暇潰しの言語哲学:「プロ市民」vs「ネットウヨ」





◆はじめに
2012年9月の自民党総裁選挙。そこで安倍晋三氏が自民党総裁に返り咲いたについては、「ネットウヨ=ネット右翼」のするネガティブキャンペーンの影響が大きかった。虚実はともかく、週刊ポスト「自民総裁選 石破茂氏、ネトウヨによる落選運動に悩まされた」(2012年10月12日号所収)はそう報じています。

本稿は、件の自民党総裁選における<ネット右翼>なるものの実相、あるいは、それに対抗する勢力(例えば、カツカレーやカップ麺の値段を引き合いに出して、安倍・麻生の両総理に寄せられた揶揄等々、それらが行使する頻度から見ても品性から見ても、彼等こそ「ネガティブキャンペーンの元祖総本家」と言っても過言ではないだろう)、所謂「プロ市民」の生態や発想を俎上に載せるものではありません。本稿は「プロ市民」という言葉を「ネット右翼」という言葉の対比において考えてみようとする謂わば「メタ言語行為」;言語自体の意味や用法に焦点をあてた考察です。


◆定義の定義
このブログでも時々書いてきたことですが、畢竟、どのような言葉にも唯一絶対の意味などはありません。このことを「言葉を定義する」という切り口から確認しておきます。これこそメタ言語領域の「定義の定義」の営み。

蓋し、「個々の言葉には各々唯一の指示対象がある」という考えがプラトン以来の西洋哲学の伝統的考え方なのですが、それはなりたたない。このことを「プラトンの髭をオッカムの剃刀が剃り落した」と言う分析哲学者もいます。

意味とは言葉が指し示す事柄のこと。ソシュールは、言葉が指し示す事柄のことを「指示対象」や「記号内容:所記」(sinifie)と呼び、指示対象を指し示す言葉を「記号表現:能記」(signifiant)と言っています。而して、プラトン以来の「個々の言葉には各々唯一の指示対象がある」という考え方を「概念実在論:実念論」(realism)、他方、実在するのは個々の物事や事物だけであり、そんな物事や事物の名前、すなわち、言葉とは単なる社会的な約束事や慣習にすぎない。つまり、「個々の言葉には各々唯一絶対の指示対象はない」という考え方を「唯名論」(nominalism)と呼びます。

プラトンの髭を剃り落したオッカム(1285年?-1349年)とは、中世後期に実在した唯名論の論客の名前。畢竟、中世以来、概念実在論と唯名論の間で戦わされた論争(「中世普遍論争」)は、20世紀に唯名論の後身たる分析哲学によって最終的に唯名論の勝利、概念実在論の後身としてのヘーゲル哲学・マルクス主義・天賦人権論の敗北で終ったのです。

と、哲学の話はここまで。もうPCの前で居眠りし始めた方が、アメリカのジョージア州やヴァージニア州、あるいは、ドイツはニーダーザクセン州あたりにいそうですが、お姉さん方大丈夫ですか(笑)。

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上の眠たくなる3パラグラフによって、例えば、「江戸いろはカルタ」に書かれた「理屈と膏薬(現在では、民主党の「公約」?)はどこにでも付く」が含意している類の世間知。つまり、「言葉は便利でいい加減で怖いものだ」(朝日新聞の記事を見ていたらよく分かる!)等々ではない、「哲学≒科学方法論」の厳密な意味で、「言葉には唯一絶対の意味はない」経緯を紹介できたと思います。

どのような言葉にも唯一絶対の意味はない。けれども、実際には多くの言葉はかなりの程度決まった特定の意味を持つものとして使われている。だからこそ、その大体決まっている意味と言葉との間隙を穿つ話芸としての落語は面白いのではないでしょうか。

哲学的には言葉には唯一絶対の意味はない。この経緯を「言語と意味の恣意性」と言いますが、而して、哲学的には動かない「言語と意味の恣意性」と言語が大凡決まった意味を持って使われている事実をどう両立させるか。これが、定義の定義たる「定義論」の難所。マルクスの顰に倣えば、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」(『資本論』第1巻2篇4章2節末尾, 岩波文庫(一)p.289)と言うべきところです。

