憲法は権力を縛るものであって
権力者が憲法を勝手に解釈することは
立憲主義から見て許されない


かくの如き言説、すなわち、「集団的自衛権の政府解釈の見直しは立憲主義に反する」という類のリベラル派の言説が世に溢れているようです。而して、本稿は「立憲主義」を巡る私の理解を整理したもの。リベラル派の「言うたもん勝ち」「言うだけならタダや」的な言説に我々保守派が効率的かつ効果的に反論する上で本稿が少しでも役に立てば嬉しいです。本稿の要点は次の4個。

(Ⅰ)立憲主義は憲法を説明する原理であり憲法解釈の指針ではない
(Ⅱ)立憲主義は民主主義と緊張関係にある
(Ⅲ)立憲主義はこの百年間で変化した
(Ⅳ)リベラル派の「立憲主義」にはある特殊な人間観・国家観が憑依している



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(Ⅰ)立憲主義は憲法の原理であり憲法解釈の指針ではない
近代立憲主義の要諦を記したとされるフランス人権宣言16条「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、憲法をもつものではない」に明らかな如く、「立憲主義」とはそもそもあるタイプの憲法制定の要求であり、そんなタイプの憲法典の諸条項を説明する原理です。

而して、立憲主義的な憲法では、(a)国家権力によっても侵害されることのない権利の存在を前提としつつ、(b)権利を保障するための統治機構の分立、および、三権間の抑制と均衡が組み込まれている。加之、(c)ある範囲の立法に関してはそれらを違憲無効と判定する司法審査権を司法府に認めること、あるいは、(d)権利保障をより十全かつ慎重にするべく、憲法の改正には通常の立法手続きよりもより高いハードルを課す憲法の硬性性もまた立憲主義から説明されましょう。

しかし、例えば、国民主権の原理から直ちに国政選挙の妥当な選挙権年齢が--現行の20歳は違憲で18歳なら合憲などと--決まることはないのとパラレルに、「立憲主義」の四文字から「妥当な硬性性の度合い」なり「個別の事案から自由に、かつ、事前に立法の合憲性を審査する憲法裁判所としての権能を最高裁判所に与えること」の是非などが導かれるわけでもありません。白黒はっきり言えば、立憲主義は憲法の説明の原理ではあっても、少なくとも、単独では憲法解釈の指針として作用することはないのです。

繰り返しになりますが、「立憲主義」のみならず、例えば、国民主権・民主主義、自由と平等、あるいは、国家の生存権、そして、日本国を社会統合する軸としての天皇制といったあらゆる憲法の原理は、ほとんどの場合単独では憲法解釈の指針としては作用しない。それらの諸原理は現行憲法の諸条項を説明するロジックであり、ならば、具体的な憲法解釈においては、それら諸原理は具体的な個々の憲法の諸条項や憲法の慣習を経由してその意味内容を照射するものでしかない。と、そう私は考えます。

而して、司法審査を通した権利保障に際しても「立憲主義」は、1次的には司法権の権限と権威の根拠なのであって、--表現の自由の制約にせよ生活保護の認定基準や給付内容の決定にせよ--それら具体的なケースでは占領憲法の権利諸規定の解釈から権利保障の妥当な範囲が導き出されるしかないのです。

いずれにせよ、例えば、民法の解釈でも、信義則の尊重や権利濫用の禁止、公共の福祉による権利制約といった一般条項(1条)を法的紛争の解決に際して持ち出すのは最後の最後の手段とされましょう。曖昧な原理や原則は、他に適用可能な具体的なルールが見当たらない場合、もしくは、具体的なルールをダイレクトに適用しては紛争解決の結果の妥当性が危ぶまれる場合の最後の手段ということ。ならば、これとパラレルに、憲法解釈の指針としてそれを捉えるにせよ、これと同様な禁欲的姿勢が「立憲主義」を持ち出す論者には求められるのではないでしょうか。


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(Ⅱ)立憲主義は民主主義と緊張関係にある
(Ⅲ)立憲主義はこの百年間で変化した

現在では多くの主権国家の憲法典とその実定法秩序には国民主権と民主主義のイデオロギーが組み込まれています。つまり、現在では、立憲主義が縛る「権力」や「権力者」なるものは、立憲主義によってだけでなく民主主義によっても自身を正当化しているということ。ならば、立憲主義は--テクノクラートが構成する非民主的な裁判所が、よりデモクラティックな色彩の強い国会と内閣の立法や処分を違憲無効にできる場合もあるというロジックでもある限り--、民主主義あるいは国民主権の原理と対立する、少なくとも、緊張関係にあると言えます。

・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62198131.html

何を言いたいのか。すなわち、この側面からも「立憲主義」の四文字からだけでは「集団的自衛権の政府解釈の変更」が憲法的に許されるか否か、あるいは、憲法改正条項(占領憲法96条)の改正が許されるかどうか等の憲法の解釈は導き出されることはない。それは--(Ⅰ)で述べた如く、憲法の具体的な諸条項や憲法の慣習を通して見いだされるのみならず--、民主主義や国民主権、更には、国家の安全保障や日本国の社会統合という他の諸原理との折り合いの中で決まるしかないということです。


西欧諸国においてさえ国民主権も民主主義もまだ実定的な憲法原理とは到底いえなかった18世紀末~19世紀半ばの頃と、世界の大方の国がイデオロギー的に「主権国家-国民国家」としての体裁を整え、更には、普通選挙制度が行き渡った20世紀前半では「立憲主義」の意味内容も変化せざるをえませんでした。

更に、国家権力の容喙を拒む「自由権的基本権:国家からの自由」が権利の内容であった時代から、20世紀後半以降、国に社会保障や財政金融政策の出動を求める「社会権的基本権:国家への自由」もまた権利として認められるにおよび、立憲主義の内容も「権力を縛る」原理だけでなく「権力を働かせる」原理としての役割も担うことになった。

敷衍すれば、大凡の主権国家が実際に憲法典を保有してしまった20世紀半ば以降、元来、憲法典の制定を求める政治的主張でもあった「立憲主義」は、「国家権力や社会の多数派によっても侵害されるべきではない権利の存在を前提として、国家権力によるそのような権利の侵害を制約し、他方、社会の多数派からのそのような権利への侵害に対する<守護神>であることを国家権力に求める原理」と理解するのが今では妥当であろうと思います。

