定義集-「歴史」




◇歴史:history, histoire, Geshichte



(1)語源から歴史を考える
歴史とは過去の事実ではありません。ゆえに、歴史的とか歴史学的とは過去の事実の帯びる性質という意味ではあり得ません。歴史とは<現在>の<私>から見た過去の事態であり、畢竟、過去の出来事に関する<現在>の<私>の意識の内容が歴史に他ならないと思います。而して、歴史とは<私>が他者たる私に語りかける物語であるとも。

「歴史」とは「物語」である。少なくとも、
「歴史」と「物語」は深い関係にある。


物語としての歴史。この経緯は、英語やフランス語の「歴史」を意味する語彙が「物語」を意味する語彙から派生していることからも明らかだと思います。"Histoire d’O"『O嬢の物語』であると同時に『O嬢の歴史』でもある。ドイツ語では、「歴史=Geshichte」は動詞geschehen(ある事柄が起こる)から派生したとされるから、些か事情は異なるけれど、現在、Geshichteが「歴史」と「物語」の両方の語義を持つに至っていることは英仏両語の場合と同じです。ならば、我田引水的な理解かもしれませんが(根拠は全くありませんが)、ドイツ語でも「起こった(zu geschehen)出来事を書きしるしたもの」を人々は「歴史=Geshichte」と感じていたの、鴨。そう私は思っています。

歴史とは生起した事柄を描いた物語



歴史とは単なる事実的のレポートではない。それは、人に人生の指針を与える物語。英仏語の「歴史」という言葉の源流がそれを示しているように思います。なぜならば、ギリシア語で「歴史」を意味する言葉はもともと「調査や研究」を意味するヒストリア、この言葉の前身はヒストールと言いました。そして、ヒストールとは「知恵者」を意味していたのですから。

つまり、物事の「理:kotowari」をよく知っていて、そいでもって、その知識に基づいて人々に人生のアドバイスができる人のことをギリシアではヒストールと呼んでいたのでしょうからね。ヒストリア(調査や研究)はヒストールの使う技の一つに他ならなかった、と。

古代の支那でも(★)、原始儒教の人々は「史」という言葉を、過去の事例や人と人の関係の取り結び方に関する知恵、すなわち、礼をよく知っている識者の意味で用いたそうです。地球三分の1周分の距離を隔てて、古代ギリシアでも古代の支那でも「歴史」という言葉は客観的な事実の記載や記載された記録の語義を超えて、「人に人生をより良く、かつ、より善く生きるために有用な指針を与える物語」という意味を持っていたということ。これ凄くないですか。

歴史とは人々に行動の指針を与えるような物語



歴史とは物語である。それは、客観的な事実のレポートにとどまらない物語である。繰り返しになりますけれども、歴史は人々に人生の指針を与える物語、人々に「自分は何者であり、この世に何をするために生まれてきたのか」を教え諭す物語だった。よって、この「歴史」の語義から言えば、「日本の歴史」とは「日本人の物語」であり、現在の日本人が先人の行いを知る中で自己のアイデンティティーとプライドとを獲得するための物語ということになりましょう。語源の探索からは歴史についてこう理解することもできるということ。ならば、近現代の国際政治の同じ事件を描くにせよ、日本人の書く歴史と韓国人の書く歴史が、日本人が記述する歴史とアメリカ人が記述する歴史や支那人が記述する歴史が、しばしば相互に異なることは、蓋し、当然のことなの、鴨。

尚、弊ブログのこの「定義集」コーナーでする、ある言葉の<定義>については、
要は、「定義の定義」につきましては下記拙稿をご参照ください。

・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11142140756.html


★註:古代支那の人々の実像
ここでは遅くとも春秋期の支那を想定しています。紀元前8世紀から5世紀の支那。今から2800年から2500年前の支那の地と支那で生きた人々のこと。而して、DNA的には、当時の「中国人」は、現在の「漢民族」とは全く異なり、現在の中央アジアというか西域系の人々(寧ろ、現在のヨーロッパの人々)に近い人間集団だったとも言われています(斉藤成也「DNAから見た日本人」ちくま新書・2005年3月、130-131頁参照)。そう考えれば、古代のギリシアと古代の支那との間で「歴史」に関して共通な語義が観察されるのも、あるいは、不思議ではないのかもしれません。

