◆橋下市長、労組に庁舎退去要求へ…ヤミ専従調査も

大阪市の橋下徹市長は26日、市役所内にある職員労組6団体の事務所に退去を求める考えを明らかにした。橋下市長は「職員組合と市役所の体質をリセットする。組合の事務所には庁舎から出て行ってもらう」としている。組合活動をしながら給料を受け取る「ヤミ専従」の有無について全庁調査する意向も表明し、職員労組との対決姿勢を鮮明にした。

この日の市議会交通水道委員会で、橋下市長が代表を務める大阪維新の会の市議が職員の内部告発として、市営バスの運転手らでつくる大阪交通労働組合(大交)幹部が、11月の市長選の報告集会に参加する名目で勤務時間中に職場を離れたことを指摘した。これに対し、交通局は、大交執行委員で、50歳代のバス運転手が市長選報告の組合集会に参加しようと、勤務終了前に東成営業所に出かけたことを認めた。ダイヤには影響なかったが、交通局は「職務専念義務違反に当たる」とし、処分する方針を示した。

また、維新市議は「庁舎内で、前市長の推薦者カードが勤務時間内に配布されていた。過去にヤミ専従問題で大量の処分者を出しているのに、いまだにこのようなことをやっているのか」などと指摘。新谷和英交通局長は「時間内の組合活動や職場での政治活動の疑いがあったことは誠に遺憾」と答弁した。

これを受け、橋下市長は「今までは組合が推したトップが(市長に)当選してきたから許されたのだろうが、僕は一切許さない。公の施設での政治活動はあってはならない」と述べた。

市役所地下1階には、大交が加盟する市労働組合連合会(市労連)など労組6団体が入居。月額計280万円の家賃は現在60%減免しているが、橋下市長は委員会終了後、報道陣に「まず減免をゼロにする」とし、退去時期は来年5月以降になるとの見通しを示した。


http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20111227-OYO1T00189.htm?from=top


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橋下徹大阪市長に関しては、公立学校における国旗・国歌の取り扱いの正常化推進にビビった左翼・リベラル派のプロ市民からの誹謗中傷だけではなく、橋下市長は「保守ではない」「真正保守では絶対にない」とか、「大阪府知事時代の「業績」は数字のまやかしだ」「彼は大阪の景気を回復させてはいない/マクロ経済の経済政策のイロハもわかっていない経済音痴だ」等々の批判が保守系市民からも聞かれるようです。

私は、金利政策・財政政策を両輪とするマクロ経済政策の部面において、白黒はっきり言えば、その両面でほとんど権限のない大阪府の元知事に対して「大阪の景気を回復させてはいない、マクロ経済政策のイロハがわかっていない」等々の批判は批判の為にする批判、一種の「坊主憎くけりゃ袈裟まで憎い」式の単なる嫌悪の表明にすぎないと思わないでもありません。加之、橋下氏は別に、「保守」なり、まして、「真正保守」なるものを標榜してきたわけでもない以上、「保守/真正保守ではない」という主張は、それが事実であれ批判としては成立しない。要は、それは橋下氏に対する「やつは仲間ではない!」というレッテル貼りにすぎない。と、そう私は考えます。

而して、数字だけのことにせよ、要は、帳簿上のことにすぎないにせよ、
橋下元知事が、例えば、

・職員給与・ボーナス・手当・福利厚生カット、退職金カット(全国初)→人件費1300億円削減
・一般施策の経費見直し、建設事業費カット→1100億円削減
・大阪府が負担する借金の残高を3100億円削減、歴代知事が踏襲してきた赤字隠し手法の廃絶
・天下り先の大阪府出資法人を44→28に削減、赤字垂れ流しハコモノ28施設を廃止・見直し
・府の全ての公金支出と予算要求をHPで全面公開(全国初)、情報公開度ランキングで28→1位に
・東京都と連携して民間企業と同じ複式簿記の会計制度を導入
・国の直轄事業負担金制度見直しを訴え国に認めさせる
・関空と伊丹空港の経営統合を国交省に認めさせたほか、国交省の「大戸川ダム」計画を建設中止
(国交省の計画が知事の意見で凍結されたのは全国初)
・街頭防犯カメラ1700台・LED防犯灯1940器を設置
(その結果大阪府の犯罪件数は平成19年→22年で24%減少。全国の17%を上回る成果)
・ひったくり件数ワーストを35年ぶりに返上、街頭犯罪件数ワーストも11年ぶりに返上
・部落解放同盟に40年間無償貸与されていた「大阪人権センター」を解体。各種同和予算の削減
・教員に国旗・国歌の起立斉唱を義務づける条例を制定(全国初)。
・朝鮮高級学校補助金を停止
・公立学校に塾講師を派遣し無料補習授業。全国学力テスト小学校部門の大阪府順位は41→31位に
・大阪府議定数109から88に 


これらを行ったのは事実でしょう。そして、
この程度の「業績」でさえ達成できた首長はそう多くはない。
これまた事実ではないでしょうか。


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敷衍します。アメリカのMBAでは、就中、ハーバードやスタンフォード等々のTopスクールの入学審査においては、出願書類に含まれる「エッセー:statement of purpose」の出来映えがその合否を決定的に左右します。

而して、そのエッセーの代表的な質問の一つが、「志望動機・キャリアゴール:Objective」に加えて「業績において示された能力やポテンシャル:Achievements, Accomplishments」を問うもの。

要は、「Objective:What is your short term and long term career goal, and how will the MBA experience influence your ability to achieve your goals?」(短期・長期各々のあなたのキャリアゴールを教えてください。そして、当MBAで得られるであろう経験がそのキャリアゴールの実現にどう役に立つとお考えかについても教えてください)に加えて、「Achievements:Describe your achievements within the last five years that are good indicators of your potential for a successful management career and why you view them as such. 」(直近5年間の業績の中で、あなたが経営管理者として成功できる人物であることを示唆している事例を紹介してください。そして、それらの業績からなぜにあなたの成功が推測できるのかについてもご説明ください)が重要な質問事項、逆に言えば、MBA側の切実な関心事項ということ。

そして、あるお菓子会社で企業派遣制度に応募してMBAに出願した方は、Achievementsを「首都圏の対コンビニ販売企画担当者のとき、前任者の前年実績に比べて20%アイスクリームの売り上げ増、利益に至っては30%のアップを達成した」ことを中心に纏められた。

その結果はTopスクール全滅。而して、「不合格の理由が知りたい~!」という本人と派遣元人事研修担当の要請を受けて、私は当時懇意のMBAアドミッション担当者に(もちろん、「一般論」に仮装してですが)理由を聞いた。で、その結果は?

KABU:
日本でもアイスクリームの商品市場は成熟したマーケットであり、まして、対コンビニ営業は競争の厳しいチャネル営業。ならば、「前年比、売り上げ20%増、利益30%増」というのは、企画力・実行力ともにこの出願者のビジネスリーダーとしての資質を示していないか?

アメリカ中西部の某MBAアドミッションディレクター:
「前年実績に比べて売り上げ20%増、利益30%増」ねぇ・・・。
彼が担当した年の夏は前年よりも暑かったのかい?


要は、「業績」というものは「それを達成する困難さ」(他者との比較における困難さの度合いの説明/達成する上で乗り越えなければならないハードルの説明)を欠く場合、それは単なる「事務的記録」にすぎないということです。閑話休題。


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アメリカのMBAを巡るエピソードまで持ち出してきて何が言いたいのか。それは、橋下氏の府知事時代の業績も、単なる数字的の羅列であればそれもまた単なる「事務的記録」にすぎないということ。けれども、それが、

(甲)例えば、「教員に国旗・国歌の起立斉唱を義務づけた条例の制定」「職員給与・ボーナス・手当・福利厚生カット、退職金カット」一つとっても、小泉構造改革の5年間を僅かの例外にして続いてきた、否、民主党政権下で一層悪乗りの度を増した55年体制的な政官財労組の「鉄の平行四辺形」に対するチャレンジであり、

(乙)石原都知事の素晴らしい「業績」を別にすれば、(繰り返しますが、それが「数字上のもの/帳簿上のもの」にすぎないにせよ、)これら程度の「実績」さえ行えた都道府県の首長は希有であり、まして、大阪府知事としては前代未聞の事績であったことを鑑みれば、   


「大阪府知事時代の「業績」は数字のまやかしだ」という主張も、やはり、為にする批判の域を出ていない。蓋し、アメリカのMBA流の業績評価の観点からも橋下氏は大阪府知事としても評価すべき「実績」を残したと言うべきなのだと思います。


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まして、問題は地方政治。外交や産業政策、あるいは、国家の社会統合を睨んだイデオロギー政策(個別日本においては、それは「天壌無窮、皇孫統べる豊葦原瑞穂之国」の<政治的神話>の維持強化に他なりませんけれども)等々が、原則、主要なイシューではない地方政治。より正確に言えば、外交・産業政策・イデオロギー政策が(その部面でも「実績」を残すことは素晴らしいことではあるでしょうが)首長の「実績」の採点対象ではない/配点が低い地方政治において、首長の評価は行政のルーティーンにより重きが置かれるのが当然ではないでしょうか。

要は、「愚かな天才・浅田真央」よりも、鉄の意志で凡庸な非凡を貫いた「入神のキムヨナ姫」のスコアが高くて当然なのだ。と、そう私は考えます。

畢竟、地方の首長に関して(実は、現下の福祉国家の大衆民主主義社会では国政でもその傾向は顕著でしょうが、まして、地方政治においては)、彼や彼女が保守だの左翼だの、真正保守だの売国だのの鑑定や評価は、彼や彼女が最低限の行政経営が出来ていて初めて評価の項目になること。フィギュア-スケートの昔の採点システムに喩えれば、規定演技での出来が拙ければ、思想的の評価の土俵にも上がれないということ。

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而して、確かに、橋下氏の言動を見るに、些か、ポピュラリズムの気配を感じなくはなく、率直に言えば、人間的には今一つ信じられない。だから、結局、石原都知事とは違い橋下氏にそうそう高いスコアは上げられない、鴨。

まー、合格最低水準の60点くらいなの、鴨。

でもね、(石原都知事を除けば)他はみんな不合格だからね(笑)

笑い事ちゃうちゅーねん!


畢竟、こう考えれば、大阪市長としての橋下氏を応援するに如くはないの、鴨。
と、そう私は考えます。


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テーマ : 地方再生
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◆天皇制の意味と射程-丸山真男の蹉跌

丸山真男氏は、「超国家主義の論理と心理」『世界』1946年5月号所収;『現代政治の思想と行動』(未来社・1956年-1957年)に所収, pp.13-15)にこう記しています。

ヨーロッパ近代国家は「中性国家」たることにひとつの特色がある。中性国家は真理とか道徳に関して中立的立場をとり、そうした価値判断はもっぱら他の社会的集団(たとえば教会)や個人の良心にゆだねる。国家主権の基礎を、かかる価値内容とは無縁な「形式的な法機構」の上に置くのである。(中略)

ところが日本は明治以後の近代国家の形成過程において、国家主権の技術的、中立的性格を表明しようとしなかった。ヨーロッパにおいては思想・信仰・道徳の問題は被治者の「私事」としてその主観的内面性が保証されたが、日本の国家主義は自分自身が価値内容の実体たることにどこまでもその支配根拠を置こうとした。

日本に「内面的」世界の支配を主張する教会勢力は存在しなかった。したがって良心に媒介された個人の自由に関する抗争は日本においてはありえず、国家がその統治妥当性の「形式性」を意識することもなかった。そうして第一回帝国議会の召集を目前に控えて教育勅語が発布されたことは、日本国家が倫理的実体として価値内容の独占的決定者であることの公然たる宣言であったと言っていい。(後略)     


 
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敷衍すれば、日本では、私的領域から公的領域に自己を隔絶囲繞するはずの国家権力が、私的領域の脆弱さゆえに、天皇制イデオロギーをその尖兵にして、信仰や家族観等々の私の領域までも覆い、その結果、戦前の日本人は自己の責任で判断する/行動するという体験を究極的な所では積むことがなかった。戦前の日本では、よって、国家に帰依するにせよ憎悪するにせよ、すべて、国家権力の存在感と動向に自己の行動の方途と意味を求める無責任で他律的な思想が蔓延した、と。

まあ、「言ってくれたわね」というか、
まあ、反日というかこの人はリベラルの姿勢を取りつつ、
実は、日本の国民を心底馬鹿にしていたんだろうね。

と、そう感じないではないです。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。


蓋し、丸山氏の議論は、近代日本の天皇制イデオロギーが<非宗教としての宗教>である側面は正しく捉えているものの、一方で、欧米の近代諸国家もゲルナーの言う意味での、人類史の中で「歴史的に特殊な新たな自己認識たるナショナリズム」を戴く、日本とパラレルな存在にすぎないことを「解読=脱構築」することができていない。

加之、他方、「戦前の日本の国家社会」が普通名詞の「近代国家」であると同時にこの世に二つと同じものの存在しない固有名詞の「日本」でもある経緯を、換言すれば、「戦前の日本の国家社会」なるものの「固有名詞-普通名詞」としての重層的性格を看取することができないでいる。よって、丸山氏は、戦前といわず戦後といわず、実は、日本どころか、ドイツや英国、アメリカやフランスの国家社会が理解できないでいたの、鴨! と、そう私は考えます。

要は、欧州の(「国民主権=民主主義」が貫かれた)政治をアプリオリに天皇制と矛盾するものと看做している点で、丸山氏の主張は「民主主義」の同義語としての広義の「国民主権」と矛盾する。蓋し、それは一般の国民を見下す傲岸不遜な貴族主義か、または、「民主主義」なるものに普遍妥当なる価値を密輸する、ヘーゲルばりの概念実在論が紡ぎ出す左翼・リベラル派の教条主義、あるいは、その両者であるとも。

尚、現下の「民主主義」が陥っている困難な状況に関しては、それを原発問題の切片から描写した記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60588722.html

・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60908495.html


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◆天皇制の意味と射程-高師直の洞察

日本の政治史上、「最優秀」とは言えないかもしれませんが、間違いなく「最高」の政治指導者であった足利尊氏公の、「最低」ではあったかもしれないけれど、間違いなく「最優秀」の家臣であった高師直はこう述べたと伝えられています。すなわち、師直曰く、

「都に王という人あり、数多の所領をふさげ、内裏・院の御所という所あって、馬より下りるむつかしさよ。もし王なくてかのうまじき道理あらば、木を以て作るか、金を以て鋳かして、生きたる院・国王をば、何方へも流して捨て奉らばや」(『太平記』)、と。


蓋し、ここに「天皇制」の核心があるの、鴨。
と、そう私は考えないではありません。なぜならば、

(α)当時、権勢64州に並びもない師直にとっても、天皇制は「問答無用で廃止!」できるものではなかった。(β)天皇制の価値とは、個人としての天皇に付属する属性(例えば、万世一系のy染色体の遺伝子等々)ではなく、「天皇をその構成要素とする関係性」に収斂すること。これらを師直は洞察していたということでしょうから。


而して、南朝なるものが100年近く存続できたのは、逆に、ネズミの糞にたかる蠅の涎の如き南朝でさえ足利将軍家は軽んじなさらない、と。そう率先垂範して、要は、そういう実例を通して、「ならば、北朝の貴さよ、その北朝にオーソライズされた将軍家の権威の高さよ」、と。かくの如き、メビウスの帯び的な梃子の原理を通して、南朝なるものの存在も室町幕府の権威の維持に役だったから、鴨。

と、そう私は考えています。高師直は時空を超えて、
丸山真男の蹉跌を見抜いていたの、鴨とも。


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丸山真男の蹉跌と高師直の洞察を反芻するに、次のことだけは言えると思います。

すなわち、「天皇をその構成要素とする関係性」の維持・再構築に関して、誰が天皇であるかなどは非本質的な事柄である。つまり、「天皇」と社会的に看做される人物が存在することが天皇制の必須の要素であって、その逆ではないということ。つまり、アプリオリに「天皇」である人物が存在するから、天皇制の存在が社会的な必然性を帯びるということはないということです。


ならば、例えば、男系の「万世一系」の<神話>は天皇制イデオロギーを飾るお洒落な要素ではあるけれど、それは「天皇をその構成要素とする関係性」そのものからは非本質的な要素にすぎないことになりましょう。

蓋し、女系の天皇が出現されたとしても、彼女や彼の卑属に流れ込む/流れ出す系統に「万世一系」の性格や意味内容をこの社会の過半の国民が表象するのならば、女系天皇制を導入した後の皇統も、この社会の<憲法>がサポートすると言う意味で、「正規の皇統」に他ならないのです。畢竟、「天皇」もまたケルゼンの言う意味での「帰属点」に他ならないということです(★)。

★註:帰属点

ハンス・ケルゼンは、法人たる国家を含む人間集団やその組織の機関を価値や評価の「帰属点:Zurechnungspunkt」として整理しました。畢竟、それはある価値や評価が結びつけられる表象の単位として人間の観念の中にのみ存在する表象、すなわち、観念の形象なのです。

例えば、女子サッカーのワールドカップで、宮間がゴールしても川澄がゴールしても「日本」に1点が入る。しかし、私は、例えば、日本代表の岩清水梓選手を百合ヶ丘の魚菜屋さんで見かけたこともありますが、「日本:日本代表」自体には誰も触ることはもちろん見ることもできはしないのです。それはサッカーのルールブックとサッカーの慣習が意味的世界、意味の空間に作り上げた帰属点なのだから。

而して、「なでしこジャパン」などこの世に物理的には存在しないにもかかわらず、決勝戦のPK戦4本目、左上にズバッと決まった熊谷選手のゴールで、「なでしこ」は3対1で「アメリカ」に勝ちワールドカップ優勝を決めた。と、そう「記録される=帰属する」ことでも分かるように「帰属点」とは、権利と義務、意味と価値がそこにタグ付けされる観念の形象なのです。 



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◆総括・雑感

蓋し、「国家」も「天皇」も帰属点であり、帰属点と帰属を巡るルールが変容すれば、「国家」や「天皇」の意味内容もそれに伴って変化することは当然のことでしょう。

比喩を使えば、「国家」も「天皇制」も「ユニフォーム」や(例えば、「誰がゴールキーパー」かを明示する)「選手リスト」にすぎない。けれども、「ユニフォーム」や「選手リスト」がなければ試合のスムースな運営が些か難しくなるように、国家や天皇制が「ユニフォーム」や「リスト」にすぎないからといって国家や天皇の価値が否定なり減額されることはないのです。

加之、近代の「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」の成立以降、人間は、ある国家のユニフォームを纏わない限り、国内的にも国際的にも行動することが難しくなっている。つまり、ユニフォームは単なる記号や帰属点にすぎないにしても、ユニフォームを着ていることが国の内外を問わず社会的活動というゲームに参画する基本的なルールになっている。

ならば、天皇制が「リスト」にすぎないという認識は、天皇制の矮小化ではなく、寧ろ、その価値と機能のリアリティーを示唆顕揚するもの、鴨。と、そう言えるのではないでしょうか。


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而して、天皇制に引きつけて換言すれば、「天皇」が帰属点にすぎないことは、「天皇をその構成要素とする関係性」が、現行の日本の憲法の中枢・中核であることと矛盾しない。否、それどころか、前者は後者の論理的帰結でさえあるのです。

最後に、「女系天皇制」に絞ってこの経緯を検算しておけば、「天皇をその構成要素とする関係性」が、国民の法的確信の維持獲得という点で男系ではない天皇、すなわち、「女系の天皇」という概念によって再構築可能であれば、「天皇」という帰属点に女系の人物が座ること、女系天皇制の導入は<2011年3月11日午後2時46分>の年の現在、天皇制の伝統に新風を吹き込む智慧であり、それは、天皇制を豊穣にする伝統の再構築の営みである。と、そう私は考えます。

尚、憲法基礎論の領域における「女系天皇制」を巡る私の基本的な理解については
下記三部作記事をご参照いただけるようであれば嬉しいです。

【保守主義からの女系天皇制肯定論-海馬之玄関ブログ三部作】
・「女性宮家」は女系天皇制導入の橋頭堡
 :「女性宮家創設をどう思う?」-私家版回答マニュアル
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60907124.html

・覚書★女系天皇制は<保守主義>と矛盾するものではない
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60896992.html

・女系天皇は憲法違反か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879735.html


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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




◆国民主権の意味と無意味

蓋し、国民主権の原理とは専断的な君主制の支配に対するアンチテーゼ、例えば、「王権神授説」に対する、すなわち、君主制支配に対する対抗イデオロギーにすぎません。よって、歴史的に専断的な君主制が地球上から(北朝鮮を唯一の例外としてでしょうか?)消滅してしまった現在、(北朝鮮の「臣民」の方々を除けば?)この本来の意味での国民主権のイデオロギーに存在価値はないのです。重要なことは、そもそも、

国民主権の原理やイデオロギーと君主制自体は矛盾するものではない


ということです。なぜならば、顔も手も足もない<国家>において、これまた、個々の国民を除いては、顔も手も足もない「国民総体」や「国民そのもの」としての<国民>の意志が反映しているというフィクションを具現するためには(例えば、代表取締役の言動や、取締役会の議決が「会社」の意志や行動と看做されるのとパラレルに)、憲法のルールに定められたある国家機関の、これまた憲法のルールに則った行動が国家の意志であり国家の行動であると看做される必要性と必然性があるだろうから。

而して、誰の意志や行為を<国民>の意志や行為と看做すかを定めるものは立法の技術論や憲法に結晶したその社会の美意識に他ならず、論理的には、天皇の意志と行為こそ<国民>の意志と行為であるとするのと、選挙民の直接選挙で選ばれた大統領、若しくは、選挙民が間接選挙によって選んだ内閣総理大臣の意志と行為こそ<国民>の意志と行為であるとすることの間には(「ほとんど」ではなく「全く」)差はないからです。蓋し、現行憲法の第1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とはこのような論理の表現と解するしかないのです。

畢竟、「国民主権」の歴史的役割は終わった。本来の意味での「国民主権」、
換言すれば、狭義の国民主権の教義についてはそう言えると思います。

而して、現在の世界において、就中、専断的ではない君主制を採用する(繰り返しますが、その引退した狭義の国民主権とさえも矛盾しない立憲君主制を、神武以来、少なくとも、近代に特殊な「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」成立以降に限定したとしても、遅くとも旧憲法以来採用してきた)我が国において、国民主権のイデオロギーに何らかの意義や意味がまだ認められるとするならば、それは次の3点に収束するの、鴨。すなわち、

(イ)多数派支配の論理である「民主主義」の同義語
(ロ)外国人に政治への容喙を許さない「ナショナリズム」の同義語
(ハ)法の一般的な効力根拠としての「国民の法的確信」の同義語


三者の内、前二者は「すべき/すべからず」の当為命題、すなわち、ある特殊な価値判断や世界観の言明。また、後者の(ロ)「ナショナリズム」が、個別日本においては(「外国人=非日本人」でしかなく、加之、「日本人」の意味の確定に天皇制の契機が、すなわち、それに好意的であるか否かに関わらず、「天壌無窮、皇孫統べる豊葦原瑞穂之国」のイデオロギーが不可避的に関与することは自明でしょうから、些かループ的の構造を伴いながらも、(ロ)の「国民主権」が)天皇制と矛盾するものではないことも説明の必要はないと思います。

最前者(イ)は、「多数派-少数派」の比較衡量は、「政治的判断に際しては個々の国民に差をもうけるべきではない/個々の国民の能力差や個性は捨象されるべきだ」という前提の上でのみ成立するフィクションであり、そして、最後者の(ハ)が上述の本稿の理路に関わるものです。


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敷衍すれば、(イ)「国民主権=民主主義」とは、諸個人間に厳然と遍在する目も眩まんばかりの多様性と能力差(例えば、普通の公立高校から現役で東大理Ⅲに進む生徒とそれ以外の生徒を観察するだけでも、誰しも容易に感知できるであろう多様性と能力差)に目を瞑ることで初めて成立可能な<物語>ということ。

而して、(イ)「国民主権=民主主義」は、論理的には、「清廉かつ優秀で中庸を貴ぶ見識豊かな専門家」と「俗物の無知蒙昧で偏狭なる素人」を同一視するロジックであり、「大衆民主主義=とるにたらない者の支配」を肯定するロジックと言えましょう(尚、「民主主義」の意味に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです)。

・民主主義とはなんじゃらほい(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/53753364.html

但し、民主主義とその同義語としての「国民主権」に関して、私自身は、チャーチルが語った如く「Democracy is the worst form of government, except for all those other forms that have been tried from time to time.:民主主義は最悪の政治制度である。ただし、これまでの人類の歴史の中で考案され採用されたあらゆる他の政治制度を別にすれば」 (from a House of Commons speech on Nov. 11, 1947) であると考えていますけれども。

ちなみに、<大人の中庸を得た諦観>とも言うべきこのような「民主主義=国民主権」の認識と評価は、価値相対主義的な世界観、すなわち、「非教条主義」を中核とする現在の保守主義と親和性の高いもの、鴨。尚、「保守主義」を巡る私の理解については下記拙稿をご参照ください。閑話休題。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444711.html

・「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60904872.html

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最後者の(ハ)の「国民主権」について敷衍します。(ハ)「国民主権=国民の法的確信」とは、「何が法であるか」「何が法の内容であるか」に関する国民の法的確信を欠いた「当為命題:すべき/すべからずを命じている言明」は規範として機能しないという、「法概念論-法学方法論」の領域に属する主張です。蓋し、それは経験的・実証的・論理的な認識。

而して、それは、「国王をギロチンにかけろ!」「人民大会議幹部会議長は人民の敵だ!」とかとかを人々に叫ばせることも希ではなかった狭義の国民主権イデオロギーが、どこまでもどこまでも限りなく、ある特殊な価値判断や世界観の言明にすぎなかったことから見ても、(ハ)の「国民主権」の同義語であり、本稿の理路のエッセンシャルファクター(an essential part of the logic or reasoning of my argument)でもある「国民の法的確信」は狭義の国民主権の教義とはその存在する位相を異にしているのです。

加之、蓋し、独裁国家がいかに強面で精悍に見えようとも、
それは張り子の豚とは言わないけれど張り子の虎にすぎないの、鴨。

例えば、独裁国家のメンテナンスには、警察や与党を含む国民全体を監視する秘密警察、および、督戦隊や親衛隊や国家防衛隊といった「軍隊を監視する軍隊」、若しくは、政府を主導・監視する独裁政党、並びに、独裁者やその王朝、若しくは、独裁的統治グループが打ち倒されない限り貫徹される政策の無謬性の前提、その無謬性の前提を温床として蔓延る社会の無気力と遵法精神の劣化、等々これらを想起するとき。

要は、(a)ツーセット以上の複数の統治機構が必須なこと、(b)為政者グループの<学習能力>の低空飛行状態、(c)社会統合の劣化を想起するとき、独裁国家はコストパフォーマンスにおいて非独裁国家に劣ることは、論理的のみならず、歴史的にも(「1989年-1991年」の社会主義の崩壊という現実を通して)人類が確認したことではないかと思います。

畢竟、専断的な君主制が(北朝鮮をあるいは唯一の例外として)ほぼ消滅した現在においても存在意義のある「国民主権」の内容を上記の如く脱構築するとき、日本において、(イ)~(ハ)三者の国民主権の原理と天皇制は矛盾するものではない。否、寧ろ、日本においては、天皇制は広義の「国民主権」の要求するイデオロギーであり制度とさえ言える。と、そう私は考えるのです。

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このように、天皇制は、現在においても必ずしも無意味ではない広義の「国民主権」と親和的・整合的に理解可能である。而して、その友誼的の関係は、大東亜戦争後の憲法の断絶、すなわち、旧憲法から現行憲法への移行によってもそう大きな変更を受けていない。そう私は考えるのですが、この点で印象的なエピソードがあります。

主義主張は異にするものの奥平康弘氏は、東京大学の長谷部恭男さん、ブリティッシュ・コロンビア大学の松井茂記さんと並んで、日本人の憲法研究者の中では私が尊敬する論者のお一人です。その奥平先生がある法律雑誌で概略こう書かれていた。旧東ドイツの大学院に交換教授として滞在していたときのエピソード。現行憲法と旧憲法の英訳をドイツの大学院生に読んでもらった際の彼等のコメント。

なんだ、あんまり変わらないんですね、と。


その通り! 旧憲法が人権の保障と権力の分立、そして、近代の「主権国家=国民国家」を正当化する<政治的神話>の三者によって編み上げられている点で、現行憲法と同様にそれが近代的意味の憲法の嫡出子であることは、18世紀末葉から20世紀初葉にかけて制定された西欧諸国の憲法と比較すれば明らかなことなのです。


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畢竟、世界標準の憲法基礎論では、

(a)ある実定憲法の規範には憲法典やその他の成文法規に書かれているものと書かれていないものが存在し、(b)後者の書かれていない憲法規範には、更に、(b1)慣行や有権解釈の積み重ねによって具体化するタイプの規範と、(b2)憲法の概念および憲法の事物の本性から表象されるタイプの規範が存在するという理解にはそう異論は存在しないと思います。

ならば、例えば、ある憲法の人権規範の内容は諸法令やその有権解釈を通じて具現されるしかなく、よって、旧憲法では、言論の自由・結社の自由や信書の秘密等々、多くの人権規定に「法律ノ範囲内ニ於テ」「法律ニ依ルニ非スシテ」という「法律の留保」がついているとしても、その人権の保障の度合いが現行憲法と質的に異なるとは言えないこと。

また、たとえ憲法典で軍備の全廃や戦争の放棄を謳うにせよ、憲法が憲法である限り主権国家の固有の権利たる自衛権は放棄されることなど法的に不可能なこと(加之、国際法上、所謂「集団的」と「個別的」に自衛権を区別することなどできはしないこと)。

これらを理解できる程の論者なら、その憲法典の巻頭第1章に「天皇」を戴く現行憲法が、「天壌無窮、皇孫統べる豊葦原瑞穂之国のVerfassungを具現した点で旧憲法と「ほんとんど変わらない」という感想をドイツの若い研究者が洩らしたのも当然」と受け止めるでしょう。

ということで、次項では、憲法基礎論の切り口から、更に、このように、
広義の「国民主権」と親和的な天皇制の意味について検討してみたいと思います。


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<続く>


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天照大神


昨日、12月23日は、<2011年3月11日午後2時46分>の年の、今上天皇陛下の誕生日です。要は、というか、要さなくとも「天長節」。目出度い。試練の時節の中ではありますが、否、試練の時節であればこそ一層「目出度い」の感を強く深くしています。

蓋し、日本の憲法において「天皇制」は必須の内容である。なぜならば、現在の法哲学の地平における憲法理解、すなわち、憲法を、「憲法典を含む諸々の実質的意味の成文憲法法規のみならず、憲法の概念・憲法の事物の本性、および、憲法を巡る慣習が織り成し編み上げる規範の体系。近代に特有の「主権国家=国民国家」内部で、最高の授権規範であり制限規範である規範の体系」と理解する立場からは、憲法の基盤とは、「何が憲法であるか、何が憲法規範の内容であるか」を巡る国民の法意識、換言すれば、「国民の法的確信」に他ならない。そして、そのような憲法観からは、個別日本においては天皇制こそその<憲法>の中核であろうから。そう考えざるを得ないからです。

本稿はこの経緯を些か詳らかにしようとする試み。尚、「天皇制」および「国民主権」を巡る私の基本的な認識に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60899909.html

・中川八洋「国民主権」批判論の検討(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60044583.html


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◆憲法の意味

憲法とは何か? 機能論的に観察された場合、すなわち、ある国内法体系の内部においては、あらゆる下位の法規にその法的効力を付与し、他方、下位法規の内容に指針を与え制約するという、最高の授権規範であり、かつ、最高の制限規範である「憲法」は、その規範形式に着目する場合、

(甲)形式的意味の憲法:『日本国憲法』とか 『The Constitution of the United States of America』のように「憲法」という文字が法律の標題に含まれている憲法典。および、(乙)実質的意味の憲法:「憲法」という文字が名称に含まれているかどうかは問わず、国家権力の所在ならびに正統性と正当性の根拠、権力行使のルール、すなわち、国家機関の責務と権限の範囲、ならびに、国民の権利と義務(あるいは臣民の分限)を定めるルールの両者によって構成されています。

すなわち、<憲法>とは、(1)法典としての「憲法典」や他の成文法規に限定されるものではなく、(2)憲法の概念、(3)憲法の事物の本性、そして、(4)憲法慣習によって構成されている。而して、(1)~(4)ともに「歴史的-論理的」な認識の編み物であり、その具体的内容は最終的には、今生きてある現存在としての国民の法意識(「何が法であるか」「何が法の内容であるか」を巡る国民の法的確信)が動態的と構築主義的に(換言すれば、「結果論的に/泥縄的に」)確定するものです。


而して、<憲法>とその規範意味は(例えば、憲法9条教や憲法無効論というトンデモ教義を信奉する論者の如く、あるいは、無防備都市/無防備地域なるものを推進する左翼のプロ市民や「バーク保守主義」なる日本にのみ見られる謬論を唱える国粋馬鹿右翼の如く)、単にある諸個人がその願望や妄想を吐露したものではなく、社会学的観察と現象学的理解により反証可能であり記述可能な、経験的で実証的、かつ、間主観的な規範体系でありそのような規範の意味内容なのです。もし、そうでなければ、ある個人の願望にすぎないものが他者に対して妥当性と実効性、すなわち、法的効力を帯びることなどあるはずもないのですから。

尚、「憲法」の意味、そして、国際法と憲法の関係、加之、「憲法」に限らず言葉の意味ということ、
すなわち、定議論に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60902921.html

・憲法基礎論から考える憲法と条約の優劣-TPP協定は内閣の専権事項? (上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60870291.html

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444652.html


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◆近代的意味の憲法

近代における憲法は、近代に特殊な「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」と表裏一体のもの。よって、これまた近代に特殊な所謂「近代的意味の憲法」は、(()トルコに次いでアジアで2番目に制定された我が国の旧憲法の条規に、就中、その告文・勅語・上諭に明らかな如く、また、()近代的意味の憲法の嚆矢であるアメリカ合衆国憲法の前文に示唆されている如く、加之、()近代の憲法においては「権力の分立」と「人権保障」が不可欠である経緯を指摘した(現在も、それはフランスの実定憲法の一部である)所謂「フランス人権宣言」の16条「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、憲法をもつものではない」に赤裸々なように)次の三者を必須の内容としていると言えるでしょう。すなわち、

(A)権力の合理的制約を定める統治機構
(B)諸個人の自由なる行動・言論の範囲の調整原理としての人権
(C)国家の正当性を巡るイデオロギーとしての政治的神話


旧憲法については下記案内記事からたどっていただければ嬉しいのですが、いずれにせよ、「統治機構・人権保障・神話」の三者こそ、実証的と社会思想的に観察・省察された場合の近代的意味の憲法の内容と言える。

・資料:英文対訳「大日本帝国憲法」の<窓口>
(付録として「告文・憲法発布勅語・上諭」の現代語訳も収めています) 
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60942195.html

最後者の(C)について敷衍しておけば、例えば、フランス革命以前に、あるいは、アメリカ合衆国の成立や明治維新以前には(正確に言えば、南北戦争や西南戦争以前には!)この地球上に、「フランス人」も「アメリカ人」も「日本人」も存在しなかったように、近代に特有な「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」は人間存在にとって自然な存在ではなく、よって、「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」が<国家>として機能するためには、その正当性や正統性を広報・啓蒙する<政治的神話>としての<ナショナリズムの物語>が不可欠なのだと思います。

而して、(保守主義から見た「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」の社会思想的な位置づけについては下記拙稿をご一読いただきたいのですが)この経緯をアーネスト・ゲルナーはこう述べています。

民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは、以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも、多くの場合それらを根本的に変造してしまう。死語が復活され、伝統が捏造され、ほとんど虚構にすぎない大昔の純朴さが復元される。(中略)

ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。それは、偶発的なものでは決してないのであって、それ故簡単には拒めないであろう。

【出典:アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)
 引用は同書(岩波書店・2000年12月)pp.95-96】


・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html

蓋し、些か途中的の帰結の前倒しになりますが、(「国家の政治的意志を最終的に決定する権威と権限を誰が掌中にしているのか」が「主権論」のαでありΩであるとした場合、)「国民主権」を専断的な君主の支配に対する対抗イデオロギーとしてではなく、外国や外国人に対する、(少なくとも、国家の政治的意志の形成と統合と確定に際しての)自国民の優位の要求として捉えることが、おそらく、大方の討議においては妥当である現在、そのような「国民主権」が「ナショナリズム」と親和的であること、少なくとも、その両者の間にはウィトゲンシュタインの言う意味での「家族的類似性」が看取できることは明らかだと思います。そして、ゲルナーの上記の認識はこの経緯をもサポートしているとも。


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蓋し、現下の、<2011年3月11日午後2時46分>後の<現在>を生きている我々日本国民にとっての「憲法」とは、<憲法>に盛り込まれた、(そのいずれもが日本の歴史と伝統・慣習に鍛えられ精錬された、かつ、国民の法的確信にサポートされた、(1)憲法典やその他の成文法規の諸条項、(2)(3)憲法の概念と憲法の事物の本性、そして、(4)憲法的慣習という四個の諸形態が織り成し編み上げる、よって、そこには間主観性が憑依している)「統治機構・人権・神話」に他ならない。と、そう私は考えるのです。

憲法:
成文・不文の諸規範と論理とが織り成す「規範体系=実定法秩序」としての<憲法>に
盛り込まれ織り込まれた「統治機構・人権・神話」を内容とするルール若しくは物語



而して、上記の如き「憲法」理解は、その論者の属する流派を問わず、世界の現代の法哲学の地平においては、満更荒唐無稽のものではないと信じますが、このような「憲法の概念」からは(正確に言えば、「憲法の概念の概念」としてのメタ言語レベルの憲法の意味内容である<憲法>の理解からは)、天皇制こそ近代の「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」の正当性と正統性の核心である以上、日本の憲法において「天皇制」は(換言すれば、それは究極の所「天壌無窮、皇孫統べる豊葦原瑞穂之国」の<政治的神話>とその<政治的神話>を支える諸制度の重層的な観念表象なのでしょうけれども、その「天皇制」は、)必須の内容である。否、「天皇制:天皇と皇室を巡る諸制度とイデオロギー」は日本の憲法の本質・醍醐である。そう私は考えています。

天皇制は、(手垢のついた社会思想としての所謂「国民主権」とは違った観点から、それこそが「憲法の基盤」と言える、そのような)憲法の基盤たる「国民の法的確信」にサポートされている、この社会の現行の憲法規範の意味内容の中軸、すなわち、この国の実定法秩序の中核であるとも。

ということで、蛇足かもしれませんが、
次に「国民主権」の意味について整理しておきます。


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<続く>


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第六章 會計
Chapter VI. Finance


第六十二條
新ニ租稅ヲ課シ及稅率ヲ變更スルハ法律ヲ以テ之ヲ定ムヘシ
但シ報償ニ屬スル行政上ノ手數料及其ノ他ノ收納金ハ前項ノ限ニ在ラス
國債ヲ起シ及豫算ニ定メタルモノヲ除ク外國庫ノ負擔トナルヘキ契約ヲ爲スハ帝國議會ノ協贊ヲ經ヘシ

Article 62. The imposition of a new tax or the modification of the rates (of an existing one) shall be determined by law.
(2) However, all such administrative fees or other revenue having the nature of compensation shall not fall within the category of the above clause.
(3) The raising of national loans and the contracting of other liabilities to the charge of the National Treasury, except those that are provided in the Budget, shall require the consent of the Imperial Diet.


