
   景気回復局面ではためらわずに消費税の引き上げを

3 メリハリの効いた社会保障政策を
  人々を覆う、将来への漠然とした危機感/「選択と集中」で、真に必要な人には手厚く/
   年金制度の「税方式」「一元化」は抜本解決にならず/高齢化によって増えゆく医療費をどうするか

4 農業政策―守るべきもの、受け継いできたもの、受け継いでゆくもの
  農村での実感-「ここに大切なものがある」/自由民主党農林部会-聞かれた議論の場/
   米価下落―農業者だけの問題なのか?/生産調整-誤った問題設定/
   食料自給-誰のために誰が汗をかくのか?/土地改良-水管 理は誰が行うべきなのか?/
   農業は防衛―民主党政権に農業政策を語る資格はあるのか?/
   民主党政権が拡大させた口跡疫被害

第5章 私たちは日本を守りたい〈対談〉櫻井よしこ・稲田朋美
    家族ふるさと、先人の歩み……すべてのいとおしきものを守り、後世に伝えるために
 ・疑念に答えず権力にしがみつく鳩山首相と小沢幹事長
  ・民主党政権には自由な議論がない 
  ・日本解体を招く永住外国人への参政権付与 
 ・「人権」の名によって生まれる新たな人権侵害 
 ・家族破壊をもたらす夫婦別姓になぜ躍起になるのか 
 ・自民党は亡国法案阻止に立ち上がれるのか

最終章「道義大国」創造のための7つの提言-国のかたちの議論を深めるために
1 日本の民主主義をゆがめた民主党の不道徳
 「政治とカネ」の疑惑にまみれた民主党/国民への説明責任を果たさなかった総理と幹事長/
   企業献金廃止について/真の政治主導とは天下り、わたりの根絶/図会を議論の場に

2 なぜ自民党が下野したのかの総括を
  国民におもねる政策しか打ち出せなかった/私の考える「道義大国」とは

3 提言

あとがき  


(稲田朋美著・PHP研究所・2010年7月-1500円税別)







(2011年08月5日:yahoo版にアップロード)

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◆愛国心の脱構築

「愛国心」とは何なのか? 例えば、それは「日の丸・君が代」の起立斉唱によって涵養され得るものなのか。もし、否であれば、なぜ学習指導要領は「国旗・国歌の尊重」を謳い、最高裁も一連の判決でその学習指導要領の目的の合理性を容認したのか。

蓋し、ここで言う「愛国心」が、社会の常識、否、ある政治社会で生きるために不可欠なマナーという意味であれば、この問の答は「Yes」でしょう。けれども、この「愛国心」にそれを超える、例えば、「天壌無窮の神勅」なるものや「普遍的人権」なる内容を読み取ろうとするならばその解答は「No」です。

蓋し、多様な思想・良心、就中、千差万別な信仰という共約不可能なイデオロギーを抱く人々を<国民>として包摂して成立した、近代の「国民国家=民族国家」がその政治社会の構成メンバーに要求できる<愛国心>とは、かように内容の薄い、謂わば「アメリカンな愛国心」でしかないからです。

では、そのようなアメリカンな愛国心は憲法論的にはどのような規範意味を帯びるのか。要は、それに対する反抗は、憲法訴訟において、どの程度のどのような様態に至った場合に憲法の保障する人権の域外に放逐されるようなものなのでしょうか。


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前項の確認。近代以降の国家が、例えば、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』(1983)が喝破した如く人為的なフィクションにすぎないという経緯の確認です。

蓋し、例えば、現在、我々が「日本的なもの」と感じているものの少なからずは、「皇国史観」然り、「家父長制的な家族関係」然り、明治維新を契機に人為的に作り上げられた制度・表象にすぎない。而して、「終身雇用制」や「年功序列制」に至っては(「農地改革」とともに)国家社会主義を目指した所謂「1940年体制」の産物であり、戦後改革の中でこれらが日本の伝統的なものと錯覚されたのは心理学で言う所の「記憶の自己改竄」に他なりません。ゲルナーはこう述べています。
 
民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは、以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも、多くの場合それらを根本的に変造してしまう。死語が復活され、伝統が捏造され、ほとんど虚構にすぎない大昔の純朴さが復元される。(中略)

ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。

【出典:アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)
 引用は同書(岩波書店・2000年12月)pp.95-96】

 

畢竟、愛国心を肯定する論者が時々口にする、「地域コミュニティーに寄せる帰属意識とパラレルなものとしての愛国心」という愛国心の認識は社会思想的にはそう根拠の確かなものではないということです。

よって、愛国心は自然と培われるものではなく(誤解を恐れるまでもなく断言すれば)、それは強制され/演出され/メンテナンスされて初めて社会統合のイデオロギーとしての機能を全うできる類の、ある意味、根拠脆弱なもの。ならばこそ、逆に言えば、特別権力関係のカテゴリーに属する公立学校の教職員が、職務命令に反して、国旗掲揚・国歌斉唱の際に起立斉唱しないなどという不埒な言動には、断乎、社会的な制裁が加えられるべきなのです。


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ことほど左様に、近代以降の国家における「愛国心」とは、

・内容希薄なアメリカンな社会思想
・国家の社会統合の根幹を担う社会思想
・憲法秩序が強制をもってしてでもそれを維持するべき社会思想

という相矛盾する性格を帯びるもの。
蓋し、換言すれば、<愛国心>とは、

<可死の神>たる近代の主権国家における<非宗教的な宗教>


と規定できるのだと思います。


而して、<愛国心>のこの側面について、近代日本を代表する保守主義者と私が考える津田梅子先生はこのような見解を持っておられた。この部分の最も詳しい山崎孝子『津田梅子』(吉川弘文館・1962年7月, pp.147-149)より適宜引用させていただければ、梅子先生は、

日清戦争中、戦争と婦人の問題、愛国心の問題はやはり心をとらえることどもであった。1895年の5月には米国のThe Independentに「日本婦人と戦争」(Japanese Women and the War)と題する一文を発表した。この中で、日本女性の献身的自己犠牲の精神を深く讃えた。(中略)

翌1896年6月にWoman‘s Departmentにキリスト教と愛国心との関係を論ずる一文を寄せ、日本人の愛国心を深く讃えている。日本が【日清】戦争に勝ったのは、日本人が戦争好きであるためなどではさらさらなく、ひとえにこの純一無二の愛国心の故であることを強調している。愛国心と宗教の関係にさらに論を進めて、日本人に宗教心が欠けていると考えるのは誤解であって、日本人の場合、この愛国心こそ宗教そのものといっていいので、愛国心が宗教にとって代わっていることを論じている。(後略)


尚、保守主義者としての「津田梅子」という私の理解の背景に関しては、
次の拙稿をご参照いただければ大変嬉しいです。

・書評☆古木宜志子「津田梅子」(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60632975.html


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畢竟、近代における<非宗教としての宗教>としての愛国心成立の契機こそ、「絶対精神」というパラメーターを補助線に使うことでヘーゲルが、少なくとも、その理論面においてはキリスト教色濃厚で歴史的に特殊な欧州特有の内容とは無縁なものとして「解読=脱構築」可能な、アメリカンな国家理念と(国家理念の核心たる「自由」の弁証法的発展としての)人類史を構想できた思想的な背景でしょう。

他方、山崎孝子氏は、しかし、梅子先生の「愛国心と宗教の関係理解」に関して、「キリスト教と愛国心の関係についての考え方には、異論もあろう。全体主義的な個の喪失に傾きやすいそのころの愛国心と、神との関係において、個の自由の確立を根底においた上での、愛と奉仕を説くキリスト教とは、本来、相容れないはずである」(ibid, p.149)と述べている。蓋し、この認識こそ、左翼・リベラル派と通底する、実体概念としての国家の表象を前提とした誤謬と言うべきである。而して、その民族と国家が置かれた地政学的と時代的な位相を捨象するとき、梅子先生の眼は、<非宗教としての宗教>としての<愛国心>という、近代国家に普遍的な<物語>の紙背に眼光を届かせていたことは間違いないと思います。

山崎孝子氏と同様の誤謬を、しかもご丁寧に「往復ビンタ」で犯している論者もおられる。丸山真男氏は、「超国家主義の論理と心理」(『世界』1946年5月号所収;『現代政治の思想と行動』(未来社・1956年-1957年)に所収, pp.13-15)にこう記されていますから、

