政治責任の構造と射程-福島原発事故報告書に世界から寄せられた批判を媒介として(4)





◆原因と責任

福島原発事故に関する国会事故調査委員会に寄せられた海外からの批判、例えば、上に紹介したガ-ディアンの記事やブルームバーグの社説に眼を通した少なくない日本人が--彼や彼女もまた「権威者に事を問いただすことに消極的な態度」や「計画が一旦決められた以上、どこまでもその計画に沿って行動したい」という意識を大なり小なり分有しているにも関わらず(苦笑)--おそらく、「福島第1原子力発電所の事故が「人災」であるとしても、それを「日本製の災害」とする理解は適切ではないのではないでしょうか。なぜならば、「日本の国民性」なるものに事故の原因を求めることは、結局、事故の責任追求を放棄するものだろうから」という指摘に少なからず同意したのではないか。そのように私は想像します。私自身もそう感じた日本人の一人だから(微笑)。

ここで注意すべきは、英米のメディアがそれを白黒はっきり追求することを要求する「責任」とは、「法的責任」の追求をも選択肢として排除しない、法的責任と政治的責任の重層的な責任の追求であろうこと。加之、英米メディアの要求は、例えば、日本の脱原発論者が述べるような、「そもそも地震大国の日本に原発を建設したこと自体が間違いだったのだ。よって、福島原発事故についての最大の責任は原発を導入し推進した歴代の自民党政権にある」というような、「原発性悪説」からなされているものではないといういことです。

というか、原発の必要性はこれら英米の報道機関の前提的認識とさえ言える。逆に言えば、英米では原発を今後とも推進していく方針であるがゆえに、件の報告書が曖昧で誰にも反証不可能な「文化論」的の事柄を事故原因としたことに憤りを感じたの、鴨。日本にとどまらず、英米においても原発反対派が今後そんな反証不可能な<事故原因>を持ち出す事態を誘発しかねない前例を認めるわけにはいかないでしょうから。

すなわち、英米メディアが、明らかにすべきとする「責任」とは、どこまでも、<2011年3月11日>以前の原発の安全管理、および、<2011年3月11日>を受けた福島第1原子力発電所の事故対応に関する(床屋談義的な文化論や居酒屋談義的な文学論ではない、)具体的な措置や意志決定について語られるべきものであろう。と、そう私は思います。

なぜならば、<2011年3月11日>を受けて、それまで20数年間新規の原発増設を見合わせていたアメリカが(低線量積年平準放射線被曝の危険性の低さを<福島>で見切ったからでしょうか、)原発増設に舵をきったのを始め、英米とも原発推進の国策に毫も変化はなく、更に、英米を代表するマスメディアもそんな「原発立国」路線の自国政府の姿勢に基本的には異議を唱えてはいないのですから。


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天の邪鬼の私は、しかし、国会事故調査委員会にもそれなりの言い分はあるだろうと思わないでもない。

なぜならば、その調査活動がいかに国政調査権の一斑として「国会事故調査委員会の調査活動には、証人や証拠の出頭・提出を命じることのできる召喚権限が与えられていた」とはいえ、国会事故調査委員会は起訴の是非を単独で判断できる、英米法における「大陪審:grand jury」、あるいは、公判(trial)の必要性の是非を事前に単独で判断できる「予備審問:preliminary inquiry」などではない。まして、「責任を負うべき者」の罪状を確定してその罪状と釣り合いのとれた制裁を科すことを使命とする司法機関ではないのですから。

畢竟、国会事故調査委員会の使命は「半年を目処に」福島原発事故の<原因>を究明することであって、事故に<責任>を負うべき具体的な諸個人を、その<罪状>とともに<告発>することではなかったのです。ならば、「その人災を引き起こしたのはどこの誰々であると、つまり、この人災の張本人が誰であるかをこの報告書は具体的に特定していない」ことは必ずしも国会事故調査委員会が怠慢であったわけでも、(曖昧さに寛容な「日本人の国民性」が与して力あったのか)その追求の矛先がなまくらであったわけでもないの、鴨。

もちろん、通常の刑事裁判を見ても<原因の究明>と<責任の追求>は寧ろ表裏一体の事柄ではある。例えば、構成要件要素としての因果関係の存在と量刑判断、より一般的には、法的要件の内容としての法益侵害の原因と法的効果の関係を想起すれば自明のように、前者が後者の論理的前提であるという理屈を遥かに超えてそう言えましょう。なにより、事実認定が杜撰であればその結果として降された判決の権威は極めて脆弱なものにならざるを得ないでしょうから。

けれども、同一の、裁判所たる裁判官が事実認定も判決を導く法律構成も担う刑事訴訟においては(否、同一の裁判官がその両プロセスを担うがゆえに、予断排除のためにも)証拠の取り調べを巡るプロセスと裁判官の灰色の前頭葉が構成する訴訟対象たる訴因の「イメージ:公訴事実」は、有機的に連関しつつも、制度的には切り離されなければならない。ことほど左様に、<原因の究明>を本分とする国会事故調査委員会が<責任の追求>に踏み込まなかったことにはそれなりの言い分はあるの、鴨。

いずれにせよ、国会事故調査委員会に、福島原発事故に対して「責任を負うべき者」を特定し、その彼や彼女の罪状を詳らかにすることを期待・要求するなどは(もっとも、福島原発事故は、「日本で惹起した人災であってみれば、この「責任を負うべき者」の中にそう多くの女性が含まれていたと思われない」でしょうが、例えば、)街の魚屋さんの店先に押しかけて、店先で売っている魚を「その場で江戸前の握り寿司にしろ」というクレーム(注文・要求)とあまり変わらない。それは「魚屋さん:国会事故調査員会」に対する筋違いのクレーム(苦情・文句)であろう。と、そう私は考えないではないということです。

