民主党政権は国家観を欠いている。これはしばしば指摘されることです。実際、「日本列島は日本人だけのものではない」と言い放った鳩山首相、在日韓国人から政治献金を受けていた事実が発覚したにもかかわらず毫もそのことの重大さを理解しているとは思えない菅首相。そして、「竹島は日本の領土ではない」という韓国国会議員の宣言に何憚ることなく署名してしまうその菅首相の側近議員等々。これらのことを見れば、民主党政権に日本の国家権力を担っているという意識と気概が欠落していることは間違いないでしょう。

しかし、私は民主党政権が孕んでいた問題は国家観の欠如ではなく、むしろ、それに憑依する国家観の歪さではないのか。すなわち、民主党政権とは<国家>なき国家論の稚拙な暴走ではなかったのか。と、そう考えています。

而して、本稿は前稿「民主党政権とは何だったのか」の続編であり補足。よって、繰り返しになりますが、なぜ民主党政権が誕生したのか、この点に関する認識を確認した上で本稿の考察に進みたいと思います。

・民主党政権とは何だったのか
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11152117937.html


なぜ民主党政権は誕生したのか? 
あるいは、民主党政権とは何だったのか?

蓋し、私はそれを、()現実的に<政治>が実現不可能な要求を、()現実の政治において極めて拙劣な政治スキルしか持ち合わせていない政党が国民有権者に実現を約束して政権を奪取した事象であり、而して、()<政治>には外在的と内在的の限界があることとともに、()<政治>が国家社会統合というイデオロギー的機能をその死活的に重要な役割としていることを、()この悲劇的現状を通して、日本国民が学習した事態である。

と、ある種、楽観的に総括しています。    
以下、敷衍します。


◆ゲームの意味の変化とゲームのルールの変化

再々になりますが、民主党政権の誕生は自民党一党支配体制の終焉に他なりません。自民党政権末期のこの社会を覆っていた閉塞感に耐えかねた多くの有権者は民主党に一票を投じたと言えるのではないでしょうか。

では、その閉塞感の正体とは何か。蓋し、それは、冷戦構造崩壊に象徴されるグローバル化の昂進にともなう(ビジネスにせよ国際関係にせよ、老後の生活にせよ就職や結婚にせよ)社会の予測可能性の低下を背景とした、<政治>のゲームのパフォーマンスへの不満であり、而して、民主党政権は(そして、ある意味、小泉構造改革も)<政治>のゲームのルールに対する異議申し立てを世論に問うことで政権を奪取したの、鴨。

予測不可能性とリスクの増大。すなわち、日本の相対的地位の低下、相対的に縮小するパイの大きさに反比例して拡大し機能不全に陥ってきた、①中央と地方の格差、②世代間格差、③国から地方への援助システム、④世代間支援システム。他方、冷戦構造崩壊の中で国家主権の原則に基づき見直されるべき、日本の安全保障政策に対する、あるいは、対特定アジア外交や日本の近現代史認識に対する事なかれ主義的で理不尽な<戦後民主主義の歴史観>の跋扈延命。そして、言うまでもなく「政財官+労組」のアンシャンレジューム体制の存在、等々。

これら誰が見ても、<政治>が今改革すべき現状を支配するルールが、しかし、他方、この社会の人々の(例えば、進学先・就職先の決定においても)行動のルールとして厳然と効力を維持してきていることが閉塞感の正体ではなかったのでしょうか。もちろん、例えば、かってこの社会に流布した、「番町小学校→番町中学校→日比谷高校→東京大学法学部→大蔵省」という程の予測可能性は現在では、進学においても就職においても婚活においても最早機能してはいないでしょう。けれども、大なり小なり、自分が忌避するルールに取り敢えずは従わざるを得ない現実が自民党政権末期のこの社会を覆っていた閉塞感の核心であったのではないか、と。

而して、民主党は、自民党政権末期、この<政治>というゲームが醸し出していた閉塞感を「政治主導=官僚支配の打破」というゲームのルールの変更を通して払拭できると喧伝して政権を奪取した。そして、所謂「事業仕分け」とはそのようなルールの変更の一斑であったのかもしれない。けれども、そのルールを変更するには民主党の政治スキルはあまりにも稚拙であっただけでなく、彼等が標榜した「政治主導」ということの中には論理的に不可能な事柄も少なからず含まれていた(後段に関しては下記拙稿をご参照いただきたいのですけれども)。と、私はそう考えています。 

・民主党政権の誕生は<明治維新>か<建武新政>か
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11151958277.html

