瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(8)




◆社会契約論の崩壊と天賦人権論の瓦解

社会契約と「平等で均一なる個人」なるものが歴史的概念ではなく論理的あるいは権利論的な概念であることは了解できるとしても、社会契約なるものに規範的や政治哲学的な価値を認めない論者に対して、修正された立憲主義や修正された天賦人権論を信奉する論者ができる批判は、社会契約をその基底で支えている人間観の正しさに対する確信の吐露、真理告白・信仰告白の言語行為(発語媒介行為)しかないでしょう。

ならば、この深層まで潜行した場合、上述の如く、(γ1)「社会契約-国民主権」の妥当性の検討作業は(γ2)「少数派の権利としての人権」の妥当性の検討作業と再合流する。繰り返しますけれど、両者には論理的の必然性はないけれども、「個人主義:人間中心主義」の人間観や社会観を共有している点で、両者は「非ユークリッド空間に引かれた交差する二本の平行線」の関係にあるということ。

よって、憲法が守護すべき権利を、「社会の少数派の主張であり、かつ、公共の利益や公の秩序を理由にしても制約されない法的効力を帯びる法益」と規定する修正された天賦人権論の妥当性は、究極の所、(ⅰ)社会契約がそれを可能と想定する「国民の一般意志を具現する国家体制」の妥当性、そして、(ⅱ)多数決をオーバールールしてさえも守護されるべき権利の効力根拠の(要は、(γ1)と(γ2)が共通の前提としている「平等で均一なる個人」なるものの)妥当性に収斂するのだと思います。社会契約論の深層に横たわる人間観--「個人主義:人間中心主義」--の検討こそ<ロドス>である、と。

Hic Rhodos, hic salta!
Rhodes is here, here perform your jump!
ここがロドスだ、ここで跳べ!
(『資本論』第1巻2篇4章2節)



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蓋し、天使でも狼でもない存在としての人間。そんな人間存在を前提とする場合、社会契約論は、「憲法や国家や社会を人間はかなりの程度自由に変革することができる」という立場に立つ(ハイエクの言う「設計主義的」な)極めて特殊な社会認識にすぎない。

而して、そのような人間存在が形成する国家社会において、ある政治的決定の正しさを論理的かつ必然的に保証する「一般意志:個人的利益を追求する個々人の「意志の合算:全体意志」ではなく、国家社会の共同の利益のため各人がその利己心を捨てて一体となった国民の意志」なるものが認識可能である根拠をこの主張の源泉であるルソーはもとより誰も提示できていないことが、社会契約論が、実は、開業と同時に破産していた経緯を物語っているのではないでしょうか。

ルソーの議論は、一般意志が顕現する国家社会を可能にするキーパーソンである「立法者」という言葉を発明はしたけれど(後に、フランス革命時のジャコバン派やロシアのボルシェビキを始め、その「立法者」を僭称する権威主義的な前衛党や人物に人類史に残る人権蹂躙の舞台と機会を準備した他は)問題を先送りしただけなの、鴨。

要は、修正されたにせよ立憲主義と天賦人権論は(よって、それらの議論を包摂する「戦後民主主義とリゾーム構造を形成する憲法論は)、それらが社会契約論の釣り針を吞み込んでしまっている限り、次の3段階の階層構造の上に立てられた認識と主張である。けれども、この階層構造自体が巨大な空中楼閣にすぎないと考えます。

(1)社会契約による、一般意志を具現する政治的国家の体制の確立の可能性の確信
(2)一般意志を国家の政治的決定に反映させうる立法者の存在の確信
(3)一般意志を知りうる立法者を国民が識別選定できる可能性の確信


