民主党政権とは何だったのか




民主党政権の瓦解、あるいは、民主党の消滅は最早秒読み段階に入ったと言えると思います。而して、そのような現在の段階で、「2009年の政権交代」の意味、すなわち、その事態に至るプロセスで、自民党一党支配体制の負の側面が露呈するとともに、その自民党政権が自滅した中で起こった「民主党政権発足-大東亜戦争後初の実質的な政権交代」がどのような社会的と歴史的な構図を背景にしていたのか、民主党政権によるこの国の国力の低下と社会機能の劣化という<歴史の教訓>を無駄にしないためにもこのことを、その民主党政権の黄昏がいよいよ深くなってきた今考えておきたいと思います。

民主党政権とは何だったのか。

この問いに答えることはそう難しくないのではいでしょうか。畢竟、民主党政権の誕生とは、<政治>に期待すべくもない過大なクレーム(要求)を掲げた、自民党に比べるまでもなく力量的に極めて拙劣な政治勢力が政権を奪取したものに他ならない。そして、その悲惨な結果は最早「ヒストリー=周知の事実」であろうと。

◎民主党政権誕生の意味
現実的に<政治>が実現不可能な要求を
現実の政治において極めて拙劣な政党が実現を約束して
政権を奪取した日本と世界の悲劇 


カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(1852年-1869年)の劈頭では「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現われる、と言っている。ただ彼は、「最初は悲劇として二度目は喜劇として」とつけ加えるのを忘れた」と書いていますが、今後、第二の<民主党政権誕生の喜劇>を阻止するために日本国民はどのような社会に対する理解、すなわち、社会思想を獲得しておくべきなのか。このことに答えることは実はそう簡単ではないのではないか。

少なくとも、その喜劇を阻止するためには、「民主党政権の誕生-自民党体制の崩壊」という現象を思想的に反芻しておく必要がある。要は、<8・30政権交代>という歴史的事実を惹起せしめた、この社会を覆っていた国家観や社会観を言葉化しておく必要があるだろう。と、そう私は考えるのです。


◆政治の外在的限界

民主党政権誕生の意味と意義。すなわち、自民党体制崩壊の背景と構図。このことを敷衍しておきます。

畢竟、民主党政権の誕生は民主党の勝利ではなく自民党の敗北であった。人口に膾炙して久しいこの認識を前提にする場合、たしかに、末期の自民党政権は、体制を支える「政官財+労組」のしがらみ、そして、「中央と地方の澱んだしかしなにほどか平和的共存的な関係」に絡め取られるあまり、<政治>に国民が期待しうるsomethingの少なからずに手をつけることができないでいたと言える。

それは、逆に、単に郵政民営化に代表されるわずかばかりの公的サービス領域の民間移動にすぎなかった小泉構造改革が「新自由主義原理主義による既存秩序の破壊」などと喧伝されたことを想起すれば明らかではないでしょうか。蓋し、自民党政権の末期は<政治>に国民が期待してもよい事柄を政治に練達する集団がネグレクトしていた体制であり、繰り返しますが、民主党政権とは<政治>に国民が期待すべくもない事柄をあたかも実現可能であると政治の素人集団が標榜して政権を奪取したものと言える。而して、両者はベクトルの向きこそ異なるものの、<政治>に期待できること期待すべきことの内容を看過していた点では同病の宿主であったの、鴨。そう私は総括しています。

ならば、<政治>に国民が期待すべきこと期待してもよいこととは何でしょうか。これまた人口に膾炙している手垢のついた言葉で言うしかないのですけれども、

それは、①グローバル化の昂進著しい、よって、日本国や米国、支那や北朝鮮を含むあらゆる主権国家の権限と権威が蚕食され漸減している状況下で、②当該の国家社会の安寧秩序を確保するためには(就中、1973年以降の数次に亘るオイルショックを経るプロセスで)あらゆる主権国家が福祉国家化を目指さざる得ないこと、③大衆民主主義社会を現下の<政治>は前提にしていることから演繹帰納できるのだと思います。


