▼「日本は沖縄から退くべき」中国軍少将が暴言

中国軍の現役少将が中国のラジオで、「日本は沖縄から退くべきだ」と主張していたことが13日分かった。韓国紙の東亜日報が同日、北京発で報じた。

報道によると発言したのは中国国防大学戦略研究所長の金一南少将。金氏は12日に放送された中国ラジオ公社とのインタビューで、「釣魚島(沖縄県・尖閣諸島の中国名)に関しては日本側に必ず、行動で見せてやらなければならないが、問題の視野をさらに広げて沖縄の(中国への)帰属問題を正式に議論しなければならない」と述べた。

金氏はさらに「沖縄は本来、琉球という王国だったが1879年に日本が強制的に占領。当時使われていた清国の年号と漢字などを捨て去った」などと指摘。そのうえで「琉球がどの国に帰属し日本がいかに占領したのか、詳しく見なければならない」と強調。結論として「日本は琉球から退くのが当然だ」と主張したという。

中国軍高官の発言の狙いについて東亜日報は、「日本側の周辺領海に対する領有権主張の正当性を弱め、中国側主張の外交的な位置づけを強めるため」と分析している。


(産経新聞:2012/07/13 14:03


産経新聞は「暴言」と報じていますが、「日本は沖縄から退くべき」という指摘は満更間違いではないと私は思います。なに、まさかこの海馬之玄関ブログが支那の主張を擁護するはずはない。而して、「満更間違いではない、鴨」という私の認識の真意は、この海軍少将の主張の根拠は全くの空中楼閣の我田引水にすぎないけれども、その結論、「日本は沖縄から退くべき」はある意味<日本>にとっての<最善手>なの、鴨というもの。

蓋し、「ゆすりたかりの名人」にして、自衛隊と日本の同盟国たるアメリカの駐留米軍に対して失礼千万な言動を繰り返す沖縄など、<日本>から出て行ってくれるのならその方が<日本>にとっては有利かもしれないということ。

もちろん、沖縄が支那の掌中に落ちれば東シナ海のシーレーン防衛が厳しくなるとか言われる向きもある。そのような意見の存在は充分承知しているけれど、例えば、「関ヶ原=有事の際」に裏切ることが100%確実な<小早川秀秋>を自陣に抱えている方が遥かに<日本>の安全保障にとって危険ではないか。もちろん、<日本>にとってのベストはアメリカによる沖縄の「再占領=委任統治への移行」でしょうが、アメリカは、原則、反米エリアには米軍基地を置くことはしませんから。と、そう私は考えるのです。


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いずれにせよ、支那側のこの手の発言は今回が初めてではありません。例えば、2年前に支那の支那商務省所属のある研究者は次のような<論文>を支那の新聞(人民日報系の環球時報)に寄稿した由。

▼中国紙、「沖縄は日本が不法占領」との論文掲載

19日付の中国紙、環球時報は琉球(沖縄県)は明治政府が19世紀末に清国から奪い取ったもので、日本政府は今も沖縄住民の独立要求を抑え込んでいるとの趣旨の署名入り論文を掲載した。中国大陸に近い尖閣諸島(中国名・釣魚島)については中国領であることは明白で「日本には中国と話し合う資格もない」と結論付けている。

筆者は在日中国大使館勤務経験がある商務省の研究者、唐淳風氏。論文ではかつての琉球王国住民の大部分は福建省、浙江省、台湾付近の出身で、言葉も制度も中国大陸と同じだったと断言。


(共同:2010年9月19日) 


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これらの支那の発言は間欠泉の如く繰り返されてきました。その根拠も論理も全く破綻していることは冒頭で述べた通りです。

蓋し、国際法的に見て、また、言語学的に見ても、あるいは、民俗学的に見て、更には、DNA的に見ても「沖縄は日本の領土」であり、沖縄県民、所謂「ウチナンチュー」と、日本列島本土の住民、所謂「ヤマトンチュー」とが遅くとも2千年以上前から<文化人類学的な意味での同族>であったことは紛れもない事実ですから。

それに比べれば、この同じ2千年間に、少なくとも、五胡十六国、五代十国の2回、(民族浄化どころか)DNA的にはほとんどその社会を構成するメンバーが総入れ替え状態になり、かつ、(大体、支那の最初の王朝、殷や周自体が、それ以前の夏王朝や殷王朝にとっては異民族が侵入して打ち立てた王朝じゃねーか!)隋・唐、元、清と4代3期に亘り、非漢民族の王朝に支配されてきた支那人に「言葉も制度も中国大陸と同じだった」などと「ハッタリを言われる筋合いはねぇー!」なのです。

実際、(ⅰ)紀元前後の前漢・後漢の支那人のDNA分析からは、当時の支那人は現在の東欧の人々と縁戚であったこと、また、(ⅱ)中国語の統辞論研究(要は、文法の研究)からは、それが(インド=ヨーロッパ語とは別系統であるにせよ、むしろ)印欧語に近しいと考えられること。これらは誰も否定できないことでしょう。

また、(ⅲ)律令制のシステムを継受した国は、日本であれベトナムであれ朝鮮であれ大なり小なり、支那と「同じ制度」を使用したと言える。それは間違いない。なら、現在、英米法系やドイツ法系の法制を継受している国は、実は、英国やアメリカやドイツの領土なのか? なら、実は、戦前の日本法の影響をかって濃厚に継受していた(そして法域によっては現在も継受している)韓国や支那は日本の領土なのか? 

б(≧◇≦)ノ ・・・そんなわけないだろうが!