この階層構造の空中楼閣は、例えば、セイの法則「供給は需要を創出する」の滑稽と通底する、あるいは、「憲法9条を堅持すれば日本を巻き込むような戦争はおきない」等の、願望と論理、必要と必然、理想と現実を混同した妄想にすぎない。それは「一般意志に導かれなければ、各自が自由と平等を享受可能な国家社会を形成運営できないのだから、一般意志を知りうる立法者は存在するはずだ」という、願望や必要からの逆算にすぎないの、鴨。アホか、です。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。


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而して、噴飯ものの疑似論理性に加えて、それは、「真理とは反証可能性である」「真理と虚偽を峻別するものは究極的には時代時代の人々の常識であり社会に憑依している認識のパラダイムである」と謙虚に捉える現在の認識論の主流、例えば、カール・ポパーやトマス・クーンの地平からは到底容認されない戯言である。よって、そのような社会契約論が記述主義的な用法の発語内行為によって紡ぎ出され編み上げられるべき「国際的な憲法学のスタンダード」の一斑たりうるはずもない。と、そう私は確信しています。

敷衍しておけば、戦後民主主義とリゾーム構造を形成する憲法論では、権利の根拠を「権利の天賦性」と措定して、「主権国家=国民国家」を論理的にも法的効力の面でも超える自然権、あるいは、(例えば、社会契約によって一般意志を具現する国家の体制を確立できるとする)人間存在の本性なるものから演繹する。しかし、その権利の内容は(英米における憲法運用の実際とは異なり、必ずしも遂行的な営みの中で自生的に(spontaneously)構築されたものではないから、)個々の論者の主観的や党派的な表象や願望が混入せざるをえない。

例えば、日本の現在の憲法学の通説を代表する芦部信喜『憲法制定権力』(東大出版会・1983年)、あるいは、定評ある『法律学小辞典』(有斐閣)には格調高くこう書いてある。けれども、その認識と主張の根拠は全く提示されていない。要は、このような主張もまたその根拠は「そうとでも考えないと国家権力や国民の自由を制約するその権力行使を正当化できはしない」というかなりショボイものなの、鴨です。

「人間人格不可侵の原理は、近代憲法の基本的価値を表示する根本規範・・・であり、それは憲法制定権力をも拘束する【その原理を逸脱する憲法の制定は許されない!】」(芦部ibid.,p.39 )

「制憲権【=憲法制定権力】には内在的な制約があると考えられており、近代憲法の根本規範、例えば、人間価値の尊厳というような普遍的原原則を踏みにじる秩序の創設、制憲権の発動ではない。それはあらわな事実力による憲法の破壊にほかならない」(法律学小辞典)



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英米の主流の憲法論は、これに対して、その権利が守られねばならない根拠を(国際人道法の領域での議論を別にすれば)、専ら、「伝統と慣習として自生的に編み上げられてきた英国民/米国民の固有の権利」ということに求める。かつ、英米法圏では権利の内容も憲法運用の実践の中で形成された具体的なもの。

ことほど左様に、英米の憲法運用を鑑みるに、権利がなぜ守られねばならないかの根拠自体は(逆に言えば、「なぜ民主的なプロセスを経て形成された組織ではない司法セクターが民主的なプロセスを通して決定された政治セクターの法規や行為を無効にできるのか」ということの根拠自体は)説明できる事柄ではなく、ウィトゲンシュタインの<言語ゲーム論>そのままに、それは遂行的に実践され認識されるしかないものである。この認識が<立憲主義>が現在もその正当性を保持可能な唯一の道ではないか。と、そう私は考えます。

而して、権利の内容についてはどうか。簡単な話です。所謂「生存権」が基本的人権なるものであるとして、では、飢えと疫病と戦乱で今この瞬間も苦しんでいる世界の子供達に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する責務が日本やフランスの政府にあると言えるでしょうか。

否です。否であるからこそ、逆に、手弁当でその支援救済に取り組むNGOやNPOの活動を、一抹の胡散臭さを覚えつつも我々は容認するのではないでしょうか。否であるからこそ、否であるのに、生命の危険を顧みず、現地で活躍している自衛隊の諸君やアメリカ軍の諸氏を我々は誇りに思い尊敬と感謝の念を懐くのではないでしょうか。

