民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。
これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けばだけれども。

(ウィンストン・チャーチル)



それが「最悪」かどうかは別にして民主主義が極めて多義的な言葉であること。ほとんどあらゆる事柄を、時には、通常は「南極と北極」とされる事柄をも同時に正当化可能な言葉として論理的には<無内容>な政治的シンボルとさえ言えることは間違いないでしょう。例えば、あの特定アジア国の正式国名が「朝鮮民主主義人民共和国」であることを想起すればこのことは誰しも思い半ばに過ぎようというもの。

しかし、論理的に<無内容>であることは現実の政治の風景においてそれが<無意味>であることと同じではない。それは、例えば、「民主主義」という言葉が多くの人々に心地よく連想させるものの一つが「王制の英国」であること、あるいは、幾つかのイスラーム諸国では、--「人権」なり「立憲主義」といった西欧的な価値と論理にシンパシーを覚える親欧米派の、その多くは欧米に留学経験のある、よって、間違いなくその社会では--少数派の政治エリート層の手から、よりイスラーム的で民族主義的な多数派が権力を奪還する政治的シンボルの機能を果たしている現実を看過しない限りこれまた自明なことでしょう。

本稿は、そんな多義語の語義整理記事です。蓋し、「民主主義」を巡る歴史的と論理的な外面的の状況--その顕教的意味状況--については、とりあえず、大凡、次のように説明できるかもしれません。


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◆民主主義:democracy
政治的価値の世界の現役の世界チャンピオン。第二次世界大戦における連合国側からの「第二次世界大戦は「民主主義 vs 全体主義」の戦いである」といったプロパガンダの流布と連合国側の勝利によって--更には、欧米先進国の福祉国家化、就中、戦後のケインズ政策の採用と歩調を合わせて--民主主義は20世紀後半以降、その地位を得た。

それまでは、しかし、民主主義は極めて危険な思想と考えられていた。これはドイツや日本などの所謂「後進資本主義国」の保守派だけの認識ではない。それはビスマルクや伊藤博文の認識に止まらず、例えば、アメリカ合衆国憲法の制定会議プロセスが、ある意味、民主主義への不信の制度化論議--個々の国民としての人民の政治的影響力の抑制--であったことを反芻すれば自明なように英米や西欧の多くの自由主義者もまた「民主主義を国家を分裂させ人権を蹂躙しかねない全体主義的な思想」と考えていた。つまり、歴史的には、<民主主義の戴冠>という事態はかなりの程度偶然によると言わざるをえない。


論理的観点からは、他方、現在では、人権や国民主権、立憲主義や法の支配といった諸々の政治的や憲法的な価値と「民主主義」をほとんど同義に用いている論者も少なくないように見える。加之、反欧米色濃厚な民族主義的な運動や言説も、そして、「地球市民」や「マグニチュード」なるものの現実化を熱望する先進国のリベラル派の文化帝国主義の運動や妄想も、現在ではともに自己の議論を「民主主義」から正当化可能らしいのだ。

ほとんど「本地垂迹」と看做すべきこんな民主主義と他の諸々のイデオロギーとの同一視を捨象するとき、蓋し、本来、王制・貴族制の正当化イデオロギーとの比較において、「民主主義」とは「比較的小規模な集団においてその社会の多数派による少数派の支配を正当化する論理」と言える。

畢竟、民主主義と人権は対立する。多数の決定によっても奪えない権利というアイデアは民主主義とは本来異質だから。また、民主主義と国民主権も元来は似て非なるもの。国民主権は近代の「国民国家-主権国家」が成立するのと同時にその「憲法秩序-実定法秩序」の中に懐妊された理念だから。すなわち、利害もイデオロギーも本質的に対立することの少ない--対立や紛争があったとしても修復可能な--ホモジーニアスな小規模集団を前提とする民主主義と近代に特殊な国民主権はそもそも適用される社会規模のスケールを異にしていただろうから。

民主主義がなぜ政治的価値の世界の現役の世界チャンピオンになりえたのか。それは、ミトコンドリアと真核細胞との野合というか共生よろしく、19世紀末葉から20世紀前半、普通選挙の一般化によって民主主義が議会主義、すなわち、自由主義と結合したから。民主主義が「議会制民主主義-代表民主制」に変貌を遂げたから。

而して、福祉国家における大衆社会状況が成立して以降--自己責任の原則を旨とする財産と教養と社会的使命感を備えた少数の自立した市民などではなく、社会現象としては欲望の塊として行動する、思想的には「ありふれたつまらない個々の国民」こそが国家社会の社会統合の正当性の基盤と考えられる社会状況が成立して以降--、パラドキシカルながら、民主主義は個々の主権国家内部においては国民主権とほとんど同じ意味に変容したとも言える、と。


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以下、敷衍します。
蓋し、「民主主義」とは、


▼民主主義の最狭義と狭義
元来、「民主主義」とは、(ⅰ)ある社会の政治的決定はその社会の構成メンバー全員の合意や了承によってなされるべきだという主張であり、逆に言えば、「自分が属する社会における政治的決定にはわたしも参加させてね」「自分が賛成していない政治的決定にはわたしは従わないわよ」という権利がその社会の構成メンバー全員に保障されるべきだというアイデアだった。

蓋し、この「民主主義」の語義が「民主主義とは元々小規模の人間集団における直接民主制を正当化する原理」としばしば語られることの理由であろうと思います。而して、政治的決定が直接民主制が機能する小集団を遥かに超える規模の、就中、国民国家においてなされる人類史段階に突入して以降、そして、「代表なければ課税なし」のスローガンに端的な如く自由主義のコロラリーとしての「国民代表制-議会制」が政治の形態として最有力な制度になるに及んで、更には、普通選挙制度や婦人参政権が普及して以降の大衆社会においては「民主主義」の語義も変容せざるをえなかった。

