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修学旅行か、懐かしいですよね。高校の修学旅行どこ行きました? 

福岡県大牟田市にあるとある県立高校出身のKABUと寛子さんは奈良・京都・長野の弾丸ツアーでした。で、母校に電話して聞いたら、最近の修学旅行は北海道スキーツアーが多いとか(笑)。

大正生まれの母の場合、その大牟田市にあった青年学校の修学旅行は廣島・奈良・京都・伊勢神宮だったとか。でもって、戦争が激しくなるその前年の先輩までは廣島のかわりに東京まで足を延ばしていたそうな。

で、「戦争に負けたことより東京に行けなかったことが悔しい」といつも言ってたっけ(笑)

ということで、調べたらシェアは落ちているとは言うものの、やはり、全国的には今でも修学旅行の行先。第一位は「京都・奈良」方面ではあるらしい。

と、あっ、京都の中坊さん、元気に--修学旅行旅館の--女将さんやってるのかな? 
なにを隠そう私達の高校の修学旅行、京都の宿は中坊さんとこだったんだよね!
と、いきなりの閑話休題でした。以下、本題。

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聖護院 御殿荘
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海外修学旅行の行先から
南朝鮮・支那という(勿論、北朝鮮は論外でしょう!)
特定アジア諸国の占有率が急落しているということです。

当然ではありますが、あるべき状況になってきたということ、鴨。蓋し、あの有名な広島のとある高校の「土下座修学旅行」は--その報道された事例自体は些か誇張としても、似たような事例があまた存在することは周知の事実であり--問題外の外のこととしても、「修学旅行」の本性と目的を鑑みた場合、特定アジア3国は望ましい行先とは到底いえないでしょうから。このことについては後に些か詳しく述べますけれども、そもそも「修学旅行」というイベントは日本人と日本市民の子供達にとってどのような意味と意義をもつイベントなのでしょうか。本稿はこの点の吟味検討からその理路を始めたいと思います。

・海外修学旅行の行先ナンバー1はどこですか?
2位はオーストラリアで3位はシンガポール!




修学旅行は「学習指導要領」において「旅行・集団宿泊的行事」と位置づけられている。つまり、伝統や慣習や惰性を越えて、まして、単なる余興や暇つぶしなどではなく、<学校における教育活動>の一環として修学旅行を行うことを文部科学省は奨励しているということ。而して、私立公立を問わず、日本の小・中高校は、文部科学省が出している「学校教育法施行規則」--ちなみに「学習指導要領」はこの「学校教育法施行規則」に附して起案されたものです--にもとづいて「修学旅行による教育」を実施している。と、そういう建前になっているのです。

ちなみに、アメリカやカナダ、オーストラリアやイギリスでは--和英辞典で「修学旅行」を引けばそう出ている--「school excursion」と呼ばれる小グループ単位での旅行やグループ旅行を--軍隊への体験入隊やボランティア活動とパラレルに--カリキュラムに組み込んでいる学校も少なくはありません。また、支那でも、--実は、私と寛子ちゃんも過去に幾つか日本へのそんな「支那版修学旅行」のコーディネートを依頼された経験もあるのですが--学期末や夏休み前後などにグループ単位で学年を数個の班に分けて国内外の小旅行を実施する、そんな学校も、例えば、支那の共産党幹部や富裕層の子女の通う学校では珍しくない。

まして、各自が個人や数人の友人と出かける、所謂「卒業旅行」や入学を先送りする「ギャップイヤーの旅行」は寧ろ欧米やイスラエルが本場で、日本ではやっとこの30年くらいでそれなりの「旅行商品」になったというのが実情、カナ(←あいかわらず、西野カナさんのファンだったりします)。

而して、しかし、①当該の学校の学年単位で、②原則全員参加の、かつ、③全員が、これまた原則、同じ旅行行程でもって、④3日から10日という--「旅行」としては--比較的短期間の、⑤泊りがけの旅行という意味での「修学旅行」は、私の知る限り日本だけに見られる--少なくとも、(例えば、2015年度、日本の全高校4,939校中の実に4,636校(93.9%!)がなんらかの形で修学旅行を実施しているらしいのですから、)その国の過半数を優に超える学校が①~⑤のようなイベントを行っているのは世界中で日本だけに見られる--現象だと思います。グループ単位でも個人単位でもない、行く先は各自が自分で決める「卒業旅行」などではない「修学旅行」なるものは--諸外国の海軍士官学校のイベントとしての「修学」的の長期遠洋航海実習は珍しくないから、それを日本の固有種とまでは言わないけれど--現在ではこの惑星上では日本にのみ見られるガラパゴス的somethingではある、と。


・修学旅行コム
(平成27年度全国公私立高等学校海外修学旅行実施状況)
(平成27年度全国公私立高等学校海外研修(修学旅行外)実施状況)
http://shugakuryoko.com/chosa/kaigai/

・文部科学省--高等学校学科別生徒数・学校数(平成27年5月)
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/shinkou/genjyo/021201.htm

・結果発表!地方別「修学旅行の行き先」、あなたはどこだった?(平成26年-2014年)
 http://j-town.net/tokyo/research/results/193167.html?p=all


