瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(7)




蓋し、現在、「立憲主義:Constitutionalism」という言葉には
概略次の4個の意味があると思います。

「立憲主義」の4個の意味
(1)基本的人権を前提とする「権利の保障」と「権力の分立」を要請する主張
(最も弱い、近代立憲主義、ベルサイユの薔薇型の立憲主義)

(2)基本的人権を前提としない、しかし、なんらかの普遍的価値を想定した
「権利の保障」と「正規の法:regular law」に沿った権力行使を要請する主張
(弱い、イギリス型の立憲主義)

(3)基本的人権を前提としない、しかし、なんらかのルールで決まった権利を、
かつ、社会の多数派から守るための統治の仕組みを要請する主張
(強い、アメリカンな立憲主義、リベラル・デモクラシー型の立憲主義)

(4)統治機構が憲法や慣習に従い構成され、
権力の行使が憲法や慣習に則って行われることを要請する主張
(最も強い、古典的立憲主義、外見的立憲主義)


これらの「立憲主義」の中で、私の言う「修正された立憲主義」は、(3)「アメリカンな立憲主義、リベラル・デモクラシー型の立憲主義」に分類されます。ちなみに、社会契約論に対する評価は正反対でしょうが、例えば、『憲法学のフロンティア』(岩波書店・1990年)の「第1章-リベラル・デモクラシーの基底にあるもの」における(究極的価値の比較不可能性の認識と国家を人類にとって不自然で異様な存在という認識を基盤とした)長谷部恭男さんの立憲主義の捉え返し、脱構築の帰結と私見はほぼ同じだと思います。

実際、(社会契約論に好意的なタイプの修正された立憲主義である)「リベラル・デモクラシーは文化帝国主義か」という問に対して、

「確かにそれは西欧社会で生まれ育った知恵であるが、その適用範囲が西欧文化圏とどまるべき理由はない。・・・もっとも、異なる文化の平和共存をはかる方策がリベラル・デモクラシーに限られていないことは事実である」(ibid., pp.12-13)


と述べ、結局のところ、その普遍性の論証について白旗を掲げておられる潔さを私は高く評価します。もっとも、私のこの白旗判定は、結局、「文化帝国主義」という言葉の定義の問題でしょうけれどもね。いずれにせよ、「長谷部恭男-護憲派の最終防御ライン」侮り難しということ、鴨。

尚、日本では、「古典的立憲主義」として(2)の英国流の立憲主義をそこに含め、逆に、「悪法も法なり」の悪しき法治主義に立つものとしてときに軽蔑をもって語られるドイツ流の(4)の「外見的立憲主義」とその「古典的立憲主義」を区別する用語法が一般的かもしれません。けれども、本稿では憲法によって守護されるべき権利の内容と根拠に焦点をあてており上の如く分類しました。


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これは、「立憲主義」を巡る、論者の左右のイデオロギーを問わず、現在では共通の認識だと思いますけれど、立憲主義と民主主義は原理的に対立する社会思想です。

蓋し、(アメリカにおいて過半の国民が賛成している妊娠中絶の禁止や同性婚の法規制が司法の場では違憲論が優勢になる気配を想起すれば明らかなように)国民主権の原理、就中、民主主義のイデオロギーと憲法が守護すべき権利の価値の根拠との間には必然性はありません。逆に言えば、<立憲主義>とは、ときに鋭く対立する両者、民主主義のイデオロギーと、他方、権利の守護の両者のバランスを取る憲法原理とも言える。

畢竟、(γ1)「社会契約-国民主権」の契機と(γ2)「少数派の権利としての人権」の契機は矛盾することはあっても取りあえず無関係。よって、<北斗の拳>の天賦人権論が(「基本的人権」なるものの普遍性の論証を断念した上で、ただ、「公共の福祉による権利制約は権利相互間の調整の場合にのみ許される」という、これまたアメリカンな権利論として)「修正された立憲主義」に再度潜り込み思想のマーケットで生き残ることができるかどうかは端的には(γ2)の妥当性に収束する。

要は、少数派の要求の中にこそ「基本的人権」なるものが含まれていると言える根拠、加之、その認定がどのような根拠で可能と言えるのかということ。これが、この死せる孔明の頑強さを突き破るための詰手であろうということです。けれども、社会思想のリゾーム構造のより深層に位置する「個人主義:人間中心主義」を媒介にして(γ1)の社会契約論と(γ2)の権利論は通底している。もって、修正されたにせよ天賦人権論、ならびに、修正された立憲主義の打破は--論理的にも頑強さにおいても--やはり社会契約論の吟味検討にかかっている。再言すれば、天賦人権論がその頑強さ(robustness)を維持できるかどうかは独り社会契約論、すなわち、「個人主義:人間中心主義」の説得力(persuasiveness)の増減の帰趨に収斂する。と、そう私は考えます。

些か次節の結論を先取りして書いておけば、修正された立憲主義もまた、しかし、近代の諸憲法と国家権力の唯一の正当化原理ではない。要は、修正された立憲主義もまた「立憲的意味の憲法」なるものをそうではない他の憲法からより正当性の高い憲法として<聖別>できる<神通力>は保有してはいない。畢竟、修正された立憲主義、あるいは、そのリゾーム構造の頑強さの前提としての社会契約論の説得力は、突き詰めれば、「そうとでも考えないと他に国家権力や国民の自由を制約するその権力行使を正当化することはできない」という消去法的、消極的なものにすぎないのだと思います。


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ことほど左様に、蓋し、Episode-1の<物語>を受け入れるとすれば、要は、社会契約論に好意的な修正された立憲主義を国家権力の唯一の正当化原理と考えるのであれば、次のような主張もまた肯定されるの、鴨。

