◇歴史:history, histoire, Geshichte



(1)語源から歴史を考える
歴史とは過去の事実ではありません。ゆえに、歴史的とか歴史学的とは過去の事実の帯びる性質という意味ではあり得ません。歴史とは<現在>の<私>から見た過去の事態であり、畢竟、過去の出来事に関する<現在>の<私>の意識の内容が歴史に他ならないと思います。而して、歴史とは<私>が他者たる私に語りかける物語であるとも。

「歴史」とは「物語」である。少なくとも、
「歴史」と「物語」は深い関係にある。


物語としての歴史。この経緯は、英語やフランス語の「歴史」を意味する語彙が「物語」を意味する語彙から派生していることからも明らかだと思います。"Histoire d’O"『O嬢の物語』であると同時に『O嬢の歴史』でもある。ドイツ語では、「歴史=Geshichte」は動詞geschehen(ある事柄が起こる)から派生したとされるから、些か事情は異なるけれど、現在、Geshichteが「歴史」と「物語」の両方の語義を持つに至っていることは英仏両語の場合と同じです。ならば、我田引水的な理解かもしれませんが(根拠は全くありませんが)、ドイツ語でも「起こった(zu geschehen)出来事を書きしるしたもの」を人々は「歴史=Geshichte」と感じていたの、鴨。そう私は思っています。

歴史とは生起した事柄を描いた物語



歴史とは単なる事実的のレポートではない。それは、人に人生の指針を与える物語。英仏語の「歴史」という言葉の源流がそれを示しているように思います。なぜならば、ギリシア語で「歴史」を意味する言葉はもともと「調査や研究」を意味するヒストリア、この言葉の前身はヒストールと言いました。そして、ヒストールとは「知恵者」を意味していたのですから。

つまり、物事の「理:kotowari」をよく知っていて、そいでもって、その知識に基づいて人々に人生のアドバイスができる人のことをギリシアではヒストールと呼んでいたのでしょうからね。ヒストリア(調査や研究)はヒストールの使う技の一つに他ならなかった、と。

古代の支那でも(★)、原始儒教の人々は「史」という言葉を、過去の事例や人と人の関係の取り結び方に関する知恵、すなわち、礼をよく知っている識者の意味で用いたそうです。地球三分の1周分の距離を隔てて、古代ギリシアでも古代の支那でも「歴史」という言葉は客観的な事実の記載や記載された記録の語義を超えて、「人に人生をより良く、かつ、より善く生きるために有用な指針を与える物語」という意味を持っていたということ。これ凄くないですか。

歴史とは人々に行動の指針を与えるような物語



歴史とは物語である。それは、客観的な事実のレポートにとどまらない物語である。繰り返しになりますけれども、歴史は人々に人生の指針を与える物語、人々に「自分は何者であり、この世に何をするために生まれてきたのか」を教え諭す物語だった。よって、この「歴史」の語義から言えば、「日本の歴史」とは「日本人の物語」であり、現在の日本人が先人の行いを知る中で自己のアイデンティティーとプライドとを獲得するための物語ということになりましょう。語源の探索からは歴史についてこう理解することもできるということ。ならば、近現代の国際政治の同じ事件を描くにせよ、日本人の書く歴史と韓国人の書く歴史が、日本人が記述する歴史とアメリカ人が記述する歴史や支那人が記述する歴史が、しばしば相互に異なることは、蓋し、当然のことなの、鴨。

尚、弊ブログのこの「定義集」コーナーでする、ある言葉の<定義>については、
要は、「定義の定義」につきましては下記拙稿をご参照ください。

・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11142140756.html


★註:古代支那の人々の実像
ここでは遅くとも春秋期の支那を想定しています。紀元前8世紀から5世紀の支那。今から2800年から2500年前の支那の地と支那で生きた人々のこと。而して、DNA的には、当時の「中国人」は、現在の「漢民族」とは全く異なり、現在の中央アジアというか西域系の人々(寧ろ、現在のヨーロッパの人々)に近い人間集団だったとも言われています(斉藤成也「DNAから見た日本人」ちくま新書・2005年3月、130-131頁参照)。そう考えれば、古代のギリシアと古代の支那との間で「歴史」に関して共通な語義が観察されるのも、あるいは、不思議ではないのかもしれません。

なにしろ、「中国語」の文法、就中、語の配列ルールたる統辞法は、ご存知のように「S→V→O」型であり、日本語や韓国語とは異なり印欧語に親しいものですからね。もっとも、印欧語でも、例えば、英語でもノールマンコンクエスト以前の古英語期までは「S→O→V」型の構文も普通ではないが希ではなかったのですから、この最後の言語からの「中国語=印欧語」説は、根拠がそう確かなものとは言えませんけれども。



(2)認識論から歴史を考える
同じアメリカ史でも、ネーティブアメリカンやアフロ系アメリカ人とヨーロッパからの入植者を祖先とする現在のマジョリティーが構想する「アメリカ史」は全く別物であって不思議はない。では、100人の日本人がいれば100通りの「日本の歴史」が成立するしかないのでしょうか? 俗流のポスト構造主義や素人理解の価値相対主義がしばしば喧伝するように、「学問的な正しさにおいて総ての歴史認識の間には優劣の差は存在しない」のでしょうか? その答えは、「Yes/No」。そう私は考えます。

歴史は物語であるが小説ではないです。厳密に言えば、「歴史は単なる小説ではない」。定型詩と自由詩の喩えを使えば、歴史の著述には幾つか守らなければならない規則が存在するから。而して、その規則とは言うまでもなく、

()事実を踏まえることであり
()現在の自分の目線で過去の人々の感情なり情念を忖度してはならないこと


でしょう。もっとも、誰しも自分に憑依しているイデオロギーからは自由になどなれないでしょうが、そのイデオロギーを自覚して、かつ、読者に対しても自分がどんなイデオロギーに染まっているのかを公表することは、歴史を巡って生産的議論を可能にするための最低限のマナーではないかと思います。

歴史の記述とは定型詩の創作



歴史に「客観性」などは存在しません。簡単な話です。(α)事実を調べ記述すること。「いつ・どこで・誰が・どれくらい・何をしたか」を調べ、事件と事件との間の因果関係を記述することに限れば、史料発見や資料批判の難しさは置いておくとしても、100人が100人納得せざるをえない歴史の記述は可能でしょう。例えば、1937年12月13日から1938年2月末までの間に南京城内で日本軍によってどれくらいの非戦闘員たる支那市民が殺傷されたかを調べることは(政治がからむ難しさは別にして学問の手続きからは)、不可能なこととは思われません。しかし、(β)事実的な因果関係を超えてその事件に歴史的評価を下す段になると100人全員を納得させることは俄然難しくなる。と言いますか、哲学の認識論・社会科学方法論からはそれは、原理的に不可能なタスクだから(★)。

実は、歴史叙述が日常の言葉で行われる限り、「いつ・どこで・誰が・どれくらい・何をしたか」を調べ事実的な因果関係を記述することさえそう容易いことではない。「帝国主義」や「開発独裁」、「植民地」や「侵略」、「民族」や「国際社会」などの言葉はそれ自体の中に論者それぞれの価値観が内包されており、これらのタームを使って歴史を記述する場合には、実は、100人が100様の歴史のイメージを抱いているかもしれないのですから。而して、この言葉と価値を巡る悩ましくも艶っぽい経緯は、「帝国主義」や「資本主義世界システム」、「主権国家」や「民族」等々のおどろおどろしい歴史学プロパー的の用語のみならず、実は、あらゆる日常の言葉、すなわち、日常言語に纏わり付いている事柄であろうと思います(★)。

実際、所謂「従軍慰安婦」なるものの存在を主張する人々が今でもいることがこの経緯を端的に表しているの、鴨。(a)そのビジネスモデルに組み込まれるに際しての強制の存否は看過して、単に、(b)日本軍兵士に対する性的接待ビジネスに従事していた、(c)非日本人かつ(d)非経営者の女性を「従軍慰安婦」と呼ぶ論者にとっては、間違いなく「従軍慰安婦の存在」は歴史的事実なのでしょうから。もっとも、そのような女性を、世界や世間では普通、利幅の大きい戦地周辺で活動する、単なる「売春婦」さんと呼ぶことは言うまでもありませんけれども。このポイントについては下記拙稿をご参照ください。

・「従軍慰安婦」問題-完封マニュアル(上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11137268693.html


畢竟、誰もが認めざるをえないような、いつでもどこでも正しい歴史認識などは成立しない。しかし、多くの人が認めざるをえず当分の間は正しいとされる歴史に関する認識は構築可能でしょう。換言すれば、歴史に客観性は成立し得ないが、間主観性は成立し得るということ。この点、E・H・カーは『歴史とは何か』の中でこう語っています(cf. 岩波新書版, p.178)。

Objectivity in history --- if we are still to use the conventional term --- cannot be an objectivity of fact, but only relation, of the relation between fact and interpretation, between past, present, and future.

(歴史における客観性は(ここでもまだ、この伝統的な用語を使い続けるとすれば)、事実の客観性ではなく関係性なのです。歴史における客観性とは、事実と解釈との関係の客観性、過去と現在と未来との間の関係の客観性なのです)



けれども、その間主観性の<神通力>の及ぶ範囲にも自ずと限りがある。白黒はっきり言えば、(そこに一定程度の利害の一致が見込めない限り、具体的には、大東亜戦争の後、70年近く日米同盟が持続してきたこと、他方、日本の民主党政権の拙劣な外交によって僅か1年足らずでその日米同盟の紐帯が危うくなったことを想起すれば、誰しも思い半ばを過ぎるの感を覚えることでしょうが)、国家や民族やエスニックグループを跨いでの間主観性の成立は難しい/成立は可能としてもその持続には天助と併せてそれをメンテナンスするための膨大な努力が不可欠である。と、私は諦観しています。

而して、「学問的な正しさにおいて総ての歴史認識の間には優劣の差は存在しない」すなわち「100人の日本人がいれば100通りの「日本の歴史」が成立する」という主張は、客観性は成立不可能ととしても、間主観性は成立可能であることから間違いとも言えるけれどが(No)、ある程度以上の学的水準を満たした複数の歴史認識が同時に、かつ、同程度の科学方法論的な正しさを帯びながら成立する可能性は高いということから、「学問的な正しさにおいて総ての歴史認識の間には優劣の差は存在しない」という主張は満更間違いとも言えないのです(Yes)。


尚、言葉の多義性、否、重層性、ならびに、そのような重層性を帯びた用語を用いてなされるしかない歴史認識の「正しさ」とは一体いかなるものか。本稿の理路から派生するこのイシューについての私の基本的な考えについては、取りあえず下記拙稿をご参照ください。

・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11135295321.html

・「天皇制」という用語は使うべきではない」という主張の無根拠性について(補論)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11135298076.html


・『平清盛』における「王家」という用語の使用に対する批判への疑問
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60981201.html

・資料★大河ドラマ「平清盛」における「王家」をめぐって
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60981759.html


★註:客観性の不可能性

現在の分析哲学の認識論(科学方法論)、および、トマス・クーンのパラダイム論の洗礼を受けて以降の知識社会学的の観点からは、「歴史」どころか「法解釈学」どころか、自然科学にも数学にも「客観性」などは土台存在しません。否、「客観性」自体が成立しない。成立するのはあくまでも「間主観性」でしかない。と、そう言えるのですが、本稿ではこの哲学の認識論プロパーの説明は割愛させていただきます。

★註:勝者の歴史さえも一元的ではない
しばしば、「歴史は勝者が作る」と語られます。歴史は一面的なものである、と。ここで、「敗者の伝承」、例えば、ネーティブアメリカンやゲールの伝承、日本では「白鳥伝説」や「諏訪神社縁起」のように、伝説や口承説話の形で敗者の語る歴史が連綿と後世に伝えられることも稀ではない事情は捨象するとしても、しかし、勝者の記述する歴史さえも(日常言語の持つ奔放な意味の広がりやその意味の可変性を考えれば)、到底一元的なものではありえないのです。



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(3)結語
歴史は常に書き換えられる。なぜならば、(a)歴史認識においては過去の人々の目線から、より正確には、過去の人々の目線と想定するものから、その当時の事件を理解すべきではあるのでしょうが(そうでなければ、それは単なるSF風歴史小説か朝日新聞流の空想詐術社説に過ぎないでしょう。)、他方、(b)日々新しい資料・文献、統計分析結果が「発見」されるのみならず、(c)歴史の認識は、現在に生きる<我々>の行動の指針になるべき物語に他ならず、そして、(d)現在の「現在」は常に次の瞬間には「過去」になってしまうでしょうからから(要は、数学の集合論に比喩を用いさせていただければ、「現在」は常に同時に新しく生成されている、間違いなく無数の、おそらく、最低でも自然数の集合の濃度と同じ程度の濃度を持つ集合の要素に他ならないのでしょうから)。

要は、過去のある一点を見据える真摯な営みと、時代とともに歴史家の観察の視点が変化移動することとはなんら矛盾するものではないのです。否、寧ろ、常に新しい今を生きるために、<我々>は、常に歴史を書き換えなければならないとさえ言える。ならば、数多の出版社から、児童書や新書・文庫を含めればほとんど毎年『日本の歴史』シリーズが出版されるのも、満更、社会科学方法論のこの観点からは理不尽なことでもないということ、鴨(笑)。

再度記します。ことほど左様に、例えば、韓国と支那と日本の歴史認識が各々異なるのは当然なのです。そして、韓国なり支那が、歴史を認識する上での基本的な手続きを踏んでいる限り(定型詩のルールを守っている限り)、彼等の歴史が我々の歴史と異なろうともそれは非難されるべきことではない。他方、この経緯は我々の日本の歴史認識も、それがルールを遵守している限り彼等特定アジア諸国から非難される筋合いが毫もないこととパラレルなのです。

畢竟、歴史の認識とは、個々の事例を通して普遍を見る営為なのでしょう。敷衍すれば、過去の一回きりの出来事(個物)を記述して、次に、それを普遍的な言葉で表現して理解することが歴史的の認識ということ。例えば、アヘン戦争や日清戦争や米西戦争の個々の事実を調べ記述した上で、次にそれらを「帝国主義戦争」という概念で理解して初めて、それら個々の戦争の持つ世界史的な意味をつかむことができるということです。

しかし、歴史の認識は、個物を通した普遍的な認識の獲得という地点で終わることはない。すなわち、歴史とは「普遍と個物」の間で永久に繰り返される思索のピストン運動、否、円環運動、否、無限に螺旋階段を登る/降りる営みでもあろう。と、そう私は考えます。

蓋し、個物を通した普遍的な認識の獲得の作業の後に、あるいは、その作業のプロセスの中で、常に同時に、その普遍的な概念から漏れ落ちる個々の事件の特殊性を更に調べることを通して、順次、かつ、漸次、普遍的な概念自体の意味内容も変容するだろうということ。すなわち、歴史が人生をよりよく生きるための「知恵:ヒストール」の具現である限りこの過程、

個物認識→普遍的な概念からの個物の理解→普遍的概念の意味の変容→
個物の再認識→普遍的な概念からの個物の再度の理解→普遍的概念の意味の再度の変容→・・・



このプロセスは永久に繰り返されるのだと思います。上述の事例を使えば、西洋列国の帝国主義戦争に比べ我が日本帝国主義の植民地支配がどのような特徴を持っていたかを調べ、台湾および朝鮮半島における日本の植民地経営のすばらしさを復元することを通して、「帝国主義」と「帝国主義戦争」の多様な姿を描き出すこと、更に、その個々の帝国主義諸国の軍事行動や植民地支配をもう一度再度鳥瞰して、新しい「帝国主義」と「帝国主義戦争」の概念を再構築すること。このような常に恒常的な再構築のプロセスこそが歴史認識の作業に他ならないということです。

ならば、奔放で浮気性で、豊饒でじゃじゃ馬のような日常の言葉、つまり、日常言語を使いながら、(新カント派と分析哲学、現象学と現代解釈学といった)現代の社会科学方法論に基盤を置く歴史叙述のマナーを遵守して書かれ編み上げられる、国家と民族の<物語>、国家と民族にアイデンティティーとプライドを供給して、国家と民族に「より良く、かつ、より善く活動できるための有用な指針を与える物語」こそが「歴史」というものではないか。と、そう私は考えます。

尚、本稿で提示した「歴史」概念を踏まえた場合、いかなる歴史学方法論が採用されるべきかということ。この点に関しては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・左翼にもわかる歴史学方法論☆沖縄「集団自決」を思索の縦糸にして
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60420308.html



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◇国家:state, country, nation;commonwealth, republic



(1)国家の字義
白川静『常用字解』によれば、「国」は、「口(都市をとりかこんでいる城壁の形)の周辺を戈(ほこ)で守る形」、「武装した国の都」という意味であり、「家」は「家を示す宀(建物の屋根の形)の下に、犠牲(いけにえ)として殺された犬を加える。(中略)家はもともと先祖を祭る廟(みたまや)であるが、これを中心として家族が住んだので、人の住む「いえ、住居」の意味となった。家族によって家柄が構成されるので、住居としての建物の意味だけではなく、家族・氏族のあり方をも含めて家という」という意味を表す文字列とのことです(★)。


尚、弊ブログのこの「定義集」コーナーでする、ある言葉の<定義>については、
要は、「定義の定義」につきましては下記拙稿をご参照ください。

・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11142140756.html


★註:修身・斉家・治国・平天下

日本では「国家」という単語は、幕末期の終わり、よって、明治初期頃までは、主に、()天皇と皇室のこと、()主に大名家(加之、「大名家」でもある徳川将軍家の宗家)について、(a)その治める領地と領民、および、(b)その領地領民を治める統治機構、ならびに、統治機構を担う領主と領主の家来の集団という二つの意味に専ら使用されてきました。

他方、漢語では「国家」も「家国」あるいは「家邦」も同じ意味であり、それらは「ある人の故郷やある人が属する国」を意味していた。「国」と「家」、そして、「国家」の語義を調べてみると、四書の一つ『大学』で孔子が打ち出した社会思想;修身・斉家・治国・平天下の意味もよく理解できる気がします。

すなわち、天下泰平のためには(天下を構成する)国々がよく治められなければならないし、国をよく治めるためには(国を形成している)各氏族や家族が正しい秩序に従っていなくてはならなず、家族がそのような秩序によって統制されるためには家族メンバー個々が正しい身の処し方(儒教のルール)を体得しなければならない、と。

現在の目から見れば、「修身→斉家→治国→平天」のプロセス(特に、斉家→治国の移行には)少なからず飛躍というか我田引水的なものが感じられるけれど、孔子(や孔子に仮託して『大学』を編纂した儒家)にとって、このプロセスは総て、祖先の御霊を祭る礼という価値に貫かれたものであり髪の毛1本ほどの隙間もそこには存在していないかったの、鴨。

何を価値の内容と考えるかは別にして、ヘーゲルが人類史の発展の中で<価値=自由の精神>が漸次現実化する経緯を思念したのに対して、儒教は<価値=祖先の霊を祭る行動の正当性>の現実化を共時的かつ空間的に捉えていたのでしょうか。祖先の霊が世代を超えてつながること自体の孕む歴史性、否、現実性に思いを馳せるとき、儒教はヘーゲルの世界認識に共時的な側面(而して、資本主義の構造分析の契機)を加えたマルクスの社会思想に似ていると言えるかもしれません。





(2)国家の語義
『広辞苑』によれば、「国家」とは、「一定の領土に居住する多人数から成る団体で、統治権を有するもの」らしい。領土・国民・統治権を国家の三要素とするこの考えは、周知の通り、近代国家学の完成者イェリネックが定式化したもの。

では、国家とは何か? 

つまり、国家の正体や行動原理については、このイェリネックの<定式>はほとんど何も語ってはくれないけれど、「国家」なるものを世の森羅万象から切り取ってきて思考の俎板に載せる上では(特に近代の国民国家成立以降に限定した思索の場合)、この<定式>は大変優れたもの。それは、見ることもできず触ることもかなわない「国家」を我々が確実に認識するための<試薬>なの、鴨(★)。と、そう私は考えます。

★註:イェリネック余滴

「国家とは領土・国民・統治権(国家主権)を備えた社会集団」というアイデアが人口に膾炙しているわりにはイェリネック(1851-1911)の主著『一般国家学』(Allgemeine Staatslehre)を読んだことのある方はそう多くないと思います。私は、自分のお気に入りの法学者ハンス・ケルゼン(1881-1973)がイェリネックの下で研究していた際、この師匠にあまり評価されなかった(口の悪い、もとい、人間が正直な長尾龍一さんによれば、「イェリネックはケルゼンの主張をほとんど理解できなかった」とも。)ということからイェリネックにあまり良い印象を持っていませんでした。しかし、『一般国家学』は間違いなく傑作。それは、国家の歴史学的と社会学的理解を通して、国家と人間の実存性、および、国家の観念性と規範性をトータルで把握しようとしたものである点で、周回遅れながら結果的にケルゼンの先を走っていたの、鴨。



国家とは何か;国家の正体や本質は何か? ホッブスによればそれは「可死の神」、すなわち、崩壊する可能性はあるものの、国家が国家として存在している限りその領土内では無制限の権力を行使してその領土内の人々の運命を決定する力を持つものらしい。ヘーゲルによれば「現実化した絶対精神」であり、ケルゼンによればそれは「法体系そのもの」。そして、マルクスとマルクス主義者にとって国家とは「暴力装置」、つまり、市民社会から分離し公的な装いに飾られつつも市民社会の支配階級(ブルジョアジー)の欲求と利益を貫徹するための強制装置かつイデオロギー装置。はたまた、多元的国家論者ラスキに言わせれば「国家も世にある継続的な社会集団の一つ」にすぎないとか。正に、これ百家争鳴、千紫万紅、支離滅裂の状態。

而して、長尾龍一『リヴァイアサン』(講談社学術文庫)は
国家のイメージを3個に整理分類している。すなわち、

①共同体としての国家
②利益集団としての国家
③暴力装置として国家


これら①~③の3分類である(ibid,p.16)。この分類法を借用すれば多様な国家観も比較的きれいに整理できそう、鴨。実際、この分類法に従えば、さしずめ、

①共同体説>アリストテーレス・ヘーゲル
②利益団体説>ホッブス・ラスキ・ケルゼン
③暴力装置説>マルクス・朝日新聞

という所になるのでしょうか。もちろん、ケルゼンの「国家=法体系」説は、方法論的の指摘なのだから、国家を実在論的に見る見方を分類したこれら①~③とは位相を異にしていると言うべきなのでしょうが、しかし、その理路を実在論に降下させれば、ケルゼンを②に仕分けしても満更間違いではないとも思います。尚、特定アジア諸国のお家芸、「中華思想」は、国家観というよりも天下論=帝国論=宇宙論に関する社会思想だと私は考えています。

長尾・国家論分類のポイントは、しかし、3分類自体ではないと思います。そうではなく、その要諦は、いずれの国家論も「国家とは超自我の虚焦点である」というフロイト的な国家観(日本では、55歳以上の方には、吉本隆明的な「共同幻想論的な国家観」と、55歳未満の方には、ベネディクト・アンダーソン的な「想像の共同体的な国家観」と言った方がわかりやすいかもしれませんけれども、)をその思考の前提にしているという主張でしょう(cf. ibid, pp.17-19)。

国家とは、個々の国民が自分の行動を制御する無意識的な道徳心を(これまた各自が、しかし、共通に)社会に投影したものである、と。尚、老婆心ながら補足しますと、各自が自己の内面の中のものにすぎないあるイメージを共通に社会に投影する経緯を「虚焦点」といいます。

私は長尾さんの主張にほぼ同意します。簡単な話です。例えば、「国家を見せてみろ」と言う人がいたとして、彼/彼女に国会議事堂や最高裁判所、刑務所や税務署、富士山麓で毎年夏に行われる陸上自衛隊総合火器演習や、初秋の横須賀沖や晩秋の東京湾で行われるの護衛艦隊の観閲式を見せた所で、彼や彼女はそれらは単なる建物や装備や人員にすぎないと言い張るでしょう。蓋し、国家なるものは、結局、人間の思考の中にだけ存在するもの、つまり、観念の表象であり、ある社会の中の人々が(同床異夢であるにせよ)国家なるもののイメージを共通に抱いていること、加之、(あたかも、ネーティブアメリカンの人々が自分達が作ったトーテムポールに自分達の行動を左右されるよ事態とパラレルに、)自分達が形成した国家のイメージに自分達の行動を左右されているという、間主観的な(要は、社会学的と現象学的に観察可能な)社会現象の中にのみ国家は観察されるということ。

ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』が実証的に、かつ、小気味よく描いたように、国家とは人々の意識と習慣の中に存在する<想像の共同体>に他ならない。それは、単なる観念の表象であり、フィクション(擬制)にすぎない。しかし、それは、社会的に成立している、間主観性を帯びた、かつ、現実にその社会のメンバーの行動を左右する力をもっているフィクションであり観念の表象でもある。と、そう言えるのではないでしょうか。

而して、ならば、国家の正体を3分類のいずれと考えるにせよ、<想像の共同体>であって初めて、国家は3分類のいずれか(共同体・利益団体・暴力装置)として機能しうる。ならば、「本質」と「正体/属性」という言葉を前者が後者の前提という意味に使わせていただければ、国家の全体像はこう把握できる、鴨。

国家の本質=想像の共同体・超自我の虚焦点
国家の正体=共同体∨利益団体∨暴力装置
国家の定義=領土∧国民∧統治権




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(3)国家の意味
国家は幻想にすぎません。それは、地球市民や国際社会が幻想にすぎないのと同じです。けれども、後者の系列の幻想、よって、妄想や願望とは異なり、国家は「擬制=幻想」にすぎないけれども、社会を構成するメンバーが国家という幻想を抱いているということは間違いのない事実であり、国家という擬制に基づいて社会の(否! 世界中の)人々が生活していることも明確な事実なのです。

ならば、この意味での「国家が幻想(擬制)にすぎない」という論断、つまり、国家の幻想性の暴露なるものは、「巨人軍なるものは球団と契約している個人事業主である選手や監督、コーチの総和にすぎず、存在するのは個々の人間以外にはない」とか「天皇制とは天皇を<万世一系の皇孫たる天皇>と考える人々の意識と行動の総和にすぎず、天皇制なるものはそれらの人々の意識と行動以外になんらの実体もない」と言うこととパラレルであり、そう生産的な認識ではないでしょう。畢竟、この国家の擬制論や幻想論で、国家や国家を巡る諸々の社会的の現象についてそうそう多くの情報が得られるわけではないからです。よって、最後に、「国家の幻想論」から離れて国家の意味について考えてみたいと思います。

蓋し、国家が幻想にすぎないとしても、否、正に、幻想や擬制そのものとして現実的かつ実体的な影響を国家は人々の生活や人生や運命に及ぼしています。逆に言えば、幻想やイデオロギーにすぎない国家が持つ影響力が無視できないからこそ、大東亜戦争後の戦後民主主義を信奉する朝日新聞を始め、左翼・リベラル派は「国家主義」を批判し、神代から平成の御世まで連綿と続く日本の文化的伝統に対して、あるいは、ナショナリズムを巡っては、それらを総否定するか、総否定しないまでもそれらを相対化し、若しくは、比較的に低い評価しか与えたがらないのではないでしょうか。

幻想やイデオロギーはそれが幻想すぎないからといってその存在意義が否定されるわけではないということ。畢竟、幻想とイデオロギーに基盤を置く、ある擬制の存在意義はその擬制の幻想やイデオロギーとしての性能・効能・機能に収斂することになるということ。そして、この点において、どう控え目に見ても、国家や日本という幻想と国際社会や地球市民という幻想の性能の優劣は明らかであろうと思います。問題なく前者の勝ちである、と。

敷衍します。国家はご自分が所属する地域のフットサルや草野球のチームやそのチームのユニフォームにすぎない類の事柄なのかもしれません。しかし、フットサルも野球も一人ではできない。野球やフットサルを満喫堪能したければ野球やフットサルのチームに所属することが不可欠でろうし、また、それらのゲームに出場するに際してはユニフォームがあれば便利でしょう。而して、ユニフォームやチームが記号や幻想にすぎないとしても、その記号や幻想は観念の表象として社会的と間主観的に実在しており、かつ、ある効能を発揮する機能を担っているのです。

ことほど左様に、国際競争の渦中に放り込まれながら社会生活というゲームで七難八苦に対面する運命を与えられているのが人間存在であり、加之、社会生活というゲームの中で自己の個性を華咲かせ感動に満ちた人生を享受したいと切に願っているのが人間存在である。人間存在を、もし、このように規定することが満更間違いではないとするならば、蓋し、「日本国」や「日本人」、そして、「家族」や「天皇制」という幻想やイデオロギーが、人間存在が対面している上記の過酷な運命から個々の日本人を護り、個々の日本人の願いを実現することに少しでも有効であれば(すなわち、社会的コストの面において「投資対効果」費用がプラスであれば、)、国家や家族という幻想を社会において確立すること誰からも否定される筋合はない。と、そう私は考えるのです。ならば、「日本人たる自分」や「豊葦原之瑞穂国住まう外国人たる自分」というアイデンティティーとプライドを、個々の日本人や個々の日本市民が少しでも体得し易くなるような教育をこの国で徹底することもまた何ら批判されるべきことではない、とも。

ならば、もしそれが、日本人のアイデンティティーに貫かれたものであるならば、<修身→斉家→治国>の思考枠組みのパーツとしての列国家論もまた現在でも有効なのかもしれません。少なくとも、個々の主権国家の存在と行動に世界全体の秩序が圧倒的に依存している現在の国際情勢を、<治国→平天下>の部分はよく示している。私はそう考えます。

尚、国家を幻想やイデオロギーと捉える思考にとって避けては通れないだろう論点が、国家を超える(「平天下」の部分と重なる)「帝国」の理解、ならびに、その「帝国と国家」の連関性の考察だと思います。これらの点については下記拙稿を参照いただければ嬉しいです。


・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html



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前々から「KABUの法律の基本書を教えて欲しい~!」という要望をいただいてきました。ただ、『合格者1,000人に聞きました! 司法試験合格者が使った基本書』とかなら、(流行り廃りを知ると言う点でも)まだいかほどかの意味はあっても私個人が使った基本書(≒「専門家の卵用の体系的入門書」)を披露しても何の意味があるのと思い記事にしてきませんでした。

而して、今回、「海馬之玄関ブログの記事を読む上で<著者>のバックグラウンドが分からないと気持ちが悪い、だから教えて欲しい」と重ねて要望いただき背中を押された。ということで、There you go♪

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前口上あるいは取り説
()KABUの修業時代は「1980年~1990年」と今から約20年~30年前の大昔のこと。他方、()KABUは、一応、憲法・法哲学の研究者を目指していた者であり、また、実務家としては国際民事訴訟が専門。よって、それらの領域では、逆に、現在最新のテキストも含め大凡の「基本書」には目を通しています。而して、下記リストは次の基準で選定することにしました。

・その領域の体系的知識を習得する上で使用した
・現在でもその領域の諸問題を考察する際の体系的理解の基盤となっている
・和書に限定(但し、英米法と法哲学に関心のある方は可及的速やかに英書に移行しましょうね)
・専門書は除き、基本書(専門家の卵用の体系的入門書)に限定
・概説書的基本書(A)と本格的基本書(B)に分ける
・現在の初心者に薦めるもの(C)が別にあればそれも記す
・リストの性格から「絶版」であるかどうかは気にしない
・私自身の専門性が低い商法と行政法、マニアックな著作権法と国際私法は割愛

いずれにせよ、下記リストは「資格試験受験者」用や「ロースクール進学希望者」用というより、ブログ等で時事を俎上に載せるためもあり、「法律を(もう一度)勉強したい、鴨」という法学再入門希望の方や法学に関心のある一般の方に参考になる(鴨)という程度のものであることは予め明記しておきます。尚、法哲学に関しては選定基準の下にURLを記した拙稿をご参照ください。

法哲学の入門書紹介 でも、少し古いよ(笑)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11147077543.html


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<KABU>法律の基本書リスト
法学入門-実際は少なくとも民法・憲法・刑法の(A)を読んだ後に読むべき、鴨
・(A)伊藤正己   『近代法の常識』(有信堂)
・(A)林修三    『法令解釈の常識』『法令用語の常識』(日本評論社)
・(A)末弘厳太郎  『法学入門』(日本評論社)
・(A)伊藤正己   『アメリカ法入門』(日本評論社)
・(A)末弘厳太郎  『民法雑記帳(上)(下)』(日本評論社)
・(A)我妻栄    『法律における理窟と人情』(日本評論社)
・(A)碧海純一   『法と社会』(中公新書)
・(A)井上茂    『現代法』(日本放送出版協会)
・(B)イェーリング 『権利のための闘争』(岩波文庫)
・(B)長谷部恭男  『Interactive憲法』(有斐閣)
・(B)田中英夫   『英米法のことば』(有斐閣)
・(B)早川武夫   『法律英語の常識』(日本評論社)
・(B)穂積陳重   『法窓夜話』『続法窓夜話』(岩波文庫)
・(B)麻生建    『解釈学』(世界書院:KABUの種本の一つです)
・(B)ヴィノグラドフ『法における常識』 (岩波文庫)
・(B)カー     『歴史とは何か』(岩波新書)

☆最後の2冊は原書(英語)も容易に入手できますので、是非、英語でも
 読まれることをお薦めします。


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憲法
・(A)山本浩三 『憲法』(評論社:同志社大学の当時の教科書)
・(A)宮澤俊義 『憲法』(有斐閣全書:小品だが今でも読むに値する名著)
・(B)清宮四郎 『憲法Ⅰ』(有斐閣全集)
・(B)橋本公旦 『憲法』(青林書院新社:ドイツ流憲法解釈学の秀峰)
・(B)伊藤正己 『憲法』(弘文堂:KABUが最も好きな一冊)
・(B)佐藤幸治 『憲法』(青林書院)
・(C)長谷部恭男『憲法』(新世社:2012年現在の通説を体現する基本書)

民法
・(A)我妻・有泉『民法Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(一粒社→勁草書房)
・(B)四宮和夫 『民法総則』(弘文堂)
・(B)我妻栄  『民法講義』(岩波書店)の『総則』『物権』『債権総論』
・(B)星野英一 『民法概説』(良書普及会)の『序論・総則』『物権・担保物件』『債権総論』
・(C)内田貴  『民法Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(東京大学出版会:チャート式みたいで実に読みやすい)

刑法
・(A)藤木英雄 『刑法(全)』(有斐閣双書:小品だが今でも読むに値する)
・(B)団藤重光 『刑法綱要総論』(創文社:KABUが学部生の最初の3年間嵌った一書)
・(B)大谷實  『刑法講義各論』(成文堂:KABUの師匠筋の一書)
・(C)林幹人  『刑法総論』『刑法各論』(東京大学出版会:KABUと感性の相性が抜群)

民事訴訟法
・(A)中田淳一 『民事訴訟法概説』(有斐閣双書:同志社大学の当時の推薦入門書)
・(B)三ヶ月章 『民事訴訟法』(弘文堂)

刑事訴訟法
・(A)平場安治 『刑事訴訟法』(日本評論社:学燈上はKABUの師匠筋)
・(A)平野龍一 『刑事訴訟法概説』(東京大学出版会)
・(B)平野龍一 『刑事訴訟法』(有斐閣全集)
・(B)団藤重光 『刑事訴訟法綱要』(創文社:本書の理論の形式美に三島由紀夫が惚れた話は有名)
・(C)田宮裕  『刑事訴訟法』(有斐閣:実務と理論、現実と理想の「架け橋=刑訴」を体感する一書)

その他
・(A)田中和夫 『英米法概説』(有斐閣:恩師の推奨「教科書」でしたが結果All rightでした)
・(A)松井茂記 『アメリカ憲法入門』(有斐閣:同門筋の一書というだけでなく最良の入門書です)
・(B)伊藤正己 『英米法』(筑摩書房:2ヵ月でボロボロになるまで読み、買い換えた思い出の一書)
・(B)兼子仁  『教育法』(有斐閣全集:敵ながら天晴れの一書)
・(B)田畑茂二郎『国際法Ⅰ』(有斐閣全集:これまた敵ながら天晴れの一書)
   

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法律オタクの小言、あるいは、老婆心的アドバイス

昔、司法試験委員(憲法3名+刑法1名+刑事政策1名+刑事訴訟法1名)をされていた先生方と飲んでいるとき、「基本書なんかなんでもえーねん」という話をしばしば伺いました。

もちろん、①最低限の情報が網羅されていること(司法試験にせよ公務員試験にせよ、法律に造詣の深いビジネスマンになるにせよ、その目的にあった「最低限の情報」ですが)、②(①に含まれるかもしれませんが)一応、最新の学説の動向や現下の現実的課題について触れられているか、それらが鳥瞰・予感・復元できる情報が盛り込まれていることは「基本書」のマストでしょう。


しかし、現下の日本の出版環境下であってもそのようなマストを満たした「基本書」はどの分野でも複数存在する。そして、TOEIC対策でも法律の学習でも「10冊の書籍を読むよりも、1冊を10回、それが少し不安なら2冊を5回通り読むほうが遥かに知識は身につく」ことは常識でしょう。

TOEICなんぞはその最たるもので、実際、『オフィシャルガイド』3冊でもしっかりやれば(もちろん、その「しっかりやる」やり方を身につけるについては些かコツがあるにしても)、教材としては、誰でも730点は取れます。そして、この経緯は旧司法試験の親族・相続法における「ダットサンⅢ」(我妻・有泉『民法Ⅲ』)についてもパラレルですし、例えば、受験技術指導的には実質的には「民法の財産法の試験」である宅建資格試験においては、我妻・有泉『民法Ⅰ・Ⅱ』と判例付きの『六法全書』で充分というか、寧ろ、それらは「鶏を割くに牛刀をもってする」の感さえあるほどですからね。

而して、そうなれば、基本書を選択する基準としては、むしろ、選択する側の主観的・個別的な要因が大きくなると思います。それはある意味、そう、兎と出合ったアリスが全く偶然に不思議の国に迷いこんだのと同じことなのかもしれません。そして、その要因とは、例えば、次のような項目です。

・履修科目の教科書に指定されていたのでとにかく一度は読んだことがある
・著者が「恩師筋/親戚筋/親の友人」だから親近感を感じる
・少数説より多数説や通説の立場で書かれたものが安心安心
・多数説や通説より少数説の立場で書かれたものが興味津々
・大部のものが安心感もあり「彼氏/彼女」にも自慢できる
・小部のものが気楽でもあり「彼氏/彼女」との時間も多く確保できる
・著者の感性や理路と相性がよいのか読むのが苦にならない
・ページ割や註付けが読みやすくて好感がもてる