すなわち、国民国家成立以後の大衆社会においては、「民主主義」とは、--「全員一致」の実現などおよそどのようなイシューについても困難であり、そして、「全員一致」でなければどのような政治的決定もその社会においてその構成メンバーを拘束する法的効力を持ちえないのであれば--(ⅱa)社会統合を阻害する危険で陳腐なアイデアであるか、あるいは、(ⅱb)国民国家を形成したイデオロギーとしての「国民主権」の同義語、もしくは、(ⅱc)多数決の別名、よって、多数派による少数派支配の正当化原理でしかないのだと思います。


▼民主主義の論理的帰結としての<外国人>の差別と疎外
重要なことは、上記(ⅰ)(ⅱ)のすべての「民主主義」の語義の基底には、(ⅲ)「その社会の構成メンバーは性別・年齢・門地・容姿・財産・教養・才能・実績・声望の如何にかかわらず、社会の政治的決定に参画する資格においてはすべてが同じ法的価値を帯びる均一の主体である」という<平等>の価値と親和的な認識が横たわっているだろうこと。

この認識からは古代ギリシアでは、原則、公職に補任するに際しては「選挙」などではなく「籤」が最も正義にかなった方法と考えられていたことは整合的でしょう。他方、「その社会の構成メンバーとは誰であるのか」、すなわち、社会の政治的決定に参画できる人々の範囲を確定するルールが民主主義に論理的にも現実的にも先行する。

而して、その先行するルールに従いメンバーの資格を否定された<奴隷>や<外国人>が--現実には、その「主人」やそのポリスの政治的決定に参画できるメンバーとしての平均的な「市民」を遥かに凌駕する富や政治的の影響力を保持していた例は少なくないとしても--政治的決定に参画できなかったことは、古代ギリシアの民主主義の限界ではなくて、寧ろ、民主主義一般の本性からの論理的帰結でしょう。


▼広義の民主主義--民主主義が機能する諸条件
繰り返しになりますが、「民主主義」の語義の中核が「自分が参画し賛成していない政治的決定にはわたしは従わない」という主張である限り、究極的な利害が対立する社会--相互のイデオロギーや世界観が修復不可能なような者が併存している人間の社会集団--では「民主主義」はそもそも成立しない理念なのでしょう。

ならば、(ⅳ)「民主主義」が「多数決」の別名として通用するためには、その条件として、(ⅳa)社会の構成メンバーが懐く世界観やイデオロギーが固定的ではないか固定的であるとしても共存可能な程度の差違しかないこと、もしくは、構成メンバーの利害が調整不可能なほど隔絶してはいないこと、あるいは、世界観やイデオロギー、ならびに、利害の対立が全体的な政治的紛争解決の文脈においては相対的に無視できるほどの比重でしかないこと、

および、(ⅳb)今日の少数派も言論を通じて明日の多数派になりうる論理的可能性と現実的蓋然性が存在していること。すなわち、政治を巡る情報が大凡開示されており少数派と多数派の間に本質的な情報の非対称性がなく、かつ、政治参加と権力参加の回路が少数派にも保障されていることが必須の条件であろうと考えます。

このような条件が満たされている場合にのみ、すなわち、トクビル流に言えば、(ⅳa)と(ⅳb)の条件が社会の構成メンバーにほぼ平等に保障されている--あるいは、保障されているという錯覚が現実に厳として存在している--「諸条件の平等化」が具現している場合に限り、「民主主義」は(ⅱa)の無政府主義と(ⅱc)後段の「全体主義的な専横」の弊害を免れて、目出度く(ⅱc)前段の多数決の同義語、または、(ⅱb)国民主権の同義語となりうる、と。


▼小結
蓋し、私は「民主主義」という言葉を(ⅰ)~(ⅳ)の重層的な<意味の編み物>と捉えています。いずれにせよ、それは人々を<国民>に社会統合する上で、チャーチル卿の嘆きの如く、現在では残念ながら不可欠の、しかし、現在でこそ益々「取り扱い注意」の鍵であろう。と、そう私は考えます。

蓋し、「主義」の2文字がついているから紛らわしいのでしょうが、民主主義には歴史と論理、あるいは、制度と思想の二面がある。それは、同じく「主義」の2文字を帯びる「資本主義」を想起すればあるいはわかりやすい、鴨。すなわち、「資本主義」にも「制度」の側面と同時に「その制度を容認する心性」の二面がありましょう。そして、(A)制度がすべてそうであるように、それは価値観が憑依した規範と社会学的な状態の重層的な構造であり、かつ、(B)言語や家族という自生的な制度すべてがそうであるように、交換を巡る制度たる資本主義もまた時代によってその内容が変遷してきた。

而して、現在の資本主義の制度とは、例えば、①所有権の制限、②契約の自由の制限、③過失責任の制限、および、④所得の再配分の導入、⑤ケインズ的な財政と金融における国家権力の政策の導入、⑥種々の国際的な制約という<修正>または<変容>を経た後のもの。

蓋し、家屋の賃借人にほとんど無制限の厳格責任を認めていた19世紀末までの英国のコモンロー。あるいは、労組の活動どころか労組の存在を容認しただけの連邦法・州法を憲法違反と断じた、加之、生活必需品の料金の買い占めによる価格引き上げや、鉄道等の公共交通機関の料金の鉄道会社による裁量的決定を制限する州法を憲法違反と断じた19世紀末のアメリカ連邦最高裁の判決群を鳥瞰するときそう断ぜざるをえない。要は、これらを踏まえるとき、サッチャーもレーガンも、フリードマンもハイエクもある意味立派な「社会主義者」である。

