瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(2)





◆阿修羅としての天賦人権論とその瓦解

自民党の「日本国憲法改正草案」に対しては、例えば、
本稿の冒頭でも紹介した次のような批判が寄せられています。

第二次安倍政権の「憲法問題はどのあたりに注目しているか--9条や教育の問題も大きいが、自民党の憲法改正草案は、憲法学者の視点から言いたいことがたくさんある。草案は「天賦人権説に基づく規定を改める必要がある」という立場だが、国際的な憲法学のスタンダードからは驚くべき話だ」(大阪大学・鈴木秀美「開かれた新聞委員会座談会-安倍政権をどう見る」毎日新聞2013年1月30日


而して、狭義の天賦人権論(the triad)から一直線に演繹できるわけではないけれど、このような批判の基底には、おそらく、それと親和的で戦後民主主義とも通底している次のような憲法解釈の指針も横たわっているのではないかと思います。

▼戦後民主主義・天賦人権論と「悪の枢軸」を形成可能な憲法解釈指針
憲法は国家権力に対する<命令>であり、それは権力の恣意的な運用から国民の自由や権利を守護するものでこそあれ、国民に<義務>を課すものではない。また、基本的人権の価値は個々の「主権国家=国民国家」を超える普遍性を持つ。よって、憲法の人権規定は可能な限り外国人にも適用されなければならず、まして、偶さかの歴史的な経緯から憲法に付随しているにすぎない、天皇制など、「前近代の残滓=ナショナリズムの契機」は憲法にとって非本質的なものであり、それらは憲法条項の解釈において重要視されるには値しない。

いずれにせよ、グローバル化の昂進著しい現在の世界では(要は、国家が抱える社会的な問題の泉源も、その問題を解決の方途も、それらの少なからずが単に一国家の枠内には収まりきれず見いだせない現下の世界では)、憲法を解釈する際には個々の国家を相対化する視座から憲法の条項も読み替えられる必要がある、と。



蓋し、世界的に見れば極めて日本の戦後に特殊な「戦後民主主義」という左翼思想でさえない粗雑で空疎な「世界観-歴史観」と親和的で、他方、現実の具体的な憲法解釈に指針を供給している「人権・国家・憲法」に跨がる社会思想が天賦人権論かもしれません。

例えば、2013年の朝日新聞元旦社説「混迷の時代の年頭に-「日本を考える」を考える」、就中、その末尾のセンテンスの物言い「国家以外にプレーヤーが必要な時代に、国にこだわるナショナリズムを盛り上げても答えは出せまい。国家としての「日本」を相対化する視点を欠いたままでは、「日本」という社会の未来は見えてこない」といった言説を戦後民主主義の「歴史観-国家観」の表白と規定する場合、天賦人権論は、戦後民主主義と上述の如き憲法解釈の指針をつなぐ位置にあることは間違いないのではないか。

思想の抽象度に沿った役割分担を想定するこの理解は、例えば、次のような憲法解釈の指針よりも更に抽象度の低い(具体的で実践的な)政治プロパーの言説を目にするとき満更無根拠のこととは言えないのではないでしょうか。

「戦後憲法が決定的な危機に立憲主義の抹殺を狙う「壊憲勢力」「いまや戦後の憲法が、決定的な危機を迎えている。その危機とは、憲法が権力を拘束するという立憲主義を破壊し、政府が勝手気ままに権力を行使できるようにするため、最高法規を一般法並みの扱いにおとしめようとしている点にある」(早稲田大学・水島朝穂「戦後憲法が決定的な危機に立憲主義の抹殺を狙う「壊憲勢力」」;週刊金曜日・924号/2012年12月14日号所収)

「日本国憲法の後半は、国会、内閣などの国の仕組みについて書かれています。前半は、国民主権、戦争放棄、基本的人権の尊重です。一部、納税などの国民の義務が書かれていますが、ほとんどは『国家がやってはいけないこと』が書かれている。憲法は主権者である一人ひとりの個人が、国家権力に対して縛りをかける最高法規なんです。つまり、国の主人である私たちから権力者に対しての命令が憲法です」(東京大学・小森陽一「憲法を活用して声をあげよう!」;週刊金曜日・555号/2005年5月6日号所収)