◆修学旅行とはそもそもなにもの?
それが、英文法の「5文型論」、あるいは、憲法学において当然のように語られている、例えば、「基本的人権・国民主権・平和主義という具体的内容が盛られた根本規範の理解」と同様に、世界でも日本にしか見られない特殊なものであったとしても、「修学旅行」がこの国の文化と伝統に組み込まれるもになっており、また、大方の子供達と保護者がそれをまずは好ましいもの/参加するのは仕方のないものと受け止めている現状を鑑みるに、別に、修学旅行をやめる必要も必然性も今のところないのだと思います。

しかし、修学旅行を惰性にせよ慣行にせよ続けるうえで、せっかくのその機会を子供達と保護者にとって--究極的には、文教予算を負担している納税者が形成するこの社会にとっても--より有意義なものにするためには、その行先の再検討等のメンテナンス作業は必要なのかもしれません。ならば、「修学旅行」の意義とそれに期待されるべき効果は何か。このことを反省してみることは、満更、暇つぶし的のイシューに尽きるものではない。そうではありますまいか、ありますまいか

・なぜ日本では5文型論が生き残っているのでしょうか?
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5b315dd60b6ef715fc92a701ae09bf76

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79


そもそも「修学旅行」というイベントは日本人と日本市民の子供達とその保護者にとってどのような意味と意義をもつイベントなのか。独断と偏見に満ちたものになるであろう「海馬之玄関版・海外修学旅行「お薦め行先」ランキング」を披露する前に、しかし、「修学旅行」の制度目的や獲得目標についてもう一歩踏み込んでおきます。そうしなければ、独断と偏見の吐露であるのみならず、そのランキングにはなんらの根拠性も含まれないだろうから。

而して、上で紹介した「学習指導要領」は、修学旅行を学校教育の一環たる「第3章特別活動-内容D学校行事-(4)旅行・集団宿泊的行事」と位置付けています。しかし、そこでの説明は「平素と異なる生活環境にあって、見聞を広め、自然や文化などに親しむとともに、集団生活の在り方や公衆道徳などについての望ましいて体験を積むことができるような活動を行うこと」と誰も反対はしないだろうが誰にも具体的な意味内容のわからない抽象的な記述。ということで、「修学旅行とはそもそもなにもの」については自力で考えるしかない、鴨。

・学習指導要領(←旧版ですが、逆に、文部科学省の意向の原型をとどめています)
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/old-cs/1322574.htm

・通達:小学校、中学校、高等学校等の遠足・修学旅行について
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19681002001/t19681002001.html

まず、「修学旅行」は「修学」のための「旅行」なのだから、当該の中学校や高校で日頃学んだ知識なりものの考え方を実際の世間と世界で確認するためのイベントと理解するのは満更筋悪の理解ではないでしょう。けれども、ならば、この意味での「修学旅行」はすべからく当該の学校生活の最終盤に置かれることこそ筋が通るというもの。けれども、大正生まれの私の母の時代から「修学旅行」は最終学年の前半とか最終学年の1年次下の学年に実施されるのが普通だともいえる。まして、平成の御代の現在、--受験準備や就職活動、あるいは、部活での学校としてのパフォーマンスを配慮してなのでしょうか--「修学旅行」を1年次に執り行う学校も多くはないけれど稀ではないとか(笑)。

畢竟、「修学旅行」を前述の如く、

①学校の学年単位
②原則全員参加
③全員が同じ旅行行程
④比較的短期間
⑤泊りがけの旅行

という5個の要件を備える--誰にとっても原則その当該の学校に在学中1回きりの--イベントと把握する場合、「修学旅行」の「制度目的」と「獲得目標」はそれらから逆算されるのではないか。と、そう私は考えます。畢竟、「修学旅行」の核心は、(甲)実物との接触を触媒とした、(乙)自分の再発見なのではないか。

すなわち、それは、端から「中学校や高校で日頃学んだ知識なりものの考え方を実際の世間と世界で確認するためのイベント」などではないのだろう--この「修学」の経緯が含まれることは望ましくはあるかもしれないが、まして、禁止されることなどは絶対にないだろうけれど、その要素がマストというほどのことではないのではないか--ということ。蓋し、「修学旅行」の目的と目標とは、

>(甲)実物との接触
>(乙)自分の再発見

更に細分化して述べれば、
それは、次の3者、多分。

(1)世界と世間を覗き戯れ知る体験
(2)自分を知る-世界内存在の自分
(3)自分が分る-類的存在たる自分

なにげに「哲学的」な記述で眠たくなりましたか(笑)。


でもね、例えば、私達の頃、1970年代は(おそらく1990年代くらいまでは)、福岡県の最南端、大牟田市やみやま市の中学生の修学旅行先は、ほぼもれなく「南九州:鹿児島・宮崎」でした。だって、地元の公立中学校の校長を務めた父は、引率と下見だけでも鹿児島と宮崎には30回以上行ったと自慢/自嘲してたものね。で、地元の母校の甘木中学校の先生方から都度聞かされた行先選定のその理由は、




>おまえたちもこれから就職したりお嫁入りや
>上の学校に行くとかで【大牟田から】
>北の福岡(=博多)やら大阪やら東京には
>どんくらいでん訪れる機会はあるじゃろ。そばってんな、
>九州に生まれ育っとっとにくさ、
>ばってん、南の熊本・鹿児島・宮崎にはのぉ、残念ながら、
>修学旅行ででん行かんなら、
>これから訪れる機会はあんまりなかかんしらんとぞ。
>それは残念なことではないですか、諸君! と。