なにしろ、「中国語」の文法、就中、語の配列ルールたる統辞法は、ご存知のように「S→V→O」型であり、日本語や韓国語とは異なり印欧語に親しいものですからね。もっとも、印欧語でも、例えば、英語でもノールマンコンクエスト以前の古英語期までは「S→O→V」型の構文も普通ではないが希ではなかったのですから、この最後の言語からの「中国語=印欧語」説は、根拠がそう確かなものとは言えませんけれども。



(2)認識論から歴史を考える
同じアメリカ史でも、ネーティブアメリカンやアフロ系アメリカ人とヨーロッパからの入植者を祖先とする現在のマジョリティーが構想する「アメリカ史」は全く別物であって不思議はない。では、100人の日本人がいれば100通りの「日本の歴史」が成立するしかないのでしょうか? 俗流のポスト構造主義や素人理解の価値相対主義がしばしば喧伝するように、「学問的な正しさにおいて総ての歴史認識の間には優劣の差は存在しない」のでしょうか? その答えは、「Yes/No」。そう私は考えます。

歴史は物語であるが小説ではないです。厳密に言えば、「歴史は単なる小説ではない」。定型詩と自由詩の喩えを使えば、歴史の著述には幾つか守らなければならない規則が存在するから。而して、その規則とは言うまでもなく、

()事実を踏まえることであり
()現在の自分の目線で過去の人々の感情なり情念を忖度してはならないこと


でしょう。もっとも、誰しも自分に憑依しているイデオロギーからは自由になどなれないでしょうが、そのイデオロギーを自覚して、かつ、読者に対しても自分がどんなイデオロギーに染まっているのかを公表することは、歴史を巡って生産的議論を可能にするための最低限のマナーではないかと思います。

歴史の記述とは定型詩の創作



歴史に「客観性」などは存在しません。簡単な話です。(α)事実を調べ記述すること。「いつ・どこで・誰が・どれくらい・何をしたか」を調べ、事件と事件との間の因果関係を記述することに限れば、史料発見や資料批判の難しさは置いておくとしても、100人が100人納得せざるをえない歴史の記述は可能でしょう。例えば、1937年12月13日から1938年2月末までの間に南京城内で日本軍によってどれくらいの非戦闘員たる支那市民が殺傷されたかを調べることは(政治がからむ難しさは別にして学問の手続きからは)、不可能なこととは思われません。しかし、(β)事実的な因果関係を超えてその事件に歴史的評価を下す段になると100人全員を納得させることは俄然難しくなる。と言いますか、哲学の認識論・社会科学方法論からはそれは、原理的に不可能なタスクだから(★)。

実は、歴史叙述が日常の言葉で行われる限り、「いつ・どこで・誰が・どれくらい・何をしたか」を調べ事実的な因果関係を記述することさえそう容易いことではない。「帝国主義」や「開発独裁」、「植民地」や「侵略」、「民族」や「国際社会」などの言葉はそれ自体の中に論者それぞれの価値観が内包されており、これらのタームを使って歴史を記述する場合には、実は、100人が100様の歴史のイメージを抱いているかもしれないのですから。而して、この言葉と価値を巡る悩ましくも艶っぽい経緯は、「帝国主義」や「資本主義世界システム」、「主権国家」や「民族」等々のおどろおどろしい歴史学プロパー的の用語のみならず、実は、あらゆる日常の言葉、すなわち、日常言語に纏わり付いている事柄であろうと思います(★)。

実際、所謂「従軍慰安婦」なるものの存在を主張する人々が今でもいることがこの経緯を端的に表しているの、鴨。(a)そのビジネスモデルに組み込まれるに際しての強制の存否は看過して、単に、(b)日本軍兵士に対する性的接待ビジネスに従事していた、(c)非日本人かつ(d)非経営者の女性を「従軍慰安婦」と呼ぶ論者にとっては、間違いなく「従軍慰安婦の存在」は歴史的事実なのでしょうから。もっとも、そのような女性を、世界や世間では普通、利幅の大きい戦地周辺で活動する、単なる「売春婦」さんと呼ぶことは言うまでもありませんけれども。このポイントについては下記拙稿をご参照ください。

・「従軍慰安婦」問題-完封マニュアル(上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11137268693.html


畢竟、誰もが認めざるをえないような、いつでもどこでも正しい歴史認識などは成立しない。しかし、多くの人が認めざるをえず当分の間は正しいとされる歴史に関する認識は構築可能でしょう。換言すれば、歴史に客観性は成立し得ないが、間主観性は成立し得るということ。この点、E・H・カーは『歴史とは何か』の中でこう語っています(cf. 岩波新書版, p.178)。

Objectivity in history --- if we are still to use the conventional term --- cannot be an objectivity of fact, but only relation, of the relation between fact and interpretation, between past, present, and future.

