憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する「法学的意味の革命」か(6)




民主主義と立憲主義の意味。蓋し、ある言葉をどのような意味に使うかは、かなりの程度、論者の自由でしょう。けれども、他者に自分の主張をよりノイズ少なく伝えたいと欲するとき、彼女や彼は自分の使う言葉の意味をその都度明記するか、あるいは、その言葉が一般に--もしくは、その言説が属する領域の専門家コミュニティー内で普通に--帯びている意味で用いるに如くはない。

例えば、弊ブログでは、その逆襲以前から現在の安倍首相や麻生副総理のことを「安倍総理」「麻生総理」と表記していますが、これは、総理大臣経験者や大統領経験者のことをその職務退任後も(現職の人物との区別が紛らわしくないコンテクストでは)「総理」や「大統領」と呼ぶ日本や米国の政界の慣行を踏まえた表記であり、そして、今そう書いている行為は「自分の使う言葉の意味をその都度明記する」行為でもある。では、「民主主義」「立憲主義」とは何か。

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「民主主義」とは、元来、(ⅰ)ある社会の政治的決定はその社会の構成メンバー全員の合意や了承によってなされるべきだという主張であり、逆に言えば、「自分が属する社会における政治的決定にはわたしも参加させてね」「自分が参画していない政治的決定にはわたしは従わないわよ」と言う権利がその社会の構成メンバー全員に保障されるべきだというアイデアだった。

蓋し、この「民主主義」の語義が「民主主義とは元々小規模の人間集団における直接民主制を正当化する原理」としばしば語られることの理由であろうと思います。而して、政治的決定が直接民主制が機能する小集団を遥かに超える規模の、就中、国民国家においてなされる人類史段階に突入して以降、そして、「代表なければ課税なし」のスローガンに端的な如く自由主義のコロラリーとしての「国民代表制=議会制」が政治的決定の原理として最有力な制度になるに及んで、更には、普通選挙制度や婦人参政権が普及して以降の大衆社会においては「民主主義」の語義は変容せざるを得なかった。

すなわち、国民国家成立以後の大衆社会においては、「民主主義」とは、(ⅱa)(「全員一致」の実現などおよそどのようなイシューについても困難であり、そして、「全員一致」でなければどのような政治的決定もその社会においてその構成メンバーを拘束する法的効力を持ち得ない以上、)社会統合を阻害する危険で陳腐なアイデアであるか、あるいは、(ⅱb)国民国家を形成したイデオロギーとしての「国民主権」の同義語、もしくは、(ⅱc)多数決の別名、よって、多数派による少数派支配の正当化原理でしかないのだと思います。

重要なことは、上記(ⅰ)~(ⅱ)のすべての「民主主義」の語義の基底には、(ⅲ)「その社会の構成メンバーは性別・年齢・門地・美醜・財産・教養・才能・実績・声望の如何にかかわらず、社会の政治的決定に参画する資格においてはすべてが同じ法的価値を帯びる均一の主体である」という<平等>の価値と親和的な認識が横たわっているだろうこと。

この認識からは古代ギリシアでは、ある公職に補任するに際しては「選挙」などではなく「籤」が最も正義にかなった方法と考えられていたことは整合的でしょう。他方、「その社会の構成メンバーとは誰であるのか」、すなわち、社会の政治的決定に参画できる人々の範囲を確定するルールが民主主義の原理に論理的にも現実的にも先行するのであって、その先行するルールに従いメンバーの資格を否定された「奴隷」や「外国人」が--現実には、その「主人」やそのポリスの平均的な「政治的決定に参画できるメンバーとしての市民」を遥かに凌駕する富や政治的の影響力を保持していた例は少なくないとしても--政治的決定に参画できなかったことは、古代ギリシアの民主主義の限界ではなくて、寧ろ、民主主義一般の本性からの論理的帰結なのです。