つまり、立憲主義の根拠はそれが守護する権利の普遍性--ここで「普遍性」という誤解の多い言葉を避けて敷衍しておけば、権利の中には取りあえず国会の立法によっても侵害されるべきではないものがあるというアイデア--にあるということです。

而して、このように「立憲主義」を発展的に読み換えるにしても、具体的な権利が現実に侵害されるわけでもない「集団的自衛権の政府解釈の変更」について、それを批判するに際して「立憲主義」を持ち出すことは筋違いである。まして、安全保障という「統治行為マーター:political questions」については、裁判所ではなく、原則、内閣と国会が有権解釈者なのですから、三権分立を求める原理という立憲主義の中核的意味内容からみて、正当な有権解釈者による憲法解釈をその「立憲主義」から批判することは筋悪でしかない。

換言すれば、立憲主義とは、国家権力が憲法に従うことを通して国家権力の恣意的な運用を制約する原理である裏面では、それは国家権力の権力行使を正当化する根拠でもありましょう。すなわち、立憲主義自体は--権力分立と権利の確保という回路を別にすれば--弱い国家権力や権力の消極的な行使をアプリオリに要求する原理では最早ないということです。ならば、国民の社会統合とならんで国家権力の最優先のタスクである安全保障について、内閣が自己の解釈を変更することは、国の安全と繁栄の実現を積極的に国家権力に求めるに至っている現代の立憲主義が寧ろ歓迎することものではあっても否定するものではない。と、そう私は考えます。


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(Ⅳ)リベラル派の「立憲主義」にはかなり特殊な人間観・国家観が憑依している
日本のリベラル派の使う「立憲主義」という言葉には、--おそらく、アトム的個人観・社会契約論・天賦人権論といった--現在では世界的に見てもかなり特殊なイデオロギーが憑依しており、それは、最早、万人を拘束するような<神通力>を持つものではないと思います。加之、彼等の議論は、占領憲法の意味内容が国際関係や国際政治と無縁に憲法典から演繹されるとする、空間的にも時間的にも<閉じた体系としての憲法>あるいは<結晶体としての憲法>のイメージに定礎されているとしか思えない。

フランス革命という名の陰惨な一連の騒乱事件当時、すなわち、「主権国家-国民国家」が人類史に登場する場面で、当時、神通力を消失していた「中世的な立憲主義」をモデルチェンジするに当たって--国家を超えるsomethingでなければ国家を正当化することはできないでしょうから--アトム的個人観・社会契約論・天賦人権論というイデオロギーが考案されたのは自然なこと。これは、インターナショナルな「万国の労働者の祖国」を詐称することで、ソビエトロシアがやっと「一国社会主義体制」という名の「主権国家-国民国家」に移行することができた事情ともパラレル、鴨。

けれども、「主権国家-国民国家」が与件として存立割拠するに至っている現在、アトム的個人観・社会契約論・天賦人権論は国家権力と憲法秩序の正当化の唯一のロジックでもないしその正当化のパフォーマンスもそう優れたものではない。例えば、日本の文化と伝統、日本の歴史と国柄に価値を置き、皇室を戴く国民の運命共同体として<日本>を捉えるやり方と比べてそのパフォーマンスが優れているとは必ずしも言えないでしょう。

アトム的個人観・社会契約論・天賦人権論が単なる机上の想定であるのに対して、<日本>を核とした日本国民と日本国の理解には国民の法意識の中で間主観的な妥当性があること、よって、国家権力の正当化に関しても国民の法的確信をより高いパフォーマンスで具現可能なことだけは確かなのですから。

いずれにせよ、--それはリベラルな憲法秩序を担う主体としての「地球市民」なる<メシア>の出現をいまだに信じているからでしょうか--<日本>という特殊性を忌避するリベラル派にとって、アトム的個人観・社会契約論・天賦人権論、そして、それらと整合的なこれまたかなり特殊な意味内容の「立憲主義」なるものは、リベラル派の立場からはそうとでも考えなければ、国家権力も国民の行動を制約するその権力行使も正当化できないという、彼等の仲間内でしか通用しない根拠のかなりシャビイな議論であろう。下にURLを記した拙稿「瓦解する天賦人権論」で些か詳しく検討したように、そう考えなくとも保守主義からの国家権力とその行使の正当化は十分に可能でしょうから。と、そう私は考えます。


尚、(Ⅰ)~(Ⅳ)に関するより詳しい説明は下記拙稿をご参照ください。

・立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62314363.html

・解釈改憲なるものについての雑感
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62383748.html

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html

・憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する
「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61963692.html


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アメリカ大学院留学のカウンセリングに長らく従事してきて、よって、毎年、数百のアメリカのビジネススクールを調査してきた者として最初は意外に感じたことがあります。それはアメリカ人MBA学生の学部時代の専攻の分布。経済学・経営学とならんで--アメリカには学部レベルの「法学部」は存在しませんから法学専攻者はもちろんほぼ皆無なのですけれど--哲学専攻者の割合が低くないこと。日本では、哲学専攻と言えば、やはり今でも--個々の学部学生の志向は捨象するとして哲学科総体を覆おうイメージとしては--好事家的で些か浮世離れした「哲学・学」の様相を呈しているのと比べてこの点、彼我の差は歴然。

哲学の教授なりがTVで政局についてコメントするにつけ、哲学科の学部生が高田馬場や渋谷、百万遍や北白川の居酒屋で時事政局を論じるに際しても、なにがしか高尚な蘊蓄を披露しつつ、結局、論者の解釈や感想を呟いているにすぎない日本と比べて、--アメリカ人MBAの学部時代の専攻分布という小さな<窓>から垣間見える--アメリカ社会における<哲学>のありようを想起するとき、そこには小さいけれどかなりクッキリした<哲学>に対する日米の差を私は感じました。蓋し、日本では哲学は<教養であり芸事>にすぎないが、アメリカではそれは<教養かつ技術>なのではないか、と。