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而して、国際法の話。(ⅳ)沖縄が、かって、日本だけでなく支那にも朝貢していたことが(要は、当時の環東シナ海の国際関係においては、「朝貢=貿易」に他ならない!)沖縄が支那の「固有の領土」である理由になるというのなら、支那は(鮮卑や元の後身たる)モンゴルの領土であり、同様に、現在のイラクもクエートも、シリアもエジプトもトルコの領土になります。

元来、(ⅴ)現在の国際法には、白黒はっきり言えば「固有の領土」という<固有の概念>は存在しないと言った方が正確なのです。要は、大体において近隣諸国からおおよそ認められた平穏なる実効支配がなされているかどうかが「現在の領土問題解決のαでありω」である。歴史的事実や記録などは、この「α=ω」が成立していない場合の、紛争解決のための交渉のそのまた資料という位置づけにすぎない(念のために申し添えておけば、だからこそ尖閣諸島も竹島も120%日本の領土なのです!)。

畢竟、これら(ⅰ)~(ⅴ)を鑑みるに、
蓋し、「沖縄が支那の領土」などということはあり得ない。    

これらの事実を踏まえるならば、「沖縄は1879年に日本が強制的に占領。当時使われていた清国の年号と漢字などを捨て去った」「言葉も制度も中国大陸と同じだった」などとはよく言ったものだなぁー、と。流石、その厚顔無恥の見事さは、皇室を中心に<大家族類似共同体>として2670年余の間暮らしてきた我々日本人が到底真似のできることではないよなぁー、と。この報道に接して皮肉ではなく感心してしまいました。

尚、支那の「世界観-宇宙論」たる「中華主義」、および、土台、<漢民族>という実体が存在していないこと、また、比較言語学的な日本語の歴史に関しては下記拙稿をご参照ください。

・<中国>という現象☆中華主義とナショナリズム(上)(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11153763008.html

・日本語と韓国語の距離☆保守主義と生態学的社会構造の連関性
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139006976.html

・いろんな意味で結構根深い日本語の韓国起源説
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139015904.html


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けれども、しかし、私は思うのです。

もちろん、沖縄は間違いなく日本の領土であり、沖縄県民も間違いなく日本人である。けれど、もし、沖縄県民がその総意として希望するのならば、沖縄が独立しようが、支那に併合されようがそれはそれでかまわないの鴨、と。

公共施設に掲げられた日の丸を焼き、皇室に火炎瓶を投げた沖縄。安全性に問題のないオスプレイ配備に反対し、あろうことか、普天間基地問題ではやらずぼったくりを繰り返しながらいまだにごね続けている沖縄。そして、現下においても沖縄で繰り広げられている、自衛隊の隊員諸氏、および、同盟国であるアメリカの米軍将兵に対する沖縄人の無礼千万&失礼千万な振る舞いを見るにつけ、私はそう感じるのです。


畢竟、戦後生まれの本土の人間にとって「鉄の暴風雨」とやらがいかほど激しかったにせよ、それは、現在、沖縄が特別扱いされる理由には全くならない。大体、国民が等しくその運命を甘受するしかない戦争状態において、かつ、どの国の国土も、位置的にも地勢的にも歴史的にも非対称である諸地域の集積である以上、「沖縄が本土の犠牲になった」という表現自体が成立しないのではないでしょうか。蓋し、「沖縄」は「日本」の一部(切り離しがたい不可欠の一部:an essential part of Japan)ではないのか、と。そう私は<沖縄>に対して言いたい。

なら、沖縄戦に向け戦艦特攻を敢行し撃沈した大和の乗組員遺族や、沖縄戦後、その占領された沖縄を補給基地&避難基地としたアメリカの攻撃に終戦の9月2日までさらされた本土の被害と恐怖を沖縄県民が償ってくれるとでもいうのだろうか、と。そうも私は<沖縄>に対して言いたいのです。沖縄県民以外の日本人は誰もそんなさもしいことは思いつきもしないでしょうけれどもね。


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ことほど左様に、もし、<沖縄人>が<日本人>としての誇りもアイデンティティも失っているのならば、たとえ、<沖縄人>がDNA的や言語学的や民俗学的には間違いなく<日本人>であろうが、また、国際法的には間違いなく沖縄が日本の領土であろうが、もういいよ、と。<日本>から出て行ってくれ、と。別に、<日本>にいてくれなくてもいいよ、と。
    
そう、私は<沖縄>に言いたい。而して、<沖縄>にそう言いたい気持ちを自分が抱いていることを、この支那の少将さんの談話を伝え聞いてくっきりと確認できました。

尚、沖縄に対しての戦後責任など法的にも思想的にも成立する余地のないこと、また、コミュニティーに自生する<伝統>に価値を置く保守主義の立場からも、<日本である沖縄>が<日本>から独立・離脱しようとも、それは、少なくとも思想的にはなんら問題はないという経緯に関しては下記拙稿をご参照ください。

・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11137340302.html

・風景が<伝統>に分節される構図(正)(続)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11147661422.html

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html


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テーマ : 沖縄米軍基地問題
ジャンル : 政治・経済




大津市の中学校に通っていた中学生が昨年自殺したとされる問題が世間を揺るがせています。この出来事に関しては、<事件>は「自殺」ではなく(加害者の3人の中学生が被害者を高所から放り投げた)「他殺」ではないのかとか、「加害者」とされる3人の中学生の家族・親族が警察OBであったり地域の有力者であったことから、警察や教育委員会・学校ぐるみの事件隠蔽工作が行われたのではないか、はたまた、自殺したとされる「被害者」の担任の教師が「反日国家=韓国」にシンパシーを抱く左翼・リベラル派であることもまたこの事件の遠因ではないか等々、様々な情報がネット上に寄せられてもいるようです。