    
私の場合、権威主義的で、かつ、身内贔屓の小賢しい人間ですので、最初は「恩師筋の基本書」か「当時最も読まれていた基本書」から入りました。が、しかし、結局、「好き嫌いは説明できない」「好きなものは好き/嫌いなものは嫌い」という当然の理屈からか、大体、どの法域でも半年足らずで一生涯の「基本書」というか「基本書の著者(の系統)」が見えてきたように思います。

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さて、法律の学習。これこそ「基本書なんかなんでもえーねん」という箴言の「真意=顕教」なのだと思いますが、要は、法律の学習というのは「法」を学ぶことであり、基本書はあくまでもそのための道具に過ぎないということ。つまり、学ぶべきは「法規の条項」であり「判例」であり「行政やビジネスの実務のあり方」ということ。これがよく誤解されている点だと思います。

蓋し、法律の基本書は「観光ガイドブック」や「地図」に過ぎず、大切なことは「現地の風景=法規・判例・実務慣行」ということです。すなわち、基本書はそこそこにして、何より(諸外国の法制も加えた)法規と判例を学ぶべきでしょう。

法律の基本書=観光ガイドブック
法規・判例・慣行=観光地の風景


而して、「基本書なんかなんでもえーねん」という箴言の先にはもう一つの教えがあるのではないか。比喩を使い敷衍すれば、「顕教」ではなく「密教」とも言うべき言外の認識があるのではないか。すなわち、法規・判例・慣行さえも、実は、学ぶべき<法>そのものではなく、<法>を知るための<メディア>に過ぎないという経緯が横たわっているのだと思います。

蓋し、実際に、ある観光地を訪れても「見れども見えず」「聞けども聞こえず」という人は少なくない。禅家がよく口にする「花は紅、柳は緑」(出典は 蘇東坡「柳緑花紅真面目」)ではありませんが、法規・判例・実務慣行をいかに勉強しても、

(甲)裁判所が国会が実務慣行がどのような判断・立法・取り扱いをあるイシューについて行なうのか
(乙)裁判所や国会や実務慣行の判断・立法・取り扱いの変化によって社会がどう変化するのか
(丙)ならば、裁判所は国会は実務慣行は本来どのような判断・立法・取り扱いをすべきなのか

    
これらを、事実と根拠を挙げながら整合的・論理的に語ることができなければ、その人は「花=法規」や「柳=判例」を見ても「花=紅」であることも「柳=緑」であることも分かっていないことになるのだろうということです。

畢竟、「法」を通して<法>を「見る=予見」できる知識と技術。すなわち、具体的豊富で論理整合性のある「力=知識」を法学の知識というのではないか。精神論でもなく摩訶不思議な物言いではなく、敷衍すれば、そのような「法学の知識」とは、強靱でしなやかな、透明で体系的な方法論に基礎づけられた法律を巡る知識であり、具体的には法概念論と法学方法論、要は、法哲学の知識に基礎づけられた法的現象を巡る知識に他ならない。そう私は考えるのです。ならば、正に、「基本書なんかなんでもえーねん」なの、鴨しれません。


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基本書なんかなんでもえーねん、なのですよぉー。


と、書いてしましましたが、結果的には、上に挙げた基本書は現在の私にとってはかけがえのない「恩師」であり「相棒」であり、少なくとも、<戦友>です。本当にそう思います。と言いますか、この記事を書いていてあらためてその感を深くしました。

蓋し、唯物史観的な「歴史法則」なるものや労働価値説的な(少なくとも共時的には)「普遍的な交換価値」なるものは存在しないけれど、歴史的偶然性や歴史的特殊性・個々の社会の非対称性の中で自生的に展開した「生態学的社会構造」は諸国民や諸民族の生きてある現下のその個々の社会の中に成立していること。また、個人の行動選択もまた偶然の集積ではあるが、その選択の「結果=事態」はその個人の責任であり、また、その「結果=作品」はその個人の人格と一体化しており分離不可能であること。本当はなんでもよかった基本書が、私にとって唯一無二の存在であるパラドクスはこれらの経緯とパラレルなの、鴨。

ことほど左様に、私にとってこれらの基本書を選択したことが偶然の帰結であっても、これらが現在の私の思考や思想の一部を構成していることもまた事実。ということで、「豚もおだてりゃ木に登る」式の記事でしたが、改めてリストアップしてみると<戦友に対する初恋>のようなアンビバレントな情を感じないではないです。この記事書いてみてよかった、鴨と。

而して、よろしければ、逆に、今度はいろんな分野での皆さんの<初恋の戦友>を
紹介していただければ嬉しいと思います。興味津々、鴨。


It's your turn, please
(笑)


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昔、アラブの偉いお坊さんが、じゃなかった。昔、東京大学の偉い憲法の先生が「その出版物が猥褻物かどうかを基準にして、業界団体の自主規制や行政の指導、ならびに、警察の取締りが違憲か合憲かを区別するなどというのは論外だ! なぜなら、最大の(?)「猥褻物」は、男にとっての女であり、女にとっての男だからだ」とおっしゃいました。彼と私の憲法理解のスタンスはかなり異なっているけれど、昔から私は結構この大先生好きです。そう、護憲を掲げる憲法9条のなんたらの会のメンバーでもある奥平康弘氏。

私はAVの存在自体には反対ではないですがAVの販売規制には賛成です。昨今の少年犯罪の数と質を見るにつけ、あるいは、人身売買の横行(特に10歳未満の少女や少年をビデオ撮影するために国内外で行われる人身売買の現状)を聞くにつけAV規制やむなしの感を最近一層深くしています。まさか、パブロフの犬じゃあるまいに、AVを規制すれば少年犯罪や性犯罪が減少するとは思いませんけれど、性規範のありようを社会として示すことは必要だと思うから。


他方、AVや風俗産業に関しては(あるいは、企業の受付嬢や女性のフライトアテンダント等々に関しても)それは「性」を商品化するものであり許されないという批判があります。

曰く、AVや風俗産業に顕著な「女性性」に商品価値を持たせることにより、資本による女性の人格の分解と「女性性」の収奪(本来、分解できない一体である「女」から「女性性」を分離してその分離したものに「値札」をつけること)は人間の本性に反する歪な現象に他ならない、と。


その職業(prostitution)が「人類最古の職業:the oldest profession」と呼ばれてきたこととこの認識は些か矛盾するとも感じられるものの、この昔懐かしい70年代後半から90年代前半にかけてのフェミニズムから(というか今では「古語」になってしまいましたが「ウーマンリブ」の立場から)の批判は現在でも充分成立するとは思います。けれども、本稿ではこの古典的論点への言及はせず、事象としての日本におけるAVの歴史を素描するにとどめます。上記の古典的批判の妥当性を考える上でも「文化史的な現象としてのAVそのもの」をよく理解することが遠回りに見えても有効な手であろうと思うからです(尚、この「女性性」の商品化に対する私の考えについては、「書評」記事ですが取りあえず下記拙稿をご参照ください)。

・書評☆都立水商!
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11140899581.html


更に、ブログ運営会社のスタッフの方を含め皆様に対して、もう一つ前置きを追加。それは、本稿は取り上げているテーマといい内容や記述も「女性の読者」には、ある種の不愉快さを与えかねないものであることは認識しているということです。けれども、このイシューは日本の教育なり家族のあり方、否、日本のみならず大なり小なり先進国に共通して見られる、例えば「Enjo Kosai:compensated dating」の問題、加之、晩婚化や少子化の問題を考える上で、結局は避けてはいられないテーマではないか。本エントリー記事はそういう問題意識からアップロードするものであることはご理解いただきたいと思います。


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それにしても、いったいAVとは何なのでしょうか? 

以下、このことを考えてみます。

先ずは「歴史」のお話しから。


そもそも、性行為が映像作品の中に収録されているもの。所謂「本番映像」というのは昔からありました。しかし、それらは極めてマイナーで日陰の作品でしかなかった(だからこそ、それ自体「古語」の範疇に入った「ブルーフイルム」というものが、洋の東西を問わず制作され、個別日本では、そう、ビデオやDVDやネットでの動画配信が普及する前の時代には温泉旅館やなんやらの非日常の時空間では、その類の8ミリフイルムが男性客に喜ばれていたのでしょうから)。

本番映像は昔からあった。けれど、
それは表の世界、日常の世界にそれが座るべき場を持ってはいなかった。


而して、この経緯は日本だけでなく実は欧米でも第二次世界大戦終了後しばらくはそうだったのです。また、蛇足ながら、本当は「本番」を物理的にしていた作品は日活・東映でも少なからずあったのですが、もちろん、「本番」と銘打って上映されてはいませんでした。日本では1970年代半ばに、愛染恭子さん主演の『白昼夢』がメジャー作品では最初の「本番作品」だったと記憶しています。


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それから幾星霜。時代は今から30年前の1980年代。1980年代に入ると、建前にせよ性行為そのものではなくストーリーを<堪能>や<鑑賞>するための作品ではなく、ずばり性行為を<鑑賞>や<観察>するための作品が登場しました。而して、その次は「こんな可愛い娘がアダルトビデオに出るの」路線や「こんな普通の娘(?)がビデオに出るの」路線(笑)に続いて行く。

しかし、1980年代も末に差し掛かると、それらの路線も壁に当たる。要は、それらは素人のそのまんまの姿を撮影記録しただけのものであり、現実の中高生の性意識にAVの表現水準が逆に追い越されたというのが実情でしょう。1980年代前半にすでに投稿SM雑誌に掲載されていた屋外での淫靡猥褻かつ冒険的で小気味よいほど実験的な行為が、ごく普通の若者の、これまたごく普通の日常の所作になっていったのもちょうどこの頃の現象だったと思います。蓋し、日常的なものを高い金を出してわざわざ買う人は少ないという当たり前の状況が起こったということです。

この時、今に至るAV界の思想水準(「何を顧客に提供したいの?」「それは今までのものとどう違うの?」に対するAV業界からの解答の水準)につながる作品が登場します。その象徴が、例えば、黒木香さんと菊池エリさん松本コンチータさん。それはつまり、「完全に男性の性欲の対象として女性を描ききってみよう」というシンプルな主張を映像化したものだったと思います。

而して、このブレークスルーとは、女性の物象化であり、換言すれば、交換可能で消費可能な記号としての女性という、AVとAV女優の再定義が打ち出されたと言えるかもしれません。現在に続く、援助交際がごく特殊な<不良少女>の特権ではなくなり、ごく普通の中高生に広がりだしたこととこの路線、および、その路線から生まれた諸作品は(共犯関係とまでは言わないけれど)明らかに相関関係はあると私は思っています。蓋し、それは「compensated dating-service」の供給側と需要側の双方の性と家族を巡る規範意識の変化について言えることであるとも。

★註:女子高校生の性交経験率の推移
財団法人日本性教育協会の『青少年性行動調査』によれば、女子高校生の性交経験率は、例えば、1993年-1999年-2005年の時期に、16%-24%-30%に達したとのこと。教育界では有名な「定点測定データ」である、東京都の高校教員有志による同様の調査結果も勘案して推測するに、この数値は2010年時点では間違いなく33.33%(要は、3人に一人)を越えているものと思われます。

尚、注意すべきは、(a)この数値や数値の変化率に都会と地方とではそれほど大きな差は見られないこと、(b)実は、統計データなど望むべきもない時代のことですが、室町時代や江戸時代とは言わず、明治中期と比べて、例えば、同じ「満17歳の未婚女性」を比較した場合、現在の2010年の数値が必ずしも高いとは言えないだろうということです。

傍証を一つ。「愛人バンク」として1980年代前半の世の耳目を集めた「夕暮れ族」(吉行淳之介の『夕暮れまで』(1978年)に登場した中年男性と若い女性のカップルからきたネーミングとか、)が解消したのは、当該『夕暮れ族』の発起人・筒見待子氏の1983年の摘発逮捕を契機にしていますが、それもまた、1985年前後にそんな事柄が<前衛的な人々>の間では、「際物=ある企業の特定のサービス」でなく普通に世の中に拡散したことの裏面、鴨。ちょうどその頃、韓国でも「レモン族」とかのこれとパラレルな事象が問題になったとかならなかったとか。で、それから5年後の1990年前後・・・。

そう思えば、赤川次郎さんの「三毛猫ホームズ」シリーズで、同じく「学生の売春」を舞台装置に取り入れていても、「ホームズ嬢」のデビュー作、『推理』(1978年4月)、『犯罪学講座』(1991年5月)は「女子大生」が、そして、『四捨五入』(1997年12月)では「女子高生」がそのプレーヤーであることはこの間の、1990年前後に、中高生の意識の変化というか断絶を赤川さんが感じたのが遠因、鴨。と、そう私は考えなくもないです。

蛇足ながら、赤川さんの『死者の学園祭』(1977年6月)では<性交渉>は主人公の高校生活には表だっては現れない。また、作家としての赤川さんのデビュー作にして「幽霊シリーズ」の巻頭を飾る『幽霊列車』(1976年)以来、ヒロインの女子大生と相棒である中年の警視庁の刑事の関係は、あくまでも、「恋人関係」であり「不倫関係」、すまり、「愛人関係」ではない。この人物設定もまた、今から見れば今一つ「小説にしてはおとなしい関係」のようでもあり、それも時代性のなせる技なの、鴨。


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90年代半ばから2000年にかけてこの路線から現在に続く、①所謂企画ものと、②AV女優の実際の経歴と個性を売り物にした作品、あるいは、③それらが併用されるAVのパラダイムが生じ確立しました。顔射ものスカトロもの縛りもの、不倫ものレイプもの熟女ものロリータものナンパもの「彼氏の前で」ものが前者であり、後者の代表としては、ある意味、日本的な私小説の伝統に近い幾つかの女優さんの作品を通過して、桜木ルイさん白石ひとみさん朝岡実麗さん、あいだももさん小林ひとみさん田村香織さん、光月夜也さん日吉亜衣さん東清美さん、そして、金沢文子さん桃瀬くららさん夕樹舞子さんなんかがこの時代を代表していると思います。

では、その90年代半ば以降、この15年で何が変わったのか? これは難しい問題。しかし、思うにAVの世界と世間の性意識の境界が完全に融解し消滅したというのがポイントだと思います。要は、性的なものが持ついかがわしくも艶っぽいインパクトがAVからなくなり、料理やゴルフのレッスンビデオ、あるいは、PCスキルやビジネススキル習得ものやスポーツもののビデオとAVのとのカテゴリーの差やジャンルの差、よって、<迫力の差>が徐々になくなったのではないかということです。

要は、奥平さんが喝破された如くと言うべきでしょうか。AV女優と普通の女子高生の、「女性性」の商品価値に関する社会的な差異は消滅した。土台、AV女優とは「普通の女の子」がAVというシステムに組み込まれることで「AV女優」という相対的に特殊な、繰り返しますが、社会的に「普通の女の子」にはない商品価値が付与された存在になったものであったのでしょう。畢竟、あるシステムを通過することによる社会的な意味と価値の変化と付与というこの経緯は「AV女優」と「AKB」において何の違いもなかった。

而して、現在、AKB48を「AKB48」にしているシステムはまだまだ健在であるのに対して、AV女優を「AV女優」にするシステムは、「普通の女の子」の女性性の社会的な扱われ方の変容にともない機能停止状態になりつつあるの、鴨。と、そう私は考えます。

2010年代に入った今、現在のAVは二流アイドルのコンサートビデオとなんら変わらない。唄っているか性行為しているかだけの違いしかない。そこでは消費者は自分の好みにあった女優さんと好みのプレーというX軸とY軸のマトリックスに基づいて購入する商品を選ぶだけであり、正に、AVを消費する者にすぎない。逆に、AVはごく普通の企業のごく普通の商材になり、AV業界はインダストリーとして確立したとも。そう私は感じるのです。

2000年代半ば、群星の如く輝いた、例えば、小泉キラリくん、小澤マリアくん、早坂ひとみくん、及川奈央くん、夏目ナナくんなどは10年といわずその5年前であれば<記憶に残る作品>を演じる才能のあるAV女優さんだと思うのですが、最早、彼女達も本当に消費財の原材料でしかなかったと思います。

そして、その後の女優さん達に至っては「名前」を覚える必要もないくらい。そう、例えば、マックやマクドで食する毎回のビックマックや吉野家の牛鮭定食に、「Nao.」とか「Rin.」とか「Rio」、「桜田さくら」や「優木ルナ」や「由愛可奈」などと「名前」がついていないのとパラレルに、「黒木麻衣」とか「片桐えりりか」とか「桜花えり」、「白咲舞」や「笠木忍」や「そらのゆめ」など、2000年代後半以降のAV女優さんの<名前>は商品番号や伝票番号の類にすぎないの、鴨。


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而して、この世間の日常の生活や意識とAVの描く映像世界との境界の消失や揺らぎという現象は、ある種際物のAVだけではなくTVドラマや小説にも言えることかもしれません。もし、この私の推測が満更間違いではないとするならば、そうなった状況下では、「AV」という範疇は(ということは「TVドラマ」や「小説」という範疇も!)、最早、現前の現象を考える上であまり有効な指標や情報ではなくなるでしょう。蓋し、そこでは、<個性差>や<迫力差>がなくなるに伴いカテゴリーの差異も消失し、結局、便宜的に僅かばかりのジャンルの差異だけが残るようになったということでしょうから。

畢竟、どのような意味でも見る者に、最早、(「嫌悪」や「軽蔑」の感情を含め)<感動>を与える作品ではなくなったAVは、単なる情報媒体として<女性を性行為の対象と看做す視点>を社会的に、つまり、ビジネス的に再生産していくものにすぎなくなる。他方、カテゴリーとしての独立にあくまでもこだわるAVはそれはそれで端的に違法なロリータものや暴力ものに移行していった。而して、後者は、もちろん、完全な犯罪であり論外ではありますが、社会に与える実害は前者の方が大きいし根が深いのかもしれません。それは性規範どころか性と家族を巡る法規範の効力をも掘り崩してしまいかねないからです。

AVはその歴史の最初から前者の性質や機能を間違いなく持っていたのでしょうが、個々の作品の<個性>通してそれ以外のメッセージも10年近く前までは発信していたと思います。而して、そのようなメッセージ性や<個性>をなくしたAVは<女性を性行為の対象と看做す視点>を供給するだけの、料理教室的の映像コンテンツとパラレルな情報媒体にすぎなくなるのは当然でしょう。

AVというカテゴリーの消滅、すなわち、AV映像内的の行為の日常化が社会の性規範の融解の原因なのか、逆に、この社会の性規範や性意識の変容がAVという映像作品カテゴリーの消滅の原因なのか。このどちらが原因でどちらが結果かという難しい話は置いておくとしても、いずれにせよ迷惑な話です。AVというカテゴリーの消滅と崩壊が社会規範の融解や崩壊と同時に起こっているということになるのですから。

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アメリカでは、一流のモデルを目指す野心ある女性がスキンマグ系のビデオ(日本で言うAV)に出ることはあるけれど、一流の映画女優を目指す女性はあんまりAVには出ません。そう言われています。けれども、誤解なきように。一流の映画女優を目指す女性も一流の映画女優の方も、彼女達は遠慮なく躊躇なく映像の中で「本番」していますよ! 

では、「アメリカの映画女優」さんの事例でもって何を私は言いたいのか。それは、つまり、AVというカテゴリーが消滅する以前から、AVというジャンルは本格的な演技を盛るには窮屈すぎたのではなかったかということ。だから、演技力が(「不要」とまで不遜なことは言いませんが、)女優に比べれば比較的にはそれほど重要ではないモデルを目指す、モデルの卵がスキンマグに登場することがあるのに対して女優の卵はそのスキンマグという<舞台>を選ぶ傾向が乏しいのではないか、とも。

而して、もしそう言えるのならば、逆に言えば、本当のストリーテリングの力を持った監督とそのストーリーを演じる資質を持った女優が登場しない限り、これからAVはジャンルとしてさえ生き残ることはできないのかもしれません。そして、そのようにジャンルとしてさえ他と識別できなくなるAVを「AV」というカテゴリーに含めて理解する意味は全くないことは自明でしょう。

蓋し、AVのインダストリーとしての確立は、AV作品の<個性>やメッセージの喪失、換言すれば、スト-リー性の喪失という代償を支払った上で初めて可能になった。けれども、<個性>と<思想>を備えている作品という意味で芸術作品ではなくなったAV作品はAVの描く映像の世界を完全に日常的の存在にしてしまうだろうし、それはvice versaでもあるでしょう。而して、その「歴史段階」においては、AVのインダストリーとしての確立はAVの非AV化の原因としてのみ作用する。些か『春秋』の筆法になりますが、現下のカテゴリーとしてのAVの消滅の趨勢はAVの成功の結果なの、鴨。

畢竟、今の大学生の皆さんとかには信じられないことでしょうが、かって、昭和も50年代の(~1985年より前の)この社会では、例えば、直木賞や芥川賞の発表は一大ニュースでした。それは、たとえば、比較的小規模の内閣改造に際しての新閣僚名簿の発表などよりも遙かに世間が注目した情報だったと思います。昔から文学に縁の薄い私でもそこ数年間の芥川賞作家の名前くらいは覚えていたくらいですもの。しかし、現在ではおそらくそうではない。

蓋し、それは直木賞・芥川賞の権威が低下したということでしょうが、その底流には「小説」、否、「文学」自体の社会的の影響力の衰微があるに違いない。而して、この経緯は、小説の作品世界が現実の世界に追い越され、現実と小説の世界が地続きになったことを意味しているのではないか。

実際、真面目な話、2010年代の現在では、単なる「娯楽=暇潰し」のネタとしてはもちろん、この社会の有り様やその社会で生きる人間の実存に思いを馳せる<補助輪>や<補助線>としても、桐野夏生(1997年下半期・直木賞受賞候, 1999年上半期・直木賞)、赤川次郎(1980年上半期・直木賞受賞候)、阿刀田高(1979年上半期・直木賞)の三氏等のものを除けば、芥川賞・直木賞の候補作品や受賞作品よりも、普通の推理小説や歴史小説、あるいは、SFやパスティーシュの方が遙かに参考になる。更に言えば、それら参考になる希な文学作品よりもマンガやアニメ作品の方が数段参考になるのではないかと思います。

そして、問題は(マンガ好きの私にとって、本当に「大問題」なのですけれども)、そのマンガやアニメ作品さえも、諸星大二郎・西岸良平・森雅之・川原泉・岡崎二郎といった世代の作品群を最後に、この社会とこの社会に生きる人間の実存を反芻する縁になる作品が急激に乏しくなりつつあると感じられることです(涙)。而して、その原因は、AVが、最早、「AV」としては存在しなくなっている現下の状況、すなわち、AV女優が「AV女優」としてはその存在を規定することができなくなりつつある現在の状況の背景にあるものとパラレルなの、鴨。

ならば、最早、AVが「AV」として存在しなくなるだろう極めて近い将来において、(現在ではまだ「AV」と呼ばれている諸作品の送り手を含む)日本の映像コンテンツ制作業界の人々に求められている資質は、これまた、小説やマンガの業界で求められているものと同じなのだと私は考えます。それは、読む者や見る者に対して感動を与え得る技量と情熱、すなわち、人をして感動させる作品を<豊饒なる虚構のストーリ>の上につくる才能と技術と野心であろう。

と、そう私は考えます。


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ジャンル : 政治・経済




2012年現在、<北斗の拳>-「もうお前はすでに死んでいる」-状態の民主党政権ではありますが、例えば、鳩山元首相の最近の発言などを見るに、あたかも地中のマグマの如く、民主党内部では外国人地方選挙権の実現の野望は萎えてはいないようです。

永住外国人参政権実現に意欲 鳩山元首相
民主党の鳩山由紀夫元首相は【2012年1月】11日、都内のホテルで開かれた在日本大韓民国民団(民団)の新年会に出席し、民団が実現を強く求めている永住外国人への地方参政権付与について「国会議員に課せられた大きな宿題を果たさなければならない。今年こそは、という気持ちで解決していきたい」と実現に意欲を示した。民主党の江田五月元参院議長、公明党の太田昭宏前代表、共産党の志位和夫委員長、社民党の福島瑞穂党首も早期実現を訴えた。


(産経新聞・2012.1.11 21:31

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120111/stt12011121320005-n1.htm


而して、民主党政権がまだ失速してはいなかった政権交代から4ヵ月ほど経過した頃、件の鳩山氏自身がまだ現役の首相であった頃、要は、民主党において外国人地方選挙権実現を目指すマグマが地表を突き破っていた頃、彼等は次に紹介するようなロジックを展開していました。

畢竟、最早、<北斗の拳>状態の民主党政権に、しかし、日本国民が、文字通り「死に馬に蹴られる」ことのないようには -もっと率直にというか有り体に言えば、「最後っ屁」を免れるためには- 勢い盛んな頃の彼等のロジックを検討しておくことは有効ではないか。なぜならば、その頃の民主党は、正に、そのような理由でもって外国人地方選挙権を実現しよう/実現できると本気で思っていたはずであり、よって、このイシューに関して今後彼等が提案してくるであろう「妥協案」も、当時のロジックという鎧を隠す衣、あるいは、恥部を隠す無花果の葉の一枚にすぎないでしょうから。


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当時の新聞報道によれば、2010年2月9日に開催された都道府県議会議長会主催の会合で、外国人地方選挙権に賛成する民主、公明、共産、社民4党の議員からその賛成理由として次の2点が持ち出された由。すなわち、(A)「税金を納めていながら、地方参政権がないのは、権利と義務のバランスに欠ける」(B)「OECD加盟国で、二重国籍、地方参政権のどちらも認めていないのは日本だけだ」、と。

本稿では、後者(B)の理由、「OECD加盟国で二重国籍も外国人地方選挙権も認めていないのは日本だけだ」を専ら俎上に載せるものです。要は、前者(A)に関するコメントは割愛させていただくということ。

ちなみに、前者の(A)に関しては、常々私は「ディズニーリゾートで遊ぶには入場料を払わなければならないけれど、入場料を支払ったからといって入場者がディズニーリゾートの経営や運営に権利として参画できると考える人はそう多くないだろう」という比喩を用いてその無根拠さを指摘しています。尚、この謂わば「納税-選挙権」リンク論批判も含め、外国人選挙権および外国人管理法制を巡る憲法論に関する私見については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(壱)~(九)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58930300.html

・「外国人地方選挙権は違憲」☆長尾一紘新説の検討
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59183285.html

・<移民>という視座が照射する日本の魅力と危機-あるペルー女性の場合(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60890727.html


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◆隣の芝生-でも「貴方は貴方、私は私」

国籍取得・外国人登録等々「外国人管理」に携わっておられる実務担当者、あるいは、憲法・国籍法の研究者の方々は(外国人地方選挙権に対する賛否を離れて)、「OECD加盟国で二重国籍も外国人地方選挙権も認めていないのは日本だけだ」という主張には幾つか留保をつけたくなるのではないでしょうか。実は、諸外国でも「二重国籍」は例外的な制度であり、なにより、日本の法制度においても「二重国籍者」は現存しているからです。

キムヨナ姫の「入神の演技」が華麗に炸裂した2010年のバンクーバーオリンピック。その女子フィギュアスケート、アメリカ代表の長洲未来さんを持ち出すまでもなく、国籍取得に関して属地主義を採用する国で生まれた日本人の子は漏れなく「二重国籍者」です。

実際、2008年度の法務省推計によれば、(国籍選択が求められる22歳までの「合法組」と、22歳までに日本国籍を選択しながら他の国籍から離脱していない「違法組」を併せて)約58万人の「二重国籍者」が存在しているのです。

而して、この58万という数字は、同じく2008年度のデータで比べた場合、OECD加盟30ヵ国中、ルクセンブルク(48万)、アイスランド(32万)の人口を上回るボリュームであり、少なくとも、「日本が二重国籍を認めていない」という主張は必ずしも正確ではないことは明らかでしょう。更に、日本と他のOECD諸国、否、日本も含めOECD加盟30ヵ国のそれぞれの国内法における「二重国籍」と「外国人地方選挙権」の概念は単一ではなく、正に、百花繚乱・千紅万紫。

つまり、あるEU加盟国が他のEU加盟国の国民に対して「外国人地方選挙権」を認めている事態や、旧植民地国と宗主国の二重国籍を伝統的に認めてきたイギリスの制度、あるいは、その取得が相対的に極めて容易な日本の永住権取得制度、更には、外国人に地方選挙権が認められる条件としての永住権取得が極めて困難な韓国等々の差異を度外視して(例えば、在韓日本人永住者は2003年度で55人、他方、在日韓国・朝鮮人は特別永住者だけでも41万人!)、普通名詞の「二重国籍」「外国人地方選挙権」という用語を用いて日本と他のOECD加盟国を、否、あるOECD加盟国を他のOECD加盟国と比較しても大した意味はないのです。

而して、そのような無意味な比較作業を基盤とする「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」という主張もまた、鳩山首相の「友愛」なみの空虚な意味内容しか持っていないのではないでしょうか。


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このように幾つかの留保はつけるにしても、「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」という指摘は、しかし、事実でしょう。出生時の国籍取得ではない「帰化」のケースでは、日本は旧国籍の離脱を求めるているし、このことと、日本国籍を選択しながら実際には他の国籍からの離脱手続を行なわない「違法組」が存在していることは無関係ではないが別問題であろうからです。

而して、「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」という主張が孕んでいる問題性は、逆に、この命題の指摘が事実であることに起因する。そう私は考えます。蓋し、「この主張が事実として、外国人地方選挙権が日本でも認められるべきだ」とどうして言えるのか、と。率直に言えば、「それが何か?」ということです。

例えば、「OECD加盟国で議院内閣制も憲法裁判所も認めていないのはアメリカだけだ」「OECD加盟国で憲法9条を持っているのは日本だけだ」という命題は、事実として正しい。

しかし、これらの命題が(事実と対応するという意味で)真だからと言って、アメリカは大統領制を止めるか(具体的な訴訟における司法による憲法判断とは別に、抽象的な法令審査権を持つ)憲法裁判所を創設すべきとは言えないだろうし、日本が憲法9条を廃棄すべきだとも(残念ながら)これを理由にしては言えないでしょう。

蓋し、二重国籍や外国人地方選挙権に関して、日本がどういう制度を採用するかということと他のOECD加盟諸国の傾向にはなんら論理必然の関係は存在しない。実際、他のOECD加盟諸国も自国の国益を最大にする観点から(現在の実定国際法の原則である「国籍唯一の原則」との整合性を踏まえながら)二重国籍と外国人地方選挙権に関する法制度を各々構築してきたにすぎないのですから。

ならば、外国人地方選挙権賛成派の件の主張は「隣の芝生」の類の、つまり、「貴方は貴方、私は私」という素朴な反論にも論理的には返答できない粗忽な認識であり稚拙な言説にすぎない。

と、そう私は考えています。


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神功皇后



◆二重国籍と外国人地方選挙権との論理的関係の不在

「OECD加盟国で二重国籍も外国人地方選挙権も認めていないのは日本だけだ」という主張は「隣の芝生」的の誤謬を犯している。すなわち、例えば、「沖縄には日本にある米軍施設の7割が集中している」「在外自国民に自国の国内選挙の選挙権を認めていないのはOECD加盟国で韓国だけだ」という命題は、それ自体、何らかの特定の施策指針を一義的に演繹する<論理必然性>をなんら持つものではない。

而して、このことは、論理的必然性の欠如に起因するものの、そのこととは別のある危うさが「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」という命題には憑依していることを推測させるのではないか。そう私は考えます。蓋し、それは、「果たして、二重国籍と外国人地方選挙権をリンクさせることに何か論理的な意味があるのか」ということです。

別の観点から件の主張が孕む第二の危うさについてを敷衍します。
前項の帰結を再度述べれば、

①帰化を含む外国人処遇の制度設計を巡り、時に、二律背反に陥りがちな「国の労働生産性向上 vs 社会の秩序維持」という二つの政治目的を自国に最も有利な点で均衡させるべく、②国力・資源、文化・社会統合のパフォーマンス等々、非対称性を帯びるその国の歴史的に特殊な現状を睨みつつ、③二重国籍と外国人地方選挙権に関してOECD加盟国諸国はその国独自の政策を選択している。


而して、労働生産性を向上させるべく人口を増やしたい国、逆に、自国民に「出稼ぎ労働者」として海外で外貨を稼いでもらい、最低でもそれによって自国内の「食い扶持」を少しでも減らしたいと考える国にとってはよりルーズな国籍制度が<最適解>であろうし、vice versa なの、鴨。

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畢竟、国際法と憲法の観点からは、「国籍=国籍が与えられる範囲」は、(甲)誰が最終的にその個人の面倒を見るのか/責任を負うのか、(乙)その国の政治的意志の形成と決定に誰が参画でき/誰は参画させるべきではないのかという二つの軸の均衡点として定まるものです。

ならば、「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」という主張には、各国ともこれら(甲)(乙)を睨みながらも、自国の非対称性を踏まえた上で国益を最大にするべく国籍の範囲を定めているにすぎないという現実的な観点が欠けている。而して、私はこの欠落に「二重国籍と外国人地方選挙権をリンクさせる」危うさの病巣が潜んでいると推測しています。

蓋し、「OECD加盟国で二重国籍も外国人地方選挙権も認めていないのは日本だけだ」とう命題、一般化すれば「OECD加盟国で【X】と【Y】が存在するのは日本だけだ」という形式の命題が、社会学的に観察される事実から支持されるための【X-Y】の組み合わせはおそらく無数にあるでしょう。

例えば、「OECD加盟国で【子どもの連れ去りを禁じたハーグ条約が未批准】なのも【調査捕鯨を継続】しているのも日本だけだ」、そして、「OECD加盟国で【裁判員制度】も【銭湯】も存在するのは日本だけだ」と。而して、「ハーグ条約-調査捕鯨」の組み合わせには何かしら意味があるように見えなくもないけれど、「裁判員制度-銭湯」の組み合わせにはそう大した意味はないように見える。けれども、論理的にはこれらはすべて同型の命題であり、かつ、現実からサポートされているという点でもこれらはすべてパラレルなのです。つまり、この「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」という命題は、二つの事実を正しく指摘した無数にある命題の一つにすぎない。

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而して、もし、「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」と吐露した賛成派の論者が、この命題によって「日本も二重国籍か外国人選挙権かのどちらか、あるいは、その両方を制度化すべきである」という主張を演繹できると考えているとしたら、彼等の認識には、おそらく、

(イ)外国人管理法制を巡る論点は二重国籍と外国人地方選挙権の2者から構成されている単一の問題であり、二重国籍を認めない法制が続いている現状では、せめて外国人地方選挙権は認められるべきだ

(ロ)なにより、「二重国籍や外国人選挙権は正しい制度だ」


というアプリオリな前提が憑依していると考えざるを得ないのです。


けれども、(もちろん、「二重国籍」と「外国人地方選挙権」には各々異なる制度目的があることは当然の前提として、しかし、百歩というか千歩譲って、ここではそれらの二制度が「外国人管理法制」というより上位の法システムを構成するパーツであることを認めるとしても)、これら(イ)(ロ)の認識は、

(イ)に関しては、「二重国籍と外国人地方選挙権」には各々独自の制度目的があるだけではなく、この組み合わせに「裁判員制度と銭湯」や「富士山と玉子ご飯」の組み合わせを超える論的な性質は存在せず、他方(ロ)に関しても、この認識は他のOECD諸国が自国と他国の非対称性を踏まえた現実的な観点から二重国籍や外国人選挙権を、「国民主権」と「国籍唯一の原則」の例外として一部採用しているという事実を看過した上で始めて成立可能な妄想にすぎない。


と、そう私は考えます。畢竟、EU域内や英連邦内を除けば、「ほっとけば人口減少に伴い産業の国際競争力低下と国力低下が必定の国」以外で、(帰化に際しての)二重国籍を認めている国は皆無と言っていい。ならば、比較法的観点のからは「外国人選挙権や二重国籍は正しい制度だ」などとは到底言えることではないのではないでしょうか。

蓋し、「OECD加盟国で二重国籍も外国人地方選挙権も認めていないのは日本だけだ」という命題は幾つか留保を附すならば事実でしょう。しかし、それはなんら外国人地方選挙権を根拠づけるものではないということです。

畢竟、「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」というこの命題が外国人地方選挙権推進の理由として神通力を帯びるのは、「二重国籍や外国人選挙権は正しい制度だ」という特殊なイデオロギーを共有するグループの内部に限られる。ならば、蓋し、そのような「内弁慶的-」の命題を都道府県議会議長会主催の会合という<神通力の射程外>の公の場で吐露した賛成派の言動は、正に、「正気?」ものの事態ではなかろうか。と、そう私は考えています。


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宝皇女:皇極天皇・斉明天皇





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2012年の現在、「左翼」や「反日」などの艶っぽくも高尚なレベルの批判を突き抜けるそのあまりの無能さがゆえに、憤激や怨嗟を通り越して国民を唖然や呆然の域に押し流している民主党政権。

しかし、(最早、記憶の圏外に消え去った感さえある、「最低でも県外」発言が惹起させた日米同盟の劣化に代表される鳩山政権下の凄まじい非常識と無知蒙昧ぶりは置いておくとしても)<2011年3月11日午後2時46分>の東日本大震災の復興の遅滞、放射能を巡る風評被害の跳梁跋扈、そして、円高対策の拙劣さと電力の安定供給に危惧を覚える企業活動の停滞と企業自体の海外脱出の趨勢、よって、震災特需による経済効果など「焼け石に水」にした感のある若年者・中高年の雇用機会の激減に対する拱手傍観の呈等々、現下の現在進行完了形での民主党政権の支離滅裂な有害無益ぶりに対するマスメディアの批判は、その前の自民党政権に対する批判と比べればほとんど見られないに等しい。と、そう私は考えます。

比較の観点からは、そう言わざるを得ないほど、自民党政権に対するマスメディアの批判(否、それは言葉の正確な意味で、「誹謗中傷」「揶揄嘲笑」と呼ぶべきものだったと思いますが、自民党政権に対する当時のマスメディアの批判)は尋常ではなかった。例えば、麻生政権に対するマスメディアの<印象操作攻撃>は常軌を逸していました。