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◆技術としての哲学
哲学とは--事実と規範、存在と当為を峻別する新カント派の方法二元論、もしくは、歴史の弁証法的展開を織り込んだマルクス主義の唯物史観に端的な如く--世界認識の方法論や世界認識のパラダイムではありましょう。それは間違いない。そして、<哲学>、すなわち、哲学する営みは単に「私はこう思う」と語る言語活動ではなく、端的に「私はこれこれの根拠に基づいてこう思う、よって、その根拠が否定できないのなら貴殿も私と同様にそう考えるか、少なくとも、対案が提出できるまでは沈黙していなさい」と他者に迫るかなり高飛車な言語行為でもある。

けれども、哲学とは、「哲学・学」を遥かに超える一般的な思考の枠組み、あるいは、論理展開のモデルに関するアイデアの束であり、なにより、それら諸アイデアの運用の技術ではないか。ならば、<哲学>をそのような公共の言説空間における<論理の技術>と捉えるとき、カントやマルクスのテクストもそのような諸アイデアを知るためのケーススタディー集と理解できる。そう私は考えています。

畢竟、あらゆる技術がそうであるように、技術としての哲学にも過去の先達の工夫と叡智の蓄積がありましょう。ならば、それは囲碁や将棋とパラレル、または、日本料理やフランス料理の伝統ともパラレルなの、鴨。ただ、哲学が囲碁・将棋と違っているのは、あるいは、物理学・医学・心理学、経済学・法学・歴史学という個別科学と異なっているのは、それが世界を認識する自己の能力を根本から疑い、よって、ゼロベースから構築された世界を認識するための技術体系ということでしょうか。

蓋し、哲学の体系性や論理性は--論理と公理に従い事実に基づいてのみ議論するという点では--他の諸科学とそう差はない。けれども、それがゼロベースから積み上げられている徹底性の点では、そして、なによりそれが<自己を含む思念の全対象世界>をカバーする包括性という点では他の諸技術や諸科学と鮮やかな対照をなしている。

実際、哲学の内容にはイデオロギーの構築からあらゆるイデオロギーの批判までが含まれている。敷衍すれば、宇宙論、世界観、歴史観、国家論といったイデオロギーの構築から、他方、逆に、--憲法を対象とする哲学的な考察である憲法基礎論の領域に限っても、例えば、「憲法」や「立憲主義」や「自衛権」の諸概念の究明、および、具体的な個々の憲法体系に内在するとされる「天賦人権論」なり「社会契約論」なりの--イデオロギー分析と批判が哲学の内容には包摂されている。

哲学的に取り扱われる限り、すなわち、ある事象が体系的・論理的に、かつ、徹底的・包括的に思念される限り、AKB48も英語教育も、サッカーワールドカップもカップラーメンもこの世に<哲学>の主題にならないものはない。蓋し、ある言説が哲学的かどうかを決めるものは--新カント派が喝破した如く「方法が対象を決定する」のでしょうから--独り、その言説の根拠性がゼロベースから組み立てられているかどうかの徹底性の度合いにある。私はそう考えます。


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教科書的には、哲学の内容は、大体、認識論、存在論、価値論に区分されています。蓋し、これは偶さかのことではなく、また、学界の惰性と怠慢だけでもない(多分)。ゼロベースから自己の世界認識の立場と自己の哲学的な世界観を構築する際、人間の認識能力の吟味(認識論)、人間存在の定礎(存在論)、社会的行動の指針の措定(価値論)というこれらの内容が、更に言えば、それら三者の連関性の究明が哲学をする誰にとっても大凡不可避であった事情のこれは裏面なのだと思います。畢竟、哲学することと伝統的に蓄積されてきた技術としての哲学の諸アイデアを学ぶことは流石に無縁ではないということです。

而して、法哲学の内容・仕事についてまとめられた矢崎光圀先生の次の有名な知見(例えば、『法哲学』(筑摩書房・1975年),pp.26-37)も、そのような歴史の試練に耐えて現在に至っている定跡や定石のリストアップと言えるかもしれません。乱暴に整理しておけば、(1)と(2)が認識論、(3)と(5)が存在論、そして、(4)が価値論にその場を専ら占めていると言える、鴨です。いずれにせよ、哲学各論としての法哲学は--あるいは、そのまた一部分としての憲法基礎論は--哲学総論との有機的連関性を保ちながら形成されて現在に至っていることは間違いない。と、そう私は考えています。


法哲学の五つの仕事
(1)法の説明の問題--法概念論--
(2)法学方法論の問題
(3)法の社会的機能、役割の問題
(4)法の目的、価値の問題
(5)法と言語、論理の問題



逆に言えば、これまでの人生で哲学書などこれっぽっちも読んだことのない論者が、しかし、世界と世間についてなにほどか聞くに値する知見や主張を公共の言説空間で述べている場合、彼女や彼の言説の多くは、大概の場合、哲学の言語に翻訳可能ということ。敷衍すれば、認識論、存在論、価値論の区分自体には何の必然性もない。けれども、それらは<技術としての哲学>の定跡や定石として歴史の試練に耐えて現在に至っているのだろう。ならば、好き勝手に自己流で囲碁・将棋に戯れ、料理を楽しむのは論者の勝手だけれど、より上手いより美味い<作品>を目指すのなら過去の定跡や定石を学ぶのも悪くはない、鴨。と、そう私は考えます。

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◆哲学は進歩するか
哲学を技術と捉え、そして、過去の哲学の古典を技術を知るためのケーススタディー集やアイデア集と捉えるとき、「そもそも哲学の言説に正解はあるのか」とか「哲学は進歩するものなのか」というこれまた些か浮き世離れした問いの解答も自ずと明らかになる。

囲碁の世界では江戸時代の本因坊秀策の棋譜のレベルは現在のプロ棋士のそれを遥かに超えているとか。しかし、そんな例外中の例外は置いておくとして、哲学を技術と捉える立場からは「哲学は進歩するか」の問いに対する返答は「Yes」です。

考えるための技術、あるいは、考えるための考え方の技術と哲学を捉える場合、アリストテーレースやソークラテ-スはもちろん、ヘーゲルやマルクス、そして、カントの作品さえも現在の水準から見れば--すなわち、ウィトゲンシュタインとフッサール、要は、分析哲学と現象学の地平から振り返れば--稚拙で杜撰、牧歌的で脳天気な言説と言わざるをえません。