・政治主導の意味と限界
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11142630431.html

・「事業仕分け」は善で「天下り」と「箱物」は悪か
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11152087452.html


上記の考察を整除すれば、

(甲)グローバル化の昂進、すなわち、①資本主義的な生産様式の波及と徹底、②「科学技術=人類の生産力」の向上、③「人物金+情報」の移動流通の拡大と高度化、④予測不可能性の増大等々の諸傾向中で主権国家が行ないうる<政治>の影響力は反比例的に縮小してきた。

他方、(乙)同じくグローバル化の昂進の中で主権国家の社会統合維持のイデオロギー的機能の重要性はグローバル化の度合に比例して増大してきた。

畢竟、(丙)民主党政権とはこれら(甲)(乙)を共に看過して、かつ、ある種の「国家観-機械論的な国家論」、すなわち、権力の万能感を抱きつつ主権国家の<政治>がグローバル化の波濤に抗してその国民に保障すべき「日本国民としての一体性という政治的神話」のメンテナンスを放棄したものである。

    
わずか数百人のカルト教団が当時世界第二位の経済大国の首都で同時多発的に化学兵器によるテロを惹起できる生産技術の高度化と流通が現実のものとなっている人類史の現在。あるいは、テロネットワークが世界の唯一の超大国に対して民間旅客機を用いて自爆テロを敢行できるようなグローバル化の昂進した人類史の段階に我々が生きていることを想起するとき私はそう断ぜざるを得ないのです。

而して、近代国家を取り巻く人類史の変遷にともない近代国家の<政治>のゲームの意味も変化したのだろうし、よって、その<政治>のゲームのルールも変化されなければならない。けれども、小泉政権がその端緒を見事につけたのとは異なり、民主党政権は、ゲームの変化も理解できず、よって、ゲームのルールの変更を行なうこともできず、単に、ゲームの意味の変化という与件に掉さして政権を奪取したにすぎない。それは、伝統に基礎づけられた国家観を欠く、機械論的な「国家論=権力論」の暴走だったのかもしれません。


◆民主党政権に憑依する歪な国家観
機械論的な国家論。すなわち、伝統と文化と歴史を軽視する権力に対する万能感ゆえにか、民主党政権はグローバル化の昂進著しい現在、主権国家の<政治>に不可能なことを可能と錯覚した。他方、民主党政権は、グローバル化の昂進著しい現在であればこそ主権国家としての日本における<政治>がフォローすべき使命を放棄した。それは、伝統と歴史を苗床とした日本人としてのアイデンティティーを日本国民に供給しつつ、この社会を社会的に統合するイデオロギー的責務です。

この点を、このブログでも何度か引用してきましたがゲルナーはこう述べています。

ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。それは、偶発的なものでは決してないのであって、それ故簡単には拒めないであろう。

【出典:アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)
 引用は同書(岩波書店・2000年12月)p.96】
  


ナショナリズムと近代の「主権国家=国民国家」の関係についての私の基本的な理解については下記拙稿をご参照いただきたいのですが、もちろん、この世に普遍妥当な「日本人」なるものは存在しないでしょう。「民族」も「国家」も、よって、「日本人」も「日本」もゲルナーが喝破した通り、ある種、近代に特殊な歴史的な観念形象にすぎない。

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html


けれども、日本国が「私は日本人である」あるいは「日本人がマジョリティーを占める社会でそのマジョリティーの支配を尊重しつつ生きている外国人である」と考えている人々、日本国民と日本市民によって構成されていること、そして、それら社会学的に観察可能で現象学的に理解可能な社会的意識によってこの社会の安寧秩序が保持されていることもまた事実ではないでしょうか。

ならば、そのような政治的神話としての日本人としてのアイデンティティーをメンテナンスすることは<政治>の最重要事項というべきであり、よって、「日本列島は日本人だけのものではない」と言い放った首相、在日韓国人から政治献金を受けていた事実が発覚したにもかかわらず毫もそのことの重大さを理解しているとは思えない首相。そして、「竹島は日本の領土ではない」という韓国側の宣言に署名してしまうその首相の側近議員を抱える民主党政権は、近代国家におけるナショナリズムの重要性を理解できていない、<政治>を担う資質に土台欠けていたと言うべきではないか。それは、<国家>概念を欠く歪な国家観、畢竟、国家なき国家論の稚拙な暴走だったの、鴨。と、そう私は思います。