逆も言える、戦前・戦中期の修学旅行の行先が「伊勢神宮」や「東京=皇居&靖国神社」が人気であったこと、また、戦前からの流れで、なんといっても京都・奈良は修学旅行の行先の保守本流・・・。また、海外は--いまでも、日本人のパスポート保有率は25%前後ということで、60%から70%を優に超える韓国やカナダ、欧州の国と比べると、アメリカとならんで海外志向がかなり低いとも言える日本の場合、海外の修学旅行はそれなりに意味があるとしても、やっぱ、--どうしても移動時間のがネックになってくるから・・・。定番には定番の強みがやっぱあるということ。やっぱコスパだからね・・・。また、で、・・・。


あれ。あれ。

・・・・。
・・・・。

修学旅行の行き先に関して「伝統と歴史を体感できる近畿圏 vs. 北海道や長野のスキーツアーや日本の今を実感できる首都圏」。さらには、「国内 vs. 海外」の選択に<唯一絶対の正解>はない。どちらも一長一短。はい。

でもって、海外も一興なんだけれど。海外はやはりその往復の移動時間が無駄といえば無駄--だから、機中で、日本語を話したくて自分の日本体験を話したくてたまらないアメリカ人の同年齢の子達の一団と遭遇でもしない限り無駄といえば無駄--なことは間違いない。ハワイなんぞは中途半端の極致。グアム・サイパンは最悪最低。だって、--「ああ、大東亜戦争のときにはここからB29が飛び立ったのか、こんど戦争するときは負けないぞ」って体感決意できるくらいのもので、それ以外に--そこで万人が平均的に得られる知見はなんもないもん。多分。

而して、旅行を有意義にすべく、その国の反日傾向の原泉を事前にちゃんと調べたうえでの訪問旅行となると「修学旅行」の機能の5個の本性のうち、少なくとも4点(①学校の学年単位、②原則全員参加、③全員が同じ旅行行程、④比較的短期間)からみて特定アジア三国は論外だろうし・・・。それに、だって、支那は空気も水も悪いし、南朝鮮は--個々人というのではなく彼等が「韓国人」として日本人に応対する構図では--人間が悪いし、北朝鮮はいうまでもないでしょう。でね・・・。でね・・・。

・アッキー、昭恵夫人の韓流観劇de感激に感心!
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/403f3005396f90cba34f1dff3556be26

・ナッツ姫を支持する--だって、あの国のことだもの
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5842dcf365a138055c4fc9ecadcf1392



あれ。あれ。

・・・・。
・・・・。

以下、海外の修学旅行なら――アメリカの高校や在日米軍とのタイアップで、太平洋上の機内は日米の高校生のバトルロイヤル状態の国際交流の空間に変えるKABU&寛子さんの手練手管を前提にしてですけれども――(Ⅰ)アメリカ本土の中西部か南部。そして、繰り返しになりますけれども、「日本を知らずして、小娘やはなたれが海外に行く意味ありますのん?」という某京都府福知山あたりの2歳年上の元彼女の女史から必ずくるだろう批判を受け止めて(ごっくん)、

>海外に行かないなら、なら、

なら、奈良、奈良、京都や東京ではなく、やっぱ、その場合には、
(Ⅱ)「修学旅行@自衛隊」が現在の最適<解>なの、鴨。
という議論を続けていたのですが・・・・。
獲得目標の軸とコスパの軸のマトリックス図表も添えて・・・・。

愕然。

熊本震災のちょうど一年後、データーが消えたよ~!!

責任者でてこい~!
て、わたしなんだよね(涙)
タブレットとPCの連携の仕方がまだようわからん(涙)


ということで、とりあえずこの「トルソー」をアップロードしておきます。

私家版ランキングは、

1)台湾
2)ロシア
3)シンガポール
4)ベトナム
5)タイ
6)フイリッピン
7)インドネシア
8)カンボジア
9)マレーシア
10)モンゴル
次点:オーストラリア-トルコ-イスラエル(←やっぱ、移動時間がネックだよな)

そして、これまた、くどいですが、くどいですけど、繰り返しになりますけれど、
日本に<修学旅行?>に来た高校生や在日米軍の方のご家族が母国に帰る際の
その同じ便でそこに向かえるのなら、アメリカ本土。しかも、

>西海岸や東海岸のLAやらNYには、ボストンやらシアトルにはの
>これからでんどんくらいでん訪れる機会はあるじゃろ。そばってんな、
>ばってん、アメリカの本体たる中西部とか南部にはのぉ、残念ながら、
>修学旅行ででん行かんなら、これから訪れる機会はあんまなかかんしらんとぞ。


ですから、ミネソタ・ウィスコンシン・アイオワ、バージニア・南北のカロライナ・ジョージア、そして、ルイジアナ・アーカソー、テネシー・ミズーリ―・ケンタッキー・インディアナ・オハイオ・・・
が私の一押しです。はい。


でも、な、なんで、データ消えるのかな? 
北朝鮮のサイバー攻撃かな?
まあ、いいか、
あと48時間とはいわないけど48か月後にはこの世に存在しない国のことなんか。

ということで、

再見~♪





▽余談-Coffee Break

(以下、「防衛省Mag☆MAMOR:特集「英語力を装備する自衛隊」--英語好きにはお薦めだったりする(承)」から自家記事転記)
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/63fc4d48dacc6b00b3924457db432d44