例えば、カントが万人に共通の思考の形式と看做した「量・質・関係・様相」の純粋悟性概念(カテゴリー)なるものは、単に18世紀当時の論理学の通説--要は、アリストテーレース由来の論理学--の微修正にすぎず、また、カント哲学の前提たる「物自体」もかなり恣意的な想定と言わざるをえません。同様に、19世紀当時の英国古典経済学の通説から労働価値説を無批判に受け入れたマルクスの思想も『資本論』第一巻のその初手から、本来成立不可能な普遍的な価値の存在を想定する誤謬に陥っている。この意味ではその時代その時代の哲学水準に応じて「哲学の言説に正解はある」。


けれども、逆に、哲学を世間や世界を考えるための技術と捉えるとき、実は、誰にとっても哲学は一種の<比喩の体系>でしかないとも言えるのではないか。そして、比喩としての<哲学>を使い、有限なる人間が無限なる世界に臨む場面では哲学の営み自体には進歩があるとは思えません。畢竟、作品としての哲学は進歩するけれど、精神活動としての<哲学>にはそう大きな進歩はなく、寧ろ、時には退歩することさえも希ではなかったかもしれない、と。要は、この意味の<哲学>においては「哲学の言説に正解はない」のでしょう。

例えば、現在の日本のリベラル派が「天賦人権論」や「立憲主義」という言葉をかなり曖昧な意味に用いて展開している粗忽かつ僭越な議論を見聞きするとき、私はそこに<哲学>の退歩を感じないではない。少なくとも、トンデモな議論が咲き競うそこには、人間の有限性を自覚した上で、対象世界の認識から180度進路を変えて人間の認識能力の根拠と限界の究明に向かったカントの「先験哲学」登場以前の牧歌的で居丈高な独断の微睡みを感じないではないということです。

・立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62314363.html

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html


ならば、諸々の過去の哲学も<哲学>として見た場合、これまた囲碁や将棋の流派や戦術のようなもの、鴨。すなわち、論者が各自、好みの戦型を選ぶことに--他人事ながらそれは現在では得策ではないよと心配にはなるものの、例えば、彼や彼女がマルクスのアイデアを選択しようとも--他人からとやかく言われる筋合いはなかろうということ。

富士山登頂に喩えれば、21世紀初頭の現在も、世間と世界を考える上でのアイデアの体系やテンプレート、すなわち、<比喩の体系>として古典的なカント哲学を採用するか、最先端の分析哲学や現象学を採用するかには、富士山を御殿場方面から登るのと山梨側から登るのとの差しかないのかもしれないということです。

いずれにせよ、その論者が、人間の有限性・世界の無限性・哲学の技術性をきちんと踏まえている限り、歴史の試練を潜って生き残ってきた作品としての哲学は<哲学>のためのよいアイデア集であり便利なレシピ集でないはずはない。と、そう私は確信しています。


尚、哲学に興味のある初心者には、私は今でも『哲学のすすめ』(講談社現代新書・1966)および『カント』(勁草書房・1958)、『カントからヘーゲルへ』(東京大学出版会・1977)といった岩崎武雄先生の一連の入門書、そして、それらの解説書としての石川輝吉『カント 信じるための哲学』(NHKブックス・2009)を推薦します。

英訳すればこれらはMBA進学志望のアメリカ人学部学生にも
それなりに好感を持たれる好著だと思いますから。

なに、じゃ、お前が英訳しろって?

ヽ(^o^)丿



・海馬之玄関推奨--素人でも読めるかもしれない社会を知るための10冊--
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62345736.html

・書評:はじめての言語ゲーム
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62324812.html



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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済




自民党の「派閥」に対して投げつけられてきたあの凄まじい批判はどこに行ったのでしょうか。内閣改造のたびに「派閥均衡重視の人事」「不適材不適所」「派閥と族議員による、運輸・建設を始めとする利権の継承」等々の文字が躍り、あたかも、日本の戦後政治の非近代性の象徴のように「派閥」を難詰してきたリベラル派の言説に最近とんとお目にかかれなくなったように思います。

というか、状況は寧ろ逆なのかもしれません。安倍総理が集団的自衛権の政府解釈の見直しを推し進め、更には、占領憲法の改正を期して着々と歩を進めているのを見て、朝日新聞や毎日新聞を始めとするリベラル派の言説は、「あの、かって、軽武装経済優先の立場から党内で大きな影響力を保った、宏池会を始め保守本流の党内中道リベラル勢力が沈黙しているのは情けない」とかとか、いらぬお世話を展開しているようだから。

あのー、保守本流、中道リベラル勢力とは、要は、旧田中派と旧大平派(宏池会)こそ、派閥の弊害の最たるものであった「不適材不適所」の閣僚人事と「派閥と族議員集団による利権の継承」を動力源であり、党内最大勢力として首相をさえ実質指名してきた--実際、1991年11月の宮沢内閣の成立時、現在の生活の党の党首は自民党幹事長のとき、旧田中派の<若頭>として首相候補を面接さえしたではないですか--隠然たる影響力を誇った派閥政治の中核だったのですけれどもね。

蓋し、次のような朝日新聞の記事に目を通すとき、リベラル派のマスメディアにとっては、派閥政治批判よりも安倍政権批判の方が優先順位が高く、取りあえず、後者に使えるなら前者も--期間限定なり争点限定にしても--許容しようということなのかしら。と、そう私には思えてなりません。そして、もしそう言えるなら、それこそご都合主義というもの、鴨。

尚、「派閥」なるものを巡る私の基本的な理解については下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。あの暗黒の民主党政権下に、他日の保守政権の再起を念じて--世の派閥批判の大合唱の中で--派閥を一定程度擁護したものです。

・派閥擁護論-派閥は政党政治の癌細胞か?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61405688.html


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▼(集団的自衛権 政党はいま)自民、党内異論腰砕け 多様性失い硬直化
安倍晋三首相が安全保障政策を大転換しようとする中、自民党内から議論が聞こえてこない。自衛隊の武力を使って他国を守る集団的自衛権について、これまで自民党政権自らが「使えない」としてきた憲法解釈を変更するにもかかわらずだ。かつて持ち味だった多様性を失いつつある巨大な政権政党の現実がある。・・・