第六十三條
現行ノ租稅ハ更ニ法律ヲ以テ之ヲ改メサル限ハ舊ニ依リ之ヲ徵收ス

Article 63. The taxes levied at present shall, in so far as they are not remodeled by a new law, be collected according to the old system.


第六十四條
國家ノ歲出歲入ハ毎年豫算ヲ以テ帝國議會ノ協贊ヲ經ヘシ
豫算ノ款項ニ超過シ又ハ豫算ノ外ニ生シタル支出アルトキハ後日帝國議會ノ承諾ヲ求ムルヲ要ス

Article 64. The expenditure and revenue of the State require the consent of the Imperial Diet by means of an annual Budget.
(2) Any and all expenditures overpassing the appropriations set forth in the Titles and Paragraphs of the Budget, or that are not provided for in the Budget, shall subsequently require the approbation of the Imperial Diet.


第六十五條
豫算ハ前ニ衆議院ニ提出スヘシ

Article 65. The Budget shall be first laid before the House of Representatives.


第六十六條
皇室經費ハ現在ノ定額ニ依リ毎年國庫ヨリ之ヲ支出シ將來額ヲ要スル場合ヲ除ク外帝國議會ノ協贊ヲ要セス

Article 66. The expenditures of the Imperial House shall be defrayed every year out of the National Treasury, according to the present fixed amount for the same, and shall not require the consent thereto of the Imperial Diet, except in case an increase thereof is found necessary.


第六十七條
憲法上ノ大權ニ基ツケル既定ノ歲出及法律ノ結果ニ由リ又ハ法律上政府ノ義務ニ屬スル歲出ハ政府ノ同意ナクシテ帝國議會之ヲ廢除シ又ハ削減スルコトヲ得ス

Article 67. Those already fixed expenditures based by the Constitution upon the powers appertaining to the Emperor, and such expenditures as may have arisen by the effect of law, or that appertain to the legal obligations of the Government, shall be neither rejected nor reduced by the Imperial Diet, without the concurrence of the Government.


第六十八條
特別ノ須要ニ因リ政府ハ豫メ年限ヲ定メ繼續費トシテ帝國議會ノ協贊ヲ求ムルコトヲ得

Article 68. In order to meet special requirements, the Government may ask the consent of the Imperial Diet to a certain amount as a Continuing Expenditure Fund, for a previously fixed number of years.


第六十九條
避クヘカラサル豫算ノ不足ヲ補フ爲ニ又ハ豫算ノ外ニ生シタル必要ノ費用ニ充ツル爲ニ豫備費ヲ設クヘシ

Article 69. In order to supply deficiencies, which are unavoidable, in the Budget, and to meet requirements unprovided for in the same, a Reserve Fund shall be provided in the Budget.


第七十條
公共ノ安全ヲ保持スル爲緊急ノ需用アル場合ニ於テ內外ノ情形ニ因リ政府ハ帝國議會ヲ召集スルコト能ハサルトキハ勅令ニ依リ財政上必要ノ處分ヲ爲スコトヲ得
前項ノ場合ニ於テハ次ノ會期ニ於テ帝國議會ニ提出シ其ノ承諾ヲ求ムルヲ要ス

Article 70. When the Imperial Diet cannot be convoked, owing to the external or internal condition of the country, in case of urgent need for the maintenance of public safety, the Government may take all necessary financial measures, by means of an Imperial Ordinance.
(2) In the case mentioned in the preceding clause, the matter shall be submitted to the Imperial Diet at its next session, and its approbation shall be obtained thereto.


第七十一條
帝國議會ニ於テ豫算ヲ議定セス又ハ豫算成立ニ至ラサルトキハ政府ハ前年度ノ豫算ヲ施行スヘシ

Article 71. When the Imperial Diet has not voted on the Budget, or when the Budget has not been brought into actual existence, the Government shall carry out the Budget of the preceding year.


第七十二條
國家ノ歲出歲入ノ決算ハ會計檢査院之ヲ檢査確定シ政府ハ其ノ檢査報告ト倶ニ之ヲ帝國議會ニ提出スヘシ
會計檢査院ノ組織及職權ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

Article 72. The final account of the expenditures and revenues of the State shall be verified and confirmed by the Board of Audit, and it shall be submitted by the Government to the Imperial Diet, together with the report of verification of the said board.
(2) The organization and competency of the Board of Audit shall of determined by law separately.


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第七章 補則
Chapter VII. Supplementary Rules


第七十三條
將來此ノ憲法ノ條項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝國議會ノ議ニ付スヘシ
此ノ場合ニ於テ兩議院ハ各〻其ノ總員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多數ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ爲スコトヲ得ス

Article 73. When it has become necessary in future to amend the provisions of the present Constitution, a project to the effect shall be submitted to the Imperial Diet by Imperial Order.
(2) In the above case, neither House can open the debate, unless not less than two-thirds of the whole number of Members are present, and no amendment can be passed, unless a majority of not less than two-thirds of the Members present is obtained.


第七十四條
皇室典範ノ改正ハ帝國議會ノ議ヲ經ルヲ要セス
皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ條規ヲ變更スルコトヲ得ス

Article 74. No modification of the Imperial House Law shall be required to be submitted to the deliberation of the Imperial Diet.
(2) No provision of the present Constitution can be modified by the Imperial House Law.


第七十五條
憲法及皇室典範ハ攝政ヲ置クノ間之ヲ變更スルコトヲ得ス
Article 75. No modification can be introduced into the Constitution, or into the Imperial House Law, during the time of a Regency.


第七十六條
法律規則命令又ハ何等ノ名稱ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ總テ遵由ノ効力ヲ有ス
歲出上政府ノ義務ニ係ル現在ノ契約又ハ命令ハ總テ第六十七條ノ例ニ依ル

Article 76. Existing legal enactments, such as laws, regulations, Ordinances, or by whatever names they may be called, shall, so far as they do not conflict with the present Constitution, continue in force.
(2) All existing contracts or orders, that entail obligations upon the Government, and that are connected with expenditure, shall come within the scope of Article 67.



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◇付録:
 現代語訳「大日本帝国憲法-告文・憲法発布勅語・上諭」


告文

わたくしは、皇祖皇宗の御神霊へ謹み畏まってお告げ申し上げます。 わたくしは、天壌無窮、天地のように永遠で不変・普遍なる神慮・理に従い、御神霊の皇位を継承し、伝統を保持し、その理をけっして踏み外すことのないようにいたします。

これまでのことを振り返ってみれば、世の進歩の機運と趨勢を睨みつつ、【生態学的社会構造(自然を媒介とする人と人が取り結ぶ社会的な諸関係性の総体)の変遷に伴いこれまた変化する人間の価値観や行動様式を貫いて、しかし、万古不易たる、現存在としての人間性の本性に遡る】人の人としての道を一人でも多くの臣民が少しでもよりよくまっとうできるようにと心砕かれてきた皇祖皇宗の姿、それを遺訓として明らかにしてまいります。而して、皇室典範と憲法とを制定しその条規を明示し、皇室においては皇祖皇宗の子孫がこの遺訓・前例から外れることなく従うこととし、臣民においてはこの前例・遺訓を遵守する天皇を補佐する道を広めて永遠にそのような心性と姿勢を保つようにして、益々国家の基盤を確固たるものにし、もって、臣民の幸福を増進いたしてまいります。皇室典範および憲法を制定するは、正に、このことの実行に他なりません。深くかえりみるに、これらのことはすべてみな皇祖皇宗がその子孫に遺し給われた統治の模範に従うことでありましょう。そうして、朕が皇位を継承するに及んで、上記のスタイルと心がけとをもって国家統治の取り仕切りを行えていることは、皇祖皇宗および先帝・孝明天皇の威光のおかげでないはずはないのであります。

わたくしは、仰ぎまつりて皇祖皇宗および先帝のお助けを祈願し、あわせて朕の現在および将来の臣民に率先してこの憲法の条規を実行し、これを踏み外すことなどないことをお誓いいたします。

願わくば神々よ、見守って下さいませ。



憲法発布勅語

朕は、国家の隆盛と臣民の幸福こそ喜ばしく光栄なることの核心であると肝に銘じながら、朕が祖宗から受け継いだ大権によって、現在から将来にわたって臣民に対し、この不滅の価値を持つ法典を広く公布する。

深くかえりみるに、朕の祖先、歴代の天皇は、わが臣民の祖先たちの協力・補佐によって、わが帝国を建国し、それを後世に永遠にお与えになった。これはわが神聖なる祖宗の権威・徳力、並びに、臣民の忠実と勇武が、国を愛し公の取り仕切りに従い、もって、光輝あるこの日本の歴史に足跡を残してきた結果に他ならない。 朕は、わが臣民が、それすなわち祖宗の忠実・善良なる臣民の子孫であることに思いめぐらし、朕の意志に身を挺し、朕の事業をすすめ従い、心を一にして協力しつつ、わが帝国の光栄をますます国の内外に広く知らしめ、祖宗の遺業を永久に強固にするという希望を同じくし、その任の分担に耐えられることを毫も疑わない。



上諭

朕は、祖宗の遺烈を承継して万世一系の帝位を継承し、親愛なる朕の臣民はすなわち朕の祖宗が恵みを与え、大事にして、慈しみ、養ってきたところの臣民であることを心に深く念じて、朕もまたその幸福を増進し、その立派な徳質と生まれながらの才能を発達させることを願い、またその補佐によって、君臣ともに国家の進運の事業に邁進することを望む。 而して、このことは、明治十四年十月十二日の勅命を実践することを意味する、すなわち、国の大元となる憲法を制定して、朕がそれを踏み外すことがないように肝に銘じているこの国の前例を示し、朕の子孫および臣民の子孫によって永遠に従い実行してくべき、この国の理を知らしめることだ。

国家統治の大権は朕がこれを祖宗より受け継ぎ、また朕の子孫へと伝えていくものである。朕および朕の子孫は将来にわたって、この憲法の条規に従って国家の統治を行うスタイルを間違っても踏み外すことはないし、踏み外してはならないのである。

朕はわが臣民の権利および財産が守られることの大切さを肝に銘じ、これを保護し、この憲法および法律の範囲内においてその享有を完全にしていくことを宣言する。

帝国議会は明治二十三年をもって召集され、議会開会の時がこれこの憲法の有効となる期日である。

将来、この憲法のある条規を改正する必要が出たときは、朕および朕の継承者がその改正を発議する権限を行使して、これを議会に付さしめ、而して、議会はこの憲法に定められた手続きのルールに則ってこれを議決するのであるが、それ以外の状況と手続き・手段によっては、朕の子孫および臣民は間違ってもいたずらにこの憲法の変更を試みるようなことをしてはならない。

朕の朝廷に勤めている大臣は朕のためにこの憲法を施行するの責任を帯びており、他方、朕の現在および将来の臣民はこの憲法に対し永遠に従順でなければならないという義務を負っているし、また、負わなければならないのである。




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第三章 帝國議會
Chapter III. The Imperial Diet


第三十三條
帝國議會ハ貴族院衆議院ノ兩院ヲ以テ成立ス

Article 33. The Imperial Diet shall consist of two Houses, a House of Peers and a House of Representatives.


第三十四條
貴族院ハ貴族院令ノ定ムル所ニ依リ皇族華族及勅任セラレタル議員ヲ以テ組織ス

Article 34. The House of Peers shall, in accordance with the ordinance concerning the House of Peers, be composed of the members of the Imperial Family, of the orders of nobility, and of those who have been nominated thereto by the Emperor.


第三十五條
衆議院ハ選擧法ノ定ムル所ニ依リ公選セラレタル議員ヲ以テ組織ス

Article 35. The House of Representatives shall be composed of members elected by the people, according to the provisions of the law of Election.


第三十六條
何人モ同時ニ兩議院ノ議員タルコトヲ得ス

Article 36. No one can at one and the same time be a Member of both Houses.


第三十七條
凡テ法律ハ帝國議會ノ協贊ヲ經ルヲ要ス
Article 37. Every law requires the consent of the Imperial Diet.


第三十八條
兩議院ハ政府ノ提出スル法律案ヲ議決シ及各〻法律案ヲ提出スルコトヲ得

Article 38. Both Houses shall vote upon projects of law submitted to it by the Government, and may respectively initiate projects of law.


第三十九條
兩議院ノ一ニ於テ否決シタル法律案ハ同會期中ニ於テ再ヒ提出スルコトヲ得ス

Article 39. A Bill, which has been rejected by either the one or the other of the two Houses, shall not be brought in again during the same session.


第四十條
兩議院ハ法律又ハ其ノ他ノ事件ニ付各〻其ノ意見ヲ政府ニ建議スルコトヲ得但シ其ノ採納ヲ得サルモノハ同會期中ニ於テ再ヒ建議スルコトヲ得ス

Article 40. Both Houses can make representations to the Government, as to laws or upon any other subject. When, however, such representations are not accepted, they cannot be made a second time during the same session.


第四十一條
帝國議會ハ毎年之ヲ召集ス

Article 41. The Imperial Diet shall be convoked every year.


第四十二條
帝國議會ハ三箇月ヲ以テ會期トス必要アル場合ニ於テハ勅命ヲ以テ之ヲ延長スルコトアルヘシ

Article 42. A session of the Imperial Diet shall last during three months. In case of necessity, the duration of a session may be prolonged by the Imperial Order.


第四十三條
臨時緊急ノ必要アル場合ニ於テ常會ノ外臨時會ヲ召集スヘシ
臨時會ノ會期ヲ定ムルハ勅命ニ依ル

Article 43. When urgent necessity arises, an extraordinary session may be convoked in addition to the ordinary one.
(2) The duration of an extraordinary session shall be determined by Imperial Order.


第四十四條
帝國議會ノ開會閉會會期ノ延長及停會ハ兩院同時ニ之ヲ行フヘシ
衆議院解散ヲ命セラレタルトキハ貴族院ハ同時ニ停會セラルヘシ

Article 44. The opening, closing, prolongation of session and prorogation of the Imperial Diet, shall be effected simultaneously for both Houses.
(2) In case the House of Representatives has been ordered to dissolve, the House of Peers shall at the same time be prorogued.


第四十五條
衆議院解散ヲ命セラレタルトキハ勅命ヲ以テ新ニ議員ヲ選擧セシメ解散ノ日ヨリ五箇月以內ニ之ヲ召集スヘシ

Article 45. When the House of Representatives has been ordered to dissolve, Members shall be caused by Imperial Order to be newly elected, and the new House shall be convoked within five months from the day of dissolution.


第四十六條
兩議院ハ各〻其ノ總議員三分ノ一以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開キ議決ヲ爲スコトヲ得ス

Article 46. No debate can be opened and no vote can be taken in either House of the Imperial Diet, unless not less than one-third of the whole number of Members thereof is present.


第四十七條
兩議院ノ議事ハ過半數ヲ以テ決ス可否同數ナルトキハ議長ノ決スル所ニ依ル

Article 47. Votes shall be taken in both Houses by absolute majority. In the case of a tie vote, the President shall have the casting vote.


第四十八條
兩議院ノ會議ハ公開ス但シ政府ノ要求又ハ其ノ院ノ決議ニ依リ祕密會ト爲スコトヲ得

Article 48. The deliberations of both Houses shall be held in public. The deliberations may, however, upon demand of the Government or by resolution of the House, be held in secret sitting.


第四十九條
兩議院ハ各〻天皇ニ上奏スルコトヲ得

Article 49. Both Houses of the Imperial Diet may respectively present addresses to the Emperor.


第五十條
兩議院ハ臣民ヨリ呈出スル請願書ヲ受クルコトヲ得

Article 50. Both Houses may receive petitions presented by subjects.


第五十一條
兩議院ハ此ノ憲法及議院法ニ揭クルモノヽ外內部ノ整理ニ必要ナル諸規則ヲ定ムルコトヲ得

Article 51. Both Houses may enact, besides what is provided for in the present Constitution and in the Law of the Houses, rules necessary for the management of their internal affairs.


第五十二條
兩議院ノ議員ハ議院ニ於テ發言シタル意見及表決ニ付院外ニ於テ責ヲ負フコトナシ但シ議員自ラ其ノ言論ヲ演說刊行筆記又ハ其ノ他ノ方法ヲ以テ公布シタルトキハ一般ノ法律ニ依リ處分セラルヘシ

Article 52. No Member of either House shall be held responsible outside the respective Houses, for any opinion uttered or for any vote given in the House. When, however, a Member himself has given publicity to his opinions by public speech, by documents in print or in writing, or by any other similar means, he shall, in the matter, be amenable to the general law.


第五十三條
兩議院ノ議員ハ現行犯罪又ハ內亂外患ニ關ル罪ヲ除ク外會期中其ノ院ノ許諾ナクシテ逮捕セラルヽコトナシ

Article 53. The Members of both Houses shall, during the session, be free from arrest, unless with the consent of the House, except in cases of flagrant delicto, or of offenses connected with a state of internal commotion or with a foreign trouble.


第五十四條 國務大臣及政府委員ハ何時タリトモ各議院ニ出席シ及發言スルコトヲ得

Article 54. The Ministers of State and the Delegates of the Government may, at any time, take seats and speak in either House.


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第四章 國務大臣及樞密顧問
Chapter IV. The Ministers Of State And The Privy Council


第五十五條
國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス

Article 55. The respective Ministers of State shall give their advice to the Emperor, and be responsible for it.
(2) All Laws, Imperial Ordinances, and Imperial Rescripts of whatever kind, that relate to the affairs of the state, require the countersignature of a Minister of State.


第五十六條
樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ應ヘ重要ノ國務ヲ審議ス

Article 56. The Privy Councilors shall, in accordance with the provisions for the organization of the Privy Council, deliberate upon important matters of State when they have been consulted by the Emperor.


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第五章 司法
Chapter V. The Judicature


第五十七條
司法權ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ
裁判所ノ構成ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

Article 57. The Judicature shall be exercised by the Courts of Law according to law, in the name of the Emperor.
(2) The organization of the Courts of Law shall be determined by law.


第五十八條
裁判官ハ法律ニ定メタル資格ヲ具フル者ヲ以テ之ニ任ス
裁判官ハ刑法ノ宣告又ハ懲戒ノ處分ニ由ルノ外其ノ職ヲ免セラルヽコトナシ
懲戒ノ條規ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

Article 58. The judges shall be appointed from among those, who possess proper qualifications according to law.
(2) No judge shall be deprived of his position, unless by way of criminal sentence or disciplinary punishment.
(3) Rules for disciplinary punishment shall be determined by law.


第五十九條
裁判ノ對審判決ハ之ヲ公開ス但シ安寧秩序又ハ風俗ヲ害スルノ虞アルトキハ法律ニ依リ又ハ裁判所ノ決議ヲ以テ對審ノ公開ヲ停ムルコトヲ得

Article 59. Trials and judgments of a Court shall be conducted publicly. When, however, there exists any fear, that such publicity may be prejudicial to peace and order, or to the maintenance of public morality, the public trial may be suspended by provisions of law or by the decision of the Court of Law.


第六十條
特別裁判所ノ管轄ニ屬スヘキモノハ別ニ法律ヲ以テ之ヲ定ム

Article 60. All matters that fall within the competency of a special Court, shall be specially provided for by law.


第六十一條
行政官廳ノ違法處分ニ由リ權利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟ニシテ別ニ法律ヲ以テ定メタル行政裁判所ノ裁判ニ屬スヘキモノハ司法裁判所ニ於テ受理スルノ限ニ在ラス

Article 61. No suit at law, which relates to rights alleged to have been infringed by the illegal measures of the administrative authorities, and which shall come within the competency of the Court of Administrative Litigation specially established by law, shall be taken cognizance of by Court of Law.


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<続く>


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第一章 
天皇
Chapter I. The Emperor


第一條
大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス

Article 1. The Empire of Japan shall be reigned over and governed by a line of Emperors unbroken for ages eternal.


第二條
皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス

Article 2. The Imperial Throne shall be succeeded to by Imperial male descendants, according to the provisions of the Imperial House Law.


第三條
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

Article 3. The Emperor is sacred and inviolable.


第四條
天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ

Article 4. The Emperor is the head of the Empire, combining in Himself the rights of sovereignty, and exercises them, according to the provisions of the present Constitution.


第五條
天皇ハ帝國議會ノ協贊ヲ以テ立法權ヲ行フ

Article 5. The Emperor exercises the legislative power with the consent of the Imperial Diet.


第六條
天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス

Article 6. The Emperor gives sanction to laws, and orders them to be promulgated and executed.


第七條
天皇ハ帝國議會ヲ召集シ其ノ開會閉會停會及衆議院ノ解散ヲ命ス

Article 7. The Emperor convokes the Imperial Diet, opens, closes, and prorogues it, and dissolves the House of Representatives.


第八條
天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル爲緊急ノ必要ニ由リ帝國議會閉會ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ發ス
此ノ勅令ハ次ノ會期ニ於テ帝國議會ニ提出スヘシ若議會ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ將來ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ

Article 8. The Emperor, in consequence of an urgent necessity to maintain public safety or to avert public calamities, issues, when the Imperial Diet is not sitting, Imperial ordinances in the place of law.
(2) Such Imperial Ordinances are to be laid before the Imperial Diet at its next session, and when the Diet does not approve the said Ordinances, the Government shall declare them to be invalid for the future.


第九條
天皇ハ法律ヲ執行スル爲ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ進スル爲ニ必要ナル命令ヲ發シ又ハ發セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ變更スルコトヲ得ス

Article 9. The Emperor issues or causes to be issued, the Ordinances necessary for the carrying out of the laws, or for the maintenance of the public peace and order, and for the promotion of the welfare of the subjects. But no Ordinance shall in any way alter any of the existing laws.


第十條
天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ揭ケタルモノハ各〻其ノ條項ニ依ル

Article 10. The Emperor determines the organization of the different branches of the administration, and salaries of all civil and military officers, and appoints and dismisses the same. Exceptions especially provided for in the present Constitution or in other laws, shall be in accordance with the respective provisions (bearing thereon).


第十一條
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

Article 11. The Emperor has the supreme command of the Army and Navy.


第十二條
天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム

Article 12. The Emperor determines the organization and peace standing of the Army and Navy.


第十三條
天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス

Article 13. The Emperor declares war, makes peace, and concludes treaties.


第十四條
天皇ハ戒嚴ヲ宣告ス
戒嚴ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

Article 14. The Emperor declares a state of siege.
(2) The conditions and effects of a state of siege shall be determined by law.


第十五條
天皇ハ爵位勳章及其ノ他ノ榮典ヲ授與ス
Article 15. The Emperor confers titles of nobility, rank, orders and other marks of honor.


第十六條
天皇ハ大赦特赦減刑及復權ヲ命ス

Article 16. The Emperor orders amnesty, pardon, commutation of punishments and rehabilitation.


第十七條
攝政ヲ置クハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル
攝政ハ天皇ノ名ニ於テ大權ヲ行フ

Article 17. A Regency shall be instituted in conformity with the provisions of the Imperial House Law.
(2) The Regent shall exercise the powers appertaining to the Emperor in His name.


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第二章 臣民權利義務
Chapter II. Rights And Duties Of Subjects


第十八條
日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル

Article 18. The conditions necessary for being a Japanese subject shall be determined by law.


第十九條
日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ應シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得

Article 19. Japanese subjects may, according to qualifications determined in laws or ordinances, be appointed to civil or military or any other public offices equally.


第二十條
日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ從ヒ兵役ノ義務ヲ有ス

Article 20. Japanese subjects are amenable to service in the Army or Navy, according to the provisions of law.


第二十一條
日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ納稅ノ義務ヲ有ス

Article 21. Japanese subjects are amenable to the duty of paying taxes, according to the provisions of law.


第二十二條
日本臣民ハ法律ノ範圍內ニ於テ居住及移轉ノ自由ヲ有ス

Article 22. Japanese subjects shall have the liberty of abode and of changing the same within the limits of the law.


第二十三條
日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問處罰ヲ受クルコトナシ

Article 23. No Japanese subject shall be arrested, detained, tried or punished, unless according to law.


第二十四條
日本臣民ハ法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ權ヲ奪ハルヽコトナシ

Article 24. No Japanese subject shall be deprived of his right of being tried by the judges determined by law.


第二十五條
日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外其ノ許諾ナクシテ住所ニ侵入セラレ及搜索セラルヽコトナシ

Article 25. Except in the cases provided for in the law, the house of no Japanese subject shall be entered or searched without his consent.


第二十六條
日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ祕密ヲ侵サルヽコトナシ

Article 26. Except in the cases mentioned in the law, the secrecy of the letters of every Japanese subject shall remain inviolate.


第二十七條
日本臣民ハ其ノ所有權ヲ侵サルヽコトナシ
公益ノ爲必要ナル處分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル

Article 27. The right of property of every Japanese subject shall remain inviolate.
(2) Measures necessary to be taken for the public benefit shall be any provided for by law.


第二十八條
日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

Article 28. Japanese subjects shall, within limits not prejudicial to peace and order, and not antagonistic to their duties as subjects, enjoy freedom of religious belief.


第二十九條
日本臣民ハ法律ノ範圍內ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス

Article 29. Japanese subjects shall, within the limits of law, enjoy the liberty of speech, writing, publication, public meetings and associations.


第三十條
日本臣民ハ相當ノ敬禮ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ從ヒ請願ヲ爲スコトヲ得

Article 30. Japanese subjects may present petitions, by observing the proper forms of respect, and by complying with the rules specially provided for the same.


第三十一條
本章ニ揭ケタル條規ハ戰時又ハ國家事變ノ場合ニ於テ天皇大權ノ施行ヲ妨クルコトナシ

Article 31. The provisions contained in the present Chapter shall not affect the exercises of the powers appertaining to the Emperor, in times of war or in cases of a national emergency.


第三十二條
本章ニ揭ケタル條規ハ陸海軍ノ法令又ハ紀律ニ牴觸セサルモノニ限リ軍人ニ準行ス

Article 32. Each and every one of the provisions contained in the preceding Articles of the present Chapter, that are not in conflict with the laws or the rules and discipline of the Army and Navy, shall apply to the officers and men of the Army and of the Navy.


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<続く>

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旧憲法、「大日本帝国憲法」のテクストを収録します。英文は、憲法起草プロジェクトの中心、伊藤博文の著書『憲法義解』(1889)の英訳本『Commentaries on the constitution of the empire of Japan』(1889)のものです。翻訳者は、これまた、井上毅・金子堅太郎の両氏とともに旧憲法の起草者の一人とされる伊東巳代治。旧憲法の英文は下記サイトに搭載されています。

・Hanover Historical Texts Project
(Scanned by Jonathan Dresner, Harvard University)
 http://history.hanover.edu/texts/1889con.html

・Project Gutenberg
 http://www.gutenberg.org/catalog/world/readfile?fk_files=1443010


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この英文に関しては、上記Project Gutenbergに「The above is the semi-official translation, which appeared in H.Ito, Commentaries on the Constitution of the Empire of Japan, trans. M. Ito, 1889.」と述べられている通り、本書『憲法義解: Commentaries on the constitution of the empire of Japan』は伊藤博文の私著の体裁を取ってはいるものの(当時の日本にとって所謂「不平等条約」の改正が最大級の懸案事項だったこともあり)、明治政府は、この「旧憲法の準公式英文テクスト」を欧米の憲法学・国家論の主要な研究者に寄贈しており、加之、明治政府中枢の意向を受けた、ハーバード大学の卒業生でもある金子堅太郎はこの「準公式英文テクスト」を携えて欧米に赴き近代化する日本の姿をアピールして廻った由。

すなわち、この英文も、

б(≧◇≦)ノ ・・・「坂の上の雲」してるじゃん!
б(≧◇≦)ノ ・・・大日本帝国憲法の制定は憲法の日本海海戦だぁー!
б(≧◇≦)ノ ・・・大日本帝国憲法の制定は国家論の奉天決戦だぁー!

と、そう私は考えます。


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而して、現行の「日本国憲法」に対しては、その制定に至る経緯からか、些か皮肉も込めて、日本国憲法はGHQの草案を元に、というか、その和訳としてできたのだから「日本語テクストではなく英文テクストの方が、寧ろ、正本である」という声を聞くことがあります。実際、私は現行憲法の解釈に関しては日本語本文は不要とか邪魔とまでは言いませんが、基本的には英文テクストを元に議論した方が生産的、鴨。と、思わないではありません。それが、憲法を作ってくださったマッカーサー元帥に対する礼儀だろう、とも。

けれども、この「大日本帝国憲法」の英文テクストを紐解くとき、1889年、明治22年の段階で、結果から言えば、そう、日清戦争を5年後、日露戦争を15年後に控えていたこの時代の日本で、和文にせよ英文にせよこのテクストを理解できた人士が国民の何%程いたかを想起するとき、換言すれば、この憲法典が取りあえずどんなタイプの読者を念頭に置いて書かれたかに思いを馳せるとき、「日本語テクストではなく英文テクストの方が、寧ろ、正本である」という事情は、現行憲法だけではなく旧憲法についても同様だったの、鴨。

と、そう感じないではありません。間違いなく、1889年時点で起草者が想定していた読者の過半は欧米の研究者や外交官、すなわち、欧米列強の指導者とそのブレーンだったと私は考えますから。

以下、「大日本帝国憲法」の英文テクストの紹介。但し、読者の便宜とこのエントリー記事の利用方法の幅を広げるため、日英対訳形式で(かつ、資料としての価値を保つために和文は旧字旧仮名遣いの原典のままで)紹介させていただくことにしました。而して、その代わりに、本最終記事④の末尾に、付録として「告文・憲法発布勅語・上諭」の現代語訳を収めさせていただきました。ご了承ください。



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大日本帝国憲法(明治22年2月11日公布)
The Constitution of the Empire of Japan, 1889 by Japan



告文
Imperial Oath Sworn in the Sanctuary in the Imperial Palace
(Tsuge-bumi)


皇朕レ謹ミ畏ミ
皇祖
皇宗ノ神靈ニ誥ケ白サク皇朕レ天壤無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ寶祚ヲ承繼シ舊圖ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ發達ニ隨ヒ宣ク
皇祖
皇宗ノ遺訓ヲ明徵ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示シ內ハ以テ子孫ノ率由スル所ト爲シ外ハ以テ臣民翼贊ノ道ヲ廣メ永遠ニ遵行セシメ益〻國家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ進スヘシ玆ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆
皇祖
皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス而シテ朕カ躬ニ逮テ時ト倶ニ擧行スルコトヲ得ルハ洵ニ
皇祖
皇宗及我カ
皇考ノ威靈ニ倚藉スルニ由ラサルハ無シ皇朕レ仰テ
皇祖
皇宗及
皇考ノ神祐ヲ禱リ倂セテ朕カ現在及將來ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラムコトヲ誓フ庶幾クハ
神靈此レヲ鑒ミタマヘ

We, the Successor to the prosperous Throne of Our Predecessors, do humbly and solemnly swear to the Imperial Founder of Our House and to Our other Imperial Ancestors that, in pursuance of a great policy co-extensive with the Heavens and with the Earth, We shall maintain and secure from decline the ancient form of government.

