瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(4)





◆孔明と仲達-天賦人権論と日本の憲法論議

天賦人権論は瓦解している。この紛う方なき事実と、「天賦人権論に基づく規定を改める必要があるという立場は国際的な憲法学のスタンダードからは驚くべき話だ」とかの間違った認識や主張がこの社会に溢れているという現実は、しかし、残念ながら両立可能な事態でしょう。実際、アメリカでは今でも進化論を認めない人は少なくないし、日本には国際基準の二倍厳しい原発事故避難基準が導入されてさえ、放射線被曝による健康被害が心配で夜も眠られず首相官邸前までデモに駆けつける人がいるらしいのですから。

蓋し、この経緯は、井上茂先生が『自然法の機能―思想史的考察』(勁草書房・1961年)で喝破された、自然法(natural law)が存在するかどうかということと自然法論(natural law theory, the idea of natural law, or natural law thought)--「自然法」や「自然権」なるものが存在するとする認識と主張--が存在してきたことは別の事態であるということとパラレル(ちなみに、「natural law」は「自然法」、「natural laws」は「自然法則」の意味ですよ。「s」があるかないかで大違い!)。

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要は、分析哲学の日常言語学派の源流の一人J.L.オースティンが『言語と行為:How to Do Things with Words』(1962年)で整理したように、言葉を使用する営みである「言語行為:speech act」は、文字通り言葉を発する「発語行為:locutionary act」の位相と重層的に、例えば、検察官の起訴状朗読や裁判官の判決言い渡しの如き「発語内行為:illocutionary act=何かを言うことで何かを行う」位相、更には、例えば、債権回収を請け負った任侠系や神農系の親分さんが債権者に「うちの若いもんはおとなしいもんばかりやのうて、わたしも困っとるんですわ」と呟くが如き「発語媒介行為:perlocutionary act=何かを言うことでその発語内容と意味的には無関係な/必然性の乏しい何らかの事態を惹起させる」位相も存在している。

老婆心ながら申し添えておきますが、これら3個の位相(three aspects)は、ある言語行為を社会の森羅万象から切り取り分節した場合(to articulate)、そのどれかに分類されるといった「行為の種類」ではなくて、ある言語行為が社会の中で観察される場合、観察する視点の違いによってこの3個のいずれかに見えるという「様相の種類」なのです。

これは、例えば、ある一つの事件が、民法的に見れば不法行為であり、刑法的には業務上過失致死罪に該当する犯罪行為、あるいは、行政的には普通運転免許の取消処分に相当する行為でもあるということ通底している。而して、言語行為の位相差をなり立たしめているものは「視点」の違いであり、そして、その「視点」は、ものを見る見方に関する、就中、ある場面である言語行為を「どの位相として見るか」に関する社会に内在する(常識や慣習や伝統と親しい)ルールであると言える、鴨です。閑話休題。

ここで重要なことは、発語内行為の機能や用法は、科学論文が(少なくとも建前上は)それを目指している「外界の事柄を正確に描写する用法」(よって、その記述内容が外界の状況と一致しない場合にはその言語の使用は「偽」であるか「無意味」になる、記述主義的な用法)だけではないということ。

つまり、「天賦人権は存在する」「天賦人権は立憲的意味の憲法の正当性の根拠である」などの言語行為は、記述主義的な用法を意図した発語内行為としては、それがいかに「偽」または「無意味」であるとしても、政治的行為という発語媒介行為としては無意味でないどころか極めて効果的に有害でもありうるのです。而して、言語行為の位相の重層性こそ、瓦解しているはずの天賦人権論が今も<孔明>たりえている理由の一つであろう。と、そう私は考えます。


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言語行為の位相の重層性は、もっとも、天賦人権論や戦後民主主義の言説だけでなくすべての言語行為について言えること。だから、言語行為の位相の重層性だけでは、「なぜ、<北斗の拳>の天賦人権論が--憲法の基本書や教科書といった(建前上は)専ら記述主義的な用法の言語行為の結晶であるはずのものの中に散在しているのか--孔明を演じ続けられているのか」の問いに答えることはできないでしょう。

繰り返しになりますけれど、言語行為、就中、発語媒介行為の位相の言語行為に「社会的な意味を付与する社会的な意味体系」(例えば、「菱の直系の親分さんなんぞに逆ろうたら後々商いができへんようになるんやで」とかいう、遂行的に形成された自生的な意味体系)が天賦人権論に与して力を与えていることだけは間違いないでしょうけれども。

而して、信教の自由はこの国で認められている。ならば、左翼・リベラル派が個人的にキツネを拝もうがタヌキと踊ろうが勝手であり、天賦人権論を拝むのも戦後民主主義のリズムにあわせて踊るのも勝手ではある。けれど、天賦人権論が<孔明>を演じ「三度目のローマ」を演じていることの害毒は看過黙止できることではない。

ではどうする。コミンテルンやユダヤの「反日陰謀史観」でも持ち出しますか。あるいは、「バカの壁」や「B層認定」でも。蓋し、そのような<説明や解釈>はあまりbeautifulではない。なにより、そのような<説明や解釈>は、左翼・リベラル派を言論戦で粉砕して広範な世論を形成し、もって、憲法改正もしくは憲法破棄という保守派の政治目標を可及的速やかに達成する上では百害は知らず、しかし、一利もないことは自明のように私には思われます。マルクスも『フォイエルバッハ・テーゼ』で言っているではありませんか、<解釈>ではなく<変革>が重要なのだと。

The philosophers have only interpreted the world, in various ways;
the point is to change it.
哲学者は単に世界をさまざまに解釈してきただけなのだ。
重要なことは世界を変えることなのに