2カ月ほど前まで、党内に集団的自衛権行使への慎重論は確かに存在した。脇雅史参院幹事長は「憲法9条と本質的に相いれない」と指摘。自民党リベラル派を代表する派閥「宏池会」を率いた古賀誠元幹事長も「議員が『ポチ』になっているから首相にものが言えない」と議論を促した。・・・

■人事で揺さぶり
だが、こうした慎重論はあっさり消え去った。安倍晋三首相は3月28日夜、参院幹部との会食で「通常国会後、ただちに内閣改造をやるか悩んでいる」とささやいた。党内の改造待望論を見越し、慎重派に人事で揺さぶりをかけた。さらに、慎重派が矛を収めやすいよう大義名分も用意。首相に近い高村正彦副総裁が、集団的自衛権の行使を必要最小限度に絞るとする「限定容認論」を打ち出すと、「憲法改正が筋」と主張していた勢力も「ストンと納得できた」(中谷氏)と受け入れる空気が広がった。・・・

■「公明党に託す」
集団的自衛権をめぐる議論が活発化しないのは、400人を超える議員を抱えながら政策の多様性を失いつつある自民党の硬直化が背景にある。朝日新聞が2012年の衆院選と13年の参院選直前に行った調査によると、自民党議員のうち92%が集団的自衛権の行使容認に「賛成」「どちらかと言えば賛成」と答えた。

中選挙区時代は、選挙区内で同じ自民党の議員が派閥に分かれて争った。このため、政策論争が置き去りにされるなど弊害は指摘されたが、さまざまな意見を持つ議員が集まることで多様性が生まれ、党の柔軟性や活力にもつながった。

だが、1994年に小選挙区比例代表並立制が導入され、候補者は党が掲げた政策・公約に賛同する人が公認され、選挙資金ももらえるようになった。12年衆院選では、党総裁の安倍氏が経済政策に加えて集団的自衛権の行使容認も主張。さらに民主党政権を安保政策で「弱腰」などと批判して大勝しただけに、賛成派はもちろん、慎重派であっても安倍首相の主張を追認することになってしまう。

「安倍内閣は宏池会によって支えられている」。安倍首相は4月23日、宏池会のパーティーでこうあいさつした。同派会長の岸田文雄外相や小野寺五典防衛相、かつて同会に属していた谷垣禎一法相も含めると宏池会系の計5人が入閣するが、リベラル派は集団的自衛権の行使容認へ突き進む安倍首相にのみ込まれ、いまや補完勢力だ。・・・党内のリベラル派がやせ細り、党がモノトーン化する中、ある党幹部は嘆く。「かつての自民党リベラルの役目は、公明党に託すしかない」

(朝日新聞・2014年5月27日)


万物は流転する(panta rhei)。ヘラクレイトス(前535頃~前475頃)が2500年前に喝破したこの世の理を、蓋し、朝日新聞の記者は理解できていないの、鴨です。簡単な話、軽武装経済優先などは、日本を取り巻く国際政治の環境が東西冷戦期のかなり特殊な枠組みの中でのみ最適解の一つであったものでしょう。それは、文字通り「55年体制」であった。

ならば、逆に、人類史における社会主義の失敗が露呈した1989年-1991年の旧ソ連を含む東側の崩壊も今や四半世紀前のことになった現在、その「55年体制」がなしくずし的に解体したのと轍を一にして、所謂「タカ派の旧福田派とハト派の宏池会を軸とした自民党内の力の均衡と自民党政権の抑制」などの自民党内の現象もまた、その機能を終えたか、大幅に縮小していくことは当然ではないでしょうか。

例えば、日本の書店数激減の傾向にとどめを刺した<AMAZON>を想起すれば誰しも思い半ばに過ぎるように、インターネットが普及する前と後では「流通と販売」のやり方が変わったのであり、ならば、それを担う組織もまた生き残るためには業務遂行のルールのみならず企業文化さえも変化させなければならなかった。そう、文字通り、自己変化かさもなくば死か、なのです。

而して、それを、暗に「55年体制」の頃と比べて、「集団的自衛権をめぐる議論が活発化しないのは、400人を超える議員を抱えながら政策の多様性を失いつつある自民党の硬直化」「リベラル派は集団的自衛権の行使容認へ突き進む安倍首相にのみ込まれ、いまや補完勢力だ」「党内のリベラル派がやせ細り、党がモノトーン化する」などと記すのは、政治状況が変われば政党内の意志決定に関するゲームのルールも変容することを理解していないか、あるいは、集団的自衛権の政府解釈変更と安倍政権の批判のためにする議論、もしくはその両方にすぎない。と、そう私は考えます。

これは何の根拠もない想像ですけれど、例えば、「自民党議員のうち92%が外国人への地方参政権付与に「賛成」「どちらかと言えば賛成」と答える」ような状況に関しても、上に引用した記事と同様に朝日新聞が「地方参政権付与をめぐる議論が活発化しないのは、400人を超える議員を抱えながら政策の多様性を失いつつある自民党の硬直化が背景にある」などとは書かないだろうことは確実と私には思えるのです。

畢竟、いずれにせよ、安全保障政策やエネルギー政策という国家の根幹にかかわるイシューについて政権与党の内部がほぼ一枚岩であるということは、それがどんな結果になるにしても国民にとっては安心感を感じさせるものではないか。蓋し、あの民主党政権時の凄まじい与党内の支離滅裂ぶりを想起するにそう切に思います。実際、朝日新聞も集団的自衛権について安倍政権がその基本方針を微動だにしないからこそ、安心して--安倍政権の繰り出す手筋に予測可能性を感じながら--批判できていることだけは確かでしょうから。

尚、2014年現在の「自民党」のあり方についての私の基本的認識については下記拙稿をご一読いただければ本当に嬉しいです。保守とリベラルの政策の違いを幾つかのグラフで説明しています。

・自民党に入党しませんか--支持政党の選び方に関する覚書
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62301808.html


