日本のリベラル派の言論の中では、「右傾化」とか「前のめり」とか、「偏狭なナショナリズム」とか「政治的中立」等々の意味不明の言葉が流布しているようです。蓋し、朝日新聞の社説を見ればこれらの指示対象を欠く<詩的言語>の展示即売会状態。そして、例えば、安倍政権の右傾化を危惧する朝日新聞元主筆の若宮啓文氏も、毎日新聞特別顧問だった岩見隆夫氏との対談(「論争対談・憲法改正は是か非か」中央公論 2013年 4月号所収)の中で、岩見氏に「右傾化ってなんですか」と聞かれて、それがはっきりした意味を持っていないことを認めていますものね(笑)。そして、最後には「右傾化とか、右翼と左翼という区別にあまり意味はない」(p.85)と口走っている(爆)。

ならば、リベラル派は、例えば、集団的自衛権の政府解釈見直しとか、憲法改正、河野談話および村山談話の見直しとか、首相の靖国神社参拝、公立学校での日の丸・君が代の尊重等々のポレミックなイシューで自分達の主張と反対の動きに便宜的に「右傾化」というレッテルを貼ってるだけということ、鴨。ならば、この言葉、「AKB化」とか「裏千家風」とか、なんでもいいんじゃないんでしょうかね。

而して、本稿はこのような<言葉>に対する問題関心を軸にして、オリンピックとナショナリズムを巡る関係を一瞥するものです。というのも、日本では、いまだに、「ダルビッシュ投手は、・・・日の丸の重みになど負けず、ボールを言語として野球というスポーツを戦おうとしている。日の丸はただチームの象徴であるだけだ」(朝日新聞・2008年8月12日)とか「五輪憲章に「オリンピック競技大会は個人種目または団体種目での選手間の競争であり国家間の競争ではない」と規定されている。・・・五輪で国は深い意味合いを持たない」(朝日新聞・2010年2月24日)などという無知蒙昧の反日リベラルの言説が堂々と全国紙の紙面に掲載されているから。

敷衍します。確かに、『オリンピック憲章:Olympic Charter』(2010年2月11日版)の(Ⅰ章6-1)には、「オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」(The Olympic Games are competitions between athletes in individual or team events and not between countries. )と書いてあります。では、なぜ、無知蒙昧とまで書くのか。

はい、それは--論証は下記拙稿をご参照いただきたいのですけれど--、五輪憲章においてさえ「五輪で国は深い意味合いを持たない」ということは全くの間違いだからです。きっぱり。

蓋し、オリンピックは民間の法人(IOC)が勧進元として運営する大会、よって、土台、オリンピックが国家を代表する選手で運営されることはないのです。けれども、オリンピックの出場選手は各国のオリンピック委員会(NOC)が選択した選手に限られており、また、NOCと国との関係は五輪憲章上からも不可分というか表裏一体のものということ(Ⅳ章27, 30, V章II-40, 41)。よって、この「五輪と国」の関係を巡る現象はオリンピックやサッカーワールドカップを契機にして「ナショナリズム」を政策的に高揚させる国もあれば、それほどでもないかなーという国もあるという、程度問題にすぎないのだと思います。

・決定! 東京オリンピック2020--
 筋違いの<五輪幻想>から解脱して素直に喜びませんか(上)~(下)
 (中の後半から下で「五輪と国」の位置づけについて詳述しています)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62122133.html 


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いきなり結論に行きます。蓋し、(ⅰ)オリンピックをどう位置づけるかは五輪憲章などに拘束される筋合いはなく、各国、各人の自由であるということ。ならば、五輪憲章に「オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と書いてあろうが、あるタイプの国が--例えば、支那とか韓国とか北朝鮮のような国が--オリンピックやサッカーワールドカップを契機にして「ナショナリズム」を政策的に高揚させることは悪趣味としても自由であり、また、あるタイプの国では--例えば、日本や米国や英国では--その国民が「ナショナリズム」を満喫する、すなわち、ある種のカタルシスとアイデンティティの確認を国民総出で体験する--時空をまたぐ<行く年来る年→速攻の初詣>ともいうべき--イベントとしてこのスポーツコンテンツを消費するのも自由であろうということ。

而して、「ナショナリズム」とは何か。

と、そんな大仰な議論はここでは割愛して--逃げるわけじゃなかです。詳細は下記拙稿をご参照ください、眠たくなるのはほぼ確実でしょうけど(泣笑)--、(ⅱ)オリンピックやサッカーワールドカップという契機を通して消費される「ナショナリズム」とは、文字通り、「国民国家-主権国家」に憑依するものであり、厳密に言えば、エスニシティ―に憑依するものではないということ。

ならば、(ⅲ)エスニシティ―とは異なり極めて歴史的に特殊な観念表象である<国民>が、そう自然な存在ではなく人工的なものであるとすれば、その<国民>を社会統合することが「国民国家-主権国家」の最大級のタスクであると考える場合、オリンピックやサッカーワールドカップを利用するか借用するかの差は置いておくとしても、オリンピックやサッカーワールドカップという<場>が「ナショナリズム」の祝祭になることはなんら問題ではない。と、そう私は考えます。

畢竟、オリンピックやサッカーワールドカップは<戦争>なのです。ならば、<戦時国際法>を順守する限り、オリンピックやサッカーワールドカップなどはなんでもありの世界である。だから、ノーベル平和賞とかに公平性や普遍性をなにがしか期待する以上に、究極のところ、オリンピックやサッカーワールドカップに公平性などを期待するのは愚かなことだ。と、そう私は思います。


而して、英国の平和主義者、ジョン・ラスキン(John Ruskin;1819年-1900年)が喝破した如く、「戦争はすべての技術の基礎なのだ。というのも、戦争が人間のあらゆる高い徳と能力の礎だという意味でもある。この発見は、私にとって何とも奇妙で、非常に怖ろしいことだったが、けっして否定出来ない事実に思えた・・・。簡単にいえば、偉大な国民はみな、その言葉と真実と思想の力を戦争で学ぶこと、戦争に養われ平和に消耗させられること、戦争に教えられ平和に欺かれること、戦争に鍛えられ平和に裏切られること、要するに戦争で生まれ、平和で息を引き取ることがわかった」という認識。

よって、戦争を直視すること、すなわち、戦争を含む非常事態が惹起する恒常的蓋然性から目を背けるべきではなく、それに常に備えるべきなのだという認識がそう満更間違いではないとすれば。「国民国家-主権国家」とその<国民>は、オリンピックやサッカーワールドカップという<戦争>に真面目に取り組まねばならない、とも。


(ⅰ)オリンピックやサッカーワールドカップをどう位置づけるかは見る側の自由である
(ⅱ)「ナショナリズム」とは「国民国家-主権国家」単位に成立する観念表象である
(ⅲ)オリンピックやサッカーワールドカップが「ナショナリズム」の祝祭なのは当然である



・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html

・天皇制と国民主権は矛盾するか(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60944485.html

・国家神道は政教分離原則に言う<宗教>ではない
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62105204.html


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オリンピックやサッカーワールドカップを巡ってリベラル派は何を危惧しているのか。リベラル派になったことは一度もないので想像するしかありませんけれど、それは、おそらく、「国民国家-主権国家」を超える<地球市民>という彼等の諸々の主張を支えるイメージがそれらのイベントコンテンツを通して、ますます、その神通力を失うことなの、鴨。と、そう感じます。

敷衍すれば、グローバル化の時代、ある「国民国家-主権国家」が果たせる行政サービスの領域や能力は逓減している、そして、だからこそ、「国民国家-主権国家」の必須のタスクたる<国民>の社会統合における「国民国家-主権国家」への期待は大きくなってきた。こんなパラドキシカルな状況を前に、「国民国家-主権国家」も<国民>も、リベラル派が喧伝してきた<地球市民>なるものからますます離れ、<ナショナル>なものに向かうことに彼等は茫然自失しているの、鴨。まー、想像ですけどね。

蓋し、ナショナリズムとは元来、多様な民族を百花繚乱的に包摂していたより普遍的な--ある意味、一個の宇宙とでも言うべき--<帝国>が解体した後、それの民族よりは同質性の高い--言語・文化、歴史認識において同質性の高い--幾つかの民族を囲い込むための<政治的神話>だったのだと思います。

だってね、英国のスコットランドとか、スペインのバスクとか、あるいは、アイヌの方とか沖縄の人とかを想起するまでもなく、あのー、九州や関西と神奈川や山形ではね、お餅や味噌だけでなく、結婚の際の新居の準備を新郎新婦のどちら側が負担するかさえルールが違いますから。つまり、ナショナリズムを、アーネスト・ゲルナーの言う如く「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」と定義するとしても、その「民族的単位」には幾分の多様性はあるということ。


而して、重要なことは、はっきり言えば<嘘>である、<日本国民>や<フランス国民>の一体性や等質性なる<政治的神話>は、しかし、グローバル化の中で資本主義の暴力と、あるいは、東アジア地域における特定アジア諸国の脅威にさらされている日本国民を想起すれば自明なように、現在の人類史においては人々にとって<役に立つ嘘>であるということ。そして、繰り返しになりますけれど、だからこそ、その<嘘>の効果を維持強化することは冗談抜きに重要な国家のタスクであり、ならば、その国民がオリンピックやサッカーワールドカップを契機にナショナリズムを満喫することに反日リベラルはいちゃもんつけるんじゃねぇー! と、そう私は思います。


畢竟、<国民>の権利と<外国人>の権利が異なるのは当然なのです。ただし、オールオアナッシングではなく当然に<外国人>に認められる権利は存在する。よって、問題は正当な<外国人>の権利の侵害であり、それは実は、ナショナリズムとは無関係。なぜならば、権利の正当性を決めるものはナショナリズムに底礎された憲法秩序でしかないからです。

而して、所謂「ヘイトスピーチ」を規制する立法というものは、実は、あたかもメシアの出現を待ち望むかの如く、<地球市民>なるものの到来を指折り数えて待っている日本独特のリベラル派の色彩よりも、間違いなく、些か多様な人々を「国民国家-主権国家」につなぎとめる極めてナショナリズムの色彩が濃厚なものでしょう。ならば、<国家>に対する<国民>の社会統合のパフォーマンスが、そんな立法が必要な欧州各国程にはお粗末ではない日本ではそんな--表現の自由を表現内容を基準に一律に規制するなどという、英米の憲法訴訟論の見地からはほとんど<ナチス>や<スターリン>や<毛沢東>ものの--立法は不要。

そして、「偏狭なナショナリズム」なる指示対象のない意味不明の言葉で語られる事象に、本当に何か社会的に解決すべき問題があるとすれば、その行為者の行動を個別に批判すればよい。畢竟、「偏狭なナショナリズム」なり「偏狭なAKB48」なりの意味不明の言葉で、十羽一絡げ的に「ナショナリズム」自体に問題があるとするリベラル派の言説は論理的にも思想的にも破綻している。と、そう私は考えます。


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ソチオリンピック、弊ブログはキムヨナ姫を応援します。そんな、記事タイトルを見て初めて来訪された方にはもうしわけないですが--弊ブログをよくご存じの向きは「またか」と相手にもしないでしょうから--、なぜ、キムヨナ姫を日本の一応保守系ブロガーが応援するのかの理由は、もう、4年前から書き尽くした感があり割愛させていただきます。その理由は、下記拙稿およびそこにURLを記している拙稿をご一読いただければと思います。

・バンクーバーオリンピック☆私はキムヨナ選手を応援する
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59065358.html

・キムヨナ姫、氷上に再降臨--飛んだり跳ねたりしかできない浅田選手は邪魔だ、本当に--
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61752063.html

・キムヨナ姫のオリンピック連覇とその直後の引退は確実
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61757678.html


要は、本エントリーは、試合前に、
旗幟を改めて鮮明にするだけのもの。


だって、
勝ったから、


б(≧◇≦)ノ ・・・どーだー!



だって、
負ければ、


б(≧◇≦)ノ ・・・<沈黙>



というのでは、海馬之玄関の沽券にかかわるというもの。

と、でも、ここで、「あれー、「負ければ」って、キムチが負けるかもしれないと思っているんですか」とか思う読者もおられる、鴨。はい、一般論としての「勝負は時の運」というのとは別に、この数か月の状況の変化を鑑みるに、キムヨナ姫が負ける可能性は低くないと思います。


怪我、コンディション、あの国ならではのプレッシャー、引退後の進路設計の不調・・・。
なにより、もともと、バンクーバーで金メダルを取って以降、本質的に、キムヨナ姫には、
現役を続けるモティベーションがないといえばないのだもね。


だけど、今回も、韓国ロビーが
秘術を尽くし全力を傾けた結果の、所謂、


б(≧◇≦)ノ ・・・銀河点、炸裂!