本稿は、これらの隠蔽工作や教育をする本質的資質を欠く左翼・リベラル派の教師の問題は、しかし、(それらを論じたい欲求はぐっと飲み込み)すべて割愛して、当該の大津市の教育委員会のメンバーが述べたある発言1点に絞り込んでコメントするものです。すなわち、「いじめはあった」「自殺もあった」けれど「いじめと自殺の間の因果関係は(あったともなかったとも)不明であり確定できない」という発言。まず、この発言を紹介した報道の引用(下線部はKABUによるもの)。


▼自殺練習「見落とした」 大津市教委、学校に責任転嫁

「今月6日まで見落としていた」-。大津市で昨年10月、市立中学2年の男子生徒=当時(13)=が飛び降り自殺した問題で10日、初めて明らかにされた2回目のアンケート。「自殺の練習と言って首を絞める」「葬式ごっこ」という痛ましい記載があったが、市役所で緊急会見した澤村憲次・市教育長が説明した市教委の対応はずさんきわまりないもので、批判が強まるのは避けられない。

緊急会見は午後8時半に始まり、澤村教育長ら市教委幹部が冒頭「調査が不十分」と謝罪。しかし2回目の回答の内容についても「裁判の中で明らかにしていく」などとして一部分しか答えなかったり、「学校としては調査をがんばっていたと思う」と釈明したりする場面もあった。

市教委によると、学校から2回目のアンケートの結果について報告があったのは昨年12月上旬。市教委の学校教育課が確認作業にあたったものの、「市教委が公表の基準とする、いじめの確証が得られる情報がなかった」として、アンケートの存在自体を公表しなかったという。(中略)

昨年秋に行った1回目のアンケートで、学校や市教委はいじめの存在を認めながら「自殺との因果関係は不明」と判断。しかし今月に入って「(男子生徒が)自殺の練習をさせられていた」、「教諭が見て見ぬふり」-など問題のある回答が含まれていたことや、男子生徒が「暴力」「いじめ」を受けていたとの回答が伝聞も含め計227件にのぼっていたことなどが判明した。ところが市教委側は10日夜の会見でも、「自殺との因果関係は不明」との主張を繰り返した


(産経新聞:2012/07/11 10:03



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>自殺との因果関係は不明

わたしはこのセンテンスを目にしたとき、この教育長さんは「因果関係」という言葉の意味を分かった上でこの記者会見をされたのだろうかと疑問に思いました。而して、「因果関係」とは何か? 

水素と酸素を化合させると「水=H2O」になる。火のない所に煙は立たぬ(但し、ドライアイスの気化のケースは除く)。朝日新聞の主張と反対のことをやっていれば日本の政治は間違いない・・・。

要は、「因果関係」とはこれらのような諸関係のことなのでしょうか。蓋し、自然科学で使われる場合と法律学で使われる場合とでは「因果関係」の語義は些か異なる。而して、この記事を見る限り、この大津市の教育委員会は後者の意味で「因果関係」を用いていることは先ず間違いないでしょう。

では、法律学における「因果関係」とはどんな意味なのか? 些か迂回することになりますが、自然科学も含めた<科学>全般における「因果関係」一般の語義を整理することから、本稿の主題たる法律学における「因果関係」の意味について述べてみたいと思います。


◆科学における「因果関係」の曖昧さ

因果関係とは読んで字の如く原因と結果の関係のことです。あることが原因となってある特定の結果が生起するという場合、前者と後者の間に原因と結果の関係がある。すなわち、因果関係が存在する、と。だから、「水素と酸素を化合させる」という事柄と「水が生じる」という事柄の間には因果関係があるとされるのでしょう。蓋し、ここまではお手許の『国語辞典』を引けば誰しも容易に確認できることであろうと思います。

けれども、「火が存在すれば/火が存在する場合のみ」「煙が生じる」という二つの事柄の間には因果関係が存在すると言えるでしょうか。まして、「中学生がピアスをする」と「その中学生は不良になる」、加之、「高校時代に女子生徒が同棲を始める」「彼女は受験に落伍する」という各々二つの事柄の間には因果関係が存在すると言えるのか。

ご存知の様に、プロのバレリーナを目指す小学生や中学生は<舞台衣装>の一個としてピアスすることが珍しくはありません(実際、ピアス禁止の校則を持つある福岡県大牟田市の中学校や、ピアスをしている生徒の入塾を認めていない横浜のある東進衛星予備校でも、バレリーナ志望の生徒の場合には個別に許可を出しており、大部分の彼女達は文武両道に秀でた模範的生徒です)。加之、高校時代に同棲を始めた女子高校生が現役で東大理Ⅲに合格した事例を私は現実に一人だけですが知っています。

而して、それまで十年近くある投資信託会社の収益に貢献してくれていた不動産債権を組み込んだ高利回りの金融商品がリーマンショックで紙くずになったケースで、「その金融商品購入」と「投資信託会社の破産」には因果関係があると言えるのでしょうか。

わたしは何を言いたいのか? それは、原因と結果の関係と言っても、その因果関係の存否の確定はそう容易ではないということ。大事なことなので、老婆心ながら付け加えておけば、因果関係の確定が容易ではないということは、原因と結果の関係を確定する<技術的>や<コスト的>なハードルが思いの外高いということではなく/高いというだけではなくて、「原因」や「結果」の定義自体に実はかなり異質な内容が孕まれているということなのです。