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東京電力福島第1原子力発電所の事故の影響に関する『美味しんぼ』の不適切な描写が話題になりました。平準化した低線量の放射線被曝によって健康被害は生じないし、ならば、低線量の放射線被曝と鼻血の間の関係をさも原因と結果の如く描写した『美味しんぼ』の表現は--もちろん、表現の自由からして事前検閲は絶対に許されないものの--道義的と法的の責任を免れない。つまり、『美味しんぼ』の件の描写と低線量積年平準の放射線被曝に関する風評被害の惹起との間には強い相当因果関係が認められる。と、そう私は考えます。

占領憲法21条
1項:集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2項:検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。



こう考えている私にとって驚愕すべきコメントを目にしました。
すなわち、低線量の放射線被曝と鼻血の間には、

▼津田敏秀・岡山大学教授(疫学)
「因果関係がないという証明はされていない」、と。

(毎日新聞・2014年5月20日)


このコメントを目にしてなぜ吃驚仰天したのか。それは、人口に膾炙している「不存在の証明は悪魔の証明」(ある事柄が存在していないということを証明することは人智の及ぶ範囲のことではないという法諺)を持ち出すまでもなく、現在の科学方法論の地平からは「因果関係がないという証明」は原理的に不可能ではないかと考えるからです。

そもそも、因果関係とはなんでしょうか。それは、(A)ある現象や事柄が存在しないならば、(B)別のある現象や事柄も生起・惹起しなかったであろうという二つの現象や事柄の間の関係のこと。そう言えるでしょうかね。いずれにせよ、注意すべきは、因果関係が問われる局面では、実際には、(A)は惹起しており、ならば--英語の仮定法過去完了よろしく--、(A)ある現象や事柄が存在しないならば、(B)別のある現象や事柄も生起・惹起しなかったであろうということは所詮、論者の脳髄の中にのみ存在する観念形象にすぎないということです。

更に重要なことは、因果関係の存否は時代時代の、あるいは、その社会毎の<常識>が判定してきたものであり、現在では、科学と論理、換言すれば、実証データと数学的な確率論が因果関係の存否を決定する<常識>になっているということ。ならば、実証データからも確率論からもサポートされない「因果関係がないという証明はされていない」などとのコメントは、科学哲学の無知によるものか、あるいは、脱原発論のためにするいちゃもん、もしくは、その両方でしかない。と、そう私は考えます。

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敷衍しておけば、脱原発論の論者が今でも時々口にする「年間1ミリシーベルト未満の低線量放射線被曝にしてもそれが絶対に安全だと言えるのか」という類の言説もまた、科学哲学の無知によるものか、あるいは、脱原発論のためにするいちゃもん、もしくは、その両方でしかないということです。神ならぬ身の有限なる人間存在にとって、この世に「絶対の安全性」など存在しようもないのですから。換言すれば、放射線被曝の「確定的影響」ではない「確率的影響」を--健康被害が起きるか起きないかの影響ではなく、健康被害が起きるかもしれない影響を--論じる場合、この世に「絶対の安全性」など存在しようもないからです。

ならば、「確率的影響」が論じられる舞台は科学の法廷というよりは、文字通りの、法廷や政治の舞台にならざるを得ないということです。低線量放射線被曝のデメリットと原発のメリット--更には、日本が比較的短期間で核武装可能な潜在的な核保有国であり続けることのメリット--の間の価値の比較衡量にこの問題は収斂する。白黒はっきり言えば問題はここに尽きている。

ならば、脱原発論の論者の如く、文字通り、原発ゼロを目指すという政治的立場を選択しない、安倍政権を支持している多くの有権者国民は「相対的な安全性」と「エネルギー安全保障」の均衡を睨んで、社会的に妥当な安全性の範囲を決定していくしかない。そして、その妥当な安全性の範囲決定をかき乱す風評被害に対しては、占領憲法の表現の自由の保障の範囲もかなり狭くならざるを得ない。

いずれにせよ、国際原子力機関(IAEA)や国際放射線防護委員会(ICRP)、あるいは、国連の世界保健機関(WHO)が妥当とする被曝基準値を20倍も100倍も上回る馬鹿げた現行の年間1ミリシーベルトといった--これまた民主党政権の悪しき置き土産の一つと言える--放射線被曝線量の基準には何の合理性もなく可及的速やかに撤廃修正されるべきだ。と、そう私は考えます。

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蓋し、「絶対の安全性」や「因果関係がないという証明はされていない」と吐露した段階でそれらの論者は、実は、「因果関係」から得られる議論の説得力を自ら放棄したとも言えるの、鴨。少し迂遠になりますが因果関係、よって、現在ではその存否を判断する基準や指標としての確率論について整理しておきましょう。

例えば、兎が月にいる確率は、「いる」か「いない」かのどちらかであり50%であり、同様に、虎が月にいる確率も50%ですよね。
ならば、兎と虎の両方が月にいた場合、兎が虎に食べられちゃうとかは無視するとして、
兎か虎の少なくともどちらかが月にいる確率は(確率の和から)100%になる。

これは数学的は正しくとも誰も真面目に相手にしない議論でしょう。畢竟、所謂「論理的確率」と「実証的確率」は全くの別ものということ。逆に言えば、「絶対の安全性」や「因果関係がないという証明はされていない」と述べる論者は、「実証的確率」が俎上に載せられている政策論争の局面で「論理的確率」を密輸したものに過ぎない。まずはそう言える、鴨。




蓋し、現代の科学方法論から見て因果関係とは、

現象の観察と記録の蓄積→現象の内部に傾向性を発見
→それらの諸傾向性をより整合的に説明できる法則の定立
→現象の観察と記録の蓄積→・・・



という無限に繰り返される作業の中でのみ意味を持つ。すなわち、ある時点のある社会の専門家コミュニティーの中で妥当と解される<常識たる法則>や<常識たる物語>を漸次、かつ、恒常的に再構築する営みと整合的で親和的な範囲で--<法則>や<物語>の内部に、原因候補と結果候補との2個の事柄や事象の間の関係が位置づけられる限りにおいて--その因果関係は妥当なものということです。

繰り返しになりますが、量子力学革命後1世紀を経た現在では「傾向性」も「法則性」についてもその多くが量子力学と整合的な形式で--要は、行列と行列式の言語で、すなわち、確率論の言葉で--理解され表現されており、因果関係についてもこの経緯は同様です。