国家は幻想にすぎない。それは、地球市民や国際社会が幻想にすぎないのと同じです。要は、国家は「擬制=幻想」にすぎない。けれども、その社会を構成するメンバーが国家という幻想を抱いているということは間違いのない事実であり、国家という擬制に基づいてこの社会の(否! 世界中の)人々が生活していることも明確な事実なのです。

而して、国家が幻想にすぎないとしても、正に、幻想や擬制そのものとして実体的な影響を国家は人々の人生や運命に及ぼしている。幻想はそれが幻想すぎないからといってその存在意義までも否定されるわけではないのです。

畢竟、グローバル化の昂進著しい現在、グローバル化の大津波の渦中に放り込まれながら社会生活というゲームで七難八苦に対面する運命を与えられているのが現在の人類史段階にある人間存在であり、そのような大津波が恒常的に押し寄せる国際政治や社会生活というゲームの中で自己の個性を華咲かせ感動に満ちた人生を享受したいと切に願っているのが人間の現存在とするならば、「日本国」や「日本人」という幻想が、この社会統合を維持して、グローバル化の獰猛な波濤から個々の日本人を護り、個々の日本人の願いを実現することに少しでも有効であれば、国家という幻想を社会においてメンテナンスすることは日本の<政治>にとって死活的に重要な責務であろう。而して、ナショナリズムと異質な民主党政権の機械論な国家論はこれらの<政治>の責務とは相容れないものであった。と、そう私は考えています。

尚、政権交代の背景と自民党再生のための施策に関する私の基本的な考えについては、
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・稲田朋美氏を総裁にの声について考える
 -「真正保守」なるものは百害あって一利くらいのものでしょう
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139942597.html

・政権奪還の順路☆自民党に期待すること/期待すべきではないこと
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139938039.html


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民主党政権の瓦解、あるいは、民主党の消滅は最早秒読み段階に入ったと言えると思います。而して、そのような現在の段階で、「2009年の政権交代」の意味、すなわち、その事態に至るプロセスで、自民党一党支配体制の負の側面が露呈するとともに、その自民党政権が自滅した中で起こった「民主党政権発足-大東亜戦争後初の実質的な政権交代」がどのような社会的と歴史的な構図を背景にしていたのか、民主党政権によるこの国の国力の低下と社会機能の劣化という<歴史の教訓>を無駄にしないためにもこのことを、その民主党政権の黄昏がいよいよ深くなってきた今考えておきたいと思います。

民主党政権とは何だったのか。

この問いに答えることはそう難しくないのではいでしょうか。畢竟、民主党政権の誕生とは、<政治>に期待すべくもない過大なクレーム(要求)を掲げた、自民党に比べるまでもなく力量的に極めて拙劣な政治勢力が政権を奪取したものに他ならない。そして、その悲惨な結果は最早「ヒストリー=周知の事実」であろうと。

◎民主党政権誕生の意味
現実的に<政治>が実現不可能な要求を
現実の政治において極めて拙劣な政党が実現を約束して
政権を奪取した日本と世界の悲劇 


カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(1852年-1869年)の劈頭では「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現われる、と言っている。ただ彼は、「最初は悲劇として二度目は喜劇として」とつけ加えるのを忘れた」と書いていますが、今後、第二の<民主党政権誕生の喜劇>を阻止するために日本国民はどのような社会に対する理解、すなわち、社会思想を獲得しておくべきなのか。このことに答えることは実はそう簡単ではないのではないか。

少なくとも、その喜劇を阻止するためには、「民主党政権の誕生-自民党体制の崩壊」という現象を思想的に反芻しておく必要がある。要は、<8・30政権交代>という歴史的事実を惹起せしめた、この社会を覆っていた国家観や社会観を言葉化しておく必要があるだろう。と、そう私は考えるのです。


◆政治の外在的限界

民主党政権誕生の意味と意義。すなわち、自民党体制崩壊の背景と構図。このことを敷衍しておきます。

畢竟、民主党政権の誕生は民主党の勝利ではなく自民党の敗北であった。人口に膾炙して久しいこの認識を前提にする場合、たしかに、末期の自民党政権は、体制を支える「政官財+労組」のしがらみ、そして、「中央と地方の澱んだしかしなにほどか平和的共存的な関係」に絡め取られるあまり、<政治>に国民が期待しうるsomethingの少なからずに手をつけることができないでいたと言える。