ヨーロッパ近代国家は「中性国家」たることにひとつの特色がある。中性国家は真理とか道徳に関して中立的立場をとり、そうした価値判断はもっぱら他の社会的集団(たとえば教会)や個人の良心にゆだねる。国家主権の基礎を、かかる価値内容とは無縁な「形式的な法機構」の上に置くのである。(中略)

ところが日本は明治以後の近代国家の形成過程において、国家主権の技術的、中立的性格を表明しようとしなかった。ヨーロッパにおいては思想・信仰・道徳の問題は被治者の「私事」としてその主観的内面性が保証されたが、日本の国家主義は自分自身が価値内容の実体たることにどこまでもその支配根拠を置こうとした。

日本に「内面的」世界の支配を主張する教会勢力は存在しなかった。したがって良心に媒介された個人の自由に関する抗争は日本においてはありえず、国家がその統治妥当性の「形式性」を意識することもなかった。そうして第一回帝国議会の召集を目前に控えて教育勅語が発布されたことは、日本国家が倫理的実体として価値内容の独占的決定者であることの公然たる宣言であったと言っていい。(後略) 


敷衍すれば、日本では、私的領域から公的領域に自己を隔絶囲繞するはずの国家権力が、私的領域の脆弱さゆえに、天皇制イデオロギーをその尖兵にして、信仰や家族観等々の私の領域までも覆い、その結果、戦前の日本人は自己の責任で判断する/行動するという体験を究極的な所では積むことがなかった。戦前の日本では、よって、国家に帰依するにせよ憎悪するにせよ、すべて、国家権力の存在感と動向に自己の行動の方途と意味を求める無責任で他律的な思想が蔓延した、と。そう丸山氏は述べる。

蓋し、「オタク何様?」と言いたいだけではなく、丸山氏の議論は、近代日本の天皇制イデオロギーが<非宗教としての宗教>である側面は正しく捉えているものの、一方で、実体概念としての近代国家理解の陥穽に陥り、欧米の近代諸国家もゲルナーの言う意味での、「歴史的に特殊な新たな自己認識たるナショナリズム」を戴く、日本とパラレルな存在にすぎないことを「解読=脱構築」することができていない。他方、「戦前の日本の国家社会」なるものをも実体概念として捉えて、その「固有名詞-普通名詞」としての重層的性格を看取することができないでいる。

要は、理論の抽象度を、前者では過剰に高く、後者においては過剰に低く設定している点で逆方向ではあるけれども(現存在としての人間が織なす国家の表象を看過して)、双方において、実体概念が形成する幻想の世界に遊離している。ゆえにそれは、「往復ビンタ」的な自爆でしかないと言わざるを得ないのです。


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繰り返しになりますが、畢竟、アメリカンな愛国心といえども、それは、論証不可能&共約不可能なイデオロギーである。また、ホッブスのいう意味での「可死の神」としての近代の主権国家は、その構成メンバーに対して、その<愛国心の物語>に帰依することまでは要求できないにしても、それがその国家社会の内部世界ではオフィシャルでスタンダードなものであることは遍く了解させるものではある。而して、<愛国心>は<非宗教的な宗教>とも言うべき観念表象なのです。

蓋し、「可死の神」はその領域内では最高の、他国に対しては対等独立の政治的権威であり、逆に言えば、その「社会秩序-憲法秩序」としての「可死の神」の効力根拠は(就中、ウェストファリア条約体制以降)国際法秩序である。よって、<愛国心>の効力の範囲もまた自国民に限定される。ならば、差別排外主義的な色彩は憲法が容認する<愛国心>とは相容れない。畢竟、憲法秩序と親和的な<愛国心>とは保守主義と親和的な<愛国心>に他ならない。と、そう私は考えます。



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(2011年08月1日:yahoo版にアップロード)