も間違いないでしょう。それに文句を言うのなら--オリンピックもサッカーワールドカップも、<戦争>なのだから、要は、戦時国際法を踏まえる限りなんでもありの世界なのだから--、バンクーバーで銀河点が炸裂してからでも4年間、この4年間、日本のスケート連盟は何してたのという話でしょう。土台、オリンピックに公正さを期待する感覚自体が保守主義とは異質な、左翼・リベラルの観念的教条主義に近いのではありますまいか。ありますまいか、です。

そして、コンペティターも脆弱。なにより、あの「ハトが豆鉄砲をくらったような間抜け顔」の、世界でどころか、日本でもその在籍大学を愛知県民と岐阜県民と、おまけして、三重県民くらいしか知らないあの浅田真央選手に負けることはないでしょう。浅田選手が4回転を4回飛んでも、キムヨナ姫のスコアには届かない。きっぱり。それなのに、いまだにリスクを抱えるトリプルAにこだわる心性。馬鹿かというか、税金ドロボーの域に彼女と彼女のスタッフ陣は入っているんじゃないの、鴨です。


だから、順当に行けば、ヨナ姫は、普段、デパートでお買いものをするように、
普通に金メダルをお買い上げしてお持ち帰りされるはず。
と、そう予想はしています。だから、

だから、姫が負けるとすれば新鋭の誰かでしょうかね。


ならば、個人的には、英米法でいう「private act」、--すなわち、ある特定の個人や会社、もしくは、地域のみを対象にした国法--を姫のために国際スケート連盟で作り、「ヨナ姫がリンクを3周した時点で「金メダル」、あとの順位はこれまでのスコア方式で行う」とすれば、最も合理的なの、鴨。と、思わないではないです。正直、筋金入りのキムヨナ姫ファンとしてはそれでも全然問題ない。オリンピックの権威なんぞ、ヨナ姫の<美>の価値の前では、皇室の権威の前の脱原発デモのようなものでしょうから。



でも、負けるかもしれない。
だからこその「応援」です。

保守主義者は激しく希望は抱いても
願望はあまり持たない者でしょうから。


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蓋し、現代の保守主義とは、(1)自己の行動指針としては自己責任の原則に価値を置く、そして、(2)社会統合のイデオロギーとしてはあらゆる教条に疑いの眼差しを向ける、よって、(3)社会統合の機能を果たすルールとしては、さしあたり、その社会に自生的に蓄積された伝統と慣習に専ら期待する、換言すれば、その社会の伝統と慣習、文化と歴史に価値を置く態度と心性を好ましいと考える。而して、(4)その社会の伝統と慣習、歴史と文化をリスペクトする<外国人たる市民>に対しては、逆に、彼等の社会の伝統と慣習、歴史と文化を<国民>もリスペクトすべきだと考えるタイプの社会思想である。と、そう私は考えています。


敷衍するべく、ロールモデルで言えば、日本の典型的な保守主義者とは、


・地方出身もしくは在住の
・カトリック教徒かルター派の信者で
・英語はTOEIC860点程度は二日酔いでもとれるぞという
・自営業か農業を営む
・尊皇の志堅固な
・自民党員


というところでしょうか。あのー、あくまでも、これ<理念型>ですから、東京在住の方でも、TOEICが855点しかとったことなくても、大阪市役所の職員でも、維新の会のメンバーでも、別に、保守主義者であることは十分可能だと思いますよ。為念。


而して、ならば、

敬虔なカトリック信者にして、親米派、熱烈な愛国者にして、
韓国ファンに対する最も手厳しい批判者。

三流国とはいえ一国の名門、高麗大学に在籍する
保守主義の同志にして、私がひそかに、オリンピック連覇後は日本に帰化していただき、
皇室に嫁いでいただきたいと考えているヨナ姫。


そう、弊ブログでは、神功皇后と<同一神格>のキムヨナ姫。



保守主義を信奉する者はすべからくヨナ姫を応援するべきである。
と、そう私は思います。国はちがえ<愛国者>同士は話ができると思いますから。
もっとも、「どこまでは譲れない-どこまでは譲れる」という話ですけれどもね。


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本書、橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』(講談社現代新書・2009年7月)は小著ながら、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の本質を紹介した良書だと思います。もちろん、著者がプロの社会学者・社会理論研究者ということもあり、哲学プロパーの研究者からの評価はそう芳しいものばかりではない。けれども、蓋し、保守主義からの憲法基礎論の再構築を<趣味>にしている私にとってはもう感謝感激ものの一書。

本書は、実を言えば、著者の橋爪さんの実質的な<処女作>ともいうべき『言語ゲームと社会理論―ヴィトゲンシュタイン ハート・ルーマン』(勁草書房・1985年8月)の第一章と第二章の全面改訂版ともいうべきもの。そして、例えば、カントの『純粋理性批判』の第1版と第2版とどちらが優れているのか議論があるのとは違って、少なくとも哲学プロパーではない読者にとっては間違いなく、前著よりも本書『はじめての言語ゲーム』が便利だと思います。

なにより、前著では著者ご自身が「言語ゲーム」を理解するための<苦行>というか<苦労>がやはり滲み出ていたのに対して、--よって、読者は著者の<苦行>を追体験する様相がなきにしもあらずだったのに対して--本書は、「言語ゲーム」のエッセンスだけがさらっと述べられていますものね。ということで、保守主義の立場から政治や社会をとらえ返したい--左翼・リベラルに対する理論武装をしたい--、そのために役に立つというのなら「言語ゲーム」とやらも学んでもいいかも、とかとか考えておられる読者にとって本書の上梓は僥倖と言うべきものだった、鴨。


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では、「言語ゲーム」とは何か?


それを書けば本書のネタバレになるので、
控えさせていただきたいのですけれど・・・。

まあ、簡単に言えば・・・。それは、


ルールに則って繰り広げられている
人々の社会的なふるまいのこと



重要なことは、


あるゲームのルールの存在と内容は、
その言語ゲームの中でのみ観察され体得されるしかないこと
つまり、ルールの正当性の根拠自体を記述することは
言語ゲームの中では不可能ということ。


更に、重要なことは、

人間の認識とはすべからく、この言語ゲームの営みの中でその判断の正誤の基準を得ていること、というか、認識の枠組み自体が言語ゲームを通して獲得された諸ルールで編み上げられていること。要は、この世に、言語ゲームではない言語行為なり社会的な行為は存在しえないということ。


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例えば、「天皇制」が日本の社会で価値を得ていることは、政治を巡る日本社会の言語ゲームの中に--それに価値を置かない反日リベラルも含めて誰しもが、具体的な日本人の現下の行動様式の中に--観察できる。けれども、究極の所、「天皇制」の価値を論証することはできない・・・。

而して、この諦観というか覚悟というか潔さというか、いずれにせよ、社会に対する認識の構図は、英米の--慣習法と判例法の蓄積としての--法の認識と極めて親しいと思います。ちなみに、言語ゲームの考え方と保守主義との親和性については、著者、橋爪さんの同志といってよい(のかな?)、同志社大学の落合仁司さんの好著『保守主義の社会理論―ハイエク・ハート・オースティン』(勁草書房・1987年12月)も併読いただければと思います。

尚、落合さんのこの著書は、出版までの長年の研究というか思いのたけを一気に原稿用紙というかキーボードに叩き付けたという気配があり、1センテンスというか1パラグラフが、内容的には切れ目なく次のセンテンスやパラグラフに続いている。要は、そうそう読みやすくはない。けれども、まー、弊ブログの記事よりは遥かにましでしょう(笑)。



これ以上書くと確実にネタバレになる。
よって、本書で秀逸と感じたポイントと、他方、
私が橋爪さんに同意できないと常々感じていること
だけをまとめておくことにします。


本書の白眉は3点。それは、

(Ⅰ)ウィトゲンシュタインの前期と後期の思想を
   一体のものとして提示していること
(Ⅱ)言語ゲームの説明を、石工の隠喩--数列の比喩--の
   1点に絞って説明していること
(Ⅲ)ある言語ゲームとその言語ゲームを理解するための
   別の言語ゲームの重層構造を提示したこと


而して、『論理哲学論考:Tractatus Logico-philosophicus』(1921)で開示された前期のウィトゲンシュタインの思想--写像理論--と「言語ゲーム」に収斂した後期のウィトゲンシュタインの思想の関係は如何。本書は、写像理論とは、--社会に数多ある、というか、社会とは諸々の言語ゲームの集積であり言語ゲームの星雲状態に他ならないのでしょうけれども、そんな数多の言語ゲームの中で--(Ⅱ)(Ⅲ)科学的もしくは論理的な言説を行うかなり特殊な言語ゲームと理解している。そして、(Ⅰ)前期と後期を貫くものは「この世界に意味と価値が確かに存在していること」の確信。そして、この世界の意味と価値の根拠を果てしなく探究したウィトゲンシュタインの--懐疑論を打破しようとする、他方、左右の教条主義に抗しようとする--哲学をすることを生きる、モティベーションとモティーフにあった、と。

実は、(Ⅲ)の重層的な言語ゲームという構想の運用実例を著者は、前著以来一貫して、ハートの法哲学に求めておられる。けれども、著者自身も認められているように、ハートがウィトゲンシュタインの言語ゲーム論の影響を受けて、その法哲学を構想したという証拠はありません。

私も、しかし、--ウィトゲンシュタインとハートの間に直接間接の交流が一切なかったとしても--、第一次ルールと第二次ルールの(具体的な行為規範、および、その行為規範を発見・変更・承認する規範の両者の)重層的な構造として法体系を理解するハートの法哲学は、言語ゲームから捉えられるとき--正確に言えば、ある言語ゲームとその元の言語ゲームを理解するための言語ゲームの重層構造として法体系を理解するアイデアと捉えるとき--最も整合的に理解できるの、鴨。と、そう思います。



而して、後期のウィトゲンシュタインの哲学はフッサールの現象学とほとんど同じ地平に至っているの、鴨です。それは富士登山の喩の現代哲学版ではないかしらん。そう、富士山に登るのに静岡の御殿場側から登るのも、山梨の吉田口側から登るのも一興であり、かつ、目的地は同一ということ。蓋し、フッサールが人間の能力の吟味検討、つまり、自己や他者--現象学では、自己と同一の存在であると自己である<私>が確信を持って認識した他者のことを「他我」と言いますけれども--、あるいは、社会や世界を人間が理解する能力と様相の検討から登り至った地点に、他方、ウィトゲンシュタインは言語の用法と性質の吟味検討、それは実は、人間の行動様式の捉え返しの登山口から至ったの、鴨と。

フッサールとウィトゲンシュタインの両者の哲学の内容の「家族的類似性」については、橋爪さんは何も書いておられないけれど、本書を再読して改めてそう感じました。個人的には、この現象学と分析哲学の親和性の予感--もし、そう書いても許されるなら、そんな「予感の確信」--が今回本書を再読した一番の成果であり、それゆえにこそ、いまさらながら書評をアップロードしておきたいと感じた次第です。


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と、最後は蛇足。
これ本当にどうでもよいことなんですが、
橋爪さんへの不満を書いておきますね。


不満といっても、例えば、実数の集合の濃度と自然数の集合の濃度の比較に
ついての「対角線論証」のかなり拙い説明--図表の例示が拙劣!--とか、
ベキ集合の濃度が元の集合の濃度より高いことの説明が割愛されていること、
--これは、仏教か本居宣長かのどちらかを削っても丁寧にやるべきだった
のではないでしょうか--とかのテクニカルなことではありません。

では、何に私は不満なのか。
それはなにか。


それは、あのー、これ、言葉の定義の問題にすぎないのですけれどね、

新カント派のケルゼン、あるいは、ラートブルフに典型的な如く、
あのー、「相対主義」、就中、「価値相対主義」は「不可知論」とは違うんですけど。

ということ。


すなわち、


白黒はっきり言えば「相対主義」、
就中、「価値相対主義」とは、



б(≧◇≦)ノ ・・・この世に絶対の価値も真理も、
б(≧◇≦)ノ ・・・絶対に存在しない!


少なくとも、


б(≧◇≦)ノ ・・・人間存在はそんな絶対の価値なり真理を、
б(≧◇≦)ノ ・・・絶対に知ることはできない!


という、一種の絶対主義である。而して、実践哲学としての価値相対主義は、自己の主張を絶対視しない、よって、自己が選び取った行動選択については、責任を負うという潔い態度であり、それは現在の保守主義と極めて親和性の高いものではないか。と、そう私は考えています。それは、「語りえないものには沈黙」しつつ、沈黙が許されない現実の実践場面での自己の行動選択には責任を負う中庸を得た立場であるとも。

実際、ハートが--言語ゲームと近しい--法のルール説から激しく批判する法の命令説の論者。法とは主権者の命令だ、よって、悪法も法であるという法命令説の論者。その代表としての分析法学の源流たるJ・オースチンもまた、主権者の命令を超える権威を持ちうる道徳ルールの存在を前提にしていた。而して、このとを鑑みれば、分析法学を包摂する価値相対主義の法哲学も、実践的には--文字通り、法を巡る言語ゲームの営みの中では--十分に、ハートの如き法ルール説の論者とも共闘が可能なのではなかろうか。と、そう私は考えています。


ちなみに、下記拙稿は、
言語ゲームのアイデアを援用しつつ、保守主義から憲法基礎論を再構築しようとした習作。
ご興味のある向きにはこの拙稿もをご一読いただければ嬉しいです。


・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html


ウマウマ(^◇^)


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(Ⅱ)立憲主義と民主主義
朝日新聞の主張「憲法によって国を治めるのが、近代の民主主義国の仕組みだ。憲法は、別の法律や命令では変えることはできない。つまり、時の権力者でも思うままにはできない。首相は、こうした立憲主義の考え方が、絶対王政時代の遺物だと言いたいのだろうか」は明らかに「立憲主義」の曲解、もしくは、贔屓の引き倒しの類の言説だと思います。

第一に、憲法改正条項(96条)の改正に際しても、安倍総理は現行の占領憲法の諸々の手続を踏んで行おうとされているのだから「憲法は、別の法律や命令では変えることはできない。つまり、時の権力者でも思うままにはできない」という批判は筋違いである。それとも、朝日新聞は立憲主義を根拠に「憲法典の改正規定を遵守したとしても時の権力者なるものは憲法典を変更できない」とでも言いたいのでしょうか。

もしそうなら、それこそ「憲法によって国を治める立憲主義」を否定する主張だと思います(尚、憲法改正条項の改正は「憲法の改正」ではなく法学的意味の革命、すなわち、「新憲法の制定」であるという主張に関しては旧稿「憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する「法学的意味の革命」か」をご参照ください)。

第二に、現下の大衆民主主義下の社会において、「時の権力者」なるものは「社会の多数派、および、その社会の多数派を擁する時の立法府と行政府」でしかない以上、「立憲主義」は「社会の多数派の支配」としての民主主義と鋭く対立する法理念だからです。

尚、この、立憲主義と民主主義の交錯と相克に関しては
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62198131.html

 
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而して、国家権力を正当化する民主主義という法理念を退ける立憲主義の<神通力>は、ある「権利の権利性」が間主観的にその当該の社会で了解される限り--ある権利の権利性について国民の間に法的確信が存在する限りにおいて--認められるものでしょう。そうでなければ、立憲主義のパーツとしての司法審査を鑑みるに、民主主義的な要素がより濃厚な立法府や行政府といった政治セクターの判断や行為を、つまり、その社会の多数派の要求を、選挙の洗礼も経ていない法テクノクラートが構成する司法府が違憲・無効にできるという根拠は存在しないでしょうから。