◆科学における「因果関係」の意味内容

結論を先回りして書いておけば、科学一般における因果関係の確定とは、ある間主観的かつ反証可能性を帯びた<法則>のパラダイムの内部にある二つの事柄が同時のその座を占めるということだと思います。だから、

「リンゴが存在する」「リンゴが地面に落ちる」と「月が存在する」「月は(地球の)地面に落ちてこない」の二項に関して、「リンゴが存在する」と「月が存在する」、他方、「リンゴが地面に落ちる」と「月は(地球の)地面に落ちてこない」の前者が原因で後者が結果ではないのです。

そうではなく、(a)万有引力の法則に従えば、(b)万物には引力があるから、(c)「リンゴが存在する/月が存在すれば、リンゴは地面に落ち/月は(地球の)地面に落ちてこない」のであって、この法則(a)を前提にした場合にのみ、(b)が原因であり(c)が結果と言えるということです。

而して、<法則>とは、ティコ・ブラーエの膨大な天体の観察資料を用いて、ケプラーが「ケプラーの法則」を定立し、更に、そのケプラーの肩の上に乗ったニュートンが「万有引力の法則」を確立したごとく、

(ⅰ)事実の観察
(ⅱ)傾向性の定式化
(ⅲ)傾向性の生起するシステムの確立


という三層の手順が積み重なった重層的なパラダイムに他ならない。と、そう私は考えます。畢竟、「因果関係」とはこのような意味の<法則>から逆照射された場合、ある出来事と別のある出来事の間に<法則>の内部で成立する、原因と結果の関係が認められることに他ならないとも。


◆法学における「因果関係」の意味内容

ちょうど百年前、19世紀末から20世紀初頭のドイツの哲学界を甲論乙駁の疾風怒濤の渦に巻き込んだ「ドイツ文化史論争」(歴史学や法学等々の精神諸科学の「科学性」を巡る、社会科学方法論争)における新カント派の主張を紐解くまでもなく、しかし、法学や歴史学が前項で述べた所謂「法則定立型の科学」ではないことは自明でしょう。実際、マルクスの史的唯物論は、左翼の単なる私的な妄想にすぎないことは20世紀後半の歴史が証明したことでしょうから。

では、本稿の主題たる「法学における因果関係」とはどのような意味なのか。
それは「法則定立型の科学における因果関係」とどのような関係にあるのでしょうか。

ブラックユーモアではなく、不謹慎な物言いでもなく、例えば、多くの<いじめの事例>を観察し記述して、この程度のこのタイプの<いじめ>が存在すれば被害者は75%の確率で自殺するとかの傾向性を定立しなければ、更には、その傾向性を惹起せしめるシステムが解明されない限り、ある「いじめ事件」と「ある自殺」との間に原因と結果の関係があったともなかったとも言えないのでしょうか。少なくとも、このような主張は法則定立型ではない法学において成立する言説ではないのです。

而して、これはどの『法律学用語辞典』にも書かれていることですが、法学における「因果関係」とは、次のような「社会的な価値判断」以外の何ものでもないからです。では、「自殺との因果関係は不明」という命題でこの大津市の教育長は何を言いたかったのか。わたしは冒頭にも書いたように、彼等は「因果関係」という言葉の意味さえわかっていないと思います。

・刑法
ある犯罪構成要件が想定する行為とある犯罪構成要件が予想する結果との間に「前者がなければ後者も生じなかった」という関係が、かつ、一般通常人なら誰しもそう感じるであろう関係が存在すること

・民法
被告側のある不法行為や債務不履行がなければ原告側は損害を被ることはなかったという関係が存在すると、かつ、一般通常人なら誰しもそう感じるであろう関係が存在すること。加之、原告側が被ったと主張する損害の中で、一般通常人なら誰しもどの範囲までを被告側に賠償させるのが相当と考えるかという金銭賠償額の算定評価項目


法学における「因果関係」とは上記の如き「社会的な価値判断」以外の何ものでもない。けれど、それらの基底である「一般通常人の認識」(あくまでも裁判官や裁判員が想定する限りでの「現在の日本社会の平均的な普通の人々」の認識)のそのまた基底には、自然科学的知見や常識が間違いなく横たわっていることは看過すべきではありません。

だから、(腕こきの黒魔術師さんの秘芸が本当はこの世に存在するかもしれないけれど)、現在では「丑の刻参りでの呪詛」が傷害致死罪や殺人罪の責を問われることはないし、「被害者」と「加害者」とも「人間は一度に水を2リットル飲めば死ぬ」と思い込んでいる牧歌的なケースで加害者に自殺教唆罪(の未遂罪)が適用されることもないのです。多分(笑)。閑話休題。

畢竟、大津市の中学生の自殺の事例は(もし、それが他殺ではないとしても)報道されている担任の教師を含む加害者達の行為と被害者の自殺の間には、「前者がなければ後者も生じなかった」という関係が、かつ、一般通常人なら誰しもそう感じるであろう関係が存在することはまず間違いないのではないか。実際、加害者が事件の直前まで継続的に被害者に激しい暴行を加えていた上、被害者に自分で車を運転して海に飛び込むように脅迫し被害者を重体に至らしめた事例では、最高裁は殺人未遂罪を適用しましたから(最高裁第3小法廷2004年1月20日判決)。

ならば、この大津市の事件では、「いじめ」と「自殺」の間に法学的な因果関係があるだけではなく、その「自殺」は(事件の外見がもし被害者の投身自殺だったとしても)「自殺教唆」によるものどころか「殺人」の結果でないこともない。と、そう私は考えます。

