憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する「法学的意味の革命」か(4)




★註:プリコミットメント論を援用した96条改正批判

リベラルの衣を着た左翼の残滓。すなわち、反日リベラル勢力の憲法論の中には、その96条と9条の改正批判論を立憲主義に比べてより抽象度の高い「プリコミットメント」のアイデアで補強しているものもあります。蓋し、本編で私が「立憲主義と地続きのsomethingの法原理」と記したものこそこの「プリコミットメント」のアイデアにほかなりません。

但し、私は「プリコミットメント」のアイデアを援用した憲法論の中でも長谷部恭男さんの議論は我々保守派も真面目に検討するに値すると思っています。よって、ここで主に俎上に載せる「プリコミットメント論」は--「立憲主義」の場合と同様、憲法の諸原理や諸規定、例えば、憲法96条や憲法9条の説明や正当化の枠組みにすぎない--「プリコミットメント」のアイデアを、あたかも、現行憲法の規範内容、あろうことか、論者によっては現行憲法に留まらず過去・現在・未来のすべての憲法の規範内容と強弁する、もって、それを根拠に憲法96条や憲法9条の改正は許されないと述べるカルト的な議論です。

プリコミットメント論とは、一般的には「ある時点であらかじめ将来における選択肢を減らしておくことで、将来の出来事をコントロールしようとする」「自己拘束を説明(ないし正当化)する議論」(pp.102-103;愛敬浩二「憲法によるプリコミットメント」(ジュリスト・第1289号=2005年5月1日-15日合併号所収, p.2))という意味。要は、「オフ会には、剣菱をしこたま飲んで気が大きくなり散財すると翌日には後悔するので財布には2万円しか入れずに出かけることにしている」といった類の<知恵>のこと。

このような一般的な意味でなら、「プリコミットメント」なるものを、「継続的な合理性を獲得する主要なテクニック」(ibid, p.102)として個人も国家もしばしば採用していることは誰も否定しないでしょう。而して、愛敬浩二『改憲問題』(ちくま新書・2006年4月)以来、最近も時々また目にするようになった、プリコミットメント論を援用した96条改正批判や9条改正批判の特徴は、元来、倫理・道徳・法といった規範の形式や、財や性や言語といった規範の領域を問わず、諸規範の分析と説明の枠組みであった「プリコミットメント」を実定憲法解釈の手法として採用・援用している杜撰さにあると思います。

確かに、「国家=必要悪」認識を懐く反日リベラル勢力にとっては、プリコミットメントのアイデアを用いて「改正条項の緩和が帯びる潜在的な権利侵害の危険性」なるものを説明し、もって、96条改正先行論を批判することは、それが権利の具体的内容や権利の具体的保障手段と不可分に結びつく立憲主義を用いる場合に比べれば比較的容易と言える、鴨。しかし、この試みは・・・

б(≧◇≦)ノ ・・・ない袖を振っているプリコミットメント論者!


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プリコミットメント論を仲立にして、立憲主義と民主主義、硬性憲法と国民主権の理論的な調和を具現しようとするその議論は、しかし、示唆に富むもの。

論者曰く、「プリコミットメント論によって憲法を正当化する議論の多くは、民主主義を単なる多数決とは理解せず、熟慮と討議の過程(deliberative democracy)と理解している」「プリコミットメント論は、「硬性憲法=立憲主義」を「持続可能で討議的な自己統治=民主主義」を可能にする装置・技術と解することで、立憲主義と民主主義を調和させる」(『改憲問題』, pp.111-112)、と。

では、国民の多数意思をもってしても容易く改正されるべきではない憲法規範の内容--民主主義や国民主権を根拠にした憲法改正の企てをも制約するというプリコミットメント--とは一体どのようなものであり、そのようなプリコミットメントが実定憲法の規範内容であるという根拠は何なのでしょうか。また、それは立憲主義の意味内容とどう違うというのでしょうか。

敷衍しておけば、ポイントは、憲法典中のある規定を、事前に自己の行為の可能な範囲に制限を設けるプリコミットメントとして理解することで、民主主義や国民主権の理念をも凌駕する効力--具体的には、その規定は憲法改正の限界外にあり改正が許されないとされる効力--が当該の憲法規定に付与されるとなぜ言えるのかという一点に上の問いは収斂するでしょう。換言すれば、96条や9条は民主主義と国民主権を根拠とした国民の改正意思に(少なくとも)再考を促すに足るプリコミットメントなるものか否か、96条や9条を制定した「前世代の意志」が--ここで「GHQの意向」がとは武士の情けで言わないけれど--「現世代」の改正意志を阻むことを、なぜプリコミットメント論が正当化できるのか。この点が、プリコミットメント論からの96条改正批判の妥当性を見極める肝であろう。と、そう私は考えます。

私は、しかし、プリコミットメント論は破綻していると考えます。再々になりますけれど、それは、元来、規範の形式的な分類と説明の枠組みでしかないプリコミットメントを実定憲法の規範意味の把握に援用することに起因する誤謬を抱えていると考えるからです。

蓋し、現実具体的に何をもって「持続的統治を困難にする行為」と考えるのか、何をもって「より善い自己統治」と看做すのか。例えば、9条に定める「戦争と武力行使の放棄」「戦力の不保持と交戦権の否認」の破棄、ならびに、96条が定める改正要件の緩和が、「持続的統治を困難にする行為の禁止に反する」か否かの判定は、規範論理的な思考枠組みにすぎないプリコミットメント論から演繹することは不可能でしょう。