曰く、「解散をずるずると先送りする麻生首相」、「「景気の麻生」足元乱れ 「給付金2兆円」所得制限迷走続く」、「第二次補正予算審議 総選挙遠のき準備不足露呈」(いずれも朝日新聞)等々。蓋し、その真偽を事実によっては誰も検証できない「文学的言辞」を弄した印象操作が、当時は日々の新聞やTV報道に溢れていたのですから。


マスメディアが「第4の権力」と言われて久しい。もっとも、「権力」を政治学の一般的理解に沿って「公の資格において他者の行動に影響を与えうる威力」、すなわち、「諸々の暴力装置によって担保され、かつ、正当性を帯びた統一的な権威」の意味に解するならば、「権力としてのマスメディア」とは一種の「隠喩」にすぎないでしょうけれども。

「第4の権力」とマスメディアが称されているについては、しかし、現在の大衆民主主義社会における福祉国家では新聞やTVが、少なくとも「権力」に近しい色彩の、すなわち、なにがの公共性を帯びた甚大な影響力を行使している実態があることも間違いないでしょう。

畢竟、マスメディアの十字砲火の中で安倍政権が文字通り瓦解した経緯を反芻してみるとき、少なくとも、マスメディアが時の政権をも崩壊させるに足る社会的の影響力を保有していることは自明です。そして、その影響力は時の政治権力によっても簡単には阻止・制禦できないもの。蓋し、一種の「正当性」をマスメディアが纏っているという認識もまた大方の賛成を得られるものではないでしょうか。ならば、マスメディアのこれら、謂わば「準権力性:the mass media as a quasi-official power」は否定できない事柄なの、鴨。

而して、マスメディアは準権力でもある反面、マスメディアが、例えば、新聞社が単なる私企業であり(更に言えば、株主構成比率からは多くの大新聞はついこの間まで同族経営の「家業」でしかなかったのであり)、TV局・ラジオ局は監督官庁から認可を受けた民間事業会社にすぎないことも事実。畢竟、新聞やTV、マスメディアは、毫も、現行憲法から準権力なるものとしての「正当性」を付与されてはいないということです。

敷衍すれば、マスメディアの準権力的の機能は、(国民個々の表現の自由の一斑でこそあれ、マスメディアの活動に対して当然のようには正当性を付与することはない)所謂「知る権利」の間接的/反射的な享受によってだけでは正当化されるものではないのです。では、マスメディアの準権力性とはどういう意味なのか、そして、マスメディアの恣意的な「権力の濫用」から国民はどうすればその健全な政治の営みを守護することができるのか。本稿ではこのことを少し考えて見たいと思います。


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◆「第4の権力」の強大な影響力と薄弱な正当性
4年三ヵ月前のこと。2007年9月12日午後2時、安倍首相が退陣表明を行いました。その痛々しい記者会見を想起するとき、この社会におけるマスメディアの強大な影響力を誰しも再確認できると思います。なぜならば、その退陣は、安倍政権の経世済民のパフォーマンスとは無縁の事柄が引き金となって起こったことだからです。

すなわち、安倍首相の退陣は、()閣僚の不適切ではあるが違法とは必ずしも言えない政治資金管理、ならびに、(a)(この社会の寄生虫「自治労-社会保険庁職員」の自爆テロ的な情報リークに端を発する、かつ(b)安倍政権どころかその前任者の小泉純一郎首相の政権ともはほとんど無関係な、)55年体制という名の社会主義体制下で惰眠を貪ってきた、そして、小泉首相がなぎ倒した「旧田中派-竹下派」が牛耳ってきた、小泉構造改革の洗礼前の歴代内閣が放置してきた杜撰な年金処理に遠因があるもの。而して、()安倍首相の退陣は、()()を切り口とした連日連夜のマスメディアのネガティブキャンペーンの結果であることもまた誰の目にも明らかでしたから。

もっとも、2007年7月29日の参議院選挙における自民党の地滑り的敗北の原因は、小泉構造改革が、(構造改革の更なる推進と地方再生の同時実現という一見トレードオフの関係にさえある、よって、より難易度の高い「両正面作戦」のフェーズ、謂わば、小泉構造改革の)その第二段階に移行しつつあることを看過した安倍首相の現状認識の甘さにも帰されるべきではあるでしょう。

もちろん、宰相の印綬を帯びてから<7・29>までちょうど10ヵ月、かつ、都市有権者を中心に小泉改革への支持がいまだ衰えていなかった当時の状況下では5年有余に渡る前政権の路線変更に着手することなど現実的には不可能だった、鴨。しかし、ならばこそ、首班指名から参院選までの10ヵ月、安倍首相は、安倍内閣が次に着手する経済政策の要諦が「構造改革の更なる推進と地方再生の同時実現」である旨を周到に、かつ、繰り返し繰り返し有権者国民にアピールすべきだった。要は、最早、誰の目にも政権交代の実現が確実になっていた、2008年-2009年に麻生総理が行ったことをその2年前に着手すべきだったということです。閑話休題。


ことほど左様に、マスメディアの影響力は強大である。蓋し、マスメディアの影響力の源泉は、①同時大量情報伝達の機能と、②その機能に憑依するなにがしかの正当性ではないでしょうか。

同時に(not "on demand" but "on time")すべての日本国民に向けて(否、支那・韓国・北朝鮮の特定アジア諸国にも、そして、元来、東アジアにはほとんど何の予備知識や関心も興味も持ちあわせていない欧米に対しても)情報伝達できる<能力>、ならびに、権力から独立した立場から収集分析されたと称する「正しい情報」をマスメディアは伝えているという<幻想>こそが、「準権力=第4の権力」の源泉であろうと私は考えています。

繰り返しますけれども、「国民の知る権利」と並んで、権力から中立公平な立場から客観的に「権力を監視するジャーナリズム」という<イメージ>がマスメディアの影響力の源泉ではなかろうか、と。けれども、マスメディアに関するこのイメージは真理を含んだ妥当なものなのでしょうか。あるいは、マスメディアに対する取材・報道の規制は現行憲法に違反する「権力=司法権を除く非第4の権力」(=行政府・立法府)の暴挙なのでしょうか。


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◆「第4の権力」の正当性の根拠としての「権力の監視」
私は、基本的に、なでしこジャパンの試合とキムヨナ姫の演技以外TVは見ませんし、日本の新聞は読みません。日本のマスメディアとのこういうかなり特殊な接し方をしているからでしょうか、それでも時々は目にしないではない日本のマスメディアの報道には慄然とさせられています。

もちろん、アメリカのNew York TimesやWashington Postも、フランスのル・モンドも「反共和党政権の世論操作」「アメリカ批判の世論操作」に血道を上げているという点では酷い代物ではある。しかし、これら欧米の「アサヒ」や「エヌエッチケイ」と日本の朝日新聞やNHKとの違いは、(所謂「従軍慰安婦」なるものの捏造や、教科書検定を巡る「侵略→進出」の書き変え報道等々、朝日新聞のように嘘を記事にすることがほとんどないことは当然として、)欧米のマスメディアは政党の支持不支持の立場を明確にしており、要は、その信奉するイデオロギーの旗幟を鮮明にしていること。よって、「公平中立」なるものを標榜しながらも、実際にはある特定のイデオロギーを流布するといった破廉恥なことはあまりしないことです。

蓋し、NYTやWPSTが2008年の大統領選挙でオバマ支持を明確にしたことでも明らかなように、ジャーナリズムの使命の一つは「権力の監視」ではあるが、「権力の監視」は必ずしも「反権力」と同義ではない。すなわち、現政権とその政策を支持しつつ権力行使の不手際や行き過ぎをチェックすることもまた「権力の監視」であることを十分に欧米のジャーナリズムやメディアはわきまえている。と、あくまでも日本の朝日新聞やNHKとの比較の観点、すなわち、あくまでも相対的な意味においてではありますが、(もちろん、ここに「隣の芝生」の嫌いが皆無とは言いませんけれども)一応はそう言えると思います。

もっとも、例えば、「南京大虐殺」なる御伽噺、若しくは、空中楼閣の所謂「従軍慰安婦」問題、または、首相の靖国神社参拝や捕鯨を巡る彼等の粗雑で歪な記事の論調を想起すれば明らかなように、NYTにせよWPSTにせよTimeにせよ本質的に東アジア地域への関心は薄い。つまり、それらの記者も、まして、その大部分の読者も東アジアの歴史と文化に疎く、あまり、関心も興味も持っていないことを我々日本国民は認識しておくべきでしょうけれども。閑話休題。


畢竟、(1)社会生活の隅々にまで行政のサービスが行き渡っている現在の福祉国家に、また、(2)極一握りの狂信的なカルト集団が当時世界第2位の経済大国の首都の地下鉄で化学兵器を使用可能な、または、当時世界唯一の超大国の経済覇権の象徴であった高層のツインタワービルに対して民間旅客機による自爆テロを(イスラーム世界でもそう広範な支持を集めているとはとても言えない程度の)テロリスト集団が敢行できるような、要は、科学技術とロジスティクスの<流通>がグローバル化している現在の世界に我々は現在生きています。而して、そのような時代の世界において/そんな世界の中の日本において、(3)そのような時代の世界の日本の社会にビルトインされてしまっているマスメディアが、土台、中立などでありうるのでしょうか


すなわち、(1’)福祉国家における行政権の肥大化の趨勢の中で(蓋し、サッチャーリズム・レーガノミックス以降の「小さな政府」を求める新自由主義的の主張でさえ、この行政権の肥大という全体的な趨勢の地の表層に描かれた微修正的の図柄にすぎないでしょう?)、かつ、(2’)最早、(近代主権国家成立期に、キリスト教会・ギルド組織・地方領主等々が国家権力に粉砕解体されるに伴って、漸次、人権を侵害可能な程の社会的実力が独り国家権力に収斂して以降始めて)人の生命・財産・身体・名誉・人格・運命を抑圧制約、侵害蹂躙することが可能な社会的実力が国家権力だけではなく多様な社会集団に再度拡散している現在、(3’)政権や政策に中立・公平なマスメディアによる客観的報道なるものは可能でしょうか。

蓋し、マスメディアの報道自体が現在の社会では「中立」などではありえない。ならば、ジャーナリズムの「権力監視」機能を媒介にした「第4の権力」なるものとしての正当化は、現代の大衆民主主義社会では、最早、成立しえないの、鴨。そう私は考えます。

他方、民主主義社会では「権力には義務が伴う」。また、「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」。もし、これらの箴言が何ほどか正しい内容を含むとするならば、現在は、(甲)それが「準権力的の影響力」を行使する上での根拠と考えられる正当性をマスメディアから剥ぎ取るとともに、(乙)マスメディアに対する、白黒はっきり言えば、マスメディアの報道内容に対する公的な規制の導入もまた社会的に要求されている時代ではないだろうかとも、私は考えるのです。

現代社会では、最早、(甲’)マスメディアは中立でも公平でもありえず、他方、(乙’)マスメディアが「第4の権力」と称される影響力を保持している以上、マスメディアには適切な規制が施されなければならない。これは「権力は腐敗する」という経験則からは当然のことではなかということです。


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◆マスメディア規制と国営放送の必要性
マスメディアの規制を求める主張に対しては、常々、「民主主義の前提条件とも言うべき国民の知る権利」が政治権力に操作され抑圧される危険が反論の論拠として主張されています。而して、マスメディアの規制に関しては「ジャーナリストとしてのモラル」を共有する、マスメディアコミュニティーメンバーによる自己規制が妥当であるとも。而して、この点は、アメリカでも、「New York Times Co. v. Sullivan, 376 U.S. 254 (1964)」の如く、政治に関わる報道については、それを規制・制約する/萎縮させる諸法規には合憲性の推定が働かないこと。よって、例えば、名誉毀損等の違法性を当該の報道が帯びるかどうかは、報道したマスメディア側に故意や重大な過失という「悪意」の存在が個別具体的に立証されない限り報道の制約は許されないという連邦最高裁の判例が確定しているのです。

蓋し、論外でしょう。<権力>のチェックと抑制をその<権力>を行使するメンバーのモラルに期待するなどは、近代憲法の原理原則からは問題外の外とも言うべき戯言でしょうから。加之、最早、巨大な一個の権力に他ならないマスメディアを一人の単なる地方政治家よりも優遇する理由もまた存在しないのではないでしょうか(よって、例えば、「New York Times Co. v. Sullivan」が確立した法理も、少なくとも、報道被害を被った側である原告のカテゴリーによる、「合憲性の推定」から「違憲性の推定」に跨がる原告救済の難易度の再配分が必要ではないかと思います)。

もちろん、「高貴に付随する聖なる義務:Noblesse Oblige」を持ち出すまでもなく、権力の保持者にはより高いモラルが求められることは自明ではありましょう。けれども、(a)権力への懐疑に起因する、(b)権力を抑制する制度の憲法秩序への繰り込みこそ、(c)近代的意味の憲法の真髄。而して、(a)~(c)は旧憲法と現行憲法を貫く我が国の立憲主義的な憲法秩序と立憲政治的な伝統の根幹ではないでしょうか。

ならば、マスメディアが<権力>として存在している現在では、マスメディアに対する規制は、憲法の要請でこそあれ、憲法に毫も反するものではないのではないはずでしょう。畢竟、性善説と立憲主義は不倶戴天の関係とまで言い切る自信はありませんけれど、間違いなく、性善説と立憲主義は無縁なのでしょうから。

性善説と立憲主義は無縁。すなわち、同じ業界内や同じ組織内のメンバーのモラルに期待した「自主規制による権力の監視」では不十分であり規制が希求されている。「第4の権力」を分有するマスメディア間の相互監視、あるいは、新規参入者の脅威による自主規制の機能強化もまた非現実的だろうからです。

後者に絞って敷衍すれば、それ自体が寡占的な許認可事業会社であるTV・ラジオはもとより、寡占的な全国紙、および、共同通信・時事通信の情報配信機能の寡占状況を媒介とした有力地方紙の寡占体制が確立している日本のマスメディア市場は所謂「自然独占」とも言うべき状態でしょう。而して、(ネットが大きな力を持ちつつある現在、更に、有力メディアがネットに駆逐されている節もなきにしも非ずの欧米の情勢を鑑みるに、日本でもそのような「自然独占」状態が未来永劫続くとは言えないものの)マスメディアが供給する商品、すなわち、情報の品質とコスト面における競争によって最適な資源の配分が実現することは期待できず、所謂「市場の失敗」は日本のマスメディアの市場においては不可避と私は考えるのです。閑話休題。


畢竟、現在、就中、日本においてこそマスメディア規制の立法が求められている。他方、マスメディアの情報伝達機能が国際的な広がりをとっくに具現している現在、歴代の政権が組み立て編み上げてきた、謂わば普通名詞の「日本政府」の主張、あるいは、固有名詞としての「時の政権」の意向をバイアスなく世界に伝えるメディアの必要性も、逆説的に大きくなっているの、鴨。要は、左翼・リベラル派が垂れ流す反日的な情報が多ければ(それが嘘でも)諸外国の人々がイメージする日本と、普通名詞および固有名詞双方の日本政府の主張や意図は、朝日新聞やNHKといった反日勢力の発信する情報によって主に形ち作られることは火を見るより明らかでしょうから。

蓋し、所謂「従軍慰安婦」なるものが存在したという誤謬や、韓国発の願望まみれの妄想たる「竹島=韓国の固有の領土」および「not 日本海, but 東海」などの主張が欧米でそれなりの浸透を見せている遺憾な現状を鑑みるに、普通名詞および固有名詞双方の日本政府の主張や認識を正確に代弁するマスメディアの必要性はあながち暴論ではないと思います。畢竟、「公益放送」なる鵺的なNHKではなく端的な「国営放送」が必要ではないかということです。

国営放送や国営新聞社の創出。これに対しては、そんな、「政府直属の放送局がする御用報道を誰が信じるというのか」という否定的な意見も寄せられる、鴨。しかし、(自然独占による寡占状態であるにせよ、外国のプレーヤーも面子として数えることが許されれば、確実に)マスメディアのマーケットには複数のプレーヤーが存在しているのです。ならば、「国営放送」が報道する情報の品質は競争によって担保されると思うのです。要は、21世紀の今時「大本営発表」はどの国のどんな独裁者でも実質的に不可能ということです。

他方、国営放送の報道が、もし、「大本営発表」もどきの(生き馬の目を抜く国際政治の舞台で、「頭隠して尻隠さず」的の)シュールな滑稽劇を演じるとしても、それにはそれなりの意味があるの、鴨。皮肉でも自暴自棄でもなくそう思わないでもありません。

なぜならば、例えば、支那の新華社や人民日報、旧ソ連のプラウダやイズベスチアと同様、その報道の真偽とは別に、国営放送の報道はその国営放送が属する当該の国の現政権の主張や認識を(その報道内容が虚偽であれ、「その国の現政権は、諸外国や当該国の国民に、その報道が扱う事態に関してはどう思って欲しいと考えているのか」ということを)理解する上では意味があるから。ならば、(北朝鮮の拉致被害者に向けた国際放送の継続が資金難から危ぶまれているというニュースを耳にする)日本においては、なおさら、国営放送の設立は国益の維持確保のために真面目な検討事項だと思います。

畢竟、報道は適切に規制されるべきであり、日本政府の「国営放送」が構築されなければならない。ネットの影響力がマスメディアを激変させつつある現下の状況下で、取材活動の便宜や知的財産の適切な運用を中心としたブロガーの優遇と共に「第4の権力」の赤裸々な世論操作から日本の民主主義を守るにはこれらの施策が必要でないはずがない。而して、その施策は原理的には憲法に違反するものではなく、具体的なケースに際しても、憲法に違反しない施策や方途は幾らでも考案可能ではないか。ならば、我々はその施策の具体化に向かうべきではなかろうか。私はそう考えています。


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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済


天照大神


どの言葉をどのような意味で用いるかはかなりの程度、各論者の自由に属することでしょう。もっとも、ある論者が、自分の認識や主張を他者に理解してもらいたいと少しでも願うのならば、彼や彼女は、その使う用語に関しては、

()事前に定義するか、()世間一般に使用されている語義、就中、専門用語についてはその当該の専門家コミュニティーで伝統的に認められた語義で問題の用語を用いる、あるいは、()その用語が指し示す(その用語が世の森羅万象から切り取る)事物や事態や事柄に対する経験を踏まえた分析から導き出され抽出される性質や傾向性や特徴をその当該の用語の語義として用いるべきでしょうけれども。

而して、これら()~()の三者のどれか、若しくは、三者の内のどれか二者、または、理想的には三者すべてを踏まえた7通りの中のどれか一つのスタイルを取りつつ当該の用語を使うことは(∵3C1+3C2+3C3=7)、繰り返しになりますけれども、あるコミュニケーションに参加するに際して、自分の意見を(自分の思考を客観視する場合には、「他者」たる自分をも含む)他者に理解してもらおうとするすべての論者にとって死活的に重要なことではなかろうか。と、そう私は考えます。

蓋し、戦前のヘーゲル哲学やマルクス主義、若しくは、戦後の実存主義や所謂「ポスト構造主義」の論者の少なからずが「わざと常人には理解不可能/理解困難な用語と理路」を常套したこと、そして、これまたある種の「読者」はそのような摩訶不思議・神妙奇天烈な用語使いに対して、「難解がゆえに益々ありがたや」的の態度で応じた事態は、最早、滑稽譚でしかないでしょう。何より、その滑稽譚に一定程度の神通力を付与していた、作者と読者の間の情報落差、とりわけ、語学力格差と海外情報の希少性は(冗談抜きに、格安航空券とインターネットの普及、ならびに、英語以外の欧州言語の影響力の衰微、および、TOEICの普及によって)、最早、消滅しつつあるのでしょうから。

畢竟、本稿は、ある「用語」を使用する場合の上記の心構えや常識を踏まえた上で、弊海馬之玄関ブログで用いる「保守主義」の語義を「保守主義から理解される憲法」の語義を槓桿として(かつ、可能な限り()と()にも目配りした上で、()事前に)定義しようとするものです。閑話休題。


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神功皇后


私が言う「保守主義」とは、(例えば、社会思想の学説史博物館の陳列物にすぎない「バーク保守主義」なるものなどではない、)現在の現役の社会思想としての<保守主義>であり、それは次の4項目をその内容の核心として含むものです

而して、その<保守主義>とは、英米流の分析哲学の地平に立つ、並びに、新カント派の認識論と功利主義の哲学、および、現象学と現代解釈学の思考枠組みと親和性の高い「社会と社会内存在としての人間、それら双方のあるべきあり方」を巡るあるタイプの世界観の体系のことです。

①左右の教条主義、就中、設計主義に対する不信と嫌悪
②慣習と伝統、歴史と文化の尊重と、それらの構築主義的で恒常的な再構築の希求
③国家に頼ることを潔しとせず、他方、国家の私的領域への容喙を忌避する、
 自己責任の原則の称揚と同胞意識の勧奨を支持する態度 
④差別排外主義の忌避
(①~③に共感・承認される外国籍市民の尊敬、および、
 その歴史と文化、伝統・慣習の尊重)


換言すれば、②の内容は、(α)文化帝国主義の手垢のついた、かつ、根拠薄弱な「基本的人権」や「立憲主義」、「国民主権」や「民主主義」、「個人の尊厳:個人の自己決定権」や「人間の生命」なるものの価値を絶対視することなく、(β)現存在たる<自己>のアイデンティティーを根底で支える<歴史>が憑依している<言語>によって編み上げられた、そのような<伝統>としての<政治的神話>を肯定する、(γ)有限なる人間存在という自覚に貫かれた「大人の中庸を得た態度」というもの。

畢竟、個別日本においては、「天壌無窮、皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」というこの社会を統合している<政治的神話>を好ましいものとして称揚し翼賛する心性と態度。而して、時代の変遷の中で(例えば、「女系天皇制」を導入してでも)伝統と慣習の枠組みを維持し、かつ、恒常的に伝統と慣習、文化と歴史を再構築しようという態度であると言えましょう。

更に、敷衍しておけば、②と③の矛盾と緊張を巡っては、「国民の法的確信」を基盤とする<憲法体系>の調整に委ねようとする志向性こそ<保守主義>の態度であり、よって、白黒はっきり言えば、「伝統」や「慣習」、「文化」や「歴史」の中には、<憲法体系>によって、つまり、<保守主義>によって守護されるべきものとその保障の対象から外されるものの種差が生じるということ。

而して、けれども、その両グループに属する各々の価値と規範の間の境界線はアプリオリに定まるものではない。アプリオリに定まるものではなく、(例えば、現下の女系天皇制を巡る問題状況の如く)時代とともに変遷する「国民の法意識=国民の法的確信」に従い、「遂行論的-」あるいは「構築主義的-」に、厳密に言えば、現象学の言う「間主観性」の地平で、憲法論の地平で自ずと定まるもの(★)。と、そう言えると思います。

尚、<保守主義>の、就中、個別日本における保守主義の具体的イメージに関しては
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444711.html

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60167130.html

・覚書★女系天皇制は<保守主義>と矛盾するものではない
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60896992.html

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444639.html

 
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持統天皇


★註:憲法の意味
機能論的に観察された場合、ある国内法体系の内部においては、あらゆる下位の法規にその法的効力を付与し、他方、下位法規の内容に指針を与え制約するという、最高の授権規範であり、かつ、最高の制限規範である「憲法」は、それが存在する規範形式に着目する場合、

(A)形式的意味の憲法:『日本国憲法』とか "The Constitution of the United States of America" のように「憲法」という文字列が法律の標題に含まれている憲法典。および、(B)実質的意味の憲法:「憲法」という文字列がその名称に含まれているかどうかは問わず、国家権力の所在ならびに正統性と正当性の根拠、権力行使のルール、すなわち、国家機関の責務と権限の範囲、ならびに、国民の権利と義務(あるいは臣民の分限)を定めるルールの両者によって構成されています。

すなわち、「憲法」とは、(1)法典としての「憲法典」や他の成文法規に限定されるものではなく、(2)憲法の概念、(3)憲法の事物の本性、そして、(4)憲法慣習によって構成されている。

而して、(1)~(4)ともに「歴史的-論理的」な認識の編み物であり、その具体的内容は最終的には、今生きてある現存在としての国民の法意識(「何が法であるか」「何が法の内容であるか」を巡る国民の法的確信の所在)が動態的と構築主義的に(換言すれば、「結果論的に/泥縄的に」)確定するしかないものです。よって、それらは単にある諸個人がその願望を吐露したものではなく、社会学的観察と現象学的理解により記述可能な経験的で間主観的な規範体系なのです。もし、そうでなければ、ある個人の願望にすぎないものが他者に対して、実効性と妥当性、すなわち、法的効力を帯びることなどあるはずもないでしょうから。



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推古天皇


本稿の中心軸、「保守主義から理解される憲法」の語義に関して、上記註とは別の視点から、すなわち、ある憲法体系内部の諸規範の分類の観点から検算しておきます。畢竟、上記註の(1)~(4)によって、世の森羅万象から切り取られる<憲法>に関しては、つまり、あるある実定憲法の規範体系の内部については、

(a)ある実定憲法の規範には憲法典やその他の成文法規に書かれているものと書かれていないものが存在し、(b)後者の書かれていない憲法規範には、更に、(b1)慣行や有権解釈の積み重ねによって具体化するタイプの規範と、(b2)憲法の概念および憲法の事物の本性から表象されるタイプの規範が存在する。


と、そのように理解できるのではないでしょうか。ならば、例えば(その憲法典や憲法体系が編み上げている実定法の秩序が「司法審査制」を、すなわち、立法・行政といった政治セクターから相対的に独立した<司法機関>による「違憲立法審査の制度」を確立・導入しているか否に関わらず)、ある憲法の人権規範の内容は諸法令やその有権解釈を通じて具現されるしかなく、よって、日本の旧憲法では、言論の自由・結社の自由や信書の秘密等々、多くの人権規定に「法律ノ範囲内ニ於テ」「法律ニ依ルニ非スシテ」という「法律の留保」がついているとしても、旧憲法のその人権の保障の度合いが現行憲法と質的に異なるとは言えない

また、たとえ憲法典で軍備の全廃や戦争の放棄を謳うにせよ、憲法が憲法である限り主権国家の固有の権利たる自衛権は放棄されることなど法的に不可能なことは(加之、国際法上、所謂「集団的」と「個別的」に自衛権を区別することなどできはしないことも)自明でしょう。

これらを踏まえる場合、その憲法典の巻頭第1章に「天皇」を戴く現行憲法もまた「天壌無窮、皇孫統べる豊葦原瑞穂之国のVerfassungを具現した点で旧憲法とほんとんど変わらない」ものと考えるべきなのです。尚、旧憲法の内容、加之、新旧の両憲法における天皇制の意味と機能に関しては下記拙稿をご参照ください。

・資料:英文対訳「大日本帝国憲法」の<窓口>
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60942195.html

・天皇制と国民主権は矛盾するか(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60944485.html

・首相の靖国神社参拝を巡る憲法解釈論と憲法基礎論(1)~(5)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144005619.html


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木花咲耶姫



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ジャンル : 政治・経済




恒例になりました。もちろん、「恒例」ではいかんのだけれども、しかし、それが<現実>であるのも事実。而して、今年も参加します。







◆「固有の領土」の両義性と「竹島の帰属」の一義性
白黒はっきり言えば、現在の国際法には「固有の領土:proper territory」という概念はありません。現状の国境線の尊重がこのイシューを巡る国際法が掲げる唯一の価値だから。

土台、「主権国家」「民族国家」、否、「民族」という概念自体が極めて歴史的なものであり、畢竟、一般に「主権国家」と「主権国家間の関係としての国際法秩序」を確立したとされるウェストファリアー条約体制(1648年)の後も1世紀余り、近世と近代の渾然融合は続いたのであって18世紀半ばまでは「主権国家」も「民族」も地球上に存在してはいなかった。ならば、「日本の固有の領土」や「韓民族の固有の領土」なるものがこの世に存在し得ないこともまた当然でしょう。

実際、我が国においては、幕末・明治初葉までは「国家」とは統治の主体たる大名家中と統治の客体たる領地・領民を指す、ローカルガバメントに関する言葉(a certain word that had been linked to something local-governmental)でした。更に、ゲルナーが喝破した如く、現在、我々が「日本的なもの」「日本古来のもの」(something Japanese, something we think has its origin to ancient days of Japan)と感じているものの少なからずは、「皇国史観」然り、「家父長制的な家族関係」然り、明治維新を契機に人為的に作り上げられた表象にすぎないこと。これまた否定できない事実なのです。而して、「終身雇用制」や「年功序列制」に至っては(「農地改革」とともに)国家社会主義を目指した所謂「1940年体制」の産物であり、戦後改革の中でこれらが日本の伝統的なものと錯覚されたのは心理学で言う所の「記憶の自己改竄」に他なりません。
    
民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは、以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも、多くの場合それらを根本的に変造してしまう。死語が復活され、伝統が捏造され、ほとんど虚構にすぎない大昔の純朴さが復元される。(中略)

ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。それは、偶発的なものでは決してないのであって、それ故簡単には拒めないであろう。

【出典:アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)
 引用は同書(岩波書店・2000年12月)pp.95-96】
    


では、日本の伝統などは存在しないのか? 否、です。伝統とは、よって、保守主義とは伝統の恒常的な再構築の営みに他ならず、「日本的なもの」「日本古来のもの」は厳然として存在している。ただ、それら個々の表現形が普遍性を必ずしも持たないだけのこと。つまり、伝統とは外化され物象化され物神性を帯びた事物ではなく、伝統を再構築する人々の意識と規範と行為に憑依する(ポパーの言う意味での「世界Ⅲ」としての)何ものかに他ならない。

では、竹島は日本の固有の領土ではないのか? 否、です。確かに、「固有:proper」を「神代の昔から普遍的にそう決まっていること」と捉えて、「固有の領土」もまた上で述べたような、それこそ、伊弉諾・伊邪那岐の二柱の神々の頃から天照大神、神武天皇を経て今上陛下に至る、皇孫統べる豊葦原之瑞穂国の領土であるという意味に解するのならば(a territory as one of indigenous Japanese territories)、それは日本の領土とは必ずしも言えない。否、それは誰の領土でもない。

けれども、「固有:proper」を「そう解しそう取り扱われるのが妥当」という意味に捉えて、よって、「固有の領土」をも「日本の国家主権が排他的に及ぶべき不可譲の日本の領土」(an integral part of Japan's sovereign territory)と「機能主義的-法学的」に解するのならば、「歴史的-国際法的」に見て100%、竹島は日本の領土である。その経緯はロシア側にも幾分かの言い分がある「北方領土」とは全く類型を異にしているのであって、蓋し、竹島は間違いなく日本の固有の領土であり、韓国の現下の竹島占有は不法占拠以外の何ものでもない。と、そう私は考えています。
    

竹島奪還。2月22日の「竹島の日」を契機に竹島に一層注目しましょう。


共に闘わん。

б(≧◇≦)ノ ・・・竹島は日本の固有の領土だぁー!
б(≧◇≦)ノ ・・・韓国は国際司法裁判所での竹島の帰属決定に応じよ!
б(≧◇≦)ノ ・・・領土を売り渡す民主党と朝日新聞は日本から出て行け!
б(≧◇≦)ノ ・・・竹島奪還! 共に闘わん!


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◆竹島問題関連サイト&ブログ
・さくら日和 勝手に立ち上げ竹島プロジェクト2012
 http://sakurasakurasakura3.blog53.fc2.com/
 この記事は「勝手に立ち上げ竹島プロジェクト2012」に協賛したものです。

・竹島問題研究所
 http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/

・日韓近代史資料集
 http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey
 ブログ友のchaamieyさんのブログ。流動化しつつある韓国歴史学界の現状と竹島問題に
 関して最深部から最新の情報を発信しておられます。是非、一度、ご訪問ください。


◆戦争責任/戦後責任論を論じた拙稿
・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59898544.html

・書評☆高橋哲哉『歴史/修正主義』
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60178372.html

・小倉紀蔵『歴史認識を乗り越える』の秀逸と失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/20460048.html

・「従軍慰安婦」問題-完封マニュアル(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60010582.html

・戦争責任論の妄想:高木健一『今なぜ戦後補償か』を批判の軸にして(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60939316.html


◆左右の教条主義を越え、粛々と淡々と、かつ、凛として、竹島奪還!
・「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60002055.html

・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60899909.html

・天皇制と国民主権は矛盾するか(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60944485.html

・中川八洋「国民主権」批判論の検討(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60044583.html

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html


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神功皇后


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本稿は「情報クリップ用」の記事です。転記部分は、セレッソ大阪の熱烈なサポーターにして、なでしこの支柱・澤穂希選手の激烈なマニア(←日本語で言えば「大ファン」)、大阪市在住のブログ友の記事。

蓋し、そのコメントに120%同感。

よって、弊ブログに収録させていただくことにしました。ちなみに、私は、川崎フロンターレと名古屋グランパス、そして、アビスパ福岡とサガン鳥栖とソフトバンクホークスのファンにして、なでしこの至宝・宮間あや姫のプチマニアです。

ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿


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貧困家庭に教育クーポン「習いごと」も助成 橋下市長が指示


子育て世帯への助成を強化しようと、大阪市の橋下徹市長が、経済的理由で子供を塾や習いごとに通わせられない家庭に、広く教育バウチャー(クーポン)の支給を検討していることが19日、分かった。教育向けに限定使用できるクーポンで、原資は公金に寄付金を加えたものになるという。

(産経新聞WEST)


http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120119/waf12011915000015-n1.htm


毎日、日替わり弁当のように新たな政策案を打ち出している橋下徹大阪市長ですが、本日のメニューは福祉教育関連、貧困家庭向けの教育支援です。クーポン制にすることで助成金の使用可能範囲を限定することは、民主党が国政で推し進めた「子ども手当」のような無分別な現金バラマキよりも納税者の理解を得られそうですし、教育関連事業への経済的刺激にもつながるでしょう。

またこの政策の特徴的な点が記事に書かれています。

教育バウチャーを使った支援は、兵庫県西宮市に本部を置く一般社団法人「チャンス・フォー・チルドレン」(CFC)が全国に先駆けて実施。募金などで集めた寄付金をもとに、塾や文化教室といった幅広い学校外教育を受けられるよう助成活動を行っており、これを知った橋下市長が連携を指示。市が団体と協議を始めているという。

CFCは平成21年に創業。これまでに東日本大震災の被災地の子供150人に対し、1人あたり25万円分のクーポン券を支給する取り組みを行ったほか、関西でも生活保護世帯の子供を対象に、各25万~50万円分を支給した実績があるという。


つまり参考となるモデルケースが存在し既に一定の実績を上げているということ。あとは市側がこの団体とうまく連携をとっていけば比較的スムースかつ効率的な政策実現が見込まれるわけです。

数ある橋下改革の中でも、とりわけ目につきやすく市民にもわかりやすい功績としてリストアップされることになりそうなプランとなりそうです。

転載元:くさなぎの泥田坊倶楽部


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<KABU感想>

進め橋下徹市長! この記事を読んでそう感じました。なぜならば、最早、この国の政治状況は、「大きな政府か小さな政府か」「55年体制下の社会主義の再生かアメリカ的な強欲資本主義の導入か」等々の総論を優雅に論じる状況ではないから。公務員の給与をどれだけどんなスケジュールで減額するか、公務員をいつまでにどれくらい削減するのか、法人税の引き下げと消費税の引き上げのタイミングと変化幅をどれくらいにするのか、消費税増税の前提となる景気回復をどんな施策でいつまでにどれくらい達成するのか・・・。これら各論とその実現が希求されているから。

日本はそんな状況にある。と、そう私は考えます。

而して、日教組・全教、あるいは、「進歩的」な教育評論家が、無責任に、かつ、大した根拠も示すことなくなんと言おうとも、公教育のパフォーマンスの低さは国民、衆目が一致を見ることでしょう。だって、可処分所得が劇的に低下している、2008年のリーマンショック以降に限っても、私立への進学希望は(それが経済的に難しいとしても、少なくとも「どちらが自分の子には望ましいと考えるか」アンケートが赤裸々にする私立進学願望は)、寧ろ、高まっている。このことがなにより公教育に対する国民の認識の所在と評価の程度を雄弁に物語っていると思いますから。

蓋し、公教育は、原則、全廃して完全にバウチャー制度に移行してもよいくらいなのです。それは、例えば、転記記事中に紹介されているCFCなどが、よしんば、実はいかがわしい団体であり、あるいは、今後、放漫経営の結果破綻したとしても(CFCの皆さん、あくまでも、「例えば・・・としても」の構文の中の例えですよぉー。そう、not ”even though ” but ”even if”)、そんな個別のスキャンダルが半ダース積み上げらたとしても、「バウチャー制度=公教育の分割民営化と市場化」は粛々と実行されるべきだ。と、そう私は考えます。

蛇足ながら、教科指導にせよ生活指導にせよ進路指導にせよ、腕に覚えのある公立学校の教員の方々は、バウチャー制度に際して、現在の公教育システムに対する予算とサービスの受け皿となる塾・予備校・私学に就職すればよろしい。

もっとも、そうなった場合、現在の公立学校の教師の何割がその受け皿で雇ってもらえるかどかに関しては、かなり私は悲観的ですけれどもね。実際、個別英語に関しても、公立学校の中学・高校の英語教師の70%は間違いなくTOEIC730点もとれない現実を見れば(下記URLの拙稿参照)、この私の悲観も、満更、悪意のこもった呪詛の類ではないのではないでしょうか。

>公立学校の高校教師でTOEIC860を取れない人達が今でも多数派
>公立学校の中学教師に至っては70%が730も取れない


・プレーバック:朝日新聞の「武道必須化」批判を反面教師に小論文指導
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/87443bae097b42a43edf6336d8e9651a



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神功皇后


ことほど左様に、上の報道が伝える事柄は、ホームランではないにしても、間違いなく橋下市長のクリーンヒットである。だから、橋下市長には、これからも連打、そして、適時打を期待したい。と、そう私は考えます。

而して、くさなぎさんや私の橋下市長支持のこのような記事に対して、保守派の中には(中には、個人的に大変お世話になっている、某四国や某山陰のブログ友も含めて。おいーい、justiceさん、出雲さん元気~♪)あまり愉快とは感じない方も少なくない模様。だって、時々「橋下信者」と非難されますものね。