In consideration of the progressive tendency of the course of human affairs and in parallel with the advance of civilization, We deem it expedient, in order to give clearness and distinctness to the instructions bequeathed by the Imperial Founder of Our House and by Our other Imperial Ancestors, to establish fundamental laws formulated into express provisions of law, so that, on the one hand, Our Imperial posterity may possess an express guide for the course they are to follow, and that, on the other, Our subjects shall thereby be enabled to enjoy a wider range of action in giving Us their support, and that the observance of Our laws shall continue to the remotest ages of time. We will thereby to give greater firmness to the stability of Our country and to promote the welfare of all the people within the boundaries of Our dominions; and We now establish the Imperial House Law and the Constitution. These Laws come to only an exposition of grand precepts for the conduct of the government, bequeathed by the Imperial Founder of Our House and by Our other Imperial Ancestors. That we have been so fortunate in Our reign, in keeping with the tendency of the times, as to accomplish this work, We owe to the glorious Spirits of the Imperial Founder of Our House and of Our other Imperial Ancestors.

We now reverently make Our prayer to Them and to Our Illustrious Father, and implore the help of Their Sacred Spirits, and make to Them solemn oath never at this time nor in the future to fail to be an example to our subjects in the observance of the Laws hereby established.

May the heavenly Spirits witness this Our solemn Oath.


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憲法發布勅語
Imperial Rescript on the Promulgation of the Constitution


朕國家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣榮トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大權ニ依リ現在及將來ノ臣民ニ對シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス

Whereas We make it the joy and glory of Our heart to behold the prosperity of Our country, and the welfare of Our subjects, We do hereby, in virtue of the Supreme power We inherit from Our Imperial Ancestors, promulgate the present immutable fundamental law, for the sake of Our present subjects and their descendants.


惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝國ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威ト竝ニ臣民ノ忠實勇武ニシテ國ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル國史ノ成跡ヲ貽シタルナリ朕我カ臣民ハ卽チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ囘想シ其ノ朕カ意ヲ奉體シ朕カ事ヲ奬順シ相與ニ和衷協同シ益〻我カ帝國ノ光榮ヲ中外ニ宣揚シ祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシムルノ希望ヲ同クシ此ノ負擔ヲ分ツニ堪フルコトヲ疑ハサルナリ

The Imperial Founder of Our House and Our other Imperial ancestors, by the help and support of the forefathers of Our subjects, laid the foundation of Our Empire upon a basis, which is to last forever. That this brilliant achievement embellishes the annals of Our country, is due to the glorious virtues of Our Sacred Imperial ancestors, and to the loyalty and bravery of Our subjects, their love of their country and their public spirit. Considering that Our subjects are the descendants of the loyal and good subjects of Our Imperial Ancestors, We doubt not but that Our subjects will be guided by Our views, and will sympathize with all Our endeavors, and that, harmoniously cooperating together, they will share with Us Our hope of making manifest the glory of Our country, both at home and abroad, and of securing forever the stability of the work bequeathed to Us by Our Imperial Ancestors.


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上諭
Preamble [or Edict] (Joyu)


朕租宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ踐ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ租宗ノ惠撫慈シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ健ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ發達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼贊ニ依リ興ニ倶ニ國家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履踐シ玆ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム

Having, by virtue of the glories of Our Ancestors, ascended the throne of a lineal succession unbroken for ages eternal; desiring to promote the welfare of, and to give development to the moral and intellectual faculties of Our beloved subjects, the very same that have been favored with the benevolent care and affectionate vigilance of Our Ancestors; and hoping to maintain the prosperity of the State, in concert with Our people and with their support, We hereby promulgate, in pursuance of Our Imperial Rescript of the 12th day of the 10th month of the 14th year of Meiji, a fundamental law of the State, to exhibit the principles, by which We are guided in Our conduct, and to point out to what Our descendants and Our subjects and their descendants are forever to conform.


國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ租宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傅フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ將來此ノ憲法ノ條章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ

The right of sovereignty of the State, We have inherited from Our Ancestors, and We shall bequeath them to Our descendants. Neither We nor they shall in the future fail to wield them, in accordance with the provisions of the Constitution hereby granted.


朕ハ我カ臣民ノ權利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律の範圍内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス

We now declare to respect and protect the security of the rights and of the property of Our people, and to secure to them the complete enjoyment of the same, within the extent of the provisions of the present Constitution and of the law.


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帝國議會ハ明治二十三年ヲ以テ之ヲ召集シ議會開會ノ時ヲ以テ此ノ憲法ヲシテ有效ナラシムルノ期トスヘシ

The Imperial Diet shall first be convoked for the 23rd year of Meiji and the time of its opening shall be the date, when the present Constitution comes into force.


將來若此ノ憲法ノ或條章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ繼統ノ子孫ハ發議ノ權ヲ執リ之ヲ議會ニ付シ議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ

When in the future it may become necessary to amend any of the provisions of the present Constitution, We or Our successors shall assume the initiative right, and submit a project for the same to the Imperial Diet. The Imperial Diet shall pass its vote upon it, according to the conditions imposed by the present Constitution, and in no otherwise shall Our descendants or Our subjects be permitted to attempt any alteration thereof.


朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ爲ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及將來ノ臣民ハ此ノ憲法ニ對シ永遠ニ從順ノ義務ヲ負フヘシ

Our Ministers of State, on Our behalf, shall be held responsible for the carrying out of the present Constitution, and Our present and future subjects shall forever assume the duty of allegiance to the present Constitution.


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<続く>


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儒教とは何か? 『儒教とは何か』(中公新書・1990年10月)の著者の加地伸行・大阪大学名誉教授(同志社大学フェロー)はこう述べられる。「儒は、招魂儀礼という古今東西に存在する呪術を生命論に構成し、死の恐怖や不安を解消する説明を行うことに成功した」(同書p.21)、「世界共通のこの招魂儀礼を基礎にして、一大理論体系を作っていったのである」(同書p.19)、「生命論としての孝を基礎として、後の儒教はその上に家族倫理(家族理論)を作り、さらにその上に、社会倫理(政治理論)を作ったのである。後世になり十二世紀の新儒教になると、さらにその上に宇宙論・形而上学まで作るようになった」(同書pp.21-22)、と。

儒教は日本人に執拗につきまとってくる問題である。なぜか? 恐らくそれは、長い歴史の中で、さらに、加地先生の言葉を借りれば同じ「東北アジア人」たる日本人の世界観や感性と共鳴することによって、儒教は言わば<レトロウィルス的>に作用して、最早、日本人の精神構造の一部になっているからだと私は考える。

而して、日本的な世界観とこの後天的に獲得された儒教的な世界観の間の軋轢は(それはいわば、儒教の更なる日本化のプロセスに他ならないけれど)、現在も続いており;明治維新や大東亜戦争後の占領期等の変革期には社会思想の主要なテーマとして意識されてきたのではないか。蓋し、21世紀初頭の日本でも社会の構造改革と戦後を支配した空想的平和論からの脱却の動きの中で儒教は再び思想のメインテーマになりつつある。私にはそう思われる。


◆本書の概要
本書の中核は「儒教は宗教である」という主張に尽きると思う。「はじめに――葬式と儒教と」から「序章 儒教における死」「第一章 儒教の宗教性」「第二章 儒教文化圏」および「第三章 儒教の成立」の第5節にいたるまで(更には、終章「儒教と現代」をも含めて、それは本書の三分の一を占めている)、これすべてこの主張の敷衍であると言っても過言ではない。私なりに著者の主張をパラフレーズすれば、儒教は宗教であり;宗教という最も人間精神の根源的な部面にコミットしているからこそ儒教は東北アジア人に対して広く深く、かつ、長きに渡って影響を及ぼしてきた、と。

著者は「儒教の宗教性」を基底に据えた上で、儒教を「宗教性」と「礼教性」の重層的な思想の統一体として理解する(同書p.21, p.76, p.214の図版参照)。私なりに要約すれば;現在、大なり小なり東北アジアの儒教文化圏でも社会規範や国家の制度の基盤としての「儒教の礼教性」は崩壊しつつある:けれども、「儒教の宗教性」はしたたかに生き残っている:否、欧米流の思想から自己のアイデンティティを護る防波堤として「儒教の宗教性」は、ある意味、強化され向自化される(自分と関係あるものとして明確に意識される)傾向さえある、と。これが著者の現在の東アジアにおける儒教文化圏認識ではないかと思う。

儒教の原点としての「宗教性」、そして、「宗教性」と「礼教性」の統一体としての儒教理解。この強固なフレームを打ち立てた後、著者は、言わば<思想の増改築のダイナミックス>として儒教思想の発展を捉えられる。而して、その説明が通史的記述を通して読者に与えられる。それは(一)原儒時代、(二)儒教成立時代、(三)経学時代、(四)儒教の内面化時代(同書p.50)による時代区分である。蓋し、本書は<宗教としての儒教>を縦糸に<宗教と礼教の統一体たる儒教の絶えざる発展運動>という歴史的経緯を横糸にして、(もちろん、簡単ではないが)明晰かつ論理的に編み上げられた儒教入門である。


◆本書が書かれた背景と著者の意図
本書は、所謂<儒教文化圏論>がホットイシューであった1990年、当時、経済発展著しいAsia NIES(亜細亜新工業地域・国家)に世界の関心が集まる中で上梓された。日本を除いて、共産主義独裁か開発独裁の形態でしか東アジアの人々は国家を運営できず、まして、マックス・ウェーバーの語る合理的で禁欲的なエートスに基盤を置く資本主義を日本以外の東アジア諸国は実現できないという大方の予想に反して、韓国・台湾・香港・新嘉坡が目覚しい経済発展を達成していることに世界が注目する中で本書は登場したのである。

それから幾星霜。韓国がIMF管理下に置かれるなど1997-1998年に顕在化したアジア経済の失速や日本の失われた90年代を経て、現下の中国のほとんどバブル終末期の様相を呈する経済発展と小泉構造改革による我が日本経済の回復;そして、国際法や確立した国際慣行を真っ向から否定する中韓朝の特定アジア三国の中華思想への嫌悪の高まりの中で中華思想の基盤でもある儒教(≒朱子学)への関心も再び高まっている。けれども、本書はそのような国際政治や経済の有為転変とは関係なく読まれ続けてきた。実際、昨日、地元新百合ヶ丘のある書肆で確認した所、2005年3月15日段階で本書は22版を重ねている。専門書研究書ではないにせよ硬派の書籍としては本書は破格のベストセラーなのである。

加地先生は本書執筆の抱負と意図をこう述べられている。「独自の儒教論を構成しつつ中国哲学史を全体として把握する仕事は絶ちがたい魅力あるものであった。ひとたび学を志した以上、こうした無謀な挑戦を望まない者があるであろうか。私は開き直って猛勉強した。(中略)目的はただ一つ――儒教の単なる事実の歴史を書くのではなくて、なぜそうなったのか、その理由を解析して有機的に体系的に儒教を論ずることであった」(同書p.266)、と。蓋し、この意図は本書『儒教とは何か』に美しく結晶したと私は思う。

畢竟、本書は儒教の全体像を掴みそのエッセンスを理解するためには最高の一書である。私のような素人が言うまでもないが、その評価も定まっていると思う。もちろん、<儒>の原初的な形態やそれを受け継いだ孔子以下の儒家の生活や活動を理解するためには(加地先生ご自身が「日本が世界の学界に誇る成果」(同書p.38)と絶賛されている通り)、白川静先生の研究;一般書としては『孔子伝』(中公文庫・1991年1月、初版は1972年11月)に優るものはないかもしれない。それは、老荘に始まる道教をして、実は、孔子最晩年の思想の嫡出子であることを示された白川先生のアイデアの卓抜さについても言えると思う。しかし、儒教思想を通史の形で提示する一般読者を対象とした書籍を私は本書以外に寡聞にして知らない。


◆本書の守備範囲と私家版覚書
本書にも、しかし、限界はある。それは、孟子から朱子学に至る経学時代の説明(本書第四章と第五章「経学の時代」)が手薄という技術的なポイントだけではなく、もっと現実的なものである。

例えば、特定アジア三国が振りかざす中華思想をどう我々日本人は理解し対処すればよいのか。あるいは、同じく儒教の影響を受けている我が神州の政治思想と社会思想は彼等特定アジアのそれとどう異なるのか/なぜ異なるのか;なぜに、日本では仏教が栄え現在に至っているのに特定アジアでは仏教は衰退したのか:なぜに、日本では欧米の法制度の継受が成功したのに特定アジアでは現在に至るまで「法の何たるか」が理解されないでいるのか。そして、我が神州は日本の独自性をどう理解して、欧米が作り上げてきた政治思想や社会思想または実定国際法や確立した国際慣習といかに折り合いをつけていけばよいのか。これら現実具体的な問題を考える際に本書はそう使い勝手のよいものではない。

しかし、大急ぎで言い足しておくけれど、『儒教とは何か』は上で述べた現実具体的な問題を考えるためにも有効である。少なくとも問題のパースペクティブを獲得するためには本書は秀逸である。この経緯は、カーライルが談じたように「太陽が葉巻に火をつけるのに直接役立たないからと言って、太陽が無用なものだと考える人はそう多くはないだろう」ということに近い。蓋し、これは、一冊の書物や一人の政治家や思想家に余り多くを期待すべきではないという真理の適例でもあろう。

では、本書をベースキャンプとして儒教を考える時、どんな問題が日本人に課されているだろうか。私家版の覚書のつもりで2点記しておく。

(甲)日本の法制度と法意識の柔構造
律令の(その法体系内の例外と追加規定である格式を含む)法体系は明治維新直後まで法的拘束力を持っていた;武家諸法度等の武家法と地域の法と律令とは共存し協働していた。近年明らかになっているこの事実を鑑みる時、日本法のこの柔構造は、コモンローとエクイティの協働によって極めて合理的で合道理的とも言うべき法体系を発展させてきた英米法との共通性を感じさせないだろうか。あるいは、ローマ法を継受しながらも古来のゲルマン法と融合させつつ自生的な秩序を構築したドイツ法との類似性をも見出せるのではないか。ならば、明治維新と大東亜戦争後に欧米の法制度の継受に成功した日本と未だに「法の何たるか」が理解できないでいる特定アジア諸国との彼我の差はこの重層的な法の柔構造に起因するのかもしれない。

(乙)家制度を貫く日本のあの世観
福翁(=福沢諭吉)は「封建制度(門閥制度)は親の仇」と述べたというが、島崎藤村の『夜明け前』を紐解くまでもなく、また、大東亜戦争後の民法の親族・相続編(民法第4編と5編)の改正においても<家>は日本の封建遺制と考えられ儒教と結び付けられてきた。

しかし、夫婦別姓論議を通してこれまた世間の常識になったことであるけれど、本来の儒教の教えに従えば、「氏族本貫を異にする夫婦は別姓であるべき」なのであり、血の連続に価値を置く儒教から見れば、DNAを異にする異姓の養子を向かえ<家>を維持するなどは(実際、江戸期の商家には、DNAのつながる息子は他家に出した上で、代々、一番優秀な使用人を養子に向かえ新当主にする慣行を持つところさえ珍しくなかった)、儒教的にはトンデモな事態である。では、なぜに、このような儒教の日本的変容が(=それは氏族やDNAからの<家>の分離であろうが)起きたのか?

私は、そこに日本人特有の<あの世観>と<現世-来世観>が与して力あったと考えている。梅原猛『日本人の魂 あの世を観る』などの通俗書にも紹介されている日本人特有のあの世観のことである;それは、儒教式の「死者が抽象的な魂魄として、しかも、死後も個性を失わずこの世を浮遊放浪しているイメージ」ではなく、あの世もこの世もほとんど同じ、かつ、双方が相互に関係している具体的な世界であり、また、死者は個性を徐々に失い祖霊集合に吸収されるあの世観である。この日本的なあの世観からは、この世とあの世の繁栄の基軸たる<家組織>の価値が当主のDNAの連続を守ることよりも上に置かれることはそう不思議ではないし、逆に、<家たる神州>の一体性と連続性を皇孫DNAの連続の姿を取りながらも象徴するパラドクスを理解することも可能ではないだろうか。


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尚、中華思想、および、支那の国家論、就中、現下の支那の社会思想の変容に関する
私の基本的認識に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

また、本書『儒教とは何か』の核心というべきメッセージ、
すなわち、「儒教の宗教性=<死>の取り扱い説明の体系」の点に関しては、
下記の再後者が参考になると思います。

・<中国>という現象☆中華主義とナショナリズム(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59895258.html

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html

・元キャンディーのスーちゃんのメッセージに結晶する<神学>と<哲学>の交点
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60426613.html


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ジャンル : 政治・経済




◆国際法における個人の戦後補償請求権の内容

ここで再度、オランダ人戦後補償請求権事件控訴審判決から引用しておきましょう。国際法における個人の存在についての通説が簡潔明瞭に述べられていると考えるから。すなわち、「個人は、国際法においてその権利、義務について具体的な規定が置かれたときに、例外的に国際法上の法主体性が認められるにとどまるのである」、と。

そして、判決をもう一つ。第2次世界大戦中に捕虜の監視に携わり、BC級戦犯として処刑・拘禁された旧日本軍軍属の韓国人やその遺族が、日本政府を相手に憲法に基づく国家補償などを求めた訴訟(旧日本軍軍属韓国人・韓国人遺族の国家補償請求事件)で、最高裁第一小法廷は、「戦争による犠牲や損害に対する補償は憲法の予想しないところで、補償の要否、補償のあり方は立法府の裁量的判断にゆだねられている」(最高裁平成13年11月22日判決)と述べ、元軍属らの上告を棄却しました。

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蓋し、これらは、最高独立の主権国家を中心とする国際関係と整合的な国際法を前提とする現行の日本国憲法に関する妥当な解釈であろうと思います。而して、重要なことは、このような国際法理解や憲法解釈は日本だけで通用するローカルなものではないことです。

旧日本軍軍属韓国人・韓国人遺族の国家補償請求事件最高裁判決は日本法特有の帰結ではない。否、寧ろ、高木さんの議論の方が、戦後民主主義が支配した戦後日本に特有なローカルで異様なものと言うべきでしょう。

実際、日本の裁判所でゼロ回答を喰らった戦争被害者の中には米国で訴訟を提訴した方も少なくない。特に、カリフォルニア州の裁判所は一時、日本企業や日本政府を訴える彼等の提訴の嵐状態でした。なぜならば、「世界中の誰もが、戦争被害に関してナチス・ドイツおよびその同盟国だった国(日本はもちろんここに入る。)をカリフォルニア州内の裁判所に提訴できる」という州法が1997年に発効し、また、1999年にはこの法律の損害賠償請求の時効を2010年まで延長する州法が成立しましたから。

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で、その結果は?
はい、正義は曲解に優り道理は妄想に勝つのです。

すなわち、(α1)サンフランシスコ平和条約によって被害国は日本への賠償請求権を放棄しているか、または、(α2)別途2国間条約によって取り決められた賠償金を日本政府は全額完済している(もし、韓国が「日韓基本条約」を破棄するというのならば、この唯一の例外が北朝鮮になります)。

よって、(β)個々の戦争被害者には更なる賠償請求権自体が存在しない。而して、(γ)戦争被害者が日本から戦争に絡んで受けた被害についてその補償を受けたいのであれば、(それを可能にする被害者の属する国の国内法の存在を前提に)自国政府に請求するしか道は残っていないのですよぉー、と。 


アメリカでも大方の裁判所はそう判断を下したのです。例えば、2001年9月19日、米国のサンフランシスコ連邦地裁は、フィリッピンの戦争被害者達が第二次大戦中の強制労働に対する賠償を日本政府および日本企業に求めていた裁判で、この理路にさえ踏み込むことなくその訴えを棄却しました。「このような損害賠償案件を米国の裁判所で争うことは、米国連邦政府の外交権限を侵すことになり、戦時中のナチス・ドイツとその同盟国による強制労働等の戦争被害者は世界のどこの国の国民でもカリフォルニア州の裁判所に提訴できるとしたカリフォルニア州法は無効である」、と。

畢竟、「個人の補償請求権を認め、個人が加害国に直接損害賠償を請求できることを認めることが確立しつつある国際法の潮流である」などという高木さんの主張は、国際法的にも国内法的にも<虚偽>というほかないのです。

尚、老婆心ながら書き足しておけば、上記のサンフランシスコ連邦地裁の判決は、その訴えがフィリッピン人であるか韓国人であるか、要は、外国人であれ、戦後アメリカに帰化した韓国系アメリカ人であるかによってその帰結が変わることはないのですよ。為念。



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◆小括・雑感-「化石」としての戦後民主主義-

いずれにせよ、戦後民主主義が紡ぎ出した「戦争責任/戦後責任」論が国際法的な根拠を欠くものであること、並びに、国際的に見ても極めて我田引水の妄想であることは明らかでしょう。ならば、実際、所謂「従軍慰安婦」なるものが「砂上の楼閣」どころか「蜃気楼」や「空中楼閣」でしかないことが明らかになって久しい現在、彼等は本来どう行動すべきなのか。

而して、例えば、組織の危機管理に少しでも携わった経験のある方なら、

(a)事実がはっきりするまでは「遺憾の意」を表しても「謝罪」はしない
(b)「クレーム:要求」と「くれーむ:苦情」、並びに、「問い合わせ」の窓口の1本化と、
  窓口担当の権限と責任の組織内部での明確化
(c)疑惑が事実であることが明らかになった段階では、率直かつ大胆な「謝罪」と、
  まだ世間には知られていない、自分に不利な事実の早め早めの公表
(d)事態を巡る現状を「自分の言葉で平明・明確に言語化」し、都度それをアップデートすること、
  そして、その<物語>の組織内外への広報の徹底


等々、これが組織の危機管理のイロハのイであることは皮膚感覚でお分かりだと思います。

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アメリカのMBAで危機管理の古典的ケースとして有名な「ジョンソン・アンド・ジョンソンケース」(1982年に自社の鎮痛剤に青酸化合物を混入されたという疑惑が浮上した時に、約1億ドルをかけて商品を回収し、積極的に「買わないで下さい」と全米に広報した結果、こうして信用を守ったことへの神様のご褒美として同社のPL/BSは事件後瞬く間に回復した事例)を持ち出すまでもなく、(a)~(d)はビジネスの常識。

それだからでもありましょうか、

理想的とはとても言えないけれど、(また、そこに至るまでは紆余曲折はあったにせよ、)だから、ロシアもカチンの森事件を謝罪し、他方、ポーランドとチェコとスロバキアは第二次世界大戦の終戦に際してのドイツ人・ドイツ系市民に対する暴行陵辱を認め謝罪した。

あるいは、ソ連崩壊に伴い明らかになった、「やはり、マッカーシーはソ連のスパイ活動を防ぎ、アメリカの安全に貢献した」というマッカーシー再評価に対して、アメリカの大方のリベラル派も(そう、日本において、「東条英機元首相再評価」につながり得る、ある映画に対して浴びせかけられた如き下品で独善的、かつ、)教条主義的な異議は唱えませんでした・・・。   


而して、「真面目な」とか「誠実な」とかではなくとも、少なくとも、彼等が「目端の利く組織人」「普通の健全なずるさを備えたビジネスマン」なら、所謂「従軍慰安婦」問題に群がった左翼・リベラル派は、率先して/積極的に、今までの自己の言説を訂正すべきなのです。

繰り返しますが、これは綺麗事ではない。綺麗事ではなく、それが組織や運動にとって得なのだから。でも、でもね、朝日新聞や高木健一氏を含め彼等にはそういう合理的対応を採用する気配さえ私には感じられないのです。蓋し、真面目な話、彼等こそ旧日本軍の(中の悪い伝統の)正統な継承者なの、鴨。

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畢竟、戦後民主主義を信奉する論者こそ戦前の日本の悪しき側面の継承者ではないか。要は、彼等の時間感覚は(ベルグソンが喝破した如く、砂時計に端的なように「人間は時間を空間化して把握する」と言えるのであれば、よって、彼等の時空の感覚は)、文字通り、終戦直後の数年間で止まっているの、鴨。

而して、例えば、第二次世界大戦が終結してから今日まで、世界に現存する197ヵ国(今年、<2011年3月11日午後2時46分>の年の7月14日に新しく加盟した南スーダンを加え国連加盟193ヵ国+台湾+バチカン+コソボ共和国+クック諸島)の中でこの間に戦争・内乱を体験していない国は8ヵ国(+バチカン)にすぎず;アイスランド・ブータン・デンマーク・フィンランド・日本・ノルウェー・スウェーデン・スイスのこれら8ヵ国の人口は、(国連の推計による、2011年10月31日時点における)世界人口70億人の「2.3%:1億6千万人」足らずであること。このことを鑑みれば、このことは思い半ばに過ぎるの感を私は覚えます。

実際、毎年毎年、(8月15日前後のみならず、例えば、NHKの朝の連続TV小説にしてからが、そのほとんどすべての脚本が「戦争」の期間を挟んでストーリーが展開されている如く)ほとんどすべてのマスメディアを動員して「悲惨な戦争体験/非道なる戦前の日本の社会と国家」のイメージを垂れ流し続けている、要は、「近代日本と日本が取り組んだ戦争は極めて特異なもの」というイメージを垂れ流し続けている日本の社会は過去といわず現在といわず<国際政治の現実>を直視していないと言える、鴨。而して、もし、この理解が満更私の思い込みではないとするならば、この一点だけ取ってもこの社会における<戦争>理解の現状は不健康と言える。

畢竟、蓋し、下記拙稿(↓)でも述べたように、「戦争体験」の授業など若い世代にとっては<退屈>以外の何ものでもないことは当然ではないでしょうか。

・退屈な戦争体験
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/37993984.html


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加之、「戦争責任/戦後責任」を通常の法理や実定道徳の理路をオーバールールできる「切り札」でもあるかの如く(その教義が「信仰」を同じくする仲間内を超えて一般的に了解されないはずはないと)錯覚してなのでしょうか、実際にそう喧伝し続けている戦後民主主義を信奉する、日本の左翼・リベラル派からの「戦争責任/戦後責任」論は世界的に見てもかなり特異で(而して、同時に、国際関係を不安定化する機能を帯びているという点で、それは)病的な存在である。これらのことだけは確かでしょう。と、そう私は考えます。

ならば、所謂「従軍慰安婦」問題の解決の鍵は、
日本の戦後民主主義の解体であるとも。

すなわち、所謂「従軍慰安婦」なるものだったと称する人々の解放は、
戦後民主主義からの日本の解放にかかっている。而して、
今般の「従軍慰安婦・間欠泉」は日本を治療する絶好の機会なの、鴨。

そう私は確信しています。


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木花咲耶姫


尚、非常時の典型としての、あるいは、あるタイプの(すなわち、国家の主権と国民の生存が「ゲームの掛け金」になった局面における)国際紛争に関しては、現在の所、人類が利用可能な最も合理的な紛争解決スキームとしての<戦争>を巡る、世界と日本との「認識の齟齬」については下記拙稿をご参照いただけるようなら嬉しいです。

蓋し、「民主主義」について語ったチャーチルの顰みに倣えば、「戦争とは最悪の国際紛争解決手段である。但し、ある種のタイプの国際紛争に関しては、これまで人類が手にした他の解決手段を別にすれば」、と。そう私は考えています。


・「核なき世界」なるものを巡る日本と世界の同床異夢
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59797305.html

・集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59856822.html

・非常事態条項の不在は憲法の不備か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60437971.html


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ジャンル : 政治・経済




◆戦争被害者個人の賠償請求権

高木さんは、「第一次大戦以前、すでに1907年のハーグ陸戦条約三条は、戦争規制条項に違反した軍隊を持つ国は、被害者個人に対して損害賠償(補償)をしなければならないと定めている。(中略)日本もこのハーグ陸戦条約に、1912年に加入している」(p.212)、「今日において、ハーグ陸戦条約三条は、人道法違反行為に対する損害賠償を請求する個人の権利を保障していると解釈するのが自然なのであり、近年の戦後補償裁判において、条約上に直接の規定がないことを理由に個人の権利を否定するのは、形式論にすぎないと言わざるを得ない」(p.217)と主張する。

確かに、ハーグ陸戦条約(「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」)は、その第3条に「前記規則ノ条項ニ違反シタル交戦当事者ハ、損害アルトキハ、之カ賠償ノ責ヲ負フヘキモノトス。交戦当事者ハ、其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行為ニ付責任ヲ負フ」と規定しています。尚、「前記規則ノ条項ニ違反」とは、捕虜の虐待・民間人の殺傷・軍事的必要性を大幅に超える非軍事的施設の破壊等の戦争犯罪のことです。

つまり、同条約3条は「戦争規制条項に違反した軍隊や軍人の責任は当該軍隊が所属する国に帰属する」と定めているのであって、「加害国が被害国の被害者個人に直接損害の賠償をしなければならない」などとは同条約のどこにも書かれていないのです。加之、同条約の成立時から現在に至るまで、国際法における権利義務の主体は、原則、主権国家に限られることは常識でしょう。

而して、ならば、同条約3条は、(被害国に属する諸個人の被害もその「賠償」に算入されるという前提の下に)被害国に対する加害国の賠償責務を規定したものと考えるべきであり、数多の実務の事例もこの解釈の線に沿って取り扱われてきたのです。すなわち、ハーグ陸戦条約3条を巡る高木さんの主張は、高木氏の単なる思い込みか、あるいは、単なる願望、若しくは、その両方であろう。と、そう言う他はないと思います。


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◆オランダ人戦後補償請求権事件控訴審判決

具体的な事例を通して前項の考察を検算しておきましょう。例えば、オランダ人戦後補償請求権事件控訴審判決(東京高裁平成13年10月11日判決)はこう述べています。すなわち、「ヘーグ陸戦条約3条は、ヘーグ陸戦規則に違反した加害国の被害国に対する国家の国際責任を明らかにした規定にすぎない」、と。

もし、高木さんが、これに対して「否」と言いたいのならば、被害者個人の請求権を明記した条約なり確立した国際慣習が存在する根拠なりを提出しなければならないでしょう。しかし、『今なぜ戦後補償か』を通読再読しても、この点に関して、(イ)ハーグ条約3条の既存の解釈を覆すような根拠も、また、(ロ)ハーグ条約3条以外の法源も一切提出されてはいないのです。

その代わりということでしょうか、高木さんは、「第二次大戦後は、戦争法違反と個人の権利に関する新たな条約が設けられていないことから、国連決議などは、ハーグ陸戦条約三条が確立した法理に基づいていると考えるべきなのである」(p.218)と述べておられる。けれども、これなども前述の如く単なる個人的な願望の表明であるか、あるいは、どう贔屓目に見ても単なる立法論にすぎず、それは到底、法解釈の理路を構成できるようなものではないと思います(★)。

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★補註:私的請求権に基づく対オランダ賠償
本稿の主張に対して、「確かオランダに対しては私的請求権解決のために日本政府は1000万ドル払っています。オランダはサンフランシスコ平和条約を締結し、賠償請求権を放棄しているはずなのに、なぜ日本は(例外的?)オランダ以外の国に対して行っているように「決着済み」とせずに賠償したのでしょうか」「このケースは、他国からの個人補償の可能性を開くものにならないでしょうか」等々の質問が寄せられるかもしれません。

よって、これに関する私の回答を先に記して起きましょう。すなわち、

()当該2国間条約は所謂サンフランシスコ平和条約14条が予定する二国間交渉の帰結である。而して、サンフランシスコ平和条約は戦争の終結と戦後処理の枠組みを定めたものであり、オランダを含む9ヵ国に対する戦後保障の内容は個々の2国間条約に任せられることになった。

()当該の1956年のオランダとの2国間条約によって、確かに日本は個人補償を行ったけれども、それは個人に対して補償を行ったものではない。蓋し、同条約は、寧ろ、請求権はオランダ政府にのみあることを認めたものに他ならない。畢竟、個人が被った損害の補償は別に当該条約に限らず広く国際法が認めるものであるが、個人の請求権を国際法は(当該個人が所属する国家や赤十字社を経由する以外)原則認めていない。

()よって、オランダとの2国間条約は私的請求権の根拠ではなく(寧ろ、同条約は私的請求権を否定する根拠であり)、また、同条約はサンフランシスコ平和条約と矛盾するものとも言えない、と。


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更に、高木さんは、第一次世界大戦を終結させたヴェルサイユ平和条約(1919年)が「国家の権利と個人の権利とを分離し、賠償と補償(compensation)の区別を明らかにした」(p.199)と語る。その根拠は、国際法で賠償を意味する述語reparationとは別に、compensationをヴェルサイユ平和条約が用いていることらしい。すなわち、reparationとは別にcompensationを同条約が使用したのは、新しい賠償の法的システムを同条約が形成しようとしたからだ、と。そう高木さんは主張されるのです。でもね、でも、これこそ「三百代言的言辞」ではないでしょうか。

この点、上に引用した、オランダ人戦後補償請求権事件控訴審判決はこう述べています。「国際法上、「compensation」という語は、広義には、国家が国際法に違反して他国の法益を侵害した場合に、被害国の被った損害を加害国が補填する行為全般に対するものとして用いられる。また、それは、もっぱら金銭賠償を意味し、特に、戦敗国と戦勝国との間の戦争賠償を意味する用語として「war compensation」という語が使用されることもある。そして、サンフランシスコ平和条約等においても、国家間の戦争賠償を意味する語として「compensate」という語が用いられるのである」、と。而して、事実はその通りなのです。

蓋し、ならば、「高木さん、言葉遊びはもう止めませんか」と、左翼・リベラル派からも<タオル>を投げた方がよろしいのじゃないでしょうかね。

と、そう私はお薦めします。



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◆サンフランシスコ平和条約等で放棄された請求権の範囲

大東亜戦争の敗戦後、日本はサンフランシスコ平和条約および多くの2国間条約で戦争賠償問題を解決しました。ちなみに、サンフランシスコ平和条約(1951年)に際しては、東西冷戦構造の深化に代表される国際関係の変容の中、西側の旧連合国は日本への賠償請求権を原則放棄しました。そして、放棄された請求権には被害者個人の請求権も含まれていることに議論の余地はないのです。

注意すべきは、高木さんの立論は、条約等で個人の請求権が放棄されていなければ、戦争被害者が直接、加害国に損害賠償を請求できるというような前提に立っている節も無きにしも非ずということ。けれども、これは明確な間違い。蓋し、それは原則と例外を取り違えた謬論である。

なぜならば、国際法上、条約で放棄されているか否かに関わらず、(加害国と被害国の双方が別様の処理を認めるのでもないない限り)原則、戦争被害者は加害国に損害を請求することはできないからです。畢竟、戦争被害者が損害賠償を請求できる宛先は独り自国政府であり、要は、加害国への請求は自国政府を通してのみ可能なのですから(尚、サンフランシスコ平和条約および日韓基本条約等における「請求権の不存在」に関しては下記拙稿をご参照ください)。

・サンフランシスコ平和条約第11条における「the judgments」の意味(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60937343.html


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而して、あるいは、最早、蛇足でしょうけれども、韓国の所謂「従軍慰安婦」は、もし、彼女達の<被害>が事実であったとしても、その被害に対する賠償請求は韓国政府に対してのみ行うことができるのですが、その賠償に関して、韓国政府から日本政府に対する求償は日韓基本条約等によって完全に解決済みなのです。

ところが、この点につき本書はこう説いています。「1951年10月から開始された日韓会談で、個人請求権についても議論された。当初韓国は、36年間におよぶ日本の植民地支配の被害に対して謝罪と賠償を要求するとともに、そのもっとも重要な要素として個人請求権も主張していた。しかし、日本政府は、韓国側が明確な証拠を提示できないと知ったうえで、厳格な「証拠主義」で臨み、最終的には賠償金額の上乗せと引き替えに、個人請求権を放棄させたのである」(p.220)、と。しかし、実際の所、日韓会談で、もし個人請求権が放棄されなかったとしても、所謂「従軍慰安婦」を含む韓国国民は日本政府に対して直接、損害の賠償を請求することはできなかったのです。

ゆえに、「繰り返しになるが、個人が補償請求権を持つことは確かである。しかし、戦争終了時に被害者個人が加害国に直接その損害を賠償を請求するのは、実際にはきわめて困難であり手もかかる。そのため、被害者の所属する国の政府が自国民に対する外交保護権を行使して、まとめて賠償請求権を確保するのが望ましい」(p.219)という高木さんの主張は完全な誤りになる。

なぜならば、こちらも繰り返しますが、個人の補償請求権は国際法的には認められてはいないからです。つまり、被害者に代わって(被害者たる自国民に代位して、)被害者の所属する国の政府が加害国に賠償請求することは技術的ではなく法論理的な帰結なのですから。


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<続く>

テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




韓国の大統領が所謂「従軍慰安婦」問題を蒸し返した由。而して、そのことを契機にして、謂わば「間欠泉」の如く「戦争責任/戦後責任」論がまた囂しくなってきたようです。まあ、本当は「飛んで火にいる夏の虫」なんだろうけど、こっちが民主党政権では、良くて「盗人に追い銭」、悪くすれば「青菜に塩→ネギ鴨」になる危惧も濃厚、鴨。

ことほど左様に、韓国の大統領選挙前の毎度お馴染みの「従軍慰安婦・間欠泉」の噴出。ただ、同じ「間欠泉」でも、アメリカはイエローストーンの有名な間欠泉や別府柴石温泉の龍巻地獄とは違い、歴史的にも論理的にも「砂上の楼閣」や「蜃気楼」にすぎない所謂「従軍慰安婦」なる観念表象を基盤にした「戦争責任/戦後責任」論は根拠皆無という点で空虚であり、よって、件の韓国の大統領の言動には滑稽を通り越してものの哀れさえ感じてしまいます。而して、それは「従軍慰安婦・間欠泉」に便乗する戦後民主主義を信奉する左翼・リベラル派の言説についても感じること。

正に、それ祇園精舎の鐘の声、鴨。
平曲に謡われている如く、戦後民主主義の詐術・狂言も、
最早、風前の灯火なの、鴨。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。

驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き人も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。



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蓋し、東京裁判史観にインカーネートした「コミンテルン史観-講座派史観」。実は、東京裁判における事実認定とも無縁とさえ言えるそれら単なるマルクス主義の教条(要は、縁なき衆生には全く理解できない/その神通力の及ばない、左翼・リベラル派の仲間内でのみ通用する歴史認識)を前提にしてなされてきた、日本の「戦争責任/戦後責任」なるものをあたかも普遍的で自明なものの如く言いつのる戦後民主主義の傲岸不遜と姑息滑稽もやはり「賞味期限」の壁の前には崩壊するしかないの、鴨。

一昨日の2011年12月17日に北朝鮮の金正日総書記が亡くなられたそうですが、戦後民主主義や東京裁判史観については、蓋し、「老兵と盛りを過ぎた漫才師、および、モーニング娘と浅田真央は死なず、ただ消え行くのみ」なのでしょうか。社会思想史の博物館に。ならば、これまた娑羅双樹の花の色、鴨。



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万物は流転する。左翼・リベラル派の牙城、朝日新聞もNHKも、現在では間接的にせよそれを認めているように(「ドイツに比べて日本は戦争責任に向き合う真摯さが決定的に足りない!」などの無知に塗れた虚偽を垂れ流す記事や番組がほぼ消滅したように)、日本は、(冷戦終了後も長らくその責任を「ナチス」という不逞の輩に押しつけ、要は、国家と国民の戦争責任には頬被りしたままで、かつ、<戦争>に起因する被害の「賠償」と「謝罪」も独りユダヤ人に特化して行ってきたドイツとは異なり)国際法の歴史上、他に例を見ないほど誠実かつ完全に国家としての「戦争責任/戦後責任」を果たしました(←このセンテンスの述語動詞の「時制」は過去完了形ですよぉー!)。

では、戦争指導者の戦争責任は如何。
畢竟、昭和天皇の戦争責任は如何。

3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ

Article 3.  The Emperor is sacred and inviolable. 