加之、アメリカ憲法では「政治問題:political questions」と呼ばれる--日本では「統治行為」と呼ばれている--外交や安全保障、エネルギー政策等の高度の政治性を帯びる問題、あるいは、政教分離原則の射程等のその社会内に歩み寄りが不可能なほど鋭く、かつ、その社会を二分するイデオロギー対立が存在する問題については司法府は司法審査を行うべきではないというルールもまた、民主主義に立憲主義が道を譲るべきとされる類型にほかならない。而して、「政治問題-統治行為」は、社会の多数派に鬱積する不満と怨嗟がついに<暴力>を帯びて現行の実定法秩序と憲法体系を打ち倒すことを防ぐための憲法保障の仕組み、換言すれば、立憲主義を守るための<安全弁>なのだと思います。

すなわち、「立憲主義」とは、逆に言えば、司法審査が可能で妥当な法的紛争の範囲を確定するためのガイドラインであり、極論すれば、そのような司法府を組み込んだ国家の統治機構全体の正当化ロジックである。と、そう私は考えます。ならば、「立憲主義」と「民主主義」を共に「時の権力者」なるものに対する制約原理と解する朝日新聞の理解は完全に間違っているということもまた。


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(Ⅲ)硬性憲法を説明するロジックとしての立憲主義
説明するまでもないことでしょうが、その改正に通常の立法手続よりもより厳格な手続を求めている憲法典のことを「硬性憲法」と呼びます。そして、(Ⅰ)「権力者とは誰か--立憲主義の守備範囲」で述べたように、「権利性の認められる権利」を時の社会の多数派からも容易には侵害されないようにするべく、憲法典に権利規定を定め、かつ、司法審査の蓄積の中でその権利の保障を行うだけでなく、その権利規定の改正要件を厳格化することは確かに「立憲主義」の内容の一斑と言える、鴨。

けれども、「立憲主義」の意味内容は、謂わば「硬性憲法を正当化するロジック」に尽きている。なぜならば、実際、現実的にも、また、--「立憲主義」自体が紛争解決を通した権利の保障について具体的な判断基準を備えているわけでもないのだから--法論理的にも、具体的な権利の保障は個々の具体的な案件に際して具体的な権利条項の解釈を巡る司法審査の中で行われるしかないのですから。

蓋し、ならば、ある社会のある時代において、どの程度の憲法改正条項の厳格さが<立憲主義>からみて妥当かどうか。就中、--前節で触れた、立憲主義と民主主義の二律背反の構図を想起するに--どの程度の憲法の硬性性が民主主義の謂わば「受忍限度」や「許容範囲」と言えるかどうかは、これまた「立憲主義」の四文字をいかに睨んでも詳らかにすることは不可能なのです。

畢竟、国会議員による改憲案の発議要件が現行の占領憲法の如く「3分の2以上」なら<立憲主義>に沿っており、「過半数」なら<立憲主義>からは正当化され得ないということはないということ。自民党の改憲案でも憲法改正には国民投票が課されており、それはそれでまた硬性の憲法である--<立憲主義>の精神を踏まえている!--、他方、現行の3分の2以上を4分の3以上に修正する改正案に比べれば、現行の占領憲法は--<立憲主義>の精神を軽視している!--と言えるでしょうから。

何を言いたいのか。蓋し、「立憲主義」を持ち出してする憲法改正条項(96条)の改正批判はそう根拠の確かなものではないということ。すなわち、それは単なる「硬性憲法説明のロジック」にすぎない「立憲主義」を、現行の占領憲法の適切な硬性性--あるべき厳格さの程度--を判定する根拠として用いる誤謬を犯したもの。いずれにせよ、「権利性のある権利の尊重」を要求する法理念として「立憲主義」を捉える場合、直接には、--「憲法を国民の手に取り戻す」こと、つまり、国民の参政権を拡充することを除けば--いかなる権利の侵害とも権利の保障とも無縁な改正要件の具体的な変更の是非を「立憲主義」を基準に判定することなど不可能。と、そう私は考えます。


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(Ⅳ)憲法の概念と立憲主義
この社説が陥っている最大の陥穽は、それが憲法の概念または事物の本性と「立憲主義」を二者択一的のものと捉えていることでしょう。「「考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方がある」。それこそ立憲主義である。問題はその次だ。「しかし、それは王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、いま憲法というのは日本という国の形、理想と未来を、そして、目標を語るものではないかと思う」これには、とても同意することはできない」、と。あのー、「国家権力を縛るもの」と「日本という国の形、理想と未来を、そして、目標を語るもの」は矛盾していますか。

第一に、アメリカ憲法にせよフランスの憲法にせよ、なにより現行の占領憲法や旧憲法を紐解くまでもなく、世界の憲法典の中に「国の形、理想と未来を、そして、目標」を語っていないものなど一つも存在しません。それとも、朝日新聞の社説子はアメリカ憲法の前文や現行の占領憲法の前文を読んだことがないのでしょうか。

第二に、政治社会学的に見た場合--近代以降の「国民国家-主権国家」の、かつ、憲法の事物の本性や憲法慣習といった実質的意味の憲法を捨象して形式的意味の憲法(憲法典)に限定したとしても--、<憲法>とは<国家>の実定法秩序に正当性を付与する最高の授権規範であり、すなわち、国民を社会統合するイデオロギー装置である。こう見た場合、例えば、現行の占領憲法の根幹もまた、旧憲法同様、日本の「国の形」を明記した第1章「天皇」であり、また、安倍総理が、憲法とは「国の形、理想と未来を、そして、目標を語るもの」と理解されていることは毫も「不思議」ではなく中庸を得た穏当な憲法理解であろうと考えます。

第三に、繰り返しになりますけれども、「時の権力者でも思うままにはできない」ということが、まさか、「時の社会の多数派、および、その社会の多数派を擁する時の立法府と行政府も憲法を変えることは一切許されない」ということでもない限り、憲法の改正手続に沿った憲法の改正を行うことは民主主義の要請であり、また、そのような立憲的な手続に則った憲法の改正を封じることは立憲主義を根拠にしてできるはずもない。なぜならば、「立憲主義」から導かれるのは「権利性を帯びる権利の尊重」という要請と「司法審査の妥当な範囲の確定」という基準までであり、「国の形、理想と未来、そして、目標」を憲法典に書き入れてはならないなどの規則が<立憲主義>から演繹されることはないのですから。


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第四に、夜警国家の時代でもあるまいに、社会権が権利性を獲得して久しい現下の福祉国家を念頭に置くとき--かつ、グローバル化の昂進著しく、国際競争が激化の一途を辿っている現下の人類史において--、憲法は国家権力を縛る側面だけではなく、国家権力からのサービス供給の枠組みを定めるものです。

ならば、単なる権利間の調整原理である「公共の福祉」を超えて--安全保障の側面でも厚生経済政策の側面でも--国家権力が、公益の観点からする私権の制約と富の再配分、そして、国益の観点からする内政外交両面での統一的政策コングロマリットを推進することを憲法は謂わば「動作動詞の現在進行形」で正当化する機能を果たさなければならない。

要は、比喩ではなく社会権とは国家予算、更に言えば、景気動向指数と失業率のパラメーターであり--かつ、郵便ポストの色が赤色である必然性はないように、ルールの内容自体に必然性は乏しいが何らかのルールが定まっていることに社会的な意味と効用があるという事柄、「調整問題」の対象であり--、自由権に比べてもある国のある時点でのその内容を「立憲主義」の四文字から導くことは金輪際不可能でしょう。すなわち、憲法は「立憲主義」の他に「国の形、理想と未来、そして、目標」の規定に飢えているということです。

而して、この認識に異論がある向きにとっても、そのような現下の広大な国家権力の行政サービスの守備範囲を鑑みるに、それに比して、<立憲主義>が「動作動詞の現在進行形」で縛りうる国家権力の活動範囲は--それを司法審査の対象と再定義してみるとき--太平洋に風呂桶1杯分もないことだけは認めざるを得ないのではないでしょうか。再度記しておきますが、要は、国家権力の守備範囲は<立憲主義>の空間的守備範囲を遥かに超えているということです。


ことほど左様に、朝日新聞のこの社説は--「国の形、理想と未来、そして、目標」といった--「憲法の概念」や「憲法の事物の本性」に含まれる意味内容を、それらと無縁とまでは言わないけれど、それらの「真部分集合」にすぎない「立憲主義」という言葉から理解して批判する誤謬を犯している。それ正に立憲主義の無知の爆裂。と、そう私は考えます。

尚、「憲法」の概念を巡る私の基本的な理解については
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・保守主義の憲法観
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60996566.html

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444652.html

・天皇制と国民主権は矛盾するか(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60944485.html



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木花咲耶姫


テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済




安倍晋三総理がその実現を期す憲法改正を巡って日本では不思議な言説が
跳梁跋扈、百鬼夜行、というか、百鬼昼行しているように思います。

一言で言えば、リベラル派から見ておよそありとあらゆる好ましい状態を「立憲主義」に結びつけ、而して、その「立憲主義」なるものから、およそありとあらゆる保守派の改憲論を批判しようとする傾向。つまり、「立憲主義」という言葉の意味のインフレーション、あるいは、「立憲主義」に対する無知の露呈。そんな「立憲主義」の意味の膨張と無知の爆裂。そうとしか見えない社説を朝日新聞で目にしました。これです。


▼立憲主義とは--首相の不思議な憲法観
・・・憲法とはどのような性格のものか--。衆院予算委員会での野党議員からの問いに、首相は、こう答えた。

「考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方がある」。それこそ立憲主義である。問題はその次だ。「しかし、それは王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、いま憲法というのは日本という国の形、理想と未来を、そして、目標を語るものではないかと思う」

これには、とても同意することはできない。憲法によって国を治めるのが、近代の民主主義国の仕組みだ。憲法は、別の法律や命令では変えることはできない。つまり、時の権力者でも思うままにはできない。首相は、こうした立憲主義の考え方が、絶対王政時代の遺物だと言いたいのだろうか。


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まさか、とは思う。だが、憲法改正の厳格な手続を定め、立憲主義を体現する96条についての首相の答弁を聞くと、本気なのかと思えてくる。首相は96条を「改正すべきだ」と改めて述べた。・・・自民党の案は、国会議員による改憲案の発議要件を、3分の2以上から過半数の賛成に緩めるものだ。首相は、最後は国民投票で決めるから問題ないというが、そうだろうか。

改正の内容を審議するのは、国民を代表する議員の役割だ。憲法は、そこで3分の2以上の賛同が得られるまで議論を尽くすよう求めている。それを過半数に下げるのは、まさに時の権力者が思いどおりにできるというに等しい。首相は「憲法を国民の手に取り戻す」と国民投票の意義を強調する。・・・

首相は、96条の改正について国民の理解は得られていないと認めている。改正は立憲主義の精神を都合よく骨抜きにすることだと、多くの国民が感じとっているからではないか。過去の遺物だと言ってみても受け入れられはしない。

(2014年2月6日)


この社説で咎めるべきポイントは次の4点。

(Ⅰ)権力者とは誰か--立憲主義の守備範囲
(Ⅱ)立憲主義と民主主義
(Ⅲ)硬性憲法を説明するロジックとしての立憲主義
(Ⅳ)憲法の概念と立憲主義


尚、本稿は、下記拙稿のダイジェスト版とも言うべきもの。よって、<立憲主義>を巡る私の主張の根拠もしくは理路についてはこれら拙稿もこの機会に併せてご一読・再読いただければ嬉しいです。ということで、本稿の画像は、憲法改正による日本再生に向けて、弊ブログでは美と再生の女神、木花咲耶姫と<同一神格>のほしのあきさんのものを投入させていただくことにしました。

ウマウマ(^◇^)


・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html

・憲法96条--改正条項--の改正は
 立憲主義に反する「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61963692.html


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・樋口陽一の文化帝国主義的憲法論の杜撰と僭越(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62298200.html

・憲法の無知が炸裂した朝日新聞の「法の支配」援用社説
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62285813.html


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(Ⅰ)権力者とは誰か--立憲主義の守備範囲
朝日新聞が当然のことのように書いている「時の権力者」とは一体誰のことなのでしょうか。寧ろ、立憲主義をある憲法の制定のためのガイドラインと理解すれば「時の権力者」なるものは、権力が立法・行政・司法に分立された時点では--ちなみに、アメリカでは、立法および行政・執行・司法の三権分立になりますけれども--論理的には消滅する運命のプレーヤーではないのでしょうか。そう、それ、正に、「絶対王政時代の遺物」。

換言すれば、立憲主義をある実定法秩序を建設するための<工事現場の足場>と捉えれば、憲法が制定されその憲法に沿って実定法秩序が形成・生成さるようになった段階では<工事現場の足場>は不要となり--<足場>の資機材である「時の権力者」ともども--社会思想の倉庫にお蔵入りになる、と。

もっとも、このブログでもしばしば書くことですが、ある言葉をどのような意味に用いるかはかなりの程度論者の自由に属することでしょう。而して、けれども、「立憲主義」の語義は大凡次の4個に分類できるの、鴨。

(1)天賦人権を前提とする「権利の保障」と「権力の分立」を要請する主張
(2)天賦人権を前提としない、しかし、一般の制定法を無効にする効力を帯びる
 なんらかの普遍的価値が憑依する「権利」と「上位の法」に沿った権力行使を要請する主張
(3)天賦人権を前提としない、しかし、なんらかのルールで決まった権利を、
かつ、社会の多数派から守るための統治の仕組みと権力行使の運用を要請する主張
(4)統治機構が憲法や慣習に従い構成され、
権力の行使が憲法や慣習に則って行われることを要請する主張


いずれにせよ、重要なことは、冒頭の「時の権力者の消滅」を巡る問題提起で示唆したように、「立憲主義」には時間的な場合分けに従い大きく二つの意味があり、加之、空間的にはある国内の実定法秩序にその<神通力>の及ぶ守備範囲、すなわち、立憲主義の法理念が具現されるべき法現象の範囲が限定されているということです。

【立憲主義の時間的守備範囲による意味内容の区分】
(A)ある国家権力を形成・編成・樹立する際の法理念
(B)ある国家権力が形成・編成・樹立された後の法理念

【立憲主義の空間的守備範囲による意味内容】
(C)ある国家内部の実定法秩序の編成・解釈の法理念



空間的守備範囲について先に述べておけば、国家権力はその国民を、アルカイダからもタリバンからも、支那からも韓国からも、あるいは、ガミラスからも銀河帝国軍からも、そして、大震災からも富士山噴火からも守護しなければならず、よって、平時の国内の実定法秩序を形成し生成する原理としての<立憲主義>の制約に、緊急時や有事を含む国家権力の行動が例外なく服するということはないということです。