それは、逆に、単に郵政民営化に代表されるわずかばかりの公的サービス領域の民間移動にすぎなかった小泉構造改革が「新自由主義原理主義による既存秩序の破壊」などと喧伝されたことを想起すれば明らかではないでしょうか。蓋し、自民党政権の末期は<政治>に国民が期待してもよい事柄を政治に練達する集団がネグレクトしていた体制であり、繰り返しますが、民主党政権とは<政治>に国民が期待すべくもない事柄をあたかも実現可能であると政治の素人集団が標榜して政権を奪取したものと言える。而して、両者はベクトルの向きこそ異なるものの、<政治>に期待できること期待すべきことの内容を看過していた点では同病の宿主であったの、鴨。そう私は総括しています。

ならば、<政治>に国民が期待すべきこと期待してもよいこととは何でしょうか。これまた人口に膾炙している手垢のついた言葉で言うしかないのですけれども、

それは、①グローバル化の昂進著しい、よって、日本国や米国、支那や北朝鮮を含むあらゆる主権国家の権限と権威が蚕食され漸減している状況下で、②当該の国家社会の安寧秩序を確保するためには(就中、1973年以降の数次に亘るオイルショックを経るプロセスで)あらゆる主権国家が福祉国家化を目指さざる得ないこと、③大衆民主主義社会を現下の<政治>は前提にしていることから演繹帰納できるのだと思います。


ホッブスは近代の主権国家を「可死の神」(確かに、それが滅びることはあり得るとしても、それが存在する限り、他国に対しては対等の、他方、その領土内ではその国民に対して最高独立の万能の権威を保持する存在)と規定しましたが、現在、唯一の超大国であったアメリカの影響力の限界を想起するまでもなく、すべての国家の能力には限界がある。そして、重要なことは、国家のその能力はグローバル化の昂進の中で人類が獲得している物理的能力の総体が加速度的に増大していることに反比例して加速度的に縮小していると言うべきことではないか。

蓋し、戦後のケインズ政策の流行と、1973年のオイルショック以降の財政出動による国家予算の肥大、逆に言えば、(リベラル派からは「新自由主義=自由至上主義」と位置づけられる、かのサッチャー政権やレーガン政権とその前後の政権、まして、小泉政権とその前後の政権の予算配分構成比の推移を反芻するとき)日米を問わずどの国でもどの政権でも財政規模拡大とともに予算再分配のフリーハンドの余地が極めてタイトになっている現状を見れば、「国家のその能力が加速度的に縮小している」こと、このことは思い半ばに過ぎるのではないでしょうか。


◆政治の内在的限界

近代の主権国家においては、国家権力には、よって、<政治>にはもう一つの限界が内在している。それは、国家にはその本性として社会統合の機能が要求されているにかかわらず、他方、近代の主権国家がその権力の正当性と正統性の基盤を極めて抽象的な「国民」概念に置いていることからくる、謂わば、「手を縛っておいて泳げ」と要求されているに等しい、国家権力の社会統合機能の限界です。

而して、(日本で語られるそれは世界的に見てかなり歪な理解であり、ドイツ憲法の運用を見るまでもなくフランスとアメリカを除く世界のほぼすべての国ではそれは「国家と宗教の分離」ではなく「社会的勢力である教会と国家権力の分離」を意味するに過ぎないとしても)政教分離原則とは近代の主権国家に課されているそのような限界の端的な顕現であろうと思います。

鰯の頭も信心から。しかし、他方、「宗教」という宗教は存在しない。この世に存在している宗教とはローマ・カトリックでありルター派であり、浄土真宗であり阿含宗である。要は、固有名詞の「宗教」を包含する普通名詞の「宗教」とは我々の観念の産物にすぎない。何を私は言いたいのか。それは、あらゆるものは宗教的観点から見られるならば宗教的であり、非宗教的に観察されればそれは単なる社会現象や経済現象や政治現象に過ぎないということです。而して、現在の国家に課されている非宗教性なるものの意味内容も実はそう明確で普遍的に妥当するものでもないということ。

敷衍すれば、現下の主権国家の場合、原則、その国家社会の正式メンバーであるか否かのメルクマールは国籍の有無に収斂する。ならば、その彼や彼女のDNAやエスニカルなバックグラウンド、まして、信仰や性的傾向性等々の個性は国民の要件にはなりえず、よって、例えば、日の丸や君が代に敬意を表させるとか、彼等の出身国や抱く信仰のイコンを文字通り「踏み絵」に使用する等々の、彼や彼女が日の丸や君が代に対していかなる感情を抱いているかに着目してなされる国家社会統合の施策はこれまた憲法論的に許されない。

