瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(9)




◆実質的意味の憲法と言語ゲームとしての立憲主義

社会契約論と疎遠なタイプの<立憲主義>は成立可能。私はそう考えます。このことを、本稿の理路を検算する中で裏面から最後に一瞥しておきます。まず、本稿の理路。

(甲)戦後民主主義からの憲法理解は、(a)フランス流の、しかし、現在では(英文法のガラパゴス化した「5文型論」とパラレルに、ほとんど)日本にだけしか存在しない「天賦人権論」もしくは「修正された天賦人権論」と(b)社会契約論、および、(c)「修正された立憲主義」の三者が結合したものである。

(乙)戦後民主主義からの憲法理解、あるいは、天賦人権論が世界中の現在の形式的意味の憲法に採用されているわけではなく、まして、近代以降の憲法である限り世界中の憲法にそれが具現されるべきだと言える根拠も存在しない。

(丙)戦後民主主義からの憲法理解は、国家権力の権威を不当かつ不必要に毀損するだけなく、ある国家社会における人権保障のパフォーマンスを劣化させる危険性を孕んだ憲法の杜撰かつ拙劣な理解である。



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戦後民主主義と親和性の高い「天賦人権論に基づく規定を改める必要があるという立場は国際的な憲法学のスタンダードからは驚くべき話だ」などの言説がまずは覚悟すべき批判は、端的に「世界の憲法の多数は天賦人権論やそれと結合した立憲主義を採用してはいない」ということでしょう。このことは、米英・ドイツ・イスラーム諸国の憲法と憲法運用の実際を想起すれば誰しも思い半ばに過ぎること。

例えば、国教を定めている英国、あるいは、ドイツの<憲法>における「政教分離」規定に露わなように、<ベルサイユの薔薇物語>のパーツとしての「国家権力による中間団体の粉砕」という<物語>にしてからが荒唐無稽。ならば、人間存在を伝統から切り離された、主権や権利の論理的や規範的の単なる帰属点、換言すれば、抽象的な<アトム的存在>であり、よって、<世界市民>なるものと地続きの存在と理解する、朝日新聞に代表される戦後民主主義的の人間観とリゾーム構造をなす憲法理解は、歴史的にも地域的にも極めて特殊なものにすぎないと思います。

ドイツ基本法
7条3項「宗教教育は、公立学校においては、非宗教的学校を除き、正規の教科目とする。宗教教育は、宗教団体の教義に従って行うが、国の監督権を妨げてはならない。いかなる教員も、その意思に反して宗教教育を行う義務を負わされてはならない」

140条「1919年8月11日のドイツ国憲法【ワイマール憲法】136条、乃至、139条および141条の規定は、この基本法の構成部分とする」

ワイマール憲法137条
5項「宗教団体は、従来公法上の団体であった限りにおいて、今後も公法上の団体である」
6項「公法上の団体たる宗教団体は、市民的課税台帳に基づき、州法の規定の基準にしたがって、課税する権利を有する」



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戦後民主主義と親和的な憲法理解に寄せられる第二の、そして、最も本質的な批判は「実質的意味の憲法は天賦人権論に拘束されない」ということ。尚、「実質的意味の憲法」とは憲法典ではない制定法・判例法・慣習・憲法の事物の本性・憲法の概念といった法の存在形式を取りつつ国家権力の構成と国家権力の正当性の根拠を供給している最高法規のことです。

例えば、アメリカにおいて、「実体的デュープロセス:substantive due process」の理論は、19世紀末葉から1937年-1938年のニューディール政策の中期に至るまでは、ニューディールの立法を違憲判決で次々に葬る、契約の自由のたよりになる守護神だったのが、今ではプライバシーの権利や同性愛者の権利なるものを擁護するための<小道具>としてしばしば用いられている経緯。あるいは、表現の自由の規制に対する司法審査の判断基準である「明白かつ現在の危機:clear and present danger」についてのこれと同様な経緯。

これらに象徴されるように、アメリカにおいて司法審査の判断基準がアメリカの社会が自生的に紡ぎ出し編み上げた伝統の「事後的かつ鳥瞰的の理解」であることを鑑みれば、例えば、立憲主義に現在課されている最大級のテーマ「民主主義とは疎遠な司法セクターがなぜ民主的に成立した法規を無効にできるのか」に答える根拠は、天賦人権論の独断的の妄想ではなく、伝統と慣習の中に認識される実定法秩序に対する国民の支持以外にはないのではないでしょうか。

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H.L.A.ハートが『法の概念:The Concept of Law』(1961年)で解明した如く、

(ⅰa)法とは、自然人であれ法人であれ国家権力であれ社会の各々のプレーヤーがそれに従うべき行為の準則を定めるルール(第1次ルール)、および、そのような行為の準則を承認・変更・裁定するルール(第2次ルール)の織りなす体系であり、(ⅰb)両ルールの差違は相対的、より正確に言えば、両者は位相(aspect)を異にしているだけにすぎず、(ⅰc)重要なことは、第1次ルールは第2次ルールの<眼鏡>を通してのみ認識される。

(ⅱa)ルールの存在/ルールの内容は諸々のプレーヤーの行為の集積の中に遂行的に確認されるしかない自生的な事柄であり、(ⅱb)よって、第1次ルールと第2次ルールが織り成す法体系自体も自生的な秩序と言える。

ならば、(ⅲ)第2次ルール全体に承認・変更・裁定を行う効力を与える(しかし、それまた第2次ルールの一斑たる)「究極の承認のルール」の効力の根拠もまた遂行的に把握されるしかないのでしょう。


