<再論>応報刑思想の逆襲(4)





◆犯罪者を犠牲者と考える「優しい社会」は正常な社会か?

少年や精神障害者、外国人による重大事故や凶悪犯罪の横行を受けて、厳罰化や入国管理の強化、少年法の更なる改正を求める世論が強くなっています。戦後の「加害者の人権は地球よりも重く扱われ、被害者・被害者遺族の要求は羽毛よりも軽く見られてきた」この社会の現状を見ればそれは当然の流れというもの。

この社会には、しかし、この現状を目の当たりにしてもなお(よって、こちらも再々になりますが)「犯罪の原因は社会の矛盾であり、犯罪の加害者も被害者も共に社会的矛盾の被害者なのです。ならば、加害者を非難し厳罰を求めるのではなく、自分達の社会の問題として犯罪を捉え返してみることが大切です」などと脳天気にのたまう人権派も依然存在している。

例えば、大塚英志さんは「長崎幼児殺害事件」について朝日新聞に「考え続ける大人はいるか」(2003年7月19日・オピニオン面)なる論考を投稿しておられました。

曰く、「少年や若者によるどうにも不幸な事件が社会を揺るがした時、それを自身の問題として受けとめるひどく当たり前の立場が戦後社会にはあった。(中略)事件の直接の加害者が法の下で責任を負うことや、被害者やその家族の人権が配慮されるべきことに異論はない。しかし青少年の犯罪を自身の、そして社会問題として受け止めるかつてのありふれた態度が、たった今、この国ではひどく衰退してはいないか。(中略)自身の問題として青少年の不幸な事件を受け止める『社会』は、この国の戦後に確かにあった。そのような社会が、少年犯罪の温床となったのか、あるいは抑止する力だったのか、そこからじっくり考えよう」、と。

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犯罪を自身の問題として捉えよう/どうすれば犯罪をなくすことができるかを被害者と加害者を含め社会全体で話し合おう、とは何と美しい言葉でしょう。これを聞いたら、右の頬を打たれたら左の頬も相手に差し出すことを勧めたナザレのイエスも裸足で逃げ出すかもです。

けれども、社会的矛盾の解決により高いプライオリティーを置く主張を冷静に説く人権派の論者は、大多数の犯罪被害者とその遺族にとっては無意味かつ不条理な言説を笑顔を湛えて押し売りに来る善良そうな、しかし、傲岸不遜の輩にすぎないでしょう。而して、その傲岸不遜の基盤には戦後民主主義が垂れ流してきた観念的な人間観、すなわち、犯罪者の性善説が横たわっているの、鴨。

身体障害者に優しい社会は、実は、健常者にとってもより快適な社会であるらしい。この命題を私はある程度正しいと思います。ホイールチェア-の使い勝手を考慮した駅や歩道はそうではない無神経で無機質、ブッキラボウな駅や歩道に比べて健常者にとっても心地よいことが多いのは確かだから。けれども、では、犯罪者に「優しい社会」は犯罪者以外の者にとってもより快適な社会でしょうか? いいえ、「刑罰を受ける権利」の根拠と内実を反芻するとき、そんな社会は、実は、犯罪者にとってさえも不気味な社会であろう。私はそう断言します。

私は、犯罪者に「優しい社会」は犯罪者以外の者にとって必ずしもより快適な社会ではないと考えます。犯罪者に優しい社会は正常でも健全でもない、と。更に言えば、犯罪者の処罰と犯罪行為への社会的非難が曖昧にされる社会は究極的には一個の社会としては成立できなくなるのではないかとさえ思っている。

苛政は虎よりも猛かもしれませんが、犯罪者に優しい社会は犯罪者を含む誰にとっても非道で不条理な社会なのではないか。蓋し、大塚英志さんの如き、犯罪者に優しい社会を推奨する論者は、戦後も1990年前後までのこの社会の相対的な治安の良好さという社会インフラの上に胡座をかいて、あろうことか、彼等のその空虚な主張の破綻を(少なくとも、見かけ上は)ミニマムにしてくれていた、戦前の健全な教育を受けた日本人が体現していたこの社会の良風美俗を批判しているだけなの、鴨。それ正に、親亀の上の子亀が親亀に悪態をつく構図、鴨。閑話休題。

