憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する「法学的意味の革命」か(5)




◆改正条項の変更は「法学的意味の革命」か?

石川健治さんが(Ⅲ')「96条改正という「革命」」で述べている主張、すなわち、憲法を改正する権力の本性に着目して「改正条項の改正は許されない」とする主張は、日本では通説とは言わないけれど間違いなく有力説であり、そう珍しいものではありません。

ちなみに、日本では、「憲法改正権」(改憲権)とは「憲法以前の始源的な憲法制定権力(「制憲権」)が、近代法治国家の合法性の原理に基づいて、最初の制憲行為自体に自らを憲法の中に組織化し、自然状態から法的形式に準拠する権力へと転化したものであり、いわゆる「制度化された制憲権」として特徴づけうるもの」(芦部信喜『憲法制定権力』(東京大学出版会・1983年, p.45ff)))と言うらしいのですけれど、このような「制憲権」と「改憲権」の理解に基づき、例えば、浦部法穂さんは、2004年5月12日の参議院憲法調査会で参考人としてこう述べている。

「憲法改正権というのは、いわゆる制度化された制憲権、憲法制定権力でありまして、したがって制憲権者である国民が自らの手に留保している権限を制約、縮小するような改正規定の変更というものは、その制憲権の所在とその権限に変更を加えるということになりますから、これはもはや改正とはみなし得ないということになります」、と。

あるいは、日本の戦後の憲法学を打ち立てたお一人、清宮四郎先生も、改正条項の改正、就中、改正要件の緩和について、それは「原則として不可能であると答えなければならない。なぜなら、第一に、改正規定は、憲法制定権にもとづくものであって、憲法改正権にもとづくものではなく、改正権者が自身の行為の根拠となる改正規定を同じ改正規定にもとづいて改正することは、法論理的に不可能であるばかりでなく、改正権者による改正規定の自由な改正を認めることは、憲法制定権と憲法改正権の混同となり、憲法制定権の意義を失わしめる結果となるからである。硬性憲法の軟性憲法への変更を、憲法改正規定によって根拠づけることは、法的に不可能といわねばなるまい」(清宮『憲法Ⅰ』有斐閣法律学全集・1957年, p.325ff)と述べておられる。

要は、「憲法の改正」とはある憲法がその憲法としての自己同一性を保ちつつ変更がなされることであり、憲法の基本原理を否定するような変更は憲法として自己同一性を失わせるもの、それは、最早、「憲法の改正」ではなく「憲法の破壊」である、と。

もっとも、現在の日本の憲法学の通説を代表する長谷部恭男さんは、憲法規範の外部に「憲法制定権力」なる概念を考えること自体を否定しており、よって、長谷部さんにおいては、土台、憲法制定権力を根拠とした上記の如き憲法改正限界論は成立する余地はなくなると思います(cf. 長谷部「憲法制定権力の消去可能性について」(岩波講座憲法第6巻『憲法と時間』・2007年))。


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ことほど左様に、(Ⅲ)「改正条項の改正は新憲法の制定であり憲法改正の限界を逸脱する」という96条改正論批判の妥当性は究極の所、憲法改正限界論を舞台にした、民主主義と立憲主義との関係の理解如何に収斂すると思います。要は、国民の多数派をもってしても憲法の改正には限界があるのかどうか、と。

民主主義と立憲主義との関係。しかし、この関係を俎上に載せる前哨として抑えておくべきことがある。それは、たとえ、石川健治さんから「96条の改正は法学的意味の革命であり、それは改正ではなく新憲法の制定である」とご託宣されたとしても、実際に、国民の多くがその「法学的意味の革命」を支持して「新憲法を歓迎もしくは容認」するのならば、その新しい憲法と新しい憲法秩序は旧憲法と旧憲法秩序からは正当化されないにしても、この国の実定法秩序として機能するということです。この実例を、正に、日本国民は、旧憲法と旧憲法秩序が「法学的意味の革命」の中で崩壊し--旧憲法の改正条項を新憲法を制定するための儀式の式次第に流用されながらも--新憲法が誕生したにもかかわらず、その新憲法の秩序が実定法秩序として機能することを体験した/体験し続けているのですから。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。