-修学旅行先は自衛隊がいいかも!・・・(京都の中坊さんゴメン) 
-キャリア教育は自衛隊におまかせ~♪


本当に「英語が学びたいなら自衛隊に入隊」することは全国の高校生にとって合理的な選択肢、鴨。英語教育の改革論議が「永久革命論」の様相を呈し「間欠泉」の如く延々と続く我が国の、公立学校の英語カリキュラム談義を想起するとき、これは、満更ジョークではありません。

ところが、ところで、--もちろん、「直球ど真ん中」の正当な広報活動の一つとして--実は、自衛隊では小中高の「総合的な学習」や「キャリア教育」の一環として小中高の生徒の体験入隊の受け入れにも力を入れておられる。ならば、確かに、「総合的学修@自衛隊」のみならず「英語コミュニケーションスキル開発@自衛隊」は、生徒諸君のみならず先生方にとっても、特に、英語科や(英語も担当する)先生方にとっては英語研修スキルとコーチングスキルの研修として美味しい話しではないでしょうか。どうでしょうか、都道府県教委の紳士淑女の皆さん。ならば、

ウマウマ(^◇^)/・・・ならば!

ならば、もうちょっと本格的に--なんでも中途半端はよくないですから、それに、国益毀損の<土下座修学旅行@韓国>などとは比べるまでもないでしょうし、まして、アメリカにもヨーロッパにも簡単に行ける時代なのですから、それと、残念ながら、小中生は自衛隊側でも「迷惑!」だったりするでしょうから--、日本の高校の修学旅行は自衛隊にしよう。

修学旅行の行き先は「確か、そこ行ったはずなんだよね」の記憶だけが成果物の京都や東京の非効率なものから、「自衛隊体験入隊1週間!」(←なんなら、在日米軍基地のオプショナルツアーも追加選択可?)に切り替えるべきではないでしょうか(←京都・聖護院のスタッフの方、ごめんなさい!)。礼儀作法・規則正しい生活の体得、そして、英語力と英語学習のモティベーションアップが獲得目標の修学旅行。そいでもってお土産(gifts as well as souvenirs)は、自衛隊修学旅行参加者様限定の、

б(≧◇≦)ノ ・・・<防人の女神> or <防人の守護神>写真集!
б(≧◇≦)ノ ・・・防衛大学校 or 防衛医科大学校の極秘合格Tips集!
б(≧◇≦)ノ ・・・富士総合火力演習DVD英語版&対テロリスト用英会話便利辞典!

これもつけちゃう、
もってけドロボー♪

б(≧◇≦)ノ ・・・海上自衛隊レトルトカレー6個!
б(≧◇≦)ノ ・・・ヘルシーで美味しいとなにげに人気の陸上自衛隊缶詰詰め合わせ!
б(≧◇≦)ノ ・・・航空自衛隊からは「びっくりぽん」のおたのしみグッズ!

でもって、引率の先生方には、

б(≧◇≦)ノ ・・・『苦手な上官をあなたの味方に変える五つの挨拶』と、
     『米軍秘伝:そこは反米一色だった地域、その住民とも今では仲良し』も謹呈!

これ、結構、いいアイデア、鴨。なにより、これでこそ、
その言葉の本当の意味での「修学旅行」になるのではないでしょうか、
生徒にとっても先生方にとっても。保護者にとっても地域にとっても。
そうではありますまいか、ありますまいか。

ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿



・防衛大学学園祭☆<2010年11月>横須賀に行きませんか!
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f727889c98ffeac431c955c694d6c872





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◆浅田真央は「ルール変更」を理解できなかった愚な税金ドロボーか
バンクーバーオリンピック、男子フィギュアスケートを巡ってもフィギュアスケートの採点基準は物議を醸しました。4回転ジャンプを成功させた銀メダリスト、ロシアのプルシェンコ選手が4回転ジャンプを回避したアメリカのライサチェク選手が金メダルを手にしたことを念頭に置いて、

採点システムは変更されるべきだ。五輪王者が 4回転ジャンプの跳び方を知らないならば男子シングルではなくアイスダンスに名前を 変えなくてはならない。この採点システムのためにフィギュアの進歩は止まってしまった。

浅田(真央)のレベルは人類史上最高だよ。俺が女だったら勝てないだろうね。キム(ヨナ)は4回転を2回跳んだのか?
   

と、現行の採点基準に疑義を呈したそうです。而して、彼の問題提起に対して私は二つの感想を抱きました。

・ルール改訂の提案とルールをどれだけ重視するかの選択は別問題
・ルール変更の基底に横たわる<美>に対する価値観の対立


高難度の技を重視した結果、「サーカス」になってしまい、究極の美を追求するはずのフィギュアスケートが<銀盤雑技団大会>になってしまっていたこと。また、2002年のソルトレークオリンピックでの「八百長事件」を契機にして、フィギュアスケートの原点、<美の競演>を再構築すべく採点基準はここ8年間変更され続けてきました。すなわち、ルール変更の基底には<美>に対する価値観の鬩ぎ合いがあったということです。