このことは、小規模のカルト集団が先進国の首都で化学兵器を使ったテロを敢行し、あるいは、単なるテロネットワークが当時世界の唯一の超大国の中枢に民間航空機を用いた同時多発テロを実行できるような、技術と資金の流通を巡る人類史の現状を鑑みるに、<立憲主義>による国家権力の制約には自ずと限界があることは自明でしょう。まして況んや、強面の支那との戦争への備えや、アメリカといえども逆らえない現下のグローバル化の波濤から日本国民の生活と生存を守る必要性を睨むとき、この認識は誰も否定できないことだと思います。

なにより、実際、日本国民は、到底、「憲法の改正手続に沿った」とは言えない憲法の改正--「改正」という名の「新憲法の制定」--も粛々と行われ、その新憲法を基盤として実定法秩序が形成・生成された事例を占領憲法を巡って60余年前に体験したのですから。


(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。



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而して、時間的守備範囲--それが空間的守備範囲に留まる限り--での「立憲主義」の<神通力>の意味内容はどのようなものでしょうか。蓋し、「立憲主義」の法理念の要求の過半は、ある国家権力が樹立されその実定法秩序が構築された段階で--権力の分立が達成された段階で--満たされる。これが、立憲主義の時間的守備範囲(A)と記したものです。而して、確かに、この意味であれば「立憲主義」は「絶対王政時代の遺物」と言えないこともないと思います。

けれども、「立憲主義」には立憲主義の時間的守備範囲(B)とも呼ぶべき内容がある。それは、もちろん、①立憲主義の時間的守備範囲(A)で達成されたはずの統治機構デザインとその運用をメンテナンスすること、あるいは、必要とあらば--例えば、アメリカ憲法の運用実際における州に対する連邦権限と議会に対する大統領権限の拡大に顕著な如く--モデルチェンジを行うことは当然として、②社会の多数派の要求にもかかわらず、よって、時の国会の多数派や内閣の意向にかかわらず守護されるべき権利が存在しているというメッセージでしょう。

ならば、立憲主義の時間的守備範囲(A)を越えた時点では「時の権力者」なるものは消滅するけれど、確かに、立憲主義の時間的守備範囲(B)においては「権利を侵害する能力と傾向を持つ社会の多数派、および、その社会の多数派を擁する時の立法府と行政府」を一応は「時の権力」と観念することは満更筋悪の議論でもない。と、そう私は考えます。


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而して、最も重要なポイントは、旧稿「瓦解する天賦人権論」で些か詳しく説明したように、権利の権利性--社会の多数派の要求によってさえも侵害されるべきではない、あるタイプの行動の自由の具体的な内容と比較衡量における価値の度合い--の根拠は、天賦人権論によるアプリオリな価値の密輸などによってはなされず、(α)憲法および国家権力の概念--事物の本性--、もしくは、(β)国民の法的確信に基礎づけられた司法審査の蓄積--立憲主義と権利を巡る<言語ゲーム>--以外にはありえないだろうということです。

ちなみに、(α)の議論の好例は、長谷部恭男さんが夙に、ヨーロッパにおける宗教戦争の悲惨を反芻しつつ、信仰に典型的な私事の領域の如く「比較不能な価値」の争いについては国家権力は容喙できないと述べられていること、鴨。而して、実は、この(α)の立場と、保守主義により親しい(β)の立場は必ずしも矛盾するものではない。もっとも、その社会で強制力を用いても守護されるべき文化・伝統の範囲を巡っては--例えば、公教育現場での日の丸・君が代の尊重をいかほど徹底するかを巡っては--(α)と(β)は齟齬相克をきたす傾向もなきにしもあらずでしょうけれども

繰り返しになりますが本節の考察の帰結を述べておきます。すなわち、「立憲主義」を(1)~(4)のどの意味で用いようと、ある実定法秩序が<立憲主義>に基づいて樹立されて以降の時点では、「時の権力者」なるものは「権利を侵害する能力と傾向を持つ社会の多数派、および、その社会の多数派を擁する時の立法府と行政府」と捉えるほかはないということ。

而して、同じくある実定法秩序が<立憲主義>に基づいて樹立されて以降、「権利は守護されるべきだ」という要求は<立憲主義>の内容の核心ではあるけれど、その守護されるべき「権利の権利性」--権利の具体的な内容と守護されるべき度合い--は「立憲主義」の四文字から導き出されるわけではなく、(α)憲法の概念やの事物の本性、ならびに、国家権力の概念と事物の本性、もしくは、(β)司法審査の蓄積と国民の法的確信が編み上げる<言語ゲーム>の中でのみ認識される。と、そう私は考えるのです。


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<続く>


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【ロベスピエールが挙行した至高存在の祭典:1794年6月8日】


あの朝日新聞といえどもそうそうお目にかかれない詭弁の炸裂を目にしました。社説「国立追悼施設 首相が決断さえすれば」(2014年2月3日)、これです。

▼国立追悼施設 首相が決断さえすれば
日本と近隣諸国との間で、不信の連鎖が止まらない。
国際会議で、日本と中国の閣僚らが安倍首相の歴史認識をめぐって批判しあう。こんな姿を見せられた世界は、はらはらしている。安倍首相は「対話のドアは常にオープンだ」と繰り返すが、もはやそれだけではすむまい。トゲを1本ずつ抜いていく具体的な行動を起こすときだ。

その第一歩として、首相に提案したい。靖国参拝はやめ、戦争で亡くなった軍人も民間人も等しく悼むための無宗教の施設を新設すると宣言してはどうか。・・・新たな施設に参拝するよう、遺族に強いるわけではない。いろいろな思いをもつ遺族や、外国の要人らに訪れてもらうための場だ。・・・

首相の参拝を支持する人たち、とりわけ若い世代にも耳を傾けてもらいたい。戦争の犠牲者を悼む気持ちは貴い。だが、靖国神社は単なる慰霊の場とはいえない。軍国主義と結びついた過去を引きずる宗教施設だ。首相ら政治指導者が参拝すれば、傷つく人が日本にもたくさんいる。米国のアーリントン国立墓地とは、決定的に違う。「歴史を学ばぬ者は、歴史から報復される」。報復によっていちばん被害を受けるのは、未来ある若者たちだ。そのことを忘れないでほしい。


(以上、引用終了)


朝日新聞の社説にしては「首相に提案したい」と下手に出た書きぶり。これも、例えば、毎日新聞の山田孝男氏がNHKの籾井勝人新会長の発言を俎上に載せたコラム「風知草:どう言えばよかったか」の中で「外電を眺めれば「フランスの国際漫画祭に韓国が慰安婦を持ち込み、日本の非を一方的に宣伝」といったニュースに事欠かない。厳しい籾井批判の陰で籾井発言が支持され、内閣支持率も高位安定−−という構造の中に我々はいる」(毎日新聞2014年2月3日)と述べているのと通底しているの、鴨。めいっぱい笛吹けどリベラル支持の世論が一向にわき上がらない状況を前に朝日も毎日も途方に暮れているということかしらね。

けれど、朝日新聞のこの社説はいつもに増して、
詭弁に満ちた狡猾で姑息なもの。と、そう私は考えます。

特定アジアとの関係再構築のための唯一可能な日本外交の指針が、
支那・韓国とは国際法と確立した国際政治の慣習に従った交渉を行う。
それにつきることは言うまでもないでしょう。
ならば、この社説のポイントは以下の2点、鴨。

(Ⅰ)無宗教性と<国家>という宗教
(Ⅱ)軍国主義と結びついた過去を引きずる宗教施設


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(Ⅰ)無宗教性と<国家>という宗教
靖国神社、および、国立アーリントン墓地に行かれた方はご存知のように、アーリントン墓地は文字通り馬鹿でかい広大な「霊園」であり、靖国神社に「墓」はありません。というか宗教学でいう所の故人の「魂魄」--気と肉のエッセンスたる魂魄--さえそこには存在しない。更に言えば、九段の社では英霊は<英霊>総体としてのみ--200数十万柱の英霊の御霊は、結局、「全にして個」かつ「個にして全」の1個の<英霊>としてのみ--存在している。

確かに、靖国神社は神道の教義によって意味づけされている宗教施設--英霊の超時空要塞--であることは間違いない。けれども、これまた、アーリントン墓地に行かれた方はご存知のように、アーリントン墓地も宗教色満載。プロテスタント、カトリック、ユダヤ教、創価学会等々、そこは宗教色の百花繚乱、千紫万紅、宗教の国際展示場状態でもあります。要は、国立アーリントン墓地も無宗教の施設とは言えないのです。


重要なことは、国家がその国のために貴い命を空しくされたその将兵を追悼し、顕彰し、尊敬と感謝の誠を捧げ続けることは、アメリカにおけるアーリントン墓地でも日本における靖国神社でも毫も変わらないことです。畢竟、英霊を尊崇するというこの意味での国家の行為は時空と幽明を跨ぐという点で<国家>による宗教と言える。もちろん、それはキリスト教なり神道といった具体的な個別の宗教ではないにせよ--ヘーゲルの言う意味での--民族の意志の総体としての<国家>による宗教行為と言える。而して、この<国家>による英霊に対する尊崇という点ではアーリントン墓地も靖国神社もなんら変わることはないのです。

(A)アーリントン墓地
①国立の墓地、よって、運営主体は無宗教
②被埋葬者もしくは遺族の意向により墓地自体は宗教色濃厚
③<国家>による英霊の尊崇

(B)靖国神社
①民間の神道系宗教法人の施設、よって、運営も神道に基づく
②英霊もしくは遺族の意向と無関係に神道の教義に沿って慰霊
③<国家>による英霊の尊崇



敷衍すれば、アーリントンも靖国も、朝日新聞の言う「戦争で亡くなった軍人も民間人も等しく悼む」施設などではない。「戦争でなくなって可哀想」「過ちは繰り返しませんから安らかにお眠り下さい」などいう悼む施設ではないのです。それらは、繰り返しますが、国が国のために戦死した将兵に尊崇の念を捧げ続けるための<時空>である。そうでなければ、アーリントンが「国立」である必然性もなく、靖国が<靖国神社>である必然性もないでしょうから。逆に言えば、前者は無宗教の運営主体が個々の戦死者には宗教色を認めるやり方で、後者は神道系の宗教法人が神道の教義に則りながらも、ともに<国家>が英霊に尊崇の念を表しているということです。尚、この宗教としての<国家>の理路については下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・国家神道は政教分離原則に言う<宗教>ではない
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62105204.html


ならば、朝日新聞の言う「戦争で亡くなった軍人も民間人も等しく悼む」とかまた、「戦争の犠牲者を悼む気持ちは貴い」という主張は、英霊を祀る国家の責務と権限を否定する--フランス革命という名の陰惨な騒乱事件を主導した、かのロベスピエールが挙行した「至高存在の祭典」の如く--無内容で空虚な詭弁でしかない。と、そう私は考えます。

日本において、(ⅰ)国のために亡くなられた戦死者に対して、(ⅱ)<国家>がその崇敬の念を表するに相応しい<時空>は、(ⅲ)靖国神社しか存在せず、(ⅳ)ならば、<国家>の宗教性というより抽象度の高い経緯を想起するとき、<国家>が一宗教法人の施設を用いることもなんら問題ではないとも。

逆に、靖国神社への<国家>の化体の相。すなわち、首相の靖国神社参拝に関して、靖国神社の宗教施設性、あるいは、首相の信教の自由を看過した議論をしばしば目にします。実際、例えば、次のようなFinancial Times社説(2013年4月28日)「Shinzo Abe must resist dangerous distractions--Japan’s leader should stick to what is important」(安倍晋三首相は危険を惹起しかねない移り気を自制すべきだ--日本の最高指導者は現下の重要課題に専念したらどうか)を読むとき、この社説子には、これと同じようなことをイスラームの人に言ってみろと言いたくなる。

蓋し、これらの主張はキリスト教の立場からの--もしくは、キリスト教を苗床にした無神論の立場からの--神道その他の宗教や信仰を見下す上から目線の文化帝国主義的の言説以外の何ものでもないのではないでしょうか。


Mr Abe holds some unpleasant views. Still, his wish to be able to mourn his country’s war dead is not unreasonable. The problem is that Yasukuni, which is irredeemably associated with the nationalist cult of emperor worship, is the wrong place to do it. Mr Abe should use his rightwing credentials to push for the establishment of a less controversial secular memorial.