もちろん、コアな自民党支持者である私も、橋下氏には一抹の不安というか、かなりの胡散臭さを感じないではないです。これ正直な所。

でもね、でもですね、くさばぎさんも多分、私は当然、たとえ(「麻生総理断固支持!」「小泉総理=平成の大宰相」の私だけれど)麻生総理であれ小泉総理であれ石原都知事であれ、まして、橋下氏などは言うまでもなく、「一人の政治家や思想家にすべてを期待しない/期待する領域でも90点どころか80点も求めない」(もちろん、人間だもの「願い」はするけれど、白黒はっきり言えば「求めない」)。その期待する領域で先ずは及第点の60点を確保して、漸次、1点でも0.5点でも積み上げて行く姿勢と手腕が見られるのなら上出来ですよ、と。

だから、与えられた条件下で、しかし、後から見れば「入神の業績」を残した、例えば、鉄血宰相・ビスマルク、支那の小平先生、韓国の朴正煕大統領は、ある意味、敵ながら私の尊敬する政治指導者なのです。本邦の藤原不比等・北条泰時・足利尊氏・徳川秀忠・大久保利通もそれとパラレル。

人口に膾炙している言葉ですけれども、マックス・ウェーバー(1864-1920)が『職業としての政治』の中で喝破している如く、(大衆民主主義社会における)「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業」(岩波文庫, p.105)なのでしょう。

畢竟、権力と人間の有限さ限界に関する自覚と、他方、理想と理念を捨てず、その理想と理念の旗を降ろすことなく掲げ続けて、その実現に半歩でも三分の2歩でも前進する態度と営みが政治であり政治家のあるべきあり方であろう。そして、保守主義の政治思想とはそのような漸進の前進、極論すれば、3歩進むためなら2歩後退する格好悪さも甘受する大人の態度やものの考え方でもあろうと考えるのです。

要は、政治とは、就中、保守主義の政治とは「凡庸を鉄の意志と天賦の才覚で貫く非凡」の営みに他ならない。だからこそ、鉄の意志とカトリックの深い信仰、並びに、母国に対する燃えるような愛国心でもって「凡庸なる非凡を貫いた入神のキムヨナ姫」のバンクーバーオリンピックのパフォーマンスは、「愚かな天才・浅田真央」のそれを凌駕して当然だった。そう私は考るのです。キムヨナ姫こそ、神功皇后の霊がインカーネートした筋金入りの保守主義者であるとも(「キムヨナ姫=保守主義の同志」という点に関しては下記拙稿、特にその(中)をご参照ください)。閑話休題。

・愛国心の脱構築-国旗・国歌を<物象化>しているのは誰か? (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60640144.html


而して、そんな保守主義の巨人達・女神達と比べるのは馬鹿げたことながら、蓋し、「政治とは凡庸を鉄の意志と天賦の才覚で貫く非凡の営み」よって「及第点の60点を確保して、漸次、1点でも0.5点でも積み上げて行く姿勢と手腕が見られるのなら上出来」との視点からは、橋下氏の現在の比較的高い評価が出るのは自然なことなのです。加之、彼が今後国政に打って出るとして、民主党に擦り寄ろうが、支那に媚びを売ろうが、そんなことは現在の彼の評価とは無関係。そう私は考えます。

尚、橋下市長およびこの国の国政の現状を巡る私の基本的な考えについては
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・橋下市長を「応援」する理由-規定演技で合格点を取れなきゃ保守も反日もないですよ
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60951259.html

・橋下徹大阪市長:君が代起立斉唱 卒業式を前に職務命令!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60982412.html

・<再録>稲田朋美氏を総裁にの声について考える
 -「真正保守」なるものは百害あって一利くらいのものでしょう
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60961253.html

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・政権奪還の順路☆自民党に期待すること/期待すべきではないこと
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60891539.html

・谷垣さん、海外旅行に行きたいなら自民党総裁を辞めてからにしなさい!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60969736.html

・消費増税法案☆首相「不成立なら解散」と首相経験者に伝える? 
 なに言ってんの、増税前に下野か解散でしょうよ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60961380.html


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【放射能漏れ】新築マンション高線量「急な健康被害出ず」

福島県二本松市の新築マンションで放射性物質に汚染されたコンクリートが使われていた問題で、首都大学東京の大谷浩樹准教授(放射線防護)に聞いた。

 Q 問題のマンションの放射線量は時間とともにどの程度減少するか
 A コンクリート内部の汚染は雨などの自然条件で放射性物質は流れないので、半減期30年で減衰するのを待つしかない。

 Q 原子力安全委員会が使用する「室内で1日16時間生活」で計算した場合、年間の最大被曝量はどれくらいか
 A 1年間を過ごした場合、約10.16ミリシーベルトになる

 Q 年間10.16ミリシーベルトの被曝は人体へどのような影響があるのか
 A 年間10ミリシーベルトでは急に健康に影響が出る値ではない。この程度の外部被曝を原因とするがんの発生率も限りなくゼロに近い。また、女性の妊娠への影響も年間10ミリシーベルト程度では考えられない。

 Q 問題のマンション内部の放射線量を下げる(除染する)ためにはどうすればよい
 A 内部に放射性物質が含まれているコンクリートについて、表面から除染をするのは不可能。取り壊して汚染コンクリートを取り除くしかない。ただ、マンションの所有者のことを考えると、第三者が取り壊せというのは一方的なことなので配慮が必要だ。

 Q このマンション近くの住民への影響や、子供が通学路として前を通ってもいいか
 A このレベルの放射線量では子供の健康にも影響はない。近隣の建物は壁などで放射線が遮られ、また、通行者は一日中その場所にとどまるわけではなく問題ない。

 Q 問題の砕石は道路補修などにも使用されたが、何か注意が必要か
 A 道路の補修に使用されても、アスファルトの下にある場合は遮蔽され、線量が低くなっている。毎日通ったとしても健康被害はない。

 Q 原発事故後に稲わらや堆肥など、屋外で保管されていたものから放射性物質が検出される問題が相次いで発覚している
 A 原発事故後の屋外での保管状況を十分に把握した上で、「放射性物質が付着しているかどうか」を判断することが大切。また、除染の際は水で流す、表土を取ることが基本と考えてよいが、状況によって常に最善の除染方法を考えることが重要だ。


(産経新聞・2012.1.18 00:51

 http://sankei.jp.msn.com/smp/affairs/news/120118/dst12011800540001-s.htm


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と、専門家の首都大学東京の大谷浩樹准教授(放射線防護)の話ですが、私は、この一問一答のインタビューで、さも、「放射線被曝は危険ではない」、就中、「低線量放射線/積年/平準/被爆は有益無害だ」とか言いたいのではありません。

ただ、それは、そう騒ぐほどの危険性はないのだろう。ならば、低線量放射線積年平準被爆の危険性は、他の社会的利便との比較衡量においては、タバコの受動喫煙や排気ガス等々のリスクと同様に、実証科学的の見地から合理的な範囲で処置するのが、これまた、社会的な観点からは合理的であり、結局、正義に適った道ではないでしょうか。そう言いたいのです。

而して、これはあるブログ仲間が書いておられたのですが、

こういう事実に基づいた話が通用しなくなった結果
「あの戦争に突入するようになってしまった」 
わけなんですよね・・・。


大谷浩樹准教授のインタビューのようなこういう事実に基づいた話は、
論理的なもの合理的なものと感じられるのですが、
今はもうこういう話をすると

「東電や政府の回し者」
ってことになって、山本太郎辺りにかかると
「そういうことをいうと、どういう見返りが貰えるんですか」
なんて事まで言われてしまうわけですからね・・・・・・・・・・


http://blogs.yahoo.co.jp/master3511/39386492.html


という状況にこの社会はあるの、鴨。そう、秋であるか秋でないかにかかわらず、「唇寒し世間の風」を覚える状況に今の日本は陥ってはいないか。風評被害が蔓延する世相を、あるいは、原子力発電所のストレステスト結果を検討する政府系機関の会議を、プロ市民が暴力で妨害・阻止しても刑事事件にさえならないこの社会の現状を見るに、私はそう思わずにはいられないです。そう、軍靴の足音ならぬ、カルト的のファシズムの足音が聞こえる、と。

1933年に全権をナチスが、しかも、議会制民主主義の手続きを通して掌握した悪夢や、白昼堂々と行われた支那共産党による天安門での武力弾圧を今の日本社会は「アウトオブファッションの悪趣味な冗談」とばかりは言っていられない、鴨とも。否、脱原発論は、民主主義的の手続きを踏んだ、あるいは、法の手続きを踏んだ(もちろん、小平先生の如き優秀な指導者は存在するも、支那に「法治」があるとは思いませんが、)ナチスや支那の共産党よりも遙かに<ファシズム>的性格が濃厚なの、鴨とも。


蓋し、原発論議の特徴は、原発容認のこちら側がどんどん、粛々と、事実を提示して行くのに対して、相手の脱原発論者はいよいよ、益々、危惧を呟く詩的言辞を多用していくこと。これこそ、彼等が、反民主主義的であることの証左でしょう。

おそらく、民主主義なるものは、①あらかじめ定められた討議のルールに則った、②理性的-合理的な、③価値判断と事実判断の違いを弁えた、対論の積み重ねによって政治を動かそうとするアイデアに他ならないのでしょうから。と、そう私は考えます。

尚、脱原発論の非民主主義性と、それが、ルソーやマルクスの如き(人間の万能観・理性の万能観・権力や国家や憲法の万能観が憑依した)羊の皮を被った狼、すなわち、疑似科学万能論の皮を被ったカルト的なファシズムにすぎないことに関しては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・放射能の恐怖から解脱して可及的速やかに<原発立国>に回帰せよ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60935787.html

・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60908495.html

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60588722.html


そして、大谷浩樹さんのインタビューと同様、専門家からの実証的・合理的な情報発信に関しては下記旧稿をご参照ください。繰り返しの指摘になりますが、これらを通して、脱原発論の非科学性と反民主主義性、すなわち、カルト性とファシズム性が、そう、正月に子供が興じる「あぶり出しの絵や文字」の如くクッキリと浮かび上がってくるのを誰しも感じると思いますから。

・高田純教授「福島県民は誰も甲状腺がんにならない」
 -放射能狂騒状態の宴の終了を告げる鐘音
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60985668.html

・チェルノブイリ原発事故で最大の被害をもたらしたものは何か
 -放射能狂騒終了の鐘は鳴り響く(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60986864.html


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先ずは、ブログ仲間の桃実姫の記事紹介。

* * *

東京大学が、入学時期を現在の4月から9月にずらす案を検討しているという。

http://www.asahi.com/national/update/0118/TKY201201180154.html

もろ手を挙げて賛成したい。東大のみならず、日本中の小学校、中学校、高校その他、学校のすべてをいっそ9月入学に変更しても良いと思うくらいだ。

4月入学と言えば、「桜の花のもと、緊張した表情で校門をくぐる新入生」をイメージするのだろうが、そもそも、日本人は、入学と桜の組み合わせにこだわり過ぎる嫌いがある。断わっておくが、私はどこの誰よりも桜の花が好きだけれど、そのせいで、4月1日入学を変えようともしない人が、とりわけ高齢者には多くないか。

センター試験だって二次試験だって、1月か2月に行うと、雪国にはすこぶる不利である。交通がマヒないし遮断したり、雪や氷で路面が凍結したり、必要なICレコーダーなどの機材に不達が生じるかもしれない。

冬の寒い時期だから、風邪引きやインフルエンザ患者の多さは、他の季節の比ではない。

私も、大昔、大学受験をしたとき、同じ試験場(教室)内に、ゴホゴホと咳をし続ける輩がいたが、あれほど迷惑なことはなかった。一生の運命(のある程度)がかかっているというのに、ゴホゴホうるさい咳をガマンさせられ、イラついた。国立大学に落ちたのは、この輩のせいである(ん?)。第一、他の受験生にうつったらどうしてくれるというのだ。

これが、9月入学になると、センター試験は7月ころか。多少暑いが、風邪ひきもインフルエンザ患者もまずいない。夏休みというとあまり受験にふさわしいシーズンでもないとしたら、5月か6月に前倒ししてもいいだろう。二次試験もそれに続けて、8月の盛夏を避けるようにしたらいい。

それに何より、世界中の趨勢は秋入学なのである。これほどまでにグローバル化が叫ばれているのに、わが国一国だけ、学期制が諸外国と異なるというのは、やはりどう考えても得策ではない。留学生の確保も、その逆の留学先への移動にも、支障が大である。

桜はまた入学後、咲くのだから、こだわらないほうが良い。

1事業年度は、官公庁をはじめとして、4月~3月のところが多いと思うが、年度末のばたばた忙しいときに、受験というヤマを持って来ないほうが、官公庁もむしろ集中して仕事ができるのではないか。

転載元: Shalom! 桃実の部屋


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<KABU解題>


やっぱ、入学式には桜が・・・。
寒いときの受験だからこそ思い出に残るし・・・。
今までもそれで来てたし、変えるのは面倒だし大変だし・・・。
「入学」や「卒業」、「受験」や「入試」の<季語>の割り当て季節も変わるから、今までの俳句が理解しづらくなるし・・・。


と、この程度の理由で変わらないものが多いのでしょうね、世の中。

大体、

①一年の一番暑いときに(しかも、今時ドーム球場でもなく)甲子園でやる高校野球なんかはクレージーでしょう。

②春スタートのJリーグは、世界とカレンダーがずれて、日本側は、選手・監督(コーチ)の獲得と売り込みに不利になっているのは間違いない。

③失業しようが給与減額されようが、子供が生まれようが、親が痴呆になろうが、前年度の所得に対する税率の地方税を翌年度に徴収するというのも、滞納者の増加の温床。それには右肩上がりの時代の幻想の残滓という以外には、上記程度の理由しかないの、鴨。



それに、「入学式には桜が」なんてのは東京以西以南の極一部の日本人の季節感にすぎないでしょう。実際、青森出身の会社の後輩に聞いたことがある。すなわち、彼は大学進学に際して生まれて初めて上京したのだけれど、入学式の日に桜が満開なのに驚いた、と。「そうか、本で読んだり話には聞いていたけれど、東京辺りでは本当に「桜は卒業式・入学式の頃に咲くもの」なんだなぁ、と初めて分かりましたよ」、と。

而して、なにより、戦前も長らく高等教育機関に関しては、その多くは秋入学だったのですからね。その意味では「桜の伝統」というのも、かなり、割り引かないといけないものではある(★)。

土台、秋か春かという問題は、その「解答」に真理性とか必然性のない決め事にすぎないでしょう。これ、「赤信号」や「郵便ポスト」と同じ問題。つまり、「停止信号」や「郵便ポスト」の色が赤色である必然性はないけれど、「赤」なら「赤」、「青」なら「青」と社会的に決まっていることに、これまた、社会的に意味があるのと同じ問題(「調整問題」)ということ。

ならば、「諸外国に併せられる」というのは、満更、馬鹿にできない理由、鴨。よって、「9月入学化」には、もろ手を挙げて大賛成というほどではないけれど、私も賛成ですね。

而して、

ポテトも一緒にいかがですか♪

よろしく、「秋入学導入と一緒に女系天皇制の導入もいかが」でしょうかね。

ヽ(^o^)丿

とかとか、いろいろ考えさせられた桃実姫の記事。
そう思い度々になりますが転記紹介させていただきました。


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★資料註:日本の入学時期の変遷-「日本の春=受験と入学の春」の由来


今でこそ4月入学は当たり前になっていますが、昔からそうだったわけではありません。

●江戸時代
・寺子屋、私塾、藩校などでは特に入学の時期を定めず、随時入学できた。
●明治時代初期
・明治維新により西洋の教育が導入され、高等教育では9月入学が主流となる。

しかし、富国強兵政策の影響もあり、様々な新年度が4月から始まるようになります。

●1886年(明治19年)
・政府の会計年度が4月-3月になる。
→会計年度に合うよう、小学校で4月入学が奨励されるようになる。
・陸軍の入隊届出開始日が9月から4月に早まる。
→高等師範学校が4月入学とすることを定める。(優秀な学生を軍隊に確保されてしまうことを懸念?)
●1888年(明治21年)
・全国の師範学校も4月入学となる。
●1900年(明治33年)
・小学校が正式に4月入学となる。


これに対し、帝国大学や旧制高校は9月入学を維持していましたが……
●1919年(大正8年)
・旧制高校が4月入学となる。
●1921年(大正10年)
・帝国大学が4月入学となる。


出典:
http://allabout.co.jp/contents/sp_enterschool_c/1758/220653/index/


◇KABU解説:

資料中の「富国強兵政策の影響もあり、様々な新年度が4月から始まる」というのは些か言葉足らずで、意味不明でしょうか。端的には「富国強兵」と「春入学」は無関係というかニュートラルでしょうから。

ポイントは、ここでも「入学時期=調整問題」ということ。要は、決まっていることに意味がある。何かが4月スタートに決まれば他も4月に移ることには意味があるということ。

で、その最初の何かは? やはり、()欧米の多くの国と同様に、企業や国の(つまり、財政・予算の)会計年度と、()個別日本的には、「入学が秋だと、そろそろ農作業で忙しくなり不便」というのが理由だったようです。


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<承前>

チェルノブイリで退去命令が出たのは年間5ミリシーベルト以上で、これは日本の計画避難区域よりきびしい値である。当時のソ連は社会主義の崩壊直前で経済は疲弊していたため、移住を強いられた人々のほとんどは失業し、政府の援助も受けられなかった。結果的に20万人が家を失い、1250人がストレスで自殺し、10万人以上が妊娠中絶したと推定される。ロシア政府の報告書は次のように結論している。

『事故に続く25年の状況分析によって、放射能という要因と比較した場合、精神的ストレス、慣れ親しんだ生活様式の破壊、経済活動の制限、事故に関連した物質的損失といったチェルノブイリ事故による社会的・経済的影響のほうがはるかに大きな被害をもたらしていることが明らかになった。』

福島で起こっていることも同じである。放射線量はチェルノブイリよりはるかに低く、年間20ミリシーベルトを上回る地域はもうないのに、政府は住民の反発を恐れて避難民を帰宅させない。「除染してから帰宅させろ」という要望に応じる財源も要員もなく、除去した土を移動させる場所もないため、11万人以上が10ヶ月近く不安な避難生活を強いられている。

ロシア政府は「チェルノブイリ事故の主な教訓の一つは、社会的・精神的要因の重要性が十分に評価されなかったことである」と指摘し、「この教訓は福島第一発電所の事故にとっても今日的なものだ」と述べている。事故対策の最終目的は放射能を減らすことではなく、人々の被害を減らすことである。微量の放射線にこだわって、これ以上彼らを隔離したままにすることは人道上ゆるされない。

ニューズウィークより抜粋)


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日本再生の年頭に 京都大学原子炉実験所教授・山名元  
過度なリスク回避に縮こまるな

2012.1.12 03:05

2012年が日本再生の年になることを祈るばかりであるが、当座の復興を図るだけでなく、「あらゆるリスクに強い日本」を作り上げることを期待したい。予見されるリスクを冷静に分析したうえで事前の策を固める一方、過度なリスク回避に走る縮こまった国になることも避けねばならない。

≪欠落するリスクマネジメント≫
日本は、リスクマネジメントや危機管理に弱いとされる。未曽有の災害を克服して再生に向かう今年こそ、しっかりしたリスクマネジメントが定着することを、中でも、国のエネルギー戦略策定におけるリスクマネジメントの視点が強化されることを期待したい。

昨夏の電力危機は、節電や休止中の火力発電所の起動などで乗り切ったものの、産業や生活に大きな影響をもたらした。安定的な電力供給とは、送電系異常や発電所トラブルが起こってもなお大規模停電を回避でき、どんな擾乱に対しても電圧や周波数を一定に維持できるような、予備力や異常対応力を持った強固な状態である。

安定的な電力供給の保証がなくなることは、多くの産業にとって最大のリスクである。産業は、電力不安定というリスクに海外移転などの回避策で対応する可能性が高い。安定し強固な電力供給の確保は、国にとっても、優先的なリスクマネジメントなのである。

だが、福島第1子力発電所事故後、政府の情報提供やメディア報道では、「我が国のエネルギー確保に関わるリスクの全体像」はほとんど伝わってこない。世間の関心も、原発批判と事故責任追及に集中し、事故で生じたエネルギー戦略上の「リスク構造」の分析やリスクマネジメントの在り方に関してはほとんど説明がない。事故の収束措置や環境修復などが進み始めた今、政府や報道機関は、エネルギー戦略に関わるリスクマネジメントの在り方について、国民への詳細な説明と情報提供を増やしてゆくべきであると思う。

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≪電力の安定供給脅かすもの≫
電力の安定供給に向けて想定すべきリスクとして、(1)原発の安全リスク(2)安全面以外による原発の稼働率低下のリスク(3)火力発電に伴う化石燃料(特に天然ガス)の供給リスク(4)化石燃料のコスト上昇リスク(5)火力発電のCO2排出に伴う長期的リスク(6)発電プラントの老朽化などのプラントリスクの増加(7)再生可能エネルギー発電の大量導入に伴うコスト負担増や導入可能量の不確実性(8)大量導入による電力系統の脆弱性拡大リスク(9)過度な省エネ要求による産業へのリスク-が挙げられよう。

さらに、金融危機、財政問題、国際紛争などの政治、経済情勢に関わる不確定性はエネルギー資源確保にも大きく影響し得る。こうした多様なリスクの存在を前提とし、全体として強靱な発電体系が構築されてゆかねばならない。

事故がもたらした不安感から、原子力を排除したいという世論の願望(脱原子力)は強いが、それは火力発電や再生可能エネルギー発電への過度な集中により、(3)~(8)のリスクを高めることにつながる。過度な原子力依存を、「減原子力」に転換する必要はあるとしても、火力発電や再生可能エネルギーなどに過度に依存し過ぎるリスクを避けるには、CO2排出面や供給安定性上のリスクが低い原子力に、一定程度依存する必要があることを再考すべきである。

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≪エネルギーのベストミックス≫
水力、地熱、原子力、長期的なリスクは伴うものの技術的には確実な液化天然ガス(LNG)、そして石炭による火力発電を適切に組み合わせることで相互のリスクを減じつつ、再生可能エネルギー発電の着実な強化を進めるという方向性には、リスクヘッジの点から現実性があるのではないか。

原子力の安全リスクの抑制は、停止中の原発の再稼働を含め、原子力を継続利用していくうえで必要条件である。福島第1原発事故は、自然災害のリスクと、原子力の基本たるべき工学原理(深層防護、確率論的リスク評価など)における問題の存在を示した。自然災害を含む事故のリスクに備え安全上の盲点を排除する本質的な取り組みと、ハードやソフトの安全を強化する措置が求められる。

新たな安全規制によって事故のリスクを減らす措置を強化することが必要であるのは、言うまでもない。原子力の安全リスクを、国民が無理なく受け入れられる水準にまで下げることが求められており、そのためにリスクコミュニケーションが極めて重要になる。

新しいエネルギー計画は、我が国の経済や暮らしを保障する重要な戦略であるから、さまざまな不確実性やリスクを排除した上で、実現性や確実性を重視して立案されるべきである。これはまさに、リスクマネジメントとしての取り組みである。既存のインフラとの整合性や追加的な投資の妥当性を含め、不確実性やリスクを最小化し得る現実的なエネルギーの「ベストミックス」の検討が、慎重に進められるよう強く期待する。

産経より抜粋)


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追加資料:原子力委 ヨウ素剤の事前配布案

1月12日 19時2分

原発事故が起きた際に甲状腺被ばくを避けるための「ヨウ素剤」について、国の原子力安全委員会の分科会は、事故後に配布する時間はほとんどないなどとして、避難指示などが出る可能性のある原発から30キロ圏内の家庭には、あらかじめヨウ素剤を配布することが有効だとする案を初めて示しました。

東京電力福島第一原子力発電所の事故では、甲状腺被ばくを避けるための「ヨウ素剤」の服用の指示が、事故直後に国から出されず、多くの住民に配布されないなど、課題を残しました。これを受けて、「ヨウ素剤」の服用や配布の在り方について議論してきた国の原子力安全委員会の分科会は、12日、提言の案を初めて示しました。この中で、事故の際に避難指示などが出される可能性のある、原発から30キロ圏内については、事故後にヨウ素剤を配布する時間はほとんどないとなどとして、あらかじめ各家庭に配布することが有効だとしています。

ただ、ヨウ素剤については副作用があることから、リスクについてどのように説明し配布するかや、副作用が出た場合に補償をどうするかなどについて検討する必要があるとしています。今回の案について、委員からは「事前に配布すると、なくす人が出る可能性があり、事故後に改めて配る、二重の体制が必要だ」などという意見も出されました。分科会では、早ければ来月の会合で提言をまとめ、委員会が今年度中に予定している、原子力事故に備えた防災指針の見直しに反映させたいとしています。(NHKより抜粋)


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木花咲耶姫

テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




前稿(↓)に引き続き、ブログ友のteroさんにご教示いただいた情報を紹介させていただきます。「チェルノブイリ原発事故で最大の被害をもたらしたのは放射能ではない」および、山名元・京都大学原子炉実験所教授の「日本再生の年頭に-過度なリスク回避に縮こまるな」他です。

・高田純教授「福島県民は誰も甲状腺がんにならない」
 -放射能狂騒状態の宴の終了を告げる鐘音
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60985668.html

而して、放射線被曝の危険性、就中、(現下の日本の社会で百鬼夜行する、すなわち、放射能狂騒の風評被害を惹起する魑魅魍魎の跳梁跋扈の<汚染源>としての)低線量積年平準の放射線被曝の<危険性>なるものについての私の理解は前稿に記した通りです。読者の倦怠を恐れず、以下、引用させていただきます。

* * *

蓋し、「放射能狂騒状態」の現下の日本に対して批判的な論者の多くも、誰も「放射線被曝が、低線量のものにしても、危険ではない」などと論じていません。要は、私も含むそのような論者は、

①低線量放射線の積年平準の被爆の危険性は確認されていない
②確認されていないことと存在しないことは別の事柄ではあろう

③定性的な観点からは、この世に絶対の<安全>など存在しない
④定量的な観点からは、例えば、致死量の青酸系毒物の如き絶対の<危険>は存在するものの、他方、例えば、酸素も水も極論すれば有害であり得るように、絶対の<安全>は存在しない
⑤定性的と定量的の双方において<危険>と<安全>は非対称的

⑥放射線被爆の許容値は、原子力発電の社会的利得と<危険の可能性>との比較衡量から割り出されるしかない。すなわち、放射線被曝の許容値は、(「赤信号」や「郵便ポスト」が赤色である必然性はないけれど、それが「赤」なら「赤」に社会的に決まっていることには、社会的な利得と意味があるのとパラレルに、低線量放射線/積年/平準/被爆の許容値も、)社会的な取り決めの範疇に属する所謂「調整問題」である


と、そう考えているのだと思います。而して、今般の福島の原発事故を経験した現在でも、否、日本における原子力政策にとっての「ノアの洪水」とも言うべき今般の福島第一原子力発電所の事故を経験した現在こそでしょうか、

原子力発電の、(A)短期的にはリーズナブルで安定的な電力の供給というメリット、(A)長中期的には、(a)エネルギー安全保障に不可欠なエネルギー源の多様化の維持推進、および、(b)日本が比較的容易に核武装することができる核武装のポテンシャルの維持確保。(B)これらのメリット、社会的利得の大きさは、臨床的・疫学的には健康被害がほとんど全く確認されない低線量放射線積年平準被爆の<危険の可能性>のデメリットを遙かに凌駕するものだとも。

この問題に、「福島発のノアの洪水」を潜る中で否応なく洪水前よりもより真摯に向き合い反芻した結果、日本国民は、そう確信をもって言える地平に、好むと好まざるとに関わらず降り立った。と、そう私は考えています。(以上、自家記事引用終了)

* * *

蓋し、例えば、上記自家記事中の(Aa)に関して、(低線量放射線被曝の危険性は、社会的に無視可能な程度の<危険の可能性>でしかない以上、)使用済み核燃料処理のコストを算入したとしても、「原子力発電を推進するメリット、社会的利得の大きさは、臨床的・疫学的には健康被害がほとんど全く確認されない低線量放射線積年平準被爆の<危険の可能性>のデメリットを遙かに凌駕する」と私は考えるのです。

要は、現在の被爆許容値を100倍から200倍に引き上げれば(ちなみに、その引き上げられた帯域でも、現在の被爆許容値と同様、有意の健康障害は臨床的・疫学的に確認されていないのです!)、福島原発事故などは(福島第一原子力発電所のそれまた原子炉近傍を除けばですけれども、)瞬時に雲散霧消する類のものにすぎない、とも。

尚、この放射線被曝の危険性、すなわち、<危険性の可能性>を巡る私の基本的な考えについては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・ドイツの大腸菌騒動
 -脱原発の<夢物語>は足元の安心安全を確保してからにしたらどうだ
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60533639.html

・放射線被曝の危険性論は霊感商法?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60504829.html

・魔女裁判としての放射線被曝危険論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60493326.html

・社会現象として現れるであろうすべての将来の原発問題への序説
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60454892.html

・放射能の恐怖から解脱して可及的速やかに<原発立国>に回帰せよ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60935787.html

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畢竟、脱原発論、そして、その脱原発カルトの「理論的根拠」(?)らしい、彼等の「低線量放射線被曝も危険性がある」という閾値を否定する言説は(その言説の仮説としての論理的と数学的な妥当性とは逆に、それが、<危険性の可能性>が論理的可能性にすぎないことに、故意か過失か知りませんけれども、口を噤いでいる/論理的可能性にすぎないことを看過している点で)、正に、「科学的言説を纏った非科学性」でしかない。と、そう私は考えます。

敷衍しておきます。脱原発論者の持ち出す低線量放射線被曝の危険性の主張、例えば、京都大学の研究チームが発表した『チェルノブイリ原発事故の実相解明への多角的アプローチ~20年を機会とする事故被害のまとめ~』(2007年)に収録されているマーチン・トンデル「北スウェーデン地域でのガン発生率増加はチェルノブイリ事故が原因か?」(スウェーデン)は、低線量放射線被曝の危険性を肯定(?)した極めて稀少な研究なのですが、このレポートにおいて、

http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/tyt2004/tondel.pdf

①喫煙や社会経済的要因といった特定の発癌要因以外での癌発生を放射線被曝によるものと仮定していること、よって、②放射線被曝と食生活や食材の変化等々の他の有力な発癌要因との間の重回帰分析は施されていないこと、なにより、③被曝線量の多少と癌発生件数との間に相関関係が見られないこと、そして、④この研究によっても、甲状腺癌・白血病といった放射線被曝との因果関係が想定される健康障害と放射線被曝との間に有意の相関関係は認められなかったと報告されていること等々

    
を鑑みれば、このレポートは、タイトルとは裏腹に、「北スウェーデン地域でのガン発生率増加はチェルノブイリ事故が原因ではない」と言っているに等しい論稿なのです。

蓋し、このような(低線量積年平準の放射線被曝の危険性を否定するものと「見立てる」ことも満更我田引水や牽強付会ではない)論稿を低線量放射線被曝の危険性の根拠と強弁する脱原発派の主張は、正に、結論ありきの/原発推進論批判の為にする「科学的言説を纏った非科学性」の顕現以外の何ものでもないのではないでしょうか。

すなわち、上記の理路を反芻するに、これまた前稿の転記とその補訂になりますが、

(甲)原子力発電をその政権下で半世紀以上推進してきた自民党政権と電力会社には何の落ち度もない。よって、(乙)福島原発事故がかくも長期に亘って続いており、その実損害、現実の被害が広範かつ重大になったこと/なり続けていることの責任は、一重に、事故に対処した/対処している民主党政権の無能に収斂する。畢竟、この社会を風評被害が蔓延する「放射能狂騒状態」に貶めかつその異常と不健全を放置している民主党政権は地獄に落ちろ。

(丙)東京電力には、原発事故に際して無限責任を電力会社に課すことの帰結として、「原子力損害の賠償に関する法律」が規定した、前代未聞の自然災害が引き起こした損害に関する免責規定が適用されるべきであり、而して、(丁)その免責によって減額されたとしても、到底、今般の原発事故の損害は東京電力の資金的体力では賄えるものではない以上、東京電力は粛々と法的処理に付され、解散されるべきだ。もっとも、(戊)東京電力は民主党政権の拙劣な事故対処に起因する損害部分に関しては遠慮なく民主党と国に賠償を求めてよいことは言うまでもない。民主党政権はこの部面でも地獄に落ちるがいい。

と、そう私は考えます。以下、ブログ友のteroさんにご教示いただいた情報の転記です。



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チェルノブイリ原発事故で最大の被害をもたらしたのは放射能ではない

2012年01月05日(木)19時52分

1986年に当時のソ連で起こったチェルノブイリ原発事故から、昨年で25年。ロシア政府は、25年間の調査をまとめた報告書を出した。これはロシア語でしか発表されていないため、ほとんど知られていないが、重要な教訓を含んでいる。中川恵一氏(東大)の新著『放射線医が語る被ばくと発がんの真実』には、その結論部分が訳されているので紹介しよう。

事故で死亡したのは、原子炉の消火にあたって急性放射線障害になった作業員134人のうち28人。さらに22人が、2010年末までに死亡した。これをすべて含めても直接の死者は50人であり、これ以外に急性被曝による死者は確認されていない。

ただ放射能に汚染された牛乳を飲んだ子供が5000人にのぼり、そのうち9人が死亡した。これはソ連政府が事故を隠したため、汚染された牧草を食べた牛によって放射能が濃縮され、それを飲んだ子供が10シーベルト以上の高い放射線を浴びたことが原因である。福島の場合、すぐ出荷停止措置がとられたため、子供の被曝量は最大でも35ミリシーベルト。甲状腺癌の心配はない。

IAEA(国際原子力機関)は90年代に「4000人が慢性被曝で癌になる」と予想し、児玉龍彦氏(東大)は「チェルノブイリで膀胱癌が増えた」と国会で証言したが、これは間違いである。国連科学委員会(UNSCEAR)の調査の行なった被災者53万人の疫学調査でも、小児甲状腺癌以外の癌は増えていない。つまりチェルノブイリ事故の放射能による死者は、59人しか確認されていないのだ。

ところが事故後、ロシアの平均寿命は1994年には事故前と比べて7歳も下がり、特に高齢者の死亡率が上がった。一部の人々はこれを放射能の影響だと主張するが、死亡率の上昇は原発からの距離に関係なく、むしろ現地のウクライナより遠いロシアのほうが上昇率が大きい。また放射線の影響は癌以外には出ないが、事故後に増えたのは心疾患などのストレス性の病気だった。こうした結果をロシア政府は次のように分析している。

『事故処理にあたった最初の数年において見込み違いだったのは、以下のことである。[中略]何年にもわたってチェルノブイリ原発事故が及ぼす社会的・経済的および精神的な影響を何倍も大きくさせてしまったのは、基準値としてセシウム137の汚染度を過剰に厳重に設定した1990年代の法律によるところが大きい。この結果、自然放射線量より低い地域が法的に被災地に含まれることになってしまった。』



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<続く>


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本稿で紹介するのは、ブログ友のteroさんにご教示いただいた情報です。高田純教授の「福島県民は誰も甲状腺がんにならない」。正に、正論。そう思い私も転記させていただきました。

蓋し、「放射能狂騒状態」の現下の日本に対して批判的な論者の多くも、誰も「放射線被曝が、低線量のものにしても、危険ではない」などと論じていません。要は、私も含むそのような論者は、

①低線量放射線の積年平準の被爆の危険性は確認されていない
②確認されていないことと存在しないことは別の事柄ではあろう

③定性的な観点からは、この世に絶対の<安全>など存在しない
④定量的な観点からは、例えば、致死量の青酸系毒物の如き絶対の<危険>は存在するものの、他方、例えば、酸素も水も極論すれば有害であり得るように、絶対の<安全>は存在しない
⑤定性的と定量的の双方において<危険>と<安全>は非対称的

⑥放射線被爆の許容値は、原子力発電の社会的利得と<危険の可能性>との比較衡量から割り出されるしかない。すなわち、放射線被曝の許容値は、(「赤信号」や「郵便ポスト」が赤色である必然性はないけれど、それが「赤」なら「赤」に社会的に決まっていることには、社会的な利得と意味があるのとパラレルに、低線量放射線/積年/平準/被爆の許容値も、)社会的な取り決めの範疇に属する所謂「調整問題」である


と、そう考えているのだと思います。而して、今般の福島の原発事故を経験した現在でも、否、日本における原子力政策にとっての「ノアの洪水」とも言うべき今般の福島第一原子力発電所の事故を経験した現在こそでしょうか、

原子力発電の、(A)短期的にはリーズナブルで安定的な電力の供給というメリット、(A)長中期的には、(a)エネルギー安全保障に不可欠なエネルギー源の多様化の維持推進、および、(b)日本が比較的容易に核武装することができる核武装のポテンシャルの維持確保。(B)これらのメリット、社会的利得の大きさは、臨床的・疫学的には健康被害がほとんど全く確認されない低線量放射線積年平準被爆の<危険の可能性>のデメリットを遙かに凌駕するものだとも。


この問題に、「福島発のノアの洪水」を潜る中で否応なく洪水前よりもより真摯に向き合い反芻した結果、日本国民は、そう確信をもって言える地平に、好むと好まざるとに関わらず降り立った。と、そう私は考えています。

而して、脱原発の論者の主張は、その根拠が「定量的」ではなく「定性的」であり、加之、脱原発のデメリットに対する具体的と包括的な手当、就中、その諸手当を実現するマイルストーンが欠落している。蓋し、放射能狂騒に興じる彼等の理路は、

・月か火星にウサギがいる確率は100%だ
∵月にウサギがいる確率は、「いる/いない」のどれかだから1/2
 同じく、火星にウサギがいる確率も、1/2
∴月または火星にウサギがいる確率はその和なので、1/2+1/2=1、100%!