日本社会の治安の劣化、就中、市民が皮膚感覚で感じる治安の悪化はここ十年ほどの『犯罪白書』『警察白書』を紐解けば誰しも思い半ばに過ぎるでしょう。犯罪全体の認知件数の推移とは無関係に、①通り魔事件や幼児虐待や触法精神障害者の累犯事件等の理不尽な犯罪の横行、他方、②a少年犯罪の増加、就中、②b所謂「虞犯少年≒不良少年」ではない<普通の少年>によって惹起される凶悪犯罪の増加、③振り込め詐欺等々(おそらく戦後民主主義が崩壊させてきた)戦後社会の病理の反映としてカテゴリー化可能な犯罪類型の成立・定番化は、一般の市民にこの社会の治安の悪化を文字通り肌で感じさせるものだから。

ならばなおのこと、崩壊しつつある治安インフラの上に胡座をかいて犯罪者に優しい社会の実現を求めるなどは正気の沙汰とは思えない。そのような犯罪報道は有害でさえあると思う。そして、戦後民主主義と親和的なそれら「犯罪者性善説」の基底には「国家権力の性悪説-国家の必要悪説」が、すなわち、近代立憲主義的の社会思想が横たわっているの、鴨。もしそう言えるのならば、畢竟、近代立憲主義は間違っているか、戦後民主主義を信奉する論者が近代立憲主義の意味内容を曲解してきたのか、あるいはその両方であろうと思います。

尚、精神障害者の犯罪行為は刑を免除・減刑される余地があるか? 私はこの問いについては、心神耗弱・心神喪失の行為、自分の行為の善悪を充分に判断できない/自分の行動を自分で充分制禦できないほど幼い子供の行為と同様「余地はある」と考えます。現行の刑事司法の実務と同じく応報刑思想の犯罪観も(というか、「応報刑思想の犯罪観こそ!」でしょうか。)このことに同意する、と。この経緯については本稿末尾の「資料編」をご参照ください。


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◆被害者-被害者遺族の権利はもともと人権のメニューに掲載されていない?

近代立憲主義とは、特に、日本でそれが語られる場合には、フランス起源の「憲法は、国家権力の恣意的な運用を制約する頚木であり、民主主義の暴力から少数派の基本的人権を守る防波堤。逆に言えば、国家権力とは個人の人権を守るためにのみその存立が正当化可能な人為的な統治システムであり、また、民主主義の手続に沿った立法も人権内容を侵害する権能はない」と考える憲法思想と言ってよいと思います。

要は、(社会保障、そして、経済的と社会的規制といった所謂「現代法」の内容を捨象するとすれば)近代立憲主義を基盤とする近代法体系は国家権力の恣意的な運用から国民の行動の自由を守護することを目的とする、と。そう述べてもあまり大きな間違いはない、鴨。ゆえに、フランス人権宣言16条「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」の規定を嚆矢として、近代立憲主義を採用した憲法典は、権力分立制度と人権規定を二本柱にして編まれているのが一般的。

而して、我が国が立憲主義を導入した旧憲法以来、新旧双方の憲法典がともに加害者の人権保障条項を備えながらも、被害者・被害者遺族の人権については明文の規定を欠いているのも当然なのかもしれません。「国家権力を縛る/社会の多数派の専横を抑えるものとしての憲法」という立憲主義の意味内容からは、「被害者の人権」なるものは原理的に存在しないのでしょうから。ならば、存在しないタイプの人権の擁護を裁判所や検察や警察に求めても、それらの機関にとってそれは無理難題ということなの、鴨。

ことほど左様に、人権派の「近代憲法には被害者の人権なるものは存在しない」という主張は満更荒唐無稽ではないのです。けれども、近代法体系自体の基盤の基盤。近代的意味の憲法に正当性を付与してその効力を担保している近代立憲主義自体の根拠にまで思索を及ぼすときこの主張の説得力は俄然怪しくなる。すなわち、別のアングル、社会経済史の知見を加味した地平から再定義すれば、

