▼中国、安倍“新政権”に期待 対日当局者「野田首相との交渉、意味なし」

日本政府による沖縄県・尖閣諸島の国有化に反発している中国の対日当局者の間で最近、「野田佳彦政権と交渉しても意味がない。日中関係の修復は次の政権で」との考えが強まりつつある。対照的に自民党の安倍晋三総裁については、2006年の首相就任直後に中国を訪問、日中関係改善に意欲的だったことから、「『安倍政権』に期待する」との声が上がっている。

中国政府に対日問題で政策提言する立場にある日本研究者によれば、中国外交当局者の間で「尖閣問題で野田政権と交渉しても成果が得られる見込みはきわめて薄い」との認識が広がっているという。その理由として「民主党政権の対中政策の軸足は定まっておらず、信用できない」「間もなく日本の政権交代が起きる可能性が高く、次の政権と交渉した方が将来につながる」などが挙げられているという。

「東シナ海を友愛の海にする」と主張する鳩山由紀夫政権が09年に誕生したとき、中国の胡錦濤指導部は一時、民主党政権が米国と距離を置き、中国寄りの外交政策を取ることに高い期待を寄せていた。しかし、その後の菅直人政権は中国との関係を重要視すると口で言いながらも、10年に尖閣諸島付近で起きた中国漁船衝突事件の際に、強硬な対応を一時取り、中国側を硬化させた。中国のある外交関係者は「民主党政権は国内世論ばかり気にしていて、政策はすべてその場しのぎだ」と不快感を表明した

一方、安倍氏への期待は高い。別の外交関係者は「安倍氏が靖国神社参拝問題を棚上げして、訪中を決断したことは中国で今も高く評価されている」と指摘した。安倍氏の対中強硬姿勢についても「タカ派でもハト派でも、きちんとしたビジョンを持った人間であれば交渉できる」と話している


(産経ニュース・2012年10月13日;下線はKABUによるもの)


abesans.jpg


報道の中程、「菅首相が中国漁船衝突事件で強硬な対応をした」という表現は(この<事件>に際しては、時の官房長官が検察に事後処理を押しつけ、結局、日本公船に損害と危害を故意に加えた支那の船長をきちんと裁判にかけることなく釈放したこと、また、当該支那漁船の行動がいかに危険なものであったかの事実も、憂国慷慨の志を抱いたある海上保安庁職員の内部告発があって初めて世間に露わになったことを鑑みれば、「菅首相が中国漁船衝突事件で強硬な対応をした」という認識は全く)事実に反する。

また、「首相靖国参拝」を巡る前回総理在任中の安倍総裁の所謂「曖昧戦略」は(要は、「時の首相が靖国神社に参拝することは当然のこと。而して、それを支那政府であれ日本のマスメディアであれ云々される/彼等に対して報告や説明しなければならぬ筋合いはない」という姿勢でもあったのであり、ならば、その戦略・態度は保守派も)ある意味それなりに評価できる面もあったのだと思います。

と、幾つか気になる箇所はあったもののこの報道は現下の日本の政治、就中、日本の外交の貧困を穿つ視点を提供しているのではないか。そう思い資料として弊ブログにも収録させていただくことにしました。



蓋し、この報道の「白眉」や「肝」とも言うべきは、
最後のワンセンテンスだと思います。これです。

>タカ派でもハト派でも、きちんとしたビジョンを持った人間であれば交渉できる


そりゃーそうですよ。国内政治の文脈における
「近いうちの解散」の言辞などの比ではなく、

国際政治の舞台において、(a)両国の首脳同士の差しの交渉の場面で「トラストミー」とまで言っておいて何もできなかった人物とか、(b)立ち話にせよ、また、国際法的には百歩譲って「100対0」とは言わないけれど間違いなく「98対1」くらいで日本の主張に正当性があることは自明にせよ、しかし、「懸案の島礁を日本が国有化することの懸念」を表明した相手国元首に対してその場では反論しないでおいて、その立ち話の数日後に国有化を完了させるような人物、加之、(c)未曾有といってよい原発事故に際して(もちろん自国の国益を最大化する目的ではあったにせよ、)全面的な支援の申し出をしてくれた唯一の同盟国の援助を拒否しながら、五月雨式に、かつ、原発事故の情報を開示しないまま曖昧な支援要請を小出しにさせた人物。これら、不実な言葉と、その行動も予測不可能な人物やその人物が率いる日本政府との交渉などは、支那にせよアメリカにせよ本当はご遠慮したいというのが本音でしょうから。