<自殺>した被害者の中学生のご冥福をお祈りいたします。


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以下は、ブログ同志のもあいさんの記事で知った朝日新聞記者の随筆の抜粋紹介です。リンク切れの場合は「ご免」ですが、原典全文は下記URLで閲覧できます。

・「世の中が見えていたのは橋下氏」朝日新聞大阪社会部デスクの嘆き
 http://astand.asahi.com/magazine/wrpolitics/special/2012070900007.html

正直、朝日新聞の記者のものとしてはかなりラジカルな「反省の弁」であろうと思います。まー、もっとも、世間の常識の流れからは少なくとも20年近く遅かったね。とも感じましたけれども(笑)。

而して、この随筆の主題たる「世間と時代に取り残された朝日新聞/戦後民主主義」を巡る私の基本的な考えについては本稿末尾の弊記事をご参照いただければ嬉しいです。また、この随筆の筆者の経歴は原典に添えられた情報によれば概略次の通り、

稲垣えみ子
朝日新聞大阪本社社会・地域報道部次長。
1965年愛知県生まれ。一橋大学社会学部卒。
教育担当デスクとして橋下報道に携わる。


(以下、転記開始。尚、下線部はKABUによるもの)


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◎「世の中が見えていたのは橋下氏」朝日新聞大阪社会部デスクの嘆き


最近、夕方が近づくと憂鬱が襲ってくる。原因は、大阪の「お客様オフィス」から全デスクのもとに送られてくる、読者の電話やメールをまとめたリポート。

 「朝日は橋下の宣伝機関か」
 「維新の会の話を垂れ流すのはいいかげんやめろ」
 「もう購読を辞めさせていただく」

ああ、またか、と思う。橋下氏のことを紙面で取り上げるたびにこうした反響がいくつも届くことを、もう何カ月繰り返しているのだろう。

(中略)



◆同じ記事に寄せられる真逆の反応

橋下氏をウオッチしている大阪社会部は当然のことながら、橋下氏を宣伝しようと記事を書いているわけではない。原則は中立だし、もちろん、氏の発言に危惧を感じて記事化することも多い。それでもこの反響なのだ。

さらに事態を複雑にしているのが、同じ記事に対して寄せられる真逆の反応の存在。少しでも橋下氏の問題点を指摘すると、「なぜ橋下さんの足を引っ張るのか」「偏向報道の極み。許せない」という声が、これまた複数寄せられるのである。(中略)

わざわざ電話してきて下さるのはごく一部の読者であることを考えれば、どれだけ多くの人が無言で新聞の購読をやめているのかと想像し、背筋が寒くなる。気力が落ち込むのをどうすることもできない。

新聞が売れない時代、これがどれほど大きなことか!

さぼった結果なら努力すればよい。でも、しつこいようだが「努力した結果」なのである。
一体どうしろというのか。

(中略)

このリポートは、悩みに悩みながら橋下氏の記事を発信している現場デスクのつぶやきである。

(中略)

転機となったのは、11年の統一地方選挙だったと思う。

橋下氏は、膠着状態にあった府市再編問題を動かそうと、地域政党「大阪維新の会」を立ち上げた。橋下人気に後押しされ会所属の候補が続々と当選。大阪府議会では過半数を制するに至った。選挙直後、維新の会が、君が代の起立斉唱を教職員に義務づける全国初の「君が代条例案」を議員提案することを朝日が特報する。

当時、私は大阪社会・地域報道部のデスクに異動し、教育担当を命じられたばかり。正直、驚いた。橋下さんってこういうイデオロギーにかかわる施策を打ち出す人物だったのか。選挙戦では君が代の「き」の字も出た記憶はなかった。これが氏の地金なのか。いずれにせよ「リベラル」「反戦」「護憲」の朝日新聞としては見過ごせない問題だった。



◆時代から取り残されたアナクロな朝日新聞?

さてどうしたものか。担当記者と顔を見合わせてため息をついた。

君が代強制は降ってわいた話題ではない。国旗・国家法が制定された後は各地で強制が進み、折に触れ記事化されていた。だが記事はややもすれば教職員組合や護憲派の学者に強制反対を代弁してもらうパターンになり、どうみても読者の心を揺さぶっている気がしなかった。まして「公務員なら決まりを守れ」と平易な論理で押してくる知事に、大所高所から正論をふりかざすだけではなんとも弱い。どうすればいいのか……。

(中略)

さえない日々の中、あることを思いつく。条例制定は「府民の総意」と繰り返す橋下氏に、争点になったわけでもない君が代強制がホントに府民の総意なのか突きつけようと思ったのだ。維新の会に投票した人は既得権に切り込む橋下氏の改革力に期待したのであって、君が代強制に期待したのではないはずだ。

記者が街に出て、維新の会に投票した人を探し条例への是非を聞いて回った。
我ながらなかなかのアイデアだ。

結果は思ってもみないものだった。

30人中26人が「君が代条例に賛成」。当たり前のルールを守れない人が先生をしていること自体おかしいという。

ショックだった。正直、6~7割が「反対」と答えると思っていた。良心的な日本人にとって、国内外に大きな犠牲をもたらした戦争の記憶とつながる国旗・国歌の強制は根源的に受け入れられないものと信じていた。その人たちこそ朝日新聞の読者だと思っていた。