けれども、他方、「国家」という国家は存在しない。例えば、この世に存在する国家とは支那でありアメリカであり英国であり、そして、我が日本である。要は、固有名詞の「国家」を包含する普通名詞の「国家」とは我々の観念の産物にすぎず、よって、ある国家権力がその国家社会統合においてその固有名詞の国家に特有の文化的と歴史的な諸アイテムを非宗教的に使用することに関しては憲法論的にも社会思想的にもなんら問題はない。

蓋し、(ナチスドイツの如くそれらを歴史的に特殊でありかつ民族に普遍的なもの、すなわち、実体概念として理解することは断乎拒否すべきであろうけれども)ヘーゲルの言う意味での「国家」や「絶対精神の歴史的顕現としての時代精神」とは実はそのような端的には非宗教的で現在の憲法論とも親和的な、固有名詞の国家に特有の文化的と歴史的な諸アイテムを包含しているのではないかと思います。

畢竟、ある国家がその国家社会形成の素材となった諸民族の歴史と文化に内在するsomethingを国家社会統合の施策に使用すること自体に問題はない。而して、現在では政教分離原則を踏みにじった逆切れ的言説として理解される向きも少なくない、大東亜戦争の戦前にこの社会で流布した「国家神道は宗教に非ず」というテーゼは満更40年体制をリードした国家社会主義的官僚の詭弁ではないのではないか。ここのとは、例えば、ローマ・カトリックが上智大学の学生教職員を含む日本のカトリック信者に対して、大東亜戦争の戦中、そのような非宗教的な神道儀式に参加することはその国の国民の義務であると明確に諭し、基本的に現在に至るまでその理解をバチカンは維持している経緯を反芻するとき、私にはそう思えるのです。

蓋し、このテーゼに悪乗りした右翼や朝日新聞等のマスメディアの言説は醜悪であったとしても、「国家神道は宗教に非ず」というテーゼは、その権力の正当性と正統性を維持するためには非宗教化せざるを得ない近代主権国家たる日本が、他方、近代主権国家の機能に対する本質的な要請としての社会統合機能のパフォーマンスを維持向上させようとする場合、実に優れた<解答>であったと言えるのではないか。

而して、民主党政権とは明治維新以降のそのような戦前戦後の政治の智恵を理解できなかった、まして、日本社会に歴史的に特殊な文化伝統の政治的価値など理解する素養を欠いていた、(かの偽ユダヤ人の言葉を借用すれば、「安心と水はただ」とばかりに国家社会の統合と対特定国アジア諸国&米国との関係の良好なる推移は与件であるとでも考えていたのでしょうか)端的に、国家権力に不可避的に要求されている社会統合の機能を放棄したネグレクト政権であったの、鴨。そう私は考えています。


◆小括
民主党政権の誕生は自民党の敗北であり、自民党は<政治>に対する国民の期待の変化に対応することを怠ったために敗れた。何度も繰り返しますが、私のこの理解が満更間違いではないとするならば、「民主党の勝利-自民党の敗北」とは、かって、物が乏しき時代に豊富な物資を廉価に提供して隆盛を誇ったダイエーが最後には「価格破壊ほど安くはない陳腐な品揃えの退屈な店」の集団となってマーケットから退場を余儀なくされた事例と通底している。あるいは、かって「巨人・大鵬・卵焼き」と称賛された読売ジャイアンツが、否、プロ野球自体がサッカー等々の興隆の前にone of themの存在になってしまった事例とも通底しているのではないか。畢竟、万物は流転する。

しかし、国破れて山河あり、そして、万事塞翁が馬。

ならば、<政治>という概念の指示対象が変化したとはいえ、現下の日本国民は民主党政権という悲劇の学習を通して、<政治>に期待できることとできないことがあることを体得したはずである。そう私は楽観しています。ならば、自民党は、内在的と外在的の両面で限界のある<政治>という概念を踏まえながら、かつ、恒常的に変化するその<政治>の具体的な意味内容を可能な限り十全に達成することを目指すしかない。

畢竟、ハンナ・アーレントが喝破したように、<政治>というものが人間にとって不可避的な事象である限り、また、民主党政権の再登場という二度目の喜劇を阻止するためには、有限なる<政治>と<人間存在>にとっては取り敢えずそれが唯一の道である。自民党の政権奪還を確信しつつそう私は考えています。

尚、政権交代の背景と自民党再生のための施策に関する私の基本的な考えについては、
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・稲田朋美氏を総裁にの声について考える
 -「真正保守」なるものは百害あって一利くらいのものでしょう
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139942597.html


・政権奪還の順路☆自民党に期待すること/期待すべきではないこと
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139938039.html



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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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