憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する「法学的意味の革命」か(2)





◆改正条項の改正は枝葉的の争点ではない

蓋し、(Ⅲ')「96条改正という「革命」」で石川さんがいみじくも述べておられるように、改正条項の改正は、「間接民主制と直接民主制」の配合比率の見直し、あるいは、「間接民主制と直接民主制」の正当化根拠をどう位置づけるかという問題でもあり、加之、それは「民主主義における多数決」の正当化根拠論一般ともダイレクトに接するイシューでしょう。換言すれば、改正条項の改正は日本の憲法における「国民主権」と「民主主義」もしくは「立憲主義」と「共和主義」の意味内容を再構築する営為でもある。

畢竟、改正条項の改正は「手続論」などではなく/「手続論」であるだけではなく「憲法規範の中核的内容」を貫くイシュー。よって、96条改正先行論に対する第一の批判(Ⅰ)「手続条項ではなく9条の改正を正面から堂々と国民に提起すべきだ」という批判は筋違いと言えるのです。

それが単なる「手続論」や、よりスムースに改憲を実現するための便宜的な「戦術論」ではない/「手続論」や「戦術論」だけではない、このイシューの重要性は、実際、96条改正先行論に対して(Ⅰ)の他に(Ⅱ)「改正要件の緩和は立憲主義に反する」および(Ⅲ)「改正条項の改正は新憲法の制定であり憲法改正の限界を逸脱する」という二つの批判が提起されている事実が示唆しているの、鴨。繰り返しになりますけれども、私は、96条の改正は、例えば、9条の改正に比べても遥かに重要な争点と考えています(この軽重認識については取りあえず下記のエントリーリスト記事の前書き部分をご参照ください)。

・自薦記事一覧:保守主義の憲法論-憲法の改正/破棄を求めて
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61079400.html


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他方、逆に言えば、96条の改正はそれが「手続論」であるがゆえに重要とも言える、鴨。なぜならば、憲法といえどもそれは<法>であり、かつ、すべからく<法>を巡る解釈や考察は究極的には「手続論」と言えるだろうからです(★)。要は、法の制定・改正、ならびに、法の解釈とは法の手続に結晶したイデオロギーを巡る価値判断のゲームであり、よって、<法>において手続と内容は不即不離、表裏一体の関係にある。そう私は考えています。

例えば、「赤信号が止まれのサイン」であり「赤色が郵便ポストであることを示すサイン」であることは必然性のない「調整問題」でしょうが(「止まれ」や「郵便ポスト」が赤である必然性はないけれど--実際、アメリカの多くの地域では郵便ポストは青色です!--それらが何かに決まっていることには社会的な有用性があるという事柄)、一旦、「赤信号が止まれ」の意味を表すことが社会的に認知され確定した場合、その「元来は必然性のないルール」に従うこと/従わないことに対して善悪の評価が社会的に憑依するようになる。

このこととパラレルに、単なる「手続」もそれが確定した段階では、行動の指針を与える/行動の善悪を判定する行為規範や裁判規範になる。ならば、96条の改正を巡る議論が「手続論」にすぎないことと、それが「憲法の内容に踏み込んだ議論」でもあることは毫も矛盾しないのです。尚、「憲法」の意味内容に関する私の基本的認識については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・保守主義-保守主義の憲法観
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60996566.html

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444652.html


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改正条項の改正というイシューは「立憲主義」と「民主主義」の交点に位置すること、加之、憲法論も所詮その本質は「手続論」であるということ、これらの2点を鑑みるに、憲法改正に関心のある論者にとってそれが死活的に重要な問題であることは疑い得ない。

而して、私は、安倍総理および麻生総理、ならびに、谷垣前総裁が、憲法に関しても尋常ならざる学識と見識をお持ちであることを個人的に存じています。よって、改正条項の改正が孕む死活的な重要性もまた承知の上で自民党が96条改正先行論を国民に訴えていることを毫も疑わない。

つまり、石川さんの懸念、「なかなか憲法改正が実現しないので、からめ手から攻めているつもりかもしれないが、目の前に立ちはだかるのは、憲法秩序のなかでも最も高い城壁である。憲法96条改正論が、それに気がついていないとすれば、そのこと自体、戦慄すべきことだ」という戦慄と危惧は僭越な杞憂にすぎないだろう。と、私はそう思います。

ことほど左様に、石川さんの議論や朝日新聞社説を見るに、反日リベラル派の憲法研究者や反日マスメディアがしばしば「自民党の改憲草案やそれを支持する言説は、立憲主義も法の支配も理解できていない、憲法学のイロハも知らない勉強不足の妄言」の如く、上から目線かつ高飛車に断定するのが私には不思議でなりません。

例えば、学習院大学の青井未帆さんが「憲法は道徳本ではない。個人がどう生きるかに国家は口を出してはいけない。それが近代憲法の原理だ」(『憲法を守るのは誰か』(幻冬舎新書・2013年7月))と論じ、大阪大学の鈴木秀美さんが「天賦人権説に基づく規定を改める必要があるという立場は国際的な憲法学のスタンダードからは驚くべき話だ」(毎日新聞・2013年1月30日)と断じているのに接するに、更には、内田樹さんの「改憲派の人々は【自民党の】改憲草案の方がどの点においてすぐれているのかを国際社会を前にして説明できるのでしょうか」、現行憲法の方が自民党の改憲草案より優れていることはアメリカの中学生にもわかることでしょう(『週刊金曜日-2013年7月9日臨時増刊号』, p.12)等の発言を目にする度にその感を強くする。

