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<再論>世襲批判の批判的考察





民主党政権の退場が確実な現在、近いうちの解散総選挙を見据えてでしょうか、「民主党の負け幅=自民党の勝ち幅」を最少にする意図からか、現下の自民党総裁選挙を巡って「国会議員の世襲」批判がまた喧しくなってきているようです。曰く、「5人の総裁候補全員が世襲議員≒自民党は古い体質を払拭できていない」「国会議員の世襲は民主主義と相容れない」「政治家は家業ではない」等々。

而して、世襲制限をマニフェストに盛り込む民主党に対抗するためだったのか、3年前の2009年には自民党も党改革実行本部が世襲候補の立候補制限の素案を提示して、父祖と「同一選挙区」から出馬する候補者を次期衆院選から公認しない方針を決定しています。

けれど、非世襲の立候補が制限されているのでもない限り、元来、社会思想的には民主主義と世襲候補(hereditary candidates)は矛盾するものではない。また、世襲議員を輩出している<一族>やその後援者が「政治家を家業」と考えることは彼等の勝手であり、而して、「政治家=家業」の使命感と心意気から、彼等がその<家業>に誇りを持ち、日本のため地域のために尽すことは称賛されこそすれ他人からとやかく言われる筋合はないのではないでしょうか。否、むしろ、政治家の親族が、その父祖の地域から選挙に打って出ることは自然なこと。逆に、政治家の近親者が政治家になる道を制限することは現行憲法22条1項が定める「職業選択の自由」の明確な侵害であり、更には、同じく現行憲法14条が定める「法の下の平等」を逸脱する法律的には許されないことであろうと思います。

畢竟、世襲を法律で禁止するのはおそらく憲法違反。よって、自民党なり民主党がその内規の形での世襲制限に向かっていることは当然のことでしょう(尚、逆に、富山大学事件判決(最判昭和52年3月15日)や共産党袴田事件判決(最判昭和63年12月20日)等々を鑑みれば、この事例では所謂「部分社会の法理」、すなわち、自律的な規範を持つ団体内部の組織的決定には司法審査の権限は及ばないという法理が適用され、自民党なり民主党から公認を得られなかった世襲候補者がそれらの政党を訴えることは難しいと思いますけれども)。

ならば、政党内規による世襲制限は世襲候補の若やお嬢が「無所属で出馬するパワープレー」を誘発することは必定。而して、選挙後に有権者が選んだそれらの世襲無所属議員の入党を政党が拒めない限り、内規による世襲制限にはほとんどなんの意味もない。なぜならば、(もちろん、公認がもらえないばかりに落選する世襲候補もおられるでしょうが)世襲制限の眼目は、政党の公認があろうがなかろうが強固なその地盤によって容易く当選する無敵の世襲候補(an invincible hereditary candidate)の制限であったはずだからです。


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◆民主主義と世襲
誰を国会議員にするかを有権者が決める限り、社会思想的には「世襲批判」と「民主主義」にはほとんど何の関係もありません。すなわち、

(甲)民主主義とは社会の多数派の支配の意味であり、政治的紛争は最終的には社会の多数派の意志に従って解決されるべきだという主張のこと、そして、

(乙)民主主義はその前提として、当該の社会の構成メンバーの個々に価値の差がないことを(例えば、保守改革派の1票は3票にカウントされ、反日リベラルの1票は0.5票にカウントされるということは残念ながらないことを)その主張に含んでいるだろう。けれども、

(丙)社会構成メンバーの等価値性は、政治的紛争を解決する決断に正当性を持たせるための<権威の所在≒主権の所在>を明らかにする論理でしかなく、(多数派と少数派を合算した)現実具体的な社会の全構成員の意志を誰がどのように代表するかという場面では、その社会で正当と考えられる範囲で選挙権を与えられた有権者集団の意志が直接に反映されている限り、それを国民代表(=国会議員)が代表しようが国王(=天皇)が代表しようがそれは民主主義の現象形態の差にすぎない。ならば、その国民代表(=国会議員)が世襲候補であったか非世襲候補であったかなどは民主主義とは全く無縁な事柄である、と。



尚、この議論に関しては、所謂「ナシオン」主権論と所謂「ピープル」主権論、すなわち、当該社会のメンバーを観念的な「全国民」なる表象として理解するか、それとも現実に「選挙権を持つ有権者の総体」として理解するのか、而して、現行憲法にいう「主権者たる国民」とはこれらのいずれなのかという昔懐かしい議論は上記(甲)~(丙)の理路とは位相を異にしておりいずれの主権論を採用しようともその理路とは矛盾しない。そう私は理解しています。

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蓋し、この民主主義と世襲を巡る理解を踏まえた上で言わせていただくならば、「政治家が家業」であっても全く構わない、否、閣僚はともかく首相は選挙に思い煩う必要が比較的少ない、よって、利権の維持獲得に汲々とする必要の比較的少ない世襲議員、就中、子供の頃から高い使命感を持って育った(所謂「烏帽子親子関係」も緩やかに含め)元総理の3親等くらいの世襲議員に、近衛・九条・二条・一条・鷹司の藤原の摂関家制度とパラレルに限定すべきとさえ私は考えます。

他方、曲がりなりにも選挙の洗礼を通過せざるを得ない国会議員とは異なり、(社会階層移動論の知見からは)この社会において、教員・医師・弁護士・会計士・弁理士・公務員の(婿嫁を含めた)世襲度合は政治家のそれに優るとも劣らない。ならば、これらの職業の<世襲>は一層激しく批判されるべきことではないでしょうか(笑)

