憲法訴訟を巡る日米の貧困と豊饒☆「忠誠の誓い」合憲判決-リベラル派の妄想に常識の鉄槌(1)




例えば、国旗・国歌を巡って日本では、「アメリカでは星条旗を燃やす権利が「テキサス対ジョンソン事件判決:Texas v. Johnson」(1989年)によって認められている」とか「1943年、第二次世界大戦も佳境に入りつつある時代にもかかわらず連邦最高裁がその憲法の守護神としての矜持を示した「バーネット判決:West Virginia State Board of Education v. Barnette」以来、アメリカの公立学校では生徒が国旗に敬礼しない権利が確立されている。それどころか、下級審レベルにせよ「ルッソ判決:Russo v. Central School Dist. No. 1」(1972年)では、教職員に対しても国旗への敬礼を強制する公立学校の措置が違憲と判示されており、教師にも生徒と同様に国旗に敬礼しない権利が認められた」とか。

あるいは、公務員の政治活動について、公務員の政治活動を規制している国家公務員法の母法たる「公務員の政治活動を原則禁止していた「ハッチ法:Hatch Political Activities Act,1939,as Amended」も1993年に全面的に改正された結果(to be amended)、アメリカでも現在では公務員も政治活動の自由を享受しうることが原則なのであって、それが制限されるとしても公務中や職権・地位を利用する場面に制約は限定されている」等々のリベラル派の言説が散見されます。

逆に、「衆院選前に共産党機関紙「しんぶん赤旗」号外を配布して国家公務員法違反に問われた公務員を無罪とし、公務員の政治活動禁止を違憲と判断した所謂「赤旗配布判決」(2012年12月7日)は、「結果的に公務員の政治活動をなし崩し的に許しかねず、禍根を残す判決と言わざるを得ない」(産経新聞社説)ものだ」とか。

「1993年の改正にかかわらず、ハッチ法は公務員の政治活動を広く制約する内容を保っており、更に言えば、より厳しい制約規定が盛り込まれていた改正前の同法に対してもその合憲性を確認したUnited Public Workers v. Mitchell(1947年)およびUnited States Civil Service Commission v. National Association of Letter Carriers(1973年)判決を見れば明らかなように、自由の国アメリカでも実は公務員の政治活動はかなり厳しく制約されている」等々の言説を発信する保守系ブログも残念ながら皆無ではないの、鴨(★)。

★註:アメリカの判決の表記スタイル

映画「クレイマー、クレイマー:Kramer vs. Kramer」(1979年)のタイトル名のようにアメリカの判決は「原告 vs. 被告」というスタイルで表記されます。ちなみに、「Kramer vs. Kramer」は一人息子の「監護権(custody)を巡り元妻が元夫を訴えたもので前の「Kramer」が原告のクレイマー夫人、後ろが夫である被告のクレイマー氏の意味。もちろん、「vs.」や「v.」は「versus」の短縮表記で「ゴジラ対キングギドラ」とかの「対」の意味ですが、英語読みするときは「against」と発声するのがむしろアメリカでは普通、鴨。

尚、アメリカの連邦最高裁や過半の州の最高裁の判決では(結果としてそうなる場合があるとしても)、例えば、「Kramer vs. Kramer」は「原告 vs.被告」ではなく「上告人 vs.被上告人」の意味。また、個々の判決を特定するための、その判決が掲載されている判例集とその該当頁の表記に関しては、例えば次の通り、

West Virginia State Board of Education v. Barnette, 319 U.S. 624 (1943)
アメリカ合衆国連邦最高裁判例集319巻624頁に掲載の1943年に出された、
上告人がWest Virginia State Board of Educationで被上告人がBarnetteの判決

Russo v. Central School Dist. No. 1, 469 F.2d 623 (2d Cir.1972)
アメリカ合衆国連邦判例集第2版469巻623頁に掲載の第2巡回控訴裁判所が1972年に出した、
原告がRussoで被告が Central School Dist. No. 1の判決

但し、アメリカ合衆国連邦最高裁判所判例集(United States Supreme Court Reports)では、合衆国建国直後のアメリカの黎明期から南北戦争を乗り切り「超大国アメリカ」に雄飛する直前の1874年までの90巻については、「巻」の表記は現在の「通し番号」ではなくて各巻の編集担当者の名前を用いた表記方法もあります。

例えば、その判例によって「司法審査制=違憲立法審査制」をアメリカ合衆国憲法の法体系に導入した、「マーベリー対マディソン」(1803年)判決は、現在の様式と古風な様式、および、その合算の様式と、都合3~4通りに表記される。それはこんな具合です。尚、「Cranch」は編集者名、為念。

・Marbury v. Madison, 1 Cranch 137(1803)
・Marbury v. Madison, 5 U.S. 137(1803)
・Marbury v. Madison, 5 U.S. 1 Cranch 137 137(1803)
 =Marbury v. Madison, 5 U.S. (1 Cranch) 137(1803)



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蓋し、「残念ながら」と記したのは、これら左右の言説は共に憲法、就中、憲法訴訟のかなり基礎的な知識を欠いてなされた我田引水的や隣の芝生的の希望的や悲観的な「言うたもん勝ち」や「言うだけならタダやで」もんの言説ではなかろうか。