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繰り返しになりますけれど、「世界観-歴史観」と「憲法解釈の指針」をつなぐ中間の抽象度の社会思想として天賦人権論を捉えるとき、それは三面六臂、すなわち、三つの顔と六つの腕を持つ阿修羅の如き存在と言える、鴨。つまり、それは、人権観・国家観・憲法観の三個の顔を持った一つのイデオロギーであるだけではなく、憲法解釈に具体的な指針を提供する回路を通して政治の様々な場面でも、それこそ八面六臂の活躍をする社会思想ということです。


白黒はっきり言えば、しかし、「天賦人権論に基づく規定を改める必要があるという立場は国際的な憲法学のスタンダードからは驚くべき話」という認識と主張は二つの点で間違っている。

第一に天賦人権論は多数説ではない。よって、この主張は(アドルノやハーバーマスといったドイツのフランクフルト学派に近しい各国の「一匹狼」を除けば、憲法研究者コミュニティー単位としては、)現在ではほぼ日本に特殊な憲法観からの発言にすぎない。

この「憲法学者」を自称する大阪大学の先生は、「権利:right」や「自由:freedom and liberty 」ではない、「基本的人権:fundamental human rights」などという用語、あるいは、「人権:human rights」という用語さえもほとんど見かけることのない英米の憲法学の実際の状況や憲法運用の実際をご存知ないのか。このことは単なる彼我の用語法の違いではなく、英米の憲法学においては、ここでも白黒はっきり言えば「人類普遍の権利」なるものは存在せず、存在するものは「彼や彼女が人として生まれたことだけを理由に認められ保障される、しかし、英国人やアメリカ人の権利」でしかない(★)ことをご存知ないのだろうか。それとも、「コモンローは自然法だから英米の権利論は天賦人権論だ」(★)とでも言われるつもりなのか。他人事ながら心配になります。


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第二に天賦人権論は通説という意味のスタンダードでもない。所謂「実体概念」は成立しないのだから。ならば、時空を超える普遍的かつ不変的な価値など成立しない。このことが社会科学方法論を含む哲学の<共有財産>になって1世紀が経過しようとしている21世紀初頭の現在、(そのいずれもが現在では絶滅した、「ポスト構造主義」なるものの「モダン批判≒天賦人権論批判」、もしくは、「マルクス主義法学」なるものからの「ブルジョアイデオロギー批判≒天賦人権論批判」は割愛するとしても、)その「実体概念」を葬った、よって、「概念実在論」として一括りにされるヘーゲルまたはマルクスの哲学、および、すべての自然権論が「実体概念」の砂上に建てられた楼閣にすぎなかったことを暴露した、分析哲学・現象学・現代解釈学が世界の哲学、就中、社会科学方法論の主潮流を成していること。

そして、それら三者のすべてが、天賦人権論(the triad and its variants)の必須のパーツと私が規定した(A)「自然権としての基本的人権」なるもの自体を否定すること、これらを憲法学者の鈴木氏はご存じないのか(尚、「概念実在論」に関してはとりあえず下記拙稿をご参照ください)。

諸々の権利の中で国家権力の容喙が一切許されないタイプの権利をドゥオーキンが「切り札としての権利:rights as trumps」となぜ再定義したのか/せざるをえなかったのか、長谷部恭男さんがそれを受けて旧来の「基本的人権」を「切り札としての人権」と「憲法上の権利」になぜ仕分けしたのか/せざるをえなかったのか(天賦人権論による根拠づけが可能ならあるタイプの権利の「切り札」化は不要だったはずなのにね)、その理由をこの憲法学者はご存知ないのか。