而して、この経緯を踏まえれば、エレメントの完成度とエレメントとエレメントの間の移行プロセスの滑らかさを「基礎点」によって予め客観的に枠付けしておき、かつ、訓練され、毎年、研修セミナーや試合を担当する審判団の意識合わせを通じて一定の間主観性を担保された、審判員が<美>について5コンポーネンツの評価を行い、個々のエレメントにGOEを付ける現状の採点システムは次善ではあると思います。美の判定は結局審判員の価値観の表出であり、それが万人を納得させる普遍性を帯びることは土台不可能なのですから。

ポイントは、2002年から始まった判定ルールの変更には個々の変更内容を貫く<美>を巡る思想的な変更があったこと。このことを、日本選手は理解していなかった、あるいは、頭では分かっていたが体では理解できていなかったかもしれないことでしょう。ならば、そのルールを思想面でも自家薬籠中のものにできた荒川静香選手とキムヨナ選手が並み居るライバルを圧勝して戴冠したことは必然であった。そう私は考えます。

代表選手は一つでも上の順位を目指してオリンピックに参加しているはずだ

蓋し、

サーカスがよいかアイスダンスがよいかは各自の好みの問題。けれども、代表選手は、(ⅰ)現行のルールを与件として、(ⅱ)「メダル」や「金メダル」を目指している、そこまででなくとも一つでも上の順位を目指してオリンピックに参加しているはずだ。
    
それが「建前」であるにせよ、この前提は誰も否定できないと思います。而して、このような「建前」が成り立つとするならば、ルール改訂の提案とルールをどれだけ重視するかの選択は別問題であり、よって、ルールを味方にしたキムヨナ姫こそ称賛されるべきであり、それを無視して玉砕した浅田選手やプルシェンコ選手は愚か者でさえある。

そして、浅田選手にルールを最大限に利用することを指導することができなかった日本のスケート関係者達は、無為無策の馬鹿者、愚将・乃木希典、(史実は違うらしいのですが)数次に亘り騎馬軍団を馬防柵と三段構えの鉄砲隊に突撃させた武田勝頼にも匹敵する大馬鹿者。すなわち、税金ドロボー以外の何ものでもない。と、そう私は考えなくもない。

「キムヨナ=八百長女王」論は差別排外主義を孕んだ社会主義

オリンピック本番でのキムヨナ姫の羽毛のように軽やかでビロードのように滑らか、そして、鬼のように強かった演技を反芻するに、浅田真央選手とキムヨナ姫を比べた場合、代表選手としての人格、否、このオリンピックに賭ける<覚悟>の度合では大人とお子様の差があった。

そして、繰り返しになりますが、この現実を直視しないでする「陰謀論-八百長論」は、それが何がしか正しいとしても、所詮「酸っぱい葡萄」の類の、「負け犬の遠吠え」であり、それは、(伝統の恒常的な再構築、漸進の前進、反教条主義、自己の伝統の尊重と同時に他者がする伝統の尊重をも好ましいと感じる)言葉の正確な意味での「保守主義」とは相容れない差別排外主義、あるいは、権力とルールの万能感をアプリオリに措定する教条主義的な社会主義、または、その両方に他ならない。と、そう私は考えています。



 




◆浅田真央は「ルール変更」如きに右往左往しなかった本物のアスリートか
浅田ファンのブログを覗いてみると、「陰謀論-八百長論」を唱える多数派に混じって、少数ながら、(ヨナ姫との得点差には疑義を呈しながらも、勝敗に関しては完敗であることを潔く認め)ルールを最大現に利用できなかった浅田陣営のシャビーな指導力に怒りを爆発させておられる向きもある。けれども、私は、19歳とはいえオリンピック代表選手たる者、その責任は周りではなく本人が負うべきだと考えます。

まして、ジュニア時代の両者の成績を鑑みるに、資質的にはヨナ姫よりも浅田選手が上かもしれないことを考えれば、バンクーバーオリンピック本番での両者の歴然としたパフォーマンスの差は、ヨナ姫と浅田選手のこの試合にかけてきた<覚悟>の差に収斂するでしょう。而して、それは自己に課された期待に応える使命感をどれだけ真摯に受け止めていたかの差でもある。ならば、やはり、

浅田真央は「ルール変更」を理解できなかった愚者

に尽きるのでしょうか。私は、一応、そう断ぜざるを得ないと思います。少なくともその側面は誰も否定できない、と。しかし、逆に、自己のスタイルに殉じたとはいえ、自己ベストの205.50点で見事に銀メダルを獲得したこの19歳を誰が非難できるでしょうか。これは感情論ではない。浅田選手は自己責任の原則を貫いた。すなわち、「愚な税金ドロボー」との批判を甘受しつつ、同時に銀メダルという成果を出したのですから。

自己責任の原則の貫徹と自己のスタイルの貫徹

而して、この自己責任の原則の貫徹、自己のスタイルの貫徹という切り口から、浅田真央選手のもう一つの側面が演繹されるかもしれない。ブログ友の桜乃宮アリス姫の記事を読んでそう私は思いました。

・女子フィギュア/浅田真央が魅せた日本
 http://blogs.yahoo.co.jp/kira_alicetear/24099280.html


アリス姫の記事の要旨は以下の通り、


特定の者が有利になり得るルールに粛々と従い、効率良く効果的にメダルを狙う。それがダメだとは言っていません。ただ、国際的なベクトルがそちらに向かう中で、そのルールとの整合性を模索しながら、それでも3Aへのこだわりを、例え不利になるとわかっていながらも捨てず、「世界初」なるものの殆どが粗雑なものになりがちであるフィギュアにおいて、文句なしの完璧さまで仕上げたこと。これは、何ものにも変えられない、「誰も手にする事が出来ない」価値のあるものだと、日本人なら理解出来るでしょう。