内田樹さんの認識について言えば、その規範意味を抽出することに必要となる法解釈の技術と技倆、知識と経験において、憲法のテクストは、民法や民事訴訟法、刑法や刑事訴訟法のテクストと比べてより簡単とは言えない。ならば、全く異なる法域に育ったアメリカの中高生はもちろん日本の中高校生にとっても現行憲法と自民党の憲法改正草案の優劣の比較は容易いなどの認識は、たとえ、筆の勢いにしたとしても、内田さんのこの認識は、例えば、「カント哲学にも数学基礎論にも全く不案内な中学生にもフッサールとウィトゲンシュタインの哲学の優劣など数時間もあれば判定可能」であるとか、「小学3年生でも酸素ボンベなしで厳冬のチョモランマに登頂可能」という類の認識とあまり変わらない。蓋し、失礼ながら、それは内田樹さんの憲法と法哲学に関する無知が露呈しているだけの発言であろうと思います。

いずれにせよ、将棋でも、両者の棋力がほとんど同じなら、矢倉や居飛車穴熊等の居飛車オンリーの棋士よりも、それら居飛車戦法も研究している振り飛車使いの側が有利なことは自明でしょう。実際、(たかだかブログの世界ではあるにせよ)私ほど通説にも精通している論者は左右ともそう多くはないと自負していますけれど、不愉快ながら、現在の日本では反日リベラルの憲法論が通説である以上、保守派の論者はもれなくその通説を踏まえた上で自説の憲法論を展開しているのです。ならば、反日リベラル派から見下される筋合いがあるはずはない。もっとも、勝負事と同じで、論争においては舐めてくれた方がこちらにとっては有利なのだろうから、彼等の高飛車な言動は寧ろ私達にとってはウェルカムなのですが、他人事ながら心配になります。閑話休題。


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★註:憲法論といえども究極的には手続論である

英米のコモンローの歴史は、一面では、国王裁判所で訴訟を開始するために必要な「訴訟令状」の分化と融合の歴史であり、--例えば、不動産に関する所有権なるものの概念や観念が厳密に言えば存在せず、ただ、その用途がどれくらい権利者の自由裁量に任せられるのかに従って大陸法の土地所有権に最も近い「無条件単純不動産権」(free simple absolute)から賃貸借権(leasehold)まで不動産を巡る多様な権利が混在していることが逆照射している通り--裁判所に訴えるための資格とも言うべき、大陸法流に言えば手続法上の「訴権」(right of action)がなければ、たとえ、これまた大陸法流に言えば「実体法上の権利や請求原因」に近い訴訟原因(cause of action)があろうとも司法による救済は期待できませんでした。

而して、この実体法的権利としての「権原」(title)と訴訟を開始する資格としての「訴権」(right of action)の重層構造は、ローマ法においては更に顕著であり、ローマにおいては裁判所の法的保護を求めうる手続法上の資格(actio)ではない、実体法上の権利(jus)なるものは原則存在しませんでした。正に、英米法の法諺通り「救済方法のあるところにのみ権利あり」だったのです。

権利の具現における「手続」の重要性は欧米だけのことではありませんでした。例えば、『十六夜日記』(1280年)に端的なように--①著者の阿仏尼とその実子達が播磨細川荘の収益を受け取る権利を亡夫である藤原為家から与えられたこと自体は、相手方である継子も公家法の裁判所も認めているにもかかわらず、②公家法では「先代が亡くなった場合、現在の当主は先代の財産分与の意向を否定できる」のに対して、③件の所領の財産的価値の過半を産み出す「地頭職」についての訴訟は武家法に基づいて判断されるルールになっており、かつ、④武家法では「先代が亡くなった場合、現在の当主は先代の財産分与の決定を否定できない」ことが、⑤勝訴を疑わず、阿仏尼が鎌倉まで下向して武家裁判所に出訴を決意した背景であり、他方、⑥武家法と公家法の管轄配分の微妙さが、元寇(1274年および1281年)の渦中とはいえこの訴訟が長引いた理由と考えられることからも推察できるように--日本でも、古来、裁判管轄の問題、すなわち、「手続論」こそ法的判断の中核的要素だったと言えると思います。

而して、この経緯は憲法についてもパラレル、鴨。例えば、藤三娘、光明子。藤原氏は光明皇后の立后に(長屋王の抹殺も敢えて断行するなど、)なぜあれほど執念を燃やしたのか。現実に長屋王一族を正妻の内親王を含め殲滅できたくらいの実力を藤原氏は蓄積していたのだから光明皇后の立后の手続などどうでもよかったのではないか。蓋し、それは<皇后>が「殯宮奉斎女王」(先帝の殯の期間の先帝の正妻)として先帝の殯の期間は政治の全権を握る慣行に端を発する、よって、先帝の存命中も<天皇>とほぼ同格の政治的な権威と権限を<皇后>が帯び得るという当時の神州に妥当した実定憲法規範内容の裏面としての「手続論」、その粛々たる実行だったとも言えるだろうこと。

更には、院政期の源平の騒乱から(日本史上最悪最低の天皇・後醍醐が引き起こした、民主党政権の3年間(2009-2012)に匹敵する惨憺たる建武新政(1333-1335)に始まる)南北朝に至る期間、次期天皇の決定に際して「三種の神器」の保有は必須資格ではなくなり、院政の主催者たる治天の君--後高倉院守貞親王をほとんど唯一の例外として天皇経験者である、かつ、社会学的には「天皇家の氏の長者」--の発行する「伝国詔宣」こそが次期天皇を決定する「手続」の要のアイテムになった。而して、このことは古代から中世にかけての統治原理の変遷が手続法に投影したものと言える、鴨。これらの事柄を反芻するに「憲法論といえども究極的には手続論である」というのは満更強弁ではないのではないでしょうか。



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<続く>



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