実際、(東日本大震災に際してのその凄まじい対処の拙劣さは今後未来永劫語り継がれるでしょうが、そんな)日本の近代政治史上「最低の首相=菅直人氏」に比べても、そんな管政権のシャビ-なパフォーマンスを酷さにおいて二桁とは言わないけれど10倍から数倍程度は上回った日本史上「最悪の首相=鳩山由起夫氏」は、アメリカ政府からは(世間知らずと自己中ぶり、その火病とKYで有名だった、あの自殺した件の)「韓国の元の大統領」よりも言葉が信じられず行動の予測可能性も乏しいルーピーな人物と看做されていたのですから。

閑話休題。


39s.jpg


きちんとしたビジョンを持っていない人間とする交渉の非生産性や空しさ虚ろさ

ことほど左様に、繰り返しになりますけれど、「きちんとしたビジョンを持っていない人間との交渉の非生産性や空しさ虚ろさ」、これこそ心底、支那もロシアも韓国も、アメリカもベトナムもトルコも、日本の民主党政権に対して抱いている不満・不安なのではないしょうか。

換言すれば、交渉相手が、たとえ、不倶戴天の敵であっても名にし負うハードネゴシエーターであったとしても、その交渉相手が「きちんとしたビジョンを持った人間」であるのなら、それは「宇宙人」や「詐欺師」や「泥鰌」よりも遥かにましであろう、と。


政治の営み一般のみならず、外交こそ利害の妥協と主張の継続の<芸術>である。

彼の鉄血宰相ビスマルクが呟いたとされる有名な言葉「こちら側に寝返る敵の裏切りは嬉しいが、裏切るような奴は嫌いだ」という洋の東西を問わずおそらく万古不易の人情の機微は別にしても、グローバル化の昂進著しい現下の人類史において、アメリカでさえもそうではないのだから(すなわち、アメリカを中心に世界が廻っているのではないのだから、ましていわんや、)日本や支那を中心に世界が廻っているのではないでしょう。

このことは、(ⅰ)もしそうするにせよ支那がICBMを日本に向けて発射する決断をする際には日米同盟の効果を考慮しなければならないことに端的な如く、現実の武力行使を制約する抑止力の体系としての同盟関係の地球規模での編成強化、(ⅱ)経済的-地球環境的に、最早、どの国も他のどの国とも相互依存関係にあること/その関係の度合いが深化していること、そして、(ⅲ)メッテルニッヒやタレーランが外交の名人芸を競っていた古き良き時代とは異なり、現在のグローバル化の時代は、大衆民主主義の時代でもあり、すなわち、為政者の外交交渉もその各々の自国民に支持されない限り本当の意味での実効性を獲得しづらくなっていること(要は、「国内世論ばかり気にしていて、政策はすべてその場しのぎ」という傾向は日本の民主党政権ほど支離滅裂ではないにせよ、どの国にも遍在しているということです)。と、これらを想起すれば誰も簡単には否定できないことなのではないでしょうか。


ならば、普通の外交で諸々の交渉がもたらす「交渉の果実=国益の増減」において、いずれかのパーティーが他のパーティーを完封する(野球で言えば「15-0」、サッカーで言えば「6-0」で相手当事者を凌駕・粉砕する)ことなど現在ではまず不可能。そして、この大差完封試合の逓減消滅の傾向は日本と支那との外交交渉においても一応は言えるはずのこと(尚、よって、「言えるはず」にも関わらず、この3年間の民主党政権下において、対支那や対韓国のみならず対ロシアといわず、就中、対米外交において惨敗大敗のオンパレードだった日本外交のパフォーマンスを反芻するに、民主党政権が日本の国益のバランスシートに刻んだ負債の額は凄まじいと評する他ないと思います)。

要は、外交一般、そして、個別日本と支那との外交交渉においても、自国の国益の極大化を見据えてする「妥協と継続」が最重要事項の一つでないはずはない。而して、そのためにも、交渉当事者が「きちんとしたビジョンを持った人間」であることもまた生産的な外交の必須の条件でないはずがないのではないでしょうか。もしそう言えるとするならば、この報道が伝える支那高官の「安倍総理への期待」は、鬼面人を威かす類の際物ではなくて、ある意味常識論の範疇のものなの、鴨。

蓋し、逆に言えば(つまり、この支那高官の常識論を日本国内の政治の現状に引きつけるとき)、我々日本国民にとって民主党政権の凄まじい有害さの核心は、最早、それが「反日・半日・左翼・リベラル・売国」の政権であることだけではなく、否、それら「反日・半日・左翼・リベラル・売国」の要素属性よりもなによりもそれが「無能」な政権であることにある。そう言わざるをえないのではないか。そう私は考えます。

