瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(6)




◆修正された立憲主義

前節で記したEpisode-0を<横串>にして天賦人権論と立憲主義の両者が共生するに至った経緯を整理しておきます。比喩の再言になりますけれども、それは20億年程前のこと、大気中の酸素濃度の上昇にともない、当時のほとんどの生物の細胞組織(真核生物の真核細胞)にとって猛毒物質であったこの酸素に適応すべく、酸素を利用可能な好気性のミトコンドリアを真核生物がその細胞組織に取り込んだとされていることとパラレルに、人類にとって極めて不自然な存在である近代の「国民国家=民族国家」の成立という事態に適応すべく、天賦人権論を中世起源の立憲主義が取り込み共生関係に入った。と、そう私は考えます。逆に言えば、<フランス物語>こそそれなりの頑強さ(robustness)を天賦人権論に付与してきたものだとも。

近代の「国民国家=民族国家」の成立については、人類社会にとって猛毒のイデオロギーである「個人主義:人間中心主義」(すなわち、「人間の万能観-権力の万能観」と「文化帝国主義」もしくは「人命価値の絶対視」)の勃興がその下地になっており、Episode-0の<フランス物語>に赤裸々な如く、天賦人権論と立憲主義を共生・合体させる<触媒>の役割を果たした「社会契約論」はこの「個人主義:人間中心主義」の社会思想的の表現に他ならない。

マルクス経済学なるものの成立と性格について、しばしば、語られる「マルクスは労働価値説という釣り針と一緒に古典派経済学を吞み込んだ」との評を借用すれば、中世的立憲主義は近代的立憲主義に変態するに際して「社会契約論という釣り針と一緒に天賦人権論を吞み込んだ」と言えるの、鴨。尚、マルクス主義に対する私の基本的理解については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139986000.html

・「左翼」の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~ (4)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11148165149.html


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▼天賦人権論
(A)自然権としての基本的人権←論証されえない無根拠の前提
(B)基本的人権を守ることが国家権力の唯一の役割←社会契約論
(C1)憲法は、国家権力がその唯一の役割を果たす上で最適な権力機構を定める←社会契約論
(C2)憲法は、国家権力に専ら向けられた、権力行使の制約←社会契約論

▼Episode-0
(α1)国家権力の成立の説明(中間団体の粉砕のための国家権力の創設)←社会契約論
(α2)国家権力と憲法の関係(憲法は国家権力をしばるもの)←社会契約論
(β1)立憲主義の内容の説明(権利の保障と権力の分立)←社会契約論
(β2)立憲主義の帰結の説明(憲法を遵守することが国家権力の正当性の根拠)←社会契約論


後者に欠けていて前者にのみ存在する「天賦人権論の核」とも言うべき内容は(A)(B)の「基本的人権」の契機であり、逆に、後者にのみ存在するものは(α1)の歴史認識です。こう見れば、この両者はフランス革命時に革命推進派が偶さか同時に唱えはしたものの本来は(歴史的と論理的には)別物であったことが了解できるのではないでしょうか。

蓋し、これらがフランス革命という人類史の特殊な事件に際して偶さか同時に主張されたがゆえに、かつ、社会契約論という共通のイデオロギーを背景にしていたがゆえに、加之、それらが近代の「国民国家=民族国家」の成立という人類史的衝撃に対する一連の対応を形成していたがゆえに、(英米仏に遅れること2世紀から半世紀を閲して「国民国家=民族国家」を樹立した日本では、共生関係を樹立した後の「完成品」としてその両者を継受せざるをえなかった)日本では、天賦人権論と立憲主義はほぼ同一の社会思想の異なるバリエーションと理解されてきたのかもしれません。

敷衍させていただければ、けれども(マグナカルタあるいはウィリアム1世(William the Conqueror)が英国初の土地の権利台帳である「ドゥームズデイブック:Domesday Book」(1085年)の作成と並行して唱導した「王国の一般的慣習:general custom of the realm」が最高法規であるというイデオロギーに明らかなように)、本来、

(Ⅰ)人定法にまさる効力を持つ法が実定法として存在しているという確信
(Ⅱ)権力の行使もまた(Ⅰ)の如き法に従わなければならないという確信


この二つの確信を母胎とする中世起源の「立憲主義-法の支配」と、人間の理性もしくは人間存在の本性からのみ演繹されると詐称する(よって、「個人主義:人間中心主義」のコロラリーとしての)「基本的人権」なるものの普遍性・不変性を説く天賦人権論の共生にはなんの必然性も見られない。

蓋し、このことは、(その建国以来、その憲法運用の実際が立憲主義に貫かれつつも、他方、)天賦人権論を人類史上初めて宣言したとも評される『アメリカ独立宣言』がそのアメリカにおいて一度も実定法秩序の内容になったことがないという事実を想起するとき、満更、朝日新聞の社説の如き我田引水や牽強付会ではないのではないか。と、そう私は考えます。

ならば、(実は、<フランス物語>自体には天賦人権論と立憲主義の共生を保障・保証する契機は存在しないのですから)「理性から見て普遍的なる基本的人権」というその基底が概念実在論の崩壊とともに論理的には瓦解している現在、天賦人権論がその幾ばくかの頑強さ(robustness)を維持できているかどうかは独り社会契約論、すなわち、「個人主義:人間中心主義」の説得力(persuasiveness)の帰趨に収斂する。而して、「社会契約論」の検討が次節の課題になる。けれども、その検討の前哨として更に「立憲主義」について吟味検討しておきます。それは、基本的人権の<神通力>の消失という事態を受けて、立憲主義自体が現在では<フランス物語>がイメージさせるものとはかなり異質な別ものに変化しているのではないかと思うからです。