畢竟(A)平準化した低線量の放射線被曝と(B)健康被害との間には因果関係は存在しないという大方の専門家の主張はこのような妥当な因果関係の理解を踏まえた妥当な判断であるのに対して、(A)低線量の放射線被曝と(B)鼻血の間には「因果関係がないという証明はされていない」とする津田敏秀氏の発言は実証性を欠くだけではなく--更には、元来、実証不可能なことを相手側に要求する姑息かつ狡猾なコメントであるだけでなく--論理的にも無意味なもの。と、そう私は考えます。

まして、ことは結局は政策判断の問題。また、人間存在にとってエネルギーの国際的需給を巡る諸外国相手のゲームを外から俯瞰する<神の視座>を持つことは不可能でしょう。すなわち、そのような<神の視座>をすべてのプレーヤーが欠いているエネルギー安保を巡る国際競争についてどのプレーヤーも「囚人のジレンマ」状態から抜け出せないということ。

例えば、冷戦時の東西の軍拡競争の如く、合理的な行動選択の結果、すべてのプレーヤーが不合理な選択を行うという「囚人のジレンマ」は<神>ならぬ身に人間存在にとっては合理的なのです。それを「愚かな軍拡競争」などと言うのは、自分を<神>の立場に立つものと錯覚した傲岸不遜でしかない。

畢竟、政策的にもそのような人間存在の有限性を失念した傲岸不遜で無責任な立場に、国民の生命と安全、国の繁栄と安全を任せられた政権担当者は立てるはずもない。と、そう私は考えます。

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そして、モンティ・ホールのジレンマ。而して、このジレンマを想起するとき、「絶対の安全性」や「因果関係がないという証明はされていない」と述べる論者は「論理的確率」の局面でも破綻しているの、鴨です。



▼モンティ・ホールのジレンマ
あるクイズ番組の定番コーナーから名づけられた確率を考える上での好例。すなわち、①回答者の前には3個の扉があり、その扉の向こうには「不正解」のロバと「正解」の高級車が置かれている。

②回答者はまず3個の扉のうち一つを指定する。③司会者のモンティ・ホールは--回答者が指定した扉を開かせる前に--残りの2つの扉の中で「不正解」の扉を1個開けて回答者にこう宣告する。④「あなたは、いまならまだ選択を変更できますがどうされますか」、と。

さて、回答者は選択を変更した方が確率論的には有利なのか不利なのか。



この問題、正しい行動選択は「選択を変更した方が合理的」なのです。要は、論理的確率にしても、例えば、見た目には選択肢が2択であったにせよその2つの選択肢が「正解」である確率は各々50%づつになるとは限らない。すなわち、選択肢を変更しない最初の方針のままで行くのなら、回答者の選択肢が正解となる確率は3分の1、しかし、選択肢を変更する場合、その選択肢が正解となる確率は--最初の選択肢が不正解である確率だから--3分の2になるということ。


モンティ・ホールのジレンマを持ち出してきて私は何を言いたいのか。それは<3・11>から2年3カ月を経過した現在、放射線被曝と健康被害との間の実証的関連がまったく確認されないだけでなく、実は、この2年3カ月の間に論理的な確率においても、修辞学的に述べれば、福島では数百数千の扉を<モンティ・ホール>は次々と開けてきており--要は、低線量の放射線被曝による健康被害が存在しないという「善き不正解」の<ロバ>を次々に回答者たる福島県民と日本国民に示しており、逆に、--政策判断においては、低線量の放射線被曝による健康被害は存在するという「悪しき正解」を避けることが可能な確率は加速度的に上昇しているの、鴨。すなわち、




▼モンティ・ホールのジレンマ@福島
(1)n個の選択肢、その中に1個の「悪しき正解」がある
(2)<モンティ・ホール>はこの2年3カ月の間に次々と「善き不正解」の扉を
開けてきており、例えば、
(3)現在は2個の扉みが残っている
(4)而して、最初に選んだ扉が「良き不正解」である確率は
n分の(n-1)であり、他方の扉が「悪しき正解」である確率は、1-n分の(n-1)
(5)ここでnを100--疫学的にはこの「n」は本当は1000なり10000なりの、
途方もなく大きいのでしょうけれども、武士の情けで「100」--とすれば、
最初の選択肢が「善き不正解」である確率は99%、よって、それが「悪しき正解」
である確率は1%



ということ。ならば、畢竟、我々は安んじて「健康被害は存在しない」という「善き不正解」を期待して最初の扉のまま選択肢を変更しない方が遥かに合理的というもの。逆に、「絶対の安全性」や「因果関係がないという証明はされていない」などの言説きは「悪しき正解」に導く悪魔の囁きであろう。と、そう私は考えます。

而して、『美味しんぼ』の不適切な描写には--それが、風評被害を惹起する相当の因果関係を帯びる表現行為であったと解される以上、その描写には毫も合理性が見いだせないのだから--表現の自由の観点から見てもそれなりの制裁が加えられるべきであるということもまた。蓋し、<神の視座>を持ち得ない人間は、唯足を知り、論理的に考えて合理的な行動選択をすることで満足するしかない存在なのではありますまいか。私はそう確信しています。



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私達の地元、川崎市麻生区の麻生図書館では英字新聞が閲覧できます。そして、相対的に多くの--横幅約120センチの棚3段、めいっぱいの--英語の絵本を備えてくれている。それに比べて、私達の郷里、福岡県大牟田市の大牟田市立図書館には英字新聞はなく、英語の絵本も棚1段分あるかないかのシャビーな状況。毎月の企画とか利用者へのケアとか大牟田市立図書館は素晴らしいパフォーマンスを発揮しているだけにこの点が少し残念。

(><)

人口比。あのー、麻生区は16万人、大牟田市は12万人。要は、4対3。つまり、棚に換算して3段と1段の差がつくほどの人口の違いはない。また、予算が乏しいのはいまどきどこの自治体も一緒。ならば、厳しく言えば、この3段と1段の差は「予算の傾斜配分の方針」が違うだけのことでしょう。