畢竟、三年前の晩夏初秋、2009年の8月に惹起した民主党政権という<巨大津波>に堪えて再起された、喩えるならば、現下の日本政治の<奇跡の1本松>とも言うべき安倍晋三総裁率いる自民党が、一日でも早く政権奪還を果たすこと。私はそれを念じています。

б(≧◇≦)ノ ・・・自民党総裁返り咲き-安倍総理の逆襲に乾杯!
б(≧◇≦)ノ ・・・次は安倍政権の再興、可及的速やかな政権奪還だぁー!
б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!


40s_20121014155500.jpg



スポンサーサイト

テーマ : 安倍晋三
ジャンル : 政治・経済





◆はじめに
2012年9月の自民党総裁選挙。そこで安倍晋三氏が自民党総裁に返り咲いたについては、「ネットウヨ=ネット右翼」のするネガティブキャンペーンの影響が大きかった。虚実はともかく、週刊ポスト「自民総裁選 石破茂氏、ネトウヨによる落選運動に悩まされた」(2012年10月12日号所収)はそう報じています。

本稿は、件の自民党総裁選における<ネット右翼>なるものの実相、あるいは、それに対抗する勢力(例えば、カツカレーやカップ麺の値段を引き合いに出して、安倍・麻生の両総理に寄せられた揶揄等々、それらが行使する頻度から見ても品性から見ても、彼等こそ「ネガティブキャンペーンの元祖総本家」と言っても過言ではないだろう)、所謂「プロ市民」の生態や発想を俎上に載せるものではありません。本稿は「プロ市民」という言葉を「ネット右翼」という言葉の対比において考えてみようとする謂わば「メタ言語行為」;言語自体の意味や用法に焦点をあてた考察です。


◆定義の定義
このブログでも時々書いてきたことですが、畢竟、どのような言葉にも唯一絶対の意味などはありません。このことを「言葉を定義する」という切り口から確認しておきます。これこそメタ言語領域の「定義の定義」の営み。

蓋し、「個々の言葉には各々唯一の指示対象がある」という考えがプラトン以来の西洋哲学の伝統的考え方なのですが、それはなりたたない。このことを「プラトンの髭をオッカムの剃刀が剃り落した」と言う分析哲学者もいます。

意味とは言葉が指し示す事柄のこと。ソシュールは、言葉が指し示す事柄のことを「指示対象」や「記号内容:所記」(sinifie)と呼び、指示対象を指し示す言葉を「記号表現:能記」(signifiant)と言っています。而して、プラトン以来の「個々の言葉には各々唯一の指示対象がある」という考え方を「概念実在論:実念論」(realism)、他方、実在するのは個々の物事や事物だけであり、そんな物事や事物の名前、すなわち、言葉とは単なる社会的な約束事や慣習にすぎない。つまり、「個々の言葉には各々唯一絶対の指示対象はない」という考え方を「唯名論」(nominalism)と呼びます。

プラトンの髭を剃り落したオッカム(1285年?-1349年)とは、中世後期に実在した唯名論の論客の名前。畢竟、中世以来、概念実在論と唯名論の間で戦わされた論争(「中世普遍論争」)は、20世紀に唯名論の後身たる分析哲学によって最終的に唯名論の勝利、概念実在論の後身としてのヘーゲル哲学・マルクス主義・天賦人権論の敗北で終ったのです。

と、哲学の話はここまで。もうPCの前で居眠りし始めた方が、アメリカのジョージア州やヴァージニア州、あるいは、ドイツはニーダーザクセン州あたりにいそうですが、お姉さん方大丈夫ですか(笑)。

b.gif

上の眠たくなる3パラグラフによって、例えば、「江戸いろはカルタ」に書かれた「理屈と膏薬(現在では、民主党の「公約」?)はどこにでも付く」が含意している類の世間知。つまり、「言葉は便利でいい加減で怖いものだ」(朝日新聞の記事を見ていたらよく分かる!)等々ではない、「哲学≒科学方法論」の厳密な意味で、「言葉には唯一絶対の意味はない」経緯を紹介できたと思います。

どのような言葉にも唯一絶対の意味はない。けれども、実際には多くの言葉はかなりの程度決まった特定の意味を持つものとして使われている。だからこそ、その大体決まっている意味と言葉との間隙を穿つ話芸としての落語は面白いのではないでしょうか。