ホッブスは近代の主権国家を「可死の神」(確かに、それが滅びることはあり得るとしても、それが存在する限り、他国に対しては対等の、他方、その領土内ではその国民に対して最高独立の万能の権威を保持する存在)と規定しましたが、現在、唯一の超大国であったアメリカの影響力の限界を想起するまでもなく、すべての国家の能力には限界がある。そして、重要なことは、国家のその能力はグローバル化の昂進の中で人類が獲得している物理的能力の総体が加速度的に増大していることに反比例して加速度的に縮小していると言うべきことではないか。

蓋し、戦後のケインズ政策の流行と、1973年のオイルショック以降の財政出動による国家予算の肥大、逆に言えば、(リベラル派からは「新自由主義=自由至上主義」と位置づけられる、かのサッチャー政権やレーガン政権とその前後の政権、まして、小泉政権とその前後の政権の予算配分構成比の推移を反芻するとき)日米を問わずどの国でもどの政権でも財政規模拡大とともに予算再分配のフリーハンドの余地が極めてタイトになっている現状を見れば、「国家のその能力が加速度的に縮小している」こと、このことは思い半ばに過ぎるのではないでしょうか。


◆政治の内在的限界

近代の主権国家においては、国家権力には、よって、<政治>にはもう一つの限界が内在している。それは、国家にはその本性として社会統合の機能が要求されているにかかわらず、他方、近代の主権国家がその権力の正当性と正統性の基盤を極めて抽象的な「国民」概念に置いていることからくる、謂わば、「手を縛っておいて泳げ」と要求されているに等しい、国家権力の社会統合機能の限界です。

而して、(日本で語られるそれは世界的に見てかなり歪な理解であり、ドイツ憲法の運用を見るまでもなくフランスとアメリカを除く世界のほぼすべての国ではそれは「国家と宗教の分離」ではなく「社会的勢力である教会と国家権力の分離」を意味するに過ぎないとしても)政教分離原則とは近代の主権国家に課されているそのような限界の端的な顕現であろうと思います。

鰯の頭も信心から。しかし、他方、「宗教」という宗教は存在しない。この世に存在している宗教とはローマ・カトリックでありルター派であり、浄土真宗であり阿含宗である。要は、固有名詞の「宗教」を包含する普通名詞の「宗教」とは我々の観念の産物にすぎない。何を私は言いたいのか。それは、あらゆるものは宗教的観点から見られるならば宗教的であり、非宗教的に観察されればそれは単なる社会現象や経済現象や政治現象に過ぎないということです。而して、現在の国家に課されている非宗教性なるものの意味内容も実はそう明確で普遍的に妥当するものでもないということ。

敷衍すれば、現下の主権国家の場合、原則、その国家社会の正式メンバーであるか否かのメルクマールは国籍の有無に収斂する。ならば、その彼や彼女のDNAやエスニカルなバックグラウンド、まして、信仰や性的傾向性等々の個性は国民の要件にはなりえず、よって、例えば、日の丸や君が代に敬意を表させるとか、彼等の出身国や抱く信仰のイコンを文字通り「踏み絵」に使用する等々の、彼や彼女が日の丸や君が代に対していかなる感情を抱いているかに着目してなされる国家社会統合の施策はこれまた憲法論的に許されない。

けれども、他方、「国家」という国家は存在しない。例えば、この世に存在する国家とは支那でありアメリカであり英国であり、そして、我が日本である。要は、固有名詞の「国家」を包含する普通名詞の「国家」とは我々の観念の産物にすぎず、よって、ある国家権力がその国家社会統合においてその固有名詞の国家に特有の文化的と歴史的な諸アイテムを非宗教的に使用することに関しては憲法論的にも社会思想的にもなんら問題はない。