而して、上述の如く、「民主主義」についてもこのような(A)(B)の経緯が幾つも容易に観察されるのではないでしょうか。そして、それらが「民主主義の顕教的意味」を各々構成している。そう私は考えます。

続編に続きます。

・民主主義--「民主主義」の密教的意味
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62722758.html




P/S
個人的にはそのことにある程度の感慨を覚えながら、
1923年、第二次護憲運動勃発前夜に生まれた、
亡き父の誕生日に本稿をアップロードします。



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国際社会なるものと日本との間で「人権」を巡る認識の違いが現在進行形で拡がっているそうです。よって、「人権後進国」「国際社会に抵抗している国」(国連人種差別撤廃委員会・ナイジェル・ロドリー議長)という印象を日本は国際社会にますます与えているらしい。例えば、所謂「ヘイトスピーチ禁止法」を巡ってはこういう報道もされていますものね。


▼ヘイトスピーチ「禁止法が必要」 国連委、日本に勧告案
国連人種差別撤廃委員会による対日審査が20、21両日、スイス・ジュネーブで行われ、在日韓国・朝鮮人らを対象にしたヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)に関連して、「包括的な差別禁止法の制定が必要」とする日本政府への勧告案をまとめた。今後、この案を基にした「最終見解」を公表する。

審査の冒頭、日本政府側は、ヘイトスピーチを禁止する法律の制定や、インターネットなどでの外国人差別や人種差別が発生した場合の法の運用について、「民法上の不法行為にも刑事罰の対象にもならない行為に対する規制に対しては、憲法が保障する『表現の自由』などの関係を慎重に検討しなくてはならない」と述べた。

多くの委員は、審査前に日本でのヘイトスピーチの様子をビデオで視聴。右派系市民団体が「出てこい、殺すぞ」などと叫ぶ様子について「これに対応することは表現の自由の保護と抵触しないのではないか。スピーチだけではなく実際に暴力を起こすような威嚇なのではないか。非常に過激でスピーチ以上のものだ」との指摘が出た。警察の警備の様子についても「(ヘイトスピーチをする)加害者たちに警察が付き添っているかのように見えた。多くの国では、こういうことが起こった場合には逮捕するものだ」と批判した。

傍聴した有田芳生参議院議員(民主党)は「日本の人権感覚は外国からすると(時代に)逆行しているようにみえるのだろう」と述べ、ヘイトスピーチなどに対応するための「人種差別撤廃基本法」の早期制定を目指す考えを示した。

委員会には「在日特権を許さない市民の会」と「なでしこアクション」がそれぞれ、「在日韓国朝鮮人は日本で特権を得ている」などと主張する報告書を事前提出している。


(朝日新聞・2014年8月21日)


なるほど、「日本の人権感覚は外国からすると時代に逆行しているようにみえる」ですか。ふむ、ふむ、しかし、唯物史観の不可能が見事に、それこそ<歴史>によって証明されてから四半世紀。そんな、現在に生きる身の私としてはこういう「時代感覚」自体に些か戸惑いを禁じえません。お互いの拠って立つ政治的立場やイデオロギーの違いではなく、すなわち、政治的・思想的な<国際社会>と<人権>に関する理解というより、<国際社会>と<人権>に関する歴史的と論理的な理解からは、こんな民主党議員の呟きは生産的な議論のためにはなんの意味もないだろう、と。私の<人権>を巡る理解については下記拙稿をご参照いただきたいのですが、要は、

б(≧◇≦)ノ ・・・時空を超えて「一昨日きやがれ」!

と、感じないではなかったということです。しかし、まあ、<国際社会>と<人権>、よって、<日本>と<憲法>についてこの程度の認識しか持っていない国会議員が存在することは、しかし、ある意味、日本の民主主義の多様性と強靱さの証左なの、鴨。皮肉ではなく1000歩ほど譲ればそう少しは思わないこともない。そんな無知議員へ我々の税金から歳費が支出されていることは不愉快だけども。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。


・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、
<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html



弊ブログの読者の皆様には、
改めて申し上げるまでもないことでしょうけれど、
蛇足ながら申し添えて置きます。

私は(A)「ヘイトスピーチ禁止法」には反対です。
なぜならば、日本ではその立法の必要がないから。
而して、「法三章」というのではなく、すべからく、
不要な立法は保守主義の観点からは悪法だと思うから。


同法類似の法制を導入せざるを得なかった欧州諸国とは違い、日本では、「文化人類学的に見たある少数派への多数派からの一般的な差別的な表現行為」が「その少数派に属する個々人に対する、生命・身体・財産・名誉を赤裸々に脅かす切迫した暴力」と認定され、それらの表現が深刻な社会の分裂を引き起こしかねない状況にはないでしょう。

ならば、憲法の表現の自由の重要性を鑑みれば--すなわち、刑法の謙抑性の原則や民法の受忍限度論からも--、単なる表現行為をしかもその表現内容に基づき禁止・抑制するなどは法学的には筋悪でしかない。そう思うからです。実際、アメリカにおける「ヘイトスピーチ禁止法」を巡る禁止・抑制の実際はこのような私の理解とほぼパラレルだと理解しています。


他方、(B)新大久保近辺で「在日韓国人は日本から出て行け!」など叫んでいるらしいグループは--自覚的か無自覚的かはいざ知らず、日本と保守派のイメージを毀損しているという点で--反日リベラル派や特定アジアの別働隊に他ならない。いずれにせよ、彼等が現代の保守主義とは無縁な「教条主義的な社会主義」の徒であることは自明であろう。と、そう私は思います。

