「改憲をめざす内閣」は立憲主義と矛盾する?

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国民投票法の成立で改憲が現実味を増したためか、護憲派の一部からは「政府が改憲を推進するのは公務員の憲法尊重擁護義務を定めた現行憲法99条に違反する」とか「立憲主義から言って、憲法に縛られるはずの権力が、憲法を改正しようとすることは許されない」等の主張が出されています。

例えば、関西のある共産党系市議はそのブログに 「立憲主義という現代政治の常識からも、内閣が憲法の変更を議論することはそもそも常識はずれなのだ」と書いておられるし、民主党の鳩ポッポ幹事長は去る5月3日の憲法記念日、安倍政権の改憲志向に言及して 「憲法は「公権力の行使を制限する根本規範」というのが近代立憲主義の定義である」と述べられた。

憲法論的にはこれらの主張はトンデモな議論であり俎上に乗せる必要もありません。しかし、3年後の憲法改正を期して、理性的で真摯な改憲論議が国民の間に澎湃として湧き起こることを期待している者にとってこれらは看過すべきものでもない。「悪貨は良貨を駆逐する」の喩の如く、(護憲派の憲法研究者も内心呆れているだろう)このような子供騙しの疑似論理によって改憲論議が泥仕合化することも十分にありうることだからです。

実際、30年程前、「万葉集は韓国語で読める」とかのトンデモ言語論が流行したとき、比較言語-歴史言語の専門家は一笑に付すだけでほとんど何のコメントも発しなかった。また、ここ5-6年全国で「無防備都市/無防備地域宣言」を推進する運動が展開されていますが、憲法や国際法の専門家は「国際法上の無防備地域宣言を、平時に中央政府と独立に地方自治体が国際法と現行憲法を根拠に宣言できる」というこの天文学級のトンデモ法律論を笑うばかりでほとんど何のコメントも出してこなかった。

而して、それら専門家の不作為というか怠慢によって、例えば、NHKの『聖徳太子』(2001年)では、当時の日本の宮廷では百済語が準公用語であったかのように描写され、国立市の前市長は「自治体が国際法にのっとり戦争離脱をするという手法を取り入れた条例を、市民を守る最も有効な道として、国立市の条例にしたい」(2006年)と公言するに至った(尚、「万葉集は韓国語で読める」と「無防備地域宣言」のトンデモ性については下記拙稿をご参照ください)。

・いろんな意味で結構根深い日本語の韓国起源説(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/19059012.html

・アーカイブ:無防備地区宣言の妄想と詐術(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/241060.html

・無防備地域宣言と無防備宣言条例推進運動の落差
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/19059406.html


これらトンデモ疑似論理の害毒を鑑みるに、「立憲主義から言って、憲法に縛られるはずの権力が、憲法を改正しようとすることは許されない」などの謬説には可及的速やかにお引取りいただくに如くはないだろう。これが先日、「現行憲法99条と憲法改正の限界」に焦点を当てた記事「「改憲をめざす内閣」は憲法違反か?」に引き続いて本稿をエントリーする所以です。尚、憲法改正および立憲主義を巡る私の基本的な考え方については下記拙稿をご参照ください。

・「改憲をめざす内閣」は憲法違反か?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/47210863.html

・憲法改正のトンデモ反対論Q&A
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/47063088.html

・羊の皮をかぶった不埒な護憲論☆憲法改正不要論を撃つ
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/47047194.html

・立憲主義と憲法の関係☆憲法は国家を縛る「箍」である?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/33625866.html


◆「改憲をめざす内閣」と立憲主義
立憲主義を取りあえず「国家権力の権限の範囲と権力行使のプロセスを事前に憲法で規定するアイデア」と規定するとき、立憲主義は(この便宜的な定義からも)権力を縛る原則であることは間違いない。しかし、「憲法改正を定めている現行憲法96条に反する手続によって国会や内閣は改憲を進めてはならない」という96条の規範意味を越えて、「内閣は改憲を推進してはならない」などのルールが立憲主義から自動的に演繹されるわけではない。

立憲主義は権力に対して「改憲については何もするな」と命じるものではなく、「憲法に従い行政サ-ヴィスを事務的に行え」と命じるだけものでもない。立憲主義は、憲法の定めるプロセスを踏まえつつ、憲法に明示された人権を保障すべく国家の政治的意志の統合と決定を行い、而して、利害錯綜する政策を断行することを権力に要求する原則でもあるからです。まして、20-21世紀の国家に期待されるファンクションは立憲主義が成立した18-19世紀の夜警国家のそれとは異なり内政外交とも多岐にわたる以上、日々政治的決断を行いその決断を断行する執政権としての内閣の機能は立憲主義が否定できる筋合いのものではないのです。

つまり、96条自体に改憲の是非を最終的に決めるのは国民投票と記されている以上、また、内閣がこの96条の手続きを踏まえている限り、立憲主義が「制限/禁じている権力の行使」に「改憲の推進」が含まれているかどうかの検討を捨象してなされる「憲法は権力を縛るものであり、この立憲主義からは「改憲をめざす内閣」などは論理矛盾」等の主張は、