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本来、立憲主義は(例えば、①中世の立憲主義では、マグナカルタに象徴されるように「人間の記憶さえ拒否するほど古から存在する伝統と慣習」によって認められてきた/認められてきたと考えられてきたことが、そして、②フランス革命時の近代立憲主義では「権利の基本的人権性」がその権利の価値の根拠だったこと、あるいは、前者①では封建的の「御恩と奉公」との互恵関係が、後者②では「所有権の不可侵」「契約の自由」「過失責任主義」等々のブルジョア的社会関係がその権利の内容であったことからも自明のように)、「権利の具体的内容」や「権利の価値根拠」を欠く論理(それ単独ではそれらを演繹も正当化もできない論理)でしょう。

よって、近代立憲主義の成立に際しては、国家権力の統治機構のグランドデザインをロックやモンテスキュー等のアイデアから拝借せざるをえなかったのと同様、近代の「国民国家=民族国家」における憲法原理としてそれが機能する上で、不可欠なパーツであろう「権利の具体的内容」や「権利の価値根拠」を立憲主義が天賦人権論との共生によって賄ったことは論理的には偶然でありながら歴史の必然だったの、鴨。もっとも、この必然性は、よって、その必然性がテクストとして公共の言説空間に分節された<フランス物語>は、天賦人権論の瓦解と立憲主義の変容とともに現在では単なるお伽話、<ベルサイユの薔薇物語>にすぎなくなっているのですけれども。

この節の結論を先取りして述べれば、<フランス物語>が<ベルサイユの薔薇物語>に変化したことによって(その内容ではなくそれの世間での受け取られ方が変化したこと、要は、それを巡る言語行為が、その言語行為の位相を決定する社会の伝統や慣習--社会的な意味を付与する社会的な意味体系--の変化にともない、記述主義的な用法としての発語内行為ではなく政治的行為という発語媒介行為に移行したことにより)現在における「立憲主義」はEpisode-0の認識と主張からイメージされる<フランス物語>とは別物、謂わば「修正された立憲主義」と呼ぶべきものに変化しているのではないか。

よって、もし、それが<ベルサイユの薔薇物語>に寄生するだけの社会思想であるなら天賦人権論は論理的に瓦解しているのみならず、その頑強さにおいても、日本の民主党や社民党の党勢同様に斜陽の一途と言える。逆に言えば、現在において天賦人権論がそうそう侮れない頑強さを保っているらしいことの背景には、天賦人権論もまたその「修正された立憲主義」に、再度、潜り込み現在では修正されているの、鴨。すなわち、「憲法が守護すべき権利が制約される場合を権利間の相互調整の場合にのみ限定する」という認識と主張にそれは変化しているのだと思います。

而して、私が想定する、(天賦人権論の与力となるタイプの)現在における「修正された立憲主義」とは次のようなEpisodeからイメージされる、より希薄な内容の、他方、その根拠が法や社会の事物の本性から基礎づけられるタイプの(長谷部恭男さんの表現を借用させていただければ)「アメリカンなもの」です。

▼Episode-1
(γ)国家の権力と権威の正当性の根拠は、(γ1)論理的な前提としての社会契約の存在、すなわち、国民主権の原理もしくは民主主義の価値を国家権力が尊重すること、および、(γ2)国家権力が、たとえ、その国家社会の多数派の意向によってさえも奪われることのない普遍的かつ不変的な権利(彼や彼女が人間であることだけを根拠に認められるべき人間としての固有の権利)を社会の多数派の意志に抗してさえも守護すること/間違っても国家権力自体がそのような権利を侵害しないことである。

(δ)国家の権力の機構には、よって、(δ1)立法・行政という政治セクターとは独立の司法セクターが組み込まれなければならず、(δ2)司法セクターには立法・行政という政治セクターの行為を法に従い無効にする権限が与えられなければならない。--(Episode終了)



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要は、(γ)において(γ1)を採用せず、(γ2)を、例えば、「なんらかのルールで決まった権利を、かつ、社会の多数派からも守るための統治の仕組みを国家権力が備えていること」に置換すれば、修正された立憲主義は保守主義とも協働可能な中庸を得た社会思想と言える。と、そう私は考えます。

敷衍すれば、現在における立憲主義一般は、実体概念の崩壊とともに崩壊した「基本的人権」なる妄想を払拭した、他方、社会契約論とはニュートラルな位置にある「修正された立憲主義」でもありうるということ。

而して、その言葉自体も多義的で曖昧ではあるのですが、これまた長谷部恭男さんの言われる意味での現在における「法の支配」(長谷部恭男『比較不能な価値の迷路』(東京大学出版会・2000年,p.149)のイデオロギーと合体したこのアメリカンな立憲主義は毫も(すくなくとも、<ベルサイユの薔薇物語>に寄生する古典的な)天賦人権論の与力でも援軍でもない。と、そう私は考えます。而して、その「敵か味方か」の動向の帰趨は、修正された立憲主義の外部にある社会契約論に対する論者の好悪によって変わってくるのだろうとも。

けれども、本稿では叙述の便宜上このEpisode-1型の(社会契約論がビルトインされ天賦人権論と親和的なタイプの)立憲主義を「修正された立憲主義」と呼ぶことにします。尚、「法の支配」に関する私の基本的な理解については下記拙稿をご参照ください。


・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5a21de3042809cad3e647884fc415ebe


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<続く>



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