新カント派的に言えば(この場合、シュタムラ-『法及び法學の本質』(日本評論社・1942年12月)が最も参考になるでしょうか)、プリコミットメント論を援用した96条および9条の改正批判は、元来、規範の認識枠組みにすぎない諸形式が帯びる意味を(この「意味」は規範論理の中だけで有効な「形式的な意味」です!)を、無媒介に現実世界に当てはめる誤謬を犯している。要は、実定憲法の理解に用いられる場合、プリコミットメント論は絶対平和主義なり、「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、憲法の改正を発議する」等々の特定の価値なり、特定の価値が結晶した手続を擁護するものでも批判するものでもなく規範の存在意味を説明する論理枠組みにすぎないのです。

私が、<護憲派の最終防御ライン>と呼ぶ長谷部恭男さんのプリコミットメント論、流石に、この基本線を誠実に遵守しておられる(『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書・2004年4月, p.156))、他方、例えば、愛敬さんはプリコミットメント論に絶対的平和主義という具体的で私的な価値を密輸した上で、それを現行憲法の具体的な規範内容と詐称している。而して、この杜撰で傲慢なプリコミットメント論の援用が最近しばしば96条改正論に対する批判にも看取されるようなのです。


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畢竟、プリコミットメント論と立憲主義はどう違うのでしょうか。本稿の今までの理路の検算も兼ねてこの点についてもコメントしておきます。蓋し、プリコミットメント論と立憲主義は次の二点で異なる。すなわち、守備範囲および妥当根拠の違い。

守備範囲
まず第一に、「国家権力や社会の多数派によっても侵害されるべきではない権利の存在を前提として、国家権力によるそのような権利の侵害を制約し、他方、社会の多数派からの権利侵害に対する<守護神>であることを国家権力に求める原理」と「立憲主義」を捉える場合、単に「ある時点であらかじめ将来における選択肢を減らしておくことで、将来の出来事をコントロールしようとする、自己拘束を説明ないし正当化する議論」という「プリコミットメント論」は「立憲主義」をも包摂するより抽象度の高い原理と言えると思います。

ならば、第二に、この謂わば広義のプリコミットメント論でも説明可能な憲法規範の中で、立憲主義プロパーの守備範囲は、権利の価値の認定と権利保障のための権力分立の制度(就中、司法審査制度)となる。よって、第三に、論理的引き算の結果、「立憲主義」がカバーしない「プリコミットメント論」固有の守備範囲、謂わば狭義のプリコミットメント論の守備範囲は、侵略戦争の禁止や安全保障条約の遵守、あるいは、国家の一部が国家から離脱する離脱権の禁止の領域--アメリカの憲法論では「政治問題」(political question)と、日本の憲法論では「統治行為」と呼ばれる領域--がとして主に残ることになるのだと思います。

尚、憲法9条は安全保障という国家権力の作用のあり方を定めたものである限り、平和的生存権なる新奇な権利概念を持ち出すのでもなければ--もっとも、安全保障に関心のある保守派は誰一人その復活など希望も予想もしていないと思いますが(今の軍隊では「役立たずの素人は邪魔なの!)、所謂「徴兵制」が復活された場合には憲法の幾つかの権利規定を根拠に司法審査を受けることは可能でしょうけれど--9条護憲を立憲主義からサポートすることは難しいでしょう。よって、反日リベラル勢力が9条護憲のためにプリコミットメント論を援用するのは--立憲主義とプリコミットメント論の守備範囲の差異を鑑みるならば--論理的には十分に理由のあること、鴨。


妥当根拠
立憲主義の妥当性の根拠は、一般的には、社会の多数派によっても侵害されるべきではない権利の価値でしょう。而して、長谷部恭男さんはプリコミットメント論の機能主義による正当化のアイデアを立憲主義の正当化にも拡張されているように思われます。蓋し、所謂「天賦人権」なるものに憑依するとされる不変的かつ普遍的な価値から立憲主義を基礎づけるのではなく、各自が各自の<神>を掲げ妥協困難な悪夢の宗教戦争の日々をすごした、あの、無政府状態を惹起させることなく国家体制の存続を確保する手段として<国家が容喙すべきでない比較不能な価値の領域の聖域化>による立憲主義正当化の試みです(『憲法と平和を問いなおす』, p.44ff)。

ことほど左様に、長谷部恭男さんの議論は、信仰やイデオロギー等々、国家権力が容喙すべきでない私事を聖域化するアイデアで立憲主義を基礎づけられるのですが、それに対して、現下の有象無象のプリコミットメント論は「持続的統治を困難にする行為」なるものを事前に制限することで国家秩序の安泰をはかること、このことをプリコミットメント論の妥当根拠と考えているようです。蓋し、立憲主義が権利の価値に着目するのに対して、プリコミットメント論は国家の体制と国家社会の秩序の存続をその基盤に据えているということ。前者が--社会契約論と切り離された場合には--国家内の紛争解決ゲームのルールであるに対して、後者は国家内の紛争解決ゲームを可能にする国家と言う<ゲームの場>を成立させるためのルールでとも言える、鴨。

* * * * *

いずれにせよ、私は、あまりに厳格な96条改正批判や9条の改正批判は、結局、この社会の多数派の懐く憲法と国家権力に対する権威を摩耗させ、もって、硬性憲法がそれに奉仕するはずの憲法保障の目的とは逆の結果を導き出しかねないと危惧します。要は、国内法体系に限定した場合、民主主義は多数派を国家社会に統合包摂する原理であるのに対して、立憲主義とプリコミットメント論は少数派を国家社会に統合包摂する原理と一応言えるけれど、そのバランスが崩壊するとき、少数派の反乱や離脱だけではなく多数派の反乱と少数派の放逐の危険性の両者が生起しうるということです。



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<続く>



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