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◆国旗・国歌を物象化しているのは誰か

一連の最高裁判決を反芻して言えることは、公立学校がその節目節目の儀式で、教職員や児童・生徒および参列者に対して「日の丸・君が代」に敬意を表するよう促すことは、①なにか特殊な思想を押しつけるものではないこと、また、②そのような形式で儀式がとり行なわれることについては、それがこの日本社会の常識であり、社会的にも妥当なものと考えられていること。少なくとも、最高裁判所はそう認定したということでしょう。実際、例えば、学習指導要領に則った国旗・国歌のより適切な取り扱いの徹底を公立学校の教職員に求めた大阪府知事に寄せられている圧倒的支持の分厚さを鑑みるとき、この①②は至極当たり前のことのように思われます。

では、プロ市民の左翼・リベラル教師達はなぜわざわざ最高裁まで争ったのか。彼等のイデオロギーはどのような点で①②と齟齬をきたしているのか。而して、ここで前項の確認として申し添えておけば、

(a)合憲性判断基準のテスト(人権内容のカテゴリーと人権制約のカテゴリーという二つの軸が構成する「x-y平面」のどこに当該の社会的紛争が位置するのかの認定)においては①の事柄が、他方、(b)憲法審査基準のテスト(具体的な人権制約の許容範囲の確定)においては②の事柄が問題になっている。


重要なことは、実は、憲法典を含む実定憲法体系の規範意味は、憲法訴訟論の理路と作業を経由してのみ初めて認識可能ということです。逆に言えば、憲法慣習にせよ憲法典条項にせよ、その意味内容はアプリオリに認識可能なものではないのです(ちなみに、憲法の規範内容のこの構築主義的な理解のイメージは、例えば、H・L・Aハートの述べる「内的視点-外的視点」の併用、あるいは、ハイエクの述べる「内在的批判-外在的批判」の併用と通底するものでしょう)。

畢竟、構築主義的なこの一種の諦観は、(壱)あらゆる教条を忌避して、(弐)伝統と慣習を尊重する、かつ、(参)自己責任の原則の価値観を貴ぶ、而して、(四)異文化を呼吸する他者がこれら(壱)~(参)を容認する限り、彼等が自己の伝統と慣習を尊重する心性と行動を称賛する社会思想的立場と、私が定義する保守主義と親和的な法哲学であろうと思います。



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些かテクニカルな憲法解釈論から離れて、本稿の主題の核心に移ります。
畢竟、一連の最高裁判決が炙り出した問題の深層は次のようなもの、鴨。

すなわち、①'学習指導要領が法的性格を帯びる以上、端的に学習指導要領で規定された「国旗・国歌の尊重」は「強制」であり、かつ、無限に存在するであろう他の潜在的な選択肢の中から学習指導要領が「国旗・国歌の尊重」を選び取っている以上、国旗・国歌に関する起立斉唱命令は「特殊な思想の強制」ではないのか

而して、②'それに違和を覚える国民がいかに圧倒的な少数派だとしても(笑)、(「民主主義」の弊害を防止するものとしての、多数の意志によっても侵害されるべきでない自由を憲法が保障する原理である)「立憲主義」や「法の支配」もまた現行憲法の不可欠の内容とするならば、元来、人権とは少数派の権利であり、「国旗・国歌の尊重」に対する違和は思想・良心の自由の権利として保障されてしかるべきではないのか。最弱者の主張は、彼や彼女が最弱者であるがゆえに/それのみによって最大限の配慮を憲法から得られるべきだ。「貧しき者は幸いなり」ではないのか、と 


畢竟、①'に関しては、「日の丸・君が代」自体が問題なのではなく、それが強制されていることが問題なのだと、例えば、朝日新聞の社説は述べています。而して、そこに国家権力による強制の契機が介在している以上、確かに、「日の丸・君が代」とクリスマスツリーやクリスマスソングは違うのでしょう。

他方、②'に関しては、多様なイデオロギーを包摂している近代の「主権国家=国民国家」において、社会統合を進め社会秩序をコストパフォーマンス良く実現しようとする場合、「貧しき者は幸いなり」の箴言は満更冗談ではなかろう。なぜならば、

(1)多数派にとっては、自己が支持する「現政権-現体制」の定めるルールと秩序は、マクロ的と相対的には自己に比較的有利な/自分がより共感できるものになるだろう。ならば、多数派は自動的あるいは自然に「現政権-現体制」の定めるルールと秩序に従うに違いない