而して、国内法的にはもちろん、国際法的にも--数世代に亘り一応平穏に滞在しており、実質的に生活の拠点が日本にあり、ある一人に対する国外退去処分が必然的にその家族の分離を意味することになる以上、残念ながら--在日韓国人一般を国外退去処分することは認められない。ならば、「在日特権」なるものが問題であるとするならば--実際、「特権」と呼ばれても文句が言えないくらいの問題があると私自身も考えないではないけれども--新大久保近辺を騒がせているグループは、安倍政権に対して、 あるいは、左右を広汎に覆う国民世論にむけて、

(ⅰ)所謂「特別永住権」制度を即時廃止すること。つまり、在日韓国人たる日本市民に対しては、名誉ある「韓国国民」たる外国人になるか日本に帰化するかを選択していただくこと

(ⅱ)雇用保険や健康保険等々のその国籍にかかわらず資格者には認めることが合理的であり正義にかなうもの、あるいは、義務教育サービス等々の相互主義の観点から国籍によっては資格者には認めることが合理的であり正義にかなうものを除き、原則、外国人に対するすべての社会保障サービス(要は、社会権的基本権の各論的具現)の提供を廃止すること。例えば、漸次、3年・6年・9年の段階的な移行期間を経て、--(ⅰ)により廃止されるべき「特別永住者」を含め--外国人に対する「生活保護」支出は全廃すること

(ⅲ)国民主権の原理から見て--国家権力の行使と関連しない場合を除き--外国人たる日本市民に認められている違憲な「住民投票資格」あるいは「政党の代表選挙投票資格」を即刻廃止するべく強いリーダーシップを発揮すること


これら(ⅰ)~(ⅲ)を働きかけることに、よって、これらに反対するだろう朝日新聞やNHKといった反日リベラル--そして、その与力のニューヨークタイムズと国連人権委--との言論戦に汗をかくべきではないか。そう、「敵は新大久保ではなく築地と永田町にあり」、「敵は2011年度までは京都朝鮮第一初級学校があった京都の南区ではなくニューヨークとジュネーブにあり」なのです。と、私はそのように確信しています。


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畢竟、「距離」や「落差」は相対的なものでしょう。

国際社会と日本との間で<人権>を巡る認識の落差が拡大しているとするならば、それは日本側の変化のみならず国際社会側の変化が原因でもありうるということ。そして、世界の国連加盟193カ国+台湾を含む、文字通り、現在完了進行形の<人権>を巡る世界の標準的な認識や世界の一般的な<人権>状況と比べるとき、ますますそれから遠ざかっているのは「国際社会」なるもの、就中、「国連人種差別撤廃委員会」の方ではないかと思います。蓋し、それはビックバン以降、拡大し続けている<宇宙の果て>といった様相なの、鴨。

いずれにせよ、石原慎太郎・平沼赳夫氏率いる「次世代の党」が「生活保護の給付対象から外国人を除外するための生活保護法改正案を秋の臨時国会に提出することを決めた」ことを指して「保守色を前面に押し立てて動き始めた」(毎日新聞・2014年8月21日)なる形容句でそれを報道する日本のリベラル派のマスメディアの<人権>認識は国際社会なるものを遥かに超えた宇宙外のものであることだけは確実でしょう。

なぜならば、彼等リベラル派がいまだに<坂の上の雲>しているらしい欧米諸国も含め--政策的意図で外国人労働者を受け入れている国、あるいは、EU等の広域の域内行政協定が結ばれている国を除けば--「外国人への生活補助支給」など存在しないから。それは、いずこも厳しい国家財政の観点などではなく、それは<憲法>上の権利ではないからです。

要は、国際的な標準から見れば「外国人への生活補助支給」などは「失言をしない麻生総理」どころか「謙虚な朝日新聞」、あるいは、「燃えない火」や「液体の氷」と同様に形容矛盾の用語である。ならば、「生活保護の給付対象から外国人を除外するための生活保護法改正案」が「保守色」に見えるらしい毎日新聞の立ち位置は国際的な標準からは遥かに左側にあるということでしょう。それも、ドプラ-効果が加わるほど速く現在進行形で日々左側に移行しているの、鴨。いや、それはドプラ-効果も成立しない左翼の圏外なの、鴨。

б(≧◇≦)ノ ・・・リベラル派の言う「国際社会」なるものは宇宙の果てである!
б(≧◇≦)ノ ・・・日本の反日リベラルは宇宙外の存在である!



而して、「国際社会」とはなにか。少なくとも、現状では、主権国家のための常設の国際会議組織にすぎない国際連合(United Nations)が「国際社会」なるものである筋合いはない。まして、国際連合総会なるものは、白黒はっきり言えば、国際連合の中枢たる安全保障理事会での討議や討議の不在を観戦するための主権国家限定の観客席でしかない。それはリンゴの皮とリンゴの中味の比率に近しい。ならば、そんな国際連合総会の補助機関(国連機関)のone of them でしかない国際連合人権理事会(UNHRC:United Nations Human Rights Council--国際連合経済社会理事会の機能委員会の一つであった、不効率と不公平の両面で悪名高かった旧国際連合人権委員会UNCHR:United Nations Commission on Human Rightsの後身)などが「国際社会」なるものであるはずもない。断じてない。

