歴史を直視できない人々-安倍総理の歴史認識を批判する海外報道紹介の後記-(上)




紹介した9本の海外報道を俯瞰すれば、WSJとWPSTの記事に塗り込められた本音は「どちらが正しい歴史の認識かなんかどうでもいいから、これから支那を押さえ込む上でも、アメリカ政府の手間とアメリカの投資家の対韓国投資運用実績のことも少しは配慮してですね、歴史問題なんかで日本は騒ぎは起さないでくれ!」という所でしょうか。他方、 NYTもしくはFTとEconomistの狙いは、寧ろ、「火のない所に火をつけてでも、この機会に安倍総理を叩くこと」なの、鴨。

たかが9本とはいえ、安倍批判という同じイシューの記事を系統的に読んで見て興味深かったのはその各々の情報源。聖書学における(ヨハネ書を除く他の共観福音書共通の情報源としての)「原マルコ書」の如く、前者・後者に共通する情報源が反日リベラルの朝日新聞や毎日新聞であり、後者の特ダネ的なそれが「週刊金曜日」的なカルト的リベラル、もしくは、韓国や支那の「識者」そのものであろうこと。この推測は僅か9本を読み比べただけにせよ文献学的の視点からは満更間違いではないだろうと思います。

いずれにせよ、例えば、靖国神社の性質、所謂「従軍慰安婦」なるものの不存在。なにより、①「差別排外主義」とはほぼ無縁の、寧ろ、②「イデオロギーの対立を外交に持ち込むことなく、紛争は国際法に従い解決すること」がその年来の主張である安倍総理。これら①②を看過して、安倍総理とその内閣を「右翼」あるいは「急進的民族主義内閣」と位置づける彼等の無知と論理の粗雑。僅か9本の海外報道を通してとはいえ、これらを確認した今、安倍総理の歴史認識を批判する海外報道は、

(A1)歴史的事実に関する無知
(A2)歴史学--歴史学方法論--に関する無知
(B1)指示対象を持たない/指示対象が曖昧な<詩的言語>による状況認識
(B2)事実との対応関係の検証を欠くレッテル貼りの狂瀾


にすぎず、よって、それらはなんら安倍総理に対する批判にはなり得ていない
こともまた確認できたのではないかと思います。蓋し、正に、

WSJ, WPST, NYT, FT, and Economist must face the past!
WSJ, WPST, NYT, FT, and Economist’s inability to face history!
歴史を直視せよ! WSJ, WPST, NYT, FT, とEconomist!
歴史を直視できないWSJ, WPST, NYT, FT, とEconomist!


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而して、インターネットの普及により、松下幸之助翁の言葉をお借りすれば「大勢の人を短時間騙すことはできる。また反対に少数の人間を長時間騙すことも出来る。しかし、大勢の人を長時間騙すことは出来ない」ような社会。そんな人類史における<現代>の相貌がいよいよその輪郭を明確にしている現在、韓国の朴大統領の言葉「Japan must have the proper recognition of history in order to have peace in Northeast Asia」(東北アジアの平和のためには日本が適切な歴史の認識を持つことが不可欠ではないでしょうか)はそのまま韓国および支那、ならびに、それらの代理人としての朝日新聞やNHK、および、 NYTやFTにお返しすべき言葉でしょう。「歴史を政治に持ち込みなさんな:Don't discuss politics and history together.」という言葉とともに。

畢竟、事実無根の所謂「従軍慰安婦」なるものを<事実>と看做して、謝罪し続けるなど「大勢の人が短時間、または、少数の人間が長時間は出来るかもしれないけれど、しかし、大勢の人が長時間することなど出来はしない」のです。


また、戦前の日本を総否定する彼等の都合上でしょうか、いずれにしても、「侵略」の定義が国際的にも学界的にも定まってはいないという厳然たる事実を否定するがごときWSJやWPSTの暴論もまた(それが、中華思想によるものにせよ、西欧中心主義によるものにせよ、あるいは、コミンテルン史観によるものにせよ)文化帝国主義的の歴史の教条主義として、現在においては「大勢の人を長時間騙すことは出来ない」運命を甘受しなければならないだろう。と、そう私は考えます。

例えば、「侵略」の定義について、朝日新聞は、「「侵略の定義」については1974年の国連総会決議があり、日本も賛成している。国連憲章に違反する他国への先制武力行使などを侵略行為と定めつつ、最終的な判断は国連安全保障理事会が行うとされている」(2013年5月10日)と書いている。けれど、これは全くの間違いです。なぜならば、国連総会決議にはなんらの法的拘束力もないから。

例えば、国連総会の決議が<法規>で、<裁判所>としての安保理がその<法規>を解釈運用するのなら「国連総会決議が侵略行為と定めつつ、最終的な判断は国連安全保障理事会が行う」と言えなくもない。けれども(①国連総会と安保理に各々権限を与えている法の効力の面でも、②政治社会学的な観察からも、いずれも)国連決議は安保理の判断をなんら拘束しない。要は、「最終的な」の4文字は明らかに間違い。安保理の判断は「最終」であるだけでなく「最終かつ最初」なのですから。

更に、重要なことは、もし1974年の「侵略の定義」が法的拘束力を帯びているとしても(←仮定法過去ですよ!)、それと、「大東亜戦争が日本の侵略戦争」であったかどうか「第二次世界大戦を始めたのは誰か」という問題とそれは何の関係もないこと。