だがそんな人たちは、もはや1割しかいないのだ。良心的な世論をリードしているつもりが、振り返ってみたら誰もいなかったのである。私が想定していた読者像は、自分たちに都合のいい甘いものだった。本当に想定しなくてはいけない読者は、朝日新聞的リベラルな主張を、ウソっぽい、あるいは嫌いだと感じている、世の中の9割の人たちだった。世の中が見えていたのは朝日新聞ではなく、橋下氏のほうであった。

(中略)

橋下氏は知事を辞任しダブル選をしかける意向を表明。選挙前の2011年夏、維新の会は再び驚くべきものを出してきた。大阪府教育基本条例案。一読して、これは大変なものが出てきたと思った。



◆戦後民主主義への正面からの挑戦状

君が代条例が一本の木を倒すチェーンソーなら、教育基本条例はすべてをなぎ倒すブルドーザーだ。(中略)大きな特徴は二つ。

一つは、戦後教育の根幹である教育委員会制度を真っ向から否定したことだ。条例案は「知事は学校が実現すべき教育目標を設定する」とし、続く条項で、教育委員も学校も校長も教員も、目標に向け職務を果たすよう求める。政治と教育が一体化した戦前の反省から、政治家が直接教育に口出しできないようにした教育委員会制度を根底から覆す内容だった。

もう一つは厳しい成果主義。結果を出せなければ、教育委員も校長も教員も、最悪の場合クビになる。学校も保護者の選択にさらし、生徒を集められなければ生き残れない。

何のためにここまでするのだろう。

条例案の前文によると、グローバル社会に対応できる人材を育成するため、過去の教育から決別し時宜にかなった教育内容を実現するのだという。

うーん……。もしヒットラーのような人が首長になり、排他的・暴力的な教育目標を立てたらどうなるのか。戦前の軍国主義教育で多くの若者が一つの思想にそめられ戦争へ駆り出されたことを思えば、条例は朝日新聞が守り育ててきた戦後民主主義に対する正面からの挑戦状である。

とはいえ、維新の会の主張にももっともなところがあった。教育委員会制度は理念は立派だが、現実は、地元の名士が月1回程度の会議で事務局の報告を受け、ちょこちょこ意見を述べておしまい。政治的中立どころか「放談会」と化しているところがほとんどだった。それを守れと主張するのはいかにも弱い。ここまで形骸化したことを放置してきた自らの怠慢を恥じたがもう遅い。

ああ、何をどこからどうしたらいいんだ! 勝ち目のない戦いから逃げられなかった硫黄島の将軍の気持ちだよ……なんてぐずぐず言っている暇はない。教育班のメンバーと知恵を出し合った。

(中略)

大阪府の教育委員が「条例案が通れば総辞職」と表明したこともあり、テレビの情報番組でも条例案の問題点が批判的に取り上げられ始めた。よしよし、いい流れになってきたぞ……。

甘かった。

条例案の賛否を聞いた選挙前の世論調査の結果は、賛成48%。反対26%。「わからない」ではなく「賛成」ですよ。いったいなぜ、どこに賛成なのか。ショックを受けている間に選挙戦となる。知事・市長選を維新の会が制した。圧勝であった。

(中略)

まずは朝日の負けを認めるところから始めよう。

不起立教員のことを取り上げると「なぜそんな教師の肩を持つのか」という反応がたくさん返ってくる。朝日の問題意識を共有する人は今や少数派である。それでもやっぱりこの先生のことを書いておきたい―。そんな前文を書いた。

(中略)



◆商売のタネになるような生やさしい相手ではない

最後に、橋下報道を間近で見て感じていることを整理しておきたい。

橋下氏とは朝日新聞にとってどういう存在なのか。橋下氏を積極的に紙面に載せて全国の読者をひきつけていこうという社の方針には全面的に協力していきたいが、氏は商売のタネになるような生やさしい相手ではない。朝日新聞が生きるか死ぬかの戦いの相手と考えた方がいい。

理由は主に二つある。

一つは、橋下氏が世間から喝采をあびている大きな理由のひとつが「既得権益の否定」だが、これまで「リベラル」と言われてきた層も既得権者としてターゲットにしているのが橋下流。そのリベラルの親玉が朝日新聞なのだ。

私自身リベラルだし、その価値を心に抱いて記者をしてきたし、これからもそうしたいと思っている。

だが今世間は、インテリ業界が戦後の長い時間のなかでためてきた澱のようなものを敏感に感じ取っている。きれいごとを言い、上から目線で、一皮めくれば既得権化しているのにエラそうに説教をたれる―。そこを橋下氏は明確に突いてくる。彼の発言の前ではよほど肝を据えてかからねば、リベラルはどんどん陳腐化してしまう。朝日新聞が裸の王様にされかかっていることを自覚しなければならない。

我々は少数派であり、勝ち目の薄い挑戦者である。それでもやるかどうか。

もう一つは、「特ダネ主義」から脱却する勇気が持てるかどうか。

隠されてきた情報を取るのが特ダネである。だが橋下氏は基本的に隠さない人で、思いつきの段階から発信し、議論の過程もどんどんオープンにしている。新聞記者が想定してこなかった形だ。(中略)相手は「他紙」ではなく「橋下氏」なのだ。管理職も含め、これまでの成功体験を捨て、その覚悟を持てるだろうか。誰に向かって、今なぜ、この記事を書くのか。その思いの裏付けのない記事を発信してはいけないのだ。

紙面を見返すと、これは橋下報道に限る問題ではない。
我々全員が「グレート・リセット」を迫られているのだろう。

(以上、抜粋引用終了)



【関連拙稿】


・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11145893374.html

・「左翼」の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11148165149.html

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html


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ジャンル : 政治・経済





オリンピック憲章-1章6条(オリンピック競技大会)

オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない.