野球ではイチロー選手、サッカーでは中田選手など、既存のルールの中にあって整合性を模索しつつ究道精神に基づき「自己」を体現してきた共通項があるのですね。・・・「世界を相手に喧嘩を売る」というのは日本にとってはそういうことではないかと考えています。(中略)

オリンピックは「国と国の勝負」です。・・・しかし「メダル獲得競争」も結構ですが、日本人の美意識は「何としてでも(ルールを変えてでも)メダルを獲る」というオリンピックの不文律を肯定することには抵抗があるんですよね。

寧ろ「それはそれ」と認めた上で、「究道」における目的達成を称えることが日本社会のあるべくしてある姿だと考えています。「他者との勝負」ではなく「自己との勝負」の結果がメダルであるならとても素晴らしいことですね。今日の浅田真央選手の銀メダル獲得は、このことを再認識する上でとても有意義なのです。(以上、引用終了)    






ネットの辺境でキムヨナ称賛を発信している私の主張とこのアリス姫の主張は、南極と北極の対極にありながら、実は、時空の歪みの中で背中合わせのものではないか。そのことを、浅田選手に引き付けて敷衍します。

蓋し、

オリンピックは戦争だから、「参加することに意義がある」などということは断じてない。金メダルが、そうでなければメダルが、そして、それが無理な場合はせめて一つでも上の順位が代表選手の目標とされるべきこと、これは動かないと思います。

けれども、自分が世界のTop水準のアスリートになる、そして、その水準をキープするモティベーションの源泉として、自分のスタイルの美意識を貫くことはありうることでしょう。ならば、自分にとって肝心要のその自分のスタイルを目先の勝利の確率を上げるために放棄することは、勝利どころかアスリートとしての自己の存在理由を否定するものに他ならない、と。正に、大賢は大愚に似たり、です。    

土台、自分のスタイルを追求できないのならばアスリートとして努力精進する意味はない。そして、アリス姫の理路にここで合流すれば、我々観衆も、そのような自分のスタイルの美意識を貫いた日本代表選手が勝利を目指す姿に感化され感動するのであって、スタイルと勝利の優先順位は「スタイル→勝利」であってそれ以外ではない。而して、この経緯は(私の乏しい海外経験からは)日本だけでなく英米でもドイツでも共感をもって受け入れられるものと思います。

勝利のための戦略に自己のアスリートとしての美意識は優先する

アリス姫の記事でイチロー選手や中田英寿選手の名前を目にしたとき、私は(もちろん、誰しも連想する野茂英雄選手とともに)もう一人の名前が浮かんだ。それは将棋の藤井猛九段。かの有名な「藤井システム」(要は、居玉で戦端を開く急戦振り飛車の定跡)を考案した振り飛車のエキスパート。

藤井九段は、全国の天才少年が犇くプロ棋士の登竜門たる奨励会でなかなか勝てなかった頃を回想してこう語っておられる。勝率が悪いからといって、もし「振り飛車を止めて居飛車を指してみろ」と周りに言われたら、多分、将棋を止めていたと思う、と。蓋し、どこまでもアスリート、アーティストにとっての優先順位は「スタイル→勝利」であり、当時の藤井九段にとって振り飛車戦法は自分の存在理由だったということです(ちなみに、藤井九段は昨秋「振り飛車党脱退宣言」とも取れる発言をしていますが、これは本稿とは位相を異にする問題でしょう)。畢竟、

浅田真央は「ルール変更」如きに右往左往しなかった本物のアスリート

と言えるのではないでしょうか。ならば、バンクーバーでの浅田選手の玉砕は称えられるべきであっても、全否定されるものではない。而して、4年後、2010年に引き続きフィギュアスケートの神様は新女王の演技に憑依するに違いない。そして、その新女王とは、自己のスタイルを貫く中でルールとの上手な付き合い方を身につけた、そして、必勝の<覚悟>を秘めた本物のアスリート。浅田真央その人であること。私はこのことを毫も疑いません。



<以下、資料編に続く>


浅田真央は「ルール」を理解できなかった愚者か-採点基準考(上)~(下)








 ・ソチオリンピック☆私は当然、キムヨナ姫を応援する
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/93f56ef107bf381d1202a1d543bbd9fd


 ・アッキー、昭恵夫人の韓流観劇de感激に感心!
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/403f3005396f90cba34f1dff3556be26




   


 


 

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2010年02月28日 16時23分58秒 | 日々感じたこととか



あれから48時間。すでに<歴史的事実>になってしまいましたが、バンクーバーオリンピック女子フィギュアスケート、私が応援していたキムヨナ姫が世界歴代最高(「銀河系歴代最高」とも言う)の228.56点で優勝を飾りました。正に、ヨナ姫は「羽毛のように軽やかでビロードのように滑らか、そして、鬼のように強かった」。而して、本稿は、キムヨナ姫の歴史的な(both historical and historic)演技の余韻を反芻する中で、「ルールとパフォーマンス」を巡る日本の社会の一種歪な認識を俎上に載せるものです。