(歴史における客観性は(ここでもまだ、この伝統的な用語を使い続けるとすれば)、事実の客観性ではなく関係性なのです。歴史における客観性とは、事実と解釈との関係の客観性、過去と現在と未来との間の関係の客観性なのです)



けれども、その間主観性の<神通力>の及ぶ範囲にも自ずと限りがある。白黒はっきり言えば、(そこに一定程度の利害の一致が見込めない限り、具体的には、大東亜戦争の後、70年近く日米同盟が持続してきたこと、他方、日本の民主党政権の拙劣な外交によって僅か1年足らずでその日米同盟の紐帯が危うくなったことを想起すれば、誰しも思い半ばを過ぎるの感を覚えることでしょうが)、国家や民族やエスニックグループを跨いでの間主観性の成立は難しい/成立は可能としてもその持続には天助と併せてそれをメンテナンスするための膨大な努力が不可欠である。と、私は諦観しています。

而して、「学問的な正しさにおいて総ての歴史認識の間には優劣の差は存在しない」すなわち「100人の日本人がいれば100通りの「日本の歴史」が成立する」という主張は、客観性は成立不可能ととしても、間主観性は成立可能であることから間違いとも言えるけれどが(No)、ある程度以上の学的水準を満たした複数の歴史認識が同時に、かつ、同程度の科学方法論的な正しさを帯びながら成立する可能性は高いということから、「学問的な正しさにおいて総ての歴史認識の間には優劣の差は存在しない」という主張は満更間違いとも言えないのです(Yes)。


尚、言葉の多義性、否、重層性、ならびに、そのような重層性を帯びた用語を用いてなされるしかない歴史認識の「正しさ」とは一体いかなるものか。本稿の理路から派生するこのイシューについての私の基本的な考えについては、取りあえず下記拙稿をご参照ください。

・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11135295321.html

・「天皇制」という用語は使うべきではない」という主張の無根拠性について(補論)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11135298076.html


・『平清盛』における「王家」という用語の使用に対する批判への疑問
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60981201.html

・資料★大河ドラマ「平清盛」における「王家」をめぐって
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60981759.html


★註:客観性の不可能性

現在の分析哲学の認識論(科学方法論)、および、トマス・クーンのパラダイム論の洗礼を受けて以降の知識社会学的の観点からは、「歴史」どころか「法解釈学」どころか、自然科学にも数学にも「客観性」などは土台存在しません。否、「客観性」自体が成立しない。成立するのはあくまでも「間主観性」でしかない。と、そう言えるのですが、本稿ではこの哲学の認識論プロパーの説明は割愛させていただきます。

★註:勝者の歴史さえも一元的ではない
しばしば、「歴史は勝者が作る」と語られます。歴史は一面的なものである、と。ここで、「敗者の伝承」、例えば、ネーティブアメリカンやゲールの伝承、日本では「白鳥伝説」や「諏訪神社縁起」のように、伝説や口承説話の形で敗者の語る歴史が連綿と後世に伝えられることも稀ではない事情は捨象するとしても、しかし、勝者の記述する歴史さえも(日常言語の持つ奔放な意味の広がりやその意味の可変性を考えれば)、到底一元的なものではありえないのです。



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(3)結語
歴史は常に書き換えられる。なぜならば、(a)歴史認識においては過去の人々の目線から、より正確には、過去の人々の目線と想定するものから、その当時の事件を理解すべきではあるのでしょうが(そうでなければ、それは単なるSF風歴史小説か朝日新聞流の空想詐術社説に過ぎないでしょう。)、他方、(b)日々新しい資料・文献、統計分析結果が「発見」されるのみならず、(c)歴史の認識は、現在に生きる<我々>の行動の指針になるべき物語に他ならず、そして、(d)現在の「現在」は常に次の瞬間には「過去」になってしまうでしょうからから(要は、数学の集合論に比喩を用いさせていただければ、「現在」は常に同時に新しく生成されている、間違いなく無数の、おそらく、最低でも自然数の集合の濃度と同じ程度の濃度を持つ集合の要素に他ならないのでしょうから)。