更に言えば、天賦人権の必然性を否定する、新カント派、例えば、ハンス・ケルゼンのイデオロギー批判の法哲学、もしくは、法の究極の効力根拠を(法は行為の蓄積の中に遂行的に生成され、よって、その行為の集積の中に事後的に見いだされるものでしかないがゆえに)「明示的には提示不可能な伝統や慣習」に求めるH.L.A.ハートの法哲学は「国際的な憲法学のスタンダード」の一斑をなす認識や主張ではないとでもこの大阪大学大学院高等司法研究科の先生は仰るのか。いくらなんでもそれは無理筋。

ことほど左様に、天賦人権論は多数説という意味でも通説という意味でも「国際的な憲法学のスタンダード」などではないのです。

▼阿修羅の敗退-天賦人権論瓦解の構図
(0)実体概念は成立しない。(1)よって、(A)「自然権としての天賦人権」もその効力根拠を喪失する。これにより、自然権を僭称する「天賦人権=基本的人権」なるものの存在を前提とする狭義・広義すべての天賦人権論は瓦解する。就中、「ABC型の天賦人権論:the triad」は<北斗の拳>であり「もう死んでいる」。

(2)英米の憲法学において、「英国民の固有の権利/米国民の固有の権利」と異なる普遍的な「天賦人権」なるものは、少なくとも、英米の「憲法学のスタンダード」などではない。

(3)上記(1)法哲学的認識と(2)比較法思想的知見は「国際的な憲法学のスタンダード」である。(4)すべてのタイプの天賦人権論(both the triad and the variants)は「国際的な憲法学のスタンダード」などではない。


・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60902921.html


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天賦人権論は瓦解している。そう断言できる。実際、樋口陽一さんが、

「<西欧生まれの人権や自由を押しつけようとするのは文化帝国主義ではないか>という反撥がある。たしかに、文化の相対性ということはある」「人間の尊厳を「個人の尊厳」にまでつきつめ、人権の理念とその確保のしくみを執拗に論理化しようとした近代立憲主義のこれまでの経験は、その生まれてきた本籍地を離れた普遍性を、みずから主張できるし、また主張すべきなのではないだろうか」

「文化の相対性という考えをみとめながらも、人権価値の普遍性を主張することがけっして「文化帝国主義」ではない、という基本的考え方を、どうやって基礎づけるかという思想的ないとなみの責任を、日本の知識人は日本の社会に負っているのであり、日本社会はまた世界に対して負っているのである」なぜならば「文化の多様性を尊重することと、西欧起源の立憲主義の価値の普遍性を確認、再確認することとは、別のことがらである。後者の普遍性を擁護することは、だから、けっして、不当にもひとびとがいう「文化帝国主義」の行為ではない」のだから


と、(少し意地悪に要約すれば、「立憲主義の価値の普遍性を主張することは文化帝国主義ではない。なぜならば「立憲主義の価値の普遍性」は人権価値の普遍性に基礎づけられているからだ。そして、人権価値の普遍性を主張することも文化帝国主義ではない。なぜならば、それは文化帝国主義などではないからだ」というトートロジーを、すなわち、無根拠な単なる自己の真理告白・信仰告白を)『自由と国家』(岩波新書・1989年, p.201ff.)に記してから四半世紀近くが経過すると言うのに、「人権価値の普遍性」なるものが基礎づけられたという話は寡聞にして聞こえてきませんから(笑)。

けれども、上にもそのサンプルを転記したように、天賦人権論(the triad or its variants)に沿った言説は現在でも日本の社会に溢れている。実際、天賦人権論(the triad)は、ごく最近まで憲法の最有力の教科書や基本書--いわば、専門家の卵向けの入門的体系書や体系的入門書--の基調や主旋律をなしていた。不愉快でも不条理でもこれは事実でしょう。では、それはなぜなのか。

それは「死せる孔明生ける仲達を走らす」と通底する事態、あるいは、「ローマは三度世界を征服した。最初はその武力によって、二度目はその宗教によって、そして、三度目はその法によって」というイェーリング『ローマ法の精神』の名言と通底する事態、鴨。些か保守派にとっては不愉快なこの事象の背景と意味を次に考えたいと思います。


(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。



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<続く>




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