と、こんな論理(?)とパラレルなの、鴨とも。尚、この問題を巡る私の基本的な考えについては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・放射能の恐怖から解脱して可及的速やかに<原発立国>に回帰せよ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60935787.html

・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60908495.html

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60588722.html

・事故を乗り越え福島とともに進む☆原発推進は日本の<天命>である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60450789.html

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要は、東日本大震災が惹起した「福島発のノアの洪水」が、(その古き良き甘美な微睡みに、文字通り、高さ15メートル超の冷水を浴びせ、)原発推進派の喧伝した「原発の安全神話」なるものは消え失せた。それと同時に、これまた、原発反対派の常套した「放射線被曝絶対危険の黙示録」もまたその役割を終えたの、鴨。

比喩を使い敷衍すれば、そう、古き良き時代のプロレス如き、予定調和が覆うリングの上で敵味方がそれぞれの得意技、すなわち、「安全神話」と「危険の黙示録」を相互にお行儀よく繰り出すお芝居もまた、福島第一原発と同時に<2011年3月11日午後2時46分>を境にその「賞味期限」が断ち切られたということでしょう。そして、「福島発のノアの洪水」を生き残った我々の前にある原発問題とは、単なる、社会的な比較衡量がする調整問題でしかなくなったの、鴨。

畢竟、現代の大衆社会において、かって<英雄達>が繰り広げた、イデオロギーと妥協の芸術であった<政治>が、単なる行政事務化していく趨勢を見据え、カール・シュミットとハンナ・アーレントとマルティン・ハイデガーが異口同音に抱いた感慨、彼等のその顰みに倣えば、

我々は「乏しき時代」「退屈な時代」に生きており、この時代においては、原発問題も、例えば、社会保険の料率改訂や相続税の課税控除額の修正となんら変わらない、社会的に取り決めに関する立法技術的の問題でしかなくなった。


と、そういうことでしょう。蓋し、「神話」と「黙示録」の放逐は些か遅きに失したとさえ言えるの、鴨。而して、その遅延の理由は、それは皮肉でも牽強付会でもおそらくなく、ある意味、(東日本大震災という百年に一度、千年に一度の自然災害の前には無力でさえあったとしても)原発がこれまでそこそこ安全に運用されてきたこと;原発は、実際、かなり安全なことであろう。と、そう私は考えます。

よって、蛇足ながら、今般の原発事故に関して一言。

すなわち、上記の理路を反芻し鑑みるに、(甲)原子力発電をその政権下で半世紀以上推進してきた自民党政権と電力会社には何の落ち度もない。よって、(乙)福島原発事故がかくも長期に亘って続いており、その実損害、現実の被害が広範かつ重大になったこと/なり続けていることの責任は、一重に、事故に対処した/対処している民主党政権の無能に収斂する。畢竟、この社会を風評被害が蔓延する「放射能狂騒状態」に貶めかつその異常と不健全を放置している民主党政権は地獄に落ちろ。と、そう私は考えます。以下、ブログ友のteroさんにご教示いただいた情報の転記です。



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高田純教授「福島県民は誰も甲状腺がんにならない」

約800人が詰めかけた出版記念パーティーで、高田教授は「今回の受賞の意味は2つあると思う。ひとつは、福島県民は今回の原発事故による低線量の放射線によっては1人として健康被害を受けないという真実を国内外に広く知らしめることになるということ。第2点は、原発の20キロ圏内が(警戒区域に指定されていて)人が戻れない状態になっているが、この圏内の復興に大きく結びつくことになる」と切り出した。なにしろ今回の事故では過酷な環境におかれた原発の作業員ですら、放射線で死亡したり入院している人はいない。そうした中でわずかな放射線を必要以上にこわがることは、福島の復興をさまたげることに直結する。事実を冷静に見たい。

高田教授は警戒区域の復興策として、原発20キロ圏内の表土を10センチ削り取って除染し、それを海岸に埋めた上で表面を厚さ1メートルのきれいな土で覆い(これで放射線はほぼ防げる)「防波堤公園」をつくることを提言している。関東大震災の際には、がれきを埋め立てて横浜の山下公園がつくられた先例もある。陸上で汚染土の中間貯蔵施設の設置が難航している中、埋め立て案は現実的な提言といえそうだ。

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広島大で研究生活を送った経験のある高田教授は、広島の原爆投下後に降った「黒い雨」による被害状況について「池の魚が、雨に含まれていた強烈な放射能によって多数死んだ。また黒い雨にぬれた牧草を食べた牛が下痢をし、雨にぬれた子供たちの頭ははげた」と紹介。いずれも一度に大量の放射線を浴びたことによる障害だが、福島ではどうだったのか。高田教授は原発周辺に取り残されていた動物に着目し「4月上旬に現地調査で第1原発の門まで行ったが、周辺でも魚が死んでいるわけでもなく、渇きで死んだ牛はいたが、多くの牛は元気で生きていた。牛の状態を見ると、はげた牛はいない。見た瞬間に、広島の黒い雨と、福島の放射線はぜんぜん(レベルが)違うものだとわかった」と解説した。一方で、「チェルノブイリでは1万6千頭の牛や豚をトラックに乗せて避難させたが、菅直人さんは20キロ圏内の牛を避難させず放置した」と菅前首相の不作為を非難した。

今回の原発事故で原子力安全・保安院は、放出されたセシウムの量が広島原爆の168倍とする試算を公表し大きく報じられたが、高田教授は「まったく意味のない数字だ」とバッサリ。「広島でセシウムによって死んだ人はいない。広島の死者は熱線、爆風、そして半減期の短い強力な放射能によるもの。セシウムの放射線はそれほど強いものではなく、今の日本で起きているのは集団ヒステリー状態だといえる」と説明した。

ちなみに高田教授はチェルノブイリ原発事故の現地調査の際、自身でセシウムの入ったきのこを食べる「人体実験」を行っている。その結果、セシウム137(半減期30年)は人体に入った場合、体外に半分が排出される生物半減期は100日であることを実証した。・・・

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高田教授は大震災後の昨年4月以降、福島県内で住民の甲状腺検査をボランティアで実施。その結果、検査した66人の甲状腺被曝(ひばく)量は最大でも8ミリシーベルトと、チェルノブイリの事例(最大50シーベルト)と比べて千分の1以下だった。その線量から計算すると「福島県民が甲状腺がんになるリスクは年間で1千万人あたり1人以下。といっても福島県の人口は約200万人。つまり、誰も甲状腺がんにはなりません」と結論づけた。

日本は唯一の核被爆国といわれるが、高田教授はそうではないと指摘する。「世界最大の核災害があったのは中国内陸部のシルクロード、楼蘭のあたり。住民の避難をさせずに核実験が行われ、数十万人が亡くなっている」と明かした。その影響は当然、日本にまでも及ぶことになった。

中国の地上核実験で放出された放射能の量は、チェルノブイリ原発事故の実に800万倍に及ぶという。「東京五輪の年(昭和39年)に中国の核実験は始まったがそれ以来、黄砂と一緒に放射能も日本全国に降っていた。ただそれはほとんど報じられることはなかった。ストロンチウムについては今回の福島事故の1万倍の量が降ってきた」。セシウムの生物半減期が100日なのに対し、ストロンチウムの生物半減期は15年だ。その結果「“中国産”ストロンチウムによる日本人の体内被曝量は1~7ミリシーベルトに及ぶが、それでどんな影響があったか。団塊の世代の方々がいちばん影響を受けているはずだが、みなお元気。おそらく天寿をまっとうされるはず」と、低い線量では健康に影響がないことは「日本人が実験台となって実証された」と解説した。

そうした、日本全国を汚染した中国由来の放射能については、今でもほとんど問題とされていない。そうしたことも含め、高田教授は「日本の反核・平和運動はウソだ」と断言。「核・放射線への正しい認識を持って、今後の日本の発展を考えていかねばならない」と講演を締めくくった。

過去の原発事故や核実験によって、放射線については意外と多くのデータの蓄積がある。そうした事例をわかりやすく提示している点で、この論文は復興の指針となるものだろう。多くの人に読まれることを願いたい。

(産経「福島県民は誰も甲状腺がんにならない」2012.1.15より抜粋)



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木花咲耶姫


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(´ε`;)ウーン…環境保護は人命より重い


http://blogs.yahoo.co.jp/akira062363/65397425.html


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>早くも今年度のベスト記事か?


と、そう感銘を受けました。そう感じた、ブログ友のakiraさんの記事転記です。ちなみにTop画像は「富士を遺産登録系のフリーの掲示板で見つけた、匿名の方の作品」ということ。

蓋し、①「里山」や「谷戸・谷戸田」も、実は、<里山>や<谷戸>として現在の形で、特に、関東一円を中心に全国で「整備」されたのは、かの「米将軍=吉宗公」の時代、そう、「暴れん坊将軍」の時代に、新田開発による米の増産と、その「開墾最前線」が対峙する丘陵の治水のために導入された政策と(例えば、「萌芽更新」の作業等々の)人為的努力の結果と言っても間違いではない。

また、②弥生起源の(と、かって、呼ばれていた)「瑞穂之国」の風景はもちろん人為的な改造の帰結。

加之、③針葉樹林および広葉樹林(就中、照葉樹林、そして、①の江戸中期以降は、特に、陽樹林の比重が増した)混交林が覆う、日本の面積の70%を占める<森林山地>の風景もまた、かって、所謂「縄文時代」と呼ばれていた紀元前約2万年から紀元前10世紀にかけて<日本人>が手塩にかけて、かつ、自然との協働作業を通して育んだ風景です。


要は、「自然」なるものは、少なくとも人間にとっての<自然>は、生態学的社会構造(自然を媒介とする人と人が取り結ぶ社会的な諸関係性の総体)の作品でないものはないということか。そして、その経緯は、里山や谷戸、田毎の月を浮かべる信州更級の棚田、若しくは、母なる日本海のその母である青森県は白神山地だけでなく富士山麓の「原生林」も同様でしょう。それが、「原生林」のままと言うことは「原生林」のままにしておく、山岳信仰のメンテナンス機能を含む社会的の利得と効果が存在し続けたということなのでしょうから。

而して、このある意味、クールな記述が冗談どころではない切実さを含んでいることは、その縄文以来の原生林である白神山地の生態系が(その生態系の存在に利得と効果を認めない、僅か明治維新後の1世紀余りの間に)危機に瀕したことを想起すれば思い半ばにすぎるのではないでしょうか。閑話休題。

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木花咲耶姫美


ということで、Top画像の話。短い結論。

蓋し、「自殺者の死体の検死・運び出し・処置は面倒で高コストで迷惑だぁー!」というのは分かる。一人の社会人としてそれは私にもよく分かる。けれど、その人情の機微、義理と人情の葛藤の経緯とは別に、ある意味、このTop画像は端なくも「自然の人為性/自然の社会性」を浮かび上がらせている電光一の閃なの、鴨。些かパラドキシカルながら、あるいは、反面教師的ながらも、この画像の伝えるメッセージは、自然と人間が共生してきた日本の伝統の証左でもあるの、鴨。と、そう思いました。

而して、もし、こういう理解と感想も、満更、我田引水や牽強付会の類だけではないとするならば、1枚の画像と1個の顔文字と11字でできているこのakiraさんの元記事は、それに憑依している情報の量と質のトータルにおいて、早くも「今年度ベストの記事」にノミネートされるに値する。そう私は考え、よって、転記転載させていただきました。

で、以下は蘊蓄ネタ。ご用とお急ぎの方はスルーしちゃってください(笑)


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この転記転載記事の解題の中でも何度か「里山:satoyama」や「谷戸:yato」という用語を使ってきましたが、読者の皆さんはそれらの意味をご存知でしょうか。念のため確認しておきましょう。

・谷戸(やと)
谷戸とは、台地や丘陵地が湧水等の浸食によって複雑に刻み込まれた地形をいいます。丘陵地の谷あいの低地のこと。三方を高さ数十メートルの丘陵に囲まれた小川の源流域で、幅は高々数百メートル程度、奥行きはせいぜい数キロです。

本来の鶴見川本川や支川の源流域は谷戸が発達していて、雑木林からわき出た遊水と清流が特徴です。この清流を集めて古くから谷戸の水田(谷戸田)が行われてきました。このような雑木林、清流、水田のある谷戸の環境は、多様な生物が生息する地域です。地域によっては「谷津」「棚田」とも呼ばれています。

【出典:みんなで作る土木用語辞典web版】


・里山(さとやま)
人里近くの林をさす事が多く「山」といっても地形の高低差のないところも含まれる。又、多くは隣接して、畑や田んぼ、谷戸田、湿地等多様な環境がひとまとめになっている所が多い。

里山の林は、多くは雑木林とも呼ばれている。雑木林とは、クヌギ、コナラ、ヤマザクラ、イヌシデ erc の落葉樹が構成する林である。40~50年前までは、多くの里山の恵みが人々の生活を潤してくれる場でもあった。

【出典:自然観察指導員・高橋英「今、里山を考える」】


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この「里山」の語義の説明は「H21里地・里山カフェ塾-多摩丘陵 麻生の自然学」(主催:里山フォーラム in 麻生)からいただいたレジュメによるものですが、著者の高橋先生は<里山>の歴史と将来についても簡潔に整理されています。それも紹介しておきましょう(尚、「萌芽更新」に関する註はKABUによるもの)。

◇雑木林はどのようにして出来たか
大昔の関東平野-スダジイ、シラカシを中心とした原生林で常緑照葉樹林で覆われていた
   ↓
人口の増加-食糧を求めて畑作・稲作、開墾の奨励 
   ↓
常緑照葉樹林の伐採
   ↓
陽樹林の誕生-各地に雑木林が誕生
    
◇雑木林の利用
・木材は薪や炭
・下草は牛馬の餌、堆肥
・落葉は堆肥
・山野恵み、アケビ・ワラビ・ウド etc
    
◇里山の保存と保全
・保存した場合
 雑木林は遷移する。極相林へ
 暗い林へ-アカラシ、シラカシ、スダジイ

・保全した場合
 人間による管理が必要となる
 
・保全方法
 ①15~20年に一度、樹木の伐採→萌芽更新
 ②3~5年毎に下草狩りをする
 ③落葉かきをする

★註:萌芽更新
樹木の伐採後、残された根株の休眠芽の生育を期待して森林の再生を図る方法。萌芽が活発な広葉樹を伐採した翌年には、根株から休眠していた芽が萌芽し、生育を始める。これが成長して新たな森林を作るのを期待するのが萌芽更新。加之、伐採されたことにより地表に太陽光が届くようになるため、周囲に落下していた種子からの天然更新も進む効果がある。


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誰かさんの文章と違い大変わかりやすいのですが、(もともと、口頭での補足説明を前提としたセミナー用のレジュメということもあり)幾つか「専門用語」も混在している。蛇足になるかもしれませんが、上の解題で述べたことの繰り返しになることを恐れず、私なりに敷衍しておきます。

蓋し、日本の生態環境において山林は、ほっておけば、落葉することがなく1年中葉を茂らせる「常緑照葉樹林」のみが生い茂る森林になる。これを「常緑照葉樹の極相林」と言います。

而して、「常緑照葉樹の極相林」は森林の中に日光があまり届かない「暗い林」(逆に、木々の下には灌木や草は生育できず、人間がそこを移動することも比較的容易と言えば容易な「クールな林」)。これに対して、「雑木林」「里山」とは、人間が意識的に「常緑照葉樹」をある程度伐採して、替わりに冬には落葉するクヌギ、コナラ、ヤマザクラ、イヌシデ等々の木々を植えることでできた日光が射し込む「陽樹林=明るい林」なのです。ならば、蓋し、ポイントは、

(a)人間のこの意識的/人為的な「里山≒雑木林」形成活動は、最初に1回行なえば済むというものではなく、短中長期に亘って様々なケアをして始めて達成・維持できるということ。

そして、(b)実は、一度開発によって更地・荒地になった森林は(というか、最早、木々は残っていないので、単なる「丘」でしょうか。)、ほっておいても森林に戻るということはなく、よって、「常緑照葉樹の極相林」でも「荒れた丘」でもない「陽樹林=雑木林の里山」が日本全国、就中、多摩丘陵の谷戸に広がっていたということは、その地域で意識的な人間の、就中、社会的な活動が継続されてきたということ。

また、(c)そのような意識的活動を人間が行なうについては「利得や効果=里山の恵み」が現実に存在しただろうこと(木材・下草・落葉・山菜の利用だけではなく、水害や山崩れを防ぐ「緑の貯水タンク」として、また、水の浄化・ミネラル補給の装置等々としての利得が存在しただろうこと)。

而して、(d)これらのことは、日本全国、就中、多摩丘陵に「里山=雑木林」が広がったのはそう大昔のことではなく、実は、(そう、あの「暴れん坊将軍の治世」下の)享保年間から大きくは遡らないこと。


これら、(a)~(d)の事柄を踏まえるとき、(その利得と負荷の比較衡量における逆転を惹起せしめた)生態学的社会構造の変遷が江戸中期にも起こったの、鴨。というこの私の認識は、歴史的にも成立可能な認識ではないか。

と、そう私は考えています。

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君が代起立斉唱、大阪府教育長が職務命令へ 今春卒業式

大阪府教育委員会は、君が代の起立斉唱を義務づける府条例を踏まえ、府立学校の教職員約1万人を対象に教育長名で起立斉唱を求める職務命令を今月内に出す方針を決めた。職務命令は毎年数人程度に出していたが、今回は式典会場に入るすべての教職員を対象とする。近年の府立学校の卒業式では毎回60~80人程度が起立しないため、命令違反に基づく処分者が急増する可能性もある。


(asahi.com:2012年01月14日03時00分

http://www.asahi.com/national/update/0114/OSK201201130244.html


全府立教職員に国歌起立斉唱指示 大阪府教委

学校行事での国歌斉唱時に教職員の起立を義務づける大阪府条例の趣旨をふまえ、府教委は、府立学校に勤務する全教職員約1万3千人に対し、起立斉唱を指示する教育長名の職務命令を17日に出すことを決めた。卒業式シーズンを迎えた措置で、式典終了後、校長から状況報告を求め、職務命令に従わなかった教職員に対しては、地方公務員法に基づく処分を出す。

同条例は、府議会で過半数を占める「大阪維新の会」が議員提案し、昨年6月に成立した。条例に罰則はないが、職務命令に違反すれば地方公務員法に基づく処分の対象になる。

府教委は平成14年から、府立学校に対し「教育公務員としての責務を自覚し、国歌斉唱にあたっては起立する」と文書で指示。

事前に起立斉唱しないことを表明した教職員には、校長が個別に職務命令を出していたが、卒業式や入学式で起立しない教職員は毎回40人前後いるという。

一方、府教委事務局内には、同一の職務命令に3回違反した場合、分限免職とするなど、教職員の処分ルールを厳格化した維新の「教育基本条例案」に対し根強い反発がある。現行の法令のもとでも、教育現場の適正化に厳しく臨む姿勢を示すことで、条例成立に向けた動きを牽制するねらいもあるとみられる。


(産経新聞・2012/01/14 22:52

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/542025/


民主党政権の、反日とか左翼とかの艶っぽい水準を突き破る、その凄まじい無能さと、それを的確に咎められないでいる自民党の不甲斐なさに苛々感が鬱積している2012年の睦月。

一服の清涼剤というか、文字通り、氷点下の早朝の空気を縫って8キロのウォーキングから帰った後の一杯の熱いエスプレッソの如き嬉しいニュースを、あるブログ友の所で目にしました。

上がその報道。而して、そのブログ友、くさなぎさんは
このニュースに添えてこうコメントを書いておられた。
以下、転記引用。

◆君が代起立斉唱 卒業式を前に職務命令

大阪維新の会によって成立した大阪府の君が代条例、さっそく今春の卒業式で効力を発揮してくれるようで。しかも、この教育長にによる職務命令に逆らう教職員は地方公務員法に基づく処分の対象になるとのこと。
つくづく橋下徹前府知事は良い実績を残してくれたものだと思います。

ただ前の記事にも書いた通り 、こんなことを条例化すること自体がアホらしいことなのですが、学校行事等の場における最低限度の規律を無視して傍若無人・我儘放題にふるまうことを自由と主張する愚か者が後を絶たない以上、相応の処罰を持って対処せざるを得ないのも残念ながら仕方ありません。

ゆくゆくは教職員・生徒・保護者の誰もが、ごく当たり前のこととして規律を守るようになって、この条例が有名無実化することを願うばかり。

それにしても、(決して正しいとは思いませんが)辞表を片手に君が代の起立斉唱を断固拒否するような気概を持った教職員は、卒業式当日に現れるのでしょうか?

そっちも少しだけ気になります。


http://blogs.yahoo.co.jp/tennsisu/63055180.html


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くさなぎさんに全く同感。で、これ以上(↑くさなぎさんのコメント以外に)書くことないと思った。だから、転記引用。「書くことない」というのは、もちろん、今のところですけれどね。

でも、でもですね。政治家の評価は、究極、常に「今の所」のものでしょう? そして、なにより、私は「真正保守」なる立派な皆さんとは多分違い、一人の政治家とか思想家にすべてを期待しません。だから、橋下市長が早晩国政に出るとか、国政に出るに際して小澤氏とか民主党とかと連携するとかは、今のところ、私にとってどうでもよいことなのです。

ただ、公務員の削減と公務員給与の減額、不埒な不労浮浪の所得者への現在の手厚い保護の召し上げ、教育の正常化。これだけでもやってくれれば上出来だよ。そして、それらのアジェンダにおいてさえも結果はGod knowsだけれど、橋下市長は、かなりのスピード感で有言実行しそうじゃないか。

なら、「大阪市長」としての橋下徹氏に、それ以上の何をそれ以外に何を期待するというの、何を批判するというの。と、「真正保守」なる立派な皆さん方が時にされている橋下批判を横目で見ながら、そうそう私は考えています。

而して、橋下市長に対する現在の私の評価、および、現下の国政(すなわち、自民党への不満と民主党政権への批判)を巡る私の基本的な考えについては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

歴史を紐解けば、父と夫との、共にアンビバレントな感情に何度も翻弄されつつ、そして、夫・天武天皇とともに壬申の乱を乗り切り、加之、その夫の傍系の卑属との抗争に打ち勝つ苦闘の末に、鸕野讃良皇女が、日本の再構築を達成した波瀾万丈と偉業を反芻するとき、橋下氏を先鋒として保守派は現下の苦境を乗り越えるのみ、鴨。尚、鸕野讃良皇女とは持統天皇その人のことです、為念。蓋し、

科学において<真理>はシンプルでなければならないとすれば、おそらく、
政治において<正解>は多様で複雑、究極的に中途半端なものだろう。
なぜならば、人間と社会もまた多様で複雑で曖昧で可変的なものだから。


と、そう私は考えます。畢竟、保守派の同志の皆さん、

б(≧◇≦)ノ ・・・日本のためにお互いに微力を尽くしましょう!
б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!


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・橋下市長を「応援」する理由-規定演技で合格点を取れなきゃ保守も反日もないですよ
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60951259.html

・<再録>稲田朋美氏を総裁にの声について考える
 -「真正保守」なるものは百害あって一利くらいのものでしょう
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60961253.html


・政権奪還の順路☆自民党に期待すること/期待すべきではないこと
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60891539.html


・谷垣さん、海外旅行に行きたいなら自民党総裁を辞めてからにしなさい!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60969736.html

・消費増税法案☆首相「不成立なら解散」と首相経験者に伝える? 
 なに言ってんの、増税前に下野か解散でしょうよ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60961380.html



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持統天皇


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下記拙稿(↓)の資料として、本郷和人・東京大学史料編纂所准教授と作家の堀田純司氏の記事を転記収録しておきます。尚、註記、および、「太字」「赤字」の強調はKABUによるものです。


・『平清盛』における「王家」という用語の使用に対する批判への疑問
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60981201.html

・第二の中世の“今”考える「中世とは何か」
 -平清盛が先鞭をつけ足利尊氏が確立した日本(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60973401.html


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大河ドラマ「平清盛」における「王家」をめぐって

今年のNHK大河ドラマ「平清盛」では、法皇・上皇らによる院政体制を「王家」と呼んでおり、ネットでは「『皇室』『天皇家』ではないのか」といった議論が起きている。同作品の時代考証にあたった気鋭の中世史家、本郷和人 東京大学史料編纂所准教授と「肉食と草食の日本史」(中央アート出版社)の共著もある作家の堀田純司氏に、「王家」問題について寄稿してもらった。(編集部)

縁もゆかりないのに、あえてNHKを擁護してみる。

ドラマ「平清盛」はなぜ「王家」という言葉を使うのか。

このような話題にうかつに首をつっこまずに過ぎ去るのを待つのが大人の態度だと思うのですが、この話題は実は「表現における用語の規制」に関わるものです。ですので非力かつ超末席ながら、言葉を使う商売のはしくれとして、あえて大河ドラマ「平清盛」における言葉の使い方について解説してみようと思います。いたらぬ人間の解説ですが、なにかの足しになれば幸いです。

今、一部で話題のNHK大河ドラマ「平清盛」で使われる「王家」という皇室の呼称ですが、まずこれは中世を扱う歴史学ではごく普通に、自明のものとして使われている用語です。この用語が広く用いられるようになったのは歴史学者、黒田俊雄氏の「権門体制論」以降のことでした(歴史評論2011年8月号「王家をめぐる学説史」)。

この権門体制論とは現代でも有力な中世史観であり、簡単にいうと王家(天皇家)を国家の中核にすえ、寺家や武家などの諸権門が相互補完的に存在し、国家権力を形成していたという中世日本の国家観です。

【註:更に言えば、それぞれの「権門」が、公的と私的の、「国家の正当性→権限」と「私的な利権→権利」の重層的な社会的な影響力を、かつ、公家・寺社・武家の三権門の相互補完的な関係において編み上げたというのが「権門体制論」の帰結です。

而して、黒田氏の切り開いた地平は、(黒田氏に比べてさえ、遙かに教条的なマルクス主義の歴史研究者であった石母田正氏の'''『中世的世界の形成』'''(1944年)の一閃が浮かび上がらせた中世日本のリアルなイメージと並んで、)マルクス主義の歴史学を徹底することでマルクス主義の歴史観の枠組みを突き抜けたものとして、現在でも左右の立場を越えて高く評価されています。

ちなみに、黒田氏の切り開いた地平は網野善彦氏を含む民衆史学の形成に多大な影響を及ぼしたもの。他方、所謂「皇国史観」の代表的な論者とされてきた平泉澄氏の、実は、中庸を得た社会史とも通底するものと現在では考えられています。】



この権門体制論を構築する際に黒田氏は「王家」という言葉を使うほうがいいと提唱しました。なぜか。黒田氏は天皇家や皇室といった用語が、近代国家権力によって使われた用語であり、それはどうしてもある種の先入観、イデオロギーなど思考上の制約を与えてしまうと指摘。そうした既存のイメージを脱構築するために、中世の当時、実際に頻繁に使用例が見られる「王家」という用語を使うことを提唱したのです(「中世天皇制の基本的性格」,1977)。

【註:私見では、「天皇家」「皇室」という用語では、中世の「天皇とその一族」の権門としての色彩、すなわち、それが私法と公法にまたがる存在、かつ、「制度」と「実存」の両義的存在であった経緯が曖昧になる恨みがある。その点でも「王家」という用語は優れていると考えます。この経緯は、「神聖ローマ帝国皇帝」になり得る一族のあり方とパラレル、鴨。】



近代に成立した用語で過去の歴史を振り返ることの危うさは、黒田氏は他のテキストでも指摘していますが、僕などにも納得できるところです。たとえば、僕はかつて高校を中退し引きこもった過去を持つ男ですが、あのころはまだそうした境遇を表現する用語はありませんでした。今もあまり変わらない生活なのですが、現在ならば、ニート、自宅警備員などと名乗ることができ、ずいぶんと世の中も変わったものだと思います。

ひるがえってドラマ「平清盛」ですが、明らかにこの権門体制論の枠組みを意識して描かれていると感じます。劇中、天皇家があくまで王権を掌握し、武家はその犬と呼ばれ、自らの持つ力を自覚していない。この史像をつらぬくと、武家はあくまで諸権門のうちに武力の担当者でしかなく、源平の戦い(学術的には「治承・寿永の乱」と呼ばれる)も、権門体制の枠組みの中で軍事指揮権の長の座をめぐって戦われたコップの中の戦争(でしかない)という見方になります。

もっとも、このドラマでは第1話で、そうした歴史観をこえ、清盛自身が自分が何者であるかを自覚する過程を、武家が自らの持つ力に目覚めていく歴史に重ねる。そして彼を新たなる王権の開拓者として描くというグランドデザインを見る者に感じさせており、これはなかなか骨太な第1話だったと僕などは思います。

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再び「王家」という用語ですが、しかしいくら学界で主流だからといって「なにも誤解を招きかねない学術用語をひっぱり出して、ドラマで使うことはないだろう」という批判もあるかと思います。それは確かにもっともなことです。ですが学問分野と一般も同じだろう、と僕などは感じるのです。

【註:私はそうは思いません。この点には、些か、「素朴実在論」的なマルクス主義の雰囲気/蒙古斑をこの記事の話者達の発言に感じないではありません。】



つまり歴史研究において、ある種のイメージがつきまとう用語が思考の制約を招くのとまったく同じように、既存の言葉は読者のイメージを限定してしまう。であるならば、今までとは違った言葉をあえて使うのも創作の方法論として、なくはないのではないでしょうか(古い文芸理論をひっぱりだせば、言葉のこうした使い方についてロシア・フォルマリズムでは「異化」、対してすっかり慣れて言葉が刺激を感じさせなくなることを「自動化」と呼んだものでした)。実際、ドラマが描く「王家」の姿は既存のイメージとはまた違う魅力を放ち、なかなかカッコよかったです。

僕は昨年、あるNHKの結構な年配な人によくない扱いを受け、いまだに少し根に持っているくらいなのでかわりに弁解する義理は全然ないのですが、上記事情により、王家という用語に皇室をおとしめる意図はない。それはむしろ天皇家こそが国家の中枢と見なす歴史観に基づいているのだとは、言えると思います。

【註:上の註と矛盾するようですが、この2パラグラフの発言には同意。】



余談ですが、いつの時代も「うるさ型」の人はいるので黒田氏の提唱に対して、「王家という言葉は不適切だ。むしろこちらも中世に使用例が見られる『朝家』がいい」と反論した人がいました。この「朝家」を使えばドラマも論議を巻き起こすことはなかったでしょう。しかしこの用語はどちらかというと王権の執行機関としての「公的な性格」を想起させる“クール”な言葉のように感じます。反面「王家」であれば私的な側面も包含し、このほうが劇中のドラマがより熱く際立つように思われませんでしょうか。

実際問題、ラウドな層や特定のイデオロギーを持つ人々に配慮して、作中の用語が無難なものに変えられてしまうことは、作品づくりの現場でごく普通にあることです。このドラマの場合も普通だったら、こうした用語はどこかの段階で無難なものに直されてしまっていたでしょう。最大級に注意を払う必要があるところです。しかし、そうした配慮の先では、とんがった作品などは生まれない。むしろ毒にも薬にもならない作品ばかりが出てくる土壌になりかねず、自分の場合は「そんな世の中で暮らしたくないなあ」と思います。

そう考えると僕は、最近では珍しいような、このドラマにかける製作者の人々の意気込みを感じます。願わくば、途中で変えるなどせずこの姿勢を貫いてほしい。用語が変えられたりしたら、僕はむしろがっかりします。しかし得てしてえらい人がどこかでなにか言い出すものですが。

また余計なことを言いますが、用語の解釈をめぐるよりも本当の問題はもっとディープなところにあるのではないでしょうか。さきほどはサラっと書きましたが、清盛は本当にもうひとつの王権を築いたとみてよいのでしょうか。平家政権、そしてそれに続く鎌倉政権はあくまで朝廷の権威に服していた従属的な存在、地方の総督みたいなものだったのではないでしょうか(つまりあくまで権門体制論的な見方をつらぬき、それはもちろん室町や織豊政権の対朝廷観にもつながります)

【註:上下(↑↓)の2パラグラフの指摘には全面的に同意します。】


武士たちが築いたものは、日本におけるもうひとつの王権だったのか。本当はこちらのほうがもっとナイーブなトピックであり、より深い論議ができるように思います。黒田俊雄氏のテキストは、現在では「黒田俊雄著作集」(法蔵館)に収録されていますので、この話題に興味を持たれた方はご一読を(高いのですが・・・)。

(ITmedia ニュース 1月14日(土)15時16分配信)


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付録:本郷和人『謎とき平清盛』(文春新書・2011年)より抜粋

制作スタッフの間で天皇の家を何と表現するか真剣な討議がなされ、天皇家、皇室、あえて呼ばない、などの案が出されましたが、学問的見地から「王家」で統一することになりました。(p.37 )

先ず押さえておかなければならぬのは、当時の言葉の使い方です。・・・調べてみると、天皇家も皇室も王家も使われていない、が正解です。当時は天皇や上皇や皇太子や女院などをひとまとめにして「ファミリー」として考える、ということをしなかった。すると、天皇家と呼んでも王家と呼んでも、間違いではないことになる。・・・

王家という語が用いられるようになったのは、・・・黒田俊男氏の権門体制論からのようです。黒田氏は武家・公家・寺社に呼応するかたちで、王家と称した。黒田氏によれば、天皇は日本の国王、と位置づけられていましたから、この用い方は妥当なものといえるでしょう。(p.63)

戦前のように、日本の天皇は他国に例を見ない唯一無二の存在というのではなく、天皇を国の頂点に君臨する王として捉える。そうすると自ずから他国との対照・比較の視点が開け、東アジアの中の日本、世界の中の日本を考える際にも有用である。ですので、現在の学界では、王家という呼び方が確実に市民権を得ているのです。そこで時代考証の判断として、学問的な見地から「王家」の語の採用を提案しました。(p.64)


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推古天皇


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2012年度のNHK大河ドラマは『平清盛』『平清盛』で大河ドラマは51作目らしいですが、その内、戦国期・江戸期・明治維新前後の幕末を舞台にしたものが40作以上あるのに対して、KABUの好きな中世を舞台にしたものは『義経』(第44作・2005)以来7年ぶり、トータルでも『新・平家物語』(第10作・1972年)、『草燃える』(第17作・1979)、『太平記』(第29作・ 1991)に続き5作目。「中世」を緩やかに捉えて、奥州藤原氏の確立過程に舞台を据えた『炎立つ』(第32作・1993年~1994年)、および、平将門の颯爽とした人生を描いた『風と雲と虹と』(第14作・1976)を含めても『平清盛』は7作目の中世もの。だから、今年の『平清盛』は結構楽しみにしています。わくわく。

ところで、『平清盛』は放映前から何かと批判を受けたらしい。批判は多岐に亘るようですが、登場人物間の関係の説明に、当時の皇室を表す標記として「王家」という用語が使われていたのが不敬とか不遜とか不適切とかの指摘もあった由。而して、その「王家」批判の根拠とは、

(Ⅰ)「王」は天皇/皇帝よりも格下の呼称
(Ⅱ)「王」「女王」は、親王/内親王よりも時の皇統から疎遠な皇族の呼称
(Ⅲ)平安時代末の古代末期からの中世期(例えば、1150年~1450年)に「王家」という
   用語が一般的に使用されたことはない
(Ⅳ)「王」「王家」という用語が中世期に使用された僅かばかりの例を見るに、それらは、
   「覇道」と「王道」(武力での支配に対する徳と血筋の正統性による支配の差異)を
   論じるコンテクストで使用されており、「王」「王家」を天皇とその一族を外延として
   内包する「概念-用語」として用いられたことはないとさえ言える 


ということらしい。もちろん、例えば、『太平記』には、
天皇制の脱構築を希望した高師直の言葉として、

「都にという人あり、数多の所領をふさげ、内裏・院の御所という所あって、馬より下りるむつかしさよ。もしなくてかのうまじき道理あらば、木を以て作るか、金を以て鋳かして、生きたる院・国王をば、何方へも流して捨て奉らばや」 


とある通り、(Ⅳ)の主張には、些か、「王家」批判論者の願望が混入している節もなきにしも非ず、鴨。けれども、実際、現在の韓国では、日本の天皇を貶めるコンテクストで「日王=日本国王」という用語が常套されることに端的な如く、概略、(Ⅰ)~(Ⅳ)は正しい認識だと思います。


更に、あるブログ友のご教示によれば、

反日左翼の歴史学者は『神皇正統記』に「王家」の表記がある事や「尊王攘夷」、「王政復古」で「王」の字が使われている事を鬼の首をとったように主張してますが、まともな読解力がある人間なら王道覇道という意味で使っている儒教用語だと理解できるはず。なにより、平安末期の資料では「王家」記述はない。王家が見当たるのは『神皇正統記』くらい。それも熟語として。すなわち、

▲保元物語 平治物語 陸奥話記 将門記 平家物語 源平盛衰記
・王家の記載なし
・皇室、皇居、皇化、朝家、君朝、天皇などの表記あり

▲神皇正統記
・天皇表記、100件より多くて数えきれない
・皇家、皇宮、皇居、皇軍、皇都、皇位、皇化、皇祖、皇統、他多数の皇の記載あり
・王家の記述、2件 「王家の権」という使用例のみ。
要は、それらが「王家之権」という熟語であることが分かる。おそらく出典の根拠が漢籍にある。そして、 『神皇正統記』が漢文であるからそのような体裁をとるのは当然でしょう。 


ということ。而して、それらもまた正しい認識だと思います。他方、「王家」という概念が歴史学においては、「中世=権門体制」(皇室を含む公家・寺社・武家という社会的勢力の鼎立する、律令制崩壊後の重層的な土地と被治者の支配体制)という切り口から、中世史の再構築を行われた、大阪大学の黒田俊雄さんが『日本中世の国家と宗教』(1975)で切り開いた地平と親しい「概念=用語」であることも、戦後の日本史学史に関心のある向きには常識と言ってもよいことでしょう。尚。「中世」に関する私の基本的な理解に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・第二の中世の“今”考える「中世とは何か」
 -平清盛が先鞭をつけ足利尊氏が確立した日本(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60973401.html


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では、『平清盛』が、その登場人物間の関係の説明に、当時の皇室を表す標記として「王家」という用語を使用しているのは間違いであり不適切なのか。結論を先取りして言えば、私は、それは、間違いではないが不適切ではある。しかし、少なくとも、「「王家」という用語は使うべきではない」とは、(そう叫んで、国粋馬鹿右翼の仲間内でする<宴会>で盛り上がるのはもちろん自由だけれども)誰も誰に対しても要求することなどできない主張だろう。と、そう私は考えます。

要は、この「王家批判」に私は批判的ということ。蓋し、畢竟、この問題は、

(α)たかだか歴史エンターテーメントの登場者の関係を
(β)現在の2012年の(歴史にもそう詳しい方ばかりではない)
   一般の視聴者に説明する際の用語として
(γ)どんな言葉を選択・使用するのが適当かという問題


にすぎないでしょう。ならば、極論すれば、それが『平清盛』の映像理解の助けになるのなら、「王家」どころか「ロイヤルファミリー」でもかまわない。その際、当時は(所謂「家制度」としての<家>の揺籃期であり、まして、)現在の「家=家庭:ファミリー」に繋がる概念自体が存在せず、なにより、天皇とその一族メンバーを包摂する「集合名詞」として「天皇家」や「皇家」という概念などその痕跡すら見られない、という主張は無意味なのです。問題は、徹頭徹尾、現在の2012年の日本の一般の視聴者にとっての用語の選択・使用の適切性なのですから。

ならば、その言葉の選択と使用に関しては、①「分かりやすさ」と②「ある用語にタグ付けられたシニフィアンとシニフィエの関係がいかに映像表現と親和的か」という二つの、しばしば、トレードオフの関係に陥る①②のバランスの優れたものが良い用語選択であり、劣ったものが悪い用語選択である。と、それだけのことではないでしょうか。

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この「王家」問題を歴史学的に反芻すれば、

(甲)平安末期から室町期の日記や文学等の文献資料に、(「親王/内親王」よりも傍流の天皇一族のメンバーを意味する「王/女王」という語義ではなく)天皇自体を「王」と呼称した例があることは間違いない

(乙)土地制度・税制としての律令制の崩壊期でもある平清盛の時代に、(よって、公的と私的の重層的存在である)「権門」として天皇およびその一族が存在したことは否定できないこと。よって、その「権門」でもある天皇一族を示す集合名詞としては、公的な制度とその正当性・正統性を示唆する「皇室」「皇族」は不適切、または、帯び襷である(尚、その語源の如く「朝廷」は天皇の公的統治体制であり論外!)

