新版☆マスメディアと政治の適正な関係を実現するための覚書




2012年の現在、「左翼」や「反日」などの艶っぽくも高尚なレベルの批判を突き抜けるそのあまりの無能さがゆえに、憤激や怨嗟を通り越して国民を唖然や呆然の域に押し流している民主党政権。

しかし、(最早、記憶の圏外に消え去った感さえある、「最低でも県外」発言が惹起させた日米同盟の劣化に代表される鳩山政権下の凄まじい非常識と無知蒙昧ぶりは置いておくとしても)<2011年3月11日午後2時46分>の東日本大震災の復興の遅滞、放射能を巡る風評被害の跳梁跋扈、そして、円高対策の拙劣さと電力の安定供給に危惧を覚える企業活動の停滞と企業自体の海外脱出の趨勢、よって、震災特需による経済効果など「焼け石に水」にした感のある若年者・中高年の雇用機会の激減に対する拱手傍観の呈等々、現下の現在進行完了形での民主党政権の支離滅裂な有害無益ぶりに対するマスメディアの批判は、その前の自民党政権に対する批判と比べればほとんど見られないに等しい。と、そう私は考えます。

比較の観点からは、そう言わざるを得ないほど、自民党政権に対するマスメディアの批判(否、それは言葉の正確な意味で、「誹謗中傷」「揶揄嘲笑」と呼ぶべきものだったと思いますが、自民党政権に対する当時のマスメディアの批判)は尋常ではなかった。例えば、麻生政権に対するマスメディアの<印象操作攻撃>は常軌を逸していました。

曰く、「解散をずるずると先送りする麻生首相」、「「景気の麻生」足元乱れ 「給付金2兆円」所得制限迷走続く」、「第二次補正予算審議 総選挙遠のき準備不足露呈」(いずれも朝日新聞)等々。蓋し、その真偽を事実によっては誰も検証できない「文学的言辞」を弄した印象操作が、当時は日々の新聞やTV報道に溢れていたのですから。


マスメディアが「第4の権力」と言われて久しい。もっとも、「権力」を政治学の一般的理解に沿って「公の資格において他者の行動に影響を与えうる威力」、すなわち、「諸々の暴力装置によって担保され、かつ、正当性を帯びた統一的な権威」の意味に解するならば、「権力としてのマスメディア」とは一種の「隠喩」にすぎないでしょうけれども。

「第4の権力」とマスメディアが称されているについては、しかし、現在の大衆民主主義社会における福祉国家では新聞やTVが、少なくとも「権力」に近しい色彩の、すなわち、なにがの公共性を帯びた甚大な影響力を行使している実態があることも間違いないでしょう。

畢竟、マスメディアの十字砲火の中で安倍政権が文字通り瓦解した経緯を反芻してみるとき、少なくとも、マスメディアが時の政権をも崩壊させるに足る社会的の影響力を保有していることは自明です。そして、その影響力は時の政治権力によっても簡単には阻止・制禦できないもの。蓋し、一種の「正当性」をマスメディアが纏っているという認識もまた大方の賛成を得られるものではないでしょうか。ならば、マスメディアのこれら、謂わば「準権力性:the mass media as a quasi-official power」は否定できない事柄なの、鴨。

而して、マスメディアは準権力でもある反面、マスメディアが、例えば、新聞社が単なる私企業であり(更に言えば、株主構成比率からは多くの大新聞はついこの間まで同族経営の「家業」でしかなかったのであり)、TV局・ラジオ局は監督官庁から認可を受けた民間事業会社にすぎないことも事実。畢竟、新聞やTV、マスメディアは、毫も、現行憲法から準権力なるものとしての「正当性」を付与されてはいないということです。

敷衍すれば、マスメディアの準権力的の機能は、(国民個々の表現の自由の一斑でこそあれ、マスメディアの活動に対して当然のようには正当性を付与することはない)所謂「知る権利」の間接的/反射的な享受によってだけでは正当化されるものではないのです。では、マスメディアの準権力性とはどういう意味なのか、そして、マスメディアの恣意的な「権力の濫用」から国民はどうすればその健全な政治の営みを守護することができるのか。本稿ではこのことを少し考えて見たいと思います。