蓋し、(ナチスドイツの如くそれらを歴史的に特殊でありかつ民族に普遍的なもの、すなわち、実体概念として理解することは断乎拒否すべきであろうけれども)ヘーゲルの言う意味での「国家」や「絶対精神の歴史的顕現としての時代精神」とは実はそのような端的には非宗教的で現在の憲法論とも親和的な、固有名詞の国家に特有の文化的と歴史的な諸アイテムを包含しているのではないかと思います。

畢竟、ある国家がその国家社会形成の素材となった諸民族の歴史と文化に内在するsomethingを国家社会統合の施策に使用すること自体に問題はない。而して、現在では政教分離原則を踏みにじった逆切れ的言説として理解される向きも少なくない、大東亜戦争の戦前にこの社会で流布した「国家神道は宗教に非ず」というテーゼは満更40年体制をリードした国家社会主義的官僚の詭弁ではないのではないか。ここのとは、例えば、ローマ・カトリックが上智大学の学生教職員を含む日本のカトリック信者に対して、大東亜戦争の戦中、そのような非宗教的な神道儀式に参加することはその国の国民の義務であると明確に諭し、基本的に現在に至るまでその理解をバチカンは維持している経緯を反芻するとき、私にはそう思えるのです。

蓋し、このテーゼに悪乗りした右翼や朝日新聞等のマスメディアの言説は醜悪であったとしても、「国家神道は宗教に非ず」というテーゼは、その権力の正当性と正統性を維持するためには非宗教化せざるを得ない近代主権国家たる日本が、他方、近代主権国家の機能に対する本質的な要請としての社会統合機能のパフォーマンスを維持向上させようとする場合、実に優れた<解答>であったと言えるのではないか。

而して、民主党政権とは明治維新以降のそのような戦前戦後の政治の智恵を理解できなかった、まして、日本社会に歴史的に特殊な文化伝統の政治的価値など理解する素養を欠いていた、(かの偽ユダヤ人の言葉を借用すれば、「安心と水はただ」とばかりに国家社会の統合と対特定国アジア諸国&米国との関係の良好なる推移は与件であるとでも考えていたのでしょうか)端的に、国家権力に不可避的に要求されている社会統合の機能を放棄したネグレクト政権であったの、鴨。そう私は考えています。


◆小括
民主党政権の誕生は自民党の敗北であり、自民党は<政治>に対する国民の期待の変化に対応することを怠ったために敗れた。何度も繰り返しますが、私のこの理解が満更間違いではないとするならば、「民主党の勝利-自民党の敗北」とは、かって、物が乏しき時代に豊富な物資を廉価に提供して隆盛を誇ったダイエーが最後には「価格破壊ほど安くはない陳腐な品揃えの退屈な店」の集団となってマーケットから退場を余儀なくされた事例と通底している。あるいは、かって「巨人・大鵬・卵焼き」と称賛された読売ジャイアンツが、否、プロ野球自体がサッカー等々の興隆の前にone of themの存在になってしまった事例とも通底しているのではないか。畢竟、万物は流転する。

しかし、国破れて山河あり、そして、万事塞翁が馬。

ならば、<政治>という概念の指示対象が変化したとはいえ、現下の日本国民は民主党政権という悲劇の学習を通して、<政治>に期待できることとできないことがあることを体得したはずである。そう私は楽観しています。ならば、自民党は、内在的と外在的の両面で限界のある<政治>という概念を踏まえながら、かつ、恒常的に変化するその<政治>の具体的な意味内容を可能な限り十全に達成することを目指すしかない。

畢竟、ハンナ・アーレントが喝破したように、<政治>というものが人間にとって不可避的な事象である限り、また、民主党政権の再登場という二度目の喜劇を阻止するためには、有限なる<政治>と<人間存在>にとっては取り敢えずそれが唯一の道である。自民党の政権奪還を確信しつつそう私は考えています。

尚、政権交代の背景と自民党再生のための施策に関する私の基本的な考えについては、
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・稲田朋美氏を総裁にの声について考える
 -「真正保守」なるものは百害あって一利くらいのものでしょう
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139942597.html


・政権奪還の順路☆自民党に期待すること/期待すべきではないこと
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139938039.html



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