そして、(ⅳ)「民主主義」が「多数決」の別名として通用するためには(「民主主義」の語義の中核は「自分が参画していない政治的決定にはわたしは従わないわよ」という主張を許容する原理である限り、究極的に利害が対立する社会--相互のイデオロギーや世界観が修復不可能なような者が併存している人間集団--では「民主主義」はそもそも成立しない理念なのでしょうから)、その条件として、(ⅳa)社会の構成メンバーが懐く世界観やイデオロギーが固定的ではないか固定的であるとしても共存可能な程度の差違しかないこと、もしくは、構成メンバーの利害が調整不可能なほど隔絶してはいないこと、あるいは、世界観やイデオロギー、ならびに、利害の対立が全体的な政治的紛争解決の文脈においては相対的に無視できるほどの比重でしかないこと、(ⅳb)今日の少数派も言論を通じて明日の多数派になりうる論理的可能性と現実的蓋然性が存在していること--政治参加と権力参加の回路が少数派にも保障されていること--が必須であろうと考えます。


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このような条件が満たされている場合にのみ、すなわち、トクビル流に言えば、(ⅳa)と(ⅳb)の条件が社会の構成メンバーに平等に保障されている「諸条件の平等化」が具現している場合に限り、「民主主義」は(ⅱa)の無政府主義と(ⅱc)後段の「多数派の専横」の弊害を免れて、自由の価値と協働可能な憲法原理になりうる、と。

蓋し、私は「民主主義」という言葉を(ⅰ)~(ⅳ)の重層的な<意味の編み物>と捉えていますけれども、いずれにせよ、このような意味での「民主主義」と、「多数派によっても侵害されるべきではない権利」の存在を前提として、国家権力によるそのような権利の侵害を制約して、他方、社会の多数派からのそのような権利への侵害に対する<守護神>であることを国家権力に求める原理である「立憲主義」が不倶戴天の関係にあるとまでは言わないけれど、ほとんどニュートラルな関係にあることは自明であろうと思います。

重要なことは、けれども、「多数派によっても侵害されるべきではない権利」なるものの<神通力>の根拠を、政治哲学的には権利の「天賦人権」性、もしくは、「人間の記憶をさえ拒否するほどの過去から認められてきた伝統と慣習」に求めるにせよ、憲法論的にはそれは「その社会の現在の国民が--例えば、アメリカにおける同性婚許容の趨勢の如く、自分自身はその権利の内容には批判的であるにせよ--その権利の内容が法の内容である」という国民の法的確信以外には存在しないこと。換言すれば、ある権利の内容と権利の価値にアプリオリに「普遍性」を認めること、よって、「立憲主義」に「民主主義」を超える権能を認めることなどできないということです。

ならば、(Ⅲ')「96条改正という「革命」」が提起したポイント、①改正条項の改正は「間接民主制と直接民主制」の配合比率の見直しであり、②「間接民主制と直接民主制」の正当化根拠をどう位置づけるかという問題である。加之、③それは「民主主義における多数決」の正当化根拠論一般ともダイレクトに接するイシューである。これらの指摘は問題の核心を正しく突いていることは間違いない。けれども、これら①~③の事柄を熟慮すればするほど、人々を<国民>として社会統合を進める方途として、現行憲法の全面改正は有効有望な一手であり、現行憲法の破棄、もしくは、憲法の全面改正/新憲法の制定を進めるためには改正条項の改正は望ましい。と、そう私は考えます。立憲主義も民主主義もその効力の基盤は国民の<国民>としての法的確信である以上、<国民>を<国家>に社会統合することの重要性と必要性は何ものにも優るはずだからです。


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改正条項の改正は憲法の全面改正/新憲法の制定に向けて必須とは言わないけれど望ましい。要は、現行の改正条項では改正に時間がかかるから。正直、私もそう思います。以下、この点について述べることで本稿の理路を補充します。最早、周知のことでしょうが--もっとも、(Ⅱ'b)「96条改正は「裏口入学」」で小林さんが述べている「日本国憲法は世界一改正が難しいなどと言われるが、米国では(上下各院の3分の2以上の賛成と4分の3以上の州議会の承認が必要で)改正手続きがより厳しい」(★)というのは間違いですけれど、それにしても--現行の日本国憲法の改正条項は、他の諸国の憲法典と比べても、その字面だけ見ればそう硬性性が際立っているわけではありません。