要は、憲法訴訟の回路を通して把握できる憲法規範の意味内容は、「公務員の政治活動の規制は合憲/原則違憲」「国旗への敬礼を強制する法規や業務命令は合憲/違憲」あるいは「アメリカでは国旗を焼却破損する権利が認められているのに、日本は卒業式に国旗に敬礼しないこと国歌を斉唱しないことが<罪>になる遅れた国だ」等々の十把一絡げ的の命題とは無関係のものである。と、そう私は考えるからです。

この経緯は、例えば、日本では20年近く前までの憲法のほとんどの教科書には人権制約のカテゴリーとして堂々と書かれていた昔懐かしい所謂「特別権力関係論」や「部分社会の法理」(要は、公務員やある宗教団体・政治団体の職員、もしくは、受刑者のように、憲法上の権利の一部が制約されることを承知の上で自ら進んでそのポジションについた/境遇に至った者については、そうではない普通の人に比べて人権制約の度合いが大きくなったとしても違憲とはいえないし、そのような雇用契約等は憲法の人権条項の私法領域への本地垂迹とも理解される民法の公序良俗(public policy)に反するものとも言えないというロジック)も現在では、ケース毎に法益の侵害度合いと行動制約の必要性・合理性・重要性を比較衡量してなされるしかない諸々の人権制約の司法審査事例を分類するための思考の経済に寄与する「整理棚の引き出し」の一つ以上の意味は与えられなくなっていること。そのこととそれは通底する事柄なの、鴨。

畢竟、公務員のどのような政治的行為を犯罪とするか、而して、その犯罪類型とそれに対する刑罰の重さの合理的均衡などは、憲法21条1項「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」の規定から自動的に(名人芸的に?)演繹できるなどということはなく、まして、よって、「特別権力関係」や「部分社会」などの<水戸黄門の印籠>を持ち出すだけで、公務員の人権を一般的原則的一律に制約できるなどということはないのです。

而して、逆に言えば、朝日新聞がよくするように「人権」の二文字を持ち出せば、公務員の(朝日新聞や反日勢力が好ましいと考えるあるタイプの)行動を制約する法規や命令は違憲と断じうるかの如き論調もまた、それは<水戸黄門の印籠>レベルの疑似憲法論にすぎない。要は、憲法訴訟の回路を通していない憲法規範の意味内容の理解などは現在では疑似憲法論や床屋憲法談義の類にすぎない。私はそう考えます。


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蓋し、具体的な紛争案件とは一応無関係に法規の憲法適合性を審査するドイツやフランスの「憲法裁判所:a constitutional court」とは異なり(すなわち、「文面上違憲:void on its face, unconstitutional on its face」の審査(facial scrutiny)や「宣言的判決:declaratory judgment」等の例外を含みながらも、それら極一部の例外を除けば)アメリカにおける憲法訴訟では(そして、「その圧倒的影響下にある20世紀の最後のディケード以降の日本の憲法訴訟においても」ですけれども)、

(A)憲法が保障する権利の種類に応じて、他方、ある権利を制約する規制措置の様態に応じて多面的にその権利を制約する立法、および、行政権や執行権のする行為の憲法適合性(constitutionality;whether it is constitutional or unconstitutional)が吟味検討される

(B)具体的かつ個別的かつ現実的な社会的紛争の司法的解決システムの機能として憲法訴訟を捉える付随的司法審査制を採用するアメリカでは、個々のケースを構成する「重要な事実関係:material fact」が異なれば、あるいは、個々の判決の中核的な理由となる論点とその論点に対する裁判所の見解、所謂「レイシオ・デシデンダイ:ratio decidendi」が異なるのであれば(if be distinguished)それらのケースに適用される法的ルールや法的な原理・原則(rule or doctrine)も自ずと異なる


の、鴨。ならば、Texas v. JohnsonやWest Virginia State Board of Education v. Barnetteといったアメリカ連邦最高裁判決がそれを前提としている、あるいは、赤旗配布最高裁判決に盛り込まれている、個々の判決が認定した「重要な事実関係:material fact」や個々の判決の「レイシオ・デシデンダイ:ratio decidendi」を捨象して、「アメリカでは星条旗を燃やす権利が認められている」とか「アメリカの公立学校では生徒が国旗に敬礼しない権利が確立されている」あるいは「赤旗配布判決において公務員の政治活動禁止が違憲であることを最高裁は明らかにした」等々の主張を一般論として語ることは(現在の憲法学とは無関係とは言わないけれど、それらは間違いなく)現在の水準の憲法学からのサポートをあまり期待できない類の床屋談義的憲法論なの、鴨。

繰り返しになりますけれど、なぜならば、アメリカの憲法訴訟の蓄積を踏まえた現在の水準の憲法学においては(A)司法審査基準は重層性を帯びており、かつ、(B)司法審査の営みが紡ぎ出し編み上げてきた憲法判断のための理論や原理の<神通力>の及ぶ範囲は個々のケースを構成する重要な事実関係(material fact)、あるいは、レイシオ・デシデンダイ(ratio decidendi)によってその定義域も値域もある特定の範囲に限定されるのだろうからです(★)。もちろん、その「ある特定の範囲」なるものとその外部とを隔てる<境界線>は時代の移り変わりとともに漸次上下左右に変動するのでしょうけれどもね。と、そう私は考えます。


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<続く>



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ジャンル : 政治・経済

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