OLYMPIC CHARTER-Chapter1-6
The Olympic Games are competitions between athletes in individual or team events and not between countries.




ロンドンオリンピックが目前に迫ってきました。わくわく、どきどき。

б(≧◇≦)ノ ・・・なでしこ、頑張れ!
б(≧◇≦)ノ ・・・福見友子ちゃん、have fun!

どちらかと言えばといわずスポーツが好きなKABUはロンドンオリンピック楽しみにしています。けれど、オリンピックというか「オリンピックと国家」の関係について私はその現状に些か不満も抱いている。本稿は、ロンドンオリンピック目前の今のタイミングでその不満を書き記しておくものです。

私の不満は煎じ詰めれば次の2点、すなわち、

(甲)国庫補助や公教育を通した競技人口の涵養等々、
   日本はその<経営資源>を競技間で一層メリハリを付けて傾斜配分すべきかも
(乙)オリンピック代表選考に関しては、メダルをクランチできる可能性だけでなく
   選考プロセスをより透明性の高いものにすべきかも



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オリンピックでの日本選手の活躍を最終的な成果目標として、2011年度だけでも日本政府は、①JOC(日本オリンピック委員会)を通して26億円、②2008年から始まった文部科学省の所謂「マルチサポート事業予算」(オリンピックのメダル有望種目を指定してなされる情報戦略や医科学、用具開発などに支給される予算)を27億円、③サッカーくじ(toto)助成金の中の該当部分。と、この①~③だけでも70億円を投下しています。尚、③は「税金」ではないにせよ、totoが広く浄財を集めることができるについては国の立法措置が前提になるわけですから①②と③は区別しません。

而して、これらに加えて、(繰り返しますが、オリンピックでの日本選手の活躍を最終的な成果目標とするものに限定しても)個々の案件に関しては「雀の涙」としてもスポーツ振興事業に対する企業やNPOへの税制優遇措置、大学や警察・自衛隊等々への予算措置を積算すればオリンピックを巡って投入されている税金総額は(ナショナルトレーニングセンター建設やそのスタッフの人件費等の「箱物予算」を除いても)優に150億円はくだらないと想定します。

150億円が多いか少ないか? 総額としては私は必ずしも多いとは思いません。これは、そう、「国防費」とパラレルに(国によってはその情報自体が抑止力として作用することを期待して多めに言い、国によっては他国を刺激しないために少なめに言う等の事情があり)正確な予算規模は分からないというのが実情らしいのですけれども、例えば、北京オリンピックを翌年に控えた2007年度の主要国のオリンピックの年間強化費は次のように言われています。

支那-480億円  
米国-165億円  
英国-118億円  
韓国-597億円


今更、欧米崇拝などであるはずもないのですが、アメリカやカナダ、欧州と比べた場合の、施設や専門スタッフという「箱物=タンジブルアセット」から、全国を網羅する「裾野拡大→才能発掘→才能支援」というインタンジブルアセットともいうべきネットワークの整備に関しての彼我の歴然とした差を肌で知る者の一人としては、日本の予算がよしんば250億円に増額されたとしても、まだ、日本のオリンピック年間強化費が過剰とは単純には言えないと思うのです。

まして、文字通り、スポーツが文化として根付いている(そう、例えば、富岡八幡や神田明神や新橋烏森神社の例大祭の如くあたかも日本の地域地域のお祭りの如くその地域に根付いている)米欧と日本の差は大きい。それは100メートル走に喩えれば、米欧に比べて日本は彼等よりも15メートル後方からスタートするハンディーを背負っているようなもの、鴨。

けれども、オリンピックの年間強化費が増額されるべきかもしれないことと、その使い道が現状の相似変換的増額でもよいこととは別の問題ではないでしょうか。(甲)「日本はその<経営資源>を競技間でメリハリを付けて傾斜配分すべきかも」という問題意識を煎じ詰めれば、このことに私は疑義を感じるのです。

蓋し、最早、日本が占めている世界での地位を鑑みるとき、「参加することに意義がある」時代ではないことは当然として、「どんな種目でもメダルが取れればいい」という時代でもないのではないか。その憲章にどう書かれていようと、憲章のロジックやレトリックとは無関係に社会学的に観察される場合、オリンピックとは、()国内における社会統合の維持強化、()国際政治における国家の知名度・好感度・威信の維持向上を達成するためのゲームの舞台に他ならない(★)。

ならば、日清・日露の両戦役、第一次世界大戦の勝利を通して(大幅に下駄を履かせてもらった結果とはいえ、自称だけではなく)1920年代には既に「世界の五大国」であり、負けたとはいえ大東亜戦争を4年の長きにわたって戦い続け(結果的にせよアジア・アフリカの諸民族に独立の契機とモメンタムを与えた)日本。敗戦の1945年からわずか23年、1968年には世界第2位の経済大国に躍進した日本。アニメとAKBが世界のサブカルチャーを席巻する日本。支那・韓国とは真逆に、世界のどの調査でも「好感度ランキング/世界に良い影響を与えている国ランキング」でほぼ3位以内、間違っても10位前後には位置づけられる日本・・・。

国際社会でこの日本が占めている位地と地位を見た場合、(繰り返しますけれど、オリンピック憲章にどう謳われていようと)日本にとってオリンピックという舞台で達成されるべき成果目標は、最早、単にどの競技種目でもメダルを取ればよいということではなく、世界のメジャーな競技でメダルを取ることに移行しているのではないでしょうか。