結論はコロンブスの玉子。畢竟、言語とその意味の恣意性は、しかし、個々の言葉とその意味の関係が「無政府状態」あるいは「万人の万人に対する戦い状態」であることを意味しない。要は、中世の唯名論が既に指摘していたように、個々の言葉とその意味の間には人為的な規約・自生的な慣習により<自然法則>ではないけれど、法や道徳の如き<社会規範>が成立している。よって、現実的にはある言葉はかなり限定された固有と言ってよい指示対象の範囲を持ちうる。

逆に言えば、言語と意味を巡るルールは<自然法則>ではなく<社会規範>の一種であるから、そのルールの内容(個々の言語とその意味の関係)は時間とともに変化しうる。こう考えれば、「キリギリス」と「コオロギ」の語義が平安時代は現在と反対であったように、「やばい」の意味が「危ない→素晴らしい」に変化しているのも特に目くじらを立てるほどのことでもないの、鴨。

而して、個々の言葉とその指示対象との関係をこのように理解するとき、「語の定義:意味を巡る言語使用のルール」や言語行為のマナーについては次のように言えると私は考えています。

①どの言葉をどのような意味に使おうがそれは論者の勝手である。しかし、②その論者が自己の言説を他者に理解してもらいたいのであれば、一般的に使用されているその言語使用のルールを参照するか(その言葉が専門用語の場合には、専門家コミュニティーの内部で確立している言語使用のルールを参照するか)、若しくは、個々の言葉の自分流の定義を明示すべきである、と。


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◆「プロ市民」 vs 「ネット右翼」
手許にある国語辞典を何冊か引いてみた限り「プロ市民」も「ネット右翼」も収録されていない。双方ともこなれた日本語とはまだ<国語辞典制作者のコミュニティー>では認められてはいないようです。けれど、これらの言葉がネット空間に氾濫していることはご存知の通り(笑)。ちなみに、wikipediaには次のように書かれている。

プロ市民(プロしみん)
1)「自覚・責任感を持つ市民」(=プロ意識を持つ市民)を意味する造語。
2)一般市民を装い市民活動と称し、営利目的で政治的な活動を行う(とされる)者を指す。批判又は誹謗中傷する目的で使用されるレッテル(蔑称)。ほとんどの場合、こちらの意味で使用されている。

ネット右翼(ネットうよく)
インターネット上で右翼的な発言をする人物をさす用語、蔑称。
ネットウヨク、ネットウヨ、ネトウヨとも呼ばれる。


もちろんwikipediaであろうが『広辞苑』であろうが、ある言葉をどのように定義するかはそれぞれの勝手ではあるのですが、日頃から私が奇異に感じていることは、「プロ市民」に対応する「アマ市民」という言葉は寡聞にして聞いたことはないし、また、「ネット右翼」に対応する「ネット左翼」という言葉もそう一般的ではないだろうということ。実際、wikipediaには「アマ市民」は痕跡さえなく、「ネット左翼」は「ネット右翼」の項の説明文に一箇所出てくるだけで独立した項目としては掲げられていません。

何を言いたいのか。それは、「プロ市民」や「ネット右翼」という言葉を誰が主に使っているかを考えれば明らかでしょうが(逆に、「アマ市民」や「ネット左翼」という言葉があったなら、どんな人がそれらを使いたいと思うかを考えれば明らかでしょうが)、「プロ市民」と「ネット右翼」という言葉には、政治の世界と言論の世界の各々のアンシャンレジュームが懐いているルサンチマンが内在しているのではないかということです。