安倍首相は幾つかの論点に関してはあまり愉快ではないものの考え方をする人だ。それでも、自分の国の戦死者の喪に服することができるようにしたいという安倍氏の願望は道理をわきまえないものとまでは言えないだろう。ならばこそ問題は靖国神社である。天皇崇拝の民族主義的儀礼と救いようもなく密接に結びつきそれと表裏一体のものとして連想される靖国神社は戦死者の喪に服するための場所であってはならない。安倍首相は、右翼に対する自分の信用を駆使してでも論争の種によりなりにくい非宗教の戦死者記念施設を創る方向で汗をかくべきなのだ。


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(Ⅱ)軍国主義と結びついた過去を引きずる宗教施設
さて、「軍国主義と結びついた過去を引きずる宗教施設」とはどんな意味なのか。「軍国主義」という言葉の意味については下記拙稿をご一読いただくとして、ここでは仮に靖国神社が、

(α)戦前には軍国主義なるもののイデオロギー装置だった
(β)戦後も東京裁判史観を否定するイデオロギー装置である
(γ)戦後も軍国主義なるものを連想させる記号である

ということを「軍国主義と結びついた過去を引きずる宗教施設」の意味だと理解しておきます。而して、何を見て何を連想するかは個々人の自由であり--個々の受け取り手側の問題であり--、(γ)まで靖国神社が責任を負う筋合いのないことは自明でしょう。

また、(α)は文字通り「戦前」の話であり、戦後、民間の一宗教法人として再出発した靖国神社が現在、自社が戦前に帯びていた社会的機能について他者からとやかく言われる筋合いもない。そうでなければ、戦前、それこそ、内向きの勇ましい前のめりの戦意高揚に資する記事を垂れ流していた朝日新聞もまた「軍国主義と結びついた過去を引きずる世論操作機関」であり、財務省(旧大蔵省)も文部科学省も、あるいは、国会も司法もすべて「軍国主義と結びついた過去を引きずる機関」でしかないでしょうから。

ならば、朝日新聞の言う「軍国主義と結びついた過去を引きずる宗教施設」に関して意味を持つのは独り(β)に尽きると思います。けれども、東京裁判史観に批判的だからといって何が問題なのか。それこそ、東京裁判史観の見直しを行うことは誰にとっても自由でしょう。また、日本政府も東京裁判史観などには毫も拘束される筋合いはない。なぜならば、サンフランシスコ平和条約にせよ数多の二国間の平和条約にせよ、土台、条約や憲法が個人やある国家の歴史観を規定するなどできるはずもないからです。

而して、上でも述べたように、靖国神社で英霊に尊崇の念を表する行為は、神道の形態を借りつつも宗教としての<国家>の営為に参画するより抽象度の高い行為と言える。だからこそ、カトリック教会はいまだにその信者が戦前に靖国神社に参拝した行いを是認しこそすれ批判はしていない。ならば、よしんば、靖国神社が現在も東京裁判史観を否定するイデオロギー装置であるとしても、このより抽象度の高い<国家>の営為を首相が行うことはなんら問題はない。と、そう私は考えます。

・平和主義とは何か-戦前の日本は「軍国主義」だったのか(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62147174.html

・戦争責任論--語るに落ちた朝日新聞の社説(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62017974.html


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テーマ : 靖国参拝
ジャンル : 政治・経済




安倍・竹下・宮澤が総理総裁の椅子を争っていた大昔、知り合いのある病院の院長さんから「会費は負担するから名前を貸して欲しい」と頼まれて自民党員になったことがあります。それから、神奈川の地元で自民党員してたこともある。自民党が野党に下る際に、比例区で当選していた地元選挙区の自民党議員が別の政党に移るという許せん振る舞いをしたから。義憤に駆られ--そう、因果は巡る糸車ですよね、みんなの党の皆さん(笑)--、元々、強力な民主党の現職候補がいる選挙区のこととて、落選確実だった新人の自民党候補を応援すべく党員になった。

それから幾星霜。安倍政権が日本再生に向けて大車輪の働きをしているのを目にして、
今また、自民党入党を真面目に考えています。

ハンナ・アーレントが『人間の条件:The Human Condition』(1958)で喝破したように、公的領域における活動は--自分とは異質な他者に対して言葉で働きかける政治活動は--人間の幸福の源泉の一つと言える、鴨。もちろん、アーレントも私的領域で繰り広げられる労働と仕事を--人間が生存・生産・再生産するための物的諸条件の維持確保、そして、商品生産と商品交換を軸とした経済活動を--看過したわけでない。土台、「恒産なければ恒心なし」(孟子)という経緯は誰も無視できないでしょうからね。

しかし、政治活動もまた重要。それは趣味などではないか、もしくは、人間存在にとって欠くべからざる趣味なの、鴨。例えば、たかだかブログ運営にせよ「自分とは異質な他者に対して言葉で働きかける活動」を続けている身にはそれを痛感する。これ居酒屋の政治談議とかも同じ、鴨。公園でのママ友とのおしゃべりもまた。



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でも、なぜ、いまどき、政治政党に入党。
というか、いまさら、なぜ自民党に入党。


だって、政党に入れば党則に拘束されるし、自分が属する支部や分会の議事決定などにも拘束されるかもしれない。つまり、そうそう好き勝手はできなくなる。というか、<自分とは異質な他者>を説得する手間とエネルギーは半端じゃない、鴨。すべからく、間違いなく面倒くさいですよ、それはね。

(><)

実例を一つ。私達の郷里、福岡県大牟田市は--現在はその元秘書の方が地盤を引き継いではいるにせよ--、あの反日リベラルの古賀誠の選挙区。つまり、例えば、私が郷里で自民党に入党するとなると、支部や分会の同志党員には、古賀誠が誘致する公共工事の恩恵を受けている方々、あるいは、古賀誠の反日リベラル姿勢に共感しているか、少なくとも、反対ではない方々が少なくないということ。

いかに、アーレントの定義からはそれこそが公的領域の活動だとしても、正直、そんな「自分とは異質な他者に対して言葉で働きかける活動」は間違いなく面倒くさいです。

(><)


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反日リベラルの古賀誠にせよ、しかし、自民党員である限りは、党則と党の機関決定には従わなければならない。そうくりゃー、福岡県には麻生太郎総理がおられるし、昔は、山崎拓・古賀誠と麻生総理が鼎立していた福岡県の自民党も現在では、実質、麻生総理の独壇場。まして、神奈川県は麻生派の牙城。なにより、現在、自民党総裁は安倍晋三総理その人。ならまぁー、少しの手間と労力を辛抱すれば自民党入党は悪くない、鴨。と、こんな事情は全国どこでも大なり小なり似たようなものではないでしょうかね。


【入党のご案内】
自民党に入党して、党員として自民党を支えてください。

入党資格
1.わが党の綱領、主義、政策等に賛同される方
2.満18歳以上で日本国籍を有する方
3.他の政党の党籍を持たない方

◎「入党申込書」に氏名、住所、電話番号などを記入し、党費を添えて、最寄りの支部にお持ちください。
◎党費:一般党員 年額4,000円、家族党員 年額2,000円、特別党員 年額20,000円以上
◎お申込みには、紹介党員が必要です。お知り合いに党員がいない場合、ご地元の支部にご相談ください。
◎家族党員として入党するには、同一世帯に一般党員1名が必要です。

入党に関するご質問は、最寄りの都道府県支部連合会ならびに各支部、HPまで。






要は、比較衡量の問題。そして、
自民党と言わず政党に入ることのデメリットはある意味明確。

1)面倒くさい! 
2)時間が取られる!
3)4000円の年会費は痛い!

それなのに

б(≧◇≦)ノ ・・・4)勝手には行動できなくなる、鴨!


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而して、自民党と言わず政党に入ることのメリットは・・・。古賀誠から公共工事の受注のお零れをもらうとか、麻生総理から就職の世話をしていただくとか、安倍総裁から結婚相手を紹介していただくとか、なんらかの実利が特に見込めない場合、政党に入党するメリットはなんなのか。それは比較衡量においてデメリットを凌駕する程のものなのかしら。

簡単な話です。政党に入るということは、些か、行動の自由を犠牲にしても、自分の信奉する政治イデオロギーや自分が好ましいと思う政策の実現に、たとえそれが蟷螂の斧にせよ、参加すること自体に喜びを感じられる、鴨ということに尽きる。自己満足。そう、突き詰めなくとも、アーレントの公的領域の活動の意義と価値は「自己満足」にすぎないでしょう。

但し、多くの保守派が「他の多くの保守派も自民党員になることに各々自己満足を覚えるに違いない」と了解する事態や状況を具現できれば、その活動は「主観的な自己満足」であると同時に「間主観的な政治の現実」にならないこともない。と、私はそう考えます。

つまり、ゴルフも麻雀も賭けなきゃ、
ただの暇潰しなのとパラレルに、

要は、旗幟を鮮明にしない者、
リスクを取らない者には、

б(≧◇≦)ノ ・・・勝利の歓喜も敗北の甘美も味わえない!


でもって、安倍総理-麻生総理を支える一助、かっこよく言えば、貧者の一灯、ありていに言えば、その他大勢の一人になるのも悪くないんじゃないかい。なにより、私的領域におけるなんらかの実利と無関係に入党する保守派の自民党員が増えれば、それはその入党者の自己満足だけにとどまらず、--例えば、福岡県大牟田市を含む選挙区で古賀誠の影響力を逓減させることも可能だろうし--保守政党としての自民党自体の旗幟もより鮮明にできる、鴨。アメリカにおけるテーパーティー運動の成功を見るに、そう私は考えているのです。

ウマウマ(^◇^)


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では、なぜ自民党なのか? 
元来、政党とは何なのか?


要は、「政党:party」は「部分:part」である。だからこそ、国会では、あくまでも私的な「政党」ではなく「会派」中心に人事も議事も予算も運営される建前になっている。すなわち、衆参両院とも全議席の三分の2を遥かに超える勢力を擁する政権与党といえどもそれは「国民の一部分」の支持を受けているにすぎません。ならば、その政権与党が「全国民」を代表して国家権力を行使するのは、土台、矛盾なのです。

而して、その矛盾を回避するには、--あくまでも、それは擬制にすぎないのですが、憲法的には--真に全国民を代表する国会で、法案を巡って理性的かつ十分なる討議がなされた上で、繰り返しますが、「全国民の了承」を受けたという大義名分を入手した上で法案が可決されることが必要になる。逆に言えば、だからこそ政党には自由がある。

けれども、どの政党も似たようなものではないのか。畢竟、1989年-1991年、社会主義が崩壊する随分前から、社会主義と資本主義の両体制が漸次接近する「収斂化」が見られるという考え方(Convergence Theory)がありました。この「収斂理論:Convergence Theory」は、1973年オイルショック以降の財政と金融のマクロ経済政策、すなわち、ケインズ政策を採用した資本主義諸国と社会主義諸国の比較においてはかなり成功したモデルではないかと思います。    

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この体制の収斂化とパラレルに、グローバル化の昂進著しい、大衆民主主義下の福祉国家を与件とするとき、すなわち、カール・シュミットの言う「全体国家」を前提とするとき、ある政党が政権を目指す限り、その政党が保守政党であろうとリベラル政党であろうと、実は、その政党がキルヒマンの言う意味での「包括政党」、すなわち、国民全体の利害を代表する--少なくとも、国民有権者の過半から嫌われないような--国民政党でなければならず、よって、どの政党の政策も「収斂化」せざるを得なくなる。

けれども、この収斂化を前提にした上でも--例えば、予算配分から見てその90%が同じでも残りの10%の--差違は必ずしも小さくはないのではないでしょうか。まして、日米同盟の強化、特定アジア諸国に対する対応といった外交、内政においても、選挙制度改革や官邸主導の強化等の政策推進のルールの変更、首相の靖国神社参拝、あるいは、教育現場における日の丸・君が代の尊重、まして、憲法改正といったイデオロギー的イシューを含めれば--日本を破壊した民主党政権と日本を再生しつつある安倍自民党政権の両者を想起するまでもなく--政権政党の違いは大きいの、鴨。

つまり、収斂されない政策イシューに意味と価値を見いだすのならば、けっして、支持政党の選択は些事とはいえず、その選択は、アーレントが述べた公的領域の活動として国民有権者がコミットするに値することではないか。と、そう私は考えます。ならば、どの政党にコミットすればよいのだろうかとも。


図表1

この点で、古典的というか定番の「ノーランチャート」の社会思想理解、あるいは、中島岳志氏の政党の社会思想理解は、各自が「お気に入りの政党を選択」する上で参考になると思います。要は、ある政党が何を目指すのか、何を忌避するのかを知る上でそれらは便利ということ。

これに対して、山口二郎氏が度々掲げる次の図表は--要は、2012年の「改訂版」である『政権交代とは何だったのか』(岩波新書・2012年1月,p.36ff)によれば、『戦後政治の崩壊』(岩波新書・2004年6月, p.92ff)では小泉構造改革の性格を見誤っていたらしいけれど--、ある政党がどのように政策を進めていくかについても目配りしたと言える。ちなみに、私の政治思想理解に関するパラダイムをまとめた最後の図表は、保守主義がいかなる政治思想であるかを明らかにしようとしたものです。

図表2

要は、「現代の保守主義」とは、(1)自己の行動指針としては自己責任の原則に価値を置く、そして、(2)社会統合のイデオロギーとしてはあらゆる教条に疑いの眼差しを向ける、よって、(3)社会統合の機能を果たすルールとしては、さしあたり、その社会に自生的に蓄積された伝統と慣習に専ら期待する、換言すれば、その社会の伝統と慣習、文化と歴史に価値を置く態度と心性を好ましいと考える。而して、(4)その社会の伝統と慣習、歴史と文化をリスペクトする<外国人たる市民>に対しては、逆に、彼等の社会の伝統と慣習、歴史と文化を<国民>もリスペクトすべきだと考えるタイプの社会思想である、と。

図表3


いずれにせよ、例えば、民主党政権は「政治主導-脱官僚支配」を標榜しながら、その実、官僚と労組が猖獗を極める小泉構造改革以前の旧体制を復活させただけだった。つまり、民主党政権の言う「政治主導」とは、行政実務を任せる宛先を人脈的に自民党の与力だった「官僚A群」から民主党に尻尾を振る「官僚B群」に変更するだけのものにすぎなかった。そして、政官の連携は氷河期に入る。  
   
逆に言えば、旧自民党政権下では、官僚が実質的に定めたそれら行政セクターの行動予定と与党の政治家が妥当と考えるそれとがほぼ同じだっただけではないのか。ならば、このより穏当な意味での「政治主導」は旧自民党政権下でも行なわれてきたし、安倍自民党が現在運用しているのもそのような、良い意味で<政官一体>の国民のための官邸主導の政治であろう。と、そう私は考えます。つまり、保守政党の中で自民党は唯一官僚と協働可能な力量と経験を持っている政党であるとも。


これらの理由から、政党に入党することは悪い話ではない。
また、保守派にとって入党に値する政党は自民党しかない。
そう私は確信しています。


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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




カール・シュミットは、大衆民主主義下の福祉国家を念頭に置いて「国家は全体国家(totaler Staat)に堕している」と喝破しました。而して、「全体国家」とは、人間の生活の全体を支配する強力で権力主義的な政府という意味ではなく、「全体化」したがゆえに、社会の種々諸々の雑多な国民大衆の要求をすべて顧慮せざるを得ない、図体は巨大であるにせよ主体性の乏しい弱々しい国家という意味。

畢竟、現実の国家は、内政・外政ともに到底完全などではありえない。つまり、それは有限な能力しか持たない「全体国家」である。他方、現実の国家は「国民国家-主権国家」として国民の社会統合においても完全でもない。正に、「全体主義」はこの不完全さの隙を、ないものねだり的に突いてくる。

すなわち、(a)現代社会がその社会の構成員全員に原則選挙権を付与することによって、社会を構成する大衆一人ひとりの政治的影響力が極小化した社会、要は、すべての大衆が政治から疎外されている大衆民主主義下の社会であり、(b)国際競争の激化とケインズ政策の積み重ねの中で財政硬直と財政均衡の破綻が常態化した多くの国で--ギリシアやイタリアや韓国の杜撰と滑稽、あるいは、スウェーデンやフィンランドやデンマークの偽善と悲惨を見れば思い半ばにすぎるように--、その行政サービスには限りがあるだろうし、更には、(c)グローバル化の昂進の中で「国民国家」の社会統合は漸次困難になってきている。