旧憲法の第3条を紐解くまでもなく、(ちなみに、本条は「天皇を神格化」する規定ではなく、例えば、英国の(それは現実には国家の賠償責任を回避するロジックでもあった)「King can't do wrong:国王は間違いを犯すことはない=国王を罰すること/国王に対してコモンロー上の権利の侵害を理由に損害賠償を求めること, 国王に対してエクイティー上の権利を根拠にして差止請求をすることはできない」という憲法原理とパラレルな、天皇という国家機関の「無問責性」を定めた規定ですよぉー。)昭和天皇には国内法的な意味での戦争責任は存在しません。

加之、国際法において、交戦国指導者の戦争責任を問うルールは、正に、東京裁判とニュルンベルク裁判を通して構築主義的に(要は、結果論的かつ泥縄式的に)形成されたものです。而して、昭和天皇はその東京裁判の被告人ですらなかったのですから、更には、土台、法理的には事後法による責任の認定などできるはずもないのですから、国際法的にも昭和天皇には戦争責任は存在しないのです。


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では、道義的と政治的の責任は如何。

そもそも、昭和天皇に限らず、政治指導者、すなわち、政治家の戦争責任とはどういうものでしょうか。蓋し、復習になりますが、政治家は国政に関して法的には結果責任を負うことはあり得ません。

而して、結果責任を問われるのは政治的と道義的の責任でしょうが、もともと「確実に国民を幸福にする/間違っても敗戦に伴なう塗炭の苦しみを国民に味あわせない」などを履行する義務も責務も政治指導者は負っていないのです。なぜならば、歴史の激動が人智を超えるものである以上、不可能事を誰も約束もできないし、不可能の不履行を責められる筋合いは誰にもないから。

まして、国際法的にはきわめて根拠の怪しい東京裁判の訴因、他方、所謂「従軍慰安婦」なるものや戦争体験なるものを根拠に当時の政治指導者や日本国民の責任を追及しようとする、内外の左翼・リベラル派の心性は、国は国民を幸せにする責務があり、また、国家はそれを行う能力を持っているという、国への甘えと権力の万能感の幻想に発するものではないでしょうか。閑話休題。


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問題は道義的と政治的の責任の有無と是非。一体、日本は自身の手で戦時指導者を裁いてこなかったのでしょうか。否です。日本国民には彼等を裁くチャンスはいくらでもあった。しかし、実際には、国会は全会一致で戦時指導者を含む所謂「戦犯」の名誉回復を行いました。まして況んや、昭和天皇の戦争責任においておや。そう日本人は裁いたのです。

ならば、これこそ日本国民が戦時指導者に下した明確な<裁き>だったのではないでしょうか。それとも、戦時指導者や戦前の日本への裁きとはそれらを批判・糾弾、而して、謝罪と賠償を引き出すものに限定されるとでもいうのか。 そんな限定の根拠はどこにもありません。

ならば、戦時指導者を批判的に裁くべしという主張は、<私怨>もしくは特殊な政治的イデオロギーの帰結にすぎない。と、そう私は考えます。

而して、もし、「道義的責任/政治的責任」が、昭和天皇や他の戦争指導者の個人の内面に存するなんらかの悔悟だけではなく、善悪を巡る社会的な評価とその評価に基づく非難・批判を必須の構成要素とすると考えることが満更間違いではないとするならば、この観点からも(少なくとも日本においては)昭和天皇には道義的や政治的な意味でも戦争責任は存在しないのです。

そして、法的にも政治的にも道義的にも日本においては存在しない、戦争指導者の、就中、昭和天皇の戦争責任を、(加之、確立した国際法の要求を超えて)他国からとやかく言われる筋合いはない。敷衍すれば、他国がとやかく言うのは勝手だけれども、他国のその「クレーム」と「くれーむ」を日本が受け入れなければならない義理も道理もない。と、そう断言できると思います。

尚、本稿で展開する私の理路の前提に関しては下記拙稿も併せてご一読いただければ嬉しいです。

・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59898544.html

・書評☆高橋哲哉『歴史/修正主義』
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60178372.html

・小倉紀蔵『歴史認識を乗り越える』の秀逸と失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/20460048.html


本稿は、これらの基本的な認識から、所謂「従軍慰安婦」なるものの存在を認め、よって、それらに対する日本の「戦争責任/戦後責任」なるものをも認めて、「日本は、所謂「従軍慰安婦」なるものを含む戦争被害者に対して謝罪と賠償を行うべきだ」とのたまう、傲岸不遜・姑息滑稽なる左翼・リベラル派の主張を俎上に載せるものです。

而して、本稿の切り口は戦後補償の請求権。その「狂言廻し」の役回りは、少し古いですが、高木健一『今なぜ戦後補償か』(講談社現代新書、2001年11月20日)に務めていただくことにしました。


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◆狂言廻しのプロフィール

本稿の狂言廻し、『今なぜ戦後補償か』は人権派弁護士としても有名な高木健一弁護士の著書です。エピローグには<9.11>を切っ掛けに始まったアフガン戦争(2001年10月7-8日開戦)に言及されているなど、20世紀最終盤から新世紀に至る数年間の歴史的緊張感が漂う書籍。それは、戦後補償問題への高木さんご自身の長年の取り組みを21世紀初年の国際関係を背景に総括されたもの。

日本の「戦争責任/戦後責任」、就中、所謂「従軍慰安婦」を巡る私の基本的な考えについては、更に、下記拙稿(↓)をご参照いただきたいのですけれども、私は、「戦争被害は補償されなければならない」と主張する高木弁護士の動機の真面目さを疑う者ではありません。要は、戦争被害と戦後被害の案件をネタに政府や企業や地方自治体にたかる輩、戦争被害者をダシにして自己の売名に走る他の有象無象の<戦後補償屋>と高木さんは(多分?)違うの、鴨。

・「従軍慰安婦」問題-完封マニュアル(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60931202.html


高木健一氏は<戦後補償屋>ではないの、鴨。しかし、いずれにせよ、本書『今なぜ戦後補償か』は法律用語を散りばめた単なる政治的なプロパガンダにすぎない。それは、自己の願望と法理を混同したもの。専門家の権威をもって世の善意の素人に虚偽を吹き込む罪作りな作品。と、私はそう考えます。而して、以下、2つの切り口から本書を分析します。すなわち、

(1)戦争被害者個人の賠償請求権
(2)サンフランシスコ平和条約で放棄された日本に対する賠償請求権の範囲


白黒はっきり言えば、国際法の専門家にとって、本書で展開されている議論は噴飯ものの言説です。しかし、一般の読者が、国際法の法的特質や法源に関して一々調べるようなことはないだろうし、戦後補償に関する内外の判決を読むこともまずないでしょう。而して、国際法の専門家の世界では誰にも相手にされない<理論>が、いつのまにか日本社会で<常識>として定着する可能性も満更杞憂とは言えない、鴨。これが、浅学非力をも顧みず、私が本稿を作成した所以です。



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<続く>

テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




それは事実ではなく、また、それが事実であったとしても「日韓基本条約」(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約, 1965)、「日韓請求権並びに経済協力協定」(財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定, 1965)、就中、後者の第2条によって完全に解決している、所謂「従軍慰安婦」に対する日本政府からの賠償を、来日されている韓国の大統領がまた求められたそうです。正直、そんな国際法のイロハを踏み外した主張を小なりとはいえ一国の大統領が公の場で口にして「恥ずかしくないかい」と、そう他人事ながら私は心配になります。

本稿は、小なりとはいえ一国の大統領にそんな「非常識な無知蒙昧の戯言」を発言させるに至っている、ある意味、罪作りな現下の日韓関係のその基盤。上記の両条約の前提となる国連憲章の(日韓にとっては、更に)そのまたその前提となるサンフランシスコ平和条約の解釈問題。

そう、渡部昇一さんなどが久しく問題提起されているポイント;「日本がサンフランシスコ平和条約(Treaty of Peace with Japan)で受け入れたのは個々の「判決」であって、例えば、「大東亜戦争=侵略戦争」という理解のもとに日本を断罪するある特定の歴史認識を含むような「裁判」などではない」という主張が穿つ論点を俎上に載せるものです。

ということで、本稿の本線の理路からは外れますが、一応、「日韓請求権並びに経済協力協定」の第2条を転記しておきます。尚、所謂「従軍慰安婦」の問題についの私の基本的認識(要は、「火のない所に煙を立てた」こと、「問題にならないことを問題にしてしまった日本政府の拙劣さが問題やねん」という認識)については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・「従軍慰安婦」問題-完封マニュアル(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60931202.html


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◇資料:日韓請求権並びに経済協力協定


2条
1 両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。

2 この条の規定は、次のもの(この協定の署名の日までにそれぞれの締約国が執つた特別の措置の対象となつたものを除く。)に影響を及ぼすものではない。

(a)一方の締約国の国民で1947年8月15日からこの協定の署名の日までの間に他方の締約国に居住したことがあるものの財産、権利及び利益

(b)一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であつて1945年8月15日以後における通常の接触の過程において取得され又は他方の締約国の管轄の下にはいつたもの

3 2の規定に従うことを条件として、一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であつてこの協定の署名の日に他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置並びに一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であつて同日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする。


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◇資料:サンフランシスコ平和条約


2条
(a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、斉州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
  ・・・
4条
(a)この条の(b)の規定を留保して、日本国及びその国民の財産で第2条に掲げる地域にあるもの並びに日本国及びその国民の請求権(債権を含む。)で現にこれらの地域の施政を行つている当局及びそこの住民(法人を含む。)に対するものの処理並びに日本国におけるこれらの当局及び住民の財産日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理は、日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする。第2条に掲げる地域にある連合国又はその国民の財産は、まだ返還されていない限り、施政を行つている当局が現状で返還しなければならない。(国民という語は、この条約で用いるときはいつでも、法人を含む。)

(b)日本国は、第2条及び第3条に掲げる地域のいずれかにある合衆国軍政府により、又はその司令に従つて行われた日本国及びその国民の財産の処理の効力を承認する。
 ・・・
11条
日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。   



б(≧◇≦)ノ ・・・完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する!
б(≧◇≦)ノ ・・・いかなる主張もすることができないものとする!


と、下拵え終了。



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◆裁判または判決の射程

思い起こせばもう6年前のこと。2005年6月18日の産経新聞の『正論』欄に渡部昇一さんは「「諸判決」と訳すべき平和条約第11条 誤訳悪用した言い掛かりを糾す」という一文を寄せられた。曰く、

同条約の第11条は東京裁判で下された戦犯への諸判決を日本が受け入れることを定めたものにすぎず、それ以上の何ものをも規定するものではない、と。而して、その主張の根拠は、同条約11条の英文に含まれる「accepts the judgments」の「judgments」は東京裁判等で下された具体的な「諸判決」だ。


と、大体このような内容の主張でした。

念のためサンフランシスコ平和条約第11条の英文を挙げておきます。

これです。

Article 11
Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and will carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan. The power to grant clemency, to reduce sentences and to parole with respect to such prisoners may not be exercised except on the decision of the Government or Governments which imposed the sentence in each instance, and on recommendation of Japan. In the case of persons sentenced by the International Military Tribunal for the Far East, such power may not be exercised except on the decision of a majority of the Governments represented on the Tribunal, and on the recommendation of Japan.    



この『正論』の中で渡部さんもおっしゃっている通り、「日本の左翼は11条の judgments を外務省が「裁判」と誤訳したのを、そこだけ悪用して、「日本は東京裁判を受諾したのだ」と宣伝した。朝日新聞等はその誤訳を徹底的に利用して、「日本は東京裁判を受諾したのに、それに楯突くつもりか」とばかりに日本人を脅迫している」という見方には、しかし、私は素直に頷じえないものを感じるのです。

もちろん、左翼・リベラル派の主張は噴飯もの。しかし、渡部さんの主張は、その結論は正しくとも、その理路が少し怪しいのではないか、と。

畢竟、渡部さんの、「「judgments=裁判」→×;「judgments=諸判決」→○」説は、「judgments」の理解に関して左翼・リベラル派と同じタイプの誤謬に陥ってはいないか、少なくとも、渡部さんの主張は「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」の箴言違反があるの、鴨。と、そう私は考えます。

要は、(例えば、法律や裁判を通して、公立学校で英語や進化論や油絵を必須科目と決めることは可能であっても、法律や裁判で「英語の文法ルール」や「進化論の正しさ」、あるいは、「ルーベンスの作品の価値」を確定することなどできはしないのとパラレルに、)「judgments」が「裁判」であろうが「諸判決」であろうが、そもそも、国際法・国内法を問わず司法手続きや条約によって、歴史の事実や歴史認識、あるいは、歴史観や世界観を確定することなどできるはずはないよ、とも。

ならば、「judgments」を「裁判」と理解するとしても、「日本は東京裁判を受諾した」という命題から、「judgments」を「諸判決」と理解する渡部さんの解釈と異なるサンフランシスコ条約の解釈が出てくるはずはない、とも。蓋し、流派を問わず、法哲学の「法概念論」からはそう言わざるを得ないのです。

白黒はっきり言えば、渡部さんも左翼・リベラル派も、「judgments:裁判」を<物象化>する間違いを犯しているのではないか(だから、渡部さんは「judgments」を赤鬼のように顔を真っ赤にして「裁判」ではないと力説され、他方、左翼・リベラル派は形相青鬼の如く憤怒に打ち震えつつ必死に「judgments」は「裁判」であると言い張っているの、鴨)。と、そう私は考えるのです。

尚、<物象化>の意味については取りあえず
下記拙稿をご参照ください。

・愛国心の脱構築-国旗・国歌を<物象化>しているのは誰か? (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60640144.html

・キムヨナを<物象化>する日韓の右翼による社会主義的言説
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59298740.html


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日本は東京裁判を受諾したのだから、つまり、「日本は東京裁判で示された歴史認識や大東亜戦争前の政治体制への否定的評価を受け入れた」のだから、(同条約を将来に向かって、破棄でもしない限り)

その歴史的と政治的な認識の枠組みに日本の政治は今後も拘束される。よって、所謂「A級戦犯」が合祀されている靖国神社に時の首相が参拝するとか、日本の戦争責任を相対化するような記述を含んだ歴史教科書が公教育の場で使用されるという事態は(単に道義的に問題があるだけでなく)、サンフランシスコ平和条約に反することだ


とかなんとかの主張が、朝日新聞を始めとする戦後民主主義を信奉する勢力から繰り返されてはいます。不埒な話です。

なぜならば、繰り返しますが、「日中戦争&大東亜戦争=侵略戦争」「戦前の日本=軍国主義の悪の帝国」等々の歴史認識などは、サンフランシスコ平和条約どころかどのような国際法も正当化できない法による規制が不可能な内容であろうからです。そのような内容は、事実の世界で反証可能性を帯びることはなく、他方、規範・価値の世界でそのような内容を孕む規範が法としての効力を帯びる根拠もまた皆無でしょうから。

要は、そのような世界観・歴史観・歴史認識が編み込まれていると称する規範は、それを見たい人、すなわち、大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する左翼・リベラル派にのみ見える「裸の王様の衣装」でしかない。法概念論の現在の地平からはそう断言できる。そう私は考えます。

而して、ならば、サンフランシスコ平和条約11条の「judgments」を「裁判」と訳するか「諸判決」と訳するかなどは、法的には本来トリヴィアルな事柄にすぎない。しかし、(昔から言うではないですか、「嘘も100回言えば本当になる」、と。よって、)朝日新聞等の不埒な言説を見過ごすわけにもいかない。

政治的には残念ながらそう言わざるを得ない、鴨。100回言えば嘘も本当になる。この経緯を法哲学では「事実の規範力」と難しげに表現するのですが、この経緯は、残念ながら政治の、就中、国際政治の世界では真理・鉄則でもありましょうから。

ならば、同条約11条を検討することは(学的な価値がゼロに近くとも)、政治の営みを少しでも合理的にするためには(「どこまでは理詰めの討議を経た妥協が可能」であり、「どこからは妥協不可能なイデオロギーの告白合戦」になるかの線引きをするためにも)無駄ではない、鴨。



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◆the judgments は「裁判」か「判決」か?

サンフランシスコ平和条約11条の第1センテンスの英文を
再度見てみましょう。これです。

Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and will carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan.


(日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする)   

英文解釈上のポイントは「judgments」に定冠詞の theがついていること。そう、この「judgments」はどこにでも落ちている一般的で不特定な「judgments」ではなく、ある特定の「the judgments」なのです。ではどう特定されているのでしょうか。 

英語では、機能英文法的に言えば(the Pacific Ocean などの固有名詞や Shall I play the piano? のような場合を除き、)コミュニケーションの当事者がそれについてあらかじめ共通の認識を持ってはいないコンテクストで(尚、契約書や条約などはこの前提で書かれた文章の典型ですよ。)ある名詞が「定冠詞+名詞」になるケースは次の三つしかありません。

①常識として「この・・・は他のどこにでもある・・・ではなく、あの・・・だ」という認識が成立しているケース、②その言明のどこかでその名詞についてはすでに話題にされていて、「この・・・は、ほら前に話題にしたあの・・・ですよ」というケース、そして、③当該の名詞の直後にその名詞を具体的に特定する情報が提供されるケースの三者です。


例を挙げておきましょう。

①常識が特定するケース
The (Last) Judgment(最後の審判)

②事前に特定されているケース
It seems Mr. Koizumi has formed a judgment on his worship to Yasukuni Shrine.
The judgment will become known in the very near future.
(小泉さんは靖国神社参拝についての考えを既にまとめてしまったようだ。
 そして、近々、その判断の内容は明らかになることだろう)

③直後に特定されるケース
It's the judgment of this court that Prime Minister’s worship to Yasukuni Shrine
does not violate the constitution at all.
(首相の靖国神社参拝は憲法に豪も違反しないというのが当法廷の判断です)  


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而して、サンフランシスコ平和条約11条の「the judgments」が①「常識が特定するケース」に当てはまらないことは明らか。常識として誰もが念頭に浮かべる特定の「the judgments」などは、あの「最後の審判」以外ありえないからです(ちなみに、この場合でも、「最後の審判」が、例えば、国籍・性別・宗教・財産等々によって分けられるグループ毎に行われるとか、あるいは、三審制で行われるとかでもない限り複数形の「the judgments」になることはありません)。

では、11条の「the judgments」は②と③のどちらのケースなのでしょうか。

実は、この問いに答えることもそう難しくはありません。なぜならば、11条の第1センテンスを除けばサンフランシスコ平和条約全体(前文+7章全27条)のどこにも「judgments」や「judgment」は存在しないからです。よって(通常の英文解釈の手法からは)、11条の「the judgments」は③の「直後に特定されるケース」ということにならざるを得ないのです。

ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿



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蓋し、11条の「judgments」に定冠詞の the がついているのは、直後に「of the International Military Tribunal ・・・both within and outside Japan」という形容詞句によって特定されているから。ならば、11条の「judgments」は、渡部昇一さんがいみじくも指摘された通り「具体的な複数の諸判決・諸裁判」以外ではありえない。つまり、それは、日本に法的な戦争責任を未来永劫課す根拠となるようなある特定の歴史認識を含む<裁判>なるものではないのです。

簡単な話。「judgment」を普通の英和辞典で引けば「裁判」「判決」「審査」など幾つもの意味が列挙されているでしょう。しかし、法律用語としての「judgment」は、通常は「裁判所たる裁判官の判断」であり、逆に言えば、それが「裁判所たる裁判官の判断」である限り、「judgment」を「裁判」と呼ぶか「判決」と呼ぶかはかなりの程度に論者の自由なのです(よって、例えば、日本の刑事訴訟法(43条~45条)の用語法に従い、「裁判」を「判決」「決定」「命令」を含むより上位の概念と捉えるのも、それらがすべて「裁判所たる裁判官の判断」である以上この理路と矛盾するわけではありません)。

ちなみに、「第二次世界大戦を裁いた戦争犯罪法廷は「判決」のみならず「決定」も「命令」も出していたのだから、11条の「judgments」は「判決としてのjudgments」を含むより抽象度の高い「裁判」と解すべきだ」という指摘は、(国際条約の用語法と無縁とは言わないけれど関連性に乏しい)我が国の刑事訴訟法の用語法からの類推を述べた、一種のと言うか、ある意味、典型的な床屋談義であり、この論点に関して特に大した根拠にはならないと考えるべきです。閑話休題。

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畢竟、「judgment」を「裁判」と訳そうが「判決」と訳そうが大差はなく、蓋し、11条における「the judgments=裁判」認識は左翼・リベラル派の歴史認識をサポート、若しくは、日本の戦争責任なるものを法的に規定するようなものでもないのです。

而して、朝日新聞などが、ここで述べたような、法律用語たる「judgment」に対して通常の英文解釈の作法に従って得られる語義を否定したいのならば、(国連憲章等の他の国際法規範には根拠は存在しませんから)同条約の中にあるそれなりの解釈根拠を提示しなければならないだろう。けれども、上述の如く、同条約の中には「judgment」を具体的な「判決」や個々の「裁判」とは異なる、<裁判>なるものと解釈する余地は皆無なのです。

尚、言葉の定義を巡る私の基本的な理解については下記拙稿を参照いただければ嬉しいです。

・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60902921.html


蓋し、他国の大統領とはいえ、一国の指導者にこれ以上、恥をかかせるようなことは隣国としてはするべきではない。それは心苦しい。ならば、日韓関係を可及的速やかにその「罪作りな状態」から救い出さなければならないでしょう。

而して、その方途は機会ある毎にどこまでもどこまでも限りなく論理と道理を韓国側に訴えるのみ。例えば、所謂「従軍慰安婦」問題に対するゼロ回答等はその好例、鴨。そして、サンフランシスコ条約11条に纏わり付いている左翼・リベラル派の(残念ながら渡部さんを含む保守派にも時に見られないではない、、「条約や裁判は、ある特殊な歴史認識・歴史観・世界観をある法規範の内容として定立することができる」とする)トンデモな法概念論、加之、その法概念論を基盤とした法解釈を払拭・治療することは機会を好機に変えるための、保守派にとっての橋頭堡になり得るもの、鴨。

いずれにせよ、畢竟、前進あるのみ、と。
そう私は考えます。


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テーマ : 歴史認識
ジャンル : 政治・経済




昨日、政府は、事故を起こした福島第一原子力発電所が「冷温停止状態」に入ったと宣言しました。蓋し、私はこの宣言が嘘でも本当でも、そろそろ、「脱原発ファンタジー」から覚醒して、もちろん、「脱原発カルト」に起因する<恐怖>から解脱して、日本は原発立国路線に回帰すべきではないか。畢竟、脱原発ファンタジーや脱原発論は民主主義の否定であり、加之、原発推進こそ、少なくとも21世紀前半の日本の「天命=Manifest Destiny」である。と、そう私は考えます。

脱原発論は、人間存在の有限性の自覚を欠いた、人間と権力に対する万能感の醜悪なる妄想であり、すなわち、それは文化帝国主義の教条に絡め取られた傲岸不遜なるカルト。畢竟、それは「努力することこそ人生の真・善・美であり、 個性が華開く感動的な人生と活気と隣人愛にあふれる社会の実現」を目指す、価値相対主義を基盤とする現在における保守主義とは相容れないものであるとも。

尚、私のこの「脱原発ファンタジー」「脱原発カルト」認識に関しては
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60908495.html

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60588722.html

・事故を乗り越え福島とともに進む☆原発推進は日本の<天命>である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60450789.html


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放射能の何がそんなに怖いのか。


そもそも「放射線被爆」の何がそう怖ろしいというのでしょうか? 放射能の何がそんなに怖いのか。と、そう私には思えるのです。信長が好んだ幸若舞は敦盛の一節「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」ではありませんが、現在、この瞬間にも世界には飢餓線上にある子供たちが10億人単位で存在している。

否、そんな時空を隔てたエピソードではない。<2011年3月11日午後2時46分>から2ヵ月余が経過した5月末の段階でも、宮城県・岩手県の山間部集落には、住居・ライフラインの手当て復旧とは言いませんが、衣食においても大震災直後とほとんど変わらない状態で<放置>されていた羅災者・被災者が数千人単位でおられたのです。

まして、なんと4月21日まで出され続けていた、政府の意味不明な「屋内避難指示」なるサジェスチョンに基づき、あるいは、「原発が落ち着くまでの数日間ですから」と騙まし討ちのように<自主避難>を促されたばかりに、それら住民が家族同様に育ててきた牛さんや豚さん、家族の一員たる犬さんの多くが餓死するに至っている。これらの現実のリアリティーを直視するとき、私は再度問いたいのです。放射能の何がそんなに怖いのか、と。

蓋し、<幽霊>が怖いのはその正体がわからないからではないでしょうか。而して、それがいかに人間の脅威になり得るとしても、その正体が判明していれば(例えば、虎でもライオンでも、ゴジラでもキングギドラでも、地震も雷も火事も、「大山風=台風」も「親父」も、消費者金融や税務署の取り立てでも)、おそらく恐ろしくはあるが怖くはないの、鴨。

また、それに対する防御や予防が到底人間の知と力の及ぶ範囲と範疇を超える事柄であれば、要は、その脅威を避けることが土台人間にとって不可能であれば、(例えば、(約6550万年前に恐竜を絶滅させたとも現在考えられている、たかだか直径15キロ程度の小惑星ではなく)直径150キロ超の天体と地球との衝突、あるいは、太陽(the sun)が現在の燃料である水素を使い果たし、次に、その燃えかすとしてのヘリウムをも燃焼し尽くしつつ膨張して「赤色巨星」になるに及び、その外層が地球軌道を飲み込んでしまう40億年から50億年後の事態などは、)その事態を想像するに恐ろしくはあるとしても別に怖いとは人は感じないのではないでしょうか。

要は、恐怖とは、ある事柄が人間存在にとって、

(α)生命・身体・財産・名誉・運命を脅かす存在であること
(β)その正体が未知であること
(γ)その脅威を避けることが/脅威を低減させることが可能であること

の三要件を備えているとき感じられるもの、鴨。而して、放射能。すなわち、平準積年での低線量放射線の被曝などは、これら(α)~(γ)の三要件すべてについて、その条件を満たしているとは言い難い。と、そう私は考えます。

なぜならば、それは(α)誰も「危険」とも「危険でない」とも言えないようなリスクであり、(β)その正体は半ば判明しており、かつ、(γ1)エネルギーの死活的重要性とエネルギー資源の多様化戦略の肝要さ、ならびに、(γ2)ドイツの如くいざとなれば地続きの友好的な隣国から電力を融通してもらえるという状況にはない日本の地政学的特性、加之、(γ3)グローバル化の昂進著しい現下の、これまた国際競争の激化が必至である人類史の段階を鑑みるに、(それとリンクしている、否、寧ろトレードオフの関係にあるとも言うべき(α)の要素を睨んだ場合、)脱原発など現時点では不可能、正気の沙汰ではないと言えるだろうからです。


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何を私は言いたいのか?


蓋し、孔子が『論語』(顔淵篇)で喝破した如く「古よりみな死あり、民信なくんば立たず」。ならば、究極的には、死を恐れる必要もなく実益もない。それは人間が究極的には左右しうるものではないのだから。

他方、今現在、生存と生活に困窮している避難者・被災者・羅災者、あるいは、飢餓に苦しんでいる世界の子供たちの<現存在>というリアリティー、文字通り、餓死せしめられた数万数十万の福島県浜通りの牛さんや豚さんや犬さんの<命>のリアリティーを想起するとき、人間が、そして、その作る政府が些かなりとも左右しうる「死-生」のカテゴリーにおいて、3年後、あるいは、13年後、または、30年後に、例えば、白血病や甲状腺癌になる危険性、しかも、確率的な危険性の増大などは、人間やその作る政府が取り組むべき社会的問題のプライオリティーとしては限りなく最下位に近いの、鴨。と、私は考えます。

畢竟、放射能など、平準放射線被爆の場合、年間累積被爆線量2500ミリシーベルト(但し、妊婦・13歳未満の子供は980ミリシーベルト)以内であればなんら問題はありません。加之、内部被爆が疑われる場合には正露丸(成人の場合には、+ワンカップ大関)で鉄板。と、そう(「考えるべきである」と)私は信じています。尚、このことについては下記拙稿をご参照ください。

・ドイツの大腸菌騒動
 -脱原発の<夢物語>は足元の安心安全を確保してからにしたらどうだ
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60533639.html

・放射線被曝の危険性論は霊感商法?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60504829.html

・魔女裁判としての放射線被曝危険論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60493326.html

・社会現象として現れるであろうすべての将来の原発問題への序説
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60454892.html



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而して、民主党政権の凄まじい落ち度は、これら正露丸、および、ワンカップ大関の
予算措置を怠ったことは不問に付すとしても、


①1ミリシーベルトだの20ミリシーベルトだのの、カルト的国際反核団体が作成した基準があたかも何か科学的・疫学的根拠があるかのごとき報道を野放しにして社会不安を増大させ、福島・宮城・岩手の被災地の復旧・復興に(第一次補正予算成立までとしても)2ヵ月余というとんでもない空白を作ったことにある。


蓋し、非閾値-連続直線仮説(要は、どのような微量の放射線被爆も確率的には健康障害の原因となりうるという主張)がいみじくも指摘している通り、この世に安全なものなどない。ならば、安全が確保できない事態を<異常>な事態と捉える感覚こそ、文化帝国主義、西欧中心主義の世界観の顕現である。

「古よりみな死あり」「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如」きもの。要は、運が悪ければ死ぬだけ。それが寿命である。と、そのような世界観の前には放射能の恐怖など、心頭滅却せずとも「火もまた涼しい」でしかない。と、そう私は考えています。    


尚、この点に関する私の基本的な憲法論・国家論に関しては
下記拙稿をご参照いただきたいと思います。

・地震と政治-柘榴としての国家と玉葱としての国民(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60340034.html


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而して、ならばこそ、「民の信をなくした政権」は打倒されなければならない。人間ができること、人間の作る政府がやるべきことをやらずに、今般の大震災を政権延命の好機と捉え、更には、「政治主導」なる脳内遊戯にかまけているとしか思えない民主党政権は、最早、テロの対象でさえあるの、鴨。このことを福島原発事故の責任論に引きつけて具体的に敷衍すれば、土台、

(甲)その災害時に惹起する危険性がせいぜい「論理的危険の可能性」にすぎない低線量放射線被曝であってみれば、500年に一度か1000年に一度かは知りませんが、よしんば、100年に一度起きるかもしれない大震災などを原発設備設計の安全基準に組み入れるなどは到底合理的ではない。

(乙)原子力損害賠償法が(近代法の原則である「過失責任主義」を修正して)定めている「無限責任」の論理的前提である「天変地異に起因する被害の免責」は認められるべきであり、よって、()東京電力はその免責条件の範囲内でのみ賠償責任を負うべきである。しかし、()それにしても、その範囲の賠償でさえ東京電力の資力を遙かに超えるであろうから、東京電力はきちんと法的整理がなされるべきであり、()東京電力の資力を超える賠償と、賠償の範囲に入らない被災地の復旧・復興は社会政策のメニューとして国費で賄われるべきである。

(丙)上記(甲)(乙)のスキームを前提にする場合、しかし、上に述べた民主党政権の杜撰で拙劣な原発事故対策、就中、<脱原発カルト>の百鬼夜行、すなわち、風評被害の跳梁跋扈を許した原発事故対策は徹底的に批判されなければならない。


蓋し、少なくとも、「政権交代」だけが歴史的意義だった民主党政権において、「政権延命」だけに固執した菅直人氏の責任は、法的と政治的の双方において徹底的に追求されなければならない。

と、そう私は考えます。


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神功皇后



而して、畢竟・・・

б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ったよね、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ったよね、福島!
б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ったよね、日本!