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◆「第4の権力」の強大な影響力と薄弱な正当性
4年三ヵ月前のこと。2007年9月12日午後2時、安倍首相が退陣表明を行いました。その痛々しい記者会見を想起するとき、この社会におけるマスメディアの強大な影響力を誰しも再確認できると思います。なぜならば、その退陣は、安倍政権の経世済民のパフォーマンスとは無縁の事柄が引き金となって起こったことだからです。

すなわち、安倍首相の退陣は、()閣僚の不適切ではあるが違法とは必ずしも言えない政治資金管理、ならびに、(a)(この社会の寄生虫「自治労-社会保険庁職員」の自爆テロ的な情報リークに端を発する、かつ(b)安倍政権どころかその前任者の小泉純一郎首相の政権ともはほとんど無関係な、)55年体制という名の社会主義体制下で惰眠を貪ってきた、そして、小泉首相がなぎ倒した「旧田中派-竹下派」が牛耳ってきた、小泉構造改革の洗礼前の歴代内閣が放置してきた杜撰な年金処理に遠因があるもの。而して、()安倍首相の退陣は、()()を切り口とした連日連夜のマスメディアのネガティブキャンペーンの結果であることもまた誰の目にも明らかでしたから。

もっとも、2007年7月29日の参議院選挙における自民党の地滑り的敗北の原因は、小泉構造改革が、(構造改革の更なる推進と地方再生の同時実現という一見トレードオフの関係にさえある、よって、より難易度の高い「両正面作戦」のフェーズ、謂わば、小泉構造改革の)その第二段階に移行しつつあることを看過した安倍首相の現状認識の甘さにも帰されるべきではあるでしょう。

もちろん、宰相の印綬を帯びてから<7・29>までちょうど10ヵ月、かつ、都市有権者を中心に小泉改革への支持がいまだ衰えていなかった当時の状況下では5年有余に渡る前政権の路線変更に着手することなど現実的には不可能だった、鴨。しかし、ならばこそ、首班指名から参院選までの10ヵ月、安倍首相は、安倍内閣が次に着手する経済政策の要諦が「構造改革の更なる推進と地方再生の同時実現」である旨を周到に、かつ、繰り返し繰り返し有権者国民にアピールすべきだった。要は、最早、誰の目にも政権交代の実現が確実になっていた、2008年-2009年に麻生総理が行ったことをその2年前に着手すべきだったということです。閑話休題。


ことほど左様に、マスメディアの影響力は強大である。蓋し、マスメディアの影響力の源泉は、①同時大量情報伝達の機能と、②その機能に憑依するなにがしかの正当性ではないでしょうか。

同時に(not "on demand" but "on time")すべての日本国民に向けて(否、支那・韓国・北朝鮮の特定アジア諸国にも、そして、元来、東アジアにはほとんど何の予備知識や関心も興味も持ちあわせていない欧米に対しても)情報伝達できる<能力>、ならびに、権力から独立した立場から収集分析されたと称する「正しい情報」をマスメディアは伝えているという<幻想>こそが、「準権力=第4の権力」の源泉であろうと私は考えています。

繰り返しますけれども、「国民の知る権利」と並んで、権力から中立公平な立場から客観的に「権力を監視するジャーナリズム」という<イメージ>がマスメディアの影響力の源泉ではなかろうか、と。けれども、マスメディアに関するこのイメージは真理を含んだ妥当なものなのでしょうか。あるいは、マスメディアに対する取材・報道の規制は現行憲法に違反する「権力=司法権を除く非第4の権力」(=行政府・立法府)の暴挙なのでしょうか。