尚、私自身、フィギュアスケートの全くの素人。よって、この記事での思索が、憲法無効論の如き、あるいは、無防備都市宣言推進論の如き、「素人の思い込み」に基づく妄想に陥ることをできるだけ避けるべく、フィギュアスケートの評価システムの来し方行く末について専門家が論じたコラム「Figure skating scoring is not what it used to be」(Washington Post, February 26, 2010)を資料として本編記事と併せて紹介することにしました。


多くの浅田真央ファンの読者に少なくない違和感や抵抗感を与えつつ、私はなぜに<執拗なキムヨナ選手支持>を繰り返してきたか。それには複数の理由があります。

要は、

(1)個人的にキムヨナ姫が好き
チェジウ姫ファンの私ですからヨナ姫の容姿はもちろんのこと、彼女のカトリックの信仰、学歴重視の私の琴線に触れる名門高麗大学の学生であるという事実、そしてなにより、言動の端々に感じられる「母国への燃えるような愛国心」とその裏面としての「韓国人ファンの粗雑さや外国人選手に対する失礼な振る舞いに対する嫌悪の感覚」が一個の19歳にごく自然に融合している好ましさにグッときたこと。

(2)バンクーバーオリンピックに賭けるヨナ姫の覚悟
神の御加護の下、悪魔に魂を売ってでも「何が何でも金メダルを取る」という迸る覚悟。その目的設定から逆算した合理的戦略選択、および、その戦略を鉄の意志で貫徹する精神力が19歳ながら尊敬に値すること。

実際、ヨナ姫はこの3月の世界選手権を最後にプロ転向が既定路線ですから(浅田選手とのオリンピック対決は今回が最初で最後になります)、そういう意味でも、何が何でも今回のオリンピックで金メダルを取るという<覚悟>の面で浅田選手はヨナ姫に完全に劣っていた。高難度のジャンプ勝負を避け各エレメンツ(とエレメンツとエレメンツ間の移行)の完成度を上げることに特化したヨナ姫の一貫した鉄の意思は凄いと思いました。

野球に喩えれば、ヨナ姫のフリー演技は、抜群の制球と配給、そして、ここぞという場面では勇気をもってど真ん中に投げ込む「超スローボール」の連投で達成されたノーヒットノーランとさえ言えるでしょう。それに対して、フリー演技での浅田選手は、160キロ近い剛速球と切れ味鋭いフォークを武器に三振の山を築きながらも、下位打線に2本のツーランホームランを許し、結局、7回三分の2で降板したごく普通の勝利投手だったの、鴨。

(3)キムヨナ的スケートの私的な好ましさ
元々、私が、飛んだり跳ねたりの「サーカス」ではなく流れるようなスケーティングを美しいと感じる観客であること。実際、贔屓目からでしょうが、ヨナ姫のフリーの4分間は「上等なビロードが凛としてかつ豊潤な時空を流れるような美しさ」を感じた。もう、絶句。個人的にはもっと点数が出てもいいんじゃないかいと思ったくらいです。それに対して、浅田選手の演技は、ギクシャク以外の何ものでもなく、彼女の売り物であるジャンプは演技の流れをぶつ切りにしていたという印象さえ受けました。


という(1)~(3)のキムヨナ選手にまつわる3個の理由。そして、結果的にも、「キムヨナ姫 Vs 浅田真央選手」という、バンクーバーオリンピック女子フィギュアスケートの頂上対決が端無くも露呈させたと思われる、同じく3個のこの日本の社会に対する危惧が私のキムヨナ姫応援の理由です。

すなわち、ヨナ姫が戴冠することで下記の(4)~(6)の問題性が誰の目にも明らかになるのではないか。ならば、「ヨナ戴冠-浅田玉砕」は日本のフィギュアスケートファンにとっては苦い経験だとしても、トータルでは日本のためには吉祥でさえある、と。

(4)日本のスポーツ界の政治力の欠如
自国選手とコーチを守れなかった日本スケート連盟の政治力のなさは軽蔑に値します。蓋し、「敵=キムヨナ」側が、演技構成点(5コンポーネンツ)と技術点におけるGOE(Grade of Execution)で大量得点する戦略であることは数年前から明らかだったのに、①浅田選手の戦術方針を「トリプルアクセル命の大艦巨砲主義」から変えさせるか、②演技構成点とGOEの評価基準の明晰化や透明化、個々の審判員のする判定の可視化と記録化、そして、より浅田選手に有利な(百歩譲っても「浅田-キムヨナ」双方にとってニュートラルな)評価ガイドライン改訂を国際スケート連盟(ISU)に行なわせる努力を怠ったこと。

(5)国規模での日本のスポーツ支援体制のお粗末さ
オリンピックは<戦争>であるという当然の認識の欠如。而して、(4)の②ともリンクしますが、日本国政府としてのISUへの圧力の不在、なにより、選手発掘・育成・訓練に向けた日本社会の資源配分のお粗末さへの危惧。

(6)日本社会に蔓延する国際機関やルールに対するナイーブさ
国際連合(UN)にせよ国際スケート連盟(ISU)にせよ、「平和」なるものや「スポーツ」なるものに関係する国際機関への性善説的な<幻想>や超国家的な権威を認める<妄想>、他方、それら国際機関が定めたルールの<神聖視>や<普遍視>、更には、審判員の下すジャッジに対する<公平性>や<無謬性>の素朴な期待が蔓延するこの日本社会への警鐘。