もちろん、憲法改正にはなにがしかの限界があるという「改正限界論」が日本では通説であり圧倒的多数説です。しかし、(ⅰ)改正の限界を画する、憲法の基本原則を越える、あるいは、憲法の自己同一性を損なう改正があったかどうかを誰が認定するのか、(ⅱ)認定したとしてそれでその憲法改正が--政治的には「負け犬の遠吠え」であることは火を見るよりも明らかとして--法的に無効になるのかという所まで行けば、大方の憲法研究者は口を閉ざす。この経緯を赤坂正浩さんは正直にこう述べている。

憲法改正権は、成文憲法によって設置された権限として、憲法制定権力とは区別される。この前提から出発した場合、改正権者には改正規定の改正権は認められるが、現行憲法の全面改正権、現行憲法の基本原理の変更権は認められないのではないか。・・・しかしいずれにせよ、裁判所による改正内容の事後審査が、事実上はもちろんのこと法的にも困難だとすれば、法理論的な説明のレベルを超えた事実の世界では、憲法改正限界論には改正案への警鐘という役割だけが期待されることになるのだろう(「憲法改正の限界」『ジュリスト』2005年5月1-15日合併号所収, p.25)、と。

つまり、憲法改正の限界論は憲法改正に箍を嵌める論理としては限界があるということ。そして、(Ⅲ)もし、改正条項の改正が新憲法の制定や法学的な意味の革命だとしても、その認識が現実政治のダイナミックスを制約する<政治の矩としての神通力>を帯びるとは限らないということです(★)。


★註:憲法改正限界論の理論的根拠の破綻

実は、憲法改正限界論の理論的根拠はかなり怪しい。日本における通説的な改憲限界論の根拠は、(a)主権・権利・平和という基本原則は現行憲法の「根本規範」であり、「根本規範」を変更することは革命であって改正とは言えないというもの。

例えば、清宮四郎先生は「わが日本国憲法は、その前文で、民主制の原理は、「人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」といっている。民主制の原理を、根本規範、憲法の憲法とみて、明治憲法を排除して日本国憲法をつくったのもこの立場からであり、将来の行為についても、民主制の原理に矛盾する内容のものは、いっさいその成立を排除し、憲法改正の方法によるものであってもこれを許さないというのである。・・・改正の限界について、憲法に特別の規定のない場合はどう考えたらよいか。この場合、憲法の基礎をなし、その究極にある原理を定める根本規範に触れることは許されないと解すべきである」(清宮ibid, p.324)と記されている。あるいは、芦部信喜『憲法』(岩波書店)も、憲法改正の限界を超える事項として「権力の段階構造」「人権の根本規範性」「前文の趣旨」「平和主義」とならんで「憲法改正手続」を挙げている。

しかし、この類の議論はハンス・ケルゼンの「根本規範」概念の曲解に基づくものであり、法理論的にそう根拠の確かな主張ではないのです。「法体系の効力根拠としての仮説的前提」である、ケルゼンの考えた「根本規範」には、主権・権利・平和といった具体的な価値や規範内容は含まれていないのですから。

本編でも述べたように、改憲限界論のもう一つの理論的根拠は、(b)憲法を制定することは憲法制定権力の専権的権能であり、憲法制定権力(制憲権者)ではない改憲権者が憲法の全面改正や新憲法の制定を行うことはできないというもの。しかし、この議論もまたカール・シュミットの制憲権理解の些か恣意的な意訳にすぎない、鴨。

なぜならば、シュミットの言う制憲権は--規範の世界と事実世界の結節点において作用する--規範体系や実定法秩序を創出する社会学的な実力であって、国民投票を通して制憲権たる国民が憲法を変更する以上、それが日本語の「現行憲法の改正」であろうが「新憲法の制定」であろうが、その改正/制定後の憲法が実定法秩序を形成するという点においてはなんら問題にはならないからです。