他方、政治政党も--生身の市民の欲望や要望、怨嗟や嫌悪を、法的な国民有権者の意見に変換する<装置>であったはずの政党も、それらが政権獲得を狙う限り--これら(a)~(c)の現実を看過しない限り、社会の過半から嫌われる事態は何としても避けざるを得なくなる。而して、どの政党も社会の広汎な層からの支持を求める「包括政党」に移行してしまい、結局、アメリカの共和党と民主党、ドイツのCDUとSPDに顕著な如く、政党間の政策の違いが極小化し収斂化する。要は、すべての国民有権者に対して、どの政党もほどほどにしか、あるいは、よりましにしか満足させることができなくなってきているということです。

よって、皮肉なことに、政権獲得を目指すほどの政党は、国民国家内部に鬱積する大衆の欲望や憎悪、而して、それらの社会心理学的要因と交錯する社会内の紛争、ならびに、国際紛争を解決する能力を失っていき、ついには、左右を問わず教条的なイデオロギーの<ファンタジー>を弄する全体主義の政治運動や体制に国民有権者の支持を根こそぎ奪われる危険性がある、と。

畢竟、ナチズムや社会主義といった歴史的に特殊な「全体主義」ではなく、寧ろ、ルソー『社会契約論』に顕著な<全体主義>そのものの<ファンタジー>が--<脱原発ファンタジー>に典型的な物語の教条性こそが--「全体主義」の明白かつ現在の危険の源泉である、と。アーレントはそう睨んでいたの、鴨です。


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▼資本主義の浸透
アーレントの死後、(a)大衆社会化、(b)全体国家化、(c)グローバル化は、益々、その強面の相貌を明らかにしてきていることは言うまでもないでしょう。而して、これら三者の基底には、更に、(d)資本主義の拡大浸透、そして、(e)科学技術の専門化の昂進という現象があるの、鴨。

蓋し、「主義」の2文字がついているから紛らわしいのですが、「資本主義」には「制度」の側面と「その制度を容認する理路・心性・行動様式」の二面がある。而して、制度がすべてそうであるように、それは規範と状態の重層的な構造であり、かつ、言語や家族という自生的な制度がすべてそうであるように、交換を巡る制度たる資本主義の制度もまた時代によってその内容が変遷してきている。

何を言いたいのか。それは、現在の資本主義の制度は、例えば、①所有権の制限、②契約の自由の制限、③過失責任の制限、および、④所得の再配分の導入、⑤ケインズ的な財政と金融における国家権力の政策の導入、⑥種々の国際的な制約という修正または変容を経た後のものということ。而して、これらの資本主義の変容を与件をとして踏まえるとき、サッチャーもレーガンも、フリードマンもハイエクさえもある意味立派な「社会主義者」でないとは言い切れないのではないでしょうか。

家屋の賃借人にほとんど無制限の厳格責任を認めていた19世紀末までの英国のコモンロー。あるいは、労組の活動どころか労組の存在自体を容認しただけの連邦法・州法を憲法違反と断じた、加之、生活必需品の料金の買い占めによる価格引き上げや、「談合」などではない、鉄道等の公共交通機関の料金の(その地域のサービスを独占する)鉄道会社による裁量的決定を制限する州法を憲法違反と断じた19世紀末のアメリカ連邦最高裁の判決群を見るとき、私はそう感じざるを得ません。

ならば、(d)資本主義の拡大浸透とは、制度の側面よりも、寧ろ、その制度を容認する理路・心性・行動様式の地球儀規模での拡大浸透と捉えるべきでしょう。畢竟、物象化した資本の論理は--「疎外」もしくは「物象化」ということの言い換えにすぎませんけれども--人間が容喙できない独自の法則性と自己実現性を帯びている。ならば、そのような資本の論理にハイエクの言う意味での「設計主義的な施策」でもって人間が抗うことが可能とする<ファンタジー>は人間の有限性の自覚を忘れた、人間と国家の万能観に根ざす<全体主義>に親しいものではないか。と、そう私は考えます。


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▼専門化の昂進と専門家の政治的な権威化
原子力発電の再稼働の是非の問題を見るにつけても、科学技術の専門知の支配--マルクスの顰みに倣い換言すれば「疎外された専門知」、すなわち、--それを作り上げた人間の制御から離脱して独自の存在と流通の法則性を獲得した専門知が猛威を振るっている。このことは間違いないでしょう。そして、科学技術に仕える<神官>としての専門家、逆に言えば、それら<神官>の用いる<秘儀>としての専門知が、最早、主権国家や国際機関のオフィシャルな統制の枠には収まらなくなってきているということもまた。

すなわち、ミシェル・フーコーが予言した「素人を沈黙させる<権力>としての専門知」が跋扈している。而して、疎外された専門知の--権力と化した科学技術の--あり方を反芻するとき、加之、他方、現在ではすべての人が「ほとんどの知の領域に関しては素人でしかない」状況を想起するとき、そのような「国民国家-主権国家」を超える専門知の、少なくともその一斑ではあるだろう原発政策に関しては、直接民主制的な政策決定、就中、素人による国民投票や住民投票が、ある意味、最も馴染まないこともまた自明ではないでしょうか。

なぜならば、誰も知らないことについては判断できないでしょうから。そして、逆に、
政治責任を問われることのない専門家が政治的判断に容喙すべきではないでしょうから。


アーレントは、<全体主義>の苗床としての大衆社会の危険性を高める「民主制」には懐疑的であり、寧ろ--古代ギリシアの政治の実情、および、アメリカの建国期の政治思想を模範にしつつ--、社会の各成員が主体的に政治にコミットする権限と責務を帯びている、かつ、自由の理念が代表制によって単一な法体系に具現する、更には、法の前の平等が担保されている「共和制」に好意的だったと思います。


而して、この点はあるいは、カントが『永久平和のために:Zum Ewigen Frieden』(1795)の「国家間の永久平和のための確定条項」の第1確定条項で「共和制」の要素として記した内容と親しい、鴨。

一、社会の成員が自由であること
二、社会のすべての成員が、唯一にして共同的な立法に(臣民として)従属する
三、社会のすべての成員が(国民として)平等



ことほど左様に、あらゆる<全体主義>が紡ぎ出す物語の教条性を忌避するアーレントは、而して、その現実の政治においても、不可能を誰にも求めないでしょう。ならば、--全体主義に抗して幸福を手に入れるにも厳しい条件があり、また、全体主義体制下においては平凡な人間が世界最大の悪を動機も信念も邪心も悪魔的な意図もないまま平気で行うという--人間の有限性を直視した保守主義者としてのアーレントが、(d)資本主義、そして、(e)科学技術の専門化に好意的ではなかったにせよ、アーレントの思想の延長線上からは、これらの現実に対しては「平和的共存」の線しか導き出せないと思います。


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現代の民主主義を--共和主義とも保守主義とも協働可能な社会思想、かつ、--<全体主義>と鋭く対立するもとして捉える場合、それがどのようなイシューであれ、政策を「正か邪か」の基準で選択することは価値相対主義を基盤とする現代の民主主義とは相容れない。ならば、原発問題に関しても、畢竟、我々は次のような<常識>に立ち返るべきなのではないでしょうか。

(ⅰ)絶対の安全性などはこの世に存在しない
(ⅱ)低線量・中線量の放射線被曝の危険性は証明されていない
(ⅲ)原発にかわる安定的な代替エネルギーの実用化は困難    


これらの<常識>を踏まえて、原発再稼働に踏み切ることこそ、人間の有限性を自覚する、現代の民主主義および現代の共和主義とも、なにより、現在の保守主義とも整合的であろうと思います。実際、そろそろ日本も、<脱原発ファンタジー>から覚醒して原発立国路線に回帰すべきではないか。少なくとも、<脱原発ファンタジー>は民主主義の否定である。と、そう私は考えます。


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孔子が『論語』(顔淵篇)で喝破した如く「古よりみな死あり、民信なくんば立たず」。ならば、究極的には、低線量放射線被曝の「確率的影響」など恐れる必要もなく実益もない。それは人間が究極的には左右しうるものではないのですから。実際、「福島の原発事故を見よ。直接被ばくによる死者こそ出なかったものの、故郷を追われた避難民は約14万人にのぼる」と言うのなら、寧ろ、そろそろ、放射線被曝線量基準自体の非合理性を直視すべきだと思うのです。

他方、今現在、生存と生活に困窮している避難者・被災者・羅災者、あるいは、飢餓に苦しんでいる世界の子供たちの<現存在>というリアリティー、文字通り、餓死せしめられた数万数十万の福島県浜通りの牛さんや豚さんや犬さんの<命>のリアリティーを想起するとき、人間が、そして、その作る政府が些かなりとも左右しうる「死-生」のカテゴリーにおいて、3年後、あるいは、13年後、または、30年後に、例えば、白血病や甲状腺癌になる危険性、しかも、確率的な危険性の増大などは、人間やその作る政府が取り組むべき社会的問題のプライオリティーとしては限りなく最下位に近いだろう。と、そう私は考えます。

蓋し、IAEA(国際原子力機構)が2013年の10月21日に提言した通り、被曝線量基準年間1ミリシーベルトなるものには何の意味もないこと、そして、放射線被曝の「確率的影響」に関する「非閾値-連続直線仮説」--要は、どのような微量の放射線被爆も確率的にはDNAを破壊することによる健康障害の原因となりうるという主張--がいみじくも指摘している通り、この世に安全なものなどない。

ならば、安全が確保できない事態を<異常>な事態と捉える感覚こそ
文化帝国主義、西欧中心主義の世界観の顕現である。


そして、その感覚は、繰り返しますけれど、人間存在の有限性の自覚を欠いた、人間と権力に対する万能感が<福島>に投影している妄想であり、すなわち、それは<脱原発ファンタジー>の教条に絡め取られた<全体主義>の苗床にほかならない。畢竟、<脱原発ファンタジー>は、アーレントの思想、および、それと親しい価値相対主義を基盤とする現在における保守主義とは相容れない。と、そう私は考えます。


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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




あーれぇ、アーレントの言葉を引用しておいてアーレントの思想を否定してないかい、これ。と、そう感じたエッセーを目にしました。毎日新聞のコラム、山田孝男「風知草:思考停止から抜け出せ」(2014年1月27日)。そのコラムのどこが問題と感じたのか。

それは、アーレントの思想的関心の核心は--主著と目される『全体主義の起源:The Origins of Totalitarianism』(1951), 『人間の条件:The Human Condition』(1958)を反芻する限り--孤立した大衆をまるごと吸収可能なイデオロギーの教条を、しかも、組織的・計画的に運用する全体主義体制に抗して、いかにして人間は幸福な生活を--私的領域と公的領域の二個の重層的な人間の生活における自由(freedom)を--手に入れることができるかという点にあったと思うから。

すなわち、<脱原発ファンタジー>などはアーレントの不倶戴天の敵とも言うべき<全体主義>そのもの。ならば、アーレントの--全体主義の危険性の告発、および、公的領域での人間の取るべき活動についての--片言隻句を用いて、都知事選挙において有権者を脱原発の投票行動に誘導しようなどは唖然とする言説。それこそ、あのゲッベルスも裸足で逃げ出す論理の飛躍ではなかろうか。と、そう私には感じられたということ。これです。


▼風知草:思考停止から抜け出せ
「原発ゼロ」は東京都知事選(2月9日)の争点にふさわしいか−−。世論は歩み寄りの余地がないほど割れているが、先週末、近所の映画館で遅ればせながら見た映画「ハンナ・アーレント」(2012年)が重要な視点を提供していると思った。

哲学者、アーレント(1906〜75)の、人間がなす悪についての考察が、原発と東京の有権者の責任という問題につながる−−と思われたのである。アーレントはドイツ系ユダヤ人女性だ。ナチスに追われ、アメリカへ亡命。第二次大戦後、ユダヤ人虐殺に深く関わったナチス親衛隊中佐、アドルフ・アイヒマン(1906〜62)の裁判を傍聴した。

アーレントは、アイヒマンを「どこにでもいる平凡な人物」と見た。戦時下では誰でもアイヒマンになり得たのであり、イスラエルの法廷で被告席に座っていたのは人類全体だとも言える−−と米誌「ニューヨーカー」で論じた。これが激しい議論を呼んだ。アイヒマンは冷酷、残忍、狂気の極悪人−−という、戦後の支配的な歴史認識を侵したからだ。・・・

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アーレントの断定。
「世界最大の悪(600万人以上とされる20世紀のユダヤ人虐殺)は平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も、悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです」

戦時のホロコースト(大虐殺)と平時の原発事故に何の関係がある−−といぶかる向きもあろうが、似た側面があると思う。思考停止のまま、未完の巨大技術への依存を続ければ、時に途方もない惨害を招く。福島の原発事故を見よ。直接被ばくによる死者こそ出なかったものの、故郷を追われた避難民は約14万人にのぼる。

そういう中での都知事選である。なるほど、エネルギーの選択は国策には違いない。だが、難しいことは国が決める、専門家が決める、上司が決める、オレは知らん、自分さえ無事なら後は野となれ山となれ、という構えでよいか。現実の戦争だろうと、経済戦争だろうと、巨大なプロセスに巻き込まれるうちにモラルが見失われ、人を人とも思わぬ判断が繰り返されることがある。・・・

東京都は電力の最大の消費地だが、原発はない。核廃棄物の最終処分場は存在せず、計画もない。悪いのは東京電力だ、原子力ムラだ、政府だ−−とうそぶき、福島の14万避難民の苦難など眼中にない東京であってよいか。アーレントは米誌への寄稿「エルサレムのアイヒマン/悪の陳腐さについての報告」の最後でこう言っている。被告には殺意も憎悪もなかったにせよ、絞首に値する。なぜなら「政治においては服従と支持は同じもの」だから・・・。都知事選に限らず選挙に臨む有権者が胸に刻むべき言葉ではないか。


(以上、引用終了)