ならば、その国際連合人権理事会に対して「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」(ICERD:International Convention on the Elimination of All Forms of Racial Discrimination)の実現状況について審査しレポートするための作業委員会--というか、リベラル派が自国政府批判の宣伝をして大騒ぎするほとんど大学の公開セミナーでしかない--国連人種差別撤廃委員会などが「国際社会」を代表するなどは金輪際あることではないでしょう。繰り返しになりますが、この経緯は単に「社会学的観点」のみならず「制度的・法学的の観点」から言えること。すなわち、そう、それは、例えば、日本の社民党が日本の世論を代表する存在ではないように金輪際ないことなのです。

蓋し、あくまでも<国際社会>とは、現在では世界の200前後の主権国家の法域で認識され了解されている「国際法と国内法の調整」を巡る常識であり慣行の集積であり、判例や立法の集積。そんな200余の<集積の集積>から逆算して--幸いにしてそこに「家族的類似性」が得られれば--理解されるしかないものではないかと思います。いずれにせよ、どのような意味でも、朝日新聞や国連人種差別撤廃委員会はますます我々の<国際社会>から遠ざかっていることは間違いない。それは、我らの太陽系と銀河系を遥かに離れた宇宙の果ての存在ではなかろうか。と、そう私は考えます。


尚、「常設の国際会議組織としての国連」という国連認識に
関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。


・国連憲章における安全保障制度の整理(上)(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11137361486.html


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(ⅲ)人脈、あるいは、<人脈>が重要だという認識。かって、長州の俊輔の頃から、岩倉使節団の副使、そして、元勲としての数次にわたる<留学>を通して伊藤博文が得た体験は、間違いなくアメリカ正規留学に期待してよい果実だと思います。

実際、ある大手電機メーカーの人事部長は「人事屋の端くれとしては毛色の変わったいろんな大学に社員を送りたいとは思う。切にそう思う。けれども、MBA留学のほとんど唯一の成果が海外人脈の構築拡大である現実を踏まえるとき、毎年、そこそこの水準のアメリカ人学生や日米以外の国からの留学生が集まるであろう当たり外れのない無難な線に--例えば、「Top20-MBA」(Best 20 of Business Schools)あるいは Second Tier Business Schools等々に--派遣先を絞らざるを得ない」と個人的に語ってくださった。

他方、ある大手重機メーカーの人事部長の方は、留学先から合格通知(a letter of admission)も無事届き、秋からの留学が決まった自社の若手社員を送り出す宴席のスピーチでは、「皆さんの少なくとも半数は留学後、ヘッドハンティングされて他社に移られると思います。けれども、その新天地におかれましても当社をよろしくお願いします」という冗談というか恫喝というかをしばしば口にされたということ(←小泉構造改革スタート直前の15年近く前の縄文中期の大昔の話ですが、実話です)。

蓋し、これら両人事部長の発言の基底には、おそらく、「人脈、あるいは、<人脈>が重要だという認識」の会得こそアメリカ正規留学の得難い果実の一つという認識があるの、鴨。と、そう私は考えます。而して、<人脈>こそ次の<自己認識>を知りうるほとんど唯一の鏡でもあるということもまた。


(ⅳ)「自己規定性の変更」とは正確には「他者認識の変化を媒介にした自己認識の動態的な変更」です。これは、明治・大正期の<留学>経験者が、政官財軍のすべてにおいて<聖別>され、今から思えば破格の社会的の処遇を受けてきた事実を想起すれば自明な現象。逆に言えば、例えば、「鳩山さんとこのお坊ちゃんは留学された経験があるらしい--どうりで英語も話せるみたいだし、話すその内容は間違いなくまともじゃないものね」と--世間では往々にして受け取られるあの現象。

あるいは、理研の<小保方晴子>の業績の認識について例の<割烹着>というアイテムの他に、「またまたノーベル賞!?30歳の「リケ女」がSTAP細胞を発見」(2014年1月30日)と、あの天下の朝日新聞も見事に見誤らせた事柄でしょう。要は、アメリカ正規留学には「箔が付く」ということ。それがなんらかの学位取得まで行き着いた場合、アメリカ正規留学には世間は一目置くし、よって、それは学歴ロンダリングの効果さえも認められるということです。

相互補完的な事柄であろう(ⅰ)~(ⅳ)、就中、(ⅳ)「自己規定性の変更」を睨むとき、私は<留学>は<科挙>とパラレルな制度でありツールなのかもしれないと思うのです。つまり、

それは(α)広く天下に門戸が開かれている世界観の練度を競うテストであり、(β)社会階層移動のためのそれなりに強力なアイテムでもある。よって、(γ)その<記号>を入手する以前と以後とでは世間の彼や彼女を--科挙の場合には「彼女」は原則いないとしても、例えば、留学し学位を獲得した彼や彼女を--見る目が質的に変化する点で両者はトポロジー的に同様なものではないか、と。而して、アメリカ正規留学の効用とは<科挙>としての属性に収斂するの、鴨とも。

いずれにせよ、(ⅰ)~(ⅳ)は相互補完的であること--だから、(ⅱ)異文化体験、ならびに、(ⅲ)人脈は、(ⅰ)(ⅳ)を具体的に肉付けするものであり、単なる「グリコのおまけ」ではないこと--、加之、繰り返しになりますけれど、(ⅰ)「英語運用スキル」の点では、国内に秀逸かつ廉価な代替財が豊富に存在している以上、少なくとも現在では上の(γ)「学位取得を境に世間の留学経験者を見る目が変わること」の原因を、専ら(ⅰ)「英語運用スキル」の向上に求めるのは間違いである。と、そう私は考えます。