б(≧◇≦)ノ ・・・脱原発論者は恥を知れ!(←まあ、馬鹿は死んでも無理だろうけど)
б(≧◇≦)ノ ・・・民主党政権はとっとと下野せよ! 民主党は解散せよ!

б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!




テーマ : 「原発」は本当に必要なのか
ジャンル : 政治・経済




先日、12月14日の討ち入りの日、オバマ大統領による「終結宣言」によってイラク戦争が終わりました。本稿は日本国内でのこの戦争を巡る報道を検証するもの。題材は4年半前、平成19年5月16日の朝日新聞社説「イラク特措法―反省も総括もないままに」。朝日の疑似論理には今更驚かないけれど、この社説の水準は年にそう何回もあるものではないよ。と、そう感じたことを今でもくっきり覚えています。

而して、弊ブログの読者には何人か受験生の方もおられる由。よって、小論文対策を兼ねてこの機会に再度この社説を俎上に乗せることにしましたた。以下、当該社説の引用。尚、先頭の番号は説明の便宜上KABUがつけたものです。


(1)泥沼化するイラク情勢に足をとられる米ブッシュ政権に、日本はどこまでおつきあいするつもりなのか――きのう衆院で可決されたイラク復興支援特別措置法の2年延長案について、こんな感想を抱く人は多いのではないか。(中略)

(2)なぜ、延長するのか。政府は国連やイラク政府などの要請によると説明している。だが、最大の理由はブッシュ政権のイラク政策を支援する姿勢を崩したくないということだろう。

(3)国会審議で、安倍首相らはイラク攻撃に踏み切った米国の判断を繰り返し弁護した。誤った戦争と認めてしまえば、自衛隊派遣の根拠が崩れると心配してのことに違いない。
(4)だが、開戦判断の根拠となった情報が誤りや誇張の産物だったことは、米国や英国自身が認めている。なによりも、開戦の理由とされた大量破壊兵器がイラクに存在しなかったことは明らかだ。

(5)にもかかわらず「正しい判断だった」とばかりに言い募るのは、知的退廃に近いのではないか。

(6)日米同盟への配慮は分からないではない。中東に石油資源を依存する日本にとって、地域の安定は重要だし、イラクの混乱を放置できないのもその通りだ。
(7)それでも、出発点での明白な誤りを認めずに既成事実の追認を続けるのは、責任ある政治のとるべき態度ではない。(中略)

(8)そんな中で、日本では自衛隊の派遣延長がすんなりと国会を通っていく。これといった総括や反省もないままに、大義に欠ける、誤った米国の政策に参画し続ける。なんとも異様と言うよりない。(中略)

(9)さらに懸念すべきことがある。航空自衛隊がイラクで何を運んでいるのか、さっぱり分からないことだ。政府は飛行回数と運んだ貨物の重量以外、何も明らかにしない。どのぐらい国連の役に立っているのか。大半が米兵の輸送ではないのか。そんな疑問も指摘されている。
(10)安全に配慮して隠すのだろうが、使われているのは日本の要員であり、資材、税金である。国会にすら詳細を報告しないのでは、文民統制が空文化していないか。

(11)政府はすみやかに自衛隊を撤収し、イラク支援を根本から練り直すべきだ。(以上、引用終了)



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小論文の答案として見た場合、この社説の難点は論旨が分断されていること。就中、結論(11)をサポートする論拠が欠落していることです。この点に留意してこの「答案」の構造を分析してみましょう。

<断片A1>
(1)イラク特措法への疑問→(2)イラク特措法延長の理由の推測
                  ↓                              
<断片A2>          
(3)開戦判断を日本が支持し続ける理由の推測
      ↓
(4)開戦判断の瑕疵の存在→<断片A3>
      ↓         
(5)開戦判断の瑕疵の認容と開戦判断の支持継続は知的退廃
      ↓
(8)イラク特措法の延長が坦々と国会を通過する現状は異様

<断片A3>
(4)開戦判断の瑕疵の存在
      ↓
(6)開戦判断の瑕疵とイラク問題にコミットする実益は無矛盾
          ||
(7)開戦判断の瑕疵はイラク問題にコミットしてきた既成事実
   によって治癒されない                        
―――――――――
<断片B>
(9)航空自衛隊のイラクでの活動詳細は未公表
       ↓
(10)未公表の合理性に文民統制は優先する
―――――――――
<断片C>
(11)政府はすみやかに自衛隊を撤収し、
   イラク支援を根本から練り直すべきだ。


朝日新聞がイラク特措法に反対しようが(1)、特措法の延長の理由をどう推測しようが勝手であり、よって、それを「ブッシュ政権のイラク政策を支援する姿勢」の堅持と捉えることも自由(2)。同様に、開戦の判断を日本政府が支持し続ける理由を誰がどう推測しようとも自由(3)。更に、開戦判断に瑕疵があったのも事実でしょう(4)。

けれども、開戦判断の瑕疵は開戦の是非判定の one of themの要素にすぎず(★下記補注参照)、瑕疵の存在が自動的に開戦の不当性を決めるわけではない(5)。また、朝日新聞も結果的に認めていることなのだが、開戦判断の瑕疵とイラク復興問題は位相を異にしており、まして、開戦から5年を経過した今、もし開戦が不当なものであったとしてもアメリカ主導のイラク復興支援体制に日本がコミットする施策がこれまた自動的に否定されるわけではない(6)(7)。

開戦判断の瑕疵と現下のイラク政策は、ならば、1対1の対応関係にはない。よって、「(3)→(4)→(5)→(8)」の系列と「(3)→(4)→{(6)+(7)}」の系列は断絶している。また、「イラク特措法の延長が坦々と国会を通過する日本の現状は異様」(8)という社説の感慨は、(開戦判断の瑕疵が自動的に、開戦の不当性とアメリカ主導のイラク復興体制への参加の不当性を導くと考える論者の頭の中では)上記の2系列の前者とは連結するのかもしれないが、後者とは没交渉のまま。畢竟、開戦判断の瑕疵と現在のイラク復興体制への参加の是非をダイレクトに連結するこの「答案」の理路は破綻している。と、そう言わざるを得ないのです。

ちなみに、「文民統制」の意味を間違って使用している他は、<断片B>に特に大きな問題はないようです。実際、小論文で憲法や経済の専門的な知識が要求されることはありません。ただ、専門的な用語に関しても余りにも常識外れの誤解は採点者の印象を悪くする。要は、知らない/自信のないテクニカルタームはできるだけ使用しないこと。尚、文民統制を定めた現行憲法66条2項「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」を見れば(9)(10)が文民統制とは直接関連がないことは自明でしょう。

蓋し、上述の通り、この「答案」の最大の難点は、<断片C>が他のどの命題からもサポートされていないこと。おそらく、社説子は「(4)→(5)→(8)→(11)」を太い幹に、他をそれから広がる枝葉としてこの「答案」を書いたと想像します。しかし、繰り返しになりますが、開戦判断の瑕疵と開戦の正当性、開戦判断の瑕疵と現在の日本のイラク政策の間には何ら論理必然の関係はないのですから。

つまり、(11)はこの社説の中で孤立しており、而して、この34字を述べるためにこの「答案」が書かれたとすれば、他の約800字はすべて無意味な文字列ということ。くれぐれも、小論文では朝日新聞のように自分の妄想や願望を情緒的に綴るのではなく、論理を踏まえることが大切ですよ。

頑張れ、受験生諸君!



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☆補注:イラク戦争は間違った戦争とは言えない

米英によるイラク戦争の開戦は、自衛権行使のパターンの一つである先制攻撃。而して、ある先制攻撃が正当な自衛権行使とされるためには、国際法的には次の二つの条件が満たされなければならない。

・脅威の重大性
・脅威の急迫性


ポイントは、脅威の重大性と急迫性を認定するのは脅威を受けている側であり、しかも、その認定には<一般通常人>が判断して脅威の存在を合理的に推測できることとで十分ということ。つまり、脅威を感じている国が自衛権を発動するに際しては、本当に脅威が存在することは必要ではないということ。

敷衍すれば、例えば、国連憲章7章を根拠とした武力制裁の場合には、国連安保理決議を得る過程で、(客観的という保証はないけれど)少なくとも1国もしくは1グループ国の意図を超える「第三国による判断が加味」される。ところが、純然たる自衛権は国連憲章、よって、国連安保理と無関係に行使できる。すなわち、その場合、開戦時に自衛権行使の合法違法を判定する者は、法的には自衛権の発動を主張するその国に他ならない。

脅威の重大性や急迫性を認定する能力は一般通常人の判断力。つまり、超人的な情報収集能力や情報分析力のある国ではなく普通の国が、それまで入手できた情報をもとに推察して、急迫かつ重大な危機の存在を想定するのであれば、その認識に基づく先制攻撃は正当で適切な自衛権の発動ということ。


さて、イラク戦争の開戦。米英の立場に立てば、大量破壊兵器が「確実にあるとは言えないが」、さりとて、「ないとも言い切れない」と彼等が判断したことは理解できる。他方、「急迫性」に関しては私も疑問を持つ。その点ではイラク戦争の開戦は違法な開戦と言われても文句は言えないだろう。

けれども、かってB・C兵器を保有していたイラクには、(国連決議および湾岸戦争の終結交渉の協定により)、「現在、それらがないこと/それらをどう処理したか」を説明する責任があった。よって、その説明の不作為を理由に米英が開戦した側面に着目すればイラク開戦は違法とは言えない。

まして、武力制裁決議こそ安保理で採択されなかったものの、(強制的措置の行使を予想する国連憲章7章の条規と文言を散りばめた)多数の対イラク決議が採択されていたのであり、法手続きの側面からは過去の事例と比べてもイラク開戦は違法とは言えない。


整理する。①大量破壊兵器の不存在、②イラクの証明責任、③国連決議の積み重ねからは一概にイラク戦争は間違いではなかった。蓋し、日本では三番目の点で「違法性が強い」と報道されてきた節もあるけれど、むしろ、この三点目が最も「開戦の合法性」をサポートしているのだ。それもあり、欧州のメディアでは第一の点を突くことで「違法論」を主張し、それに対して、米国のメディアは第二の点に力点を置いて「合法論」を展開してきたように思われる。

畢竟、(詳細に関しては下記拙稿参照いただきたいのですが)実定国際法とはこの程度のいい加減で現在の強者に有利なもの。けれど、中央政府があるわけでもないのに、アメリカもロシアも支那も従わなければならない国際的ルールが少しとはいえ存在すること。逆に言えば、このことは素晴らしいこと、鴨。   

と、そう私は考えています。

・「核なき世界」なるものを巡る日本と世界の同床異夢
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59797305.html

・集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59856822.html


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神功皇后





テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




よって、当たり前のことですが、国際政治上の問題が解決するとは、就中、日本にとってある問題が解決するとは、日本が、地政学的な状況認識の枠組みの中でゲーム理論的アプローチによって、その国益を極大化に成功するということに他なりません。而して、個別「従軍慰安婦」問題に関しては、

()国際法と国際政治の慣習を鑑みるに、特定アジア諸国の言説は全く根拠を欠くものであると日本は認識しており、()今後、この認識に従い日本が行動すること、()それに対する国際法と国際政治の慣習を逸脱する他国の行動に対しては正当な対抗措置を取ることを躊躇しないこと    


この3点を、特定アジア諸国が納得することは到底無理でしょうが、特定アジア諸国を含む世界の国々に(その前提として日本国民に)認知せしめることに、理想論は捨てて可能な限り十全に成功することでしょう。蓋し、特定アジア諸国にとってもそれが不愉快な事態の現出であれ、日本のこの行動選択により今後日本の行動の予測可能性が高まるのであれば、実は、この日本の行動選択は彼等にとってもメリットのあることだと思います。

これらを私的に踏まえて抽出した、「従軍慰安婦」問題解決の私の理路は、以下の通り、

(甲)日本の国際関係のビジョン
所謂「大洋国家」あるいは「アメリカの51番目の州への格上げ」を志向して、日本は潜在的敵国である支那・韓国・北朝鮮という特定アジア3国との関係は<政凍経冷>を旨として、彼等とは平和的共存関係を維持できれば成功と言うべきである。ならば、所謂「従軍慰安婦」なるものを巡って、韓国(あるいは、支那・北朝鮮)と関係が悪化しようが、それはむしろ歓迎すべきことなのであり毫も憂慮すべきことなどではない。    

而して、特定アジア諸国とは、今までの「自虐史観-東京裁判史観」に立った跛行的な外交を改めて、今後は、実定的な国際法と確立した国際政治の慣習に従いフェアに交渉する対等な外交を行うべきでしょう。ならば、その外交姿勢の切り替えのためには、所謂「従軍慰安婦」なるものを巡る紛争の存在は寧ろ天佑神助の好材料と考えるべきなのかもしれません。

(乙)河野談話の撤回
河野談話がもし、前述の概念(1)で述べた4個の要件を満たす行為を継続的・組織的に日本軍が行ったことを認めたものならば即刻撤回されるべきである。他方、河野談話が、そのような事実の存在を認めたものではなく、所謂「従軍慰安婦」なるものと自称する方々が歴史の中で引き受けられたハードシップに対して同情するものにすぎないのならば、河野談話は「同情と憐憫」の談話であった旨を改めて宣言すべきである。畢竟、前者と世間と世界で河野談話が了解されている節が少なくはないことは事実である以上、後者の対応も最早マストであろうから。而して、これが、「従軍慰安婦」問題の解決に向けた先手日本の初手「七六歩」である。   

(丙)河野談話の撤回作業のメニューとマイルストーン
日本語正文・英訳の双方を何度読んでも河野談話が「空中楼閣にすぎない所謂「従軍慰安婦」なるものを追認した歴史の改竄」なのか、それとも、単なる「同情と憐憫」を表明する善意の慰めの言葉であるのか、実はそう明確ではない。

一つだけはっきりしていることは、この16年余の間、それが内外で専ら前者として受け取られてきたということ。他方、日本政府は(無い袖が振れるはずもなく)自己の法的責任を認めず、また、「政治的-道義的」な責任の認容と履行についても「アジア女性基金」を迂回させた形以外ではほとんど行って来なかった。つまり、河野談話を通して日本政府は「日本の「政治的-道義的」の責任を曖昧に認める」という明確な選択をしたということ。ならば、正直、「河野談話では不十分ニダ」と憤る韓国のイノセントな市民の感覚は満更「火病」的とばかりは言えないの、鴨。   


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この状況を鑑みれば、日本が「河野談話の撤回のパッケージ」として行うべきことは自明であろうと思います。蓋し、それは下記の5点。

・所謂「従軍慰安婦」なるものの存在が証明できないことのアピール
・河野談話が出されるに至った日本政府内部、および、日韓の交渉過程の公開
・河野氏の内外に向けた謝罪声明の発表、あるいは、国会もしくは内閣の河野氏非難決議
・日本の「政治的-道義的」責任の不存在と「同情と憐憫」の意識保持のアピール
・今後は、特定アジア関係も実定的な国際法と確立した国際政治の慣習に従いフェアに進めていく姿勢のアピール

これらの表明を、日本政府が、内外に向けて、日本語と、少なくとも、英語および韓国語と中国語で発信する。また、これらの表明の発信と同時並行的に、これらの表明の根拠になった(わかりやすく、具体的かつ豊富な)データを日本語と、少なくとも、英語・韓国語・中国語で広報する。   

覆水盆に返らず。所謂「従軍慰安婦」なるものが、詐欺師が蒔いた<餌>に朝日新聞が入れ喰い状態で飛びつくことで、対馬海峡の中空に妄想された空中楼閣であることは、今では、日本では子供でも知っていることです(知らない/知りたくないから知らないのはその子供の日教組教師くらいのものでしょう)。蓋し、「従軍慰安婦」問題がここまで問題化したのがこの問題の問題であろうと私は思います。

而して、それは完全に日本側の(河野氏と河野談話を容認してきた歴代政権の)身から出た錆。そして、外交の原則は表明の継続である。ならば、日本政府はこの問題を問題化させた責任を「表明」発信と「表明」した内容を今後遵守する継続の営みによって取らなければならない。畢竟、逆に言えば、河野談話を信じて「今まででも日本は十分に謝ってきたではないか。ならば、もう許してやれ」というロジックで日本を擁護し、例えば、実際、アメリカの下院で反日決議採択に反対してくれたアメリカの親日派に恥をかかせないためにも上に列挙した5個の説明は不可欠ではないでしょうか。

畢竟、「復讐するは我にあり」ならぬ、「汗をかく責任は我にある」、と。そう私は考えています。次項ではこの「河野談話を巡る日本の責任論」の内実を更に掘り下げて、「従軍慰安婦」問題解決のための<表明の継続>の基盤となる所謂「従軍慰安婦」なるものの認識を記号論の切り口から解析したいと思います。


ianfu2



◆「従軍慰安婦」の明示的意味と暗示的意味

前項までの説明とそこに含意されていた理路を整理しておきます。

(α)所謂「従軍慰安婦」なるものは存在しないか/存在を証明することはできない
(β)戦前において公娼制度は日本でも欧米でも合法だった
(γ)「性の商品化」は許されない/帝国主義下の植民地支配は許されない、といった法的ルールも実定的な道徳的ルールも、少なくとも、戦前には存在しない
(δ)よって、「従軍慰安婦」問題に関しても(β)の一般論が適用される

(ε)日韓併合条約は合法だった
(ζ)日韓の戦後処理は日韓条約(1965年)によって包括的かつ一義的に終了しており、また、国際法が認める交戦国に対する個人の賠償請求権に関しては、韓国人は韓国政府に請求可能であるが、その場合も、韓国政府は日本に対して新たな請求を起こすことは原則できない
(η)実体概念が存在し得ない以上、誰も自分が生まれる前の自国の行為に関して同義的責任を負うことはない

(θ)実際はそうではないのだけれど、(α)~(δ)の理路からもし日本の責任が認められたとしても、(ε)~(η)の理路によって、朝鮮半島出身の女性が戦地で日本軍兵士を主な顧客とする公娼に従事していたとしても、それは合法的な事態であり、また、道義的にも日本が批判される余地はない
(ι)実際はそうではないのだけれど、(ε)~(η)の理路からもし日本の責任が認められたとしても、(α)~(δ)の理路によって、朝鮮半島出身の女性が戦地で日本軍兵士を主な顧客とする公娼に従事していたとしても、それは合法的な事態であり、また、道義的にも日本が批判される余地はない
(κ)すなわち、「従軍慰安婦」のどのような定義を前提にするとしても、畢竟、朝鮮半島出身の女性が戦地で日本軍兵士を主な顧客とする公娼に従事していた事実に関して、現在の日本政府もしくは日本人には法的な責任も同義的の責任もなんら存在しない


ヽ(^o^)丿    

本稿が「問題の完封」がテーマであればここで筆を置くべきでしょう。しかし、本稿は「マニュアル」でもある。すなわち、前項で述べた「可能な限り十全に日本の所謂「従軍慰安婦」なるものを巡る認識と今後の行動の方針を内外に認知させるための表明の継続」という「問題解決の詰めあがりのイメージ」からは更に一歩思索を深める必要がある。畢竟、この「従軍慰安婦」問題が問題化したことの問題性の根幹を理解しなければより高いパフォーマンスの<表明の継続>は難しいだろうということ。よって、以下、河野談話の意味を記号論の観点から解析してみることで問題の根幹に迫りたいと思います。


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アメリカ下院での「「従軍慰安婦」を巡る対日非難決議」の可決が現実味を帯びてきた中で出された、朝日新聞の平成19年3月5日の社説 「「慰安婦」発言 いらぬ誤解を招くまい」は、河野談話を出した宮澤政権以来、歴代の政権が河野談話で達成しようとした something が達成されず現在に至っている問題、要は、「従軍慰安婦」問題の問題化の問題点を図らずも照射するものでした。而して、職業的な詐欺師である吉田清治氏の<証言>を鵜呑みにした誤報によって、「従軍慰安婦」問題を外交問題にした張本人の朝日新聞がこの河野談話の誤算を照射したことは歴史の皮肉というべきでしょうか。以下、主要部分の引用。

旧日本軍による慰安婦問題をめぐって、安倍首相の発言が内外に波紋を広げている。首相は先週、記者団の質問に答えてこう述べた。「当初、定義されていた強制性を裏付ける証拠はなかった。定義が変わったことを前提に考えなければならない」(中略)首相には「強制性」について、こだわりがあるようだ。それが首相の発言をわかりにくくしている。

女性を集めた業者らが事実上強制をするような「広義の強制性」はあったが、当局が人さらいのように連行するといった「狭義の強制性」はなかった。きのう、首相はそう説明した。だが、いわゆる従軍慰安婦の募集や移送、管理などを通じて、全体として強制性を認めるべき実態があったことは明らかだろう。河野談話もそうした認識に立っている。細かな定義や区別にことさらこだわるのは、日本を代表する立場の首相として潔い態度とは言えない。(以上、引用終了)    


この社説が照射する河野談話の誤算の根幹とは何か。それは、河野談話のディノテーション(明示的意味)とコノテーション(暗示的意味)との落差から発生する「日本が負う責任」の意味の齟齬ではないかと思います。プロの外交官や国際法の専門家が理解する河野談話のコノテーションと平均的な韓国やアメリカ人が理解するそのディノテーションとの乖離が、この問題の問題化の根幹である、と。而して、私が理解する河野談話の暗示的意味と明示的意味は各々次のようなものです。

◆河野談話のコノテーション:暗示的意味

「従軍慰安婦」の定義にかかわらず、日韓併合から大東亜戦争の終結に至るまで、日本の統治下で多くの朝鮮半島出身の女性が公娼となる運命に置かれた。その中には、日本軍兵士を専ら顧客として働いた方も少なくなかった。そのような歴史の事実を見るとき、何の法的と道義的の責任も日本には存在しないとはいえ、日本軍が彼等の運命に構造的にかかわっていたことは否定できず、よって、日本は所謂「従軍慰安婦」なるものであったと称する方々に対して同情と憐憫の気持ちを表する。   

河野談話やアジア女性基金からの見舞金に添えて送られる歴代首相の手紙にも「謝罪」の2文字が含まれている由。けれども、責任のない者が使う「謝罪」とは、率直に言えば、「同情と憐憫」の意味以外の何ものでもないのです。

◆河野談話のディノテーション:明示的意味

日本政府は、所謂「従軍慰安婦」なるものの存在を認め、それに対する「政治的-道義的」の責任が日本にあることを認める。もちろん、日韓条約により戦後処理は終了しており些か法技術的な問題はあるものの、日本は彼女達に可能な限りの償いを行わなければならない立場にある。而して、日本政府は所謂「従軍慰安婦」なるものだったと称する人々に対して謝罪を行なう。   

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。


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復習になりますが、再度自問自答したい。「従軍慰安婦」とは何か、と。上に述べたことを踏まえるならば、蓋し、この問いついては次のような2種類の理解がなされてきたと私は考えています。

(A)「従軍慰安婦」の古典的理解
日本軍により直接に朝鮮半島や日本軍の占領下にあった地域で性奴隷になることを強要された非日本人の女性であり、日本軍が管理する施設で性行為を強いられ虐待され、かつ、その行為の対価を(ほとんど)支払われなかった人々である。而して、その要件は以下の4個のチェックポイントを含んでいる。


・女性は非日本人に限られ
・女性の募集に日本軍が直接関わり
・施設の管理に日本軍が直接関わり
・十分かつ適切な対価報酬は支払われなかった
   


(B)「従軍慰安婦」の姑息な理解
日本の軍事占領下で運営された公娼施設で働いていた、よって、その顧客のほとんどが日本軍の兵士であった外国人の公娼である。彼女達が公娼になるについて、日本軍による直接の強制などは確認されず、妥当な報酬が支払われた例も少なくないけれど、軍事占領下で運営されていた公娼施設は日本軍の明示黙示の要請または承認と庇護を受けて営まれていた以上、「従軍慰安婦」を巡っては日本軍の広い意味の強制があった。    



蓋し、河野談話はそのコノテーションに従い「従軍慰安婦」の存在を認め謝罪した/「同情と憐憫」の気持ちを表明した。他方、そのディノテーションに従い河野談話を理解した韓国の人々の目には、「日本政府は「従軍慰安婦」の存在を認めて謝罪したはずなのに、法的と道義的とを含めてなんらの責任も果たそうとはせず、あろうことか、その歴史教科書の検定結果を見ればその存在さえいまだに否定しようとしている」、と。そう映るのではないでしょうか。こう考えれば、朝日新聞の社説が照射する「河野談話」の問題点は明瞭になってくるの、鴨。

蓋し、その暗示的意味に従い日本政府が表面的には所謂「従軍慰安婦」なるものの存在を認め謝罪したことで、韓国政府がその明示的意味を日本から勝ち取った政治的成果をもって韓国の人々を慰撫することに成功していたならば、おそらく、この問題の問題化の度合はもっとモデレートなものになったのでしょう。けれども、事態はそうは推移しなかった。例えば、件のアメリカ下院の決議はこう述べています。

下院は次のような見解を表明する。すなわち、日本政府は、1930年代から第二次世界大戦の全期間に渡り、アジアの植民地支配と太平洋諸島を占領していた戦時に、日本帝国の軍隊が強制力を行使し若い女性を性奴隷にした(その性奴隷とは、現在では「従軍慰安婦」としてすっかり知れ渡っているのだけれど)。而して、日本はこの事実を公式、かつ、平明で明瞭なやり方で認め謝罪すべきであり、また、そのような事実に対する歴史的な責任も同様に平明で明瞭な形式を通して受入れるべきである、と。(KABU訳、以上引用終了)   


これこそ、河野談話がそのディノテーションで世界に流通してしまった動かぬ証拠でしょう。畢竟、「従軍慰安婦」を外交問題にした朝日新聞を始め、その存在を証明する歴史的資料が皆無であるがゆえに、「左翼-リベラル」の多くの反日勢力も日本国内では、(A)の古典的理解に立った河野談話のディノテーションが衰退するにともない、漸次、(B)の姑息な理解に立った議論、つまり、「直接的な強制」は存在しなかったが「広義の強制」はあったという議論が有力になっています。それに対して、海外では(日本自体が「従軍慰安婦」を認めていることから歴史的資料の不在は問題とされず)現在でも、(A)の古典的理解に立った河野談話のディノテーションが維持されているということでしょう。

蛇足ですが、(B)の姑息な理解に立った「従軍慰安婦」肯定論は、同床異夢の三者を含んでいると私は思います。すなわち、

(Ⅰ)直接的強制を認めない立場(現在の日本政府)
(Ⅱ)直接的強制と間接的強制の区別を問題にしない立場(朝日新聞)
(Ⅲ)間接的強制自体から法的と「政治的-道義的」の責任を演繹する立場(「左翼-リベラル」)   


而して、(Ⅲ)は前項で述べた如く規範論理的な根拠を欠くものであり、また、(Ⅱ)と(Ⅲ)がその歴史観、蓋し、「自虐史観-東京裁判史観」を共有しているだろうことは容易に推測できると思います。閑話休題。


畢竟、この「従軍慰安婦」問題に対して日本が行なうべき<表明の継続>は、表明の受け取り手がこのような認識を持っているという前提で行なわなければならない。而して、この<表明の継続>の戦略を記号論的に敷衍すれば、それは、ディノテーションとしての河野談話を撤回するか、あるいは、河野談話の意味がコノテーションに従い理解されるべきことを主張するかの二つに一つである。いずれにせよ、それは、明示的意味だけを河野談話と考えてきた海外の論者にとっては、いずれも「談話の撤回」と映るのは避けられず、よって、その「表明=撤回」はかなりタフな作業になることは必定。しかし、やるしかない。汗をかく責任は我にあるのだから。と、そう私は考えています。





(2010年10月29日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 韓国について
ジャンル : 政治・経済

ianfu6


日韓併合条約締結から100年の昨年、2010年。尖閣諸島を巡る支那政府の傲岸不遜かつ非常識な対応と、その一斑でもあろう尖閣諸島問題の<問題化>に端を発した支那国内の反日デモを鑑みるに、少なくとも国際政治的には、「自虐史観-東京裁判史観」なるものは特定アジア諸国の対日マヌーバー(maneuver)でしかないことが図らずも一層明らかになったと思います。

日本にとっては「災厄の種=貧乏籤」でしかないが、1910年当時における東アジアの安定のためには慶事ではあったろう日韓併合からちょうど一世紀。この両義性を熟知しながらも、「それが、東アジアで当時唯一の近代的の国民国家である日本の<人類史的使命>でもあろうか」と、従容と死地に赴かれた伊藤博文公の胸にはこのアンビバレントな感想が去来していたの、鴨。この百年に思いを馳せるとき私はそう反芻しています。

他方、日韓併合から一世紀が経過したという<現実>は、現下の特定アジア諸国の反日動向の意味を「歴史的―論理的」に考究すること、そして、それらに対する適切な対応がいかなるものであるかを「現実的-実践的」に究明するための槓桿足りうるもの、鴨。本稿はこのような、日本が置かれている地政学的な現在に関する<歴史的位置づけ>を基盤として、より適切な特定アジア対応を抽出する試みです。

而して、所謂「南京大虐殺」、所謂「強制連行」、所謂「創氏改名」、あるいは、所謂「歴史教科書問題」、所謂「河野談話-村山談話」、更には、所謂「靖国神社問題」等々、特定アジアと戦後民主主義を信奉する国内勢力が紡ぎだす、正に、邪悪の百花繚乱、不埒の千紫万紅の言説言動の中で、これら<反日政治的神話>の中でも最も荒唐無稽な所謂「従軍慰安婦」なるものを本稿では取り上げます。蓋し、東京裁判(極東国際軍事裁判)を問題の結節軸とする国際法的な論点を孕むイシューに関しては稿を改めて俎上に載せたいと考えており、その点、所謂「創氏改名」の問題とパラレルに、この所謂「従軍慰安婦」なるものを巡る問題は(より純粋かつより原初的な形でそのロジックの破綻が露になっており)日韓併合から一世紀を経た<現実>を槓桿として特定アジアと日本との関係を「歴史的―論理的」と「現実的-実践的」に考究する作業の嚆矢として適切であろうと考えたからです。


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所謂「従軍慰安婦」なるものの問題を俎上に載せる前に、その前哨として日韓併合の「歴史的-論理的」位置づけを確認しておきます。私は別稿の冒頭でおおよそこう書いています。

この社会では、2010年-2011年の現在、「日韓併合条約はその当初から無効だった」などという妄想を喧伝する論者も少なくないようです。而して、「日韓併合条約の無効性が認識できない者は、無知か狭量か、いずれにせよ、歴史を見る眼か、または、道徳心か、あるいは、その両方が曇っているのだ」、と。それくらい言い出しかねない勢いで、彼等は国際法的に全く成り立たない独善的な弄して恥じ入る気配もないように見える。

日韓併合条約の法的性質に関して、例えば、和田春樹や高橋哲哉、または、戸塚悦朗や中塚明等の論者の<研究>など国際法的にはなんの価値もないもの。すなわち、日韓併合条約無効論が成立しないのは証拠の不足ではなく法的論拠の不在が主な理由ということです。つまり、

彼等がいかに日韓併合条約締結の事情や背景を精緻に調べあげて、1910年当時、その自由意思が全く認められない程、韓国が日本に抑圧されていたという事実を言挙げしようとも、「どのような事態が存在すれば、ある併合条約が当初から無効だったと言えるのか」「そもそも条約が当初から無効であるということはどういうことなのか」という議論の根幹が不分明なままであれば、彼等の努力や主張は「笊で水を汲む」シューシュポスの神話的で無意味な行為でしかないのです。   

この点に関しては、実際、韓国側が招集したとされる国際会議でも、無効論の主張は欧米の国際法研究者からことごとく退けられており、また、現在の民主党政権でさえも「日韓併合条約は有効に成立した」と認めていることを鑑みれば、無効論の根拠の脆弱さと怪しさは自明であろうと思います。(以上、自家記事転記終了)


・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59898544.html

例えば、現行の日本国憲法は他国による軍事占領下での法改正を原則禁止したハーグ陸戦条約に違反するから無効であるとか、「摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス」と規定した旧憲法75条の拡大解釈からはその「改正」は旧憲法違反であり無効である等々と十数個の理由を挙げて、日本国憲法の無効と大日本帝国憲法が現行憲法として有効であると語る人々が世の中には存在する。けれども、ある国際法に違反した事実が存在したとして、あるいは、拡大解釈をすれば旧憲法の改正手続条項違反と言えなくもない事実があったとして、それゆえに新憲法がなぜに無効になるのかの法理的な説明がそこには欠落している。よって、このような憲法無効論は全く成立しようのない議論なのですが、而して、この憲法無効論と同様、日韓併合条約無効論もまた土台法律的には成立し得ない議論なのです(尚、憲法無効論の無効性についてご興味がある向きは下記拙稿をご参照ください)。

・憲法無効論の頑冥不霊と無用の用(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58998947.html 

要は、「憲法が無効とはどういうことなのか」、つまり、ある新憲法がその憲法としての効力(法の妥当性と法の実効性)の根拠を、旧憲法からの「継承-授権」に期待していない場合、旧憲法の改正条項違反の嫌疑なり旧憲法を基準とした憲法改正限界論からの疑義は新憲法の法的効力に毫も影響を与えることはないということ。

而して、1910年当時の、自力では近代的の主権国家としての存立が覚束ない国を(その国が他国の勢力圏に入ることが自国の安全と生存にとって冗談抜きに忌々しき事態である場合)、白黒はっきり言えば、韓国のようなその国を日本のようなその国が強制的に併合する措置は合法であったという法の理解の前には、例えば、戸塚氏や中塚氏の「日曜歴史探偵団」の如き、しかし、涙ぐましい努力で積み上げられた「韓国併合に至る縷々たる強制なるものの事実」の発掘などは、「ただ、秒速89メートルの台風の前の塵に同じ」なのです。    