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アーレントの「政治において人間が取るべき行動」を巡る主張は--「全体主義」成立に至る社会の思想的な風景の素描ともいうべき『全体主義の起源』、そして、「全体主義」に抗し得る人間行動(労働・仕事・活動)の可能性の吟味を説いた『人間の条件』を謂わば<両界曼荼羅>とするアーレントの主張は--いかなるものか。蓋し、私は、それを、(α)自己とは異質な<他者性>を持つ人々に、(β)言語で働きかけることによって、(γ)彼等から評価・批判されることの価値の称揚と理解しています。

すなわち、公的領域に参加する活動--選挙運動にせよ、消費者運動にせよ、あるいは、ブログ運営にせよ、直接もしくは純粋に労働と仕事が占める私的領域の外部での自己の<言語行為>--が他者から賛成・反対、秀逸・拙劣、喝采・罵声、軽視・無視等々の<評価>を受けることの肯定。加之、この公的領域を構成する<他者性>と<言語行為>、ならびに、その公的領域への参加から得られる満足感こそが--古代ギリシアの市民がポリスの政治に関わることをその幸福の不可欠の条件と考えていた、文字通り、「ポリス的存在」であったように--人間の幸福の条件であり、もって、その公的領域への参加とそこで得られる幸福感が<全体主義>に対抗可能な人間存在の条件でもあるというもの、鴨。

蓋し、アーレントは、言葉の正確な意味での「現代の保守主義」の信奉者でしょう。すなわち、(1)自己の行動指針としては自己責任の原則に価値を置く、そして、(2)社会統合のイデオロギーとしてはあらゆる教条に疑いの眼差しを向ける、よって、(3)社会統合の機能を果たすルールとしては、さしあたり、その社会に自生的に蓄積された伝統と慣習に専ら期待する、換言すれば、その社会の伝統と慣習、文化と歴史に価値を置く態度と心性を好ましいと考える。而して、(4)その社会の伝統と慣習、歴史と文化をリスペクトする<外国人たる市民>に対しては、逆に、彼等の社会の伝統と慣習、歴史と文化を<国民>もリスペクトすべきだと考えるタイプの社会思想を信奉する論者と言える。

尚、「保守主義」を巡る私の基本的理解については
取りあえず下記拙稿をご参照ください。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444711.html

・「左翼」の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1) ~(4)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60904872.html

・保守主義-保守主義の憲法観
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60996566.html


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いずれにせよ、アーレントは、1971年のニクソンショック、および、1973年のオイルショックを嚆矢とする人類史の本格的なグローバル化の黎明を見ることなく亡くなった。ゆえに、彼女の思索の枠組みは、あくまでも、(ⅰ)「国民国家」の形成、(ⅱ)「帝国主義」の成立、そして、(ⅲ)「全体主義」の勃興という20世紀前半までの人類史に限定されたものだったでしょう。アーレントの天稟は、しかし、「全体主義」がナチスドイツや社会主義の崩壊によって終焉するようなものでもないことを見据えていたの、鴨。

而して、(a)現代社会が大衆社会/大衆民主主義下の社会であり、(b)現代国家が福祉国家という全体国家--権威主義的で家父長的色彩が濃厚な「全体主義国家」ではなく、国民の経済活動や市民生活の多くの部面に行政サービスを提供する「全体国家」--である限り、更には、(c)グローバル化の昂進の中で、いよいよ、多様な文化を担う人々がある一個の国民国家の内部--しかも、グローバル化昂進の波濤の前には相対的にその力が逓減した「国民国家-主権国家」の内部に--等質な<国民>として組み込まれ包摂されざるを得ない限り、<全体主義>は常に魔界転生の機会を虎視眈々と狙っているのだ、と。

蓋し、「国民国家」が単に人間に等質な<国民>たることを要求する一方で--「国民国家」の成立にすぎないフランス革命の殺戮の嵐やアメリカ南北戦争の悲惨を想起するまでもなく--、等質たり得ないと看做す具体的な<市民>を<国民>のリストから暴力でもって排除する体制にほかならないのに対して、「全体主義」は--ルソーの説く「一般意志」、あるいは、ヘーゲルの唱えた「絶対精神」や「時代精神」の如く、もしくは、『風の谷のナウシカ』でナウシカにオームが自らの一族のことを述べたように--、異質なものもまるごと「全にして一、一にして全」と看做す体制であり、よって、「全たる一」になり得ない具体的な<国民>は<非国民>として暴力的のみならず論理的にも抹殺される体制なのでしょう。


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大凡、アーレントの思想の骨格とその思想的関心の核心をこう捉えることが満更曲解ではないとすれば、アーレントが「全体主義」に対抗するための橋頭堡として設定した、「公的領域-政治活動」への参加の推奨から片言隻句を切り出して<脱原発ファンタジー>を基礎付けるなどは、ほとんど正気の沙汰とは思えない破廉恥な言説ではないか。と、この毎日新聞のコラムについてそう私は感じたのです。

それは、原発を争点にすることが主体的に政治に参加することであり、そして、原発を争点にする限り「脱原発」が正解である。すなわち、「原発推進」や「原発容認」の候補に投票することは、主体的に政治に参加しない「平凡な人間が行う悪」である。それは、法的にはいざしらず、アーレントの地平においては倫理的な批判に値する。なぜならば、「政治においては服従と支持は同じもの」だからと主張していると。

畢竟、都政であれ国政であれ、多岐に亘る争点に対してどの程度の重要さを認めるか自体、有権者の自由であり、その価値判断こそ政治に主体的に参加するということではないでしょうか。ならば、この毎日新聞のコラムのような主張。国政のみならず都知事選挙においても、原発が争点になるべきだ、原発が争点になるということは「脱原発」の候補が勝利することだ--つまり、「脱原発」の候補が敗北するということは、原発が争点にならなかったということだ--という、お宅何様ものの言説が<全体主義>と隣接していることだけは明らかでしょう。アーレントの不倶戴天の敵の<全体主義>、と。敷衍します。


尚、私の<脱原発ファンタジー>に関する認識については
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・放射能の恐怖から解脱して可及的速やかに<原発立国>に回帰せよ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60935787.html

・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11138967625.html

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11138964915.html


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<続く>




テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済


<瓦解する天賦人権論のイメージ>


法理論的な意味と用法において、「憲法制定権力」は事実の世界の実定法秩序の変遷と法規範の世界の憲法体系の交錯を説明する作業仮説にすぎない。だからこそ、カール・シュミットは『憲法論:Verfassungslehre』(1928)の8章で、これまでの現実の政治史において「憲法制定権力」になりえたものとして「国民」や「人民」のみならず「神」や「国王」や「組織された徒党」をも挙げているのでしょうから。

尚、憲法制定権力と憲法改正の限界、及び、憲法の概念を巡る
私の基本的理解に関しては下記拙稿をご参照ください。

・憲法96条--改正条項--の改正は
 立憲主義に反する「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61963692.html

・保守主義の憲法観
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60996566.html

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繰り返しになりますが、「憲法制定権力」はある憲法秩序を構成する諸規範分類の道具概念であり、かつ、ある実定法秩序の変遷が「憲法の改正」であるか「新憲法の制定」かを判定する道具概念である。少なくとも、この理解からは「神は一度だけ宇宙を揺らす」のか「幾度も揺らすのか」などの、それこそ神学論争にこの用語の使用を限定されるいわれはない。と、そう私は考えます。

日本国民は自国の文化と伝統を反映した、なにより、自国の安心と安全と国益を極大化可能な憲法を制定する憲法制定権を持っており、その憲法制定権の発動の結果が「占領憲法の改正」であるのか「新憲法の制定」であるのかは日本国民にとってはどうでもよい、--勝負の決まり手が「小手投げ」なのか「出し投げ」なのかの判定の如く、勝負の帰趨とは無関係な、憲法研究者コミュニティー内部でのみ意味を持つ--趣味的な論点にすぎないとも。

б(≧◇≦)ノ ・・・小手投げ!
б(≧◇≦)ノ ・・・出し投げ!

ウマウマ(^◇^)稀勢の里、勝利!



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▼フランス革命
樋口さんの発言、「革命勢力がせっかくつくり上げた法秩序」という言葉自体にすでに左翼リベラルの価値観が炸裂していますが、「大革命前夜のフランスで・・・人権宣言と、国民主権をうたう新しい憲法がつくられた」にも目眩がしました。阿呆か、と。この理解は少なくとも読者をミスリードするものではないかと思います。

畢竟、鎌倉幕府の成立時期の解釈とパラレルに「フランス革命」をいつからいつまでの事柄とするかもそう簡単ではない。けれども、名作『ベルサイユの薔薇』を念頭に整理させていただければ、少なくとも、フランスの近現代史において、第一帝政(1804-1814)、王政復古(1814-1830)、七月王政(1830-1848)、第二共和政(1848-1851)、第二帝政(1851-1870)、第三共和政(1870-1940)、ナチスドイツによる占領およびビシー体制(1940ー1945)、第四共和政(1946-1958)、第五共和政(1958ー)の太刀持ち露払いを務める「フランス革命」なるものは、

1789年05月05日--------三部会招集
1789年07月09日--------憲法制定国民議会
1789年07月14日--------バスティーユ監獄の誤爆的襲撃
1789年08月26日--------人権宣言採択
1789年10月05日--------ヴェルサイユ茶番行進
1791年09月03日--1791年憲法(立憲君主制・国王に法律の拒否権)
1791年10月01日--------立法議会
1792年09月21日--------国民公会→王政廃止→ジャコバンのカルト的独裁開始
1793年01月21日--------ルイ16世処刑
1793年06月02日--------国民公会公安委員会をジャコバン派が独占
   →→テルミドール(1794年)までジャコバンのカルト的独裁が猖獗を極める!
1793年06月24日--1793年憲法(カルト的左派憲法。但し、施行はついにされず)
1793年10月10日--1793年憲法の停止(施行されていない憲法の停止!)
  「フランス政府は和平達成のその日まで革命的である」=「人の支配」の宣言!
   1793年4月~1794年7月の間にパリだけでも3000人が問答無用で処刑される!
1793年10月16日--------マリー・アントワネット処刑
1794年07月27日--------テルミドールの正義と秩序の回復
1794年07月28日--------カルト左派の狂人・ロベスピエール処刑
1795年08月22日--1795年憲法(ある意味、典型的な「ブルジョア憲法」)
1799年12月25日--1799年憲法(ナポレオン憲法)
1804年12月02日--------ナポレオンの皇帝戴冠
  「余は、フランス共和国の皇帝である。余は、フランス共和国の領土を外敵から守り、
   信仰の自由、政治的および市民的自由の保障等々、革命の成果を断固守護する」
1815年06月18日--------「ワーテルローの戦い」でフランス完敗
   →→「フランス革命」という名の一連の陰惨で滑稽な騒乱が完全に集結!



という一連の雑多で陰惨で滑稽な事件の束のことでしかないでしょう。蓋し、この陰惨で滑稽な事件の連続、もしくは、その中で泥縄式に制定された諸憲法とその実定法秩序を称して「革命勢力がせっかくつくり上げた法秩序」と呼ぶとは呆れてものも言えない。なにより、樋口さんの言う「国民主権をうたう新しい憲法」とはどの憲法のことなのでしょうかね。真面目に疑問です。

いずれにせよ、フランス革命なる「陰惨で滑稽な事件の連続」を根拠に、--1789年以降、諸外国においても憲法論的に尊重されるべき価値を帯びる--普遍的な人権なるものや普遍的な立憲主義なるものが成立したなどとは到底言えないことだけは間違いないのではないか。よって、日本では(コミンテルン日本支部であった日本共産党と近しい)講座派や隠れ講座派の丸山真男、あるいは、大塚久雄が流布した「日本は市民革命を自前で経験していないから、本当の意味での民主主義も人権尊重の感覚も国民の間に根付いていない」なども与太話にすぎない。フランス革命などは日本にとっては大昔のよそ事なのですから。と、そう私は考えます。


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而して、自民党の改憲草案に対する樋口さんの敵意というか苛立ちの原因はなんなのか。「改憲草案は旧憲法への逆戻りだ、というとらえ方でよいか、それでは甘すぎるのではないか」という主張を見てそう疑問に思いました。なぜならば、「在外国民の保護」(25条の3)等の新しい規定が盛り込まれているだけでなく、現行の占領憲法の曖昧な多くの権利条項を明確化している点で、占領憲法よりも、そして、間違いなく旧憲法よりも改憲草案の方が権利保障においても優れている所もあるはずですから。

あくまでも想像するしかありませんけれども、樋口さんの苛立ちの理由は、(A)旧憲法と改正草案の各々の時点における「ヨーロッパ・スタンダード」との距離、就中、(B)改憲草案が、天賦人権論・社会契約論・個人の尊厳、すなわち、「必要悪としての国家権力」あるいは「安全保障等の公共善を担い、かつ、権利を保障する限りにおいて国家権力は正当性が認められる」という19世紀のフランスの左翼的パラダイムの残滓を払拭していることなの、鴨。もし、この想像が満更私の曲解ではないとするならば、しかし、これら(A)(B)は樋口さんの個人的な美意識のマターであり、それが自民党の改憲草案の是非を判定する上で一般的にそうそう意味のある基準ではないのではないでしょうか。

蓋し、立憲主義は<開かれた構造>であり、憲法を制定し解釈する営みに際しての<足場>にすぎない。つまり、樋口さんご自身が述べておられるように「もとより、人権の普遍性を基本に置く考え方にしても、それぞれの文化の個性を無視していてはその社会に受け入れられない」(『「憲法改正」をどう考えるか--戦後日本を「保守」することの意味』(岩波書店・2013年5月))のでしょう。ならば、これまた繰り返しになりますけれども、具体的な権利の内容は国により時代により異なるのであり、その権利内容を詳らかにするのは「立憲主義」の四文字ではなく司法審査の<言語ゲーム>的の蓄積でしかないだろうから。

まして、「夜警国家」の時代ではなく社会権的権利が認められている「福祉国家」の時代、そして、樋口流の憲法論から見ても、それまた「必要悪」たる諸外国による日本の主権と日本国民の権利侵害が頻発する現在--よって、権利の制約根拠を「権利相互間の調整原理としての公共の福祉」なるものではまかなえないことが自明であり、権利の制約根拠としての「公益」をも導入することが不可避の現在という<時代性>を反芻するとき--いよいよ、私はそう考えるのです。