(丙)社会史の側面からは、天皇とその一族内部での(今上天皇や複数の上皇の中で)謂わば「天皇一族の氏長者≒天皇家の家長」を意味する唯一つのポジション、すなわち、「治天の君=院政の主宰者」の座を巡る争いでもあった保元・平治の両乱において、その院の座を巡り社会的・政治的にその内部で相互に争う天皇一族を表す用語としては(「権門体制」論と親和性の高い)「王家」という用語を選択・使用するのは寧ろ適切


と言う他ないのです。ただし、逆に、「王家」という用語が「天皇とその一族」を指し示す用語として、2012年の現在、一般の日本の視聴者に分かりやすいかと聞かれれば、そうでもなかろうとも。

敷衍すれば、院政とは「天皇家」が社会的・経済的には「氏族化」したことの裏面であり、当時、「今上【天皇】はあたかも東宮【皇太子】の如し」と言われたのに対して、「院政の主宰者:治天の君」は「天皇一族の氏長者権者=天皇家の家長」であり、天皇一族の私的財産の処分収益とそれら財産の権利者・相続人を決定する権限を掌握していた。而して、保元・平治の乱は、その家長権を巡る争いを軸に動いたとも解釈できるわけですから、(国家権力の正当性に連なる公的な側面に加えて私的な側面をも帯びる)天皇とその一族を表す集合名詞として「王家」という呼称は、もし、天皇とその一族内部のそのような重層的な葛藤をも『平清盛』が描写するとすれば、その目的のためには、寧ろ、「王家」という言葉は正確とさえ言えるのです。

けれども、歴史学的には「王家」という用語の使用が間違いではないとしても、(例えば、「諱:imina」の常用に炸裂するように歴史バグのオンパレードの、そんな程度の)この歴史エンターテーメントにおいて、加之、「公的と私的の重層性において捉えられた天皇とその一族」という経緯を表す用語として、現在の視聴者により分かりやすい「皇室」「天皇家」「ロイヤルファミリー」等々が存在している以上、NHKが『平清盛』において「王家」を用いたことは適切だったとも言えないの、鴨。


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いずれにせよ、私が直接知る限り、左右を問わず日本の歴史研究者の中で(要は、(a)新カント派と現代解釈学と分析哲学の地平を踏まえ、かつ、フランスのアナール派とドイツ社会史学の洗礼を受けて以降の現在の歴史学方法論を自家薬籠中のものにできている程度の、同時に、(b)原資料の解読・解釈や遺跡遺物の発掘・分類・統計分析・重回帰分析に少なくとも<本業>として10年以上携わった経験のある論者の中で)、この歴史エンターテーメントに関して、

「王家」という言葉を使うべきではないという人は存在しない
「王家」という言葉の使用は適切ではないという人も希ではない


というのが実際の所ではないかと思います。よって、私自身は、
歴史学を踏まえない「王家批判」にも、NHKにも批判的なのです。


蓋し、大河ドラマが、タイムマシーンで見てきた実際の過去を描くが如き「再現ドキュメンタリー」などではなく、単なる「歴史エンターテーメント」である以上、他方、「王家」を除く、他の考証は(歴史学的に、就中、「権門体制」論からさえ)ボロボロなのに、一点豪華主義よろしく「王家」だけ歴史学的に正確を期すことはいかがなものか。そんな摘み食い的の正確さの追求は、過ぎたるは及ばざるが如しであり、誤解の元、一重に有害無益でしょう。畢竟、割れ鍋には綴じ蓋でなければね。そう私は考えます。

他方、繰り返しますが、そんな意図的とも疑われるNHKの「反皇室的」な姿勢を批判する上で、「王家」は誤謬だという批判は、寧ろ、(「王家」の使用は歴史学的に正当化可能がゆえに)NHKに反論の糸口を与えるものであり、そのような批判は歴史学的に筋違いなだけでなく政治的にも左翼・リベラル派を悦ばせる<敵失>になりかねないと私は危惧しています。

尚、本稿の前提とする「天皇制」、および、ある言葉をどういう意味で用いるべきかということ自体に関しては下記拙稿を参照いただければ嬉しいです。而して、単に「歴史エンターテーメント」の登場人物の説明の良否を離れて、保守主義からの私の天皇制論は別途記事にまとめる予定です。予定は未定ですけれども。

・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60980805.html

・覚書★女系天皇制は<保守主義>と矛盾するものではない
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60896992.html

・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60902921.html


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推古天皇


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「日本の存亡をかけた政治決戦の年」自民党24年方針最終案

自民党の平成24年運動方針の最終案が12日、判明した。今年を「日本の存亡をかけた政治決戦の年」として、衆院解散に追い込み、政権奪還を目指す決意を強調している。22日に都内で開催する党大会で正式決定する。

保守政党としての姿勢を鮮明に打ち出すため、17年に発表した「新憲法草案」を踏まえ、新たな憲法改正案を策定し、国会提出を目指すことも明記した。また、「地域こそが保守の原点」として、東日本大震災で世界各国から評価された絆の大切さなどを強調している。このほか、橋下徹大阪市長が提唱する「大阪都構想」を念頭に、道州制や大都市制度の検討も重要政策に掲げた。

民主党の21年衆院選マニフェスト(政権公約)に対しては「国民への説明もないままほとんどが撤回された」と批判し、対決姿勢を強調している。

(産経ニュース・2012年1月12日)


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民主党政権による「目眩ましの内閣改造」が翌日に予定されていた昨日、自民党がその「24年方針最終案」をリリースしたらしい。それを報じる記事に接したとき、「「日本の存亡をかけた政治決戦の年」自民党24年方針最終案」というリードを見て嬉しかった。つまり、「いよいよ自民党がその当座最終的なものとなる政策案を決定」したのね、と。

而して、「こいつぁ春から縁起が良いわい」程ではないにせよ、些か、喜ばしいもの、勇気づけられるものを感じた分、400字原稿用紙1枚足らずのこの341字の本文を読み終えた後の落胆は小さくありませんでした。願わくば、この「運動方針案」が自民党に対する国民・有権者の支持を最終的に引き離す「最後の藁一本:the last straw」にならないことを祈るのみ、鴨。尚、自民党の現執行部に対する私の評価、若しくは、新執行部への期待に関しては下記拙稿をご参照ください。

しょぼん。しょんぼり。(><)


It is the last straw that breaks the camel's back.

(最後の藁一本が駱駝の背を折る)    

・谷垣さん、海外旅行に行きたいなら自民党総裁を辞めてからにしなさい!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60969736.html

・稲田朋美氏を総裁にの声について考える
 -「真正保守」なるものは百害あって一利くらいのものでしょう
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60961253.html

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蓋し、ことほど左様にこの「自民党24年方針最終案」は酷い。そう思います。
なぜならば、それは総論のみのものだから。

すなわち、それが「方針の骨子」にせよ、最低でも、

例えば、()外交における日米枢軸関係の強化ための具体策とマイルストーン。並びに、()内政においては、現下、(a)焦眉の急のアジェンダである景気対策、すなわち、成長戦略の具体案とマイルストーン、更には、(b)税制・社会保障の改革の片手落ちの具体案とマイルストーン、そして、(c)「地域こそが保守の原点」と謳ったのなら尚更、地方再生に向けた産業構造の転換の指針と具体案とマイルストーン。加之、()統治機構の制度面での、国会の議員定数是正および定数削減、公務員の大幅削減の指針と具体案とマイルストーンは、   


「必修科目-必須事項」だったのではなかろうか。今年、<2011年3月11日午後2時46分>の翌年の2012年を「日本の存亡をかけた政治決戦の年」と自民党が位置づけるのなら、一層そうであったのではないか。と、そう私は考えます。

要は、この「24年方針最終案」は、現下の現在のこの国の惨状に真面目に対面していないのではないか。蓋し、「反日」などという(歌舞伎の敵役よろしき)艶っぽいレベルを突き破る民主党政権の凄まじい無能がもたらした惨状、そして、その現状に対する自己の責任を糊塗・回避しようとする(歌舞伎の敵役をも赤面させる程の)姑息な厚顔無恥な民主党政権幹部の言説によって、東日本大震災の復興が遅々として進まないことに赤裸々なように、ただただ無為に時間が過ぎ去っているだけの現下のシュールな惨状を自民党は直視できていないのではないでしょうか。

畢竟、「24年方針最終案」なるものは、現下の現在の日本における、国民の窮状と国家の危機にどう対処するかに関して、初手が欠落している。それは、単に、党内融和を優先した(対外的には、民主党の自滅による)棚ボタでの政権再交代を狙った時間稼ぎのためだけの最終案ではないのか。と、私にはそう思われました。下手をするとどころか、真面目に、この自民党の「24年方針最終案」は「自民党」という政党としての最後の年度方針案になりかねないよね、とも。


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蓋し、この「24年方針最終案」なるものを出した自民党とその現総裁は、今年が「日本の存亡をかけた政治決戦の年」すなわち<関ヶ原>であることを正しく認識してはいたのかもしれないけれど、そう、西軍の総大将就任要請を受託しながらも、自身は(寄り合い所帯の)東軍の分裂/自滅を期待・予想してか、本営の大坂城から一歩も動かなかった毛利輝元の如きものではないでしょうか。而して、その結果は「ancient history, a matter of history:周知の事柄」。分裂/自滅したのは、寧ろ、西軍の方だった。ならば、マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(1852-1869)の劈頭で述べている如く、今回の<関ヶ原>を巡っても「歴史は繰り返す」の、鴨。

蓋し、この無能な総大将を戴いたばかりに、京は六条河原の刑場の露と消えた治部少輔・石田三成こそいい迷惑。彼は、おそらく、「ベンチがアホやから野球がでけへん」と呟いて引退に追い込まれた某阪神タイガースの長身イケメンのピッチャーと同様の心境だったの、鴨。所詮、鹿を中原に逐う権力闘争において「棚ボタ」での勝利など僥倖としてさえもあり得へんということではないでしょうか。<関ヶ原>の故事を反芻しつつ私はそう感じざるを得ません。些か春秋の筆法になるけれど、「自民党の敗北は、民主党政権の内閣改造の茶番の前にリリースされた「24年方針最終案」によって決定した」ことになるの、鴨とも。

尚、本稿の私の認識の基盤に関しては下記拙稿を併せてご一読いただければ嬉しいです。

・消費増税法案☆首相「不成立なら解散」と首相経験者に伝える? 
 なに言ってんの、増税前に下野か解散でしょうよ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60961380.html

・政権奪還の順路☆自民党に期待すること/期待すべきではないこと
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60891539.html

・橋下市長を「応援」する理由-規定演技で合格点を取れなきゃ保守も反日もないですよ
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60951259.html


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テーマ : 自民党
ジャンル : 政治・経済




ブログ仲間の桃実姫の記事をまた転記させていただきます。桃実姫のご主人はアメリカ人、で、桃実姫のブログに垣間見えるお二人のやりとりは、正に、英語の謎に挑む「おしどり探偵」の様相。そう、アガサ・クリスティーの短編集『おしどり探偵:Partners in Crime』(1929)のトミー&タペンス (Tommy and Tuppence)のカップルの乗り、鴨。

ということで、この記事には余計な前口上は書かずに、即、転記行きますね。

б(≧◇≦)ノ ・・・駱駝、じゃなかった、楽だぁー!



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◆The happiest & worst things in the world、って、
 こんなこと言うのは日本人だけだったのかな。


この世でもっとも幸せなのは、

1.日本人の妻を持ち、
2.アメリカの家に住み、
3.中国人のコックを抱え、
4.イギリス(←アラブなど諸説あり)で給料を払われること

というらしい。これに5.として「ドイツの車を持つこと」というのを聞いたことがあるが、日本車で十分なのだから、5.は無視しておこう。

しかし、これをアメリカ人旦那に話したら、
「Don't recall hearing that. Sugoi imagination!
(そんな話、聞いたことがない。すごい想像力があるんだね)」

と、あっさり。

これって日本では本当に長らく言われていることだと思うのだが、
都市伝説の類なのかな。


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ちなみに、この世で最も不幸なのは、

1.アメリカ人の妻を持ち、
2.日本の家に住み、
3.イギリス人のコックを抱え、
4.中国で給料を払われること

なのだそうだ。ついでに、車の話を付け加えると、5.として「韓国車を持つこと」というのも聞いた覚えがある。2.については、ウサギ小屋伝説の深い日本よりも、もっとあばら家状態の国もあまたあるので、どうかと思うけど、3.と4.、ことに3.はNO WAY!!である。

No wayは「道がない」ではなく、「死んでもいやだ」「断じてお断り」「やめてくれ」と言った意味なり。


2012/1/11(水) 午後 9:54


転載元: Shalom! 桃実の部屋



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== 感想 ==


なるほど! 
あの有名な「The happiest & worst things in the world」もまた、
都市伝説だったなりか!

( ..)φ( ..)φ( ..)φ


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と、上記転記した記事で桃実姫が俎上に載せておられるタイプのジョークを、「エスニックジョーク:ethnic joke」と呼びます。他に、有名な所では、次の二つなんかは人口に膾炙している、鴨。

◇客船が沈没しそうになったとき、乗客を海に飛び込ませるには?
・イタリア人には、「美女が海で泳いでます」と伝える。
・フランス人には、「決して海には飛び込まないで下さい」と伝える。
・イギリス人には、「紳士は海に飛び込むものです」と伝える。
・ドイツ人には、「飛び込むのが規則です」と伝える。
・アメリカ人には、「今飛び込めばヒーローになれますよ」と伝える。
・日本人には、「他の乗客のみなさんも飛び込んでますよ」と伝える。
・日本人には、「本社から飛び込むようにとの指示が出ています」と伝える。
・韓国人には、「日本人はもう飛び込みましたよ」と伝える。

◇天国と地獄
・地上の天国
「コックはフランス人 、警官はイギリス人 、技師はドイツ人 、
 銀行家はスイス人、恋人はイタリア人」

・地上の地獄
「コックはイギリス人、警官はドイツ人、技師はフランス人、
 銀行家はイタリア人、恋人はスイス人」



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畢竟、「エスニックジョーク:ethnic joke」は面白い。そして、為になる。だからでもありましょうか。例えば、クリスティ・デイビス『エスニックジョーク―自己を嗤い、他者を笑う』(講談社・2003)、就中、日本人に焦点を当てたものとしては、早坂隆さんの一連の作品、『世界の日本人ジョーク集』『続・世界の日本人ジョーク集』(中公新書ラクレ・2006, 2009)等々は、自虐を含む諧謔ネタの宝庫でしょう。また、その筋では有名な、三浦一郎『世界史こぼれ話』(学生社新書・1955-1956, 角川文庫・1973-1976)は、異文化コミュニケーションに関心のある向きの<種本>として日本では一世を風靡したものではないかと思います。

而して、おそらく、「エスニックジョーク:ethnic joke」自体は洋の東西を問わず、また、古今を問わず存在したのでしょう。根拠はないけれどそう思います。些か、大仰に言えば、人間がアリストテーレースが喝破した如く、あるいは、マルクスが難渋に表現した如く、「社会的=政治的:ポリス的」な存在であり、「類的」な存在である以上、アダムとイブ以来かどうかは分かりませんが、少なくとも、ホモサピエンスが「出アフリカ」した頃からは、遅くとも、「エスニックジョーク:ethnic joke」は存在したと私は確信しています。

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けれども、桃実姫が紹介しておられる「The happiest & worst things in the world」や、上に例示した「難破船ジョーク」「天国と地獄ジョーク」自体の出典は何なのか。それらは、日本発祥のものか(日本で修正をつけられたにせよ、その大元は)舶来のものかといういことになると、俄然、その出自は怪しくなるのも事実。

そして、注意すべきは、「long-time no see」や「kindergarten」や「soy sauce」と同じく、端的には、「SONY」や「Kikkoman」や「Ajinomoto」とパラレルに、要は、英米人でもそれらが「外国起源」まして「日本起源の企業や企業・製品名」などとは、最早、あまり意識していないように、例えば、明治末から大正期に日本で作られた、日本発祥の「エスニックジョーク:ethnic joke」が欧米に渡り、そして、厚木飛行場に降り立ったマッカーサー元帥の後を追って逆輸入された可能性も皆無ではないの、鴨。

それは、この類の「エスニックジョーク:ethnic joke」を収録した情報の過半を、(実は、日英の他にはドイツ語でしか検索してないのですが、)書籍にせよウェブ上にせよ英語と日本語のものが占めていることからも、満更、お隣の「ウリナラ起源」の如き滑稽な我田引水や牽強付会ではないの、鴨。

もっとも、旧ソ連時代の「政治風刺小話」(アネクドート:anekdot)の語源が、ギリシャ語の「アネクドトン:公にされなかったもの」であったことが示唆しているように、元来、自虐を含む、現状に対するなんらかの批判を内包しているであろう「ジョーク:joke」は匿名性(anonymity)をその本質的属性としていたのでしょう。そう考えれば、「エスニックジョーク:ethnic joke」の少なからずが出典不詳はしかたのないことかもしれませんけれどもね。

尚、お隣の「ウリナラ」の人々に関する、というか、「ウリナラ」の人々が自爆的に炸裂させている「エスニックジョーク:ethnic joke」に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。閑話休題。

・いろんな意味で結構根深い日本語の韓国起源説(上)(下)
  http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/19059012.html

・日本語と韓国語の距離☆保守主義と生態学的社会構造の連関性
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60184079.html


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と、余計な解題はこれくらいにして、最後に一読者としての感想を。
転記した本稿の桃実姫の記事の論点に関して言えば、

ちなみに私的には、

この世でもっとも幸せなのは:The happiest things in the world;
1.日本人の妻を持ち、
2.日本の田舎の家に住み、
3.自分で料理をして、
4.アメリカで給料を払われ、
5.タイで使うこと

この世で最も不幸なのは:The worst things in the world;
1.支那人の妻を持ち、
2.日本の都会の家に住み、
3.イギリス人のコックを抱え、
4.韓国で給料を払われ、
5.シンガポールで使うこと

なの、鴨。


いずれにせよ、アガサ・クリスティーの「女料理人の失踪:The Adventure of the Clapham Cook」(米国版の『The Under Dog and Other Stories 』(1951)に初出;『教会で死んだ男:Sanctuary』(1982)に再録)でも、名探偵ポワロに行方不明のコックを探してくれるように頼んだ依頼人は「あたしのような【零細な自営業の】立場の者にとっては、腕の良い料理人というのは宝石をちりばめた頭飾りに匹敵するくらい貴重なものなのですよ」(cf. ハヤカワ文庫版, p.271)とか語っているし、『牧師館の殺人:The Murder at the Vicarage』(1930)では、牧師夫人のグリゼルダが、メイドが料理の腕を上げると今より給料を上げなければならなくなるから、あえて、メイドが料理下手なことには文句を言わないようにしていると夫に語る場面(cf. ハヤカワ文庫版, p.141)を想起するに、やはり、

б(≧◇≦)ノ ・・・イギリス人のコックを抱えるのは、No way!(><)

б(≧◇≦)ノ ・・・Any way! 日本食は美味しい! ウマウマ(^◇^)

と、そう思わないではありません。


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持統天皇



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福島県南相馬市在住で<2011年3月11日午後2時46分>に遭難された、ブログ友のアイアン主婦さんの記事、謹んで転載させていただきます。解題不要でしょう。やっぱ、現実の前には、外野席からの言葉は<軽い>からね。と、そう思いました。

尚、アイアンさんの過去記事に関しては下記記事をご参照ください。
お薦めします。

・東日本大震災が<浸透>していく情景:牛乳屋さんの訃報
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60893927.html

また、「福島原発事故」を巡る、福島第一原子力発電所のお膝元、
双葉郡浪江町の人々の目線については、もう一人のブログ友、nanaさんの
<声>を収録させていただいた下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・「福島を除染ゴミと使用済み核の最終処分場に!」という
 民主党政権の“本音”が表面化する新年
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60968211.html


б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ったね、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ろうね、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・君は、一人/独りじゃない!
б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!


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== 1月11日の現実 ==


先日、用があって相馬市の海沿いを走りました。

海沿いといっても波打ち際ではなく、3キロ以上は離れているのですが、、、、

今もこんな感じなんです。


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ここはもともと水田が広がっており、家々も点在していたところです。

ここも見渡す限り、なんにもない。。。。

水平線がはっきり望めて、また悲しくなってしまいました。

ふと足元を見ると。


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ひび割れしています。

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白っぽいのはもしかして、塩?

津波で海水をかぶったので、こんな風にひび割れて、塩で白っぽいのかな?

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夕方になってしまったので、写りが悪いのですが、、、

このぐちゃぐちゃになった白いものは「津波で曲がったガードレール」です。

道路のわきに積んでありました。

10か月たっても、復興はまだまだなのかなと思い、ちょっと悲しくなった鉄主婦です。

(2012/1/11(水) 午後 5:39)


http://blogs.yahoo.co.jp/iron_shufu/38999517.html


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いよいよ「武道の必修化-必須化」がこの4月からと目前に迫った2012年1月現在、

>体育教師にこれら武道を教える経験が無い人が多いこと


を理由に「武道必須化」にネガティブな論調が、例えば、NHKや朝日新聞にまま見られるようです。而して、私は、「こんなんは民間企業ではありえへん忌避理由」だと思います。決まったことなら、とにかく納期に合わせなさい、と。何、甘えているの、と。

他方、「指導者の経験不足」としばしば併記される忌避理由としてこれまた、武道必須化反対論者の間で人口に膾炙している、事故が惹起する「武道の危険性」については如何。蓋し、もし、それを言うのなら、登下校時の交通事故の危険性の方が遙かに高いでしょうよ、と。しかし、つまり、公教育が家庭から子供を<略奪>して、学校空間に<幽閉>するシステムである以上、そして、そんな公教育の必要性がこの社会で広く容認されている以上、交通事故の危険性がゆえに公教育を止めようという主張を支持する人はそう多くはないということでしょう。

ならば、それとパラレルに、武道の危険性なども、もし、武道の効果との比較衡量において退けられる程度の<危険性>にすぎないとこの社会の大方の人が考えている以上(だからこそ、公的に「武道の必須化」が決まったわけでしょうからね、)、教育行政の現場を担う公務員は粛々と納期に合わせるべく額と脳髄に汗をかきなさいよ。と、そう私は考えます。

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加之、別に、今年の4月までに「初心者の教師に柔道の黒帯びや剣道の初段を取れ」と誰も言っているわけではないのです。他方、世界一ゴルフが上手い(上手かった)タイガー・ウッズにもレッスンプロがついていた。要は、実技者に求められる実技の経験や技量と、指導者に求められているそれは無関係とは言わないけれど、比例するようなものでは間違いなくないだろうから。と、そうも私は考えます。

蓋し、私は(その彼等の「反日」の意図というか「戦後民主主義」的の心性は十分すぎるほど分かりますが、)この忌避理由がなんで忌避理由になるのか、その教育論的な理路は全く理解できません。よって、彼等、例えば、NHKや朝日新聞等々の左翼・リベラル派に対しては、もっと素直に、「武道必須化は戦前の肯定につながる」とか、「武道必須化は「体罰」の容認や民主的な価値観の掘り崩しにつながる」とかとか<本音>だけで勝負されれば、と。そう言いたいです。

ちなみに、私も、瞬間風速的な紛れ当たりの1回を除けば、要は、「巡航速度」としてはTOEIC975点程度しか取れず、そう大きな口も叩ける立場ではないのですけれども、公立学校の高校教師でTOEIC860点を取れない人達が今でも多数派であり、中学教師に至っては70%が730点も取れないのです。で、取れたらなんやねんでもありますが。

畢竟、この英語教師の英語力の状況と体育を教える教師の武道の実技者としての経験の乏しさや技量水準を巡る状況はあんまり変わらないよね。と、そう私は考えます。而して、その考えを反芻・確認すべく4年4ヵ月前の記事を再度アップロードさせていただきました。

以下「註」の後、2007年9月6日にアップロードした自家記事転記。いやー、4年4ヵ月前も、やはり朝日新聞は「朝日新聞」ですね。つくづくその思いを深くしました。そして、今年2012年のセンター試験も目前、頑張れ、受験生諸君!



★註:公立学校教員の英語力


①ソース2点紹介
下記ノースによれば、概略、文部科学省は「「英語を使える日本人」育成に向けた文部科学省の行動計画」(平成15年3月策定)で、すべての英語教員に730点以上を求めているが、現実には、「英語教員のTOEICの平均スコアが中学560 点、高校620点」(2010年9月2日付け朝日新聞朝刊第24面 『リレーおぴにおん』「いいのか 学校英語(10)完」での千田潤一 氏のコメント)。

あるいは、「2007年度に行われたTOEICの公開テストで、実施時に行っている職業についてのアンケートで、小学校教員と答えた受験者の平均点が582点であることがわかった。中学校教員と答えた受験者の平均は682点、高校教員と答えた受験者の平均は745点」(国際ビジネスコミュニケーション協会(IIBC)の調査)だったとのこと。

http://www.news-postseven.com/archives/20110216_12823.html
http://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/blog/node/2560


②上記ソースに関して、重要なことは「公立学校」の「英語教員」の「全国を網羅した」(全数調査はもとより、サンプル調査にせよ)「英語力の客観データ」(就中、TOEICデータ)は存在しないということです。

つまり、所詮、①で触れられているデータも、

()自発的にTOEICを受験した方だけの
()自己申告の職業欄をタグのキーとした
()英語の「教員」だけでなく、国語や美術や数学や体育も含む
「中学校教員」や「高校教員」すべての「教員」に関するデータにすぎないということです。

而して、少し古いですが、下記の記事が紹介する、2007年の文部科学省の調査が現在でも「公立学校/英語教員/全国を網羅した/客観的な英語力/調査」としては最新のもの、鴨。而して、その結論は、

「全国の公立中学校(10,079校)、高校(3,779校)を対象に、英語教師の語学力を調べた結果、TOEICで730点以上を取得している英語教師の割合は、中学で全体(22,862人)の24.8%、高校で全体(17,627人)の48.4%」だった由。

http://www.eigokyoikunews.com/news/20070322/12.html

尚、この後日談は以下参照(但し、この調査においても、被対象者は「選抜」(not 抽出! but指名!)もしくは「志願兵」です)。

http://wisdomofcrowdsjp.wordpress.com/2010/06/17/e067-2/


③都立高校の英語教員の方の研修を10年以上行ってきた私個のデータからは、
而して、①②をも鑑み、

・公立学校の高校の英語教員の平均点は700点前後、中央値は680点辺り
・公立学校の中学の英語教員の平均点は620点前後、中央値は600点辺り


と推測します。いずれにせよ、

>公立学校の高校教師でTOEIC860を取れない人達が今でも多数派
>公立学校の中学教師に至っては70%が730も取れない


という<現実>は動かない。と、そう私は考えます。



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== 朝日新聞社説「武道とダンス」☆平成19年度最低の社説か? ==

あと4ヵ月を残している今年平成19年、絶後ではないかもしれないが空前の社説が全国紙に掲載されました。朝日新聞社説「武道とダンス―必修にまですべきなのか」です。荒唐無稽な戦後民主主義の歴史観や社会観からものされたイデオロギー的に偏った社説。

蓋し、支那・韓国・北朝鮮の特定アジアのエージェントとして、日本を貶め日本の国益を毀損すること甚だしい<最悪の社説>は朝日新聞の場合珍しくはないけれど、小論文の作品として見た場合ここまで酷い<最低の社説>はそう拝めるものではない。正に、平成19年度の最低の社説。と、そう思いました。

いかに大学全入時代とはいえ、第一志望校群を目指す場合には厳しい少数激戦模様が昨今の大学入試。一般受験とAO入試、推薦入試を問わず9月に入り「小論文対策」や「現代国語対策」に本気で取り組み始めた受験生の方もこのブログの読者には何人かおられる。よって、<最低の小論文答案>というものがどういうものかを理解していただき、もって、各自の他山の石とすべくここにその朝日新聞社説を紹介することにしました。まずは、模範最低答案の本文。


●武道とダンス―必修にまですべきなのか

中学校の保健体育では、男女を問わず、柔道や剣道、相撲などの武道とダンスを必ず学ばせる。そんな方針が中央教育審議会の専門部会でまとまった。早ければ11年度から始まるという。

柔道や剣道が大好きな女子はたくさんいる。日ごろからダンスを楽しんでいる男子も少なくない。しかし、男子も女子もみんな武道とダンスをしなければならないとなると、どんなものだろうか。(中略)

武道もダンスも必修になる。昨年、約60年ぶりに改正された教育基本法に背中を押されたことが大きい。「伝統と文化の尊重」が盛り込まれたため、専門部会では「武道を必修にすべきだ」という意見が出ていた。専門部会の方針でも、「武道の学習を通じて我が国固有の伝統と文化に、より一層触れることができるよう指導の在り方を改善する」と述べられている。

もちろん、日本の伝統と文化に触れることは大切だ。しかし、それがただちに武道を学ばせることにつながるのだろうか。伝統や文化と一口に言っても、さまざまなものがある。武道を必修にして全員に教えれば、伝統や文化が身につくというほど単純なものではあるまい。(中略)

それにしても、学習指導要領で体育の必修の種目まで細かく決める必要があるのだろうか。幅広く教えたいという気持ちはわからないわけではないが、あれもこれもと詰め込まれては、子どもは消化しきれまい。文部科学省は大枠を示すにとどめ、具体的な選択は教育委員会や学校に任せてはどうだろう。

文科省や中央教育審議会には、もっと心を砕いてほしいことがある。今回の専門部会の方針でも、スポーツをする子とそうでない子に二極化している傾向や体力の低下が指摘されている。とりわけ、「体育嫌い」といわれる子どもが増えているのが気になる。体育の場合、うまくできないと、クラスの中で恥ずかしい思いをすることが少なくない。それがきっかけでスポーツから遠ざかってしまうケースも聞く。

苦手なことでも頑張れ、と教えるのは大切だが、それでスポーツ嫌いが増えたのでは何にもならない。学校の体育は、体力を高めるとともに、スポーツに親しませるのが大きな狙いだ。スポーツは楽しい。家に閉じこもってゲームをするより、体を動かすことの方がずっと気持ちがいいんだ。まず、そのことを子どもたちが実感できる授業への道筋を工夫してほしい。

(朝日新聞:2007年9月6日



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◆「武道とダンス」が最低の社説である理由


(甲)作品の主意と無関係な記述の混入
小論文指導の経験が少しでもある方なら誰しも一読して目につくポイントは、作品の主意とは異質な内容が無造作に組み入れられていることです。すなわち、第6段落から最後まで「文科省や中央教育審議会には、もっと心を砕いてほしいことがある・・・・家に閉じこもってゲームをするより、体を動かすことの方がずっと気持ちがいいんだ。まず、そのことを子どもたちが実感できる授業への道筋を工夫してほしい」は、学校の体育教育と無関係ではないがこの社説の主意「武道とダンス」との関連は薄く、この記述は論旨を不分明にする記述と言わざるをえません。

要は、「スポーツは楽しい。まず、そのことを子どもたちが実感できる授業への道筋を工夫してほしい」という主張は、「武道とダンスを学習指導要領で定めることの是非」に関してはニュートラルであり、この作品に盛り込む必然性は弱いということです。


(乙)思い込みによる批判対象の杜撰な紹介
更に、この作品は根拠も挙げず相手の主張を論駁しており、これまた致命的。具体的には、「日本の伝統と文化に触れることは大切だ。しかし、それがただちに武道を学ばせることにつながるのだろうか。伝統や文化と一口に言っても、さまざまなものがある。武道を必修にして全員に教えれば、伝統や文化が身につくというほど単純なものではあるまい」という箇所です。

確かに、朝日新聞の言辞は元気で小気味よいのですが、この作品のどこを見ても、「中央教育審議会の専門部会が「武道を必修にして全員に教えれば、伝統や文化が身につく」などと述べた」という情報は与えられていない。他方、論理的に「武道を学ばせることは日本の伝統と文化に触れること」であることは誰も否定しないでしょう。ならば、武道を必修にした中央教育審議会の理論は、

(1)新教育基本法に「伝統と文化の尊重」が盛り込まれた
(2)武道を学ばせることは日本の伝統と文化に触れることだ
(3)武道を必修にしよう


という常識的なものであるのに対して、
朝日新聞の主張は中央教育審議会の理路をあたかも

(1)新教育基本法に「伝統と文化の尊重」が盛り込まれた
(1ーb)武道は日本の伝統と文化の主要なものだ
(2)武道を学ばせるこは日本の伝統と文化に触れることだ
(2ーb)武道を学ばせれば伝統や文化が身につく
(3)武道を必修にしよう


と読み替えた上で、自分が勝手に想像の世界の中で作った「中央教育審議会の理路」を攻撃しているものにすぎないのです。いずれにせよ、大学入試の小論文においては、誰かの主張を批判しようとする場合、批判対象の主張は正確な引用やリライトによってきちんと復元し提示しなければなりません。

而して、朝日新聞のこの社説のような作品は「お宅なに様」ものの頭が高い答案として極めて低い評価しか与えられない。畢竟、受験生諸君は、けっして、こんな傲岸で杜撰な作品を書くことがないように十分注意してください。


(丙)根拠薄弱な自説の垂れ流し
最後に指摘する「根拠薄弱な自説の提示」は、高校生の小論文を添削指導していると頻繁に見かけるものであり、上の(甲)(乙)ほど致命的な減点になるわけではありませんが、だからこそそれは意識して直さなければ受験本番でも「ついつい悪い癖」がでかねない厄介なタイプのミスです。

具体的には「それにしても、学習指導要領で体育の必修の種目まで細かく決める必要があるのだろうか。幅広く教えたいという気持ちはわからないわけではないが、あれもこれもと詰め込まれては、子どもは消化しきれまい。文部科学省は大枠を示すにとどめ、具体的な選択は教育委員会や学校に任せてはどうだろう」の箇所。この主張をサポートする根拠を朝日新聞の社説子はこの作品のどこにも書いていないのです。

これを称して、「根拠薄弱な自説の垂れ流し」と私は呼ぶのですが、蓋し、このタイプのミスを犯すということは朝日新聞の社説子などの小論文作成能力は、日本の平均的な高校生とあまり変わらないということかもしれません。けれども、それはそれで困ったことだと思います。支那の走狗とはいえ、朝日新聞を日本の新聞社とまだ考えている人も世界にはおられるでしょう、而して、朝日新聞が支那の走狗であることをまだ知らない読者から見れば、一応、日本の全国紙の社説の国語のレヴェルがその国の平均的な高校生程度の国語のレヴェルとあまり変わらないことは日本の恥辱になりかねないからです。

蓋し、(A案)朝日新聞には一刻も早く(かつ、納期を決めて)日本語による論理的思考能力を向上していただくか、(B案)「朝日新聞が支那の走狗であり、支那政府が管轄する日本語新聞であること。而して、その日本語のレヴェルの低さは日本とは無関係であること」を正直にカミングアウトしていただだくか、この両案のいずれか(あるいは両方)を可及的速やかに選択して実行していただきたいものだ。私は日本国民の一人としてそう願っています。

(海馬之玄関:2007年9月6日アップロード記事)


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木花咲耶姫


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◆中世武士の社会意識

確か小学生の頃、平清盛に叛旗を翻した源頼朝の家来の多くは板東平氏だった、あるいは、建武のクーデターに際して足利の軍勢の大部分は三河(愛知県)で調達され、尊氏公が鎌倉幕府打倒の旗幟を内外に鮮明にされた京都亀岡の地は足利家の領地または勢力圏だったと聞いて違和感を抱いたことを覚えています。

えっ、足利って栃木県だよね、と。群馬県と栃木県を間違えるのは、中学お受験定番の失敗パターンだけど、幾ら何でも、栃木県と愛知県、愛知県と京都府は小学生でも間違えないでしょう、と。

これらの事績には、しかし、何の不思議もありません。すなわち、以下、(Ⅰ)(Ⅱ)を各々中世(1150年~1450年)を中心帯とするその前後と捉えていただければ(蓋し、便宜的に、かつ、ある程度の余裕を見て、要は、大した根拠はないのですが、(Ⅰ)「1100年-1350年」、(Ⅱ)「1350年-1600年」と捉えていただければ)、

(Ⅰa)荘園制の横行した総ての時代を通して、更には、(Ⅱa)寺社権門体制が崩壊するまでの織豊期まで、土地と軍事力を含む労働力を巡る日本の支配構造は、(Ⅰb)本所と荘司・地頭(都の上級貴族と在地または転勤族の下級貴族・現地の豪族等の有力者)による重層的支配構造だった、(Ⅱb)土地的には武家と武家以外の権門のモザイク的な支配が、そして、人的には職能・階層毎のその職能・階層単位のヒエラルヒー支配(例えば、「ギルド」類似の支配)が社会の基調的の色彩だったのでしょうから。


敷衍すれば、ある地域内のすべての土地とすべての階層・職能の人々を、少なくとも公法関係としては、単一の権力が支配するという一元的な「一円領国制」の成立は、日本全体という意味では織豊期を待たねばならなかったのですから。と、ここまでは今時、流派を問わずどの日本史の教科書にも書いてあることでしょう。