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◆「第4の権力」の正当性の根拠としての「権力の監視」
私は、基本的に、なでしこジャパンの試合とキムヨナ姫の演技以外TVは見ませんし、日本の新聞は読みません。日本のマスメディアとのこういうかなり特殊な接し方をしているからでしょうか、それでも時々は目にしないではない日本のマスメディアの報道には慄然とさせられています。

もちろん、アメリカのNew York TimesやWashington Postも、フランスのル・モンドも「反共和党政権の世論操作」「アメリカ批判の世論操作」に血道を上げているという点では酷い代物ではある。しかし、これら欧米の「アサヒ」や「エヌエッチケイ」と日本の朝日新聞やNHKとの違いは、(所謂「従軍慰安婦」なるものの捏造や、教科書検定を巡る「侵略→進出」の書き変え報道等々、朝日新聞のように嘘を記事にすることがほとんどないことは当然として、)欧米のマスメディアは政党の支持不支持の立場を明確にしており、要は、その信奉するイデオロギーの旗幟を鮮明にしていること。よって、「公平中立」なるものを標榜しながらも、実際にはある特定のイデオロギーを流布するといった破廉恥なことはあまりしないことです。

蓋し、NYTやWPSTが2008年の大統領選挙でオバマ支持を明確にしたことでも明らかなように、ジャーナリズムの使命の一つは「権力の監視」ではあるが、「権力の監視」は必ずしも「反権力」と同義ではない。すなわち、現政権とその政策を支持しつつ権力行使の不手際や行き過ぎをチェックすることもまた「権力の監視」であることを十分に欧米のジャーナリズムやメディアはわきまえている。と、あくまでも日本の朝日新聞やNHKとの比較の観点、すなわち、あくまでも相対的な意味においてではありますが、(もちろん、ここに「隣の芝生」の嫌いが皆無とは言いませんけれども)一応はそう言えると思います。

もっとも、例えば、「南京大虐殺」なる御伽噺、若しくは、空中楼閣の所謂「従軍慰安婦」問題、または、首相の靖国神社参拝や捕鯨を巡る彼等の粗雑で歪な記事の論調を想起すれば明らかなように、NYTにせよWPSTにせよTimeにせよ本質的に東アジア地域への関心は薄い。つまり、それらの記者も、まして、その大部分の読者も東アジアの歴史と文化に疎く、あまり、関心も興味も持っていないことを我々日本国民は認識しておくべきでしょうけれども。閑話休題。


畢竟、(1)社会生活の隅々にまで行政のサービスが行き渡っている現在の福祉国家に、また、(2)極一握りの狂信的なカルト集団が当時世界第2位の経済大国の首都の地下鉄で化学兵器を使用可能な、または、当時世界唯一の超大国の経済覇権の象徴であった高層のツインタワービルに対して民間旅客機による自爆テロを(イスラーム世界でもそう広範な支持を集めているとはとても言えない程度の)テロリスト集団が敢行できるような、要は、科学技術とロジスティクスの<流通>がグローバル化している現在の世界に我々は現在生きています。而して、そのような時代の世界において/そんな世界の中の日本において、(3)そのような時代の世界の日本の社会にビルトインされてしまっているマスメディアが、土台、中立などでありうるのでしょうか


すなわち、(1’)福祉国家における行政権の肥大化の趨勢の中で(蓋し、サッチャーリズム・レーガノミックス以降の「小さな政府」を求める新自由主義的の主張でさえ、この行政権の肥大という全体的な趨勢の地の表層に描かれた微修正的の図柄にすぎないでしょう?)、かつ、(2’)最早、(近代主権国家成立期に、キリスト教会・ギルド組織・地方領主等々が国家権力に粉砕解体されるに伴って、漸次、人権を侵害可能な程の社会的実力が独り国家権力に収斂して以降始めて)人の生命・財産・身体・名誉・人格・運命を抑圧制約、侵害蹂躙することが可能な社会的実力が国家権力だけではなく多様な社会集団に再度拡散している現在、(3’)政権や政策に中立・公平なマスメディアによる客観的報道なるものは可能でしょうか。