すなわち、「プロ市民」という言葉には、制度的な政治権力の分配においては戦後一貫して保守が牛耳ってきたこの社会で、しかし、「権力とも財力ともとりあえずは無縁な、けれども、普通の平均的な日本国民とも言えない、そんな「左翼-リベラル派」の党派的な傾向性を持つ活動家が普通の国民を装って非制度的に政治権力の分配に参画しようとしている欺瞞」を嫌悪する感情が込められているのだろう。他方、言論の世界は左翼の天下であったはずなのに、ネットが普及してからは、その左翼の縄張りで右翼の活動が目立っていることを悲憤慷慨している「左翼-リベラル派」の鬱積した情念が「ネット右翼」という言葉には憑依しているの、鴨。

こう考えれば、一応、マスメディアを押さえている左翼に対して保守派が「ネット左翼」という言葉を使うことはないし、また、自身が「プロ市民」であることを否定する左翼が「アマ市民」という自己規定を持ち出すはずもないだろうことは了解できると思うのです。

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興味深いことは、私の観察によればですが、保守派の多くは「ネット右翼」という言葉を投げつけられても痛痒を感じないのに対して、多くの「左翼-リベラル派」は自分が「プロ市民」と規定されると憤慨・激昂しがちということ。この対比が偶さか私の観察した狭い範囲のことではなくかなり一般的な現象だとするならば、両者の反応の差異は那辺に起因するものか。実は、これが本稿の中心的な問題関心です。

私の仮説は次の通り。蓋し、「ネット右翼」には特定の指示対象が存在せず、よって、それは子供の喧嘩や夫婦喧嘩における「お前の母ちゃん出ベソ」「馬鹿」「阿呆」「タワケ」「べらぼうめ」と同様、その言葉を使用すること自体に意味がある罵倒語、侮蔑語にすぎない。よって、「馬鹿に馬鹿と言われてもね」が本音として、そんな罵倒は相手にしない大人の対応が保守派には選択可能である。要は、指示対象のない「ネット右翼」という言葉を「左翼-リベラル派」が投げつけた段階で、その議論は実質的に保守派の勝利と言えるということです。

他方、「プロ市民」には「普通の国民を装って、非制度的に政治権力の分配に参画しようとする、「左翼-リベラル派」の党派的な傾向性を持つ活動家」というかなり明確な指示対象がある。よって、この言葉を投げつけられた「左翼-リベラル派」の人士にとって「プロ市民」という言葉は、単なる「お前の母ちゃん出ベソ」という罵倒語・侮蔑語ではなく、事実関係を争わなければ自身の(普通の国民を装うことで獲得している)政治的影響力が保てなくなる危惧を感じさせるもの。ゆえに、保守派に対して「ネット右翼」という言葉が生起させる反応に比べて、プロ市民は「プロ市民」という言葉に相対的に激しく反応するの、鴨。こう私は考えています。

実は、「お前の母ちゃん出ベソ」も本来は実存的で凄まじい指示対象を持った言説でした。つまり、「貴殿の母上は、その出産に際して充分な医療ケアも受けられない素性の(貧困・不倫・被差別コミュニティーメンバーがゆえに十全なる医療ケアが受けられなかった素性の)方ではないか?」という意義が伴っていた。

敷衍すれば、事実関係の描写でしかない表示義(denotation)を表す「お前の母ちゃん出ベソ:Your mother has a protrunding navel, doesn't she?」というセンテンスには共示義(connotation)としての「お前の母ちゃんは卑しい生まれだろう?:Your mother is out of a very low birth, isn't she?」が含まれていた。而して、現在の子供の喧嘩においては、これらの重層的な語義はすべて捨象され、「お前の母ちゃん出ベソ」は指示対象を持たない空虚な罵倒語になっているのでしょう。

ならば、喧嘩で負けた子供と同様、「左翼-リベラル派」が(いかにも無内容な彼等に相応しい)空虚な「ネット右翼」という罵倒語を捨て台詞として残すのは自然なことと言うべきかもしれません。

と、こう書いてしまえば、いまだに「ネット右翼」を連発するプロ市民や週刊ポストの記者は笑うしかないの、鴨。而して、<安倍総理の逆襲>で幕を閉じた今般の自民党総裁選は、<プロ市民>のそんな言語行為の傲岸不遜と根拠薄弱さを改めて感じさせる出来事でもあった。と、そう私は考えます。


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