以下、かくの如き「戦前の日韓関係のパラダイム」理解を与件として、所謂「従軍慰安婦」なるものを巡る問題の解決案を俎上に載せていきたいと思います。

ianfu1


◆「従軍慰安婦」問題攻略の理路

所謂「従軍慰安婦」なるものを巡る問題を日本はどう解決すればよいのか。否、このような問題が「解決」するということは、今実現していないどんなことが実現するということなのでしょうか。蓋し、この問題の解決に至る手順は、3個の事実・2個の概念・1個の方針にまとめられるのではなかろうか。そう私は考えています。

3個の事実
2個の概念
1個の方針


◆事実
(1)河野談話が発せられたという事実
所謂「従軍慰安婦」なるものが、歴史学的に見ていかに荒唐無稽であったとしても、ときの日本政府がその存在を認め公式に謝罪したという事実は取り消せないということ。だからこそ、当時の河野洋平官房長官と宮澤喜一首相の咎は万死に値する。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。    

(2)所謂「従軍慰安婦」なるものの存在を証明できない事実
米下院で「従軍慰安婦に関する日本非難決議」を推進したマイケル・ホンダ議員自身が、所謂「従軍慰安婦」なるものが存在した根拠としては、結局、河野談話しか挙げることしかできなかった。けれども、世界の法学研究者と法律実務家の感覚では、被告側(日本)が「事実を認めた以上」ホンダ議員が所謂「従軍慰安婦」なるものの存在を示す証拠の提出を要求される筋合いはない。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。   

(3)日本が法的責任を負うことはあり得ないという事実
もし、所謂「従軍慰安婦」なるものが存在していたとしても、一切の法的な戦争責任/戦後責任を(すべての責任を「ナチス」に押し付け、「主権国家=国民国家」としての責任を不十分な形でしか果たしていないドイツとは異なり)、国際法史上例を見ない精度と誠実さで果たし終えている日本にとって、彼女達に対する「責任」は「道義的-政治的」なものでしかあり得ない。而して、戦後生まれが人口の85%を優に超える現在、実は、その「道義的-政治的」な責任さえ、日本国はもちろん大部分の個々の日本人も法論理的に(要は、高橋哲哉氏等のある日本人のご本人の美意識やイデオロギーを捨象するならば)負おうとしても負いようがない性質のものである(尚、この点については下記拙稿を参照いただきたい)。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。    

・高橋哲哉『歴史/修正主義』
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59883244.html

・高木健一『今なぜ戦後補償か』を批判する
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/cbd84b9f0ac1cc64ade1a1ad8b06c74d


◆概念
(1)「従軍慰安婦」
「従軍慰安婦」問題とは何なのか。それは、①日本軍が直接、②非日本人の女性を慰安婦として調達し、③日本軍が管理する施設で性行為を行わせ、かつ、④その行為の対価を(ほとんど)支払わなかったという現象なのか。

それとも、⑪巨大なマーケットである日本軍の兵士を目当てに(あるいは、日本軍からの誘致を受けて)民間の業者が、⑫日本の内外で公娼を募集して、⑬民間の施設で性行為を行わせ、かつ、⑭相対的と全般的には「適正」な対価報酬を支払った現象なのか。

( ..)φ( ..)φ( ..)φ    

蓋し、「従軍慰安婦」の概念はこれら少なくとも4個のチェックポイントから確定されなければならないのだと思います。すなわち、

・女性の国籍
・女性の募集調達への日本軍の直接の関与
・施設の管理への日本軍の直接の関与
・対価報酬の支払い元、および、対価報酬の有無と相当性   

もちろん、戦地での売買春を巡っては多様な形態が存在したのでしょう。けれど、「従軍慰安婦」問題が、「政治的-道義的」な責任が問われるべき問題とするならば、これら4個のチェックポイントはクルーシャルなはず。なぜならば、永井荷風・西園寺公望も「絶賛」したその道の<本場>のフランスやオランダは言うに及ばず、当時、「公娼制度」は日本だけでなく欧米諸国の多くで合法的存在だったのですから。

尚、巷に謬説が蔓延していますが、原則、現在の日本でも売買春行為自体は違法ではなく、あくまでも、管理売買春が違法なのです。そして、その管理売買春の犯罪化を具現した「売春防止法」が日本で施行されたのは1957年。而して、これはほとんどの欧米諸国よりもディケード単位で早い立法化だったのです。


(2)責任/強制性
所謂「従軍慰安婦」なるものを巡る日本の責任を問う主張の中には、「従軍慰安婦」の定義とは無関係に、「それが日本の植民地支配や日本の占領下で行われたものである限り、そして、顧客のほとんどが日本軍兵士であった以上、日本の植民地出身の女性に業務として性行為をさせた行為は、<従軍慰安婦システム>として批判されるべきであり、日本はその責任を免れない」とするものも散見している。意味不明である。  

( ..)φ( ..)φ( ..)φ 

意味不明ではありますが、蓋し、おそらくこのような主張の根底には、


(イ)帝国主義の植民地支配は悪であり、(ロ)韓国併合は帝国主義の植民地支配に他ならず、(ハ)他国の女性を性的に支配することは、その国自体に対するレイプに他ならない、土台、(ニ)売買春制度自体が人倫に反する悪であり、更に、(ホ)「性の商品化」は早晩廃止されるべき資本主義に特殊な現象だ。

要は、直接的の強制がなく、日本軍兵士は単に顧客として公娼施設を利用していただけにせよ、その施設を組織的かつ継続的に日本軍が利用したこと自体において道義的責任を日本は免れられない。 


( ..)φ( ..)φ( ..)φ   

というような認識が横たわっているの、鴨。

前三者の(イ)~(ハ)は法論理的に成立しない主張であり、哲学的にはそのような概念が存在し得ないことが英米流の分析哲学によって完全に証明されている(ここでは「帝国主義」や「日本国」や「悪」や「レイプ」等々の)「実体概念」、すなわち、普遍的にある唯一の「意味=指示対象」を持つとされる言葉の存在を仮定してなされた文学的妄想にすぎず論評の必要もないでしょう。問題は後二者。

而して、「女が道徳的でないのは、道徳が人間的ではないからだ」とは世にしばしば囁かれてきた箴言ではありますが、さりとて、少なくとも、管理売買春や児童売買春に関する限り売買春制度が人倫に反する可能性のあるものと意識され、多くの国で違法な事象として漸次カテゴライズされてきたことは事実でしょう。しかし、売買春行為自体が人倫に反するか否かは(売春が「世界最古の職業:Prostitution is known to be one of the oldest occupation. 」と呼ばれることからも)そう自明でもない。

蓋し、言語学研究者の常識ですが(消滅や変容からそれを守護する)「文化としての言語の最後の防波堤は女と子供」であり、畢竟、性道徳に関しても女性は「文化としての家族と性を巡る慣習の最後の防波堤」と考えられる。ならば、その女性が専ら従事する売買春が世界最古のビジネスとして存在してきたという事実は、それが道徳規範の体系と整合的であるか、少なくとも、強靭な対抗力を保持している(with robustness)ことは間違いないだろうからです。

換言すれば、資本主義社会における「性の商品化」なるものが悪習と見えるとするならば、それはそのような「左翼-リベラル」のものの見方が非人間的なせいかもしらず、資本主義は「左翼-リベラル」よりも遥かに狡猾に人間性と折り合いをつけてきたということなの、鴨。

いずれにせよ、このような所謂「従軍慰安婦」なるものを巡って日本の責任を認める議論は単なる論者の個人的な願望や妄想、あるいは、イデオロギーや実体概念の産物にすぎず、前述の如く法的責任論は論外、そして、日本の「政治的-道義的」な責任を問いうるものでもないと思います。


ianfu5


◆方針
上記の如き事実と概念を踏まえるとき、日本は、所謂「従軍慰安婦」なるものを巡る内外の反日動向に対してどのようにすればよいのでしょうか。蓋し、ここで前提とすべきは、

・国際政治の舞台は歴史的な事実や善悪を究明する場ではない
・日本を中心に地球が廻っているのでもなく、日本と特定アジアだけが世界でもない
   

ということでしょう。国際政治の舞台は国力や地勢も、歴史的や文化も非対称的な各国が自国の国益の極大化を目指して競争と協力を繰り返す場にすぎない、と。ならば、この問題において日本の取るべき道は、国際政治の一般的な戦略策定と同様、(イ)日本の国益を最大限にかつ可能な限り安定的に実現することを希求しつつ、他方、(ロ)対米関係と対特定アジア関係を軸とした、日本の地政学的で非対称的な条件に基礎づけられた、日本の国際関係ビジョンから演繹されるしかないでしょう。而して、(ハ)国際政治が基本的にゲーム理論的状況(あるプレーヤーの行動選択が、他のプレーヤーの行動選択に関する予測に規定される相互関係が成立している状況)でしかない、少なくとも、ゲーム理論的関係ではある以上、この戦略策定、すなわち、処方箋の作成においてはゲーム理論的な発想が不可欠ではないかと思います。

◎国際政治における戦略策定の処方箋
・国益の極大化(最大化と安定化)
・地政学的な「自己-他者」の非対称的な力関係に基礎づけられたビジョン
・ゲーム理論的アプローチ



<続く>




(2010年10月29日:yahoo版にアップロード)

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




来年はオリンピックイヤーにして閏年(Olympic year and leap year)。要は、来年、2012年はアメリカ大統領選挙の年(the presidential (election)year)。いやー、廻る<季節>の回転スピード、最近、加速していませんか。ビックバンの勢いも収まり、宇宙が縮み始めてる? その逆?

やはり、光よりも時間(?)の方が速いの、鴨(←「速度=移動距離/所要時間」の定義からも出鱈目だし、これ、受験生の皆さん、眉唾ですよ!)。いずれにせよ、アメリカ大統領選挙が廻り来るたびに、近頃は、1年とか4年とかの中途半端な時間の単位ではなく、例えば、「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」と喝破した宮本武蔵の言葉に倣って、「千日=鍛」「万日=錬」とかのスパンの方がまだ実際の時間感覚に合うように感じないではないです。





他方、オリンピックは陸上100メートルのメダリスト達が口々に「10秒は長い」と語っているように、そう、我が母校、同志社大学の先輩にして、甲子園を沸かせた池田高校野球部のあの蔦文也監督の言葉、「鍛錬千日之行/勝負一瞬之行」という経緯もまた時間を巡る実感覚。蓋し、<稽古>と<勝負>との、畢竟、<鍛錬>と<瞬間>の狭間に置かれている存在であろう人間にとって、このあい矛盾する時間感覚もまた共に真理なのでしょう。


而して、ヒンズー教の箴言に曰く、「自分が変われば相手も変わる」、と。加之、

心が変われば態度も変わる。
態度が変われば行動も変わる。

行動が変われば習慣も変わる。
習慣が変われば人格が変わる。

人格が変われば運命が変わる。
運命が変われば人生が変わる。 



鍛錬と一瞬という時間の両義性。そして、変わる自分と変わらない自分。

これらのあい矛盾する時間感覚を同時に帯びて生きている人間同士が、よって、世の中で<変化するもの>と<不変なるもの>とを巡って、加之、<変化する自分>と<変化しない自分>の両義的存在である<自分>を演じることが人生なの、鴨。そんな人生の集積が、世間であり歴史なの、鴨。とかとか、考える<2011年3月11日午後2時46分>の年の師走の午後。

ということで、今後掲載するであろう「アメリカ大統領選挙関連記事」の露払いまたは太刀持ちとして、4年前に作成したYahoo検定の案内をアップロードさせていただきます。来年新春には、引き続き、3級(政党史)、2級(アメリカ憲法)、1級(宗教・地域・エスニシティー)の検定続編も作成する予定。でも、予定は未定、未定は願望ですけどね(笑)

・アメリカ大統領選挙観戦資格検定(六級)
 http://minna.cert.yahoo.co.jp/ormh/220420

・アメリカ大統領選挙観戦資格検定(五級)
 http://minna.cert.yahoo.co.jp/ormh/219954

・アメリカ大統領選挙観戦資格検定(四級)
 http://minna.cert.yahoo.co.jp/ormh/219512










と、前にトライいただいた方も、この機会に「復習」どうですか~♪
よろしければお試しください。ところで、「時間」って、それ美味しいの?


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◆資料:アメリカ合衆国憲法抜粋


The Constitution of the United States


Article. II.
Section. 1.
The executive Power shall be vested in a President of the United States of America. He shall hold his Office during the Term of four Years, and, together with the Vice President, chosen for the same Term, be elected, as follows:

Each State shall appoint, in such Manner as the Legislature thereof may direct, a Number of Electors, equal to the whole Number of Senators and Representatives to which the State may be entitled in the Congress: but no Senator or Representative, or Person holding an Office of Trust or Profit under the United States, shall be appointed an Elector.

・・・

The Congress may determine the Time of chusing the Electors, and the Day on which they shall give their Votes; which Day shall be the same throughout the United States.

No Person except a natural born Citizen, or a Citizen of the United States, at the time of the Adoption of this Constitution, shall be eligible to the Office of President; neither shall any Person be eligible to that Office who shall not have attained to the Age of thirty five Years, and been fourteen Years a Resident within the United States. 


アメリカ合衆国憲法

第2条 
第1節[大統領と副大統領、選出方法]
[第1項]執行権は、アメリカ合衆国大統領に属する。大統領の任期は4年とし、同一の任期で選任される副大統領とともに、つぎの方法で選出される。

[第2項]各々の州は、その立法部が定める方法により、その州から連邦議会に選出することのできる上院議員および下院議員の総数と同数の選挙人を任命する。但し、上院議員、下院議員および合衆国から報酬または信任を受けて官職にあるいかなる者も、選挙人に選任されることはできない。

・・・

[第4項]連邦議会は、選挙人を選任する時および選挙人が投票を行う日を定めることができる。投票日は合衆国全土を通じて同一の日でなければならない。

[第5項]出生により合衆国市民である者、または、この憲法の成立時に合衆国市民である者でなければ、大統領の職に就くことはできない。年齢満35歳に達していない者、および合衆国内に住所を得て14年を経過していない者は、大統領の職に就くことはできない。


AMENDMENT XII
(Passed by Congress December 9, 1803. Ratified June 15, 1804.)

The Electors shall meet in their respective states and vote by ballot for President and Vice-President, one of whom, at least, shall not be an inhabitant of the same state with themselves; they shall name in their ballots the person voted for as President, and in distinct ballots the person voted for as Vice-President, and they shall make distinct lists of all persons voted for as President, and of all persons voted for as Vice-President, and of the number of votes for each, which lists they shall sign and certify, and transmit sealed to the seat of the government of the United States, directed to the President of the Senate;・・・


修正第12条 [正副大統領の選出方法の改正] [1804年成立]

選挙人は、各々の州で集会して、無記名投票により、大統領および副大統領を選出するための投票を行う。そのうち少なくとも1名は、選挙人と同じ州の住民であってはならない。選挙人は、一の投票用紙に大統領として投票する者の氏名を記し、他の投票用紙に副大統領として投票する者の氏名を記す。選挙人は、大統領として得票したすべての者および各々の得票数、ならびに副大統領として得票したすべての者および各々の得票数を記した別個の一覧表を作成し、これらに署名し認証した上で、封印をほどこして上院議長【=現職の副大統領】に宛てて、合衆国政府の所在地に送付する。・・・



AMENDMENT XX
(Passed by Congress March 2, 1932. Ratified January 23, 1933.)

Section 1.
The terms of the President and the Vice President shall end at noon on the 20th day of January, and the terms of Senators and Representatives at noon on the 3d day of January, of the years in which such terms would have ended if this article had not been ratified; and the terms of their successors shall then begin. 


修正第20条[正副大統領と連邦議員の任期] [1933年成立]

第1項 
大統領および副大統領の任期は、この修正条項が承認されていなければその任期が終了していたはずの年の1月20日の正午に終了し、上院議員および下院議員の任期は、同じ年の1月3日の正午に終了する。後任者の任期はその時に始まる。



AMENDMENT XXII
(Passed by Congress March 21, 1947. Ratified February 27, 1951.)

Section 1.
No person shall be elected to the office of the President more than twice, and no person who has held the office of President, or acted as President, for more than two years of a term to which some other person was elected President shall be elected to the office of President more than once. ・・・ 


修正第22条[大統領の三選禁止] [1951年成立]

第1項 
何人も、大統領の職に2回を超えて選出されることはできない。他の者が大統領として選出された任期の間に、2年以上大統領の職を保持しまたは大統領の職務を行った者は、大統領の職に1回を超えて選出されることはできない。・・・


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テーマ : 2012アメリカ大統領選挙
ジャンル : 海外情報




弊海馬之玄関4ブログ(opinion系:Yahooブログ; 英語系:gooブログ; ミラーブログ:FC2ブログ, iZaブログ)に降臨・憑依されている女神様の紹介です。実際の女神様とそれらと同一神格の女神様の紹介。また、些かフライングぎみになりますが、この機会に今年最も多くの方に読んでいただいた弊ブログ記事のリストも掲載させていただきます。

而して、本稿は、匿名希望の通りがかりの通行人(大体「通行人」は通りがかるもの?)のブログ管理者にとっての画像保管以外には大した意味のない記事。どうぞ笑ってスルーしちゃってください(笑)。実際、天の岩戸伝承で有名な天鈿女命と同一神格の大塚愛ちゃんは休場中ですからね。

尚、海馬之玄関のエントリーは、ブログ仲間からは「画像を決めてから、それに合わせて記事を書いてるんちゃう?」と聞かれることもあるくらい、実際、これでも画像の入手・選択に関しては、少なくとも記事作成と同程度の時間とエネルギーを投入しています。よって、画像に関する批判やコメントは歓迎ですが、それによって画像を差し替えることはありません。きっぱり。

と、「きっぱり」というほどでもないんですけどね(笑)
実は、過去に1回だけ(掲載前の「クレーム」を入れれば2回)、
画像を差し替えたことがありますから。
ね、totdjo女史? きつねのしっぽ姉さん!

ということで、<女神>様の紹介。


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◇天照大神=中島みゆきさん


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★関連記事:あまりにも畏れ多くて(下記参考記事を除き)関連記事はありません

・中島みゆきさんが紫綬褒章を受章
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58863806.html



◇神功皇后=キムヨナ姫


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★関連記事:

・愛国心の脱構築-国旗・国歌を<物象化>しているのは誰か? (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60640144.html

・キムヨナを<物象化>する日韓の右翼による社会主義的言説
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59298740.html

・浅田真央は「ルール」を理解できなかった愚者か(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59281198.html

・浅田真央は「ルール」を理解できなかった愚者か-採点基準考(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59285142.html



◇木花咲耶姫=ほしのあきさん


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★関連記事:

・ほしのあき考-フィギュアよりもフィギュアらしい存在の存在する意味-(未搭載)

・覚書★保守主義と資本主義の結節点としての<郷里>(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60918924.html

・覚書★女系天皇制は<保守主義>と矛盾するものではない
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60896992.html

・「女性宮家」は女系天皇制導入の橋頭堡
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60907124.html

・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60902921.html

・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60908495.html



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◆付録:2011年度最多アクセス記事紹介

FC2ブログとgooブログでは個別記事のアクセス履歴を取っています。以下はその記録に基づくTop5。この結果は、やっぱり、今年、2011年は、<2011年3月11日午後2時46分>の年だったということでしょうか。というか、<2011年3月11日午後2時46分>の前後で、世界史や近代日本史とまではまだ言えないかもしれませんが、間違いなく、その前後で大東亜戦争後のこの国の<戦後>は、その前と後とに両断されたのだろう。

もし、そのような認識も、満更、憲法9条教や憲法無効論、あるいは、無防備都市論/無防備地域論や「バーク保守主義」なる言説の如くには我田引水や荒唐無稽ではないとするならば、蓋し、「政権交代」だけが目的で成立した民主党政権下で、そいでもって、「政権の延命」だけが目的のさもしい、そう、「粗にして野であり、かつ、卑極まった」人物、菅直人氏の無能な内閣の時に<2011年3月11日午後2時46分>が惹起したのは、冗談抜きに、日本担当の歴史の女神様が、その歴史的意味を鑑みて、もって、演出効果と教育効果を考えられた熟慮の結果なの、鴨。

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いずれにせよ、1945年9月2日以前に生まれた戦後第一世代も、その時に生きておられれば2011年3月末には、遅くとも、漏れなく平等・公平に「65歳の停年」を迎えられたはず。ならば、1945年9月2日に20歳あるいは30歳だった、戦後の日本の復興をその最前線で担った戦後の社会人の第一世代は、その時、各々85歳と95歳だったということ。

而して、このように人間の寿命を鑑みても、<2011年3月11日午後2時46分>は見事なまでに戦後の時空を彼岸と此岸とに両断したものなの、鴨。畢竟、それは日本担当の歴史の女神様による神刀一閃だったの、鴨。

と、そう私は考えます。<2011年3月11日午後2時46分>を生き残った、
すなわち、時空のこちら側に残された日本国民は前進するのみとも。

尚、「では、どう頑張るのか」に関する、私の基本的な考えについては
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・政権奪還の順路☆自民党に期待すること/期待すべきではないこと
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60891539.html


而して、蓋し、畢竟・・・

б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ったよね、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ったよね、福島!
б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ったよね、日本!

б(≧◇≦)ノ ・・・もうひとふんばりしようね、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・もうひとふんばりしようね、日本!
б(≧◇≦)ノ ・・・君は一人/独りじゃない、福島!

б(≧◇≦)ノ ・・・原発カルトは恥を知れ!(←馬鹿は死んでも無理やろうけどね。)
б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!


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♔第一位

・何が浜岡原発停止だ! 事故を乗り越え福島とともに進む
 ☆原発推進は日本の<天命>である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60450789.html

♕第二位

・東日本大震災現地状況☆福島は雪
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60343727.html

♖第三位

・ドイツの大腸菌騒動
 -脱原発の<夢物語>は足元の安心安全を確保してからにしたらどうだ
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60533639.html

♗第四位

・地震と政治-柘榴としての国家と玉葱としての国民(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60340034.html

♘第五位

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60588722.html

♙次点

・覚書★アガサ・クリスティーという愉悦(起)~(結)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60877594.html

・書評☆古木宜志子「津田梅子」(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60632975.html
 

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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




◆グローバル化の昂進はB29の空襲よりも猛し

私達の郷里は福岡県大牟田市です。帰省する度にしみじみと思うのですが、故郷はやはり心地よい。この郷里に生まれて良かった日本人に生まれて良かったと本当にそう思います。「日本人の皮をかぶったアメリカ人」、より正確に言えば「九州人の皮をかぶったドイツ系アメリカ人」の私でさえそう思う。

しかし、日本では、例えば、今の小学生のほとんどが進学や就職して社会に出るだろう15年後、自分の「郷里」と呼べるコミュニティーを持つ日本人の割合は確実に減ると思います。実際、福岡県最南端に位置する私達の郷里であるこの地方都市の人口は、ここ40年間で約20万人から12万4千人と、38%近く減りましたから。

б(≧◇≦)ノ ・・・寂しい!

三池闘争で知られる、その福岡県大牟田市はかって三井三池炭鉱を擁する総合化学工業都市であり、大東亜戦争では1944年-1945年にかけて都合5~6回の空襲を経験しました。特に、1945年6月の2次に渡る空襲は激烈で各々100機を越えるB29の大編隊によるものだった由。この実質2晩の空襲によって誇張ではなく当時東東洋一を誇った大牟田の化学工場施設、ならびに、三井財閥の城下町たる大牟田市街は文字通り灰燼に帰しました。大牟田が被ったと同様の被害は、しかし、東京・大阪は言うまでもなく、室蘭も木更津も呉も被っている。まして況や、廣島・長崎においておや。

大牟田も長崎も廣島も東京も<B29>によって壊滅的な破壊を受けました。しかし、その後15年足らずで復興した。要は、それよりも早く終戦後10年以内にはそれらは<郷里>として再生を果たしたということ。然るに、(東)石炭から石油にシフトするエネルギー政策の転換、(西)京浜・京葉・中京・阪神エリアへの産業の移転、はたまた、(南)経済活動の東京一極集中という社会変動、そして、(北)企業の日本脱出、つまり、産業の空洞化という国際経済の動向の前には、我が郷里大牟田を含む<地方>の産業、而して、<郷里>は成すすべもなく解体させられています。

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重要なことは、この傾向は<地方>だけではないということ。実際、東京の神田や深川に行ってみなさいって、です。あるいは、神楽坂を歩いてみられたらこのことは誰しも肌で感じることだと思います。

畢竟、1945年12月8日に端を発する大東亜戦争の帰結として、<B29>が焼き尽くした神田も深川も、GHQによる占領が終わるか終わらないうちにほどなく、戦地や疎開先から戻ってきた江戸っ子の末裔や辰巳芸者の子孫達によって<郷里>として再建され復活した。しかし、神田も深川も、そして、山の手線内でほとんど唯一B29による戦災を逃れた神楽坂もバブル期に地上げを被り<郷里>は解体させられました。畢竟、グローバル化はB29よりも猛し、なのです。

バブルはGHQよりも猛し、産業構造の転換は核兵器よりも猛し、経済のグローバル化はB29よりも猛し。而して、「グローバル化はB29よりも猛し」という認識から「地方再生」が抱えている問題の構図はどう理解されるのか。私はそれを次のように捉えています。すなわち、

(1)<郷里>は土地ではなく、そこを<郷里>と感じる人々の心性に基盤を置いている

(2)<郷里>は一時的にはそのメンバーの多くがその土地を離れたとしても持続可能ではあるが、そのメンバーの多くが当該の土地において「社会生活-経済生活」を伴わない状態が持続する場合には、早晩、消滅する

(3)何故ならば、<郷里>の基盤たるそのメンバーの心性が<郷里>から離脱するから
 (そのような<郷里>は「父祖の地=ルーツ」という縁を帯びた<観光地>にすぎなくなるから)

(4)ならば、<郷里>再生の鍵は<郷里>の土地を媒介にして営まれる「社会生活-経済生活」を如何に恒常的にメンテナンスするか。不幸にして、ある郷里が消滅した場合、いかにして<郷里>を再構築するかという1点にかかっている。例えば、奈良県十津川村の人々が「郷里」たるこの母村を離れ、北海道の新十津川町という<郷里>を再構築したように。あるいは、イングランドからの移民が「郷里」を離れ、北米大陸に<郷里>たるニューイングランドの共同体を結んだように。


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それ以前から過大な相続税の負荷に押し出されたこともあり、地上げが横行したバブル期の前後までには、例えば、多くの江戸っ子の末裔は神田を離れ吉祥寺や三鷹、世田谷や杉並に移って行きました。他方、幸か不幸か神田に残った江戸っ子の末裔達は、自家の地所に5階建てなり10階建てのビルを建てそのペントハウスを住まいとしておられる。しかし、双方とも、謂わば「大地=ガイア」との交流を絶った人々にとって<郷里>のメンテナンスは至難を極めています。

春皐月、神田明神の祭りに吉祥寺や三鷹、世田谷や杉並から馳せ参じる江戸っ子の末裔は、最早、DNAを引き継いでいるという意味だけでの江戸っ子の<末裔>にしかすぎず、彼等も、漸次、神田の<郷里>メンバーではなくなるしかないのではないでしょうか。ならば、興味本位や失礼なもの言いに聞こえるとすれば私の本意ではないのですが、<2011年3月11日午後2時46分>に起因する福島の原発事故によって故郷を追われた福島県浜通りの人々が、その<郷里>を維持・復活させるには大変な困難を乗り越えなければならないことは想像に難くないと思います。閑話休題。



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◆資本主義との同衾がもたらすアンビバレントな愉悦

蓋し、「主義」の2文字がついているから紛らわしいのでしょうが、「資本主義」には「制度」の側面と「その制度を容認する理路・心性・主張」の二面があります。そして、(子)制度がすべてそうであるように、それは規範と状態の重層的な構造であり、かつ、(丑)言語や家族という自生的な制度がすべてそうであるように、交換を巡る制度たる資本主義の制度もまた時代によってその内容が変遷するものでしょう。而して、チャーチルが民主主義について語った顰みに倣えば、「資本主義は、所得と資源の分配と交換に関する最悪のシステムである、ただし、「社会主義」を筆頭に今まで存在したシステムを除けば」とは言えるの、鴨。

すなわち、現在の資本主義の制度とは、例えば、(一)所有権の制限、(二)契約の自由の制限、(三)過失責任の制限、および、(四)所得の再配分の導入、(五)ケインズ的な財政と金融における国家権力の政策の導入、(六)種々の国際的な制約という<修正>または<変容>を経た後のものなのです。と、高校の政治経済の復習的なコメントになりましたが、要は、・・・。

要は、これらの与件を<現実>として踏まえるとき、サッチャーもレーガンも、フリードマンもハイエクもある意味立派な「社会主義者-なんらかの資本主義の修正を前提とした社会思想・経済政策の唱道者」であったと言わざるを得ないということ。而して、再々になりますけれども、ケインズ政策の採用、並びに、労働基本権の確立や独占禁止法の導入等々によって資本主義が修正を加えられながらも立ち直ったように、(資本主義よりよりましな分配と交換の制度が登場しない限り)今後、投機的な金融と投資のあり方には大幅な規制と修正が加えられつつ資本主義は三度蘇るのでしょう。19世紀末-20世紀初頭と第二次世界大戦後の二回の復活の際と同様により強固な制度として。

畢竟、ある時代とある国家社会に限定したとしても、<保守主義>とは個々の経済政策のことではなく、経済政策を構成する諸施策のブレンドのレシピ、すなわち、配合比に顕現すると言える。そして、このような時間的と空間的の制約を外した場合、<保守主義>とは政策を構成する要素の配分比ですらなく、それは、(当該の社会と時代を生きる保守主義者に、その当該の時代と社会に最適な「政策の構成要素の配分比」を希求させるであろう)、冒頭の註に記した①~④という、<伝統>の価値を中核とする4個の態度のことに他ならないと私は考えます。以下、所謂「女系天皇制」を下敷きにして、クラインの壺の如き、あるいは、「父」と「子」と「聖霊」の間の三位一体の関係性の如き、<伝統>を巡る「個物と概念」の関係につき敷衍しておきます。

蓋し、<保守主義>が顕揚賞賛してやまない<伝統>は、例えば、「男系による皇位継承ルール」等々、その内容がある時点で固定した個々の伝統だけではなく、まして、「万世一系」という特定の<政治的神話>でもないでしょう。そうではなく、<伝統>としての「皇位継承ルール」とは、生態学的社会構造の変遷とともにそれに拮抗すべく恒常的に再構築される「皇統」の概念とその「皇統」概念の指示対象たる<皇統>の現実相に他ならない。否、より正確に言えば、新たな「個物」を、すなわち、新たな<皇統>を指示対象とする新たな「皇統概念」を再構築し続ける意思と態度と情念が<伝統としての天皇制>に他ならず、而して、そのような<伝統>に価値を置く社会思想が<保守主義>なのだと思います。尚、「女系天皇制」と<保守主義>との関連については下記拙稿をご参照いただければ大変嬉しいです。

・「女性宮家」は女系天皇制導入の橋頭堡
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60907124.html

・覚書★女系天皇制は<保守主義>と矛盾するものではない
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60896992.html


而して、資本主義は、確かに、(甲)利潤の追求が自己目的化する(資本の自己増殖を基本的には制御できない)、(乙)資源と所得の分配が基本的には<市場>に任せられ、<欲望の暴力>が支配する無政府状態的システムではあるが、その不具合を漸次修正しつつも人類は当座それと添い寝するしかない。畢竟、この諦観というか、現世利益を期待しない大人の態度からは(要は、保守主義の立場からは)、「倒産や産業の空洞化こそ資本主義の強靱さ(robustness)と資本主義社会の活気(dynamism and vitality)の裏面」とも理解できるの、鴨。

蓋し、個々の郷里の消滅もまたこの資本主義の強靱さと活気の一斑ではありましょう。けれども、<郷里>が前々項で述べたように人間存在にとって不可欠かつ必須なものとする私の理解が満更根拠のないものではないとすれば、再々になりますけれども、人間には個々の故郷の衰退消滅に関わらず、恒常的に<郷里>を再構築していく他に進むべき道はない。

蓋し、当分の間にせよ、期限未確定のその当分の間は「資本主義との添い寝」は不可避。而して、そういう、不本意な同衾の継続という不愉快な状況下で、しかも、<保守主義>はその憎むべき資本主義との協働作業の<結晶>でもある<郷里>を再構築し続けるしかない。しかし、<郷里>を巡るこのような不本意で不愉快な運命を誠実に生きる誇らしさ、このアンビバレントな愉悦とその希求。これこそが、左右の教条主義が囁きかける現世利益を一切排除する現在の<保守主義>を信奉する者が堅持すべき態度と覚悟であり、かつ、期待してもよい報酬である。

と、そう私は考えます。

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尚、老婆心ながら本記事に用いた画像について一言。
画像の<女神様>は、「中島みゆきさん=天照大神」「キムヨナ姫=神功皇后」と同様、
弊ブログでは「木花咲耶姫」と同一神格のほしのあきさんですよ、為念。


ヽ(^o^)丿


テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




◆格差と格差感あるいは格差感と閉塞状況

所謂「格差社会論」は全くの誤謬・妄想でした。けれども、他方、実際に「格差感」は広がっている。これは事実でしょう。就中、<都会>に比べた場合の<地方>の衰退・衰微は覆い隠しようもない現実。それはなぜなのか。蓋し、それは、日本社会において、

(A)全体の「パイ」が、総所得と総資産が縮小していること
(B)行動の選択肢の幅を規定する予測可能性が低下し、リスクが拡大し増大していること
(C)何より「敗者復活」の回路が極めてタイトになっていること


これらが理由なの、鴨。(A)は自明でしょうが、(B)に関して言えば、例えば、「CO2の25%削減」なり「脱原発路線」なる、時の首相の個人的な願望が、あたかも「日本政府」の方針でもあるかのようにして世界に発信される、そんな無責任な民主党政権の下では真面目な企業経営など怖くてできないということ。

実際、「原発の停止によって危惧されていた、2011年夏の電力不足も実際は生じなかった」(だから、脱原発社会は可能だ!)などの戯言は、多くの企業が、何時送電が打ち切られるか分からないような日本では「怖おーてアホくそーて商いなんぞできへんがな」と、電力需要を、よって、雇用を海外に移転させたからこそ成り立っただけのこと。そりゃー、企業が日本を脱出する、よって、雇用が日本を見放すという条件下ならば脱原発社会なるものも充分可能でしょう。人類が死滅した後の地球では振り込め詐欺も強盗事件も惹起するはずはないのですから、多分。

すなわち、(A)に属する、加速した日本経済の空洞化によって、雇用どころか起業の余地も漸減しているということ。加之、(B)の範疇においては、日本に残った企業も投資意欲が萎える結果、端的には、中高年と若年労働者の就職難の昂進に至る。而して、(C)はこれらの帰結でもあり、よって、(A)~(C)三者に必然的に付随する社会保障費の激増によって格差拡大どころか日本経済自体が破綻に近づきつつあるの、鴨。