昔と言えば昔ですが、終戦直後からほぼ半世紀の間、今から20年くらい前まで日本の大学の経済学部の講義の半数近くは、それは経済学などではない「マルクス経済学」なるもので占められ、真っ当な経済学は「近代経済学」という世界中探しても日本でしか見られない名称で呼ばれていました。そして、「バカの壁」ならぬ、ベルリンの壁が1989年に崩壊、ソ連が消滅し人類史における社会主義の敗北が確定したのが1991年。

それから僅か2~3年後、日本の大学でも(少なくとも、表面上は、)「マルクス経済学」なるものはほぼ絶滅したか/絶滅危惧種に指定され、学部で使われるテキストのタイトル名も「近代経済学」から世界標準の「経済学」に変わった。何を言いたいのか。それは、憲法論においては今でも死せる孔明が仲達を走らせている背景には、なんらかの理由があるに違いないということです。


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ダイハードで頑強な(robust)天賦人権論。思想として日本社会で生き残るその生命力、すなわち、天賦人権論の社会思想としての頑強さ(robustness)の理由はなにか。私は、例えば、「5文型論の日本におけるガラパゴス化」と同様、それが謬論にせよ、現象の理解や問題解決の指針の提示等、政治的や社会的なイシューに関してそれなりに<認識枠組み>としての効能、換言すれば、ある種の説得力をそこそこ保っていることがその究極の理由ではないかと考えます。要は、他の社会思想からの十字砲火的の批判をものともせず打たれ強く、他方、砂上の楼閣にせよ説得力を感じさせるビジョンを提示する能力を天賦人権論は失っていないのではないか、と。「マルクス経済学」なるものが消滅した事態と併せて反芻するにそう思わないではない。整理します。


▼天賦人権論の頑強さの秘訣
(2a)ビジョンの提示能力←(3)天賦人権論の帯びる<物語性>
   ↓     
(1a)思想のマーケットの支持(状況的頑強さ)
   ↓
(0)思想として日本社会で生き残る生命力(総合的頑強さ)
   ↑
(1b)批判に打たれ強い(論争的頑強さ)
   ↑         ↑
(2b)内的リゾーム構造 (2c)外的リゾーム構造
   ↑         ↑
(3)天賦人権論の帯びる<物語性>



天賦人権論の頑強さの理由の理由。思想として日本社会で生き残る生命力という意味の天賦人権論のトータルでの頑強さの理由はなにか。それは(些か、同語反復の節もなきにしもあらずですけれど、社会状況的には)、マーケットの支持を獲得できることでしょう。正確には(1a)思想のマーケットの支持。そして、天賦人権論がマーケットの支持をそこそこ保っている秘密、要は、状況的な頑強さの原因の原因、頑強さの背景の背景は、謬論にせよ、また、比較的にせよ、(2a)社会や国家の諸問題について、水戸黄門や大岡越前の如き「勧善懲悪」でわかりやすい、明確・平明・総合的なビジョンを提示できるタイプの社会思想であることではないかと思います。

他方、他の社会思想からの攻撃に対して打たれ強いという意味の頑強さ、謂わば(1b)「論争的頑強さ」についてはどうか。蓋し(これらは1枚のコインの裏表なのかもしれませんけれど)、(2b)冒頭の「天賦人権論」の定義を想起していただきたいのですが、天賦人権論はかなり多様な、そして、ある意味、曖昧な内容の幾つかの社会認識や社会思想によって構成されており、加之、(2c)戦後民主主義や護憲的な憲法解釈の指針と共存関係や協働関係にあるとも考えられたように、天賦人権論は、戦後民主主義を始めとする他の社会思想と緩やかな連合を形成しつつ/単体ではなく複合的なイデオロギーとして言説空間に立ち現れること。これがその理由ではないでしょうか。

インターネットがそもそもその発想と目的で開発されたように、あるいは、指揮系統が明確な上意下達の任侠系や神農系の組織の取締より、指揮系統などあってなきが如き元暴走族メンバーの半グレグループの取締の方が警察当局にとっては厄介らしいのとパラレルに、中心のないリゾーム型ネットワークはダメージに比較的に強いとされ、この経緯は、天賦人権論の帯びている頑強さと通底しているの、鴨。

つまり、(1a)と(1b)という必ずしも相性の良くはないだろう二つの傾向、すなわち、説得力に富みわかりやすいビジョンの発信力、他方、アモルフで曖昧な内外ともにリゾーム型の存在形態とがあいまって、天賦人権論のトータルでの頑強さ、日本社会で生き残る生命力を担保しているの、鴨。と、そう私は考えます。


再度述べますが、しかし、天賦人権論がリゾーム型の形態や構造をとっていることと、それがマーケットの支持獲得に相対的に秀でていることとは通常はトレードオフの関係になっても不思議ではない。ならば、天賦人権論におけるその両者の関係の検討、すなわち、その内外におけるリゾーム型構造とビジョンの提示能力の契機を天賦人権論がどのように折り合いをつけているのかの究明、これが、最終的にこの<悪霊>を日本の社会から退散させるための鍵ではないか。そして、その鍵箱の鍵こそ天賦人権論が帯びている<物語性>ではないのか。そう私は考えます。

而して、この<物語性>の吟味が次節以降の課題になります。些か、そこでの結論を先取りして書いておけば、この<物語性>がゆえに、天賦人権論は別のある社会思想との共存関係/協働関係に容易に入れたのかもしれません。そして、その「別のある社会思想」を「立憲主義」と私が考えているだろうことは、最早、ここまで読み進められた大方の読者が予想しておられることでしょう。


記事タイトルですしね。 ヽ(^o^)丿



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<続く>


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