哲学的には言葉には唯一絶対の意味はない。この経緯を「言語と意味の恣意性」と言いますが、而して、哲学的には動かない「言語と意味の恣意性」と言語が大凡決まった意味を持って使われている事実をどう両立させるか。これが、定義の定義たる「定義論」の難所。マルクスの顰に倣えば、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」(『資本論』第1巻2篇4章2節末尾, 岩波文庫(一)p.289)と言うべきところです。

結論はコロンブスの玉子。畢竟、言語とその意味の恣意性は、しかし、個々の言葉とその意味の関係が「無政府状態」あるいは「万人の万人に対する戦い状態」であることを意味しない。要は、中世の唯名論が既に指摘していたように、個々の言葉とその意味の間には人為的な規約・自生的な慣習により<自然法則>ではないけれど、法や道徳の如き<社会規範>が成立している。よって、現実的にはある言葉はかなり限定された固有と言ってよい指示対象の範囲を持ちうる。

逆に言えば、言語と意味を巡るルールは<自然法則>ではなく<社会規範>の一種であるから、そのルールの内容(個々の言語とその意味の関係)は時間とともに変化しうる。こう考えれば、「キリギリス」と「コオロギ」の語義が平安時代は現在と反対であったように、「やばい」の意味が「危ない→素晴らしい」に変化しているのも特に目くじらを立てるほどのことでもないの、鴨。

而して、個々の言葉とその指示対象との関係をこのように理解するとき、「語の定義:意味を巡る言語使用のルール」や言語行為のマナーについては次のように言えると私は考えています。

①どの言葉をどのような意味に使おうがそれは論者の勝手である。しかし、②その論者が自己の言説を他者に理解してもらいたいのであれば、一般的に使用されているその言語使用のルールを参照するか(その言葉が専門用語の場合には、専門家コミュニティーの内部で確立している言語使用のルールを参照するか)、若しくは、個々の言葉の自分流の定義を明示すべきである、と。


c_20121003153328.jpg



◆「プロ市民」 vs 「ネット右翼」
手許にある国語辞典を何冊か引いてみた限り「プロ市民」も「ネット右翼」も収録されていない。双方ともこなれた日本語とはまだ<国語辞典制作者のコミュニティー>では認められてはいないようです。けれど、これらの言葉がネット空間に氾濫していることはご存知の通り(笑)。ちなみに、wikipediaには次のように書かれている。

プロ市民(プロしみん)
1)「自覚・責任感を持つ市民」(=プロ意識を持つ市民)を意味する造語。
2)一般市民を装い市民活動と称し、営利目的で政治的な活動を行う(とされる)者を指す。批判又は誹謗中傷する目的で使用されるレッテル(蔑称)。ほとんどの場合、こちらの意味で使用されている。

ネット右翼(ネットうよく)
インターネット上で右翼的な発言をする人物をさす用語、蔑称。
ネットウヨク、ネットウヨ、ネトウヨとも呼ばれる。


もちろんwikipediaであろうが『広辞苑』であろうが、ある言葉をどのように定義するかはそれぞれの勝手ではあるのですが、日頃から私が奇異に感じていることは、「プロ市民」に対応する「アマ市民」という言葉は寡聞にして聞いたことはないし、また、「ネット右翼」に対応する「ネット左翼」という言葉もそう一般的ではないだろうということ。実際、wikipediaには「アマ市民」は痕跡さえなく、「ネット左翼」は「ネット右翼」の項の説明文に一箇所出てくるだけで独立した項目としては掲げられていません。

何を言いたいのか。それは、「プロ市民」や「ネット右翼」という言葉を誰が主に使っているかを考えれば明らかでしょうが(逆に、「アマ市民」や「ネット左翼」という言葉があったなら、どんな人がそれらを使いたいと思うかを考えれば明らかでしょうが)、「プロ市民」と「ネット右翼」という言葉には、政治の世界と言論の世界の各々のアンシャンレジュームが懐いているルサンチマンが内在しているのではないかということです。

すなわち、「プロ市民」という言葉には、制度的な政治権力の分配においては戦後一貫して保守が牛耳ってきたこの社会で、しかし、「権力とも財力ともとりあえずは無縁な、けれども、普通の平均的な日本国民とも言えない、そんな「左翼-リベラル派」の党派的な傾向性を持つ活動家が普通の国民を装って非制度的に政治権力の分配に参画しようとしている欺瞞」を嫌悪する感情が込められているのだろう。他方、言論の世界は左翼の天下であったはずなのに、ネットが普及してからは、その左翼の縄張りで右翼の活動が目立っていることを悲憤慷慨している「左翼-リベラル派」の鬱積した情念が「ネット右翼」という言葉には憑依しているの、鴨。