(ⅰ)「天賦人権」や「社会契約」は歴史的の概念ではなく、それは、論理的や規範論理的な事柄である。而して、(ⅱ)内容的な普遍性は持ち合わせないものの、「公共の福祉を理由にしても制約されてはならない国家権力に対する切り札」という形式の権利(権利概念)が存在するし、(ⅲ)そのような論理的や規範的な意味でその言葉を捉える場合、「天賦人権」は、よって、天賦人権論は立憲的意味の憲法の基盤となるだろう。よって、( ⅳ)本来、国家権力を縛るきめごとである憲法の条項の中に国民の義務規定を拡充する、あるいは、公共の福祉により権利が制約されるケースを「権利相互間の調整」以外にも認めるなどは、少なくとも、立憲的意味の憲法を持つ社会では許容されない、と。


立憲主義が修正されるにともない天賦人権論も修正され、嘘にしてもそれらが説得力を持つ事情の根底には社会契約論と、それらと親和性の高い次のような認識と主張が、Episode-1の更に深層に横たわっているだろうということ。「修正された天賦人権論」の内容とともに整理しておきます。

▼修正された天賦人権論のエッセンス
①憲法が守護すべき権利を「社会の弱者や少数派の利益と読み替え」
②それを「公共の利益を理由にしても制約されない法的効力を帯びる法益」
と捉える権利論

▼修正された天賦人権論
(A’)社会の弱者や少数派の利益としての権利
(B’)権利を守ることが国家権力の唯一の役割
(C1)憲法は、国家権力がその唯一の役割を果たす上で最適な権力機構を定める
(C2)憲法は、国家権力に専ら向けられた、権力行使の制約


▼Episode-1’
(ε1)本来、等価であるはずの諸個人が、自己の行動を制約する権限と権威と実力を、想像の共同体にすぎない、すなわち、観念の集団的な表象にすぎない国家権力に認め、その支配に(積極的であるか消極的であるかは別にして、しかし、遵法の様態を取りつつ)服従するなどという、考えてみれば尋常ならざる事態が具現するためには、①諸個人が被支配者であると同時に国家権力の支配に参画しているという「支配と被支配の自同性=治者と被治者の同一性」がなければならず、②その自同性を確立するとりきめ、すなわち、国民総体を主権者と確認する社会契約が前提される。

(ε2)(社会の多数派は自己の行動をその意に反して制約される蓋然性は少ないだろうから、結局、)社会の少数者の自由を、それが、人間としての固有の権利と看做される限り、国家権力が社会の多数派の意志に抗してさえも守護するのでなければ、国家権力は、単なる「多数支配のための暴力装置」、あるいは、単なる国家社会の個々のメンバーの利己的な欲望の合算や均衡としての「全体意志を執行するための行政機構」でしかないだろう。

そうでなければ、少数者をもその国家社会の仲間として包摂可能な、よって、少数者からも遵法の様態を帯びた服従を引き出しうる「国民の一般意志を具現する政治的国家の体制」になり得るはずはないから。畢竟、基本的人権の価値--個人の尊厳や人間の解放といったより上位の観念を「基本的人権」と置き換えるにせよ--こそ、国家権力の正当性の究極的な根拠である。--(Episode終了)



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Episode-1の根底にはEpisode-1’といったある特殊な人間観や社会観が横たわっているの、鴨。Episode-1よってEpisode-1’は、しかし、論理的に成立しないか、あるいは、憲法や国家の概念や事物の本性の多くを看過している謬論。そう思います。

尚、「憲法」の概念に関する私の基本的な考えについては下記拙稿を参照いただければ嬉しいです。而して、本稿全体の結論を先に述べておけば、次の通り、

現在における<立憲主義>の具体的な内容やそれが守護しようとする権利の認識根拠と権利の価値の正当化根拠は、すべからく、遂行的な行為(performative acts)の蓄積の中で確認されるしかない、自生的に紡ぎ出され編み上げれた秩序である。すなわち、現在における立憲主義の内容や根拠は<言語ゲーム>の中で確認されるが説明はできないものではなかろうか、と。


・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11145667266.html

・保守主義-保守主義の憲法観
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html


再々になりますけれども、Episode-1の(γ1)と(γ2)が一応無関係であり、社会契約論自体は「基本的人権」なるものの正当化根拠としてはニュートラルと言える。けれども、「そうとでも考えないと他に国家権力や国民の自由を制約する権力行使を正当化することはできないだろう」という消去法的な契機を媒介にして、天賦人権論は社会契約論から説得力の分配を受けている、鴨。しかし、社会契約論の<物語>は本当に「そうとでも考えないと他に国家権力とその権力行使を正当化できはしない」ものなのでしょうか。

巷では、ジョン・ロールズの『正義論:A Theory of Justice』(1971年)の「格差原理:社会の有する資源の社会的な傾斜配分は最も不遇な立場にある人の利益を最大にすることを準則としてなされなければならない」という認識と主張を称して(これは日本史上最低の首相がほざいていた「最少不幸社会」とも通底する主張ですが、)「逆差別の正当性が証明された」とか述べる向きもある。

しかし、これまた、「誰しも不幸になる可能性があり、ならば、社会の資源の分配は不幸な境遇にある人を基準に行われるべきだ。なぜならば、不遇でないときには社会的な支援は比較的必要性が乏しいから。そして、誰しも最悪の状態に陥ることを最大限回避しようとするはずであり。ならば、今はそう不幸ではない人々もこの準則を支持せざるをえないから」とかなんとかいう単なる思い込みを書き散らしたものにすぎないの、鴨。蓋し、社会契約論の説得力の度合いも「格差原理」なるもののそれとあまり変わらない。そうではありますまいか。



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<続く>



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