(2)(強面の独裁国家がその秩序維持に関しては極めてコストパフォーマンスの悪い劣った政治社会でしかないことを想起すれば自明なように)、ある国家の権力運用パフォーマンスは、国民の(不承不承にせよ)自発的な遵法行動の度合の関数だろうから


要は、「思想・良心の自由の制約」と「思想・良心の権利の制約」は別ものであるという最高裁判決の法廷意見はどこまでもどこまでも限りなく法的には正しいにせよ、①'普通名詞の「国旗・国歌の強制」、および、②'固有名詞の「日の丸・君が代の強制」を心理学的に不愉快と感じる少数派が存在するという社会学的事実を見据えるとき、立憲主義や法の支配の原理からは、彼等が訴える思想・良心の自由の間接的制約に救済を与えることは、少なくとも、政治的には考慮の余地はあるの、鴨。尚、「立憲主義」や「法の支配」と「民主主義」を巡る私の基本的な理解に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444639.html

・中川八洋「国民主権」批判論の検討(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60044583.html

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60588722.html


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イソップの「獅子の分配」やベニスの商人の「ポーシャ姫の狡知の詭弁」の如き印象を与えるかもしれませんが、しかし、①'②'の主張は憲法論的と国家論的に成り立たない。よって、少数派の要求など政治的にも歯牙にも掛けるべきではないと考えます。すなわち、

(甲)憲法論
憲法とは、国家権力に対しては統治の正統性と正当性を、国民に対してはその国家のメンバーとしてのアイデンティティーとプライドを供給する(善良なるや永住外国人に対してはそのような国民の意識がこの政治社会のスタンダードなものであることを告知する)<政治的神話>を内容とする<物語の編み物>に他ならない

(乙)国家論
近代以降の「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」とは、人為的なフィクションにすぎず、加之、それは関係概念に他ならない。よって、(x)「万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて、天壌無窮、永遠に存在する万古不易の国体」なるものは実体概念であり幻想である。同様に、(y)「人権や個人の尊厳の普遍性」なるものから演繹される「人権保障をその唯一の存在理由とする必要悪としての国家権力」なるものもまた実体概念であり幻想にすぎない

(丙)政治論
それがフィクションであるがゆえに、パラドキシカルながら、その政治社会の社会統合を担保する<政治的神話>は近代以降の国家においては死活的に重要なものであり、そのイデオロギーのメンテナンスは国家と国民双方にとって必須のタスクである。他方、その<政治的神話の物語の編み物>としての憲法の体系が、何をその具体的な内容とするかはアプリオリに定まるものではなく、畢竟、それは、現存在としての現在の国民の法的確信の総体である社会通念によって現象学的と社会学的に決定される他ない

(丁)帰結
そのような社会統合の核心としての<物語の編み物>に内容的に矛盾し、かつ、態様的に衝突する、思想・良心の外部への表出は実定憲法体系の保障の域外にある。而して、この帰結は、近代以降の憲法の概念および事物の本性から論理的に演繹されることであり、すなわち、現行憲法の規範内容の一斑をなしている

(戊)補論
もちろん、(丁)帰結も、<政治的神話が織なす物語の編み物>に帰依することまで諸個人に要求するものではない、否、実際、そのような要求の実現は、たとえ、ロベスピエールでもスターリンでも不可能であったに違いない。けれども、そのような<物語>がこの政治社会ではオフィシャルでスタンダードなものであることをその国家のメンバーは学習体得しなければならない。蓋し、学習指導要領が定める、「国旗・国歌の尊重」はこのような学習体得の好機を子供達に提供するものであり、それは、国家権力にとっては、社会統合のパフォーマンスの維持向上を果たすための憲法上の責務であり、他方、永住外国人家庭の子女を含む日本社会の子供達にとって、それは社会権的基本権の内容の一斑を成す    