蓋し、衰退している地方都市の子供達や高齢者にとっては、見た目とは逆に、インターネットと英語は<都会>に対抗するための武器である。この現実は、例えば、多くの外国人区民の存在とか様々な文化交流イベントの開催等々、<都会>が英語やインターネット以外にも様々なメディア--実際、<都会>や<都市>自体が情報と文化の流通媒体という意味でのメディアでしょうけれど--を擁しているのに対して、インターネット以外のそれら他のメディアが絶望的に乏しい衰退する地方都市においては、繰り返しになりますが、<武器>としてのインターネットとそれをメディアとして使いこなすための英語スキルの重要性は相対的に大きい。と、そう私は考えます。

而して、インターネット環境の整備とPCリタラシーの獲得は、これまた厳しく言えば、自己責任というか、費用と時間の自己への投資に任せられるべき度合いが高い。けれども、英字新聞--この前帰省したとき吃驚したのですが、郷里のJR大牟田駅のコンビニには英字新聞が売っていませんでした!--はこれとはちと違う。そして、英語の絵本は決定的に違う。

例えば、現在、初対面の挨拶として英語のネーティブスピーカーが「How do you do?」などと口走ることはまずない。ほとんど100%、お互いに「Hi. I'm Abe.」「Hi. I'm Aso.」と言ってすましています。何が言いたいのか、英語自体--英語の語彙と文法と発音--は、それこそ今の時代どんな田舎でもやる気があれば、費用と時間の自己投資を行えば誰しもそこそこの技倆は身につけることはできる。けれども、「英語的には正しくともそんな英語はもう誰も使わない」というメタ情報を得るには英語自体を身につけるツールとは別のツールが必要ということです。

その意味で英字新聞は捨てがたい。もちろん、正直、私でもどうせ読んでせいぜい1日の紙面で2個か3個の記事しか読まない英字新聞は3日目からは廃品回収の日を心待ちにする捨てたい物体になる。つまり、英字新聞の情報媒体としての価値は--寧ろ、私もインターネットで同じ記事をダウンロードして読んでいるくらいですから--そう高くはない。けれども、どんな記事がどの紙面にどんな大きさで割り振られているか、どんな広告が掲載されているかというメタ情報を知る情報媒体としては英字新聞の価値はまだまだ低くない。

つまり、それは、ある語彙の意味を調べる上では電子辞書が圧倒的に便利だけれども、その語彙のご近所さんにも目配りしながら英語自体を学ぶには今でも紙の辞書が遥かに有効なこととあるいはパラレルなの、鴨。ならば、個人にとって3日目からは廃品回収の日を心待ちにする捨てたい物体の購読は、例えば、市立図書館といった公的施設で引き受けるのが合理的というものではないでしょうか。

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而して、英語の絵本。それは子供達だけでなく大人にとっても--例えば、TOEIC800点程度までの方なら間違いなくほぼ全員にとって--「英語的には正しくともそんな英語はもう誰も使わない」というメタ情報を得る最適のツールの一つ。

まして、それは「コグ二ティブツール」(積み木や模型といった五感を通して言語を学ぶツール)でありユーザーフレンドリー。なにより楽しい。そして、楽しいから継続できる。と、英語の絵本には利点満載。ならば、乏しい予算の中、『デンマーク語入門』とか『フィンランド語の話』とかにむやみに手を広げるのではなくその分、1冊でも2冊でも英語の絵本を公立図書館は購入すべきではないか。と、私はそう考えます。

カミングアウトしますけれど、長らく英語としては英米法とか英米哲学の書籍を専ら読んでいた私は、当時の勤務先で全社員がTOEICを受験しなければならなくなったとき、例えば、「階段」「カーテン」「ガスコンロ」あるいは「大根」「カボチャ」「茄子」といった<普通の英語の語彙>が悲しいほど欠落していました。我ながら愕然。よって、最初に受けたTOEICスコアはまさかの725点。あのー、GMATとGREである年度の日本人最高点保持者の私が725点。ごっつあんです、の心境でした。

そして、その欠落を1~2カ月の比較的短期間でキャッチアップするに際して死活的に有効だったのが、コグ二ティブツールであり楽しい、そして、楽しいから継続できる英語の絵本でした。その結果、なんとか1年後には975点取れたものね。

б(≧◇≦)ノ ・・・懐かしい!
б(≧◇≦)ノ ・・・英語の絵本さんたち有り難う!


・英語の絵本--マイブーム紹介--
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62010249.html



言うまでもないことでしょうが、英語は、その母語話者数では(広東語を含めた)中国語に大差をつけられての2位グループの一つにすぎません。けれども、母語話者数と公用語話者数の合算では英語は僅差ではあるが中国語を抜いて首位に躍り出る。まして、--英語が話せる日本人がすべてそうであるように--母語話者でも公用語話者でもない英語話者層を含めた英語の存在感は他の言語を圧倒しています。

更に、政治的・経済的・科学技術的により重要な情報が英語で発信されている度合いを睨むとき、英語の影響力は中国語やヒンディー語、アラビア語やスペイン語、ロシア語やドイツ語を遥かに凌駕している。このことは誰も否定できないことでしょう。

▼世界の言語--母語話者数上位10傑
01)中国語
02)英語
03)ヒンディー語
04)スペイン語
05)アラビア語
06)ベンガル語
07)ポルトガル語 
08)ロシア語
09)ドイツ語
10)日本語


ならば、衰退する地方都市において大人がその子供達にしてあげられることのなかで、乏しい予算を睨みながらも、<武器>としての英語の絵本の充実と英字新聞購読のプライオリティーはけっして低くないのではないか。そう私は確信しています。館長さんを始め大牟田市立図書館のスタッフの皆さんには是非ご一考をお願いしたいものだとも。また、麻生図書館の皆さんには愚直に既定路線を進んでいただきたいものだとも。

尚、麻生図書館と大牟田市立図書館については
下記拙稿も併せてご一読いただければ嬉しいです。

・三池炭鉱炭塵爆発史料展--大牟田市立図書館の企画には魂がこもっていた
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62183850.html

・ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」番外編:麻生図書館雑感
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59068653.html


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KABU

Author:KABU
大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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2007年9月10日以降の新記事を随時、厳選した過去の自薦稿を漸次アップロードしていきます♪

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