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(Ⅱ)留学は科挙ではある
ご存知のように、随・唐期に形成され彫啄を施された科挙制度は清末に廃止されるまでの約1300年間(581/589年~1905年)、支那のほぼすべての王朝が採用してきた皇帝の官僚選抜試験であり制度でした。その意味では「科挙」は、寧ろ、現在の日本では国家公務員総合職試験・制度と対応させるべきかもしれません。

支那の王朝は--近代以降の産物である「主権国家-国民国家」すなわち「国民国家-民族国家」がそれこそ地球上を隈無く埋めている現在の地平からは--逆に、二重の意味で理解しがたい<国家>なの、鴨。すなわち、それは、(1)諸民族やそれらが形成する諸国を天のように覆う<帝国>であり、それは、寧ろ、一種のミクロコスモスだった。他方、(2)煎じ詰めれば、支那の王朝においては<国家>とは皇帝の家産にすぎず、よって、科挙の秀才・進士達もその皇帝の個人的な資産の管理に預かりお零れを頂戴する存在でしかなかったとも言える。

蓋し、これらの(1)(2)を念頭におけば--支那の王朝と現在の日本の国との位相差を睨むとき--、実は、「科挙」を現在の日本の国家公務員総合職試験・制度と対応させることは連想ゲームの言葉遊びの類の無意味なこと。

・<中国>という現象☆中華主義とナショナリズム(上)(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11153763008.html


けれども、<科挙>には単に人材登用の試験や制度という側面を超えて、支那の王朝にとっては社会統合のイデオロギーでもあった。皇帝の德が帝国という小宇宙を遍く公平に照らすというイデオロギーと「その皇帝の官僚になる道が広く天下に門戸が開かれている」という事実というか立前というかは表裏一体のものだったのではないでしょうか。ならば、一捻りして、<科挙>を<留学>と対応させることは朝日新聞の社説ほどには我田引水ではなく満更間違いでもない、鴨。と、そう私は考えるのです。

▼科挙の二つの貌
・皇帝の官僚採用試験とその制度
・帝国の社会統合のイデオロギー



アメリカほどではないにせよ日米ともに<学歴社会>ではある。しかし、日本の<学歴社会>が<受験>を通して専ら形成されているのに対して、アメリカの社会は<受験社会>ではありません。実際、MBAにせよロースクールにせよ、メディカルスクールにせよ、出願に際して提出が要求される諸々の適性テスト(aptitude test)という名の学力テスト(achievement test)のスコアにおいて、アメリカ人合格者のほとんどは最高レンジのスコアを取っており、それはその数倍のアメリカ人不合格者においても同じですから。要は、彼の地での合否は<受験>以外のsomethingで決まるということ。それは、寧ろ、価値観や世界観の練度の競争と言うべきである。

ならば、<科挙>の社会統合のイデオロギーの側面に注視するとき<留学>こそ近代以降の日本において<科挙>と極めて近しいものと言うべきではないか。なぜならば、それ自体としてはイデオロギー的に無色透明な能力審査であった<受験>と比べた場合、<留学>にはイデオロギー的色彩、世界観的色彩が不可避的に付着するがゆえに<受験>よりも<留学>がより<科挙>に近しい。

逆に、<科挙>の帯びる<技術としての世界観>の権威というテーストは、イスラーム社会やユダヤ社会における宗教的な権威によるイデオロギー支配、あるいは、旧東側諸国や日本共産党内部におけるマルクス主義の宗教的な権威によるイデオロギー支配と比べてより世俗的であり、それらの教条よりも<留学>との親和性が高いのではないか。と、そう私は考えます。


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いずれにせよ、「広く天下に門戸が開かれている」にせよ、科挙に合格するには膨大な時間と学資が不可欠だったのだから、その恩恵に預かれるポテンシャルを持っていたのは支那社会の極一握りの富裕層にすぎないなどという--折角、他店では350円するトマトカレーを期間限定で100円で提供しようというお店に対して、「でもやはり100円はいるのですよね」と呟く類の--朝日新聞的な揚げ足取りは看過するとして、<科挙>も<受験>も<留学>もある種の公平性を通して、その「合格者-学位取得者」を<聖別>するイデオロギー的な機能があったのだろうということもまた。

重要なことは、--「秀才・進士といった科挙合格者にも無能な者は少なくなかった」とか、「留学経験者でも英語が苦手な向きは実は少なくない」とか、要は、<科挙>をして肩書きだけで実力を見ようとしない社会を再生産する滑稽で醜悪なsomethingなどと認定する、それこそ朝日新聞でなくとも中高生でも夏休み明けの小論文で書きそうなことは置いておくとして--「自己規定性の変更」の更にその基底には、自己のキャリアゴールを自分自身でデザインするスキルと意志が横たわっているに違いないこと。実際、アメリカの大学・大学院の場合には出願者の、そのスキルと意志の練度と具体性と強烈さを重要な判定基準にしてますから。


・アメリカの大学院留学のための「Tips」または「心得」のようなもの
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11149214816.html

・ピグライフは勝れものの「マネージメントスキル開発ツール」かも(上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11421300439.html


而して、この「自己規定性の変更」の基底に横たわるsomethingこそが、--「東京大学合格437名」とか「医学部合格137名」という塾・予備校の宣伝文句に端なくも露呈している如く、<受験>の目的を大学入学後に先送りする、あるいは、大学という存在自体に丸投げする<受験>と比べて--目的自体を構築するところから競争のゲームが始まる<留学>の特徴であり、<技術としての哲学>であり<技術としての世界観>の練度をコンペティターが競った<科挙>と<留学>の類似点なの、鴨。

繰り返しになりますが、確認しておけば、現在の世界の支配的なイデオロギーの言語たる<英語>に関する(ⅰ)英語運用スキルのみならず、(ⅱ)異文化体験、(ⅲ)人脈、あるいは、<人脈>が重要だという認識、そして、(ⅳ)自己規定性の自己改革スキルを基底に据えた自己規定性の変更という<留学>の果実のコングロマリットを見るとき、<留学>は<科挙>に限りなく近しい。ならば、あるタイプの日本人志望者にとって、


б(≧◇≦)ノ ・・・留学の目的は<英語>だけではない!
б(≧◇≦)ノ ・・・留学は<科挙>ではあり、悪い選択肢とも言えない!