換言すれば、ある法体系の究極的の効力の根拠を人間は語ることはできず、ただ、そのルールの存在は<言語ゲーム>的に遂行的に確認されるしかない。

ハートのこの立論は、ケルゼンが(新カント派の方法二元論を徹底させ)「根本規範」を規範論理的に想定されざるを得ない仮説的前提とした経緯と通底しているようにも感じられます。もっとも、ケルゼンが法的効力を帯びる法規範自体の存在を前提としているのに対して、ハートは法的効力自体の絡繰りを解明する地点から考察を始めている点で両者は異なると思いますけれども。

畢竟、ハートの議論が実定法秩序の認識根拠と効力根拠の両者を同時に説明するものであるのに対して、ケルゼンの「根本規範」やそれを必須のパーツとする「法段階説」は(具体的なある実定法秩序の認識の枠組みではなく、寧ろ、)実定法秩序の正当性の根拠、もしくは、法体系の効力根拠を述べたもの。

而して、「根本規範」をして「憲法の基本原則」、すなわち、「基本的人権・国民主権・平和主義」なる具体的な内容をもった現行憲法に内在する諸価値を想定する「日本流の法段階説」とケルゼンの理路は全くの別ものなのです。

尚、ハートの理解については、橋爪大三郎『言語ゲームと社会理論』(勁草書房・1985年)を、また、保守主義の論者としてのハートの理解については、落合仁司『保守主義の社会理論』(勁草書房・1987年)を是非ご参照いただきたいと思います。


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氷山の過半は海中に没している。否、どのような法域であれ3年程度の実務を経験された方なら、実定法規範のほとんどは条文でも判例でさえなく実務の慣習や常識であることは骨身にしみて理解しておられるでしょう。前者などは、太平洋に対して風呂桶1杯分もないことを。蓋し、実定法秩序の主要部分もまた慣習であり伝統である(より正確に言えば、後者の中の第2次ルールの<眼鏡>を通さなければ、前者は法規範として認識さえされない)、と。

それらは、(就中、それらの効力の根拠は)説明することはできずただ遂行でき認識できるだけの表象である。より正確に言えば、実定法秩序のすべてが伝統と慣習を通して、かつ、遂行的にしか認識さえできないのです。

よって、実質的意味の憲法は国民の行動に遂行的に顕れる国民の法意識や法的確信に他ならず、その蓄積が編み上げる自生的秩序に他ならない。ならば、(それが国家権力の唯一の「縛り」や「きめごと」ではありえないという意味で)修正された立憲主義もまた実質的な意味の憲法には原則適用されないと解すべきなのです。

畢竟、実質的な意味の憲法は国家権力と同時に国民の行動をも拘束する。より正確に言えば、国家権力と国民の行動の中に遂行的に観察される傾向性や家族的類似性の中にのみ実質的意味の憲法はその内容を認識することができるのだと思います。ならば、憲法は国家権力に専ら向けられた制約であるなどの憲法理解は法理論的になり立ち得ない。と、そう私は考えます。


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戦後民主主義と親和的な憲法理解への第三の、そして、よりポレミックな批判は、「憲法は国家を創出する/正当化するという点で国家に論理的にも規範的にも優先する」という認識と主張に対する疑問です。

簡単な話しです。社会契約論を前提としない場合、国家が成立していない段階で/国家が憲法の想定外の事態に直面している場合に予定調和的に、憲法が国家権力を拘束する機能を果たすなどは論理的にありえないということ。ここで、「立憲的意味の憲法に反する権力行使は違憲であり、それと疎遠な権力行使は存在しない」などという社会契約論を前提とした反論は、「目を瞑れば地球はなくなる」という戯れ言にすぎないでしょう。

蓋し、その憲法が立憲的意味の憲法であるか否かにかかわらず、すべての<憲法>は法的かつ文化的共同体たる<国家>の法的と文化的との重層的な表現である。ならば、この意味の重層的な<憲法>の概念と機能に着目するならば、憲法は国家権力の「しばり」にすぎないという憲法の理解は<憲法>の機能と本性の過半を見逃していると言える。

逆に言えば、アメリカの南北戦争と同様、「自由と平等の旗の下に虐殺の嵐が吹き荒れた騒乱」として悪名高いフランス革命を念頭に置いて、「自由と平等」という文化帝国主義的の価値の胡散臭さをあげつらうのは間違いであって、それらは(安保闘争が「左翼の半纏をまとってなされた反米ナショナリズムの祝祭」であったのと同様、)ナショナリズムの勃発であり、就中、後者は「国民国家=民族国家」が人類史上初めて誕生するに際しての陣痛であった。そう考えるべきではないかと思います。

尚、この論点に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html

・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11137340302.html


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憲法は国民を統合し拘束する自生的な社会規範である。日本国の<憲法>は皇孫統べる豊葦原之瑞穂國の一員としての日本国民のアイデンティティーとプライドを国民の法意識に涵養・再生産し、他方、定住外国人に対しては、その分限を自覚し自己の文化的のルーツを誇りながらもこの社会の一員として暮らす日本市民としてのアイデンティティーとプライドを涵養・再生産する機能を持っている。

畢竟、①法を承認・変更・裁定する(位相の)ルールが存在すること、②権力の運用はそのようなルールに則って行われていること。③それら①②が望ましいことだという社会的なコンセンサスが存在していること。④これら①~③の事柄が遂行的に国民の行為の中に確認されるとするならば、これら①~④を基底とした、社会契約論とは疎遠なタイプの修正された立憲主義は<憲法>の内容となりうる。

蓋し、<立憲主義>とは、自生的な秩序としての憲法を巡る<言語ゲーム>の結果としてこれまた遂行的に編み上げられた原理であり、更に、<立憲主義>を承認・変更・裁定する諸々のルールの認識と運用それ自体も<言語ゲーム>の営みに他ならない。而して、それは「古典的立憲主義」を巡る営為にかなり近いもの、鴨。と、そう私は考えます。



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