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樋口流の憲法論は破綻している。それは、例えば、集団的自衛権の政府解釈の見直しについて、朝日新聞が「最高法規の根幹を、政府内の手続きにすぎない解釈によって変える。これは「法の支配」に反するのではないか」(2014年1月3日社説)と書いているのと同じくらい根拠薄弱の議論。なぜならば、現行の「集団的自衛権を日本は国際法上は保有しているが憲法上は行使できない」という噴飯ものの政府解釈もまた「最高法規の根幹を、政府内の手続きにすぎない解釈」で示したものだから。他方、樋口さんの議論もまた、その仲間内でしか神通力のない「立憲主義」「憲法制定権力」「フランス革命」を巡る特殊な語義で編み上げられた<呟き>にすぎないの、鴨。

畢竟、上に引用した樋口さんの主張は単なる「文化帝国主義」の吐露にすぎず、天賦人権なるものに価値を認めない我々保守派のような縁なき衆生にはなんの説得力もないリベラル派の杜撰で僭越な<呟き>にすぎないと思います。樋口さんご自身が次のような真理告白・信仰告白を吐露してから、すなわち、

「<西欧生まれの人権や自由を押しつけようとするのは文化帝国主義ではないか>という反撥がある。たしかに、文化の相対性ということはある」「人間の尊厳を「個人の尊厳」にまでつきつめ、人権の理念とその確保のしくみを執拗に論理化しようとした近代立憲主義のこれまでの経験は、その生まれてきた本籍地を離れた普遍性を、みずから主張できるし、また主張すべきなのではないだろうか」

「文化の相対性という考えをみとめながらも、人権価値の普遍性を主張することがけっして「文化帝国主義」ではない、という基本的考え方を、どうやって基礎づけるかという思想的ないとなみの責任を、日本の知識人は日本の社会に負っているのであり、日本社会はまた世界に対して負っているのである」なぜならば「文化の多様性を尊重することと、西欧起源の立憲主義の価値の普遍性を確認、再確認することとは、別のことがらである。後者の普遍性を擁護することは、だから、けっして、不当にもひとびとがいう「文化帝国主義」の行為ではない」のだから。


と、少し意地悪に要約すれば、「立憲主義の価値の普遍性を主張することは文化帝国主義ではない。なぜならば「立憲主義の価値の普遍性」は人権価値の普遍性に基礎づけられているからだ。そして、人権価値の普遍性を主張することも文化帝国主義ではない。それは文化帝国主義などではないからだ」というトートロジーを、すなわち、循環論法でもって単なる自己の美意識を『自由と国家』(岩波新書・1989年, p.201ff.)に綴ってから四半世紀が経過するというのに、「人権価値の普遍性」なるものが基礎づけられたという話は寡聞にして聞こえてきませんから(笑)。


畢竟、樋口陽一の護憲論議は杜撰な僭越であるか、私的な美意識の披露、
もしくは、その両方にすぎない。と、そう私は考えます。
而して、瓦解した天賦人権論の上に、日本の国柄を踏まえた<憲法>が
木花咲耶姫の如く美しく再生する日も遠くないとも。



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木花咲耶姫



テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済





集団的自衛権の政府解釈の見直しや自民党の憲法改正草案は、「旧憲法への遡行」どころか、旧憲法さえ尊重していた「立憲主義」を破壊しようとするものだ、そのような動きを「保守」と呼べるのだろうか。このような言説が少なくないようです。蓋し、その多くは「天賦人権および立憲主義にアプリオリな価値を密輸する」誤謬を犯したもの、鴨。

その代表的論者、樋口陽一さんは、例えば、『世界』(2013年12月号)所収の「なぜ立憲主義を破壊しようとするのか」(pp.63-68)でこう述べている。

「安倍政権が成立して、まず96条、憲法改正手続を定めた条項を改めようという主張を押し出してきました。自分たちがやろうとする全面改憲をやり易くするために改正手続きのハードルを下げてくれという話ですから、試合をやり始めながら途中で自分たちに都合よくルールを変えるということのいかがわしさが、あぶり出されることになりました。その際に議論のキーワードとなって浮かび上がってきたのが、立憲主義(constitutionalism)という言葉です。

憲法(constitution)を基準にして権力を縛る、ということがその意味です。・・・【旧憲法時代にも「立憲主義」はいきづいていました】帝国憲法の下で初期には藩閥政府の権力、やがて軍という権力に対する抵抗の中で、立憲主義を盾にして権力を非・立憲、反・立憲と弾劾して攻めたてるのが、帝国議会の役割だったからです。・・・

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国民主権を掲げることになった戦後、・・・国民が主人公になったのだから国民がつくった権力を制限する必要はない、もはや「立憲」の時代ではなく「民主」の世の中だ、という感覚が広がったのです。・・・それならば、【憲法改正の】国民投票をする国民は万能なのでしょうか。96条の定める憲法改正権も権力である以上、制限されなければならないのが、立憲主義ではないでしょうか。

そのような抵抗力を持つはずの立憲主義という枠組みをこわしてゆこうとするときに持ち出されるのが、実は「国民の憲法制定権力」というシンボルです。歴史を遡りましょう。大革命前夜のフランスで、目の前にある既成の法秩序を全面的に解体して新しい法体系を作り出すときに、「憲法をつくる力」を国民が持ち、それはどんな法的制約にも服さない、という主張が威力を発揮しました。そのようにして、人権宣言と、国民主権をうたう新しい憲法がつくられたのです。

ところが、国民の憲法制定権力がヌキ身で万能のままだと、革命勢力がせっかくつくり上げた法秩序が、万能の憲法制定権力によってまたひっくり返されてしまうでしょう。そこで出番が終わった国民の憲法制定権力は、勝手に動き出さないように封印・凍結されます。こうして、憲法を変えるにしても、それは万能の権力によってではなく、憲法自体の規定する約束事によってしか出来ないことになりました。憲法改正権(96条です)は、「憲法をつくる権力」ではなく、立法、司法、行政、そうであるように、憲法によってつくられた、従って憲法上のルールに縛られた権限のひとつなのです。・・・

ですから、「国民が憲法制定権力を持つ」という議論の仕方に、うっかり「だまされ」ないようにしましょう。たしかに、一方でそれは「憲法をつくる権力」と「憲法によってつくられる権限」を区別することによって、憲法を変えようとする権力をも制限しようとする立憲主義と結びつくことができます。ところが他方で、憲法を思うがままに作り変える万能の権力、という魔性の本能を発揮すると、一切のルールや手続をなぎ倒し、「いやこれは国民が決めたのだ」として、立憲主義を根こそぎ否定するために使われるからです。・・・

繰り返しますが、改憲草案は旧憲法への逆戻りだ、というとらえ方でよいか、それでは甘すぎるのではないか。明治憲法は、その本文各条に関する限り、基本的に19世紀ヨーロッパ・スタンダードに沿っています。・・・対照的に、改正草案は、見てきた通り【天賦人権を否定する基本理念の逆転、国防の役割を超える「国防軍」、打ち捨てられる「公共の福祉」等々】、20世紀後半に人類社会がたどりついた国際基準からあえて離れて「日本は日本は」という道に入ろうとしている。そこをきちんと見すえなければならないはずです。・・・」


(以上、引用終了)


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冒頭でも述べたように、樋口さんの如き主張は、その価値の普遍性が証明も論証もされていない立憲主義や天賦人権から--しかも、彼等の特殊な「立憲主義」のイメージから--改憲のうねりを批判しているにすぎないのではないでしょうか。つまり、樋口流の憲法論などは、詐欺師の裁縫師の作った「裸の王様」の衣服なの、鴨。

尚、天賦人権論と立憲主義を巡る私の基本的な認識については
下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html


いずれにせよ、現在ではヨーロッパの憲法典や憲法論の主流は、例えば、スイスの2000年の新憲法を紐解くまでもなく、憲法は国家権力を縛るだけでなく、国家権力と国民が協同関係にあるという憲法観に到達していると言える(cf. 『文藝春秋』2013年7月号所収「憲法改正大論争」pp.132-150、就中、pp.148-149の西修さんの指摘)。

ならば、樋口流の憲法論は、「個人の尊厳を核とした権利の普遍的な価値の受容と、そのような権利を保障するための立憲主義に貫かれた国家権力機構の創出、そして、国家権力の権力行使はそのような権利を保障するための立憲主義に則っている場合にのみ正当化される。なぜならば、そうとでも考えなければ国家権力や憲法の正当性を誰も説明できないからだ」といった、実は、かなりシャビ-な根拠しかもたない議論。換言すれば、それは「立憲主義は普遍的だ、よって、立憲主義に貫かれている限り国家権力は正当性を持つ。なぜならば、立憲主義が確保しようとする権利の価値は普遍的なのだから、そして、権利価値の普遍性はそれが認められなければ国家権力の正当性が説明できないのだから自明である」という循環論法の基盤の上に建てられた砂上の楼閣、もしくは、空中楼閣にすぎないと思います。

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蓋し、帝国主義のチャンピオンであった英米さえもが本格的な常備軍を保有していなかった19世紀半ばの「夜警国家」の時代とは異なり、--その後、一世紀程の帝国主義の時代、および、社会主義が跳梁跋扈した70年余の時代を経て--主要国が常備軍を抱え、他方、社会権的基本権が権利として認定される一方、その濃淡は別にして主要国がケインズ政策を採用する--主要な「資本主義国」の多くでそのGDP総体に占める公的財政支出の割合が優に60%を超えている!--「福祉国家」となった現在、立憲主義を専ら権力の制約原理として捉え、「立憲主義」の四文字で権力の不当な行使が制約可能と考えることは現実的ではないでしょう。

畢竟、立憲主義は権力の制約原理であると同時に権力の正当化原理でもある。加之、不当な権力行使の予防と救済の道は「立憲主義」の四文字を睨んでその是非を判定するが如き憲法研究者の名人芸によってではなく、司法を始め有権解釈者が憲法の具体的な権利規定から遂行論的に積み上げる解釈の蓄積しかないのではないでしょうか。

すなわち、現在では、権力制約原理の側面においてさえも、立憲主義は国家権力の規模の規制原理ではなく権力行使のガイドラインなのであり、就中、立法・行政の政治セクターに対して司法権が容喙できる範囲を判定するためのガイドラインにすぎない。いずれにせよ、立憲主義がそれだけでは権利の具体的な内容、もしくは、--三権分立という大雑把な分類を超える--国家権力機構間の権限の具体的な配分のあり方を導き出せない、抽象度の高いタイプの法理念であることは間違いない。と、そう私は考えます。閑話休題。


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立憲主義にアプリオリな価値を密輸する樋口流の議論は、他方、「立憲主義」と「憲法制定権力」、および、「フランス革命」についてのかなり根拠の怪しい理解によって編み上げられたもの、鴨。

(Ⅰ)立憲主義の特殊な理解
(Ⅱ)憲法制定権力の特殊な理解
(Ⅲ)フランス革命の特殊な理解

▼立憲主義
「立憲主義」にせよ「憲法制定権力」にせよ、あるいは、「フランス革命」にせよある言葉をどのような意味に用いるかはかなりの程度論者の自由に属することでしょう。而して、例えば、「立憲主義」の語義は大凡次の4個に分類できる、鴨。

(1)天賦人権を前提とする「権利の保障」と「権力の分立」を要請する主張
(2)天賦人権を前提としない、しかし、一般の制定法を無効にする効力を帯びるなんらかの普遍的価値が憑依する「権利」と「上位の法」に沿った権力行使を要請する主張
(3)天賦人権を前提としない、しかし、なんらかのルールで決まった権利を、かつ、社会の多数派から守るための統治の仕組みと権力行使の運用を要請する主張
(4)統治機構が憲法や慣習に従い構成され、権力の行使が憲法や慣習に則って行われることを要請する主張


ならば、樋口流の立憲主義なるものは、論理的に同じ資格で成立可能な4個の中の(1)のみを「立憲主義」と恣意的に呼んでいるだけの杜撰で僭越な議論なの、鴨。そして、(1)のフランス流の立憲主義が「天賦人権論」または「社会契約論」というこれまた根拠薄弱のイデオロギーが神通力をまだ維持しているリベラル派の仲間内でのみ、他の三者--(2)英国流の、そして、現在の世界の憲法論の主流の一斑と言える、「古典的立憲主義」もしくは「新しい保守の立憲主義」、あるいは、これまた、(3)現在の世界の憲法論の主流の一斑と言える謂わば「新しいリベラルの立憲主義」、更には、(4)旧ドイツ流の、つまり、旧憲法の「外見的立憲主義」--に対しての優位性を僭称できるもの、鴨。

畢竟、普遍的な価値を帯びる権利が存在すると考える「天賦人権論」は存在可能だけれども、そのような普遍的かつ具体的な内容を備えた「天賦人権」は存在しない。よって、「天賦人権」を前提にする(1)は破綻している。すなわち、樋口流の立憲主義は、リベラル派の仲間内だけで通用する謂わば夜間限定の<百鬼夜行>的な議論、鴨。もっとも、現在の日本ではそれは<夜>に限らず<百鬼昼行>の趣すらありますけれどもね。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。



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▼憲法制定権力
樋口さんの記述、「国民の憲法制定権力がヌキ身で万能のままだと、革命勢力がせっかくつくり上げた法秩序が、万能の憲法制定権力によってまたひっくり返されてしまうでしょう。そこで出番が終わった国民の憲法制定権力は、勝手に動き出さないように封印・凍結されます」を目にして私は唖然としました。

畢竟、「最初に一度だけ神が宇宙を揺らし、その後、力学法則に従い宇宙は動いている」といった<ニュートン的宇宙観>でもあるまいに、「最初に一度だけ憲法制定権力が発動した結果、天賦人権が顕現して立憲主義が確立した。その後、憲法制定権力は封印・凍結され憲法改正権になった」という認識は極めて恣意的なものだろうから。

フランス革命時、確かに、シェイエスは「憲法制定権力論≒憲法制定権力の保有者は第三身分であるという主張」を唱えました。けれども、フランス革命なるものが憲法論において--まして、フランス以外の国の憲法論において--<神の最初にして最後の世界を揺らす一撃>であったとする根拠はどこにもない。而して、少なくとも、カール・シュミットの如く、法理論の領域で、「憲法制定権力」を憲法改正の限界指標--すなわち、ある憲法典の変更が「現憲法の改正」なのか「新憲法の制定」なのかを説明する指標--と捉えることは誰からも毫も批判される筋合いのないことでしょう。


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<続く>


テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済

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