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要は、「日の丸・君が代」の起立斉唱に反対する左翼・リベラル派は、関係概念にすぎない「日の丸・君が代」を、よって、「戦前の日本/戦前からの連続性を保つ日本」なるものを実体概念と看做す<物象化>の陥穽に陥っている。蓋し、それは、彼等が、普遍性を詐称する実体概念としての「人権」や「地球市民」なる空虚な観念に憑依されているからではないか。畢竟、彼等、左翼・リベラル派は、公教育の現場で「日の丸・君が代」が遍く尊重されるようになれば子供達の愛国心が涵養できると夢想する国粋馬鹿右翼と論理的にはアイソモフィクであり、この両者はシャム双生児の関係にある。と、そう私は考えます。

ならば、愛国心とは何か? これまでの考察を社会思想の地平で基礎づけるべくこのことを次項で検討します。而して、結論を些か先取りして述べておくならば、

自国のメンバーであることを自覚してそのことに誇りを覚え、かつ、ある人物がどの国に属するかという記号論的な情報のみによって、その外国人を誹謗中傷する、そんな同胞の排外主義的な言動にはこれを激しく咎める、加之、自国の国運隆盛と名声高揚のために造次顛沛、努力勉励を怠らず、而して、自国のためには自己犠牲を厭わず、もって、必要とあらば従容と難局に臨む態度


このような態度を律する格律を現行の憲法概念および保守主義と親和的な<愛国心>の理念型と規定するならば、蓋し、例えば、キムヨナ姫こそ現在の世界を代表する<愛国者>と規定できよう。すなわち、キムヨナ姫こそ、実体概念の陥穽で喘ぐ左右の愛国心認識をその現存在性において<脱構築>した<現代の愛国心の権化>である。と、そう私は考えています。尚、次項の考察の準備として下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html

・キムヨナを<物象化>する日韓の右翼による社会主義的言説
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59298740.html

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444711.html


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<続く>


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今春、「公立学校における国旗・国歌に対する起立斉唱を命ずる職務命令」に合憲の判断を下した一連の最高裁判決が出ました。本稿はそれらの憲法判断の基底に横たわる問題を整理して、国旗・国歌そして<愛国心>の意味を<脱構築>しようとするものです。

一連の最高裁判決(また、その前哨としての「ピアノ伴奏拒否事件」の最高裁判決)に関しては下記解題記事をご参照いただきたいのですが、これらの最高裁判決の法廷意見は、内容の面で常識的なだけでなく、現下の憲法訴訟論の水準と理路から見ても妥当なものだと私は考えています。

蓋し、それらは当然の判決にすぎない、と。


・<君が代伴奏命令拒否処分>合憲判決☆読売の一記者に負けた朝日
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60241870.html

・【資料集】最高裁「国歌斉唱不起立訴訟」合憲判決
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-925.html

・【資料集】最高裁「国歌斉唱不起立訴訟」判決-宮川裁判官少数意見
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-931.html


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◆国旗・国歌を巡る最高裁判決の理路

朝日新聞社説「君が代判決 司法の務め尽くしたか」(6月1日付)、同「君が代判決 判事の声に耳をすます」(6月28日付)等々、しかし、リベラル派からは(就中、例えば、奥平康弘・内野正幸氏等々、それらリベラル派の憲法研究者の多くからさえも呆れられている、戦後の日本にのみ存在する極めて特異な所謂「条理教育法学」なるものを説く教育法研究者からは)、これら一連の最高裁判決を評して、それらの法廷意見自体には疑問が残るものの、幾つかの真摯な少数意見が付けられたこととともに、ピアノ伴奏拒否事件最高裁判決と比べても、「一方で注目すべきは、すべての小法廷が「命令は、思想・良心の自由の間接的な制約となる面がある」と指摘したことだ。一、二審判決の多くが「教員に特定の思想を強制したり、告白を強いたりするものではない」としてあっさりと原告側の主張を退けたのに比べ、ぎりぎりのところでの合憲判断だったことをうかがわせる」点は評価できるというコメントも散見される。本稿の主題を論じる前哨として、これら「負け惜しみ」の類のコメントに一瞥を加えておきます。

まず、現下の憲法訴訟論の構造と内容とはいかなるものか? それは、

(α)他者であり行政機関たる学校長の出す職務命令が、その内容に異存のある教師にとっては、思想・良心を制約する場合のあることは当然である

(β)ある個人の思想や良心が外部に行動として表出される場面では、そのような表現や行動を制約することの社会的必要性、制約の範囲と程度の社会的相当性を踏まえた上で、あるタイプの行動を制約することは憲法論的に見ても許される場合がある