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ならば、(武家内部と武家以外の他の職能階層の人々に対する)中世の武家の支配構造は、ある意味、現在の企業とパラレルなの、鴨。菱を始めとする任侠系や神農系の組織を含む<企業>が様々な活動を全国で/全国を相手に行っているのに近かったの、鴨。

蓋し、その支配は、あるエリア内部に住むすべての人間を政治的・経済的・軍事的にまるごと完全に取り仕切るものなどでは到底なくて、何らかの商品やサービスの対価としてのみ貨幣や労働力を受取る権限と権利を社会的に認められているもの。加之、その組織内部に適用されるルールと組織以外の人々に適用されるルールは本来的に無関係。中世の武士の心性と武家支配の構造はそんな乗りに近かったのではないでしょうか。

而して、現在においても以下の如き命題、すなわち、

「グリコは関西では強いが、関東ではやっぱ森永か」
「愛知県でトヨタ以外の車を見るのは稀」


は有意味としても、次の命題は、その対比に含まれる各項が
業界を跨いでいるがゆえにあまり意味はないでしょう。

「長野県では、サントリーとマツダが熾烈なシェア争いをしている」


つまり、現在では、生保や車のディーラー、コンビニや学習塾のフランチャイズ(FC)が一つの都市に各々オフィス/店舗/教室を構えて同業他社と熾烈な競争を繰広げているにせよ、業種業態が違う企業やそれらのスタッフ間の関係は、単に、その同じ地方都市に職と住があるというだけにすぎないでしょう。

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蓋し、源氏と平氏、崇徳上皇と後白河天皇、東大寺と東寺、山門と寺門(延暦寺と園城寺)、または、北朝に連なる持明院統と南朝に連なる大覚寺統は相互に競い合ったとしても、経済活動の業態と社会的な機能・位相が異なれば個々の集団は互いに競争相手でさえなくなる。而して、この契機は、福岡ソフトバンクホークスとなでしこジャパンが取りあえずは競争相手ではないこととパラレルではないでしょうか。

繰り返します。武家と武家、本所と本所の争いは熾烈でも、その社会的階層と社会的機能の種差や位相を跨いだ争いは原理的には成立しない。これが、古代末から中世の半ば(1100年-1350年)までの日本社会の実相だったと私は思うのです。

でも、若き平清盛は比叡山は山法師の強訴の神輿に弓矢を射かけたと伝えられ、また、1181年、清盛の命を受けた平重衡は東大寺・興福寺を焼討にしたのではなかったか。

簡単です。それらの紛争局面では比叡山も東大寺も興福寺も、平氏と同様、全国区の巨大な領主勢力であり、かつ、平氏や源氏と同様、強大な武装勢力でもあったから。寧ろ、織田信長(1534-1582)が比叡山と本願寺を軍門に降すまで、中世の寺社権門は、文字通り、広域暴力団でもあったから。

而して、この経緯は、例えば、限られた市場規模のスポーツエンターテーメントマーケットにおいては(要は、有限な潜在的顧客の、これまた有限な顧客の財布とスケジュールを巡っては)福岡ソフトバンクホークスとなでしこジャパンは競争相手でもある現実とパラレルであろうと思います。

尚、蛇足ながら確認。それが広域暴力団、しかも、部分的にせよ徴税権と武家以外の地域メンバーをも動員する権限を公的に付与された広域暴力団であったことは寺社権門だけでなく武家権門にこそ言えるのですよ、為念。


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畢竟、この「異種格闘技戦」ならぬ「異業種の同種化」は、平清盛(1118-1181)の200年の後、足利尊氏(1305-1358)の時代に頂点を迎え/競争と共生の構図・枠組みが確定した感があります。

それは、漸次、(α)中世的な(正確に言えば、古代末期的な)土地の重層的かつ多元的な支配関係が一元支配に移行して行き、これまた、漸次、(β)公家・寺社という旧勢力の権門は、パラドキシカルながら、新々勢力である非農業民である流通業者・手工業者の保護と権益発掘の部面に移行撤退して行った経緯。

更に、(γ)この(β)の部面では、地域地域を実効支配する武家権門が設ける「関所」とそこで課す「関銭=関税」を巡って、新々勢力の保護者であり元締めでもあった公家・寺社の旧権門勢力と新勢力たる武家権門の間に新たな対立が発生したこと。

そして、(δ)「武家 vs 旧勢力と新々勢力の連合軍」の対立構図は、山城国一揆(1485)と、近世の開拓者とも言うべき信長による比叡山焼き討ち(1571)を各々頂点と終点として、あるエリア内において非農業民をも含むすべての職能民に対する一元支配体制の確立と同値である、前述の一円領国制が日本全体で成立する織豊期までは続いたことに起因する。


これら(α)~(δ)の認識はそう間違いではないと信じますけれども、蓋し、これらの経緯は中世の社会が、就中、武士の心性とエートスが「どこから来てどこに向かった」のかを一瞥した上の考察と、少なくとも矛盾はしないのではないでしょうか。閑話休題。


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◆結語

万物は流転する。ただし、世の森羅万象の中には変わりやすいものとそうでないものがあるのでしょう。蓋し、畢竟、中世は、古代のそれなりに安定していた社会的階層・社会集団の機能の垣根が消失しつつも(「武家」と「本所=公家権門+寺社権門」の争い、上述の如き「異種格闘技=異業種の同種化」が極普通の事柄になりつつも)、意識としては武士を含むその社会のメンバーがまだ古代的の秩序やイデオロギー、すなわち、(「国家社会主義的」とも言うべき、唯一の国営企業にすべてのその社会のメンバーが属する、あたかも、毛沢東全盛時代の支那の如き)国営会社に勤務しているという、古き良き甘美な意識から脱却していなかった時代。そんな時空間ではなかったかと思います。

而して、意識/イデオロギーの領域においてだけにせよ、
平清盛はその国営会社のみが存在していたこの社会を、
個々の民間企業が切磋琢磨する社会に移行させる先鞭をつけたの、鴨。
加之、足利尊氏はそのような新しい社会内部のダイナミクスに対して、
新しく公的な社会関係のプラットフォーム/枠組みを与えたの、鴨。


蓋し、よく言えば安定していた、悪く言えば閉塞感漂う古代の黄昏を突き破り、平清盛が先鞭をつけ足利尊氏が確立した中世社会は、(日本内外のロジスティクスの発展と、農業以外の産業セクターの確立を動因とした)12世紀~15世紀に生起したこの社会の生態学的社会構造の変容に対する日本人の<解答>であり、よく言えば活気溢れる、悪く言えば不安定な社会を現出するものだったけれども、少なくとも、平清盛と足利尊氏の貢献によって、現在に至る日本の民族性の原型と原基が形成されたことは間違いないのではなかろうか。と、そう私は考えます。

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敷衍します。実際、1467年の応仁の乱の時点でもおそらく、そして、建武のクーデターがあった1333年の時点では間違いなく、日本の武士層の自己認識は全国に支店を持つ民間企業に勤務するサラリーマン的の、あるいは、全国区のコンビニFCのオーナー的の意識だったと私は思うのです。

而して、その後、織田信長によって葬られたこの自己認識は、しかし、古代的の武士の自己認識と比べた場合、破天荒に斬新なものだったのではないか。いずれにせよ、このような中世の武士の心性と武家のエートスは、一円領国制が日本の津々浦々に波及浸透する16世紀後半までこの列島を覆っていた社会関係の基調だったの、鴨。

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再々になりますが、その中世の新しい社会関係は、しかし、本能寺が焼け落ちた1582年までには再度変貌していた。建武クーデター(1333)からその間250年、そして、応仁の乱(1467年)からは110年余り、あるいは、平清盛が覇権掌握を確実にした平治の乱(1159年)からは約420年。

中世(1150年~1450年)の3世紀を含むこの時期に何がこの列島とその社会で起こったか。
就中、武士の意識に何が生じたのか。それを知りたいと切に思います。

謎だらけの中世。ロマンと魅惑と懐かしさの中世。豊穣で凛とした中世。

私にとって中世とはそんな時空間です。而して、けれども、この関心は単なる好奇心に起因するものではない、多分。蓋し、もし、「現代は第二の中世とも言うべき時代」という私の認識がそれほど支離滅裂なものではないとするならばですけれども、その現代に生きる我々にとって、あるいは、中世への関心はかなり実践的で実利的な知見をもたらすもの、鴨。そう私は考えています。


尚、本稿の基盤である私の歴史認識に関しては取りあえず
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。



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・政治と社会を考えるための用語集(Ⅳ) 歴史
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/1325177.html

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60167130.html


・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60914831.html

・「左翼」の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60904872.html

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444711.html


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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




昔、京都は河原町今出川に『金八』という居酒屋がありました。そこは、同志社や京大の学部生・大学院生の溜まり場の一つで、分野を越えた<雑談>が楽しめた空間。後になって思えば、皆(私も例外ではなく/私をその典型として)、読んだばかりの知識や聞いたばかりの見識を「見てきたように」披露していたにすぎない。でも、結構、真面目に、皆、背伸びして「大風呂敷」を拡げていました。

実は、先日アップロードした記事(↓)で「登場」していただいた京都大学の落合恵美子さんは、東大の学生の頃、今はもうその面影も随分薄くなりましたが新宿はゴールデン街で一人でグラスを傾けておられたそうですが、東西を問わず時代を問わず学生の生態と行動の傾向性は似ているということでしょうか。閑話休題。

・覚書★妻の姓名乗る「女姓婚」増加、あるいは、「専業主婦」減少の意味
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60971379.html


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さて、そんな『金八』でのこと。ある西洋史専攻のオーバードクターから聞いた話の一つに「古代史は普遍史である」というのがありました。灘の生一本剣菱と一体化した意識の中ではあったけれど、その言葉に妙に納得させられた。

その後、確かランケの講義録かなにかの中にこの言葉の出典を見つけたと思うけれど、ちょうど、「社会科学には/そもそも、科学には万人が承服するような正しい認識は存在するのか」「法と道徳と裁判官の願望はどう違うのか/その違いはどうすれば実証的と間主観的に確認できるのか」「歴史学の認識と歴史小説の違いは?」等々、文字通りの書生論を振り回していた頃の私は、この「古代史は普遍史」という言葉に妙に感心した。そのことをクッキリ覚えています。

ちなみに、本稿では、「原始→先史→古代→中世→近世→近代→現代」等々の所謂「時代区分論」、あるいは、「時代を区分すること」自体の正当性の吟味には踏み込みませんが、『金八』の時空間でそう私は感じたのです。

実際、ヘーゲル法哲学の研究者で、現在、沖縄のある大学の教授になっている先輩が念仏のように唱えていた「歴史は個々の出来事を通した普遍の認識であり、普遍と関係づけられた個々の出来事の認識」「われとしての我々、我々としてのわれ」とかなんとかいう難渋な言葉なんかよりも遙かにその時の私には「古代史は普遍史」という言葉の方がリアルに感じられた。

ちなみに、ヘーゲルの虚飾に塗れた支離滅裂な言説など、例えば、『風の谷のナウシカ』の中で王蟲が述べた「ワガ一族は個ニシテ全/全ニシテ個/時空ヲ越エテ/心ヲ伝エユクノダカラ」(徳間書房ワイド版(1983-1995)1巻,p.127)という言葉に説得力の点で足下にも及ばないの、鴨です。


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◆中世に<民族性>が確立した

古代史が人類の普遍史だとすれば、中世史とはどんな歴史なのか。この点、私は、中世史を民族の普遍が形成された時代だと考えています。中世とは古代を支配していた生産関係と社会の諸制度が解体した後に新しい生産関係と制度が再構築されたと同時に、古代のメンタリティーを保持する人々がその新しい<現在>とストラーグルした時代である、と。

而して、ストラーグルしながらも、世界に普遍的ではないが、その民族においては普遍的なsomethingとなる文化を再構築した時代である、と。より正確に言えば、否、逆に言えば、その時空で再構築された「文化:行動規範+美意識+世界観」を共有する人々としての民族が確立した時代である、と。

そして、個別日本においても民族性の「核心/プロトタイプ」は中世のその試練を人々が潜る中で鍛えられ成立したのではないか。而して、近世や近代や現代は、中世に成立した日本的なものの核心がその具体的な形態を、偶然性が強く容喙する「エコシステム:生態学的社会構造」(自然を媒介とする人と人が取り結ぶ社会的な諸関係性の総体)の変遷に拮抗しつつ/順応しつつ、徐々に社会の諸制度や諸関係の中に顕現してきた時代なの、鴨。

比喩を使い敷衍すれば、そのプロセスは、昔の貧弱なネット環境で、大容量の画像のダウンロードに数分間(!)かかった頃の、徐々にイメージが精密化していくあの感覚です。

生態学的社会構造の変遷に伴い中世において
民族の心性と価値体系が創出された


繰り返しになりますが、近代の「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」の成立に際して普遍的なものと考え始められた(誤解された!)、記録にも記憶にもないほどの昔から継承されてきた、ある民族に固有の<民族の文化と伝統>なるものの具体的内容の原型、あるいは、成分(the ingredients of the culture and custom in a certain nation)は中世期に確立された。そう私は考えるのです。

換言すれば、先史・古代から連綿と続く様々な文化の諸パーツが中世期に<民族の文化と伝統>というプラットフォーム上に始めて整序づけられた。要は、現在に至る<日本>の原型、否、生物学で言うところの「原基」を作ったのは征夷大将軍正二位源朝臣尊氏、すなわち、足利尊氏(1305-1358)であり、その作業に先鞭をつけたのは従一位太政大臣平朝臣清盛・平清盛(1118-1181)その人であった、と。

而して、平安後期の院政期に始まる「平氏政権→鎌倉幕府→室町幕府の中期」(1150年~1450年)の約300年の我が国の歴史を、そのようにクリエーティブでクリティカルな時代と私は捉えているということです。

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検算します。このような中世の理解に立って日本の通史を一瞥すれば、(1)古代=普遍史の時代、(2)中世=民族性の確立の時代、(3)近世=民族性が社会関係の隅々にまで浸透した時代、(4)近代=フィクションとしての「国民国家=民族国家」と民族性が合体した時代、そして、(5)現代=すべてのものが崩壊しつつある時代と位置づけることもできるの、鴨。

(1)古代:国家ができた
(2)中世:日本ができた
(3)近世:民族性が社会関係の隅々に行き渡った
(4)近代:国家と民族性が合体した(民族国家が誕生した)
(5)現代:そして誰もいなくなった→第二の中世か?


アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった:And Then There Were None』(1939)のタイトルでもないですが、現代は「主権国家=国民国家」や「民族」、他方、例えば、天賦人権なるものや民主主義といった、極めて近代に特殊な<政治的神話>、あるいは、この近代に特殊なイデオロギーの裏面たる「コスモポリタン的な国際社会」なる幻想や「地球市民」なる妄想の双方が崩壊しつつある時代。加之、それは新たな結集軸が模索されている時代でもあるでしょう。

もし、この現代に関する認識が満更荒唐無稽ではないとするならば、畢竟、現代は第二の中世のとば口とも呼ぶべき時空間なの、鴨。現代は<日本>を再構築すべき時代なの、鴨。そう私は考えます。では、「中世」とはどんな時代だったのでしょうか。


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◆中世社会の実像

中世社会のイメージは如何。例えば、中世日本の人口はどれくらいだったの? 中世を通した荘園数の変動、集落跡の分布と数量、個々の戦闘に動員された兵員数等々から様々な推計がなされてきましたがこれは実は難問。

人口に膾炙している話ではありますけれども、奈良期の実数値と江戸初期の推計値、および、江戸中期以降の実数値は資料から特定可能。けれども、奈良期から江戸初期まで、その間の900年間(700年~1600年、就中、本稿で論じている、よって、本稿で言う所の中世の300年間:1150年~1450年)の人口推計は難しい。

つまり、奈良初期は600万人、並びに、速水融さん達の研究で(それ以前は、「1石=1人」換算というかなり根拠の怪しい推定に基づき1800万人説が長らく通説でしたが)、江戸初期の人口は1250万人弱だったろうとは言えるらしい。

しかし、中世の人口は五里霧中。
まして、中世の「職能と身分毎の人口内訳」はお手上げ状態。

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そこで、仮説というか「頭の体操」に近いのですけれども、私は中世のこの「空白の3世紀間の人口」をこう考えています。先ずは体操の前提。

(a)室町幕府の成立は生産力と流通システムの拡大が新しい生産関係と権力関係を要求した結果である(←この前後に人口爆発があった)。(b)戦国の動乱期(1467年以降)の最初には若干人口減があったかもしれないが、1600年までの約100年間は日本全体として見れば富国強兵のトレンドにあった。(c)それ以外の時期の人口にはあまり変動はない。(d)琉球は<日本>ではなく、蝦夷地の人口変動は不明。

これらから、大雑把に中世前後の推計人口は・・・。

(0)0700年~1200年:0600万人→0700万人(約15%増)
()1200年~1300年:0700万人→0900万人(約30%増)
()1300年~1400年:0900万人→0950万人(約05%増)
()1400年~1500年:0950万人→1000万人(約05%増)
()1500年~1600年:1000万人→1250万人(約25%増)


再度記しますが、この仮説によっても「職能・身分の内訳」は不明のままです。よって、以下、中世を中世たらしめた<武士>あるいは<武家>に焦点を当ててその時代のエートスの内容と構造を推察してみたいと思います。


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而して、武士の起源に関する2説。すなわち、

(甲)在地自営農民の自衛化=武装化説
(乙)騎射の芸能で皇室・公家の権門に使える職能集団の在地領主化説


の両説に関して、私は、武家の棟梁階層は(乙)説で、「兵:tsuwamono」は(甲)説で説明できると考えています。武士団とは社会集団としての(甲)在地自営自衛農民の上に(乙)在地領主化した武芸職能集団がお飾りとして乗ったものである、と。

しかし、「お飾り:イデオロギー」とは怖いもの。鎌倉幕府の源家将軍が僅か三代で途絶えたことに端的な如く、平氏打倒を果たした時点でさえも(1185年)頼朝自身には自前の軍事力は皆無であったにも関わらず「鎌倉殿=頼朝」(1147-1199)の政治的影響力は旧権門体制のチャンピオン、後白河法皇(1127-1192:治天の君としての院政は1158年~1192年)を凌駕した。他方、当初単にお飾りを担いでいた(甲)の人々も漸次その自己認識としては(乙)の流れを汲む<一族郎党>のメンバーとして自身を意識するようになったの、鴨。

而して、土地の使用収益権の配分と土地からの徴税権のシステムであることをその本質とする律令の法的効力が消失して後も、更には、本所と荘司(土地の名目上にせよ権利者と実質的な管理者)が形成した荘園制度が解体しても(例えば、徳川家康の官位官職は「征夷大将軍・左近衛大将・左馬寮御監・源氏長者・淳和奨学両院別当・従一位・太政大臣」の源朝臣家康であった如く、そして、TVの時代劇でお馴染みのように、右大臣や従二位や征夷大将軍、前の(権)中納言や内匠頭や上野介、越前守や左衛門少尉の如き律令の官位官職は明治維新まで持続したことに赤裸々な如く、)意識としての(乙)は近代の黎明期まで持続したのだと思います。ならば、まして況んや、「中世においておや」でしょう。

蛇足ながら、この武士団の(イ)発生局面での二重性と、(ロ)自己意識としての(乙)「騎射の芸能で皇室・公家の権門に使える職能集団の貴種の棟梁に連なる自分というアイデンティティー」の優位性とが生起せしめる緊張関係が、「西欧の近代軍隊の武官の倫理とエートス」と近しい/親和性が認められる「武士道:武士の倫理観」成立の遠因なの、鴨。

これは、西欧との遭遇において成すすべもなく佇むしかなかった、例えば、韓国の両班階層や支那の科挙官僚の倫理とエートスと比べるとき、満更自国贔屓の認識でもないの、鴨。と、そう私は考えています。


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<続く>


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◆妻の姓名乗る「女姓婚」増加 “主夫”願望、男性の経済力低下

結婚して女性の姓を名乗るカップルがゆるやかに増えている。名付けて「女姓婚」。男性の経済力の低下と“主夫”願望、女性の結婚後も姓を変えずに働きたいという両者の理由が背景にある。社会学の研究者からは「格差社会や少子化を打開する妙薬となるのでは」と注目を集めている。

夫婦は同じ姓を名乗ることが民法で定められている。「女姓婚」は女性側の親との養子縁組を前提とする従来の「婿養子」とは異なり、婚姻届の夫婦の氏欄で「妻の氏」を選択するだけで実現する。

神戸市で仲人業を営み、著書『女姓婚のススメ』がある伊達蝶江子さん(48)の相談所ではここ1年ほどで10件を成婚させた。問い合わせ件数も増えているという。

厚生労働省によると、昭和50(1975)年に結婚した夫婦のうち女性の姓を選択したのは約1.2%。平成12(2000)年は約3%、22(2010)年は約3.7%と、ゆるやかながら増えている。このデータには婿養子も含まれるが、伊達さんは「女性婚」という選択は確実に増えているという。

なぜ「女姓婚」なのか。メリットとして女性は旧姓のまま仕事が続けられ、夫の家に嫁いでからの嫁姑問題が回避できる。男性は、女性を養うという義務感から解放され、低所得でも結婚へのハードルが下がる。女性主導のため、いわゆる「草食系男子」でも結婚しやすいという。

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伊達さんは「2008年のリーマンショックから、男性の経済力の落ち込みがますます厳しくなった。男性が女性を養う“男のかい性”はもはや幻想になった」と分析する。

実際、内閣府の一昨年の調査で、年収300万円未満の20~30代男性で結婚しているのは約9%だが、300~400万円になると20代は約26%、30代は約27%と増加。30代男性は年収に応じて結婚率が上がり、20代男性は400~600万円だと40%近くが既婚だ。

伊達さんは、「最近、名前が変わると仕事に影響すると心配していた女性医師が、『女姓婚』をして結婚と仕事の両立を手にいれた。相手の男性も旧来の固定観念から解き放たれ、お互いが幸せになっている。今、『女姓婚』は互いに自立し、家庭を作りたい男女に受け入れられている」と話している。

京大大学院の落合恵美子教授(家族社会学)の話 「庶民に姓がなかった江戸期も、姓を持った明治以降も、男性の1割は跡取りのいない妻方の家に入っていた。その後、勤め人の増加などで、夫の姓を名乗る結婚が当たり前になったが元に戻っただけとも言える。『女姓婚』は男性の経済力の低下や男女平等の価値観のもとで仕事や家事、育児を分担するライフスタイルの反映でもあり、少子化と格差社会脱出の妙薬となるのではないか」

(産経msnニュース:2012.1.7 14:45)



 http://sankei.jp.msn.com/life/news/120107/trd12010714460009-n1.htm


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所謂「女姓婚」の漸増は、これまた所謂「専業主婦」の漸減の裏面ではないでしょうか。而して、

①元来、「姓」は「kabane」であり、蘇我大臣や物部大連の「臣/連」の如く「カーストの標記:出自に起因する社会的に期待される役割の標識」であったが、漸次それは「姓=sei」となり、単に彼や彼女が所属する氏族を識別する標識の「氏名=ujina」となって行った。更には、自称にせよ「徳川家康≒新田家康=源家康」とされる如く、ある氏族の中の連枝・分派を表す(要は、その分派の根拠地・創業地という、文字通り、地名である)「苗字」に、もって、最後的には「家制度」の確立に伴い<家>の名前である「名字」の意味に変遷したこと

加之、②江戸時代は公家・武家以外の庶民(?)は、村名主等々の特に許されたごく一部の例外を除き「名字帯刀」が禁止されたとされるのは、「名字を名乗ること/刀を公の席で帯びること」が抑制される建前になっただけのことで、それは江戸期にこの社会の人口の少なくとも80%を占めた<農工商>の庶民が「姓:氏名・苗字・名字」を喪失したわけではないこと(例えば、上州新田郡三日月村の農家出身の無宿・木枯らし紋次郎は帯刀して股旅していたのですが(笑)、ちなみに、紋次郎さんが生きていた頃の、関東の街道筋は五街道が「道中奉行≒国土交通大臣」の、その支道が「勘定奉行≒財務大臣」の管轄下に置かれていたのであり、紋次郎さんは紛う方なき「公的空間」を帯刀しつつ旅していたのです!)

並びに、③夫婦別姓の制度は、白黒はっきり言えば(江戸中期以降の武家の家庭を除けば)明治以降の慣習であり、個別日本においては優れて<近代的に特殊>な事柄にすぎないこと。けれども、カレーライスや女子校生のセーラー服が、間違いなく現在の日本社会の伝統であるように、夫婦別姓も現在の日本の立派な/正式の伝統に他ならないこと


これら①~③は、最早、常識に属することであろうと思います。ならば、これら①~③を反芻するとき、蓋し、(実は、下記の()の認識は転記記事に登場する落合恵美子さんの先駆的業績なのですが、)この「漸増-漸減」の社会史的の背景もまた、

()栃木・群馬・山梨・佐賀も伝統的に「専業主婦」空白地帯というイメージもありますが、「近代日本A:江戸後期」の武家社会の文化が「近代日本B:明治・大正期」にかけて公家も含む一般の家庭にも流れ込む中で、他方、軍人を含む「勤め人」が庶民の間の<理想>的な職業となって行ったプロセスで「専業主婦」の概念が確立し、而して、戦後の高度経済成長期の中で<専業主婦>が社会層としても成立したこと

()「専業主婦」を必須のユニットとする家庭が日本社会で多数派を占めたことは、しかし、日本史上一回もないこと。現在は寧ろ「近代日本:A+B」に回帰しているとも言えること

()この潮流はマクロ的には(19世紀半ばから20世紀初頭にかけての)英米の近代的な家族の成立および変遷ともパラレルなこと

と言えるの、鴨。ちなみに、落合恵美子さんは、私が直接知る範囲で、現在の日本の社会科学系の<三大美人研究者>のお一人と私的に認定している方ですが(他は、恒吉僚子・東京大学大学院教育学研究科教授(比較教育社会学)と、落合さんと同じく京都大学大学院教授の高山佳奈子(刑法)さん!)、そんなことは取りあえずどうでもよいとして・・・。

蓋し、もし、上記()~()の理解がそう満更間違いではないとすれば、引用した産経msnが伝える日本社会の現下の変貌、加之、それを踏まえた「女性婚-専業主婦」の評価・分析には、(日本のみならず)近代の工業化した社会における、

(甲)家庭モデルの変遷
(乙)家事労働の貨幣価値の発生と変遷


の両軸の交点に問題を据える必要があるだろう。と、そう私は考えます。

ちなみに、後者(乙)の観点は、1970年代の欧米の「家事労働論争」(モダン・マルクス主義・ポストマルクス主義の三つ巴の論争;日本では、水田玉枝・教条主義的なマルクス経済研究者や共産党系の有象無象の論者・「江原由美子→上野千鶴子」を各々その<輸入総代理店格>とする鼎立)の、ある意味、<仲間内>でのみ通用する小難しい我田引水的言説よりも、例えば、アガサ・クリスティー『パディントン発4時50分』(1957)に登場する、現代社会における「家事労働力の不足」に着眼して大成功を収めるオックスフォード大卒のスーパー家政婦・ルーシー・アイレスバロウの活躍がより参考になる、鴨です。家政婦ミタではなくスーパー家政婦のルーシーですよ、為念。閑話休題。



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何を私は言いたいのか? 

それは、この「女性婚の漸増-専業主婦の漸減」の傾向をして、それを「女性宮家創設問題に飛び火しかねない問題」「女性婚は減少抑制すべき事象」と捉える、「女性宮家-女系天皇制」反対論者の一部に見られる認識と主張に対する異議申し立てです。

蓋し、「女性婚の増加→女性宮家の実現の可能性増大」といういう捉え方は正しいの、鴨。けれど、「女性宮家」を阻止するためにも「女性婚」もまた抑制されるべきであるし/抑制可能でもあるとは到底言えないだろうということ。

敷衍します。「女性婚の増加→女性宮家を容認する世論の拡大」という認識は正しいでしょう。しかし、「女性宮家を容認する世論の拡大の阻止→女性婚の抑制」という手段や施策は筋違いでもあり、何より到底不可能である、と。それは、一茶の「名月をとってくれろと泣く子かな」の寓話にも等しい主張であろうと。そう私は考えるのです。

蓋し、資本主義やグローバル化、ナショナリズムが<危険>であるからといって、あるいは、支那や韓国の存在が不愉快だからといって目を瞑ればそれらがなくなるとか、日本の国会で法律を定めれば、若しくは、日本の憲法を改正すればそれらの問題の重篤や存在の害毒を軽減できるということがおそらくないように、「女性宮家-女系天皇制」を阻止するための施策と「女性婚」を封じる施策とはおそらく位相を異にするだろうということです。


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畢竟、寧ろ、「女性婚漸増-専業主婦漸減」の現下の現実は、「女性宮家-女系天皇制」を阻止することが容易ではない/ならば、その阻止のための施策は更に練り直す必要があるという認識の契機であろうと思います。

パラドキシカルな物言いをさせていただければ、ゲーム理論を持ち出すまでもなく、もし、孫子の「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の箴言が洋の東西を問わず古今を問わず有効な箴言であるとすれば、「敵-己」のより正確な認識に誘うこの「女性婚漸増」の趨勢と情報は、寧ろ、「女性宮家-女系天皇制」反対の論者にとっては<天佑神助>でさえあろう、と。

保守主義からする「女性宮家-女系天皇制」肯定論を呼びかけている私としては(「余計な情報を漏らしてくれたわね」と些か苦虫を噛みつぶしながら)そう思っています。尚、保守主義からの弊ブログの「女性宮家-女系天皇制」肯定論3部作+総論については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

而して、全国の保守派の同志読者の皆様(あくまでもこの「女性宮家-女系天皇制」に関してですけれども、)よしんば主張の結論こそ違え、今後ともよろしくお願いいたします。そして、


б(≧◇≦)ノ ・・・日本のために共に微力を尽くさん!


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【保守主義からの女系天皇制肯定論-海馬之玄関ブログ三部作】

・「女性宮家」は女系天皇制導入の橋頭堡
 :「女性宮家創設をどう思う?」-私家版回答マニュアル
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60907124.html

・覚書★女系天皇制は<保守主義>と矛盾するものではない
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60896992.html

・女系天皇は憲法違反か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879735.html


【保守主義からの女系天皇制肯定論-総論】

・完全攻略夫婦別姓論要綱-マルクス主義フェミニズムの構造と射程
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59250899.html

・天皇制と国民主権は矛盾するか(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60944485.html

・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60899909.html

・覚書★保守主義と資本主義の結節点としての<郷里>(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60918924.html


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大昔のものですが、私の週刊愛読書『週刊金曜日』でおもしろい文章を見つけました。当時の同誌編集部の成澤宗男さんの筆になる戦争の本性についての記述。笑う門には福来る。同誌を私は健康のために毎週購読しているのですけれども、2012年の今も、この記事は「笑ってすますわけにはいかないもの」とも感じましたた。以下、引用。

この国は、戦争を自然災害と同じように見なすのが伝統なのか。太平洋戦争の空襲や原爆投下などが語られはしても、その「悲惨さ」が誰によってもたらされたのかという議論はこの六〇年間国民にとって関心外だった。「悲惨さ」を嘆くことはあってもそれらをもたらした権力者の行為は不問にされ、あたかも天災犠牲者を弔う感覚だ。

だが戦争や有事は、自然界で突如生じる天災ではない。人間の行為の産物であるから予測が可能で、英知を働かせれば回避や予防もできる。だが。こうした常識は今も通用しないようだ。その代表例が、これから全国津々浦々を包み込もうとしている「国民保護計画」だろう。(後略:「国家はデマで国民を戦争に導くのか 全国各地で始まった「戦時訓練」」,『週刊金曜日』2005年12月9日号pp.17-19所収)


まあ、昔も今も通用しない主張や認識のことを世間では「常識」とは言わないのでしょうが、この400字原稿用紙1枚にも満たない記事には大東亜戦争後の我が国で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義からの妄想平和主義の核心とも言うべき<世界観>が込められていると感じました。それは、我が優秀かつ勇敢なる自衛隊を違憲と捉えるだけでなく国家の自衛権をも否定するもの;そして、現在、行政法と憲法と国際法を無視して「無防備地域宣言の条例化」を推進しているカルト思想の基底と見られるものをです。

以下、(甲)「戦争は人為か自然か」→(乙)「人間は戦争を回避予防可能か」→(丙)「戦争に備える行為は戦争を誘発する危険な企てか/戦争を否定し戦争の準備を行わないことは戦争を誘発する危険な企てか」の三点につき検討します。

尚、引用した記事には、ご丁寧に無防備地域宣言運動全国ネットの事務局長・桝田俊介氏のコラム「無防備地域宣言は戦争に協力しない」(ibid, pp.18-19)が付随している。つまり、戦争の本性に関する『週刊金曜日』の考えは<無防備地域宣言運動>とも親近性があると思われるのです。これらを確認するために<無防備地域宣言運動>側の発言を一つ収録しておきましょう;滋賀県でこの運動にコミットしておられる方の提言。以下、「無防備地域宣言をめざす大津市民の会」事務局長・中川哲也さんの提言。

天災と違い、戦争は人間が意図的に引き起こすもの。ならば、人間の英知で戦争をなくすことは可能だ。無防備地域は「軍隊のない地域」の意。国際法と憲法9条を生かし、軍備を持たず、お互いが憎しみあわず多民族が共生できる社会を目指す。「武力で解決する」ブッシュ・小泉的思考から脱却し、「平和を愛する諸国民の公正と信義」(憲法前文)に住民の安全を託し、地域社会で戦争をなくすシステムを住民の手で作る。その核が無防備地域宣言と条例だ(以上、引用終了)


◆戦争は人為か自然か?
世に恐ろしいものの代表として「地震・雷・火事・オヤジ」と言います(尚、ここで本当は「オヤジ」は「大風=台風」なのですが、俗論の「親父=星一徹」のこととします)。而して、「火事」はいささか微妙ですが、地震や雷が自然現象であり天災であるのに対して、オヤジや戦争が「人間の行為の産物」であり「人間が意図的に引き起こすもの」、即ち、人為であることは取りあえずそう異論はないでしょう。

しかし、「自然界で突如生じる天災」は予測ができず予防や回避が難しいのに比して、「人間の行為の産物」や「人間が意図的に引き起こすもの」のすべてが予測可能で「英知を働かせれば回避や予防もできる」のかと問われれば、問題はそう簡単ではない。逆に、自然現象には法則性が見出されるのに対して、人為的事象には主観や運命が介在する余地が多く、寧ろ、自然現象は法則を活用したコントロールが可能なのに対して、「女心/男心と秋の空」の如き人為の制御は難しいとも言えるからです。

更に、根本的な問題がある、鴨。自然現象と人為の差は、実は、(N)その動因を人間以外のものに求めるか人間の行為や意志に求めるのかを基準にしてカテゴリー分けできるだけでなく、(H)その現象を<原因→結果>の因果関係で理解できるか、あるいは、<目的→行動>の目的連関で捉えられるのかという認識論的な違いによってもカテゴリー分けができるということ。そして、世の森羅万象の事物の、この「因果関係-目的連関」という二つの判定基準による自然と人為への分節(振り分け)は、相互に孤立した判定であり、相互に他の判定を否定も肯定もしないということです(老婆心ながら申し述べれば、例えば、大晦日にしこたま飲んだ結果の飲酒運転が引き起こす交通事故の如く、ある一つの同じ事象に因果関係と目的連関の双方が観察されることも希ではないということです。為念)。


◆戦争は回避可能か?
戦争の本性の吟味について「自然と人為の差異」をどのように捉えるか。私は<三次元マトリックス>とも言うべき認識枠組みを提案します。即ち、

世の森羅万森羅万象を(X)動因が人間の意志に起因するか否か、(Y)その現象の中に法則性が観察できるか否か、(Z)その現象を人間が制御可能か否か、という3対の軸でもって位置づければ、少なくとも、戦争の本性を考える作業を生産的にする、鴨と(★)。

★三次元マトリックス
三次元マトリックスによれば、地震・雷・台風・火事・オヤジ、そして、戦争は各々次のように表記できる、鴨。尚、下で使用する1行3列表記:例えば、(1:0:0)は(第1列)動因が人間の意志に起因する、(第2列)現象の中に法則性が観察できない、(第3列)その現象を人間が制御不可能という情報に対応するものです。

地震(0:0:0)、雷(0:1:0)、台風(0:1:0)、火事(1:1:1)、オヤジ(1:?:1)、戦争(1:0:0)、と。すなわち、何十年間隔での周期性が確認される幾つかの地震は(0:1:0)になり、あるいは、「雷が神奈川県東部で発生する」という精度なら(0:1:0)でしょうが、「今日の午後2時から5時の間に川崎市麻生区の新百合ヶ丘駅北口ロータリーに落雷する」かどうかという事態になれば(0:0:0)になるでしょう。また、統計的な観察からは火事の発生や交通事故の死亡事故は(1:1:1)かもしれませんが、一件一件の特定の火災や事故は(1:0:0)になるの、鴨。


私は何が言いたいのか。それは、人為だから予防と回避が可能とか、自然現象は予防や回避が不可能とは言えないということです。例えば、世界規模の大恐慌はケインズ革命以前には人為であったのでしょうが(ある程度予測は可能ではあったにせよ)予防も回避もできなかった。なにより、1973年のオイルショック以降、世界の経済成長率とある国家財政における社会福祉コストの増加率のギャップは現在でも基本的には解決されていません。畢竟、あるタイプの戦争もまたそうではないでしょうか。

而して、動因の観点からは戦争は人為かもしれないが制御可能なものばかりではない。このタイプの戦争は予防と回避が不可能という点では台風や地震などの自然現象となんら変わらないということです。


◆戦争に備える行為は有害か有益か?
戦争は人為かもしれないが制御可能なものばかりではないのではないか? 要は、戦争はなぜなくならないのか? 簡単です。領土問題・自国民の保護、国家の正統性の確保・国民経済の存立の確保、このような国家の存在と国民の生存を巡る幾つかのタイプの国際紛争において、人類は「戦争よりも効率的で効果的な紛争解決の手段」をいまだに手に入れてはいないから。畢竟、日本にとっての日清・日露の両戦役および大東亜戦争などはその典型例と言うべきものでしょう。

逆の方向から敷衍します。戦争を地上から消滅させる方法としては大きく次の五つがあるの、鴨と。即ち、1「兵器消滅型」・2「抑止力均衡型」・3「人類消滅型」、そして、戦争をできない<本能>を人類が後天的に獲得する4「突然変異型」。及び、戦争の主体たる主権国家がすべて消滅する5「国家消滅型」の五つです。