すなわち、その種目で100回金メダルを取っても世界の大部分の人々にとっては、日本の知名度・好感度・威信の維持向上にはほとんど何の影響も効果もない、例えば、(もちろん、その競技が好きな人は個人的にやれば良いのですが)バレーボールやソフトボールや卓球などに対する税金投入や公教育を通した裾野の拡大などは止めるべきではないか。それよりも、例えば、女子サッカーや女子柔道、女子ホッケーなどの戦略的に意味のある競技種目に日本はその<経営資源>を傾斜配分すべきなの、鴨。と、そう私は考えます。

★註:オリンピックと国家
冒頭に掲げたオリンピック憲章の文言とは無関係に、IOC(国際オリンピック委員会)も代表選手がその代表する国家を冒涜することを認めてるわけではないことは押さえておくべき、鴨。実際、メキシコオリンピック(1968年)の陸上200メートル走で各々金・銅を獲得した米国のT.SmithとJ.Carlosが、表彰式でアメリカ国旗と国歌を侮辱した行いに対して、当然、アメリカは彼等をナショナルチームから除名・追放したけれど、IOCも永久追放処分を下したのですから。



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成熟した大国としての日本。この「大国」認識は夜郎自大的なものではなく、その経済規模・人口規模をアメリカを除く欧米諸国と比べるとき厳然たる事実です。ならば、いたずらに謙遜することや、更に言えば、無責任な「日本=小国」という自己規定に逃げ込むことは許されないの、鴨。

而して、好むと好まざるとに関わらずこの自己規定と自己認識を放擲できない日本であれば、上に述べた「メジャーな種目でのメダルの獲得」という成果目的とトレードオフの関係になる可能性はあるにせよ、しかし、オリンピックと国家の関係に関してはもう一つ改善すべき現状があるのではないでしょうか。それが、(乙)「オリンピック代表選考に関しては、メダルをクランチできる可能性だけではなく選考プロセスをより透明性の高いものにすべきではないか」ということです。

すなわち、最早、大国の日本では(オリンピックの社会学的機能の一つである)「国威発揚やナショナリズムの強化=国内における社会統合の維持強化」に関して、単に、結果よければすべてよし式の、後進国的や小国的な代表選手選考方式では国民の支持は受けられず、よって、不透明な選手選考プロセスを通して選ばれたエリートが金メダルをクランチしようとも彼や彼女の実績が日本の社会統合の維持強化に寄与することは少ないのではないかということです。

このことは、1988年のソウルオリンピックの男子マラソン代表選考に際して惹起した瀬古利彦選手を巡る不透明な経緯を回顧するとき、他方、1992年のバルセロナオリンピックに前年東京で開催された世界陸上では世界新記録で優勝したカール・ルイス選手が全米陸上選考会の100mで3位以内に入れず代表になれなかったことを併せて回顧するとき、日本の「大国」としての自覚の乏しさが一層際立つのではないでしょうか。

実際、女子柔道48キロ級の北京オリンピック代表を実質的に選考する大会となった2007年度の全日本選抜柔道体重別選手権大会の48kg級決勝(要は、この大会は同年の世界選手権大会代表選考会を兼ねており、同世界選手権大会の代表選手がそのまま翌年2008年の北京オリンピック代表になる可能性が極めて高かった大会の決勝戦)、福見友子選手はあの谷亮子選手を下して優勝したものの、「過去の実績等を総合的に勘案した結果」世界選手権大会代表の座は、よって、北京オリンピック代表の座は谷亮子選手に与えられました。

б(≧◇≦)ノ ・・・過去の実績で代表選考するっーのならな、
б(≧◇≦)ノ ・・・全日本選抜柔道体重別選手権を最初から代表選考大会とか言うな!


この有名な「福見友子の悲劇」「代表選手の座を盗んだ谷亮子」を反芻するとき、しかし、(同じ福岡県出身者ながら、私は「政治家」としての谷亮子議員は全く評価しませんが)、当時ネットに溢れた「谷、代表を辞退しろ!」という言説には同意できません。

スポーツにせよビジネスにせよ少しでも真剣に<勝負事>に関わった経験のある方には、選手とは、就中、一国の代表選手の座を争うほどの選手なら、「自分こそ代表選手に相応しい」というプライドと自負を持って日々精進している存在であることは自明だろうからです。

ならば、代表選考プロセスを巡りいかに不透明な事態が介在して世間の批判の集中砲火を受けようが、泥水を啜っても、実家に火炎瓶が投げ込まれようとも彼等は代表を辞退などしないだろうし、ならば、そんな行動を彼女や彼に期待すべきではないと思うからです(尚、北京オリンピック女子マラソンの日本代表・野口みずき選手の場合には、彼女が到底レースに堪えられないコンディションだったことが明らかであった以上、その辞退表明が8月17日のレース本番の5日前の8月12日になされたことは極めて不適切だったと思います。蓋し、オリンピック代表には必ずしも多くはないかもしれないがけっして少なくない税金が投下されている事実を踏まえるならばなおさらそう言えるのではないでしょうか)。

ことほど左様に、オリンピック代表選手選考のプロセスは一層透明性を高くしなければならない。そして、(最後に触れた野口みずき選手のケースを境界線にして)その選考に社会的妥当性を付与するについて選手自身に「辞退」なりの潔さを期待するのは、現実的に妥当でないだけでなく、そのような主張は<勝負事>や<代表選手>の実存と実相を看過したお子様の戯言にすぎないのではないか。と、そう私は考えます。


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