而して、国会事故調査委員会の英語版序文が世界中から総批判を受けたのは、国会事故調査委員会が、ある意味、「やるべきことをやらなかった」からではなく、「やるべきでないことをやった」から、「書くべきではないことを書いた」からなの、鴨。蓋し、「日本製の事故」などの言辞は、正に、その故事成語の由来そのままの意味で「蛇足」であった。

英語版序文を書いた同委員会の委員長は、あるいは、「世界の読者に向けたサービス」のつもりだったのかもしれません。しかし、「事故は人災である」と日本側の運営や事故対応の落ち度を全面的に認めた潔いそのサービスが受け取ったものは世界からの総批判だった。

蓋し、同委員長にとってこの顛末は、例えば、善意やサービス精神が仇となり自分を追い詰めて行く『断食芸人』の如きカフカの不条理小説の顛末とパラレルなものと感じられたの、鴨。しかし、「日本製の事故」が「世界の読者に向けたサービス」になると、もし、国会事故調査委員会のメンバーが思っていたとすれば、それこそ異文化コミュニケーションの見事な失敗事例と言うべきでしょう。

要は、日本論や文化論的な事故の解釈など誰も期待していないということ。そして、国会事故調査委員会のそれが本意ではないとしても、傍から見れば、同委員会は「日本製の事故:a disaster made in Japan」の1フレーズで日本側の落ち度を徹底的に認めるた言説の装いをしながら、同時にこの「日本製の事故:a disaster made in Japan」フレーズは事故に責任のある具体的な彼や彼女を免責する機能をも果たす点を咎めている。と、そう私は考えます。


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国会事故調査委員会の報告書を巡る蛇足や不条理劇の背景。蓋し、私はそこに「責任」という言葉を巡る彼我の理解の差が横たわっていたように思います。すなわち、

英米の論者が考える「責任」とは、①自分がなしたこと/なすべき立場にありながらなさなかったことに関して、②行為者の故意または過失が関与して、③その行為者の行為や不作為から社会的に許容される範囲を越える実害が惹起した場合に、かつ、④その行為や不作為と実害の間に社会的にも相当な因果関係が認められるとすれば、⑤その行為や落ち度の悪質さ、および、実害の大きさと均衡の取れた制裁がかされるべきだ


という、刑法学の普通の「責任論」とパラレルであり、この「責任論」以上でも以下でもないのではないか。「なすべきでなかったこと/なすべきだったこと」を定めるものは、法的と政治的の責任の種差に対応して各々法規範と政治道徳の規範に分かれるにせよ、一般的に「責任」の内包はこう理解できるのではないか。と、そう私は考えます。

もちろん、ある言葉をどのような意味に用いようがそれはかなりの程度論者の自由でしょう。けれども、この「責任」理解からは、例えば、日常会話で普通に用いられる「この案件は私の責任で処理させていただきます」等の「責任」の用例も、「この案件について、①~⑤の意味での「責任」を負う立場にある私が処理させていただきます」と整合的に理解可能であり、なにより、少なくとも、①~⑤を内容としない「責任」など赤の他人に追求される筋合いは(まして、外国のメディアに難詰される筋合いなど)誰にもないだろうからです。

国会事故調査員会は、しかし、これら①~⑤を内容とする「責任」ではなく、全人格的や、日本人である限り本人の努力や心がけではどうしようもないような<運命論>的なsomethingを「責任」と--これは皮肉ではなく、「日本人らしい生真面目さから」か--理解していた節もなきにしもあらず。他方、繰り返しになりますけれど、英米の論者はそんな大仰な「責任」など夢想だにしておらず、よって、そんな「責任」の追求など国会事故調査員会の報告書に期待などしてもいなかったの、鴨。

而して、「責任」をこのような、倫理的というより、寧ろ、信仰的の情緒に親しい言葉と理解する捉え方は、しかし、独り今般の国会事故調査委員会だけではなく、この日本の社会に蔓延しているのかもしれません。冒頭にも述べたように「原発再稼働を巡る首相の責任」や「昭和天皇の戦争責任」、はたまた、「日本人としての戦後責任」なるナイーブな言辞を見聞きするにつけわたしにはそう思われるのです。例えば、読売新聞のある元記者は私の週刊愛読書の(もちろん、ジョーク雑誌としてですけれども)『週刊金曜日』(2002年5月17日号)にこう書いておられる。

大日本帝国憲法廃棄への道にはアジア2000万人、日本300万人の死者が横たわっている。新憲法はその死者に対する責任を負った。そうして、二度と戦争を起こさないよう、「われらの安全と生存」は武力でなく、平和を愛する世界の人々の「公正と信義」を信じ、それに委ねる、と前文に定めた。・・・だが、憲法1条はそうならなかった。制度上も個人としても、最大の侵略戦争責任を負う天皇を免罪し、「日本国民統合の象徴」にした。


(山口正紀「憲法記念日の社説から-九条を蝕む「一条のタブー」」より抜粋)


率直に言ってこの引用箇所の「責任」は全く意味不明です。よって、その理路も同様。蓋し、ここで用いられている「責任」なるものからは、論者の山口氏が「アジア2000万人、日本300万人の死者」なるものと現行憲法に何か関係があると考えているらしいということ以外の推論は文理的・論理的には不可能でしょう。

このような文学的言辞は、しかし、公共空間での討議においてはその使用を避けるのが生産的でもあり、かつ、大人のマナーに適った道ではないか。と、そう私は考えます。


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<続く>

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テーマ : 「原発」は本当に必要なのか
ジャンル : 政治・経済

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