いずれにせよ、「敗者復活」の余地の乏しい社会に健全な資本主義が生息し続けることは困難でしょう。よって、このままの流れの行き着く先は、(左)「the 99%」による社会秩序の崩壊か、(右)「the 99%」を宥めるための「パンとサーカス」を公費でとことん投入するギリシア化のいずれか、あるいは、(央)その両方ではなかろうかと思います。

要は、(もちろん、「公平感」を維持強化するためには、その施策は満更無意味ではないとしても)「富裕層や大企業/生活保護受給世帯は<ずる>をやって儲けている」「富裕層や大企業/生活保護受給世帯から<応分>の負担を徴収すべきだ」更には「富裕層や大企業/生活保護世帯受給世帯から<応分>の負担を徴収すれば充分に財政はまかなえる」という程度の、「黒幕史観」ならぬ「黒幕社会政策論」によっては、現下の日本の危機は到底打開できないだろうということ。

実際、政府が日銀に国債を買い取らせ、それにより確保した財源に基づいて手厚い財政出動を断行しようとも、企業の投資意欲と家計の有効需要に裏付けられない公共投資の効果は、文字通りの「絵に描いた餅」にすぎないでしょうから。そして、日本の国際競争力が維持強化できない限り、日本列島を逆さにしても社会保障費用など捻出できるはずもないのですから。

もっとも、大急ぎで補足しておきますが、例えば、2008年9月15日に勃発したリーマンショック後の緊急避難的な施策、つまり、短期的な施策としては(麻生内閣がそれを適切に遂行し、政権交代直後の民主党政権がご丁寧にもその施策を急停止させてその後の経済停滞を確実なものとしたように、)公共投資は現在でも財政政策の有力な選択肢ではあるのでしょうけれども。

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要は、この社会に迫る危機の正体。その究明に関しては、「格差」ではなく「格差感」が問題であり、而して、その「格差感」の源泉はパイの縮小と社会においても人生においても進行する予測可能性の低下、逆の面から言えば(ベックの言う意味での)リスクの拡大と増大をその中核とするこの日本社会の「閉塞状況」ではないか。と、そう私は考えるのです。

而して、誰の目にもこの危機の解決策はシンプル。すなわち、それは、

(a)生産性の向上と競争の公平化を苗床としたイノベーションの誘発によるパイの拡大、(b)それによって財政的にも可能になる「セーフティーネットの整備拡充」「敗者復活可能な社会」の実現。そして、これら(a)(b)を条件として説得力が担保されるであろう、(c)自己責任の原則の徹底によるモラルハザードの回避です。


例えば、自衛隊・警察・消防、医療・託児・高齢者および障害者のケアを除き、その生産性という意味では、最早、実質的な失業者である非専門的な職域の、地方と中央の公務員全員の平等な解雇を起爆剤とした起業活動の促進(それら現在の公務員が担っている業務は共に任期制の「籤で当選した住民」と公募で獲得した人材で行うこと)、あるいは、公立学校の全廃とそれに代わる「バウチャー」の支給等々、財政健全化と民間マーケットの拡大、加えて、自己責任の原則の啓蒙という一挙両得ならぬ一石三鳥的な施策は幾らでもあるのではないでしょうか。

実際、明治維新とは一種そのような、生産性の低い「公務員=武士」の労働力市場への放出に帰結したのであり、近代日本はそのような構造改革の上に成立したものでもあったのではないか。蓋し、将に今は、小泉構造改革再始動の秋であり、かつ、「王政復古=資本主義の原理原則への回帰」を宣言すべき秋ではないか。と、そう私は考えます。

尚、もちろん、そこに回帰されるべき資本主義とは、(19世紀末葉から20世紀初葉にかけて具現した「近代法から現代法への転換」の過程で、例えば、契約自由の原則と過失責任の原則の修正・所有権の社会的制限によって、資本主義がマルクスの預言を破って自己を再構築した如く)裸の資本主義ではなくて、少なくとも、(就中、「地方再生」というもう一つの課題を見据えるならば尚更なのですが、)金融と投資に関してはより厳格な制約を施されたものでなければならないでしょう。而して、このことには、それこそ、2008年のリーマンショックと2011年のEUの財政危機を目撃した人類史の現段階においては、反論はそう多くないのではなかろうかと思います。



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◆保守主義の社会政策の核心としての地方再生

繰り返しになりますが、重要なことは、保守主義の社会政策を断行しなければ、現下の欧州諸国の如く、日本がグローバル化の波濤を浴びて水没することは必定ということ。そして、様々の施策を駆使して<保守主義>がその具現を目指すべき目標の一つは、間違いなく、「地方再生」、すなわち、<郷里>の再構築ではないかということです。

蓋し、現存在としての人間とそのアイデンティティーを生態学的社会構造(自然を媒介とする人と人が取り結ぶ社会的な諸関係性の総体)の枠組みにおいて支える、「共同体=コミュニティー」としての<郷里>の強化、あるいは、恒常的なその再構築は現下の保守主義からの社会政策メニューの中でも高いプライオリティーが与えられている。と、そう私は考えます。

敷衍します。アリストテーレースが喝破した如く、その実存のあり方において「人間が「ポリス=社会」的動物」であり、かつ、その認識と思索の能力において、フッサールとウィトゲンシュタインが解明した如く、「人間の社会とは言語が編み上げる意味空間」でしかない。ならば、(言語が歴史の中で紡がれ編み上げられる制度であり、他方、歴史とはすべからく「ポリス=世間」、すなわち、<郷里>に包摂される人間存在の自己認識でしかない以上、)人間は<郷里>を持たずに生きることは不可能な存在でしょう。

ならば、グローバル化の波濤の押し寄せの前に<郷里>が消滅・消失しつつある現在こそ、保守主義は地方再生と<郷里>の再構築にコミットしなければならない。すなわち、シーシュポスの如く、生態学社会構造の変遷によって、就中、グローバル化の波濤の咆吼の前に恒常的に脅かされ崩壊させられる運命にある<郷里>を、しかし、恒常的に再構築したいと願う欲求から人間は逃れることはできないと思うのです。

よって、天皇制が女系天皇制をビルトインすることによって再構築され得るかもしれないように、時空を超えて、要は、必要ならば新天地に人間は<郷里>を復旧・復興・再建し続けるしかない。蓋し、保守主義の社会政策はこのような人間存在の本性に根ざす<郷里>の再構築という情念や願望と整合的でないはずはない。そう私は考えます。

では、地方再生、すなわち、<郷里>の再構築はどのようにすれば実現可能なのか? 

些かコロンブスの玉子的な回答になりますが、その要件の一つは、間違いなく「他の地域でも売れる競争力のある商品の生産体制」を地域にビルトインすることである。経済活動を包摂する社会関係の修復強化と再編再興の契機を度外視しては<郷里>の再構築などできるはずはないから。と、そう私は考えるのです。

蓋し、グローバル化に対峙して、よって、生態学的社会構造の変遷に拮抗し得る、「収益性の高い商品生産」を具現する産業のシステムとネットワークの整備、そして、それらと親和的な<郷里>の恒常的な再構築が回答。畢竟、(古代・中世と言わず近世においても、夥しい村落が発生しては、衰退し廃村になり、文字通り、現在、地面の下に埋もれている日本社会の現実を見るとき、あるいは、人類史上唯一、組織的な「産業資本主義」の発生が産業革命に先んじた英国で見られる、物流の便益のための夥しい小運河ネットワークの存在を想起するとき、)<郷里>とは本来そのようなものだったのでしょうから。加之、例えば、赤穂浪士が深川の吉良邸に討ち入った元禄の頃の<東京都民>は、そのほとんどが自分の<郷里>を離れて江戸に出てきた人々だったのでしょうから。

ならば、<鎖国>が、最早、不可能であろう現在、まして、英国の産業革命期の「機械打ちこわし運動:ラッダイト運動」の如き施策でグローバル化の波濤を防ぐことなど金輪際不可能なことも自明な現在、人類はそして日本は、グローバル化、すなわち、資本主義と当分の間添い寝し続ける覚悟を決める他の選択肢を持っていないのではないでしょうか。ならば、(正式に「離婚」が成立するまでは)その憎むべき配偶者と同衾して、而して、この憎むべき同衾相手との協働作業として<郷里>を再構築し続けること。これしか<保守主義>に残された道はない。と、そう私は考えます。

些か、叙述が現実から遊離してきました。よって、上記の認識。すなわち、

(α)資源と所得の分配と交換の、資本主義に優るシステムが確立されるまでの間は、資本主義と添い寝せざるを得ないという諦観、(β)<郷里>の死活的な重要性、(γ)資本主義を上手に制御しつつ、しかし、資本主義の原則とゲームのルールを遵守しながら、(a)「生産性の向上と競争の公平化を呼び水としたイノベーションの誘発によるパイの拡大」、(b)「セーフティーネットの整備拡充」および「敗者復活可能な社会」の実現、(c)「自己責任の原則の徹底によるモラルハザードの回避」を希求しつつ、その活動に整合的な<郷里>を恒常的に再構築することの重要性と必然性。


具体的な事例を通して、次項ではこれらの認識を<検算>したいと思います。 


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<続く>


テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




大東亜戦争の開戦(1945年12月8日)から66年、忠臣蔵の討ち入り(元禄15年12月14日:1703年1月30日)から大凡309年、そして、明治維新の王政復古の大号令(慶応3年12月9日:1868年1月3日)からは143年。なにより、<2011年3月11日午後2時46分>から272日目の今日。日本の内外で経済・財政政策の、よって、政治の制度疲労が露わになってきていると思います。

停滞する震災復興、圧倒的税収不足の中で税と社会保障に対する不公平感と不信が渦巻く日本。金融・財政のそのスタビライザーが<張り子の猫>であったことが露呈して崩壊寸前のEU。輸出の失速に伴い不動産バブルの崩壊が秒読みに入った感のある支那、および、(支那経済の失速にリンクして)風前の灯火状態が常態化した感のある韓国等々、マルクスの願望通り、世界は「世界同時革命前夜」の様相を呈しているの、鴨。

他方、しかし、早くも雲散霧消した感のある「the 99%」なるものによる徒花的のデモを尻目に、(民主主義なるものや基本的人権なるものの普遍性を勝手に信じ込み、現実の世界の具体的な主権国家の能力不足や「国際社会」なるものの無力、あるいは、正義に反する資本主義の不完全さに対して不毛なる責任転嫁を重ねるだけの他の思潮に比して)世界の社会思想的の運動圏内でも、左右を通して独り気を吐く趣のあるアメリカの草の根の保守主義(Tea Party Movement)の現状。

これらの状況を反芻するに、蓋し、人類史は、(私の考える、「保守主義」と「憲法」の内容の詳細については下記拙稿を併せてご一読いただきたいのですけれども)いよいよ<保守主義>と、就中、<保守主義の憲法論>の時代に突入しつつあるの、鴨。と、そう私は思わないでもありません(★)。而して、その<保守主義>とは、共同体としての<国家>と<郷里>に本質的な価値を認める立場であろうということも。

要は、現下の日本の政治に求められていることは、「小泉改革の再始動」と「地方再生」の同時実現であり、逆に言えば、それら一見トレードオフの関係にあるタスクを(スキー種目のノルディック複合の練達の選手よろしく、)より高いパフォーマンスで実現できる<政治>の具現が現下の日本においては死活的に重要な課題ではないでしょうか。

換言すれば、小泉政権当時の日本に専ら与えられていた課題が「構造改革の着手」であったとすれば、その一応の成功を受けた(要は、小泉政権が構造改革に着手したからこそ、その新たな課題設定も可能になったのでしょうが、)現下の日本の課題は「構造改革の再始動と加速」および「地方再生」の同時実現である。そして、後者は偶さかの政治課題ではなく<保守主義>が不可避的に取り組まなければならない「必須科目」である。と、そう私は考えるのです。


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★註:保守主義の意味

ここで私が言う<保守主義>とは、(例えば、社会思想の学説史博物館の陳列物にすぎない「バーク保守主義」なるものなどではない、)現在の現役の社会思想としての「保守主義」であり、それは次の4項目をその内容の核心として含む、而して、英米流の分析哲学と功利主義の哲学、並びに、新カント派の認識論、および、現象学と現代解釈学と親和性の高い「社会と社会内存在としての人間、それら双方のあるべきあり方」に関する世界観の体系のことです。

①左右の教条主義、就中、設計主義に対する不信と嫌悪
②慣習と伝統、歴史と文化の尊重と、それらの構築主義的で恒常的な再構築の希求
③国家に頼ることを潔しとせず、他方、国家の私的領域への容喙を忌避する、
 自己責任の原則の称揚と同胞意識の勧奨を支持する態度 
④差別排外主義の忌避
(①~③に共感・承認される外国籍市民の尊敬、および、その歴史と文化、伝統・慣習の尊重)
 

尚、換言すれば②の内容とは、(文化帝国主義の手垢のついた、かつ、根拠薄弱な「基本的人権」「国民主権」「個人としての人間の生命」なるものの価値を絶対視することなく、)現存在たる<自己>のアイデンティティーを根底で支える<歴史>としての<言語>によって編み上げられた<伝統>としての<政治的神話>のイデオロギーを肯定する、有限なる人間存在の自覚に貫かれた大人の中庸を得た態度。畢竟、個別日本においては、「天壌無窮、皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」というこの社会を統合している<政治的神話>を好ましいものとして翼賛する心性と態度。而して、時代の変遷の中で(例えば、女系天皇制を導入してでも)伝統と慣習の枠組みを維持し、かつ、恒常的に伝統と慣習、文化と歴史を再構築しようという態度であると言えましょう。

更に敷衍しておけば、②と③の矛盾と緊張を巡っては、「国民の法的確信」を基盤とする<憲法体系>の調整に委ねようとする志向性こそ<保守主義>の態度であり、よって、白黒はっきり言えば、「伝統」や「慣習」、「文化」や「歴史」の中には、<憲法体系>によって、つまり、<保守主義>によって守護されるべきものとその保障の対象から外されるものの種差が生じるということ。

而して、けれども、その両グループに属する各々の価値と規範の間の境界線はアプリオリに定まるものではなく、(例えば、現下の女系天皇制を巡る問題状況の如く)時代とともに変遷する「国民の法意識=国民の法的確信」に従い、「遂行論的-」あるいは「構築主義的-」に、厳密に言えば、現象学の言う「間主観性」の地平で自ずと定まるものと言えると思います。


・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444711.html

・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60902921.html

・「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60904872.html

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★註:憲法の意味

機能論的に観察された場合、ある国内法体系の内部においては、あらゆる下位の法規にその法的効力を付与し、他方、下位法規の内容に指針を与え制約するという、最高の授権規範であり、かつ、最高の制限規範である「憲法」は、それが存在する規範形式に着目する場合、

(イ)形式的意味の憲法:『日本国憲法』とか 『The Constitution of the United States of America』 のように「憲法:Constitution」という文字が法律の標題に含まれている憲法典。および、(ロ)実質的意味の憲法:「憲法」という文字が名称に含まれているかどうかは問わず、国家権力の所在ならびに正統性と正当性の根拠、権力行使のルール、すなわち、国家機関の責務と権限の範囲、ならびに、国民の権利と義務(あるいは臣民の分限)を定めるルールの両者によって構成されています。

すなわち、「憲法」とは、()法典としての「憲法典」に限定されるものではなく、()憲法の概念、()憲法の事物の本性、そして、()憲法慣習によって構成されている。而して、()~()ともに「歴史的-論理的」な認識の編み物であり、その具体的内容は最終的には、今生きてある現存在としての国民の法意識(「何が法であるか」に関する国民の法的確信)が動態的に確定するもの。

而して、それらは単にある諸個人がその願望を吐露したものではなく、社会学的観察と現象学的理解により記述可能な経験的で間主観的な規範体系なのです。もし、そうでなければ、ある個人の願望にすぎないものが他者に対して法的効力を帯びることなどあるはずもないでしょうから。   


・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444652.html

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444639.html

・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60899909.html



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◆小泉構造改革の「槍」を引き継ぐ秋

日本は今こそ小泉構造改革の槍を引き継ぎ、その旗を再度掲げるときなの、鴨。グローバル化の昂進に起因する欧州と日本における政治の機能不全とアメリカにおける保守主義の隆盛を鑑みるとき、私はそう思わないでもありません。

公共投資の乗数効果の逓減と「限界費用逓減の法則の消滅」が現実味を増す中で、福祉国家モデルの破綻、そして、福祉国家モデルの基盤の一つ、少なくとも、福祉国家思想のシャム双生児とも言うべきケインズ政策の神通力の融解が誰の目にも明らかになって久しい現在、その同じ<現実>を見据えて、小泉純一郎総理が、「旧田中派-竹下派」支配下の政治(「55年体制下の政治」とも言う。)の無能に起因する「失われた90年代」から日本を脱却させた構造改革の路線は、EUの崩壊と支那経済の失速が秒読み段階に入った現在、益々、その意義を高めているのではないかということです。

他方、日本ではいまだに「格差」あるいは「格差社会」なるものを論じる向きもある。けれども、所謂「格差社会論」は全くの謬論でしかありませんでした。すなわち、

親世代と子世代の職業における階層の固定化なるものを<暴露>したとされる佐藤俊樹『不平等社会日本』(中公新書・2000年)の主張は(佐藤氏が行なった各時代の40歳時点の職業の調査によっても)、高校進学率が30%の時代と90%を遥かに超えるようになった時代との比較、すなわち、高度経済成長が終焉を迎えるまでの工業化への過渡期(ホワイトカラー層が社会の少数派であった時代)と工業化が完成しポスト=工業化に入った時代(ホワイトカラー層が労働力人口の過半を遥かに超えている時代)の比較は無意味であり、よって、そう根拠のある主張ではなかったのです。

まして、(大部分の中小企業では実際にはそれは戦前戦後を通して根づいていなかったにせよ)雇用者-被雇用者双方の意識においても「終身雇用制」が崩壊したここ20年間における40歳時点の職業・所得を過去のそれらと比べることは全く意味がないでしょう。

また、一時世の耳目を集めた山田昌弘『希望格差社会』の主張も、結局、景気変動と産業構造の調整の部面での労働力市場を巡る現象を「格差拡大」と解釈しただけの主観的な主張にすぎなかったことは現在では自明です。

そして、なにより、富の社会的分布の度合を表す所謂「ジニ係数」の変化を根拠に日本社会における格差拡大を主張した橘木俊詔『日本の経済格差』(岩波新書・1998年)の主張は、大竹文雄『日本の不平等』(日本経済新聞社・2005年)等によって(橘木氏が根拠としたジニ係数の変化は、日本社会の少子高齢化に伴う世帯所得の見せ掛けの分布の変化であり)実証的に否定されたこと、少なくとも絶対的のものではないことも現在ではほとんど争いのない認識なのです。


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<続く>


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ジャンル : 政治・経済




鳩山元首相「関係ズタズタと米は思ってない」

民主党の鳩山元首相は5日、都内での会合で、沖縄県の米軍普天間飛行場移設問題について、「首相官邸で主導しながら(同県名護市の)辺野古以外にもあるかどうか探し続ける必要がある」と述べた。

鳩山氏は首相就任後、普天間飛行場の県外移設を模索したが、迷走の末、辺野古に回帰した経緯がある。

鳩山氏は「米国は、私によって日米関係がズタズタにされたとは思っていないはずだ」とも強調。首相退任後、オバマ米大統領から手紙が届いたことを紹介し、「(私が)普天間移設問題で頑張ったことに感謝する内容だった」と語った。

(読売新聞・2011年12月5日22時34分)
 

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20111205-OYT1T01141.htm
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111205-00000099-mai-pol


正直、公私多忙&公私多難の今、こやつのことを考える、否、意識しないといけないこと自体(←「誰もあんたに強制なんかしてへんちゅーねん」!)、不愉快極まりないのですが、ただ、それもこの国の哀しい現実。そして、現実は直視しなければならない。多分。

而して、そういう意味では「鳩山由起夫」というのは恐ろしい。
都の公家衆が、かって、武家の棟梁として躍進著しい源義家に対して、

「鷲のすむ深山には概て鳥はすむものか、同じ源氏とは申せども、
 八幡太郎はおそろしや」
『梁塵秘抄』

と警戒もし、賞賛もしたのとは違い、単純に、純粋に、
この「鳩山由起夫」という存在は恐ろしい存在なの、鴨。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。


野球の<故事>を引いて敷衍すれば、その昔、「相手バッターの狙い球を見抜くこと」が生き甲斐だった、<生涯一捕手>の野村克也氏が南海ホークスの選手時代(最後の1973年は監督兼任)、日本シリーズで五度対戦した巨人軍の長嶋茂雄氏の狙い球だけはついにわからなかったらしい。あの、お菓子のホームラン王ではなく世界のホームラン王の王選手のはわかったのに。

実は、長嶋氏は引退後、しばしば、「現役時代は相手投手の最も得意な球を狙っていた」と語っておられる。あるいは、「球種ではなくコースを狙っていた」ともTVで語られたこともある。おもしろいのは、別の機会には「コースではなく球種を狙っていた」とも述べていること。

もっとも、この長嶋談話について私が更におもしろいと感じたのは、「球種」のときも「コース」のときも、長嶋氏は「だってコースは/球種は沢山あるけれど、球種は/コースは数が限られていますから」と語っていること。これ、民主党のマニフェストと民主党政権の予算案の齟齬には及ばないが、それに迫る論理矛盾、鴨。閑話休題。  

б(≧◇≦)ノ ・・・流石はミスタージャイアンツ!

でもね、でもですな。相手打者の狙い球分析にかけては当代の最高権威であろうこの(監督経験通算24年、1565勝の名将にして、日本プロ野球史上最高の捕手の一人と目される)野村克也氏は、「長嶋は、投手の最も得意な球も、コースも球種も狙ってはいなかった」と実体験に基づきそう確信されていた由。

で、両者ともに引退した後のある日、長嶋氏の「解説」というか「コメント」を聞いていて、

「長嶋はバッターボックスで何も考えていなかったんじゃんないのか!?」、と。

ふと、野村氏そう思ったらしい。

野村氏は、そこで、(「なーんだ、こっちがあれだけ考えていたのは馬鹿みたい」とかじゃなくて、逆に、)現役当時の対戦の場面を回想するに、改めて「長嶋茂雄」のことがそら恐ろしくなったとか。

フィールドでもベンチでも、ブルペンでもベンチ裏の素振り鏡の前でも、みんなが、みんなが、みんなが必死になって、それこそ、脳髄から汗が滴り落ちるくらい必死に、バッテリーは打者の、打者はバッテリーの狙い球を読んでいるというのに、ただ一人、そして、ただ独り、なーんも考えていない奴が、満員の観客がスタンドを埋める日本シリーズのバッターボックスにいたかもしれないという現実の(それが、「可能性」にすぎないとしても、その可能性の)不気味さに、「長嶋茂雄」という存在が一層恐ろしくなったとか。


確かにそれは怖いよね。それは、多分、『三国志』の注釈書『漢晋春秋』に見える故事、

「死せる孔明、生ける(司馬)仲達をして走らしめる」
よりも怖い、鴨。

ことほど左様に、無策に策は勝り、愚策に上策は勝るけれど、無に策は負けるの、鴨。
もちろん、最後の項の「勝ち負け」は<有害さ>の度合いにおいてですけれども。

蓋し、マッチ棒で大阪城や国会議事堂、まして、東京タワーを作るのは難しくても、
それを壊すのは2歳の幼児にも、子猫にも容易にできるのと、
この経緯はパラレルなの、鴨。

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で、鳩山氏。別に、子猫のちびくろちゃんがマッチ棒の新東京タワーを壊そうが、長嶋氏の「狙い球」がなんであったろうが、若しくは、その狙い球の説明に論理矛盾があろうが日本にも世界にも影響は多分ないだろうけれど、この御仁の存在は有害ではないでしょうか。

外交儀礼として、退陣した、一応は同盟国の首相に対して「普天間移設問題で頑張ったことに感謝する」手紙を送るのは当然のことでしょうが、それを、首相在任中の自分に対するアメリカ政府の支持と読み取ることの方は「常識ないわ」というもの。

それ、正に、冷静に自己分析できない自愛の塊にして初めてできる所行、鴨。と、そう私は考えます。「愛は誤解から生じ」「真理は曲解から生じ」「鳩山由起夫氏の有害無比の戯れ言は自愛から生じる」とも。無知の知ならぬ、無自覚の自愛ほど有害なものはこの世にないのではないか、とも。   

いずれにせよ、アメリカ大統領が表する「日本の元首相への敬意=天皇陛下と日本国民への敬意」でしかないことを看過して、「オバマ大統領からの日本の元首相への敬意表名=自分の言動への支持の確認」とかってに受け取る、脳天気とか脳内お花畑を通り越した、自愛と無自覚の純粋結晶が、内外に難題山積の政治のバッターボックスにいまだに立っているということは、誹謗中傷、揶揄嘲笑の域を3オクターブ程突き抜ける不気味さを醸しだしてはいないでしょうか。

この有害かつ不気味な存在。実は、アメリカや台湾、東南アジア諸国や南アジア諸国だけでなく、あの反日・特定アジア諸国の支那も韓国もそう思っていた節がある。否、それは確実と言ってもよい。なぜならば、「鳩山由起夫」はアジア・太平洋地域における国際関係の不安定要因であり、その発言の内容が(唯一の同盟国アメリカはもとより)日本国内でも支持される可能性がほとんどない以上、「鳩山由起夫」の反日発言に飛びつこうものなら、日本国内での特定アジア批判がより強固になり一層激化することは子供にもわかることだろうからです。

要は、支那や韓国にとっても「鳩山由起夫」は迷惑な存在だったの、鴨。
畢竟、なーんも考えない<自愛の塊>は世界共通の敵なの、鴨。


而して、「鳩山由起夫」を契機に考えた、
「政治家の有害さ」に関する私の現在の所の結論は下記の通り、


◇結論:政治家の有害度数表

売国<馬鹿<無能<無能かつ私利私欲の菅直人
<基地外<何も考えない鳩山由起夫


と、そう私は考えます。

而して、日本担当の女神様にお願いしたい。


б(≧◇≦)ノ ・・・すみません、可及的速やかに<これ>を処分してください!


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ご新婚早々でお忙しいかもしれませんけれども、そう女神様にお願いしたいです。
もちろん、<これ>、あんまり美味しくはないと思いますけれどもね(笑)

笑い事ちゃうちゅーねん!

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。



テーマ : 民主党
ジャンル : 政治・経済




皆様もご存知の通り、新語・流行語大賞、そう、毎年恒例の「今年の流行語大賞」が決まりました。今年、東日本大震災の年、2011年の新語・流行語の年間大賞は、「なでしこJapan」! 実は、個人的には、

б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ろうね、日本!
б(≧◇≦)ノ ・・・ 頑張ろうね、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ろうね、福島!
б(≧◇≦)ノ ・・・風評被害を撒き散らす脱原発カルトは恥を知れ!
б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!


のどれかを(密かに?)押していたのですが。でも、実際、入賞した他の言葉の中には軒並み「東日本大震災関連語」が入ったとか。

而して、この選考結果は、ある意味、口では表せない苦難・苦境を突き抜けて、「でも、頑張ったね日本、頑張れるさ日本」という日本国民の今年の心象風景の構図を、大賞受賞の「なでしこジャパン」を含め入選した語彙のラインナップを通して日本担当の流行語の神様が描いてくださったということなの、鴨。

入選したこれら10個の語彙が形成する模様・星座(the configuration)を鳥瞰するとき、私はそう思わずにはいられませんでした。而して、政府や国にはあまり頼らないでおこうという覚悟。よって、日本人同士の絆、および、友達である同盟国アメリカと日本との絆をこそ頼りにする、そんな、<保守主義>と親しい、凛として清々しい日本人の心意気がこの選考結果に流れ込んでいるの、鴨。

ということで、以下、今年の新語・流行語大賞の決定を報じた英文報道の紹介です。尚、<保守主義>に関する私の基本的な理解については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。
  
・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444711.html

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444639.html

・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60902921.html


б(≧◇≦)ノ ・・・来年も頑張ろうね、日本!



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Nadeshiko’ buzzword of year, 3/11 terms next

"Nadeshiko Japan," the nickname of the women's national soccer team, has been awarded a high-profile prize for being the No. 1 buzzword of the year.

A selection panel of U-can Inc., an education and career support company, every year chooses 10 buzzwords for the U-can Shingo Ryukogo Taisho prizes.

Five of this year's top 10 words are related to the March 11 quake-tsunami disaster.

The soccer team became a national sensation when it scored its stunning triumph in the World Cup in Germany in July, providing hope and vitality as the country struggles to recover from the devastation of the triple whammy in March from the earthquake, tsunami and nuclear crisis.   

The disaster-related phrases that generated the most buzz are "kizuna" (human bonds), "kitaku nanmin" ("refugees" who can't get home) "kodama de shouka?" (is that just an echo?), "3.11" and "fuhyohigai" (harm caused by unfounded rumors).

Kizuna came in for repeated use by people and the media to emphasize the importance of human sympathy and relationships in helping survivors of the monster disaster.

Kitaku nanmin refers to people who have difficulty going home due to transportation disruptions after a natural disaster.

Kodama de shouka is a phrase from a poem by poet Misuzu Kaneko that was used in a public service commercial by the Advertising Council of Japan. The ad was aired numerous times after the disaster to say that people respond with kindness when treated kindly by others, in repetition.

Fuhyohigai has been often used to refer to severe financial damage farmers and fishermen suffered due to public fears of radiation from the Fukushima No. 1 plant. 

The selection committee didn't rank the nine words after Nadeshiko Japan, which received massive media coverage this year. No Japanese national team, male or female, had before been crowned world champion by FIFA.

Nadeshiko is a flower unique to Japan, and the word is often used to describe beautiful and strong Japanese women.・・・   



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今年、最も流行った言葉は「撫子」、東日本大震災関連語がそれに続く

「なでしこジャパン」、サッカー女子日本代表チームのこの愛称が、年間で最も人の口の端に頻繁に上った言葉に与えられる、世間からも強い関心が寄せられる賞を受賞した。

ユーキャンが作る選考委員会は、ちなみに、ユーキャンは教育支援と進路支援を生業にしている企業なのだけれども、その委員会は、毎年、世の人々の口の端に頻繁に上った10個の語彙を選びユーキャン新語・流行語大賞を授与している。

今年、入賞した10個の言葉の中の五つは3月11日の震災と津波の災害関連の語彙が占めた。

サッカーの女子日本代表チームは、七月にドイツで開催されたワールドカップで衝撃的な優勝を飾り、日本全体を興奮の渦に巻き込んだ。而して、地震・津波・原発事故という三月に惹起した三重の不運による壊滅的な被害からなんとか立ち直ろうと喘いでいたこの国に、希望と勇気をなでしこの優勝は与えることになったのである。    

入賞した震災関連の流行語には、「絆:人と人との結びつき」「帰宅難民:帰宅できなくなった「難民」のような人々」「こだまでしょうか:それはこだまだけのことでしょうか」「3・11」そして「風評被害:根拠薄弱な噂が引き起こす被害」が含まれている。

絆は、空前絶後の今般の災害の被災者支援に際して、対等な人間と人間の間に成立する共感や同情、そして、人と人との結びつきの大切さを強調しようとする論者やマスメディアがこの言葉を繰り返し用いたこともあってのランクイン。

帰宅難民とは、自然災害による交通機関の不通に伴い帰宅することが難しくなった人々のこと。

こだまでしょうかは詩人の金子みすゞ【1903-1930】の作品の中の言葉である。ACジャパン制作のある公共広告がこだまでしょうかを使用したもの。この広告は、その広告は、東日本大震災の後、何度も何度も、繰り返し繰り返し放送され、人は他人に親切にされると親切をお返しするものなのですというメッセージを視聴者に訴えかけた。

福島第一原子力発電所が放出した放射能に対する遍く広まった恐怖感に起因する、農家や漁民が深刻な経済的損害を受けた現象を指し示す言葉として風評被害はしばしば人々の口の端にのぼっている。   

選考委員会は、年間大賞を受賞したなでしこジャパンを除き、入賞・入選した九つの言葉に順位をつけてはいないけれど、しかし、なでしこジャパンという言葉が、今年、マスメディアを通して頻繁に用いられ話題になったことは間違いない。男女を問わず、FIFA主催の世界大会で優勝した日本の代表チームはこれまでなかったのだから。

ちなみに、撫子とは日本に固有の花の名前であり、他方、なでしこという言葉は、美と力を併せ持つ日本女性を象徴する言葉としてしばしば用いられている。(後略)   


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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




ブログ仲間の桃実姫の転記記事です。内容は件名の通り、そのものずばり「アメリカン航空も連邦破産法の適用を申請!」「どうなる世界経済! 大丈夫か資本主義?」。で、その問いに対する回答は、桃実姫も私も、「大丈夫さ!」「連邦破産法申請で、アメリカン航空はいよいよ大丈夫さね」です。

さて、「Chapter 11」とは、アメリカでは普通、「United States Bankruptcy Code:連邦破産法」の11条(章)のことを指して用いられる言葉。而して、この「Chapter 11」は、企業の破綻処理の手法の中でも「reorganization:再建・再生」の手続きを定めている条項。

で、誤解を恐れず白黒はっきり言えば、「Chapter 11」とは、「liquidation:清算」手続きを定める同法の「Chapter 7」とは異なり、日本の民事再生法の手続きに当たるもの。つまり、、「Chapter 11」の申請とは、倒産して会社がなくなるのではなく、会社の再生に向けて、司法の後見と指導の元に、会社の資産を保全して、他方、債権者に対して借金の圧縮や棒引き、支払いの繰り延べをこれから相談させていただきますよ、ということ。





而して、本文で述べられている桃実さんのアメリカ人のご主人の意見に私も賛成。
そして、桃実姫の最後のセンテンスに同意します。

実際、2008年のリーマンショックや、今般のEUの財政・金融危機という羹に懲りて(あるいは、福島の原発事故に悪乗りして)膾と法螺を吹く、而して、「資本主義は終わった」とかのたまう論者が日本では少なくない。そういう論者と議論が存在すること。それは事実でしょう。而して、世界的に見れば、寧ろ、それは恥ずかしいことなの、鴨。

なぜならば、「社会主義の勝利は歴史の法則」と強弁して、「マルクスの史的唯物論の無謬性」を詐称したかってのマルクス主義者達とは違い、保守系の論者は、史上誰一人「資本主義は完璧な制度だ」などと言ったことはないのですから。というか、そんなこと、夢にも思ったこともないでしょうからね。

ただ、チャーチルが民主主義について語った顰みに倣えば、「資本主義は、所得と資源の分配と交換に関する最悪のシステムである、ただし、「社会主義」を筆頭に今まで存在したシステムを除けば」とは言える。保守系の論者の中にはそのように考えた論者もいたのかもしれませんけれども。そして、「マルクスの史的唯物論」などは「マルクスの唯の私的な呟き」にしかすぎなかったこと。このことを1989年-1991年の社会主義崩壊の前後に全人類が目撃したのではないかと思います。

ならば、確かに、資本主義は、例えば、①利潤の追求が自己目的化する(資本の自己増殖を基本的には制御できない)、②資源と所得の分配が基本的には<市場>に任せられ、<欲望の暴力>が支配する無政府状態的システムではあるが、人類は当座それと添い寝するしかない。畢竟、この諦観というか、現世利益を期待しない大人の態度からは(要は、保守主義の前提に立てば)、「倒産こそ資本主義の強靱さ(robustness)と資本主義社会の活気(vitality)の裏面」でもある。そうも言えるの、鴨。私はそう考えます。以下、桃実姫の記事転記転載。







American Airlies has finally filed for Chapter 11


とうとう、American Airlines (アメリカン航空)も連邦破産法の適用を申請した。
私のような1個人のところにも、下のようなメールが届いた。

As you may know, on Tuesday, November 29, American Airlines filed for reorganization under Chapter 11. We took this action as part of our efforts to secure our long-term success in delivering the highest standards in air travel. We are committed to meeting your travel needs with outstanding customer service and safety, and it will be business as usual at American throughout our reorganization process. More than 80,000 people at American appreciate your loyalty and look forward to continuing to serve you.