而して、4「突然変異型」と5「国家消滅型」は<問題解決の納期>を30年とか100年とかに制限するとすれば3「人類消滅型」とほとんど差のない理想論というかSFの世界の御伽噺の類でしょう。

また、1「兵器消滅型」での戦争の消滅を実現するためには、すべての攻撃兵器の破棄を全世界が「同時に始め」、また「同時に終了」しなければ意味がないと思います。どこかの国が抜け駆けをすれば、その意図は瞬く間に崩壊するでしょうから。よって、これまた非現実的であり、畢竟、人類に残された戦争をなくす方途は2「抑止力均衡型」しかないと私は考えるのです。

ならば、「戦争よりも効率的で効果的な紛争解決の手段」が発見されていない現在、戦争がなくなるケースは独り抑止力の上での均衡のみということになる。就中、理想的には、どのプレーヤーも(=主権国家もテロリスト集団も!)現在の状況を悪化させない限り別のより良い状況には入れないという「パレート最適モデルの均衡状態」を、可能な限り長く可能な限り広範な紛争において実現すること。それが「不愉快な正解」とも言うべき<戦争を巡る正しい認識>なのではないでしょうか。而して、実は、それが曲がりなりにも20世紀の二度の世界大戦を通して人類が実現しようと努力してきている方途に他ならないの、鴨。

畢竟、あるタイプの戦争が不可避である限り人類に許されているのは、戦争の発生をミニマムに抑え戦争が発生した場合には戦争が惹起する悲惨をミニマムにすること。言わば<戦争との平和的共存>だけではないか。ならば、戦争の惨禍をミニマムするために次の三点をたゆまず推し進めるべき、鴨。と、そう私は考えます。すなわち、

◇人類と戦争との平和的共存のためのスキーム

・兵器・法制度・国民意識のすべてにおいて戦争に備える努力
・戦争でなくとも解決できるタイプの国際紛争を漸次拡大する努力
・抑止力の均衡を維持しつつ、漸次、武力自体をミニマムにしていく努力


結論:戦争は人為ではあるが制御可能とは言えない。


この認識からは、戦争でなくとも解決できる国際紛争と戦争でなければ解決できない国際紛争の違いを理解せず、また、平和をもたらす抑止力の均衡を否定するが如き、憲法9条教の如き主張は、平和を希求するその美しい言葉とは裏腹に、世界の不安定化を招き戦争を誘発する危険なものである。と、そう私は確信しています。

尚、戦争を巡る現在の国際法の内容に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59856822.html

・「核なき世界」なるものを巡る日本と世界の同床異夢
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59797305.html



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ブログ同志のぬくぬくさん経由で、東京財団研究員の河東哲夫氏の記事を転記収録させていただきます。つまり、この記事は、Just for my referenceのものです。原著者・ぬくぬくさん、そして、読者の皆様、ご了承ください。

== 新年早々核武装論議 ==

 http://www.tkfd.or.jp/blog/kawato/2012/01/post_226.html

前から気になっていて、まさかと思っていたが、僕の主宰しているブログ、www.japan-world-trends.com に1click投票という欄があって、その「結果を見る」という個所をクリックしてみればわかるのだが、今後の日本の安全保障戦略として、中立を選択する人が実に全体の57%強に達している。そして、そのうち「核兵器を持った上で中立路線をとるべし」とする人が21.5%もいるのだ。僕などがかねがね支持してきた、「日米同盟を基礎として中国とも友好関係」という行き方は、もう24.3%の支持しか得ていない。

イラク戦争が強めた米国への反発、金融恐慌による米国の弱体化が、このような状況にまで日本世論を持ってきたのかと思う。日本国内はがたがたなのに。

まず「中立」を選んだ人たちのことだが、周りの情勢があまりに厳しすぎるから、「そっと放っておいてもらいたい」という気持ちが強いのだろう。そして実際には日本の大きさと力では、完全な中立とか自立が無理なこともわかっているのではないか。

今の自衛隊の兵力のまま「自立」したとすると、おそらく米国、中国、ロシアとこぞって日本の港を自国海軍のために使わせろと言ってきて、日本国内は大騒ぎの末、横須賀は米国、長崎は中国、のような割り振りをすることになりかねない。

経済面でもTPPなどやめて半分鎖国でもしたいのだろうが、それは自分たちの生活水準の多くは、輸出があるからこそ維持されていることを忘れてしまっているのである。輸出が減れば円の価値が下がり、それは日本国内でインフレを起こす。

では、通常兵力を充実させれば自立できるかというと、それにも限界がある。核兵器で威嚇されたらお終いだからだ。だから、「核を持ったうえで中立」を選んだ人は、その点を考えているのだろう。

日本が核を持っていないことは、例えば村田良平・故元外務事務次官も問題視していて、その「村田良平回想録」の中で種々のやり方を論じている。「回想録」下巻の318頁以下には次の大胆な言葉が続く(一部はしょってある)。

「私は、かねてから何らかの『引き金の共通化』の方式はありえないかと考えてきた(注:これは村田元次官が大使も務めたドイツが採用しているやり方。短距離発射の核爆弾に対して、ドイツ政府はNATOのアメリカ人司令官と発射決定権をシェアしているのである)。
核ミサイル装備の潜水艦で、米海軍と海上自衛隊の要員が共に乗員となっていて、基国から日本に対して核攻撃が行われた際には、日本の要員が米国製の核ミサイルを報復として発射するというシステム」
(注:要するに米国の「核の傘」の下にいるだけでは、本当に有事に傘を開いてくれるかわからないので、日本人が同乗して傘を本当に開いてもらう、ということ)

320頁には次の言葉がある。
「独自の核抑止力を持つとの日本の要請を米国も拒否できない日が、それ程遠くない将来到来する。米国がこれをあくまで拒否するなら、在日米軍基地の全廃を求め、併せて全く日本の独力で、通常兵器による抑止力に加え、フランスの如く限定した核戦力を潜水艦を用いて保持するというのが理論的な帰結。」
(注:勇ましいが、日本は米国と過度に対立すると、米国の仮想敵国となりかねない。身を守るのが目的なのに、かえって強敵を増やすことはない。それにここで村田元次官が言う態勢が整うまでに、20年はかかるだろう。これでは実用にならない)

村田元次官はわりとあっさり、核兵器保有論を唱えているが、核兵器を日本が持つかどうかを議論するに当たっては、次のことも考える必要があると、僕は思っている。

1.報復攻撃用の核兵器を日本が保有する場合、それは日本本土に置いてはならない。核兵器による先制攻撃の対象となりやすいものを本土に置くことは、危険である。

2.結局、潜水艦発射の核ミサイル(または核兵器搭載の巡航ミサイル)が日本にはもっとも適当だろう。これは、自力開発はほぼ無理だ。結局、村田元次官の言うように、米軍の核をシェアさせてもらうしかない。これを米国とどのように費用分担し、発射決定をどのように共同で行うか、の問題になる。

3.一連のシステムを独自開発、独自所有しようとするのは、時間がかかる上に、米国までも仮想敵国に回してしまうことになりかねない。

4.それに日本人は原子力発電であれ、国家統治であれ、大きな「装置」を強い指導力をもって動かす能力に乏しいのではないか。感情論に瞬時に傾きやすい世論を持った日本の政府に、核兵器を持たせていいのか?

-- 今回の日本核武装論の背景は、中国が強大化するなかで米国の力に陰りが見えていることだろう。だが米国経済は盛り返すだろうし、今の状況でも世界における米国の力は中国をはるかに上回る。中国は、米国に圧迫された国々にとっての駆け込み寺の存在を出ていない。

感情に動かされて、中立や核武装などの考えに飛びつくと、結局戦前の日独伊枢軸のような誤りを再度冒すことにならないだろうか。

(河東哲夫 日時: 2012年01月06日 01:35)



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== KABU感想 ==

現実場面では、河東さんと私の認識はほとんど同じだと思います。要は、

①現実の現下の国際政治において「中立」なるものが不可能である以上、また、②それがどんなに不愉快なことであれ、支那や韓国・北朝鮮という特定アジアが残念ながら日本の<隣国>であるという地政学的状況は変えられない以上、および、③現下、<鎖国>などは到底不可能である以上(実は、江戸期の所謂「鎖国」も一種の「管理貿易システム」にすぎなかったのですから)、

並びに、④日本は米国との枢軸関係を維持強化する他、安全保障においても経済部面においても繁栄どころかその生存も難しい、加之、⑤アメリカ国内の現実政治の力学を鑑みれば、日本がアメリカの「51番目の州」に格上げしてもらうことは極めて困難と考えるがゆえに、   


河東さんと同様に私も、

>「日米同盟を基礎として中国とも友好関係」


が、唯一可能な日本の現在の選択肢と考えているということ。

ただ、もちろん、私の考える支那との「友好関係」とは、「政凍経冷」を理想とする必要最小限の<お付き合い>はする、しかも、その<お付き合い>も確立した国際法と国際慣習に沿ったものに限るという意味ですけれどもね。


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而して、日本の核武装。この点、私と河東さんは些かニュアンスを異にしているの、鴨。蓋し、私は、「唯一の被爆国たる日本は、核武装する道義的な権利を持っている」と考えていますから。

また、ご案内の通り、現在の、「日本は個別的自衛権を国際法上も憲法上も保持しており、憲法はその個別的自衛のための必要最小限の武力の保持と正当な個別的自衛権の行使としての武力の行使を禁止しているものではない」という日本政府の解釈によってさえも、「核兵器の保有と行使」には何ら問題もありません。実際、この認識は岸内閣以来の日本政府の公式の立場でもありますから。

б(≧◇≦)ノ ・・・唯一の被爆国たる日本は、核武装する道義的な権利を持っている!
б(≧◇≦)ノ ・・・核兵器の保有と行使は現行の日本国憲法に抵触しない!


蓋し、例えば、廣島の平和記念公園にある原爆慰霊碑の文字列「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」は、「核開発が間に合わなかった過ちは繰り返しません 今度戦争するときは必ず勝ちますから 安らかに眠って下さい」という意味に取るべきであろう。と、そう私は考るのです。

畢竟、原爆投下も戦略爆撃も端的には国際法違反ではなく、大東亜戦争も日中戦争も、まして況んや、朝鮮併合など「こんな正当なことはない!」というほど正当なもの。国際法上は、現在でもそう言える。而して、「過ち」があったとすれば負けたこと。負け戦をしたこと。それだけとのことだろうということです。尚、この点に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・戦争責任論の妄想:高木健一『今なぜ戦後補償か』を批判の軸にして(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60939316.html


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敷衍検算します。この国の左翼・リベラル派のプロ市民の中には「唯一の被爆国たる日本は世界に核廃絶を求める道義的な権利を持っている」とのたまう人々がまだおられるようです。私は、実は、この主張は論理的に間違いとは思いません。なるほど、確かに、唯一の被爆国たる日本は、世界に対して核廃絶を求める道義的な権利を持っているの、鴨と。

けれども、重要なことは、

()この左翼・リベラル派の主張が正しいのと、少なくとも同程度には、「唯一の被爆国たる日本は核武装する道義的な権利を持っている」とも言えるということ。要は、(a)「唯一の被爆国たる日本は世界に核廃絶を求める道義的な権利を持っている」と「唯一の被爆国たる日本は核武装する道義的な権利を持っている」という命題は少なくとも同程度の論理的な根拠に基づいて主張可能であり、一方が正しいがゆえに他方が否定されるというものではない。

よって、(b)それらの命題の現実政治における規範としての効力は一重にその規範命題を受け取る人々がどちらの命題により説得力を覚えるのかという<法意識の競技場>でしか判定されないものだということです。

加之、()「唯一の被爆国たる日本は世界に核廃絶を求める道義的な権利を持っている」という命題や主張は、端的には(「世界」はその要求に従う義理は全くなく、)「世界の人々」を拘束できるものではなく、その現実の規範としての効力すなわち実効性は皆無と言ってよい。それに対して、「唯一の被爆国たる日本は核武装する道義的な権利を持っている」という命題の実効性は独り日本国民の法意識にのみ依存しており、その規範としての効力の具現は比較的容易であろうこと。


これら、()()を鑑みるに、法的側面から言えば、日本の核武装という事柄を阻止するものは、実は、皆無なのです。ならば、日本が核武装するべきか否かは、現実の国際政治を睨んでなされる「核武装のメリットとデメリットの比較衡量」に収斂するしかないの、鴨。

而して、そう考えた場合、現下の政治状況下では、日本は核武装の準備を怠らず、他方、「核の引き金」のアメリカとのシェアをも考慮すべきであろう。これくらいが、2012年の現下の現在の<正解>なの、鴨。と、そう私は考えます。

尚、この問題を巡る私の基本的な認識については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・「核なき世界」なるものを巡る日本と世界の同床異夢
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59797305.html

・集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59856822.html


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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済

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◆なぜこの時期に外遊? 谷垣自民総裁

自民党の谷垣禎一総裁が8日から5日間の日程でベトナム、インドネシア両国を訪問する。平成21年に総裁に就任して以来初の海外出張で、本人は「東アジア地域の経済連携のあり方、安全保障について幅広く意見交換したい」と意気込むが、政権奪還に向け正念場を迎えているときだけに、党内からは「なぜ今」「なぜ米国ではなく東南アジアか」と疑問視されている。【←「米国」でさえ行っている場合か?】

谷垣氏はハノイでグエン・タン・ズン首相と会談する。チュオン・タン・サン国家主席とも会う方向で調整している。だが、目立つ要人との会談日程はこれくらいで、インドネシアではユドヨノ大統領は不在で会えない。

谷垣氏周辺は当初、普天間飛行場の移設問題で米国との関係が悪化した民主党政権との対比を印象づけるため訪米を検討した。だが先んじる形で、昨年12月に石原伸晃幹事長が渡米したこともあり、見送った。訪米実現を目指した三ツ矢憲生副幹事長は東南アジア行きに反発し、辞意を表明した。しかも石原氏は米国で9月の総裁選出馬に意欲を示し物議を醸した。

谷垣氏は4日に伊勢神宮に参拝し、衆院の早期解散と政権奪還を祈願。5日の仕事始めで「不退転の決意で先頭で戦う」と語気を強め、6日も日本鳶工業連合会幹部による「木やり」での激励に「今年は間違いなく選挙の年だ。全力をあげる」と必勝を誓った。

正月から選挙区を走り回っている若手議員は「本当に解散に追い込む気ならこんな時期に海外に行くよりも地方を回るべきだ」と不満をもらす。

野田政権を解散に追い込めなければ、「ポスト谷垣」の動きが加速することは必至だ。
谷垣氏と距離を置く閣僚経験者の一人は「これが総裁の“卒業旅行”にならなければいいが」と皮肉たっぷりに語った。

(産経msnニュース・2012.1.7 01:25)



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解題不要、否、解題無用でしょう。

蓋し、”今”は民主党政権を解散総選挙に追い込むべき<秋>です。而して、

()解散権は向こうにある以上、そして、()口ではどう言おうと(国民が風邪をひいて、じゃなかった、選挙の風が吹いて当選しただけの民主党議員といえども一応「選挙のプロ」(=選挙で選ばれた「政治家」であることでご飯を食べている人達)なのですから、(a)民主党の衆議院議員の三分の二は次の総選挙では自分が落選すると、(b)更に、そのまた三分の二(全体の九分の四≒44.44%)は、自分がもう二度と国会議員のバッジを胸に着けることはないだろうと)冷静に読んでいることが確実である以上、

()どんなに無茶苦茶な理屈(?)を持ち出しても、若しくは、泡沫政党との野合や自民党議員の引き抜き等々、どんなに世間の顰蹙を受けようとも野田首相に民主党議員は解散はさせないだろう。



蓋し、上記()~()は子供でも分かる事柄ではないでしょうか。けれども、民主党政権下での国民の生存と日本国の存在の危機は、最早、悲憤慷慨を居酒屋や喫茶店、ラーメン屋やスパゲティー屋で論じてその憂さを晴らせるレベルの一線を越えている。これまた幼児にも87歳の後期高齢者の私の老母にも皮膚感覚で分かること。

ならば、畢竟、なにがなんでも解散をしないだろう民主党政権をして可及的速やかに解散総選挙に持ち込むには、こちら側、すなわち、こちら側の一応の主力のそのまた総大将であるはずの自民党とその総裁は、「24時間戦えますか?!?」の気合いで、通常国会の開幕まで獅子奮迅しなければならないでしょう。

要は、産業・金融・財政の諸政策コングロマリットによる景気対策、社会保障・税制、国防・安全保障、何より原発事故の収束を始めとする<2011年3月11日午後2時46分>の震災復興、これら最優先課題間の調整と課題内の諸施策に関する優先順位の具体的確定(トリアージ戦略確定)・・・。それらのプランを携えての全国行脚、支援団体への説明・啓蒙、マスコミジャック・・・。

要は、やること/やるべきこと山積。蓋し、

(甲)自民党の政策コングロマリットの明確化とその工程表の提示
(乙)上記(甲)を具体的なビジョンとキャッチフレーズに結晶させた上での
   国民・有権者への<営業>活動、そう、民主党政権批判と「政権再交代」
   という<商品>の宣伝


これらに自民党総裁は邁進するしかない。通常国会前に、通常国会のアジェンダをこちら側が決める。それがなければ、早期の解散総選挙などは豊関白の辞世ではないけれど「夢のまた夢」ではないか。ならば、現在は、アジェンダ確定のイニシアチブを取るために自民党と自民党総裁は全力を尽くす時ではないでしょうか。

畢竟、今やらないで、いつやる!
畢竟、今追い詰めないで、いつ民主党政権を追い詰める!


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けれども、寒さ厳しき新春のこと。谷垣氏が東南アジアに湯治(?)に行きたいのも人情として分からないではない(私的には谷垣氏の選挙区の近く城崎温泉の方がお薦めだけれども、まあ、それは個人の好みでしょうからね)。ならば、谷垣氏に言いたい。「行ってもいいから、ちょっと、成田か羽田に行く前に、その前に自民党本部に寄って「自民党総裁の辞表」を出して行ってね」、と。そう私は考えます。

尚、「政局」を軸にした、民主党政権と自民党に関する、現在の私の認識に関しては
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。


б(≧◇≦)ノ ・・・打倒、民主党政権~!
б(≧◇≦)ノ ・・・頑張れ、自民党~!
б(≧◇≦)ノ ・・・今が頑張りどきだよ、自民党~!
б(≧◇≦)ノ ・・・日本のために共に闘わん~!



・消費増税法案☆首相「不成立なら解散」と首相経験者に伝える? 
 なに言ってんの、増税前に下野か解散でしょうよ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60961380.html

・稲田朋美氏を総裁にの声について考える
 -「真正保守」なるものは百害あって一利くらいのものでしょう
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60961253.html


テーマ : 自民党
ジャンル : 政治・経済

川澄ちゃん
  '''nana-san's image in KABU's mind'''


本稿はブログ友のnanaさん、福島県浪江町で<2011年3月11日午後2時46分>に遭難され、「原発避難者」として現在は北関東の某県に移られたnanaさんの「怒りの転記記事」のKABUによる「怒りの転々記記事」です。尚、転記元に紹介されている評論はweb版の『現代ビジネス』にアップロードされた伊藤博俊氏のもの(↓)です。

・伊藤博俊氏の評論
 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120105-00000001-gendaibiz-pol

而して、nanaさんの、そして、もう一人の「原発避難者」のブログ友、福島県南相馬市(←弊ブログでは、福島県相馬・双葉地区のことを「アイアン地方」と呼ぶこともあります。)で東日本大震災に被災されたアイアンさんの「叫びと思念」に関しては下記を是非ご一読ください。お薦めします。

・転記転載☆福島県浪江町-取材放送のお知らせ
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60731163.html

・東日本大震災が<浸透>していく情景:牛乳屋さんの訃報
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60893927.html



== 現代ビジネス・伊藤博俊氏の評論 ==


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放射性物質汚染対策特別措置法(特措法)が、1月1日に施行され、東京電力福島第一原発事故で発生した放射能汚染土壌の除染活動が本格化する。

除染活動は、福島復興の第一歩である。そして原発事故は東電に第一義的責任があるとはいえ、国の原子力政策の一端を押し付けたのだから国も“同罪”であり、特措法で住民を強制避難させた警戒区域や計画的避難区域を、「除染特別地域」として国が直轄で除染するのは当然のことだろう。

だが、この除染作業は、すべての住民に帰還を促すものではない。除染には限りがないし、どんなに人手と最新の除染技術を投入しても、住環境を整えられない地区もある。

それを見越して、細野豪志原発相、枝野幸男経済産業相、平野達男復興相の3閣僚が、12月18日、福島市を訪れて、佐藤雄平福島県知事らに、避難地域の見直しと帰宅困難地域の設定を伝えた。


*** 住民ではなく国家にとってのメリット ***
原発事故後、政府は機械的に「同心円避難」を促し、20キロ圏内を警戒区域、20キロから30キロを避難に備える緊急時避難準備区域とした。その後、風向きによって汚染度が高い地区を計画的避難区域として避難を促した。

その区分を、地上から高さ1メートルの放射線量の年間換算で、50ミリシーベルト以上の帰還困難区域、20ミリシーベルトから50ミリシーベルトまでの居住制限区域、20ミリシーベルト未満の避難指示解除準備区域の三つに組み直した。

区分けの再編は、野田佳彦首相が12月16日に行った「事故収束宣言」を受けて行われたものだけに、一般には、正常化(避難住民の帰還)へ向けた動きということになろう。だが、その裏にある民主党政権の思惑は、「福島を除染ゴミと使用済み核の最終処分場に」というものではないだろうか。

そう思うのは、菅直人政権の頃から政府が、「住環境に戻れない地区がある」というのを自覚、その汚染の激しい地区の将来的な国有化と、そこを核汚染物質の処理場とする案を密かに温めていたからだ。

私は、このコラムの5月19日付けで「試算では費用1兆4100億円 菅政権が言えない『原発被災地の国有化』というタブー」という記事を書いた。「放射線量が高く、土壌汚染が進み、子供を屋外で遊ばせることができない環境の土地は、国が買い上げるしかない」という政府関係者の声を紹介、そこには①国の責任の明確化、②被災者の前向きな希望、③エネルギー政策への有効活用、という三つのメリットがあることを指摘した。

当時、松本健一内閣官房参与が、「原発周辺には20年は住めない」という「菅首相発言」を伝え、菅首相が烈火のごとく怒り、訂正したことがあるが、その真偽はともあれ「将来的に住めない土地」が発生するのは、誰しもわかっていた。

12月18日の帰還困難区域の設定は、事故から9カ月が経過、「もう戻れない」という“諦め”が住民に芽生えたことを織り込んでのものである。

そのうえで、「エネルギー政策への有効活用」というメリットの追求も始めた。もちろん住民にとってではなく、国家にとってのメリットである。そこには、国有化した土地を除染で発生した汚染土壌などの中間貯蔵施設として利用したいという民主党政権の思惑がある。


*** 先送りしてきた使用済み核燃料の処理 ***
すでに、12月28日、福島県を訪れた細野豪志原発・環境相と高山智司政務官が、「双葉郡内での貯蔵期間30年以内の中間貯蔵施設の設置」を要請した。「30年以内」は、政権交代しても守る約束というのだが、当事者の大半がどうなっているかわからない約束など、到底、当てにならない。

原発は、「科学技術の永続的発展」をもとに推進されてきた。その技術への盲信が原子力村の「安全神話」につながり、それが今回の地震や津波を「想定外」にした。要は、自分の代では責任を取りたくないという意味での先送り。あれだけの大惨事を経て、日本の政官界の“性根”は変わらない。

その先送りの最たるものが、使用済み核燃料の処理だろう。

核廃棄物の処理場が日本にはない。「トイレのないマンション」といわれるゆえんで、どの原発も使用済み核燃料を原発内のプールに溜め込んで、冷やし続けている。

将来、この使用済み核燃料は青森県六ケ所村の再処理工場に持ち込まれ、取り出されたプルトニウムで高速増殖炉を稼働させ、残りをガラスで固めて高レベル放射能廃棄物とし、これを最終処分場で数万年かけて冷やすことになっている。(中略)


*** 応募自治体がひとつもない実情 ***
最終処分場探しを新たに行うのは、不可能と言っていい。(中略)再処理工場と各原発に溜めこまれた使用済み核燃料は、すでに満杯に近く、いつどんな不測の事態が発生するとも限らない。民主党政権も電力業界も、「国有化した福島原発周辺地、なかでも廃炉となる福島第二原発とその周辺地が最終処分場に相応しい」という“本音”を隠し持っている。

こちらが表面化するのは、汚染土壌などの「中間貯蔵施設」という名の最終処分場より時間がかかるだろう。福島県民の激しい反発も予想される。しかし、どこかの時点で、民主党政権は理解を求めざるを得ない。

そのために、時間をかけカネを投じて容認させる――。

その発想は、原発建設の時と同じであり、それが原発行政を継続する政権の“悲しき宿命”なのである。


(元記事が転記する評論はここまで。尚、転記文中の「太字」
 nanaさんによる強調箇所。以下nanaさんのコメント)


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== nanaさんのコメント ==


政府の本音といって、間違いないと思いますよ、私は
わかっていても だれもくちにしなかっただけのことかと・・

避難者が、〔政府に〕生殺し状態で放置されてるのも
帰れないんだ・・とあきらめの念が出てくるのを待ってい
るからだ。と、私は思います。

年よりはもちろんだけど
死ぬときは、うまれそだった場所で死にたい
なんていう中高生に対して

政治やさんの要人としてではなく、
大人として、(たぶん)人の子の親として
どう考えているのか、聞いてみたいんですが、私。

(2012/1/5(木) 午後 3:32)


http://blogs.yahoo.co.jp/nana7pannda8/38979320.html


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== KABUの解題、若しくは、感想 ==


б(≧◇≦)ノ ・・・・・・ ・・・・・・


あまりの怒りと共感に声がワープしてM78星雲に飛んだ図


(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。


尚、原発問題を巡るKABUの基本的な考えについては
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・放射能の恐怖から解脱して可及的速やかに<原発立国>に回帰せよ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60935787.html

・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60908495.html

・事故を乗り越え福島とともに進む☆原発推進は日本の<天命>である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60450789.html


福島原発事故が惹起した放射線被爆などは全く問題にする必要のない程度の<危険性>しかありません。そう私は考えています。けれども、それが<危険>かどうかは別にして、<危険である>という前提で法整備もなされ、行政の実務も運用さてきた。このことは、それが放射線被曝を巡る科学的な危険性論からはいかに馬鹿げたことであれ尊重されなければならない。

つまり、「止まれ」の交通信号や「郵便ポスト」の色が赤色である必然性はないけれど、社会的にそれが、赤なら赤に決まっていることには意味がある。このような、()あるルール内容に本来は必然性はないけれど、()なんらかのルールが社会的に決まっていることには、()これまた社会的に意味があるタイプの問題を「調整問題」と言います。而して、放射線被曝の許容値(就中、低線量・積年・平準の被爆に関する法的な上限設定)は、典型的な「調整問題」であろうと思います。

蓋し、ならば、福島原発事故を受けて政府が行うべきは、

(甲)放射線被曝許容値を(少なくとも事故時には)100倍から200倍引き上げること、あるいは、(乙)既存の許容値を前提に可能な対処メニューとそれにり生起する事態の(例えば、GDPの20%低下および福島県・宮城県の無人化等々の)シミュレーションを国民に開示すること、若しくは、(丙)これら(甲)(乙)の両方であったと。


政府がやるべきことは実にシンプルかつ明瞭であった。と、そう私は思います。いずれにせよ、少なくとも、国会と皇居、防衛・財務・経産・環境・総務・外務の主要官庁は福島県アイアン地方に、少なくとも、向こう30年間は<遷都>すべきとも。

而して、原発問題に対する民主党政権の対処が、破廉恥なほど犯罪的なほど拙劣で無惨だったのは、この問題が「調整問題」にすぎない/「調整問題」ではあるという問題の本質に目を瞑り、既存の平時の原発事故処理スキームで対処し続けたこと、鴨。

畢竟、「政治主導」なるものを掲げた民主党政権は自民党政権よりも、おそらく、支那の共産党政権よりも遙かに「官僚的な政権」であった。と、そう私は考えます。


(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。


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テーマ : 地方再生
ジャンル : 政治・経済




◆アメリカ大統領選挙というクラインの壺:Federal Democracy

なぜ、「州毎の勝者総取り方式:Winner Takes All」はアメリカの政治文化に根ざしていると言えるのか。それは、アメリカ憲法の解釈改憲によって漸次連邦政府の権限が強まってきているとはいえ、歴史的にも憲法的にも現在に至るもアメリカは独立性の高い「諸邦」が連合した連邦国以外の何ものでもないからです。

ことほど左様に、アメリカは各々相矛盾する「連邦制」と「主権国家=国民国家」、および、「自由」と「民主主義」が紡ぎ出す、謂わば「二重螺旋構造の緊張関係」の上で建国以来その形を漸次変えてきたと言えるでしょう。蓋し、「National Republic」若しくは「Federal Democracy」という(「燃えない火」や「液体の氷」ほど形容矛盾には陥ってはいないものの、ある意味、空想上の)「麒麟」や「鳳凰」を追い求めてきた歴史がアメリカの国家と憲法の歴史だったの、鴨。

例えば、1787年制定の合衆国憲法を支持する連邦派(フェデラリスト:ワシントンを頭領に戴きハミルトンとアダムス率いる中央集権派)とこれに批判的な反連邦派(アンチ・フェデラリスト:ジェファーソン率いる州権擁護派)の二つがアメリカ建国後最初の政治的党派。一応、前者が今日の共和党、後者が民主党の源流とされますが、最初期には後者の反連邦派が自派をリパブリカン(共和派)と名乗ったのでややこしい。

また、フランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)以降は、民主党が大きな政府による福祉国家を、共和党が小さな政府による自己責任の原則が貫徹する自由な国家社会を標榜しており、「州権の擁護-連邦政府の権限拡大」という対立軸でアメリカ政治史を鳥瞰することは現在でも有効ではあるものの、共和党と民主党の政治的立場は歴史的には「あざなえる縄の如き様相を呈してきた」と言わざるを得ないと思います。閑話休題。


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日本では親米保守派に対して「そんなにアメリカの<ポチ>になりたかったら51番目の州にでもしてもらえば」と揶揄されることもままある。

けれども、日本が51番目の州になった場合(2010年の人口統計では)538人の選挙人の128人が「日本州」に割り当てられることになり、この場合、カリフォルニア州は「55人→39人」に減少します。蓋し、既存の州の政治的な影響力を著しく減じるこの結果を鑑みれば、政治力学的な観点からはアメリカが日本の州としての加盟を認めるはずがないことは自明でしょう。

畢竟、アメリカは地方自治旺盛な国どころかやはり連邦制の国である。よって、アメリカの政治指導者はこの政治の原理を体得した人物にしか務まらないの、鴨。

而して、フランクリン・ルーズベルト大統領から現在のオバマ大統領まで、第二次世界大戦以降の13人の歴代アメリカ大統領の中で州知事経験者は5名と38.46%を占めていることも(前マサチューセッツ州知事であった共和党のロムニー氏が大統領に当選すれば、第二次大戦後の6人目の州知事経験者の大統領になり、知事経験者の占める割合は42.86%になることも、)偶然ではないのだと思います。


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◆アメリカを貫く保守主義の心性とエートス

アメリカの政治は諸州と地域に根ざしている。本当のアメリカの心性はニューヨークやカリフォルニアの浮ついたリベラルな表層ではなく、中西部から南部を大河のように貫く大草原にこそ横たわっている。

実は、私自身、まだインターネットが普及していなかった20年近く前にこのことを皮膚感覚であらためて体感したことがあります。1980年代半ば、無線を使った遠隔地教育のあり方を見学させていただいていた、中西部はミネソタ州のある大学のディスタンスエデュケーションの光景が今でも目に浮かぶということ。

それは、ちょうど、3月上旬のこと、それこそ隣家まで車で30分という大平原に住んでいる高校生から「HarvardとUniversity of Chicagoからどちらも奨学金付きでアドミッション(合格通知)が来ました」と無線が入ったとき、そのデパートメントの全スタッフが歓声をあげた光景をです。



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現在の世論調査の結果通り今回の大統領選挙は、中道左派のオバマ候補または中道右派のロムニー候補の勝利で終るのかもしれません。そう私も思います。コースト・ツー・コーストで幅広い有権者の支持を獲得して、日本で言えば「真正保守」なるイデオロギー過剰な候補では、最後の勝利を、11月第1月曜日の次の火曜日の<関ヶ原>で収めることは難しいでしょうから。

しかし、民主党が勝とうが共和党が勝とうが、アメリカの本質は「健全なる保守主義」にこそある。要は、伝統の尊重と、左右の教条主義への懐疑、加之、小さな政府を好ましく感じ、自己責任の原則に価値を置く心性こそアメリカのエートスの基盤である。と、そう私は考えます。

ならば、「the 99%」なるルソーの「一般意志」ばりの妄想が(要は、この世に「the 99%」という具多的な個人は存在せず、まして、「the 99%」の具体的な利害なり特定の政治的意思なるものも存在しないのです!)世間を騒がせたことに端的な如く、アメリカ社会の閉塞感を打破するには、「茶話会運動:Tea Party movement」に具現するアメリカの健全な保守主義を尊重する政策しかどの政権も取れるはずはないとも。

蓋し、このことは、「the 99%」が、結局、二大政党を通じても第三の政党を押し立てるにせよ今回の大統領選挙に駒を進める、資金力もなく政策の統合もできないでいるのを尻目に、「Tea Party」に親しいリバタリアンは第三の政党を通じても、あるいは、既存の二大政党を通してもいずれも大統領選挙に大きな影響を与えていること。このことを見ても(おそらく、誰が共和党の大統領候補になろうとも、大統領候補か副大統領候補は間違いなく保守派の人物が指名される趨勢であることからも)これはそうそう荒唐無稽な私の願望ではなかろうと思います。尚、アメリカ大統領選挙における「副大統領」と「宗教」の持つ意義については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・2012年大統領選挙の火蓋切られる

 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60963193.html


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ことほど左様に、世論調査の描く状況を超越した/貫く「地域に根ざしたUnited States」としてのアメリカという現象に思いを馳せる時、私は、自己責任の原則と隣人愛の精神に価値を置くアメリカの人々の心性を連想せざるを得ないのです。

先の実体験に引きつけて敷衍させていただければ、ウィスコンシン州やアイダホ州の、地平線を望む大平原に育ちながら、国家レヴェルの競争に参加して能力開発を怠らない、健全な野心と潔い自己責任の姿勢に満ちた1人の女子高校生がいたとすれば、そんな彼女をアメリカという社会は応援し彼女の存在を誇りに感じる社会である。すなわち、アメリカは彼女に遠隔地教育の便宜を与え奨学金を手配して、彼女のハーバードやシカゴ大学への進学を支援してやまない社会ということです。

加之、更に実例を加え敷衍します。
それはアメリカ出張の帰りに偶々隣に座った在日米軍兵士との出会い。

20歳の空軍兵士。彼女は感謝祭の休暇を郷里のモンタナ州ですごして東京に帰る途中でした。そう、家庭が貧しく、また、奨学金を獲得するGPA(高校の成績)も取れなかった田舎娘。彼女は、しかし、グラフィックデザイナーになる夢を叶えるため、大学・大学院に進む機会と資金を得るために、迷わず軍隊に志願したとのこと。


而して、自己紹介がすんでから成田に着くまでの10時間余り、私がアメリカの大学・大学院をクライアントとするコンサルタントと知るや、彼女からは、日本駐在中の進学準備のノウハウ(就中、中近東や南アジアに移動している際の米軍内の大学とe-learning併用のノウハウ)、そして、日本での就職のTipsを求める質問の嵐でした。しかも、情報のgive and takeのマナーを弁えた清々しい嵐。

Ask, and it shall be given you;
seek, and ye shall find;
knock, and it shall be opened unto you. 


そう、「求めよさらば与えられん!」なのです。アメリカの社会では、give and takeとAsk, and it shall be given youのマナー、並びに、僅かばかりのユーモアと勇気があれば、そして、十分な努力があれば与えられるのです。各人が欲してよいものがですよ。

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而して、「アメリカ軍の兵士は貧困層出身者が多い、戦死者もよって出身家庭の所得に反比例する」等々の左翼・リベラル派の物言いは、彼女の前向きの姿勢、芳紀二十歳のレディーが漂わす気品に比べればいかにさもしく薄汚れたものか。

そのような左翼・リベラル派の物言いは、それが嘘でも本当でも、本当でも嘘でも、(与件としての不平等と個人の個性としての能力差が、寧ろ、自然である人間の現存在性のあり様を鑑みれば)問題を解決するという意味での正解にはけっしてたどり着けない不平不満にすぎない。それは、事実認識としては間違いではないのだろうけれど、与えられた人生を良く善く強く生きるという目的のためには不毛なもの、すなわち、自己を<神>の高みに置く、無責任な評論家の傲岸不遜にすぎない。と、そう私は考えます。

畢竟、彼女達の心性とその心性を受け止めるアメリカ社会のエートスは、貧困からの脱却や自己実現が思うようにいかない現状を連邦政府の無策に帰してこと足れりと考えるリベラルなsomethingとは好対照をなす保守主義の発露・顕現であるとも。

而して、そのような「保守主義の粋が息づく社会」は日本の社会統合の理念とも極めて整合的ではないでしょうか。ならば、この20年の間に、アメリカが世界唯一の超大国から極普通の世界一の大国になった現在、他方、日本がその安全保障においても国際政治・経済においてもアメリカとの枢軸関係に頼らざるをえない現在、蓋し、日本はアメリカに何かを期待することはそろそろ止めて、政治的と社会的の価値を共有するこの唯一の同盟国のために何が貢献できるかということをこそ考えるべきである。

2012年の大統領選挙の火蓋が切られた(日本時間・2012年1月4日の)今回のアイオワ州の共和党党員集会(Iowa Republican caucuses)の日、私はそう考えました。

尚、アメリカ大統領選挙に関しては下記の拙稿と「Yahoo検定」をご参照くだされば嬉しいと思います。

・来年はなんの年? アメリカ大統領選挙-観戦資格検定案内

 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60927803.html



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テーマ : 2012アメリカ大統領選挙
ジャンル : 海外情報

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