而して、制憲権も従うべき高次の規範として主権・権利・平和を想定する日本の一部の「制限された制憲論」は、(0)自身が信奉する個人的で私的な願望をあたかも普遍的な価値と詐称する文化帝国主義の傲岸不遜である。更に、その議論は、(1a)事実の世界に本籍を置き、かつ、(1b)理論的という意味では一般的な制憲権を、(2a)当為の世界に拉致した上で、かつ、(2b)内容的にはどこまでいっても歴史的に特殊な価値で縛ることが可能と考えるものであり、(3)方法論的な誤謬を犯している。と、そう私は考えます。尚、この点に関しては下記拙稿もまたご参照いただければ嬉しいです。閑話休題。


・憲法無効論の破綻とその政治的な利用価値(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61501283.html


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民主主義と立憲主義、あるいは、国家権力と権利の関係。例えば、一橋大学の阪口正二郎さんは「憲法改正論-多数決で決められないこと」というコラムの中で、上に補註で一瞥した「プリコミットメント論-魔女セイレンの誘惑に抗したオデュッセイアの機知」を俎上に載せながらこう述べています。

最近では、他の条文は後回しにして、改正手続きを定めた96条を変更し、憲法の改正を容易にしようとの動きが目立つ。・・・こうした議論は昔から存在する。・・・後にアメリカ合衆国大統領となるトマス・ジェファーソンが1789年にジェームズ・マディソンに宛てた手紙の中で、世界は生きている人々のものであり、ある世代が後の世代を拘束することはおかしい、変えにくい憲法は民主主義に反すると説いている。・・・

多数決でも変えられない憲法はなぜ正当化できるのだろうか。しばしば、たとえに出されるのはホメロスの『オデュッセイア』に登場する魔女セイレンの誘惑に抗したオデュッセイアの話しだ。セイレンの誘惑から部下と自身を守るために彼は自分の身体をマストに縛り付けた。自分が誘惑に負けて非理性的な行動をとりそうな場合、あらかじめ自己の行動の幅を狭めておくことは合理的だ。

また、多数決でものごとを決めることが民主主義だとしても、選挙権や表現の自由など民主主義の前提条件まで多数決に委ねるのは矛盾である。さらに、信教の自由や自己決定権など民主主義とは無関係でも個人を尊重するために保障しなければならないものもあるはずだ。長谷部恭男『憲法とは何か』(岩波新書・2006年)は、個人が決めるべきこととみんなで決めるべきことの境界を定めることが憲法の役割だとしている。憲法を変える前に、まずは憲法の役割を考える必要がある。


(朝日新聞・2013年4月28日


蓋し、「民主主義」と「立憲主義」という言葉はいずれも多義的でありその語義はそれほど明確ではないように見受けられます。「民主主義」と「立憲主義」は、自己の主張を正当化するための/他者の主張を「非民主的」「立憲主義に反する」と攻撃するための内容空虚な政治的シンボルにすぎないの、鴨。

ついぞ施行されなかった1793年6月24日に採択された憲法さえ1793年10月10日の「フランス政府は和平が達成されるまで革命的である」という宣言によって停止したフランス革命。1793年憲法の採択からテルミドールのクーデター(1794年7月27日)までの僅か13カ月間にパリ革命裁判所だけで3000人近くが、控訴・上告はもとより、最後の3カ月余りは証拠調べも証人尋問も廃した<裁判>によって死刑に処せられたフランス革命の殺戮の嵐を想起するとき、およそ50年前の日本の中学校の教科書の歴史認識の如き、(Ⅱ'a)朝日新聞社説の「立憲主義は、国王から市民が権利を勝ち取ってきた近代の西欧社会が築いた原理」などという希薄で教条的な立憲主義理解を目にするときその感を深くせざるをえません。


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<続く>




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