・イデオロギーとしての英語とイデオロギーを解体するものとしての英語
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11157781746.html



留学の効用の源泉は、単に(ⅰ)の「英語運用スキル」に収斂するものではなく、なんらかの技術としての世界観獲得を期待されてのものということ。ならば、公教育に「実社会で使える英語」なるものを求め、他方、<留学>の効用として(ⅰ)を過大視する見方の背景にはある種の<ファンタジー>が横たわっているのではないでしょうか。

それは、①英語のnative speakerの英語力を暗黙裏に前提に据える妄想、②善玉の「英会話」-悪玉の「受験英語」という錯覚、③公教育に対する万能感といった、いずれも、技術性と論理性を欠いた--ある意味、日本が第二次世界大戦で敗北した遠因と通底するsomething--というもの、鴨。と、そう私は考えます。



<(_ _)>

お粗末さまでした



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国際化の時代だからこそ<英語>にあまり期待しないで欲しい。就中、小中高の英語教育に「実社会で使える英語力」なるものの涵養を期待するのは筋違いだよ。私はそう確信しています。グローバル化の時代に必要な「英語力」として少なくない論者がイメージしておられるらしいものは、私に言わせれば良くも悪くも「英語力」という言葉の守備範囲を遥かに超えて拡がるsomethingだろうから、と。

・日本人に英語力は必要か
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11157728509.html

・小学校からの英語は必要か
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11152971970.html

・国際化の時代だからこそ英語教育への過大な期待はやめませよう
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11158801577.html


他方、語学力の獲得は--かなりの「例外=バグ」を認めるにせよ、21世紀の現在でも、そして、実は日本だけではなく、日本より凄まじい<階級社会>である欧州や韓国でも、更には、日本よりも遥かに凄まじい<学歴社会>であるアメリカや韓国でも、教養を感じさせる域に達する外国語運用スキルの習得は--、個人の所謂「社会階層移動」における謂わば「非関税障壁・見えない障壁:a non-tariff barrier/the invisible walls」とも称すべきスキル開発の問題。

ならば、そんな「社会階層移動のゲームにおけるキーアイテム」を公教育を通じてほとんどの子供達が身につけることができるなどという非現実的というかほとんど非論理的な想定は「100円持って行ったマック(←関西では「マクド」)でフランス料理のフルコースを期待する」ような世間と世界を知らない非常識でしかないでしょう。

私は、一応、その道で25年余の経験を持つ、米英の大学・大学院留学研修の専門家--「実社会で使える英語力」なるものの最適獲得メソッドと世間ではいまだに思われているらしい<アメリカ留学研修>の専門家--と自称しても嗤われるかもしれないけれど、おそらくまだ許される論者。而して、本稿はアメリカ留学なるものの意味と意義を些かゼロベースの地平から反芻したデッサンです。

よって、本稿に「アメリカ留学のノウハウ」あるいは「TOEFLなりTOEICの得点向上のTips」を期待して来られた方がもしおられれば速やかに退去されることをお勧めします。本稿はそれらとはほとんど無縁であり、そんなノウハウやTipsを本稿に期待するなどは「魚屋に行ってフルーツの箱詰め」を期待するようなもの。それはお互いにとって時間の無駄ですから。

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文部科学省が「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」(2013年)を公にしたのがその象徴でしょうか。この国ではまたまた間欠泉の如く現在「実社会で使える英語力」なるものの獲得を公教育に求める動きが出ているようです。しかし、今回の間欠泉の特徴は、改革に実効性を与える仕組みとして、「大学入試における英語科目」の改革が--TOEFL・TOEIC・英検のスコア提出によって独自の英語科目の廃止や縮小--が真面目に提案されていること。

▼間欠泉2013-2014の特徴
・大学入試の英語科目の改革
・TOEFLスコア等での代替



・「英語は英語で教えるべきだ」と戯言を記した学習指導要領
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11158831507.html

・鳥飼玖美子「TOEFL・TOEICと日本人の英語力 資格主義から実力主義へ」
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11153749510.html

他方、しかし、「実社会で使える英語力」獲得のまずは、そして、おそらくは最有力の手段であろう英語圏への留学、就中、アメリカの大学学部や大学院への正規留学はこの10年間で半減しています。実際、IIE(国際教育協会)によれば、1997年には4万7千人あったアメリカ留学も2011年には2万人を切っている--留学生数の国別順位でも、1980年代後半から、少なくとも、1994年~1997年までは長らく1位を保っていたのが、2010年には7位、2014年現在では<神8>落ちもほぼ確実な状勢--とのこと。

而して、日本からのアメリカ留学生の激減と「実社会で使える英語力」なるものを求める声との間のギャップをどう考えればよいのか。これが本稿の縦糸的な問題関心なの、鴨。


・英会話学校の破綻と米国留学の減少は日本の成熟か衰退か
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11156752264.html

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(Ⅰ)留学は科挙である
アメリカ正規留学を経て大願成就、学位を取得した留学経験者を母集団とした場合、アメリカ正規留学は英語力の向上に効果があったと言えるのかどうか。これに対する私の回答は「Yes/No」です。つまり、「それでよく学位が取れたね」という<引きこもり型>のよほど特殊な例外を除けば、ほとんどのケースでは、学位を獲得できた程のアメリカ正規留学は英語運用能力の向上に役立つ。