蓋し、文字通り生命の危機に瀕している外国人を救済する責務を任意の国家に課さない権利に「天賦」や「基本的」などの形容句をつけた所で、ありていに言えば、そのような権利は「その国民にとって固有の--国家権力によって奪われてはならない--権利」以上のものではなかろう。他方、あらゆる<国家>が、国益を異にする諸外国との競争と協力の関係から離脱できない状況下にあるという現実を看過しない限り、<国家>が究極的に国民の生存と繁栄を使命とする存在である限り、憲法が守護する権利は権利相互間の調整とは別に「公益」もしくは「公の秩序」だけを理由に制約されることもありうることは当然である。そう私は考えます。


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畢竟、個々の権利が現実具体的に当該の国家社会の中でどのような内容を持つのかは個々の国家社会によって異なる。また、それは時代の推移につれて変容しうる。要は(他国や他の法圏からの「権利の種類や内容に関するアイデア」の伝播・継受はあるとしても)、権利の具体的な内容は、個々の国ごとに、かつ、時代時代の国民の法意識によって定まるもの。

白黒はっきり言えば、権利の具体的な内容は、国籍、ならびに、国民の常識または国家社会に蓄積している伝統と慣習、あるいは、国家予算と景気動向の関数にすぎないのです。

よって、次のような(法廷メモ訴訟で有名な)ローレンス・レペタ氏の言説は、人権規約が「公の秩序」による権利制限を一切認めないことはないという初歩的な誤謬は置いておくとしても、「立憲主義」の妥当性の根拠の検討を看過したお伽話、あるいは、左翼・リベラル派からの政治的な発語媒介行為にすぎないことは説明するまでもないでしょう。

「日本の憲法制定は、孤立した出来事ではなく、世界に広がる人権運動の一つだった。・・・人権規約などに規定される個人の権利は「公の秩序」や恣意的な制限を受けることはない。今回の【自民党の憲法改正草案に沿った】改正が実現すれば、日本は世界の立憲主義の民主主義国家の体勢と違った道を歩むことになる」(毎日新聞・2013年2月25日


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国家社会が置かれている現実と自説の根拠を看過する天賦人権論は、国家予算額に端的な有限なる国家権力が権利を守護できる能力の度合い、および、国民の法意識の所在、それらと無関係に、自己の好む内容をアプリオリに「基本的人権の一斑」と称してその守護を国家権力と国家社会に迫るものでしょう。

ならば、冒頭に転記した朝日新聞の元旦社説に赤裸々な如く、戦後民主主義とリゾーム構造を形成する憲法論は、主権国家の権威を相対化する悪趣味であるだけでなく、ある国家社会で確保されるべき権利の内容を混乱させ、あるいは、空虚にする有害な社会思想なと言える。

サリン事件が露わにした如く社会的に見れば極めて少数のカルト集団が一国の首都で化学兵器を使用できるような現在。<9・11>が証明した如くテログループが世界最強の国家の中枢に民間旅客機を用いた同時多発テロを敢行できる現在。要は、情報と知識、物流と金融の地球規模の拡散によって少数の人間集団が主権国家の能力をある面で凌駕することが可能な人類史段階にある現在。私はその感を深くします。

畢竟、国家権力を「可死の神」の如き万能のものと捉える社会契約論、および、天賦人権論はその人類史的の妥当性、すなわち、頑強さと説得力を喪失している。畢竟、ハイエクが喝破した如く、「設計主義的」な社会思想は有限なる人間存在が形成する有限なる国家社会を機能させる主動力にはなりえない。なぜならば、人間中心主義は破綻しているから。

而して、その基盤たる人間中心主義の破綻にともない社会契約論も崩壊せざるをえず、
天賦人権論の瓦解もまた同様である。そう私は考えます。



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<続く>




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