改憲をめざす内閣は立憲主義に反する。なぜならば、立憲主義は内閣に改憲をめざすことを許していないからだ
というトートロジーにすぎない。

畢竟、憲法史的には、立憲主義の権力の制約には、(i)人権論的制約:権力が容喙できない権力行使のカテゴリーを定めるタイプの制約と、(ii)権力分立論的制約:権力行使の仕方にある特定の手順とプロセスを定めるタイプの制約の2類型が観察されます。そして、繰り返しますが、現行憲法上は改憲の是非を最終的に決めるのは国民投票である以上、「改憲をめざす内閣」との関係で検討されるべき立憲主義が後者の意味であることは自明だと思います。

ならば、立憲主義のコロラリーたる権力分立論において議院内閣制型を取る現行憲法下の内閣が、96条を遵守しつつ与党の勢力を背景に内閣総理大臣の意向を前面に押し出して憲法改正をリードすることは、憲法が定めた権力分立と権力行使のルールの遵守でこそあれなんら立憲主義と矛盾するものではない。

比喩で敷衍します。「憲法に縛られるはずの権力が、憲法の改正を推進することは許されない」という主張と、「ある試験の受験者が、自分が受ける試験の出題をすることは許されない」、もっと端的に言えば「泥棒に縄をなわすことは許されない」という命題はパラレルではないのです。

何故ならば、議院内閣制として現行憲法にインカーネートした立憲主義からは、改憲の是非を決めるのが国民である以上(≒採点者が国民である以上)、国会の多数派そのものである内閣(≒受験者)には、憲法改正の発案や与党議員に対する改憲に向けた国会運営の指示等々、改憲を推進すること(≒試験の出題)が許されているからです。


◆現代国家と立憲主義の精神
権力分立の要請としての立憲主義ではなく<立憲主義の精神>から見れば「「改憲をめざす内閣」は憲法違反」と言えるのではないか? 護憲派の中にはそう語る方も見受けられます。而して、<立憲主義の精神>なるもの、すなわち、実定憲法の解釈原理の体系の一つとしての立憲主義の内容と射程およびその効力の根拠について検討してみます。

立憲主義の(実は、大陸法系の立憲主義の)源泉と言われるフランス人権宣言16条は「権利の保障が確保されることなく、権力分立が定められていないすべての社会は、憲法をもつものではない」(1789年)と謳っています。既に述べたように、立憲主義は(甲)基本的人権の尊重、(乙)権力分立をその主要な内容として成立したのです。では、なぜ人権尊重と権力分立は単なる啓蒙思想家の願望などではなく国家権力を縛る実定法的解釈原理としての効力を獲得できたのでしょうか。

蓋し、立憲主義の効力根拠を解明する鍵は、(甲‘)「天賦人権論」のイデオロギーと、他方、(乙‘)「人権は固有の権利かもしれないがそれは自動的に守られるものではない」という人類の経験だと私は考えています。而して、18世紀後半、実定憲法の解釈原理としての効力を立憲主義が獲得する論理展開をモデル化すれば次の通り、

(1)国民国家の構想
自由を抑圧してきた数多の封建的団体や身分制的な勢力(≒教会組織・ギルド組織・氏族団体等の「中間団体」)を中央集権的な国民国家の権威と実力を使って粉砕しよう、そして、返す刀で中間団体が消滅あるいは無害化した後に唯一人権を侵害する実力と蓋然性を持つ国家権力を憲法の鎖で縛ろうではないか。

(2)猫の首に誰がどうやって鈴をつける?
権力も権利も濫用されるのが常である。そして、国家権力がおとなしく縛られてくれる保証はない!

(3)立憲主義の両義性の発見
国内法的に最高の権力と権威を国家権力(≒主権国家)に与える条件として、人権保障と権力分立の規定を憲法に組むようにしよう。そうすれば、立憲主義は国家権力にとって支配の正当化条件になるがゆえに、支配の正当化契機を権力が欲する限り立憲主義は権力を縛る実定的効力を保持できるだろう、と。



立憲主義の効力根拠は権力の正当化である


立憲主義の効力根拠は権力の正当化。この点から立憲主義の射程が導かれる。畢竟、立憲主義の射程(=適用範囲)は憲法条規の遵守に収束する、と。権力は正当性を確保するために立憲主義に服するのであり、憲法規範の内容として(司法や国民の確定した法意識から)一義的に指し示されない、<立憲主義の精神>なるものが権力の行為規範として作用するはずなどないから。換言すれば、権力への猜疑の原理たる立憲主義が、一義的に確定されない<立憲主義の精神>なるもので権力を縛ることができるなどと想定するはずはないからです。

他方、18-19世紀の立憲主義の成立期とは異なり、普通選挙が政治過程にビルトインされて以降の大衆民主主義社会においては、行政権は単なる法律の執行機関ではなく政治的意志統合をともなう総合的な行政サ-ヴィスの執行機関でもある。ならば、国家権力の正当性は立憲主義からだけではなく、普通選挙を通じて民主主義からも調達されざるをえない。よって、立憲主義の射程が限定的になるのは当然であり、<立憲主義の精神>なるものからも「「改憲をめざす内閣」は憲法違反」などとは到底言えないのです。

蓋し、大衆民主主義社会の国家権力は立憲主義的正当性と民主主義的正当性のブレンドにその支配の効力根拠を置いており、逆に言えば、立憲主義と民主主義は相克する。而して、「改憲をめざす内閣」という現下の現象は、その正当性の二つの根拠が織成す<メビウスの帯>の顕現とも言える。私はそう考えています。


(2007年5月23日:yahoo版にアップロード)


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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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