蓋し、マスメディアの報道自体が現在の社会では「中立」などではありえない。ならば、ジャーナリズムの「権力監視」機能を媒介にした「第4の権力」なるものとしての正当化は、現代の大衆民主主義社会では、最早、成立しえないの、鴨。そう私は考えます。

他方、民主主義社会では「権力には義務が伴う」。また、「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」。もし、これらの箴言が何ほどか正しい内容を含むとするならば、現在は、(甲)それが「準権力的の影響力」を行使する上での根拠と考えられる正当性をマスメディアから剥ぎ取るとともに、(乙)マスメディアに対する、白黒はっきり言えば、マスメディアの報道内容に対する公的な規制の導入もまた社会的に要求されている時代ではないだろうかとも、私は考えるのです。

現代社会では、最早、(甲’)マスメディアは中立でも公平でもありえず、他方、(乙’)マスメディアが「第4の権力」と称される影響力を保持している以上、マスメディアには適切な規制が施されなければならない。これは「権力は腐敗する」という経験則からは当然のことではなかということです。


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◆マスメディア規制と国営放送の必要性
マスメディアの規制を求める主張に対しては、常々、「民主主義の前提条件とも言うべき国民の知る権利」が政治権力に操作され抑圧される危険が反論の論拠として主張されています。而して、マスメディアの規制に関しては「ジャーナリストとしてのモラル」を共有する、マスメディアコミュニティーメンバーによる自己規制が妥当であるとも。而して、この点は、アメリカでも、「New York Times Co. v. Sullivan, 376 U.S. 254 (1964)」の如く、政治に関わる報道については、それを規制・制約する/萎縮させる諸法規には合憲性の推定が働かないこと。よって、例えば、名誉毀損等の違法性を当該の報道が帯びるかどうかは、報道したマスメディア側に故意や重大な過失という「悪意」の存在が個別具体的に立証されない限り報道の制約は許されないという連邦最高裁の判例が確定しているのです。

蓋し、論外でしょう。<権力>のチェックと抑制をその<権力>を行使するメンバーのモラルに期待するなどは、近代憲法の原理原則からは問題外の外とも言うべき戯言でしょうから。加之、最早、巨大な一個の権力に他ならないマスメディアを一人の単なる地方政治家よりも優遇する理由もまた存在しないのではないでしょうか(よって、例えば、「New York Times Co. v. Sullivan」が確立した法理も、少なくとも、報道被害を被った側である原告のカテゴリーによる、「合憲性の推定」から「違憲性の推定」に跨がる原告救済の難易度の再配分が必要ではないかと思います)。

もちろん、「高貴に付随する聖なる義務:Noblesse Oblige」を持ち出すまでもなく、権力の保持者にはより高いモラルが求められることは自明ではありましょう。けれども、(a)権力への懐疑に起因する、(b)権力を抑制する制度の憲法秩序への繰り込みこそ、(c)近代的意味の憲法の真髄。而して、(a)~(c)は旧憲法と現行憲法を貫く我が国の立憲主義的な憲法秩序と立憲政治的な伝統の根幹ではないでしょうか。

ならば、マスメディアが<権力>として存在している現在では、マスメディアに対する規制は、憲法の要請でこそあれ、憲法に毫も反するものではないのではないはずでしょう。畢竟、性善説と立憲主義は不倶戴天の関係とまで言い切る自信はありませんけれど、間違いなく、性善説と立憲主義は無縁なのでしょうから。

性善説と立憲主義は無縁。すなわち、同じ業界内や同じ組織内のメンバーのモラルに期待した「自主規制による権力の監視」では不十分であり規制が希求されている。「第4の権力」を分有するマスメディア間の相互監視、あるいは、新規参入者の脅威による自主規制の機能強化もまた非現実的だろうからです。