近代立憲主義とは、(α)個人の自由な社会的活動の可能性を確保するために、それまで個人を抑圧してきた、教会・ギルド等の様々な中間団体を国家の権威と権力でもって弱体化させこれらの桎梏から諸個人を解放し、しかる後に、(β)個人を抑圧しうる唯一の存在として残った国家権力自体を憲法によって規制しようとするアイデアです。


而して、このロジックからは、戦後民主主義が「国家権力の性悪説-国家の必要悪説」をその立論の前提に置くことは自然な流れと言える。他方、しかし、近代立憲主義、すなわち、近代憲法のイデオロギーは、「国民」および「主権国家=国民国家」という<政治的神話>の楯の裏面でもある。

何を言いたいのか。それは、近代憲法は国家権力を「獅子身中の虫」として仮想敵視するものの、さりとてそれは「国家」や「国民」という<政治的神話>を否定していないどころか、それらの表象形態-観念形象と相互依存の関係にあるということです。


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そもそも、近代憲法とは<主権国家=国民国家>のイデオロギーが法的世界にインカーネートしたもの。すなわち、近代憲法も近代立憲主義も、アーネスト・ゲルナーが『民族とナショナリズム』の中でいみじくも述べている「民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の方法を通じてではない。確かに、ナショナリズムは以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも多くの場合それらを根本的に変造してしまう」という文脈から逃れられない存在なのです。

換言すれば、近代憲法とそのイデオロギー的基盤たる近代立憲主義もまた、国民国家の時代という歴史的に特殊な時代背景のコンテクストの中でのみ(しかも、フランス流の国家観と人権観を受容する極めて限られた人々に対してのみ)その<神通力>を保ちうる制度であり文化にすぎない。要は、キツネを拝もうがタヌキと踊ろうが個人の勝手であるように、戦後民主主義を信奉する論者がフランス流の近代立憲主義を勧請するのは自由である。けれども、それは縁無き衆生を拘束するまでの<神通力>は備えていない。畢竟、フランス流の近代立憲主義なるものは憲法の正当化イデオロギーのone of themにすぎないということです。

而して、例えば、(ドイツ・フランス型の参審制を媒介にして)今次の裁判員制度に流れ込んだ英米流の陪審制のエッセンス、すなわち、「コミュニティーの古き良き伝統の精華たるコモンローはコミュニティーメンバーの手で発見され継承され発展されてきた」という英米法の理念を想起するまでもなく、「被害者の人権」を認めない近代立憲主義的な刑事法体系の理解は唯一絶対のものではない。

蓋し、<国家>を社会統合の中核的理念と捉え、かつ、それを伝統の結晶の一斑と見る英米流の保守主義の社会思想とフランス流の近代立憲主義は位相を異にする別個の<物語>である。ならば、その優劣はこの社会の構成メンバーの法意識と法感情と法的確信が自生的と遂行論的に決する事柄でしかないと思います。

更に、「被害者の人権」を認めない立論は法の効力論の観点からも破綻していると言える。すなわち、(ここで「人権」や「権利」という言葉を、国家権力-公権力がその実現に与力する根拠となる価値と定義するならば)「被害者の権利」を認める刑事法体系は、近代主権国家の憲法の事物の本性から(先に述べた「国家が復讐の責務を放棄する場合、その刑事法体系の効力は崩壊する」という事柄のコロラリーとして)我が国の現行憲法においてもその成立と存在を主張できるものなです。

畢竟、「被害者の権利」をその人権のメニューに含むことができないような近代立憲主義や刑法思想には、寧ろ、この社会における正当性はなくそれらは放擲されるべきである。私はそう考えていますが、この私見を導くキーワードこそ「応報刑思想の逆襲」なのです。



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復活と逆襲の女神:木花咲耶姫




<本編了-資料編に続く>

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