而して、最も重要なことは、朝日新聞のこの誤謬/詐術など、現在では24時間内外でこうして誰もが正すことができ、正しい情報を誰もが知ることができるということ、鴨。いずれにせよ、現在では「歴史の認識」は朝日新聞や欧米のリベラル派に排他的かつ独占的な<販売権>があるものではなくなってきていることは間違いないと思います(★)。閑話休題。


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★註SA:
歴史認識の正しさが間主観性を帯びる背景

歴史の認識が、不可避的に価値の憑依する日常の言語でもって過去の世界の<物語>を語る営み、現在の地点からされる過去の再構築でしかない以上、歴史認識に絶対の正しさなどは存在しません。しかし、歴史認識は「万人の万人に対する戦い」状態でもない。そこには自ずと共通の枠組みが存在する。

重要なことはその<枠組み>とは、歴史的事実の単一性や同一性ではなく、歴史を見る認識枠組みの共通性だということです。歴史の更に基底にある「時間」を切り口に「安倍総理の歴史認識を批判する海外報道紹介(5)」の註「歴史の認識の正しさは相対的なものでしかない」に述べたことを敷衍しておけば、


・安倍総理の歴史認識を批判する海外報道紹介(5)
 (★註SA:「歴史の認識の正しさは相対的なものでしかない)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61856434.html


マクタガート(John McTaggart)が「時間の非実在性:The Unreality of Time」(1908)で提示したように、人間の意識する「時間」の観念には「A系:天壌無窮、無限の過去から現在を貫きつつ、あるいは、現在を丸ごと運びつつ、無限の未来に連なる時間」のイメージと「B系:事象の前後関係」というイメージの二つのイメージや解釈(both A series and B series interpretations or images of time)があるのでしょう。

而して、ベルグソンが喝破した(砂時計や日時計の如く)「人間は時間を空間化して初めて理解できる」という経緯は、マクタガートのA系列の時間観念は、実は、B系列の「事象の変化」にサポートされない限り意識されないし、逆に、B系列の事象の変化そのものは人間がA系列の時間観念を事前に(アプリオリに)保有するのでなければ成立しないということ。例えば、A系の時間観念を欠く場合、ある事象を「お湯を出しっぱなしにしていたら風呂桶から溢れた」という因果関係が垣間見える事態としては理解できても、「キムヨナ姫の演技に見とれていたら、知らず知らずのうちに16分が経過していた」という時間が介在する事態としては理解できないだろうということです。要は、(マクタガート自身はA系の時間観念を「本質的」と理解していますが、そのマクタガートにおいてさえも)A系とB系の時間観念は相補的ということです。

注意すべきは、マクタガートのA系の時間観念は「歴史の認識の正しさは相対的なものでしかない」で紹介したように、近代に特有なA系の時間観念の一つにすぎず、A系の時間観念には、いわば、(Aⅰ)ヘレニズムの時間:円環としての時間、(Aⅱ)ヘブライニズムの時間:不可逆的かつ有限なる線分としての時間、(Aⅲ)原始共同体の時間:振り子運動体としての時間、そして、(Aⅳ)近代社会の時間:不可逆的で無限なる直線としての時間等々複数のものが、しかも論理的には同じ正しさの資格を帯びて併存しているということ。

A系列とB系列の時間観念の相補性。畢竟、このことこそ、カントが「空間」とともに「時間」を「純粋直観」であるとしつつ(要は、悟性のカテゴリーと並んで、ある認識の間主観的な正しさの根拠として「時間」や「空間」観念に普遍性とアプリオリ性を認めつつも、『純粋理性批判』「純粋理性のアンチノミー:二律背反」(p.A426ff=B454ff)で鮮やかに論証しているように)「時間」に関する言説はその間主観的な正しさの根拠を人間の認識・思考・反芻の能力の内部には保有していないと論じた経緯とパラレルであろうと思います。ここから、カントの「先天的総合判断」の可能性を求める知的探求が始まり、すなわち、先験哲学(「先天的認識についての認識」としての先験的認識を編み上げた哲学)がここに誕生する。

ポイントは、フッサールが喝破した如く「意識とは何ものかに対する意識」でしかない(要は、世界と意識は言語でできている!)。ならば、B系の時間観念の器に盛られるものは、独り言語化された事象や事態でしかないということ。遠回りしたようですが、ここで、歴史の<物語>を編み上げるパーツが<日常言語>でしかなく、その<日常言語>には新カント派が述べたように(少なくとも)文化科学/精神科学においては「価値」が憑依する、よって、歴史の<物語>を語る営みはすべからく「価値に関係づけられた事実判断」の営みであることが定礎できたのではないかと思います。

ならば、そのような<物語>に間主観性を与え得るものが、(謂わば<物語>の外部にある)人権や民主主義なるものに価値を置く、よって、第二次世界大戦を「民主主義と全体主義の戦い」とする西欧中心主義的なイデオロギーではなく、まして、支那や韓国の中華思想などではありえず、あくまでも、言語の哲学的な本性を究明した上で、言語が間主観的な意味を保有する経緯を照射したウィトゲンシュタインの言語ゲーム論、ならびに、現象学および現代解釈学を包摂する(広義の)現代分析哲学の地平であることは、21世紀に至る哲学の歴史を少しでも学んだことのある向きには自明のことであろうと思います。


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<続く>


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