We want to assure you that your AAdvantage® miles are secure. The AAdvantage miles that you've earned are yours and will stay yours, subject to usual policies, until you choose to redeem them for a great award with us. Likewise, your elite qualifying miles and your elite status, including lifetime status granted under the Million MilerSM program is secure and remains intact. You will continue to earn miles through all our existing AAdvantage participating companies and you will be able to redeem those miles for the same great awards — flights, upgrades, car rentals and hotels just to name a few. And, throughout the coming year, we will be adding even more opportunities to earn miles, as well as new ways to redeem those miles.

American is honoring all tickets and reservations as usual, and making normal refunds and exchanges. And, we intend to maintain a strong presence in domestic and international markets. As we and all airlines routinely do, we will continue to evaluate our operations and service, assuring that our network is as efficient and productive as possible. Additionally, relationships with our oneworld Alliance and other codeshare partners are continuing to provide you with opportunities to earn and redeem miles for travel to hundreds of destinations worldwide, and we are honoring all tickets and reservations for travel on our partner airlines as usual. For information about American's reorganization process, please visitAA.com/restructuring.

Even more importantly, we remain committed to providing a superior customer experience with a focus on delivering what our customers value most — the newest fleet with our upcoming aircraft deliveries, network strength in the important cities of the world and world-class products, service and technology.

American Airlines has a proud history, and we will have a successful future. All of us on the American team thank you for your loyalty and we look forward to welcoming you aboard soon.

Sincerely,


Maya Leibman
President — AAdvantage Loyalty Program



長いメールだが、要約すれば、破産法の適用を申請したけれど、これまでどおり飛行機は飛ばすし、あなたのマイレージは何ら影響を受けない、心配ない、ということだ。はあ。

昔、元JALの客室乗務員だった知人がいたが、彼女いわく、入社式当日、
社長がスピーチで、「みなさん、旅客ビジネスは絶対に黒字にならない産業です」と、
堂々言い放ったのだという。

どの社長さんだったか不明だが、なかなかの御仁である。これがしばらくすると、社員はみんな、御用組合から極左組合まで、10いくつもあったところに所属しだすんだから。ったく、航空業界は組合の巣窟である。昔、団体交渉をした経験がある身としては、彼らはまるで「社内生活保護申請者」であった。働くよりまずもう休暇、カネ、権利。

うちの旦那いわく、

「American was the only major airline that had not gone bankrupt since 9/11. As a result, they were saddled with the highest labor costs. They should be fine once they get through the bankruptcy」


(アメリカンは、メジャーな航空会社の中で、9・11以降まだ潰れていない唯一の会社だったが、そのせいで、もっとも高額な労働コストを背負う羽目になった。破産すれば楽になるだろう)とのこと。

わが日本国も、一度破産しなければ、外国人生活保護者を本国に引き取ってもらったり、働けるのに働かない生活保護者に強制的に仕事をあてがったり、偽装離婚して○○手当てをもらっていながら「少ない」と訴える馬鹿女たちを叱り飛ばすとかできないものだろうか。


転載元: Shalom! 桃実の部屋


テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




このエントリーは過去記事の「新装版」です。なんと、2005年3月5日午後1時13分の記事。そう、<2011年3月11日午後2時46分>から遡ること6年前のもの。国政選挙だけに限っても、あれから、いろいろありましたよね。

平成の大宰相・小泉純一郎首相の「郵政解散-郵政総選挙」(2005年8月8日-9月11日)、与党が過半数割れを喫した安倍内閣の参院選惨敗と本格的な「ねじれ国会」時代の到来(2007年7月29日)、政権交代だけが目的の民主党政権の誕生(2009年8月30日)、日本の(否、世界の?)憲政史上最悪の宰相・鳩山由起夫氏と同じく日本史上最低の首相・菅直人氏に鉄槌と退場勧告の洗礼を浴びせた参院選(2010年7月11日)による「ねじれ国会」の再現。そして、東日本大震災(2011年3月11日)

而して、政権の一日でも長い延命だけが目的の菅内閣の、よって、東日本大震災の復興とその他山積する内政外交案件を放置したままの頓死(2011年8月30日)。と、政権交代だけが目的の政権交代からちょうど2年。政治史的には、ここに民主党政権の<役目>は終わったと言えるの、鴨。蓋し、

「政治や国にそう多くは期待すべきではないが、さりとて、「誰が首相になっても、どの政党が政権を取っても同じ」ということでは絶対にない」「進出著しい支那、並びに、恥知らずというより常識知らずの韓国を近隣に持つ不運を抱えながら、而して、昂進著しい現下のグローバル化の波濤から日本国民を守護してくれるものは独り日本の国家しかなく、取りあえず同盟国のアメリカと自民党に期待するしかないにしても、日本において本当に頼りになるのは皇室と自衛隊だけだよね」   


ということ。長い目で見ればこの<貴重な教訓>を日本国民に残したことが、この6年間、就中、そのガバナンス能力の欠如を日本と世界に見せつけた2年間のシャビ-な民主党政権の<役目>若しくは<意味>だったと言えるのでしょうか。もし、次の総選挙における自民党の政権奪還まで日本が日本として存在していればの話ですけれども。

但し、(「放射線被曝を避けるためには死んでもいい」じゃなかった「次の総選挙まで一日でも長く議員バッジを付けていられるためには日本が崩壊してもいい」と考えているだろう)大部分の民主党議員が、2013年9月の衆議院の任期満了を、少なくとも、1年以上残した時点での解散を了承するかどうかはかなり疑問。だから、日本の将来は、これからの最長2年間に亘る「国民と民主党政権の我慢比べ」の帰趨にかかっているの、鴨。

しかし、いずれにせよ、個人的にも波瀾万丈と言えば大げさだけれど紆余曲折を経験した6年間、この6年間のこの社会の来し方行く末を回想して思ったことがあります。それは、

それは、文字通り、「国破れて山河あり」の境地。
日本は素晴らしいなぁー、という偽らざる感慨。


アメリカ在住のある福島美人のブログ友の記事(↓)を契機に、本当に久しぶりにこの過去記事を読み返してみてそう思いました。「日本人の皮をかぶったアメリカ人」より正確に言えば「九州人の皮をかぶったドイツ系アメリカ人」の私でも、否、「日本は可及的速やかにアメリカの51番目の州に<格上げ>してもらえるように努力すべきだ。目指せ第二のルイジアナ州!」が持論の私であるがゆえに一層、そう感じたということでしょうか。何事もその値打ちは外から見ないとよく分からないものでしょうからね。

ということで、以下6年前の記事の転記。ちなみに、上の前口上で述べた事柄、「自民党に期待すべきこと期待すべきではないこと」、加之、「政治に期待すべきこと期待すべきではないこと」を巡る私の主張に関しては下記拙稿(↓)を併せてご一読いただけるようなら大変嬉しいです。

・ブログ友kadyshamusa姉さんの記事:ホテルでら~めん♪
 http://blogs.yahoo.co.jp/kadyshamusa/35912383.html

・政権奪還の順路☆自民党に期待すること/期待すべきではないこと
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60891539.html


б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ろう、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ろう、福島!
б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ろう、日本!
б(≧◇≦)ノ ・・・破廉恥どころか違法な風評被害をまき散らす脱原発カルトは恥を知れ!
         まあ、死んでも無理だろうけど(笑)←笑い事ちゃうちゅーねん!

        (ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。

б(≧◇≦)ノ ・・・而して、保守改革派の皆さん、共に闘わん!



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カップヌードル

2005/3/5(土) 午後 1:13-【書庫:日々雑感】


今日、久し振りにカップヌードルを食べた。寛子ちゃんは出張で週末は京都に行っているし、二日酔いだし、朝食は抜きで、昼食にカップヌードルを食べた。美味しかった。

今、猛烈に忙しい。仕事がである。そんな時に限って、大学や大学院時代の後輩や前の会社の同僚、はたまた、日頃交流のあるネット世界の同志達から「新宿で飲もう」「京都から今度の日曜日K先生が上京されるのだが集まらないか」等々のお誘いやら強迫が舞い込む。

嬉しい限りだ。頭と身体と胃袋と肝臓は生きている内に使わなきゃね。今日も、来週の社内プレゼン用の資料を作成し、知人から頼まれた翻訳のための下読みをした。翻訳していると落ち着く。そう編物と一緒だ。精神を集中しながらぼーっとできる、とでも言おうかね。翻訳は好きだね。それにしてもカップヌードルは美味しい。何時食べてもそう思う。


私は、大学生の頃、フェミニズムを語る人々が自然食やベジタリアンの運動にかなり強い相関関係をもって引き付けられることに奇異な感じを受けていた。また、そのような人々の多くが遅れて来た/裏切られたマルキストであるらしいことにはなお更疑問を感じていた。マルクス主義はそのオドロオドロしくも厳しい用語や論理展開のスタイルを剥ぎ取った時、それはどう見ても、近代合理主義の鬼子であり(否、嫡出子でさえあると思う)、その合理主義的な世界観とフロイト流のフェミニズムおよびエコロジー思想が、矛盾はしないまでも親和性がそう高いとは思えなかったからである。

あの頃のKABUは若かった。今よりも遥かに未熟だった。

なーに、簡単なことだ。基本的にはマルクス主義の世界観を維持した上で足りない部分(マルクス主義で説明のつかない現象に、)フロイトやエコロジーを膏薬のように貼っているだけのことなのだ。こっちが、真面目に体系的整合性とか考えてあげるのは「深読み」というもの、寧ろ、「余計なお世話」というものだ。最近、歳とって世間擦したせいかそう考えるようになった。要は、論理的にではなく知識社会学的に、左翼思想を持つ人々とフェミニズムおよびエコロジーの思想に好感を持つ人々が、日本の1970年代から90年代にかけて、重なっていただけのことである。【今般の福島第一原子力発電所の事故で、この「野合」は2011年現在での続いていることが確認できたの、鴨】

そんなこと考えながらカップヌードルを食べた。それにしても、カップ麺といえばカップヌードルである。そして、ラーメンと言えばカップヌードルでしょう。これには思い出がある。2つエピソードを紹介しよう。


大学時代の彼女んちが、それはもうエリート左翼の家庭で、お母様が<自然食>と<男女同権>にうるさい方だった。その家庭では、合成着色料とか添加物とかはサリンよりもトリカブトよりも<悪>とされていたくらいの、それはそれは<御健全>かつ<ハイソ>なお家。

そんな家庭で、大学時代の私の彼女が中学生の反抗期に何をしたか? 

彼女はお小遣いでカップヌードルを買ってきて、お母様と妹さんの見ている前で食べたとか。彼女の妹さんはその事件(その家庭では「カップヌードルの乱」と呼ばれているらしい。)から7年後に、「人生で最大のショックを受けた光景だった」と私に対して仰った。げに、左翼上流階級のやることはわからんです(笑)。


ちなみに、KABUの故郷、福岡県大牟田市のラーメンは、いまでいう、「長崎ちゃんぽん」だった(リンガーハットのそれと考えて頂いて大きな間違いはない)。私は、大学進学のために京都に出たのだが、「都会では「ラーメン」が<支那そば>で、<ラーメン>を「ちゃんぽん」というのか」と最初思ったくらいだ。

いままでの人生で一番美味しいと思ったラーメンはカップヌードルである。中学3年生の時に(確か、「卒業旅行」で行った京都府は天橋立のドライブインもどきの雑貨屋さんで)、うまれて初めて食べた日清カップヌードル。

長期出張で廻っていたアメリカの中西部の奥地(どこや!)で毎日毎日、オートミルとハンバーガーとサニーサイドエッグまたはスクランブル・・・、で暮らしていて、ふと立寄ったオリエンタルフーズの店で入手したこれまた日清カップヌードル。

当時【今でも?】、東洋人自体珍しかったウィスコンシンのハズレの街に立寄ったその時は、モーテルに入るなりすぐ食べた。美味かった。本当に美味しかった。あの瞬間から、私は真正の民族主義者になったのだと思う。そう胃袋で痛感した。

カップヌードルはエコロジー思想に対する激しいアンチであり、エコロジー思想という羊の皮を被ったマルクス主義の狼に対する強烈な批判を内在している。蓋し、それらが解体し空洞化せんとするナショナリズムへの攻撃に対してカップヌードルは堅固な防波堤でありそれらの害毒に対する強力な解毒作用を持っているのではないか。とかなんとか考えて今日の昼食も終わった。 



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◆元記事KABUコメント抜粋

海外、特に、アメリカで販売しているカップヌードルはグルタミン酸ナトリューム(←味の素)が抜いてあり、なんか気の抜けたビールのような味ですよね。けれど、2週間以上日本を離れていると、それさえも日本を感じてしまう。産卵のために遡上する鮭はその匂いや味を頼りに自分が産まれた川を見つけると言いますが、鮭さんの気持ちがよくわかるというものです。

2008/9/20(土) 午後 1:28   


日本のコンビニで売っている最近の「高級カップ麺」(笑)、大体、350円前後ですが、正直、下手なラーメン屋さんのラーメンより美味いです。聞くところによると、ブランドを維持するためにそれこそ水面下では凄まじい資金と担当者の方々の情熱が注がれているとのこと。だからこそのブランド。それこそブランドというものでしょうね。

変わらないために変わる。『鏡の国のアリス』の中で、確か赤の女王様がアリスに「止まっているためには最低でも二倍のスピードで走らなければならない」(←何の2倍なの?)と諭していましたが、ブランドの維持というのはその愚直な実行ではなかろうか。そう私は考えています。

2008/9/20(土) 午後 1:33  
  

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◆【おまけ:関連記事】

・英文読解 one パラ道場:健康的で塩分少なめの製品開発を狙う日清食品
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/74f4427e01d068755ffa3723b62a7bef


テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




脱原発論は「人間の万能感-権力の万能感」に骨の髄まで汚染された文化帝国主義的の言説ではないでしょうか。それは「人間の有限性の認識-絶対的な価値の否定」を根幹とする、価値相対主義と親和的な現代の<民主主義>の社会思想、そして、そのような社会思想を基盤とする現代の憲法秩序を否定するもの、鴨。而して、それは、疑似科学と衆愚政治の合体、すなわち、「ファシズム」そのもの、鴨。そう私は考えます。

現下の日本社会で跳梁跋扈している、「放射能=危険」「原発=絶対悪」的な言説や風評被害の凄まじさは、正に、「狂乱」と呼ぶにふさわしい。それは、福島原発事故という羹に懲りて脱原発カルトという膾を吹く類の愚行。オイルショックの際に、商社から庶民に至るまでトイレットペーパーを買いあさり溜め込んだのとパラレルな噴飯ものの滑稽譚、鴨。

例えば、武雄市の瓦礫受け入れを撤回に追い込んだ脅迫を始め、京都五山の送り火の薪、愛知県の打ち上げ花火、大阪の橋梁、甚だしくは、福島県物産のアンテナショップ開店が阻止された福岡の事例等々。脱原発の論陣を張る放射線医学の専門家さえその健康被害の危険性を認めることには躊躇せざるを得ない、そんな微量の放射性物質の検出、否、放射線被曝による健康被害惹起の「社会学的蓋然性」、否々、「論理的可能性」、否々々、放射線被曝による健康被害、就中、子供達の健康被害を<連想>させることだけが理由としか説明しようがない言い掛かりのオンパレード。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。

家康が豊臣氏殲滅行動の発端に利用した「君臣豊楽-国家安康」の梵鐘、方広寺の鐘銘への難詰もこうまでは荒唐無稽ではなかっただろう。そんな支離滅裂な「低線量放射線被爆の危険認識」の蔓延。すなわち、そのよう言い掛かりが世間でまかり通ると勘違いしている心性の波及拡散、畢竟、「福島」や「原発」や「東電」を自分達の言説で<魔界聖別>できると思い込むカルト的心性がこの社会を覆っている。私はそう危惧しています。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。



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畢竟、「絶対の安全性」などはこの世に存在しないのです。ならば、所詮「人間が社会的に生存していくためのコストを睨んで、ほどほどに見積もったリスクと人類は添い寝していくしかない」という赤裸々な現実を看過して、人間が、よって、それが形成する国家権力が<自然>を制御できると考える<人間の万能感>や<権力の万能感>がいよいよ盛んなこの社会の現実を見るとき、それと同時に、私は民主主義と立憲主義、すなわち、現在の憲法秩序の危機を感じざるを得ません。

畢竟、<自然>、就中、<自然>としてのグローバル化の昂進著しい資本主義の拡大深化を前にしては脱原発のエネルギー政策などは塵に同じでしょう。他方、チェルノブイリどころか福島どころか、今後もし、一国を遥かに超える規模の原発事故が惹起した場合、現在の年間積算ベース1~100ミリシーベルトなる放射線被曝許容値など誰もどの国も守りようがない。

そして、そんな守れない基準の遵守などを他国に強要される筋合いはなく、まして、(国際法上も現実の国際政治においても)どの国際機関も当該被爆国にそのような守れない基準を強制することなどできはしないのです。   

蓋し、原発問題において、「原発は絶対に安全とは言えない」とか「放射能は確率論的には被爆線量にかかわらず危険である」等々の、元来、人間がその認識能力からして絶対に言えない類か、あるいは、「人間は必ずいつかは死ぬ」という命題と同様、絶対に正しいがゆえに社会的問題の政治的解決においてはほとんど無意味な類の命題を前提にした、脱原発論は可及的速やかに止揚されるべきではないか。と、そう私は考えます。


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絶対の安全性などはこの世に存在しない。ならば、すべからく、放射線被曝の危険性を巡る政策判断は危険性の可能性や蓋然性と、他方、その政策がもたらすであろう価値や利便性との比較衡量でしかない。換言すれば、脱原発論の主張は(「原発=悪」あるいは「原発=必要悪」というそれ自体、)根拠を欠いた文化帝国主義的な言説にすぎない。

なぜならば、放射線被曝の危険性とは、
就中、低線量放射線被曝の危険性に関しては、

①低線量放射線被曝の危険性は<論理的>な危険性の可能性
低線量・積年・平準・放射線被曝の健康障害の危険性は疫学的には確認されていません。これは重回帰分析(例えば、甲状腺癌の発症に関して、被爆・喫煙・飲酒・遺伝等々の複合的要因の中で、ある特定の要因の影響の度合いを数値化する数学的技術)や、少変量統計解析(少数のサンプルから、どの程度の精度でそのサンプルを含む母集団全体の傾向を認識できるかを明らかにする統計学的技術)の結果からは動かない。よって、

②低線量放射線被曝の許容値の本質は「決め事-調整問題」マター
国際的な「被爆許容値」なるものは、その危険性の<論理的可能性>を睨んだ<決め事>にすぎない。要は、(科学者の怠慢でも、国際原子力マフィアの陰謀では必ずしもなく)「許容値」には確たる根拠はない。而して、論者によって1000倍以上の幅があり、更には、平時と緊急時、事故直後と復興時についてその幅が同じ論者でも変化する、否、ゴムみたいに伸び縮みすることは当然なのですから。   


加之、例えば、日本では、原則、赤色の郵便ポストが欧米では濃紺やその他の色であることが希ではないように、「止まれ」を意味する「信号」が「赤」である必要や必然性はない。また、実際、英国や日本とアメリカが異なっているように、車の右側通行か左側通行も単なる決め事、社会的な約束事にすぎません。けれども、それらが「赤=止まれ」「車は左車線」と社会的に決まっていること自体には社会的に意味があり社会的な価値がある。

このように、そのルールの内容自体には必然性はないけれど、社会的な利便性を鑑みた調整の結果、ある内容のルールが社会的に確立されていることには意味のあるタイプの問題を「調整問題」と言います。而して、低線量放射線被曝の許容値なるものもこの「調整問題」のマターに他なりません。

而して、それらの危険性と便益との比較衡量を踏まえた<問題の調整>は、民主主義の政治的価値と政治制度を採用する国家では、すべからく、間接民主主義的な政治のプロセスに則って行われるべきことは言うまでもないでしょう。


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土台、原発問題は直接民主主義的な政策決定とは馴染まないタイプの問題群である。と、そう私は考えます。実際、(例えば、小規模なカルト教団が、当時世界第2位の経済大国の首都でサリンテロを敢行できたこと、あるいは、単なるテロリストが当時世界の唯一の超大国の中枢で旅客機を用いた自爆テロを遂行できたこと、更には、世界の最貧国に列する北朝鮮が核兵器を開発できたことに露わなように)、資本主義の深化拡大に伴うグローバル化の昂進の中で、専門知としての科学技術は、「主権国家=国民国家」、否、それら個々の「主権国家=国民国家」が共存する舞台としての国際社会の能力をさえ凌駕しつつありましょう。

現在、人智を超える専門知たる(マルクスの顰みに倣い換言すれば、「疎外された専門知:それを作り上げた人間の制御から離脱して独自の存在と流通の法則性を獲得した専門知」たる)科学技術に仕える<神官>としての専門家、そして、それら<神官>の用いる<秘儀>としての専門知が、最早、主権国家や国際機関のオフィシャルな統制の枠には収まらなくなってきているということ。すなわち、ミシェル・フーコーが予言した「素人を沈黙させる<権力>としての専門知」が跋扈している現代社会のリアルな相貌が福島原発事故を契機にこの社会でも否応なく浮き彫りになったの、鴨。

而して、疎外された専門知/権力と化した現在の知のあり方を反芻するとき、加之、他方、現在ではすべての人が「ほとんどの知の領域に関しては素人でしかない」状況を想起するとき、そのような「主権国家=国民国家」を超える専門知の、少なくともその一斑ではあるだろう原子力エネルギーを巡る政策に関しては、直接民主制的な政策決定、就中、素人による国民投票や住民投票が、ある意味、最も馴染まないこともまた自明ではないでしょうか。

ならば、思想としては民主主義を否定する、かつ、既存の間接民主制を通した政策決定にアンチを唱えている(よって、それを巡る政策の決定と社会意志の統合の任にあたる政治制度として最も不向きな直接民主制を志向しているとしか思えない)現下の日本の脱原発論は民主主義の敵である。而して、比較衡量を否定する「放射線被曝=絶対悪」の如き認識からなされる脱原発論の「クレーム:要求・要請」は民主主義の敵からの「クレーム:言い掛かり・為にする文句」と言ってよい。

よって、(もちろん、時々の民意に対してその間接民主主義的の政治プロセスは開かれた構造であるべきでしょうけれども)、プロ市民からのそのような言い掛かり的クレームなどは、石原都知事がそう述べられたように「黙れ!」の一言で切って捨ててもなんら問題はない。否、「比較衡量=調整問題的アプローチ」と間接民主制を原理的に否定する、脱原発カルトからなされるクレームは、民主主義を擁護する立場からは「黙れ!」の一言で切り捨てるべきでさえある。と、そう私は考えます。


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ディケンズは『クリスマス・キャロル』の中で、無知こそ貧困を含む諸悪の、すなわち、諸々の不条理や悲惨の根幹であると聖霊に語らせています。而して、人間の有限性の自覚を欠く、ソークラテ-スの言う意味での「本物の無知」の陥穽に遊ぶカルト集団の不埒な言動、例えば、『週刊金曜日』の論稿や武田邦彦氏のトンデモ論に象徴されている無知なる傲慢は、(現在の保守主義と親和的な、現在の憲法秩序の根幹である価値相対主義、並びに、自由の価値、および、自己責任の原則と矛盾するがゆえに)現在の憲法秩序の原理としての<民主主義>とも<立憲主義>とも両立し得ない。

それらは専制政治や「社会主義-共産主義」という<魔物>を呼び寄せる呪文、蓋し、それらは言葉の正確な意味でのファシズム的の言説と心性そのものである。そう私は考えます。脱原発カルトは高線量の放射性物質よりも有害であり正義に反するとも。


尚、<民主主義と低線量放射線被曝の危険性>を巡る私の基本的理解
については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60588722.html

・放射線被曝の危険性論は霊感商法?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60504829.html

・魔女裁判としての放射線被曝危険論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60493326.html
 


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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




Yahooがアンケートを実施中。女性宮家の創設に「賛成?」「反対?」(実施期間:2011年11月25日~2011年12月5日)、と。而して、本稿はこのアンケートに回答するための情報を提供するもの。尚、最初にお断りしておきますが、私自身は「賛成」の立場。しかし、本稿の記述はその賛否是非にかかわらず有意義なもの/邪魔にはならないもの、鴨

http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/quiz/quizresults.php?poll_id=7356&wv=1&typeFlag=1


御案内の通り、「女性宮家」とは、女性皇族が一般の男性と結婚しても皇族の身分にとどまれるようにするための制度であり、その創設には皇室典範の国会による改正が不可欠な、天皇制のサブシステムです。

・宮家
皇族のうち、宮号を賜り一家を立てた方。または、その一家のこと。

・女性宮家
宮号を賜り一家を立てた女性皇族、または、その一家のこと。


ちなみに、「宮家の当主が女性」であったという意味での「女性宮家」は、過去に一例だけ存在します。すなわち、あの「公武合体」の象徴、和宮内親王の異母姉君、桂宮淑子内親王(1829-1881:桂宮;1836-1881)。但し、「皇族以外の配偶者を持った女性皇族が宮家の当主」でもあったという意味の、謂わば「狭義の女性宮家」は歴史上は存在しなかったことになっています。


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しかし、狭義の女性宮家の不存在は、

(イ)現在の文化人類学的な知見からは疑問がなくもない。例えば、日本の「婚姻制度/婚姻習慣」が、室町時代後期に確立して現在に至る「嫁取婚」までは、随時、妻が婿の許に/婿の一族の許に通う「請妻婚/紹妻婚」を斑状に残しつつも、基本的には長らく「請婿婚/紹婿婚」、すなわち、広義の「婿入婚」と一括できる制度であったことを想起すればなおさらです。

(ロ)歴史学の知見からも然り。すなわち、『記紀』の記述を信用するとしても(ある一族出自の妃の産であることが次期大王位継承のための有力な資格であったことが紛れもない、葛城氏やその後継としての蘇我氏等々、そのような「臣」系の最有力氏族の存在は割愛するとしても、また、初代神武天皇の入り婿説は置いておくとしても、)「継体天皇(26代)が武烈天皇(25代)の姉妹にあたる手白香皇女を皇后とした」「仁賢天皇(24代)が雄略天皇(21代)の皇女である春日大娘皇女を皇后にした」経緯、要は、継体天皇も仁賢天皇も「ますおさん」になったがゆえに大王位に就けたとも考えられること。これらを鑑みれば、狭義の女性宮家の不存在は極めて怪しいと言わなければならないからです。


敷衍すれば、確かに、(ロ)自体は、直接には単に「複数の王家の存在」と「複数の王家グループ内部での双系的皇位継承ルールの存在」を示唆するものでしょう。

しかし、(イ)に述べた文化人類学的知見の帰結たる、一妻多夫類似の制度の存在、而して、「妻=女性皇族」の皇族としての地位が婚姻によって、換言すれば、その「配偶者」が誰であるかということによって(つまり、配偶者が王家の出自ではないとしても! なぜならば、例えば、天智天皇・天武天皇の実母「宝皇女=皇極天皇&斉明天皇」の場合がそうであるように、その配偶者が王家の出自なら『記紀』にその旨が書かれていても不思議はないのですから。)左右される度合いが低かったであろうことを併せて鑑みるならば、(ロ)からも狭義の女性宮家の不存在は怪しいと言える。

百歩譲っても、少なくとも、皇統の記録が歴史的事実と考えてまず間違いがなとされる、欽明天皇(在位:伝531年/539年-571年)以前に関してはそう言える、鴨。ただ、逆に言えば、欽明朝以降のこの1500年余りに関しては、確かに狭義の女性宮家は存在しないとは言えるでしょうけれども。


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ことほど左様に、「女性宮家」を巡るポイントは、要するに、
宮家とは天皇家・東宮家の<分家>であり、

(Ⅰ)宮家当主とその直系卑属とその配偶者は、時の今上天皇との血筋の隔たり度合い、
   すなわち、親等数の乖離にかかわらず、臣籍降下をしない限り皇族の身分が
   与えられること。

(Ⅱ)女性宮家とは、その当主の配偶者が皇族の出自であるか否かにかかわらず、
   宮家が存続すること/その当主もその卑属も皇籍を保つこと。なぜならば、
   その当該の配偶者が皇族であれば、現在でも、その婚姻成立と同時に
   女性皇族と(その女性皇族が「未婚の母」になられたケースは度外視するとして、
   よって、)その卑属が皇籍を自動的に離れることはないのですから。


畢竟、女性宮家の問題は、広義の女性宮家が、単に、当該女性皇族のタイトルの変更の問題に(つまり、例えば、東宮の愛子内親王殿下が、新たに宮号を賜り、繰り返しますが、例えば、「西宮愛子内親王」殿下になられるに)すぎないのに対して、狭義の女性宮家は女系天皇制の是非と地続きの問題である。そういう重層的な問題群と言えると思います。


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而して、私の主張の詳細については下記拙稿をご参照いただきたいのですが、
冒頭でも述べた如く、私は狭義の女性宮家も女系天皇制も、原則、支持しています。

なぜか? それは、

①秋篠宮悠仁親王殿下が皇位を継がれることになったとしても、その新天皇家とその皇子が沢山の皇子に恵まれるのでもない限り、やはり、皇族の減少は不可避であること。それは、「明白かつ現在の危険:clear and present danger」どころではなく「明白な危険:apparent danger」であるだろうこと。

②()旧宮家の皇族復帰と、()その新しい皇族間では東宮家を含む養子制度・婿入り制度も解禁するべきであり、その措置と()女性宮家の創設とを併せれば、皇族の減少傾向に対する措置という点ではまずは皇室の将来は明るい。而して、()女性宮家の創設を伴わない()旧宮家の皇族復帰と、()その範囲まで拡大された皇族間における養子制度・婿入り制度の導入だけでは、(側室制度、若しくは、皇族以外からの東宮家を含む宮家当主に入り婿を認めるのでもない限り)皇室を覆っている危機は、原理的にはなんら解決され得ないだろうこと。

③「男女平等」のイデオロギーや諸外国における王位継承の潮流等は、本邦の皇位継承ルールがいかにあるべきかということとは、白黒はっきり言えば無関係であるにせよ(だって、only oneの存在であることが「天皇制」の「値打ち」でもあるのでしょうから。ならば、男女平等イデオロギーなども論外!)、皇室への敬愛崇敬が、今上天皇と皇后両陛下に対する敬愛であり崇敬である度合いが、国民の法意識の中で「1600年の伝統」なるものよりも大きいとすれば、()旧宮家の皇族復帰、()その新しい皇族間での養子制度・婿入り制度の解禁よりも、()狭義の女性宮家の創設の方が論理的・政策的なプライオリティーが高いかもしれないこと。

蛇足ながら、④女性宮家の創設に伴う「国民の財政負担」などは、それによる社会統合と社会秩序維持のコストパフォーマンスから見れば「ただ同然」だろうこと。なにより、その実体経済における「経済効果」を考えれば、宮家が増えることのメリットは、女性宮家創設に付随する国民の税負担なるものとは比べものにならないくらい大きいだろうこと。

実際、「オックスブリッジの名誉総長」やコモンウェルス諸国の名誉総督を務めることもある英王室の事例とパラレルに、例えば、「皇族」を「名誉大使」に補任する慣行・制度を導入するだけで、その数が限られた稀少・貴少なる「皇族大使」を自国に振り分けてもらおうとする、準主要国や野心のある国からの<手土産>だけでお釣りがくる、鴨。要は、皇室関連予算の額はメジャーファクターではありえないこと。

蓋し、⑤文化帝国主義の手垢のついた陳腐な「男女平等イデオロギー」などではなく、「天照大神や神功皇后の昔から日本は女でもってきた国」であり、いよいよ、現下の国難に際しては「天皇は女性に限る」、すなわち、「皇位は、皇統に属する女系の女子が、これを継承する」くらいでちょうど良いの、鴨。と、そうも考えること。 

・女系天皇は憲法違反か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879735.html

・覚書★女系天皇制は<保守主義>と矛盾するものではない
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60896992.html


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まあ、最後の⑤は個人的考えとしても、これら①~④からは、女性宮家も女系天皇制も満更暴論ではないのではないか。少なくとも、正に、<神話>と思しき「2671年に亘る万世一系の伝統」、若しくは、それ自体は間違いとは言えない「1600年の男系継承の伝統」、あるいは、男系による(突然変異がなければ原則不変なる)「y染色体の遺伝的継承の事実」などという事実はこの問題とは無関係とさえ言えるのです。

すなわち、女性宮家や女系天皇制導入の是非論がそこに位置する価値・規範の世界とは(つまり、「当為命題=すべき/すべからずの命題」が構成する公共的な意味空間とは、国民の法的確信に媒介されない限り)直接関係のない事実の世界の命題を持ち出す女性宮家批判や女系天皇制批判は論理的な誤謬を犯している。加之、それは論理的にだけでなく、憲法基礎論的にも論外の主張でしかないのです。尚、この問題を巡る私の憲法基礎論における考えについては取りあえず下記拙稿をご参照ください。

・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60902921.html

・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60899909.html

畢竟、(別稿で述べた如く「保守主義」からもですが、少なくとも、)憲法論的には女性宮家と女系天皇制には何の問題もありません。而して、女系天皇制否定論には、あるいは、女系天皇制肯定論にも、そのお互いの主張が、歴史的の知見から、すなわち、事実の世界に関する知見から「一対一」で演繹・抽出・基礎付けられるものではないこと。

而して、これは揶揄嘲笑ではなく、その是非を巡る議論は、政治的な、イデオロギーを巡る、要は、一種「好き嫌い」の議論であることは自覚すべきである。その自覚を抱いて、(それが皇位継承ルールを最終的に確定する)国民の法意識を自説に引きつけるための<主張の資料>としてのみ歴史的事実に関する知見・情報は使用されるべきである。と、そう私は考えます。

これらのことを踏まえて、冒頭で旗幟を鮮明にした如く、今上天皇、皇后の両陛下がそれを希望しておられるという前提の上ではありますけれども、日本は「女性宮家の創設」と、それを橋頭堡/一里塚として「女系天皇制の導入」にいよいよ舵を取るべき、鴨。と、そう私は考えます。


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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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