ではなぜ、大東亜戦争後のこの社会では一度も憲法改正が行われてこなかったのか。

蓋し、それは、(α)戦後長らく中選挙区制が主流であり、自民党が単独で3分の2以上の議席を衆参の両院で獲得することは難しかった。(β)戦後長らく冷戦構造の枠組みの中に日本は置かれており、憲法9条にしてからが、改正のメリットがそれに費やされる労力に比べて目に見えて大きいとは言えなかった。(γ)自民党の多数派の議員自身が、憲法改正に挑もうとも、そのために中選挙区制から小選挙区制もしくは「5%~15%程度の比較的高い足きり条項付の比例代表制」を導入しようとは思わなかった。(δ)旧憲法以来、ほとんどの日本人は--GHQ憲法の受領に携わった人々は除き--憲法を改正した経験が乏しく、憲法を改正するというイメージが社会で具体化しなかった。これら(α)~(δ)が要因であろうと想像します。

而して、関税と非関税障壁の比喩を使えば「日本国憲法は世界一改正が難しい」という事情の裏には、改正条項の厳格さだけではなく、これら非関税障壁的な(α)~(δ)の要因が複合的に作用した結果があったのではないか。ならば、幸いにも(α)~(γ)の要因がここ10年程で消滅している現在、一種の「アファーマティブアクション」(積極的な社会的不具合是正措置)として、憲法の改正条項を大幅に緩和し、最後の非関税障壁である(δ)を突破することには大きな意味があるのではないか。

いずれにせよ、(Ⅲ')の石川さんの指摘「憲法改正権者に、改正手続きを争う資格を与える規定を、憲法の中に見いだすことはできない。それは、サッカーのプレーヤーが、オフサイドのルールを変更する資格をもたないのと同じである」を反芻するとき、確かに、改憲条項の改正を許容する規定を憲法典は含まないのでしょうが、よりよいと思われる憲法秩序を構築する国民の政治的営為を研究者が「改正」と判定しようと「革命」と判定しようと、それは国民にとってはどうでもよいことでしょう。畢竟、憲法を巡る法体系のダイナミックスを「その時点の実定的ルールに従いながら、それと常に同時に、ゲームのルールをも作る複合的ゲームをプレーする営み」と考えるとき、石川さんの96条改正批判にそれほどの根拠はないのではないか。と、そう私は考えます。


★註:アメリカ合衆国憲法の改正のハードル

米国憲法の改正条項(5条)で言う「連邦議会は、両議院の3分の2が必要と判断した場合には、この憲法の修正を提案する」の「3分の2」は、議会の定足数(過半数)の3分の2であり、要は、各院とも総議員数の6分の2で憲法改正の提案が可能であること。他方、日本の現行憲法の場合は、各議院の「総議員の3分の2以上」であって、日本の改正条項が遥かにハードルが高いのです。

また、米国憲法では憲法の改正には「4分の3以上の州の立法府もしくは憲法会議の承認」とされていますが、これは全米50州を、人口の少ない方から順に4分の3を超える州(38州)の承認を取ると仮定すれば、(州議会議員選挙の投票制度や投票率、あるいは、各州の憲法会議(conventions of the several states)の議員選挙の制度や投票率という要因は捨象したとしても、)州議会議員を選ぶ選挙制度そのものが些か複雑であり、正確な数値を出すことは不可能であり、あまり意味もありませんけれども、まちがいなく、全米の有効投票数の40%の賛成があれば、この「4分の3以上の州の立法府もしくは憲法会議の承認」というのは余裕でクリア可能な程度のハードルなのです。



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