(γ)現行憲法が、どのような場合にどのような制約を許容しているかを、「公共の福祉」や「特別権力関係」、あるいは、「部分社会の法理」等々の所謂ビッグワードから演繹することは(これらの用語を思念さえすれば、例えば、「腕っこきの占い師が、水晶球に念じれば、その正面に黙って座る顧客の運命をたちどころに言い当てる」かの如く演繹できるとすることは)、現在の憲法訴訟論からは支持されない。しかし、現在の水準の憲法訴訟論からの帰結をこれらのビッグワードで「総評」することには特に問題はない

(δ)現在の憲法訴訟論では、ある法規および行政機関の行為の合憲性/違憲性の判断に関しては、(a)合憲性判断基準のテスト、(b)憲法審査基準のテストという二つのテストによる重層的な判断が行なわれる

(ε)合憲性判断基準のテストとは、個人の自由を制約する法規等に合憲性の推定がなされるのか/違憲性の推定がなされるかの判断であり、換言すれば、立法事実に合理性が推定されるのか/合理性は推定されないのかの判断である。

而して、()前項の場合には「緩やかなテスト」が、()後項の場合には所謂「厳格なテスト」が行なわれる。精神的自由や表現の自由、就中、政治的な表現の自由と経済的自由の間では憲法による保障の手厚さに濃淡をつけるべきだとする所謂「二重の基準論」は、この合憲性判断基準のテストの前哨もしくはコロラリーと考えられる   

(ζ)憲法審査基準のテストとは、合憲性判断基準のテストの帰結を受けて、具体的に自由の制約が許される限度を確定する基準のことである。合憲性判断基準のテストを憲法訴訟論の「総論」と位置づけるならばそれは謂わば「各論」である。而して、「公共の福祉」「特別権力関係論」「部分社会の法理」は、この各論内での諸基準の選択採用ルールとして、換言すれば、憲法審査基準のテストを構成する憲法審査の諸ルールを巡るメタルールとして再構築される

(η)憲法審査基準のテストの具体的基準内容としては、()総論における「緩やかなテスト」を引き継いだ場合には、例えば、「明白性の基準:法規が著しく不合理であることが明白でない限り合憲とする審査基準」「合理性の基準:法規の目的・手段が著しく不合理でない限り合憲とする基準」「厳格な合理性の基準:自由を制限する度合が少ない他の手段では立法目的を十分達成できないときに限り合憲とする基準」がある。

他方、()総論において「厳格なテスト」が妥当と判断された場合には、例えば、「漠然性ゆえに無効の法理」「過度に広汎ゆえに無効の法理」「LRA」および「明白かつ現在の危険」がある。尚、「利益衡量の基準」をも()に加える論者もおられる。けれども、合憲/違憲の審査基準としてそれ自体明確かつ独自の内容を持った「利益衡量の基準」なるものは、例えば、アメリカの諸判例を見ても抽出できないのではないか。ならば、現行の日本国憲法の解釈論としても「利益衡量の基準」を独立させる実益は乏しく、それはあくまでも憲法審査基準のテスト全体を貫く法的思考の一斑と解すべきである    



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憲法訴訟論の構造と内容をこのように考えるとき(上記は、ほぼ判例・通説の最大公約数的認識と言っても、満更、我田引水ではないと信じますが)、今般の一連の最高裁判決の理路はどういうものとして理解できるのか? 蓋し、

(イ)当該の職務命令は、例えば、「日本を好きになれ!」と強いるものではなく、また、当該の教師の「日本や皇室に対する認識」を表白せしめるものでもない

(ロ)ならば、当該の職務命令の合憲性/違憲性の判断は、(a)合憲性判断基準のテストにおいては、()「厳格なテスト」ではなく()「緩やかなテスト」が行なわれることになる。而して、(b)憲法審査基準のテストに際しては(本件訴訟が、自由の制限がより広範に認められる類型に属する、謂わば「特別権力関係」の事例でもあることを鑑みるならば)、「明白性の基準」あるいは「合理性の基準」が選択採用されるべきだ