こう考えれば、一応、マスメディアを押さえている左翼に対して保守派が「ネット左翼」という言葉を使うことはないし、また、自身が「プロ市民」であることを否定する左翼が「アマ市民」という自己規定を持ち出すはずもないだろうことは了解できると思うのです。

o0320024012216885703.png

興味深いことは、私の観察によればですが、保守派の多くは「ネット右翼」という言葉を投げつけられても痛痒を感じないのに対して、多くの「左翼-リベラル派」は自分が「プロ市民」と規定されると憤慨・激昂しがちということ。この対比が偶さか私の観察した狭い範囲のことではなくかなり一般的な現象だとするならば、両者の反応の差異は那辺に起因するものか。実は、これが本稿の中心的な問題関心です。

私の仮説は次の通り。蓋し、「ネット右翼」には特定の指示対象が存在せず、よって、それは子供の喧嘩や夫婦喧嘩における「お前の母ちゃん出ベソ」「馬鹿」「阿呆」「タワケ」「べらぼうめ」と同様、その言葉を使用すること自体に意味がある罵倒語、侮蔑語にすぎない。よって、「馬鹿に馬鹿と言われてもね」が本音として、そんな罵倒は相手にしない大人の対応が保守派には選択可能である。要は、指示対象のない「ネット右翼」という言葉を「左翼-リベラル派」が投げつけた段階で、その議論は実質的に保守派の勝利と言えるということです。

他方、「プロ市民」には「普通の国民を装って、非制度的に政治権力の分配に参画しようとする、「左翼-リベラル派」の党派的な傾向性を持つ活動家」というかなり明確な指示対象がある。よって、この言葉を投げつけられた「左翼-リベラル派」の人士にとって「プロ市民」という言葉は、単なる「お前の母ちゃん出ベソ」という罵倒語・侮蔑語ではなく、事実関係を争わなければ自身の(普通の国民を装うことで獲得している)政治的影響力が保てなくなる危惧を感じさせるもの。ゆえに、保守派に対して「ネット右翼」という言葉が生起させる反応に比べて、プロ市民は「プロ市民」という言葉に相対的に激しく反応するの、鴨。こう私は考えています。

実は、「お前の母ちゃん出ベソ」も本来は実存的で凄まじい指示対象を持った言説でした。つまり、「貴殿の母上は、その出産に際して充分な医療ケアも受けられない素性の(貧困・不倫・被差別コミュニティーメンバーがゆえに十全なる医療ケアが受けられなかった素性の)方ではないか?」という意義が伴っていた。

敷衍すれば、事実関係の描写でしかない表示義(denotation)を表す「お前の母ちゃん出ベソ:Your mother has a protrunding navel, doesn't she?」というセンテンスには共示義(connotation)としての「お前の母ちゃんは卑しい生まれだろう?:Your mother is out of a very low birth, isn't she?」が含まれていた。而して、現在の子供の喧嘩においては、これらの重層的な語義はすべて捨象され、「お前の母ちゃん出ベソ」は指示対象を持たない空虚な罵倒語になっているのでしょう。

ならば、喧嘩で負けた子供と同様、「左翼-リベラル派」が(いかにも無内容な彼等に相応しい)空虚な「ネット右翼」という罵倒語を捨て台詞として残すのは自然なことと言うべきかもしれません。

と、こう書いてしまえば、いまだに「ネット右翼」を連発するプロ市民や週刊ポストの記者は笑うしかないの、鴨。而して、<安倍総理の逆襲>で幕を閉じた今般の自民党総裁選は、<プロ市民>のそんな言語行為の傲岸不遜と根拠薄弱さを改めて感じさせる出来事でもあった。と、そう私は考えます。


d.jpg


テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済

プロフィール

KABU

Author:KABU
大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
yahoo版のミラーブログ。
2007年9月10日以降の新記事を随時、厳選した過去の自薦稿を漸次アップロードしていきます♪

百人一首 de 海馬之玄関
問い合わせ先
カレンダー
09 | 2012/10 | 11
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
使用状況de電気予報
人間が好きになる名言集

presented by 地球の名言

人生が輝き出す名言集


presented by 地球の名言
夢を叶えるための名言集


presented by 地球の名言
仕事が楽しくなる名言集

presented by 地球の名言

全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

ブログ内検索
最近の記事
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2ブログランキング
fc2rankbanner
miniTube