後者に絞って敷衍すれば、それ自体が寡占的な許認可事業会社であるTV・ラジオはもとより、寡占的な全国紙、および、共同通信・時事通信の情報配信機能の寡占状況を媒介とした有力地方紙の寡占体制が確立している日本のマスメディア市場は所謂「自然独占」とも言うべき状態でしょう。而して、(ネットが大きな力を持ちつつある現在、更に、有力メディアがネットに駆逐されている節もなきにしも非ずの欧米の情勢を鑑みるに、日本でもそのような「自然独占」状態が未来永劫続くとは言えないものの)マスメディアが供給する商品、すなわち、情報の品質とコスト面における競争によって最適な資源の配分が実現することは期待できず、所謂「市場の失敗」は日本のマスメディアの市場においては不可避と私は考えるのです。閑話休題。


畢竟、現在、就中、日本においてこそマスメディア規制の立法が求められている。他方、マスメディアの情報伝達機能が国際的な広がりをとっくに具現している現在、歴代の政権が組み立て編み上げてきた、謂わば普通名詞の「日本政府」の主張、あるいは、固有名詞としての「時の政権」の意向をバイアスなく世界に伝えるメディアの必要性も、逆説的に大きくなっているの、鴨。要は、左翼・リベラル派が垂れ流す反日的な情報が多ければ(それが嘘でも)諸外国の人々がイメージする日本と、普通名詞および固有名詞双方の日本政府の主張や意図は、朝日新聞やNHKといった反日勢力の発信する情報によって主に形ち作られることは火を見るより明らかでしょうから。

蓋し、所謂「従軍慰安婦」なるものが存在したという誤謬や、韓国発の願望まみれの妄想たる「竹島=韓国の固有の領土」および「not 日本海, but 東海」などの主張が欧米でそれなりの浸透を見せている遺憾な現状を鑑みるに、普通名詞および固有名詞双方の日本政府の主張や認識を正確に代弁するマスメディアの必要性はあながち暴論ではないと思います。畢竟、「公益放送」なる鵺的なNHKではなく端的な「国営放送」が必要ではないかということです。

国営放送や国営新聞社の創出。これに対しては、そんな、「政府直属の放送局がする御用報道を誰が信じるというのか」という否定的な意見も寄せられる、鴨。しかし、(自然独占による寡占状態であるにせよ、外国のプレーヤーも面子として数えることが許されれば、確実に)マスメディアのマーケットには複数のプレーヤーが存在しているのです。ならば、「国営放送」が報道する情報の品質は競争によって担保されると思うのです。要は、21世紀の今時「大本営発表」はどの国のどんな独裁者でも実質的に不可能ということです。

他方、国営放送の報道が、もし、「大本営発表」もどきの(生き馬の目を抜く国際政治の舞台で、「頭隠して尻隠さず」的の)シュールな滑稽劇を演じるとしても、それにはそれなりの意味があるの、鴨。皮肉でも自暴自棄でもなくそう思わないでもありません。

なぜならば、例えば、支那の新華社や人民日報、旧ソ連のプラウダやイズベスチアと同様、その報道の真偽とは別に、国営放送の報道はその国営放送が属する当該の国の現政権の主張や認識を(その報道内容が虚偽であれ、「その国の現政権は、諸外国や当該国の国民に、その報道が扱う事態に関してはどう思って欲しいと考えているのか」ということを)理解する上では意味があるから。ならば、(北朝鮮の拉致被害者に向けた国際放送の継続が資金難から危ぶまれているというニュースを耳にする)日本においては、なおさら、国営放送の設立は国益の維持確保のために真面目な検討事項だと思います。

畢竟、報道は適切に規制されるべきであり、日本政府の「国営放送」が構築されなければならない。ネットの影響力がマスメディアを激変させつつある現下の状況下で、取材活動の便宜や知的財産の適切な運用を中心としたブロガーの優遇と共に「第4の権力」の赤裸々な世論操作から日本の民主主義を守るにはこれらの施策が必要でないはずがない。而して、その施策は原理的には憲法に違反するものではなく、具体的なケースに際しても、憲法に違反しない施策や方途は幾らでも考案可能ではないか。ならば、我々はその施策の具体化に向かうべきではなかろうか。私はそう考えています。


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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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