(ハ)畢竟、「職務命令が、思想・良心の自由の間接的な制約となること」と「職務命令が、思想・良心の自由を制約するがゆえに違憲であること」は全く別のことである。直截に換言すれば、「思想・良心の制約」と「思想・良心の権利の制約」とは似て非なるものであり、要は、「思想・良心の自由の制約」と「思想・良心を巡る人権の制約」は位相を異にする事柄である。

畢竟、思想・良心の制約が憲法訴訟の争点になる場面には、須らく、それらは社会的な文脈において論じられるべきもののであって、件の最高裁判決である少数意見が「思想良心の自由は個人の内面に係わるものだから、その制約の合憲性を社会的相当性の観点から見るのは妥当ではない」と述べているのは「法概念論」を看過した全くの謬論である

(二)伝習館高校事件最高裁判決(最小判・平成2年1月18日)で確定している如く、学習指導要領は「法規としての性質」を有する。よって、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」等と規定する学習指導要領に従い、公立学校という行政機関内部で適法に出された職務命令には合憲性が推定される。加之、「明白性の基準」あるいは「合理性の基準」からも当該の職務命令は妥当なものである。よって、当該職務命令に違反する行為を、社会的相当性を伴わない(個人的な)思想・良心の自由を根拠に正当化することはできない
   
(ホ)ちなみに、卒業式での当該教員の職務命令違反を理由としてその教員の退職後の再雇用を教育委員会が拒否することは、土台、「再雇用」自体が教員の権利などではありえず、加之、行政機関たる教育委員会が関連諸法規と憲法に従う限り広範な裁量権を持つことは当然である。よって、再雇用の拒否もまた憲法が保障する何らかの自由権的基本権の侵害ではない    

と、一連の最高裁判決の主張は理解できると考えます。


びんっらぢん2


蓋し、繰り返しますが、朝日新聞や本件訴訟を争ったプロ市民の教師達の主張は、

「思想・良心」と「思想・良心の権利」
「思想・良心の自由の制約」と「思想・良心の人権の制約」


これらが位相を異にすること。この法理、否、世間の理/社会の常識を理解できない漫画のような主張にすぎない。と、そう私は考えます。

実は、これは、いしいひさいち氏の出世作『バイトくん』(プレイガイドジャーナル社・1977年)に出てくる場面なのですが、「赤は進め」という思想を持つ者にとっては、「赤は止まれ」と命じている道路交通法規は「思想・良心の制約」であり、あるいは、それに従わない行為を制裁をもって禁止する道路交通法規の運用は「思想・良心の自由の制約」でもありましょう。

また、「英語教育はアメリカ帝国主義のイデオロギー装置だから、うちの子には英語の授業を免除して欲しい」と言う保護者にとっては、「必修教科としての「外国語」においては、英語を履修させることを原則とする」と定める中学校学習指導要領とそれに基づく運用もまた、間違いなく「思想・良心の制約」や「思想・良心の自由の制約」でしょう。   

世間では、しかし、「赤信号は憲法違反」「英語は憲法違反」という主張を真面目な憲法論として受け取る人はそう多くはないだろう。而して、国旗・国歌を巡るプロ市民の教師や朝日新聞の主張などはこれらの論とそう大差はないのではないでしょうか。

他方、エホバの証人の信仰を持たれている家庭が、武道を履修しない権利を主張、すなわち、その子女が武道を履修しないことを要求した事例では、最高裁(最小判・平成8年3月8日)も「武道の必須科目化」は違憲ではないが、社会的に見ても合理性のある忌避理由を持つ生徒に「代替措置を認めなかった」ことは「社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えた違憲違法なもの」と判示しています。

畢竟、どのような思想・良心の自由が憲法の保障する人権の名に値するのか。この判断は、究極の所、社会的相当性に収斂する。而して、国旗・国歌をないがしろにするような思想・良心が、「主権国家=国民国家」の憲法秩序の中で到底容認され得ないことは当然であろう。蓋し、そのような思想を持つ論者こそ、自らが<物象化>した国旗・国歌に呪縛されていはしないか。と、そう私は考えます。



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<続く>

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