しかし、4年なりの学部留学、ならびに、1年なり2年なり5年なりの大学院留学を通して身につく程度の英語運用能力、すなわち、英語運用スキルは(a)日本国内でも--より安全に言えば、都合3カ月ほどのアメリカ研修を組み合わせるならば、国内でも--、(b)より廉価な、(c)より短期間の、よって、(d)ローリスクの研修を通しても十分に可能であり、ならば、英語運用スキルの向上や獲得、まして、「実社会で使える英語力」なる定義不可能なもののスキル習得に目的を限定した場合、アメリカ正規留学は、寧ろ、コストパフォーマンスに乏しい手段でしかない。と、そう私は考えます。

実際、20年近く前のことですけれども、ある商社の人事部長から「企業派遣でMBAとかに若手の社員を留学させてもいいのだけれど、率直なところ、その間実務で頑張った同期に比べるとみんな英語が下手になって帰ってくるのが悩ましい」と直接聞いたことがあります。

而して、リスニングとスピーキングの分野で英語研修ツールやメソッドが革命的に進歩したわけではないけれど、爆発的に普及浸透した現在ではなおさら--『英語リスニングのお医者さん』(The Japan Times・2002年)、『知っている英語なのになぜ聞き取れない?』(ナツメ社・2003年)等々の廉価な書籍、もしくは、「東進ビジネススクール」(2001年)、「iKnow!」(2005年)等々数多の便利なe-learningメソッドが英語教育のマーケットに登場した2001年以降の現在では--蓋し、この商社の人事部長の洞察はいよいよ正解と言える、鴨。

畢竟、20世紀末の慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(1990年)なり立命館アジア太平洋大学(2000年)というある種の際物を嚆矢にして、主要な国内のほとんどの大学・大学院が「英語を通してなにがしかの専門知識やスキルが身につくかもしれないという環境」を提供している21世紀の現在、そして、国際大学の素晴らしい実績を目の当たりにすれば、繰り返しになりますけれども、英語運用スキルの向上や獲得に目的を限定した場合、アメリカ正規留学は、寧ろ、コストパフォーマンスに乏しい手段でしかない。と、そう私は考えます。

要は、これら国内の代替財の存在を睨むとき、
英語運用スキルの獲得に限れば、


б(≧◇≦)ノ ・・・留学なんかせん方がましやで!


とまでは言わないけれども

б(≧◇≦)ノ ・・・留学せなどうにもならんもんでもないわな!


ということ。


急がば廻れ。重要なことなので些か遠回りをさせていただきます。
そもそも、アメリカ正規留学の獲得目標はどんな事柄なのか、と。

アメリカ正規留学に志望者やスポンサーは何を--今はできないどのようなことをその志望者が学位取得後にはかなりの確率で達成できるようになることを、そして、その裏面としては、結局、そのような<喜ばしい変化>をもたらすであろう、よりベーシックな資質やスキルの獲得を--期待してもよいのか、と。

蓋し、それは、(0)英語を通してなにがしかの専門知識やスキルが身につくかもしれないという、個々の留学専攻分野毎に異なりうるメリットとデメリット--日本国内の大学や大学院に進学することに比べた場合のアメリカ正規留学の<損得>の比較衡量--を捨象するとすれば、アメリカ正規留学一般については次のようなものでしょう。はい、これも実に平凡な認識。ただ、一つ注意すべきは、これら(ⅰ)~(ⅳ)間には強い相互補完的な構造連関が想定されるということ。


(ⅰ)英語運用スキル
(ⅱ)異文化体験
(ⅲ)人脈、あるいは、<人脈>が重要だという認識
(ⅳ)自己規定性の変更



而して、(ⅰ)「英語運用スキル」に関しては上で述べたとおり代替財との比較衡量、就中、国内大学・大学院への進学に比べた場合のアメリカ正規留学のコストパフォーマンスは、”it depends on the person”の類のマターであり、本稿全体の結論を些か前倒しして換言しておけば、その比較衡量の帰趨は”it depends on what and to what degree the person expects out of Study Abroad”の類の--今できないどんなのことがどれだけ上手に英語でできるようにはなりたいかという--期待から逆算されるしかない事柄である。と、そう私は考えます。


(ⅱ)異文化体験--異文化と不愉快ながら折り合う経験、あるいは、不愉快だからと拒絶する体験--すなわち、森鴎外的経験と夏目漱石的な体験の両極を含むこの項目は、煎じ詰めれば「世界には自分たちと異なる世界観と価値観に憑依された人々が存在する」ことの確信を得ることでしょう。

異文化間の相互理解は--どこから先は相互理解不可能という感覚の得とくもそこに含めれば--可能ではあるけれど、異文化コミュニケーションのためにはそれなりのスキル、および、努力と忍耐と諦観が不可欠である。と、そう私は考えます。

而して、私自身は、思い出したくもないくらい多くの千余のアメリカ人やカナダ人のインストラクター・コンサルタントを採用し、時には解雇して、同僚として働く経験の中でこれらの確信を漸次形成することができました。けれども、アメリカ正規留学というツールは森鴎外的にせよ夏目漱石的にせよこの視座をかなりの蓋然性で得るためのかなり有利な手段ではあろうと思います。


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<続く>




プロフィール

KABU

Author:KABU
大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
yahoo版のミラーブログ。
2007年9月10日以降の新記事を随時、厳選した過去の自薦稿を漸次アップロードしていきます♪

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