いずれにせよ、世襲の是非は有権者の判断に任せられるべきである。すなわち、

①非世襲の一般人も自由に選挙に出られる限り、世襲議員が多いというのは単に日本の政治風景の特徴的な一部面にすぎない。而して、②いくら馬鹿親や欲に目が眩んだ後援会が議席の世襲を目指そうともアホな世襲候補は早晩淘汰されるはずであり、現に、<政治のマーケット>から退場を促され<倒産>する<家業=企業>としての政治家ファミリーも稀ではないのですから。

蓋し、「民主主義は最悪の政治形態と言うことができる。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けばだが」と、チャーチルがいみじくも語ったように、また、トーマス・マンの言うとおり「政治を馬鹿にする国民は軽蔑に値する政治しかもてない」のであり、「世襲-非世襲」の候補を巡って、誰を「選良=国民代表」に選ぶかは独り有権者が責任を負うべきことだと思います。


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◆世襲と利権
カーチス・コロンビア大学教授の出世作『代議士の誕生』の中に実は組み込まれていたのですが、「利益誘導システム=東京の税金を地方に誘導する仕組」と「世襲現象」に直接の関係はない。前者は「世襲・非世襲」を問わずこの社会に作用してきた政治の要因だからです。

また、例えば、2007年度において、GDPに占める国・地方の公的消費・投資の割合が20%を大きく超えている(そして、一般会計・特別会計の合算の占める名目GDP比は60%を超える! まして、ばらまき政策が特徴の民主党政権下でこの数値は鰻登り!!)現下の福祉国家・日本。あの旧ソ連の経済官僚も裸足で逃げ出すような社会主義国家・日本。所謂「道州制」を導入しようとも凄まじい経済力の地域間格差のある日本。これらの現状を鑑みるに「地方のことは地方の政治家がやれ、そして、国会議員は天下国家のことを専らやれ、アメリカの上院議員のように」という主張は非現実的です。

而して、社会主義からの脱却を進め行政の無駄遣いをミニマムにするためにも前者の「利益誘導システムの打破」は必要不可欠なことでしょうが、それと後者の「世襲現象」は別の問題。蓋し、地方に根づいた政治家一族の存在というのは(「利益誘導システム」にかかわる限りその弊害は是正されるべきとしても)郷土への帰属意識と忠誠心をその思想の中核とする保守主義から見ても好ましいことでさえある。そう私は考えています。

この「利権と世襲」の関連では、しばしば、「政治屋」と「政治家」(statesman and politician)の対比で政治を語る言説を見聞きします。けれども、

(ⅰ)有効需要の管理と金利の政策誘導という財政金融政策を基本的枠組みとするケインズ政策を採用している、福祉国家化した、(ⅱ)大衆民主主義社会においては、最早、中原に鹿を追うことを目指すほどの政治家もそのどちらでもあらねばならない。

畢竟、安倍元首相が<7・29>で大敗を喫したのは彼の「戦後レジュームからの脱却」が有権者に拒否されたのではなく「無視」されたから。そう私は総括していますが、それは大衆民主主義下では「政治屋」としての規定演技(compulsory)でもそこそこのパフォーマンスを上げられなければ、「政治家」として経国の理念を具現する謂わば自由演技(free)を舞うチャンスも与えられない現実を意味している。この現実を「政治家-政治屋」峻別論を唱える向きは直視するべきだと思います。


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◆政治の活力の源泉としての世襲議員のポテンシャル
フランスでは「永遠のマレ」と言い、第三共和制以来(本当は、ジャコバン独裁の終焉以来、ごく短期間の二度の帝政期とドゴール将軍のクーデタによる第五共和制の初期を除き)現下の第五共和制の1980年代末までフランスの政権は「中道政党の離散集合・合従連衡」に終始していました。

要は、(1年に満たない細川・羽田政権を除き1955年から半世紀以上続いた自民党長期政権どころではなく)連立政権の組み合わせと首相の顔は変わるけれど、基本的には変化の止まった政治的風景がフランスでは100年以上続いていたということ。

ちなみに、「マレ」とはその中道政権の創始者の名前ですが、フランス語では(抜け出せない)「泥沼」の意味もある。つまり、極左の共産党と極右政党は政権に無縁であり、これらを除く多数の中道政党が議席の足し算で「過半数」を獲得できる組み合わせを巡り合従連衡を繰り返した。よって、フランスには議会とは別に「強い長期政権」を可能にする大統領が不可欠になった。


蓋し、枝葉抹消の事象を巡る政局遊戯に明け暮れる現下の我が国の情勢や戦前の統帥権干犯問題以降の憲政史を想起すれば、我が国の政治文化においても(安全保障政策と天皇制に関する哲学を共有する)保守の二大政党制が具現しない限り「大統領制」が必要な気がしないでもない。

而して、大統領制導入が現行憲法からは直ちには難しい以上、日本の政治に効率と活力を与えるものは政策中心の政権交代に道を開く政策を中心軸とした政界再々編しかないのではないか。ならば、その政界再々編の核弾頭となりうる勢力には、比較的に選挙に煩わされることの少ない有為の世襲議員が含まれないはずはない。そう私は考えています。

畢竟、政界再々編が行なわれれば将来的には「世襲現象」は漸減するかもしれない。而して、英国やドイツのように選挙区の「国替え」制度(謂わば、江戸時代の名門譜代大名のように役職にともない役職の格に見合った領国への国替えが行なわれる仕組み)に移行するのかもしれない。

これは上で述べてきた主張の否定撤回ではなく、政界再々編の過程で日本の政治が「政策と理念」を軸とした保守政党間の競争に移行するにともない(要は、選挙が漸次「政党本位」に移行するにともない)「若やお嬢が無所属でその金城湯池の選挙区から出馬する可能性と必要性」が低くなるのであればそれもありうるということです。現状では、しかし、上記の理由から世襲批判には私は批判的にならざるを得ないのです。



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持統天皇




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