    
これら6個の理由に基づき、私は何憚ることなくキムヨナ姫をめいっぱい応援した。そして、ヨナ姫も「現役の世界チャンピオンは金メダルを取れない」というジンクスを破って圧勝してくれた。正に、大願成就。尚、私のヨナ姫応援については下記の過去記事を参照いただければ嬉しいです。




・いよいよ本番☆私はキムヨナ選手を応援する<再掲>
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/96f3164f231fa302690e8d289349b866


・空想的社会主義の惰眠を貪る左右の日本人に喝☆頑張れキムヨナ姫!
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/12e378fdcd423a5cfb4c38771341b0f1


・海外報道紹介☆キムヨナ姫、オリンピック優勝!
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/4ba2bd17cdfd7009a56a7670d87ad229


 


そして、


・キムヨナを<物象化>する日韓の右翼による社会主義的言説



 


・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65226757.html


 


 




◆浅田真央は国際的謀略に嵌められた悲劇のヒロインか
浅田選手贔屓のブロガーの中では、キムヨナ姫の金メダルは、ISUを巻き込んだ韓国の組織的な謀略の結果であり(金銭授受という意味では必ずしもなく、キムヨナ側に有利な採点基準の設定や、キムヨナ姫の演技に予め高得点を付ける申し合わせができていたという意味での)「八百長」に近い金メダルだという言説が少なくないようです。しかし、私はこのような、「陰謀史観」の如き言説は「負け犬の遠吠え」「酸っぱい葡萄」「引かれ者の小唄」の類のものであり、而して、現実を直視することなくこのような責任転嫁的の言説を弄する輩は、差別排外主義を喧伝する国辱ものの論者に他ならないと考えます。

蓋し、

・演技構成点の各コンポーネトのスコア基準が曖昧で抽象的

・GOEの(減点基準はいくらか明確としても)加点基準が曖昧で抽象的

・キムヨナ選手のスコア(就中、GOE)は男子に比べても異常に高い

・ISUの評価ガイドラインの改訂自体が、最初からキムヨナ選手を勝たせるストーリーに基づく「八百長」だ。例えば、昨年のGOE加点ガイドラインでは、ジャンプは「高さまたは飛距離が素晴らしい」から今年は「高さと飛距離がよい」に変わったが、これは、(強いて言えば長めのアプローチから)垂直飛びに近い軌跡を描く浅田選手のジャンプの加点を抑えるための変更だった、

・ここ2年の国際大会のスコアの流れを俯瞰すれば、浅田選手が難度の高いジャンプをプログラム入れた直後、キムヨナ選手のGOE加点と演技構成点はインフレしてきた。この両数値の相関関係は偶然の一致とは到底思えず、採点ガイドラインで先回りして浅田選手が勝たないようにしているとしか思えない、等々。

    
このような「キムヨナ:浅田真央=八百長女王:悲劇のヒロイン」説に対して、私は上で述べた同じ6個の理由からかなり批判的なのです。

蓋し、確かに「八百長」はあったのかもしれない。私もそのことを否定はしません。けれども、その「八百長」はルールの範囲内のものである。また、オリンピックやサッカーワールドカップは<戦争>であり、ルールに反しない限り何でもありの世界である。ならば、「敵=キムヨナ」陣営がルールを最大限に利用して自己の優位を築いたことは称賛されるべきことではあっても断じて非難されるものではない。蓋し、採点競技は「八百長もルールの中」であり、プロレスの世界王座決定線と一緒で八百長でも勝った方がチャンピオンなのですから。

・オリンピックは<戦争>だ
・自陣営が有利になるべくルール改訂を働きかけるのは当然だ
・八百長もルールの構成要素だ
・ルールを最大限に利用した勝者への批判は負け犬の遠吠えにすぎない


畢竟、オリンピック代表とそのスタッフ位の水準になれば、ルール改訂交渉の段階から戦いが始まっていること、そして、勝ちたければルールを最大限に利用すべきこと。そんなことは百も承知でオリンピックのリンクに臨んでいるはずでしょう。ならば、日本選手の数倍のプレッシャーの中で(審判員が一層「八百長」がしやすい)完璧な演技を演じたヨナ姫を褒めるべきであって、「キムヨナ=八百長女王」論などは失礼千万である、と私は思うのです。実際、プロ転向が既定路線の彼女はこれが最初で最後のオリンピック、また、スポンサーの意向と収入面もそうだけれど、韓国を愛するが韓国ファンを必ずしも好きではない彼女が金メダルを取れなかった場合、彼女は国に帰れなかったかもしれないのだから。

いずれにせよ、このバンクーバーオリンピック女子フィギュアスケートのイベントを通して、国際大会やルールの公平性や普遍性を素朴に信じているとしか思えない多くの日本人の感覚が私にはむしろ問題だと感じました。それは、所謂「国連至上主義」や、「ソ連=平等の王国」「アメリカ=自由の王国」「欧州=人権の王国」等々とアプリオリに捉える感性、あるいは、憲法を普遍視する憲法無効論の妄想や憲法9条教の戯言と表裏一体のものなの、鴨。と、そう私は考えています。


<続く>


 

プロフィール

KABU

Author:KABU
大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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2007年9月10日以降の新記事を随時、厳選した過去の自薦稿を漸次アップロードしていきます♪

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