要は、過去のある一点を見据える真摯な営みと、時代とともに歴史家の観察の視点が変化移動することとはなんら矛盾するものではないのです。否、寧ろ、常に新しい今を生きるために、<我々>は、常に歴史を書き換えなければならないとさえ言える。ならば、数多の出版社から、児童書や新書・文庫を含めればほとんど毎年『日本の歴史』シリーズが出版されるのも、満更、社会科学方法論のこの観点からは理不尽なことでもないということ、鴨(笑)。

再度記します。ことほど左様に、例えば、韓国と支那と日本の歴史認識が各々異なるのは当然なのです。そして、韓国なり支那が、歴史を認識する上での基本的な手続きを踏んでいる限り(定型詩のルールを守っている限り)、彼等の歴史が我々の歴史と異なろうともそれは非難されるべきことではない。他方、この経緯は我々の日本の歴史認識も、それがルールを遵守している限り彼等特定アジア諸国から非難される筋合いが毫もないこととパラレルなのです。

畢竟、歴史の認識とは、個々の事例を通して普遍を見る営為なのでしょう。敷衍すれば、過去の一回きりの出来事(個物)を記述して、次に、それを普遍的な言葉で表現して理解することが歴史的の認識ということ。例えば、アヘン戦争や日清戦争や米西戦争の個々の事実を調べ記述した上で、次にそれらを「帝国主義戦争」という概念で理解して初めて、それら個々の戦争の持つ世界史的な意味をつかむことができるということです。

しかし、歴史の認識は、個物を通した普遍的な認識の獲得という地点で終わることはない。すなわち、歴史とは「普遍と個物」の間で永久に繰り返される思索のピストン運動、否、円環運動、否、無限に螺旋階段を登る/降りる営みでもあろう。と、そう私は考えます。

蓋し、個物を通した普遍的な認識の獲得の作業の後に、あるいは、その作業のプロセスの中で、常に同時に、その普遍的な概念から漏れ落ちる個々の事件の特殊性を更に調べることを通して、順次、かつ、漸次、普遍的な概念自体の意味内容も変容するだろうということ。すなわち、歴史が人生をよりよく生きるための「知恵:ヒストール」の具現である限りこの過程、

個物認識→普遍的な概念からの個物の理解→普遍的概念の意味の変容→
個物の再認識→普遍的な概念からの個物の再度の理解→普遍的概念の意味の再度の変容→・・・



このプロセスは永久に繰り返されるのだと思います。上述の事例を使えば、西洋列国の帝国主義戦争に比べ我が日本帝国主義の植民地支配がどのような特徴を持っていたかを調べ、台湾および朝鮮半島における日本の植民地経営のすばらしさを復元することを通して、「帝国主義」と「帝国主義戦争」の多様な姿を描き出すこと、更に、その個々の帝国主義諸国の軍事行動や植民地支配をもう一度再度鳥瞰して、新しい「帝国主義」と「帝国主義戦争」の概念を再構築すること。このような常に恒常的な再構築のプロセスこそが歴史認識の作業に他ならないということです。

ならば、奔放で浮気性で、豊饒でじゃじゃ馬のような日常の言葉、つまり、日常言語を使いながら、(新カント派と分析哲学、現象学と現代解釈学といった)現代の社会科学方法論に基盤を置く歴史叙述のマナーを遵守して書かれ編み上げられる、国家と民族の<物語>、国家と民族にアイデンティティーとプライドを供給して、国家と民族に「より良く、かつ、より善く活動できるための有用な指針を与える物語」こそが「歴史」というものではないか。と、そう私は考えます。

尚、本稿で提示した「歴史」概念を踏まえた場合、いかなる歴史学方法論が採用されるべきかということ。この点に関しては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・左翼にもわかる歴史学方法論☆沖縄「集団自決」を思索の縦糸にして
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60420308.html



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